間隔を保って打ちつけられる音。それは地面を打ちつける音だ。

 それは静寂の中に、何かの印を告げる警笛のように響いている。

 僕は少し躊躇してから、ゆっくりとドアを叩いた。



サイレンとサイレント



「少し、あがってけば?」と綾波は言った。

「え……うん」と僕は答えた。


 綾波は台所に立ってお湯を沸かしている。綾波のブラウスの裾からは白く長い足が伸びている。その白を確認して、僕は綾波がスカートを履いていないことを認識した。

 綾波の後姿と白から目を逸らす。部屋の中は薄暗く、窓から入り込む日の光が室内を曖昧に映し出していた。

 家具は少ない。ベッド、チェスト、冷蔵庫、そして僕が座っている椅子。それでほとんど全てだった。

 断続的に響く金属音。シャフトを打ち込んで地面を掘る音だ。騒音が静かに部屋を満たしている。

 音を辿って窓の外を見る。青い空が見える。暗い室内から見えるそれは、どこか異国の空のように見える。

 空気は乾いて、音を伝えている。一定のリズムで。

「紅茶って……どれくらい、葉っぱいれるのかな。あっても、使ったことないから……」

 綾波の声を聞いた気がして窓から視線を戻す。紅茶の缶を持ってこちらを見ている綾波が見える。

「え、あ、いいよ、気を使ってくれなくても」

「これくらい?」

 綾波が小さなスプーンにすくった茶葉の量は少し多すぎた。

「それじゃ、多すぎじゃないかな……」

 僕は椅子から立ち上がって綾波に近づいた。缶を受け取って茶葉をすくい直した。

 ポットに葉っぱをいれる。お湯が沸いた音がして、綾波がそちらへ手を伸ばす。

「熱っ!」

「どうしたの!?」僕は驚いて綾波を見た。綾波は自分の指を眺めていた。

「少し、ヤケドしただけだから」と綾波は言った。

 綾波の白い指は薄く色づいていた。それは血のような赤に見えた。

「早く冷やさないと!」

 蛇口を捻って、綾波の手を引っ張った。赤い指に水を当てた。

 少しの間同じ姿勢でいた。綾波の手と指は白く、その白い肌は僕に色々なことを思い出させた。

 綾波が近い。微かに薫る。それは綾波の香りだ。僕に詰め寄るアスカとは少し違う、少女の匂いだった。

 綾波の紅い瞳がこちらを見ていることに気付く。僕は綾波の手を離す。

「こ、紅茶は僕が淹れるから……綾波は、しばらくそうしてなよ」

「うん……」と綾波は頷いた。「ありがとう」

 静かで薄暗い部屋。地面を掘る遠い音と、流れて冷やす水の音。

「夕べさ、パーティやったんだ」ポットにお湯を注ぎながら言った。

「パーティ?」

「うん」湯気が昇るポットの蓋を閉める。「ミサトさんが三佐に昇進したからウチで、焼肉パーティ。ケンスケとトウジと、委員長、リツコさんに、加持さんも。リツコさんはわりとすぐ帰っちゃったんだけど。あの、綾波も呼ぼうと思ったんだけど、電話つながらなくて……実験だったなんて、知らなかったし……」

「いいの。そういうの、好きじゃないから」

「そうなの?」

「……肉も、嫌い」

「そう、なんだ……」透明なポットの中で、お湯は少しずつ色を得て存在を変えていく。「でも、僕は楽しかったんだ。みんなでわいわいやって、笑って……今まではそういうの、くだらないって笑ってきたんだけど……今度そういう機会があったら、綾波も来なよ。綾波が食べられるもの作っておくから。そうしたら――」

「碇君、今日はすごくおしゃべりみたい」

「あ……ごめん」と僕は言った。紅茶はその色を濃くしていく。

 言いながら紙コップに紅茶を注ぐ。暖かな湯気が昇る。

 注ぎながら僕は綾波がパーティに来るところを想像してみる。きっと皆、驚くだろう。

「綾波、父さんてどういう人?」

「どうして?」

「もし、そういう場に父さんがいたら、少しは話せたかなと思って……」きっと皆、驚くだろう。

「お父さんと話がしたいの?」と綾波が聞いた。

「……うん」僕は少し考えてから答えた。僕は綾波に心の窓を開きすぎている気がしているけれど、言葉は止まらなかった。

「話して、何が変わるわけじゃないと思うけど、でも……今のまま、父さんを信じられないままエヴァに乗り続けるのは、つらいんだ」

「そう……言えば、いいのに」と綾波は言った。

「え?」

「思っている本当のこと、お父さんに言えばいいのよ。そうしなければ、何も始まらないわ」







 紅茶は少し苦かった。

 窓の外では地面を穿つ機械の音。セミの声。音を含んだ静寂。風が微かな流れを作っている。

 僕は紅茶を飲みながら父さんのことを考える。父さんと屈託無く話せる僕を想像してみる。それはとても存在することが可能な光景には思えない。それは砂漠の蜃気楼のようなものだろう。その幻影を追ってしまうと、乾いて死ぬことになるのだろう。

 僕は蜃気楼から目を逸らす。ざわざわと内側で蠢く渇きを無視する。僕が作り上げた警報装置が、嫌な音を立てて思考を邪魔した。

 紅茶を飲む。それは苦い。部屋の中は静かで、そして暗い。

 僕は綾波を見る。綾波はベッドに座って紅茶を飲んでいる。白いブラウス。白い脚。僕はその白から目を逸らす。

「あ、あの……どうかしたの?」僕は何かを誤魔化すために口を開く。

「え?」

「あの、じっとしたまま、動かないから……あの、ゴメン、さっきは変なこと聞いちゃって。綾波にも、気を使わせちゃったみたいだし……」

「そんなこと、ないわ……」

 どこかで警報が鳴っている。おい、やめろ、心を開くな、何も感じるな、乾いて死ぬぞ。

 僕はカラカラに乾いた白い骨を想像する。砂に埋もれた白い骨を思い浮かべる。それは何の骨だろう?

 それはだれの骨だろう?



「それじゃあ、僕、そろそろ行くよ」と僕は言った。

「……そう」と綾波は言った。

「今日はありがとう。なんだか、意外だったな……綾波があんなこと言ってくれると思わなかったから」

 綾波はじっと口を噤んだままこちらを見ている。紅い瞳。

「じゃ、じゃあ、帰るから……」

 僕は椅子から立ち上がる。綾波は小さく頷いて、それからゆっくりと立ち上がった。

 玄関まで歩いて、ドアのノブを回す。ドアを開けると外の強い光が差し込んでくる。

「じゃあまた、学校で」僕は少し笑ってそう言った。

「……うん」

 僕は振り返って、ドアの外に出た。ドアを閉めた。



 光が強い。風は弱い。遠くで地面を掘る音が聞こえている。それは僕の何かに訴えかける音に思える。

 静寂は広がる。僕はどこかで鳴っているその音にじっと耳を澄ませる。

 静かな空に、音は響いている。





















  了







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