変身

 

 シンジは目を覚ますと、自分の体がエヴァンゲリオンに変身しちゃってることに気が付いた。

「やれやれ、まいったな」とシンジは言った。「なんだってまたエヴァンゲリオンなんかに変身してしまったんだろう?」

 シンジはベッドから起き上がって、ちょっと背筋を伸ばしてみた。猫背が気になったからだ。胸を張って、腕を上に目一杯伸ばす。腕を降ろすと、背中はニャオと曲がった。

「やれやれ」とシンジは言った。

 

 シンジは服を着替えて(もちろんパジャマを脱いで、学校の制服に着替えたって事だよ)朝食の準備を始めた。シンジがエヴァンゲリオンになろうと、あるいは第三使徒サキエルになろうと、同居人たちの腹は減るのだから仕方がない。どうしようもない。

 シンジは緑色のエプロンをつけて、冷蔵庫から味噌やら大根やら鮭やらを取り出してまな板の上に並べた。左肩のウェポンラックからプログレッシヴ・ナイフを抜いて食材を切り刻んだ。鍋で湯を沸かし、昆布でダシを取ったりした。そこに味噌を溶かして切り刻んだ大根をぶち込んだ。鮭は塩を振って網で焼いた。炊飯ジャーのタイマー機能によってすでに御飯は炊けている。

「ミサトさん、アスカ、朝だエヴァ」とシンジは言った。

 エヴァ?

「やれやれ、まいったな」とシンジは言った。「語尾がエヴァになってしまったよ」

 二人の同居人達はどこにもいなかった。ペンギンもいなかった。朝食は全部無駄になった。

「やれやれ」とシンジは言った。

 

 シンジは学校に行くかネルフに行くかをちょっと迷って、そしてネルフへ向った。本当は学校で授業があるのだけれど、今のシンジはエヴァンゲリオンなわけだから、向うべきなのは学校ではなく、ネルフに行って整備を受けたりするのが正しい選択だと思ったわけだ。整備なんて本当は全然必要じゃないけれど、とにかくシンジはそういう選択をしたんだ。

 シンジはネルフに行こうとしたんだけれど、でもいくら待ってもバスは来なかった。そりゃもう全然来なかったね。なんでバスが来ないんだろう? ってシンジは思った。それにだんだん判ってきたんだけれど、今日のシンジはまだ誰とも会っていなかったんだ。家からバス停までの道のりで、誰一人としてシンジとすれ違う生き物はいなかったわけだ。買い物袋を提げた主婦や、パトロール中の警察官、ゴミ箱を漁る犬や、狩りをする猫、空には鴉一匹飛んじゃいない。誰もいなかったんだ。

 だからシンジはこう思った。

 この世界に生きて動いているのは僕だけじゃないのか? って。

 シンジにはその考えが、すごく説得力があるように思えた。

「やれやれ」とシンジは言った。「やれやれ、まいったな」

 

 仕方が無いからシンジは学校に行くことにした。歩いて行くには、ネルフはさすがに遠すぎたんだ。家に戻ってゴロゴロしててもいいんだけれど、でもシンジは家には戻らなかった。きっと寂しかったんじゃないかな? なにしろシンジは朝起きてから誰とも会っていなかったからね。

 でもね、シンジは正直言って学校に行くのを迷ってたんだ。もし学校に行って、2−Aの教室に誰もいなかったら? って思うとさすがに震えちゃうよね。だから、学校に行くのは結構勇気を必要としたんだ。

 逃げちゃ駄目だ、なんて呟きながらシンジは歩いて学校に行った。そう、シンジは逃げなかった。これはシンジにしてみれば凄いことだよね。革命的と言っても良い。いつもなら、何だかんだ言いながら結局逃げちゃうものね。でも、とにかくシンジは、今回は逃げなかった。

 とぼとぼと、シンジはくたびれたロバみたいな感じで歩いた。誰もいないシンとした街にほとほと嫌気が差していたんだね。足の運びはゆっくりだ。特殊樹脂で造られたシューズが地面を踏みしめるたびに地面は陥没して、その衝撃で電話ボックスのガラスが割れる。

 なんでガラスが割れたりしたんだろうね? 実は、シンジはいつのまにか巨大化していたからなんだ。おまけに辺りはすっかり暗くなってる。つまり一瞬で夜になってたんだね。月明かりが地面に反射して、ビルの影を青白くおぼろげに照らし出していた。

 もちろんシンジの視線の先には第三使徒のサキエルがこっちを向いて立ってる。長い手足に、緑色の肌。説明は少しばかり省くけど、つまり敵なんだ。

 シンジはちょっとビビった。サキエルには良い思い出が全然無かったんだ。左手を砕かれたし、右目を抉られたしね。そういう嫌な思い出しか無かった。

「やれやれ」とシンジは言った。「やれやれ、まいったな」

 

「知らない天井だ」次に目が覚めたとき、シンジはまず最初にそう言った。

 ほんとは天井なんて全然見てなかったんだけどね。でも、なんとなくそう言っちゃったんだ。そう言ったほうが、いろいろと都合が良さそうだったから。

 目が覚めてもシンジはエヴァンゲリオンのままだった。何しろシンジが目を覚ましたのは、冷却水が張られた格納庫だったからね。肩まで冷たい水に浸かってた。そんな状況だったら、誰だって自分はエヴァンゲリオンなんだ、って悟らないわけにはいかないよね。

 格納庫の中は暗かった。所々に、赤色の非常灯がぽつんと点いてた。全然明るくは無かった。

 いきなり電気が点いた。そしてシンジは、急激な明るさの変化で使い物にならなくなった目を瞑りながらその声を聞いた。

「顔……!? 巨大ロボット!?」

 いいえ、ロボットじゃないわ。汎用人型決戦兵器うんぬんかんぬん……。

 やれやれ、とシンジは思った。やれやれ、まいったな。

 

 それから結構辛いことがあった。左手を砕かれたり、右目を抉られたり、灼熱する鞭を素手で掴んだり、ものすごいビームで胸を貫かれたり、あとはなんだっけ? とにかく色々あったんだ。空から落ちてくる爆弾を受け止めたり、ディラックの海に飲み込まれたりね。ディラックの海ってなんだろう?

 それで今は、宇宙にいた。目の前にはでっかい綾波レイがいた。エヴァンゲリオンのシンジよりも、もっとずっと大きい。おまけに綾波レイは裸だった。シンジは目のやり場に困った。

 シンジはもう色んなことが有り過ぎて訳が判らなくなってた。さっき碇ゲンドウなんかを食べたせいでお腹の調子にも自信が無くなってる。そもそも服やサングラスなんかは取ってから食べるべきだったんだ。

 もうこの後は何も面白いことは無かったんで、唐突だけどこの話はおしまい。そういうことがあったんだよ、程度の話なんだ。

 最後のセリフは惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」だった。

 

 

 

 

「酷いな」とカヲルが言った。「これは酷い」

 カヲルの前には、ズタズタに破壊されて無残な姿になったエヴァンゲリオン初号機があった。

 初号機は、まず右腕が無かった。ウェポンラックから伸びる腕は、肩と肘の真ん中で力任せに引き千切られていた。左腕は、千切れてはいなかったが、肘から手首の間の関節が一つ増えていた。顔面の装甲は無くなっていたし、素体の顔は陥没して嫌な色の汁(緑と黄色を茶色で割ったような色だ)が滴っていた。胸から下は、剥き出しになった背骨以外何も無い。

「やれやれ」とエヴァンゲリオンが言った。「まいったよ」

「大丈夫かい?」とカヲルが言った。

「ぜんぜん駄目」とエヴァンゲリオンが言った。

 カヲルはじっと口を閉じた。じっくり観察するまでも無く、エヴァンゲリオンからは紅い球、S2機関が失われていた。それは致命的な損失だった。

「コアはどうしたんだい?」とカヲルは聞いた。

「失くしちゃったよ」とエヴァンゲリオンは答えた。「いろいろあったんだ」

 カヲルは軽く顔をしかめて、そしておもむろに自分の胸に右手を突っ込んだ。ぶちぶちと嫌な、肉が千切れる音をさせて、そしてゆっくりと手を引き抜く。その手には小さな紅い球が握られていた。

「これをあげよう」とカヲルが言った。「何も無いよりかは、随分マシなはずだ」

 エヴァンゲリオンは驚いて口が利けなかった。

「でも、それはカヲル君にも必要な物じゃないか」と弱々しくエヴァンゲリオンは言った。

 カヲルは黙ったまま首を振った。顔色が酷く悪い。

「言っただろう? 僕にとって生と死は等価値だと」カヲルは薄く口を曲げて微笑んだ。「それに、シンジ君と一緒になれるのなら僕は幸せだ」

 カヲルはどんどんと体の濃度を失くしていった。それに反比例して手の中のコアが紅く輝きを増す。

「さあ、受け取ってくれ」とカヲルが言った。

 エヴァンゲリオンは何も言わず、黙ったままそれを受け入れた。

 

「……カヲル君」とシンジは言った。

 自室のベッドに寝ていた。今ではすっかり見慣れた天井が見えていた。部屋の中は薄暗く、そこには夜と朝の気配が遠慮がちに交わっていた。もうすぐ夜明けだ。シンジはゆっくりと体を起こす。意識は随分とハッキリしている。

 シンジはじっと自分の手を見る。カヲルを握り殺した感触を思い出す。そこに付随している記憶は、すべて悲しい。シンジはそっと記憶の窓を閉じた。

 ベッドから降りて軽く伸びをする。朝食の準備をするために部屋を出た。

 

 シンジは緑色のエプロンをつけて、冷蔵庫から味噌やら人参やら鮭やらを取り出してまな板の上に並べた。キッチンの収納から包丁を取り出して食材を切り刻む。鍋で湯を沸かし、鰹節でダシを取る。そこに味噌を溶かして切り刻んだ人参をぶち込んだ。鮭は塩を振って網で焼いた。炊飯ジャーのタイマー機能によってすでに御飯は炊けている。

「ミサトさん、アスカ〜、朝だよ!」とシンジは言った。

 のろのろと、蘇った死体のように同居人たちは食卓に集まってきた。二人ともだらしなく欠伸を撒き散らしている。

「いただきます」

 シンジはお箸で鮭の身をほぐす。ミサトとアスカは肩のウェポンラックからプログレッシヴ・チョップスティックを抜いて朝食に挑む。

「あれ? シンちゃん、お味噌変えたエヴァ?」とミサトが言った。

「はい。加持さんのお土産です」とシンジは何も気付かないフリをして言った。

「え〜? 加持さん、いつ来たエヴァ!?」とアスカが大声を張り上げた。

「昨日、アスカが洞木さん家にいるとき……」とシンジが言った。

「キィィー! なんで引止めとかないエヴァよ、馬鹿シンジ!」

「そんな〜」とシンジは言った。

 

 どこかが――それはきっと胸の奥と呼ばれている部分だろう――痛かった。

 百年も経てば、とシンジは思った。百年も経てば、みんな死んじゃうさ。それまで我慢して、何も気付かないフリをしていよう。気付かないフリをして、そして僕は誰もいない世界でひっそりと目を閉じる。夜明けの空を飛ぶ孤独な渡り鳥のように、誰にも気付かれること無く、ひっそりと。

 

 


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