この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(5)

昭和42年4月12日 水曜日・その弐


2004.9.17         ジュン

 










 キョウコはまだ病院に到着していなかった。
 ただ容態を尋ねる電話が数度病院に入っていると看護婦がクリスティーネに教えてくれた。
 
「それでいて、私と話をしたいなんて一言も言ってくれないのさ。冷たい子だよ」

「心臓麻痺を起こした人を電話口まで運ぶんですか?とんでもないですよ」

 お昼寝を少しした後に、また3人は病院へ。
 その途中、アスカとシンジはユイを真ん中にして手を繋いでいた。
 アスカはシンジの掌とはまた少し違った感触。
 ちょっぴり柔らかくて女の子って感じがする。
 この子の母親ってどんな感じなんだろうか?
 電話で話した感じでは確かに合理的な口調だったけど、母親を気遣う気持ちは伝わってきた。
 アスカちゃんだって気は強いけど変な子じゃない。
 母一人でちゃんと育てていると思う。
 まあ、楽しみね。もうすぐ、ご対面できるんだから。

「で、持ってきてくれたのかい?私の愛読書」

「はい、ありましたよ。おっしゃってた場所に。それから、短波ラジオも」

 袋から取り出してきた本と小型ラジオにクリスティーネの顔が綻ぶ。

「ああよかった。これで暇が潰せるよ」

「くりさんってこんな趣味があったんですね。ちょっと意外だなぁ」

「趣味だけじゃないよ、実益も兼ねてるのさ」

 なるほど、無職のくりさんの生活を支えているのはこれだったのかとユイは思った。
 だが、こんな先がどうなるかわからないような収入はユイの目では物凄く危ない橋に思えて仕方がない。

「ユイさんや、アンタ、こんなので金を儲けているのが気にいらないかい?」

 クリスティーネは四季報をめくりながら、ユイに問いかけた。
 アスカはその祖母のベッドの端でスケッチブックを広げてお絵かき中。
 描いているのはゴジラと、そしてエビというよりもザリガニの怪獣。
 今日話題になった怪獣映画の絵を早速描いているのだ。
 そんなアスカは大人の会話には興味なし。
 シンジはといえば、寝ている。
 あまりお昼寝ができなかったととろんとした目をしていたので、
 隣の空いているベッドを拝借しているのだ。
 もちろん看護婦さんの許可を貰って。
 彼は寝つきは悪いが、眠ってしまうとなかなか起きない。
 
「いえ、ただ驚いただけです。株で生活していたとは予想もしていなかったので」

「私も吃驚したよ。こんな才能があったとはね。もともとは亭主がしてたのよ。
 で、お前もやってみろと遊び半分でしてみたら、これが大当たり。
 最初は亭主もむきになって張り合っていたけど、お前には負けたってね。
 実は惣流家って案外金持ち…いや、資産家なんだよ。
 うちの隣の建物もうちのものだしね」

「あら、あの廃工場が?」

「あはは、中身はすっからかんさ。いつでも立て替えられるようにね。
 本当は病院を大きくしようかって買ったんだけど、計画中に藪医者殿はあの世に行っちゃって。
 次はキョウコが結婚したらそこに家を建てればいいと思ってたんだけど…」

 後は言いよどむ。
 はっきりした性格のクリスティーネにしては珍しい。
 おそらくキョウコの結婚の時にいろいろあったんだろうとユイは推察した。
 
「うちと電気屋の間の空き地もうちのものさ。
 こうなれば使いようもないんだけどね。
 アンタ、要るかい?」

 四季報から目を上げて、ユイを見つめる。
 その目は悪戯っぽく輝いてはいるが、けっしてからかったりしている目ではない。

「ありがとうございます。いずれお願いするかもしれません」

「おや、家でも建てるのかい?」

「いえ、診療所を…」

 ユイは微笑んだ。

「そう言ってくれると思ってたよ。
 アンタ、あの亭主の尻を叩くつもりだね」

「はい、ぱしんと」

 ユイは右手を勢いよく振り下ろす。
 その仕草を見て

「だけど、難しいんじゃないのかい?
 一度なくした自信はなかなか戻らないよ」

「ええ、そう思います。でも、今がチャンスですから」

「私の命を助けたからかい?私はいい出汁ってところか」

「はい、コンソメ味の」

「こら、私は鰹出汁だよ。西洋料理よりも日本料理の方がもう得意さ」

「それは失礼しました」

 おどけて一礼するユイに、クリスティーネは楽しげに笑った。

「そうなれば、わざわざ診療所を建てる必要はないんじゃないかい?
 うちを使えばいいのさ。綺麗なものだよ」

「はい、拝見させていただきました。よく掃除されていて」

「アンタ、なかなかの策士だよ。私がこう言うってわかってたんだろ」

 ユイは微笑みで肯定した。

「まったく喰えない女だね。キョウコの方が単純で素直ないい子に思えてきたよ」

「あら、ママに褒めてもらえるなんて、いつ以来かしら?」

 新来の声に扉の方を見る。
 そこに立っているのは、洒落たスーツ姿の白人女性。
 腕組みをして、顎を突き出しているところなどはまさしくアスカの母親。

「ママっ!」

 さすがに娘。
 アスカが一番反応が早かった。
 クレヨンを投げ出して、母親のところに突進する。

「アスカ。元気みたいね」

「うん!アタシ、とっても元気よ。あ、そうだ。あのね、アタシ、結婚するからっ」

 抱き上げた娘にいきなり結婚宣言をされて言葉を失ってしまったキョウコ。

「おむこさんはね、シンジっていうのよ。大きくなったら結婚するって指切りしたの。
 えっとね、そこで…お昼寝中」

 母親に紹介しようとしたが、あいにくシンジはまだ夢の中。
 キョウコは少し醒めた目でそのうら若き婚約者を見下ろした。

「そうなの?まあ、随分と若い時に結婚を決めちゃうのね」

「はっ、いい気味だ。私の気持ちがわかったかい」

「ママはまたそうやって減らず口を叩く」

 アスカを床に下ろしたキョウコはずんずんと母親の前へ進んでいく。
 身体をベッドの後の方にずらしたユイは好奇心丸出しで成り行きを見ている。

「アスカの相手はもしかしてこの人の息子?」

「ああそうだよ。シンジちゃんはとてもいい子さ」

「うんっ。シンジはとってもいいヤツよ!」

 キョウコはぐっとユイを睨みつける。
 こういうときは神妙な顔をすべきなのだろうか。
 きっとそうなのだろうが、ユイは笑ってしまった。

「ごめんなさい。惣流家の土地や財産を狙ってますの」

「あ、貴女ねぇ…」

 何か言い訳や話を逸らしでもすれば、言葉の洪水で押し流してやると準備していたのに、
 こうもあっけらかんと言われると唖然とする他ない。

「馬鹿言うんじゃないよ。アンタ、今の今までうちが資産家だなんて知らなかったじゃないか」

「いえいえ、あんな立派な診療所があるのは知ってましたよ。今朝知ったばかりですけど。
 あれが一番の狙いです。建てる必要がないもの」

「だ、そうだ。キョウコ?どうしようかね」

「ママっ」

 冷やかすような口調にキョウコは眉を上げる。
 
「そんな大声を上げると心臓に悪いねぇ」

「いい加減にしなさいよ。ママ」

「ママ、ややこしいよぉ。グランマはグランマって呼んでよ」

「あのね、アスカ。グランマはママのママなんだから、ママでいいのよ」

「じゃ、アタシのママにしてよ。シンジのママの事は“シンジのママ”ってアタシ言ってるよ」

「あのね、でも、例えばアスカとそこのわけのわからない子が結婚すれば、
 アナタはそこの図太い女のことをママと呼ばないといけないのよ」

「えっ、そうなの?」

 アスカがユイを見る。
 いささか照れくさいが、間違ったことは言えない。

「うん、そうなるわね。私の娘って事にもなるから」

「じゃ、ママって呼んでもいいのね。ママ!」

 この呼びかけは効いた。
 自分が産むことのできない白人幼児からにっこり笑って「ママ」。
 くらっとしそうなほどの快感を覚えた。

「こら、アスカ、やめなさい」

 娘の身体をぐいっと引き寄せて、キョウコはユイを睨みつける。

「貴女、何よ。とろんとした顔しちゃってさ」

「あ、ごめんなさい。女の子にママって言われるのもいいものねぇ。
 あ、そうか。うちじゃお母さんだっけ。あの、アスカちゃん?お母さんって呼んでくれる」

「おか…ぐわぅ」

 言わせてなるものかとキョウコが娘の口を塞ぐ。

「これ、キョウコ。乱暴な。ああ、それじゃユイさんや、あんたは私のことをお母さんと呼んでくれるかい?」

「あら、いいんですか?それでは…お母さん」

「おお、いいもんだねぇ。キョウコはずっと“ママ”ばっかりだったから」

「ママっ、いい加減にしてっ」

 本当は怒鳴り上げたいのだが、ここは病院の上に相手は昨日心臓発作を起こしたばかりの人間。
 
「もう、いいわ。ママが元気なことはよくわかりました。
 これで心置きなくドイツに旅立てるわ」

 キョウコはニヤリと笑った。

「さあ、行くわよ、アスカ。こんなところに長居は無用」

「おうちに帰るの?」

「違います。東京に帰るの。ママが入院してるんだからアスカの面倒を見る人間がいないでしょ」

「それはマ…マじゃない、お母さんがしてくれるもん」

「まだお母さんじゃありません」

 咄嗟にそう言ってしまい、キョウコは天井を仰いだ。
 こんなことを言ったら、まるで婚約していると認めたみたいじゃないの。
 超高速で仕事片付けて飛んできたっていうのに、この三人ときたら…。
 もう、ほっとしちゃったじゃない。
 そうは言っても、このままには済ましてはいられないわ。
 この私は負けず嫌いなのよ。
 キョウコはニヤリと笑った。

「そうねぇ。よく考えたら株券とかあのままにしておくのはまずいわよねぇ。
 泥棒猫がすぐ近くに…いいえ、家の中にも出入りしているんですから」

 まあ、とユイの顔。
 クリスティーネは見えないようにくすくす笑う。
 娘の性格はよくわかっている。
 これはユイをぎゃふんと言わせるまでは帰らないつもりね。
 もっとも今日中にそうするつもりでしょうけど。
 見られないのが残念だね。



「ふふふん。楽しいなぁ。ママとお母さんっ」

 真ん中のアスカはしっかりと二人の手を握り締めている。
 左手にユイ、右手にキョウコ。
 キョウコはアスカには笑顔を見せるが、ユイと視線が合うとふんっとすぐに目を逸らす。
 シンジがどこにいるかというと、母の背中。
 まだ眠たくてキョウコへの挨拶もはっきりできなかった。

「アスカ。何度も言っているでしょう。その人はお母さんじゃないって」

「だって、シンジのママなんだもん。結婚したら、アスカのお母さんになるんだもん。ねぇ〜」

 左側を見上げるアスカ。

「まあ、結婚すればね」

「じゃ、絶対に大丈夫。アスカはシンジと結婚するもん」

「あら、ありがとう」

 溜息雑じりに空を仰ぐ。
 ああ、この街の空だ。
 東京の空がきれいだとは決して言えっこない。
 それでもここよりはましだ。
 海に近づくほど濃くなっていく灰色の空。
 彼の元へ飛び出していくまでずっと眺めていたこの空。
 大嫌いだった。
 でも、懐かしい。

「アスカ、クリームソーダ飲んでいきましょうか?時間はまだあるんでしょ」

「わっ!ホント?」

 歓声を上げたアスカがユイを仰ぎ見る。
 
「飲んでいらっしゃい。おばさんは掃除とか色々あるから。あの…」

 ユイはキョウコの顔を見る。
 彼女は素知らぬ顔で線路の方を見ている。
 なんと呼ぼうか、その答を欲しかったユイだが、そういう対応をされては仕方がない。

「アスカちゃんはお母さんと一緒に喫茶店に行ってらっしゃい。シンジはまだ眠りそうだから」

「う〜ん、ママとお母さんとシンジと、み〜んな一緒がいいよぉ」

「わがまま言わないで行ってらっしゃいな。あの、お昼はどうされましたか?」

 ユイにとってはけっこう大問題。
 この2日ばかり計画外の出費が重なっている。
 もちろんそのことを周囲に気取らせてはいない。
 ところが、ユイは気付いている。
 ゲンドウも、くりさんも知ってて知らないふりをしてくれているだけだと。
 そしてこの時、もう一人その仲間が増えた。
 アスカにシンジのことを病院を出る前からずっと聞かされ続けている。
 住んでいるのは裏手のアパート。
 父親は町工場に勤めている。
 となれば、その収入はいいわけがない。
 それならば喫茶店に誘ってもそれとなく断ることは当然。
 しかし、わからないのは、その父親とやらは元医者らしい。
 ならば収入がいいはずのその仕事を何故辞めているのか。
 そこのところがはっきりしないと、戦うことができない。
 キョウコはそう思っていた。
 戦うならば正々堂々と真正面から。
 それがキョウコの信条だった。
 昔から、そして今も。
 となれば、ここはこうしないことには気がすまない。

「アスカ。今は我慢しなさい」

「え?」

 キョウコは至極自然に話す。

「クリームソーダはおやつにしましょう。その寝ぼすけのアスカのボーイフレンドと一緒に」

「わっ!ホント?嬉しい!じゃ、そうするっ」

 アスカに不満があるわけがない。

「ということで、お昼が終わったら私たちは喫茶店。あ、私は角の来々軒で食べますからご心配なく。
 その間、アスカはそちらで昼寝でもさせておいてくださる?」

 これで如何と言いたげなキョウコにユイは笑いをこらえていた。
 スポーツマンシップというのか直球勝負というか、こういうのは彼女の好みだった。
 あの変化球が一切投げられないゲンドウを愛しているユイなのだから。



 3時のおやつは喫茶店でクリームソーダ。
 百貨店の大食堂でクリームソーダは食べたことがあるが、
 喫茶店に入るのはシンジは生まれて初めての経験だった。
 駅から商店街を抜けて、アパートに一番近い喫茶店・黎明。
 オレンジ色の日除けが通りの中で眩しいほど派手で、
 シンジは当然そこに大きく書かれた店名を読むことができない。
 母親に聞いて、れいめいと読むことを知った。夜明けという意味ということも。
 店の中に入って、夜明けという店名と少し薄暗い店内にどのような関係があるのか…
 もちろん、そんなことをシンジは考えない。
 彼が今一番悩んでいるのは、キョウコのことを何と呼んだらいいかということなのだ。
 こんなことで悩むのはこのまだうら若き幼稚園児にとって初めてのことだった。
 “おばさん”“おばあさん”“お姉さん”…。年上の女性のその殆どがこの3つに分類される。
 マヤのような年頃の女性は“お姉さん”。
 クリスティーネは“おばあさん”というほどではないが、アスカの“グランマ”という呼びかけに倣ってそう言っている。
 近所の母親たちはすべて“おばさん”である。
 で、問題は目の前に座っている女性。
 見るからにアスカそっくりの容姿で、雑誌を手に少し身体を横にずらして読みふけっている。
 足を組んで座っている、その姿はシンジにとってテレビでしか見たことのないような雰囲気たっぷりなのだ。
 そう。“おばさん”と呼ぶにはキョウコはあまりにカッコよすぎるのである。
 初めて会ったときからこの苦しみは続いている。
 いや初めてのときは頭がぼけっとしていて夢うつつだった。
 苦しみはお昼寝が終わって玄関先でキョウコに真上から見下ろされた時からだ。
 少し無愛想に見下ろされているその人のことをすっと“おばちゃん”と言えなかった。
 その第一印象がアスカの母親というよりも姉の様に思えたからだ。
 だが、どこかで呼びかけないといけないときが来る。
 シンジは困ってしまった。

「どうしたのよ、シンジ。飲まないの?」

 ストローをクリームソーダに突き刺しもせずに、考え込んでいるボーイフレンドにアスカは眉を顰めた。
 この問いかけはシンジにとって渡りに船。
 すぐにアスカの耳元に口を寄せる。

「あのね、アスカのお母さんって何て呼べばいいの?」

「はい?」

 まるでウルトラマンは怪獣の仲間かと訊かれでもしたかのように、アスカが呆気にとられた。

「何よ、それ。ママはママに決まってんじゃない」

「え、でも、そんなの、僕言えないよ。僕のお母さんじゃないもん」

 うっ。
 キョウコは口に含んだコーヒーをやっとの思いで吹き出さずにすんだ。
 この子、何?
 最初に会ったときから、何かを一生懸命に考えているかと思っていたら…。
 
「いいのよ、ママで。だって、アンタ、アタシと結婚すんでしょ。そしたらアンタのママになるんじゃない」

「え…、そうなの?」

 よかった。
 今度は口に入れていたら間違いなく吹き出していたわ。
 この子、天然?
 いや違うわね。この年頃でアスカの様にませている方がおかしいのよ。
 結婚すれば母親とか父親とか兄弟が急に増えることを知らないのは当然。
 ここで、キョウコは少しだけ自嘲した。
 増えない場合もあるけどね。
 戦死したラングレー少尉と結婚はしたものの、結局彼の両親には認めてはもらえなかった。
 会ったのは一度だけ。彼の遺骨を奪い取りにきた時。
 法的にも認められている妻と娘の下に、あの人たちは夫であり父親でもある彼の遺骨を残そうとはしなかった。
 キョウコは孫の顔を見れば…などと少し期待していたのだが、彼らはそんなことに頓着しない。
 アスカも彼らを見た途端に泣き出してしまったのだし。
 その上、ジャップとナチの混血児だなどと毒づかれ、キョウコは彼の母親を平手打ちしてしまった。
 結局短い結婚生活で残されたのは、数少ない遺品とそしてアスカだけ。
 いや、それと思い出か。
 後悔はしていない。少しも。
 ……。
 さて、この子はどうするのかな?
 意識を前の子供たちに戻したキョウコは内心わくわくしていた。

「じゃ、お母さんって言うの?」

「当たり前じゃない」

「で、でもさ、お母さんって感じじゃないもん」

「んま!何よそれ。アタシのママに向ってっ。これでもちゃんとお料理もお洗濯もできんのよっ」

 あとでアスカを折檻しよう。
 キョウコは即決した。
 あまりに口の利き方が悪すぎる。お尻を三発くらいは叩いてやらないと。
 もちろん、小声で喋っているつもりの二人は、
 雑誌を読んでいるキョウコがすべて聴いているとは夢にも思っていなかった。

「ち、違うよ。えっと、あのね。だって、アスカのお姉ちゃんみたいなんだもん」

「んま!ママに向ってお姉ちゃんって何よ。ママはおばさんよ。それだったらシンジのママの方がお姉ちゃんって感じよ」

 アスカの尻叩き、後五発追加。
 雑誌を持つキョウコの手が少し強くなってページが破れそうになったことを二人は見ていない。
 
「えぇっ、そうかなぁ。お母さんはおばちゃんだよ。うん」

 子供にとって自分の親は親でしかない。客観的に見られるものではないのだ。
 ユイなどは未婚だと主張しなくてもそう見える。
 シンジやゲンドウと一緒にいるから所帯持ちだと認識されているだけだ。

「そんなことないわよ。アンタ、変なんじゃない?」

「アスカこそ変だよ。おかしいなぁ」

 会話は平行線。
 キョウコは自分が単純な人間だということを再認識していた。
 この幼児に好感を持ち始めているのだ。
 それも自分がアスカの姉のように見えると、思ってくれていることがわかっただけで。
 本当に虚栄心の塊ね、私って。
 
「シンジちゃん」

「はい!」

 いきなり声をかけられて、シンジは起立した。
 まあ、可愛い。
 一度好感を持ってしまうと、雪崩現象だった。
 
「早く飲まないと、ぬるくなってしまうわよ」

「はいっ、ごめんなさい」

 慌てて座って、クリームソーダにいきなりストローを突っ込む。
 当然、炭酸が弾けみるみる泡が上がってくる。

「わわっ!」

 さらに慌てたシンジが咄嗟に動けないでいると、キョウコがすっと顔を近づけてきた。
 そして、クリームソーダのグラスの端にそっと口をつけると、その泡をすすすと吸い込む。
 
「ふふ、いけないわよ、いきなりは」

 ぼけっとその仕草を見ていたシンジは我に返って言った。

「ごめんなさい。お姉ちゃ…痛いっ」

「あ、ごめんね!わざとじゃないわよっ」

 明らかにわざとシンジの足を踏みつけたアスカである。
 惜しかった。もう少しでお姉ちゃんと言って貰えたのになぁ。
 そんなキョウコの虚栄心いっぱいの心はその数十秒後に粉砕された。

「ほら、ママにママって言いなさいよ」

 対抗心で満ち溢れているアスカはいきなりシンジに強要した。
 脈絡も何もあったものじゃない。

「で、でも…」

「言わないと、結婚してあげないわよっ!」

「ええっ!そんなの酷いよ」

「うっさいわね。早く言いなさい!」

 シンジは内心泣き出したくなりそうな気持ちで、キョウコを見上げた。
 この人をお母さんというのは違うような気がする。
 だって、お母さんってもっと大人の人に言う感じだから。
 そこで、生まれて初めての言葉を口にした。

「ま、ま、ま、……ママ……」

 言ったきり俯いてしまうシンジを見て、キョウコは胸が一杯になった。
 こ、この感情はいったい何?
 もしかすると、この子の母親がアスカに“お母さん”って言われて蕩けた顔になってしまうのはこのこと?
 まさか、私もあんな顔を…!
 あんな無様なにやけた顔を?
 この惣流キョウコともあろうものがっ!

「はん!ほら御覧なさいよ。ママったらすっかり喜んじゃってるじゃない」

 ああ、やっぱりそうなんだ。
 う〜ん、男の子にママって言われるのもいいものね。
 彼との子供は男の子がいいなぁ。
 
「う、うん。でもやっぱり恥ずかしいよ、僕」

「そんなことは気にしなくていいのよ、シンジちゃん」

 考えるより先に言葉が出た。

「おばさんはこういう外人の顔だから、ママって言葉の方が似合うのよ。だから…」

 そこまで言ってから、キョウコは心の中で溜息を大きくついた。
 何をこんなに必死になってるんだろう。
 まあ、いいわ。別に悪いことじゃないし。
 自己完結したキョウコは、ひとまず愛娘の結婚問題については棚置きとすることに決めた。

 次の問題は、母親の財産問題。
 この子の母親がうちの財産を狙っている件。
 これはただでは済ましておかないわ。
 このおやつが終わったら、決戦よっ!



 そして、決戦の場。
 子供たちは惣流家に隔離。
 おそらく二人はお絵かきか読書か鬼ごっこか。
 遊ぶ種には困らない。何しろ二人は子供なのだから。
 その母親同士はアパートの2階、丸い卓袱台を挟んで対峙していた。
 とはいえ、ユイの方は余裕いっぱい。微笑を絶やさない。
 キョウコも対抗して自分では微笑を浮かべているはずだが、そこのところは自信がない。
 となれば無理に相手に合わせることはない。
 彼女は笑顔を引っ込めて真剣な表情で相対した。

「さぁて、じゃ話してもらいましょうか。一部始終をね」

「そうですね、どこから話せばいいのか…」

「簡単でしょ。最初から初めて終わりで終わればいいのよ」

「あら。アリスですか?」

「なんだ。知ってるの」

「はい。アリスは持って来ませんでしたけど」

 ユイはそれとなく整理ダンスの上に並べている10冊程度のの本を見やった。
 随分と読み込んでいることがわかるその装丁の崩れ。
 
「本が好きなの?」

「はい」

「なるほど、ね」

 何がなるほどなのかをユイは訊ねてはみなかった。
 おそらくキョウコはいろいろと推察したものと見える。

「じゃ、そうね、貴女とご主人の出逢いくらいからはじめてもらいましょうか」

「そんなに前から?恥ずかしいわ」

「前っていつ?」

「小学校4年生」

「このマセガキ」

「はい?」

「別に?さ、まあ、面白そうだからその恥ずかしいところからにしなさいよ」

 表情は硬いが目が笑っているような気がする。
 ユイは口を開いた。

「あれは、母と肩を並べて駅前に向かって歩いていた時でした…」



 その一時間後。
 ユイの左頬にはあの片えくぼが浮かんでいた。
 
「オ〜ケイ、そういう話ならこの私も協力してあげる」

 キョウコはニヤリと笑った。
 
「あんな場所でよければ使えばいいのよ。あのままにしておいても仕方ないしね
 但し、病院の名前だけは惣流の名前を使ってくれる?
 パパとママの思い出の場所だから。ま、多分ママは名前なんてどうでもいいって言うだろうけどね」

「名前は仰るとおりにします。でも、物凄く気前がいいのね」

「ふんっ、乗っ取られるっていうのなら徹底的に戦って、そして最後に勝つ。
 その時にはアンタの勝ち目はこれっぽっちもないわ」

 この人なら本当にそうするだろう。
 敵にならなくてよかった。
 そう思い、そして気持ちよさそうなキョウコの笑顔につられて顔を綻ばせた時だ。
 左の頬にあの感覚が生まれたのは。
 あら、6人目。
 この人と友達になりたいなぁ。

「アンタ、誕生日いつ?」

「3月30日。18年の」

「じゃ、アンタは妹。私は14年の11月21日だから」

 勝ち誇ったように笑うキョウコ。
 やっぱり年上だったんだ。
 でも、なんだか雰囲気が違ってきたような。

「ん?どうしたの。何がおかしいのよ」

「あ、ごめんなさい。だって、急に口調が…」

「口調がどうだって言うのよ」

「アスカちゃんそっくり」

 一瞬きょとんとなるキョウコ。
 そして、爆笑する。

「ははは!メッキ剥げちゃった?あのママの娘だし、アスカがあんなのよ。
 こういう口調の方が自然じゃない?」

「ふふ、そうですね」

「で、そっちはどうなの?その丁寧な口調はメッキ?」

「あの…ごめんなさい」

 頭を下げるユイに、キョウコは唇を尖らせる。

「なぁんだ、そっか。えらくおしとやかな妹ができたもんだ。ははは」

 キョウコは豪快この上ない。
 
「あの…キョウコさん…って呼んでいいですか?」

「ダメ」

「え…」

 予想外の返事に戸惑うユイ。
 キョウコはちっちっちと舌を鳴らし、指を立てて横に振る。
 
「さん、なんか付けないでくれる?キョウコって言ってよ」

「でも、私年下ですし」

「うるさい。そんなの許さないわよ」

 ユイは困ってしまった。
 ミッションスクールでもそういう教えを受けてきた。
 先輩を年上を敬え、後輩を年下を慈しめと。
 そんなユイに4つも年長のキョウコを呼び捨てにすることは出来ない。

「あの…すみませんが、それだけは…」

 断り続けるユイにキョウコは頭にきた。
 眉を上げ、卓袱台に肘を突いて掌に顎を乗せる。

「ふ〜ん、そうなの。いいわよ〜、それでもさ。
 じゃ、私はアンタのことをユイ様って呼ばせてもらうことにするわ」

「えっ」

「それとも、お姉さまとでも呼ぼうかな?どっちがいい、ねぇ、ユイ様?」

 ユイはこめかみを押さえた。
 この人はたちが悪い。
 これまで付き合ってきた人の中には一人としていなかったタイプだ。
 唯我独尊を絵に描いたような女性。
 アスカがこの母親そのままに成長するなら、シンジは苦労するかもしれない。
 ま、当人が納得しているのなら別に言うことはないがと、ユイは思った。
 
「呼び捨てします。ですから、それは止めてください」

「それって何?教えてよ、ユイ様ぁ」

 しつこい。
 嬉しそうに笑い続けるキョウコをユイは睨みつけた。

「いい加減にしてくださらないと、怒りますよ。キョウコ」

 キョウコは自分を呼び捨てにした時点でころりと表情を変えた。

「OK。できるじゃない。でも、アンタに怒られるのは止めとく。何されるか見当もつかないし」

「それはどうも」

 言葉が切れた。
 見つめあった二人は、やがて堰を切ったように笑い出す。
 まるで女学生の当時に戻ったかのように。
 キョウコは卓袱台をバシバシ叩きながら。
 ユイは仰向けになって足をバタバタさせながら。
 その笑いがおさまるまでにはしばらくかかった。



「さて、ユイ。これからどうしようか。アンタの亭主って並大抵じゃ動かないでしょ」

「ええ。難しいですよ。でも、やらなきゃ」

「ああ、面白そう!ちゃんと計画つくるわよ。そうね、碇ゲンドウサルベージ計画ってのはどう?」

「あの…キョウコ?もしかして、貴女は面白そうだから協力してくれてるだけだとか…?」

「ふふ、と〜ぜんじゃないの。こういうのってわくわくするわ」

 悪びれずもせずに、キョウコは言い切った。
 もちろんそれだけのために力を貸してくれるのじゃないことはよくわかる。
 ずいぶんと素直じゃない、少し年上の友人。
 この人とは長い付き合いになりそうだ。
 ユイはそう思った。いや、そう願ったのかもしれない。



 


 
「お母さん、お母さん、クリームソーダすっごくおいしかったよ」

 「そう?よかったわね」

 「それからね、アスカのお母さんのことをね。あのね、僕、ママって呼んだの」

 「あらま、そうなの?」

 「うん、恥ずかしかったけど、アスカのお母さんは喜んでくれたよ
  そのあと、ホットケーキもご馳走してくれたんだ」

 「まあ、ホットケーキまで!」

  しくじったとユイは心底から思った。

  仲良くなってから一緒に行き、私も奢ってもらうんだったと。





<あとがき>

 水曜日のお話のその弐です。

 喫茶店は大人が入るところ。
 そんなイメージがありました。
 ファミリーレストランなどありませんから、家族で入るのはデパートの大食堂ですね。
 で、子供は定番のお子様ランチ。
 私はあの山の形をしたオムライスに雑じっているグリーンピースが嫌いで
 お子様ランチはいつも敬遠していました。
 頼んでいたのはざるそばかな?冬でも頼んでいた覚えがあります。
 因みに阪神梅田駅の売店裏にあるジュース屋さんが大好きでした。
 いまでもあるんですよ。味も一緒かな?小さい時の味はあまり覚えてないのですが。
 本当はここの喫茶店のウェートレスとしてミサトさんが出てくるはずだったのですが、
 話が間延びするのでカット。かわいそうにミサトさんはここでの出番を失ってしまいました。
 結論から言うと、彼女はこの作品のオーディションを4回落選しています。
 一度目は伊吹湯ではなく、葛城湯でした。ただこれじゃ風邪薬に見えちゃうんですよねぇ。葛根湯(爆)。
 それにマヤの方が可憐かなと。ちゃんと出てきます。ミサトさん。それまで待っててね。

 次回は!水曜日のその参。

 

 

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