シンジ誕生日記念SS

 

命日と誕生日

 

ジュン   2010.6.6

 

 

 

風は凪いでいた。
だが、葉がそよぐ音がしても男の耳には入っていなかっただろう。
彼はじっと墓前に佇んでいた。
といっても、墓参の人々がよくするように葬られている知人と話をしているわけでもない。
目前の先祖代々の墓の中には彼の両親や祖父母もいるのだが、その誰に対しても何かを語りかけたいとは思っていない。
もし霊魂となった人々が彼の苦衷をなんとかしてくれるというのでもあれば、誠心誠意言葉を尽くして助けて欲しいと縋りついていただろうが。
残念ながら男は現実主義者だった。
幼少の頃から目に見えるものしか信じず、あまり楽観的な考え方をしない。
堅実な性格の持ち主だったからこそ、傾いた会社を今まで支えてくることができたのであろう。
しかし、もうそれも限界だった。
小さいながらもそれなりに順調だった会社が躓いたのは取引先の一社から不渡り手形をつかまされたときからはじまった。
悪い時には悪いことが重なるもので、営業担当者が軽微ではあるものの情報漏洩をしたことにより一番大きな取引先から出入り禁止を宣告されてしまった。
裁判や賠償にならなかっただけでもましだとがんばってみたものの、風評というものは恐ろしいものだ。
5人いた社員もすべて辞めてしまい、30階建てのビルの一室から自宅に営業拠点を移しても残ったのは借金だけという次第だ。
男は三顧の礼を持って迎えたと周囲に揶揄された妻の顔も見られなくなってしまった。
彼は捺印した離婚届を駅前のポストに投げ入れたその足で故郷へと舞い戻ってきたのである。
なんと9年ぶりの帰郷だった。
仕事が忙しかったこともあるが、最後の家族であった父親が病死してしまい、家や畑を処分したふるさとにはなかなか帰る機会もない。
同窓会の知らせもざっと目を通してゴミ箱に放り込んでいた彼には親友と呼べる人間もいなかった。
ひたすら東京の一流大学への進学を目指して勉強ばかりの毎日で、部活動にも入っていなかったからだ。
そして彼は県庁所在地にある有名私立高校へと進学した。
寮に入り、電車で1時間ほどの距離でしかない故郷にもほとんど帰ることも無く。
その頃、彼の家には無愛想な父親しか住んでいない。
その当時を含め学生時代の彼には故郷は父親が住んでいる場所というだけの認識しかなかったわけだ。
前回帰郷したのは親戚の葬儀のためでその時には通夜にだけ姿を現し、その夜半にはもう東京へと戻っていた。
故郷にはほんの2時間もいなかった事になる。
そんな彼でも何故か故郷への切符を買っていた。
とにかく東京を出ようと思っていただけで、目的地はどことも決めていなかったくせにである。
やはり最後は生まれて育った場所なのかと彼は電車の中で苦笑するしかなかった。
ところが、生家はすでに存在せず、親戚や知人の家に足を向ける気にはならない。
そこで何となく訪れたのが墓地だったのである。

梅雨にはまだ何日か余裕がありそうなこの時期、湿気は少ないもののじわりと汗が額に浮いてくる。
男はようやく目に入ったのか、雑草が生えている墓所の様子にぼそりと呟きを漏らした。

「掃除…してからのほうがいいかな……」

その時である。
どこからか奇妙な音が響いた。
ぱんという一瞬の音ではあったが、静まり返った墓地には異質のものである。
この街で一番大きな霊園の一角ではあったが墓参に訪れているものの姿は見えず、あまり人と顔を合わすことをよしとはしていなかった男にはその方が好都合だった。
彼は一人でいたかったのだ。
しかし、それでも何かと音のしたほうを見てしまうのは男にもまだ何かしらの感情が残っていたのだろう。

そして、彼は見た。
その瞬間、彼は唇を震わし、膝ががくがくするのを必死に抑えたのである。
恐怖?
いや、そうではない。
あまりに意外なものを見た所為だ。
30mほど向こうの墓石の影に見え隠れする少女の姿。
彼女は赤みの強い金髪を靡かせながら走っていった。
金髪と白い肌だけではない。
その身に纏う制服は男が卒業した中学校のものだ。
そして彼はその制服姿の白人の少女を見たことがある。
たった今目撃した姿と彼の記憶の中にいる少女はそっくりそのものと言い切れるほどよく似ていた。
だから、彼は我を忘れるほどに驚愕したのである。

「惣流さん…」

二十年前、恋焦がれた同級生の名前を彼は呟いた。
彼は少女を追おうとしたが、足が動かない。
もう三十代半ばになろうとしている彼に比べ、少女はまったくあの日のままだ。
幻想かそれとも…。
すべてに興味を失おうとしていた男が何かに動かされるかのように少女を追おうとする。
しかし、まるで夢の中にいるかのように足はなかなか前に進まなかった。
そして、彼は彼女を見失った。
魔法が解けたように彼女の走っていく姿が視界から消えると足が動く。
男は何度か眼を瞬かせて今目撃したものが何であるのかを考えた。
あれほど好きで好きでたまらなかった同級生。
明るく、気が強く、頭もよければ、運動神経もよかった。
中3の時には生徒会長として生徒を引っ張っていった、いわば中学校のアイドル的存在であった彼女だ。
彼だけではなく、多くの男子生徒が彼女に恋をしていたのは間違いない。
故郷を離れて別の高校に進学する前にその恋心を打ち明けようかと何度も思ったのだが、結局彼は断念している。
勇気が無かったのだ。
だが、やがて彼はその思いをいい思い出として転換させた。
どうせ告白しても拒絶されるだけだったはずである。
ならば“ふられた”という記憶よりも“好きな女の子がいた”というノスタルジックな思い出の方が美しいではないか。
ある意味、彼はポジティブな考え方ができる男だったのである。
だから今の今まで思い出のみならず、彼女の存在自体を忘れていたのだ。
帰郷する時にも彼女がどうしているかということにまで考えが至らなかったわけだった。
それがこの瞬間、すべてが甦ってきた。
甘酸っぱいという感触までは自覚できなかったが、まず感じたのが彼女をどれほど好きだったかということである。
自分から見ると高嶺の花でしかない学校のアイドルに対して勉強が手につかなくなるほどの想いを抱いていたのだ。
そしてもうひとつ。
走り去って行く彼女の姿と動けない自分にデジャヴを覚えたのだ。
彼はふらふらと歩き出した。
彼女の後を追うことではなく、彼女がどこにいたのかが気になったのである。
玉砂利を踏みしめながら彼は歩いた。
昭和になった頃から整備された巨大な墓地には古びた墓石と新しく入れ替えられたものとが混在している。
微かに線香の匂いが漂っていた。
惣流さんはそこにいたのだと彼は直感した。
やがてたどり着いた、線香が薄く煙を立ち上っている墓所。
そこには予期したとおりに、惣流家先祖代々之墓と墓石に彫られている。
そういえば惣流さんの家はかなり由緒のある家系だと聞いたことがある。
白人の容姿をしているのは彼女の両親が国際結婚をしたためだとも耳にした。
墓石の傍には墓碑があり、そこには墓の中に葬られている惣流家の人々の名前が刻まれている。
男はごくりと唾を飲み込むと墓碑の前に立った。
名前はすぐに見つかった。
一番新しく彫られた名前。

「惣流さん…」

彼女の享年は19歳であった。
男は息を呑んだ。
若い、あまりに若すぎる。
この若さで亡くなったのであれば霊となって彷徨っていてもおかしくないのではないか。
ん……待てよ。
彼は冷静に周りを見渡す。
こういう性格が
仮に幽霊というものがこの世に存在するとしても…。
火のついた線香に、墓所には手酌と水の入った桶が置かれており、そもそも墓石はつい今しがた洗われたかのように水に濡れているではないか。
幽霊が自分の墓を掃除するか?
男は苦笑した。
それと同時にかさこそという物音がする。
首を伸ばして周りを見やると、墓所が並ぶ角に人影が見える。
蹲って隠れているようだが、あの服装はどうやら男の母校のものらしい。
衣替えをしたばかりだからカッターシャツの袖を折り曲げている少年の背中を見て、男は微かに笑い声をあげた。
今日は平日でしかも午前中だから彼は自主休校をしてるようだ。
男はゆっくりと少年に歩み寄り、そして声をかけた。

「君は惣流の家に関係のある人かな?」

玉砂利を踏む音で自分に近づいてきていることは承知していただろうに、それでも少年はその華奢な背中をびくりと震わせた。
その臆病さに男は頬を掻き、ことさらに明るめの声音で呼びかける。

「すまないね。実は僕、惣流キョウコさんの同級生だったんだけど…」

少年は背中を見せたまま立ち上がった。
そして、小さな声で返事をした。

「は、はい。で、な、何か?」

男は首をかしげた。
この少年はどこか妙だ。
不気味だとかそういうものではないのだが、一生懸命に顔を隠そうとしているのがおかしい。

「ええっと、それで今、彼女にそっくりの女の子を見かけたんだけど」

「あ、それなら、アスカです、はい」

「アスカ?アスカさん?」

「はい、アスカです。惣流アスカ」

男は苦笑した。
どうもこの少年は話下手のようだ。
こっちの方で話をまとめる必要がある。
惣流キョウコさんにそっくりの女の子がいて、その名前が惣流アスカさんというようだ。
となれば、この二人は親子と考えた方が正しそうである。
まさか姉妹ではあるまい。
確か惣流さんのお母さんは小学生の頃に他界していたと聞いたことがある。
ということは娘を産んですぐに亡くなったということで、享年が19歳ということは学生結婚?
ああ、どこまで推理しないといけないんだ?

「そのアスカさんはキョウコさんの娘さんでいいんだね?」

「はい、娘さんです、あ、子供です、一人娘」

それはそうだろう。
双子でもない限り、享年19歳で子供が何人もいてたまるか、戦前じゃあるまいし。

「で、お墓参りに来たのかい?えっと、ふたりで」

付け加えた言葉に少年は大きく反応した。
一瞬びくりと背中を震わせ、そして大きく何度も頷いた。

「は、はい!二人で、来ました!学校をサボって」

「うん、サボって、ね。わざわざ、お墓参りのために」

「はいっ。今日は命日なんです。ああ、どうしてこんな日に僕は生まれちゃったんだろう」

まるで出来損ないのハムレットのように少年は嘆いた。
話下手にもほどがある。
どこまでこっちで察すればいいのだ?
男は呆れていたが、その実あれほど重く沈んでいた心が少し軽くなってきていることが不思議だった。
だからこそ、この顔を見せない、話下手の少年との珍妙な会話を続けてしまっているのだろう。

「君の誕生日なの?6月6日が?で、惣流さんの命日も今日なんだ」

「アスカのお母さんです。あ、そうか、お母さんも惣流さんになるのか。ややこしいなぁ」

確かにややこしい話だ。
彼にとって惣流さんは娘のことであり、自分にとっては惣流キョウコさんのことに他ならない。
しかし、ここは話下手の彼に敬意を表して自分の方が一歩下がってあげようと男は決めた。

「よし、わかった。ややこしいからもう惣流さんはやめておこう。名前の方でいいね」

「で、でも、アスカのお母さんのことを名前で呼ぶのは…」

本当に不器用な子だ。
臨機応変という言葉を知らないのかと、もしこの少年が社員だったならば怒鳴っていたことだろう。
だが、もう彼は社長ではない。
会社は解散、借金はまだあと300万円も残っている。
もう売るものは何も残っていない。
車もマンションももう処分した。
あとはやばい金融業者に借りるしか手はない。
が、そんなことをすればその後でとんでもないことになることくらいは思い描けた。
自分だけでなく、妻やその係累に迷惑をかける。
彼ら相手に離婚したからなどという言い訳は通用しない。
となれば残る手段は……。
そんなことを考えて故郷へ戻ってきたことなど今は忘れてしまっている。

「それはお母さんでいいだろう」

優しく告げると、少年は見るからにほっとした様子で肩の力を抜く。
自分だって今存在を知ったばかりの惣流アスカと言う娘をいきなり名前で呼ぶのは躊躇われる。
男は知りたいことを訊ねた。

「キョウコさんは…」

恋した人のことを名前を言葉にして呼ぶのはこれが初めてだった。
そのことに気がつき男は息を呑んだ。
思わず目を閉じた彼の脳裏にまるで洪水のように思い出が押し寄せてくる。
胸が熱くなり、瞼の裏が熱くなった。
あの当時、いい大学に入るためにだけがんばっていた自分。
それが今はどうだ。
もしあの時…。
必死に書いたラブレターを渡していたならどうなっていただろうか。
時間にすればほんの3秒ほどの間に彼の思いはそこまで届いた。
しかし再び目を開いた時には、彼は苦笑していた。
馬鹿らしい、自分の想いなど彼女が叶えてくれるわけがない。

「キョウコさんはどうして……亡くなったのか知っているかい」

「はい。交通事故です。アメリカで」

「アメリカ?」

「はい。アスカだけが無事で、両親…あ、ご両親は即死だったそうです」

少年の背中は一生懸命に言葉を選んで話していた。
この少年はそのあたりの事情を結構知っているようだ。

「結婚していたってことだね」

少し強張ってしまったことを男は悔しがった。
そして彼女の結婚ということに関心を持ったことにも忸怩たる思いを持った。
死んだということより結婚していたかどうかということが気になったのだ。
既に死んでおり、さらにその遺児がちゃんと育っているというのに、なんという下劣な好奇心だろう。

「いいえ。かけおちして…いや、アメリカまで追いかけていった…のかな?アスカはこっちで産んだんですから」

どうやらややこしい事情があるようだ。
少年の中でも整理されていないらしい。
だが、少年は彼にしてはかなり男らしい口ぶりで言葉を継いだ。

「でもそんなことはどうでもいいんです。アスカはアスカですから。うん、それでいいんだ」

ほう…。
男は目を細めた。
少年の華奢な背中がやけに頼もしく見える。

「好き、なんだね、あの娘さんが」

「そ、そ、そんなことっ。ど、どうして、見ず知らずの人にそうですって言わないといけないんですか!」

いやはや、これは。
思い切り認めているではないか。
なんとわかりやすい子なのだ。
これではあのアスカという女の子にもモロわかりだろう。

「いや、すまない。実は、僕も好きだったんだ」

「アスカが!ですか?」

「まさか。惣流キョウコさんが、だよ」

「つきあってたんですか?」

「いや」

男は明るく言った。
自分でも不思議なほどに楽しい気分だ。
あ、そうか…。
自分が彼女に恋をしていたことを他人に告げるのはこれが初めてではないか。
惣流キョウコを好きだったということを宣言することがこんなに清々しいものだとは…。

「学校中のアイドルだったからね。遠くから見ているしかできなかった。告白もしていない」

「そう、なんですか」

「ああ、彼女にとって僕はただの同級生で顔も覚えていないだろうね」

少年の背中は明らかに戸惑っていた。
どう返事をすればいいのか見当もつかないのだ。

「君が羨ましいよ」

「ど、どうしてですか。僕は!」

少年はがっくりと肩を落とした。

「僕なんてただの幼馴染だし、どうせ子分かなんかにしか思ってないんだ。誕生日のことなんて覚えてもいないし」

少年は左の頬をさすった。
その仕草を見て、男は先ほどの音の正体がわかったような気がした。

「冷たい缶コーヒーでも奢ってあげよう。あ、ジュースの方がいいかな?」

「え?」

「まだ腫れてるんじゃないか?ずいぶんといい音がしていたからね」

「見てたんですか?」

驚いて振り返った少年の左の頬はやはり見事に赤く腫れていた。
まるで漫画か何かのように指までもがはっきり見えるほどの手形がついている。

「冷やした方がいいよ。来なさい」

男は歩き出した。
きっとついてくるだろう。
彼のような少年は素直すぎるほどに従順な筈だ。
そう、敵意を持たない人間に対しては。
彼の想像通りに、背後では手桶などを手にする音がし、続いて玉砂利を踏む足音がついてきた。



墓地を出てすぐのところに、駐車場がありその入り口に飲み物の自動販売機もあった。
少年はミルクティーを選び、プルトップを開く前に缶を頬に押し当てる。
その様子を見て男はブラックコーヒーを一口飲んだ。
駐車場の脇にある木製のベンチに少年を腰掛けさせ、男はその向かいにある低い柵に腰を預けた。

「誕生日って何歳になるんだい?」

「あ、14歳です」

「中学2年か…」

そうだ、その年に惣流さんと同じクラスになったんだ。
最初は綺麗な子だとくらいにしか思っていなかったけど…。
あ、そうか、ちょうど今くらいの…、梅雨前の…、そうだ、委員会で遅くなって、帰り道に…。
惣流さんが仲良しの女の子と…あれ、名前なんだっけ、まあ、いいか、二人で公園で話をしていた。
ブランコに並んで腰掛けて、夕陽が彼女の髪に煌いて、物凄く眩しく見えて……。
その横顔が、家に帰っても、布団の中に入ってしまっても、いつまでも忘れられなくて。
目が覚めて、登校して、教室にいた彼女を見た瞬間、初恋を意識した。
ああ、覚えている、覚えているぞ。
……涙が出てきそうだ。

「君は、そのアスカさんとはつきあい長いんだよね?」 

「だからつきあってなんかいませんってば」

「ああ、悪い。そっちの意味じゃなくて、知り合ってって方」

少年は冷やしていない方の頬も赤くした。
そして、恥ずかしがりながらぼそぼそ喋る言葉を総合すると幼馴染という言葉そのものであった。
おそらくは記憶がないほどの幼少時から一緒にいるらしい。
アメリカから連れ帰ったのは赤ん坊だけで、惣流キョウコの遺体自体は現地で埋葬されている。
従ってこの墓地には彼女の骨は葬られていないのだ。
その頃すでに惣流の家には赤ん坊の祖父、即ちキョウコの父親だけが住んでおり、無骨な男手だけの家に戻ることになった。
もっとも、その大きな助けとなったのが少年の母親だったのだ。
一人育てるのも二人育てるのも同じだと、少年の一家は惣流家に間借して赤ん坊を育てたとのことである。

「おいおい、じゃ君たちは同居しているのかい?まあ、あの家はかなり大きいけど」

「中学に入る頃に僕たちは引っ越すって言ったんだけど、アスカもおじいさんも反対して…」

「嬉しかったかい?」

「はいっ」

いい返事だ。
男は思わず知らず微笑んでしまった。
彼は青い空を見上げた。
あの頃の空もこんなに青かったのだろうか。
随分と余裕のない、勉強ばかりの中学校生活でよかったのかどうか。
こういう状況にまで追い込まれてしまった今から考えると、やり直せるものならやり直したほうが…。
いいのか、それで。
結果だけで考えてはいけないのではないか。
会社がうまくいっていた時、自分には何でも出来るという自信があった。
実際、高嶺の花だと思っていた女性と結婚できたではないか。
もっとも彼女がこっぴどく振られたところにタイミングよく交際を申し込んだからという運もあったのだ。
彼のプライドのために付け加えておくと、彼女が失恋したということを男は全然知らなかったのである。
ある飲み会の帰りに運良く二人きりになった時、酔いに任せてつい口にしたのである。
彼女のことが大好きだと。
それからはあれよあれよの展開で、翌朝彼女のマンションのベッドの中で目を覚ました時の驚きはなかった。
T大学に合格した時の方がまだ予想の範囲内である。
そのまま1年後にゴールイン。
まだ二人の間に子供ができなかったことがよかったのかどうか。
結婚してすぐに業績が思わしくなくなっていったことに、彼女は寂しげに私は貧乏神なのかもと笑って言ったものだ。
そんなことはないよと彼は年上の妻を慰めていたのだが…。
彼女をこれ以上不幸にはできないからこそ、彼は家を出たのだった。
もちろん、今の彼はここまで思いをめぐらすことはなかった。

それは空が青すぎた所為だろう。
そして、少年の語る話が彼の心に心地よいそよ風が吹くように感じさせたことが大きい。
自分の境遇からすぐに別のことへと関心が移ったのである。
何故ならば、空から目を戻す時に目の隅にあるものが見えたからだ。

「で、どうしてぶたれたの?」

つい訊ねてしまった。
好奇心ではなく、親愛の情というものだろう。
少年には男の気持ちがわかったのだろう、恥ずかしがりながらも語りだした。

「僕が悪いんです。お墓を洗っているときに、思わず言っちゃったんです。
命日と誕生日が一緒だから、ずっとお祝い無しだねって」

「ああ、なるほど。さすがに命日に誕生日のお祝いはできないよね」

「僕は別にパーティーとかしてほしいなんて思ってないんですよ」

「うん、わかるよ。何となく、言葉に出しちゃったんだろう」

「そ、そうなんですよ。何となく、うん、笑い話にしたかっただけで」

少年は力説した。
その通りだ。
人には何となく言葉にしてしまう時がある。
言ってはいけないことだと承知していながら、つい口にしてしまう。
おそらくそれが魔が差すということなのだろう。
男にも経験があった。
しかもその相手が惣流キョウコだったのである。
彼はそのことを思い出し、少年に話した。

中学2年の秋、たまたま彼女と二人きりになる機会があった。
恋する人と話ができるチャンスなどほとんどない。
だから彼は色々な話題を持ち出した。
話が途切れるともうダメだというような思いで、思いつくままに喋ったのである。
しかも彼女も笑いながら話の相手をしてくれたのだ。
有頂天になった挙句、彼はつい本音を吐いてしまった。

「惣流さんって英語の発音は見かけと違っていまひとつだよね」

その時吐いてしまった言葉を聞いて、少年は目をまん丸にした。

「うわぁ、それは拙いや……、あ、ごめんなさい」

「いや、その通りだ。本当に拙い。惣流さんは…キョウコさんは当然怒った。
放っておいてよって怒鳴ってそのまま教室から飛び出していったよ」

「何だか、目に浮かびます。アスカとお母さんってそっくりだそうですから」

「うん、びっくりしたよ。亡くなった事を知らなかったからね。もし知っていたら幽霊だと思い込んでいたはずだ」

そうか、これだったのだ。
先ほど感じたデジャヴの正体が男にはわかった。
教室を飛び出す彼女を追うことも謝罪することもできなかった自分。
結局、その翌日以降も彼は彼女に謝ることがなかった。
何故ならば、その機会を与えてくれなかったのである。

「でもその翌日彼女があまりに明るく挨拶してきてね。おはようって。
ごめんと言い出すタイミングを失ってしまったんだ」

「わかります!すごくよくわかります!猫の目のように機嫌がころころ変わるんだから」

少年はうんうんと頷く。
もう缶は頬に押し当ててはいないが、飲むことも忘れて会話に夢中になっていた。

「驚いたことにそれからの彼女の英語力は物凄く上がってね。
どうやら英会話教室にでも通ったらしい。かなり負けず嫌いだったからね」

「うん、うん。アスカも物凄く負けず嫌いですよ」

「親子で似てるんだね、きっと」

「そうですよ、絶対。帰ったら、母さんに聞いてみよう」

「そうするといい。彼女と一緒に聞いてみればいい」

「え…」

男は優しく笑った。
彼の視線は少年の背後にあった。
少年が振り返ると、目に馴染んだ赤金色の長い髪がさっと自動販売機の陰に隠れた。

「あ…」

「ほら、早く行って謝りなさい。向こうも君をぶったことを気にしてるんだ」

「えっと、あの…」

「いいよ。僕は…キョウコさんのお墓にお参りさせてもらうから」

男は少年の返事を待たずに立ち上がった。
彼が話下手であることはよくわかったので、別れの挨拶などを求める気持ちはない。
逆に男の方が礼を言いたいくらいであったのだ。
男は眼鏡のふちを指で押し上げると、再び墓地の方に歩んでいった。
その途中で彼は惣流さんの娘と顔を合わせた。
何者かまったくわからないが、惣流アスカは男に対して会釈をする。
その白い頬に赤みがさしている事を確認すると彼は一言だけ彼女に残していった。

「彼、君のことが猛烈に好きだよ」

するとどうだろう。
彼女は腰に手をやり、足を踏ん張ると、声だけは小さく、こんなことを宣言したのだ。

「アタシの方がもっともっと好きなんだからっ」

「そうか。それは失礼した」

男は心からの微笑を残して、墓地の方に歩んでいく。
その後姿を見送りながら、アスカは顔の火照りを覚まし、背後から近づいてくる筈の少年の言葉を待った。

「ご、ごめん。なんだったらもう誕生日のお祝いなんてなくてもいいから」

「うっさいわね。アンタの誕生日パーティーは6月7日って決まってんのっ。これはこれからもずっとずっと変わんないんだからねっ」

「う、うん。ありがとう」

アスカは彼から見えないのをいいことににんまりと笑った。
よし、仲直り完了。

「ところで、今のおじさん誰?」

話下手の少年からようやく成り行きを聞いたアスカは眦を吊り上げて怒った。
また頬を引っ叩かれるのではないかと少年が身をすくませたほどだ。

「アンタ馬鹿ぁ?どうしてもっと早く言わないのよ!ママのこといろいろと聞けたのに!」

「で、でも!」

「うっさい!行くわよ、馬鹿シンジ!お墓にいるのよね!」

少女は少年の手をつかむと走り出した。
男からあれこれと写真でしか知らない母親の昔話を聞きたかったのだが、残念なことに彼の姿はもう惣流家の墓所にはなかった。
近くに咲いていた黄色い菊の花が一輪、墓前に手向けられていただけである。










「ああ、それ、日向君。間違いなし!」

惣流家の門前で掃除をしていた碇ユイが子どもたちの話を聞いて断言した。
それでも間違いないのかと問い返されても彼女は揺らがない。

「だって、その話、キョウコから耳にたこができるくらい聞かされたのよ。
あんなに恥ずかしかったことはないって」

「恥ずかしい?腹が立った、じゃなくて?」

ユイはううんと首を横に振った。

「だって、好きだった男の子に英語の発音が下手だって言われたのよ。
恥ずかしくなって、英会話に通う気持ちになるのは当たり前よね」

「す、好きだってぇっ」

子供たち二人が見事なユニゾンを為した。

「そうよ。でも彼は全然キョウコのこと気にしてくれなくてね。
あの子ったらプライドが高すぎるから告白もできないまま、中学卒業」

「ええっ、だったら両思いだったんじゃないか!わっ、もったいない…痛っ!」

興奮したシンジの後頭部がアスカにぱしんとはたかれた。

「アンタ馬鹿ぁ?そんなとこでママが両思いになっちゃったら、このアタシはどうなんのよっ!」

「そうよねぇ、この世に存在してないわね、きっと。あのキョウコが一度手にしたものを離すわけないもの」

ニヤニヤと笑うユイがアスカの憤激を裏づけしたので、シンジはこれは拙いと慌てて門から中へと逃れた。
それを追いかけたアスカとまるで猫がじゃれあうような感じで玄関先でやりあっている。
その二人の様子を見て微笑みながらユイは門を閉ざし閂をかけた。

「で、シンジ?私のことは何か言ってた?日向君は」

「え?あ、そういえば、僕、名前言ってなかった」

「はあ?あんだけ話しておいて、自分の名前も言ってないのぉ?」

「だ、だってさ、向こうだって」

「はんっ!言い訳は見苦しいわよ!まったく14歳にもなってこれじゃ先が思いやられるわ」

「じ、じゅ、13歳のアスカには言われたくないよ」

「なんですってぇっ!」

血相を変えたアスカを見て、シンジは頭を抱えながら玄関の中に飛び込む。
そして靴を脱ぎ散らかして廊下を駆けていき、当然アスカも同じようにして後を追いかけた。
二人の靴を揃えながら、ユイはそろそろ老人の一喝が飛ぶ頃だと算段する。

「こらっ!二人とも!キョウコの命日だというのになんじゃっ!」

その怒鳴り声を聞いて、ユイは肩をすくめた。

「はい、廊下に正座30分決定。誕生日だっていうのに散々ね」





日向マコトはようやく駅に辿りついた。
財布の中の残金は少ないので、タクシーもバスも使えなかったのだ。
これでは東京へ帰りつくこともできないだろう。
まずは家に電話をしないといけない。
彼はもう一度がんばってみようという気になったのである。
携帯電話は家に置いてきたので、公衆電話から連絡を取るしかない。
しかし自宅への電話は呼び出し音が続くだけだ。
ああ、愛想を尽かしてもう家を出たのだろう。
しまったと暗い表情を浮かべたマコトは今度は妻の携帯電話の番号を押す。
駅の待合室横にある公衆電話の受話器を固く握り締めながら男は祈った。
頼む、出てくれ。
その時である。

耳慣れた着歌が近づいてきた。
妻の大好きなその歌を耳にして、男は必死で涙を堪える。
彼は受話器を置いた。
すると、ふっと着歌も途絶える。
ああ、神様…。

「ねぇ、どうしようかしらン。取る前に切れちゃったんだけどさ」

ふざけたような、甘えたような、愛しい人の声。
その声が湿り気を帯びていることをに気がつき、マコトは精一杯の作り笑顔で涙を隠しながら振り返った。

 

 

 

 

命日と誕生日      − 終 −

 


<あとがき>

 シンちゃん、おめでとう。
  
 ええっと、仕事をしないといけないので、あとがきは略します(おい)。
こっちの締め切りは何とかなったけど、仕事が、仕事が!
 

2010.06.06  ジュン

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