33回転上のふたり


A面 4曲目

ー Revolution 9 ー



 2010.12.04        ジュン

 
 


 


 青葉シゲルは意気揚々と教室に乗り込んできた。
 さすがに今日はギターを持ち込んではいない。
 実は昨日あの後に職員室で教頭、学年主任、同僚教師と三者に取り囲まれて説教をされたのである。
 特に同僚教師の伊吹マヤは執拗に彼を責めた。
 国語の授業で書かせた作文を担当教師の彼女の許しもなく他のクラスで読ませたということに反省を迫ったのだ。
 なぜかという理由については何も聞かない。
 言い訳を許さない女性ならではの叱責を受けて、青葉先生は身体を小さくしているしかない。
 それは三方を塞がれて座っていた椅子から立ち上がれなかったからだ。
 教頭と学年主任は軽い叱責で済ますつもりだったが、かなり頭にきている伊吹先生に引きずられる形で険しい表情のまま時間が経つのを待っていた。
 結局たっぷり30分も責めつけられた青葉は「申し訳ありません。もうしません」という小学生レベルの詫びを入れることで説教タイムは終わった。
 そこで「(ギターの持ち込みは)もうしません」と詫びたということにして、青葉先生は今日も脱線した。

「さてと、では授業に入る前にだ」

 青葉はにやりと笑って教室を見渡した。
 その中には彼女もいた。
 惣流・アスカ・ラングレーは緊張した面持ちでこの3時間目の授業を迎えていたのだ。
 授業中に眠るなど恥ずかしくて死んでもできっこない。
 3時間も寝ていない彼女の瞼はとてつもなく重く、頭も朦朧としている。
 だが学業においてトップクラスと自他ともに認めているアスカが授業中に失態をさらすわけにはいかないのだ。
 だからこそ彼女は必死に眠気と戦い、教師に指名された時はミスをすることなくそつなく質問をこなした。
 だが、彼女の戦いはこの3時間目が山場となる。
 それは青葉先生が彼女にビートルズの話題をふってくることが火を見るよりも明らかだったからだ。
 そしてそれは現実のものとなった。

「当然、昨日の続きだな。昨日は邪魔者が入ったから、言えなかったことがある」

 青葉先生は背を向けると黒板に汚い字で英文字を書き殴りはじめた。
 アスカも字は綺麗とはいえなかったが、さすがに英文字ならばそれなりの格好はつけられる。
 それに汚い英文字も見慣れてはいるのだがそれでもところどころはスペルが読み取れなかった。
 帰国子女の彼女がそういう具合だから、他の生徒たちはなおさらである。
 その上、彼は気取った書体で綴っているのでわけがわからない。
 明らかに筆記体が一部混ざっているので解析は困難だが、アスカは内心舌打ちをしながら必死に読み取ろうとした。
 自分にこの文字を解読しろとあのいかれた教師が命じてくるに決まっている。
 一番上に書かれたものを読み取れれば何とかなるのではないかと思ったが、最初が“I”であることしかわからない。
 どうして最後の単語だけ筆記体なのよ!しかもそれの方が読みやすいってどういうこと?
 最後の単語はどうやら“better”らしい。
 散々苦労した挙句、それは文章ではなく曲名であることにアスカは気がついた。
 夜中まで勉強をした成果が早速出たのである。

 I should have known better

 これは日本盤では『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』というタイトルのレコードに入っている曲で何故か『恋する二人』という邦題になっている。
 アメリカ盤では『A Hard Day's Night』のA面4曲目にインストとなっているから演奏だけで、B面の1曲目に歌が入っているのと、『Hey Jude』というアルバムのA面2曲目に収録されている。
 よし、完璧に覚えているわ!とアスカは心の中でガッツポーズをとった。
 問題はどんな曲だか全然知らないってことだけどさ…まあ、切り抜けてやるわよ!
 自信を深めたアスカは2行目の英語の解読に取りかかる。
 おそらく曲名だと見当がついたのでその後は何とかどれも記憶したものと合致させることができ、彼女は一安心した。
 その間に青葉先生は黒板いっぱいに解読が困難な英文字を羅列し終わり、満足気に生徒たちを見渡した。
 昨日真っ先に半畳を入れた男子生徒がまたもやちょっかいをかけてくる。

「先生、それ何ですか?全然読めません!」

「お前ら英語くらい読めないのか?情けない」

「英語は読めますけど、先生の字は読めませ〜ん」

 教室がどっと沸く。
 彼は生徒全員の気持ちを代弁していたからだ。
 ただし、青葉先生だけはみんなの気持ちがわからない。

「うるせぇ、お前らにはロックの魂がこもってないから読めないだけだ」

「こもっていても読めるわけないってば」

「そんなことない!よし、じゃ、惣流!」

 きたきた、やっぱりきた。
 予想通りに指名されたのでアスカは溜息混じりにゆっくりと立ち上がる。

「お前には読めるだろう。なっ?」

「I should have known better。恋する二人。ビートルズの歌の題名」

 すらすらと答えるアスカの言葉に青葉先生は相好を崩す。

「なっ、見ろ、お前ら。ビートルズを愛する惣流には簡単に読めるってことだ」

「惣流さんは外国帰りだから読めるだけだろ」

 生粋の外国人でも読めるわけないってば!
 アスカは着席しながら、心の中で叫んだ。
 もし昨日の晩、ビートルズの資料を作っていなければ読めるわけがなかった。
 だが、その一方でアスカは大満足している。
 黒板には10曲のビートルズの曲名が書かれており、そのすべての歌がどのアルバムに入っているか、日本盤とアメリカ盤の双方で答えることができる。
 残念ながらドイツ盤には手は伸ばす余裕がないが、これで充分だとアスカは判断している。
 イギリスがオリジナルということはアメリカ盤の方が日本やドイツよりも内容が近い筈だ。
 オリジナル盤を知らないアスカは自分の培ってきた常識をビートルズにもあてはめてしまっていた。
 それが間違っているということを知っている惣流家のただ一人の人材は遙かドイツにいる上、今のアスカは母親にアドバイスを貰おうとは思っていない。
 アメリカ盤がかなり独自性が強かったということを知らずに、アスカは自分の知識をより強固なものとしようとしていたのである。

「お前ら本当にダメな連中だな。こいつは俺のビートルズベスト10だ。まあ、惣流に発表させてもいいが…」

 さすがに授業のことを考えたのか、青葉先生は自分の好きな曲名を羅列した。
 彼がどんな曲を好きかということにこの話はまったく関係がないので詳細は割愛する。
 ただ、この流れをアスカは甘く見ていた。
 曲名とその情報を記憶していたことで安心していたのである。
 この昭和55年9月11日木曜日現在のアスカはまだビートルズを一種の学問的なものとしか捉えていなかった。
 だからこそ、この次の青葉先生の質問を彼女はまったく想定していなかったのだ。

「まあ、俺の場合はこんなもんだ。この10曲の中で一番好きなのが“恋する二人”だな。おっ、そうだ、惣流、お前の一番好きな曲は何だ?」

 え……。
 アタシの一番好きな曲……。

 この一瞬でアスカは彼女の持つ全能力を思考に集約した。
 なんというとんでもない攻撃を仕掛けてきたのだろうか。
 アスカは100%かどうかの確信はなかったが、あの『ビートルズの軌跡』に書かれていたアルバムとシングルの全曲をリスト化しそのすべてを覚えている。
 だがそれはあくまで知識に過ぎず、情報の好悪など判断する材料をまだ持っていない。
 さしずめ社会教師の青葉先生から好きな国はどこだ?とか一番尊敬する歴史上の人物は?などといった質問をされる方がまだましだっただろう。
 もし理科の教師から一番好きな元素は何かといきなり質問されれば返答の仕様がないのと同じだ。
 アスカにとってビートルズの歌はまだリスト上の記号に過ぎない。
 まだ1枚もレコードを聴いていないのだ。
 現時点ではメロディーと曲名がまったく一致していないのである。
 昨日“Rock And Roll Music”のイントロを聴いて「ビートルズだ」と答えられたのは、家の中で母親が散々彼らの曲を流していたためにビートルズかどうかという判断だけはできる耳に勝手になっていただけだった。
 実際その“Rock And Roll Music”のメロディーを自分で口ずさめと言われても絶対に不可能だ。
 何か1曲でも彼らのメロディーを自分の口で奏でることも不可能なアスカである。
 アスカは困った。
 適当に答えるか?
 いや、その選択は絶対にできない。
 LPレコードのタイトルとなっている曲ならば有名である筈だから、その曲を1番だと答えれば充分にお茶を濁すことができる。
 しかし、それは拙い。拙すぎる。
 アスカの思考は1フロア上の教室にいる2年7組の碇シンジの、しかも引きつった表情を浮かべた方の彼をイメージした。
 自分が一番好きだと言った曲を彼が嫌いだったらどうなる?
 拙い、拙い、拙い、拙い、拙すぎる!
 ……。
 あ、いいこと思いついちゃった!

 彼女が考えていたのはほんの2秒ほどの時間に過ぎない。
 素晴らしい案を思いついた彼女は、自信たっぷりに席を立ち胸を張ってこう答えた。

「はんっ!そんなの全部に決まってるじゃないっ」

 どうだ!と言わんばかりの笑顔を浮かべたアスカはさらに言葉を継いだ。

「ビートルズの曲はどれもこれもすっごく素晴らしいのよ!」

 そのあまりに堂々とした宣言振りにビートルズのことをあまり知らない生徒たちからもどよめきが起きた。
 生徒の中ではただ一人、洞木ヒカリだけが肩越しに親友の誇らしげな笑顔を見て大丈夫かしらと心配した。
 昨日の放課後に急いで帰宅するアスカからそっと秘密を打ち明けられていたのである。

「あのね、アタシビートルズのこと全然わかんないの。だから今日は徹夜してでもビートルズのすべてを覚えるつもり!アタシ、がんばる!」

 確かにがんばったようで今日は休み時間に「ねむたい…」を連発していたアスカに、彼女は苦笑しながらあまり根を詰めないようにねと祖父と同じ言葉をおくったのだ。
 教壇では青葉先生もまた苦笑していた。

「確かにそうだな。ビートルズの曲はどれも素晴らしいと先生も思うぞ。しかしな…」

 この授業中ではじめて青葉先生は教師らしい表情を浮かべた。

「この1曲に決められないというのもわかるぞ。だがな、好き嫌いというものがある。この曲だけはついていけねぇというものがビートルズの中にもあるぞ」

「はっ、先生のビートルズへの愛が足りないだけじゃないの?」

 生徒は心のどこかで教師が打ち負かされる姿を求めるものだ。
 詳しいことを知らない生徒たちは明らかに正しいことを言っているように見えるアスカの姿に喝采を上げた。
 もっとも一部の生徒、とくに女子の中にはあまりに偉そうな態度のアスカに不快感を覚えたことも付け加えておこう。
 青葉先生は小さく「そうだな」と呟き、背を向けると黒板の文字を消しはじめた。

 勝った。
 勝ったわよ、アタシは勝った。

 勝つことが何よりも好きなアスカは大満足した。
 だが、曲を聴かないことには何かにつけて拙いと反省し、今日は帰宅してすぐにアメリカ盤を1枚目から聴こうと考える。
 しかし、昨晩祖父に遅い時間までステレオを使うことは禁止されているので、まずは駅前まで赴いてカセットテープを買いに行かないといけなかった。
 そして、彼女は思い出した。
 今朝はかなり寝ぼけていたので財布をポケットに入れておらず、一度帰宅しないといけないことを。
 学校と自宅と駅前はちょうど正三角形の頂点に当たる。
 家に戻るのはかなりロスタイムになるが仕方がない。
 その代わり愛車を飛ばせば時間の節約になるではないか。
 ああ、今晩のおかずも買わなきゃ…。
 あ、思い出した。
 おじいちゃんがカセットテープを買ってくれるって……あれ?結局どっちだっけ?





 青葉先生の4時間目は2年7組である。
 彼は碇シンジにビートルズの話題をふろうと考えていた。
 昨日はこのクラスでの授業がなかったので、シンジの作文を他のクラスで読んだということを知らない筈だからきっと彼はうろたえることだろうと教師らしからぬけしからん考えを抱きながら青葉先生は7組の扉を開けた。

 起立礼着席が終わると、青葉先生は廊下側の席に座っている碇シンジの顔を見た。
 じっと教師に見つめられて、彼はきょとんとした表情になる。
 普通ならば昨日のことを彼自身が噂で聞いているので、そのことについて話してくるなと身構えるところだがシンジという少年はそういう部分の警戒心が薄い。
 となれば、図太い性格をしているかと思うべきだがとんでもない。
 授業中に発表する時も流暢に喋っていたかと思うと、どこかで支えてしまうともうしどろもどろになってしまう。
 自分に自信がないのがこいつの悪いところだなぁと青葉先生はシンジを見つめた。

「碇シンジ。すまん、お前の作文を別のクラスで読んじまった」

「あ、はい。知ってます」

 もう少しリアクションしろよ!と生徒の肩をぽんと叩きたいと青葉先生は思った。
 相変わらずとらえどころのない男子だ。
 
「2組で読んだのだけどな、あそこには物凄いビートルズファンがいるぞ。惣流だ。海外のファンだから詳しいのなんのって。先生は降参しちまった」

 これはシンジに対して言ったのではなく、教室中を見渡して喋った言葉だ。
 アスカの知名度は全校区である。
 生徒たちは先生の脱線を待った。
 青葉先生の授業は厳しいのだが、脱線していくことも多く、教師自身の人気は高い。
 今回のビートルズの件はアスカが絡んでいるだけに生徒たちも興味津々である。
 もちろんシンジもそれは同様だ。

「碇、お前の一番は何だ?」

「え…。一番、ですか?」

 話の流れでビートルズ絡みの質問だと誰でもわかりそうなものだが、この時は憧れの人のことを考えていただけに咄嗟に出てくるのはアスカの名前だけだ。
 無論、シンジがそのような言葉を吐くことはありえないので、いつものようにたどたどしく質問返しをするにとどまった。
 青葉先生はほとんどの生徒の性格や反応をある程度把握しているので(もちろん授業中のであるが)彼の返答は想定内だった。

「おう、一番好きなビートルズの曲は何だ」

 あ、そういうことか。
 シンジはメロディーを思い返した。
 あの後も母親に勧められた赤盤・青盤を中心に彼らの曲を聴いたので有名なものはチェック済みである。
 だが、これだ!という曲はまだ彼の中にはない。
 好きなタイプの曲ならあるが、それを口にしていいものだろうか。

「えっと、“And I Love”…」

 “Her”と続けようとしたが、まるでアスカのことを好きだと宣言しているように思われるのではないかと急に彼は口を閉ざす。
 はっきり言って、考えすぎだ。
 それに青葉先生のようなビートルズファンならばそこまで聴けば曲名を言ったも同然である。

「おお、アレか。甘い曲だな。碇らしいといえばいかにも…」

「ち、違います。あの曲を弾いたことがあるので」

 慌てて否定に走るシンジだったが、弾くという動詞を聞いて青葉先生の目が輝いた。

「へぇ、お前、弾くのか?エレキかアコースティックか?」

「先生〜!碇が弾くのはギターじゃないですよ」

「こいつはアレですよ、ほら、アレ」

「チェロだよ。知らないのに口出すなよ、馬鹿」

 男子連中が口を挟んできて、青葉先生はシンジが弾くという楽器を把握し顔を綻ばせた。
 なるほどチェロとは彼らしい。
 ギターを弾くといわれてもイメージができなかったのだ。

「ほう、なかなかいい趣味だな。で、一番はなんだ?」

「それは…」

 何と答えたものか。
 自分の好きな曲が惣流さんに伝わって馬鹿にされないだろうか。
 彼が聴いたのは、アルバムが最初から3枚とベスト盤で、中後期のビートルズがアルバム単位では未踏破だ。
 そのような状態で一番好きな曲がこれだと断定してしまっていいのだろうか。
 優柔不断で且つ慎重派のシンジとしては返答ができなかった。

「えっと、どれかって…僕は…」

「なんだ。一番は決められないってことか?碇シンジよ、お前もか」

 「ブルータス。お前もか」という口調だったが生徒たちの反応はない。
 そろそろ授業に入るかと青葉先生はこの話題を打ち切ろうとした。

「惣流と同じだな。あいつも全部の曲がいいとほざきやがった。あいつもお前もまだまだ甘いな。よし、では教科書を開け」

 ビートルズから十字軍の世界へ急展開させた社会教師は生徒を指名して教科書を読ませる。
 脱線はもう終わりかと生徒たちはいやいやながらに授業を受けたが、シンジひとりは舞い上がってしまっていた。
 僕が!僕が、惣流さんと同じ?惣流さんと同じだって?凄い、や!
 恋する男子中学生はこの程度のことでも充分に活力源にできるものだ。
 この日一日彼はいつもよりも愛想笑いが120%アップしていた。




 午後8時をまわっていた頃である。
 奇しくも惣流家と碇家、双方で同じレコードが流れていた。
 そして、公式では極度のビートルズファンと認定されているのに、実はファンになったばかりのふたりが同じ感想を漏らしていた。



 まずは、レディーファーストで惣流家の方を見てみよう。
 ステレオから流れている音にアスカは蒼い目を丸くしていた。
 思わずボリュームを少し小さくしてしまったほどである。
 
「こ、これが歌?」

 彼女にとってそれは歌ではなくただの騒音だった。
 そして、それは遠い過去の記憶を甦らせたのである。

「ママ、こわいよ〜。やめてよ〜」

「アスカ、うるさいわよ。こわいなら向こうに行きなさい」

「だってぇ…。こわいもん」

 そのようなやり取りをしたことがあった。
 それは5歳にもならないような時期で、ステレオから流れてくる不協和音に幼児はただ恐れを抱くしかなかった。
 怖い音、としかわからずに結局子供部屋に逃げ去るしかできなかったのである。
 すっかり忘れていたが、このことも手伝ってビートルズが嫌いだったのだ。
 もっとも一番大きな理由は、母親があまりにビートルズを愛しすぎていたことに尽きた。
 ただ、忘れてはいけないのはそのことでアスカが疎外感を持ったという風に捉えられては困るのだ。
 いかに愛しているビートルズとはいえ娘と天秤にかけたならば間違いなくアスカを選ぶに決まっている。
 そのことは幼きアスカもよくわかっていた上で彼女はビートルズを嫌いになったのであった。
 それは単純なこと。
 興味を引く前の段階で聴かされすぎただけのことなのだ。
 『イエロー・サブマリン』をレコードに悪戯をして母にこっぴどく叱られた時には、彼女は楽しげに口ずさんでいた。
 だが子供が聞いて楽しい歌よりも、嫌な曲、怖い歌を聴かされることの方が圧倒的に多かったのである。
 その点、碇家の主婦とは大違いだった。
 碇ユイは今の家に引っ越す前も後はロックティストの強い歌などはヘッドホンで聴くことも心がけていたのだ。
 ただしキョウコの場合は建売住宅の碇家とは異なり、アメリカでもドイツでも隣の家とは20mは離れていた郊外に住んでいた。
 そういう環境にいたキョウコがわざわざヘッドホンでビートルズを聴くわけがない。
 そのために幼きアスカは『レボリューション9』に恐れを抱いたのだった。



 さて、それでは碇シンジの場合はどういう経緯を辿ったのだろうか。
 母親は『レボリューション9』は確実に子供がいるときにはヘッドホンで聴いていた。
 “ホワイトアルバム”が発売されたのが昭和43年の11月末。
 シンジはまだ2歳である。
 さすがにその頃には子供に遠慮していずにステレオでレコードを聴いていたが、まだ引越し前なので借家住まいだからボリュームは落とし気味である。
 そして『レボリューション9』を耳にしたとき、怖がりで泣き虫の息子は嫌がるだろうなと判断した。
 そこで極力このアルバムを聴く時は息子が寝ている時を選んだり、ヘッドホンを使っていたのだ。
 だから彼女は息子がこの曲を知っているとは夢にも思わなかった。
 ところが今宵のシンジがこの曲を聴いた時、忌まわしい思い出が甦ってきたのである。
 
 それは昭和44年2月23日日曜日の出来事である。
 シンジが2歳と6ヶ月と3週間になろうとする頃だ。
 晩御飯の準備に入るしばらく前、シンジが昼寝から目覚めてこないのをいいことにユイは3カ月前に買ったばかりの“ホワイトアルバム”を聴いていた。
 もちろん息子が寝ているので彼女はヘッドホンでビートルズを楽しんでいたのである。
 そして『ハニー・パイ』のサビがはじまったくらいの時だ。
 玄関ドアのチャイムが鳴ったので、レコードを止めずにユイは部屋から出て行った。
 これは別に横着でしたことではなく、急にレコードプレーヤーの針を上げると盤自体に傷をつけてしまう可能性が高かったからである。
 ボタンひとつで針を上げることができる高級機種も出てはいたが、碇家にあったのはレコード盤の最後まで進むと針が自動的に上がるというレベルどまりだった。
 だから彼女は演奏をそのままに玄関へと向かったのである。
 碇シンジの不幸はそのタイミングで目覚めたことだった。
 布団から出てきた幼児は寒さに身を震わせながら、母親がいるであろう部屋へと足を進めた。
 だが優しき母の姿はそこにはなく、畳の上には大きなヘッドホンが転がっていただけである。
 そのヘッドホンを見てシンジはにっこりと微笑んだ。
 時々母親が頭につけているその黒く大きな物体を彼も自分の頭につけようとしたのだ。
 何かの音がそこから漏れていることは離れていてもわかる。
 ステレオは触るなと両親からきつく戒められているので、いい子のシンジはステレオ本体に手を触れなければいいと解釈しそれを守っていた。
 だが、ヘッドホンとステレオは別物だと、幼き子はこの時思う。
 子供というものは時に頑固で且つ時に柔軟に物事を判断するものだ。
 そして幼児は大きなヘッドホンを手にした。
 しかし、まだ幼くとも性質は既に顕れてきている。
 シンジはそっと耳を澄ませた。
 母親は玄関で誰かと話をしているようで、その声が聞こえる。
 今なら大丈夫だと、シンジはよっこらしょと自分の拳よりもずっと大きなハウジングをつかもうとするがもちろんその手に余る。
 両手でひとつのハウジングを持てばいいのだが、それでは母親のように自分の頭へと乗せることができない。
 う〜んと悩んだ彼は結局畳の上に転がせたヘッドホンに自分の頭を差し込むという手法を取った。
 その上で身体を起こそうとするが重いヘッドホンは頭に固定できず、スライダーでヘッドハンドを調整するということも知らないシンジは困ってしまった。
 結局幼児は寝転がったままの姿勢でヘッドホンに頭を挟むことにした。
 苦闘数分、ようやくシンジは念願のアレを自分の頭にすえることができた。
 アレがヘッドホンという名前だということも知らず、そこから流れている音が何かもわからない。
 ただ幼児は母親の真似をしたかっただけなのだ。
 畳に横になったシンジはきょとんとした表情になった。
 耳に流れ込んでくる音がいったい何なのか全然わからなかったのだ。
 母親がステレオで聴かせてくれる『ウルトラマン』や『ジャングル大帝』とは全然違う。
 歌声が聴こえないばかりでなく、メロディーらしきものも流れていない。
 意味不明の言葉や物音がするだけだ。
 シンジは一生懸命にそれが何なのか聞き取ろうとするが、英語をまるで知らない幼児には「ナンバーナイン」と幾度繰り返されても何も伝わらない。
 だが、そこに赤ん坊の泣き声が混じってくるとシンジはだんだん気持ちが悪くなってきた。
 ヘッドホンの音が怖くなってきたのだ。
 シンジは慌ててヘッドホンから頭を抜こうとしたがコードが首に引っかかってなかなか抜けない。
 その間も、ヘッドホンからは「ナンバーナイン」という声や奇声、泣き声、わけのわからない物音がどんどん流れてくる。
 やっぱり親が触ってはいけないというものを触ったからこうなったのだとシンジは思いつめた。
 蜘蛛の巣につかまった虫状態であったシンジがようやく絡まったコードから解放された時も尚、音は続いており幼児は逃げるように昼寝をしていた部屋に戻ったのだ。
 回覧板を持ってきた隣の奥様との世間話が終わってユイがステレオの部屋に帰ってきたとき、シンジの姿はなくレコードは止まった状態であった。
 したがって彼女がいなかった間に何がおきたのか、ユイが知ることはなかったのである。
 布団をかぶっていたシンジは母親が呼びにきたとき、叱られると思って何をしたかは一切口にしなかった。
 これだけならば、まだよかったのである。
 その僅か2時間後、シンジは怖さのあまり発熱した。
 それは『レボリューション9』を聴いたことがきっかけではない。
 あくまであの曲は下地を作っただけだ。
 怖い音を聴いて背筋の寒い思いをし、親に禁止されたことをして背筋の凍る思いをし、晩御飯は嫌いだったピーマンたっぷりの野菜炒めを涙を浮かべながら食べ胸の辺りがむかむかする思いをし、その上碇家では珍しい夫婦喧嘩が晩御飯中に巻き起こってしまい、シンジは母親にテレビの前へと連行されたのだ。
 夫婦喧嘩の種は些細なことである。
 午前中だけの予定で休日出勤をしたゲンドウがなかなか帰宅しなかったばかりか、同僚と一杯飲んできたことが原因だった。
 しかし、一度熱くなってしまうとユイの言葉は誰にも止められない。
 その上、もともとアルコールに弱いゲンドウが酒の勢いで口答えをしたものだから口喧嘩へと発展してしまったのだ。
 しかしながら、子供の前で両親が言い争う姿は見せられないとユイがシンジを別の部屋に移したのである。
 ここにいなさい、ここを動いちゃダメよときつい表情をして命じた母親に対して、いたずらをした罪悪感を持っていたシンジは絶対に動かないと大きく頷くしかなかった。
 そこまではよかった。
 ただテレビでも見せておけばと、何も考えずに電源だけ入れたのが拙かったのだ。
 時に午後6時59分30秒。
 おぼろげに見えてくる画面より先に「タケダ」を連呼するメロディーが聞こえてきた。
 そしてシンジは身震いをした。
 これはもしかしてあの怖い番組ではないか。
 何ヶ月か前に人形が勝手に歩いて人を殺すという話を見て、大泣きした思い出がそのオープニングタイトルの音楽で甦った。
 またあの人形が出てくるのではないか。
 シンジは逃げだそうとしたが、動くなときつく言われていたことも手伝ってすぐに次にどうすべきか判断できなかった。
 躊躇っているうちに画面では白い服の女が男を刺し殺して手についた血を見て大笑いをして幼児の背筋を凍らせた。
 もはや完全に動けなくなってしまったシンジの前で、特撮ドラマ『怪奇大作戦』の第24話『狂鬼人間』の話は進行する。
 やがて、半裸の痩せた男が刀を手に現れ人を斬ってカメラに向かって大笑いしたところで、シンジの神経は切断された。
 物音を聞きつけて駆けつけたユイは息子が発熱して倒れているのを見て驚き、夫を声高に呼ぶ。
 もう夫婦喧嘩どころではない。
 日曜だったが近所にあった市民病院に駆け込んだが普通の風邪だと注射を1本打たれ、そのままシンジはゲンドウの広い背中に背負われて自宅に戻った。
 このときの記憶はシンジにはなかった。
 ユイとゲンドウはともに夫婦喧嘩は慎むべきだという教訓と合わせてずっと記憶していくのだが、いかんせん息子が何故熱を出したのかということまで知るよしもない。
 診断されたままに風邪と思っていて、まさかかけっぱなしにしていたビートルズのレコードの1曲と適当に点けたチャンネルで放送されていた『怪奇大作戦』が発熱のきっかけだなどと実際に手を下したユイは知らない。

 そこまでの詳しい部分までは記憶が甦るわけもない。
 ただこの曲を聴いたことがある。
 それはヘッドホンで聴いたのだ。
 そして…。
 しばらく腕組みをして考えたが、それがいつで、どのように聴いたのかはどうしても思い出せない。
 しかしかなり小さい時に聴いたことがあり、しかも何かしら怖いことと直結していたような気だけはする。
 シンジはぶるっと背中を震わせた。

「風邪かなぁ…」

 さすがに幼い時の様に発熱に至りはしなかったが、身体の方はもしかすると忌まわしい出来事を記憶していたのかもしれない。
 ともあれ、14歳のシンジは『レボリューション9』を聴いて困ったなぁと苦笑した。
 このような曲も含めてビートルズの曲はすべて素晴らしいと言ってしまったのか。
 そして問題は惣流・アスカ・ラングレーもこんな曲を好きなのだろうかという一点に絞られた。
 彼女はすべてのビートルズソングが好きだと宣言したと聞いている。
 うぅ〜んと彼は腕組みをした。
 その間も奇怪な音楽、特にチェロを奏でるシンジにとっては歌として認めたくないような代物はスピーカーから流れ続けている。
 ファーストアルバムから3枚目までを聴き、それから母親のアドバイスを受けてベスト盤をじっくりと何度も聴いた彼は4枚目以降のアルバムを順番に聴いていた。
 そしてこの時たどりついたのが通称『ホワイトアルバム』と呼ばれる2枚組である。
 そのアルバムのD面、つまり2枚目の裏側の最後から2曲目が問題の『レボリューション9』だった。
 曲のタイトルと演奏時間をチェックしながら聴いていたので、この8分以上もある曲はいったい何だと半ばわくわくしていたシンジだった。
 『レボリューション』は青盤に収録されていて好きなメロディーではなかったが、そのアレンジが違うバージョンがD面の1曲目に『レボリューション1』として収録されている。
 だからシンジは『9』も『1』同様に同じメロディーラインだと思い込んでいた。
 ところがこの前衛音楽が飛び出してきたのだ。
 始末に困ったのは仕方がない。
 まあ、この曲を好きだと明言することは避けようと決めたシンジだった。

 
 
 アスカも同じ思いを抱いていた。
 あの優しげで頼りなげな碇シンジがこのような奇妙キテレツな音楽を好むとはどうしても思えない。
 しかしやはり可能性は否定できなかった。
 少女は蒼い瞳でステレオを睨みつけた。
 正直に言えばこのような気持ちの悪い曲を1秒だって聴きたくはない。
 もしボタンひとつで次の曲に飛ぶような機能がついているのならば、アスカは間違いなくそのボタンを押していたことだろう。
 だが、実際には彼女は『レボリューション9』を聴き続けている。
 まずそのようなオートマティック装置が惣流家のステレオに存在していないということが一番の理由だった。
 もちろん自力で針を上げて移動させればいいことなのだが、もしその時にレコード盤に傷をつけたならと思うと身がすくむ。
 ドイツにいる母親の所有物であるビートルズのレコードを許可もなく聴いているのだから傷など絶対につけてはならないのだ。
 そのこともあるが、心情的な理由は碇シンジの存在だった。
 彼女もシンジがビートルズシングのすべてを愛しているのだと知ってしまっていたのだ。
 情報源はまたもや青葉先生だった。

 昼休みになり職員室に用があったヒカリにアスカは同行した。
 それは友情もあるが、教室に留まっていれば愛しの彼と出逢う可能性はゼロに等しいからだ。
 だからこういう機会があると、教室から外へ出て鵜の目鷹の目とばかりにシンジの姿を追い求めた。
 残念なことに今後は二人が遭遇することはまったくないだろう。
 何故ならば今のシンジは教室から出ることがほとんどなかったからだ。
 弁当を食べ終えると、彼は机に突っ伏すのが日常となっていた。
 夜遅くまでビートルズを学習している彼は寝る前になってから宿題を思い出すという悪循環をここ2日繰り返している。
 その悪循環は何かが起こるまで変化することはない。
 シンジという少年はパターンを崩すことを嫌う。
 1年の時のように鈴原トウジと相田ケンスケに引っ張りまわされるように運動場や渡り廊下などに寸暇を惜しんで出張することは今はない。
 稀に二人か若しくはそのどちらかが昼休みにシンジを呼びに来ることはあるが、3人が連れ立って遊ぶのは放課後がほとんどなのだ。
 3人がそれぞれ別のクラスだからそれは仕方がないことである。
 何しろこの当時の中学校には生徒が溢れかえっていたのだ。
 さて、シンジがビートルズ学習のため睡眠時間が大幅に削られ昼休みに転寝をしていることなどアスカが知るよしもない。
 そのためアスカは虎視眈々として職員室に向かったのだ。
 当然、シンジと出くわすことはなかったのだが、彼の情報を得ることができた。
 そう、通りすがりの青葉先生が教えてくれたのである。

「おうっ、惣流!7組にもお前レベルのやつがいたぞ。そいつも全部好きなんだそうだ。信じられねぇ」

 最後の「信じられ」の部分を聞いて、アスカは思わず肩をびくんと震わした。
 彼の名前ではないとすぐにわかり残念に思うが、7組だからもしかすると彼かもしれないとさりげなく先生からその名前を引き出そうと考えた。

「へ、へぇ、そうなんだ。ははは、やっぱり好きな人は好きなのよ。そ、それで、ち、ちょっとだけ、興味って言うか、好奇心?うん、まあ、そんなとこでさ、つまり…ええっと、ははは…」

 質問などできっこない。
 お前は何が言いたいんだと怪訝な顔をして青葉先生が自分の席へ向かおうとした時、傍らの親友が助けてくれた。

「先生、7組って碇君ですか?」

 そのあまりにストレートな質問をすぐそばで聞いてアスカは息を呑んだ。
 彼女にひきかえ青葉先生の方は実に気軽な返事をした。
 
「おう、正解だ。しかし、碇がビートルズ好きとは知らなかったぞ。あいつはロックって雰囲気じゃねぇからな」

 アスカの眦がくぃっと上がった。
 別に青葉は彼のことをくさしたわけではない。
 明らかに軽い冗談だ。
 だが、恋する乙女にとってはその言葉は宣戦布告にも等しい。

「先生はロックって雰囲気ですもんねっ。どぉ〜して生徒は長髪禁止なのに先生は許されるのかしらっ」

 びゅんと音がするほど勢いよく頭を下げたアスカはくるりと背中を向けてのしのしと扉の方へと歩いていく。
 取り残されたヒカリは「失礼しました」と愛想笑いとお辞儀を残して友人の背中を追う。
 後に残されたのは完全に「はぁ?」状態の青葉先生。
 まさか校内一と噂される美少女がごく目立たない男子生徒に恋をしているなどと想像できるわけもなく、しかもわざわざ嫌味を言うためにお茶のお代わりに立った伊吹先生への対応でそれどころではなくなってしまった。

「本当。先生にあるまじき髪型です。ばっさり切ってくればいいのに。生徒にしめしがつかないわ」

「い、いや、これでも学生時分の1/3、いや半分くらいにしてるんですよ」

「不潔」

 弁解など聴く耳持たぬと捨て台詞を残して歩み去る、同僚教師の背中を見て青葉先生は「She's so heavy」と呟いた。
 もしその呟きが誰かに聞かれたとしても、『I Want You』という曲にひっかけた愛の言葉だとわかるわけがない。
 青葉先生もまた叶わぬ(と思い込んでいる)片思いに若き胸を熱く焦がしているのだ。
 彼女の関心を引こうとしてやっていることがすべて逆効果になってしまっていると後悔しきりの26歳であった。

 ともあれ、青葉先生を通して碇シンジがビートルズのすべての曲が好きだという情報を入手したアスカである。
 このような不気味な曲までをも彼が好きだとはどうしても思えない。
 ただ、全否定もできないので彼女は我慢をしてステレオの前で訊き続けた。
 耐える事8分、ようやく彼女の苦行は終わった。
 そして、続けてスピーカーから流れてくる歌を聴いて、彼女はほっと息をつく。
 “ホワイト・アルバム”の最後の曲、『グッド・ナイト』のメロディーはアスカを癒した。
 しばらくそのゆったりとした歌声を聞いていると、アスカはへぇっとばかりに口を開けた。

「これって、リンゴ・スターよね。何だか、珍しい」
 
 さすがにこの数日ビートルズ漬けの彼女だ。
 4人の声の聴き分けができるようになっている。
 ドラム担当のリンゴ・スターはレコードの1曲程度しか歌わないし、ベスト盤に登場するような一般的に知られている歌をほとんど歌っていないことはすでに承知していた。
 アスカ自身、彼の歌声はそれほど好きではなかったが、この曲は違った。
 あの前衛音楽の後だけに、彼のほのぼのとした声質がしっくり来たのである。
 


 それはシンジも同様だった。
 彼もまた『レボリューション9』に最後まで付き合ったのだ。
 アスカと同じく相手がこの曲を好きかも知れないと思ったわけだが、シンジの場合は少し違う。
 どうしようかどうしたらいいだろうかと悩んでいるうちに8分経過したという事になるので、彼のためにと意志を持って耐えた彼女と比較してはアスカが可哀相だろう。
 もっともその事実をアスカに伝えたとしてもだからどうなのよと突っぱねるばかりか自分のことで悩んだのだと内心喜ぶに違いない。
 ともあれ、おそらくは自分が想っている以上に意中の人から想われていることなどまったく知らない少年は次の曲がはじまって心底ほっとした。
 そしてアスカと同じ印象を持った。

「いいメロディーだなぁ。これも」

 シンジは身体の力を抜いて後ろ手をついた。
 ほっとするよと呟き、そしてそのまま畳に背中をつける。

 しばらくして母の言いつけで晩御飯だと呼びにきたレイは襖を開けてにひひと笑った。
 座布団をお腹の上に置いて仰向けになっている兄の寝姿を見たからだ。
 こういうときの幼児は容赦がない。
 座布団の上、つまりは兄の腹の上にどすんと乗っかった。
 


「うげっ!っていったの、おに〜ちゃん」

「今度やったら叩くぞ」

 兄の威厳を示そうときついことを言ったつもりだが、拗ねているようにしか見えないシンジだった。
 
「レイ、乱暴にしちゃダメよ」

「はぁ〜い!おかぁ〜さん、コロッケおいしいねっ」

 この飄々と切り抜けていく性格は間違いなく自分に似ている。
 世間では男の子が母親似で女の子は父親に似るというが、どう見ても碇家の子供たちは性格については逆のようだ。
 息子の優柔不断さが父親似だとは周りの誰もがわからないだろう。
 あの無骨に見える碇ゲンドウが実ははっきりしない性格をしていると誰が知ろう。
 決断力に乏しいというよりも、もし失敗したらどうしようと思いその一歩が踏み出せないのだ。
 キスのときも、ナニのときも、そしてプロポーズのときも、どれほど苦労したことか。
 シンジにも彼の背中を押してくれるような女の子が必要だろう。
 さてさて、今必死になってビートルズを覚えようとしている息子が想う相手のことをただひとつしかユイにはわからない。
 それはビートルズが大好きだということ。

「でもね、『グッド・ナイト』を聞きながら眠るってどれだけお子様なのかしらね」

「い、いいじゃないか。子守唄なんだしさ」

「そうね。まあ、シンジの昼寝の時に歌っていた覚えもあるけど」

「え、そうだったの?」

「そうよ。『イエスタディ』『ミッシェル』『ヒア・ゼア・アンド・エブリホェア』に『グッド・ナイト』。覚えてない?」

「えっと…。覚えてないや」

「あらそう?まあ、あなたはすぐに寝付く方だったわよね。レイとは違って」

 ユイは嫌味たらしく娘を見るが、レイは我関せずとコロッケに夢中である。

「レイの子守唄もビートルズだったの?」

「そうよ。『ゲット・バック』に『ハード・デイズ・ナイト』『ヘルプ』『マジカル・ミステリー・ツアー』それから『グッド・モーニング、グッド・モーニング』ね」

 曲名を聞いて呆れたシンジは箸を止めた。

「どれもこれも派手な歌ばっかりじゃ。それになんだよ、最後の。寝かせる気全然ないじゃないか」

「だって、どうせ寝ないんだもの。眠そうな歌を歌っていたらこっちの方が寝ちゃうからね」

 母親の言う事がもっともなような間違っているような。
 もとより母親には色々な意味で敵わないと思っている。
 勝てない者には戦いを挑まない。
 だから彼が戦うのはもっぱら妹だけであるのだが、暴力的な行動をとれないお兄ちゃんは結局妹にも負けてしまう。
 ある意味我が家で最強なのは妹かもしれない。
 母親に勝つことができるのだからと、シンジはレイを羨ましげに眺めた。
 最初は少し背伸びをしてお箸で挟んで食べようと試みるも、すぐにあきらめてコロッケにぐさりと箸を突きたててかじりつく。
 叱られてもマイペースなところは自分に少しでいいから分けてほしいものだとシンジは思った。
 
「それでも『グッド・モーニング』はないんじゃないの?目覚まし用だったらわかるけどさ」

「じゃ、ラジカセのタイマーでセットすれば?寝起きがいいかもよ」

 シンジは一瞬考えたが、あの曲で目覚めるのはあまりに騒々しいような気がする。
 基本的に寝起きの悪い彼としては叩き起こされるような目覚ましは嫌いなのだ。
 そこで彼はふと思った。
 大のビートルズファンの惣流さんはやっぱりビートルズを目覚ましに使っているのだろうか、と。





 数日前から大のビートルズファンになったばかりの惣流アスカさんは寝起きがよかったのである。
 だから目覚まし時計もことのほかエレガントなものだった。
 遊びに来たヒカリがそのことを知って目を丸くしたほどだ。
 ドイツにいた時に父親に買ってもらったオルゴールが流れる時計で彼女はいつも目を覚ましていたのである。
 8歳の誕生日に贈ってもらったもので、設定した時刻になると『エリーゼのために』が奏でられる。
 その可愛らしいメロディといささかながらもエキセントリックなアスカの取り合わせにヒカリは首をかしげたのだ。
 当然、アスカは膨れた。
 ただし、ヒカリがこんなのでは自分は起きられないと付け加えたので彼女の機嫌はすぐに直る。
 ビートルズファンになって思い出したのはこのオルゴール時計に母親が文句を言っていたことだ。
 時計屋にプレゼントを買うため両親で赴いた時に、曲目を父親が決めたからである。
 もちろん狂がつくほどのビートルズマニアの惣流キョウコは時計にはめ込むオルゴールはビートルズの歌に決まっていると主張したのだ。
 しかし、この当時は母親のビートルズ好きに嫌悪感を示していたアスカのことを考えろと夫に説得され、渋々夫の選んだ曲で納得したのであった。
 因みに説得と納得の間には取引も存在したようで、同じ時期にキョウコはビートルズの曲が流れるオルゴール時計を入手している。
 キョウコの誕生日は11月21日だから娘の誕生日に便乗したのか、とアスカに疑われたのだが、それは惣流・ハインツ・ラングレーに対する冒涜であろう。
 結婚15年を経ても彼の妻への愛情はボーデン湖よりも深いと自分で主張している。
 ただしこのドイツにある湖は水深250mほどで学習熱心なアスカによって突っ込みの対象となっている。
 アメリカのスペリオル湖は400mを越えているし、日本の田沢湖も400mクラスだ。
 アメリカ合衆国にはもっと深い湖があることをアスカは承知しているが五大湖で一番大きい湖を引き合いに出した方が戦術上有効である。
 そして、湖よりも深いのは海溝ではないか。
 ママへの愛は湖程度なのかという突っ込みにしどろもどろになってしまう父親のことがアスカは大好きだった。
 真面目を絵に描いたような男で、「スーパーマンになれないクラーク・ケント」だと友人たちにはからかわれていたらしい。
 その形容は自分の父親ながらもあまりにぴったりで、しかしながらそういう男だからこそキョウコが惚れてしまったのだろう。
 ロマンチックな愛の表現をしようとわざわざドイツで一番深いであろう湖を引き合いに出して突っ込みを入れられる。
 そんな洗練されていないところがキョウコの琴線に触れたわけだ。
 何しろ彼はビートルズよりもクラシック音楽という男で、いかに愛する女性から勧められてもどうしてもロックには馴染めなかったのである。
 だからこそ彼は愛娘がビートルズを嫌っていたことを物凄く喜んでいたわけだ。
 時には父娘がタッグを組んでビートルズマニアのキョウコに立ち向かっていたのだから。
 そんな娘がなんとビートルズ教に入信したことを彼はまだ知らない。
 海外電話などよほどの用がない限りおいそれと使うわけにはいかず、ドイツからの電話は月に一度程度のものだ。
 それも惣流夫妻が揃っている時にアスカのいる時間を見計らってというのが常だった。
 ところが惣流・ハインツ・ラングレーはその禁を犯した。
 アスカのいる時間だったのだが、夫妻は揃っていない。
 彼はこっそりと娘に電話をしてきたのだ。

「パパ、どうしたの?こんな時間に」

「この時間ならキョウコがいないから、電話をしたのです」

「ああ、そっか。じゃ会社からね」

「Ja…、あ、Sorry、ではなく、そうです、そして、ごめんなさい」

 アスカはぷっと吹き出した。
 父親は来る日本での定住生活に向けて日本語の猛特訓中なのだ。
 ある程度の日本語は喋ることができるものの日常会話レベルですらすら喋ることはまだ難しい。
 ドイツ語や英語の方が先に立ってしまうからだ。
 だからあえて娘相手でも丁寧な日本語で喋ろうとしているのである。
 もっとくだけた日本語の方がまだ喋りやすいのだが、さすがに初対面の人間にいきなりべらんめぇ調では拙いだろう。
 アスカとハインツの日本語講師がキョウコだったのが二人の悲劇だった。
 彼女は自分や父親以上に江戸っ子なまりが強い東京弁で夫や娘に日本語を教えたのだ。
 そういうわけでアスカの日本語がかなり砕けすぎの感が強いものになったのである。
 さすがに社会人のハインツはこれは違うのではないかと途中で方向性を変えたためにかなり標準語には近くなっていた。
 もちろんアスカの方もそれはわかったのだが、学生生活においてそれほどの違和感を覚えなかったので放置したままにしている。
 ただし横浜とは違い、このやや古い町では少し乱暴な言葉遣いに聞こえてしまうことを気にするようにはなったものの今更喋り言葉を直すのも面倒だと考えたわけだ。
 しかしながらその頃はまだ初恋以前のアスカだっただけに、今はこんな言葉遣いの女の子は彼に嫌われるのではないかと不安に思っているのも確かである。
 そんなアスカだったが、只今日本語修正中の父親を笑うことなど造作もない。
 自分を棚の上に上げておくことなど彼女には簡単なことなのだ。

「で、なぁに?ママに内緒で電話ってことは…。ははぁん、アタシの誕生日でしょっ!」

「正解です。大当たりですよ。ところが残念なことにアスカの誕生日までには日本に戻ることができません」

「うん、知ってるよ」

 アスカは軽く言った。
 そうすることで父親の心の重さを少しでも軽減しようというつもりなのだ。
 なかなかそう見えないことが彼女には残念至極なのだが、これくらいの心遣いくらい造作もない。
 好きな人のことを大事に考えることなど彼女には簡単なことなのだ。
 ただし、彼女の問題は好き嫌いが激しすぎる点に尽きる。
 そしてもうひとつ、考えすぎることもまた問題なのだ。

「ごめんなさい。申し訳なく思います。遺憾に存じます」

「ちょっと、パパ。最後のおかしいってば。娘相手なんだから、ごめんねとか悪いなとかそんなのでいいのよ」

「大げさでしたか? 日本語は難しい」

 かなりげんなりとした調子でハインツは呟いた。
 怒ると怖い妻が近くにいないので本音をこぼしたのだろう。
 同じフレーズを声音や調子を変えることでニュアンスを伝える言葉とは違い、日本語は選択肢が多すぎる。
 彼がげんなりしてしまうのは当然だろう。

「クリスマスは家族一緒なのだからそれでいいじゃない。アタシはプレゼントを貰えればそれで嬉しいからさ」
 
 おどけた調子でアスカは言った。
 そんな娘にハインツは思わずドイツ語で感謝と愛情を口走る。
 母親からそういう時にはきつく注意をするようにと厳命されていたアスカだったが、今回は知らぬ顔をすることに決めた。
 何故ならば気持ちが良かったからである。
 好きな人に感謝や愛情のこもった言葉を向けられれば天にも昇る気持ちになってしまうのはアスカの癖であった。
 そして切り替えが早いのも彼女の性格である。
 誕生日のプレゼントを貰うとなれば、ドイツでしか買えないであろう手作りのオルゴール時計がいい。
 そして何よりも重要なのはそのオルゴールが奏でるのは当然…。

「あのね、パパ。アタシ、プレゼントはアレがいいの。ほら、8歳のときに貰ったオルゴールの時計。覚えてる?」

「もちろんです!Beethovenの『Für Elise』です。アスカは喜んでくれました。キョウコはビートルズにするのだと言ってゆずらなかったのですが、私はがんばりました。ビートルズで目覚めるなどとんでもないことです」

 誇らしげに語る父親に対し、少し悪いなという感情を抱きながらも、もっと大きく成長している彼への愛情のために心を鬼にしてアスカは宣言した。

「あ、それなんだけど、アタシ今年もオルゴールの時計が欲しいのよ。でね…」

「おお、別の曲ですね。Schubert?それともMozartですか?あ、もしかするとWagner…」

「ビートルズがいいの」

 できるだけさらりと言ったつもりのアスカだったが、その言葉の衝撃は海を越え山を越え国境を越えてドイツへと即座に伝わった。
 その衝撃の大きさは無音の受話器で判断できる。
 アスカは予想はしていたものの父親の反応、いや無反応となってしまった父親の様子にかなり慌ててしまった。

「ぱ、パパ?あ、あのね、えっと、もしもし?」

 これは拙いことになったとアスカは冷や汗をかいた。
 ある程度のショックは受けるものと予期していたが、ここまでのレベルであるとは考えもしなかったのだ。

「あ、はははは、だ、駄目だったら駄目でいいよ、うん。ええっと、そうね、ジャンパーとか、マフラーとか、パパのセンスで選んでくれたらアタシ…」

「わかりました。アスカはビートルズが好きになってしまったのですね」

「はい」

 答えてしまってからアスカは返事をして良かったのかと不安になった。
 あまりにストレートな質問だったので、素直に返答してしまったのだ。
 しかも父親の声音が感情を押し殺していたように感じた。
 怒ってる?悲しんでる?ごめん、パパ!

「私はビートルズのことはわかりませんから、キョウコにお願いすることにしましょう。それとも、アスカに歌の希望がありますか?」

「あ、ありません。ママにお願いします」

 まるで日本語教室か何かの問答のようだ。
 日本の英語の教科書の例文があまりに珍妙でしかも直訳しているのをアスカは馬鹿馬鹿しく思っていたのだが、今はもう笑えない。

「パパ?」

「大丈夫ですよ、アスカ。私はショックなど受けていません。全然大丈夫です。ははははは」

 快活に笑おうとしているのだが乾いた調子にしか聞こえない。
 これが日本人ならば「惣流・ハインツ・ラングレーは男でござる!」と見得でも切ろうかというところだが、残念ながらハインツはそこまで芝居気はなかった。
 
「ごめんなさい、パパ」

「いいのです。きっとキョウコは大喜びすることでしょう」

 言葉の裏には私は悲しんでいるという意味があることは誰にでもわかるであろう。
 落ち込んでいる時の父親に母親はぶちゅっとキスをして「しっかりしなさい!私のお馬鹿さん!」と叱咤していた。
 しかし今は電話で肉体的には遥か離れた場所にいる上に、母親と同じことをすれば間違いなく彼女による折檻が待っているだろう。
 母親が嫉妬深いのはよく承知しているアスカだった。
 
「パパ?あのね、今、キスを送るからね」

 受話器のすぐ横にアスカは右手の甲をもっていき、そしてその部分に唇を強く押し付けた。
 できるだけ大きな音がするようにと気をつけながら、彼女は手の甲を大きく離す。
 ちゅばっという音がドイツへと飛び込んでいった。
 アスカは急いで父親に話しかけた。

「えっとね、今送ったから、たぶんあと1時間くらいで届くと思うわ。今日のランチは何か決めてる?」

「いや、特に…」

「じゃ、パスタでも食べたら?ほら、オフィスの近くにおいしい店あるでしょ。アタシ、そのお店のカルボナーラの中にキスを放り込んだから。パパはそれを食べてよ」

 アスカは一気に喋ってから、どきどきしながら父親の返事を待った。
 1秒が何分にも感じられたが、ハインツはすぐに言葉を返してきた。

「それは困りましたね。あそこのカルボナーラを私は全部食べないといけない」

「え、どうして?」

「可愛いアスカのキスを他の誰かに食べられたら大変ですからね。胃袋が破裂してしまうかもしれません」

 アスカはぷっと吹き出した。

「大丈夫!パパのお皿にいくようにちゃぁ〜んと願いを込めてるからっ」

「それは助かる。では、私も」

 明るい調子で言った父親の言葉に続いて、大きな湿った音がアスカの耳に飛び込んできた。
 おそらく彼は受話器に直接キスをしたのだろう。
 アスカはくすくすと笑って言った。

「今日はもう晩御飯が終わってるから、明日の午後6時くらいにうちの台所に届くようにしてよね。カルボナーラのお鍋にちゃんと飛び込むようにお願いよ」

「任しておきなさい。ああ、できるだけアスカ一人で頼みますよ」

「もちろん、おじいちゃんはパパのキスなんて欲しいわけないもん。もうっ!変なこと想像させないでよ!気持ち悪い」

 今度の父の笑い声は明るいものだった。
 しばらく健康のことなどの会話をした後で、ハインツは電話を切る。
 アスカは安堵の溜息を漏らして、傍らで本を読んでいるトモロヲを見た。
 聞かれて困ることを喋っていたのではないので祖父にあっちに行けとも要求しなかったのだが、トモロヲはまったく素知らぬ顔で読書の秋としゃれ込んでいたのだ。

「ということで、明日はパスタよ。日本で作るのは初めてね。ソースはカルボナーラ」

「わしは普通のミートソースでいいんじゃがの」

「いいの。カルボナーラにするの」

「ほう、ということは、アスカはカルボナーラを作ることができるというわけじゃな」

「へっ?缶詰とか瓶詰とかないの?駅前のスーパーまで足伸ばしたらあるんじゃない?」

「ないな」

 トモロヲはきっぱりと言った。
 彼は日本ではパスタとは言わずにスパゲティと呼称し、ナポリタンとかイタリアンという名前で食べられていると説明する。
 そんなことは知っていると嘘を半分混ぜたアスカはそれでも日本では独自の食文化になっていることだけは承知していた。
 赤い色をしたウィンナーソーセージが普通に売られていたり、ドイツでは当たり前の白ソーセージがスーパーマーケットの食肉コーナーのどこにも見られないことにはびっくりしたが、ドイツでのパスタソースが日本ではほとんど売られていないことには気づいていなかったのである。
 ミートソースと名付けられたボロネーゼのようなパスタソースがスパゲティ用として缶詰で売られていることは承知しており何度か食べたことはあるが、他のパスタソースをわざわざ探そうとは思っていなかったのだ。
 それは郷に入れば郷に従えという母の教えを守っていたからということもあり、またトモロヲが麺類だけはうどんやそばを好んでいたからだった。
 つまり滅多に惣流家ではスパゲティを食べていなかったからアスカが日本人が一般的に知っている以外のパスタソースが普通の店では売られていないことを知らなかったのである。 
 料理の本で研究しながらでしか明日の夜までにカルボナーラソースを準備できないと知ったアスカはぎこちなく笑った。

「だ、大丈夫!アタシは天才だから、それくらい簡単に作れるわっ」

「うむ、そうじゃろうて。ああ、材料を買いに行ったついでに、ミートソースの缶詰を買っておいてくれ。一人分でいいぞ」

 アスカは恨めしげに祖父を睨みつけると、とりあえず二人分の缶詰を買っておこうと決めていた。
 もしカルボナーラソースづくりに失敗しても優しい父のことだからミートソースの缶詰にキスを届けてくれることだろう。



 その頃、碇家では帰宅した碇ゲンドウが玄関で立ち尽くしていた。
 背が高く無愛想この上ない男だが、子供たちにとってはただの父親である。
 シンジでさえ幼稚園くらいまでは帰宅した父親に「おかえりなさい」とよく飛びついて歓迎したものだ。
 リアルタイムの幼稚園児であるレイもやはり父親にじゃれ付くのが常だった。
 髭もじゃの頬に顔を摺り寄せて「おかえりなさい」と言われれば、身内以外の誰にもわからないが思い切り相好を崩してしまうゲンドウだった。
 だが、今日の彼は戸惑っている。
 娘に飛びつかれたところまではいつもと同じだったが、耳元で囁かれたのは「おかえりなさい」ではなかったのだ。

「なんばーないん、なんばーないん、なんばーないん。ぐふふ、なんばーないん」

 ビートルズの大ファンを妻にしているだけに、レイの言葉の意味はすぐにわかった。
 彼にはまったく理解ができないビートルズの不可解な曲に違いない。
 ゲンドウは石原裕次郎や小林旭の歌のほうが好みなのである。
 しかし、なぜ娘が「なんばーないん」なのだ。

「ごめんなさいね、あなた。レイったらすっかりあの曲にはまっちゃって」

「うむ、そうか。今、帰ったぞ」

「おかえりなさい」

 改めて帰宅の挨拶からはじめてしまうのはいかにも碇ゲンドウらしい行動である。
 そのあたりの性格も可愛らしくてたまらないという常人とはかけ離れた感性をしているユイはごく当たり前に受け答えをした。
 その間でもゲンドウの首にしがみついているレイは「なんばーないん」を繰り返している。
 
「くくく、へんなの。なんばーないん、なんばーないん」

「大丈夫なのか、レイは」

「たぶんね。発作的革命症って感じかしら」

「なんだそれは」

「将来大物になりそうよ、うちのレイは」

 その時、ユイの隣に立っていたシンジが口を開いた。

「ただ変なだけだよ、レイが」

「うむ、問題ない」

「もんだいないない、なんばーないん。くくくっ」

「腹が減った。おかずはなんだ」

「ころころころっけ。なんばーないん」

 すっかり『レボリューション9』がお気に入りになったレイはその後も「なんばーないん」のフレーズを繰り返した。
 もちろん幼稚園では彼女の正体不明の言葉が理解されるわけもなく、最初はみんなに怪訝な顔をされたがそこは幼児である。
 面白いものに対する反応は素早い。
 「なんばーないん」はあっという間に市立春日幼稚園の流行語となって、「なんばーわん」「なんばーふぉお〜」や「なんばーえいてぃ」までパターンは広がった。
 園児たちの謎の流行語を聞いた先生や父兄たちにはその起源がビートルズであることをただ一人以外わかるわけもなかった。
 しばらくして参観日に幼稚園にやってきた碇ユイは「なんばーないん」のバリエーションを聞いてすぐにそれを察し笑いを堪えるのに一生懸命になり、周囲の者から身体の調子が悪いのかと心配されたことを付け加えておこう。
 
 因みにレイとは違って、シンジは、そしてアスカも『レボリューション9』にはついに馴染めなかった。
 ビートルズのすべての曲を聴いたあとでもあの歌だけはどうしても好きになれなかったのである。
 他にも好きになれなかった歌は何曲かそれぞれにあり、そしてこの曲が大好きだというものもけっこうな数ができた。
 こうして二人はビートルズの基礎をとりあえず習得したのだが、短期集中コースであったことは事実だ。
 そのことが後に大きな問題となるのだが、今の二人にはそのような将来の姿など見えるわけもない。
 しかし、その問題の前にアスカとシンジには素晴らしい日々が待っている。
 その日々を持ってきたのは青葉先生だった。
 ビートルズ熱が急速に上がった彼が考えついたことが二人の距離を一気に縮めたのだ。
 もっともそれは会話をするようになるというレベルなのだが、その話は次回にまわすことにしよう。
 最後に二人ともカセットテープに録音した『グッド・ナイト』を聴いて床に就く習慣ができたことを付け加えておこう。
 
 


33回転上のふたり


A面 4曲目

 Revolution 9 

ー Good Night ー



 2010.12.04        ジュン


− 5曲目へ続く −


 


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第4回目のためのあとがき

第4回を掲載いたしました。
う〜ん、やっぱり長い(笑)。

今日(掲載日)はせっかくのアスカの誕生日。
ですが、誕生日ネタの話では…。
あ、誕生日のエピソードには軽く触れていますけど、それじゃもの足りませんよね。
本当に申し訳ございません。
ですが、この話を完結させるまでは寄り道をしないつもりです。

『レボリューション9』については私は全然受け付けられませんでした。
ですが、レコードで聴いていると次の曲に飛ばせないのですよね。
だってレコード盤に傷つけそうだもの。
因みに大学になってからアルバイトで買ったレコードプレーヤーは自動曲飛ばしスイッチがついていたのですが、
ホワイトアルバムは曲間が短いので検知してくれないんですよね。
ということでそのボタンを押すと針は最後まで進んでそして定位置まで戻ってしまうのです。
つまり役にたたなかったってことですね(笑)。
次回は当初予定から曲名が変わってしまいました。

さあ、みんな、ごいっしょに!

ジュン

 

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