君が瞳を見るときは

-
あるいは頬染めし少年少女によるラプソディ  -


 2008.12.04        ジュン

 
 


 2016年12月8日は木曜日である。

 サードインパクトの後、惣流・アスカ・ラングレーと碇シンジはやはり同居していた。
 そして大家も健在である。
 その大家がにんまりと笑いながら、こう叫んだのだ。

「諸君、聞きたまえっ!」

 諸君というのは複数の人間を指すわけで、この場合彼女の目の前には二つの顔が並んでいるからあながち間違いとは言えない。
 しかし、二人だけしかいないのに諸君と呼びかけられても対応相手としては苦笑せざるを得ないではないか。
 アスカとシンジは今度は何を思いついたのかと少し引き攣った笑みを浮かべた。
 大家、葛城ミサトはそんな反応などまるで気にせずに、諸君に対して話を続けた。

「来る12月8日は、この私、ミサトお姉さんの誕生日なのでぇ〜す」

「何度目の?」

 すかさず突っ込まれてミサトは笑顔のまま表情を固める。

「駄目だよ、アスカ。そんなこと訊いちゃ」

「うっさいわね。訊かれて困ることじゃないでしょうが。誕生日だって言うから年齢を訊いただけでしょ。
 それとも馬鹿シンジはそれがどうして駄目なのかちゃんと説明できるってわけぇ?」

 本日、アスカはかなりご機嫌斜めなのである。
 その理由はシンジにはわからない。
 アスカは自分のことだから承知しているのは当然として、ミサトも何故彼女が不機嫌なのかを把握していた。
 ともあれ、機嫌の悪いアスカに捲し立てられ、シンジはいつものようにあたふたすることしかできない。

「そ、それは…、つまり…、だから…」

 二人は当然何度目の誕生日をミサトが迎えるかを知っていた。
 何しろ、事あるごとにミサトはまだ三十路じゃない、まだ二十代だと主張してきているのだから、
今度の誕生日で三十路突入であることは少し考えればわかるというものだ。
 それを承知でアスカが意地悪な質問をしているのがシンジにもわかる。
 ミサトの年齢の件についてはよくアスカから突込みが入った。
 もっともそれは意地悪なのでなく親愛の情を示しているのだと赤金色の髪の毛の少女は主張しているのだが。
 それについてもシンジにはわかる。
 何しろサードインパクトのおかげで彼女の心理に触れることができたのだから。
 アスカはどうでもいい人間にはちょっかいをかけない。
 かまって欲しいからちょっかいをかける。
 そういうことだとわかってから、シンジは彼女の自分へのちょっかいを嬉しく思うようになったのだ。
 但し、ここではっきりさせておこう。
 サードインパクトで触れ合ったとはいえ、それはあくまで表層的なものである。
 言わばパーソナルデータを検索したわけではないのだ。
 したがってボディサイズや誕生日、パスワードや趣味、嗜好といったところまでチェックできていない。
 もしそこまで分かり合えたならば、この二人、とっくの昔にラブラブカップルとなっていたはずである。
 現状は友達以上恋人未満。
 但し、周囲の目は恋人以上夫婦未満、本人願望もそれに順ずる。
 ミサトとしてはとっとと二人がくっつけばいいと思い、あれやこれやの手は打ってきた。
 セカンドインパクト以降の少子化現象とサードインパクトによる心理的且つ肉体的補完願望によって、
婚姻は男女ともに16歳以上と法制化されただけに、もしこのまま15歳の二人が恋人以上の関係に突入しても社会的に問題は少ない。
 結婚前の妊娠出産にだけ気をつければいいと…そんなとんでもないことを時に冗談交じりで二人にぶつけることもあるのだが、
その反応はすこぶる悪く、逆に二人が喧嘩をはじめてしまうのだ。
 だから、今はもう放置状態に近い。
 放っておいてもいずれはどうにかなるだろうと楽観視してしまうのである。
 何故なら口や態度では相手のことをなんとも思っていないと主張しているものの、ほとんどの時間を二人で過ごしているのだ。
 ベッド、お風呂、トイレ、男女別の授業…。
 これ以外は常に同じ空間に存在しているのである。
 もういいわ、馬鹿らしい、とミサトは投げてしまった。
 ということで、今や彼女の役割というと、二人をからかって楽しむお姉さん的立場に甘んじているわけだ。
 その方が面白おかしい日常生活をおくれるという利点もあったから余計にそうなってしまったのであろう。
 さて、ミサトは二人の漫才には知らぬ顔をして、話を先に進めた。

「ということで、今日はパーティーしまぁ〜す!」

「はぁ?」

「しかたないのよねぇ、8日は木曜日だからパーティーできないもん。いつ帰れるかわからないしね」

 解体後のネルフは新世紀理化学研究センターとして再生された。
 冬月を所長にして研究機関として存続したわけだが、そうなるとミサトたち研究者でない者の処遇が難しい。
 いろいろと割り振った結果、目出度くミサトはIT部部長に就任した。
 その部下たちは主にオペレーター業務を受け持っていた人間だったのだが、無論彼女たちの方が仕事には詳しい。
 つまりミサトは弱冠30歳足らずで名誉職に就いたわけである。
 しかしいくら名誉職といってものほほんとしておくわけにもいかず、毎日IT部情報システム課の課長に個人教授を受けているのだが、
業務に忙しい課長を日中独占できるはずがなく、定時後がレクチャーの時間となっているのだ。
 さて、毎日残業続きでその課長はげんなりとしているだろうか。
 否、げんなりどころか毎日が楽しくてならないといった表情で彼は仕事にレクチャーにと一生懸命だった。
 彼とは、サードインパクトの時に妄想ミサトがお迎えに来た、あの青年である。
 レクチャーを喜ぶのは当然といえば当然であろう。
 何はともあれ、そのレクチャーが日向マコト課長の業務終了後になるのだから、
開始時間が午後7時になるのか午後9時になるのかわかったものではない。
 その意味ではミサトが言う、平日に時間が取れないので日曜日にパーティーをというのは正論なのだが…。

「はんっ!じゃ、その日だけレクチャーしなかったらいいだけじゃないの?バッカみたいっ」

 これもまた正論に近い。
 シンジは二つの正論に挟まれて苦悩したが、社会的な面から見るとミサトの仕事を優先するという正論の方が真っ当に見える。
 
「あっ、わかった!ミサト、アンタ平日じゃアルコールをたんまり飲めないから日曜日にしようって魂胆ね」

 いや、違う。
 その魂胆なら土曜日であるべきだ。
 しかし、何故かこの時のミサトは冷静さを欠いていた。

「レクチャーをやめろですってぇ?アスカ、あんたねっ、仕事ってものを遊びみたいに考えてるんじゃないでしょうね!
 それにアルコールですってぇ?ふふん!だったらアルコール抜きでパーティーしたらいいじゃない!
 私といえばビールだとかなんだとか勝手にイメージつけないでよねっ。最近あまり呑んでないでしょうがっ!」

「へへんっ!あまり呑んでないからパーティーの時にごっそり呑もうって思ってんでしょ、どぉ〜せ」

「あああっ、ああ言えばこう言う!わかったわよ、今日、私は絶対にアルコールは飲まない。神様にかけて誓うわ!」

「へぇ〜、神様も安請け合いするのね。もし呑んだらどうすんの?神罰が下る?」

「言ったな、アスカ!よぉぉ〜しっ、もし一滴でも呑んだら、あんたたちに特大すて…」

「ステーキなんて素敵!なんて思うわけないでしょ!このワンパターン!」

「ああっ、それじゃ、浅間温泉老舗旅館静峰庵特別室1泊2日ご招待でどう!」

「のった!」

 がしっと握手する二人は不敵に睨みあった。
 そんな様子をすぐ傍で見ていたシンジはそっと溜息を吐く。
 どうしてこの家の女性はこんなに戦闘的なのだろうか。
 
 この時、アスカは不機嫌さを忘れ内心ほくそ笑んでいた。
 とにかくミサトに呑ませればいいだけではないか。
 そんなこと赤子の手を捻るよりも容易い事…って、赤ちゃんの手を捻るなんてことできるわけないじゃない!
 そういうヤツって外道ね、外道。
 あ、でも外道なんて言葉は口にしないようにしないとね。
 シンジがパパの事思い出しちゃうから。
 あんなのでもアイツにとったら父親なんだし。
 ま、よく知らないけど、司令の事は。
 冬月さんの話によると、初号機に取り込まれた奥さんを取り戻そうとしただけらしいけど…。
 その息子なんだから、シンジももしアタシが…って、それよりも先にこの関係を何とかしないといけないんじゃない!
 ま、そのためにも思い出の浅間温泉っていうのはいいかもね。
 今考えてみると、アイツ、めっちゃくちゃカッコよかったじゃない!
 どうしてあの時にもっとお礼言って、仲良くなって、それでもってああいうことやこういう…。
 ああっ、後悔先に立たずって昔の人が言ってんじゃない!
 振り返るより、前向かなきゃ!
 
 ミサトはアスカの心中を察し、笑いを堪えるのに必死だった。
 それは確かにアルコールは大好きだし、その場にいればつい呑んでしまうに決まっている。
 その場にいれば、ね。
 彼女は今晩この家にいるつもりはなかった。
 厳密に言うと、パーティー開催時間に在宅する気はさらさらないのである。
 その1、どうせ進展はないだろうけどふたりきりでパーティーをすればもしかして?という親心。
 その2、アスカの誕生日が今日だと知っているから、好きな男の子と二人きりにしてあげようという、自分からのプレゼント。
 その3、そもそも、この歳(しかも三十路突入記念)でお祝いはイヤだ。
 そういうわけで彼女はパーティー開催が決定すれば、とっとと姿を消そうと決めていた。
 だからどんなに賭けをしても彼女がお酒を呑むことはないのだ。
 それがわかっているからこそ、豪勢な商品を見せびからせたミサトである。
 
 その後、アスカは独断で分担を決めた。
 自分が料理を作るからシンジは買出しに行けと命じたのだ。
 もちろんそれはみんなを追い出してよからぬ計画を実施したいが為だった。
 元よりミサトは夜まで会社に行ってくるとすぐに家から出て行っている。
 シンジにはメモを渡し、悲鳴を上げる彼のお尻を蹴飛ばして玄関から放り出したのである。
 彼女は自室に戻ると、押入れから段ボール箱を取り出した。
 そこに入っているのはドイツの義母から送ってきてくれたワインである。
 お世話になっている大家さんに飲ませてあげてと送ってきたのだが、何しろビールをお茶のように飲むミサトである。
 目の前に出すとあっという間に飲んでしまいそうだ。
 そこで何かのお祝いの時にと大事に隠しておいた逸品である。
 何しろミサトはアスカの大切な姉なのだから。
 その姉はサードインパクトの後、初めて顔を合わせた時にぼろぼろと涙を流して詫びたのだ。
 アスカやシンジが精神的に追い込まれていた頃に、自分のことで手一杯になり二人を放り出してしまった。
 その結果アスカが精神崩壊に追い込まれたことを復活したミサトにとってはどうしても自分が許せなかったのである。
 何よりも自分のことを二人の保護者だと気取っていたのだから余計だ。
 大人である自分が精神的に大人でなかったことがようやくわかった彼女であった。
 ミサトの場合はサードインパクトの影響がいい方に出た典型だろう。
 加持を亡くした喪失感が薄れたのだ。
 もちろん彼への愛情は否定しない。
 彼が死んだという事実を認め、乗り越えたということになるだろう。
 それに最近彼女は気がついてしまったのだ。
 甘えっ子という自分も存在するのだが、本来の性格が母性であることを。
 だからこそシンジやアスカの保護者になろうとしたのでもある上に…。
 どうやらここ最近、年下の男性への愛情を抱きつつある彼女だった。
 間にサードインパクトという地球規模の一大イベントが挟まったとはいえ、加持が死んだのは今年なのだ。
 それなのに…と思う一方で、それくらいだったのかと覚めた見方もできるようになった。
 思えば、彼のいい様に振り回されてきたような気もする。
 大人の階段を上らせれて彼にのめりこんだのもそうだし、彼の目的のために利用された部分も確かにあった。
 彼の遺言は本心かどうか、それすらも疑わしく思えてきたのである。
 最後まで格好をつけただけなのではないかとも考えられるし、いや本当は自分のことを心の底から愛してくれていたのだと信じたくもある。
 実際そのように信じて、復讐の一念に凝り固まり子供たちを放置したのだから。
 そして、彼女は彼の死を考えることをやめた。
 するとどうだろう。
 心が軽くなったのだ。
 そして、アスカやシンジたちのことをもっと親身に考えるようになり、そして部下たちへの人当たりもよくなった。
 その美貌とスタイルと態度の所為だろうが、彼女は同性からはあまり好感を持たれていなかったのだが、それがころりと変わった。
 IT部の女性たち(ほとんどがネルフのオペレーター出身)だけでなく、伊吹マヤ係長にも笑顔で冗談などを言われる様になったのである。
 あんなに面倒見のいい人とは思わなかった、というのが部下たちの間でのもっぱらの評判だ。
 そんな彼女を間近で見ているためにマコトのミサト熱がどんどん高くなっていったのは当然のことだろう。
 
 さて、そのミサトのためにアスカは完璧な罠を仕掛けていった。
 このワインを使おう。
 コルクではなく金属の栓で蓋をされているからジュースに偽造できるではないか。
 元に張られていたラベルを丹念に剥がし、そこにプリントアウトした偽ラベルを張る。
 クリスマス用のラッピングをと気の早い洞木ヒカリに付き合って文房具店に行った折、
あれやこれやと買い求めた中にラベルプリント用紙があったのだ。
 これを使わないでどうする。
 相手がシンジだったら適当なドイツ語で誤魔化せようが、ミサトはドイツ語も堪能だ。
 アスカは綿密にデータを打ち込み、ラベルを完成させたのだ。
 さすがは国民性というべきか、やるとなれば完璧を目指すドイツ魂が発露されたわけである。
 誰がどう見ても、高価な葡萄ジュースのできあがりである。
 しかし、いささか抜けたところもあるアスカは確認を怠っていた。
 元のぶどう酒、これがけっこうアルコール度数が高かったのだ。
 これが後に悲劇…いや、大いなる喜劇を誘引することになる。

 シンジはあれやこれやと追加注文をしてくるアスカに辟易としていた。
 スーパーから出たと思うと、携帯にメールが入りあれを買って来い、これも必要だと命令されるのである。
 一度に言えよ!とさすがのシンジも叫びたいところではあるが、しかしその不満を期待の方が遥かに凌駕しているのも事実だ。
 アスカの料理は美味しい。
 こんなにできるなら最初から家事をしてくれたら…などとも思ったのだが、彼は何も言わなかった。
 文句を言って二度と料理を作ってもらえなくなると拙い。
 何しろ、アスカは台所を完全に自分の支配下に置いたのだ。
 よほどのことがない限り、シンジには料理をさせない。
 ミサトなどは冷蔵庫を開ける権利しか与えられなかったくらいなのだ。
 因みにシンジには食器洗いという名誉な仕事を与えられている。
 そんなアスカなのだから、シンジは時に膨れっ面をすることはあるが、総体的な面では大いに満足している。
 何しろ大好きな女性の傍にいることができ、毎日手料理を食べさせてもらえるのだから。
 したがってシンジは少々の不満は持っていても彼女の言うことにはまったく逆らわない。
 この日も結局彼は意気揚々と買出しに勤しんでいた。
 アスカの指示だからということもあるが、今日のパーティーは姉のためのお祝いなのだから。
 
 罠を仕掛け終えると、アスカは目の色を変えて料理に取り掛かった。
 ある意味、彼女は幸運だった。
 アスカが育ったのは常冬の国と化したドイツである。
 自然と覚える料理は冬の料理、身体が温まるものが主体となっていた。
 何年も続いた常夏の気候に慣れてしまったシンジたちにとって、アスカの作る冬向きの料理は何よりのご馳走だったのだ。
 子供の頃鍋料理などを食べていたミサトでさえ大喜びだったのだから、
そんな記憶などほとんどないシンジなどはそれこそ大いに感謝したのである。
 当然、彼の感謝を受けて天狗になったアスカが更なる精進に励んだわけだ。
 その結果、ヒカリレベルの家事能力をあっさりと取得したアスカであった。
 しかし今回はさすがに短時間でデコレーションケーキの用意はできないので、出来合いのものをシンジが買ってくることになっている。
 今日はパーティーだけにおかずという形ではなく、簡単につまめる物をアスカは選んだ。
 何はなくとも外せないフランクフルトを茹でて、ポテトパンケーキを焼き、温野菜をしつらえる。
 ドイツ系は食材をいつも揃えているからどんな急場でも形にできる自信があった。
 後はシンジの持って帰ってくるものを使って、唐揚げにミニプレーンオムレツ、それと冷えても美味しくなる予定のスパゲティ。
 それらの時間配分はきちんとできている。
 先ほどシンジの帰還も携帯で確認した。
 アスカはにんまりと笑った。
 今日はアタシの誕生日だけど、どうせシンジには言えないんだから、自分の頭の中でだけ祝ってもらってるってことにしときましょ。
 どんと来い。
 
 シンジは帰ってきた。
 料理もできた。
 ケーキも冷蔵庫で出番を待っている。
 30本のローソクも待機済みだ。
 そして、偽造ジュースもアスカの手元に置かれ出撃準備完了している。
 しかし、ミサトが帰ってこない。
 午後7時になっても、まったく音沙汰なし。
 もちろん短気で、しかも計画実行を鼻息荒く待ち構えているアスカがおとなしく待っているわけがない。
 ミサトの携帯電話の留守電には3分置きに、早く帰れ連絡寄越せとだんだん大きくなる声で吹き込まれている。
 それでも、ミサトからは何も言ってこない。
 もうアタシたちだけで始めようとアスカが息巻くのをシンジはそれでは意味がないと懸命に押しとどめる。
 彼女の中では自分の誕生日祝いということになっているので、意味はあるわよ!と叫びたいのを必死に抑え、そして携帯の短縮ボタンを押す。
 そのパターンを何度連続させたことだろうか。
 突然、携帯の呼び出し音が鳴り響き、慌てたアスカは応答ではなく保留ボタンを押してしまう。
 ディスプレイにミサトからだと表示されると舌打ちをして応答ボタンを押した。

「遅いわよ!馬鹿ミサト!」

『ごめんなさいね、アスカ。今日のパーティーには帰れそうにないの』

 妙に改まった口調だという意識はもてなかった。
 それよりも内容の方に驚かされてしまったからだ。

「ちょっと!何言ってんのよ!帰れないってどういうことぉっ?」

 携帯を耳に当てずに目の前にかざし、面と向かって吼えるように叫ぶアスカ。
 
「どうしたんだよ、アスカ。ミサトさん、帰ってこないの?」

「そうよっ。ミサトのヤツ、帰らないって言ってんのよっ!」

「そんなっ!誕生日のパーティーなのに!本人が帰ってこないなんて…仕事?」

 ああ、そういうこともあるかとアスカは憤懣を抑えて、携帯電話を持ち直した。

「もしもし、ミサト?仕事なんだったら、待ってるわよ」

『もう研究所は出てるの。今、新帝国ホテルのラウンジ。誕生日のお祝いしてくれるって言われてね』

 アスカの眦は完全に釣りあがった。
 
「あ、あんたっ!あんたが言い出したんじゃないっ!誕生日のパーティーしろってぇっ!」

 尚も言い募ろうとしたアスカだったが、ミサトの一言でぴたりと唇の動きが止まってしまった。

『今日はアスカの誕生日でしょう?ちゃんと名目は立つじゃない。だから、許して』

「……許す」

 としか、アスカは言えなかった。
 何故ミサトがこんなことをしたのか、その理由がわかったからだ。
 自分の誕生日のことが告げられない、祝って欲しいとシンジに言えない、そんな情けない妹のことを考えてくれたのだ。
 
『ありがとう。そんなに遅くならないから…ケーキも全部食べちゃって。あ、でも、おいたをしちゃ駄目よ』

「う、うん」

『誕生日おめでとう、アスカ』

「ありがと」

 その返事を聞くと、ミサトは電話を切った。
 アスカは大きく溜息を吐くと携帯電話をたたみ、静かにテーブルに置いた。
 あんなに怒っていたアスカが急に静かになったので、シンジは怪訝な顔で彼女を見つめている。
 
「どうしたの、ミサトさん?やっぱり仕事?」

 シンジの顔が見られない。
 ここであっさりと『今日は私の誕生日だからミサトは気を利かせてくれたの』と言える様では苦労はない。
 言えないから、今の今まで今日が自分の誕生日だと告げられなかったのではないか。
 しかも彼に自分の口から言いたいがために、ヒカリに口止めまでしていたアスカである。
 金曜日にこっそりと学校でヒカリから小さなプレゼントの包みを受け取った様はまるで禁制品の取引のようだった。
 
「う、うん、まあ、そんなとこ…」

 俯いてそれだけを言うと、シンジはあ〜あと声を上げた。
 せっかくこんなにご馳走を揃えたのになぁとぼやき、何時になったら帰ってくるんだろうと壁の時計を見上げる。
 アスカはその様子を横目で見ながら小さな声をようやく振り絞る。

「全部食べなさい…って」

「えっ、でもミサトさんの誕生日なのに。意味がないよ、そんなの」

「意味は…ある…のよね、それが」

 アスカの様子がおかしい。
 ようやくシンジはそのことに気がついた。
 自分の顔を見ないで、テーブルに向かって呟いている。
 そっぽを向いて喋ることはままあるのだが、その場合こんなに小さな声で話すことなど絶対にない。
 
「意味って、何の?」

「た、た、た、誕生日…」

「だから、ミサトさんが帰ってこないんだから、誕生日の意味はないじゃないか」

「ミサトじゃなくて…」

「僕?僕は…その…つまり」

 シンジはシンジでアスカに自分の誕生日を伝えられないでいた。
 彼の場合、誕生日を祝って欲しいとかプレゼントが欲しいというためではなく、アスカの誕生日を知りたいという気持ちが強かった。
 そのために自分の誕生日を教えて…と思ったが、どうしても彼女の罵詈雑言が返ってくるイメージしかできない。
 『それがどうしたってわけぇ?もしかしてこのアタシに祝って欲しいってことぉ?はんっ!アンタ、何様のつもりぃっ!』
 だからシンジは自分の誕生日を言えないでいる。
 しかし、この時、彼はこの状況を利用しようと考えた。
 自然な流れで誕生日の話ができるではないか。
 シンジは腹に力を入れて言葉を継いだ。

「ぼ、ぼ、僕の誕生日は6月6日なんだっ」

 アスカの知りたくてたまらなかった情報。
 それが今わかった。
 しかし、その嬉しさよりも別のことで頭はいっぱいだ。

「あ、あ、アスカの、た、た、誕生日は?」

 来た!
 シンジ、ありがと!
 これで自分から言い出さなくても済む。
 アスカは歓喜の思いで唇を開いた。
 が、言葉はすっと出てこない。

「じ、じ、じゅ…。アタシはっ、あ、その、つまり、アタシの誕生日はっ、誕生日はっ、誕生日は…」

 12月と言えず、最初に巻き戻してみたもののそこから先に進んでくれない。
 シンジがおかしく思っているだろうと、自分を叱咤激励するのだが唇は動いてくれない。

「誕生日は?」

「誕生日はっ!」

「いつ?」

 シンジの言葉も上ずってしまうのは、アスカにつられた為ではない。
 彼もまた興奮しているのだ。

「い、いつかというと、アタシの誕生日はっ」

 今日だ、と言う方が容易かっただろう。
 しかし、彼女の頭は12月4日というフレーズに支配されている。
 その12月がなかなか出てこないのだ。
 
「じっ、じっ、じゅっ…」

 何とかそこまで言った。
 アスカはテーブルの上をそれはもう恐ろしい目つきで睨みつけている。
 もちろん、彼女の目には何も見えていない。
 頭は真っ白なのだから。
 
「じゅっ、じっ、じゅっ…」
 
 しかし、その目つきをシンジは誤解してしまった。
 アスカが繰り返す「じ、じゅ」と、その視線にあるものが簡単に結びつくからだ。
 彼女の目の前にあったのは輸入もののジュースである。
 そう、あの特製ラベルの。
 シンジはアスカがそのジュースを求めているものだと了解した。
 彼女の視線にはジュースどころか何も入っていないことなど気がつかずに。

「ジュース?」

「そう!ジュース!」

 じゃなくって、と言おうとしたが、シンジは既にジュースの蓋を外してしまっていた。
 興奮状態のシンジは葡萄の香りに含まれるアルコール臭に気づかない。
 手近なコップを手に取り、とくとくとくと葡萄(えび)色の液体を注いだ。
 
「はい、どうぞ」

「ありがと」

 渡されたカップを何の疑いもなくアスカは唇に運んだ。
 確かに喉がからからに渇いてしまっている。
 ごくごくごく。

 因みにこの偽ぶどうジュース。
 アルコール度数20%。いささか、高い。

「もう一杯」

 ぐっと差し出されたガラスのコップにシンジはまたとくとくとくとジュースを注ぐ。
 
「ありがとね、シンジ」

 ごくごくごく。
 またもや一気に喉に流し込む。

 これが、この狂詩曲の導入部分だった。

「シンジ?」

「な、なに?」

「ぐふふ、アンタも飲めば?おいしいわよ、これ」

 この時点でシンジがアスカの様子に気がつけばよかったのだろう。
 しかも彼は気づきかけたのだ。
 アスカの雰囲気がいつもと違ってきたことに。
 それがミサトのそれと重なった瞬間に正解が導かれるというのに、彼はそれを見失ってしまった。
 何故?
 誘惑されたから。

「はい、どぉ〜ぞっ。面倒だから、もうアタシのコップで飲みなさいよ」

「えっ、い、いいのっ?」

「はんっ!アタシと間接キッスしたくないわけぇ?ほら、ここ。ここで飲んだら間接キッス。うふふふふ」

 アスカはぐるりとコップを半回転させて、シンジの前に置いた。
 彼女の指示した部分を凝視した彼にはもうアスカの様子がどうとか関係なくなっている。
 飲むべきか、飲まざるべきか。
 ここで躊躇ってしまうところがいかにもシンジである。
 結局飲むのだから、さっさと飲めばよいものを。

「せっかく美味しいジュゥ〜スなんだから一気に飲みなさいよ、ねっ」

「う、うん。いただきます…」

 そう宣言したものの彼は唇の手前でコップを止める。
 あと10cmほどで間接キッスなのだ。
 彼の頭の中では、もはやジュースを戴くのではなく、アスカの唇を戴くことに変化してしまっていた。
 
「こぉら!さっさと飲みなさいよっ!あ、そうだ。一気に飲めたら、アタシの誕生日教えてあげるっ!」

 えへへと笑うアスカの唇を目にしたシンジは、唇を二度三度震わせ、そしてコップに口をつけた。
 かちっと歯とコップが音を立ててぶつかったが、そのまま彼は中の液体を喉に流し込む。
 げっ、に、苦い!
 どこが美味しいんだよ!と思いながらも、アスカの誕生日はぜひとも知りたい。
 飲むことを中断したかったのだが、シンジは無理矢理に苦いぶどうジュースをごくりごくりと飲み込んだのだ。
 ぱちぱちぱちぱち!
 機嫌よく拍手したアスカは空になったコップにさらにジュースを注ぐ。

「はい、もぉ〜一杯、どぉ〜ぞ」

「た、誕生日は?」

「ん?誰の?」

「アスカの!」

「アタシ?12月4日!」

 いともあっさり。
 もう何ヶ月も言えなかった事をアスカは口にした。
 にっこり笑う彼女の顔はそれはもう耳の先まで真っ赤になって。
 しかし、それをシンジは恥じらいと見誤った。

「教えてあげたんだから、ほら!飲めっ!」

「うん!」

 喜びのあまり、シンジは苦さを忘れ彼女の命令どおりにコップのジュースを飲み干した。
 うへぇ、やっぱり苦い。
 どうしてこんなのが美味しいんだ?
 でも…何だか変だよ、これ。

「うふふふふふ、楽しいわね、シンジ」

「へ?何が?」

「もうっ、アンタ馬鹿ね!ふふふ、お馬鹿さんっ。ぐふふ、今日はアタシの誕生日なのよっ」

 満面の笑顔でアスカは機嫌よくべらべらと喋る。
 
「あっ、そうなんだ。今日が12月4日じゃないか」

「うふふふ、何を今更。そぉ〜よ、今日が12月4日!アタシの15回目の誕生日でぇ〜すっ!」

「お、おめでとう」

「きゃはっ、シンジにおめでとって言われちゃったっ。信じらんなぁ〜いっ!うっれしぃ〜っ」

 手を叩いて喜ぶアスカの様子を胡散臭そうな目で眺めるシンジ。
 その眼差しがいささか据わり加減であるのにハイテンションなアスカは気づかない。

「どうしてそんなに喜ぶんだよ。いつものアスカと違うじゃないか」

 ぶつぶつと呟くシンジは少し上目遣いである。

「何言ってんのよ、アタシはいつもと同じよっ。ぐふふ、そぉ〜だ、アタシの好きな詩を聞かせてあげる。てへっ」

 立ち上がったアスカは浪々と詩を暗誦する。
 ボディランゲジもたっぷりに、感情豊かな声音で詠うアスカだが、それはまったくシンジに通じない。
 ドイツ語だから。
 彼はじっとアスカを睨むように見つめていた。
 やがて諳んじ終えた彼女は満足気に座ったが、シンジはいつもの彼に似ず膨れっ面である。

「どぉ〜お?素晴らしい詩でしょっ。拍手はっ?」

「そんなの僕にわかるわけないじゃないか。どうせドイツ語なんだろ。きっと嫌がらせなんだ。苛めだよ」

 ごくごくごく。
 どうして苦いとわかっているのに飲んでしまうのか。
 自分でもわからないままにぶどうジュースをコップに注ぎ、呷る様に飲み干す。
 
「ちぇっ、もう無くなっちゃったよ。ジュース」

「ふふん!ほしい?まだあるわよ。たっぷりねっ」

 うかれたアスカは自分の部屋に走っていく。
 ふらつきもせずに駆けていけたという事は身体能力の方には酔いはまわってないのだろうか。
 両手に2本ずつ抱えて戻ってきたアスカは「どぉ〜ぞ」とシンジの前にその4本を置く。

「あれ?違うジュース?」

 ラベルが違うことだけはわかったシンジだが、ドイツ語の読めない彼にはワインだと読み取れない。

「同じよっ。くふふ、飲んだらわかるってもんよ。ほらっ、アスカ様が注いであげるっ」

 ハートマークが何個もついているような調子でアスカは喋るのだが、それはまったく彼には通じない。
 
「いいよ、自分で注ぐから」

「わっ、何その態度!アスカ、悲しいぃ〜」

 アスカが浮かれるのとは正反対にシンジはどんどん沈んでいく。
 こくこくこく、ごくごくごく。

「なんだ、同じジュースじゃないか。僕を騙したんだな、くそっ」

「何言ってんのよ、アタシにもちょ〜だい」

「いやだ。このコップはアスカの飲んだものだから僕のものだ」

 何気に強烈なことを口走るシンジである。
 しかし、相手の言葉を表面上でだけしか受け取れないのがこういう状態の時の流れである。

「ちぇっ、ケチ!それじゃ、アタシは自分で…」

 シンジがコップを離さないのでアスカは空のコップを手にしてワインを注ぐ。
 とくとくとく。
 ごくごくごく。

「美味しいっ!何杯でも飲めそうっ!」

 えへらえへら笑うアスカは幸福そのもの。
 シンジの方は溜息を吐いてもう一本のワインの蓋を開ける。
 なぜならアスカが今開けたばかりの壜を握って離さないからだ。

「ああっ、世の中バラ色。人生最高の誕生日よ!」

 饒舌なアスカは、そしてついに叫んだ。

「アタシ、シンジのことだぁ〜い好きっ!」

 シンジは喜んだだろうか。
 否、彼はまるであの父親のように鼻で笑ったのだ。

「ふん、どうせそれも嘘なんだろ。僕をかついでるんだ」

「かつぐぅ?ああ、騙すってことね。あはは、ばっかみたい!アタシがシンジを騙したことなんてあるぅ?」

「一日に3回くらいは騙してるじゃないか。醤油をって言ったのにソース渡したり」

「アタシは目玉焼きにはソースなのっ。お願い。アタシの好みに合わせてよぉ」

 甘えた声をあげるアスカだが、シンジは自分の世界に入り込んでいる。

「コーヒーに砂糖入れたって言いながら本当は入れてなかったり」

「あぁ〜ん、だって入ってないことがわかった時のシンジの顔が面白いんだもん。あっ、それにその顔がとっても可愛いからってのも」

「ほら見ろ!面白がっているだけなんだ。ごくごくごく。この前は僕を呼び出した手紙なのに勝手にアスカが会いに行ったじゃないか」
 
「あれはぁ、愛するアンタに変な虫がつかないように、ちょぉ〜とお灸をすえて上げただけでしょ。
うふふ、アタシは愛人も二号もなぁ〜にも認めないし、もしそれでもってちょっかい出すつもりなら明日の太陽は拝めないわよって。でへへ」

 危ないと思って後をつけてきたヒカリがアスカを羽交い絞めにしたことまでは言わなかった。
 殿中でござる!を地でいく有様で、その下級生は地を這うようにして地獄からの使者から逃れたそうな。

「あの時は直接断ろうと思ってたんだ。余計なことするなよ。僕はアスカのことが好きだからって」

 文章にすればなかなか格好の良い台詞を吐いているのだが、如何せんその口調がいけない。
 遺伝というものは恐ろしく、亡き司令のような机に肘を吐きぼそぼそと喋っていればせっかくの台詞も台無しだ。
 その上、アスカの方も彼の言うことをすべて聞き取っていない。
 彼が喋っている間にワインを1杯飲み干すと、まだ表面張力の限界まで壜から注ぐ。
 好きだと言われているのに、その前の「余計なことするな」で頭の中はいっぱいである。

「だってぇ、もし色仕掛けでこられたりしたらぁ。キスしていいよ、とかぁ。胸さわっていいよ、とか、ああ、突然裸になられたら、アンタ我慢できるぅ?」

「馬鹿らしい。ごくごくごく。今は冬だよ。体育館の裏で真っ裸になったら風邪ひくだろ。それに僕はアスカの裸にしか興味はない」

 少し、いやかなり据わった眼つきでシンジは断言したが、それにはかなり誇張が入っていることは付け加えておこう。
 2番を思い切り引き離した1番がアスカなのだが、そこはうら若き青少年の彼だ。
 アスカの影響で金髪白人のヌード写真にはつい見入ってしまうのである。
 何よりアスカへの思いが通じていないという状態なので、ベッドの下に相田ケンスケからプレゼントされた写真集が眠っているのだ。

「あははは、この嘘吐き!ベッドの下のいやらしい本に気がついてないと思ってんのぉ?」

「思ってないわけないだろ。あの本の写真にマジックで落書きしたのアスカじゃないか」

「ふふふ、当たり前でしょ。あんなヌード写真は何とか法で見たらいけないことになってるじゃない。
アンタが警察に捕まらないように検閲してあげただけでしょうが。ははは!」

 酒の勢い、影響というものは恐ろしいものだ。
 こんな会話が続いているということ自体が不思議である。
 いつもならむっとしたシンジが自室にこもるか、アスカが怒り狂って会話が成立しない筈なのだ。
 おそらくはアスカはハイテンションになり陽気な気分で、怒るということを忘れてしまっているから。
 そしてシンジの方はアルコールで舌の滑りが良くなっていて、言いたいことが次から次へと口から出てくるからなのだろう。
 その代わり、相手の話をよく聞けていないので肝心要の部分をしっかり聞き落としてしまっているのだが。

「写真の女の人全部スクール水着みたいにして、顔には髭を描いただろ。
特に45ページの何か念入りにしていたじゃないか。あの女の人アスカに似ていたから…その…つまり…、アスカが好きなんだ」

 さすがにその写真を何に使っていたかまではアルコールでさえも発言の後押しはできなかったようだ。
 もっともそこらあたりはアスカの耳に届いてなかった。

「45ぉ?そんなの知んないわよ。中にはアタシより綺麗なのがいたから征伐…いや…ごくごく、成敗よね、成敗してやったのもあったけどさ。
そんなに裸が見たいなら見せてあげよっか」

「綺麗?アスカより綺麗な人がいるわけないじゃないか。そうやって僕をいつも馬鹿にしてるんだ」

 シンジはまたもや目の前にぶら下がったチャンスを豪快に見逃した。
 しかし、彼の返事が珍しく短い台詞だったのでアスカはその全文を耳にすることができたのである。

「馬鹿にしてなんかないわよぉ、アタシの馬鹿シンジぃ」

「ほら、そうやって馬鹿シンジって言うじゃないか」

「これは愛しているからこそってヤツなのよ。うふっ。アタシは出逢った時からアンタの事が好きだったの」

 もっともそれに気がついたのがサードインパクト以降だったということをこの時彼女は端折った。
 それどころかかなり誇張表現したのだ。
 しかしながら、そのことについては現在彼女の中で見事に自分本位に整理されている。
 彼のことを好きだったから同居したのではないかということについてはそれ以外に説明ができないのだから。
 ところが当然彼の方ではその発言に食いついてしまう。
 そんなことはない。
 好きになったのは自分の方が先だ。

「嘘だ。絶対に嘘だ。僕なんかより加持さんの方が好きだった癖に」

「あああああっ、それは言っちゃ駄目なのに!ミサトが可哀相じゃない!」

 確実に修羅場と化すような問題発言をアスカが即座に別問題に摩り替えたのは、これもアルコールの助けだったのだろう。
 確かにそこの部分は説明が難しいところなのだ。
 今になって思うと、加持への思いは憧れだったと決め付けることは容易にできる。
 しかし、日本への長い航海中に二度三度加持に迫ったことは事実だ。
 もし彼が年若い女性に興味を持たない性癖でなければ…と思うと、今更ながらにぞっとするアスカだった。
 彼の愛人になっていたならばとんでもないことになっていただろう。
 二重スパイだったのだから、彼に逆上せていたアスカを使って色々なことをさせていたに違いない。
 かも、とアスカは思った。
 決め付けるには加持のことを知らなさ過ぎるから。
 あのミサトでさえ、アスカ相手にしみじみと言ったことがあるのだ。
 男と女はね、身体の関係を持ってもそれですべてをわかりあえるわけじゃないの。
 私と加持はもし結婚してもうまくいっていなかったような気がするわ。
 私は独占欲強いからね…と、そこでミサトは言葉を切ったが、聞いていたアスカは何となくわかるような気がした。
 身体の関係があったミサトでさえ掴みきれない男だったのだ。
 見た目や言動に心魅かれていたことを否定しないが、今にして思うと相手にされていなくてよかったとつくづく思う。
 
 シンジの方はどうだっただろうか。
 男として(先輩として)憧れの気持ちを抱いていたシンジならば、彼を模倣したいと思っても無理はない。
 そして何よりもアスカが異性として好意を抱いた対象なのである。
 ミサトはそれを阻止しようとした。
 加持とシンジではキャラクターが違いすぎる。
 少年の気持ちはわかるが真似などすれば逆にアスカの心が離れていく可能性の方が高い。
 しかし、それをシンジが納得できるように説明するのは至難の業だ。
 そのためにミサトは自己嫌悪に陥ってしまったほどである。
 しかも最終的にシンジが納得したのが、ミサトの苦労とは別な方向からの理由だったから余計にだった。
 アスカがヒカリとの会話の中でこんなことを言ったのだ。
 好きな異性のタイプはカッコよくなくていいから誠実で優しくて頼りなくてもいいから自分のそばにいてくれる男だ、と。
 おお、それならば加持を目指すよりも断然今の自分に近い。
 しかも親友を相手に二人きりで喋っているのだからわざわざ嘘を言うことはないだろう。
 教室の中にいるシンジを意識してわざとそんな話を廊下でしたのだとは、まるで疑わなかった彼は喜びのあまりその時点で扉を開けてしまった。
 もう少し待てばアスカのシナリオでは「それじゃ碇君じゃない」「そうね、そうなの。実はアタシ…」と流れていく筈だったのだが台無しである。
 「アスカ、帰ろうか」とニコニコ顔のシンジを見ると苦笑しかできないアスカだったが、少なくともそのことでシンジの加持信奉が薄れたのは幸いだった。
 がっくりきたのはあれこれと加持の悪口をシンジ相手に言い募ってきたミサトである。
 彼との事は美しい思い出にしておきたいと思っていたのに、反論できない死者に対して様々なことを言ってしまったのだ。
 まともな神経の持ち主なら落ち込んでしまって当然だろう。
 だが、ミサトの落ち込みはそんなに時間がかからなかった。
 シンジやアスカ、それに研究センターの部下たちから異口同音の言葉を聞いたからだ。
 彼女のような女性は男性を包み込む様に愛する方が似合っている、と。
 加持は包み込めるようなタイプの男ではなかったのだ、とミサトは納得してしまったわけである。
 ともあれ、シンジは加持の幻影から抜け出している。
 しかし、それはそれ。これはこれなのだ。
 もはや彼を模倣する気持ちはこれっぽっちもないが、アスカが彼に付きまとっていたという事実は消えない。
 だから、逆に嫉妬にかられる様になってしまったシンジである。

「ミサトさんも昔は加持さんが好きだったんだし、みんな女の人は加持さんみたいな人が好きなんだ。くそっ」

 ぶつぶつと文句を言うシンジ相手に、アスカはあくまで明るく接する。
 ワインのおかげで人生バラ色なのだ。
 
「そんなことないってば。アタシはあの詩みたいにアンタのこと大好きなのよっ」

「詩って、さっきのあれだろ。外国語の」

「ドイツ語。ハイネの有名な愛の詩よっ。日本語に訳してるのは覚えてないわ」

「あんなの詩か何かわからないよ。愛だなんて言われても意味がわからないし」

「うふふ、仕方のない馬鹿シンジね。では、書いてあげましょ〜うね」

 アスカは周囲を見渡すが都合よくノートなどがあるわけない。
 仕方なく近くにあった紙を手にした。
 それは不動産のチラシだった。
 買い物帰りのシンジが夕刊と一緒に持って上がってきて、サイドテーブルに適当に置いたものである。
 新築のマンションで中古物件の案内を入れるとは奇妙だがそういう需要もあるのかもしれない。
 彼女はそのチラシの裏にさらさらっと詩の文面を書く。
 因みにこの詩をアスカがずっと好きだったわけではない。
 幼少より英才教育を受けていたアスカは理系を主に学習している。
 ハイネの詩など習ったことなどない。
 それを知ったのは日本に来てからだ。
 しかも詩など読む余裕ができたのは当然サードインパクト以後に決まっている。
 乙女の片思い(ではないと知人友人挙って否定するが)真っ最中のアスカが図書館で発見したのがハイネの詩集だったのだ。
 日本語の読み書きはできるがやはり生まれてこの方馴染んでいるドイツ語の方がよかろうと、
インターネットでようやく原文を探し出した彼女だ。
 何度もその詩をノートなどに書いているので、一文字もつまらず書き終えた。

「はいっ、どぉ〜ぞ!」

 大いに褒めてもらえるものと得意満面でチラシを差し出すが、受け取ったシンジは暗い表情でドイツ語を睨みつける。

「ふん、読めない」

 あるいは後十数年経過すれば、碇ゲンドウの様な雰囲気を醸し出すこともできるのかもしれないが、
今のシンジではせいぜい拗ねた子供である。
 そこがアスカから見ると可愛くて仕方がないのだ。
 まるでぬいぐるみか小動物のように思ってしまうのであろう。
 で、彼女はその嗜好性が赴くままに行動した。

「きゃっ、シンジ可愛いっ」

 くるりとテーブルを回りこむと、アスカはいきなり背後からシンジの頭を抱きしめた。
 もしシンジが正常であれば鼻血でも噴出しかねないような状態である。
 ボリュームはないが形はいい(本人談)胸の谷間に後頭部が収まり、
まるでぬいぐるみを抱きしめるかのようにアスカはシンジの頭をすっぽりと包み込んだ。
 恋する女性にこんな風にされているにもかかわらず、彼が漏らしたのはただ一言。

「くるしい」

 しかし酔えるアスカはまったくめげない。
 彼の頭を解放するとわざとらしい泣き顔を見せながら、ひどいひどいと身体をくねらせる。
 
「もうっ、シンジったら。アタシがこんなに大好きなのに、ひっどぉ〜いっ!」

「ふん、僕がアスカを大好きなのよりも絶対に少ないに決まってる」

「ああっ、そんなことを言う!よしっ、じゃ!」

 アスカはさきほどハイネの詩を書いた紙を取り上げると、またテーブルの反対側に戻るとそこに座った。
 そしてボールペンを手にしたが、そこでうぅ〜むと悩んでしまった。
 何故ならばこんなに重要なことを書くのに下手糞な日本語文字では彼女のプライドが許さないのだ。
 それにそろそろ頭がはっきりしなくなってきている。
 すでにワインを飲むことは二人とも止めているが、酔いはすっかり身体中にまわっていた。
 考えながら日本語で書くよりもドイツ語の方が遥かに簡単に書ける。
 アスカはうむと大きく頷くと真剣な表情でペンを走らせた。
 書き終えるとぐふぐふと笑いを浮かべ、アスカははいどうぞとシンジの前にその紙を置く。
 そろそろ頭の回転が止まってしまいそうなシンジは目を細めてまったく読めない文章を眺める。

「読めないよ。全然。どうせ僕なんてアスカにはどうだっていいんだ」

「もう!シンジったらぁ、これが読めないのぉ?」

 読めないという彼の発言はまるで聞いていないアスカである。
 彼女はにんまりと…いや、唇を歪ませて笑った。
 そう、あの「ちゃ〜んす」の時の邪悪な笑みである。
 そして、ワインを誤飲してからはじめて、いつものポーズをとったのだ。
 腰に手をやり仁王立ちした彼女は酔いが醒めたのか?
 いや、それはない。
 極度の興奮状態により普段の自分が顔を覗かせたのである。
 酔っ払っていることの証明は簡単である。
 いつもの彼女ならば絶対に言えない事を胸を張って宣言したのだから。

「しっかたないわね。それじゃ、馬鹿シンジのためにアタシが訳してあげる!」

 シンジは少しとろんとした目を上げた。
 普通ならば「その眼つきは何よ!」と怒鳴りつけているところだが、今のアスカにはそんな気が散る余裕がない。
 自分の恋心を相手に訴えたくてたまらないのだ。
 何ヶ月も言いたくて言えなくて、拒まれるのではないかと恐れに恐れ、そして毎晩自分の部屋で予行演習を重ねに重ねてきたのである。
 だから一旦喋ることができるとなると、流れるように言葉が出てくるというわけだ。

「このアタシ、つまり惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジにすべてを捧げることを誓う。
 身も心もすべてシンジのものってこと。結婚できるようになったらすぐにシンジのお嫁さんになるの。
 シンジはアタシの最初にして最後の男になるってわけ。まっ、アンタにもこのアタシが最初で最後の女ってことにしてもらうけどね」

 にんまりと笑うアスカは満足気に言い切った。
 さて、言い切られたシンジはどんな反応を示したのだろうか。
 ぼんやりとした頭で一生懸命にアスカの宣言を咀嚼しているのだ。
 
「つまり…僕と結婚してくれるってこと?」

「ふふふ、簡単に言うとそうなるわね。えへへ、いいでしょっ、ねっ、ねっ!」

 まるで幼児の様にぴょんぴょんとジャンプするアスカを吟味するかのようにシンジは見つめる。
 彼女が真剣に見えないだけに宣言の真偽が判断できないのだ。

「う、うぅ〜ん、本当なら嬉しいけど」

「ホントだってば!どぉ〜して信じてくれないのかなぁ。アタシはこんなにシンジを愛しているっていうのにっ」

 シンジは情けなく唇を尖らせると、まるで幼児の様に悩む。

「だって、僕をからかってるんじゃないかって」

「もうっ、からかってるってひっどぉ〜い!こうやって誓約書まで書いているっていうのに!」

 アスカはチラシの裏に書かれた詩と宣言文を誓約書に進化させ、その薄い粗悪な紙をどんどんと拳で叩く。

「誓約書なの?それ」

「そぉ〜よ!だから、ここにアンタがサインしたら契約はできたって事。この契約書は公式に成立するのよ!くくくくくっ」

 数秒で契約書へとさらに変化させたチラシをアスカは手に取りひらひらと仰ぐ。

「でも…」

「でも、何よ。何かオプションが欲しいの?毎朝キスで起こして欲しいとか?子供が何人欲しいとか。
 いいわよ、何でもOKっ!アンタの欲しいものはアタシが何でもあげる!」

 だからお酒はいいのよ!とミサトがこの状況を見ればそのように叫ぶだろう。
 酔ったアスカはいつもの天邪鬼や見栄や短気が影を潜め、実に素直に心中を曝け出している。
 この場合、「でも、何よ!ぐずぐず言ってんじゃないわよ!馬鹿シンジ!もう、いいっ!」と叫び、
ビリビリビリ!とせっかくの宣言文にして誓約書にして契約書であるチラシを破いてしまったに違いない。
 しかし、今のアスカは女神の如く寛大にシンジの戸惑う理由をいささか先走って尋ねていた。

「でも、僕、ドイツ語書けないし」

「へ?うふふ、はははっ、あはははは!いいわよ!日本語で全然OK!ラテン語でも古代ヘブライ語でもなんでもいいってことよっ」

「本当?じゃ、書く。僕、書くよ!名前を書けばいいんだよね」

「書いて、書いてっ。ここ、ここ!ボールペンはここよ!」

 シンジの前にチラシの裏紙を置き、ボールペンを差し出す。
 あまりの勢いにボールペンがシンジの眉間に突き刺さってしまわないかと思わんばかりである。
 酔っぱらった頭でも彼の望む最大級の状況になっていることだけは理解できたようで、シンジはボールペンを固く握った。
 
「名前と…、住所とか電話番号は?」

「書いて、書いて!好きなものは何でも書いていいわよ!」

「好きなもの?えっと、待ってね。僕、書くの遅いから」

 酔ってはいても性格や癖は出るようで、シンジは丹念に文字を綴る。
 名前、住所、電話番号、学校名、クラス、出席番号を書いてから、彼はその下に“好きなもの:”と記してからアスカの名前を続けた。

「好きなものってアスカしかいないもんね。えへへ、これでいい?」

「いい、いいっ、すっごく、いいっ!」

 ぱちぱちぱちとアスカは拍手を贈った。
 へへへと笑うシンジは照れているのか、それとももう半分以上夢の世界に旅立ってしまっているのか。

「あとはハンコ押すの?」

 几帳面なのか、日本人的発想なのか、そんなことを言うシンジにアスカはちっちと顔の前で人差し指を左右に振った。

「契約書の完成は…血をもって…なんてのは悪魔の契約っぽいわよね。うぅ〜ん」

 アスカは立ち上がり腕組みをしてくるくると部屋の中を回る。
 その円の直径は非常に短く、そんなことをすれば酔いがどんどん回ってしまう。
 しかし、自分がアルコールを飲んだと思ってもいない彼女は気にも留めずに思考に集中した。
 そして、とても甘美な結論を導き出したのだ。
 アスカはぽんと手を打った。

「これこれっ!やっぱりロマンティックにいかなきゃね!契約書の完成は二人のキス!ぐふふふふっ!これっきゃないっ!」

 照れもせずに契約方法を宣言したアスカだったが、肝心の契約相手を見て大きく息を吐いた。
 シンジはテーブルに突っ伏して眠っていたのだ。
 アスカは彼を叩き起こしただろうか。
 否。
 今晩のアスカはとんでもなく優しい。
 言いたいことをどこまでも言い、今までまったくできなかった告白をしっかりと完遂できたのだ。
 達成感による精神的な部分とアルコールによる肉体的の双方における心地よい酔いは彼女を天上の女神のように微笑ませる。
 
「もうっ、シンジったら。うふふ、可愛い寝顔。
まっ、いいか、これでアタシたちは恋人同士なんだから明日からはいつだってキスくらい簡単にできるんだもんね。ふふっ」

 アスカはそっと彼に近づき、顔と顔をすぐ傍までくっつける。
 前倒しのキスをしてやろうと思っていると、シンジがくすんと鼻を鳴らした。
 その瞬間、彼女は血相を変えた。
 キスしようとしているのにと怒ったのだろうか。
 否。
 彼の身体の心配をしたのだ。

「大変!風邪ひいちゃう!馬鹿ねぇ、いい気になってワインなんかぐびぐび飲むからよ」

 優しく彼を見下ろすアスカはその時点でようやく気がついた。
 シンジがワインを飲んでいたことをやっと認識したわけだ。
 そして自分も同じものを飲んでいたこともついでに思い出した。
 あらまぁ、アタシけっこう飲んじゃってるじゃない。へへへ、アタシって強い方なんじゃないの?酔っ払ってないんだから。
 そんな感想を抱いた彼女だが、酔っ払いほど自分は酔っていないと思うことは世界の常識である。
 アスカは大きな欠伸をした。
 沈没したシンジと同様に睡魔が襲ってきているのだが、それがアルコールの所為ではないと思い込んでいる。
 まだ9時にもなっていないというのに。
 彼女の誕生日はまだ3時間以上残っていた。
 アスカはシンジをベッドに移動させようと彼の身体を抱えようとした。

「お、重い!何これ!シンジの癖にっ」

 脇に手を入れたが支えきれずに彼の身体ごとずるずるとカーペットにへたり込んでしまう。
 ごろんとカーペットに横になったシンジはまるで目を覚まさずにすやすやと眠っている。
 そのすぐ傍で座り込んだアスカは大きく溜息を吐く。

「アタシ、こんなに力なかったっけ?シンジが重いってこと?うぅ〜ん、って、赤ちゃんみたいね、こいつ」

 まるで胎児のように丸まって眠るシンジを見下ろしてアスカは微笑む。
 男ならばこういう場合大の字で眠る方がいいのだろうが、シンジの場合はこっちの方がらしいと思える。
 そんな感慨も彼が鼻を小さく鳴らすのを見てどこかに消し飛んでしまった。
 こんな冬に床に寝っ転がっていれば風邪をひくのは自然の成り行きだ。
 彼女はシンジを何とかベッドに運ぼうと考えた。
 が、不可能だった。
 両脇に手を入れ身体を持ち上げようとしても上半身が床から離れるのがやっとでベッドまで運ぶなどとんでもない。
 30cmもずるずると移動させるのが精一杯だった。
 これがいつものアスカならばシンジを蹴飛ばして起こすところだろうが、今の彼女にそんなことができるわけがない。
 酔っ払いの頭で最良の方法を考え出し、アスカはその考えを実行した。
 自分の部屋から毛布と掛け布団をリビングまでひきずってきたのである。
 そして掛け布団をシンジの隣に置くと、彼の身体を布団の上までごろごろと転がした。
 掛け布団だからふんわりとしている中にまるで宝石か何かが貴重品のように納まっているようにアスカの目には見える。
 それはまさしく惚れた僻目であるだけだ。
 アスカはその彼女だけの宝石の上に優しく毛布をかけた。
 うん、これでいい。
 大きく頷くと、アスカは再び大きな欠伸をした。
 ああ、眠い。眠くてたまらない。
 彼女は身体の欲求に応える為、自分の部屋にゆらゆらと歩いていった。
 しかしそこには就寝グッズが不完全な状態で残っているだけだった。
 アスカは自分の枕をぎゅっと抱きしめ途方にくれて立ちすくんだのである。



 2016年12月5日、月曜日、午前5時。
 まだ真っ暗な中をタクシーがマンションの前に止まった。
 新帝国ホテルから急いで帰ってきたミサトが車から降り立つ。
 走り去る車を横目に彼女は小さく溜息を吐いた。
 まさかチェーンロックしてないでしょうね。
 扉を叩いて「開けてぇ〜!」なんて叫べないわよ、29歳と360日を生きてきた大人としては。
 ミサトは表玄関から入るとエレベーターに乗った。
 フロア番号を押すと、背中を壁に寄りかからせる。
 すぅっと微かに浮遊感を身体に覚えるが、その感覚は彼女に数時間前の高揚感を思い出させた。
 ミサトはへへへと笑うと、開いた扉から身体を廊下に移動させた。
 チェーンロックがかかってませんようにと祈りながら。

 ロックはかかっていなかった。
 ほっとしたミサトが静かに玄関に入り、自分の部屋に向かおうとリビングへ到達したその時だった。
 薄暗がりの中、リビングの真ん中に何かがある。
 目を凝らすと布団のように見えるが、そこには誰かが横になっているようだ。
 ミサトは壁の照明スイッチを入れた。
 パッと明るくなるリビングの白さにミサトは一度目を瞬かせると、思わず眉間に指を当て呻き声を上げてしまった。

「あちゃあぁ〜、この子たちまさか、やっちゃった?」

 リビングの真ん中、床には掛け布団の上で毛布に包まって眠る少年少女の姿があった。
 身に覚えがあるミサトがつい邪推してしまったのは仕方がないだろう。
 抱き合ってはいないもののおでことおでこをくっつけるようにして二人は眠っている。
 その寝顔はあまりに幸せそうで天使のようにミサトの目には見えた。
 そんな天使を疑うのは何かと思いながらも保護者としては確認せずにはいられない。
 まず二人とも裸ではなく、だがパジャマにもなっておらず、昨日のままの服装のようだ。
 その点ではまず安心し、彼女は眠れる二人にそっと近づくとくんくんと鼻を利かせる。
 情事の痕跡がないかどうか、嗅覚と聴覚を駆使したがそういう雰囲気はどこにもなかった。
 自分の方の痕跡はつい1時間ほど前にホテルのシャワーですっかり荒い流してきている筈だ。
 慌ててドライヤーで長い髪を乾かしたためにまだ少し湿り気が残っているほどである。
 ミサトは念のため自分の胸元を嗅いでみた。
 そこから薫ってくるのはボディーソープの薔薇の香りだけ。
 よし、お酒もあっちもどっちも匂わない。
 しかし、その時彼女はその片側の匂いを嗅ぎ取った。
 自分からではなく、部屋の中から。
 そしてミサトは発見した。
 ラベルを偽造したものとオリジナルとの2種類のワインの、中身がすっからかんになっている数本を。
 彼女がぐっと二人の口元に顔を近づけると、匂う匂う、アルコールの匂いがしっかりと嗅ぎとれた。
 
「この子たちったら…」

 さすがに元作戦部長だ。
 アスカの策謀はすぐに見抜けた。
 偽造ワインを飲ませて温泉旅行をゲットしようと考えたのだろう。
 で、成り行きはわからないが、そのワインを自分たちで飲んでしまったということか。
 そして酔っ払った挙句にこうして寄り添って眠った、と。
 さて、そこが問題だ。
 ミサトは腕を組んだ。
 はてさて、二人は恋人同士になったからこうして抱き合うように眠っているのだろうか。
 普段の彼らならばそんなことはなかろうと判断できた。
 しかし、何しろ子供の癖に飲酒していたのだ。
 酔っ払った挙句に何かが起こったということは充分考えられるではないか。
 ミサトは大きく息を吐き出した。
 いくら考えてもわかるわけがない。
 こういう時は…。

「叩き起こすっきゃないわね。こらっ、起きなさい!」

 どんな夢を見ていたのだろうか。
 夢の世界から戻ってきたアスカが目を開けた。
 その目前にあったのは、シンジの寝顔である。
 いや、寝顔と判断できるほどの距離もない。
 見えたのはシンジの瞑った両目の辺りだけだったのだから。
 目は覚めた。
 完全に覚めた。
 くわっと目を開いたアスカは、がばっと起き直った。

「な、な、な、なんでっ!」

「おはよう、アスカ」

 背後より落ち着いた声音で挨拶をされて、アスカは文字通り飛び上がって驚いた。
 振り返るとそこで腕組みをして立っているのは保護者で大家のミサトである。
 
「み、ミサト!」

「お楽しみだったみたいねぇ、仲良く抱き合って眠っちゃって」

「だ、だ、だ、抱き合ってなんかない!」

「だって、帰ってきたらこの有様だったのよ。鍵はかかってたんだから、自分の意思でこうしていたってことよねぇ」

「知らないっ!アタシ、全然知らない!って、これアタシのお布団じゃない!あっ、シンジの仕業ね!
 眠ってるアタシを布団ごと引きずってきたのね!」

 照れているわけでもすっ呆けているのでもない。
 完全に昨晩の記憶がないようだ。
 座ったまま、アスカはシンジを蹴飛ばした。
 頭ではなく、太腿だったのがまだよかったというべきか。
 さすがに蹴飛ばされては寝起きの悪い彼も目を開けようものだ。

「え…、う、……朝?頭、痛い…」

 シンジは上体を起こしたもののすぐに頭を抱えてしまった。

「はぁ?頭が痛いですってぇっ!見え透いた芝居するんじゃないわよっ、この馬鹿シンジっ!」

 真横で怒鳴りつけるアスカの声にシンジはがんがんする頭がさらに痛くなった。

「ち、ちょっと、そんな大声出さないで…」

「ええっ!大声ですってぇっ!アタシの声のどこが大きいって言うのよ!」

「こら、アスカ。まだ5時過ぎよ。近所迷惑じゃない」

「5時!こんなに早く起こしてっ…、どういうことよ?」

 言葉の最後の方はさすがに声を潜めたアスカだった。

「アスカに、シンちゃん?あんたたち、お酒飲んだわね、未成年の癖に」

 腕組みをして仁王立ちするミサトはここぞとばかりに保護者然として二人を見下ろした。
 身に覚えのあるアスカはそっぽを向き、お酒を飲んだ覚えのないシンジは頭を抱えたままきょとんとした顔になる。
 ミサトは証拠品のワインの壜を手に取り、自分を騙そうとしたのねと追求する。
 その壜の中身をアスカに飲ませたシンジは驚いた。
 
「えっ、そ、それ、ジュースじゃなかったの?」

「ふんっ、アタシは被害者なのよ。ちょっとしたジョークでつくったものをシンジに無理やり飲まされたの」

「ジョークねぇ。温泉に行きたいから一生懸命作ったんでしょう。因果応報ってことね」

 ミサトに見抜かれていることを覚り、アスカは黙秘権とばかりに黙り込んだ。

「じ、じゃ、僕が飲んだのもお酒?逮捕されるの?」

「はんっ、逮捕されたいなら自分ひとりでされてよね。アタシは真っ平御免だわ」

「ええっ、あ、…頭が痛い」

「ほら。二日酔いね、アンタが悪いから罰が当たったのよ」

 憎々しげにそんな事を言うアスカと昨晩のアスカは別人のようだ。
 もっともシンジの方にも記憶はまるでないようで、彼の中ではいつもどおりの同居人の言動である。

「アスカはシャワーを浴びてきなさい。お酒の匂いさせて学校には行けないでしょう。シンちゃんは…二日酔いには何がよかったっけ」

 とりあえず水を飲まそうとミサトは台所に向かった。
 アスカはシンジにまだ文句を言っていたが、布団と毛布を自分の部屋に放り込むと着替えを持ってバスルームに姿を消した。
 食卓の椅子に座りシンジは頭を片手で支え微かに呻く。
 やがてミサトの持ってきた水を飲むと少しはましになったのか、大きな溜息を吐いた。

「シンちゃんは初めて?お酒飲んだの」

 こくんと頷いたシンジは恨めしそうな目でテーブルの上に転がったままの偽ジュースの壜を見た。
 
「どうやらアスカの方がお酒に強いみたいね。人種の違いかしら。わっ、美味しい」

 冷えてしまったがアスカの作った料理を指で摘んで口に運ぶミサトである。
 
「そりゃあ、アスカが一生懸命に作ったんですから、美味しいに決まってますよ」

「あら、ご馳走様」

「そんな…。もっと食べてください。せっかくアスカが作ったんだから」

 だからそれがご馳走様なのよとミサトは微笑む。
 はっきり言わないとこの鈍感な少年には伝わらないと思う。
 しかし、それを伝えても前には進まないだろう。
 どうせなら酔っ払わせてしまえばいいのかもしれないが、さすがに未成年者に酒を勧めるのは保護者としてどうか。
 昨晩のこの二人はどんな風に酔いしれたのだろうか。
 ああやって抱き合うように眠っていたのだから修羅場にはならなかった筈だ。
 そう考えるとその場に居合わせなかったことが悔やまれる。
 しかしミサトはやっぱり駄目だと考え直した。
 昨晩は彼女の人生のターニングポイントになったのだから。

「わかったわ。ちゃぁ〜んとありがたくいただきます。アスカが出たらシンちゃんもシャワー浴びてきなさい。頭がすきっとするわよ」

「はい、わかりました」

 少しは収まったものの頭痛が残っているシンジは唐揚げなどをつまむミサトの周りを片付け始めた。
 偽ジュースのビンを集めて台所に持っていく。
 アスカ特製のラベルを見て、彼は思わず笑ってしまった。
 凝り性にも程がある。
 よくもまあここまで徹底して作ったものだと、シンジは感心してしまった。
 そして彼女が温泉旅行をゲットするためにやったことだと思い出し、自分も行きたかったなと考えたのだ。
 リビングに戻ったシンジはテーブルの上をあれこれと片付けた。
 料理のなくなったお皿は流し場に、ごみはゴミ箱に、そしてチラシは新聞置き場に。
 手にしたチラシの裏を彼はわざわざひっくり返して見ることはしなかった。
 こうして、あの契約書は新聞置き場へと捨て去られたのである。
 
 



「諸君!」

「また、諸君?二人しかいないってば」

 昨日の今日ではあるが、再びミサトは同じ呼びかけをした。
 ただ昨日と違うのはアスカが突っ込みを入れたことだ。
 バスルームから出てきてから彼女はすこぶる不機嫌だったのである。
 今日はもう彼女の誕生日を通過してしまっている。
 結局、シンジにそのことを伝えられなかったばかりか、酔っ払って昨晩の記憶がないのだ。
 抱き合うようにして眠っていたということは何かがあったに違いないのにすっぽりと記憶が抜けている。
 覚えているのはミサトからの電話で誕生日のことをシンジに伝えようとしていたところまでだ。
 そこから先はさっぱりなのである。
 それが心地よい時間であったことは間違いなさそうなので、余計に腹立たしくてならないのだ。
 シンジと寄り添って眠るなどというアスカによってはフォースインパクト級の重大事件だったのに。
 だからこそ、彼女は不機嫌であったわけだ。

「ええっと、重大発表がありまぁ〜す!」

 アスカの突っ込みは華麗にスルーして、ミサトはいささか上ずった声をあげた。
 まさしく、照れているのだ。
 スルーされたアスカだったが、ミサトの雰囲気で何があったかと興味を惹かれた。

「でへへ、実は私、結婚しまぁ〜すっ」

 大人らしく伝えようと決めていたのに、いざその場になるとハイテンションを装ってしまう。
 駄目ね私、と反省しながらもミサトは二人の反応を窺った。
 当然、二人は驚くしかない。
 昨日、ほんの十数時間前まではそんな素振りは一切見せていなかったからだ。
 もっともミサトにしてもそんな素振りを見せたくてもその時間には結婚など考えてもいなかったのだが。
 
「だ、誰と!」

 訊きたいことは隣のアスカが代弁してくれたのでシンジは黙ってミサトの答を待つ。

「私は今日から日向ミサトになりまぁ〜すっ」

「日向さんと?」

「今日って、ミサト!」

 突っ込むところは見事に分けて反応した二人である。
 そして、相方の言葉に「ああ、それもそうだ」と納得し、二つの反応に対するミサトの様子を見た。
 彼女はいつになく頬を赤らめ、ぽりぽりとこめかみを指で掻いた。

「今日ね、センターには遅刻するって連絡入れてるの。先に役所に行って二人で届けを出そうって」

「日向さんと?」

 アスカに問われ、ミサトは少女の様にこくんと頷いた。

「どうして今日なのよ」

「ん…、だって、まだ今なら29歳だし…」

 今日は12月5日。ミサトの誕生日までは3日ある。
 アスカは溜息を吐いた。

「それが理由、ね。まっ、ミサトらしいけどさ。行き当たりばったりで」

 ああ、それを言われると思った。
 ミサトは予想していた言葉に舌をぺろりと出す。

「で、いつからそういう仲になってたの?あの人と」

 ミサトは返事を躊躇った。
 そしてシンジに聞かれたくないらしく、立ち上がって身体をぐっと伸ばすとアスカの耳元で囁いたのだ。
 しかし、シンジにはアスカの叫びでしっかり伝わってしまったのだが。

「昨日!って、まさか、昨日の夜っ?」

 シンジはその情報にさっと顔を赤らめる。
 彼とて15歳なのだ。
 情報の意味するところは充分了解できた。
 
「えっとね…、新帝国ホテルでお祝いのお食事をプレゼントされて、お酒もちょびっと飲んで、いい感じになっちゃって…」

 ミサトはでへっと笑った。

「お泊りしちゃったの」

 さすがにアスカも顔を赤らめた。
 意味がわかるのだから、はっきり言わないでもらいたい。
 しかし、箍が外れたミサトは露骨な描写はしなかったものの昨晩あったことを二人に話した。
 実は喋りたくてたまらなかったようだ。
 
「あ、そ。で、言われたと。今なら二十代の間に結婚できるって。ふんっ、あの顔で何てきざな事を」

「ち、違うってばぁ。それを先に言ったのは私。マコト君は…」

「マコト君!はぁ…」

 大きな溜息を吐いたアスカは考えた。
 そのうちに“マコちゃん”とか“マコト(はぁ〜と)”などに進化するのではないかと。

「彼はね、1回目が終わった後に…」

 1回目とか、終わったとか言うな!
 隣のシンジが真っ赤になって時計を睨みつけてるじゃない!
 突っ込みを入れたかったが、アスカは必死に耐えた。

「土下座するような勢いで結婚してくださいって言ってきたの。私はお古だけどいいの?って思わず訊いちゃったのよね。
だって、マコト君は初め…」

 さすがにその後は口を濁したミサトであった。
 しかしいくら濁そうとも取り返しはつかない。
 シンジは秒針を「35,36,37、……」と言葉にして数えているし、アスカは火照ってきた頬をぷぅっと膨らませた。
 決して興味のない話題ではないが、TPOというものがあるではないか。
 こういう話はシンジのいない場所でして欲しい。是非とも聞かせて欲しい。

「おほんっ。でさ、どうせ結婚するなら20代でいるうちがいいなぁって言ったら、じゃあ今日!ってことになったわけ」

 今日、ね。
 ということは日付が変わってからそういう話をしていたわけだ。
 絶対に後から二人きりで聞こう。微に入り細に渡り。
 アスカはそう決心すると、もう何周も秒針と追いかけっこをしているシンジのために話題を変えようとした。
 そう。ミサトの話の中にとても素敵な話題が見えたのだ。
 彼女はにやりと邪悪な笑みを浮かべると、こんなことを言い出したのだ。

「OK。結婚の事はわかったわ。お幸せに」

「ありがとっ、アスカ。私、幸せにな…」

「それはそれで。浅間温泉の件。よろしくね」

「はい?」

「ミサト、アンタ言ったわよね。新帝国ホテルで飲んだって。まさか水を飲んだとか言い訳しないでしょうねぇ」

「あ…」

 何処かで呑むとは条件に入れていなかった。
 ここであろうが、新帝国ホテルであろうが、4日にアルコールを呑めばミサトの負けなのである。
 ミサトはうう〜んと腕を組んだ。
 ようやく話題が変わってくれてほっとしたシンジはアスカを窘めた。

「アスカ、駄目だよ。結婚するんだからいろいろ物入り…、あ、おめでとうございます、ミサトさん!」

 今更ながらにお祝いがまだだと気がついたシンジは明るく笑顔を向ける。

「ありがと、シンちゃん」

「ちょっと馬鹿シンジ!邪魔しないでくれる?賭けは賭けよ。言わば正式の契約を交わしたみたいなもんよ」

 契約というフレーズに何となく記憶が揺れ動いたが、アスカはそれは置いておき賭けの話に拘った。

「ミサト、アンタも女なんだから女らしく正々堂々としなさいよね」

「アスカ、やめなよ。ほら、僕たちはお祝いのプレゼントをしないといけない方なんだからさ」

「はんっ、プレゼントですってぇ?そんなのもう準備されてるわよ。アンタの方は知らないけどね」

 偉そうに笑ったアスカはミサトに向かって胸を張った。

「いつから一緒に暮らすのか知らないけど、今すぐってわけにはいかないわよねぇ」

「あ、それは…」

 この後に話さなければならない話題を持ち出されミサトの表情が少し曇った。
 しかし、アスカの方は違う意味で持ち出してきたのだった。

「だってさ、アンタの料理を食べさせられたら、愛する“マコト君”だって逃げ出しちゃうわよね」

 その発言を聞き、シンジは「あ…」と得心がいった表情になり、当のミサトは苦笑した。

「自分ではわかりにくいでしょうけどね、ペンペン(洞木家定住)でさえ逃げ出すくらいのそれはそれは素晴らしい料理なのよ。
 さあ、どうする、ミサト?」

「やっぱり駄目?私の料理」

「駄目です!」

 はっきり答えたのはアスカではなくシンジだった。
 彼としてはミサトに幸福になってもらいたいがために、心を鬼にして事実を述べたのだ。
 アスカではなくシンジに断言され、ミサトは苦笑から失笑へと変化した。

「で、アタシからのプレゼント。仕方がないから、このアタシが料理のすべてを教えてあげる。
 これから毎日鍛えてあげるわ。どぉ〜お?素晴らしいプレゼントと思わない?」

 素晴らしくとも思わないし、そんなプレゼントは欲しくないが、料理を改善する必要は断然ある。
 ミサトは心中滂沱の如き涙を流しながらアスカに「ありがとう」と礼を言った。

「あ、大丈夫よ。シンジにはミサトの料理は食べさせないからね。自分で作ったものは自分で食べてもらうだけだから」

「本当?よかったぁ」

 シンジのほっとした顔を見て、そんなに酷いものだったのだと今更ながらに自分の料理の腕を自覚するミサトであった。
 そして彼女は決心した。

「わかったわよ。浅間温泉1泊2日。その代わり、私とマコト君も一緒に行くわよ。新婚旅行だからね」

「えっ、そんなの」

「ふふふ、部屋は一緒じゃないから安心しなさい。って、あんたたち二人きりっていうのも拙いわね」

 拙くなんかない!と言いたい二人だが、声に出して言える訳がない。
 
「洞木さんとかも呼んであげようか。彼女の婚約者も。あ、ペンペンも連れてきてくれたら嬉しいな」

「ミサト?」

 にっこりと笑ったミサトはこんなことを言い出したのだ。
 自分たちの社会的地位から考えると、けっこう大物も結婚式に呼ばないといけなくなるだろう。
 そうなると格式張った披露宴などになりシンジたちが可哀相だ。
 だからシンジやアスカたちといった気取らなくてもいい連中で祝って欲しいということなのだ。
 二人きりの旅行でなくなることは残念だが、この提案は物凄く嬉しい。
 旅費や宿泊費はミサトが面倒見ると言うので、アスカとシンジは友人たちに声をかけてみると答えたのだ。
 
「あのね、二人とも聞いてくれる?」

 ミサトが急に改まった声音で切り出した。
 浮かれた調子がなくなったので、二人は思わず背筋を伸ばしてしまう。

「一番の問題があるの。二人ともこれからどうする?住むところ」

 ああ、それだ。
 アスカもシンジも忘れていたのだ。
 自分たちは居候であって、ミサトが結婚するならば出て行かないといけない。
 奇麗事ではこのまま住んでいていいのよと言えなくもないが、実際問題として3LDKで新婚夫婦と同居などできるものではない。

「マコト君は小さなワンルームだからあそこに二人で住まわせるわけには行かないの。
もうネルフじゃないから、寮にあなたたちを住まわせる大義名分は何もないしね」

「ドイツに帰れってこと?」

「そうは言ってないわよ。帰る気ないんでしょ?」

 即座にアスカは大きく頷き、隣のシンジはあからさまにほっとした表情を浮かべる。

「誰か、保護者してくれる人を探してみるけどね。マヤちゃんなんかがいいんだけど、あそこもそろそろ結婚しそうだし」

 冬月さんじゃ肩が凝るでしょう?と冗談を言われたが、このまま別れる様なことになるくらいならばそれもやむを得ない。
 そんなことを思う二人に、ミサトはさらに冗談めかしく言った。

「例の早期結婚法で二人が結婚するっていうなら話は早いんだけどね。ははは、どう?」

 二人は顔を赤らめ、互いにそっぽを向いた。
 ストレートに聞いてみたが、まだそこまでに至ってなかったかとミサトは落胆する。
 もしかすると昨日何か変化があったかと期待したのだが。

「さてと、そろそろアスカはお弁当を作らないといけないんじゃないの?もう7時になるけど」

 時計を見たアスカは大変とばかりに台所に突進した。
 住まいの問題は大きく避けては通れないが、今は今日のお弁当の方が先だ。
 シンジはその間に洗濯に取り掛かる。
 これはいつもの葛城家の日常だ。
 但しいつもならまだ布団の中にいる筈のミサトはもう起きている。
 彼女は忙しく働く子供たちを横目に、小さく吐息を漏らす。
 それは二人が加持の事を一言も尋ねなかったことが原因だった。
 少なくともどちらかから彼の事はもういいのかと言われるかと観念していたのだ。
 何しろ彼が消えたのはつい数ヶ月前なのである。
 それなのにあっさりと別の男と結婚すると言い出した自分を許せなく思うのではないか。
 純粋に恋愛(片思いだが)をしている思春期の少年少女だから尚更にそう感じる筈だと考えていたミサトである。
 しかし、二人は彼の事を匂わせもしなかった。
 忘れていたなど考えられない。
 となれば…。
 気を使われちゃったのかなぁ…と、ミサトは苦笑した。
 何故こうなったか、アスカの方には同じ女として説明が出来るような気はする。
 しかし、きっとシンジにはわかってもらえないだろう。
 少なくとも今のシンジには。
 いずれ、何年か経過して、大人同士の話ができるようになったら、この話をする時が来るかもしれない。
 それには時間が必要だ。
 ミサトは大きく溜息を吐いた。
 それよりも今は住まいの問題を考えないといけない。
 どうしたものか…。
 やがてミサトは新聞置き場に足を進めた。
 昨日の夕刊にはまだ目を通してない。
 彼女は夕刊を取ろうとして、その上に置いてあるチラシに目をやった。
 中古4LDKマンションねぇ、私たちがこっちってわけにもいかないか…。
 そんなことを思いながら、一応見てみようとチラシを手にする。
 そして、何の気なしにチラシの裏を見た。
 因みに再確認しておくが、葛城ミサトはドイツ語の読み書きができる。
 当然、日本語も。







「手…つ、つないでも、いいわよ」

「う、うん…」

 言葉とは裏腹に繋げと命じているかのように、赤金色の髪の少女はその白い手をぐっと差し出している。
 黒髪の少年は勇気を振り絞ってその手を握った。
 最初はそっと。
 そして次第に強く、固く。
 繋がった掌を通じて、相手の肌のぬくもりが伝わってくる。
 こうして手を繋ぐことが、どうしてこんなに心に幸福をもたらし、そして胸を熱くさせるのか。
 二人はついに駆け出してしまった。
 このままでは心が爆発しそうなのだ。

「プレゼントっ。今日、買ってくるから」

 走りながら喋るので、切れ切れにしか言葉が出てこない。
 少年はそれで充分に自分の意思が少女に伝わるかともどかしく思った。

「アリガトっ。でも、いいわっ」

「えっ」

「もう、貰ったじゃない、アタシ、アンタをっ」

 繋いだ手にぐっと力がこもるが、少女はやはり少年を横目でも見ることができない。
 それは昨日までと同様なのだが、微妙に意識が違っている。
 今日は不安感がなく、ただ恥ずかしいだけだ。
 
「で、でも」

「あの契約書、アタシ、一生大事に、するからっ」

「そ、その、契約書、って、呼び方。別のに、しようよ」

「じゃ…、宣誓書。どうっ?」

 少年は笑って、それでいいと答える。
 
「来年は、お願いねっ。あ、アンタの誕生日は…6月6日よね!」

「覚えてくれてたんだ。はは…」

 あの後、盛大に酔っ払ったのに彼の誕生日はしっかりと覚えていた。
 それを今すっと思い出したのである。

「早く来ないかな、アンタの誕生日。ちゃんと、お祝いしてあげるからねっ」

 ありがとうと言おうとした少年だが、照れてしまった少女が速度を急に上げたので声が出せなかった。
 街路樹の枯葉を蹴散らし、なだらかな坂を駆ける。
 追い抜かれた制服の中学生たちが呆れ顔で二人を見送った。
 それを横目で見ながら、少女はにんまりと笑う。
 あの子たちの目には自分たちがどのように映っているのだろうか。
 昨日までの二人とは違う様に見えているかとわくわくする。
 手を繋ぎながら走っているのだから、他人の目からはそう見えてもらわなくては困るのだ。
 何しろ今日から二人は恋人同士にして婚約者なのだから。
 こうしてずっと手を取り合って生きていくのだと、二人ともに同じことを願い、
 頬を真っ赤に染めた少年少女は手を繋ぎ息を弾ませながら坂道を駆け上っていった。


(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お読みいただきありがとうございました。
 掌話にならない長さと馬鹿さ加減になってしまいましたので、独立短編としました。
 タイトルとなりましたのはアスカが書いたハイネの詩の一節です。ミサトが朗読するという部分もあったのですが、削除しましたので、タイトルとの一致がわかりにくかったかもしれません。申し訳ございませんでした。

 まずは、加持ファンの方、ごめんなさい。私の立場(好み、感覚、倫理観、その他諸々)では彼の存在はAEOEには不要なのです。これまでは無理矢理にミサトとくっつけてきましたが、もう限界。実はこれまでも彼が出てきたことにより中絶してしまったものが何作(発表未発表ともに)かあったのです。ということで、前々から感じられていた方も多いと思いますが、私は作品中で彼の扱いを軽くすることにします。これは所謂ヘイトってことになっちゃうのかどうか。まあ、仕方ありません。立場を明確にして書き進むことにいたします。どうしても加持を気取ったシンジというものが想像できませんので悪しからず。
 またそれに伴いミサトの心移りが問題になってきましょうが、これを書くとなるとそりゃあ修羅場の世界といいますか…最初はこの作品にもかなりのウェートで含まれていたのですが、アスカの誕生日なのに読者の視点がそっちにいっちゃうよなぁとごっそり削除した次第で。後でコピペして別ファイルで保存して置けばよかったと後悔しましたが(涙)。
 一応この世界でのミサトのために弁解を。あえて描写はしませんでしたが、この作品に登場しなかったエヴァキャラのほとんどは赤い海から戻ってきていません。いや、赤い海に行ってすらいないのです。レイ、ゲンドウ、リツコ…。加持がいない(アニメ退場時に死亡設定)世界ではリツコの不在はミサトにとって大きいでしょう。学生時代の仲間は二人ともいなくなり、自分は何のために戻ってきたのかを疑問視していた筈です。しかも彼女は銃撃戦で瀕死の重傷をおっていた。それが何故か生きながらえたという事をミサトは子供たちを見守るという役目を担ったのだと解釈したわけです。ところがその子供たちはサードインパクトを経てかなり成長していた。ただ互いの愛情を告白できないだけで。素直に家事を請負うばかりか充分にその役目を果たしているアスカには彼女も大いに驚かされたのでした。この数ヶ月のうちに子供たちのためというよりも、自分が子供たちに力づけられているという現実にミサトは気がつきます。つまり弟や妹のためにと思っていたのに、逆に二人から生きる力を与えられていたというわけです。ただ明るいお姉さんという役どころではもう駄目なのだと気づき、精神的に大人になろうと彼女的に足掻いていた。それがミサトのこの数ヶ月だったのでした。ですから、センターの同性の部下たちに慕われるまでになったということで。もちろんマコトの愛情にも気がついていますが、そこは加持がいなくなってまだ1年も経っていないのに…と考えていたのです。しかし、そんなことを考えること自体がすでにマコトを異性として意識しているということに他なりません。そういう下地が積み重なっていき、この夜に至ったということです。本来ミサトは母性の象徴たる役目であったのです。だからこそ加持が関係を持った(もちろん彼には他の下心も大いにあったと私は踏んでますが)のでしょう。ところが彼女にはその生い立ちから、愛されたいという願望があったのです。本編後半彼女が常軌を逸してしまったのは、すべて加持の罪作りな最後の言葉でしょう。もし彼が何も言わずに去っていればミサトはあそこまでおかしくならなかったに違いありません。あの一言で自分は愛されていたと誤解(と私は思います)してしまい、子供たちを放り出して復讐に駆り立てられた。そのように解釈しています。ここからは18禁(おい)。加持との関係は狂おしく熱情的なものでした。おそらくはかなりの経験者の彼にいいように扱われたのでしょう。ところが、この夜はまったく違った。稚拙な愛撫でも心は満たされたのです。ここまで書けば大人の読者様はわかると思いますが、若い方にはごめんなさい(おい)。とにかく、ミサトはマコトのことを包むように愛したいと思った反面、愛されていることの喜びも持ったわけです。このあたりはアスカも同様でしょうね、愛したいが、愛されたい。愛されるだけではなく、その相手を支配したい。ああ、隷属とかではなく、ね(笑)。だから、その心を掴みきれない加持のような男はアスカにもミサトにも不向きだったということです(結論)。
 長々と弁解を書きましたが、そういう理由で彼女は一夜にして結婚を決意します。まあ、一目惚れとかではないということでご了解ください。そこには描かれなかった数ヶ月間があるというわけです。

 最後に…。私の書くものでは、何気にマコトがいい思いをしてますねぇ(笑)。ミサトに、マヤに、リツコに、キョウコ!ハーレムでも作るつもりかって感じですが、二股をかけられるような青年ではないので逆にここまで多岐にわたって恋愛相手ができるということでしょうか。そのうち、シゲルにぐさりと刺されそうですよ。俺はマヤ一筋なのに!と(作者註:100%ではない)。
 とにもかくにも、2008年アスカ生誕記念SSでございました。重ねてお読みいただきありがとうございました。


 

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