『獲明真書』

 明日香は二度来たる。
 二人は雨の中を家に帰る。
 (現代語訳)

 

 砂の上を滑るようなブレーキ音に続いて、けたたましい金属音。
 自転車ががしゃんと倒れる音だ。
 そして、間髪を置かずに聞き覚えのある大声が轟いた。

「馬鹿シンジっ!出てきなさいっ!」





 


 

すべては世界の平和のために

− 4 −

「雨にぬれても」


333333HITリクSS

2004.7.24         ジュン
















 アスカは二度来た……。



 その声に敏感に反応したのは当然碇シンジ。
 そして、工作員の方々だ。


「すみません!失礼しますっ!」


 いつになくシンジの行動は素早かった。
 教師に一礼すると、声をかける暇もなく教室から飛び出していった。


「ははは、センセもやるもんや」

「こらトウジ。何を暢気にしてるんだ」

「はぁ?何慌てとんや」

「馬鹿か、お前。今の状況を理解できてるのか?」

「そりゃあわしらが何もせんでアイツが来よったんやから楽ができたっちゅうことで…」

「おい、何をとぼけてるんだ。もしあいつがもう一度学校に来たらどうする?
 明日香は三度来るってことになるじゃないか」

「おお、なるほど」

「もしそうなったら…世界は滅ぶんだぞ」

 工作員たちは『獲明真書』を読んではいない。
 しかしミサトから概略は聞いている。
 世界の歴史のみならずパリーグの優勝チームまで予言し的中させているという恐ろしい預言書だと。
 その預言書の後半部分は金髪美少女と日本人の少年の恋物語に終始し、
 さらにその末文にはこの通りに進行しなければ世界が滅亡すると明記されているのだ。

「せ、せやったなぁ。ど、どないしょ。放課後にまた遊びに来るかもしれへんで」

「鈴原君、日向先生にコンタクトをとって。今の状況を説明。本部の指示を請うのよ」

「わかった。任しとけ」

 授業終了のベルが鳴った。
 すかさず委員長の責務を果たすヒカリ。
 彼女の号令に窓際から生徒は自席に慌てて戻り、これまた慌てて教壇に上った教師に挨拶する。
 その直後、トウジは教室から飛び出して行った。
 工作員以外の生徒はまた焼きそばパンをゲットしに購買部に走ったのだと思い込んでいる。
 見事なカモフラージュだとヒカリは誤解していた。
 いつも本能のままに購買部に走って大騒ぎをしているのはこういう時に役に立たせるため。
 さすがは鈴原。頼もしいわ。大好き…。
 恋は人を盲目にする。

 そして、ここに一人。
 本人が自覚しないうちに視力を失いつつある少年がいた。
 少々…いや、かなり乱暴だし唐突だが、容姿は申し分ない上に、
 言動のあちこちに垣間見えるものは結構女の子らしい。
 となれば彼女こそまだいないものの健康体のシンジにとってアスカの存在はただならないものとなる。
 実際ミサトには肉体的な欲望しか抱かなかったシンジだったが、
 アスカの方にはデートしたいとかそういう日常的な妄想を抱いてしまっていたのだ。
 したがって、アスカに呼び出されるとすぐさま反応してしまう。
 だが、問題はその自分の気持ちに全然気付いていないということだった。
 彼はアスカが自分の知り合いなんだし、
 そもそも自分を呼び出しているから動いているんだという表面的な意識しかなかったのだ。
 
 さて、アスカ。
 校庭の真ん中に仁王立ちしているものの、お目当てのシンジが現れるのかどうかまったくわからない。
 叫べば出てくるものと思い込んでいたのだ。
 何故なら今朝がそうだったから。
 アスカは信じていた。
 きっと、シンジは現れる。
 それは彼が自分の下僕だから。
 どうもこの場所は地磁気の影響なのだろうか、アスカにそういう妄想を植えつけている。
 で、下僕は現れた。
 汗びっしょりになりながら、ころばんばかりに彼女の前へ。
 
「遅いわよ!馬鹿シンジ」

 この態度。
 呼び出しておいて、誰が見ても必死に走ってきた人間にこれである。
 顎を突き出して、横目でじろりと睨みつけている。
 トウジならばかっとなってしまい、アホかボケかと叫んでいるところだ。
 それがこのシンジはそういう反応をしない。
 いや、アスカが偉そうにしていることに疑問を持たないのだ。
 それは何の所為か。
 同い年なのにすでに大学を卒業しているから?
 この美貌の所為?
 違う。もっと単純な理由だ。
 それはシンジがアスカの裸を見た所為。
 至近距離ですべてを見てしまった彼は、
 もちろん何と素晴らしい経験をしたことかと喜んだ一方で、
 自分に見られてしまったアスカのことを考えてしまっているのだ。
 異性に全裸を見られたのだ。
 いくら怒っても仕方がない。
 だからシンジのことをずっと怒っているのだと、彼は錯覚していた。
 実はアスカは完全にそのことを忘れているのだが。
 彼女にとっては折に触れて思い出すだけで、そのことで常にシンジに偉そうにしているわけではない。
 つまり、単純なこと。
 これが二人のスタンスなのだ。
 で、怒られていても仕方がないと思っているシンジは、素直に返事をした。

「ごめん。まだ授業中だったから」

「はん!私よりも授業の方が大事ってわけね」

「え、えっと…」

「もうっ!気の利かないやつね、こういう時は次からはそうするって言いなさいよ」

「で、でも、授業中に勝手に出て行くのは…」

「くわぁっ!煮え切らないヤツね。じゃ、これはいらないのねっ!」

 碇シンジ、これまで交際してきた少な目の人間の中にアスカのような人種はいなかった。
 白色とか黄色とかそういう意味ではない。
 何を考えているのかわからないのだ。
 いや、考えている間に次の話題に飛んでしまっている。
 ただでさえ沈思黙考型のシンジなのだから、アスカの言動にはまったくついていけないのだ。

「あ、あの、これって何?」

 シンジは目の前に突き出された包みを見て素直に疑問を呈した。
 その中身がイギリスは18世紀のサンドウィッチ伯爵が寸暇を惜しみ博打に集中するため考案したものだとはわかるわけがない。
 何しろ包みは新聞紙なのだ。
 猛牛爆発12点!などという見出しを通して中身がわかればエスパーである。
 当然エスパーでもなんでもないシンジには謎の物体に過ぎない。
 それでも、彼はこう言った。

「ありがとう」

「ふん、最初から素直に受け取ればいいのよ」

 シンジは最初からかなり素直であった。
 普通の人間なら押し問答になっているところだ。
 実に偉そうに包みをシンジに渡してしまってから、アスカは気付いた。

「アンタ、それ何かわかってんの?」

「はい?」

「アンタ、中身もわからずに他人から物を受け取っちゃいけないってママから教わらなかった?」

 ほんの少しだけシンジの笑顔に影が差す。
 その一瞬をアスカは見逃さなかった。

「ごめん、教わってないや」

 その直後、アスカがまるでたたっ切るかのように言葉を発した。

「悪かったわね」

「え…」

「悪かったって言ってんでしょ。人の言う事はしっかり聞いてなさいよ、もうっ!」

 アスカはシンジに横顔を向けた。
 その頬が見る見る赤くなっていく。
 何故アスカは謝ったのか。
 流石に鈍感なシンジにもその理由はよくわかった。
 昨日、ミサトにアスカのことを教えてもらった。
 アスカには両親がいない。
 彼女が生まれてすぐに父親が死に、母も7年前にこの世を去っている。
 自分には父親がいるだけましじゃないか。
 それにそんな悲しみを背負っているのにあんなに元気だ。
 シンジはそんな意味でもアスカには心を奪われていたのである。
 
「うん、ありがとう。惣流さんって、凄く優しいんだね」

 その瞬間、アスカは何を言われたのかまるでわからなかった。
 そして必死で習得した日本語の中で『優しい』という言葉の意味を取り違えて覚えてしまったのかと思った。
 優しい……情け深い、情が細やか。
 はん!私には縁もゆかりもない言葉ねっ!
 そう自嘲しながら覚えた単語。
 アスカはシンジが意地悪で言っているのではないかと、まず疑った。
 しかし、シンジの笑顔には一点の曇りもない。
 本心で言っているのだ。
 アスカの脳内コンピュータは壊れそうだった。
 2秒後、アスカは答を出した。
 やっぱり、こいつは最高よ。
 最高の召使だわ。
 こんな素晴らしいアイテムを逃してなるものか。

「は、はは、ははは!」

 シンジとは違う方角に向って、アスカは高笑いをした。
 そして、大声で叫んだ。

「光栄に思いなさいっ!アンタに私の手料理を持ってきてあげたのよっ!
 なにしろ、アンタが最初の男なんだからっ!」

 シンジには彼女の意図は通じた。
 包みを開くと、タッパーの中にサンドイッチ。
 ああ、僕のためにお弁当を作ってきてくれたんだ。
 しかも彼女の手料理を最初に食べることができるんだ。
 こんなに素晴らしいことが他にあろうか。
 この時にシンジは完全に視力を失ってしまったに違いない。
 本人にその自覚はまったくないのだが。

 問題はシンジではない。
 恥ずかしさの余り、アスカがそっぽを向いた方向。
 そこには固唾を呑んで見守る顔顔顔。
 もちろん、アスカにとっては有象無象にすぎない彼らの存在は彼女の眼中にはまったくない。
 しかし彼らはしっかりと聞いた。

 シンジがあの金髪美少女の最初の男なのだと。

 惣流アスカは数日後の編入を待つことなく、碇シンジの“妻”として認識されたのである。
 思いもよらぬこの展開に、さぞや工作員の方々は胸を撫で下ろしていることかと…。
 そう思いきや、ネルフの面々は大忙しなのであった。

 それには理由がある。
 『獲明真書』にはアスカが二度来た後に、二人で雨の中を家に帰ることになっているのだ。

 第3新東京市。
 本日の降水確率は0%。




「なぁにぃっ!作戦が3時間早まっただとぉっ!」

「はいっ!司令部からの命令です」

「ば、馬鹿なっ!あいつらは現場のことが何もわかっとらんのだっ!」



「総理も無茶をおっしゃる」

「どうやらアメリカから圧力が…」

「やれやれ、降雨弾の実験程度でアメリカもご苦労なことだ」



「何故だっ!中止要請ならまだわかるが、実験の時間を早くしろなど信じられん」

「総理。大統領の口調も歯切れが悪かったようですが」

「どうせ支持母体から圧力がかかったのだろうよ。結局は合衆国もうちと実情は変わらん」



「がっでむっ!ナゼコンナ馬鹿ゲタコトデ私ガ動カナイトイケナイノダ」

「大統領、選挙モ間近デスノデ…」

「フンッ!ソンナコトハワカットル。アイツラノ機嫌ヲ損ネルワケニハイカン。シカシダナ…」



「へろう。私デス。ヤツハぶつぶつ言イナガラモ連絡ヲトッタヨウデス」

「了解。スマナカッタナ。コンナ時間ニ」

「イエイエ、スベテハ世界ノ平和ノタメニ、デスカラ」



「ゼーレより緊急連絡。アメリカ大統領は要請通りに動いたとのこと」

「よし。では降雨弾実験はすぐに始まるというわけだな」

「防衛庁内の工作員からも連絡が入りました。実験用のJAハリヤー改99櫻零式が離陸しました」

「わかった。赤木君はどうだ」

「間に合いません。碇社長の自宅で動けないそうです」

「仕方がないな。伊吹君、頼むぞ」

「はい!」

 伊吹マヤは返事をしたあと、唇を噛みしめた。
 物凄い大役である。
 戦略自衛隊のスパコンにハッキングし、JAハリヤー改99櫻零式に虚偽の命令を与えるのだ。
 予定ではリツコがそれを実施することになっていたのだが、
 彼女はゲンドウの元に行ってしまい、尚且つそこから動けないと連絡が入ったのである。
 冬月は突然の大役に表情が固くなっているマヤを不安そうに眺めた。
 技術的には心配はない。
 ただあんなに緊張して大丈夫なのだろうか。
 彼はマヤの隣に座っている青葉シゲルを見た。
 シゲルは軽く頷き、それまでの真面目な表情を崩す。

「マヤちゃん。これが終わったら、昼飯を外に食べに行こうぜ」

「そ、それは業務規定違反です。
 司令室勤務のものはお弁当か食堂から配布される定食を食べることになっています」

「まあ、いいじゃないか。フランス料理でも会席料理でもいいぜ」

 どうせ経費で落とすんだから、日頃食べられないものを食べてやれ。
 これこそ一石二鳥。いや三鳥だな。
 食欲を満たすことと、マヤちゃんとデート、それに世界の平和にもつながるんだ。
 しかし、視界に写った冬月は冷たく首を横に振った。
 そして、指を1本立てる。
 それを見てシゲルは右手の指で輪を作り、そして左手の指を5本立てた。
 予算は1万円だろうと。
 だが、冬月は指を4本しか立てない。
 予算は1千円なのだと。
 シゲルは頭を抱えたくなった。
 その予算じゃハンバーガーセットくらいしか食べられないじゃないか。この、ケチンボっ!

 すべては世界の平和のためにと、涙を呑むシゲルだった。

 反面、マヤはこのやり取りで肩の力が抜けた。
 キスをしただけの仲だったが、憧れのリツコがゲンドウに夢中である以上、
 異性との交際も仕方がないかもしれない。
 お昼は規定で不可能だが、晩御飯には第三新東京市一番のフランス料理店でご馳走してもらおう。
 そう心に誓ったマヤである。
 そのためにはこの作戦を成功させねばならない。
 すっかりやる気で満ち溢れた彼女を見て、シゲルも冬月も一安心。
 ただし、シゲルは安心してはならない。
 経費は千円。彼女の希望するフランス料理店は二人で3万円は軽く飛ぶだろう。
 その上、マヤは一度リツコに連れて行ってもらったショットバーにも行きたいと思っていた。
 しかもこの日はネルフの給料支給4日前だったのである。



 さて、碇家からリツコは何故動けないのだろうか?

 ダイニングではゲンドウがお決まりのポーズでじっと座っている。
 その視線の向こう、キッチンではリツコが叫び声を上げたいのを必死に抑えていた。
 何なのこれは。
 大さじ一杯というのは何ccなの?
 それに油を170〜180度に熱しだなんて、いい加減なっ!何度かはっきりしなさい。
 こんな正確さの欠けたマニュアルでよく料理などつくれるわね。
 信じられないわ。
 揚げだし豆腐を食べたいというゲンドウに、生まれて初めて料理の本を開いた彼女だった。
 ただ、その本のところどころにシンジの書き込みがあることが彼女の心を熱くさせた。
 父さんは醤油を少しだけ多めにした方が喜んでくれる…など。
 少しだけって所はいい加減だけど、いい子ね。
 そして、リツコは30cmのスケールを豆腐に当てた。
 少量のインクが体内に摂取されても健康への問題はないわ。
 しゅっしゅっと油性ボールペンで豆腐の上面に升目を描く。
 本には豆腐を四等分にし、と書かれていたのだった。
 ゲンドウは麻婆豆腐を要求しないでよかった。
 あれならさながら方眼紙のようにラインが引かれたことだろうし、その結果も明白だ。
 リツコのこめかみには青筋が浮かび、唇がプルプルと震えたことだろう。
 何故ならぷにゅぷにゅと動く豆腐をきっちり1cm立方に切るなんて不可能だから。
 思いのままにならない豆腐に粛清の拳が打ち下ろされるか、
 ブツブツ言いながら体力が果てるまで何度でも1cm立方切りを繰り返すかのどちらか。
 まずは揚げ出し豆腐でまだよかった。リツコのためにもゲンドウのためにも。
 でも、包丁って切りにくいわね。大きなカッターナイフはないのかしら?



「みんな、いいか。あと5分後に作戦は実施される。
 それぞれの役目をきちんと果たすように」

「はいっ!」

 昇降口に集まった工作員を前に日向先生が訓示を垂れる。
 
「これでもう彼女は二度来てしまったんだ。
 さらにもう一度ここに来られてしまうと、世界は滅亡してしまう。
 必ず、碇君と下校させるんだ。しかも雨の降っている間にだぞ。
 赤木博士の計算では降雨弾の効果は約20分。
 世界の平和はその20分にかかってるんだ。
 ここから碇君の家まで歩いて15分。だから5分が勝負だ」

「せやけど、アイツは自転車でガッコまできとるで」

「いや、変にそいつを計算しない方がいいぞ」

「そうね、甘く考えない方がいいわよ、鈴原」

 ケンスケの否定にはムッと来たが、ヒカリの一言には頷いてしまうトウジである。
 
「わ、わかったわい。きばってやるさかいに」

「うん、お願い。私たちの未来のために、ね」

 ヒカリの真意は伝わらなかった。
 私とアナタの未来なのよという真意は。
 あくまで自分のことしか見えてないトウジはストレートに、
 もしかすればヒカリとラブラブになれるかもしれないという消極的な未来のためにがんばろうと思ったのだ。
 この二人の違いは大きい。
 ともあれ、予想外のアスカの来襲により予定よりかなり早まった人工降雨作戦は始まろうとしていた。



 さて、自分たちをめぐってとんでもない人間が道具のように使われているのも知らず、アスカとシンジの間にはいいムードが漂っていた。
 シンジはタッパーを開けると、にっこりと笑った。
 アスカの方を向いてではなく、サンドイッチを見て。
 それが何故かアスカの気に入った。
 ただ純粋にサンドイッチを褒めて貰ったような気がして。
 思わず頬が緩んでしまうアスカだった。

「ありがとう。おいしそうだね」

「は、はは、はははっ!味の方はアンタのパパの保障済みよっ!」

「へ?父さんの?父さんを知ってるの?」

「ううん。さっき帰ってきたの」

「あ、そうなんだ。で、君がサンドイッチを作ってくれたんだね。ありがとう!」

「れ、礼には及ばないわよ。それくらいのこと!」

 言葉とは裏腹にアスカの表情はご満悦。
 褒めてもらうと嬉しくて仕方がないのである。
 ああ、この快感!
 日本に来てよかったっ!
 まさかこんなとこに私のツボをよく知ってるヤツがいるなんて。
 こうなったらこいつの一生を私に捧げさせるのよ。
 そう。侍従頭にしてあげるわ。
 そして私のツボを召使全員に徹底させるの。
 なんて素敵な未来かしら。毎日私はツボをぐいぐいって押されて…。
 快感で狂い死にしたりして。ぐふふふ。
 すっかり妄想の世界に入ってしまったアスカである。

 その時、ポツリと水滴がシンジの頭にあたった。




 その数分前、JAハリヤー改99櫻零式のコクピットはパニックに陥っていた。

「機長!通信途絶!」

「操縦は回復しません。計器はすべてロックされてます!」

「降雨弾、全弾投下された模様です!」

「下はどこだっ!」

「わかりませんっ!高度が高すぎて目視できません」

「あああっ!」

「機長!落ち着いてください!爆弾ではないのですから、雨が降るだけです!」
 


「はぁ…」

「やったな、マヤちゃん。大成功だ」

「はい…。何だか、急にほっとしてお腹が減ってきちゃいました」

「うむ、特別に許可する。青葉主査、伊吹くんを食事に連れて行ってやりたまえ」

「はい。マヤちゃん、MACに新しいメニューが…」

「私、エコール・ド・パリでコース食べたい」

「よかろう。青葉主査、そのように計らいたまえ」

「し、しかし」

「あそこはカード支払いできる。ああ、そうだ。夜は上海亭を予約して置いてあげよう」

「本当ですかっ!」

 マヤとシゲルの声がユニゾンする。
 上海亭と言えば、完全予約制の超高級中華料理店。
 とてもじゃないが、二人の給料では清水の舞台よりも高い位置にある。
 さすがは冬月さんだ。
 だったらエコール・ド・パリの2万や3万くらい…。

「うむ、青葉主査の名前で予約しておく。あそこもカードが使えるからな」

 その一言でシゲルの喜びは凍結された。
 上海亭の方はリボ払いにしよう。恥ずかしいが。マヤちゃんには見られないように。

 金銭的ショックの大きいシゲルには冬月の深慮遠謀は見抜けなかった。
 肉を斬らせて骨を絶つ。
 シゲルの恋心は見え見えなのだから、背中を押したわけだ。

「ねぇ、青葉さん、上海邸の後はちょっと飲みに行きませんか?
 私いい感じのショットバー知ってるんです。あ、そっちは私の奢りで」

 青葉シゲルは男でござる。
 当然、マヤの奢りという主張は退け、シゲルがすべて支払うことに押し切った。
 数分後、冬月に頭を下げて給料日に返済の約束で5万円を借りる羽目になったシゲルだった。
 そのショットバーがカードで支払いできるかわからないからだ。



「あ、雨だ」

「ホント、こんなに晴れてんのに」

「あ、ね、ねえ、校舎の方に入ろうよ。一緒に食べようよ、ね」

「う、で、でも、それはアンタにつくってきたんだから。私、アンタのお弁当食べちゃったし」

「だけど、濡れちゃうよ」

 アスカの遠慮は雨という絶好の言い訳で解消された。

「そうねぇ、雨宿りしないといけないし、ちょっと行ってあげようかしら」

「うん、そうしなよ」

 シンジは微笑んだ。
 しかし、その背後から非情な声が。

「それはダメだ。学内に関係者以外は入ってはならない。学則で決まってるだろう?」

「日向先生!」

「アンタ、誰よっ!」

 アスカに睨みつけられて、日向は精神上5歩ほど後ずさった。
 ただし、ここは退くわけにはいかない。
 世界の平和のためだ。

「あ、僕のクラスの担任の先生」

「はん!私は関係者なのよ。こいつの家にホームステイしてやってんだから」

 さすがは日向である。
 この成り行きも今後に活かせると思い、早速手を打った。

「だから言っただろう。関係のない人間はダメだと」

 アスカはぶちきれた。
 そして、窓際で弁当も食べずにこちらを窺っているギャラリーたちにもしっかり聞こえるほどの声で叫ぶ。

「私はこいつと関係してんのっ!」

 一瞬の静寂。
 そして「うおおおおおっ!」というどよめきが第壱中学を包んだ。
 アスカの習得した日本語では、関係というのはconnectionやrelation、participation、influenceといった意味であり、
 決してsexを意味などしない。
 したがってどよめきの意味をアスカはわからず、単に教師に反抗した自分への賞賛と受け取っていた。
 シンジはその意味がわかったのだが、アスカの誤解もわかっているだけに苦笑しただけ。
 日向のアドリブはさらに学内でのアスカとシンジの親密度を向上させる結果となった。
 但しそれは本人同士のものではなく、周囲の認識に過ぎないが。
 しかしながら、シンジと恋仲になってもらわなくてはならないアスカに変な虫が付いてはならない。
 だからこうして二人の関係が深いものだと認識させることは凄く重要なことなのである。

「ああ、それはわかりますが、規則は規則です。生徒か保護者に当たる方でないと困るんですよ」

 アスカは声もなし。
 納得したのではなく、あまりの腹立たしさに二の句が告げられないのだ。
 このことがネルフの想定外の行動にアスカを駆り立てていくのだが、それは次のお話。
 この場ではだんだん多くなってくる雨粒の中、ただじっと睨みつけているだけ。
 そこへ登場したのはシナリオ通りの工作員3人組。

「でも先生。この人傘持って来てないみたいですよ」

「びしょ濡れになって帰れって言うのも薄情だと思うぜ」

「せやせや、そやさかいにええもん持ってきてやったで」

 トウジが背中に隠していたジャンプ傘をさっと出す。
 色は黒。

「これ使うたらええ」

「あっ、トウジ、ありがとう」

 親友の気配りと思い込み、シンジが破顔する。
 ところが、アスカは気に入らないようだ。
 ぷんと横を向き、顎を突き出す。
 トウジからの傘だというのが気に入らないのか、色が気に入らないのか。
 でも、シンジは気が気じゃない。
 アスカが着ているのは朝と同じの黄色いワンピース。
 その鮮やかなイエローレモンの色が少しずつ濃い黄色に変わっていっていく。
 しかもその生地がべっとりと身体に張り付いて……。
 ところが、アスカは憤懣のあまり、そしてシンジは生来の鈍感さでそれに気付かない。
 仕方なしにヒカリがつんつんとシンジのわき腹を突付く。
 そして、目でシンジにアスカの方を見ろと促しているのだが、やはり何を意味するか気付きはしない。
 
「碇君、あの子の服」

 そう囁かれて初めてシンジはアスカの状況に気づいた。
 思春期の少年には甚だ扇情的なその姿。
 彼はいきなりトウジの手からジャンプ傘を奪い取ると、アスカの頭上に傘を開く。
 片手でしっかりとアスカのサンドイッチの包むを胸に押さえ、アスカを濡らさないように彼女を傘の下に。
 でも身体をアスカにくっつけないようにしているから、傍目には実にみっともないへっぴり腰だ。

「何よ、いきなり」

 さすがのシンジもここで大きな声を出すのは憚られた。

「あ、あの、服が濡れて…」

 囁くようなシンジの指摘にアスカは自分のワンピースを見下ろした。
 確かに体のラインがばっちり見えてしまって、恥ずかしいことこの上ない。
 さっと頬に朱を走らせて、アスカは背後に転がせてあった自転車を起こす。

「ふん、どうせ私なんて邪魔者なのよね。帰る」

「あの…」

「ちゃんと食べてよね。あとで回収に来るから」

「それはダメっ!」

 工作員一堂の声が唱和した。
 アスカの目がかっと見開かれる。

「な、何よ、アンタたちっ!そんなに私のことをっ!」

「ちゃうんや、もう今日はここに来たらあかんねん」

「どうしてよ!」

「それはやなぁ」

 当然の如く、トウジはケンスケに羽交い絞めに遭い後方へ退場。
 変わって臨機応変に対処できるヒカリが前に進み出た。

「それはね、碇君もあなたと一緒に帰るからよ。それでもうここに来る必要がないってこと」

「ええっ!」

 驚いたのはもちろんシンジ本人。
 
「どうして僕が帰らないといけないんだよ」

「碇君っ!」

「はいっ!」

 さすがは委員長。
 彼女に名指しされると、殆どの人間が直立してしまう。

「あなた、この格好で彼女を帰らせるつもり?
 いくら傘を差していてもこんなの可哀相よ!
 碇君のカッターシャツを脱いで上に羽織らせるの。さあ、早くしなさいっ!」

「はいっ!」

「ごめんね、男の子のカッターで気持ち悪いかもしれないけど、私は脱ぐわけにいかないから」

「あ、うん。別にこいつだったら気になんないわ。アリガトね。私、惣流・アスカ・ラングレー。アンタは?」

「私は洞木ヒカリ。ほら、早く羽織って」

 アスカはシンジから半分濡れたカッターを受け取り、袖に腕を通す。
 その様子を見て、ランニングシャツ姿のシンジはかっかと頬が熱くなるのを覚えた。
 自分が着ていたものをアスカのような美少女が着る。
 どこか興奮してしまうのは無理なからぬところだ。

「仕方がないな、今日は特別だぞ、碇君。今日は早退してよろしい」

 よかった。シナリオ通りに進みそうだ。
 日向はほっとした。
 一時はどうなることかと…。

「わかりました。あ、でも、鞄が…」

「そんなものは後で持って行ってやるよ。早く帰れ」

 そう、降り止む前に家に着いてもらわないと。
 ケンスケは早口にそう告げた。

「さんきゅ、ケンスケ」

「いいって、ほら、早く!」

「うん」

 シンジは前の籠にサンドイッチを置く。
 タッパーだから多少の雨は大丈夫だろう。

「ほら、馬鹿シンジ。アンタ、前に乗んなさいよ」

「え?君は?」

「後ろに決まってんでしょ。あんた、私に漕がせるつもり?」

 アスカが少し上目遣いに睨みつける。

「でも、二人乗りは…」

「ああ、碇君。いいからいいから、今日は特別だ。早くその子を後ろに乗せて行きなさい」

「は、はあ…?」

 シンジが首を傾げながら、アスカに傘を渡してからサドルに跨る。
 受け取ったアスカは傘を畳むと、ヒカリに手渡す。

「使わないの?」

「乗りにくいもん。馬鹿シンジは濡れるのイヤ?」

 イヤとは言わせない口調でアスカが問う。

「ああ、いいよ。もう結構濡れてるし」

「OK!じゃ、行くわよ!」

 後にちょこんと座るアスカ。
 シンジの自転車はユイの使っていたママチャリだ。
 後ろにはしっかり荷台が付いている。
 幼きシンジが乗っていた子供用の座席は取ってしまったが、それはちゃんと物置にしまってある。
 シンジの思い出と共に。
 
「ほら、準備OKよ!重いとか一言でも漏らしたらコロスわよっ!」

「言わないよっ!」

 全力で走ろう。
 シンジは降りしきる雨の中、そう誓った。

「じゃ、さよなら!」

 校庭に車輪の跡を残し、二人乗りの自転車は去っていった。
 思わず、大きな溜息をつく工作員たち。

「よかった…」

「ああ、これで世界の平和がまた守られたんだ」

「そうだな、よくやったぞ、みんな」

「センセ?」

「何だ、鈴原」

「わてら全員、パンツの中までぐしょぬれなんですけど、どないしましょ?」

 ぱっと顔を赤らめ、昇降口へ全力疾走するヒカリ。
 アスカ以上に扇情的な濡れカッター状態であることにやっと気づいたのだ。
 その後姿を見送り、顔を見合わせ笑う三人。
 とにかく、世界の平和のために。
 日向は小型マイクで作戦の成功を報告した。


 
 夢のような雨の中のサイクリング。
 後部座席のアスカは何も言わない。
 ただシンジの腰にしっかりと右手を回しているだけ。
 シンジは大粒の雨がとても心地よかった。



「ただいまぁっ!」

 自然と大声になるシンジ。
 父ゲンドウと顔を合わすのは久しぶりだ。
 玄関で靴を脱ぎ、びしょ濡れの靴下もその場で脱ぐ。

「ごめん!父さん、タオル取って!2枚っ!」

 アスカの分も頼んだが、返事はない。
 そのかわり、奥から物音。
 無口なゲンドウが返事をするわけがない。

「けっこう濡れちゃったね」

 少し軽口も叩くシンジ。
 ところがアスカは無口。
 「うん」と小さく答えただけ。
 どうかしたのかと聞こうとしたシンジだったが、その質問は声になることはなかった。
 バスタオルを手に奥から出てきた人間を見たから。

「はいどうぞ。シャワーも浴びればいいわ。アスカからね」

 初対面の女性にシンジはかける言葉もなかった。
 父さんが姓転換したわけがない。
 こんな美人になるはずもないから。
 
 この白衣を着た金髪で黒い眉毛の女の人はいったい誰なんだっ!
 
 シンジの心の叫びが彼の頭の中だけにこだました。





すべては世界の平和のために

− 4 −

「雨にぬれても」

〜 おわり 〜

 

次回に続く

 


<あとがき>

 A6M4様よりいただいた、333333HIT記念リクエストSSです。今回はその第4話です。

 リクエスト内容は、1、七夕。2、エヴァ本編キャラ総出演。3、世界平和。

 以上のお題です。案の定、七夕には終わりませんでした。

 まだまだ続くぞっ!っと、どうしよう…。

 今回新登場はマヤ、シゲル、それに冬月!一気に三人登場しました。

 降雨弾については重箱の隅を突付かないように(爆)。空からの方が面白そうでしたから。それだけの理由です。化学考証は私の作品では零に近いですね。申し訳ない。

<お詫び>

 シンジと関係してる!のところで、relationも意味違いの中に入れていますが、この単語には男女関係の意味もあったんです。教えていただいてありがとうございます、みどり様。英語が苦手な私ですが和英辞典だけで書いちゃいけませんね。英和辞典のほうにはしっかり載ってました。反省反省。まあアスカはドイツ生まれのドイツ育ちという設定ですので、いくら天才でもそこまでは知らなかったということにしておきます。一度発表していますので、ここは恥をそのままにしておきます。自戒も込めて。

 

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