エヴァンゲリオン掌話集

待 合 室


 2008.09.22        ジュン

 
 


 あちゃあ、混んでる。

 お医者様の扉を開けて真っ先に思ったのはそれだった。
 さすがに女の人ばっかりで、ええっと7、8人かしら。
 あらま、後頭部だけ見える金色って最近は珍しい髪の毛の色ね。
 サードインパクトの後は、何故かみんな地毛のままが多いのに。
 これって、うぅ〜ん、多分45分待ちくらい?
 私は咄嗟にそう判断すると、覚悟を決めて靴を脱ぎスリッパに履き替えた。
 これだけの動作がぱっぱとできないのよね、妊婦だから。
 お腹が重い、ってこともあるけど、やっぱりゆっくり動かないとって思っちゃう。
 大切な赤ちゃんがお腹にいるんだもん。
 
「日向さん。定期健診ですね?」
 
 受付の女の子に問われ、私はにっこり微笑み「はい」と答える。
 そして二言三言言葉を交わした後にゆっくりと待合室を振り返った。
 わっ、最近珍しい染めた髪だと思ってたら、入り口から見えた金色の頭って本物の白人じゃない!
 しかも、美形。
 その白人さんはお腹が膨らんでいるようには見えないけど、彼女の左右はどちらも空席だ。
 うふふ、みんな外国人さんを敬遠したのね。
 英語で話しかけられたらって思って。
 まあ、その気持ちはわかる。
 私だってそんなに英語が堪能なわけじゃないからね。
 でも、私は彼女の元へゆっくりと歩いていき、会釈した上でその右側に腰を下ろした。
 よく主人にからかわれる「よいしょ」は当然封印。
 赤ちゃんの分だけ体が重くなってるんだから、当たり前じゃない。ねぇ?
 運良く、お隣からは声をかけられなかった。
 横目でちらりと見ると、少し緊張しているような感じ。
 妊娠の判定、かな?
 だったら、わかるなぁ。
 私もそうだった。
 あの人が付き添いを申し出たけど、やせ我慢して一人で行ったものね、ここに。
 結果がわかるまでは喉はからから、肩はがちこち。
 お医者様の「おめでとうございます」を聞いた瞬間にそんなのどこかに消えちゃった。
 この人もそうだったらいいな。
 やっぱり地毛の金髪って綺麗ね。
 アスカちゃんの髪は…もっと赤かったわね。
 あの子、どうして帰ってこなかったのかしら?
 シンジ君も、アスカちゃんも、大人に絶望したのかも。
 あんな子供に戦わせて…、生命のやり取りをさせていたのよ、私たち大人は。
 モニタで見るのと、実際に武器を手にするのは違う。
 私はあの時、戦自が突入してきた時、ようやくそれを知った。
 生命ってあんなに簡単になくなってしまうもので、それがどんなに恐ろしいのかって。
 でも、今は…。
 平和な世の中になっているから、安心して帰ってきて。
 …無理か。もう、6年だものね。
 世界のどこにも赤い海は見られないんだから。

 こんっ。

 あ、動いた。
 ふふふ、あなたは男の子かな、女の子かな?
 調べますかって訊かれたけど、即答で断っちゃった。
 そりゃあいろいろと準備する手間は省けるけど、何て言うのかなぁ、楽しみがなくなるってのとはちょっと違う。
 元気な身体で産まれてきてくれるなら、男でも女でもどっちでもいいわ。
 どう言えばいいんだろう?
 そこまでする必要があるのかどうかってことかしら。
 世間が落ち着くにしたがって、世界中に広がった自然回帰とか地球主義のひとつなのかもしれない。
 便利さや欲望を追い求めることに疑問を持って。
 まあ性別がわかったって、それで誰かや何かに迷惑がかかるわけはないんだけど。
 う〜ん、つまり、そこまで急がなくてもいいんじゃない?
 そんなところかしら。
 あ、妊婦さん…私もだけど…が診察室から出てきた。
 幸福そうな顔してるから順調ってことか。
 よかったわね、同志。
 
「じんぐうじやよい、さん、どうぞ」

 まあ、じんぐうじ!
 看護士さんが呼んだその名前を耳にして、私はちょっとびっくりしちゃった。
 だってあまりに凄い苗字なんだもん。
 私が元伊吹で、今は日向。
 どっちもそこらにはないかもしれないけど、“じんぐうじ”なんて姓はリアルで聞いた事ないもの。
 映画や小説では何かで出てきたことがあるかもしれないけど。
 でも、もっと驚いたのは、名前を呼ばれて返事をした人が私のすぐ左隣だったってこと。
 そう、お隣の金髪白人美人さん。
 はっきりとした日本語で「はい」と返事して立ち上がったの。
 診察室に向かうその後姿を見送って、私が思っていたのはあの人に日本人の血がどれだけ入っているのかって事。
 完璧に外国人の容姿ってことは、お嫁に来て名前を…えっと、“やよい”だっけ?…変えたのか。
 でもあのアスカちゃんだって1/4は日本人だけど見かけは白人で、でも姓も名前もしっかり日本…、あ、ラングレーってついてたっけ。
 だけど、惣流も凄いけど、“じんぐうじ”って!
 神宮寺?神宮司?神宮路?他に何か当てる字あったっけ?
 人の名前をネタにしてあれやこれやと頭の体操をしていると、診察室から歓声が聞こえた。
 う〜ん、日本人離れした歓声ね。
 よく聞き取れなかったけど、喜びのあまりってのはよくわかる。
 待合室にいたみんながくすくすと悪意のない笑いを漏らした。
 しばらくすると彼女は勢いよく診察室から出てきた。
 そして扉のところで立ち止まると、みんなを見渡しいきなり両手を挙げた。

「ばんざい!」

 あらら、やっぱり外国の人って大胆というか感情表現が豊かっていうか。
 だけど、ここに集う私たちは彼女を無視なんかするわけない。
 誰からともなく拍手をすると、彼女は一人一人と握手をして、興奮した面持ちで最後に私のところに来た。
 おめでとうございます、と私。
 彼女は痛いくらいに私の右手を握り締めると、「ありがとうございます!」と確かな日本語で返してくる。
 そこからは自然の流れで彼女との会話となった。
 まずは彼女の診察結果のこと。
 妊娠2ヶ月っていうのは、まあ普通のパターンね。
 私もここにきた時、そう言われたもの。
 私にとってはほんの半年前に経験したことだけど、彼女の話を聞くことは苦痛じゃない。
 寧ろ微笑ましくてならない。
 外国の人の年齢ってわかりにくいけど、私より年下かしら。
 興奮した様子で喋り捲る彼女が可愛らしい。
 そのうちに彼女は受付に呼ばれた。
 会計をするその姿を見ながら、私は自分の順番を確かめた。
 あと3人くらいかしら。
 彼女も受付の人とのやり取りで興奮は収まるでしょうね。
 そんな私の考え通りに、彼女はさっきよりもかなり静かになっていた。
 これでもうお別れかなと思いきや、彼女はゆっくりと腰を下ろしたの。
 元の椅子にね。
 あれ、どうして?と思ったら、彼女はおずおずと言葉を発した。

「あの…もう少し、お話していいですか?」

 私に断る理由はない。
 大声で談笑すれば周りに迷惑だろうけど、普通に会話していれば何の問題もないだろう。
 結局、私と彼女…神宮寺ヤヨイさんとの会話は、待合室だけで終わらなかった。


 
 主人が帰ってきたのは10時30分を過ぎていた。
 もう!冬月さんったら人使いが荒いんだから!
 こっちは色々と喋りたいことがあるのに。
 私はお風呂に入る主人の背中にくっついていき、検診の結果やお医者様の仰ったことを告げた。
 マコトさんは適度に相槌を返しながら私の話を聞いて…くれてるのかしらね?
 まあ、信用しましょう。だって…私の旦那さんなんだもん。
 玄関で顔を合わせた時はちょっと顔色が悪かったけど、お風呂で温まったおかげかな?いつもの彼に戻ってる。
 さて、これからお食事。
 私?私の夕食はとっくに済ましている。
 だってお腹の赤ちゃんのためには不定期な食事なんてよくないでしょう?
 だから彼が食事する時は、私は小さなカップでお茶をするの。
 マコトさんの食事中に本論はしない。
 取って置きの話だから、ちゃんと話をしたいもの。
 そして、台所に行った彼がさっさと食器洗いを終えて帰ってきた時、私はコーヒーを淹れて待ち構えていた。
 現在禁酒中の私に付き合って、彼も晩酌を遠慮してくれてるの。
 
「あのね。お友達ができたのよ、私」

 待ちに待った一言を告げると、彼は驚いた顔をする。
 それはそうだ。
 だって、今の私の行動半径はきわめて狭い上に、ご近所さんは皆様お年を召している。

「裏の通りにある、西脇さんところ知ってる?」

「ええっと、うちの裏が小野さんでその前が加東さんで、その隣だっけ?」

「そう。お婆さんの一人暮らしのところ。そこにお孫さんが一緒に住むことになったの」

「そうなんだ。それじゃあおばあちゃんも喜んでいるんだろうね」

 確かに喜んでいた。
 つい数時間前にお漬物いただいたもの。
 さっき、あなたが食べてたお新香がそれよ。
 これまであまりお話したことのなかった方だったけど、これからは結構深くて長いお付き合いになりそう。
 優しそうなおばあちゃんでよかった。

「でね、そのお孫さんの名前が凄いのよ。神宮寺ヤヨイ」

 マコトさんは私の期待通りに驚いてくれた。
 漫画の好きな人だから、色々と連想するものがあるみたい。
 だから、どんな人だと思う?という私の質問にこれまた予想通りの返事をしてくれた。
 
「長い黒髪で…」

「ぶぶぅ〜」

「ヤマトナデシコって感じかなぁ」

「違いまぁす」

「じゃ、髪の毛の短い体育会系…」

「それも外れ。髪の毛は長いけど、黒くないの」

「へぇ、今どき染めてるんだ」

「違うわよ、染めてなくて黒くないの」

 マコトさんは首を捻った。
 
「でも、神宮寺さんっていうんだろ」

「うん。でも、実は外見は白人さんなのよ。しかも、美人!ほら、アスカちゃんもそうだったじゃない」

「あ、そ、そうだね」

 あれ、何だろ。
 アスカちゃんの名前を出した時、マコトさんの反応が少し変だった。
 ああ、そうか。
 アスカちゃんたちのこと、やっぱり気にしてるのね。
 
「しかし、その名前で白人さんって凄いね」

「でしょう?フランス人のご主人はまだあっちなんだって。今、日本での仕事を探しているところ」

「日本に住むの?ずっと?」

「そうよ。ずっと夢だったんだって」

「その、神宮寺なんとかさんの?」

「それがご主人の方だって。憧れの日本に住みたいっていうのが夢で、日系人の奥さんと出逢ったのもそれが縁なんだって」

 あれからの数時間ですっかり馴れ初めを聞いちゃった。
 私の方も自分たちのことを包み隠さず話したの。
 そうすることにしようと彼と二人で決めたの。
 それで付き合い方を変えるような相手なら最初から親しくできないものね。
 彼女は話し終えた私を優しく抱いてくれた。
 その時、ふっと思い出したのはあの瞬間のこと。
 赤い海に溶け去るその時、私の欲望が生み出したあの女性(ひと)の姿。
 極限状態の中、私に差し伸べられた先輩の微笑みは優しく、その腕に私は飛び込んでいった。
 でも、その時、精神は満たされたのだけど、肉体は違和感を感じたの。
 先輩の身体には温かみが感じられなかった。
 それはマコトさんの場合も同じだったみたい。
 今になってみると多少むかむかするんだけど、彼の前には葛城さんが現れたんだって。
 で、彼は喜んでその胸に飛び込んでいった、と……。
 ごほんっ。
 二人であのときのことを話していると、どうも赤い海の使者というのを産み出したのはその当人だったってことになっちゃうの。
 つまり、逃避先ってことね。
 だから、精神の作り出した虚像である使者には肉体なら持つはずの現実的な充足感を提供することができなかったわけ。
 その充足感を新しくできたばかりの友達は私にたっぷり与えてくれた。
 慰めの言葉もなしに、ただ優しく抱いてくれたことに私は満足した。
 だって、心が伝わってきたんだもん。
 
「へえ、随分と仲良くなったんだね。いい友達になれそう?」

「ええ。子供たちも同学年になりそうだし、ずっとあそこに住むって言ってるから」

「ああ、そうか。僕たちの子供と幼馴染になるんだね、その子は」

 やけに“僕たち”というところを強めて言った様に感じた。
 うふふ、マコトさんって私にだけ“僕”って言うの。
 普段はまじめに“私”って言う癖にね。
 
「そうよ。私たちの子供と幼馴染なの。だから、ヤヨイさんとは家族ぐるみのお付き合いになりそう」

 私は思わせぶりに微笑んでやった。
 ちょっと鈍感な部分もあるけど、マコトさんなら気づいてくれるよね。

「家族?ということは、僕もって事?」

「あたり」

 きた。
 さぁて、巧く話ができるかな?

「ああ、わかった」

「え、わかったの?」

 一瞬びっくりしたけど、見当違いの回答を出したことはすぐにわかった。
 だって、私の提案がわかるだなんて、そんなことありえない。
 何故なら、私のマコトさんはエスパーでもなんでもない、ただの男の人なんだもの。
 
「つまり、その神宮寺さんのところの旦那さんと仲良くしろってことだろ。日本語大丈夫なのかなぁ」

「知らない。そこまで聞いてなかった」

「おいおい。それが一番の問題じゃないか。英語ならともかくフランス語なんて…」

「ストップ」

 私はマコトさんの言葉を遮った。
 確かにその発言は嬉しい。
 写真を見せてもらって、ついでにかなり惚気ても貰ったけど、優しそうなご主人だった。
 だからマコトさんとも仲良くなってもらえれば嬉しい。
 でも、それはそれ、これはこれ。

「それもお願いしたいけど、もっと大事なことが…」

「じゃ、就職の斡旋?う〜ん、どんな人かもわからないし、せめて職務履歴書なんかがあれば…」

「それも違う。あ、でも、明日、ヤヨイに訊いてみる」

「え、もう名前で呼び合ってるの?それじゃ、君のことも?」

「ええ、しっかりマヤって呼んでもらってるわ」

 私は軽く溜息を吐いた。
 察しがよすぎるのかどうか。
 これでは話が前に進まない。
 こういう現実的なことに関しては頭がよく回るのよね、マコトさんって。
 明日、さっそく惚気てあげよっと。
 
「はっきり言うわ。あのね、私たちの子供のこと」
 
 私の言葉を聞いて、マコトさんは怪訝な顔になった。
 そりゃあそうなるわよね。
 新しいお友達と、お腹の中の赤ちゃんだもの。
 
「あのね、この子の…」

 私はお腹を撫でた。
 あら、起きてる。
 まだ赤ちゃんにもなってないのに、随分と夜更かしする子ね、君は。

「この子の名前を決めたの」

「なんだ、また名前か」

 鼻で笑われたように感じて、私はぷぅっと膨れる。
 確かに毎日のように、あれがいいこれがいいって言ってるんだけどね。
 でも、今日は違うの。

「これで決まりなの。もう絶対に他の名前にはしないわ。誓約書を書いてもいい」

「おいおい、いいのか、そんなことを言って。この前は女の子なら美雪だなんて…」

「男の子なの」

 私はきっぱりと言った。

「産まれてくる私たちの赤ちゃんは男の子なの」

「調べてもらったのか?」

 私は首を横に振った。

「絶対に男の子。私は運命を信じるの」

 私はマコトさんを見つめた。
 さっきまで笑いを浮かべていた彼がすっと真顔になる。

「運命…?」

「ええ、運命。間違いないの。だって、ヤヨイさんと出逢って、しかも…」

 私は話した。
 ヤヨイさんは今日妊娠がわかったばかりなのに、しかもその性別も調べてもいないのに、子供の名前を決めていた。
 しかもそれはご主人の意向でもあると言うの。

「奥さんがヤヨイだから、産まれてくる娘さんは…」

 そう、ヤヨイさんは産まれてくるのは女の子だと確信している。
 絶対に間違いはないそうだ。
 最初は私も笑ってしまった。
 でも、彼女たちが考えている名前を聞いて、私もその気になってしまった。
 だって、その瞬間、私も、そしてお腹の中にいる息子もびくんと身体が震えたんだもの。
 本当よ。
 蹴ったとかそういうのではなく、息を呑んだって表現がぴったりなくらいに、お腹の中で私の子は反応したの。
 彼女は笑われるんじゃないかって少しはにかんでいた。
 普通の人なら思わず笑っていたかもしれない。
 何しろ、弥生時代の次は…だなんて。
 でも、私にとって、その名前は笑い飛ばせるようなものじゃなかった。
 しかも、その瞬間、私にはお腹にいる子供の性別も、そしてその子にはこの名前しかないこともわかってしまったんだから。

「…アスカ……」

 マコトさんは小さく呟いた。
 彼にとってもその名前には意味があるはず。
 だから、彼は笑わない。
 目を閉じ、顎のところに両手を運び、じっと考え込んでいる。
 何を思っているの?
 あの頃のこと?それともこれからのこと?
 私は未来のことを考えている。
 
「マコトさん?」

 しばらくして声をかけると、彼はそっと目を開けた。
 優しそうな眼差し。
 私は無意識にお腹を撫でた。
 この子は一人っ子にはしない。
 私も彼も一人っ子だ。
 あの子達もそうだった。
 家族は。家族というものは多いに越したことはない。
 ヤヨイさんも5人は子供が欲しいと豪語していた。
 私はそこまではと思うけど、それでも3人は欲しいと思う。
 そして、その長男である、この子の名前は…。

「つまり、君は…」 
 
 マコトさんはじっと私を見つめた。
 私はその誘いに応じるように、息子の名前を口にしようとした。
 でも、その前に愛する夫の唇が動いた。

「そうしよう。僕たちの息子の名前は…」
 
 
 

(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お読みいただきありがとうございました。
 LASじゃないじゃないか!ごもっとも(おい)。LAS序章ということでお許しください。

 さて、ここで、今回の話について。
 まずは『乳母車』ですが、もしかすると皆様の中にこれはパクリじゃないか!と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
 結論。氷川瓏という作家が書いた短編で『乳母車』という作品があります。文庫にして3ページほどの短編ですが、凄く印象に残るものでした。その作品から発想したものです。ここではその結末(オチ?)について書けませんが、発表された時期(昭和21年5月)もあって、読者に色々と考えさせるものがあります。但し、この短編はなかなか読むことができないかもしれませんので、ご容赦ください。とりあえず私が持っているのは双葉文庫の怪奇探偵小説集(T)に収録されています。書いている間はその短編を読みませんでしたが、なかなか強烈な印象を与えてくれてましたので、乳母車と月という部分は私のものにも切り離すことはできませんでした。もちろん、私のだらだらとしたものと違い、本家本元は切れ味素晴らしいものですよ、はい。
 実は着想的にはその作品が根底にあり、もう5年ほど前からああでもないこうでもないとひねくりまわしていたのです。しかし、なかなかものにはならない。半年おきくらいにあれやこれやとチャレンジしたのですが、どうにも形にならなかったのです。
 まず最初は、乳母車と出逢うのはマコトではなくケンスケでした。時代もサードインパクトから30年後で、しかもそれまでの社会とほとんど変わっていないという設定でした。普通に家庭を持ち会社員をしている彼が夜の街で乳母車に出会う。彼はそこで赤ちゃん姿のアスカとシンジを見て、そして自分の半生を後悔する…という話でしたがオチが!オチが巧くいかずに葬り去りました。その次に乳母車に出逢ったのは加持です。これはもう構想段階であきらめました。だって断罪もの(?)にしかならないのですから。そもそも私が加持苦手だし。そのあたりでサードインパクト以降の世界が変化しないというベースを廃棄したのです。つまり、二人が生き直すという話に変えようと。そうなると次はそれを巧く説明しないといけない。ところが乳母車の女がレイのままでは説明ができない。何故ならあのレイがべらべら喋るわけがないから。そこで次はレイをユイに差し替えました。これなら大丈夫。ユイならば完璧に説明してくれるし、子供たちを預けるという描写も……嗚呼、これも駄目だ。だって、説明はできたけど叙情性がなくなってしまった。ううむ、どうしてくれよう。一旦はエンドマーク近辺まで書いたのですが、これも没。ああ、今回も駄目か。そう思っているときに『待合室』を思いついたのです。これですべて巧く流れました。因みに『待合室』の方には元作品はありません。
 

 




 ここまで、あとがきをお読みいただいた方へ。
 作者としての後日譚を付け加えておきましょう。
 
 
 
「おじさま、おばさま。おはようございます!」
 
 食卓についている私たちに丁寧に頭を下げた金髪の少女が階段を一段飛ばしに上ってゆく。
 扉が開く音。「早く起きなさい!馬鹿シンジ!」という叫び声。
 私は夫と顔を見合わせて笑い合った。
 すると、洗面所から出てきた娘がお皿の上のトーストを鷲掴みにして、こんなことを言う。
 
「兄貴って目覚まし時計は一生使わなくていいみたいね」
 
 明るく笑う長女は鞄を背負い、トーストを咥えた。
 今日は朝連だと、いつもより30分登校が早い。
 もっとも徒歩5分、全力疾走で2分15秒の中学校だから、こうしていつもギリギリになってしまうのかもしれない。
 しかし、トーストを咥えながら走って登校など、大昔のアニメみたいな真似をよく平気でできるものね。
 
「こら!年頃の女の子がなんて下品な!」
 
 私が叱責すると、夫は肩をすくめて苦笑する。
 だいたい、夫が娘たちに甘いからこうなってしまうのだ。
 トーストの所為で挨拶ができない長女は夫に手を振った。
 甘い夫は嬉しげに手を振り返すものだから、私は立ち上がったついでに頭を一発小突いてやった。
 
「早く出かけないと冬月さんに叱られますよ」
 
「今日はゆっくりでいいって…ああ、でもこの時間なら…」
 
「馬鹿ね。小学校の集団登校に付き添う父親がいる?それこそ娘に嫌われるわよ」
 
 もうそろそろ次女がランドセルを背負って降りてくる筈。
 この子は長女と違って、文科系のようだ。
 毎晩遅くまで本を読んでいるし、その本を買わせるために父親に巧く甘えるという手管も見事。
 それでもさすがに集団登校の付き添いは嫌がるだろう。
 これは母親というよりも、元女の子の勘。
 
「こら、お弁当。忘れてるわよ」
 
 私はテーブルの上に残された弁当包みを手にリビングを出る。
 何、これは恒例行事のようなものなのだ。
 長女はわざと弁当を忘れていく。
 そして玄関で私と何かしらの会話を交わす。
 これが日向家の朝の儀式の一つとも言える。
 階上で騒いでいるアレもその一つ。
 早く着替えなさいとか、レディの前で着替えるなとか、なんだかんだとアスカちゃんが喚いている。
 ふふん、お母さんたちは知ってるのよ。
 この前のバレンタインデーに告白したでしょう。
 あ、いや、正確には、告白させた、ね。
 キスくらいしたのかしら、あの二人。
 子供を3人も産んでしまうと大昔のように「不潔!」なんて思うことはない。
 まあ、ご近所の金髪アツアツ夫婦をずっと見てきているからキスなんて当然と思ってしまっているのかも。
 
「おぉ〜い、お弁当」
 
 座り込んで靴紐を結ぶ娘の背中に負ぶさった鞄へとお弁当を押し込んであげると、立ち上がった娘は羨ましいくらい身軽にくるりとこちらを向いた。
 そしてさすがにトーストを口から離して、長女は言葉を発する。
 
「いってきます。今日は放課後の部活ないから、早く帰るよ」
 
 そう言うとすぐまたトーストを口にした娘に、私は了解とばかりに小さく頷く。
 「いってらっしゃい、レイ」と。
 パンを咥えたレイは、にっこりと微笑んだ。
 

−了−


 

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