この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(10)

昭和42年4月16日 日曜日


2004.9.23         ジュン

 










 ゲンドウは複雑な表情をして立っていた。
 その隣でユイは笑いを堪えていた。
 まるで小学生が宿題を忘れて怒られているような雰囲気だからだ。

「へぇ、それじゃアンタはうちの診療所を貸せと。そう言いたい訳だ」

「貸せとは言ってない。俺を雇えと言ってるんだ」

「やなこった。誰がアンタみたいな仏頂面を雇うもんか」

 クリスティーネはベッドの上でそっぽを向いた。
 約束が違うとユイは言いそうになったが、ぐっと堪えた。
 相手はくりさんだ。あのキョウコの母親で、アスカの祖母なのだ。
 どう出るかなど予想できるわけがない。

「そうか。では余所を探す」

「ふん、無愛想の上に短気か。そんな医者を雇うような酔狂な病院があるもんか」

「うむ、それはそうだろう」

 ああ、この人ったら納得してるよ。

「だったら自分でやれば良いじゃないか。私はアンタなんか雇いたくないからね。
 自分で勝手にやれば良いのさ。そうだね、廃工場の方を改築して住処でもつくるんだね。
 私は家賃をいれてくれればそれでいいよ」

「ふん、改築だと。そんな金があるか」

「へぇ、最近の改築は店子の方が費用を持つのかい?
 そいつは初耳だ。大家は濡れ手で粟というわけか」

 クリスティーネは明らかに会話を楽しんでいた。
 ゲンドウはというと、会話など楽しむというものではない。

「アンタはこっちでは医者をしたことがないんだ。
 私に任せておけばいい。医師会やら何やら面倒くさい手続きが一杯あるからねぇ。
 それに薬の会社とのやり取りもあるし、看護婦も必要だ。
 どうせ前はユイさんとこに居座ったんだから、開業医の初歩なんてわからないんだろ?」

「む…わからん。まったく」

「まったく何て医者なんだろうね。恐れ入るよ。ユイさんや」

「はいっ」

 急に話を振られて、ユイも直立不動になってしまった。
 これではゲンドウのことを笑えやしない。
 クリスティーネは活き活きとした目で話し続ける。

「やっぱりアンタがしっかりしないとダメだよ。
 私が退院したらアンタと一緒にいろいろ出かけるからね。
 医師会とか、役所とか、薬の会社だってそうだ。心しておくんだよ。
 前みたいに家付きのお嬢様って悠然とはしてられないんだ。
 アンタがこの診療所の中心にならないと」

「えっ!」

「おっと、妙な顔するねぇ。そんな覚悟もなくて主人の尻を叩いてたのかい?
 甘いねぇ、本当に甘い。アンタがしっかり診療所を支えないといけないんだよ」

 その言葉にゲンドウが大きく頷いた。

「その通りだ」

 ばしんっ!

「痛いではないか」

「はぁ…、まったく何て人だろ」

 ゲンドウの尻を平手で叩いたユイが病室の天井を見上げた。
 
「アンタ、それがわかっててこの仏頂面を医者に戻そうとしてたんじゃなかったのかい?」

「う〜ん、どうなんでしょう?」

 ユイは真剣に悩んだ。
 とにかく医者に戻すことが最優先で、その後のことはどこか安直に考えていたのかもしれない。

「おいおい、冗談だろ。本当に考えてなかったのかい?」

 こくんと頷くユイ。
 珍妙な表情でユイを見つめていたクリスティーネはやがて、あはははと笑い出した。
 いかにも嬉しそうに。

「どうだろ、うちのキョウコのことだけを猪だなんて言えないよ、まったく。アンタも充分猪だわ」

「私、羊年ですのに…」

「羊の皮を被った猪ね。うちのキョウコはウサギの皮を被ってるけど」

「まあ悔しい。ウサギの方が可愛い」

 ゲンドウが口を開いた。
 
「いいではないか。俺はう…」

「はいはい、丑年にぴったりのあなたは黙ってて」

 クリスティーネはにんまりと笑った。

「いいねぇ、日本は。私なんか1918年生まれなんだけどさ。向こうじゃそれだけだよ。
 こっちなら大正7年ってのもあるし、午年だよ。お馬さんだなんて本当に嬉しかったね。
 若かった時は私ゃポニーテールにしてたんだよ。あの人にもクリスの髪はお馬さんの…」

 ユイもゲンドウも言葉を挟まなかった。
 いや、挟めなかったのだ。
 二人の目の前には、ポニーテールをした20歳足らずの美しい少女が確かにいた。
 その少女は自分の恋物語を語り始めた。
 惣流医師とクリスティーネは日本へと向う客船で知り合ったらしい。
 ドイツの医学校に留学していた彼に一目惚れ。
 南十字星が見える客船の甲板で始めて交わした口づけ。
 その上、下船した時大胆にもクリスティーネはそのまま惣流医師と駆け落ちしたと。

「駆け落ち!」

「だって。仕方がなかったんだよ。パパは大使館の職員だ、となれば私も東京に住まないといけないわけよ。
 そうなったら、あのこちこちのゲルマン至上主義者のパパが私と彼の間を裂こうとするのは間違いないじゃない。
 ふふん、無理矢理彼にくっついてきたわけよ。彼も日本語のわからない私を放り出すわけにいかないものね」

 不敵に笑うクリスティーネ。
 その顔を見て、ユイはぽんと手を叩く。

「なるほど、キョウコやアスカちゃんはくりさんに似たわけか」

「ん?当たり前じゃないか。一目惚れとしつこいのは我が家の女性の伝統なんだよ」

「ふんっ」

 ゲンドウが鼻を鳴らした。
 ぷっとユイが吹き出す。

「おや、今のが仏頂面の笑いなのかね」

「ええ、爆笑。わかりました?」

「ああ、まったくわかりにくい男だよ。これから長い付き合いになるというのに…」

 クリスティーネのその一言に、ユイは片えくぼを見せた。
 
「ふん、長くなるかどうか。その心臓じゃあな」

「あなた!」

「本当のことだ。まあ、食事を変えて…」

「やなこった。私は食べたいものを食べるんだ。放っておいておくれ。
 ああ、この鰈はおいしいねぇ。鰻の方がいいけどさ」

 ユイが持ってきた鰈の煮つけを美味しそうに食べるクリスティーネ。

「そうそう、加持さんとこがくりさんが退院したら鯛の尾頭付きをお祝いにくれるんですって」

「へぇ、そいつはいいや。じゃ、明日にでも…」

「ふん、減らず口を叩く。まだ一週間はここにいてもらう」

「なんだい、偉そうに。このろくでなしが」

「ああ、ろくでなしでけっこうだ」

 ユイは涙が溢れてきそうだった。
 あれ以来無口に輪をかけていたゲンドウがこんなに喋っている。
 しかも他人にはわかりにくいだろうが、こんなに上機嫌で。
 よかったんだ、私のしたことは。



「アスカぁ、地下はダメだよ。幽霊が出てくるよ」

「わかってるわよ。あそこには行かないわよ。ここの階段を上がるわよ」

「帰り道わかるの?」

「はん!あったり前田のクラッカー。アタシは天才なのよっ」

 前回の病院探検の時には、知らずに霊安室を訪れてしまった二人。
 今日は慎重に探検をしている。

「天才のアスカでももう1本はなかなか当たらないよね」

「ん?流星バッジ?」

「うん。ひとつ当たっただけでも凄いけどね」

「へへん。凄いでしょ、アタシ」

 得意満面のアスカ。
 
「アタシってさ、運がいいのよ」

「凄いね」

 シンジに褒められると、物凄く嬉しい。
 保育園で保母さんや他の子供たちにどんなに褒められても、ここまでの喜びはない。
 ただ得意になるだけだった。
 それなのに、いつもは唇を尖らせて少し不満げに一人でいることが多い。
 それがアスカだった。
 そんなアスカをシンジは知らない。
 シンジの知っているアスカは、いつも自信たっぷりでぐいぐいと自分を引っ張ってくれる。
 そしてその場所へ自分は行きたい。
 アスカと一緒にいたい。
 もちろんシンジの年齢でそこまで自己分析ができるわけがない。
 彼が思っているのは、ただアスカといれば楽しいというだけ。
 
 毎日があまりに楽しすぎて。
 シンジはすっかり忘れていた。
 いや、忘れていたわけではない。
 アスカがドイツに行くこと。
 クリスティーネのところにはお別れのために10日ほど滞在するだけ。
 本当なら今日東京に帰るはずだったのだ。
 それがあの入院騒ぎとそれに続くゲンドウサルベージ計画でうやむやになっている。
 大人たちは敢えて口にしていない。
 アスカはもうすぐそんな時がやってくることを知っている。
 でも、完全に忘れている風に見えるシンジに言わずにいる。
 シンジが泣き出しそうだから。
 そんなことはアスカにはできなかった。
 
「アスカとお揃いにしたいなぁ」

「絶対にあててあげるわよ。シンジの分も」

「お願い。僕あたらないから」

「ま〜かせて!」

 そう宣言したのはいいが、正直言って自信はない。
 あの一枚が当たっただけでも凄い幸運だったということはアスカのような幼児でもわかる。
 だから、あのあたりはシンジに渡していこうと決心していた。
 ドイツに行けばシンジに会えない。
 それを考えると泣きたくなってしまう。
 ところがいつもシンジと一緒にいるので、アスカには泣く暇と場所がない。
 それにアスカは泣かないでおこうと決めている。
 シンジが幼稚園に行っている間に泣くことはできた。
 でも一度泣いてしまうともう我慢することができなくなる。
 アスカはそう教えられていた。
 クリスティーネに。
 病院でユイが席を外した時、祖母にこんこんと教えられた。
 悲しむのは一度きりの方がいい。
 それにシンジのことも考えてあげろ。
 別れが迫っていることを知られてしまうと、あの素直で真正直な子は打ちのめされてしまう。
 その間際まで隠してあげなさい、あの子のためだと。
 アスカはそのすべてを理解できたわけではない。
 ただシンジが悲しむ顔を見たくない。どうせ見ないといけないなら一度だけの方がいい。
 それならば自分が我慢しないといけないんだ。
 そう納得した。

「ねぇねぇ、お昼は何かなぁ?」

「う〜ん、食堂のおうどんじゃないかなぁ」

「おうどんかぁ…ま、いっか。じゃ、アタシきつねうどん」

「僕も」

 シンジが笑う。
 その笑顔を見ているとお腹がキュウと鳴る。

「アスカ、お腹がすいてるんだ」

「うっさいわね、アンタはすいてないの?」

「あ、うん。食べたいなぁ」

「はん!アンタのためにお腹を鳴らしてあげたのよっ。さ、行くわよ!」

 照れ隠しも手伝って、アスカはずんずん進んだ。
 
「待ってよぉ。置いていかないでよ〜」

 アスカは唇をへの字にしたまま、シンジに顔を見せまいと歩いていく。
 置いていきたくなんかないわよ!
 そう、心の中で叫びながら。



「ごちそうさまでしたっ!」

「アスカ、早い!」

「アンタが遅すぎんのよ」

「だって、よく噛んで食べろって」

「アタシだってちゃんと噛んでるわよ」

 並んで座っている二人を見てユイはくすくすと笑う。
 確かにシンジは少し食べるのが遅い。
 逆にアスカは食べるのが早い。
 嫌いなものはいち早く食べる上に、好きなものはさらに速度が速くなる。
 別に欲張っているわけでもなく、美味しいから食が進むという風が正しいのだろう。
 シンジの方は嫌いなものを食べることは食べるのだが、時に箸で転がしていたりもする。
 そんな食べ方をユイが注意するのだが、この数日はその役目はアスカが果たしている。

「ほら、ワカメも食べないと」

「食べないと、ダメ?」

「そんなの当たり前でしょうが。好き嫌いしてたら大きくなんないわよ。アンタ、お父さんみたいに大きくなりたいんでしょっ」

 シンジが顔を上げる。
 目の前でゆっくりうどんを食べているゲンドウ。
 隣に座るユイと頭一つくらい違う。
 父親のように大きくなりたい。
 シンジは大きく頷くと、2切れのワカメを箸でつまみ、一気に口の中へ。
 顔を歪めながら咀嚼する。

「そうそう、よく噛むのよ。すぐに飲み込んだら栄養にならないわよ」

 おそらくキョウコの受け売り。
 隣で口やかましく言うアスカに嫌な顔も見せずに、シンジは言われるがままに口を動かしている。

「はい、ごっくんしていいわよ。よくできました」

 ゲンドウがふんと鼻を鳴らす。
 そしてユイに横目で睨まれて再び丼に顔を埋める。
 普通の人間には笑われているとはわかるわけもないが、何しろシンジは実の子。
 父親に爆笑されては気分がいいわけがない。
 今はアスカに神経が集中していたので気付かなかったが。

「お口の中が気持ち悪いよぉ」

「だったらお汁を飲みなさいよ。ほら」

 丼を抱えて口を近づける。
 こくんこくんと出汁を呑むシンジに、アスカはさらにお説教。

「最後に残してるからそうなっちゃうのよ。美味しいのと一緒に食べたらいいじゃない」

「だって、せっかく美味しいのに…変な味になっちゃうもん」

「アンタ馬鹿ぁ?それじゃ最初に食べなさいよっ」

「でも…」

「もう知んないっ。ぷんっ!」

 わざわざ声に出して、アスカはぷいっと顔を背けた。
 その横顔をシンジは情けなさそうな顔で見やる。
 それでも彼は言わなかった。
 次からそうするとは。



 食事が終わり、病室に戻るとキョウコがそこにいた。
 腕組みをし、ニヤリと笑っている。

「ママっ!」

「ふふ、お久しぶり」

 一昨日に会ったばかりで久しぶりもないものだが、彼女はいかにも嬉しそうに立っている。
 ゲンドウなどは初対面の土下座以来なので、少し腰が引け気味だ。
 キョウコは朝一番に受け取った電報を見て飛んできたらしい。
 もちろん、その電報を打ったのはユイだ。
 サルベーシ゛セイコウ の10文字を見て天井に向って右腕を突き上げたそうだ。
 それから、キョウコはしきりにゲンドウをからかった。
 まるで午前中のクリスティーネのように。
 やはり母子だ。



 そして、一時間ほども談笑していただろうか。
 会話が途切れた時、おもむろにキョウコが立ち上がった。

「さ、アスカ。帰るわよ」

 その言葉を聞き、アスカとユイははっとした。
 クリスティーネは目を瞑り、微かに息を吐く。
 母と娘だけの時間にすでに話し合っていたのだ。これからのことを。
 
「ママ?帰るって…おうち?」

 恐る恐る訊ねるアスカ。
 青い瞳が不安に揺れている。
 その5歳にもならない娘に母親は笑顔を向けた。
 ただし、その目は少しも笑わずに、真剣な眼差しをアスカに向けている。
 わかっているでしょうねとの思いを込めて見つめていたのだ。
 その意図はアスカに充分伝わっていた。
 そして、ユイにも。
 
「そっか、そうなのか、はは…」

 無理にでも笑い声を出そうとしていることは大人たちにはすぐにわかった。
 ごめんね、アスカ。
 まだこんなに小さいのに無理させちゃって。
 そんな思いをキョウコは決して表に出さない。

「そうよ。もうママだって大丈夫なんだし。ドイツに行く準備をしないといけないの。わかるでしょ、アスカ」

 その言葉はアスカではなくシンジに向けられていた。
 シンジが理解できるように。アスカがいなくなることが。
 それでも、あのキョウコでさえシンジの顔を見ることはできなかった。
 彼の両親も覗き見ることを躊躇していた。
 その中でただひとり、クリスティーネだけがシンジの顔を直視していたのだ。

 この子らもまだ若いねぇ。可哀相で見ることができないってことかい?
 大人っていうのはね、こういう時こそきちんと見届けてあげないといけないのさ。
 子供にとっては生きるか死ぬかって大事だ。
 それに目を逸らしていちゃいけない。
 まだまだだねぇ、すっかり大人って顔してるくせにさ。

 シンジはわかった。
 アスカが行ってしまうことを。
 まだまだ先のことと思っていたのに、それはもう今すぐのことだった。
 丸イスにちょこんと座ったシンジは口をぽかんと開けて、そして顔を歪める。
 今にも泣き出そうとしたとき、アスカが口を開いた。

「というわけよ、馬鹿シンジ。アタシ、ドイツに行くからさ。アンタ、ちゃんと待ってんのよっ」

 イスからぴょんと飛び降りたアスカは、にかっと笑ってシンジの肩をぽんぽんと叩いた。
 
「ふふん、何よ、変な顔しちゃってさ。アタシがドイツに行くことは前からわかってたでしょっ」

 アスカは喋り続けた。
 黙ってしまうと泣いてしまいそうだったから。
 
「そうそう、流星バッジのあたり券はさ、アンタに渡しとくからちゃんとこ〜かんしとくのよっ。
 忘れたりなんかしたら許さないからね。預けとくだけなんだからね。ま、遊んでてもいいけどさ」

 手を後に組みながら、アスカはシンジの周りをゆっくりと回る。

「あ、そうだ。あの赤影の仮面はアンタにプレゼントしたげる。大事に使いなさいよ」

「青影でいい。僕…」

 ぼそりと呟いた言葉にアスカの声がつまる。
 シンジの背中の方でアスカが顔を歪ませた。
 
「あ、アタシ…」

 口がへの字になる。
 そのアスカの肩にゲンドウがそっと手を置いた。
 アスカが見上げるといつもと同じゲンドウの無愛想な顔。
 そんな顔で睨みつけていると、アスカが唇を尖らせた。

 おやおや、無愛想面にも取り得があるもんだねぇ。
 なまじ母親の優しげな顔で接しられるよりも、アスカのような子にはそっちの方がいいってわけか。
 だけど、シンジちゃんの方は…。

 シンジはボロボロ涙をこぼしていた。
 アスカがいなくなってしまう。
 もう遊べないんだ。一緒にいることができないんだ。
 もっと一緒にいたいのに!

「アスカ、行くわよ」

 キョウコが動いた。
 打開策などどこにもない。
 あるわけがない。
 アスカはまだ5歳にもなっていないのだから。

「う、うん」

 アスカは顔を上げた。
 その時には既にキョウコは外に出て行こうとしていた。
 それはアスカにとっては好都合だった。
 きっとママはエレベーターのところにいるに違いない。
 そして下りのエレベーターを呼んでおいてくれている。
 すっと外へ出られるように。
 ゲンドウとユイがアスカに頷く。
 そしてクリスティーネが厳粛な顔つきで孫娘を見つめている。
 数秒の葛藤の後、アスカはにっこりと笑った。
 そして二度ばかり頷くと、その笑顔のままシンジの前に。
 
「アスカ…」

「あはは、変な顔。安心しなさいよ。アタシ、世界一の美人になってもちゃあんとアンタと結婚したげるからさ。
 でも、浮気なんかしたらずぇ〜ったいに許さないからねっ」

 ぼんっぼんっ!

 アスカがシンジの右肩を二度突いた。
 
「うわっ」

 イスから落ちそうになるシンジに目もくれず、アスカは祖母の方を向いた。
 
「グランマ!」

「なんだい」

「いってきますっ!」

 言うが早いか、アスカはクリスティーネに飛びついた。
 ベッドに身を起こしている彼女によじ登るようにして、その頬にキスする。
 そして、すっとベッドを降りるともう一度シンジを見る。

「じゃあねっ、馬鹿シンジ!」

 返事は待っていなかった。
 いや、もう限界だったのだ。
 アスカはそのままずんずんと扉の方へ歩いていく。
 それを見て、シンジは慌てて椅子から降りようとしたが、
 彼が着地した時には扉はばたんと閉まっていた。

「あ、アスカぁっ」

 後を追おうとしたシンジは足を縺れさせて床に転げた。
 膝を強かに打ったが、それでも必死に追いかける。
 廊下に出てエレベーターの方へ走ると、丁度扉が締まるところ。
 その隙間に一瞬アスカの髪の毛の金色が見えた。

 エレベーターの中では、キョウコがアスカの頭に手を置いていた。

「アスカ、まだダメよ。アンタの好きなあの子なら追いかけてくるでしょ」

「う、うん…」

 アスカは必死に涙を堪えていた。
 大声で泣きたいのに。大暴れして泣きたいのに。
 キョウコにはアスカのそんな気持ちが痛いほどわかる。
 でも仕方がない。
 何度も結婚をあきらめようと思ったのは事実だ。
 ところがそんな弱音をさっきクリスティーネに漏らした。
 すると、真顔の母親に一喝された。
 アンタはアスカに一生消せない心の傷を残すつもりか、と。
 自分のために母親が結婚をあきらめたなどということは、
 アスカのような子には決して許されることじゃない。
 アスカのためにもここは鬼の母になりきりなさいと。
 今、キョウコも子供に戻って泣きたい気持ちで一杯だった。

 絶望に打ちのめされようとしたシンジだったが、そのまま隣の階段に走る。
 「何でだよ、何でだよ」と呟きながら、階段を降りる。
 大人だったら何段もとばしながら降りれるのにと、シンジは悔しかった。
 彼にできるのは最後の一段を飛び降りることだけ。
 やっとのことで1階に降りたシンジは正面玄関に走る。
 そこの自動扉はすぐに開いてくれない。
 シンジの体重では反応してくれないのだ。

「開いてよ、お願いだよ!」

 その場で何度もジャンプしながら、シンジは叫んだ。
 アスカと二人なら開いたのに…。
 ようやくゆっくりと開いた扉の隙間にシンジは身体を潜り込ませた。
 駅まではほんの少し。
 シンジはぜいぜい言いながら改札口へ。
 「こら、子供だけはダメだぞ」という駅員の叫びを背中に、シンジはホームに駆け上がった。
 アスカは?
 アスカはどこ?
 ホームをずっと見るが、あの目立つ髪の毛はどこにも見えない。
 電車が走ってくる音とアナウンスがする。
 反対側のホームだ。
 はっとそっちを見ると、停車する電車の向こうに一瞬アスカとその母の姿が。

「あああああああっ!」

 言葉にはならなかった。
 もう間に合わない。
 シンジの家の方へ向かう電車じゃなかったのだ。
 反対側の国鉄に乗り換える駅へ向かう方のホーム。
 地下道を通って向こうに行く頃には電車は走り去ってしまっているだろう。
 アスカ、気づいてよっ!
 シンジは意味不明の叫び声をあげ続けた。
 電車に乗り込んだアスカの頭が扉ごしに見える。
 
「ああああっ、ああああああっ!」

 開いていた窓を通してシンジの声が届いた。
 追いついてこられても振り返らないつもりだったのに、
 こんな声を出されては無条件でそっちを見てしまう。
 シンジからはアスカの顔半分から上しか見えなかった。

 シンジは叫んだ。

「さよならぁ!」

 そして、手を振る。

「さよならっ!さ・よ・な・ら・っ・!!!!」

 アスカも手を振った。

「さよなら…」

 大きな声が出ない。
 アスカは両の頬をぱしんを叩いた。

「さ、さよならあっ!シンジ、帰ってくるからねっ!アタシ、ちゃんと帰ってくるからっ」

「さよならぁっ!」

 ほんの一週間前に光の国に帰っていったヒーローに対するものよりも、
 その二人の声はさらに大きく、さらに悲痛で。

 がたん。
 電車が動き出した。
 シンジはさらに大きく腕を振った。
 
「待ってるから!僕、ちゃんと待ってるからぁっ!」

「さよなら、シンジっ!」

 最後に聞えたのはそれだけだった。
 スピードを増した四両編成の電車はあっという間にアスカを連れ去ってしまった。

 シンジはその場にぺたんと尻餅をついた。

「行っちゃった…」

 我慢していたわけじゃない。
 ただ、きっかけがなかっただけ。
 力が抜けた今、シンジの涙を止めるものは何もない。
 じわりと出てきた涙はやがて雨粒のようにぽたんぽたんとホームを濡らした。

「ちゃんと食べるから…。ワカメもほうれんそうもレバーも食べるから…。
 きらいなのは最初に食べるから…。
 だから、行っちゃイヤだ…。イヤだよぉ!」

「シンジ…」

 ユイの声にもシンジは顔を上げられなかった。
 ぺたんとお尻と両手をついて、涙と鼻水と涎がぼとぼとと落ちる。
 そんな息子の姿にユイも涙ぐんでいた。
 その母親の肩をゆっくりと歩いてきた父親は優しく叩く。
 そして、ゲンドウは息子をぐっと抱き上げた。
 乱暴な抱き上げ方だったが、すぐにシンジはゲンドウの胸に縋りついてわあわあと大声で泣いた。
 両手と両足が暴れまわる。
 しっかり抱いていないと落ちてしまいそうだった。
 息子のこんな泣き声はゲンドウもユイも初めて聞いた。

 キョウコも同じだった。
 電車の中で泣き出したアスカはべたんと座り込んで床をばんばん叩きながら泣いた。
 こんな泣き方、私したことあったっけ…。
 結局次の駅で降りて、アスカが落ち着くのを待つしかなかった。


 
 本人たちはすでに日本とドイツに別れてしまったかのように思っていたが、
 実は30分くらいの間は、ほんの300mほどしか離れていなかったのである。




 

 

 

そして…