エヴァンゲリオン掌話集

The scenes between EOE and LAS
 

−御神籤−



 2009.01.08        ジュン

 
 


 ガシャガシャガシャガシャッ!
 威勢のよい音を響かせて、惣流・アスカ・ラングレーが木筒を振る。
 両手で掴み、前後左右に振り回す。
 その勢いの物凄さに横にいる碇シンジは背中につぅっと汗が流れた。

 地軸が戻ったとはいえ一気に冬は到来しなかったので、四季で呼称するならば秋のような気候である。
 しかし常夏に慣れた日本人たちはやたらに寒がっていた。
 そんな彼らを当然アスカは馬鹿にしていた。
 来年は本物の冬が来るというのにこれくらいで寒がるなんて軟弱すぎるんじゃないの?などと。
 ところが真っ先に風邪を引いたのはアスカその人だったのだが。
 それは余談。

 ともあれ少し涼しい程度の正月であったが、それでもシンジは冷や汗をかいた。
 手を滑らせて御神籤の筒がどこかにすっ飛んでいきませんように…。
 1ヶ月前の誕生パーティーで“ふってふってしぇ〜く”を振りすぎてリビングの天井に激突させた、あの大惨事を思い出して彼は必死に祈った。
 しかも今度は大きな木の筒なのである。
 人にでも当たると絶対に怪我をしてしまう。
 アスカの正面にいる巫女さんも笑顔を固まらせていた。
 私、アルバイトっ!こんなの至近距離で顔にぶつけられたら骨折で済む?助けて!
 下手に声をかければその時点で手を滑らせそうな気がして、巫女さんもアスカを止める事ができない。
 そんな二人の不安を他所に、アスカはなおも景気よく木筒を振る。
 もっともその時間は10秒ほどに過ぎなかったのだが、あまりの音の激しさにそれが永遠に続くのではないかと誤解したのだ。
 得心がいったのか、アスカはおもむろにスピードを緩め籤の棒を穴から出す。

「よしっ、2番!ふふん、アタシのラッキーナンバーよっ」

「はい、2番。どうぞ」

 早く向こうに行ってください、お願いだからというオーラを全身から出して巫女さんが引き出しから御神籤を出してアスカに手渡す。
 そんな気苦労を相手にかけたとはまったく気がつかずに彼女は上機嫌でそれを受け取った。
 シンジは溜息を小さく吐きながらアスカの置いた木筒を持ち上げる。
 ガシャっと一度だけ鳴らし、彼はあっさりと棒を出す。
 巫女さんから御神籤を受け取るとシンジはアスカのいる場所に向かった。
 彼女は参拝客が通るところを避けて、通路から離れたところで立っている。
 アスカは手にした御神籤を一心不乱に見つめていた。
 にんまりと笑っているところから見て、いい内容だったんだなとシンジは安心した。
 しかし彼が歩み寄った時、いきなりアスカは手にしていた御神籤を引き裂きだしたのだ。
 
「何よ!こんなの嘘ばっかり!」

「ど、ど、どうしたのっ」

「うっさい!黙れ、馬鹿シンジ!くっそぉ!こうなりゃ、もう一枚!」

 叫んだアスカは御神籤の破片を空に飛ばす。
 ぱっと広がった白い紙切れはすぐに風に舞った。

「ち、ちょっと、御神籤の引きなおしなんて聞いた事ないよ!」

 うきぃ〜!と騒ぐ様はまさにお猿さん。
 因みにアスカの干支は巳。猿ではない。
 そして2017年は酉年だ。
 コケッコッコと騒ぐのならば、それはそれで新年に相応しいのかもしれないが。
 アスカは羽交い絞めにされた。
 もちろん恋人でもないシンジが彼女に身体を密着できるわけがない。
 彼女を背後からしっかりと抱きしめたのは碇レイだった。
 
「は、離しなさいよっ!レイの馬鹿!」

「暴れては駄目。みんなの迷惑」

「うっさい!もう一枚引くんだからっ」

「駄目。それがアスカの運勢。もう決まってるの」

「黙れ黙れ黙れ!どうせアンタはいい御神籤だったんでしょうが!」

「私、凶」

 レイはあっさりと自分の御神籤の内容を明かした。
 その言葉に思わずアスカは暴れるのをやめた。
 すると巻き添えを恐れて遠巻きにしていた同行者たちが近くに寄ってくる。
 もちろん不測の事態を恐れ、シンジを盾にしながら近寄ってきているのだが。
 
「レイって、凶だったの?」

 と、声をかけたのは洞木ヒカリ。
 碇君と碇さんでは区別がつかないので一念発起、旧姓綾波レイのことを名前で呼び捨てにすることにしたのだ。
 もちろんそれはレイの友達を増やそうともくろんだアスカの助言もある。
 レイはゲンドウと結婚したリツコの勧めで二人の養女となったのであった。
 彼女はその誘いに簡単にのった。
 いや、条件を一つだけつけたことを忘れてはならない。
 “弟が欲しいの”と言われ、さすがのリツコも頬を真っ赤に染めてぎこちなく頷いたそうだ。
 以上、その場に居合わせたシンジの情報を聞いたアスカまでが知る秘密。
 
「凶なんて入ってるんか?」

 と、素っ頓狂な大声を上げたのは鈴原トウジ。
 失くした筈の片足はサードインパクトの後、不思議なことに元の通りに戻っていた。
 それは彼だけではない。
 ゲンドウの片手も普通の手に戻っているし、致命傷を負っていたリツコもまた無傷になっていた。
 そのそも身体中傷だらけの上、片目が潰れていたアスカでさえ、包帯を取るとまったく傷一つなかったのだ。
 赤い海から帰ってきた人びとの身体が治癒されていたということは世界中で報告されている。
 またこれは公式に報告されていないが、トウジと彼を看病していたヒカリが彼氏彼女の関係になっていた。
 以上、彼らの周囲にいるものは親兄弟に至るまで知っている公然の秘密。

「普通、吉より上しか入ってないだろ」

 と、眼鏡を押し上げながら発言したのは相田ケンスケ。
 持っていたカメラはすべて瓦礫の下となってしまった。
 仕方なく彼が新1号機としたのはごくごく普通のデジタルカメラ。
 一眼レフでもなく、ズームも3倍までという彼としてはがっくりきてしまうような代物である。
 しかし、ないものは仕方がない。彼だけではなく、復興中の世界は全体的に物不足だ。
 持ち物だけでなく、住居の方も今は突貫工事で建てられている団地へ順番に入居している状況だった。
 ただし、ネルフ関係者は研究所に併設されたハイツ群に住み、その伝でケンスケたちの家族もそこに入っていた。
 以上、ネルフが新たに研究機関として再生されても旧職員はそのままスライドして働いているという事実。

 みんなが自分はどうだったと述べるのを総合すると、中吉がヒカリ、小吉がケンスケ、トウジで、吉がシンジだった。
 しかし、レイが見せた御神籤にはしっかりと“凶”の文字がある。
 
「あるんや。凶も」

「でも、中はそんなに悪いこと書かれてないじゃない。気落ちしなくていいわよ、レイ」

「大丈夫。ただの目安だから」

「相変わらずハードボイルドだなぁ、綾な…じゃない碇は」

 未だにレイのことを呼び慣れないケンスケは言い直し頬をぽりぽりと掻いた。

「もしかして、惣流は大凶やったんか?それで破いたとか」

「うっさいわね、アタシは大吉だったわよ」

「ええっ!」

 驚いたのは全員だった。
 レイでさえ目をぱちくりとしていたくらいだ。

「嘘言うたらあかんで。ほな、なんでもう一回や言うねん」

「ふんっ、アタシの勝手でしょっ」

 アスカは吼える様に言うと、帰ると言い出した。
 そして誰が止める暇もなく、彼女は赤金色の髪を靡かせて大股で境内を横切っていく。
 その後姿をシンジは慌てて追おうとして、しかし別れの挨拶もしなければならないと思い直してくるりと身体を反転させた。

「ご、ごめんね。じゃっ」

 その上で彼はばたばたとアスカの後を追った。

「それでええんか。男として」

「いいんじゃないか、今は」

 男同士がぼやき合うと、ヒカリは笑って言った。
 
「アスカが自分のことを大好きだってわかったら、碇君だってもっと自信持つわ」

 彼女の発言を聞き、レイはもっともなことだと小さく頷く。
 そして、自分のカーディガンに引っかかっている何かに気がついた。
 手にとって見ると、それは御神籤の破片だった。
 アスカを羽交い絞めにした時にくっついたものだろう。
 何気なくその破片を眺めると、そこにはこんなことが書かれていたのだ。

 待ち人 来ない

 アスカが怒り狂ったのはこれが原因か。
 理由がわかり、レイはくすりと笑った。




 

 アスカは部屋に閉じこもった。

 彼女の住む17号ハイツは婚姻者用4戸型だ。
 2DKだが子供ができても別に強制退去はされない、ということになっている。
 お隣の表札には日向と姓が書かれ、名前の部分にはマコトとミサトと見える。
 その二人は名義上アスカとシンジの監視及び管理という任務もセンター長から受けていた。
 もっとも碇ゲンドウセンター長が真剣に監視の要有りと判断していれば二人に同居などさせていないところだ。
 実は彼は入居前に息子と差し向かいで話をしている。
 レイと同様に自分たちと同居するか否か。
 すると気弱な息子はその答より先に小さな声でアスカはどうなるのだと問うた。
 独身者用の部屋に入居するか、ドイツに帰るか彼女本人に選ばせるとゲンドウは素っ気無く答えた。
 見るからに落ち込んだシンジにゲンドウは第三の選択を提示したのだ。
 アスカには何も知らせずに、婚姻者用のハイツに二人とも入居する。
 その提案は魅力的だったが、実の父親からのものだけにシンジは戸惑った。
 そんな彼を睨みつけ、ゲンドウはふんと鼻で笑った。
 そして何かを言おうとしたが、寸前で思い留まったのだ。
 さすがに付き合いの浅い父と子の間で女性関連の話は生臭すぎる。
 
「答えろ。わしは忙しい。わしたちと住むか。今のままでいるか。どっちだ」

「えっ…」

 ここですぐさま本心を言える様な彼ならばサードインパクトは起こってなかっただろう。
 優柔不断な性格をしていたからこそ、エヴァンゲリオンの暴走に助けられたり、無駄な特攻的戦闘をしていなかったのだから。
 だが彼にとっての問題はアスカに対して未だに優柔不断を貫いているということになる。
 あの頃でもそうだったし、今だって同じだ。
 ゲンドウは微かに笑った。

「3秒時間をやる。答がなければ今のままだと判断するぞ」

「あの…」

 実質1秒も経たない前にゲンドウはボタンを押し、自動扉を開ける。

「これが鍵だ。ハイツ17号3号室。さっさと行け」

 父親が投げた鍵をようやくキャッチしたシンジは戸惑った表情のまま扉から出て行く。
 その扉が閉まりきる瞬間まで、そして閉まって数秒経過してもまだゲンドウは期待していた。
 ありがとう父さん、と言ってくれるのではないかと。
 残念ながらまだまだシンジはそこまで成長していない。
 誰もいなくなった部屋の中でゲンドウは一人寂しく呟いた。

「ふん、問題ない」

 そんな彼の想いは寧ろアスカの方が察知している。
 だからこそ気が進まなさそうなシンジを引きずるようにして碇家の夕食に顔を出すことがあるのだ。
 もっとも表面上の理由はあんな変人二人と一緒で夕食を食べるレイが可哀相、だからである。
 綾波レイと碇レイ。
 姓が変わっただけで中身は同じ筈なのに、碇レイになった途端にアスカは彼女と仲良くなった。
 アスカ曰く、クローン人間だなんて可哀相じゃない!と。
 そう、やたらに言葉に出てくる可哀相というのは主にレイに向けられている。
 いつからアスカがレイに友情を感じたのかは定かではない。
 ただ前述したように、碇レイとしてシンジの妹と自らの立場を明確にした時、アスカは彼女と打ち解けたのだ。
 なんとわかりやすい…。
 周囲の大人たちは一様に思った。
 わかりやすすぎて、アスカ本人もその時にシンジのことを好きだと気がついたくらいだ。
 ああ、それなのに。
 当のシンジだけが気づいてくれない。
 しかし、アスカは焦らないことにした。
 ずっと一緒に生活し続け、自分なしでは生きていけないようにしてやる。
 その方針を彼女の心に植えつけた旧姓葛城ミサトはもっと大人の意味で言ったのだが、
アスカは勝手にもっと家庭的な意味で取り違え、その結果家事に邁進するようになったのは怪我の功名。
 そのおかげで同居しているシンジは毎日幸福に暮らしている。
 好きな人と同居し、好きな人に料理を作ってもらい、好きな人とほとんど一緒にいるのだ。
 これ以上の幸福はない。
 
 さて、アスカ。
 彼女もすこぶる幸福である。
 好きな人と同居し、好きな人に料理を作ってあげ、好きな人とほとんど一緒にいるのだ。
 しかし、これ以上の幸福を彼女は欲した。
 好きな人に好きと言って欲しい。
 もっともこの欲求は別に贅沢というわけではない。
 傍目から見てみると、まだ言ってないのかという驚きのレベルである。
 しかし言っていないということが周囲にもろ分かりであるという意味ではまだまだ子供のカップルなのかもしれない。
 いや本人たちの視点ではまだカップルではないが、ともかく微笑ましい限りである。

 そこで、アスカ。
 これまで彼女は自分なりに数々の工作を試みてきた。
 誕生日、クリスマスはもちろんのこと、日月火水木金土。
 ことあるごとに推し進めてきた作戦はそのことごとくが失敗に終わった。
 大抵は自爆、もしくはシンジが鈍感さ故にアプローチを見逃した、その二つが失敗の理由である。
 
 だから、アスカ。
 ここ最近の彼女はご機嫌斜めなのだ。
 それを承知でみんなと一緒に初詣としゃれ込んだ。
 2017年こそはLAS元年と抱負を抱いている。
 自分は暗号のつもりで命名したLASだったが、年賀状にそう綴った相手のヒカリにはあっさり解読されている。
 神社で待ち合わせたときに耳打ちされたのだ。
 あれって、ラヴ・アスカ・シンジでしょう?と。
 そんなことないわよ!と返しながらも解読されて嬉しくてならないアスカだった。
 これはいい年になりそうだと、喜び勇んで御神籤の木筒を振り回したのだ。
 その結果、彼女からすれば最低の御神籤を引いてしまった。
 大吉など要らない。大凶でもいいから、待ち人はすぐに来たりて欲しかった。
 いずれ来る、でもよかったのだが、寄りによって、来ない、と明言されている。
 その文面でついカッとなってしまったのだ。
 シンジを従えて道をずんずんと歩きながら、彼女は友達たちに悪いことをしちゃったと後悔していた。
 後でヒカリに電話をして謝っておこう。鈴原には彼女から伝えてもらおう。相田には彼から伝言してもらえばいい。
 そしてレイには…ケーキを作って持っていこう。
 しかし、その前に…!
 彼女はにんまりと笑った。
 素晴らしいことを思いついたのだ。
 アスカはどんどん足を早め、仕舞いには走り出してしまった。

 彼女が部屋に閉じこもったのは悲しみのためではない。
 悲しみはもう忘れている。
 いや、忘れたというよりも、あの神社の御神籤は当たらないのだと決め付けたのである。
 そして次の手を考え付いたのだ。
 実に子供らしい、くだらないことを。
 しかも今回の目的はただの自己満足なのだ。
 彼女は一心不乱に御神籤を作り始めた。

 がたがたがた。
 いきなりプリンターが動き出して、居間に座っていたシンジは驚いた。
 もっともそれが心霊現象でないことは承知している。
 アスカの端末からコードレスで動かしているのはすぐにわかって苦笑する。
 すると襖ががらっと開き、のしのしのしとアスカが大股でプリンタ目指して歩いていく。
 プリンターの前で腕組みし仁王立ちした彼女にシンジは声をかけられない。
 うっかりしたことを言うと、倍以上になって返ってきそうだったからだ。
 しかしながらちらりと見たアスカの表情はそれほど怒ってなさそうだったのでひとまず安心する。
 何枚かプリントアウトすると、彼女はうんうんと頷いてまた自分の部屋に戻る。
 ピシャリと閉まった襖を見てシンジはがっくりと溜息を吐く。
 2DKの夫婦用の部屋。
 奥の4畳半をアスカは占領している。
 但しその部屋に彼女はシンジの机まで取り込んでしまった。
 自分の机の横に彼の机をくっつけ、ベッドは使わずに押し入れに布団を入れている。
 寝る時にはその押入れからシンジは布団を抱えて6畳間に向かうのだ。
 襖が閉まるのは眠る時と着替えをする時くらいだ。
 開かずの扉やジェリコの壁とは決して形容できない、どちらかと言えば開放的な襖である。
 その襖がしっかりと閉められていた。
 中でアスカは何をしているのか。
 怒った時でも開いていることの多い襖だけに、かえって気になるシンジだった。
 しかしそっと襖を開けて除き見ることは憚られた。
 もし中で着替えなどをしていたら…。
 それはそれでシンジとしては嬉しい光景なのだが、覗いている事がわかれば致命的だ。
 家から追い出されるかどうかはわからないが、少なくとも嫌われるだろう。
 アスカに恋しているシンジとしては嫌われるなど絶対に避けねばならないことだ。
 だが、中で何を?
 気になる。気になりすぎる。

 数分後に襖を開けて出てきたアスカはつんと澄ました顔をしていた。
 彼女はコタツの反対側に座り、シンジの前に数枚のカードのようなものをとんと置いた。

「何これ」

「見たらわかるでしょ」

 なるほど、カードには筆書体で文字が印刷されている。
 大吉、中吉から、凶や大凶まで6種類の御神籤がそこにあった。

「御神籤?」

「そうよ。アンタは神主ってわけ。はい、構えて」

「へ?」

「まったくわからんちんね。御神籤を持つの。トランプみたいに。とぉ〜ぜんアタシに見えないようにするのよ」

「あ、うん。わかった」

 素直に従うシンジは御神籤をババ抜きのように手にする。

「OK!じゃ、今年のアタシの運勢はどうなるのかなぁ〜」

 アスカは白い指先を6枚のカードのどれにしようかと品定めする。
 シンジの方からはどれがどの運勢か見えるので、つい顔に出てしまう。

「ちょっと馬鹿シンジ。アンタがポーカーに弱いのはわかってるけどさ。ちょっとは知らん顔しなさいよ」

 いやいや、それは難しい。
 だって変なの引いたらまた機嫌が悪くなるじゃないか、とシンジは心の中で叫んだ。
 
「これにしょっかな」

「だ、駄目っ」

 アスカが摘んだのはよりによって大凶の御神籤だ。
 取らせてなるものかとシンジは彼女の指を振りほどこうとする。

「何すんのよっ!」

「そ、それは駄目だってば。他のにしなよ」

「うっさいわね、これがいいのっ」

「だってそれ大凶だってばっ」

「ああっ、引く前に言うなっ!この馬鹿シンジっ!」

 言葉は乱暴だが本気で怒っていない事をシンジは見抜けなかった。
 彼も必死だったのだ。
 好きな女の子にいい運勢の御神籤を引いて欲しい。
 まあ、恋する者としては当然の気持ちだろう。
 しかし、彼の気持ちは見事に踏みにじられた。
 アスカは強引に摘んだ御神籤を取り上げたのだ。
 そして、その御神籤にシンジの言った通りに大凶と書かれているのを確認する。

「ああっ、最低!大凶じゃない!どうしてくれんのよ!」

 これだ…。
 僕はどうしてこんな女の子を好きになってしまったんでしょうか、神様?
 シンジは心の中で神様に救いを求めた。

「だから言ったじゃないか、大凶だって」

「はんっ、アタシをはめようとしたって思ったんでしょ。大吉を取らさないようにって」

「そんな!僕はそんな男じゃないってば」

「どうだか?ま、いいわ。今年のアタシの運勢は大凶ってことね」

「で、でも、神社では大吉引いたんだろ」

「うっさいわね。あれはもうなかったことになってんの。がたがた言うと晩御飯抜きにするわよ」

 それは困る。
 この数ヶ月の間にすっかり餌付けされてしまったシンジだった。
 何しろこの二人の部屋にはインスタント食品が皆無なのだ。
 もっともお隣に住む新婚さんの台所に行けばごろごろ転がっているので、
そこに助けを求めればいいだけなのだがシンジの頭にその選択肢はない。
 
「大凶か…。まっ、今年もアンタの世話するんだから、それも間違いじゃないわね」

 にやりと笑われ、シンジは暗鬱たる気分になる。
 しかしあの頃の彼女はどこに行ってしまったのだろうか。
 コンフォートマンションにいた時は家事等まるで手を出さなかったアスカである。
 それが今はどうだろう。
 シンジがしている家事と言えば彼女に命じられたことだけなのだ。
 つまり、日常生活のほとんどをアスカが独占しているのである。
 炊事洗濯のみならず、買い物でさえ制限をつけられてしまった。
 シチューを作るからと買出しに行ってきたシンジが分量を考えずに食材を買ってきたので、
アスカから落第の烙印をしっかりと押されてしまったのだ。
 それ以降は彼は荷物持ちという肉体労働が役目となった。
 もっとも彼は気づいていないが、これは一緒に買い物に行きたいというアスカの欲求がそうさせたのだ。
 ジャガイモなど多めに買ってきても別の料理にいくらでも使える。
 それなのにアスカはそのことに難癖をつけたのだ。
 そして彼女はその望み通りに一緒に買い物へ行くという欲求を満たすことができたのだ。
 だが、あの頃のアスカと今のアスカのどっちがいいと問われれば、声を大にして「今!」と叫ぶことができるだろう。
 どちらもアスカには違いないが、今のアスカは優しい。
 いや、優しい言葉や態度などかけてなどくれないのだが、何となく感じる。
 理屈ではないのだ。
 俯いて暗鬱モードに入っていたシンジは目を上げてアスカを見た。
 彼女は笑っていた。
 手にした御神籤を見つめて、嬉しそうにニヤニヤと。
 自分で作った御神籤で、しかも大凶を引いたというのにこの喜びようは何なのだろうか。
 手製の御神籤はご丁寧にも四方を糊付けされていて、アスカはそれを破いて中身を読んでいる。
 シンジは首を傾げた。
 5秒、10秒、30秒。
 ニヤニヤは止まらない。
 その間、シンジはどうすることもできなくて、いやこれ幸いとアスカの顔を鑑賞していたのだ。
 いつもなら「何見てんのよ!」と怒鳴られてしまうから、じっくりと楽しむことができない。
 それが今はどうだ。
 アスカは夢中になって御神籤を見ているので、彼が見つめていることに気がついていない。
 ああ、いいなぁ。あの唇にキスしたいなぁ。あの時、キスしてたらどうなってただろ。
 意気地なしって言われた時に「えいやっ」とキスしてたら…、はは、殴られてただろうな、絶対。
 へへへ、もしかしたらそれから絶交されてたかもしれないから、キスしなくてよかったのか。
 
「アンタ、何ニヤニヤしてんのよ、きっもち悪い」

「え…」

 我に返ったシンジはアスカに睨まれているのに気がつき目を白黒させた。
 どれくらいの時間トリップしていたのかわからないが、その間にアスカは御神籤を読むのをやめていた様だ。
 
「そんな暇があったら出かける準備でもしたら?スーパー今日からなんだからね」

「あ、うん」

 鸚鵡返しに返事をしたもののシンジは動かない。
 困ったような、照れたような、複雑な表情である一点を見つめている。
 何を見ているのかと気になったアスカはその視線を追った。
 それは彼が手にしている残りの御神籤だった。
 まずい!中身を見られたら大変なことになる。
 慌てた彼女はそれを奪い取ろうとした。

「返しなさいよ!アタシの御神籤」

「う、うん」

 意外と素直にシンジは御神籤をアスカへ渡した。
 よし、証拠隠滅しなきゃ。
 学校の焼却炉に放り込むまでは肌身離さずに持って…。

「あ、あのさ、僕も御神籤していい?」

「うげっ」

 アスカは小さく叫んでしまった。
 していいわけがない。
 何しろ御神籤の中身はすべて同じなのだから。
 “待ち人:この御神籤をあなたに渡した人が運命の人でその人とあなたは結婚し一生幸福に暮らします”。
 これでもかなり削除したのである。
 最初の文章はどんな家に住み子供の数は何人でその名前まで決められているという、まさに人生の設計図。
 いくら何でもそれでは御神籤にはならないだろうと、1時間かけてそこまでシェイプアップしたのだ。

「お、御神籤ならアンタあの神社でしたじゃない」

「アスカだってしただろ」

「うっさいわね。アタシの勝手でしょ」

「だ、だったら、僕だって勝手にしたい」

「こ、これはアタシの作った御神籤なんだから著作権はアタシにあんのよ」

「えっと、じゃお金を払ったらいいの?」

「アンタねっ!」

 危うくアスカは叫びかけた。
 愛情をお金で買おうっていうの?と。
 だがようやく彼女は踏みとどまった。
 その発言は根本的には間違っていないが、会話の流れからは大きく外れている。

「お金なんて…いらないわよ」

「じゃ、僕にもさせてよ。御神籤」

「う、うぅ…」

 アスカはジレンマに陥った。
 駄目だと突っぱねることは容易だ。
 しかし、彼にこの御神籤を引かせるという事には大きな意味がある。
 何しろどの御神籤を選ぼうと内容は同じなのだ。
 しかもあの文面ならば、シンジの立場に立つと手渡すのはアスカなのだから内容的には支障はない。
 いや支障がないどころか、素晴らしい神託ではないか。
 しかし、彼にその御神籤を読ませるわけにはいかない。
 何故なら“待ち人”の項目しか書かれていないのだから…。
 くっそぉ〜、こうなるとわかってたら全部書いとくんだったのにぃっ!
 悔やむアスカは脱出口を探した。
 何とかシンジに御神籤を引かせ、その上で彼に中身を読ませないという手がないものか…。
 あ…。

「いいわっ。じゃ、どれにする?」

 アスカはカードならぬ御神籤をシャッフルして持ち直した。
 そして、一枚の御神籤をほんの少しだけ頭を出させる。
 
「あ、ありがとう。じゃ…」

 選ぼうとするシンジだったが、アスカは時間制限を設けた。

「3秒以内に選ぶのよ!3、2…」

「えっ、わっ!」

 慌てたシンジはアスカの読みどおりに大吉のカードを手にする。
 中身を同じでも好きな男にはやはり大吉を選ばしたい。
 彼女にも乙女心というものが大いにあるのだ。

「わっ、大吉だ」

「あ、そ。よかったわね。アタシと違ってさ。ほら、寄こしなさいよ」

「えっ」

 いきなり御神籤を取り返されてシンジは大いに驚く。

「ちょっと、中見てない…」

「アスカ神社は神主が読む事になってんの。ほら、馬鹿シンジ、突っ立ってるのって失礼でしょうが」

「へ?」

「有難いご神託をアンタに読んで聞かせてあげんのよ。かしこまって正座しなさいよ」

「あ、う、うん」

 何が何だかわからないが、別に反抗する必要はない。
 シンジは素直に正座しアスカを見上げた。

「こらっ、何見てんのよ。視線は下。恐れ多いと思わない?」

「う、うん…」

 土下座しろと言われないだけましかとシンジは目線を落とした。

「それじゃ、読んで聞かせてあげるわ」

 アスカは御神籤の封を破いた。
 そして、彼女は口を開いた。
 しかし、そのご神託の内容はシンジには理解不能であった。
 何故ならば、日本語ではなかったからである。

「ち、ちょっと待ってよ。もしかしてドイツ語?」

「Ja!」

 アスカはにやりと笑った。
 ドイツ語だとわかっても言葉の意味まではわかるまい。
 彼女は続けてグリム童話のあらすじを喋りだした。
 ロバは猫と出会い、そして鶏もその仲間になる…。
 シンジはとりあえず神妙にドイツ語を拝聴していた。
 しかし意味がまったくわからない言葉を聞き続けるのは苦痛以外の何ものでもない。
 おまけに足も痺れてきた。
 そのうちにアスカは勢い余ってしまった。
 彼女は「kikeriki」と口を滑らせたのだ。
 いくらドイツ語でもあまりに変なその言葉で思わず顔を上げたシンジを見て、心中しまったとアスカは臍を噛む。

「な、何?それ。きっきりき?」

「えっと、鶏の鳴き声」

 アスカは正直に言った。
 今年は酉年なのだから問題はないだろうと判断したのだ。
 
「へぇ、そうなんだ。はは、猿の鳴き声みたいだね」

「はぁ?全然違う…って、アンタ、アタシを猿みたいだって思ってんのぉ?」

 怒るとその通り。
 そう思ったシンジだったが、さすがの彼もそれを口にすると危険だと察知できる。
 だから彼は黙った。
 話を逸らした。

「で、ど、どういう意味なの?僕の御神籤」

「アンタ馬鹿ぁ?今、言って聞かせたじゃない」

「日本語じゃないもん」

「はんっ、要約すれば、今年一年幸福だって事よ」

 そこでアスカは一歩前に踏み出した。
 もちろん心の中でである。

「まっ、このアタシと一緒に暮らしてるんだから幸福はとぉ〜ぜんなんだけどねっ。あはははっ」

 高笑いをしたアスカは照れてしまい、それを隠すために大きく数歩後退した。
 もちろん心の中でである。

「ほらっ!さっさと行くわよ!スーパー!」

 言うが早いか、アスカは御神籤をポケットに仕舞い込むと、玄関の方に向かった。
 証拠隠滅、照れ隠し、その他諸々。
 彼女が靴を履こうとした時、背後でどさりと音がする。
 何かしらと振り返ると、シンジが足の裏を押さえて呻いていた。

「ま、待って。痺れちゃった…」

「馬鹿ね」

 その言葉がやけに優しかったことを苦しむシンジは耳にしていなかった。
 彼女は悶え苦しむシンジを見下ろし、愉快そうに微笑んだ。
 そして、思った。
 待ち人は必ず来る。
 だって、このアタシが待ってるんだもの…。
 きっと来てくれるよね、シンジ。
 でも…。

「早くしなさいよ、この馬鹿シンジ」

 長くは待てないわよ、だから…ねっ?


(おわり)

 


 

<あとがき>
 
 お読みいただきありがとうございました。
 とりあえず、エヴァンゲリオン掌話集に入れましたが、サブタイトルにありますようにこの話は続くかもしれません。
 “The scenes between EOE and LAS”。つまり、EOEとLASの間の小景たちというわけです。
 友達以上、ええずっとずっと以上ですが、恋人未満という状態。
 その時期の二人を描いた掌話というわけです。
 この世界観の二人がいつ恋人になるのかはまだ決めていません。
 少なくとも膠着状態のまま、時間は流れていきます。
 もっともこの話はあくまでLASに至るまでですので、いわばサザエさん時空かもしれません。
 次はバレンタイン?


 

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