『獲明真書』

 真司に弁当を届けたとき明日香は諸人に賞賛を受ける。
 そして真司は諸人の見守る中、鞄を受け取る。
 明日香は二度来たる。
 (現代語訳)

 アスカとシンジが出逢った翌日。
 ミサトはアスカに弁当を届けさせることに成功した。
 もちろん弁当ではなく、弁当が入った鞄を届けるつもりだったのだが。アスカとしては。
 ただし、届け先のシンジは教室にはいない。
 タイミングの悪さには定評のある彼はトイレにいたのだ。




 

すべては世界の平和のために

− 3 −

「アスカは二度来たる」


333333HITリクSS

2004.6.27         ジュン
















 鷲は舞い降りた。



「こらぁっ!馬鹿シンジっ!出て来いっ!」



 晴天の第3新東京市。
 黄色いワンピースの裾を風に靡かせ、颯爽と仁王立ちする惣流・アスカ・ラングレー。
 体育の時間で校庭に出てきた連中も近寄れない雰囲気を醸し出している。
 校舎の窓からは無数の顔、顔、顔。
 ただし、その中に彼女の目指す碇シンジの顔はない。
 そのことは視力のいい彼女はすぐに了解した。
 アスカはちっと舌打ちした。
 そして、肩に掛けていた鞄を地面にどすんと落とす。



「まずいなぁ。あれじゃあのまま帰ってしまうぜ」

「もう!鈴原のヤツったら。頼りにならないんだから」

 その頼りにならないヤツに好意を持っているのはどちらさんだっけ?
 世界平和の危機が今そこにやってきているのに、ケンスケはふとそんなことを思った。
 工作員同士の恋愛は禁止されていないネルフだった。



 その頼りにならないヤツは、必死になってシンジを校庭に誘導しようとしていた。
 今更教室に戻っていては計画がおじゃんになってしまう。
 間に合わないと判断したのだ。
 トウジはトウジなりに考えている。

「ちょっと待ってよ。次の授業は自習だろ?どうして校庭に行くのさ」

「そ、それはやなぁ…」

 こんなスクランブル対応は文書には記載されていなかった。
 人類の叡智で何とかしろというわけか。
 トウジは追い込まれた。

「せ、せ、センセはき、き、聞こえへんかったんか?」

 思い切り怪しい。
 しかし、あの父親を涙ぐませるほどの素直で人のいい息子だ。
 つかえまくっているトウジを不思議には思っていない。
 逆に真面目なだけに、短い休み時間が終わろうとしているのに
 教室から遠ざかることを不安に思っているのである。

「何が?もう戻ろうよ」

「ど、どよめきが聞えたやろ?」

「全然。どこかの教室で誰かがふざけてたんじゃないの?」

 冷静だ。
 それほどホットな対応を見せないシンジからすると当然の反応とも言える。

「そ、それがやなぁ、き、教室とちゃうねん。う、運動場の方からやってん」

「じゃ、体育の授業に出て行った連中だろ。さ、戻ろうよ」

 シンジはすっと背を向けた。
 まずい!
 わ、わしのせいで世界は滅亡する!
 いいんちょとまだ何もしてへんのに!あんなこともこんなことも!
 まだ告白すらしてないことさえ忘れて、トウジはパニックに陥った。
 そして、窮余の一言を漏らした。

「金髪の美少女がおるって、誰かが叫んどったんやっ!」

 シンジの足が止まった。
 背中もぴくりとも動かない。
 ほ?何や、当たりか?
 トウジはここぞとばかりに声を励ます。

「運動場に金髪の美少女がおるそうやで。どや見にいかへんか?」

 言ってからしまったとトウジは後悔した。
 ここは「いかへんか」ではなく「行くで」でないといけない。
 自己主張が薄く大勢に流されがちなシンジが問いかけに応えるわけがない。
 そのはずだった。

「うん、行こうか」

「さ、さよか。ほな、行こか」

 トウジの後をついて行くのではなく、シンジは前を進んでいる。
 これは心境の変化ってヤツか?
 もしかしてセンセの方は一目惚れしとるってことか?
 おいおい、こりゃあえらい簡単にことが運びそうやで。
 意外と容易に計画が成就しそうな雰囲気にトウジはほくそえんだ。
 このまま進むとセンセを運動場に連れて行った、わしの貢献度が高いってことにならへんか?
 てなことになったら、いいんちょもわしのことを見直すんやないか?
 こりゃええで。ばっちぐぅや。



 さて、どうしてくれようか。
 アスカはじろりと周りを睨みつけた。
 とりあえず半径50mに人影はない。
 そしてその半径50mを越えた場所には人がいっぱいだ。
 体操服を着た男子たちが群れを成してこっちを見ている。
 ふん!私の美貌に見とれているってわけね。
 アスカは満足していた。

 この時点でゼーレの計画は破綻している。
 ドイツではいざ知らず、この日本では私は充分な美少女なのだ。
 昨日の馬鹿シンジの反応もそうだったが、今男どもがざわめいているのが何よりの証明だ。
 まったくどいつもこいつも間抜けな面並べちゃってからに。
 アスカはもはや天狗になっていた。

 こいつら全員下僕にしてやろうかしら。
 そのためにはちゃんとした組織をつくらないといけないわね。
 それから計画もきちんと立てないと!
 計画のためには情報がいるわよねぇ。
 その情報を入手するには…。

 アスカはくくくと笑った。そして、堪えられずに高笑いする。

 うってつけなのがいるじゃない。
 ホームスティ先の馬鹿息子。
 あれを手なずけりゃいいのよ。
 SAL帝国をこの極東の地に築いてやるわ!
 だけど、SAL帝国ってちょっと語呂が悪いわよねぇ。
 まるでお猿さんの帝国みたいだし。
 それじゃそこのトップに君臨する私はボス猿ってわけぇ?
 そんなのヤよ!許さないわっ!

 ずかっずかっずかっ!

 アスカの蹴りがシンジの鞄に入る。
 彼女の心の変化など窺い知る事もできない見物の生徒たちは彼女の行動に戸惑っていた。
 突然校庭の真ん中に現れ、大音声で馬鹿シンジとやらいう男を呼び出し、
 急に高笑いしはじめたかと思うと、足元の鞄を真剣な顔で蹴りだす。
 どう見ても危ない人だ。
 と、思っていたら、ぽんと手を叩いて大きくうんうんと頷いている。
 誰にも理解できなかったとは思うが、この時彼女は主催する帝国の名を神聖アスカ皇国と決めたのだ。
 もしこれがミサトやリツコたちに知られていたら、彼女たちは大騒ぎをしていたことだろう。
 何故なら、あの文書のどこにもそんな記述はないからだ。

 よしよし、名前も決めたし、こうなったら早速帝国の…じゃない皇国の礎を築かないと。
 えっと、なんだっけ?
 そうそう。シンジよ、シンジ。馬鹿シンジから情報を引き出すのよ。
 で、その馬鹿シンジはどこよ!

 アスカはもう一度、ぐるりと周りをねめつけた。
 慌ててみんなが視線を逸らす様は、まるで球場のウェーブを見るような。
 アスカはまたもや不機嫌モードに入りかけている。
 下僕第一号という名誉な称号を与えようとしているのに、当のシンジの姿が見えないのだ。
 まったくあの馬鹿は何してんのよ。
 この私自らがお弁当如きを持ってきてやったというのに。
 ん?
 お弁当……。
 
 きゅるるるる。

 未来の女帝たる彼女としては、そんな音を誰にも聞かせることにならず幸いだった。
 朝ごはんを…(パンだが)…しっかり食べる民族としては、テーブルに置いてあった小さなクロワッサン2個では物足りなかったのだ。
 日本人だから、サンドイッチとかじゃないわね、たぶん。
 アスカは自らの欲求に従い、その場に蹲って鞄を開いた。
 誰が蹴ったのか知らないが、中の教科書とかが見事にぐちゃぐちゃになってしまっている。
 その中に男としては少し小さめの弁当箱がナフキンに包まれていた。
 鞄の中でその包みを開く。
 ふたを開けると、真っ先に目に入ってきたのは鮮やかな黄色。
 何、これ?
 アスカは指を伸ばした。
 そして、摘み上げる。
 卵?
 ぱく!ん?美味しいじゃない。どれどれ。
 彼女は別のおかずにも指を伸ばした。

 衆人環視の中で、校庭の真ん中で鞄に向って蹲っている金髪の少女。
 異様な風景だ。

「相田?何してるの、彼女は」

「食べてる」

「はい?」

 望遠レンズを構えているケンスケにしかわからなかっただろう。
 アスカは衆目の中、まったく気にも留めずに手づかみでお弁当と格闘していた。
 今日のシンジの弁当は小さめのおにぎりが4個。
 玉子焼きにミニハンバーグと茹でブロッコリー。
 空腹のアスカがぺろりと食べるのに3分もかからなかった。

 はん!けっこういけるじゃない。
 ま、お腹が減ってたせいだろうけど。
 ご満悦のアスカが立ち上がり、スカートの埃をぱっぱと払ったその時に、ようやく彼が昇降口に姿を見せた。
 そして、校庭の真ん中の金髪の少女が、彼の家にホームステイをするといういささか凶暴な彼女であることを確認した。

「あ…」

「な、なんや?センセの知っとるヤツか?」

 白々しくもトウジが尋ねる。

「う、うん。ほら、あの、言ってたじゃないか。うちにホームステイするっていう…」

「ああ、はいはいはいはい。ほな、さっさと行かんかいな」

「はい?」

「何変な顔しとんや。センセを訪ねてきたんやろ?それ以外にあらへんやないか」

 シンジはその時ようやく彼女の足元に転がっている自分の鞄を認識する。
 へぇ…、持ってきてくれたんだ。
 でも、どうやって?僕の学校なんか知らないのに?
 碇シンジは思考より先に身体が動くタイプではない。あくまで基本的には、だが。
 この時も何故彼女がここにいるのかという疑問の方が先にたって、校庭に進もうとはしない。
 トウジは焦れた。
 はよせな、日向センセかってずっとセンセ連中を抑えてはいられへんで。
 学校内の不審人物を教師たちが放っておくわけには行かない。
 ただこの場合は、日向が碇の家の留学生だと説明して回っているのでとりあえずはおさまっているという次第。
 仕方あらへん。
 トウジは覚悟を決めた。

「センセ、行くで」

「えっ」

 シンジの腕を引っ掴みトウジは歩き出した。
 校庭の真ん中へ。
 台風の目へ。

 こっちの方に歩いてくる二人組。
 ジャージを着ている見知らぬ少年からはアスカの興味はすぐに消えた。
 その後ろを歩いてくる見知った少年を確認したからだ。

 惣流・アスカ・ラングレーは思考より先に口と身体が動く。

「やっと現れたわねっ!この馬鹿シンジ!待ちくたびれたわよっ!」

 この大声はケンスケやヒカリのところまで聞こえた。
 彼女の発声機能にはボリュームがついてないのだろうか?
 もっともこれはネルフにとっては好都合だった。
 何しろ相手のシンジが怒鳴らない限り声が通りにくいタイプなのだ。

「ど、どうしてここに?」

「はい?ああ、アンタに持ってきてやったのよ、ほら」

 と、またもや鞄を足蹴にしようとしたが、遠大な計画に気付いてアスカはそれを思いとどまった。
 シンジを下僕第一号にしないと、神聖アスカ皇国の礎が築けないのだ。

「あ、ありがとう」

「はん!感謝しなさい」

「は、はは…、だからありがとうって…」

 その時、神風が吹いた。

 ふわっとスカートの裾がまくれ上がった。
 その場に居合わせた見物の生徒たちはこの遠距離にいたことを後悔した。
 ただ一人、2−Aの窓に張り付いていたカメラ小僧を除いて。

 ぱこっ。

「痛っ」

「フィルム没収。よこしなさい」

「ええっ!」



 ぽこっでは済まなかったのはトウジだった。

 ぱしぃいっん!

 トウジの頬に目にも止まらぬ平手が炸裂した。

「あわっ!何すんねん!」

「うっさいわねっ!この痴漢!」

「な、何言うとんねん!わしがやったんちゃううやろ!風の所為やないか!」

「はん!目を瞑るとか顔を背けるのが紳士の嗜みってヤツでしょうが!」

「うるさいわい!」

 すっかり工作員の顔は忘れてしまっているトウジだ。
 そして隣のシンジを見ると、友人の頬には手形はついていない。

「ちょい待てぇや!何でわしだけやねん。何でセンセはどつかへんねや」

 きょとんとしているシンジ。
 トウジが叩かれたときに自分も叩かれたかのように感じてしまったが、そういえば今回は叩かれていない。
 どうしてだろうとまた考え込んでしまう。
 いくら考えてもわかるわけがない。
 神聖アスカ皇国の礎を築くため、シンジを下僕第一号にしようと情けをかけたなど、
 当のアスカ本人以外の誰にもわかりっこない。

「そ、それは…」

「それは何やねん!」

「今日の分は昨日ぶっといたからよ!」

「は?」

 これもわかるわけがない。
 トウジは胡乱な顔で友人を見た。
 その友人はああなるほどと頷いている。

「どういうこっちゃ?」

「ああ、それはね…」

 シンジは昨日の出来事を簡単に話した。
 素直にも程がある。
 こういう時にこそよく考えて喋らなければならない。
 こんな経験を生かして大人になっていくのだろう。

「な、な、な、何やて!」

 鈴原トウジ。
 演技の素質はあまりない。
 しかし、この時の反応で彼はネルフ特別報奨金を手にしている。
 まあ特別といっても図書券500円分に過ぎないが。


「お前、この姉ちゃんの素っ裸を見たんかっ!」
 
 
 トウジの声は遠く離れた教室の窓を震わした。
 こうなるとシンジがどんな返事をしようが問題ではない。
 このトウジの大声と、今朝話題になったアスカがシンジのベッドで寝たという2−Aからの情報が
 第壱中学校でのアスカの立場を決定付けた。

 あの金髪美少女は碇シンジの“おんな”だと。

 そのシンジの“おんな”はもう一度、トウジの頬をグーで殴った。
 そして、砂塵を吹き上げて校門へと走っていくアスカの後姿を呆然と見送る。
 尻餅をつき頬を押さえてうぉうぉ唸っている友人を助け起こそうともせずに。



 碇シンジ、校長室に出頭。

 もちろん、さっきの騒動と噂の真相についてだ。
 金髪美少女との不純異性交友を教育者として見逃しておくわけにはいかない。
 しかしながらここは日向先生の見事な誘導尋問で、シンジはピンチを脱した。
 あくまでホームステイに来ているだけで、噂のような事実はないと。
 教師たちは納得した。

 ところが生徒たちはそんな公式発表を信じるわけがない。
 より扇情的な話の方を信じるのが思春期の少年少女というものだ。
 まして、2−Aにおいては彼らの感情を煽っている工作員がいる。
 トウジにはそんな芸はないので、あとの二人が微妙にシンジとアスカの関係を確固たるものに仕上げていく。
 特に2時間目が自習なだけに工作の時間はたっぷりある。
 これでこの2−Aが震源地となって全校に噂が広まっていく。
 ミサトの計画通りに。





「大変です!司令の姿が見えません!」

「何ですって!」

 ネルフに戻り、鼻歌交じりのミサトの元に予定外の報告がもたらされた。
 ゲンドウが失踪したというのだ。
 玄関の警備員はゲンドウを外に出さないように厳命されていたので表玄関から外に出たはずがない。
 ここで明らかにしておきたいのだが、ネルフの本部は地底とかにあるわけではない。
 第3新東京市の真ん中。ビジネスビルの立ち並ぶ街中の5階建てのビル。
 別に何の変哲もないその外見の影に…中身はやはり普通のビルだ。
 秘密の組織ではあるが、別に怪獣やエイリアンと戦っているわけじゃない。
 ただ、異常に大きなコンピュータルームや、何を開発しているのかわからない研究室。
 重役たちの部屋と特大会議室のつくりも普通の会社のそれとは異なっている。
 それらには何重にもセキュリティーが仕掛けられていた。
 一階は周りの目を誤魔化すために営業部が置かれ、ケンスケやトウジといった少年工作員の父親たちが勤務している。
 二階には総務課。そして食堂が設けられている。そこの料理長がヒカリの父親だ。
 三階から上には外部の人間が入れないようになっている。
 ゲンドウの部屋は最上階だった。
 執務室の隣にはホテルのような仮眠室が備えられており、彼はそこで寝泊りさせられていた。

 この日。
 アスカが来日して大作戦が進行し始めたので、ゲンドウの監視がいささか疎かになっていたのだ。
 リツコでさえ相手をしていなかったのだから。
 彼は食事のときに2階の食堂に降り、そのまま姿を消したのだ。
 その脱走方法は実に簡単だった。
 二階のトイレで大量に剃られた髭が発見されたのだ、
 リツコは呆然となった。
 あの髭をそり落とすだなんて…。
 あの特徴のある髭とサングラスを取り去って、カッターシャツにネクタイ姿で悠然と玄関から出て行ったのである。
 ビデオに残っていたその姿を見て、リツコは思った。
 この顔をベッドの中で見てみたいと。



 ひりひりする頬を押さえ、ゲンドウはまずドラッグストアに走った。
 軟膏を頬にすり込み、その匂いを消すために少しだけオーデコロンをふる。
 まだシンジは学校か?
 そうは思いながらもゲンドウは自宅に向った。
 数年ぶりにタクシーを使うという贅沢をしながら。
 何しろポケットの札入れには10万円も入っているのだ。

 その留守であるはずの自宅には彼女が一人でいた。

 ゲンドウには彼女の存在は何一つ知らされていなかったのである。



 アスカにしては幸運なことに、帰宅後のシャワーは終わっていた。
 もしその時間にゲンドウが帰宅していれば息子と同じことをしでかしていただろう。
 「シンジか?」などとバスルームに突入していたに違いない。

 彼が突入したのはリビングだった。
 息子と違ったのは彼は追っ手に脅えていたおかげで、玄関の見慣れぬ女物の靴をしっかりチェックできていたのだ。
 しかもそれは若い娘の履くような代物だ。
 彼は見かけ上は悠然と、心の中では金属バットとピストルを手に恐る恐る歩を進めた。
 テレビの音がリビングの方からする。
 目標はリビングのようだ。
 巨体をかがめて、ゲンドウはリビングの扉をわずかに開いた。

 リビングには…誰もいなかった。
 ただ水の音が台所の方で聞こえる。
 それから何の歌かわからないが鼻歌も。
 やはり若い女のようだ。
 ゲンドウは大きく深呼吸した。
 自分の容姿が他人に与える影響は良くわかっている。
 何しろこの図体にこのご面相だ。
 夜道をすれ違っただけで、悲鳴を上げられたことも警官を呼ばれたこともある。
 それならば髭とサングラスをやめればよいのだが、そうなると気弱そうな真実の顔が白日の下にさらけ出されてしまう。
 おどおどとした目に引き攣った笑い。
 時に息子の顔に自分と酷似したものが浮かぶときがあり慄然とするのだが、すぐに亡き妻の愛らしい顔がそれを打ち消す。
 シンジはユイに似てよかった。
 そう思わずにはいられないゲンドウだった。
 誰もがシンジを父親似だというものはいない。
 それでいいのだ。そうゲンドウは思っている。
 もう一度、深呼吸。
 突然叫ばれて、暴れられたりしないだろうか。
 不安に押しつぶされそうになりながら、ゲンドウは台所を覗いた。

 シンクの前には黄色いワンピースの金髪の少女が背中を向けて立っていた。
 何かを洗っているようだ。
 ゲンドウは口を開いた。
 で、戸惑った。何語を喋ればよいというのだ?
 ここは世界の公用語である英語か?

「えくすきゅうずみい」

 アスカがさっと振り返った。
 そして、あっと口を開いた。
 まずい…またか…!とゲンドウが思った瞬間、彼女はぺこりと頭を下げた。

「こんにちは、私、惣流・アスカ・ラングレーといいます」

「あ、ああ…うむ…」

 予期せぬ反応にゲンドウはいつものように固まってしまう。

「シンジのパパですよね。私昨日からここでホームステイさせてもらってます」

 これがあのアスカか?
 シンジやミサトがこの様子を見たら仰天してしまっただろう。
 しかしゲンドウは日頃の彼女をまったく知らない。
 いやそれどころか自宅にホームステイする金髪の美少女がいるなど初耳だ。
 だがそんなことよりも、ゲンドウはアスカの言葉に引っかかった。
 何故この自分がシンジの父親だとわかったのだ?

「何故だ?」

「はい?」

「何故、私がシンジの父だとわかった」

「あ、似てますから」

「う…」

「背は大きいけど、表情とかがそっくり。会社の社長さんなんですよね」

 こんなことを他人に言われたのは初めてだ。
 亡き妻には「誰にもわからないでしょうけど、ほらここはあなたにそっくり。それからこんなところも…」などとよく言われていた。
 ゲンドウは何故かしら目頭が熱くなってしまった。
 そして、手近にあったダイニングの椅子にへたりこんでしまった。

「あ、あ、あ、ど、どうしたの?」

 もともとアスカは躾の良くできた少女だったのだ。
 母一人子一人で育ち、そして母親が事故死してから大学に入るまでの数年は親戚に厄介になっていた。
 昨日今日見せたような態度では親戚が面倒見るはずがない。
 ただ大学に入り一人暮らしをするようになってから、子供に見られたくないという思いと生来の勝気さが相まっていささか生意気になっていたわけだ。
 それと、少しばかり妄想で突っ走るところもあるので、今など中学校では真剣に創るつもりだった神聖アスカ皇国のことを思い出して一人で笑っていた。
 ただあの時に食べたお弁当は美味しかった。
 それだけは間違いない。
 だから感謝の気持ちを込めて台所の片づけをしていたわけだ。
 何しろ彼女の身体に流れる3/4は世界でも有名な掃除好きなドイツ人の血。
 シンジが片付けてから数十分のうちに見事に散らかしてくれたミサトを呪いながら、リビングと台所を綺麗にしていた。

 したがって、不審人物ではない(と思うだけでもアスカは大物かもしれない)シンジの父親がよよと泣き崩れるのを見て放っておくわけには行かなかった。
 片付けるときに確認した紅茶のセットを出してきてゲンドウのために淹れてあげる。

「あ、あの…?えっと、おじさん…でいいのかな?ま、いっか。おじさんストレート?」

「な、何がだ?」

 腫れぼったい目を上げたゲンドウは目の前に湯気を上げるティーカップを注視する。

「これは…君が淹れてくれたのか?」

「ん?ま、まあね。で、やっぱりストレート?」

「いや、砂糖を3杯にミルクをドバドバ」

「げっ、そんなに?」

「悪いか?」

「ん…ううん。じゃ入れるわよ」

 ぼそんぼそんぼそん。どばどばどば。
 わっ、こんな甘そうなの私飲めないよ。
 アスカの感想を余所に、ゲンドウはカップを取り上げると美味しそうに啜った。

「うむ。美味い」

「へへっ。アリガト」

「ところでシンジは元気か?」

 人心地がついた途端に、ゲンドウは本来の目的に立ち返った。

「へ?おじさん、家に帰ってないの?」

「ああ」

 真剣な顔で頷くゲンドウにアスカは了解した。
 やっぱり社長だけに家に帰れないほど忙しいんだ、と。
 ゲンドウは本当の理由はこんなうら若き娘には言えなかった。
 毎晩、リツコに迫られる上に(読んでも意味のわからない)書類をデスクに山のように積まれているのだ。
 最後にシンジの顔を見たのはもう10日以上前になる。

「ん…そうね。うん、元気よ。学校にもちゃんと行ってるし」

「そうか。それはよかった」

 きゅるるるる。
 安心した途端にゲンドウは胃袋から空腹のメッセージを受けた。
 つい1時間半ほど前に同じメッセージを受け取ったアスカは微笑んでしまった。

「お腹減ってるの?」

「うむ」

「何か作ってあげようか?日本料理はできないけど…」

 アスカはダイニングと冷蔵庫をぱぱっとチェックした。

「サンドイッチくらいなら私にもできるわよ。食べる?」

「ああ、頼む」

「OK!」

 アスカはにっこりと微笑んで、食材を集めだす。
 その姿を眺めながら、シンジには悪いが台所にはやはり女性が似合うと思ってしまうゲンドウだった。



「司令は自宅。心配ないわ」

 リツコはふぅっと溜息をついた。

「隠しカメラも変なところで役に立っちゃったわねぇ」

「だから、こんなこともあろうかと」

「はいはい。それに、あんな美少女と二人っきりになっても狼さんにならない司令にもリツコさんは安心したと」

「ミサト。第2計画の方は大丈夫?」

「ふん。話逸らしちゃってからに。晩生の女が目覚めたら怖いって言うけどさ…」

「ミサト。司令のお宅でのビール代、必要経費で認めないわよ」

「あらン、大丈夫よぉ。総務のマヤちゃんに言ってあるもん。そこは作戦部長として…」

 ミサトは目を剥いた。
 総務に回したはずの書類をリツコが手に持ってひらひらさせている。

「ちょっと、どうしてそれをあんたが!」

「こんなの回ってきましたけど、いいんでしょうかってね。マヤはいい子だわ」

「あんたねっ!ふぅ〜ん、司令に教えてあげよっかなぁ?貴方の愛人は以前に恋人がいました。しかもあいてはオ・ン・ナですってさ」

「あら、恐喝のつもりなのかしら?残念ながら大丈夫よ」

「嘘っ!」

「相手が男なら問題があったかもしれないけど。それにそのこともきちんと懺悔しています」

「じゃ、マヤちゃんの方に」

「そちらもお気遣い無用。あの人に言われてマヤにもちゃんと話しました」

「げっ!そんな!修羅場にならなかった?」

 うんざりとした感じでリツコは鼻を鳴らした。

「まったく、あなたって人は。私とマヤの間にはキス程度の関係しかないわ」

「あらま、そうだったの?ネルフ内の噂では…」

「で、第2計画の方は?」

 あくまで茶化そうとするミサトにリツコは自分のペースを崩さない。
 何故なら彼女はゲンドウの行動に安心していたから。
 隠しカメラで見たアスカ相手にいやらしい行為に出ないことはもちろん、
 そもそもシンジのことが心配でネルフを抜け出したってことが。
 ただほんの少しだけ自分よりも息子のことを選んだ…という気持ちも確かにあった。
 そんな自分に女を感じて陰ながら苦笑していたリツコである。

「そっちは用意済みよ。明日香は二度来たるって書かれてるんだから、もう一回学校に行ってもらわないといけないのよねぇ。
 まあ日向君に頼んでシンちゃんが怪我したって誤報を…。こら、リツコ、訊いてる?」

「静かに!何だか話が…」

「なになに?」

 二人はモニターに集中した。
 モニターではゲンドウが美味そうにサンドイッチを頬張っている。



「どう?おじさん」

「うむ、美味い」

「やった!」

 アスカが指をぱちんと鳴らした。
 それを見てゲンドウは寂しげに笑う。

「わしが料理が美味ければ、シンジに作ってやれるのだが」

「そっか、だからアイツ自分で…」

 アスカははっとした。
 その弁当を私が食べた。
 ということは…。
 アスカは壁の時計をきっと睨みつけた。
 12時10分。

「おじさん、お昼休み何時何分から?!」

「す、すまん。わしは知らんのだ」

「もう!アンタ、親でしょうがっ!あ、ごめんなさい!」

「いや、その通りだ」

 目を伏せてしまうゲンドウ。
 その雰囲気はシンジにそっくりだ。

「ああっ!よしっ!とにかく行ってみる!」

 アスカは台所に突入していった。
 きっちり3分後、彼女はタッパーを手に現れる。

「ごめん、おじさん留守番お願い!」

「ああ」

 ゲンドウは素直に自宅の留守番を引き受けた。
 詳しくは聞いていないが、息子に弁当を届けてくれるようだ。

「じゃ!よろしくねっ!」

 玄関へ駆け出して行ってすぐに、扉がばたんと閉まる音。
 いやはや元気な娘だ。
 ゲンドウは次のサンドイッチに手を伸ばそうとした。

 がしゃ!どたばたばた!

「おじさん!アイツの自転車のナンバー知らない?」

「ナンバー?」

「組合せ式なの!知らないの?」

「すまん」

「ああっ!もうっ!」

 アスカは一瞬天井を仰いで、また駆け出て行った。
 廊下を土足のままで。
 ゲンドウもそれに気付いていたが、あえて何も言わなかった。
 外国育ちだ。仕方がなかろう。
 ただ、表から何か盛大にものの壊れる音が響いてきた。
 あれは自転車か?
 うむ、結構乱暴なところもあるようだな。

 その時、電話が鳴った。

 すっかり気持ちが和んでいたゲンドウは自然に受話器へと手を伸ばす。

「碇だ」

 ゲンドウの表情が凍った。
 脱走したことを一番知られたくない女からの電話。
 これでもう二度と相手をしてくれないだろうと吹っ切るようにあそこを出てきたのだ。

「そこを動いたら、私死にますから」

 女はただそれだけを言って電話を一方的に切ってしまった。
 彼女は私の扱いが巧い。
 ユイと同じだ。
 ここを動けば殺すのではなく自分が死ぬと言う。
 そんなことを聞いて、私が動けるわけがないではないか。
 ゲンドウは少し震える手をサンドイッチに伸ばした。





 午後12時35分。
 お昼休みまであと5分。
 教室中に長い休憩時間への期待が膨らむ時間だ。
 それを体感している教師はことさらに声を張り上げた。

「いいかぁ、この文法。試験に出すぞ。全部丸暗記を…」

 彼の20年以上の教師生活から来る経験ではここでどっと反応が起きるはずだ。
 ところが、この日は違った。
 生徒たちが別の音に気をとられてしまったのである。

 砂の上を滑るようなブレーキ音に続いて、けたたましい金属音。
 自転車ががしゃんと倒れる音だ。
 そして、間髪を置かずに聞き覚えのある大声が轟いた。

「馬鹿シンジっ!出てきなさいっ!」





 アスカは二度来た……。
 





すべては世界の平和のために

− 3 −

「アスカは二度来たる」

〜 おわり 〜

 

次回に続く

 


<あとがき>

 A6M4様よりいただいた、333333HIT記念リクエストSSです。今回はその第3話です。

 リクエスト内容は、1、七夕。2、エヴァ本編キャラ総出演。3、世界平和。

 以上のお題です。七夕はまだまだ繋がってませんね。

 もう短くまとめるのは無理なような気がしてきました。とほほ。

 今回新登場は…うわっ、言葉上でマヤだけだ!これは登場には含められないから…。ぐすん、次回にがんばろう。

 

 

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