この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(6)

昭和42年4月12日 水曜日・その参


2004.9.19         ジュン

 










「この度は母の命をお助けいただき本当にありがとうございました」

 キョウコ、やり過ぎ。
 ユイは心の中で最大級の溜息をついた。
 パチンコ屋にはいなかったよと、迎えに行ったシンジとアスカが報告。
 今日は遅刻したので、その分を残業してきたのだ。
 愚直なまでに真面目。
 まずは、礼を言わねばならないというキョウコの主張はもっともなようにユイには思えた。
 実の母親の心臓麻痺を蘇生術で助けたのだから、お礼を言うのは当然。
 ただし、キョウコのお礼はあまりに芝居がかりすぎていた。

「う、うむ…」

 立ちすくむゲンドウ。
 いや、そうするしかなかったのだ。
 部屋の中に入ろうと思えば、目の前で平伏している金髪女性の背中を踏みつけねばならない。
 ここは自分の家だし、そこには愛する家族がいるから、まさか逃げ出すわけにもいかない。
 内心パニック状態だが、外見はそうは見えないのがゲンドウのゲンドウたる所以だ。
 キョウコはくどくどと大時代的な礼を言い続ける。
 しかも土下座をしたままの格好だ。
 いかにもプライドの高そうな彼女がそんな真似をするとはユイには予想もできていなかった。
 もっともキョウコには大きな二つの理由があったから平然とそうしたまで。
 ひとつはやはり母の命を助けてもらったのだ。どんなに礼を言っても言い足りるものではないから。
 そして、二つ目は反応が面白そうだから。
 それにキョウコが命名するところの“碇ゲンドウサルベージ計画”においては、
  ゲンドウの頑なな心を揺さぶらなければならない。
 そして、キョウコは続けざまにもう一撃を放った。
 頭を床につけたまま、背後の娘にきつい調子で告げたのだ。

「これ、アスカ。貴女もきちんとお礼を申し上げたのですか?ここに来て御礼を言いなさい」

「うんっ」

 ちょこちょこと奥の部屋から歩いてきて、母親の隣にぺたんと座る。
 にっこり笑いながら、ゲンドウを見上げてこう言った。

「グランマを助けてくれてアリガト。お父様」

 そしてばたんという様な凄い勢いで頭を下げる。
 金髪の母娘に土下座をされてゲンドウは言葉を失い、そして助けをユイに求めた。
 そのユイは思っていた。
 アスカちゃんの“お父様”はまずかったわね。
 パニック状態だったから聞き流してくれたけど、もしその言葉を認識していたら
 もう舞い上がってしまって計画どころじゃなくなっていたものね。
 まあ、どちらにしても一筋縄ではいかないはずだけど。

「いや…まあ、人として当然なことを…したまでだ」

 うんうん、当然そう言うしかないわよね。

「いえいえ、普通のお方では間に合っていませんでしたわ。
 もしかすると、貴方様は医療の心得があるのではございませんでしょうか?」

 お前、喋ったのか!と言わんばかりにゲンドウがユイを睨みつける。
 もちろんユイは慌てて首を振る。
 喋ってないわよと無言でアピールし、大嘘を塗り固めた。
 ユイの面の皮はかなり厚い。

「聞けば、工場にお勤めとか。それなのに、心臓麻痺の蘇生術を…」

 キョウコの言葉は宙を彷徨った。
 相手が姿を消してしまったからだ。

「パチンコ、だ」

 それだけを言い捨ててゲンドウはあたふたと外に飛び出した。

「あ、逃げた」

「ええっ!ここまでしたのに!」

「やりすぎなのよ、キョウコ。そんなやり方じゃあの人恥ずかしがってダメよ」

「あ〜あ、土下座なんて生まれてこの方したことなかったのにぃっ」

 悔しがることこの上ないキョウコだったが、
 その陰でただひとつだけは確認できた。
 彼女はシンジを見つめる。
 つるんとして可愛い顔。
 お願いだからママの方に似てよね。あんなのにならないでよ。
 そう願わずにはいられないキョウコだった。
 彼女は面食いだったのである。

 面食いではないユイは考えた。
 ゲンドウの心の重荷になっているのは、やはり交通事故で死んだ女性のことだ。
 母子家庭で保険にも入っていなかった上に、ひき逃げで犯人は未逮捕。
 そのために賠償金もない状態。
 もちろん、ゲンドウはひき逃げでなくても償おうとは考えていたのだが。
 ユイは結局その娘さんとは会えなかった。
 東京の全寮制の高等学校にいるとかで、
 ゲンドウも弁護士に頼んで育英金という名目で彼女に毎月の生活費と教育の費用が渡るようにしている。
 家や資産を売り払って彼女が大学を卒業できるまでは面倒をみるくらいの金額にはなっていた。
 その娘に力を貸してもらうわけにはいかないだろうか。
 そのためにはまず彼女を探し当てないといけないわけだが。

「あの…キョウコ?お願いがあるんだけど」

 行動力や組織力はユイにはない。
 となれば、このできたばかりの友人に頼まざるを得ない。

「ダメよ。私にはやることがあるんだから」

 新しい友はそっけなく答えた。
 まだお願いとしか言っていないのに。

「私、東京に帰る。その被害者の娘を使って、あの無愛想面をぎゅって言わせてやるわ」

 夫に対する暴言は聞かなかったことにしようとユイは決めた。
 でも、考えていたことは同じだった。
 
「アスカは置いていくから。花嫁修業でもさせておいて」

「うんっ!任せといて!」

 ユイが答えるより先に隣でぺたんと座り込んでいるアスカが手を上げた。

「シンジっ!アンタはお婿さんの修行をすんのよ!」

「修行て何?」

 幼稚園児には当然の質問だった。
 同い年の幼女にわかるように説明できるわけがない。

「修行は修行なのよ!えっと、ほら美味しい料理をつくったり、洗濯を上手にしたり…」

「アスカ、それは花嫁修業の方よ。アンタがするの」

「ええっ、やだやだ。私、食べたり、お洋服着たりする方がいい!」

「ユイ?こんなお嫁さんじゃ困るでしょ。結婚させるのはやめる?」

 もちろん、ユイが答えるより先にアスカが立ち上がって抗議する。

「ぐわっ、だめだめ。私シンジのお嫁さんになるんだもん!」

「じゃ、アスカもしっかり修行しなさい」

「ぐぅ…」

 唇を尖らせてアスカは母親を睨みつけた。
 その母親はさっさと玄関で靴を履きはじめる。

「じゃ、私行くわね」

「まさか今から東京に?」

「と〜ぜん!タイムイズマネーでしょっ。夜行に乗って、明日の朝一番から動き回らなきゃ」

「ごめんなさい」

「何言ってんのよ。絶対に日本を離れる前に何とかするわよっ。アスカ元気でねっ。シンジちゃんよろしくねっ」

 キョウコは誰の返事を待っていなかった。
 言うが早いか、もう階段を駆け下りる音が聞えてくる。
 かんかんかんかんっどすっ。
 最後の音は足を滑らせたのかそれとも飛び降りたのか。
 とりあえず飛び降りて見事に着地したことにしておこう。
 そう決めたユイは膝を上げた。
 
「シンジにアスカちゃん、あの人を迎えに行ってきてくれる?もういないからって」

「うん、わかった」

「いないってママが?んまっ!失礼なっ。とっちめてあげるわ」

「お父さんをいじめちゃイヤだ」

 アスカは少しだけ泣き出しそうなそのシンジの声に安心させるように微笑んで見せた。
 
「だいじょ〜ぶ。ぶったりなんかしないもん。お父様って言ったらシンジのパパが困るんだって」

「どうして?」

「そんなのわかんないわよ。ママがそう言ったんだもん」

「ふ〜ん、そうなんだ。きっと嬉しいと思うけどなぁ」

 首を捻るシンジ。
 彼には照れくさいというゲンドウの気持ちはまだわからない。

「じゃ、お願いね。車には気をつけて」

 二人が出て行くのと入れ違いに、キョウコが飛び込んできた。
 
「はい、家の鍵。それから、これは金庫の鍵ね。
 隠し金庫だから場所は泥棒が入っても見つけにくいと思うけど、念のため金庫と鍵の場所は分けとくわ」

「私が預かってていいの?くりさんに渡しておきましょうか?」

「いいの。病院の金庫よりアンタの方が信用できる。ま、盗みたかったら金庫を家捜ししてごらん」

「ありがとうございます。やってみます」

「どうぞどうぞ。じゃ、ね。また連絡…って電話はないのよね。う〜ん、じゃママに連絡するわ。
 見舞いに行ったときにママに聞いて。どうせ毎日行ってくれるんでしょ」

「ええ、そのつもり」

「じゃ、ママと娘をよろしくね。東京の方はこのキョウコに任せておいて!」

 にやりと笑いだけを残して、キョウコは姿を消した。
 まるでチェシャ猫みたい。
 アリス。また読んでみたいなぁ。貸し本屋さんにあるかしら?
 あ、惣流家にあるかも。
 キョウコは身体ひとつで飛び出したって聞いたから。
 きっと本とかは残っているわ。
 よぉし、明日はお掃除ついでに家捜し家捜し。
 金庫なんてどうでもいいけど、本は楽しみ。
 どんなのがあるのかしら。

 よほど嬉しかったのだろう。
 顔を火照らせたゲンドウが両の手を子供たちにしっかり握られて帰ってきたとき、
 ユイはすこぶる上機嫌だった。
 あまりの機嫌の良さにゲンドウは鯨のフライを胃袋に片付けてから訊ねてみた。
 すると、惣流家の蔵書を読ませてもらうのだと嬉しそうに答えてきた。
 その笑顔にゲンドウは身を切られるような痛みを覚えた。
 あの町を出る時に、ユイはあの蔵書から見るとわずかな数の愛読書しか持ち出さなかった。
 まるで小さな図書館のようなユイの本棚に納めてあった書籍はすべて学校に寄付した。
 どうしても売却するのは許して欲しいと、泣きながら頼まれたのだ。
 持って行くのは少しでいいから、残りは学校とかに寄付したいと。
 妻の気持ちは何となくわかるような気がした。
 自分の好きなものをお金で換算されたくない。
 ほとんどわがままを言わないユイの頼みだ。
 ゲンドウがだめだというはずがなかった。
 もとより家や資産を売ってしまうということ自体がゲンドウの言わばわがままなのだから。
 だからそれから毎日、ニコニコと笑いながら本の整理をするユイを見ることがたまらなく辛かった。
 そんなゲンドウの背中にユイは飛びついて、髭だらけの頬にスベスベした頬を摺り寄せる。

「そんな悲しそうな顔しないの。私今凄く楽しいのよ。
 これは小学校にしようか、それとも幼稚園か。これは学園の高等部にしようとかね。
 自分の好きだった本を少しでも多くの子供に読んで欲しいんだもの。
 こういうのが楽しいってのは、ご本を読まないお髭のゲンちゃんにはわからないかな?」

「お、俺だって本くらい読むぞ」

「まあ、どんなのを?」

「そ、それはだな…」

「医学書とかそういうのはダメですよ」

 先に決め付けられて、ゲンドウは言葉を失った。
 そして、かくんと首を折った。

「すまん」

 一世一代のウケを狙おうとしたゲンドウの目論見は敢無く潰えた。
 そんなゲンドウの様子を見て幼女のように嬉しそうな顔で笑うユイ。

「それにね、これ見て」

 ユイは足元に置かれた大きな旅行鞄を指差した。
 
「なんだ、これは?」

「この中にはね、私の大事なものが一杯詰まってるの。
 これだけはもって行きたいの。いい?」

 断れるわけがない。
 きっと中にはぎっしりと本が詰まっているのだから。
 ゲンドウは重々しく頷いた。感謝の気持ちを込めて。
 だが、その中には本は詰まっていなかった。
 中身が何かわかっていたら、ゲンドウは決して首を縦には振らなかっただろう。
 

 それがもう2年前のこと。



「シンジっ!赤影見る?」

「当たり前だよっ!」

 先週始まったばかりの特撮番組があと15分ばかりで放送される。
 『仮面の忍者赤影』。
 ただし、碇家の白黒テレビでは赤も青もあったものじゃなかったのだが。
 それでもシンジは堪能した。
 敵の忍者も面白かったし、何より赤影と大ガマの対決には手に汗を握った。
 因みにこっそりユイも手に汗握っていたのだが。

「じゃあさ、うちで見ない?カラーだよ」

「え……」

 白黒が当たり前と思って…いや、思うことで両親を悲しませたくないとしていたシンジだったが、
 この誘惑は強烈である。
 目と鼻の先にある家にカラーテレビがあり、
 さらにそこの娘であるアスカに一緒に見ようとせがまれているのだ。
 赤影の赤い仮面が赤で見られるのだ。
 彼がつい両親の顔を見てしまったのは仕方がない。
 ユイは優しく首を横に振った。
 今日はキョウコが来ていたので、お風呂にまだ行っていない。
 赤影を見てからにしても、隣に行ったりなどしていてはいろいろ手間がかかりすぎる。
 子供たちだけで夜にあの家にいさせるのも保護者としてはよくない。たとえ30分にしても。
 お風呂をやめるという手もあるが、病院にいったり何かと汗も掻いているので銭湯には行った方がいい。
 惣流家のお風呂の入り方はわかるが、沸かし方がわからないかもしれない。
 変に使ってガス爆発でも起こしたら大変だ。
 したがって、子供たちには我慢してもらおうと考えたわけだ。
 
「行って来ればいい」

「でも、あなた」

「お前が一緒に行ってやればいい。風呂はそれからみんなで行こう」

「だけど、それじゃ遅くなりますよ。子供たち眠ってしまわないかしら」

「大丈夫!いっぱいお昼寝したもん」

 ゲンドウは小さな咳払いをし、そしてユイに温かい目を向けた。

「行って来なさい。ついでと言ってはなんだが、本も見てくればいいではないか」

 この言葉はユイを誘惑した。
 明日調べてみるつもりだったが、やはり少しでも早く見てみたい。
 どんな本があるのか、それを考えただけでも胸がどきどきする。
 そして、彼女はあっさりとその誘惑に乗った。

「ありがとう、あなた」

 卓袱台の向こう側に胡坐をかいているゲンドウのところまですすすっと膝を進めると、
 髭だらけのその頬にユイは軽く唇を寄せた。
 ちゅっ。
 そして、鍵を手にそそくさと出て行く。

「早く来なさい。二人とも」

「あ、待ってよ、お母さん!」

「んまっ!大人の癖にちゅってしたわね。子供が見てるのに」

 アスカがゲンドウを見ると、ほんの少しだけ頬が赤く見える。
 彼女はにやりと笑うとゲンドウの肩をぽんぽんと叩き、シンジの背中を追う。

「ああ〜ん、待ってよぉ!」

 ぽつんと残されたのはゲンドウ一人。
 彼はくちづけられた頬を指の腹で撫でると、満足げに息を吐いた。
 子供の見ている前でキスされるなど初めてのことだ。
 なかなかいいものだが、やはり顔から火が出るほど恥ずかしいのでやめてほしい。
 いないところでなら存分にしてもらって結構だが。
 もしユイがいれば「いやらしそうな顔で笑うな!」とでも言われそうな微かな笑みを浮かべるゲンドウだった。



「うわぁ、凄い!」

 書斎とでも言えばいいのだろうか。
 片面の壁に書籍がぎっしり詰まっている。
 ユイの家も小さな図書館と友達に言われていたくらいなのだが、惣流家はスケールが違う。
 5mくらいの幅の壁面がすべて本なのだ。
 その真ん中に応接セットが置かれていて、逆側の壁には窓と写真が貼られている。
 おそらくはこの写真が一杯貼られているのはクリスティーネの外国人らしい趣味だろう。
 窓の下には大きなステレオセット。スピーカーの上にはおなじみの白い犬の置物が置かれている。
 ユイの家にもひとまわり小さなステレオがあり、やはりそこには白い犬が置かれていた。
 ただし、ふたまわりくらい小さな。

「くそぅ、うちのニッパー君より大きいじゃない。後藤電気の大将、一番大きいのを差し上げますって…。
 騙されたっ!」

 言葉は悔しげに、しかし表情は嬉しげに、ユイは犬の背中を撫でた。
 すべすべとした陶器特有の少し冷たい感触。
 うちのはステレオと一緒に持っていかれたのかな?
 冷静な風に装っていたが、実際は声を上げて泣きたかったのだ。
 だがそんなことをすれば、いや少しでも悲しげな表情をすれば、ゲンドウにすぐに悟られてしまう。
 そこでずっと微笑を絶やさずにあの町を出たのだ。
 シンジも母親の心を察していたのか泣いたりはしなかった。

「まったく親孝行な息子だこと。もうちょっと子供っぽくてもいいのよ」

 開け放たれた扉の向こうから、廊下を渡ってシンジとアスカの歌声が聞える。

「手裏剣しゅっしゅっしゅっしゅしゅうっ!」

 その歌声にユイは優しげな微笑を浮かべた。
 そして、ゆっくりと本棚の方を見る。
 真っ先にそこを見るのはもったいないような気がして、まわりをまず見たわけだ。
 ゲンドウの背よりも高い本棚。
 そこにぎっしりと書籍が詰まっている。
 下の方は重そうな辞典と、おそらく幼き日のキョウコが読んでいたのだろう、
 たくさんの絵本がいかめしい装丁の辞典と同居しているのが微笑ましい。
 真ん中辺りにはハードカバーと文庫本が並んでいる。

「へぇ…惣流家の人ってこういう趣味があったんだ」

 江戸川乱歩、横溝正史、木々高太郎といった日本人から、
 ポー、ドイル、クリスティ、カーなどの外国人までずらりとミステリー小説が並んでいる。
 キョウコもこういう類のを読んでいたのかしら?
 ジュブナイルの少年探偵団シリーズもあるところを見ると、どうやらそのようだ。
 ということは、今東京へ向かっているキョウコの心中はすっかり名探偵気分なのかも。
 ユイはこの手の小説は少年向けに翻案されたものしか読んでなかったので、
 そのうち借りて読んでみようかと思った。
 そして、首を上げると、上の方は背表紙に洋文字が。

「わっ、洋書?」

 あってもおかしくはない。
 クリスティーネは私は日本人だと怒るだろうが、元々ドイツ人。
 その彼女と恋を語ったであろう今は亡きご亭主も語学には堪能だったに違いない。
 生粋のアメリカ人と結婚したのだから、キョウコも英語やドイツ語はぺらぺらなのであろう。
 アスカがその二ヶ国語を日本語と同様に喋っているのだから。
 ユイはその洋書に手を伸ばそうとしたが背が届かない。
 ソファーを引きずってこようかとも思ったが、そこまですることはないかと今は手の届く場所の本を見回す。
 
「ああ、あった。アリス」

 キョウコの言葉に出てきた『不思議の国のアリス』が見つかる。
 その本を取り出し、ぺらぺらとめくってみる。
 最初は立って読んでいたが、だんだん本に引き込まれてしまいソファーに腰を下ろす。
 何度も読んだ本だが、やはり面白い。
 彼女は時間を忘れて『アリス』に没頭していた。



「おい。子供たちが眠ってしまうぞ」

 ゲンドウの声にユイが顔をもたげる。

「はい?」

「もう8時を過ぎているぞ。風呂はやめるのか?」

「えっ、もうそんな時間?」

 壁の時計を見ると、確かに短針は8を過ぎ長針は5のあたり。

「あらっ、いけない!」

「ふん。相変わらずだな」

 ゲンドウは本の世界に飲み込まれてしまい家事を忘れることがよくあった、あの頃のユイを思い出していた。
 そして、自分よりも背の高い本棚を見上げる。

「これはまた、凄いな」

「でしょ」

 大切そうに本を閉じると、ユイは元の棚に戻す。

「ねぇ、上の方の洋書とってよ」

「子供たちが待っていると言ったぞ」

「ねぇ、少しだけ。お願い」

 ユイにお願いされて逆らえるわけがない。
 ゲンドウは中に足を踏み入れた。

「どれだ?」

「ここからじゃ題名なんか読めないわ。適当に、お願い」

「うむ」

 ゲンドウは手を伸ばした。
 ハードカバーを3冊ほど引き抜く。
 それを手元まで降ろした時、彼は長く息を曳いた。

「どうしたの?見せて」

 ゲンドウは無言でユイに本を手渡し、そして部屋を出て行った。
 怪訝に思った彼女は本を開いてみる。
 医学書だった。
 ユイは唇をすぼめる。

「なるほどね、あの人も逃げられないってことかな?」

 ユイは応接テーブルの上に3冊の本を置くと、よしっと一度大きく頷くと部屋を出た。
 まずはお風呂。とにかくお風呂だ。
 子供たちが睡魔に負けてしまわないうちに。



 碇ユイは策士である。
 ただしキョウコのようにいろいろな角度から攻めたり退いたりする様な技は持っていない。
 ただ、押すだけ。
 その夜も彼女は押した。

「え?じゃ、あなたは私にこの暗い夜道を歩いて行けと仰るのですか?」

「すぐそこではないか」

「もし、惣流さんのところに痴漢が潜んでいたらどうなるのですか?
 私は操を守るために舌を噛んで自害しないといけないということですね」

「俺が窓から監視を…」

「それに大事なことが。私の背では届きません」

「ならば二人で」

「この子達を置いてはいけません」

 ユイの視線の先には小さな洗面台に頭をくっつけるようにして歯を磨いているアスカとシンジがいる。
 眠るのはやはりアパートでみんな一緒にということになったのだ。
 アスカはともかくシンジの方はすでに目がとろんとなっている。
 
「さあ、いってらっしゃい。テーブルの上に置いたままにしてますから」

 ゲンドウはまだ何か言いたげに口を動かしたが、あきらめた。
 軽く溜息を吐くと無言で部屋を出て行く。
 その背中を見送り、ユイは笑顔を引っ込めた。
 真剣な面持ちで、ゆっくりと奥の部屋に向う。
 そして、しっかりと閉められているカーテンの端をそっと握りしめた。

「お母さん、おやすみなさい」

「グンナイ、お母さん」

「おやすみなさい」

 アスカの布団は夕方のうちに惣流家から運び込んでいた。
 シンジの布団よりも少し大きめだが小さな4畳半でも二つはゆったりと並べることができる。
 早速横になった二人の頬を順に撫でると、ユイは電灯のスイッチを捻った。
 そして、6畳間の灯りを襖で遮る。
 すっかりと暗くなる部屋。
 ユイはその暗闇の中をもう一度窓際に向った。
 カーテンの隙間を少しだけ広げて、目の前の惣流家の様子を窺う。
 玄関の電球が点いている。
 そして、しばらくすると二階の一室の電気も灯った。
 蛍光灯の白い灯りが窓を浮き立たせている。
 その部屋があの本棚のあった部屋。
 お願い。消えないで、電気。
 ユイは一生懸命に祈った。
 10秒、20秒。
 ただ本を戻すだけなら、30秒も経たずに電気は消えるはずだ。
 あの人は医師の仕事が嫌いになったわけじゃない。
 ただ責任を感じすぎているだけ。
 それだけのはず。
 だから…あの医学書には興味があってもおかしくない。
 ちょっとだけでもページをめくる気持ちが起きてくれたら…。

 それからきっちり4分半後。
 その部屋の電気が消えた。
 ユイは溢れる涙を拭って、静かに6畳間へと歩いていく。
 もうすでに幼い二人は寝息をたてていた。
 襖の向こう側は白い灯りに包まれ、目が痛いほど。
 さてと、顔でも洗って涙を隠さなきゃ。
 ばしゃばしゃと顔を濡らしながら、ユイは思う。
 もし、医学書を読んでなくてニッパー君とかを触っていたのなら…ただじゃ済まさないんだから!



 



  いかん、読んでしまった。
  もう二度とあの仕事はする気はないのに。
  こんなことではいかん。
 
  つい医学書を読んでしまったゲンドウは、
  自戒を込めて自らの頬を軽く拳で打つ。
  そして、本を元の場所に戻した。

  部屋の電気を消そうとした時、
  壁に貼られた写真が目に入る。
  若き日のクリスティーネとその夫。

  なんと、美しい。
  そう思った瞬間、心の中でユイに向って手を合わせた。
  ただ、その美人の隣に立つ故惣流医師の顔を見た途端、
  ゲンドウはすこぶる不愉快になった。

  何故なら、彼は素晴らしい二枚目だったから。

  部屋の電気は消え、かすかな溜息だけが残った。





<あとがき>

 水曜日のお話のその参です。

 ニッパー君。ご存知ですか?
 今は家電量販店で電化製品を買うのが普通になってしまったのであまり彼の姿を見ることがありませんね。
 ただ年配の方の家に行ったら、テレビや大きなステレオのところにちょこんと座っているのを見たことがないでしょうか?
 VICTORのステレオやテレビを買えば、電気屋さんに貰えたんですよ、あの当時。
 実は私も家電販売をしていた時によくお客さんに言われました。
 「ニッパー君くれへんか?」と。メーカーさんに頼んでもらったりしてましたねぇ。
 うちの実家にも小さいのがいたのですが、震災を生き延びたかな?
 なにしろ陶器製ですからね、落ちれば簡単に割れてしまいます。
 白い毛並みで少し首を傾けてちょこんと座っている、あのデザインは秀逸でした。
 グリコのタイムスリップシリーズで出ないかな?ニッパー君。

 私は『ウルトラマン』のあとは『仮面の忍者赤影』にスライドしたくちです。
 好きでしたけど『キャプテンウルトラ』は『ウルトラマン』ほどのめり込まなかった。
 赤影のお茶碗は小学生の間ずっと使ってましたねぇ。
 先日、実家の引越しの際に食器棚の奥から発見。
 しばし、時間が止まってしまいました。

 次回は!木曜日。

 

 

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