新聞・雑誌など

関西学院大学・経済学部『エコノフォーラム』(2021年, No.27, 71頁)
    動物の命の重み:狩猟者の立場から

     私はハンターだ。冬の猟期にはカモ撃ちなどの私的な「趣味」としての猟もやるが、春〜秋は、環境省・認定鳥獣捕獲等事業の従事者として三田市の「農政」に協力している。地域の農業を応援したいからだ。狩猟を始めた理由は3つある。
     第1は地の利。私は青森に8年間住んでいた。青森・秋田はかつてのマタギの本拠地。マタギとは、今では消滅したが、独自の文化・習俗をもった戦前の東北の鉄砲猟師のことで、ハンターの中のハンターと言ってよい。冒険的でカッコイイので小説等の題材にもよくなり、2004年の直木賞作品、熊谷達也『邂逅(かいこう)の森』は傑作だ。自然と共に生きる彼らのことを知りたければ、甲斐崎圭『第14世マタギ:松橋時幸一代記』(ヤマケイ文庫 2014)もお薦めだ。
     第2に、20世紀後半の動物保護の結果、獣が増えすぎたこと。例えば、高槻成紀『シカ問題を考える:バランスを崩した自然の行方』(ヤマケイ新書 2015)、田口洋美『クマ問題を考える:野生動物生息域拡大期のリテラシー』(ヤマケイ新書 2017)。2014年には従来の鳥獣保護法が改正され、鳥獣保護管理法に変わり、(頭数)管理が重視されるようになった。三田市では今季、シカを1頭駆除すれば7千円の補助金が出る(額は年度や自治体により異なる)。また兵庫県では2016年、クマ猟も解禁された。
     第3に、県内のハンターがこの30年間でほぼ半減し、高齢化も著しいこと。猟圧が弱まれば、獣は人里に出てくる。県はいわゆる「狩猟マイスター・スクール」(2年間コース)を無料実施するなどハンター養成に努めており、実は私はその第4期生として一通りの訓練を受けた。
     さて、猟の方法だが、グループによる銃猟(山を囲むので「巻き狩り」という)に話を絞るならば、まず山の周りの主な獣道(けものみち)を見つけ出し、それらに射手(「待ち」という)を配置する。そのうえで、犬を連れた「勢子(せこ)」が山に登って獣を追い立てる。そして獣道を駆け下りてきた獣を「待ち」が仕止める、という流れだ。その後もけっこう大変だ。大人の男の体重ほどもある獲物にロープをかけて山から引きずり出さねばならない。そして最後はナイフによる解体作業と肉等の分配。
     ハンターはよく「残酷だ」と批判されるが、私は弁明したい。肉食者が「動物を殺すな」などと言うのは偽善だ。その人は確かに動物を殺さず、それゆえ自分自身の手を汚していないかもしれないが、その口は血まみれだ。ティラノサウルスが「動物を殺すな」と言うようなものだ。例えば、どれも日経新聞の記事だが、「64万羽の殺処分完了、岡山県、鳥インフル対応」(2020/12/16)、「千葉で鳥インフル確認、東日本で初、116万羽処分開始」(12/24)、「千葉で鳥インフル2例目、114万羽殺処分へ」(2021/1/12)、「富山の養鶏場で鳥インフル、14万1千羽の殺処分」(1/24)。経済動物の命は「命」と思われていないのではあるまいか?「生きる」ことは、結局、他の生き物の命を奪うことだ。私はそれを自覚し、その命を可能な限り有効利用したい、それが人間の責任だ、と考える。「自分」が奪う1つ1つの命を無下にしないようにあらためて自戒したい。消費者としての皆さんはどう考える?
     (関西学院大学・教授 本郷亮)

関西学院大学・経済学部『エコノフォーラム 21』(2019年号, 35頁)
    直木賞作品のススメ

     どちらも1935年に始まった「芥川賞」と「直木賞」は、日本の代表的な文学賞として広く知られており、前者は芸術重視の短編の純文学を、後者は娯楽重視の中・長編の大衆文学を、それぞれ対象としている。かつて私のゼミでは「芥川賞作品に表れた政治・経済・社会思想1935〜2000」という壮大なテーマを掲げ、ゼミ生全員で当該期間の全作品を手分けして読み、(経済学部や社会学部など)社会科学系の学生の興味を惹きそうな作品を洗い出したことがある。
     とりわけ歴史的アプローチの研究では、そのテーマに関わる古典的「小説」を読めば、教科書や専門論文等では得られないその時代状況のいきいきしたイメージを、感性を通じて得ることができる。例えば英国19世紀の救貧法行政を学ぶさいは、救貧院に収容された孤児の生涯を描く、文豪ディケインズの『オリヴァー・トゥイスト』(1838年)を一読することは有益だ、と考える研究者も多いだろう。
     さて話を戻すと、芥川賞作品は「純文学」なので、直木賞に比べると、経済などの思想や世相を反映しにくいのだが、それは百も承知の上で、私のゼミでは芥川賞作品を研究対象に選んだのである。なぜなら芥川賞作品はどれも「短編」なので、数時間で読破可能だが、直木賞作品は文庫本にして300〜400ページのサイズが普通なので、読むのに数日かかる。つまり、前述のような問題意識の場合、研究対象としては直木賞作品の方が適しているのは一見して明らかなのだが、それでは読書量が膨大になってしまうため、やむなく芥川賞作品を対象としたわけである。
     しかし、直木賞作品で同様の調査をやりたいという思いを、私は今も失っていない。だからそれらをコツコツ読み進めている。お薦めのものを幾つか挙げれば、前述のような問題意識からは、@ちょっと古いが、城山三郎『総会屋錦城』(1958年下半期受賞)。 A同じ会社に勤める5人の女性のそれぞれ異なる生き方を描く、篠田節子『女たちのジハード』(1997年上半期)。Bある在日朝鮮人の少年の生活・心理を描く、金城一紀『GO』(2000年上半期)。C中小企業の意地を描く、池井戸潤『下町ロケット』(2011年上半期)。D就活生たちの心理を描く、朝井リョウ『何者』(2012年下半期)。
     また、純粋に娯楽的・個人的観点から面白かったのは、E戦国時代の瀬戸内海の村上水軍を描く、白石一郎『海狼伝』(1987年上半期)、F江戸の遊郭・吉原のガイドブック、松井今朝子『吉原手引草』(2007年上半期)。G千利休の茶の美意識を探る、山本兼一『利休にたずねよ』(2008年下半期)。H大正〜昭和初期の秋田のマタギ(鉄砲猟師)の半生を描く、熊谷達也『邂逅の森』(2004年上半期)。とりわけHは抜群にカッコよく、私が狩猟(むろん各種免許等が必要)を始めるきっかけになった。
     直木賞作品は基本的にどれもベストセラーなので、面白くて当たり前。映画化されていることも多いので、映画を見るというおまけの楽しみもある。私は小説を読みながら、電子辞書やグーグル・マップで気になった事柄を調べたりするのが、とても好きだ。直木賞作品に限った話ではないが、私のこれまでの人生で、文学から得たものはずいぶんと多い。
     (関西学院大学・教授 本郷亮)

関西学院大学・経済学部『エコノフォーラム 21』(2017年号, 42頁) 関西学院大学・経済学部『エコノフォーラム 21』(2016年号, 31頁)
    競争の倫理

     競争とは、文字通り「競い争う」こと。受験・就職・出世・政治・経済、どれもこれも競争、それが厳しい現実である。さて、動物界の競争と人間界の競争との違いは何か? 最大の違いの一つは道徳の有無である。ケモノの争いは弱肉強食の生存競争であり、守るべきルールはなく、生きるためなら何をしてもよい。他方、人間の競争には諸々の道徳や法がある。ただしそれらが不完全であるほどに、あるいはそれらの可能性を諦めるほどに、人々の競争はケモノの争いに接近してゆく。
     私たちは皆、壮大な「人生ゲーム」のプレイヤーである。まず競争の倫理的最低条件とも言える「公平性」(fairness, すなわち機会均等)について考えよう。ハーバード大学の政治哲学者ジョン・ロールズは、主著『正義論』(A Theory of Justice, 1971)で次のような有名な議論を展開した。すべてのプレイヤー(男と女、健常者と障害者、豊かな親の子と貧しい親の子、途上国の人々と先進国の人々、等々)にとって公平な制度(ルール)とは、どんなものか? 皆で話し合ってそのような制度を作ることにしよう。ところが、皆それぞれ自分に都合のよいルールを提案するので、意見はまとまらない。結局、実際の多くの場面でそうなるように、多数決という強制力によって多数派(例えば健常者)が少数派(例えば障害者)を抑え込むだろう。ゆえにフェアーな競争は無理である。しかしあくまでも想像上の話だが、もしその会議に集う人々が、まだ生まれる前のいわば精神のみ(肉体なし)の人々であり、自分の性別、先天的障害、親の財産、生まれる国・地域などについて「あらかじめ知ることができない」とすれば(これを「無知のヴェール」と呼ぶ)、自分がどんな条件下に生まれても不利にならぬように、できるだけフェアーな社会制度を作っておこうと思うのではないか? ロールズによれば、こうした「無知のヴェール」のもとで皆の合意によって形成されるルールこそ、フェアーな競争をもたらす社会制度である。ロールズの議論は、実現不可能な空想論であるとはいえ、万人に公平な社会を考えるさいの一つの評価基準を提供してくれる。
     現実の社会では、各人の誕生時に与えられる競争能力の初期条件(これはもっぱら運で決まる)にかなり大きな差があるので、たとえ人生ゲームに勝ったとしても、それは必ずしも自分の能力や努力の証明にはならない。
     最後に、人間の競争のもう一つの重要側面を見るために、「スポーツ精神」に注目したい。すなわちそこには、フェア・プレイ(公平)の要素に加えて、「友愛」(friendship)という独自の要素が存在する。理想的なスポーツ精神のもとでは、選手は互いに敬い合いながら、しかも互いに全力で争うのである。
     自由競争の思想は、「勝てば官軍」式のケモノ的ダーウィニズムではない。人間的競争には、「公平」(機会均等)と「友愛」(勝者が敗者を自発的に思いやること)が不可欠ではなかろうか? 私は、その両者を併せもつスポーツ精神のうちに、最も美しい競争社会の萌芽を、未来のためのヒントを、見出す。
     (関西学院大学・教授 本郷亮)

2014/11/27 神戸新聞 朝刊 関西学院大学・経済学部『エコノフォーラム 21』(2013年号, 44頁)
    星の王子さま

     サン=テグジュペリの『星の王子さま』(Le Petit Prince, 1943)という物語に、星が輝いているのは各人が自分の星を見つけるためだ、という言葉がある。しかし残念ながら、この種の目的論的説明は、現代科学では誤りとされる。科学とは実に恐ろしいものであり、例えばその教科書によれば、宇宙はビッグバンという偶然によって生じ、地球や太陽の誕生も偶然であり、何億年か先には太陽が膨らんで地球を飲み込むらしいのだが、これもまた偶然である。偶然だから、何の意味もない(=ナン-センス)。私はこの世界観を科学的には認めざるをえないが、その一貫した無意味さをとても不気味に感じる。ふるさとも性別も結婚も、障害も病気も事故も、地震も津波も、なにもかも偶然である。私たちは偶然に弄ばれる存在でしかない!
     「人間はね、急行列車で走り回っているけれど、何を探しているか自分でもわかっていない。ただ忙しそうにぐるぐる回るばかりなのさ…」。生物の本にはDNAのことは載っているが、生きる意味は載っていない。生きることや死ぬことの意味はどこに見出されるのか?想像力(心の目で見る力)を失わなければ、ここにも、そこにも、すぐ見出せるはずである。それは一種のおとぎ話を創作する力、自由に意味を創り出す力であり、知識のない子どもの方が、かえってこの力に長けている。意味を見つけるのが上手な人は、不幸にも意味を見つけるかもしれない。そういう人はたとえ不幸でも、心にいつも慰めがあるだろう。この世界に意味を与えるものは何か?それは皆さん一人一人の能動的精神のほかにはない。
     人生の意味とは、要するに「人生の目的」のことである。目的のない人生とは、喩えて言えば、的を定めずに矢を射る、あるいはゴールを定めずに走るようなものである。その場合、どこに向けて射ようが、どこに向かって走ろうが、ある意味では常に正しい。なぜなら、「正しい/誤り」(right/wrong)という概念は、目的に照らさなければ判断不可能だからである。例えば「正しい道」とは、目的地に通じる道のことであり、「誤った道」とは、目的地に到達できない道のことである。これをより一般化して言えば、ある行為(そして行為の集まりが人生)が正しいか否かは、何らかの目的に照らさなければ判断不可能である。
     科学知識は、どれほど発展しても人生の「目的」の代わりにはなりえず、むしろその「手段」にすぎないだろう。もし人生の「目的」を与えてくれるものを広く「宗教」と呼ぶならば、人生には、科学と「宗教」の両方が必要になるだろう。それぞれの領分があり、どちらか一方だけで済むような問題ではないだろう。
     さて、王子は自分の星を飛び出した後に、色々な星の住人の「宗教」を見て回った。@権力志向の王様、A人から賞賛されたくてたまらない「うぬぼれ屋」、Bペシミストの酔っぱらい、C底なしの所有欲をもつ資本家、D律儀な労働者、E知識を追求する学者。そして王子はついに地球にやって来て、そこで自分自身の「宗教」を見出した。いや、決断したと言うべきだろう。本物の「宗教」とは、常にそのような人生の決断を伴うものである。
     (関西学院大学・准教授 本郷亮)

2012/10/8 関西学院宗教センター 「チャペル週報」
    青森生活8年 ―私の知らなかった日本―

     都会から出たことのない人間が地方で8年も暮らせば、考え方に多少の迷いが生じるのも当然である。大阪人である私は、32才で弘前学院大学(青森県)に赴任するまで、大阪という色眼鏡で日本を見ていた。色々な面でそうだった。例えば日本の社会経済を語るとき、私の言う「日本」とは「拡大された大阪」のようなものに過ぎなかったし、日本文化を語るときもそうだった。都会のスタンダードをなんとなく全国共通の規範と見なし、それを真に疑うことはなかった。むろん各地の多様性は、「書物」で知っていたが、それは腹の底からの実感を伴うものではなかった。
     戦後最長の好景気(「いざなぎ越え」)をもたらし、都会で圧倒的人気を誇った小泉純一郎首相も、青森県にとっては戦後最悪の首相だろう。青森人が小泉改革を褒めるのを、私は聞いたことがないし、青森のメディアが彼を好意的に論評することなど、ちょっと考えにくい。TPPについても、とても賛成論を唱えられるような雰囲気ではない。
     青森には陸海空の三軍の基地が揃っており、私の子どもの通っていた幼稚園の向かいにも弘前駐屯地(陸自)があった。朝にはラッパが鳴り響く。そこでは毎年、実戦さながらの公開演習(実弾は使わない)を間近で見物できる。ヘリが飛んできたかと思えば、ロープを伝って迷彩服の隊員たちが空から次々と降りてくる。原っぱに伏せた隊員たちによる機関銃の掃射音。それから戦車砲の轟音。子どもたちは大喜びだ!演習後には、戦車の上に登って記念撮影。また市の大通りでは毎年、軍事パレードがおこなわれる。
     弘前では自衛隊はかなり人気の就職先である。私は市内の酒場に行くときは、いつも店の主人に「最近どんな客が多いですか」と尋ねるようにしていたが、答えはきまって教員・公務員・軍人だ。これは一体何を意味するのか。
     最後に次のことを強調しておきたい。私は青森人を批判しているのではない。むしろ迷っている。青森人から見れば、私の考えこそが「異質」だろう。津軽三味線や畑仕事など、学んだことも多い。今年、8年ぶりに母校関西学院大学に帰ってきたが、青森で暮らして、社会科学の研究者として一皮むけたことは、間違いない。
     (関西学院大学・准教授 本郷亮)

2012/9/15 神戸新聞 朝刊 2012/3/4 陸奥新報 朝刊
    大学研究室の未来像 ―知的創造のための空間とは?―

     4月から母校の大学に帰ることになり、その準備に忙しい。弘前で暮らした8年間で最も心に残るのは、近所の人々の親切さである。特にOさん御夫婦には、一生頭が上がらぬほど、色々とお世話になった。家族を代表して、心から皆様にお礼を申し上げたい。  さて、引っ越しを機会に、私の大学研究室(個室)を一新する予定だ。研究・教育の場としての研究室は新しい観念(アイデア)を産出する工房(アトリエ)だから、地上で最も創造的・刺激的な空間でなければならない。この目的に適う前衛的・次世代的な研究室のあり方とは、どんなものだろうか。
     昔の文系の研究室の典型的イメージは、私の研究室もそうだったが、本をずらりと並べた、紙の匂いのする部屋だろう。しかしこのイメージは今後急速に廃(すた)れてゆくはずだ。なぜなら今では電子書籍(私はエレキ本と呼ぶ)という文明の利器が現れ、それ1台で千冊近くの本のデータを収められるからである。エレキ本とは、喩えて言えば本のサイズの薄型テレビみたいなものであり、小さなものは葉書ほどのサイズからある。試しに某日本メーカーの葉書サイズのエレキ本で、岩波文庫の『三国志』を久々に読んでみたが、あまりに快適なので全8冊を完読してしまった。
     「確かに便利だ」というわけで、さっそく研究室の本全体の8割に当たる約千五百冊を電子化し、元の紙の本は処分した。電子化しなかった残りの2割は、紙の本のままの方が便利なもの(教科書など)である。ハムレット風に言えば、紙のまま残すべきか、エレキにすべきか、それが問題だ。用途に応じて紙とエレキを使い分けるのが最も合理的だから、「紙派」と「エレキ派」の対立は不毛だろう。
     紙の本は、黄ばんだり傷んだりするし、その所有者の死後には大量のゴミとなって、その家族を悩ませるかもしれない。だがエレキ本は、いつまでも美しいという意味では「永遠の命」をもち(ただしデータのバックアップは絶対必要)、場所も取らない。
     エレキ本(パソコンでもよい)が複数台あれば、さらに便利だ。データをコピーし、自宅用や出張用のエレキ本にも入れておけば、研究室に居なくても、家でも野外でもそれらを読める。
     私の、また若い学生たちの、知的創造を促す研究室のあるべき姿とはどんなものか。あれこれ考えるのが、とても楽しい。業務上の秘密なので詳しく述べられないが、日本の「茶室」は非常に参考になる(静けさ、明暗、飲物や菓子、そして平等!)。最新の要素と伝統の要素をうまく融合させたい。
     大学の研究室とは、結局、人を精神世界の冒険に誘う場であり、そうした冒険者たちの憩いの場である。「象牙の塔」の魂は、研究室にあるのだ。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2012/1/29 陸奥新報 朝刊
    日本初の国民投票 ―21世紀の新憲法に向けて―

     国民投票とは「民意」に決断を委ねることであり、いわば民主政治の劇薬である。近視眼的で、気まぐれで、無責任な「民意」が、はたして国家百年の大計を適切に判断できるのか。私見では、間違いなく派手に転び、社会の土台さえも動かすだろう。それでもなお、私は国民投票を早急に行うべきであると主張したい。
     私たちは国民投票をやったことがない。しかし他人(政治家)の失敗を百回観察するより、自分(国民投票)の一回の失敗から多くを学べるはずである。国民投票は、短期的には悲劇や喜劇をもたらすに違いないが、長期的には私たちの民主政治を一層成熟させるだろう。たとえ高い授業料を払おうとも、「国民投票」という必須の実習科目を修める必要があるように思う。
     本来の民主主義は、絶えざる自己犠牲と反省によって勝ち取られるべきものである。油断していれば、政治は常に「愚衆」に乗っ取られてしまう。愚衆は社会に求めるばかりで与えず、人を批判するばかりで反省しない。余談になるが、もともと東北大学で医者をめざしていた魯(ろ)迅(じん)も、母国の愚衆を見て、体を治すより頭を治す方が先決であることに気づき、『阿(あ)Q(きゅう)正(せい)伝(でん)』を著した。阿Qは惨めである。
     私たちの胸中に存在する愚衆的惰性と闘うこと、民主主義とはそうした克己の苦闘に基づく体制である。民主の二字は、一人一人の民が社会の主(あるじ)としての自覚と責任をもつという意味だ。単なる多数決主義は、少数派虐めの手続きにすぎず、それだけでは民主の名に値しない。
     さて、初めての国民投票で、いきなり憲法改正を俎(そ)上(じょう)に載せるのは無謀である。なぜならそこには、第九条(戦争放棄など)のみならず、諸々の多くの難問も含まれており、焦点を絞りにくいからである。
     焦点の明確な国民的関心事としては「原発」こそが、日本史上初の国民投票のテーマにうってつけであるように思う。もし原発の是非をめぐる投票を行えば、ほぼ確実に原発は廃止されるだろう。しかし廃止されて数年も経(た)てば、電力料金の上昇とそれに伴う経済の弱化によって、多くの国民は「参ったな」と思い始めるかもしれない。それで良かろう。こうした理想と現実のジレンマや右往左往は、民主主義の経常のコストである。
     早急に経験を積んだうえで、新たな時代にふさわしい憲法を、国民投票によって勝ち取ろう。それは天皇から与えられるのでもなければ、異邦人から与えられるのでもない。国民による国民のための憲法だ。私は日本初のこうした憲法を、21世紀を生きる将来世代への贈り物にしたいと願う。国民投票という劇薬は、わが国の閉塞を打開するための数少ない手段の1つである。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/12/18 陸奥新報 朝刊
    奏法と楽器 ―津軽三味線を進歩させるA―

     私が32才のときに弘前に来て、その「地の利」を活かすためにすぐさま津軽三味線を習ったことは、前回に述べた。私は14才の頃からギターを弾いていたし、大学時代はコントラバスを弾いていたので、「弦」楽器は得意であった。だから新たに三味線を学ぶさいの技術的課題は、私にとって、弦を押さえる左手の稽古というより、もっぱら右手の「バチさばき」だった。
     さて、この独特の魅力をもつ三味線を、21世紀の世界でさらに飛躍させるには、少なくとも次の2つの課題を克服する必要があると思う。
     第1は、奏法面の進化である。ややこしい音楽理論的な話は省くが、とにかく現状では、三味線はその日本的音階などのために、洋楽器(ピアノやギター)との合奏は容易ではない。私も色々と試みたが、一見容易そうで、実はなかなか難しい。これを果たすには結局、既存の伝統的な三味線奏法に囚われず、新たな奏法を創りだすほかはない。こうしたいわば和洋折衷の奏法の確立のためには、ある程度、三味線奏者も西洋の音楽理論を学ばねばなるまい。この分野の取り組みでは、やはり上(あが)妻(つま)宏光氏が現在の第一人者だろうと思う。今後、第2、第3の「上妻」は現れるだろうか?
     新奏法の確立によって、洋楽器と合奏可能な新たなスタンダード曲もおのずと確立するだろう。「津軽じょんがら節」に代表されるスタンダード曲が確立したからこそ、津軽三味線は現在の確固たる人気を獲得したのだ。さらなる飛躍には、洋楽器と合奏可能なスタンダード曲の確立が不可欠である。 第2に、楽器自体の進化である。例えば現在使用されている津軽三味線の弦(糸という)は、絹(きぬ)糸(いと)(一部ナイロン)であり、それゆえ切れやすく、音程も不安定である。かつてはギターも羊の腸で作った弦(羊(よう)腸(ちょう)弦(げん))を用いていたので、天然素材の弦の宿命として、同様の問題を抱えていた。だがギターはその後、周知のようにナイロンや金属の弦を導入したので、ギター奏者の人口は爆発的に増加した。楽器自体の扱いやすさが、楽器の普及をもたらしたと言えよう。
     そもそも爆発的に普及した楽器というものはどれも、時代や社会の変化に適応し、楽器自体を進化させてきたものばかりである。ピアノやヴァイオリンも、当初は貴族の邸宅の一室で演奏されるだけであったが(それゆえ大音量は不要)、社会の発展と共に大ホールで演奏する必要が生じ、音量を上げるために楽器自体を進化させてきた。
     津軽三味線は可能性を秘めた「夢」の楽器である。現在の地位に安住して挑戦の苦悩を避けてはならない。われわれの音楽を21世紀に展開させよう。津軽三味線の確立者「仁(に)太(た)坊(ぼう)」もそうした精神の持ち主ではなかったか?
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/11/14 陸奥新報 朝刊
    地の利を活かす ―津軽三味線を進化させる@―

     私は大阪市に生まれ、2004年に弘前に引っ越すまで、ずっと大阪近辺に住んでいた。そうした大都市に住むことは、古今東西の文献が容易に手に入るうえに、学会の仲間と容易に交流できるので、私のような経済学者にとって極めて有利である。だから大阪から弘前に移ることは、その点では相当のデメリットだった。
     弘前に来るにあたり、私が最も知恵を絞ったのは、弘前の「地の利」を活かし、このデメリットをメリットに変える妙案を探すことだった。つまり大都市の人々が「なるほど」と一目置くような、あるいは羨ましがるような、何かを見つけなければならぬ。
     まず思いついたのは三味線だ。これを学ぶには、弘前は第一級の国内留学地と言える。直ちに私は、茜町にある「まんじ流津軽三味線教室」に入門した。新たな勤め先となる大学に挨拶に行くより先に、まず私は三味線教室の門を叩いた。それぐらい悲壮な使命感をもって、この技芸を学び、いつの日か大阪に持ち帰ろうと考えていた。
     研究と三味線は一見すると無関係に思われるかもしれないが、研究を広く捉えれば、必ずしもそうではない。外国人研究者を相手にする場合を想像すればよい。中国に「パンダ外交」があるように、弘前には「三味線外交」があり、「リンゴ外交」もある。
     三味線教室では、工藤まんじ先生、まんじ愛華先生、また多くの先輩たちから、3年間にわたり大変親切にして頂いた。不慣れな北国での暮らしや、趣味で始めた畑仕事などの面でも、色々と助けて頂いた。今でも深く感謝している。入門3年目には私も少しは上達したのか、JRの観光列車「きらきらみちのく号」(野辺地〜大湊)に乗り、客を相手に車内や駅で演奏する機会もずいぶん増えた。今となっては笑い話だが、私は客と会話することを厳禁されていた。県の観光協会の半被(はっぴ)を着せられていたとはいえ、大阪弁で話せば地元人でないことが客にばれてしまうからだ!
     それはさておき、私のような「よそ者」がこうした仕事をすること自体に津軽文化の1つの逆説がある。すなわち三味線を演奏できる津軽人が意外に少ないという逆説であり、この点は、沖縄の三(さん)線(しん)が地元の日常生活にかなり溶け込んでいるのと比べれば、対照的ではなかろうか。
     三味線教室に入った最大の目的は、いわゆる「津軽の五大民謡」を習得することだったが、他の目的もあった。私はこの地の三味線の「芸能界の仕組み」、すなわち先人たちの生みだした経営・運営のノウハウ、組織、制度なども一生懸命に学んだ。それはこれらの知識が、津軽三味線の未来のビジネス・モデルを構想するさいに必ず役立つだろうからである。(続く)
    (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/10/9 陸奥新報 朝刊
    和僑の時代 ―活動の最終舞台は世界―

     周知のように、円高の定着や新興国の追い上げによって日本の製造業の国際競争力は低下しており、他方では、特に中国・東南アジア・インドなどのアジア市場の成長が目覚ましい。法人税率の差など他にも多くの要因が挙げられるが、とにかくこうした状況下で日本の企業が海外に活動の拠点を移し始めたことは、経済的に見ればごく当然の成りゆきである。
     産業の「脱日本化」などとも言われるこの奔流は、一時的なものでなく、おそらく今世紀前半の日本経済の大きな趨(すう)勢(せい)となるだろう。それは悪いものと見られがちであるが、私はむしろ良いもの、利用すべきものと捉え、その奔流に乗る手立てを模索したい。
     「和僑」とは、海外で活躍する力をもつ国際派日本人のことであり、語学力を磨くための持続的根気と少しばかりの度胸さえあれば、特別な事情がない限り、誰でも和僑になることができる。私はこの和僑の精神が、企業や大学などのさまざまな分野で今後不可欠になってくると強く思う。
     まだごく一部にすぎないが、わが国の大企業のなかには、英語を「社内公用語」に定めた(社内の会議や書類を英語で統一した)ところもある。さぞや社員は当惑し、社長を恨んでいることだろう。だが私は、そうした環境の激変を好機と捉え、積極的に受け入れる和僑こそが、新時代を担うリーダーになれると信じる。環境の激変する時代は、下克上の時代、創造的破壊の時代。大志を抱く若者は、その将来の武器をしっかり鍛えておくべきだ。
     学校の英語教育も改革されつつあるが、それによってどの程度の実用的英語力が身につくのかは、現状では不明である。結局、従来と同じく、実用的英語は主に自力で学ぶほかなかろう。NHKラジオ外国語講座など、優れた教材はたくさんある。
     社会のグローバル化は、残酷なまでに加速している。かつてはそれに対応しなくてもやっていけたが、今日ではますます多くの分野において、そうではなくなってきた。大学も例外ではない。最近、東京大学はやっと重い腰を上げ、「秋」入学への本格的移行を検討し始めた(日本だけが「春」入学では生き残れないからだ)。式辞も英語で述べられるそうだ。また10年前には英語で論文を書いたり学会報告をする者は少なかったが、今の若手の間ではごく普通の事柄になっている。私も負けたくないので必死である。
     貿易自由化をめざす環太平洋経済連携協定(TPP)も同様であり、そこでは和僑の力が存分に発揮されよう。 企業も大学も、世界に通用するか否かを問われる時代に入った。国内だけの「お山の大将」「井の中の蛙(かわず)」になってはならない。最終舞台は世界である。それ以上に広い舞台はない。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/9/4 陸奥新報 朝刊
    脱原発の覚悟を問う ―容易に引き返せない道―

     節電の夏が終わった。わが国の今後の電力確保について、また自分のライフスタイルについて、真(しん)摯(し)に考えさせられた夏だった。来年の夏はさらに厳しいものになるだろう。しかしそれは未来のための「訓練の苦しみ」「創造の苦しみ」である。福島の犠牲を無駄にしないためにも、そのように未来指向で物事を考えなければなるまい。
     では、今後の日本はどのようなエネルギー政策を採るべきなのか。世論の動きを見る限り、従来のような原発推進はもはや不可能だろう。残る選択肢は「減原発」と「脱原発」であるが、この二つは対立するものではない。周知のように、新たに原発を造らなければ、既存の原発の耐用年数が切れるに従って国内の原発の数はおのずと減ってゆき(減原発)、最終的にその数はゼロになる(脱原発)。私はこれを、実行可能な最も穏健な道として支持したい。なぜなら電力供給面における技術的・制度的課題の解決、また需要面における企業や家庭の対応には、相当の時間が必要だからである。ただし東海・東南海・南海地震の被災想定地域の原発は、直ちに廃炉にすべきだ。
     しかし二つの心配がある。一つは97年の京都議定書の方向性を守れるか否かである。8月末に成立した「再生可能エネルギー法」(施行は来年の夏)は、電気代を上昇させるけれども、確かに太陽光・風力・地熱などによる発電を増加させるだろう。だがもしそれらが十分に増加せず、その穴埋めとしてわが国が従来以上に火力発電に頼ることになれば、二酸化炭素の排出量は増え、世界の国々は「日本人は(その動機はともかくとして、結局は)自国を美しくするために地球を犠牲にする道を選んだ」と見るだろう。日本人の脱原発の決意を、環境立国の決意として世界にアピールするためには、安易に火力発電に頼れないわけである。
     もう一つは、近隣の韓国や中国が原発を利用し続けるなかで、日本だけが控えめな電力消費、すなわち地味な経済生活に甘んじていられるか否かである。国内の電力が不足すれば、あるいは電気料金が上昇すれば、産業、特に製造業の海外流出(進出?)が生じることは目に見えている。脱原発への道は、ある程度までは「クリーンで仕事のない社会」への道でもある。
     途中で心変わりしてしまうくらいなら、脱原発など初めから唱えない方がよい。膨大な費用をかけてわれわれは進むのだ。迷走したり、引き返したりすることは許されない。
     最後に指摘しておきたい点がある。福島の原発事故による周辺の汚染状況は、欧米諸国の報道によれば、非常に深刻である。真理を知るためには、日本の政府やメディアの流す楽観的情報のみならず、第三者の厳しい情報にも耳を傾ける必要があるだろう。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/7/31 陸奥新報 朝刊
    なでしこジャパン ―21世紀の東洋の魔女たちよ―

     ワールドカップ初優勝! 日本の女子サッカーが思いもよらぬ快挙を成し遂げた。「東洋の魔女たち」の再来か。しかも彼女たちは、これまで国内で必ずしも恵まれた練習環境・経済環境に置かれていたわけではない。凱(がい)旋(せん)の飛行機もエコノミー・クラスだったと聞く。このような逆境を跳ね返し、わが国のスポーツ史に残る偉業を達成したのだ。並大抵のことではない。
     人間の半数は女性である。そして人口の急速な減少と高齢化のなかで、日本は今後ますます、女性の労働力に頼らねばならなくなる。さもなければ、少数の現役世代の労働力で、多数の高齢者の生活を支えることは困難になるだろう。それゆえ私たちは、国内にまだ多く眠っているはずの「魔女たち」あるいは「大(やま)和(と)撫(なでし)子(こ)」(日本女性の美称)を、目覚めさせる環境整備を急ぐべきである。
     教員としての私の個人的経験から、次のように客観的に断言できる。平均的に見て、女子学生の方が男子学生より成績はかなり良く、また特定の国家試験の合格率も断然高い。ただし男子の面目にかけて、次のことも付言しておく。おそらく男子学生の強みは、点数では測れない、良い意味における一種の「不真面目さ」にあるらしい。
     わが国でも「男女雇用機会均等法」(1985年)以来、「男女共同参画社会基本法」(99年)など、さまざまな取り組みがなされてきた。その結果、近年では「共働き世帯」が「専業主婦世帯」を上回るようになった。それでもなお、女性の雇用の多くはパートなどであり、賃金も男性に比べて低い。政治の世界を眺めても、女性議員は少数にとどまっている。真の男女平等社会を生みだすには、これらの壁を突き破る必要がある。
     そのための一つの強力な方策として「男女同数制」があり、ヨーロッパの一部の国々で実際に導入されている。例えばフランスの「パリテ法」(2000年)は、国や地方の選挙のさい、各政党は男女同数の候補者を立てねばならないと定めている。私はさらに一歩進んで、最終的に議員総数の最低4割を女性枠にするべきだと考える。そうすれば、女性自身の手で制度がつくられ、おのずと女性の活躍しやすい社会に徐々に、しかし確実に、変わってゆくだろう。
     「男女同数制」を導入した国は、まだまだ少ない。しかし21世紀も日本がアジアのリーダーであり続けるためには、その導入にあたり、アジアで遅れをとってはなるまい。時代に先駆け、模範を示すべきだ。それは私たちにとって、一石二鳥である。近未来の日本は(世界史上に前例のない)高齢社会に突入し、遅かれ早かれ、まだ眠っている多くの「魔女たち」の力に必ず頼ることになるのだから。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/6/26 陸奥新報 朝刊
    活路は道州制にあり ―中央集権から地方分権へ―

     重要課題が山積するなかで、国政は機能不全に陥っている。国会議員は実にスケールの小さい党利党略に明け暮れ、大局を見失っている。主権者である国民の間には、誰が首相になっても同じだろうという深い失望と諦念が広がっている。
     かつて現状打破と政治刷新をめざし一部の青年将校が決起した、五・一五事件の前夜を見る思いだ。彼らは支配層の無能・腐敗に絶望し、既存政党の政治を暴力によって否定した。以後、敗戦の悲劇に至るまで、政党内閣による政治は復活しなかったのである。
     中央政府がしっかり仕事をしない、あるいはできないのであれば、彼らからその権限を取り上げ、地方に与えるのが賢明である。東京一極集中を捨てて、自治の範囲を拡大するべきだ。国政の悪が極まるとき、自治の善に転化すると思えば、現在の悪にも多少の存在理由(レーゾン・デートル)を見いだせよう。闇が極まるほどに、星は輝くものだからである。
     外交・国防・格差是正など、全国で統一せねばならない仕事は、中央政府に残し、それ以外の事柄はできるだけ自治体に権限を移すべきである。そうすれば国の議員・公務員は減り、代わりに地方の議員・公務員が増える。また国税は減り、代わりに地元自治体に納める税が増えるので、東京まで陳情(おねだり)に行く回数も減る。こうして遠い世界の「あの人たちの国政」は、もっと身近な「私たちの政治」に生まれ変わる。身近な自治こそが、民主主義の学校であることも忘れてはなるまい。
     自治をめざす一つの方法として「道州制」論がある。これは近隣の都道府県を結合して「東北州」などをつくり、そこに州政府を置くという、いわば日本連邦国の構想である。この場合、今の中央政府は、全国をまとめる連邦政府ということになる。
     近年の大阪や名古屋の地域政党の躍進、そして各地で模索される「広域連合」形成の取り組みを、私は道州制実現の前段階として位置づける。いずれの動きも、国政にはもう期待しないと言わんばかりの気迫である。昨年全国で初めて形成された関西広域連合(参加7府県)は、今回の大震災の救援事業で特にその存在感を誇示した。
     だがこうした自治の潮流はいずれ、既得権を守ろうとする中央(国会議員や官僚)の激しい抵抗に遭うだろう。また最後には、憲法改正の壁も立ちはだかる。しかし不可能ではない。
     政治に失望するのは早すぎる。国政に見切りをつけ、地方政治に懸ける手がある。日本の政治はあまりにも長い間、世界から「二流」「三流」と侮られてきた。このように国政の無能・腐敗ぶりは折り紙付きであり、疑う余地もなかろう。現状では一流をめざすどころか、二流を守ることさえ危うい。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/5/22 陸奥新報 朝刊
    失われた30年 ―日はまだ昇らないのか?―

     バブルの崩壊から約20年。その間、「いざなぎ越え」と呼ばれた長期にわたる緩やかな景気の拡大(ちょうど小泉改革の時期である)も確かに見られた。だが多くの国民にとって、日本はバブル崩壊以来、ずっと低迷しているというのが実感ではなかろうか。「失われた20年」とは、そのような20年来の閉(へい)塞(そく)感を嘆く言葉である。
     「良薬は口に苦し」の諺(ことわざ)どおり、社会を立て直すための改革には大きな痛みが伴う。しかし今の世代が苦しみに耐え、果敢に改革を実行せねば、次の世代が代わりに(おそらくは今の世代以上に)苦しむことになろう。改革の実行によって将来の道筋を示し、そのうえで次の世代にバトンを手渡すことこそ、今の世代の責務ではないのか。
     今の日本には課題が山積している。「失われた20年」の間、問題をいつも先送りした当然の結果、このように多くの課題を抱えるに至ったのだ。最も重要な課題としては、消費税の引き上げ、社会保障の見直し(超高齢社会への備え)、安全保障の確立(在日米軍基地問題の解決)などがある。
     しかも次第に明らかになってきたように、今回の東日本大震災は、わが国が「失われた30年」(もはや20年では済まないだろう)に入ったことを強く示唆している。震災によって諸(もろ)々(もろ)の改革が遅れることは必至である。日はまだ当分、昇りそうにない。それどころか、改革不能状態のまま日が沈んでゆく、その危険性が非常に高い。なぜなら今後10年間の日本を考えるとき、何か特に明るい材料はあるだろうか。しかし不安材料ならば、すぐに幾つも浮かぶはずである。
     明るい材料は、改革を通じてわれわれ自身の手で作り出すしかないのだ。それは可能である。しかしこれは、震災後の今の時点で、直ちに消費税を上げようという意味ではない。
     そもそも国債発行(借金)は、まさにこのような非常時のための資金調達法である。ところが日本では、奇妙なことに日頃から国債に頼り、すでに借金総額が世界一に達しているため、国は今のような非常事態においてさえ、増税によって財源を得ようとする始末だ。これでは本末転倒である。経済の「け」の字もわかっていない、と言わなければならない。むしろ通常時の経費は税で賄い、非常時の経費は借金で賄うのが、本来の財政の姿だろう。
     しかしこの点については、政府だけが非難されるべきではない。政府の能力水準が低いのは、ただ単に国民の能力水準の低さを代表・反映しているだけかもしれないからである。
     震災からの復興だけでも大仕事であるのに、他にも多くの課題が残っている。改革を先送りせず、着実に実行できるだろうか。われわれは今、重大な岐路に立っている。決断せよ!
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/4/17 陸奥新報 朝刊
    文体美の追究と悲哀 ―めざせ、ひらがなの達人―

     一つの共同体にとって、独自の文化をもつことほどに大切な問題はない。文化は共同体独自の価値観、美意識であり、何よりも「誇り」である。そして、文化の根底には「言葉」がある。私は日本語、つまり国語に大変誇りをもっている。おはよう、ありがとう、このような何気ない「言の葉(ことのは)」にも、和語の美しさ、不思議さが、みなぎっているように感じる。
     だが今は、言葉自体より、むしろ文字に目を向けたい。わが国の先人たちは、中国の漢字から、何とも美しい平仮名を創造した。独自の文字を手に入れたことによって、当時の若々しい文化は、未来に向けて存分に成長する自由を獲得したのだ。以来、日本人らしい心情の深い表現には、平仮名は欠かせない文字になっている。
     女は「め」、安「あ」、奴「ぬ」、計は「け」、寸は「す」、曽「そ」、太は「た」、止は「と」、奈「な」、乃は「の」、波は「は」、不「ふ」、保は「ほ」、末は「ま」、也「や」、由は「ゆ」、与は「よ」、礼「れ」、呂は「ろ」、和は「わ」。
     私は平仮名を愛する。片仮名の鋭角的な姿よりも、平仮名の女性的な柔らかい姿に、私は百倍も惹かれる。漢字は「男手(おとこで)」、平仮名は「女手(おんなで)」とも呼ばれたように、漢字を格上とする偏見は今でも珍しくない。空っぽの文章でも、難しい漢字を連発すれば、知性や高尚さを装うことができよう。
     私は根っからの平仮名主義者であるが、平仮名主義にも実は色々ある。(1)文の中身を尊び、漢字という飾りに頼ろうとしない潔癖者、(2)純粋に平仮名の美しさを愛する者、(3)外国人が日本語を学びやすいように漢字を減らそうとする者、(4)外来文字である漢字を斥けようとする国粋主義者―等々。
     私の場合、(1)(2)(3)は完全に、また(4)も少しばかり、当てはまる。だから文体には、かなりこだわっている。あくまで個人的意見であるが、例えば「持つ」の場合、「持」の字には手偏が付いており、「手で持つ」感じが強い。それゆえ「傘を持つ」は良いが、「家を持つ」は奇妙である。家は「もつ」の方が良い。また漢字には、「音読み」と「訓読み」があるが、大和(やまと)言葉である後者をできるだけ優先したい。だから例えば「大量の物品を購入する」とは書かずに、「多くのものを買う」と書く。
     ところが、私が苦心の末に編みだした文体を、よりによって「稚拙美(ちせつび)」などと揶揄する心ない輩がいるのだ。なかなか上手い表現である!
     さて、地域の文化を愛する人は、地域の方言を愛する人でなければなるまい。自分たちの言葉に誇りをもち、さらに美しく、洗練された言葉に高めようと努め、揶揄されても気にしない。郷土愛とはそういうものに違いない。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2011/2/6 陸奥新報 朝刊
    現代の「断捨離」 ―原点は自分自身を知ること―

     先日、お城の東南にある弘前教会の村岡博史牧師に、「断(だん)捨(しゃ)離(り)」という良い言葉を教えて頂(いただ)いた。断は、余計なモノを買わない訓練。捨は、余計なモノを処分する訓練。そして離は、モノに対する欲望が消えた分だけ心のゆとりが回復する、という境地である。
     この断捨離は、今では世俗的な整理整頓術として語られるにすぎないが、本来は宗教色の濃い苦行であった。例えば、後者の意味での断捨離を実践するには、まず己を知ることが肝心である。なぜなら、「自分は何者なのか」「何をなすべきなのか」ということをまず悟らなければ、自分にとって必要なモノと不要なモノの区別もつかず、総花的に「何でも欲しがる」ことになりやすいからである。
     だが、己を完全に知るのは生身の人間には不可能だろう。われわれに可能なのは、せいぜい自分自身のあり方について、何らかの「確信」をもつに至ることだけである。確信とは、すなわち「堅く信じる」主観的な力である。
     この確信を伴うとき、その善い悪いは別にして、断捨離はその本来の迫力を帯びてくる。それは突き詰めれば、現代社会に対する強烈なアンチテーゼである。「自分」に関する確信をもたず、ただ時代に振り回される大衆。テレビなどを見た何百万もの人々が一斉に同じことを考え、同じ方向に走りだし、同じモノを欲しがり、ときには同じ髪型になったりする。こうした大衆社会の弊害は明々白々である。
     解毒剤の一つは真の断捨離である。その第一歩は、確信に至るまで自分というものを探求することである。
     ところで、いわゆる「日本国の大掃除」にも似たようなことが言えよう。明治維新以来、わが国の発展には実に目覚ましいものがあった。資源に乏しく、人口だけは多い。国土は狭く、しかも山地ばかりで平野が少ない。にもかかわらず、世界屈指のGDPを生みだすのだから、その密度で言えば、日本列島は「地上で最も経済的に熱い地域」の一つと考えてよいだろう。悪い面も多いが、わが国の現代史はとにかく驚異的であった。
     なぜここまで発展できたのか? それは大衆が優れていたからである。外国の大衆より身体能力に秀でていたわけではないが、精神が優れていた。治安も良く、基礎教育の水準も高かった。現代の日本人はこのことを忘れてしまったのだろうか。われわれの文化や社会の秘密を、もう一度探求すべきときではあるまいか。己を知り、堅く信じることが、日本国の大掃除の第一歩でなければならない。そうすれば、これからの日本が頼るべきものは、おのずと見分けられるだろう。
     だが例外もある。私のたばこの断捨離では、「まずは己を知ること」などと言っている場合ではないのである。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/12/26 陸奥新報 朝刊
    詩心のたまもの ―きけ、生きものたちの歌を―

     「生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。力をもいれずして、天(あめ)地(つち)をうごかし、目に見えぬ鬼(おに)神(がみ)をもあはれとおもわせ、男(おとこ)女(おんな)のなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり」。紀貫之は『古今和歌集』(905年)の冒頭で、こう述べた。千年の時を超えて、その詩心の真実さ、情熱が伝わってくる。本物の「文化」は、そうした普遍的迫力をもつものなのだろう。
     私のような経済学者が言うのも変だが、あるいは経済学者だからこそ強く自覚するのかもしれないが、文化はお金ではけっして買えない。文化とは、洗練され高められた「心のあり方」である。一方、金銭(経済的豊かさ)はせいぜい「心の肥やし」、つまり文化の土台にすぎない。そうではないだろうか? 金銭自体を人生の目的と見るような考えは、詩心とは正反対の、精神的空虚さの証しである。金銭は手段にすぎず、人間の真の問題は金銭の先にある「心の状態」であるはずだ。
     では、紀貫之よりずっと豊かなわれわれ、すなわち地上で最も豊かな経済大国の一つに住む日本人は、その豊かさの土台のうえに、紀貫之に劣らぬ詩心の花を咲かせただろうか? 残念ながら、私の答えはノーである。現状では富は、精神の結晶を生みだすことに、惨めなほどに失敗している。一体われわれは、世界が羨(うらや)むその富を何に用いてきたのだろうか? 人間の魂を高めないとすれば、経済成長とはなんと空(むな)しいドタバタ劇であろうか? 例え「勝ち組」に入っても、心が卑しければ、ただそれだけのことにすぎぬ。
     詩心は創造の力であり、ときにはマイナスもプラスに変えてしまう。例えば、夜空の光に名称や意味を与え、勝手に直線で結んで「○×座」を創(つく)りだす。あるいは唯物論的空虚さが恐ろしいので、「死」に対しても意味を見いだそうとする。その積み重ねが文化である。詩心は実にいろいろな形で現れるが、その最も昇華された形は、やはり「感謝」の念だろうと思う。すなわち「自分の力で生きている」と誇るのではなく(野獣だって自分の力で生きているではないか)、自分以外の他者によって「生かされている」と自己の弱さを認める感受性、人間性である。そこからおのずと、「反省」や「愛」や「祈り」も生まれてくる。
     私の敬愛する詩人、田中敏弘氏の詩心の一部を紹介させてください(『風になって』より)。「ある朝バス停までの田舎路に並んだたんぽぽのわたぼうしが目にとまった/年老いた少年はその一本を手にとり/静かに息を吹きかけてみた/昔、母がそっと教えてくれた吹き方で吹いてみた/わたぼうしは何十年前と同じように/そよ風に乗り遠い青空に翔んでいった/そしてそこには笑った顔の母がいた」。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/11/21 陸奥新報 朝刊
    新しい国のかたち ―青森と平成の「開国」論―

     TPP(環太平洋経済連携協定)をめぐる議論が、にわかに活発になっている。TPPとは、関税をなくし、自由貿易をめざす多国間協定である。現在の参加国はシンガポール、ニュージーランド、ブルネイ、チリの4カ国にすぎないが、米国、オーストラリア、マレーシア、ベトナム、ペルーの5カ国が参加を表明しており、カナダとコロンビアも参加の意思を示した。日本、韓国、中国がどう動くかは現状では不確実であるが、おそらく日・韓の参加は時間の問題だろうと思う。
     TPPの長所は、日本の得意分野である自動車や家電製品の輸出が増え、これらの産業が発展すること、また外国の安い農産物(特にコメと牛肉)の輸入によって、その国内消費者全体が恩恵を受けることである。一方、短所の方は、これまで手厚く保護されてきた国内農業が国際競争にさらされ、衰退する危険である。それゆえTPPをめぐる国内の対立構図は、その経済面だけに限って言えば、少数の農業関係者の利害と、大多数のその他の国民の利害の対立にほかならない。これが経済学者のごく普通の見解だろう。
     もしTPPをめぐって国民に信を問うような事態になり、前述のような利害対立が煽(あお)られれば、かつての「小泉劇場」のような政局の再来も十分に考えられる。この問題は「国のかたち」に関(かか)わる大決断、国家百年の計であるから、必ずや総選挙になる。そして民主党も自民党も、この来るべき「TPP選挙」を利用するはずである。
     農業県である青森においてTPP参加を語ることは、無神経なことであるに違いない。だが貿易立国である日本が、拡大するTPPに背を向け続けることは現実論としていつまで可能だろうか? むしろ、この平成の「開国」論に対して農業県がみずから議論を喚起し、積極的に関わってゆく方が得策ではなかろうか? 新たな提案を伴わない単なる「後向きの抵抗」では、世論の反発を買う。堤防から海に飛びこむ際には、他人に無理に背中を押されるより、「準備体操」をして自分で頭から飛びこむ方が、着水は美しいに決まっている。時代は変わったのだ。
     リスクを商機と見なす楽観、時代を読む先見、前進する大胆さが必要である。競争力のある農産物にとっては、確かに好機である。保護関税を撤廃するのは日本の農業だけではないのだ。
     並の政治家は、次の選挙を考える。並の官僚は、省益を考える。並の国民は、自分の所得のことしか考えない。こうした「並」の人間には、日本を変えることなどできぬ。それどころか、突き崩すべき古い壁である。私は、恐れを知らぬ若い日本人の意見を聞きたい。これからの苦難を担い、創造的破壊を遂行せねばならない世代よ。過去のやり方は通用しない。時代を開け!
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/10/17 陸奥新報 朝刊
    民主主義の新展開 ―より洗練された公民感覚を!―

     この「日曜随想」の執筆依頼をお受けしたとき、私は、近未来の日本が直面する諸(もろ)々(もろ)の主要課題を若い世代、特に団塊ジュニア世代に向けて、歯に衣きせず、力いっぱいにぶつけようと考えた。たとえ批判を浴びても、それは私にとって価値ある仕事であるし、また同時に、その重い課題を実際に担う彼らを励ますことにもなるからだ。現状では、人口の多いこの世代の考えと実行力に期待せざるを得ない。
     今回選んだ課題は、日本の民主主義である。むろんそれは、将来も日本の根本方針であり続けねばならないが、近年ではその弱点を反省する動きが盛んである。民主主義を、これまで人類が試してきた中で「最良の制度」と賛美するより、「最もマシな制度」と謙虚に表現する姿勢が求められている。そもそも民主主義は、無条件にうまく機能するわけではない。有権者の政治的成熟が不可欠だ。有権者が未熟であれば、「ごみからはごみしか出てこない」式の論理が示す通り、粗野な市民からは粗野な政治家しか選出されないだろう。もしそうならば、政治家に失望する際には、同時に有権者も自己反省を迫られるわけだ。
     典型的事例として、まず景気安定化政策を挙げたい。景気循環は、いわば経済の潮の満ち引きであり、満潮(好況)と干潮(不況)が約5年おきに変わる現象を指す。なお、万年不況は景気「循環」ではないので別の対策を要する。だから潮位を安定させるには、好況期には政府は増税して金を蓄え、不況期にはその金を使って公共事業をすればよい。これが本来の安定化政策の姿である。ところが現実には、選挙を恐れて好況期には増税せず、不況期には公共事業をばらまくので、借金はどんどん膨らみ、とうとう首が回らなくなったある時点で、そのときたまたま生きている世代が過去数十年分の税をまとめて請求される(運悪くババを引く)仕組みになっていた。それは道徳なき民主主義であった。大衆迎合的な政治家だけが悪いのではない。市民も早く目覚めなければならない。
     もう一つ、粗野な民主政治の常(じょう)套(とう)手段は、市民の不満の矛先を、内政問題から対外問題にふり向けさせるというものである。私は中国問題を契機に、この動きが大衆社会特有の激しさをもって広がる可能性を心配する。扇動政治家が必ずや現れるはずだ。それは、今の平均的日本人の政治センスの程を測る一つのテストになるだろう。
     医術の世界では、一般の素人が専門家の手術に口を出すことは稀(まれ)だが、政治経済の世界では、有権者は誰でも政府の政策をあれこれ論評できるし、それが市民の義務であるとも言える。果たして議会制民主主義の下で、合理的政策運営は可能だろうか。結局、民主主義を洗練するしか道はなかろう。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/9/12 陸奥新報 朝刊
    激動する東アジア ―世界史的課題としてのAU―

     今年度中に中国が日本のGDPを追い抜くことは、ほぼ確実だ。GDPとは「国内総生産」、すなわち1年間に国内で新たに生産された富の総額である。日本は長年、アメリカに次ぐ世界第2位のGDPを誇ってきたが、来年からは第3位になる。
     単純化のために中国の経済成長を年10%と仮定すると、そのGDPは「約7年で2倍」、「約12年で3倍」になる。むろん実際上、10%もの高度成長が持続する可能性は極めて低い。私がこんな話をしたのも、急成長を遂げる中国経済の迫力を多少とも伝えたいからにすぎない。近い将来に急速に変化するだろう東アジア情勢は当然、日本の将来を大きく左右する。
     広大な中国には、その沿海部だけに限っても三つの経済圏(北から順に、北京圏、上海圏、広州圏)がある。中国に詳しい私の友人は「この三つがどれも日本並みのGDPを持つようになる」と述べたが、私はこの意見に、あえて次のように付言したい。「それは25年もあれば十分だろう」。
     私は中国に対する外国人(日本人を含む)の嫉(しっ)妬(と)を一番心配する。嫉妬は人間の感情の中で、最も醜いものの一つである。だが東アジアを「村」に喩(たと)えれば、貧乏人ばかりの村より、金持ちの多い村の方が商売は儲(もう)かるに決まっている。だから純粋に経済面だけを見れば、中国の豊かさは、日本の豊かさをもたらす。中国13億人の幸福なくして、アジアの幸福などありえない。
     ところで、今世紀前半のうちにEU(ヨーロッパ連合)ならぬAU(アジア連合)の創設が、中・日・韓を中心に現実味を帯びてこないだろうか? その第一段階であるFTA(自由貿易協定)や、第二段階であるEPA(経済連携協定)は、すでに実際に結ばれつつある。その先にあるAUは、まさしく壮大な夢であり、その実現には紆(う)余(よ)曲折もむろん予想される。それでもAUは、世界史の大趨(すう)勢(せい)であるように思う。これによって、東アジアの平和も成就される。想像して頂(いただ)きたい。
     その名誉ある先導役は、日・韓・ASEAN(東南アジア諸国連合)かもしれない。なぜならチベット問題などを抱える中国が、「人の自由な往来」を容易に認めるわけがないからだ。先ほど言及した私の友人は、「中国各地の富裕層は自由を欲するようになる。だから今のような共産党の体制は、いずれは崩れ、各地に大幅な自治を認める中華合衆国のような連邦体制に移るだろう」という展望を示した。いずれにせよ、国内問題が解決せねば、中国はAUに消極的だろう。
     AU構想は、現状ではかすかに輝く星のようなものにすぎない。だがそれは導きの星である。多くの若者の力が必要だ。今のうちに備えよ。アジアに羽ばたき、これを先導するために!
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/8/9 陸奥新報 朝刊
    デジタル時代のフロンティア ―インターネット教育―

     この15年間の情報通信産業の発展には、実に凄(すさ)まじいものがあった。インターネット(以下では「ネット」と略す)、「ケータイ」電話、携帯デジタル音楽プレーヤー、電子書籍など、次々に新たな道具が現れ、この流れは今後も続くだろう。さまざまな問題も生みだしたが、それでもこの流れは続くだろう。この分野は計り知れない可能性をもつからである。好き嫌いにかかわらず、21世紀の住人にとっては、こうしたデジタル技術の進歩に振り回されず、自分なりの「つきあい方」、すなわち自分の必要や領分に合った利用スタイルの確立が肝要になる。
     以下では、ネットに話を限定する。私は弘前に6年半ほど住んでいるが、ホームページを自分で作成できる学生に、まだ会ったことがない。大変残念である。若い世代がこのような状況であるならば、より年配の世代の状況についても、およその察しはつく。けれども青森の地理的・自然的条件を考えれば、ネットは、こうした弱点を補ってくれる不可欠の道具であるように思う。大したお金もかからず、実際に必要なのは、ホームページ等を作成・運営する能力・ノウハウのみである。
     私が言いたいのは、単なるメール、ホームページの閲覧、買い物、テレビ会議のようなネット活用法を越えた、もっと能動的なネット活用法の開拓だ。ネットを能動的に活用する力と情報発信力をもつことは、個人にとっても団体にとっても比較的容易に大きな利益をもたらすはずである。私個人の狭い経験でさえ、その具体的内容を書くことは控えるが、能動的に得た諸(もろ)々(もろ)の利益は、私生活でも仕事でも極めて大きかった。能動的ネット利用者にとって、その「利益」(目的)は、ビジネス、人脈づくり、日本中に散らばった同好の士の組織化、あるいはこれらを組み合わせるなど実に多様であり、文字通り「アイデア次第」である。
     ところで、デジタル技術の急速な進歩の中で10年先を見据えるならば、古いアナログ時代の家庭教育や学校教育の常識も、なるほど一部の面では大きく変わらざるをえないだろう。だが根本的な面での人間教育では、決してそれに左右されてはならぬ。技術は人間のための道具である。技術のために人間が振り回されたり、苦労したりするのは、多少はやむをえないが、本末転倒である。冒頭で私が、自分なりの(デジタル技術との)「つきあい方」を確立せよと述べたのも、こうした防御的意味においてである。今日のような大衆社会では何事もそうだが、自主独立の精神をもって判断できる度胸が大切になる。皆が使うからといって、「自分も使わねば」と焦るのでは情けない。むしろ人間を輝かせるために、それを吟味し、それから飛び込んでゆくべきだ。先手必勝である。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/7/4 陸奥新報 朝刊
    日本の税制の予想図 ―その他の税はどうなった?―

     消費税の増税には何の驚きもない。また現在、それについては色(いろ)々(いろ)な所で議論されているので、ここで改めて論じるまでもない。むしろ私はここで、「その先」を展望したい。なぜなら政治家は「その他の税」について、選挙前なので口を閉ざしているからである(選挙後には再び語りだすだろう)。
     消費税の増税は「飛車先の歩」のようなものであり、堅実な一手だ。それは、社会保障制度、特に年金制度を後退させないための守りにもなろう。さて、問題はその先である。私はわが国の今後の税制の骨格を、次のように予想する。(1)消費税15%(2)所得税の増税(3)法人税の減税―である。(2)の所得税は、後述するように(3)と表裏一体であると同時に、消費税を15%以上に上げずに財政を健全化するための調整弁でもある。
     (3)の法人税の減税は、やや説明を要するだろう。その狙いは、日本経済の国際競争力向上と雇用創出である。日本の法人税が外国より高ければ、日本企業は外国企業との競争で不利になろう。また外国企業も日本に工場を建てようと思うまい。実際、わが国の法人税は他の先進国に比べて高い。
     その高さの理由の一つは、国民の誤解だろう。法人税の増税に対する国民の反発は、所得税の増税の場合より、ずっと小さい。だがこれは奇妙なことである。なぜなら企業の「利潤」は、いずれ株主・経営者・社員などの利害関係者の「所得」となって流れ落ちる。だから利潤に法人税をかければ、当然ながら、彼らの所得の「源」は減少する。株主の配当も社員の給料も減るだろう。つまり法人税は「企業が払う」どころか、「関係者が皆で払う」のである。法人税と所得税の関係はいわば、水路の上流(利潤)で水を汲(く)むか、下流(所得)で汲むかの違いだと言える。ところが法人税ならば、大半の国民は、負わされてもその重みに気付かず、反発もしないので、政治家にとっては増税しやすい。
     同様の例を挙げよう。厚生年金の毎月の保険料は、労働者本人と会社とが折半する。労働者が「得をした」と喜ぶのは、ぬか喜びかもしれない。本来ならば給料自体がもっと高かったはずであり、結局、折半どころか労働者が大半を払うからである。
     法人税を下げても、利潤が所得となって落ちてきた時点でガツンと累進所得税をかければ、所得格差の是正は可能だ。来週の参院選が済めば、政治家も「その他の税」について語りだすはずである。そして増税を語る者は、世間から嫌われるに違いない。だがそれでも語ろう。それが、今よりずっと重い負担に苦しむ将来世代に対する責務を、多少とも果たすことだと思うからである。これは世代間の「正義(justice)」の問題である。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/5/30 陸奥新報 朝刊
    沖縄の米軍基地 ―21世紀東アジアの安全保障―

     沖縄米軍基地の問題は、当面は新聞やテレビで盛んに取り上げられるだろうが、「喉(のど)元すぎれば熱さ忘れる」の喩(たと)え通り、新型インフルエンザの流行と同じく、急速に忘れられるだろう。だが21世紀東アジアの安全保障を真剣に考えようとすれば、沖縄米軍基地は大きな問題、いや正確に言うと「さらなる大問題への入り口」であることに、誰もが気付くはずである。
     鳩山首相をかばう気はないが、沖縄問題の積極的解決策を自分なりに示せないのに、ただ首相を安易に批判するだけの国民の傍観者的、大衆的態度を見るたびに、わが国の民主主義の「軽さ」を痛切に感じる。自分からアイデアも出さずに、あらゆる改革案に断固反対し続ければどうなるか? 簡単だ。普天間は普天間のまま維持されるほかはない。国民(首相ではないのだ!)が今直面しているのは、21世紀日本の安全保障の「グランド・デザイン」を構想するという大問題である。
     ここでは便宜上、日本はその安全保障を独力では得られず、日米安保体制を堅持すると仮定する(むろんこの仮定は疑う余地もある)。その場合、大別して二つの選択肢がある。(1)現状をそのまま維持する道と、(2)在日米軍を縮小し、その分、自衛隊による代替を模索する道である。(1)の場合、在日米軍の基地面積の7割以上を占める沖縄の米軍基地を、どこか他(ほか)に移せば、それで当面の課題は果たされる。一方、(2)は安全保障の「国産化」推進を意味するから、(1)より多くの課題を克服せねばならない。どちらも長所短所があり、どちらを支持するかは個人の自由である。私個人は(2)を支持したい。(2)の場合、第一に、将来の憲法改正が必要になり(それは第9条だけの問題ではない)、第二に、韓国や中国、周辺アジア諸国との友好に努め、軍備自体の必要性の最小化が肝要になる。経済関係が密になるほど、平和が共通の利益になるだろう。第三に、日本が米国の東アジア戦略の駒として使われるのを、極力避けねばならない。
     国は基地を受け入れる地域に補助金を給付せねばならないが、従来のような箱モノ作りの資金とするより、「子ども手当」のように直接住民に給付する割合を増やす方がよい。それは、各自が自分の問題として考えるためにである。給付金を目当てに住民票だけを移す問題も生じるだろうから、給付形態を工夫せねばなるまい。
     「安全保障」とは、たとえ他国が日本を攻撃しようとしても、それが不可能な鉄ぺきの安全を意味する。他国がそうした意図を持たないと前提した楽観論では全くない。保障securityとは「確保する」という意味である。その上で、沖縄の負担軽減は、各自が知恵を絞らねばならない国民的大問題の入り口なのではなかろうか?
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)

2010/4/25 陸奥新報 朝刊
    団塊ジュニアの時代 ―創造的破壊―

     21世紀前半の日本社会は「団塊ジュニア」世代の時代になる。今直面している数々の問題に、この世代がどう対応するかによって、世紀後半の日本の将来像は大きく変わってくる。
     団塊ジュニアとは、70年代前半のいわゆる第2次ベビーブーム期に生まれた世代を指す。彼らは青春期をバブル経済の金ピカ文化のもとで過ごし、学校卒業後には一転して「就職氷河期」の辛酸をなめた。その後、現在に至るまで経済は低迷し、例えば「勝ち組・負け組」「派遣(社員)」「ワーキング・プア」「ネットカフェ難民」等の言葉が次々に現れた。彼らは人口が多く、したがって彼らが産む子どもの総数もそれなりに多いはずなので、この世代は「少子化」を緩和する最後の大きなチャンスと期待されていた。だが彼らには、結婚して子育てをする金も暇もなかったようだ(この世代も今では、すでに40歳に近づいた)。
     それだけではない。彼らは前の世代が残した公的借金、つまり公債を一生背負い続けるのだ。彼らの親は国や自治体から大量のサービス(年金や医療等の金銭を含む)を受けたが、当然払うべきその対価、つまり税金を納めなかった。簡単に言うと「ただ食い」である。さんざん飲み食いしたにもかかわらずその代金(税金)を払わずに「後で私の子が来るから、その子にお金をもらってください」と言い残して立ち去ってしまったようなものである。団塊ジュニア世代がそのツケを払わされるのは時間の問題だ。それは具体的には、消費税の大増税という形をとる可能性が高い。その額は国民1人当りで800万円ほどだが、国民と言っても支払能力のない赤ん坊等を除けば、1人当り1000万円ほどだろう。
     だから団塊ジュニア世代はしばしば「損な世代」と言われる。バブル経済を起こしたのも、膨大な借金をしたのも、彼らではない。彼らはその「後始末」をする世代である。彼らはこの後始末をどのようにやり遂げるのか?
     過去のすべてを疑い、創造的に破壊せよ! 変化の時代には若々しい大胆さが不可欠である。団塊ジュニア世代には、火の中に飛び込んでゆくような覚悟も必要だ。たとえ自分たちが灰になっても、次の世代はそこから不死鳥のように蘇(よみがえ)るチャンスを得る。今生きている者が重荷を負えば負うほど、これから生まれてくる者は自由を得る。日本の再生を語る資格があるのは、みずから重荷を引き受ける者たちだ。重荷の一つは増税である。仮に一世代だけで借金を完済するのならば、文字通り「火中に飛び込んでゆくような覚悟」のいる大増税が必要になる。  なるほど「損な世代」である。だが各々の世代には、各(おの)々(おの)の歴史的使命がある。われわれ団塊ジュニアは、きっとそれをやり遂げよう。
     (弘前学院大学・講師 本郷亮)


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