この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(4)

昭和42年4月12日 水曜日・その壱


2004.9.14         ジュン

 










 その夜。
 いや、もう日付はとっくに翌日になっている。
 アスカは目を覚ましていた。
 何故かというと、おしっこ。
 尿意を覚えているのだが、今日は怖くて一階のトイレまで一人で行けない。
 いつもはさっさと言っているのだが、
 あの暗闇に一人ぼっちになった恐怖心のためか布団から出ることができなかった。
 でも、このままではおねしょということになってしまう。
 それはダメだ。
 おねしょなどすれば、シンジの部屋の窓の真ん前にその布団を干さねばならない。
 いくらなんでもグランマがしたと嘘をついても誰も信じてくれないだろう。
 アスカは決意した。
 グランマを起こしてトイレに着いてきてもらおう。
 弱虫と笑われるかもしれないが、おねしょよりはましだ。
 そう決めたアスカは布団から抜け出した。
 半開きになっている祖母の部屋との間の襖。
 何かあったらと寝る時にはいつも少し開けているのだ。
 そこに足を踏み出したアスカの耳に変な声が聞こえた。
 お、オバケ…?
 恐る恐る襖に近づいたアスカはその声がクリスティーネの口から漏れていることを知った。



 どんどんどんどんどんっ!
 
 連打される扉に真っ先に飛び起きたのはゲンドウ。
 扉を開けると泣きじゃくるアスカがそこにいた。

「どうした?」

「ぐ、ぐ、グランマが…変なの…苦しいって」

 やっとのことで言葉を出したアスカを押しのけるようにしてゲンドウは飛び出した。
 素足のままで階段を駆け下りていく。
 少し遅れて起き出したユイがアスカを抱き上げた。

「くりさんが…おばあちゃんが?」

 うんうんと頷くアスカ。

「シンジ!」

 母の声にシンジは目を擦りながらようやく布団の上に座り込んだ。

「こらっ、さっさと目を覚ます。アスカちゃんが大変なの!」

「えっ」

 その言葉にシンジは一気に目覚めたようだ。
 ユイはそんな息子の横にアスカを降ろした。

「いい?ここにいなさい。おじさんとおばさんが何とかするから!いいわね!」

 顔をゆがめながらも頷くアスカ。

「シンジ!アスカちゃんを頼むわよ!」

 言うが早いか、ユイも夫の後を追った。
 もちろん素足のままで。
 階段を降りて、裏通りから表通りへ。
 まだ真っ暗な道をユイは駆けた。
 花の小道を抜けて、開け放されている格子戸をくぐる。
 ユイもここから先はわからない。

「あなたっ!どこっ!」

「こっちだ!急げっ!」

 夫の声が二階からする。
 もつれる足を必死に動かして階段を駆け上がる。
 蛍光灯がついている部屋に飛び込むと、
 ゲンドウがクリスティーネにかがみこんでいた。
 そして、彼女の胸をはだけさせて、じかに心臓マッサージをしている。

「ユイ!救急車だ。おそらく心臓発作。まだ間に合う!」

「はいっ!」

 ユイは周りを見渡した。
 電話、電話、電話!
 ここならどこかにあるはず。
 電話は隣の部屋の居間にあった。
 119をまわす。
 ゆっくりと戻っていく9のダイヤルがもどかしい。
 そして、出てきた相手に住所と症状を手短に伝える。

「お願い!急いでくださいっ!」

 最後にそう叫んで電話を切ると、ユイは急いで部屋に戻った。

「あなた!」

「騒ぐな。脈を診てくれ」

 ゲンドウは人工呼吸に切り替えていた。
 脈が復活したのだろう。
 夫のこんな姿は久しぶりだった。
 落ち着いて最善の方法を選び対処する。
 あの頃の夫の姿がそのまま。

「何をしておる。早くせんか」

「はいっ!」

 腕時計などしていないから、自分で見当をつけるしかない。
 そのためには落ち着かないと。
 深く深呼吸をしてユイはクリスティーネの手首を取った。
 よかった。脈はある。

「脈はあるわ。でも少し弱い」

「よし、では担架が入ってこられるように玄関からここまでの通路を確保」

「はい!」

 ユイは新しくできた年上の友人の命を夫に預けた。
 あの人なら大丈夫。
 絶対に助けてくれる。
 そう呟きながら、ユイは身体を動かした。
 通路を確保すると、彼女はまた素足のままでアパートへ駆け戻る。
 扉が開けられたままの部屋。
 シンジは抱きついて泣きじゃくっているアスカの背中を撫でていた。

「シンジ!」

 ユイの叫びにアスカがはっと顔を上げる。

「アスカちゃん、おばあちゃんは大丈夫だから。ね?あの人…おじさんはお医者様なの。
 だから、絶対に大丈夫よ。死なせたりするもんですか」

 最後の一言は自分に向けて言ったような気もする。
 この騒動で顔を出した隣人の奥さんに事情を簡単に説明して、子供たちのことを頼んでいると、
 救急車のサイレンが聞こえてきた。
 「お願いします!」と頭を下げて再びユイは駆ける。

「もうすぐ来るわ」

「うむ、何とかなりそうだ。自己呼吸も始まった」

 ゲンドウは確固たる調子で言い切った。
 夫が言うなら間違いない。
 もう少しで足の力が抜けてしまいそうになるのを必死にくいとめながら、ユイは階段を降りた。
 救急隊を案内しないといけない。



 数分後、クリスティーネは救急車で運ばれていった。
 ゲンドウはそれに同行した。
 寝巻きと素足のままで。
 電報でどこの病院に行ったか知らせてもらうことにした。
 それがわかればそこに服や靴を持っていかないといけない。
 くりさんの服もいるわよね。
 あの人ったら、くりさんの寝巻きを引き裂いちゃってた。
 それがどこかおかしかった。
 ユイは少し笑うと、二階へ上がろうとした。
 その時、扉が目に入った。
 シンジから聞いた、アスカが閉じ込められてしまった部屋。
 好奇心の強いユイはその扉を開いた。
 真っ暗な部屋。
 ユイは扉の近くにあるはずの電灯のスイッチを手探りで探す。
 あ…あった。

 ぱちっ。

 デジャヴではない。
 電灯に照らし出されたその部屋はユイの目に涙を溢れ出させた。
 シンジが言っていた。
 「何のお部屋かわからなかったけど、凄く懐かしかったよ」
 息子の言うとおりだ。
 懐かしい。懐かしい我が家を思い出させる。
 そこは診療室。
 使われなくなって何年も経って、開業している医院とは雰囲気は違うが、
 確かにここは病院の診療室だ。
 クリスティーネの死んだ夫は医者だったのだ。

 そして、碇ゲンドウもまた医者だった。

 ユイは部屋の中へ歩き、そして患者用の椅子に腰掛けた。
 ここも…うちと同じだったのだろうか?
 内科、小児科、それに簡単な外科も。
 いわゆる街の診療所。
 そんな感じがする。
 くりさんはお医者様の奥さんだったんだ。
 ユイは天井を見つめた。
 すっと涙が頬を伝う。
 何に対しての涙だったのだろうか?
 くりさんが助かりそうだという安堵の涙?
 それとも過去の懐かしい暮らしへの涙?
 よくわからなかった。
 ただ一つだけはわかる。
 ゲンドウはやはり医師として生きていかないといけない。
 これまでずっと、それを思って暮らしてきたユイだった。
 今回の出来事はそれを再認識させてくれた。
 だって、あの人の姿。とってもかっこよかったじゃない。
 ユイは涙を乱暴に拭った。

「あっ!」

 突然、思い出す。
 子供たちだ。
 隣の人にお願いしてても、一度顔を出さないと。
 ユイは玄関に出た。
 素足で三和土に降り立つ。

「痛ぁい」

 何度も素足で往復したのに、急に足の裏に痛みを覚えた。
 きっと安堵した所為だろう。

「くりさん、つっかけ借りますね…って、大きい!」

 ぶかぶかのサンダルを引っ掛けてユイは玄関から出た。
 格子戸を閉めて、鍵は持っていないからとりあえず無視。
 子供の様子を見てすぐに戻るつもりだから。
 あ…でも幼稚園は…。って、私が病院に行ったらアスカちゃんは一人になっちゃうよね。
 でも連れて行ったらいいのか。
 さて、どうしましょ。
 幾分ループ思考に入りかけていたユイの頭は部屋の扉を開けた途端にはっきりした。
 隣の奥さんが大慌てで布団にタオルを押し当てている。
 何が起こったかということはその動きと泣きながら立っているアスカがシンジのズボンを履いている事でわかった。
 彼女はお漏らしをしたようだ。
 ユイは泣いているアスカを安心させ、それから隣の奥さんに何度も頭を下げて事情を説明した。
 いいのよ、困った時はお互い様と隣家の奥さんは笑って帰っていった。
 そして、シンジとアスカはほっとしたのか、一つの布団で眠ってしまった。
 ユイはふっと息を吐いた。

「問題は…これよね」

 彼女が見下ろした先。
 アスカが地図を描いたのは、ゲンドウの布団だった。



 午前5時前に、電報が配達された。
 クリスティーネが入院したのは県立病院だった。
 その時点で子供を起こし、三人揃って惣流家に移動。
 やや寝ぼけ頭のアスカに鍵の位置や母親の連絡先を聞き出す。
 アスカが寝ていた布団で子供たちはあっさりとまた眠りについた。
 パンツを自分のに着替えるかとアスカに聞いたが彼女はこのままでいいと首を振る。
 6時を過ぎた頃に「くりさん、ごめん。貸してね」と電話を借りて、
 冬月にゲンドウが仕事に遅れるか休むかどちらかになると伝えた。
 そういうことなら休むといいと言ってはくれたが、ゲンドウのことだからきっと遅れても出勤することだろう。
 ああ、忙しい!
 お日様が出るから干さなきゃっ。
 ユイはまたアパートに戻り、通路側の手摺を雑巾で拭くとそこにゲンドウの布団を干す。
 隣の奥さんもがんばってくれたけど…う〜ん、北海道…いや四国って感じかしら。
 シミで残らなきゃいいけどな。
 そして、午前7時になったところで、ユイは緊張した手でダイヤルを回した。
 初めて話す相手に驚くようなことを伝えなければならない。

「Hellow…」

「あの…キョウコ様でしょうか?」

「そうですが…どなた?」

 警戒するような声が受話器を通ってくる。
 いきなりファーストネームはまずかったかもしれない。
 
「いきなりすみません。私、●●市に住んでいる碇と申します。
 惣流さんの裏手のアパートに住んでいます」

「ああ、あそこの。で、何かしら?」

「突然なのですが、お母さんが倒れられたんです」

 ユイの言葉に受話器の向こうは沈黙した。
 
「もしもし…?」

「ママは大丈夫?」

 物凄く冷静な声。
 一歩間違うと冷淡と捉えられそうな語感。
 しかし、ユイにはわかった。
 伊達に医者の女房を…そして、娘を何年もこなしてきたのではない。
 キョウコの内部でかなりの葛藤があって、それを必死に抑えているのだ。

「はい。県立有岡病院に入院してますけど、病状は安定しています」

「心臓?」

「ええ、心臓麻痺だったんです。発見が早かったので」

「そう。アスカ…娘は?」

「アスカちゃんは今眠ってます。私が責任を持って…」

「ごめんなさい。大丈夫なら今日だけお願いできませんか?」

「お母さんを?それともアスカちゃん?」

「両方です」

 うわっ!言いにくいことをはっきり言うじゃない。
 本来ならむっと来てもおかしくないやりとりなのに、何故か不快感はなかった。

「今日は私でないとできない取材があります。それを終えて、引継ぎしたら…。
 新幹線に間に合わなければ、夜行でも、いやタクシーでも」

 最後の方は母を思う娘の感情が少しだけ出ていた。
 このキョウコさんって人に弱みを見せるのがいやな人なのね。
 ユイはことさらに明るく言った。
 相手に不安感を抱かさないように。

「任せといてください。お母さんの方もアスカちゃんの方も」
 
「あの…アスカは人見知りする方なので…」

 今度は母親の声。

「大丈夫です。うちの息子と仲がいいので…。あの…」

「はい?」

 言っちゃおう。それでかなり気が休まるはず。

「うちにお嫁に来てくれるそうですよ」

「まあっ!」

 一声叫ぶと、キョウコはくすくすと笑い出した。

「ごめんなさい。アスカがそんなに…。あら、笑っちゃダメよね。こんな時に」

「いえ、こんな時ですから、笑ってください」

 受話器からほっと溜息が聞こえた。

「あなたって良い方ね。では二人まとめてお願いします」

 明るく了解したユイはまさかの時の連絡先を聞き、そして電話を切った。
 大きく息を吐く。
 どんな感じの人だろう?
 もちろん私より年上よね。
 アスカちゃんがそのまま大きくなったような感じ?
 ああ、いけない。幼稚園にも連絡しなきゃ。
 ユイは玄関から飛び出すと、アパートの1階に走った。
 そこの娘がシンジと同じ幼稚園の上級さんなのだ。
 手短に事情を話すと、次にアパートへ走る。
 ゲンドウのお弁当を作らないと。
 今日は手抜きさせてもらう。
 おむすびをぎゅっぎゅっと握ると、お皿の上に盛っていく。
 子供たちの朝食にもしないと。
 時間が惜しいから、握っている間にひとつ咥える。
 ゲンドウ用に大きなおむすびを5個。
 それに沢庵を3切れ付けて新聞紙で包む。
 その包みを蝿避け網の中に。
 子供たち用に小さめのおむすびを10個。
 それを持って惣流家に戻る途中に、もう一度隣家の奥さんにお礼と状況説明。
 階段をかんかんと降りていく途中で、ユイは少し大きく息を吐いた。

「忙しいっ」

 ただ、イヤじゃない。
 くりさんは生きているのだ。そのために身体を動かすことに少しも否応があるわけがない。
 惣流家に戻ると、台所を襲う。
 お茶の準備だ。
 きれいに整頓されている様子を見て、
 そういえばドイツ人って整理整頓が大好きだってミッションスクールで聞いたわよねとふと思った。
 で、アスカちゃんは何人になるわけ?
 これは本人に聞いても戸惑うでしょうねぇ。
 死んだお父さんはアメリカの人だから今はアメリカ人なのかしら?
 くりさんがドイツの人で…でも、ご本人にそんなこと言ったら「私は大和撫子」と怒鳴られそうな気がする。
 もし、うちのシンジのお嫁さんになればまたまた日本人ってわけなのかなぁ?
 さぁて、くりさんの入院の準備もしなきゃね。
 10日か2週間くらいよね。
 あ、でもあまり張り切ってしない方が良いかも。
 娘さんに仕事を残しておかないと。
 とりあえず今日明日の分だけ。



 県立有岡病院まで電車で二駅。
 そこから歩いて数分の距離にある。
 この辺りでは一番近代的で大きな病院だ。

「グランマ、大丈夫よね」

「大丈夫だよ」

 シンジがギュッとアスカの手を握りしめる。
 ふふふ、これじゃ私の出番はないわね。
 我が息子よ、よろしくね。
 受付で病室を聞き、エレベーターで3階に上がる。
 ナースセンターに行きお礼を言い、それから病室へ。
 扉を開けると、ベッドに横たわっているクリスティーネとその脇に立っているゲンドウの姿が見えた。
 クリスティーネは起きていた。

「グランマっ」

 飛びつかんばかりにアスカが駆け寄る。
 そんな孫娘にクリスティーネは目を細めた。

「おやおやアスカ。ごめんねぇ、びっくりしただろ」

 ううんと大きく首を振るアスカ。
 ユイは夫の傍らに歩み寄る。

「ご苦労様」

「ふん。何てことはない」

「それはそうでしょうよ。あなたなんですもの」
 
 ユイは意味ありげに微笑みかけ、ゲンドウはその笑みから目を逸らした。

「手術は要らんそうだ。2週間も入院すればいい」

「こんなこと言うんだよ。ユイさんの亭主は。私は今日にも帰りたいくらいだよ」

「ふん。無茶を言ってはいかん。周りが迷惑する」

「もう、あなたったら…。こういう言い方しかできないんですよ」

 ユイの言い訳にクリスティーネは微笑んだ。
 よくわかっているとでも言いたげに。

「娘さんにも連絡しました。お仕事があるので、今晩か明日の朝にはお出でになるでしょう」

「おやおや相変わらずの合理主義者だねぇ、あの子は」

「私が大丈夫だって太鼓判を押したからですよ」

「ありがとよ、ユイさん。何から何まで」

 ゲンドウが物言いたげに身をよじる。

「どうしたの?」

「後は任せていいか?遅刻だ」

「冬月の伯父様には電話しておきました。あっ、電話を勝手に借りちゃいました」

 問題ないとばかりにクリスティーネは頷く。

「休みでもいいって言ってくださいましたけど」

「そんなわけにいくか。今から行く」

「そういうと思ってました。台所におむすびをつくってますからそれをお弁当にしてください。
 あ、それから手摺に干しているものがありますから、乾いてたら中に入れてくださいね」

 その言葉にアスカは真っ赤になってそっぽを向いた。
 おねしょならまだしも、お漏らしだったのだ。
 しかもゲンドウの布団の上で。

「わかった。ではな」

 ゲンドウはじろりとクリスティーネを睨みつけると、大股で部屋を出て行く。

「いってらっしゃい!お父さん」

 シンジの声に背中で手を振るゲンドウ。
 わぁ、かっこいいとアスカとシンジは思う。

「あら、その格好で帰るのですか?」

 笑みを含んだユイの言葉にゲンドウの足が止まる。
 その足には病院の名前の入った緑色のスリッパ。
 そして身に纏っているのはこの場所に実に違和感のない着物。
 寝巻きだ。
 クリスティーネに蘇生術を施しそのまま救急車に同乗したのだ。
 したがって、眠っていたそのままの格好なのだ。
 ゲンドウはそのままの姿勢で固まっている。
 病院の入り口まではいいだろう。だが、さすがにこの格好で電車に乗る勇気はない。

「はい、持って来てますよ、着替え」

 風呂敷包みを捧げ持つユイ。
 ゲンドウが振り向いた。何故早く言わないかと言いたげに。言っても無駄なので言葉にはしないが。
 さっさと部屋の隅で着替え、寝巻きは風呂敷に包み直し、そして片方の手にはスリッパを持つ。
 
「では」

「はい、いってらっしゃいませ」

 丁寧なユイの言葉にゲンドウは少し悲しげに見やる。
 にこりとユイが微笑む。その片側の頬に少しだけえくぼが。
 それを見てゲンドウはふふんと鼻を鳴らし、そして扉に手をかけた。
 その背中を見送ったアスカが祖母のベッドによじ登らんばかりに身を乗り出す。

「よかったね、グランマ」

「ああ、本当に。ユイさんとこのご亭主のおかげだよ」

「いいんです。あれが神様があの人に与えた本当の仕事なのですから」

「ほう…」

 ユイの言葉の意味をクリスティーネはすべてわかっているような顔つきだった。
 もともと医者の奥方だったのだから、直感的にわかるところがあるのかもしれない。

「じゃ、私は先生に話を聞いてきますから…。アスカちゃん、後はお願いできる?」

「任しといて!」

 予想していたより元気な祖母の姿に、アスカは元気を取り戻していた。
 僕だっているよと言いたげに唇を尖らせた息子の頭をぽんぽんと叩いてユイは病室を出て行った。
 病院特有の匂いの中、ユイはゆっくりと廊下を歩いた。
 これが…このことがあの人にもう一度やる気を与えてくれたのならいいのだけど。
 ユイはあの日のことを思い出していた。



 2年前の正月。
 年末年始はさすがに碇診療所は休みだった。
 ユイの父親が死んでもう2年になる。
 突然の交通事故死だったが、ともかくも孫のシンジの顔だけは見せることができた。
 それだけがユイの救いだった。
 母親は中学にあがる時に亡くしているので、ユイもゲンドウもこれで親という存在が一切いなくなってしまったのだ。
 だから正月といっても帰省や挨拶回りはしなくてもいい。
 それに休みといっても急患もあれば、要注意の患者もいる。
 要注意というのは、発作の危険がある患者。
 正月ということで日頃の節制を忘れてしまうことがあるのだ。
 したがって、ゲンドウ自身も羽目を外すことはできない。
 その正月に届けられた年賀状をコタツで読んでいたときだった。
 近所に住む老人が倒れたと家族が駆け込んできた。
 餅が喉につまったとのことで、ゲンドウが駆けつけたときはもう手遅れだった。
 何とか取り出して人工呼吸を繰り返したが、老人は息を吹き返さなかった。
 家族も酔っていたのでゲンドウを呼ぶのが遅れたのがいけなかった。
 老人の家族はひとつも繰言を言わなかったが、しかしゲンドウにとっては結果がすべてだ。
 ただでさえ無口の彼が陰鬱な表情で杯を重ねた。
 いつもより少し多めに。
 それをユイは止められなかった。
 そのことが彼女の悔恨のもととなったのである。
 医師の妻からすれば止めるべきだった。
 間の悪いことに、その時診療所のすぐそばで交通事故が起きたのだ。
 目の前に診療所がある。
 当然、ゲンドウはすぐに現場に飛び出してきた。
 被害者は女性で見るからに手遅れの感が強い。
 緊急手術をしようにも碇診療所にそこまでの施設はない。
 しかし、救急車を待っていてはどうしようもない。
 無理を承知でゲンドウは診療所に女性を運んだ。
 ストックの血液などあるはずがない。
 止血する一方で血液型を調べる。
 女性の意識は既になく、脈も弱まる一方。
 やっとのことで救急車が到着したが、もはや動かせる状態ではなかった。
 そして、女性は碇診療所の診療室で死亡した。
 内臓破裂、出血多量。
 そして、非難がゲンドウへ集中する。
 専門医でもないのに無理に手術を執刀した。
 その上、その時酒気を帯びていたと、救急隊員の談話もその地方の新聞に掲載された。
 だが、これには裏があった。
 女性をはねた車はそのまま逃げた。その後発見された車は盗難車で運転していた人間は無論姿を消していた。
 そのままでも記事にはなるのだが、その記者はさらにエキセントリックな記事を欲したのだ。
 そこで救急隊員がぽろりと漏らした言葉を拡大解釈したのだ。
 もっとも彼が話したのはあれで少しも手が震えたりしなかったのだから腕はいい先生だった、
 という内容だったのだが。
 しかし、記事ではあのまま救急車で総合病院に運んでいれば被害者は助かったはずだと論旨が展開されたのだ。
 もちろん、解剖によりゲンドウの判断に間違いはなかったことは証明されたのだが、
 彼の評判はがた落ちになった。
 先代院長の人当たりの良さとは大きく異なる無愛想さ。
 腕は確かなのだが、患者の評判はすこぶる悪い。
 それがベースにあったのが、今回の事件。
 どちらの死因もゲンドウに責任はない。
 それなのに、街の噂はヤブ医者に人殺し。
 年始休みが終わっても患者は殆ど来なくなってしまった。
 ゲンドウはそれでも超然としていた。

 だが、2ヵ月後、彼は突然ユイに言い出した。
 金が要る、と。
 どのくらいの金額かと問われると、ゲンドウは唇を噛み締め、そして一言だけ言った。

「できるだけ、多く」

 ユイは一瞬だけ息を呑み、そして優しく微笑んだ。

「わかりました。では、ここを処分しましょう」

 その明るい口調にゲンドウは黙って頭を下げた。
 何に使うのかも訊かない。
 別の医者が建物のまま買ってくれれば高く売れたのだが、
 評判の悪くなった医院を建物ごと引き継ぐ酔狂者がいるはずがない。
 取り壊すことが条件で不動産屋に安く売るしかなかった。
 家財道具や衣類もすべて金に替えて、ユイはゲンドウに渡してしまった。
 手元に残したのは当座の生活費だけ。
 その掻き集めた大金をゲンドウはどこかに持っていった。
 ユイにはその行先がどこか見当がついていたのだ。
 あの交通事故で死んだ女性は母子家庭で、高校生の娘がひとりぼっちで遺されたそうだ。
 そのことを新聞で読んだユイは、間違いなくその娘にお金が渡るように計らったと察した。
 ゲンドウにはもちろん社会的な責任はない。
 知らぬ顔をするのが当然だ。
 だがユイにはわかっていた。
 あの時、老人が死んだ後に自棄酒を飲んだ。
 もちろん、それが原因で女性が死んだわけではない。
 ただもしかするともっと手際よく施術できていたかもしれない。
 それがゲンドウを苦しめているのだ。
 まったく不器用というか真正直というか…。
 ユイはそんな夫がたまらなく愛しかった。
 それにこのままこの街で医師をしていても行き詰るのは目に見えている。
 もし他の街で病院に勤めても今の気持ちではおそらく仕事にならないだろう。
 ならば、ここは一度ゲンドウの思うとおりにさせてみよう。
 私はどこまでも着いていく。

 数日後、あれほど大きな家に住んでいたのにもかかわらず、ほんの身の回りのものだけを手にして、
 碇家の三人はその街を去った。
 悪意のある者はまるで夜逃げのようだったと陰口を叩いたものだ。
 ところが夜逃げにしては多くの人間がその時駅に見送りに来てくれたのだ。
 ゲンドウに命を救われた者、病を治してもらった者、そして古くからの知り合い。診療所の関係者。
 ただユイが友人と思っていた者は殆ど来なかった。
 ミッションスクールの教師がただ一人来ただけ。

「これは試練なのです。神様が与えてくださった。そうとでも思っておきなさい。気休めにはなるわ」

 敬虔な信者が聞いたなら目を剥くような言葉がユイへの餞の言葉だった。

「はい、先生」

 ユイは少し声を潜めた。

「泣いてくださっている方には悪いのですが、私、実は楽しみなんです。
 あの人と、子供と、三人で一からはじめるって、なんだかわくわくするんです」

 教師にだけそっと笑顔を向けたユイは、心底からそう思っていたようだ。
 
「それにこういう時にはあの無愛想な顔が役に立つとは思えませんか、先生?」

 教師は見送りの者から別れの言葉を沈痛な表情で受けているユイの夫を見つめた。
 なるほど、あの顔はこういう場面にはピッタリだ。ユイでは明るすぎる。

「ユイさん、あの方を支えてさしあげなさい。どうやらこの世界中であなたにしかできないような気がします」

「先生、この宇宙中で、の間違いです」

 にこやかに言い返すユイを教師はぐっと抱きしめた。
 この娘ならきっと…。
 それは彼女は言葉にはしなかった。
 医者を辞めてこの街を去っていく夫をしっかり支えていくのは間違いがないから。
 彼女のような妻を持ち、そして母に持つ、この二人の男性は幸せ者だ。
 教師はユイと手を繋いでいる若い方の男性の頭を優しく撫でる。
 シンジはただにこにこと教師の顔を見上げていた。

 そして、彼らはユイの伯父である冬月を頼ってこの街へやってきた。
 医者だった人間に肉体労働ができるのかと冬月は眉を顰めたが、
 不退転といった印象をゲンドウに受け自分の工場で働かせることにしたのだ。
 ゲンドウは二度と医師に戻るつもりはないと言い切っている。
 だが、ユイは別の日に冬月に頭を下げている。
 もし、いつか主人が医師に戻りたいと思ったならばそれを応援していくつもりだ。
 その時は辞めさせて下さい。都合のいい時だけお世話になるのは申し訳ないがお許しくださいと。
 
「頭を上げなさい。それはわかった。わかったがひとつだけ訊きたい。ユイ、あの男のどこがいいのだ?」

 小さい時から可愛がってくれた母方の伯父。
 その伯父にユイはあっさりと答える。

「すべてです。伯父様」

 こんな答を聞けば、冬月は苦笑するしかない。

「お前が願うとおりになればいいな。そうだ、就職祝いにテレビを買ってやろう。
 ああ、断るなよ。シンジちゃんが可哀相だからな」

 ゲンドウが頑固に断ったので、カラーテレビは白黒テレビに化けた。
 給料天引きの月賦返済だということで折り合いがついたわけだ。
 それ以降、冬月は返済された金を貯金している。
 将来ゲンドウが医師に戻る気になった時、必要経費にするためだ。
 作業員の服で医師の仕事はできないから。
 それに腕時計も医者には必要だ。

 冬月は始めてゲンドウを見たときに驚いた覚えがある。
 何故なら高校生のユイがべったりとくっつきかいがいしく世話をしていたのだ。
 その日は妹の…ユイの母の七回忌だった。
 医学大学を卒業したばかりのゲンドウが碇診療所に就職したのが一年前。
 無愛想なヤツだが腕はいい、と義弟がはがきに書いてきたこともある。
 その無愛想なヤツが可愛いユイのハートを射止めるとは…。
 ユイはゲテモノ好きだったのか、何故しっかりと監督しなかったかと義弟に本気で詰め寄ったものだ。
 


 ゲンドウは駅からアパートまでの道を急いでいた。
 今は10時過ぎ。完全に遅刻である。
 その道すがら、パチンコ屋を横目で見る。
 例の高校生の時の停学事件。
 パチンコ屋を見ると、その記憶が甦り、そして妻の顔が浮かぶ。
 まだ高校生になったばかりのユイの顔が。

「あなた…私のことが好きだったんでしょ?」

 初対面でこれだ。
 しかも「好きでしょ」ではなく「好きだった」なのだ。
 当然即座に返事などできるわけがない。
 戸惑って立ち尽くしていると、彼女はぷぅっと膨れて見せた。

「あっ!覚えてないんだ。私ははっきり覚えているわよ。あの秋の日の夕暮れ。
 あなたは駅から歩いてきて、私を見かけるとびくっと立ち止まって、
 それから顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げると、どこかへ走って行ったわ」

 ゲンドウはまったく覚えていなかった。
 こんなに可愛い娘なら忘れるわけがない。
 ならば向こうの人違いか?
 まさか、この俺と間違えられるような変なヤツがこの街にはいるってことか?

「ひどいなぁ。本当に覚えてないの?じゃあ、あんなに顔を赤くしたのは何の所為だって言うのよ。
 まさかあの夕焼けが顔に照りかかって、なぁんてこと言い出すんじゃないでしょうね」

「わ、わからん」

「わからないですって?」

 女子高生は通りの真ん中で腕組みをした。
 彼女は真剣に怒っている。
 嫌がられたことはあるが、怒られたことは少ない。
 
「こっちへ来てよ」

「お、おい」

 はっきり言って女性から手を繋がれたのはいつ以来か覚えもない。
 医療実習等でこちらから手を伸ばしたことはあるのだが、
 女性の方から、しかもこんなに可愛い娘から手を繋がれたなどゲンドウの人生で前代未聞。
 もっとも繋がれたといっても引っ張られたという方が正しいのだが。
 ともかく、六分儀ゲンドウは内心とんでもないパニックに襲われていたのだ。
 そして、引っ張り出されたのは駅前の通り。

「ここよ。あなたは向こうから歩いてきたの。詰襟の2番目まではだけてね」

「つ、詰襟!」

 いつの話だ…と頭を悩ましたゲンドウが傍らの女子高生をよく見る。
 その瞬間、軽いデジャヴが彼を襲った。
 
「すまん、笑ってみてくれんか」

「いいわよ」

 彼女は微笑んだ。
 それはあの頃憧れていた診療所の看護婦さんの微笑と同じだった。
 ゲンドウがこの街の診療所に職を求めたのは、あの若き日の苦い思い出と無縁ではない。
 憧れだけで自爆した思い出が何故か懐かしく、あの微笑をもう一度見たいと思ったのである。
 ただその看護婦さんであり、医師の妻だったその彼女は既に夭折していた。
 もう二度とあの微笑みは見られないものと、そう思ってこの街に彼はやって来たのだ。
 その微笑と殆ど変わらない笑顔で娘が自分を見つめている。

「どう?思い出したみたいね」

「ああ、君はあの時の…」

「そう、あなたは私を見て真っ赤な顔になって…」

「いや、違う。俺が見ていたのは…君のお母さんの方で……」

 言わずもがなの言葉。
 甘酸っぱい少女時代の思い出として大事にしまっていた彼女は怒った。
 自分のことを…小学生の自分に見とれていたものと真剣に思い込んでいたのだ。
 
「じゃ、何?あなたはお母さんみたいなおばさんの方が好みってわけなの?」

「いや、それは確かに、その時は、だから」

 歯切れが悪いことこの上ない。
 その上、しっかりと肯定してしまっている。
 当然、ミッションスクールの制服の彼女はかんかんに怒った。
 
「私には全然魅力がなかったということなの?はっきり言ってよっ」

「ランドセルを背負った子供には…魅力など…」

 六分儀ゲンドウ、己の容姿はともかくその嗜好はノーマルである。
 あの当時の母子を並べてみてどちらに魅力があるかは、ノーマルな男なら母親をチョイスするだろう。
 だが、もし今のこの健康な高校生の娘とあの時の母親が並んでいたなら?
 ゲンドウは悩乱し、娘は霍乱した。

「子供子供って言わないで。私はもう子供じゃないのよ」

 これを見よとばかりに胸を突き出す。
 ゲンドウは逃げ出したくなった。
 どうしてこんなことになったのだ?
 俺は別に可笑しいことは言ってないではないか。

「はっきり答えて。私に魅力はないの、あるの、どっち?」

「それは、ある」

 ゲンドウは答えた。
 真っ正直に。
 娘はけろりとした顔でうなずいた。

「なんだ。それならそうと、はじめからそう言えばいいのに」

「おい…いい加減にしてくれんか」

「どうして?」

 からかわれているのだと、ゲンドウは了解したのだ。

「俺のような男をからかっても…」

「うふ」

 ペロッと舌を出し、ばれたかと笑う娘にゲンドウは言葉を継ぐことができなかった。

「ごめんなさい。だって、あなた、可愛いんだもの」

 耳を疑うとはこのことかとゲンドウは思った。
 しかし、疑おうにも彼女の発した言葉はゲンドウの頭の中で何度も何度もリフレインされている。
 あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛
いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あ
なた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。
 頬が熱い。
 喉が渇く。
 くらくらする。
 
 この瞬間、ゲンドウは碇ユイをただ一人の女として恋してしまった。



 ユイは、俺のことを何故……。
 これはゲンドウの生涯の疑問となった。
 彼女はその疑問にはただひとつの答しか喋らない。
 それは高校生の時も今も同じ。

「だって好きなんだもの。理由なんかないわ」

 確かに好きなものに理由など要らない。
 ゲンドウが好物の秋刀魚の塩焼きを好きなことに理由を並べようと思えばいくらでも並べられる。
 ただそれらの好きな理由というのは後付けだ。
 根本的に好きだからというベースがあっての話だ。
 それはわかる。
 わかるが、その対象がこと自分であれば話が違うではないかと思う。
 誰からも好かれにくい人間を好きだというには何か理由がないと納得しかねる。
 容姿がいいとか、身体が凄いとか、家が金持ちとか、頭がいいとか……。
 頭、か。悪くはない、な。医大に入って、免許を取ったのだから。
 だが、それでも、無愛想で無骨な自分を好きになるのはおかしい。
 このことを考え出すと止まらない。
 止めるためには、ユイの笑顔を見るしかなかった。
 
 それは左の頬に浮かぶえくぼの存在。

「よく見て。私はね、大好きな人にしかこのえくぼは出せないの。
 これまではお父さん、お母さん、だけだった。お母さんが見つけたのよ。
 お父さんがユイの嘘発見器だなんて笑ったわ。
 ほら、どうしてあなたと話していると、ここにえくぼができるんでしょうね?」

 確かにえくぼができていた。
 その後、ユイのことを見ていたが、どんなに笑顔になっていても、
 友達と喋っていても、左の頬にはえくぼは刻まれない。
 それが、自分と話すときにはあっさりとそれが出てくる。
 ゲンドウが勤めだして半年後、ユイの父親も爆笑して言った。
 ユイが君みたいなタイプの男を好きになるとは想像もできなかったと。
 「どう言い訳してもだめだぞ、証拠があるんだからな。ほら」と、父親はユイの左頬をつついた。
 そこにえくぼが刻まれている以上、ゲンドウはそれを信用する他ない。
 実際、ユイのえくぼはその後もゲンドウとそしてシンジにしか見せていないのだから。
 伯父の冬月にも見せはしない。
 
 先ほど、病院で別れた時もユイは自分にえくぼを見せてくれた。
 ユイは俺のことをまだ愛してくれている。
 ゲンドウは小さく頷くと、アパートの階段を駆け上がった。
 たんたんたんたんっ。
 睡眠不足のはずだが、身体も、そして心も軽い。
 惣流未亡人の命を救ったからか?
 ふん、未練がましい。
 俺は医者を辞めたのだ。
 その時、ゲンドウの足が止まった。
 手すりに干されているものを目の当たりにしたからだ。
 俺の…布団。
 何故だ?



「2週間?それはまた長いね」

「仕方がないと思いますわ。心臓ですからね」

「ふふん、あの亭主殿は藪ではなかったと言うことか。心臓に気をつけろとよく言ってたわ」

「まあ、名医でしたのね」

 外交辞令とは見えないユイの言葉にクリスティーネは鼻で笑った。

「名医なものかね。自分の病気は治せなかったのに」

「そんなこと言っちゃ、ダメですよ」

「で、アンタのとこのはどうなんだい?」

「名医ですよ。愛想はありませんけど」

 くくくっと笑うユイ。
 
「いいんだよ、医者なんて商売してるんじゃないから愛想などなくてもね」

「そうでしょうか?」

「まあ、ないよりあった方がいいのは確かだけどね」

 その一言に二人は顔を見合わせて笑った。
 アスカとシンジは探検だと、病院の中をうろついているようだ。
 ずっとこの部屋に閉じ込めておくのも可哀相だし、走ったらダメだと念を押して子供たちを送り出したのだ。
 その間、クリスティーネは横にはなっているが、眠ろうとはしない。
 そして、ユイとゲンドウの話を聞きたがった。
 この街に来て、冬月以外のものにこの話をしたことはなかった。
 すべてを話し終えると、クリスティーネは大きな溜息をついた。

「なんだよ、いったい。肝心の話より、二人の恋物語の方が分量がやたら多かったじゃないか。
 たまらないねぇ、まったく。こっちは愛する夫に先立たれた不幸せな未亡人だっていうのに。
 人様の気も知らないでよくもまあそんな惚気をしゃあしゃあと言ってくれるもんだよ。え?」

 言葉とは裏腹にクリスティーネの顔は笑っていた。
 その時、ユイは左の頬にある感触を覚えていた。

「あのぉ、くりさん。私の左の頬なんですけど、出てます?」

「ん?ああ、えくぼだね。片えくぼってヤツかい。でも、これまで気付かなかったねぇ」

 うふふ、くりさん。あなたは5番目の人。
 まだ親しくなってそんなに時間が経ってないのに。不思議ですよね。
 同じ医者の妻だからでしょうか。
 あの人は完全に辞めたものだと思っていますけど、誰が辞めさせるものですか。
 碇ゲンドウは世界一の名医。
 悪いけど今は亡き惣流先生は世界で二番目にしていただくわ。
 もうお亡くなりになってるからいいでしょ、ね、くりさん。



「アスカ、怖いよ。もう帰ろうよ」

「うっさいわね。ここからが面白いのよ」

「でもさ、ここ、し〜んとしてて怖いよ」

「弱虫。ミイラ人間もラゴンもダダもここに出てくるわけないじゃない」

「そりゃあそうだけど…」

「ほら、周りを見てみなさいよ。誰もいないわよ」

「いないから怖いんじゃないか」

「ホントにシンジは臆病者ねっ」

「ねえ、ここはどこなの?」

 アスカは扉の上に貼られたプレートを睨みつけた。

「わかんないわよ。ふりがな打ってないもん」

 二人はプレートを見上げた。

「でも、真ん中の字はわかるわよ。安売りの安よっ」

「わぁっ、アスカって凄い」

「えへへへ」

 県立有岡病院の人気のない地下一階。
 霊安室の前でアスカとシンジはニコニコしながら手を繋いでいた。



「もうっ!そこは死んだ人を安置する場所なのよ。霊安室って読むの」

「ええええっ!」

「死んだ人って死んでるの?」

 とぼけたことを言いながらもシンジは思い切りびびってしまっている。
 アスカもそれは同じ。
 そこがどんな場所か知っていれば、当然行くわけがない。

「あなたたち、幽霊なんか連れてきてないでしょうねぇ」

 大仰な身振りで二人の頭越しに向こうを見るユイ。

「ああ〜ん、そんなの連れてきてないよぉ」

「お母さんの意地悪っ!」

 二人とも怖くて後が見られない。
 まったく何と言う場所に入り込んでしまったのかと、二人とも猛烈に後悔していた。
 もっともあの後すぐに、色の白い看護婦さんにあそこから追い出されたのだが。
 ここはあなたたちの来る場所じゃない、早く戻りなさいと。
 つくづく長居しなくてよかったと胸を撫で下ろすシンジだった。

 お昼前にはアスカとシンジは暇をもてあまし始めていた。
 子供たちはとろんとした目付きになっている。
 そこでユイは子供たちを連れて一旦戻ることに決めた。
 クリスティーネはもう大丈夫だから来なくていいと言うが、そうもいかない。
 夕方前に顔を見せると約束して3人は病室を出た。
 帰りの電車の中で幼い二人は頭を寄せあって眠っている。
 昼前の電車は乗客が少ない。
 四両編成の各駅停車ががたごと走る。
 これは帰ったらお昼を食べて、それからお昼寝ね。
 私もちょっとだけその横で眠らせてもらおうかしら。
 アスカちゃんは邪魔だって言うかな?
 ふふふ…。
 電車の窓の外を風景が流れていく。
 南側を向いているから、殺風景な工場ばかりが目立つ。
 もくもくもくと白や黒の煙がどんどんと空に送り込まれている。
 この環境でシンジがどうなるかだけが心配だったけど、意外と病気ひとつしないのよね。
 あの人に似て結構頑丈なのかしら?
 あ、でも、私もこっちにきてから風邪ひいてないわよね。
 なんだ、じゃシンジは健康体夫婦の産物ってわけか。
 まあ、がんばれ我が息子。
 環境にさえ目を瞑れば、この街の方が私は好き。
 あの人だってこっちの方が合っているかも。
 昔ながらの屋敷町っていうのはあの無愛想男には元から難しかったのかもしれないわね。
 この街で医者をすれば…。
 そこまで考えた時、ユイの顔が綻んだ。
 無理かもしれない。
 でも、やってみよう。

 決意に燃えたあまり、ユイは電車を降り損ねた。
 駅に到着して扉が開いた時に気が付いたのだが、子供たちを起こしている間に扉は無情に閉まってしまった。
 と言っても下町を走る電車だけに一駅一駅の間隔は異様に短い。
 国鉄の一駅の間に三つも駅があるのだから。
 アスカとシンジは文句を言うどころかかえって喜んでいる。
 知らない街を歩くのは旅行気分でもあり、探検気分もある。
 何故なら、シンジの街の駅と次の駅の間には大きな川が流れていて、その川が市の境になっているからだ。
 市が違うとすぐ隣なのに足を向けることが少ない。
 日常の買い物は駅前の市場や商店街で充分間に合うし、
 役所等も当然自分たちが住んでいる町の役所を使う。
 したがってシンジもこの駅で降りたこと自体が初めてというわけになる。
 
「わぁっ、お母さん、お母さん、映画館だよ!」

 シンジの叫びを待つまでもなく、改札口の真ん前に映画館が立っている。
 大都市のものに比べると、小さい上にやや汚い。
 
「ねぇねぇ、ここでゴジラはする?」

 ユイは看板を見た。
 そこには夏木陽介がかっこよく笑っている。
 ゴジラって東宝映画よね。
 ポスターに東宝のマークが描かれているから多分大丈夫だろう。

「するんじゃないかな?同じ会社の映画館みたいよ」

「見たいなぁ、ゴジラ」

「私、見たわよ。東京で。ゴジラ対エビラ。モスラも出てきたわよっ!」

「わぁ、いいなぁ。僕、映画を見たことないんだ」

 卑屈になることなく、シンジが純粋に羨ましがる。
 そうなるとアスカの方は鼻高々だ。

「すっごくおっきな画面でね、それからね、眠っているゴジラを起こすの」

「エビラが?それともモスラ?」

「馬鹿ねっ、人間に決まってるでしょっ」

「えっ、人間がどうしてゴジラを起こすのさ。暴れられたら困るじゃないか」

 アスカが言葉に詰まった。
 一生懸命に筋を思い出そうとしている。
 だが、結局思い出せなかったようだ。

「そんなことはど〜でもいいのっ。とにかくゴジラが、エビラと、それから悪もんもやっつけんのっ」

「悪者も出てくるの?見たいなぁ、僕も」

 へへへと胸を張るアスカ。

「お母さん、お願い。次のゴジラを見たいの。映画館に連れてって」

「う〜ん、まあいいか。夏休みよね」

「わかんないよ」

「でしょうね。その時にはきっと忙しくなっているでしょうけど、なんとかするわ」

 意味不明のユイの言葉だったが、シンジは最後の部分だけで了解した。

「ほんとっ!やった、やったぁっ!」

 文字通り躍り上がって喜ぶシンジだったが、それとは対照的にアスカの表情が曇っていた。
 その意味はわかっているユイだったが、わざと話題にする。
 それがこの子達のためだから。

「あら、どうしたの?アスカちゃん」

「う、うん…」

 喜んでいたシンジも何事かとアスカの様子を窺っている。
 アスカは俯き加減に小さな声で言った。

「私、見られない。ドイツに行っちゃうから」

「あ、そうか。もうすぐお母さんとドイツに行くんだったわね。あっちではゴジラはしてないか」

 ことさらに明るく言うユイは、横目で息子の様子を確かめる。
 シンジは悲しげな目でアスカを見ていたが、大きく一度頷いた。
 よしよし。言っちゃえ!我が息子。
 そして、ユイの期待通りの言葉をシンジは発した。

「お母さん!僕、ゴジラは見ない!」

「あらま、どうしたの?」

「だって、アスカが見られないんだもん。僕も我慢する!」

 シンジの言葉は落ち込んでいたアスカの表情を一気に明るくさせた。
 
「シンジ!それはダメよ!」

 喜んでもらえると思っていたのに、アスカの予想外の返事でシンジは呆然となった。
 アスカは腰に手をやると、シンジに向かって胸を張った。

「アンタはゴジラを見るの。ちゃんと見るの。
 それでね、私にお手紙頂戴。どんなお話だったか教えてよ」

 ほほう、そう来たか、この娘もやりおるわい。
 小さな二人のやりとりを見下ろしていると、まるで神様の視点みたいだわとユイは思っていた。
 神様って言うのも面白いものね。
 なる気はさらさらないけど。私はあの人だけの女神さまで充分なのよ。
 誰かこの惚気聞いてくれないかなぁ?
 あ、そうだ。くりさんはどこにも逃げられないわよね。
 入院患者を苦しめる計画をユイは素晴らしい笑顔で決定した。

「うん!わかったよ!じゃ、画用紙に絵も描くよ」

「わぁい、楽しみ!じゃ、じゃあ、私も一杯描いて送るわよね。向こうにもゴジラみたいなのがいるかもしんないから」

 アスカは瞳をキラキラ輝かせた。

「うん!約束だよ!」

「と〜ぜんっ。破ったら許さないわよっ!」

「じゃ、指切りっ」

「うん、でも私は針なんか飲まないもんねっ。約束破らないもん」

 アスカは顎をすっと斜め上に突き出して、小指をぐっと前に突き出した。

「僕だって、飲まないもんっ。だって僕とアスカは結婚するんだもん。ずっと仲良しでいなきゃ」

「結婚、結婚!それも、指きりっ!」

 おやおや、我が息子もしっかりしているものだわ。
 アスカちゃんをしっかり捕まえておくつもりね。
 まあ、この年でこれじゃあ末恐ろしいのは確実よね。
 美少女に成長するのは間違いないけど、この気の強さもしっかり成長しそうだわ。
 未来の姑としては困りものだけど。
 ま、いいか。アスカちゃんならいい戦いができそう。
 私は姑にいびられた経験がないもの。あの人婿養子だし。
 シンジを挟んでああだこうだってやりあおうかしら?
 シンジはどっちの味方をする気かな?

 駅前から線路沿いに歩く。
 こちらの市はすぐそばなのに、どちらかというと住宅街。
 ほんの少ししか離れていないのに、南の空が青く見える。
 でも、南東を見るとスモッグだらけ。
 その方向がユイたちの街。
 こうして見るとよくわかる。
 スモッグの向こう側には青空があるってことが。
 手を繋いで歩く子供たちの後ろにユイ。
 二人は大きな声でウルトラマンの唄を歌っている。
 実はユイも聞こえない程度の声で一緒に歌っていることを前の二人は気付いていない。
 そのうち、アスカの歌唱指導が始まる。
 歌唱といっても歌詞の指導だ。
 シンジは3番をよく知らなかったのだ。
 テレビでは2番までしか唄われていないので、シンジは本で知っているだけなのだ。
 アスカはソノシートを持っているので完璧に歌える。
 片やシンジの家にはレコードプレーヤーすらない。
 そうやってわいわいやっているうちに、川岸にたどり着いた。
 少し南側の国道には歩道がないので、歩行者は電車の鉄橋のすぐ横にある専用の橋を渡る。
 まるで鉄橋にへばりついているような感じなのでかなり揺れる上に、
 電車が鉄橋を通過すると金網越しに風がびゅんびゅんと吹き付ける。
 アスカは内心怖くて仕方がないのだが、シンジがけろりとしているので言葉には出せない。
 但し、無理をして見せている笑顔は大いに引き攣っているのだが。
 
「アスカはすごいなぁ。僕なんてはじめてあそこを通った時、お母さんにしがみついて泣いちゃったんだよ」

「は、はは、あれくらい、ははは、私ってすごいでしょ」

「うん、本当に凄いや。ねぇ、お母さん」

「そうね」

 これもくりさんに教えてあげよう。
 たとえ可愛い孫娘であっても、きっと大笑いするだろう。
 でも、笑いものにしちゃうだけなのは少し可哀相ね。
 出演料を払ってあげようかしら。

「お昼にたこ焼き、買って帰ろうか?」

「えっ、本当?」

「やったっ!」

 今日はちょっと贅沢。
 アスカちゃんにとっても大変な日だったんだからね。
 ううん、あの子がいなかったら、くりさんは死んでいたんだもん。
 殊勲賞ってとこかな?たこ焼き程度じゃ悪いけど。
 
「お母さん、市場のたこ焼き屋さんでしょ。先に行って頼んでおいていい?」

「いいわよ。10個のを3つね」

「わかった。行くよ、アスカ」

「うん、私、焼いてるの見てるの好き!」

「僕もっ」

 駅前の商店街を手を繋いで駆けていく二人。
 その後姿を見やりながら、ユイは微笑んで…そして、あっと唇に手をやった。
 しまった。どうして3人分頼んじゃったんだろう。
 ちょっと調子に乗っちゃったか。私、残り御飯食べるつもりだったのに…。
 そして、ユイはぺろりと舌を出した。
 でも、たこ焼きは熱いうちに食べないとね。
 ごめんね、あなた。全部食べちゃうわ。



 ぐぅえっしゅっん!

 奇妙なくしゃみをしたゲンドウを同僚がからかう。
 
「どないしたんや。けったいなくしゃみしてからに」

「うむ。風邪ではない」

「なんや。医者みたいな口ぶりやな。ゲンさんみたいな医者やったら、みんな怖がってよりつかへんのとちゃうか」

 ゲンドウは鼻で笑った。

「そうだろうな。いや、そうに決まっている」

 医者は俺向きの仕事ではなかったんだ。
 こうやって機械を相手にしている方が向いているんだ。
 ゲンドウは自嘲するまでもなく、本心からそう思っていた。
 この時はユイもそう思ってくれているものと、彼はそう信じていた。






 



 
「あ、お母さん眠っちゃってる」

 「静かにしなさいよ、馬鹿シンジ」

  丸い卓袱台で、仲良くたこ焼きを食べていると、
  いつの間にかユイの声がしなくなっていた。
  母親は卓袱台に寄りかかってすやすやと寝息をたてている。
  走り回った疲れが出たことくらい、幼稚園児でもわかるのは当然。

 「うん、わかった。起こさないように…」

 「ホントにアリガトね。グランマを助けてくれて」






<あとがき>

 水曜日のお話のその壱です。

 これはこの物語の中で一番長い日のお話になります。

 この当時のたこ焼き。なんと10円で10個。これは下町だったからかもしれません。安すぎます。
 端っこをホッチキスで止められた舟に乗ったたこ焼きにソースが塗られかつおと青海苔が乱暴にふられる。
 そして黄緑色の紙がその上に乗せられ、新聞紙で包まれる。
 家に帰ってからその紙を慎重にはがすのだけれども、ところどころ残ってしまう。
 まあいいやと、そのまま口に。
 今はそういう経験できないなぁ。
 舟じゃなくてプラだし。味気なや。

 次回は!水曜日のその弐。

 

 

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