【作者註】

この作品では既存の小説に関する描写があります。
 もしその小説が未読でネタバレ回避されたいと思う方はお読みにならないでください。




本を読む娘たち

 


ジュン





「それじゃ、1週間以内に読書感想文を提出してね」

 国語の教師は三人に言った。
 中年間際の彼女は少しぽっちゃりとした身体を揺すって微笑む。

「それで中間試験は合格点をつけておくから」

 その通達を聞いて、チルドレンは三人三様の表情を浮かべた。
 惣流・アスカ・ラングレーはうんざりとした顔になり、碇シンジはそれで済むのかと微かに笑う。
 そして、綾波レイの場合はいつもの無表情。
 この反応を予想していたのだろう。
 国語教師はてきぱきと補足していく。

「読むのは小説よ。
綾波さん?この前みたいにあんな学芸書で書かないでね。
しかもあれは感想文じゃなくてレポート」

「私には、あの本しかないから」

「図書室で借りなさい」

 即座に切り返されても、レイは表情を変えない。
 逆にアスカがにんまりと笑う。

「へっへぇ、まさかあの本で書いたわけぇ?
しかもレポートなわけね。まったくわかってないわねぇ、優等生の癖に」

「それから碇君?」

 アスカがレイに絡むのを知らぬ顔で国語教師は今度はシンジに問いかける。
 
「はいっ」

 背筋をピンと伸ばし、シンジは緊張した。
 自分が選んだのは小説だった筈だけど、何か間違えたのだろうか…。

「あなたの書いたのはあれは感想ではなくて、あらすじ。
しかも、碇君。君は本を読んでないんでしょう?」

「えっ、そ、そ、そんなことないです」

 言葉は否定しているが、口調は完璧に肯定していた。
 相変わらずわかりやすいヤツねとばかりにアスカはレイをからかうのをやめてシンジの方に注目している。

「正直に言いなさい。あれはアニメを見て書いたんでしょう?」

「い、いいえ、ちゃんと読みました」

「あのね、原作通りにアニメはつくってないの。警部は自殺するのよ、ユーゴーの書いた『レ・ミゼラブル』はね」

「えっ、そうなんですか!」

 シンジは心底驚き、そしてがっくりとうなだれた。

「先生もそのアニメを見ていたから知ってるの。まあ、子供に見せるのだから自殺はよくないわね」

 先生の言葉の中のフレーズを聞き、アスカは唇を噛んだ。
 自分は見た。
 モニタの中の画像としてではなく、実際の自殺死体を。
 しかもそれは自分の母親の変わり果てた姿だった。
 だが、人に弱みを見せたくないアスカはすぐにシンジに突っかかっていく。
 そうすることで自分の中に生じた悲しみを散逸させようとしたのだ。

「へえぇぇ〜、馬鹿シンジはアニメを見て本を読んだことにしたわけぇ?
アンタ、見かけによらずワルね。そんなズルしてたんだ」

「だ、だって、本がなかったし…」

「図書室で借りればいいことでしょ。ねっ、先生」

「そうね、その通りよ。で、惣流さん?」

 予想していなかった自分に話を振られて、アスカはきょとんとした。
 今の二人の話は自分が来日する前のことだ。
 自分は未だ読書感想文を書いた事が無い。
 日本でも、そしてドイツにいた時も。
 そんな自分に何を?

「感想文は日本語で書いてね。あなた、時々ドイツ語や英語で書くでしょう。答案」

「日本語わからない時あるもん」

 アスカは教師から目を逸らして嘯いた。
 確かにそれはその通りなのだ。
 聞き取りや話すこと、読むことは日本人に負けないほどだと自負している。
 ただし、書くことだけは話が別だ。
 丁寧に書かないと物凄く汚い字になってしまう。
 文章を書かないといけないような答案はアスカにとっては困りものだ。
 別にいい成績を取りたいとは思わないが、悪い成績は取りたくない。
 そんな子供染みた部分がある大学卒業生なのだ。

「感想文は全部日本語で書くこと。それから読むのも日本語で書かれた小説よ。
持っているドイツ語とかの本ではなくてね」

 まさかアスカが1冊も本を持っていないとは先生にわかるわけがない。
 
「OK。アタシも図書室で借りろってことね」

「そういうこと。まだ開いてるから行きなさい」

 教師に命じられ、アスカは苦笑し、シンジは愛想笑いをし、そしてレイは無表情で頷いた。
 非常召集で国語の試験を受けられなかった3人はこうして放課後の図書室に向かったのである。

 

− 第二章 −

読 書 開 始

 


 図書室には人影は疎らだった。
 しかしその中の一人が洞木ヒカリだったので、アスカは笑顔で歩み寄る。

「どうしたの、ヒカリ?アンタ、図書委員じゃなかったわよね」

「先生に頼まれたの。みんなの本を選ぶ手伝いをしなさいって」

「うわっ、それって頼まれたんじゃなくて命令じゃないの?ひっどぉ〜い」

「そんなことないってば。私、図書室好きだし…」

 苦笑するヒカリは乱暴な友情を示すアスカを宥めた。
 人は少ないとはいえ図書室だから静かにするものだ。
 大学の図書館を知っているアスカもさすがにそれくらいのエチケットは承知している。
 アスカはボリュームを落として友人に質問した。

「で、選んでおいてくれた?」

「えっ、私が選ぶの?」

 手伝いをするだけだと思っていたヒカリは目を丸くして驚いた。
 その耳元でアスカが囁く。

「だって、アタシ、小説なんて読んだこと無いもん」

「嘘っ」

「ホント。絵本くらいは赤ちゃんの時に読んだんでしょうけどね」

「そうなんだ。びっくり…」

 二人がこそこそ話をしている間、シンジもレイも本棚に近づくまでも無くぼんやりと立っている。
 それを横目で見て、アスカは内心思った。
 コイツたち、どこか似てんのよね、こ〜ゆ〜ぼけっとしたとこが。

「こら、馬鹿シンジ。アンタ普通に小学校とか行ってたんでしょうが。小説くらい読んでないの?」

「教科書に載ってるのくらいだよ」

「え、夏休みの宿題は?感想文とかあったでしょう?」

 ごく普通の少女であるヒカリは当然の疑問を口にした。
 するとシンジが答えるより先にアスカが知ったばかりの情報を口にする。

「ふふんっ、この馬鹿はね、本を読まないでアニメを見て感想文書いてたのよ。信じらんないでしょっ」

「えっ、そうなの?何だか…らしくないね」

「らしくないって?」

「う、うん…。碇君って凄く真面目な感じするから」

 面と向かって人物批評することに気が引けてヒカリは言葉を選んで喋った。
 しかし、ことシンジに対しては余計に容赦のないアスカは調子に乗って事実を明かす。

「何言ってんのよ、コイツってすっごく手抜きするのよ。
食事なんていっつもインスタントとか、出来合いの買ってくるんだから」

「そ、そんな。昨日はちゃんと作ったじゃないか」

 現実を暴露されたシンジは慌てて自己弁護する。

「まっ、確かに昨日だけはね」

「アスカも美味しいって言ってくれたじゃないか」

「そ、それは…」

 素直に彼を褒めたくないアスカは口ごもる。

「それに今日はアスカが作ってくれるって言ったじゃないか」

「えっと…」

「あれって嘘だったの?僕をからかったんだ」

 アスカはシンジから目を逸らした。

「嘘…じゃないわよ。作るわよ。作りゃいいんでしょ。はいはい、わかってますってば。
ほら、ヒカリ。本選らばなきゃ。どこ?どのあたり?」

 アスカはヒカリの手を引っ張って書架の方にずんずんと向かう。
 友人に連行されながら、ヒカリはもしかして…と思った。
 もしかすると、この二人って…。
 そういえば、彼女の思い人が二人のことを夫婦漫才と評していた。
 確かにそんな印象がある。
 今、彼女はそれを実感した。
 何故そう思うかもわかった。
 シンジはアスカ以外の者にああまで言われればもっと表情を曇らせるだろう。
 逆にアスカの方もあんな調子で言われればただ怒るだけのはずだ。
 今の動きだって、私たちを意識して…照れた?
 はっきりしないけど、一緒に暮らしてるのだから仲が悪いってわけじゃないものね。
 
「どれどれ?どのあたり?これはどう?」

 本人に自覚はまったくないのだが、明らかに照れ隠しでアスカは書架の本をあれこれ指差す。

「う〜ん、ちょっと難しいわよ。古典だから」

「古典?」

「うん。昔々の話だもん」

 ううむとアスカは首を傾げた。
 確かに日本史もよくわかっていない自分に日本の古典は難しそうである。
 しかし素直に認めるのはいささか癪だ。
 ということで、彼女の矛先は当然シンジに向かう。

「ちょっと馬鹿シンジ、アンタ、これ読みなさいよ」

 無防備な表情でやってきたシンジはアスカの指差す本を見て露骨に顔を歪めた。

「む、無理!そんなの僕読めないよ」

「何言ってんのよ。アンタ、日本人でしょ。これくらい読めなくてどうすんのよ」

「だって…」

「こんなの期限までに読めっこないよ」

「ふんっ、やってもみないのにそうやってすぐ逃げる」

 アスカは偉そうに腕を組む。
 そんな彼女を見て苦笑したヒカリはシンジに助け舟を出した。

「ちょっと難しいわよ、アスカ。源氏物語って長いし」

「ん?源氏…?」

 アスカは最後に指差したままだった本の題名を見た。

「ふふん、長くたって大丈夫よ。どうせ戦争の本でしょ」

「戦争?」

「源氏って昔の武士の一派でしょ。平氏と争った。
平安時代の終わりの頃よね。その二つの武士同士の戦争の話でしょう?」

「ううん。違うよ」

「へ?」

 私もちゃんと読んだ事はないと前置きしてから、ヒカリは源氏物語の説明をした。
 簡単に言うと貴族のプレイボーイのハーレム物語だと聞き、アスカは鼻からぶぅっと息を吐いた。

「どうしてそんな本が図書室にあんのよ!やらしいっ!」

 アスカは声を荒げるが、図書室の中にはもう図書委員が一人残っているだけだったので、ヒカリと目が合った彼女は苦笑するだけで済ませた。
 簡単にまとめすぎたかなと少し反省したヒカリはふだんの声音で友人に告げた。

「もう…、アスカったら。そんないやらしい本だったら中学校の図書室にあるわけないでしょう」

「わかんないわよ。どうせ男の先生とかが選んだんじゃないの?男なんてそ〜ゆ〜願望があるんでしょ、違うっ?」

「えっ、僕?」

「アンタしかいないじゃない。男は」

 アスカに睨まれて、シンジは少しだけ唇を尖らす。

「僕、源氏物語なんて読んだことないもん」

「そういうことを聞いたんじゃないでしょっ。アンタたち男にはハーレム願望とかがあるんじゃないのかって話っ!」

「ハーレム…って何さ」

「すっとぼけてんじゃないわよ、まったく」

 アスカは眉を顰めるが、生憎シンジはそういう類の言葉を知らなかった。
 他の2バカなら知っていたのだが。
 惚けているかどうかなどすぐにわかるシンジだ。
 アスカはニヤリと笑うと、肩をすくめた。

「まっ、お子様の馬鹿シンジは知らなくて当然かもね。男なんてどうせ…」

 そこで彼女は言葉を切った。
 自分の家庭の事情をひけらかすつもりは彼女にはない。
 
「どっちにしても馬鹿シンジにはこんな本無理よ、無理。もっと易しいのにしないと」

「当たり前だよ。こんな太いの僕は無理」

「じゃ、私が読む」

 いきなり口を挟んできたのはレイだった。
 少し離れた位置に立っていたのだが、しっかり会話は聞いていたようだ。
 彼女は源氏物語の太い本を手にし、そのまま図書室を出て行こうとする。
 それを見てヒカリが慌てて駆け寄った。
 本を借りるには手続きをしないといけないと説明し、二人はカウンターへ歩いていく。

「ふんっ、図書室の使い方も知らないなんて、変なヤツ」

「アスカは知ってるの?」

「あったり前でしょっ。アタシは大学に行ってたのよ。ここの何百倍も大きい図書館があったんだから」

 しかし、そこで借りていたのは論文の資料だけだ。
 物語の書架の方には足を向けたこともない。

「でも、綾波…。本当に読めるのかなぁ」

「気になんの?」

「え?」

 腕を組んでいるアスカに目を移したシンジは返答に困った。
 何を思って発言したのか自分でもわからなかったからだ。
 しかし、アスカは彼の返事を待ってはいなかった。

「で、アンタは何にすんの?」

「アスカは?」

「アタシは何でもかまわないわよ。別に」

 何しろ本を選ぶ基準というものがアスカにはない。
 国語や歴史の教科書に載っている作家の名前くらいは知っているが、それで読む本を決めても面白くない。
 
「そうねぇ、誰かに決めてもらってそれを読むっていうのでもいいわ、もう。面倒臭いから」

「誰かって誰に?」

「え…」

 一瞬、戸惑ったアスカだったがその視界にヒカリが歩いてくるのが見えたのであっさりと答を出した。

「そんなのヒカリに決まってんじゃない。誰がアンタなんかに」

 自分だと考えもしていなかったシンジはそう言われて初めて、その手もあったのかと気がついた。
 
「ヒカリ、アイツは?」

「ん?綾波さんならもう帰ったわよ。手続きしてすぐ」

「あ、そ。じゃ、今度はアタシの読む本選んで。何でもいいから」

「何でもって言われても…」

「いいって。ヒカリの選んだのだったら安心だもん」

 気軽に言わないでよ、とヒカリは内心思う。
 しかし、アスカは冗談ではなく本心から言った模様で、もうすでにシンジをからかいはじめている。

「ほら、アンタも早く選ばないと駄目よ。ふふん」

「う、うん…」

 シンジはどうしたものかと目を彷徨わせる。
 その時、窓から差し込んでいた日差しがアスカの髪の毛を煌かせた。
 いつもより赤みが強く見えたのが、彼の意識に残ったのだろう。
 書架の間をうろうろと彷徨う彼が散々悩んだ末に手にした本は…。

 その時、アスカはヒカリが選んだ本を前に悩んでいた。

「ね、ヒカリ、全部読んだの?」

「ううん、これだけ」

 ヒカリが指を差したのは『エーミールと探偵たち』だ。
 腕組みするアスカの前に並んでいるのはすべてケストナーの作品だった。
 アスカがドイツから来たのだから、ドイツの小説がいいだろうとヒカリが考えたのだが、さてドイツ人の作家というとすぐに出てこなかったのだ。
 アメリカ国籍も持っているが、ドイツ生まれのドイツ人であるアスカに訊ねてみると、名前だけは出てくるもののヘッセやゲーテなどヒカリは読んだ事もない。
 図書委員に協力してもらってようやく出てきたのがエンデとケストナーだった。
 その二人の作品のうち、ヒカリが読んだ事のあるのがケストナーだったのだ。
 アスカは4冊の本を見渡した。
 『エーミールと探偵たち』『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』『飛ぶ教室』。
 まずヒカリが読んだ事のあるというものは除外した。
 何となく人の読んだものを読むというのが嫌だったのだ。
 何しろアスカにとって初めての小説なのだから。
 うぅ〜んと彼女は唸った。
 そして、手にしたのは『飛ぶ教室』だった。

「それにするの?」

「う〜ん、よくわかんないけど、教室が飛ぶんだからSFじゃないの?ロケットの代わりにして月に行くとか」

「まさか」

 とりあえずアスカはそれを借りることにした。
 初めて読む小説が面白いものだったらいいんだけどなぁと彼女は思った。
 他の3冊を書架に返しながら、アスカはヒカリから感想文の書き方を教わる。
 原稿用紙というものが必要らしいが、それはシンジに用意させようとアスカは心の中で即決していた。
 枚数は3枚以上と先生が言っていたが、そんな量の日本語を書かねばならないかと思うとうんざりする。
 端末に打ち込んでプリントアウトすればいいだけではないか。
 ぼやくアスカをヒカリは苦笑しながら力づけた。
 書き取りの練習と思えば?と言われてしまうと、字が汚いと自覚のあるアスカとしては反論ができない。
 わかったわよ、やればいいんでしょと子供のように膨れてみせた。
 こういう時、同居人が近くにいれば何らかのアプローチをするのがアスカである。
 彼女が図書室を見渡すと、シンジは選び終えた本を手に窓際で外をぼんやり見ていた。

「ばぁ〜かシンジ、アンタは何選んだのよ。見せなさいって」

「う、うん。これ」

 素直に見せた本の表紙には『赤毛のアン』と書かれていた。
 小説など読まないアスカにはその題名を見ても何も頭に浮かばない。
 だが、ヒカリの方には大いにピンと来るようでいささか浮かれた調子でシンジに声をかけた。

「へぇ、碇君、『赤毛のアン』にするんだ。読んだことあるの?」

 シンジは首を横に振った。

「ヒカリ、これって有名なの?そんなに」

「うん。有名よ。私も読んだことあるから。アニメにもなってるわよ。人気のある本だから」

「アニメ?はっはぁ〜ん」

 アスカはじろりとシンジを横目で睨みつけた。

「アンタ、またズルする気でしょ」

「ち、違うよっ。そりゃああらすじは知ってるけど、今度はちゃんと読むつもりで…」

「どうだかっ。そんなの信じらんないわね」

「信じてよ」

「ふふん、前科者は信用されないってのがパターンでしょ。あ、そうだっ」

 アスカが目を輝かせた。
 彼女にとって、小説を読むということはただの課題に過ぎない。
 だから、何を読もうが別に構わないという気持ちもあるのだ。
 そこでアスカはその思い付きを実行に移すことにした。

「その本、アタシに寄越しなさいよ」

「え?」

「アンタはこれを読むのよ。ヒカリ、こっちはアニメになってないよね?」

「う〜ん、私は知らないけど」

「じゃ、決まり。アンタはこの『飛ぶ教室』を読みなさいよ。アタシがそれ読むから」

 胸元に突き出された『飛ぶ教室』を受け取るべきか否か。
 シンジは少し迷ったが、彼にとっても感想文を書くための別にどんな本でもよかった。
 アスカが好き勝手に選んだものならもっと躊躇しただろうが、委員長として信頼のあるヒカリも本の選考に絡んでいるのだ。
 おかしな小説ではないだろうと、彼は結局本を交換した。
 このやり取りは何故かアスカの心を軽くしていた。
 彼女は上機嫌で学校帰りにシンジを従えてスーパーに行き晩御飯の食材を仕入れて帰ったのである。



 その夜のご飯はシチューだった。
 アスカが作ったシチューはシンジの知っているものとは少し違っていた。
 彼が知っているのは学校給食でよくあるスープ主体のものである。
 しかし彼女が作ったのは具が中心でスープはソースのような感じになっていた。
 彼の感覚では煮込みハンバーグに近い。
 だが、シンジはその違和感を顔には出さなかった。
 それどころではなかったのである。
 アスカが初めて作った手料理だったからか?
 いや、違う。
 この期に及んでようやく彼はあることに気がついたのだ。
 そのためにシンジは無口になっている。
 そんな彼の様子を見て、アスカは苛立ちと不安を覚えた。
 何か料理でミスをしたのかという一抹の不安はある。
 ずっと宿舎の生活をしてきたのだが、大学に入ってからは一人部屋でキッチン付だったのでそれなりの料理はたまにつくっていたわけだ。
 しかし他人に、いや自分以外の人間に食べさせたことはない。
 そのためにどうしても不安は拭えない。
 ところがその不安以上に大きいのは苛立ちだ。
 さっさと食べて不味いなら不味いと言え!
 その思いがアスカを突き動かした。
 用意ができたと呼ばれてテーブルに着いたシンジが料理を見たまま動かない。
 そんなシンジにアスカはとげとげしい口調で言い放ったのだ。

「ふんっ、食べたくないのなら食べないでいいわよっ!何よっ!どうせアタシの料理なんか…」

 その時、アスカはせっかく作った料理をすべて捨ててしまおうと考えていた。
 おそらくあと数秒シンジの動きが遅ければ、そういう修羅場が訪れていたことだろう。
 しかし、彼は動いた。
 小さな声で「いただきます」と呟き、箸を手にしたのだ。
 その声音にアスカは不審を抱く。
 何となく鼻声に聞こえたのである。
 たしか風邪はひいていないはずだけど…。
 …って、シンジが風邪ひいてる時あったっけ?
 そんなことを彼女が考えている間、シンジはもくもくと箸を進めていた。
 すると、ぽっつり。
 ビーフシチューの中に何かが零れ落ちるのが見えた。
 そしてシンジは鼻を啜る。
 一瞬、アスカは慌てた。
 今度は怒るより先に不安になったのだ。
 まさか、塩と砂糖を間違えるとか、そんなアニメのようなことをしでかしてしまったか。
 彼女はスプーンを握り、シチューを口にする。
 なんだ、大丈夫じゃない、美味しいわよ。
 味見した時と同じ…ってことは、アタシの味覚がおかしいってことぉ?
 そしてアスカの心の中のシーソーははたまた怒りの方に重心が移った。

「アンタ!泣くほど不味いって思うんなら食べないでよっ!」

 そして、バンと勢いよくテーブルを叩こうとしたアスカだったが、その手は宙を彷徨った。
 顔を上げ首を横に振るシンジの泣き顔を見たからだ。
 それはいつも見る表情ではなく、アスカの感情を揺さぶるような類のものだったのである。
 しかもそれはこれまでに彼女が経験したことのない感情だった。
 そのためにアスカは手を止めたのだ。

「ごめん。美味しいよ。凄く、美味しいんだ。でも、それ以上に、嬉しくて…」

 アスカは空中の手をゆっくりと身体の前に持ってきて腕組みさせることで怒りの感情を抑えた。
 それよりも何がシンジを泣かせたのかを知りたい。
 好奇心ではなく、純粋に知りたかったのである。

「な、何がよ」

 少しだけ言葉が喉に引っかかった。
 
「あのね、僕…」

 そのシンジの言葉はアスカを驚かせた。
 まさか彼が、のほほんと暮らしてきたかのように思っていたシンジが、そのような暮らしをしてきたかなど思いもよらなかったのだ。

「僕一人のために作ってくれた料理ってずっと食べてなかったんだ。小さい時に母さんが作ってくれた時から。
そのことに全然気がついてなかったんだ。今まで、ずっと。今さっき、ここに座った時に急に思い出したんだ。だから…」

 アスカは言葉を失った。
 母を亡くしたシンジは“先生”に預けられたと聞いていた。
 そこは小さな施設のような場所だったという。
 しかしそこは居心地のよい場所ではなかったらしく、シンジの口からは一切何も聞かされていなかった。
 その断片的な情報は大家である葛城ミサトの口から漏れたものだ。
 
「アンタ…一人のための…?」

 アスカの呟きを聞いたシンジは強張った笑顔になる。

「あ、それって凄く自分勝手な感じだよね、はは…」

「シンジって風邪とかひかないの?病気になったら自分のための食事を作ってくれるでしょうが」

 そんなことをアスカに言われると、シンジは意表を突かれたかのようにきょとんとした。
 そして、今更ながらに気づいたように呟いたのだ。

「そうか…。その手があったんだ」

「えっ、じゃ、やっぱり熱出したことないの?」

「うん」

「嘘っ」

「本当。はは、馬鹿は風邪ひかないって日本じゃ言うから、アスカの言うとおり僕は馬鹿シンジかも」

 照れた様に笑うシンジは頭をかいた。
 そんな彼を見て、アスカは溜息を吐きながら笑みをこぼした。

「じゃ、馬鹿シンジ。さっさと食べなさいよ。冷めちゃうわよ」

「う、うん。アスカも食べなよ。美味しいよ、これ」

「あ、当たり前じゃない。このアタシが作ったんだからっ」

 二人は顔を見合わせ、微笑みあう。
 アスカが来日して以来、もっとも二人の心が接近したその瞬間、玄関の扉が空気音と共に開いた。

「たっだいまぁ!お姉さんの3日ぶりのご帰還よぉ!」

 その大声は時としてその存在を忘れかけてしまう大家こと葛城ミサトその人に他ならない。
 ミサトはあっという間にリビングへ到達すると、二人の姿を見て目を輝かせた。
 いや、二人のいる場所を見て、が正しい。

「おおっ!ナイスタイミング!お腹空いてたのよねン!シンちゃん、私のもお願い!」

「え…、あ、おかえりなさい」

「ただいまっ、んん?今日は何かな?これって、ん〜、ビーフストロガノフ?」

 指を伸ばしてアスカのお皿のシチューを舐めようとするミサトだったが、赤金色の髪の少女はすんでのところでお皿を守った。

「もうっ、汚い!手を洗ってきなさいよっ。その間に準備してあげるから」

 顔を真っ赤にして怒るアスカは席を立って台所へ向かった。
 残されたミサトはすぐに洗面所に向かわず首を捻った。
 物凄い違和感を感じたのだ。
 その正体はすぐにわかった。

「ね、シンちゃん。どうしてアスカが台所に行ったの?」

「え、あの…、今日はアスカが作ったから」

「ええええっ!アスカがぁ?大丈夫っ?」

 奇声を上げたミサトにシンジが答えるより先にアスカが背中で叫ぶ。

「食べたくないんだったら好きにしなさいよ。アタシたちだけで食べるからっ」

「あらン、食べたいわぁ、お姉さんも」

「じゃ、さっさと手洗いっ!幼児じゃあるまいし」

「りょ〜かいしました!」

 わざとらしく敬礼したミサトはシンジに笑いかけ洗面所へ向かう。
 シンジは目の周りを拳で擦り、涙の痕跡を隠そうとした。
 ミサトの登場は二人の気持ちをともにリセットさせたようで、シンジは少し前の自分が何を感じていたのかも忘れてしまっていた。
 アスカは料理と、それから当然のことながら冷蔵庫から缶ビールも一緒にテーブルに運んだ。
 戻ってきたミサトはにんまりと笑って席につき、そして憮然とした表情になった。

「ちょっとアスカ。私の少なくない?」

「知んないっ」

 明らかに量の少ないシチュー皿を前にして膨れるミサトには構わず、アスカはスプーンを使う。
 そして目をパチクリしているシンジに悪態を吐いた。

「アンタもさっさと食べなさいよ。早く食べないと洗い物はアンタにさせるわよ」

「あ、うん」

 スプーンを握りなおしたシンジはその時気がついた。
 アスカは料理だけでなく後片付けもするつもりなのだと。
 つまり彼は作るだけ作って後はお願いと彼女が言うものだと思い込んでいたのである。
 些細なことだが、このことでシンジはアスカのことをあまり知らないのではないかと感じたのだ。
 ずっと同じ家で暮らしているのに…。
 知っているつもりで知らないことだらけではないだろうか、と彼はふと思った。



 1時間後、ミサトだけがテーブルに残ってビールの空き缶で万里の長城を築き始めている。
 シンジはリビングのソファーで『飛ぶ教室』を。
 そしてアスカは自室で『赤毛のアン』を読んでいた。
 二人が宿題で読書をしているのだと聞かされたミサトは仕方なく一人酒をするしかなかったのだ。
 ペンペンはすでに就寝中だったからである。
 宿題の感想文のための読書だと聞いているので、さすがのミサトもシンジたちにちょっかいはかけない。
 彼女も弟と妹が…と思いたいと思っている二人が家で本を読んでいる姿を見たことがないことくらいは記憶にある。
 大人になって小説を読まなくなった自分を少しも変に思ったことはなかったが、今改めて考えてみるといささか奇妙に感じる。
 小学校の…いや、中学2年まではけっこう本を読んでいたではないか。
 セカンドインパクトまでは。
 南極にも本を持ち込んでいたはずだ。
 どう考えても退屈しそうに思っていたからお気に入りの本を…。
 なんだったっけ?
 ミサトは酔い始めた頭をフル活動させた。
 『若草物語』と…『エースをねらえ!』!って漫画だっけ、あはは。
 それから…それから…、この機会にって読んでない本を父親の書斎から引っこ抜いてきたっけ…。
 結局あの本は1ページもめくらないままで終わったのよね。
 時代小説、だったわよね、確か。
 あ、そうだ、坂本竜馬の話だ。
 文庫本を鞄にいっぱい放り込んだっけ。
 あれって父さんが好きだったのかしら?それとも母さん?
 答は永久に見つけることはできないとミサトは知っている。
 二人とも故人だ。
 我が家もセカンドインパクトで無くなっていて、彼女が以前の生活から今も持っているものは何一つない。
 いや、大学の図書館で見つけた科学雑誌の中にあった葛城教授の家族との写真が1枚だけある。
 本を借り出して超高画像でコピーしたものだ。
 まだ2歳くらいの彼女にはそんな写真を撮られた記憶はない。
 ただそこに写っているのは幸せそうな家族に他ならなかった。
 それから10年ほどでどうしてあんなに父と母の気持ちが離れていってしまったのだろう。
 写真で笑っている二人は何も答えてくれなかった。
 その写真はミサトのパスケースにしまわれたまま、もう何年も見ていない。
 ミサトはごくりとビールを喉に流し込み、あの時代小説を読んでみようかと思った。
 そのためにはまずあの小説を手に入れないといけないのだが。
 題名…なんだっけ?

「シンジ、コーヒー淹れてよ」

 ミサトの瞑想はアスカの声で破られた。
 目を開けると、いつの間にか彼女はリビングに現れていた。

「インスタントでいいよね」

「うん。ブラックでいいわよ」

「わかった」

 本に近くにあったチラシを挟んでからシンジはソファーから立った。
 その場所に今度はアスカが座る。
 彼女はぐぃっと背伸びをした。

「どう?読書は」

「ん〜、意外に面白い、かな?」

 アスカはけろりとした口調で答えた。

「ミサトは読んだ事あるの?『赤毛のアン』」

「あるわよ。中学に入ったばかりの時かなぁ」

「わっ、ミサトの中学時代って想像できないっ!」

「こらっ、私にだってアスカやシンちゃんと同じ年頃の時代があったのよ」

 その言葉を発した時のミサトの表情が妙に優しく見え、アスカは少し戸惑ってしまった。
 アスカもシンジもミサトの十代半ばの出来事はまるで知らない。
 
「どこまで読んだ?」

「第15章まで。アンが学校に行ったところ」

 そう言ったアスカは目を輝かせた。

「アンって最初はうざったいヤツって思ったけど、まあけっこう面白い子よね。
まっ、赤毛だから性格きついんでしょうけど」

「アスカも赤いじゃない」

「アタシは!金髪っ。ちょっと赤みがかってるだけ!」

「ふふ、似てるんじゃない?アスカとアンって」

「似てないわよ。アタシはあんなに妄想し、お喋りじゃないもん。まっ、アタシがアンだったら…」

 その時シンジがテーブルにアスカのコーヒーを置いた。
 当然といった風情で立ち上がったアスカはコーヒーカップを手にする。
 シンジは自分の分は淹れず、そのままソファーに戻って『飛ぶ教室』を手にした。
 それを横目で見ながら自室にコーヒーを持ち帰ろうとするアスカにミサトが言葉の先を促した。

「アスカがアンだったら?」

「ふんっ、馬鹿シンジはギルバートってとこかしら?ふふんっ、石版で頭叩かれてんの。いい気味っ」

 楽しげに言うと、アスカは踵を返し赤の強い金髪を左右に靡かせながら歩いていった。
 彼女の説を聞いた二人がどんな顔をしたかを確認もせずに。
 ミサトもシンジも驚いてしまったのだ。
 そして、シンジは頬を赤く染めて、ミサトは楽しげに笑った。

「シンちゃん、ギルバートのこと知ってるの?」

「は、はい。本は読んでないけどアニメで見たから」

「そっか。私も見たわよ。小さい時に」

「僕のいたところにあのシリーズのDVDがあったんです。
男の子向けのものはほとんどなくて、他の子が見ているのを横でぼけっと…」

 言い訳のようにやけに詳しく説明するシンジは何を考えているのだろうか。
 その頬の染まり具合を見て、ミサトはセカンドインパクト前の中学生活を想った。
 彼女は結局初恋を経験できなかったが、クラスメートの中には初恋や交際をしている者もいた。
 今見せたシンジの表情が彼女たちのそれとオーバーラップしたのだ。
 その所為だろうか。
 ミサトはアスカがまだすべて読んでいないとはシンジに伝えなかった。
 彼女はまだギルバート君が登場したあたりまでしか読んでいないのだ。
 だから、アスカはまだ知らない。
 アンとギルバートが恋人となり、そして結婚し、幸福な家庭を築くとは。
 確か第1作は恋人にまでなっていなかったっけ…。
 ミサトはアンシリーズを読んだ中学1年生の頃に思いを馳せた。
 アニメしか知らないシンジも二人が結婚するところまでは知らないが、しかしアンにとってギルバートがどんな存在になるのかは承知している。
 だからこそ、彼は頬を染めたのだ。
 ミサトは新しい缶ビールを手にした。
 今日はお酒が美味しい。
 実に美味しい。
 おそらく、酒の肴がいいのだろう。
 アスカは既に読書に入ったのだろう。
 部屋からは物音ひとつ聞こえない。
 ソファーのシンジも本に没頭している。
 ミサトは缶ビールを持ち上げ、心の中で二人に乾杯を言った。
 そうだ、時代小説ではなく、私もアンを読もう。
 第1作から最終作まで読むのだ。
 明日、ネルフの購買部に注文をしようと決めたミサトだった。



 翌朝、学校は休みだった。
 アスカとシンジはネルフでのテストもないので前日遅くまで読書をし、今朝は9時を過ぎてもベッドから出てこなかった。
 ミサトの方はそんな二人に小さな声でいってきますと言い残し、ジオフロントに向かった。
 そしてもう一人、レイもまたジオフロントに向かっていた。
 今日は彼女だけがシンクロテストだったのである。
 ライナーに乗った彼女の手には『源氏物語』があった。
 座席に座った彼女はもくもくと本を読んでいるが、いつもの本に比べるとそのスピードはかなり遅いといえる。
 その表情もどちらかと言うと硬めであった。

 ジオフロントに着いたレイはさっさと更衣室に向かう。
 そしてプラグスーツに着替えると、本だけを手にケージに向かった。
 テストといっても待ち時間が多いのでその間に読書をしようと考えたのだ。
 その目論見は当たった。
 最初に一度起動テストをした後は調整と機器テストを繰り返し、リツコに先に昼休みをとるように命じられた。
 その指示に従ったレイは食堂に赴く。
 まだ早い時間だったので人影はまばらだ。
 あの時から彼女の定番になったラーメンを注文し、レイは黙々と麺を啜った。
 チャーシュー抜きは応じてくれたが、ラーメン用のにんにくは食堂では用意していない。
 チャーシューの代わりにてんこ盛りのネギをサービスされた“綾波さん”ラーメンは彼女が何も言わなくてもおばさんが作ってくれる。
 おばさんたち曰く、あの子ちょっと見と違ってかわいいからねぇ、ラーメンを受け取る時少し笑うんだよ、だそうだ。
 ラーメンを食べながら読むことはレイはしない。
 本が汚れるからではなく、集中して読まないと意味がわからないからだ。
 食べ終わり汁を最後まで飲み干したレイはラーメン鉢を返却口まで運ぶ。
 席まで戻ると、そこには伊吹マヤが立っていた。
 彼女はレイが置いていた『源氏物語』を見下ろしていたのである。
 
「宿題?」

 その通りだったのでレイはこくんと頷いた。

「面白い?」

 レイは首を横に振る。
 面白いとかそういう感情はよくわからない。
 そんな意図で彼女は首を動かしたのだが、そこまでレイの内面を知らないマヤは表面上の意味で受け取った。

「そうよね。女たらしの男の話だもの。私は嫌いだった、この話」

「女たらし…」

 レイは呟く。
 なるほど、光源氏は“女たらし”と表現すればよいのか。
 
「そうよ。いくら何人も妻を持つのが許されていたって言ってもね、同時に何人も愛情を持つなんて。そんなの変だし不潔よ」

 不潔?不衛生という意味だろうか。
 男女間の話には疎いレイにはマヤの話がすべて理解はできない。
 しかし、スイッチが入ったマヤはレイへの配慮を暫し忘れて発言を続けた。

「受験で読まないといけなかったから読んだんだけど、読んでて気持ち悪くて…。だから読み終わったあとに少女小説を口直しに読んだのよ」

 マヤはにっこり微笑んだ。
 今も実家から運んできた本が部屋にある。
 もっともこの数年ページをめくってはいない。
 帰宅しても暇があればパソコンの電源を入れモニタばかり眺めているのだ。
 本を読もうという気にならないのである。
 
「少女小説」

 そのジャンル名を言われてもレイにはよくわからない。
 少女が読む小説なのか、少女が出てくる小説なのか。
 だがレイはそのことを訊ねようとはしなかった。
 彼女の目的は感想文を書くことにあるのだ。
 『源氏物語』と少女小説なるものとは関係あるまい。
 レイはそう判断した。
 ところが、マヤの方は久しぶりの話題にスイッチが入ってしまったようだ。
 マヤ本人から持ち出してきた話題だから、レイとしては迷惑甚だしい。

「ええ、少女小説。私、理系だけどああいうのは大好きだったの。
あ、でもね、私BLは駄目。誤解しないでね」

 BL…?
 レイの辞書にそういう項目はない。
 だが好奇心旺盛ではないレイはその項目を増やそうとは思わなかった。
 彼女はさっさと読書に戻りたかったが、こともあろうにマヤはレイに向かい合わせに座り『源氏物語』の上に手を置いてしまった。
 これがアスカ相手ならばレイもその手を払いのけようものだが、マヤに向かってそんな真似はさすがにできない。
 しかもマヤはニコニコ顔で話を続けているのである。

「私が好きだったのは『マリア様がみてる』。知ってる?」

 知るわけがない。
 『源氏物語』の存在すら知らなかったレイなのだ。
 レイははっきりと首を横に振った。
 それは知らないし、知りたくもないという意味を込めたのだが、生憎後者の方はまったく伝わらなかった。
 したがってレイは知りたくもない小説の薀蓄を教えられてしまった。
 おまけにマヤの秘めたる一面まで情報収集してしまったのだ。

「あ〜あ、先輩、私をプティスールにしてくれないかしら?」

 もう結構。
 その時、マヤの手が本の上から外れた瞬間を狙い、レイは即座に『源氏物語』を回収した。

「ごちそうさま」

 ぼそりと席を立つ挨拶をしたレイだったが、その言葉は見事に別の意味に捉えられてしまう。
 ぱっと頬に朱を走らせたマヤはいやだぁと手で顔を覆う。
 その行動の意味がまったくわからないレイは、冷やかな視線をマヤに送りつつ席を立った。
 まだ再テストには時間がかかるだろうが、こんな場所にいれば不要な知識をどんどん植えつけられてしまう。
 レイはさっさと足を進め、食堂を出て行った。

 今日はレイにとって厄日だったのかもしれない。
 食堂を出てほんの数秒後、今度はミサトにつかまってしまった。
 
「あら、レイ。あっ、それって読書感想文の本?」

 目敏いミサトはレイが持つ本の題名をすぐさま読み取った。

「うわっ、源氏!ちょっとレイ、あなた読めるの?感想文を書くにしては難しすぎない?」

「大丈夫」

 レイはそう言ったが、大丈夫という意味が違う。
 読むことは可能だ。
 ただ理解できないだけ。
 いつも読んでいる本の方がよほど理解ができる。

「へぇ、そうなんだ。そういうのが面白いんだ、レイは。アスカやシンちゃんと違って大人なのね」

「大人じゃない。同じ歳だから」

「ふふ、ま、いっか。私も本を注文に来たのよ。あそこに」

 ミサトが指を差した先には購買部がある。
 ちらりとそちらを見たレイは素っ気無く言葉を吐く。

「行っていいですか?」

「ええ、もちろん。読書頑張ってね。私も『赤毛のアン』シリーズを読破するから」

 歩き出そうとしたレイの足が止まる。
 それは本の題名を聞いたことがある、様な気がしたからだ。
 もちろんそれは彼女の知識の中にはない題名だ。
 しかし、何かしらの聞き覚えがあるような気がする。
 それは既視感という類のものだが、レイにはそういう事柄が多すぎていちいち考えないようにしている。
 自分が何者なのか。
 まずはそれが一番大きな問題なのだが、それすらレイは気にしない。
 ところが、時折このようにして何かに反応してしまうことがある。
 今回は『赤毛のアン』という本の名前だ。
 会話の流れから判断したのではない。
 耳にした瞬間に、それが本の題名だと彼女にはわかったのだ。
 それが不思議なこととはレイは思わない。

「どうしたの、レイ?」

 瞬きをしたレイはいつもの無表情で首を横に振った。
 この感覚を他人に説明する気にはならない。

「あ、なるほどね。アスカが『赤毛のアン』の読書感想文を書くからか。ちょっと触発されたってことなのよ」

 少しばかり照れたのか、ミサトは笑顔でそう言う。
 レイは反応に困った。
 だからいつものようにただじっと相手を見る。
 こうしておけば相手の方で対応を考えてくれるからだ。
 話したい人間は話し続けるし、このまま立ち去ってくれる場合もある。
 今回はもう少し会話が続けられた。

「まあ『赤毛のアン』は日本の女の子は結構読むからね。私も一応女の子だったんだし」

 ミサトはレイを笑わせようとしたのだろうか。
 
「私は読んでないから」

「これから読むわよ、きっと」

 ミサトはそんな預言者のような言葉を残し、購買部へ入っていった。
 残されたレイは誰かに読めと言われれば読むに違いないと思う。
 きっと日本の女の子はみんな読めと言われるのだろう。
 そんないささか頓珍漢なことを考えながら、廊下をケージに向かった。



 どうしよう…。
 アスカは困り果てていた。
 彼女は『赤毛のアン』を読みきっている。
 しかし、感想文の内容で困っているのではない。
 彼女が今いるのはベッドの中。
 そこでうつ伏せになり枕に顔を伏せているアスカが考えているのはシンジの事だ。
 だが、それは彼を愛しく思っているわけではない。
 寧ろ逆だ。
 どうしてアタシはあの馬鹿のことをギルバートだって言ってしまったんだろう…。
 あれって拙いんじゃない?
 そうよ、あの終わり方じゃ…。
 アスカは『赤毛のアン』のラストを思い出した。
 何年も喧嘩をしてきたのに最後の最後で握手までしているではないか。
 しかも途中をどう読んでも…。
 ああっ、馬鹿シンジにどんな風に顔を合わせればいいの?
 アスカの煩悶は続いた。
 
 だが、彼女は自分の変化に気づいていない。
 もしこれが数日前のアスカならばどうしていたか。
 悩むことなどまったくせずに、自分の失言を知らぬ顔で通すか、逆にシンジを悪者にしてしまうか…。
 アニメを見ていたのだからギルバートが何者か知っていたのに黙っていたじゃないか、と。
 そういう反応がアスカであるはずだ。
 それが彼女は今悩んでいる。
 悩んでいるということでどんな変化が自分に訪れているかとはアスカは知らない。
 シンジが初めて作った手料理、そして自分もまた彼に手料理を食べさせた。
 その折に二人が交わしたやりとりを通して、アスカに微妙な気持ちの動きが生じているのだ。
 その時、きゅるきゅるとお腹が鳴った。
 時計を見るともう午後1時30分を過ぎている。
 どうすればいい?
 どうせあの馬鹿のほほんとしているでしょうよ、ホントに!




 アスカの言う馬鹿はまったくのほほんとはしていなかった。
 彼もまた煩悶していたのである。
 しかし、彼の場合はアスカとは違った。
 シンジは目覚めてしまったのである。
 同居している赤金色の髪をした彼女を好きになったことに。
 それを自覚したのは彼にとっては不名誉なことかもしれないが、はっきりさせておこう。
 夢、である。
 彼もまた夜遅くまでかかったが、結局『飛ぶ教室』を最後まで読みきった。
 感動して、何ページかぱらぱらと読み返し、それから明日(実は今日)は休みだからぐっすり眠ろうとベッドに入ったのだ。
 そして、彼は夢を見た。
 話の展開はよく覚えてない。
 はっきり記憶しているのはその幕切れだけだ。
 「早く着替えなさいよ!」と怒鳴りながらアスカはプラグスーツに着替えようとしている。
 その真っ白な背中を見て、彼は抱きついてしまった。
 「何すんのよ!」と叫ぶアスカにしっかりと抱きついたまま、シンジが叫んだのだ。
 「好きなんだよ!アスカが!」
 そして抱きついた彼の右手はそのまま彼女の胸を…。
 そこで夢が醒めた。
 むっくりと起き上がった彼は自分の掌をじっと見つめる。
 彼が知る、その感触はアスカのものではなく、あの偶発的に起こった裸のレイを押し倒した時のものだ。
 その時の感触を手が覚えていたのである。
 さらに彼は下半身に違和感を覚えた。
 そして大いにシンジは慌ててしまったのである。
 彼とて思春期の少年だ。
 そんな経験はなかったのだが、そういうことが起きることもあるというのは口コミで知っていた。
 彼は下着を履き替えながら、狼狽していた。
 自分を聖人君子のように考えてはいない。
 裸の女性を見たり、性的なことを考えたりすると当然変な気持ちになってしまう。
 だが行動に起こしたりはしない。
 部屋の中をミサトが下着姿でうろついていても目を逸らし、そのゴージャスな身体を横目で鑑賞するようなこともしなかった。
 レイを押し倒してしまった時もあれ以上のことはしていない。
 しかもその乳房の感触をそれ以降失念しているのだ。
 いや、失念というには言葉が過ぎる。
 綾波レイという他人の少女を性的な目で見ていない、ということだ。
 事実、感触は覚えていても、それを自身の性的行動には利用していない。
 ミサトの姿もそうだ。
 ところが、アスカはどうだ…。
 出逢って以来、シンジはアスカの身体には大いに興味があったのだ。
 そのことは自覚していた。
 キスしようとしたり、ちらちら彼女の身体を見たりしていたことは無意識にはしていないのだから。
 しかし、アスカだけに興味があったということに気づいていなかったのである。
 初めて起きた性的現象は彼に大きなショックを与えた。
 そしてそれはさらにシンジを戸惑わせたのだ。
 夢の中で見た、そして“Over The Rainbow”の艦内で見た、アスカの真っ白な背中…。
 そんなことを考えた時、彼の下半身に変化が生じた。
 それは別に初めてのことではないのだが、その時シンジはそこに手を伸ばしたいと思ったのだ。
 それが、初めて、だったのである。
 彼はその思いを何とか抑えようとした。
 ほんの数メートルの場所に彼が抱いた性欲の対象である少女が眠っているのだ。
 いくら二人の間に扉と壁があろうともあまりに近すぎる。
 シンジは性的衝動を抑えるために、アスカが一生懸命に読書をしている姿を考えた。
 そのイメージが彼に思い出させたのだ。
 昨夜、彼女に言われた言葉を。
 アタシがアンなら、馬鹿シンジはギルバートね…。
 その時、彼は照れた。
 いや、嬉しかったのだ。
 自分がアスカの“ギルバート”にしてもらって…。
 彼ははっとした。
 自分は“ギルバート”になりたい。
 アスカにとっての“ギルバート”になりたいのだ。
 シンジは息を呑んだ。
 夢の中の自分は確かに「好きだ!」と叫んでいたではないか。
 今はどうだ?
 彼はからからの喉で苦しげに息をしながら自問自答した。
 お前はアスカを好きか?
 息が苦しい。胸が痛い。
 そんな状態の中で、彼ははっきりと答を出した。

 僕はアスカが好きだ。

 その時、下半身の性的衝動は完全に収まっていた。



 シンジは細めに扉を開け、アスカの部屋の扉が閉まったいることを確認し、そして洗面所に突進した。
 脱衣所で素早く服を脱ぎ、あの下着だけを手にバスルームへ。
 ごしごしと石鹸で下着を洗い、そして自分の身体もよく洗う。
 冷たいシャワーを浴びて不純な気持ちを追い出そうとした。
 その冷たい飛沫を頭から受けながら、彼は考えた。
 僕はアスカが好きだ。
 でも、アスカは僕のことなんか好きじゃない。
 アスカは加持さんが好きなんだ。
 どうしよう…どうしよう…どうすればいいんだ?
 加持さんに勝てるわけがない。
 あんなカッコいい人を真似なんかできっこない。
 じゃ、どうする?どうする?どうすればいい?
 悩みに悩んだシンジは大きなくしゃみをして、ようやくシャワーを浴びすぎていたことに気がついた。
 慌ててお湯に切り替え身体を温める。
 そして、結論を出した。
 絶対に告白はできない。
 告白した瞬間に失恋してしまうのだ。
 しかもここから出て行かないといけなくなるかもしれない。
 そんなことは駄目だ。絶対に駄目だ。
 逃げちゃ駄目…なんて考えちゃ駄目なんだ。
 アスカに嫌われたら、もう駄目なんだから。
 それに“逃げちゃ駄目”なんて恥ずかしい言葉じゃないか。
 『飛ぶ教室』のマルティンは“泣いちゃ駄目だ”ってがんばったんだ。
 逃げるっていうのはそこからいなくなるってことで、泣くってことはその場所に留まって泣くのだから。
 逃げようとする僕の方が物凄く恥ずかしいじゃないか。
 で、泣かずに頑張ったマルティンは…何度か泣いたけど…でも、絶対に精一杯頑張ってるよ。
 だからあんなにいいことが起きたんだ。
 僕も…!
 じゃ、どうすればいい?
 よし、じゃ、僕は“ギルバート”になろう。
 確か彼はアンと同じくらい勉強を頑張っていた筈だ。
 アスカは天才だけど、僕は…。
 で、でも、母さんも天才科学者だったんじゃないか。
 僕だってもしかすると頭がいいかもしれないじゃないか。
 父さんはどうだかわからないけど、司令をしてるんだからきっと頭がいいはずだ。
 よし、一生懸命に勉強しよう。
 いや、勉強だけじゃない。
 体育だって、違う違う、学校だけじゃない、普通の生活だって…。
 
 タオルで身体を拭き、脱衣所で服を着たシンジの表情は決意に燃えていた。
 初恋は少年を変えたのだ。
 もっとも、エヴァンゲリオンでの使徒との戦いのことをまったく考えていなかったのは、やはり彼らしいと言えようが。
 時はすでに午後2時。
 少年の腹はきゅるきゅると悲鳴を上げている。
 まずは食事だ。アスカもお腹が空いているだろう。もう起きたかな?
 台所を目指し、碇シンジは新たなる一歩を踏み出した。
 それは人類にとっても大いなる一歩となったことを彼は知らない。

 

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