今のは、夢……?
 呆然と周りを見渡したけど、僕以外誰一人として乗客のいない車内の光景は、乗り込んだときと変わらないように思える。ということは、夢、だよね。でも随分とハッキリした夢だし、夢のはじまりと終わりが実際の自分の状況とピッタリだって変な気もする。それに夢にしてはしっかり会話していたよなぁ。だいたい顔も見たことのない人とずっと話をするなんて夢を見る?じゃ、夢じゃないのかも。
 きっと、疲れてるんだ。いつもと違うエントリープラグに結局1時間以上入れられてたんだし、終わったら終わったで電話の向こうでアスカがわぁわぁ騒ぐからシャワーも適当にしてジオフロントを飛び出してきたんだもん。あの長いエレベーターだって、あんなに駆け上がったんだから…半分くらいで息が切れてやめちゃったけど。それで眠っちゃったんだ。うん、きっと、そうだ。それで僕が眠っちゃったから、そっと降りちゃったのかも。
 だけど、まだはっきりレシピは覚えてるよ。へへ、ちょっとメモしとこう。ええっと、用意するのは、じゃがいもと…。


じゃがいも娘

 


 

2007.10.31         ジュン





「ただいまぁ」

 僕は大声でそう言って、そしてよいしょとばかりにスーパーの袋を持ち直しリビングへと向った。
 帰ってきたと挨拶をしたものの、家の中には誰もいないことを僕は承知していたんだ。だからこんなに明るく「ただいま」が言えるのかもしれない。自分でもわかってる。こんなに気分が高ぶってるのは、いよいよあの計画を実行に移すことができるからだ。
 いつものスーパーで食材は全部買った。するとレジのおばさんに「今日はインスタントじゃないんだね、感心、感心」って言われちゃった。ということはこれまでインスタントや出来合いのものばかり買っていたって、ちゃんと見られてたって事だよね。その時は凄く恥ずかしかったけど、思わず「はい!」って返事しちゃった。どういう意味の「はい」なのか自分でもよくわかってない。とにかくもうあの店でインスタント食品は買えないよ。少なくともあのおばさんがレジにいる時はね。
 さあ、がんばるぞ!

 2時間後、まるで最後の審判だ。あ、最後の審判がどういうのかってよくわからないけど、まあそんな感じなんだ。作っている時に何度も試食したけど、不味くはなかったと思う。出来合いのと同じくらいとまでは思えないけど、初めて作ったにしては良いんじゃないかって。でも、審判するのは僕じゃないし。
 帰ってきて早々に「お腹すいた!」と玄関からずんずん入ってきたアスカは、テーブルの上に用意されている料理を見て何秒か黙り込んだんだ。じっと大皿を見つめているその姿を見て、僕は「おかえり」とも言えずにただじっと突っ立っていた。
 そしてアスカはお皿の料理を指さしてこう言ったんだ。

「アンタっ、これっ、どこで買ってきたのよっ!」

 うわぁ!そう来たか!
 確かにそうだよね。これまで全員の家事当番を押し付けられてきた僕は、ご飯以外は全部インスタントか出来合いのものばっかりだったんだもん。今日の料理だってどこかで買ってきたって思うのが当然だよ。
 でも、ここは逃げちゃ駄目だ。一生懸命作ったんだから。それに嬉しい。インスタントじゃなくて、出来合いのものだと思ったんだよね。少なくとも見た目は買ってきたものにアスカの目には見えたんだから。へへへ、褒め言葉であることには違いない。

「僕がつくったんだよ、これっ。初めて作ったんだ。ほら、これまでインスタントとかばっかりだったから」

 自分でもびっくりした。こんなにすらすら、それに明るい調子で言ったんだから。
 ほら、アスカもびっくりしてるよ。目を丸くして、僕を見てる。

「あ、アンタが?嘘。これまで…」

「嘘じゃないってば。本当だよ。で、でもさ、初めてだから味は保証しないけど」

 謙遜してやった。
 まあ、本音でもあるんだ。だって、アスカはドイツで育ってるんだから、点数は辛いに決まってるもん。

「そ、そうなんだ。へぇ、初めて、なんだ。ふぅん」

 アスカは突っ立ったまま、しげしげと料理を見ている。いつもの仁王立ちじゃないところが、何となくアスカらしくないや。

「カントリー風ジャーマンポテトブレックファースト、だよね。
 あ、ブレックファーストって朝食だけど、いいよね。晩御飯に食べても」

「Bauernfruehstueck」

「ばう…ふりゅ…く?」

「馬鹿シンジ。バウエルン・フリューシュトゥック。農夫の朝食。英語で言われてもピンと来ないわよ。ふんっ」

 いつもなら「ふんっ」が出たところで、アスカはそっぽを向いて僕に横顔を見せるんだけど今日は前を向いたままだ。あ、僕を見てるんじゃなくて、料理を見てるわけだけど。

「そうなんだ。えっと、食べてくれないの?」

 ああ、駄目だなぁ。どうしてこう下手に出てしまうんだろう?こんな態度ではいけないとは思ってるんだけど、やっぱりおどおどとしてしまう。アスカがいらいらする気持ちはわからないではないんだ。僕がこんなのだから。
 でも、今日は違った。

「食べるわよ!食べるに決まってんじゃないっ!」

 アスカは椅子を引いた。あわわわ、順番が違うよ。

「手!アスカ、手を洗ってこないと!」

「命令すんな、馬鹿シンジ!行ってくる!」

 まったく、素直にできないんだろうか。どたばたと洗面所に向うアスカの背中を見送って、僕は慌てて準備に入った。ご飯とスープの準備だ。ポタージュスープはインスタントだけどね。

 何と、アスカは「いただきます」と言ってくれた。珍しいよ、こんなの。何も言わずに食べ始めるのが普通だから。
 これが魔法の効果なのかなぁ?夢に出てきた女の人が言ってたっけ。この料理を食べると魔法をかけられるって。それくらい、ドイツの人には喜ばれる料理だって。
 その後しばらくは、アスカは何も喋らなかった。何も言わずに、ただ料理を食べ続けたんだ。僕もアスカのことは気になるけど、ぼけっと彼女を見ていたら怒られちゃうから、やっぱり黙って食べることにしたんだ。うん、僕の舌では美味しく感じる。まあ、自己採点だから甘いんだろうけど。
 食べ始めてしばらくすると、アスカがふっと立ち上がって冷蔵庫の方に向った。そしてそこから持ってきたのは、トマトケチャップ。ああ、なるほどケチャップをつけたら美味しいのかもしれないと思っていたら、アスカはケチャップをいきなり大皿の上に持ってきた。えっ、小皿につけるんじゃないの?って思う間もなく、アスカはケチャップでラインを引いた。そして、乱暴な口調でこう言ったんだ。

「この線をアスカラインと命名するからねっ。これは難攻不落にして絶対強固な防御線!ここから中に入ってきたら許さないからっ」

「えっ、こ、こんなの酷いよ」

 そのアスカラインとやらは、大皿のこちら側、つまり僕の方に非常に接近している。いや、この場合接近とはいえない。具体的な例で言うと、イベリア半島だ。この前社会で習ったからすぐにそこを連想できた。あのイベリア半島にある二つの国、スペインとポルトガルの配分によく似ている。当然、アスカがスペインだ。ああ、何ならアスカがドイツで、僕がルクセンブルクでもいい。とにかくそんな感じで僕はアスカに国境線を引かれてしまったんだ。

「うっさいわね。アンタの作ったのが…、じゃなくて、お腹が空いてんのっ!こんだけアンタに与えてあげてんだから喜びなさいよっ!何ならそれも取り上げるわよっ!」

 多分、料理が不味くなかったんだと思う。でも、今日のメインディッシュはこれなんだ。というか、これ以外は、ご飯とスープしかないんだもん。さすがに僕としてもここは文句を言いたくなっても仕方ないだろ。

「ぼ、僕が作ったんじゃないか。せめてもう少し」

「はんっ!却下っ!どうしても食べたいんなら、トンネルでも掘ることね」

「ええっ」

 アスカはニコニコしてそんなことを言う。確かにお皿から7〜8cmくらいは盛り上がってるから僕の領地からトンネルを掘ろうと思ったら掘れそうな気も…。

「まあ、不味くないから、食べてやってんのよ。ちょっとは懐かしいしさ。ねぇ、馬鹿シンジ?」

 唐突に質問がやってきた。
 僕は慎重にトンネルを掘り始めたところなので、アスカの顔を見ずに返事する。

「何?」

「アンタが見たレシピって本?テレビ?何かを参考にしたんでしょ?いきなり日本人がこんなの作るわけないもんね」

 一気に喋ると、アスカは大きなスプーンとフォークでごっそりと小皿へと料理を運び出す。その振動でトンネルの掘削現場が揺らいで、崩れた。崩れた拍子にアスカラインがちょっと僕側に移動してくる。

「うわっ!揺らさないでよ!え?レシピ?あ、う、うん。テレビでチラッと」

 僕は嘘を吐いた。
 僕の癖にすらっと嘘が出てきたのは、既に用意されていた嘘だから。アスカには教えてもらったことを黙ってるって、あの人と約束したんだもん。

「ふぅ〜ん、テレビねぇ。まっ、日本のテレビもくだらないもんばっかりだけじゃないってことか」

 そのくだらないものをけらけら笑いながら見ているのは誰だっけ?
 僕はそう言いたかったけど、そんなことを言うと間違いなく大皿の上に大地震が起きてしまう。そうなればアスカラインはあっという間に崩れてきて、僕の領地なんて欠片もなくなってしまう。だから、僕は口をつぐんでおいた。英断だと自分を褒めたい。
 薄切りのポテトを一枚一枚箸で摘んで口の中へ放り込む。時々混じっているベーコンと玉ねぎも美味しいや。僕は決めた。この料理を時々作ろうと。多分アスカも反対しないだろう。

「でも、そのテレビ、不思議よねぇ。どうして卵入れなかったんだろ」

「卵っ!わっ!」

 驚いた拍子に少し掘り進んだトンネルが崩壊した。またアスカラインが1cmほどずるっと滑ってくる。

「ふふん。初号機は無器用みたいねっ。アタシの弐号機ならもっと上手にトンネルなんか掘れるわ。で、卵がどうしたのよ」

「忘れてた…」

「ははっ、やっぱりね。バウエルン・フリューシュトゥックは溶き卵でとじるのよ。馬鹿シンジ、覚え損ねたのねっ」

「えっ、そうなの?溶き卵だったの?ゆで卵じゃなくて」

「へっ?ゆで…卵?アイアーベッヒャーに置いてアイアーエフナーで殻取って食べる、あのゲコッホテス・アイ?」

「うん。ごめん。ゆで卵を作ってエッグスタンドに置いて、一緒に出さないといけなかったのに、すっかり忘れてた」

 アスカの言ってるドイツ語はわけがわからなかったけど、話の流れから行くとゆで卵のことに違いないよね。
 本当にうっかりしてた。あの時、メモに書いてなかったんだ。この料理と一緒にゆで卵も必要だって、あの女の人は確かにそう言ってたのに…。

「アンタ、ホントにテレビで見たの?」

「見たよ、見た。でもざっと見ただけだから、溶き卵とゆで卵を間違えたのかも…」

 また、嘘を吐いた。
 今度のは嘘を上塗りするためのとっさの嘘。テレビで見たって言っちゃってるんだから、とじ卵でないといけないのかもしれない。はっきり言って、混乱してきた。
 でも、アスカはそんな僕に向かって、なんと、微笑んだんだ。本当だよ。おまけに、優しく、微笑んだんだ。あの邪悪な笑いでも高笑いでも悪戯っぽく笑うのでも冷笑でもない。間違いなく、物凄く優しげに僕に向かって微笑んだんだ。
 当然、僕は凍っちゃった。愛想笑いも何もできたもんじゃない。で、その時、僕が何を考えていたのかって?
 正直に言うよ。
 綺麗だって、思ったんだよ!
 あんなの反則だよ。
 僕は思った。
 燃え滾る溶岩の中に後先考えずに飛び込んでいって、本当によかったって。
 ありがとうも何も言ってもらえなかったけど、そんなのもうどうでもいいや。こんなの見ちゃったんだから…。
 とりあえず、僕は決めた。使徒でも溶岩でも何でも来いって思ったけど、いつ来るかわからないから、まず料理だ。もうインスタントなんか作らないぞ。ドイツの人が喜んで食べるものをがんばって作るんだ。まず、本を買わないと駄目だけど、ショッピングセンターのあの大きな本屋さんならきっとあるよね。よし、明後日の土曜日に買いに行こう!
 
「アタシ、ゆで卵でいいわ。そっちの方が好きだから」

「え、そうなの?」

「うんっ。バウエルン・フリューシュトゥックは家ごとにちょっと違うのよ。アタシのとこは卵でとじないの…っていうか、最初はとじてたんだけどアタシがわがまま言っちゃったのよ」

 今日は驚きの連続だ。
 アスカは確かによく喋るほうだけど、こんなに楽しそうに、凄い勢いで話すなんて。いや、それよりもよくかんがえたら、アスカのプライベートなことなんてほとんど聞いたことがなかったんだよ。ドイツ人の血が3/4でクォーター(初めてこんな言葉を知ったんだ。とほほ)ってことと、お母さんがドイツにいて時々電話がかかってくることくらい?ああ、14歳で大学を卒業してるんだっけ。確かに中学生程度の勉強なんて馬鹿らしいって感じだけどね。あ、でも国語と社会はやっぱり苦労してるみたいだ。だってその授業時間はいねむりしてることがないんだもん。まあ、その程度。ミサトさんに聞いたらいろいろと教えてくれそうだけど、どうも僕はそういう質問ができない。元々他人のことに興味が持てない性格みたいだし、アスカのことは…。アスカのことは興味がないといえば嘘になるけど、それでもやっぱりあれこれ詮索したくない。どうしてかっていうと、多分こうだと思う。もし僕がそんな事をしているのをアスカに知られて、怒られたり、絶交だ何てことになったら大変だから。
 これって変だよね。
 アスカがもしこの家から出て行ったら、食事とかお風呂とかそういう手間が減るんだから僕は楽になるのに。でも、僕はそれを望んでいない。
 アスカにここにいて欲しいんだ。
 誰か一緒にいて欲しいから?それともアスカにいて欲しいから?
 結論はまだ出していない。
 僕の悩みはともかくとして、とにかく今日のアスカは機嫌よく喋り続けている。しかも自分のことばかり。その話を僕はトンネルを掘りながら謹聴している。

「アタシはね、ゲコッホテス・アイをアイアーベッヒャーに置いてスプーンを使って食べるのが大好きでね、それこそ朝昼晩と食べてもいいくらいな感じだったのよ。するとね、ママったら卵は一日一個だって言うのよっ」

「ええっと、それは正しいような…」

 僕は掘削したじゃがいもを口に放り込んで言った。

「アンタ、アタシに逆らうってのっ?まあ、いいわ。とにかく、ママが卵は一個って決めたの。で、アタシはそれならって、大好物だったゲコッホテス・アイをその一個にすることにしたのよ。それが我が家のバウエルン・フリューシュトゥックに卵がない訳。わかるぅ?」

「ごめん、つまり、ゲコ何とかっていうのがゆで卵なんだよね」

 顔も上げずに確認した僕だったけど、返事が戻ってこなかったので、どうしてかなとトンネル工事現場から視線を移した。するとバウエル何とか山の向こうには、唇を尖らせたアスカの顔が見えたんだ。

「馬鹿シンジっ。アンタ、もっとちゃんと私の話を聞きなさいよっ!」

「だって、アスカがアスカラインなんて作るからじゃないか。だから僕、一生懸命にトンネル工事して…」

「ああああああっ、うっさい!何がアスカラインよ。馬鹿らしい!」

 自分で決めたくせにまったく何なんだろう。アスカは腹立たしそうに言うと、椅子から腰を上げた。機嫌を悪くして食事をやめるの?息を呑んで見ていると、僕は呆気に取られてしまった。

「こうすればいいんじゃない。はんっ!」

 アスカが大皿をぐるりと180度回した。あらら、僕の領地はあっという間に広大なものになっちゃった。って、これまで一生懸命にトンネル掘りをしてきたのはなんだったんだろう。

「はい、これでアスカラインはおしまい」

「えっ、そうなの?」

「バッカらしいっ。何を子供みたいな事してんのよ。ほら、さっさと食べないと、アタシが全部食べちゃうわよ」

 たっぷり4人分の大皿を前にアスカはさらりと言ってのけた。もしアスカが食べてくれなかったらどうしようかと、料理を作りながら思ったもんだ。

「全部、食べれるの?」

「はんっ!アタシに喧嘩売ってるわけぇ?こんなのわけないわよ!って、アンタ、アタシを豚にさせる気ぃ?」

「はい?」

 確かにアスカはハイテンションなことが多いけど、今日のは物凄いや。くるくる回るって感じ。その速度に僕はついていけないよ。

「さっさとアンタも食べなさいよっ。あっ!」

 今度は何?
 アスカは眉間に皺を寄せた。

「初めて作った料理だからって、このアタシにお皿によそえってとぉっ?うわっ、信じらんない!アンタ、何様ぁ?」

 ごめんなさい。もう追跡不可能です。

「こ、今回だけよ!はんっ!こんな脅迫するヤツだったなんてねぇっ!ほら!さっさと、お皿寄こしなさいよ!アンタ馬鹿ぁ?」

 はい、いかにも僕は馬鹿のようにアスカにお皿を突き出した。黙ってにゅって感じで突き出したのに、アスカは全然怒らないで受け取ってくれたんだ。それからぶつぶつ言いながら、じゃがいもやらベーコンをお皿に乗せてくれた。しかも大盛り。おまけにこうも聞いてくれた。

「ケチャップはっ?つけるのつけないの、どっちっ?」

「えっと、そうだなぁ…って、もう出してるじゃないかっ!」

 答えようと少し悩んでいるうちに、アスカは大盛りのじゃがいもの山にどっぷりとケチャップをかけた。

「悪いっ?アタシはケチャップつけるのが、好・き、なの!アンタもそれで食べなさいってっ!」

「う、うん。ありがとう」

 お皿を受け取ったら、指先にちょっとケチャップが付いちゃった。その指先を舌でぺろりと舐めてると、目の前のアスカも同じように指を舐めていた。まるでユニゾンみたいだ。僕を見返したアスカはぷぅっと頬を赤くして…変なところを見られたからだろうね…それからお約束のように怒鳴った。

「ほらっ!さっさと食べなさいよ!食べないと全部食べちゃうわよっ!」

「わ、わかったよ」

 ケチャップつきの農夫の朝食は美味しかった。ああ、そういえば、あの女の人の娘さんもケチャップを付けるって言ってたっけ。ゆで卵を作るのだけじゃなくて、ケチャップをテーブルに載せておくのも忘れてたよ。しっかりメモしてたつもりだったのになぁ。まあ、メインの料理のレシピじゃなくて、あの人の娘さんの好みって話だったから、それで忘れたんだと思う。娘さんって、確か5歳って言ってたっけ。そういや、あの人って、母さんの死んだ時くらいの年齢かなぁ。外国の人って年齢がよくわからないけど。アスカがそうだもんなぁ。同い年に見えないときもあるし、凄く子供のような…ってことは少ないか。何たって大学を卒業してるんだもんなぁ。僕たちのことなんか本当に子供っぽく見えるんだと思う。だからすぐに馬鹿だ馬鹿だって言ったり、加持さんのことがいいだなんて…。どうせ僕なんて子供だよ。

 満腹だ。
 いや、胃袋も心の方も。だって、信じられないよ。アスカが、あのアスカが、後片付けを手伝ってくれたんだよ。
 結局、4人分の農夫の朝食を二人がかりで全部食べちゃって、アスカに毒づかれた。豚になる、考えて作れ、もっと食べろ、身体も鍛えて大きくなれ、その他諸々。どんどん料理から離れていったんだけど、それはそれで、何ていうんだろ、うん、まあ楽しかったかな?で、嫌だったんだけど、後片付けをしなくちゃってやる気を振り絞って大皿を手に洗い場へ向ったんだ。すると後に気配を感じて振り返ったら、アスカがいた。手に小皿を一枚ずつ持って。で、持ってきてくれただけかと思ったら、さっさとスポンジを手にしてお皿を洗いだしたんだ。びっくりしてる僕にアスカはこう言ったんだ。『洗い物はアタシがしとくから、アンタはコーヒーをよろしく!』って。
 僕は、よろしくした。そりゃあ、がんばって奮励努力…であってるよね…したよ。インスタントのコーヒーだけど、それはそれは丁寧に作ったつもりだ。アスカの好みの砂糖とミルクの量にして。まあ、毎日のことだから間違えようがないんだけど。
 アスカの洗い物は徹底してた。よく考えたら、アスカが洗い物をしたのってはじめて見たわけなんだ。僕なら洗い終わった食器を水切りスタンドに置いておく、つまり自然乾燥させるだけなんだけど、アスカはそこに置いた食器を布巾で拭いて食器棚に全部仕舞ったんだ。きゅっきゅって、何だか胸が締め付けられるような懐かしい音を僕に届けながら。たぶん、小さい時に母さんがあんな感じで後片付けをしていたんだと思う。すぐに母さんがいなくなってしまうなんて、僕は考えもしなくて、絵本かテレビかなんかを見ながら、母さんがそこにいることに安心していたのかな?
 いいなぁ、アスカにはお母さんがドイツにいるんだよね。時々ドイツから国際電話がかかってくるもん。いきなり外国語で喋られたら大慌てしちゃうけど、最近は少し慣れたかな?まあ、それでもやっぱり慌てふためくか。僕だもん。
 コーヒーを飲みながら、僕たちの会話は弾んだ。なんと、お代わりはアスカが淹れてくれたんだ。で、びっくりしたことには、アスカは僕の好みの砂糖の量とかを知ってた。本当に驚いてしまったよ。アスカがそんなことを覚えてたと言うか、見ていたなんて。
 どうしてだろ?
 わかった。それだけ頭がいいんだ。だって大学まで出てるんだもんね。そうか、そういうことか。うん、納得した。
 この時のお喋りは本当に楽しかったなぁ。
 さっきの料理の話から家事の話題になって。アスカの洗い物にびっくりしたって口を滑らしたら、それはもう火を噴くかのように怒り出したんだ。といってもそれは逃げ出したくなるような怒り方じゃなくて、何だか楽しくなるような感じで。巧く言えないけどとにかくそんな感じだったんだ。アスカが言うには、家事はできないわけじゃない。する気がしなかっただけなんだって。どうしてかって質問したら、僕が悪いんだってさ。当然、僕は身に覚えのないことに不服を訴える。するとアスカは同居しはじめた頃の話を持ち出してきたんだ。
家事を3人で当番制にしようって決めたんだけど、早速ミサトさんが今日は駄目って言ってきた時の事。その時のことなら覚えている。ミサトさんは仕事をしているんだし、仕方ないもんね。だから僕は気軽にいいですよって答えただけだ。
 その翌日、今度はアスカが放課後になって言ってきたんだ。今日は洞木さんのところに行く用事があるから家事は無理だって。その時は僕も(ちょっと不満だったけど)納得して晩御飯の用意をした。でも、それはその日だけじゃなかったんだ。次の当番の日も用事があるから駄目だって。その次の日も、またその次も。2週間位したら、もう用事がどうのこうのって言わずにただ僕を睨みつけるだけで終わってしまったんだ。
 アスカは僕がミサトに甘いからお仕置きしたのだと平然として言うんだ。もちろん、僕は反論した。ミサトさんは忙しいんだし、大人なんだし、僕たちは学生で暇なんだから、家事をしてもおかしくないと。するとアスカはあっさりと言ってのけた。

「バッカみたいっ。そんなの家事が下手っぴいだから逃げただけじゃない。アンタ、そんなこともわかんないの?」

 ええっと、わかってます。わかってるんだけど、口にしていい事と悪いことがあって…。そんなことを思いながら何を言おうか戸惑っていると、アスカが吼えた。

「ああっ!もしかして、アンタ、アタシも家事ができないと思ってっ!この馬鹿シンジ!アンタ、そんなこと思ってたのねっ!」

 うう…。実はそう思ってた。家事ができないものだから、ミサトさんを見習って僕に押し付けていたんだと。
 でも、そうではなさそうだ。だって今の洗い物の手際の良さを見ていたら、僕なんかよりもずっと家事ができるような気がしたんだ。

「あのねっ!言っちゃなんだけど、アンタ、お風呂の排水溝の掃除、したことある?」

「え?」

 随分と間の抜けた声を出してしまった。話題の急激な変化についていけるような僕じゃない。どうして家事の話から排水溝の掃除なんだよ…って、あれ?掃除なんだから、それも家事の一つか。あれれ?あんなとこしたことないよ…って、掃除がいるの?

「はんっ。随分とオマヌケな顔してくれてんじゃない?アンタ、お風呂の中の何もかもが下水道に流されてるんだと思ってるんじゃないでしょうねぇ」

「ええっと、湯船の底にある栓の所にネットがついてて…」

「はいはい。そこに溜まった髪の毛とかは掃除してるって言いたいんでしょ。で、排水溝のところはどうなのよ?」

「床の所は洗剤でごしごしとブラシ使って…」

「で、泡が流れていくから排水溝はいつも綺麗なままになってる…」

 にこにこ笑うアスカにつられて、僕はついうんうんと頷いて愛想笑いをしてしまった。すると、アスカは血相を変えてバンとテーブルを叩いた。2杯目のコーヒーはあらかた飲んでしまっていたので大惨事は免れたけど、僕はもう大慌てだった。

「そんなわけないでしょ!アタシは最初の日にすっごくびっくりしたんだからっ!排水溝の蓋がびみょぉ〜にがたがたしてるから、ちょっと蓋を開けてみたら、もう毛が一杯っ!アンタ、想像できるぅっ?」

 うへぇ、想像したくない。
 あれ?じゃ、どうしてその時アスカは僕に掃除させなかったんだ?

「アンタ馬鹿ぁ?アタシは裸なのよ!そこにアンタを呼べる?」

「だから、お風呂から出た後に」

 素朴な疑問に、アスカは何故か、言葉がうっと一瞬つまった。

「うっさいわね!アンタ男でしょ!自分の家族でもないミサトの毛……ああっ!もうっ!そうよ、髪の毛!髪の毛とか触るのって変じゃないっ?」

 何を騒いでるのかよくわからないや。
 まあ、本当の家族じゃないけど、別に髪の毛くらい…って、まああの長いミサトさんの髪の毛がいっぱい排水溝に溜まっているっていうのも気持ち悪いけどね。そういう意味じゃアスカに感謝すべきだと思う。
 ということで、何とアスカはずっと排水溝の掃除をしてくれてたんだ。僕たちに黙って。僕は素直に感謝の言葉を述べたんだ。するとアスカは何とも表現が難しい表情でそっぽを向いた。

「わかればいいのよ、わかれば。アタシだって家事のひとつやふたつやみっつ…」

 最後の方はむにゃむにゃって感じになった。

「わかったよ。でも、これからはちゃんと僕もするから。排水溝の掃除」

「しなくていいわよっ!」

 バンというテーブルを叩く音とともにアスカの叫び声が僕を直撃した。わあ、びっくりした。で、何で怒られてんの?

「排水溝の掃除はアタシの仕事なのっ!アンタはしなくていいんだからっ!この、ス……ああああっ!馬鹿ぁっ!」

 アスカは真っ赤な顔をして叫んでいた。何もそんなに力んで宣言することじゃないのになぁ。

「わ、わかったよ。じゃ、そこの掃除はアスカの分担にするよ。いいの?それで」

「ふんっ。わかればいいのよ、わかれば」

 アスカは着席してくれた。ふう…、でも、今日は何だかいつもと違うような気がする。いつもだったらこんなにアスカがエキサイトしてしまったら、喧嘩みたいになってしまってどっちかが自分の部屋に入っちゃうのになぁ。

「それじゃ、僕は料理をしたらいいんだよね。これからはちゃんと作って…」

 バンっ!
 
「だ、だから、もうインスタントじゃなくて、ちゃんと作るって言ってるじゃ…」

「アタシも作んのっ!」

「はいっ?」

 僕が格好良くてきりっとしていれば、竜虎が睨みあっている図って感じなんだろうけど、あいにくの僕だからそんなのにはならない。見上げる僕は例によって間の抜けた顔をしているんだろうし、アスカの方は鼻息も荒く僕を睨みつけている。

「えっと、アスカが?」

「アタシがっ!」

「料理を?」

「料理をっ!」

「作ってくれるの?」

「作ってあげんのよっ!はんっ!」

 お得意の“はんっ”が出たところで、アスカは掌をテーブルから離しポーズを腕組みに変えた。

「えっと、ありがとう」

 とりあえず、礼を言った方がいいような気がする。だから僕は感謝の意を表したんだけど、その途端にアスカの鼻がにゅっと伸びたような気がした。アスカってピノキオ?あ、違った。天狗だ。ピノキオだったら嘘を吐くと鼻が伸びるんだもんね。

「ふふんっ、わかればいいのよっ!わかればっ!」

 天狗様は満足して着席してくれた。いちいち起立しないと発言できないのだろうか、このドイツから来た天狗様は。
 とにかくアスカが静かになってくれたので、僕は素朴な疑問を口にしたんだ。

「えっと、アスカはご飯は炊けるの?それともアスカの当番の時はパン?」

「ぐぇっ…」

 ぐぇって…。そんな蛙を潰したような…って潰したことは実際にないけど…、そんな声出さないでよ。
 僕の問いかけを聞いた途端に、アスカは固まってしまった。あらら、拙い質問しちゃった?僕。

「パ、パンでもいいよ、僕は。あ、何なら僕が炊こうか?ご飯は」

「1かいっ!」

 1かいってマンションの1階のことじゃないよね。

「1回だけ教わってあげるわよ!」

 あ、そういうことか。まあ、アスカらしいや。
 というわけで、明日の金曜日は僕がご飯の炊き方を教えることになった。で、おかずは?
 その後はおかずを何にするかという展開になったんだ。白いご飯といえばカレーにしたいところだったんだけど、いきなりカレーを手作りにするのはどうかなぁと思って、結局お刺身と味噌汁にすることにした。蛸だけは絶対に駄目だからねとアスカに念を押されて、僕は了解した。アスカは明日洞木さんと放課後に約束しているみたいで、じゃ僕が買い物に行くって言ったら何だか物凄く残念そうだったんだ。自分ひとりで全部したかったのかな?
 
 そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎていったんだ。気がつくともう夜中になっててびっくりしちゃった。僕は慌ててお風呂に向った。タイマーをかけておいてよかったよ。アスカと違って、朝にお風呂って僕は駄目なんだ。
 シャワーを浴びて、湯船に浸かって、そして今日のことを考えた。
 あの料理を作って本当に良かった。もしあの女の人に会えたら、ちゃんとお礼を言わなきゃいけないなぁ。でも、また会えるんだろうか。どこの駅で降りたのかもわからないもん。
 ふぅ…、気持ちいいや。外国の人ってシャワーだけだって話も聞いたけど、アスカはちゃんとお風呂に浸かってるんだよね。決まった温度じゃないと怒るんだから。でも…。僕が浸かったお湯は駄目なんだ。そうだよね。だからお湯を入れ替えさせるんだ。ちゃんと洗ってからじゃないと、このお風呂を使いたくないんだよね、きっと。仕方ないよ。女の子なんだもん。だいたい、僕と一緒に住んでいるってだけでも…。僕が狼になったらどうするんだろ。はは、まあ間違いなくすぐに殲滅されちゃうよね。殺されちゃうかもしれないや。
 そこまで考えた時、僕はふとあそこが気になった。そう、排水溝だ。首を伸ばしてバスタブのすぐ横にあるその部分を眺める。
 そうだよなぁ、全然気にしてなかったよ。あそこに毛が溜まったら、そりゃあ詰まっちゃうよね。アスカの言う通りだ。アスカはちゃんと掃除してくれてたのか…。言われなきゃいつまでも気がついてなかったんだろうなぁ。ミサトさんの髪の毛長いから…。まあ、アスカも長いけど…。毛、か…。……。………。
 その後の僕の行動は秘密だ。アスカが洗面所にいないことを確認して、中を確認したけど、そこにはそれっぽくて黒じゃない色のものは1本もなかった。はは、そうだった。アスカは自分のお風呂が終わった時に掃除をしてるんだ。あるわけないか。あっても僕のだ。僕の馬鹿。
 熱膨張が収まるまで、僕は外には出られなかった。情けないなぁ、僕は。どうしてすぐにアスカをそういう目で見てしまうんだろう。あの時、裸の綾波を押し倒してしまった時だって、恥ずかしかっただけでそういうことは何も思わなかった。ミサトさんみたいな美人と暮らしていたのに、アスカが来るまでは二人きりだったのに、お風呂を覗こうとか下着を探そうとかそういうことはこれっぽっちも思わなかったんだ。ケンスケやトウジにからかわれて、初めてそういうことができる…っていうか、考えるもんだって気がついたくらいだもん。それがアスカにはどうなんだ。眠っているアスカにキスしようとしたり、アスカの裸とか想像したり…。どうしてアスカには…。
 しまった。膨張が酷くなっちゃった……。

「随分、長いお風呂だったわね!待ちくたびれちゃったじゃない!」

「う、うん。ちょっと、考え事してて…」

 嘘じゃないよね。

「はんっ。そんなに顔が真っ赤になるまで、何考えてんのよ、馬鹿みたい。あっ、わかったっ!」

「えっ、何がっ!」

「アタシのこと考えてたんでしょっ!このエッチ!スケベ!馬鹿シンジ!」

 正解だから何も言い返せない。僕は慌ててバスタオルで髪の毛を拭く振りをして、アスカから顔を見えないようにした。どう見ても冗談で言っていたとしか思えないもんね。勘の鋭いアスカだから、本当だってわからないようにしなきゃ。

「そうだ、馬鹿シンジ?」

 えっ、わかっちゃったの?

「アンタ、土曜日ヒマ?何か先約があったら、今すぐ断りなさいよ!」

「へ?」

 アスカの奇怪な日本語は即訳に時間がかかる。土曜日の僕の予定を訊いて、予定があるのだったらそっちを断れってこと?

「ほらっ、早く答えなさいよ!アタシは気が長い方じゃないんですからねっ!」

 それはよくわかってます。

「えっと、何も用事はないけど…」

「けど、何よ。はっきり言いなさいよっ!」

「あ、あのね、大きな本屋さんに行って、ドイツ料理の本がないかどうか探したいな…って思ってたんだけど」

 正直に言った。その結果がどうなったかというと、ああ、その顔はやめてよね、アスカ。

「ちゃ〜〜〜んすっ。馬鹿シンジっ!アンタに栄えある任務を与えてあげるわっ!」

「は、え?」

「アタシの荷物持ちをさせたげる!どぉ〜お?すっばらしい任務でしょうがっ!」

「買い物?」

「あったりまえじゃない。まあ、その途中で本屋に寄ってあげるから、3時のおやつはアンタのおごりねっ」

「えっ、僕の?」

 ということは、土曜日はアスカと買い物に行って、それからどこかのお店でおやつを食べるってことだよね。うわっ、それって周りから見たら、デートじゃないか。まあ、間違いなくアスカはそんなこと、これっぽっちも思ってないけどね。
 
「アスカは…何を買いに行くの?」

 とりあえず、訊いてみた。するとアスカはにこにこと微笑みながら言ったんだ。嘘だとか冗談だとか、全然僕に思わせない笑顔で。

「アイアーベッヒャー。アンタにわかるように言ったげると、エッグスタンドね」

「あ、ゆで卵を乗せる、あれかぁ。いいなぁ、僕も買おうかな?」

 これも追従とか調子を合わせたんじゃない。素直にそう思ったんだ。でも、この言葉を発した後、少し沈黙が続いた。アスカが固まっちゃったんだ。まあ、ほんの3秒くらいだったけど。

「な、な、なに?アンタも買うの?アイアーベッヒャー。そ、そうか、そうなんだ。ははは、まあ、あれよあれ」

 あれがどれかわかりません。アスカは急に手を振り回しながら、喋り始めたんだ。

「つまり、そういうことよ。あはは、まあ、アンタのことだから、アイアーベッヒャーひとつ選ぶのもナニしそうだし」

 僕が何するんだよ。

「簡単に言うと、そのナニよ。つまり悩むわけよ。アンタ馬鹿だから、どっちがいいかなぁとか他の店に行けばもっといいのがあるかもって、いつまでも決められないわけよ」

 あ、それか。それについては何も言えません。その通りだもん。

「だから、アタシとしては困るわけよ。荷物持ちのペースで買い物されちゃあ適わないわ。ってことで、仕方がないから、アタシのと同じヤツにしなさいよ!うん、そうしないと絶対に駄目に決まってるわ。アンタにうじうじされちゃせっかくのショッピングデーが台無しになっちゃうもん」

「えっ、い、いいの?それで」

「仕方ないって言ってんでしょっ。文句があるんなら、本屋に一緒に行って料理の本を決めるの手伝ってあげないわよ」

「えっ、一緒に決めてくれるんだ。えっと、ありがとう」

 この提案は助かった。だってアスカの好きそうな料理を作りたいなって思って本を買うんだもん。本人に選んでもらうのが一番だよ。
 ところが僕が感謝したら急に、アスカは顔を真っ赤にして喋りだしたんだ。罵声とかそういう言葉は一切使わずにね。

「そ、そ、そんなたいした事ないじゃない。ま、あれよあれ。ほら、今日の料理がさ、まあ、それなりにっていうか、滅茶苦茶美味しかったっていうか、まあ何とか食べられたっていうか、ママの作ったのに続くくらいの出来だったというか、そんなとこだったから、こ〜ゆ〜料理だったら毎日でも食べたいってわけよ。ドイツの味を思い出すっていうか、ママの味っていうか。あの、バウエルン・フリューシュトゥックなんてさ、みんなあんな風に作れなかったんだし、まさかアンタがあれを作ってくれるなんて思いもよらなかったから。ただ、ゲコッホテス・アイがなかったのは残念だけど、アンタがアタシのちっちゃい時のこと知ってるわけないから仕方ないわよね」

 アスカは僕が言葉を一つも挟めないくらいに喋り続けてる。まあ、言葉を挟むどころか、アスカの喋っていることを聞き取るだけで大変なんだけどね。だってドイツ語が挟まってくるとそこで理解不能になっちゃうんだもん。今の二つは今日教えてもらった料理に関することだから何とかなったけど。

「ママの料理はそれは美味しかったのよ。アンタに食べさせてあげられないのが残念だわ。バウエルン・フリューシュトゥックだけじゃなくて、他のもすっごく美味しかったの。まっ、アタシの大好物があれだったから、アンタの料理を見た時はホントにびっくりしたわよ。ママに訊いたのかと思った」

 そこまで言って、アスカはやっと一息吐いた。もう夜中だから、コーヒーを淹れようかとも言えないし、何となくアスカに一息入れてもらおうと思ったのかな?僕は最後に出たアスカの言葉に話を繋いだんだ。

「はは、無理だよ。だってアスカのお母さんってドイツの人だろ。僕、ドイツ語喋れないもん」

「ふふ、アタシのママは日本語ぺらぺらよ。だって半分日本人だもん」

「えっ、じゃ、いつも僕にドイツ語で喋ってくるのはもしかしてからかっているの?酷いなぁ」

 冗談のつもりだった。だって、僕はアスカのことを全然知らなかったんだもの。
 僕がそう言った時、アスカは少しだけ躊躇った。唇を少し開いて、すぐに固く結び、そして、にっこりと微笑んだんだ。

「あれは新しいママ。そっちは生粋のドイツ人。日本語はまったく駄目なの。アタシがさっきからずっと言ってる、ママの方は…死んじゃったの。アタシが小さい時に」

 アスカは微笑んでいる。その瞳は全然濡れていない。ただ、淡々と事実を述べただけのように見える。
 でも…。でも、僕には伝わってきた。
 だけど、僕には何も言えなかった。何か言わないといけない。そうは思うんだけど、何を言えばいいのか、最初の言葉さえ見つからない。
 アスカのお母さんは死んでいたんだ。電話をかけてくるのは義理のお母さんだったなんて!ミサトさんなら知ってたはずだ。どうして僕に何も教えてくれなかったの?そんなの酷いよ。だって、僕は…、僕は…。アスカが羨ましくて。それで妬んだりしたこともあって。本当のお母さんが死んでいるなんて、そんな!

「ごめん」

 ようやく言えた。

「どうしてシンジが謝るのよ。アンタの所為じゃないでしょ」

「違うんだ。僕…、僕は、アスカを羨んでた。お母さんがいるから」

「ふふん、いるじゃない。確かに」

「でも、それって…」

「もういいわよ。アンタには義理のママもいないんでしょうが。電話をかけてくる人もいない。だったら、アタシを羨んでもおかしくないわよ」

「でも、でも…」

 ああ、僕は最低だ。どうしてこのタイミングで、涙が出てきちゃうんだよ。これじゃ、まるで自分がみじめだって思って泣いた様に思われちゃうじゃないか。

「馬鹿。アタシのために、泣くんじゃないわよ」

 多分、この時なんだと思う。
 目の前で、絶対に泣くもんかと口をへの字にしながら、無理矢理に笑顔を見せている、そんなアスカのことを特別に思うようになったのは。
 
「ホント、アンタは馬鹿シンジだわ。そぉ〜だ、いいもの見せてあげる」

 アスカは席を立って自分の部屋に向った。その間に僕は洗面所にダッシュして思い切り顔を洗った。でも、ダイニングテーブルに帰った時にはもうアスカは戻ってきてたんだ。

「アタシのママ。世界一、綺麗なんだから。ほらっ」

 笑顔で見せられた、その写真には…。

「ふふっ、あまりに綺麗だから何も言えないの?おぉ〜い、馬鹿シンジ。どうしたのかなぁ?」

 アスカの声がどこか遠くで聞こえているような気がする。
 あの女の人だった。僕にドイツ料理を教えてくれたのは、アスカのお母さんだったんだ。もう何年も前に死んじゃった人。5歳になる可愛い娘さんって、アスカのことだったんじゃないか。
 じゃ、幽霊ってこと?全然怖くなかったけど…。あ、でも、いつの間にか離れたところに座ってたんだっけ。で、よくわからないうちにいなくなってたから、夢かなぁって。でも確かにこの人だ。絶対に間違いない。
 どうしよう。このことをアスカに言うべきだろうか。僕はアスカのお母さんに会ったんだって。そして料理を教えてもらったんだって。アスカのことが大好きでたまらないって言ってたんだって。そのことをアスカに言うべきなのだろうか。
 僕は写真の中の女の人に…アスカのお母さんに問いかけた。写真の人はあなたの好きにしなさいとでも言いたげに微笑んでいる。その腕の中には小さい頃のアスカが抱かれているんだ。たぶん、アスカは僕と同じ頃にお母さんを亡くしてるんだ。そう、僕は直感した。写真のアスカは天真爛漫って言葉がピッタリなくらいににっこりと笑っていた。
 そして、僕は決心したんだ。話を逸らそうと。

「は、はは、あのさ、この女の子が凄く可愛いから、びっくりしちゃったんだ」

「はあああああ?」

 僕はどうも話の逸らし方を間違えたらしい。アスカは真っ赤な顔をして、僕から写真をひったくると自分の部屋に飛び込んでいったんだ。後に残された僕は苦笑するしかなかった。
 やっぱりアスカはよくわからない。
 とにかくアスカのお母さんと対面したことは秘密にしておこうと思う。だってアスカが会えるって保証は何もないのに、そんな話はしない方がいいから。僕が逆の立場なら、母さんはどうして僕に会いに来ないのかって落ち込んでしまうと思う。まあ、どうして僕に会いに来たのか全然わからないけど、何か僕に頼みたかったのかどうか。美味しい料理を作れってだけなのかな?まさか、ね。それともこうして近くで見守っているのだから、狼になって娘に襲いかかるんじゃないわよって警告に来たとか。
 理由はまったくわからないけど、とにかく僕はアスカのお母さんに感謝した。
 この料理がきっかけでアスカと色んな話ができるんじゃないかという気がしてきたから。









 2週間後、僕はまた弐号機にエントリーしていた。今度はアスカの見ている前でのテストだ。アスカはにやにや笑って、きっと酷い目に合うわって毒づいてきた。僕が二回目だって知らないからだ。

 ええっと、惣流・キョウコ・ツェッペリン博士?ごめんなさい、どうも呼びにくいです。やっぱり、アスカのお母さん、かな?これでお願いします。
 僕の思い込みかもしれないけど、あなたはここにいるんじゃないですか?
 何の証拠もないんですけど、あのライナーの中であなたと会ったってことは何かきっかけがあるはずだし、そうするとあの日この弐号機にエントリーしてシンクロテストをしたってことがそうじゃないのかって気になったんです。だって、あの時はリツコさんの指示でずっとアスカのことを考え続けていたのですから。あの時はごめんなさい。結構アスカの悪口みたいなことも思っていましたよね。で、アスカの事が心配になったから、僕に話しかけてきたんじゃないですか?はは、間違っていたら、物凄くおかしいですよね。まあいいや。僕はここにあなたがいるとしか思えないんです。だから勝手に話しかけます。
 最近のアスカと僕は前よりもいっぱい話をしたり、喧嘩をしたりしてます。仲がよくなったんでしょうか。どうもそんな気がするんです。あ、あの、娘さんのことをアスカって呼び捨てにしてごめんなさい。もう、アスカはアスカなんです。惣流さんって僕には呼べません。
 アスカは本当にじゃがいもとゆで卵が好きなんですね。そのことをからかうと、ドイツ人は国民全員がじゃがいもを大好きだって胸を張るんです。僕が知っているドイツ人はアスカだけなので確かめようがないんですよ。本当ですか?あ、でも、ゆで卵が好きだっていうことは否定しませんでした。つるんとした感触とかがいいんですって。あの感触はお母さんのホッペ、本当ですよ、アスカが“ホッペ”て言ったんです。で、お母さんのホッペみたいにつるんとしてて好きだってアスカは言いました。あ、僕のエッグスタンドはアスカとお揃いです。面倒だから同じのにしなさいって…。アスカは赤で僕のは青いエッグスタンドです。毎朝、それにゆで卵を立てて食べています。大家さんのミサトさんが私も!って拗ねるものだから、アスカと二人で企んで、大きなお猪口にゆで卵を乗せて『はいどうぞ』って出したんです。でも、せっかくの悪戯が、日本人はやっぱりお猪口よね!なんて大喜びされちゃったんですよ。あの時のアスカの残念そうな顔ったらお見せしたかったです。
 この前、アスカは初号機でシンクロテストしたんですよ。僕はその場に居合わせたんですが、やっぱりリツコさんはアスカに僕のことを考えろって指示したんです。実は僕、そんなテストがないかって楽しみにしてたんですよ。もしかしたら、弐号機にアスカのお母さんがいるんだから、初号機には…なんて、とんでもないことを考えちゃったりしてたもんですから。でも、自分で試してみる勇気はどうしてもでなかったんです。答えを出してしまうのが怖くて。もし僕の考えが間違っていたら、見当外れだったら、とても残念で哀しくなってしまうに違いないですから。
 あ、アスカのことでしたね。アスカがシンクロテストに入って10分くらいしたら、突然シンクロ率が激減して、初号機が吼えたりして、大急ぎで強制排出したんです。僕は慌ててプラグに飛んでいったんですけど、そこから這うようにして出てきたアスカに胸倉を掴まれちゃったんです。そして言われたのが、『アンタ、初号機とデキてんじゃないでしょうねっ!』なんですよ。ちっとも意味がわかりません。もう二度と初号機には乗らないって怒ってました。もし母さんがあそこにいるなら、どうしてアスカを拒否したのかなぁ。最初は調子よかったのに、突然おかしくなっちゃったんですよ。アスカは何を考えてたんでしょうね。
 初号機に母さんがいるかもしれないという疑問は、そのうちに試してみようとは思っているんです。そうしないと先に進めないから。とても怖くて仕方がないんですが、そうしないとアスカに言えないじゃないですか。
 弐号機にアスカのお母さんがいるって。
 僕はアスカにそのことを伝えたいから…。凄く怖いけど、何とかやってみます。ごめんなさい。誰かに宣言してしまわないと、僕は足を踏み出せないんです。
 そして確信が持てたら、僕はアスカに言います。ここにお母さんがいるかもしれないって。多分全然信用してくれなくて、ひどく怒るかもしれませんね。でも、僕は一生懸命に説得しますから、その時はアスカに応えてあげてください。
 だって、アスカはあなたのことが大好きなんですから。
 あのことは、5日ほど前にアスカから聞きました。僕なんかと違って、アスカは大変な経験をしていたんですね。僕は自分がとても不幸なんだって思い込んでいて…。アスカはまっすぐに明るい場所を突き進んできたんだって誤解してました。自分のことが恥ずかしくて堪らなかったんです。
 でも、アスカは言うんです。お母さんに首を絞められたのは辛い思い出だけど、それを恨んではいないって。『もしあの事がなくて、突然お母さんが自殺していたとしたら、そっちの方が子供として不幸じゃない?』そう言って笑うんですよ。僕もそう思います。心中なんてよくないとは思うんですけど、親に見捨てられる方がもっと辛いんです。
 だから、アスカに応えてあげてください。アスカのことを愛しているのなら。

 その時、僕はふと何かを感じた。
 僕の身体を優しく包んでくれる、何かを。その感触は遠い記憶を甦らせた。
 転んで膝小僧を擦りむき泣きべそをかいている僕を優しく抱っこしてくれている母さん。
 もう赤ちゃんじゃないのにって微笑んで、頬を摺り寄せて。
 母さんの頬はまるでゆで卵のようにつるんとした感じで。
 小さな僕はいつの間にか泣きやんでいたっけ。
 よし、決めた。
 次に初号機に乗ったら、母さんに呼びかけよう。
 それから…、それから……。

 ああ、やっぱり言ってしまいます。
 アスカのお母さん。
 どうやら、僕はアスカを…。
 どうせ、僕なんか恋愛の対象にしてもらえるわけないんですけどね。
 アスカにすれば、どうせ情けない弟とか子分程度の存在ですから。

 それでも、やっぱり僕は、アスカのことが大好きです。
 

 

 

 

<おわり>


 


<あとがき>

何とも珍妙なものを書いてしまいました。最初は3人称で書いていたのですが、どうも収まりが悪く、シンジ君に語ってもらうことにしたのです。因みに“農夫の朝食”についてはWikiに詳しく書かれています。そしてエッグスタンド等のドイツ語はまたまたAdler様のお世話に(汗)。毎度ありがとうございます。スペルを調べられても、カタカナ発音がまるでわからない。まったく困ったものです。
今回の話はハイビジョンでドイツの料理を特集してて、その料理をまだ中学生くらいの時に食べていたのを思い出したのが発端です。母が作ったのは、じゃがいもとベーコンだけの単純なものだったんですけどね。
しかしまぁ、私の書くシンジ君ってとてつもなく鈍感なことで(汗)。ただ、少年は恋をすることで大人になっていくのです。
さて、アスカ嬢。初号機の中で一体何を考えていたのでしょうか。ユイさんの魂が怒り出すというのは、やっぱり姑の気持ちを逆撫でしたのでしょうね。口にしないだけに思うが侭に妄想したでしょうから。

 

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