この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 


2004.9.24         ジュン

 








(1) 昭和42年4月9日 日曜日

 ゲンドウは一番上のチューリップをじっと睨みつけていた。
 最上段のチューリップを開くと次の段の2つのチューリップが開く。
 一番上に入れることで都合15個のチューリップが開く計算になる。
 一回で10個球が出るから、巧く入れると9×15で135個増える計算になる。
 もちろんそんな計算どおりに行く筈がないわけだが、
 それでもゲンドウの場合はかなりの配当で球を手に入れていた。
 但し、いつも大勝はしない。わずかな景品を稼ぐだけ。
 仕事帰りに銭湯に行き、その足で駅前のパチンコ屋に入る。
 そして息子が晩御飯だと呼びに来るまでの30分余り。
 それだけが彼の持ち時間だった。

 慎重に一番上のチューリップを狙い、そして上から順番に開いていく。
 狙いが決まっているだけに慎重この上なく彼は指先に集中する。
 この店の半分は既に補給皿付きの台に代わっていた。
 しかし、彼はこのひとつずつ穴に入れ弾くタイプの方が好みだったのである。
 彼の娯楽はこれだけだったが、パチンコが上手かった。
 ゲンドウは30円ほどの資金で200円ほど儲ける。
 但し、彼は必ず景品をお菓子にして、時に大勝ちしたときは缶詰をそれに加えた。
 パチンコ屋としては渋い嫌な客だっただろう。
 ここを仕切っていたチンピラヤクザが一度凄んできたことがあったが、
 サングラス越しで無言のゲンドウに「ほどほどにしとけや」と捨て台詞を吐き消えただけ。
 ゲンドウがこざっぱりした開襟シャツでなければ、どう見ても幹部クラスの大物。
 格が違うと客たちは囁きあい、この奇妙な常連客はいつしかそのパチンコ屋の名物客となったのである。
 もっともゲンドウが何千円も稼ぐプロであったなら、血を見るところまで行ったかもしれなかったが。
 何しろ、彼が稼ぐのは小銭相当である。
 その小銭を稼ぐのにあんなに真剣な表情でパチンコ台に向かっているのだから、
 店の人間も常連の連中も逆に愛嬌さえ覚えてきた。

 ましてや、彼にはとても可愛い息子がいる。
 毎日午後7時前になると、彼からするとかなり重いガラス扉を押し開けて、パチンコ屋の中に入ってくる。
 長身の上に目立つ風貌をしている父親はすぐに見つかる。
 そして、その息子は実に嬉しそうな顔をして父親の真横に立つのだ。

「お父さん、お母さんがね、帰っておいでって」

「うむ」

 重々しい言葉でパチンコ台を睨みつけたまま父親はそう答える。
 それから息子を膝の上に乗せて10球ほど弾かせる。
 稀にチューリップに入ったときに父親を見上げて喜ぶ息子の顔は、
 ゲンドウに日々の疲れを忘れさせてくれるほどの特効薬にもなっている。
 この当時、子供にそういうことをさせているのを見つけても誰も何も言わない。
 パトロールの警官でさえ見て見ぬ振りをしていた時代だ。
 むしろしかめっ面でパチンコ台に悪態をつけていたオヤジでさえ、
 この親子を微笑ましく見てしまうほどだった。
 息子が打ち終わると、二人で景品交換所に行き息子が欲しいという景品を求める。
 ガムであったり、チョコレートであったり…。
 それをその場で食べずに家まで持ち帰る、その親子の姿はこの下町には何処かそぐわない。
 弁当箱が入った新聞包みを小脇に抱え、息子と手を繋いで家路を辿るゲンドウ。
 着ている服は周囲の者とは変わりはしないが、幼児であるシンジも品がよさそうな表情をしていた。
 この一家は生まれがいいのかもしれないと、常連の連中は噂をしていたくらいだった。





 その日、シンジは珍しく父親を急かした。

「何だ、今日はしないのか」

「うん、あのね、今日はね、見たいテレビがあるの」

「ん?ああ、あれか。そうか、今日は日曜日だったな」

 妻が食事の支度を始めると、ゲンドウはすっと家を出て行く。
 休みの日でも夕方のパチンコ屋詣では欠かさない。
 生活するのがやっとで息子に辛抱をさせているという思いが彼を動かしていた。
 妻から煙草代として貰っているお金をパチンコのささやかな資金にまわしているのだ。

「あれは7時からだったな」

「うん」

 ゲンドウは店の掛け時計を見る。
 6時45分。
 彼がある理由から腕時計をしなくなってもう1年半になっていた。

「時間がないな。帰るか」

「うんっ!」

 にこやかに笑う息子は愛妻にそっくりだ。
 屈託のない笑顔。
 貧乏暮らしを強いているというのに、この母子は笑顔を絶やさない。

「シンジ、おんぶしてやろう」

「えっ、いいの?」

「その方が早く帰れる」

「あっ、そうか」

 路上に蹲るゲンドウの背中に飛びつくシンジ。

「うむ、少し重くなったな」

「本当?」

「ああ、しっかりつかまっていろよ」

 そう言うが早いか、早足で歩き始めるゲンドウ。
 コンパスが長いから周りの者とは速度が違う。
 まして今は日曜日の夕方。
 街中がのんびりとしているころだ。

「今日は子供が少ないな」

「だって、今日はウルトラマンが終わっちゃうんだもん。みんなテレビを見てるよ」

「なるほど、そういうことか」

 ゲンドウは頷くと、さらに足を速める。
 パチンコ屋からアパートまでゆっくり歩いても10分余り。
 市場や小さな商店街を抜けて、こまごまとした家が立ち並ぶ辺り。
 背後に大企業の工場とその下請けの小さな町工場が控えている。
 第二次大戦でこの辺りは焼け野原になっているので、
 どんなに古い家でもまだ20年くらいしか経ってはいない。
 しかし工場の煙などの環境でどこか古臭いような雰囲気があった。
 それに家のつくりも安普請がほとんど。
 長屋にアパート、その中に聳え立つ4階建ての県営住宅が三棟。
 その団地だけが鉄筋コンクリートで、あとはすべて木造である。
 所謂典型的な高度成長期の下町の風景だ。
 この下町にも貧富の差がある。
 まずはアパートや長屋の大家が住んでいる木造の平屋住居。
 周囲を塀に囲まれて門まであるその姿は、
 明らかにこの街に住む大半の住民とは格が違うのだぞと自己主張しているようだ。
 そして商店主の店も兼ねたモルタル2階建ての一戸建て。
 これは通りに沿って並んでいる。
 その裏手の路地に入ると、そこに長屋やアパートがぎっしりと詰まっていた。
 アスファルトで舗装してあったのは、商店街と大屋たちが住む界隈だけ。
 あとは砂埃の舞う狭い道路ばかりだった。
 父親に背中におぶさり、シンジはいつもとは違う高さで町並みを見ている。
 1m違うだけでまったく別の街を見ているような錯覚すら覚えていた。
 お風呂屋さんの大きな煙突だけはその高さからでも変わらぬ威圧感を持っていたのだが。
 父親を迎えに行った時には小走りでも時間がかかったのに、
 ゲンドウの足ならばあっという間に我が家に到着する。
 こんな些細な点でもシンジにとっては父親を敬う要因になる。

 文化住宅という種別の二階建てアパートが彼らの家だ。
 第三青葉荘なる名前からもわかるように大家の青葉ゴウゾウはあと二つのアパートを持っている。
 その3つのアパートの自慢は水洗便所と台所が各部屋にあること。
 それでいて家賃の方はほんの少し上乗せしてるだけだと。
 だからこの街一番の好物件だといつも豪語している。
 その第三青葉荘の二階の一番端が碇家の城だった。
 階段の下で父親の背中から降りると、シンジは一目散に我が家を目指した。
 かんかんかんかんっ。
 階段を上がる小気味良い音が響く。
 その後を音も立てずに上るゲンドウ。
 テレビを見たいと夢中になっている我が子の背中は彼にほんの僅かな笑みをもたらしていた。
 彼を良く知るものにしかわからない深い笑みを。

「ただいまっ!」

「おかえりなさい、シンジ」

「あのねっ、お父さんにおんぶしてもらったんだよ。
 早い早い、新幹線みたいに早かったよ。ビューンって感じ」

「まあ、もう幼稚園なのに」

「だって、ウルトラマンが始まっちゃうもん!」

 シンジは手前の六畳間に行き、テレビの電源を入れた。
 ぶぉんとテレビが唸りをあげる。

「早く、早くっ」

「叩くんじゃありませんよ。余計に画面が出るのが遅くなっちゃうわ」

「うん!」

 未だに黒い画面のブラウン管を睨みつけるシンジ。
 目を逸らすと映らないような気がするのだ。

「戻った…」

「あら、新幹線さん、おかえりなさい」

 ゲンドウは眉間に皺を寄せた。

「新幹線?俺が、か?」

「そうよ、シンジにはそれくらい早かったみたい」

「そうか」

「あ、ダメよ。癖になっちゃいますからね」

 時々おんぶしてやろうかと思った瞬間に妻に禁止される。
 表情に乏しいこの男の心の動きをユイはあっさり見抜いてしまう。
 だからゲンドウは妻に頭が上がらない。
 もっとも上げる気はさらさらないのだが。
 自分にはできすぎた妻だと彼は絶えず感謝していた。

「すぐ用意しますね」

「いや、後でいい」

「あら、どうして?」

 ゲンドウは答えずに部屋の中を顎で示した。
 ようやく砂の嵐状態になったブラウン管の前でそわそわしながら行きつ戻りつしているシンジ。
 その背中を見てユイは微笑んだ。

「そうね、あの様子じゃ何も喉を通りそうもないわね。終わるのを待ちましょうか」

「うむ」

 いつものように短く答えると、ゲンドウは息子の元に歩み寄る。
 そして、室内アンテナを検分する。
 油性のマジックで角度とかが書かれている。
 この時間のこのチャンネルに最適の角度だ。
 その位置にアンテナがきている事を確認すると、彼は丸い卓袱台の前にどかりと座る。

「シンジ、少し離れなさい。目が悪くなるわよ」

「うん!」

 50cmほど後退するシンジ。

「あ、始まるっ!」

 画面に出てきたスポンサーのCMにシンジは声を合わせた。

「タケダ、タケダァ〜」

 そしてタイトルが出、CMが終わり、主題歌が始まる頃には、もう先ほどの50cmの間隔はなくなっていた。

「もう、シンジったら…」

「あの姿を見ていると、やはり可哀相だな。オリンピックの時はカラーで見ていたのに」

「シンジは覚えてませんよ。私も忘れました。それに色は想像すればいいんです」

「君には敵わないな」

 ユイはふふふと笑う。

「その方が情操教育にいいんじゃないかしら?」



 シンジは両親が食事もせずに自分の背中を見ていることなどまったく知らなかった。
 いや、両親の存在など完全に忘れていた。
 時々ノイズの入る白黒の小さな画面に夢中だったのだ。
 科学特捜隊の基地の前にゼットンが現れ、そしてハヤタ隊員がウルトラマンに変身した時、
 ちょこんと正座していたシンジのお尻が持ち上がった。
 それからあとは膝立ち状態で画面の虜。

「おお、負けたではないか」

「黙って見てらっしゃい」

「すまん…」

 ウルトラマンがゼットンに倒された時、声をかけたゲンドウは愛妻にすげなくされた。
 ユイも卓袱台の上に握りこぶしを二つつくって画面を見ている。
 妻として母親としてよくできているくせに、時々こうして子供に戻ってしまう。
 ユイのそんな一面もゲンドウには愛しくてたまらない。

 やがて、科学特捜隊の手でゼットンが倒され、光の国の使者が現れる。

『私の名はゾフィー…』

 愛する息子の背中は息をすることも忘れているかのようだ。
 そして、ウルトラマンは迎えの者と一緒に宇宙へと帰っていった。
 ナレーションとともに音楽が盛り上がり、シンジが熱中していた番組が放送を終了する。
 すると、シンジはすっくと立ち上がった。

「どうしたの?シンジ」

 振り返ったシンジの目は潤んでいた。

「よかったね、ウルトラマン死ななかったよ」

「そうね。よかったわね」

「僕、ウルトラマンにサヨナラしてくる!」

「え?」

 奥の4畳半に走るシンジ。
 窓を開けて、灰色がかった空を見上げる。
 そして彼のヒーローに別れを告げようとしたときのことだ。


「さよならっ!ウルトラマンっ!」


 声がした。
 周りをキョロキョロする。

「さよなら、元気でねっ!」

 女の子の声だ。
 声の方角を見ると、目の前に立っている2階建ての家。
 その屋根の上に物干し台がある。
 見上げるとそこに黄色い服が見えた。
 シンジは目を疑った。
 いままで白黒の世界にいたのに、突然カラーテレビを見たような錯覚を覚えたのだ。
 黄色いワンピースに赤い髪の毛。
 シンジに背中を見せているその少女が大きく夜空に手を振っているのだ。
 一瞬気を呑まれたシンジだったが、彼にはやらねばならないことがあった。

「あっち?」

 突然、背中から声をかけられた少女がびくんと身体を震わせた。
 そして、恐る恐る振り返る。

「あっちでいいの?」

 この時、話しかけた相手が外国人だということをシンジは気にもとめていなかった。
 寧ろ話しかけられた少女の方が警戒していた。

「アンタ、誰?」

「早く教えてよ、ウルトラマンが行っちゃうじゃないか。あっちでいいの?」

 少女は顎を上げて唇を尖らせた。
 自分と同じことをしようと思っているのを了解したからだ。
 少女はさっきまで自分が叫んでいた方角の、星も見えない空に向って真っ直ぐに指さした。

「決まってんでしょ!ウルトラマンはあっちっ!あっちが光の国なのっ!」

「ありがとっ!」

 少女の指差した方角に向かって、シンジは大きく手を降った。

「ウルトラマン!さようならっ!」

 シンジはあらん限りの声で叫んだ。
 その声に少し驚く少女。
 しかし、思い切り嬉しそうに笑うと、さっとシンジに背中を向ける。
 そして、肺が壊れてしまうのではないかと思うくらい大きく息を吸い込んだ。

「さよならっ!バイバイっ!ウルトラマァ〜ンっ!」

 ふん、勝ったわ。
 少女はくくくと笑った。
 明らかにあの男の子よりも声が大きかった。
 だが、その勝利の思いもつかの間だった。
 背後からまたも大きな声が響いたのである。

「さよならっ!さ・よ・な・ら・っ・!!!!」

 かちんっ。
 少女は負けず嫌いだったのである。
 彼女の頭の中ではもうウルトラマンへのお別れなどどうでも良くなっていたのだ。
 赤みの強い金髪を振りかざして、少女はシンジの方に向き直った。
 そして、再びこれでもかと息を吸い込むと、馬鹿声をはりあげた少年に向かって叫んだ。

「さよならっっ!ウルトラマンっっ!」

 別に少女と張り合っていたわけではなく、
 単純にスモッグの空を突き抜けて宇宙まで届けと叫び声を上げただけのシンジは彼女の奇矯な行動に驚いてしまった。
 いや、シンジだけではない。
 ゲンドウとユイも、我が家に向かっての叫びにびっくりしてしまった。

「し、シンジ。やめなさい。近所迷惑よ」

 当然、近所迷惑だ。
 子供の叫び声はそれはよく通るのだ。
 案の定、隣の部屋の窓が開いた。

「こらっ、うるさいぞ!いい加減に…」

 上半身を覗かせ怒鳴ろうとしたステテコ姿のおじさんを押しのけて、
 隣家の小学1年生と4歳児が顔を見せた。
 そして、空を見上げて叫ぶ。

「さよならぁっ!」「ばいばいっ!」

 隣だけではない。
 あちこちの家の窓が開き、子供たちが顔を覗かせた。
 そうして思い思いの別れの言葉を光の国へ帰っていくウルトラマンへ投げかけたのだ。
 あまりの騒々しさにユイがシンジの頭上に顔を出す。
 きょろきょろと周りの騒動を見回していた少女だったが、
 ユイに気付いてふっと恥じらいの表情を浮かべた。

「こんばんは」

「こ、こんばんはっ!」

 ユイの微笑には勝てるはずがない。

「あなた…惣流さんのお孫さん?」

「う、うん。あたし、お孫さん」

 鸚鵡返しに孫だと名乗った少女はじっとシンジを見下ろした。
 ユイはその表情にあるものを感じ、自分の息子に囁いた。

「シンジ、あの子にお名前は?って訊きなさい」

「うん。えっと、お名前は?」

 シンジの質問に少女は腕を組みそっぽを向く。
 そのしぐさはシンジには戸惑いを与え、ユイには可愛い!と思わせた。

「あ、あの…」

「れでぃに名前を聞くときは自分から名乗るのがれ〜ぎよ」

「お母さん、れでぃって何?わかんないや。あれ、アメリカ語?」

「ふふふ。シンジの名前を教えてって言ってるのよ」

「あ、そうか。僕、碇シンジ!君は?」

 してやったりという満足げな笑みを浮かべ、少女は腰に手をやった。

「あたし、惣流・アスカ・ラングレー!」

 シンジはもちろん即座にフルネームを覚えることができない。
 目を白黒させて、そしてようやく言った。

「アスカ…ちゃん?」

「んまっ!れでぃをいきなり名前で呼ぶっ?!」

 ユイは可笑しくて仕方がない。
 この生意気を絵に描いたような少女とおっとりした自分の息子の取り合わせが彼女の壺に嵌ったのだろう。
 すっと部屋の中に身を下げると、騒動もどこ吹く風と「オバケのQ太郎」をぼけっと見ていた夫の背中に飛びつく。

「うっ」

「くふふふふ。可笑しいっ!」

 ゲンドウの背中をぽこぽこと叩くと、胡坐をかいていたゲンドウの腿に顔を埋めうつ伏せになった。
 そして足をバタバタさせて爆笑している。
 まだ24だから仕方がないか。
 ゲンドウは生暖かい太腿の感触に戸惑いながら、そう思っていた。
 きっと涙と涎でズボンはベトベトだろうとも。



 これがシンジとアスカの出逢いだった。
 昭和42年4月9日午後7時29分のことである。


 その夜、
 二人は何を思って眠ったのでしょう。
 今日出会ったばかりの
 あの子のことを?
 とんでもない。

 シンジは
 ウルトラマンにおんぶされて
 街中を走り回る夢を。
 アスカは
 フラッシュビームで巨大化し
 ゼットンをこてんぱんに叩きのめし
 ウルトラマンとしっかり握手する夢。

 その夜、
 いったいどれくらい多くの子供たちが
 ウルトラマンの夢を見たことでしょうか…。





(2) 昭和42年4月10日 月曜日



 翌日、碇家の部屋の扉をどんどんと叩く者がいた。
  その時、部屋に残っていたのはユイだけ。
  「は〜い、どなた?」と扉を開けると目の前には人はいない。
  あれ?っと目を落とすと金色の髪の毛が。
  咄嗟に昨日の夜の子だと、ユイはすっと膝を落とした。

「こんにちは」

  アスカは顔を赤らめながら少し目を俯かせて応じる。

「こ、こんにちは」

  ユイはまた笑いがこみ上げてきた。
  うちの息子相手にはあんなに大胆不敵なのに、どうして大人相手にはこんなにしおらしいのか。
  悪いなと思いながらもついからかいたくなってしまう。

「おばさんにご用?」

  ぶるぶるぶると凄い勢いで首を振るアスカ。

「じゃ、回覧板かな?」

  また、高速で首を振る。
  ムチ打ちにならないのかしら、この子。

「それじゃ、何かしら。もしかして、シンジにご用かしら?」

  息子の名前を持ち出した途端に、アスカの顔がぱっと輝く。
  おやおや、まさか一目惚れ?
  まあ、シンジは私に似て可愛いから、当然かもね。
  かなり自惚れた考えを浮かべながら、ユイはアスカにとっては残酷な答を返した。

「ごめんね。シンジは幼稚園なのよ」

  えっと声にならない叫びをあげて、アスカはぽかんと口を開けたまま。
  彼女はシンジが留守だという状況をまったく考えてなかったのである。
  あまりに反応が凄すぎて、ユイの心はちくりと痛んだ。
  ちょっと前置きが長すぎちゃったわね。

「でも、今日はお昼までに帰ってくるから、
 お昼ごはんを食べたらシンジにおうちまで行かせましょうね?」

  ユイの渾身の微笑みに、しかしアスカは大きく首を横に振った。



「ただいまっ!」

  幼稚園の話題はウルトラマンの最終回一色。
  僕も手を振った、私もサヨナラって言ったとみんなが主張。
  まだ入園式をしたばかりで実は初めての幼稚園生活。
  幼稚園の先生たちも収拾が付かず、騒動を治めるのにてんやわんやだった。
  もっとも当の園児たちはこれで垣根がなくなり仲良くすることができたのだが。
  これは余談。
  シンジは幼稚園が楽しかったよと母親に報告しようと勢いよく階段を上がってきたのだ。

「遅かったわね、馬鹿シンジ!」

  優しい母の笑顔が待っているはずなのに、
  扉の向こうに立っていたのは赤みがかった金髪の少女。
  実に偉そうに腰に手をやり、笑顔は笑顔でも不敵なそれを浮かべている。

「えっ!」

  玄関先でシンジが硬直してしまったのは無理もない。
  夕べは暗がりだったからはっきりと見えてなかった上に、
  物干し台の方が高かったので少女の背の高さとかもよくわからなかったのだ。
  それにあの黄色いワンピースの色があまりに鮮烈だったから。
  こうして、昼間に目の前にしてみると、まず感じたのが自分と背丈がそう変わらない事。
  そして、赤みがかった金髪がとても綺麗だという事。
  一番強烈だったのが、ガキ大将のような笑みで自分を見ていた事だった。

「何ぼけっとしてんのよ。アンタの家でしょ。早く入んなさいよ」

「う、うん。おじゃまします」

「アンタ馬鹿ぁ?自分の家なんだから、ただいまっでしょうが」

「あ、うん。ただいま」

「おかえりなさいっ。遅かったじゃないの」

「え、う、うん。ごめんなさい」

  ユイは笑っちゃいけないと必死になっていた。
  流しのところに立って、まな板に握り拳をぐっとおしつける。
  それでも肩が震えるのを抑えることができない。
  見たい、実際に見てみたい。
  でも、見てしまったら畳に転がって笑い転げてしまうのは間違いないと思う。
  そんなことをすればこのプライドの高そうな少女は絶対に傷ついてしまうだろう。
  大人なんだから我慢しなきゃ。
  だけどまぁ、これっておままごとよね。
  見てみたいよぉ。
  好奇心と節度の狭間でユイは揺れていた。

  さて、なし崩し的におままごとに突入してしまった二人は…。

「はい。お荷物をど〜ぞ」

「あ、うん、ありがとう」

「いえいえ、ど〜いたしまして」

「えっと、どうしたらいいの?」

「突っ立ってないで座んなさいよ」

「はい」

「はいじゃないでしょ。パパはもっとカッコよくないと」

「えっ、う〜んと、何て言えばいいの?」

「馬鹿ね。アンタのパパの真似をすればいいんでしょ」

「え!父さんの?えっと…うむ」

 ぶっ!
 流しでユイが吹いた。
 慌てて口を押さえたが、間に合わない。
 恐る恐る振り返ると、金髪の少女は悲しげな目で睨んでいる。

「ごめんねっ、シンジが主人の真似したものだから、つい…」

「似てたの?」

「そっくり」

「ふ〜ん、そうなんだ。アタシはパパがいないからわかんないの」

 一瞬、ユイは息を呑んだ。
 そうだったのか。
 全然気付かなかった。
 いや、だからこそ強気と内気が彼女に内在しているのだった。
 私としたことがうかつね。
 心の中でこつんとユイは自分の頭を打った。
 だがここで同情したような顔をしてはならない。
 そのことは自分にはよくわかる。
 自分もそうだったのだから。

「あらあら、でもね、うちのパパさんは普通のパパとは違うのよ」

「そうなの?」

「ええ、凄く変わってるんだから」

「ふ〜ん、じゃシンジ、アンタ別のパパできる?」

「できないよ。知らないもん」

「なんだ。仕方ないわね。じゃ、その普通じゃないのでいいわ」

「父さんは凄いんだもん。普通じゃないもん」

「はいはい」

 少女は一人前に肩をすくめた。
 この辺りのしぐさは日本人には真似できないわね。
 ユイは微笑むと玄関に向かった。

「少しだけ出てくるからお留守番お願いね」

「任しといてっ!」

 息子より先に少女の方が返事する。
 これは我が息子はかなり振り回されそうね…。
 そう思いながら、ユイは階段を降りていった。
 彼女の行き先はすぐ近く。
 表通りの惣流家。
 裏側が面しているが、碇家の文化住宅は裏通りの未舗装道路。
 惣流家は表通りにあるのだが、なぜか玄関は通りから中に入らないといけない。
 大きな玄関が表にあるのだけれども、そこは戸板で塞がれている。
 ユイはその戸板と付近の様子を今更ながらにまじまじと見た。
 どこか懐かしいような雰囲気がそこには漂っている。
 昔は何かここでしていたのね。商店じゃなさそうだけど…。
 そこを横目に見て短い脇道に。
 ここはユイのお気に入りの場所だった。
 花壇をつくっているのは他の家にもある。
 だが、ここの花壇は外国風なのだ。
 ユイが通っていたミッションスクールの中庭に雰囲気が似ている。
 花や蔦が計算されて配列されている。
 ほんの3mほどが回りの下町の光景とは明らかに一線を画していた。
 
「で、その先がどうして純和風の格子戸になるのかな?」

 思わず口に出た。
 ここに来るのは3度目。
 前の2回は二階の窓に干していた洗濯物が惣流家の裏手に落ちたため。
 惣流家の未亡人は快く洗濯物を回収してくれ、お菓子のお土産もつけてくれた。
 「私にもお宅と同じような年頃の孫がいるんでね」と優しげに笑って。
 「それじゃ毎日落としますよ」と笑うユイの肩を彼女はぽんぽんと叩いた。
 だからその2ヵ月後にまた洗濯物を落としたときは、
 ユイは真っ赤になって「わざとじゃないですよ」と切り出したものだった。
 さて、その惣流家の未亡人は白人女性。
 ただし日本語はぺらぺらだ。
 無口なゲンドウよりも日本語は達者かもしれない。
 戦前に日本人の夫と結婚し、それからずっとここに住んでいたらしい。
 ただ白人といってもドイツ人なのでそれほど肩身は狭くなかったようだ。
 ドイツは日本の同盟国だったから。
 そして、復員してきた夫とこの街でずっと暮らしてきた。
 10年前に最愛の夫を失っても。
 ユイはこの未亡人が好きだった。
 あまり外には出ないようだが、
 毅然とした雰囲気だが、その中に温かさが隠されているのがよくわかる。
 ミッションスクールにいたアメリカ人の先生のように。
 成績優秀なユイが大学に進学せずに結婚すると宣言した時、彼女だけは賛成してくれた。
 勉学だけが人の生きる道じゃない。貴女にしかできないことをなさい、と。
 ユイは自負していた。
 世界中で、ゲンドウの妻をやりこなせるのは、この私だけだと。
 
 こんこんっ。

「はい、どなた?」

「裏のアパートの碇です」

 少し重い足音がして、格子戸が開く。
 唇に笑みを浮かべ、未亡人がユイを見下ろす。
 20cmは背が高い。
 
「どうしました?洗濯物ですか?」

「いえ、お孫さんを預かってますので、身代金を要求に参りました」

 こんなジョークが通じるのかしら?
 少し不安だったが、何となく確信があった。
 未亡人は「まあ!」と口を手で押さえた。
 そして、真剣な表情でこう言ったのである。

「お昼からハンバーグって言うのは贅沢でしょうかね」



「はい、どうぞ」

「わっ、ハンバーグっ!」

「あれ?これグランマの?」

「ぐらんまって何?お店の名前?」

「アンタ、ホントに馬鹿ね。グランマはおばあちゃんのことでしょ」

「へえ、君のおばあさんの名前はグランマっていうんだ」

 アスカはあきれた顔をした。

「アンタ馬鹿ぁ?英語でおばあさんのことをグランマっていうのに決まってんでしょ!」

「英語ってアメリカ語?」

 あああっとアスカが小さな頭を抱えてしまった。
 シンジは怪訝な顔。
 この当時の下町の幼稚園児では、シンジクラスでも末は博士か大臣かと言われていたくらいだ。
 したがってアスカのレベルが高すぎるということなのだが…。
 そのアスカは明らかにいいカッコをしてみたかったようだ。
 心持ち顎を上げると、澄ました表情で口を開いた。

「ぺらぺらぺ〜ら」

 シンジの耳にはそうとしか聞こえなかった。
 ただ素直に感心して、顔を輝かせる。

「凄いや。アメリカ語?」

 アスカはしかめっ面でシンジを睨みつける。
 そして、さらに英語でべらべら喋り続けた。
 お茶碗にご飯をよそってきたユイがその言葉に耳を傾ける。

「へぇ、そうなの。お母さんは雑誌の記者をしてるの?」

 アスカが口を閉ざした。
 意表をつかれた様な顔でユイを振り返る。

「おばさん、英語わかるの?」

「少しね」

「じゃ、ドイツ語は?アタシ、ドイツ語も喋れるのよ」

 顔はユイの方を向いてるが、意識は完全にシンジの方だ。
 明らかにシンジに自慢しているようだ。

「ふふ、ミッションスクールでは英語だけだったからなぁ。でも、うちのおじさんはドイツ語を喋れるわよ」

 その言葉にアスカよりもシンジが驚く。
 
「本当?シンジのパパってドイツ語話せるの?」

「う、うん。少しね」

「私は少しじゃないわよ。ちゃんと喋れるもん」

 まだ小さな二人は気付かなかった。
 ユイが喋りすぎたと後悔していたことを。
 
「だってね、アタシもうすぐドイツに行くのよっ」

「わっ!ドイツって外国でしょ。凄いね」

 ふふんと少女は得意そうに笑った。
 
「さあさあ、二人ともお喋りしていないでいただきなさい」

「うん、いただきます!」

「いただきまぁすっ!」

 美味しいね、当たり前でしょ、などと食べながらも二人の話は続いている。
 ユイはすっと台所に戻ると、ゲンドウ用にわけておいたハンバーグをひとつお皿に入れ、それを蝿避け網の中に置く。
 惣流未亡人からは5個いただいたのだが、子供たちに2個ずつ。
 そしてゲンドウに残りの一個。
 どうせお前はどうしたと聞かれるから、お昼に食べたと嘘をつく予定。
 シンジに変なことを言われてはいけないから、さっさとご飯に漬物でお昼を食べてしまうユイ。
 今晩のおかずは、ゲンドウに余計な気を使わせないように見た目が豪華に見えるようなものにしないと。
 


 食後、アスカはシンジのお絵かき帖を発見。
 この頃の幼児のそれとご多分に漏れず、中身は怪獣、ウルトラマン、新幹線に車。
 うつ伏せになったアスカは一枚一枚をしげしげと眺め、ふぅ〜んと声を上げる。
 見られているシンジの方は正座して、まるでまるで審判を受けているようだ。
 4畳半の方で遊んでいる二人を横目にユイは6畳間で読書。
 彼女は自分の愛読書を数冊だけ持ち出していた。
 ゲンドウには旅行鞄に詰め込んできたと言ってあるが、実際には持ってきたのはほんの数冊。
 今押し入れに入っているその旅行鞄の中に何が詰め込まれているのかは、彼女以外の誰も知らない。
 妻の鞄を隠れ見るようなゲンドウではないから。
 さて、ユイは子供の時から本に親しんできた。
 暗誦できるほど読んできたが、やはり本そのものが手元に欲しい。
 少女の時に読んで虜になった「小公女」「家なき娘」「赤毛のアン」。
 そして最後に買った「青年の樹」も持ってきていた。
 この文庫を読み終えた数日後にあの事件が起きたのだった。
 この時、ユイが読んでいたのは「赤毛のアン」。
 まさか、あのお絵かき帖で息子の頭をぶちはしないだろうが、
 アスカの髪の毛の色がユイにその本を選ばせたのだろう。
 こんな下町で赤金色の髪の毛の少女に出逢うとは。何となく不思議な感じである。
 
「アンタ、ゼットンの胸の色は黄色よ!」

 お絵かき帖の最後のページ。
 昨日の夜。あの騒動の後に描いた絵だ。
 ウルトラマンとゼットン。
 ウルトラマンはきちんと赤いクレヨンを使っているが、ゼットンは黒だけ。

「え、そうなの?」

「アンタ、昨日の観てたんでしょうが」

「うん、観てたよ」

「だったらっ」

「うちのテレビ、カラーじゃないもん」

 あっと口を開けたままのアスカ。
 ユイはこの一瞬の静寂にこの少女の優しさを覚えた。
 見た目の生意気さでは「なんだ白黒なの」という言葉が出てきてもおかしくない。
 まだ小さな子供なのだ。優越感を覚えてもいいはずなのである。
 
「そっか、そうなんだ」

「うん、色はご本で見るの」

「へぇ、どんなご本持ってるの。見せなさいよっ!」

 ユイは微笑んだ。
 屈託のない息子に対して、少女は話を逸らす。
 その無骨な話の逸らし方に好感を持ったのだ。
 そんなこともわからずに、シンジはいそいそと自分の本を持ってくる。
 月に一冊くらいは好きな本を買ってあげようとしているユイだ。
 ほとんどがウルトラマンの本になってしまっているのは仕方がないだろう。
 この時期、怪獣とウルトラマンはシンジの心の大半を占めていたかもしれない。
 
「アタシ、これ持ってない。ママが漫画嫌いなの」

「お母さんが漫画を嫌いなの?テレビも?」

 アスカは唇を尖らせた。

「1時間だけ見せてくれるの。グランマの家にお泊まりするときもね、指きりさせられたの」

 不満そうに喋っていたアスカがそこでにっと笑った。

「でも、グランマは好きなだけ見てもいいって。グランマ、大好きっ!」

 厳格そうな顔つきだけど、惣流さんも孫には甘いのね。
 ユイは本に栞を挟んだ。
 今日はここまで。
 文章や展開を読んでいるのではなく、本を読むという行為自体を楽しんでいたのだ。
 
「シンジ、母さんは買い物に行ってくるけど、どうする?」

「え…」

 即座の返事を躊躇うシンジはアスカの視線を感じた。
 ぺたんと座って漫画を読んでいた彼女だったが、シンジの返事を全身で聞いている。
 もちろん、幼児のシンジにそれを察することができるわけがない。
 ただ、その場の雰囲気でまだ一緒に遊んでいたいという気持ちにはなった。
 もっともユイもそう思えばこそ、先ほどのような問いかけをしたわけだ。

「えっと、お留守番してる。いい?」

「いいわよ。その代わり、お外に出ちゃダメよ」

「任しといてっ!」

 またも返事はアスカだった。
 しかも、畳の上に立ち上がり、腰に手をやり足を踏ん張って。
 息子の方はにこにこと笑いながらそんなアスカを見ている。

「じゃ、よろしくね」

 そう言い残し、ユイは買い物籠をぶら下げて外へ。
 市場の方に向おうとすると、丁度惣流家の未亡人が玄関前の花壇に水をやっている。
 金属のバケツの水を柄杓ですくって水を撒く。
 如雨露を使った方が外国人っぽいけど、この人にはこういう姿は似合うわね。
 その時ふっと彼女の頭に浮かんだのは“麗しの花の小道”という言葉。
 ふっ、アンじゃあるまいし。それにセンスがないってアンに滅茶苦茶言われちゃいそうだわ。
 
「こんにちは」

「おや、買い物?」

「はい。お孫さんはうちの息子とお留守番をすると」

「ほう、えらく気に入ったみたいだね。シンジちゃんのことを」

 未亡人はシンジの名前を知っていた。
 話したことはなかったはずなのにと、怪訝な顔のユイに未亡人は優しく微笑みかけた。

「アスカがね、夕べ嬉しそうに教えてくれたのさ。お友達ってね」

「ああ、それで」

「今日はね、繁田さんでメンチカツが安かったよ。5つで4つ分の値段さ」

「あ、数がピッタリ。それ、いいですわね」

 ぽんと手を叩くユイに老女というにはまだ若すぎる彼女は目を細めた。
 なるほど、さっきのハンバーグは子供たちに2つと、亭主の晩御飯に1つか。
 自分は食べてないわけだ。5つしかなくて悪いことをしたわねぇ。
 しかしまぁ、良妻を絵に描いたような子ね。
 賢母の方もなかなかのようだし。
 うちのキョウコもこういう子に育っていれば…。

 クリスティーネは密かに思い、そしてそんな自分を恥じた。
 育てたのは他ならぬ自分ではないか。
 それに別にキョウコの夫は悪人ではなかった。
 アメリカ人でその上軍人だっただけ。
 ただこの街で空襲を受け、命辛々逃げ惑った記憶は消えはしない。
 B29の爆弾で家を失い知り合いを失い、グラマンの機銃掃射で幼い子供までが殺されるのをこの目で見た。
 日本軍もドイツ軍もそれに類したことはしていただろう。
 それが戦争。
 されど自分の身体で体験したことだ。
 アメリカの軍人と聞くと、どうしても身構えてしまう。
 それで強く反対してしまった。
 その結果、キョウコは家を飛び出してしまった。
 “くりさん”は結局彼女の結婚式にも出なかった。
 その次に彼女が娘と会ったときは、既にアスカは2歳を過ぎていたのである。
 喪服の娘は何も言わずに母親の胸で泣き崩れ、
 その横でアスカは見慣れぬ女性をただじっと見つめていただけだった。
 ラングレー少尉は昭和38年年末に南ベトナムへと異動し、昭和40年2月に戦死。
 アスカは写真でしか父親の顔を知らなかった。

 無理矢理にでも一緒にさせない方が良かったのだろうか?
 クリスティーネは眠れぬ夜に時々思う。
 そして、その度にアスカの写真を見て思い直す。
 この幼い子供の存在を消すような考えはいけないと。
 その後、彼女は折にふれてアスカの面倒を見に東京に出向いた。
 雑誌社で働くようになった娘の負担を減らすためという意味もあった。
 それよりも保育園で母を待つというアスカが可哀相だという思いも強かったのだ。
 しかし、このままここで暮らして欲しいという娘の訴えには首を横に振ってしまった。
 孫娘には悪いが、あの街に骨を埋めたい。
 その思いが強かった。
 それに娘にドイツ人の恋人ができたことを知った所為もある。
 その男はアスカのことも疎んじてはいない。
 新しい家庭を持つには自分のようなものはいない方が良いと判断したわけだ。
 
「あと一週間か。しばらくはアスカの顔を見ることもできないねぇ」

 蹲ったクリスティーネは掌に掬った水を静かにチューリップの葉に滴らせた。
 葉の上に浮いた水滴が集まり、葉元から茎を伝っていく。
 5月にはキョウコたちはドイツへ旅立つ。
 彼の赴任が終わり、母国へ帰るのだ。
 その時にキョウコは籍を入れ、アスカともどもハンブルグへ。
 ミュンヘン生まれのクリスティーネとしてはあんな煤臭い街と思ってしまうのだが、
 それは今住んでいるこの下町も同じこと。
 毎日が工場のスモッグに覆われた空を見上げて暮らしているのだから。
 人間はつくづく自分中心なのだと、クリスティーネは苦笑する。
 ドイツへ行かれてしまっては、もう東京にいた時のように孫や娘と会うことはできない。
 せめてアスカが結婚する時までは生きていたい。
 20年後か、もう少し後か…。
 あと20年としてその時自分は69歳。
 死んだ亭主はお前は心臓が悪くなりそうだから気をつけろと言っていたが、まだまだ大丈夫。
 早く結婚して正解だったわと彼女はしみじみと思った。
 まさか39歳で亭主と死別するとは想像もしていなかったが。
 さすがに親切なご近所も外国人への再婚の世話までは躊躇ってくれていた。
 それはクリスティーネには助かっている。
 断るに決まっているからだ。
 自分の男はあの亭主だけで充分。
 その点、娘とは考え方が違うと彼女は溜息をついた。
 どちらが正しいということは言えないと思う。
 それでもクリスティーネは自分の考えを貫く。そういう性質なのだから仕方がないと。

「よいしょっと」

 立ち上がった彼女は孫娘が新しいボーイフレンドと遊んでいるはずの部屋の窓を見上げた。
 アスカはどっちに似ているのかねぇ。
 とにかく幸せになってくれれば良いが。
 


 その孫娘はお昼寝をしていた。
 ユイが「ただいま」と帰ってくると、部屋の中は静まり返っている。
 一瞬、どきりとして首を伸ばすと、奥の4畳半に二人が寝転がっている。
 慌てて奥へ進むと、座布団を枕にして気持ちよさそうに寝息をたてていた。
 
「あらあら、お手手まで繋いじゃって。シンジも結構手が早いのかな?」

 薄い布団を二人のお腹にかけようとすると、しっかりと握っているのは金髪の少女の方の手。
 ユイはふふふと声に出して笑った。

「白人の方が積極性が強いのかもね。ああ、でも可愛い。女の子も欲しいなぁ」

 そう呟くとユイは溜息をついた。
 今の暮らしでは無理。三人が精一杯だ。
 子供が二人になると自分も働きに出ないと暮らしていけない。
 我慢しよう。
 彼女はつまらなそうに頷いて、そして買い物籠を台所へ運ぶ。
 揚げたてのメンチカツはハンバーグと一緒に蝿避け網の中に。
 それから保存がきくお菓子を水屋の中に。
 隠れてお菓子を食べるようなシンジではないが、しまい込んでしまうのは母親の習性なのだろうか。
 今日のアスカではないが、幼稚園に行き始めたのだから友達が遊びに来るかもしれない。
 そのためにお菓子を買っておいたのだ。
 


「おい、碇」

 ゲンドウが振り向く。
 社長が雑誌を手に立っていた。
 
「済まんが、ここを訳してくれんか。どうしても意味が通じん」

「あと20分待ってもらえませんか。この行程が…」

「ええで。わしが見とくさかいに」

 関西弁の同僚がにやっと笑う。
 この町工場では大学などというとんでもない学歴を持っているのが二人いる。
 社長の冬月とゲンドウ。
 一年半ほど前にいきなり入ってきた無口な男がそんな学歴を持っているとは誰も気付かなかった。
 酒も呑まず、付き合いも悪い。仕事が終わるとさっさと服を着替え帰ってしまう。
 最初はそんなゲンドウをみんな嫌っていた。
 社長が工場長にゲンドウの学歴のことをふと漏らしたこともみなの目を白くしていた。
 だが、そういう偏見はやがて消えた。
 学歴が高いので見下しているのではなく、ただ無愛想なだけだということがわかったからだ。
 その上、仕事は間違いがない。
 繊細さと粘りが要求される部署だったが、それこそ無駄口も叩かずに一心不乱に仕事をする。
 残業も厭わないし、判断にも間違いがない。
 所謂職人肌のタイプなのだと、みなが了解したわけだ。
 町工場にはそんな職人肌のオヤジが少なからずいる。
 逆にそれがわかってしまえば、そんなゲンドウの無愛想面も面白みが出てきた。
 先ほどの関西出身の男などは休憩時間などに何度もゲンドウを笑わせようとする。
 そして「今笑ったやろ?」などと茶々を入れ、場が和むほどになった。
 彼を笑わせることは難しいが、彼がいても別に変な空気にはならない。
 
 それがゲンドウには不思議だった。
 職場に溶け込んでいる自分が。
 学校にいたときは彼は異端児だった。
 小学校も大学もそうだった。
 無愛想な表情が嫌われていたわけだ。
 そのようなゲンドウでも恋はする。
 小学校5年生の時に初恋をした。
 副委員長で勉強もでき面倒見のいい女の子だった。
 ある日彼はその子に消しゴムを借りた。
 その次の日、彼はお礼だと新しい消しゴムを渡し、彼女は笑顔でお礼を言い受け取った。
 ゲンドウ少年は幸福だった。
 2日ばかりは。
 その消しゴムを同じクラスの嫌われ者が使っているのを見るまでは。

「へっ、貸してなんかやらねぇぜ。○○からもらったんだからな。へっへっへ!」

 ゴミ箱に捨てられなかっただけまし……なのか?本当にそうなのか?
 少年は自問自答し、そして自嘲した。
 もう人を好きになどなるものかと。

 そういう類の誓いは簡単に破られるものである。
 中学生になった彼は1年先輩の図書委員に恋をした。
 ただ、今度はゲンドウは何もしなかった。
 彼女を見ているだけでいい。それだけでいいと思っていた。
 ところが、ゲンドウは殴られた。
 その子のボーイフレンドに。
 もし、その相手が格好のいい男だったなら、ゲンドウも殴り返していたかもしれない。
 その頃ゲンドウは既に175cmを超えていた。
 横幅はなかったが威圧感はたっぷりのゲンドウに、そのボーイフレンドは眦を吊り上げて向ってきた。
 彼の足が震えていた。
 怖かったのだ。下級生だが明らかに自分より強そうなゲンドウに向っていくことが。
 2発殴られて、ゲンドウは体育倉庫の裏で青空を見上げていた。
 「二度と彼女に近づくな」と決め台詞を言われたような気もする。
 殴られたのに、憧れていた彼女にふられたのに、今回は自嘲癖が出なかった。
 何故か羨ましかったのだ。
 あんな風に必死になって向ってきた彼が。
 仰向けになって流れていく白い雲を見つめ、ゲンドウはできないと思った。
 憧れの彼女のためにあんな風に戦うことが。
 異性を好きになるというのはどういうことなんだろうと自問自答する。
 恥も外聞もなく、どんな相手であっても戦って獲たいということか?
 それは嫌われていても強引に…。
 ここに至ってゲンドウは自嘲した。
 結局は身体が目的ということか?
 まったく何て醜い性根のヤツなんだ、俺は。
 もう二度と恋などすまい。
 
 高校は隣の県の男子校だった。
 相次いで両親を失っていたゲンドウはこの高校の寮に入る。
 回りは男ばかり。無骨なのからなよなよとしたのまで、すべて男。
 だがいくら女性に相手はされなくても、ゲンドウに衆道の趣味はなかった。
 ところがやはり恋はする。
 今度の想い人は年上の人。
 体育の時間に柔道をしていて左腕を折ったのだ。
 その治療のために通院した診療所の看護婦に心を奪われてしまった。
 きっかけはただ「馬鹿な真似をするんじゃないわよ」と微笑まれ、つんとおでこを突付かれたから。
 喧嘩をしたために骨折したのだと誤解されたのだ。
 彼の風貌から彼女はそう思い込まれてしまったのだが、ゲンドウは怒ったりはしない。
 彼女に一目惚れをしたのだから。
 そして、またもや恋は破れた。
 一ヵ月後の夕焼けの頃、彼女と道で出くわした。
 その彼女は子供と手を繋ぎ、赤いランドセルを背負ったその子は彼女のことを「お母さん」と呼びかけた。
 結婚していただけではなく、こんな大きな子供まで…。
 六分儀ゲンドウ、痛恨の思い違いだった。
 そして、自棄になったのか何と学生服のまま駅前のパチンコ屋に突入。
 パチンコ台のガラスを割り、弁償と停学のしっぺ返しを貰った。

 ゲンドウはパチンコ台のガラスを左手で軽く撫でた。
 このあたりに拳骨を叩きつけたのだ。
 割れ方が良かったのかその時、かすり傷ひとつ拳にはしていない。
 そのかわりパチンコ屋の店員に両方の頬を殴られ口の中は血塗れになったが。
 ゲンドウはその頬も撫でる。
 すっかりごつごつになってしまったな。
 あの時はけっこうすべすべとしていたものだが…。まあ、まだ16歳になったばかりだったからな。
 苦笑した彼は指先に集中する。
 4発目で天のチューリップが開く。
 よし、今日は調子がいいぞ。
 他人にはわからない特上の笑みを浮かべたゲンドウだったが、その時邪魔が入った。

「お父さん!」

 弾き過ぎたパチンコ玉はチューリップの遥か向こうを飛び去った。
 振り返ると、そこには愛する息子。

「シンジか。うん?」

 店内の時計を見る。
 まだ6時30分。
 
「どうした、少し早いな」

「あのね、僕ね、おうちのお風呂に入るの」

「おうちの?行水か?」

「違うよ。あのね、あれ?」

 シンジが周りを見回す。

「あれ?あれれ?」

「ふん、どうした?」

 ゲンドウの“ふん”が愛情たっぷりの鼻笑いだと家族以外の誰がわかろう。
 
「あっ、いたっ!もう、どうしてそんなところに」

 ちょこちょこと入り口の方に戻っていくシンジ。
 ガラス戸の向こう側。曇りガラスになっている下半分に小さな影が見える。

「ほら、入りなよ。怖くないよ」

「だって、ママが怒るもん。あんなのは下品だって」

「下品って何?」

「知らないわよ、そんなの。でも…」

「大丈夫だって、お父さんがいるから怖くないよ、おいでってば」

 ゲンドウは嘆息した。
 あのおっとりとしたシンジがあのように積極的に。
 その相手は昨日の夜の少女だとは声ですぐにわかった。
 そしてシンジに引っ張られて通路を恐々とやってくる金髪の少女。しかも物凄く可愛い。
 これは完全にミスマッチだった。
 油びきされた焦茶色の床のあちこちに吸殻が散り、ところどころに痰が吐かれている。
 きれいな場所ではない。
 空気も悪い。工場の煙突から吐き出されているそれに比べればかなりましだが。
 それでも時々扉を開けて中の煙った空気を入れ替えねばならないのだ。
 そんな場所をおずおずと歩いてくるアスカ。
 常連客も店員も唖然とするのは仕方がなかっただろう。
 
「ふん、友達か」

「うん、アスカって言うんだよ」

 ゲンドウはアスカを見下ろした。
 アスカは半べそ。
 そんなに怖いか、俺の顔は。

「あのね、アスカのおばあちゃんのおうちのね、お風呂に入るんだよ。
 だから早めに晩御飯を食べるから帰ってらっしゃいって」

「そうか」

 ゲンドウはちらりと残り玉を見た。
 始めたばかりだから球受けには十数個しかはいってない。
 今日はあきらめよう。

「シンジ、するか?」

「え?あ、僕はいいよ。アスカがしなよ」

「えっ!」

 アスカが素っ頓狂な声を上げた。
 ゲンドウも驚いた。

「ほら、してごらんよ。すっごく面白いよ」

「う、うん…」

 そこは子供だ。
 興味はある。
 少しおどおどとしながらパチンコ台に近づく。

「お父さん、お膝に乗せてあげてよ。いつもみたいに」

 ゲンドウ万事休す。
 ユイがこの光景を見れば腹を抱えて笑ったことだろう。
 およそ物に動じない彼が困ってしまっているのだ。
 膝の上にこんなに可愛い少女を乗せる。
 そんなことをこの俺がしてもしいのだろうか?
 しかしいつまでも戸惑ってばかりはいられない。
 ゲンドウは脚を開き、シンジの定位置である右足の膝を開放した。
 息子はといえば、父親の狼狽にはまるで気付かず。
 ここにこうやって座るんだよとアスカへこまめにアドバイス。
 そして、いつの間にかゲンドウの膝にはアスカのお尻がちょこんと乗っていた。
 やっとの思いで見下ろすと、ふと見上げたアスカの青い瞳と正面衝突する。
 ユイ、すまん。
 何がすまないのか自分でもよくわからないうちに、ゲンドウは心の中で妻に詫びていた。

「アリガト…」

 小さな声でアスカが言う。

「うむ…」

 内心の動揺とは裏腹に、いつもの如き落ち着いた返事。

「ほら、こうやって打つんだよ」

 見本を示したシンジの玉はチューリップから外れる。
 
「あ、外れちゃった。あのお花を狙うんだよ、ね」

「う、うん…」

 びゅん、ちんっ。
 思い切り弾いた玉は盤の端の鐘を空しく鳴らす。

「もっと、ゆっくり打たなきゃ」

「うん」

 びゅっ、すこん。
 緩やかに打った球は盤上に辿りつかず逆戻りで玉受けに。
 
「ダメだなぁ。もう少し、強く」

「うん」

 ゲンドウはおかしかった。
 一人前にコーチしているシンジの姿が。
 その言葉を素直に受けて玉を弾くアスカも可愛い。
 このやりとりはユイに教えてやろう。
 きっと涙を流して喜ぶだろう。

「あ、入った!」

「やった!」

 ちん、じゃらじゃら。
 最後の一球で開いていたチューリップにやっと入った。
 玉受けに出てきた10個の玉にアスカは顔を輝かせた。
 そして、ぴょんとゲンドウの膝から飛ぶと、玉受けに手を入れる。

「これ貰っていいの?」

 シンジにそう訊く。
 シンジにはわからない。
 そこで父親の顔を見上げる。
 ゲンドウはしかめっ面で軽く頷いた。

「ダメだ。だが…ひとつくらいならよかろう」

「三つはダメ?」

 期待に満ちた瞳で見上げるアスカにゲンドウは苦笑した。
 やはり頷くしかない。

「やった!」

「よかったね」

「じゃ、これシンジにあげる」

 アスカはシンジの掌にパチンコ玉をひとつ置く。
 
「大事にするのよ。きれいね、ぴかぴかで」

「うん、きれいだ」

「うふふ、で、これは私の」

 アスカは自分の左手にパチンコ玉を置く。
 それをぐっと握り締める。

「それから、これはシンジのパパにあげる」

 アスカは右手をゲンドウに突きつけた。
 親指と人差し指に挟まれた銀色の玉。
 ゲンドウは右手の拳を開いた。

「はい、プレゼント。ふふふ」

 置かれた玉がころころとくすぐったく掌の上を転がる。
 ゲンドウは拳を握ると、パチンコ玉をポケットに。
 子供二人もそれに習う。
 
「では、帰るか」



 今日は昨日と風景が違う。
 昨日はお父さんの背中でいつもと違う街を見たような気分だった。
 そのことをシンジはアスカに話す。
 ゲンドウは子供たちの後ろをゆっくりと歩いていた。
 時々、ポケットの中のパチンコ玉を指先で転がしてみる。
 女の子というのもいいかもしれない。
 俺の今の稼ぎでは無理だが。
 そんな時、シンジが言った。

「肩車も凄いよ。すっごく高いんだから」

「アタシ、そんなの知らないもん。パパいないんだから」

「あ、そうか。ごめんね」

 ああ、この子はそうなのか。
 ゲンドウは軽く目を瞑った。
 そして、彼は衝動的に動いた。

「きゃっ!」

 ふわっと身体が浮く。
 アスカは空に放り投げられたのかと思った。
 だが、すぐに自分のお尻がしっかりとした場所に納まったのを感じる。
 物凄く高い場所。
 母親や祖母にしてもらったおんぶよりも遥かに高い場所。
 そこがゲンドウの右肩だとわかるのに、数秒かかった。

「しっかりつかまってなさい」

「う、うん」

 アスカは両手でゲンドウの頭にすがりつく。

「うわぁっ!高い?」

「うんっ!すっごく高いよっ!」

「いいなぁ…」

「シンジはダメだ。二人一度にはできん」

「ちぇ…」

「ふふふ、いいでしょ、シンジ!」

 アスカは明るく笑った。
 すぐ近くで聴こえる、その笑い声がゲンドウにはくすぐったかった。
 なにやら耳元が熱くなるくらいに。
 そして、アスカは思った。
 新しいパパはこんなことをしてくれるかな、と。





 シンジはぽかんと口をあけていた。
 引っ越してくる前には碇家にも家庭風呂があった。
 タイルで覆われた丸いお風呂。それは銭湯の小型版みたいなものだった。
 そのことは微かに覚えている。
 それにテレビとかでお風呂の場面を見たこともある。
 だから、外国の人は泡ぶくぶくのお風呂に入るものと思い込んでいた。
 でも、目の前にあるのは大きな木のお風呂。
 よじ登らないといけないくらい大きい。
 それにこの匂い。
 シンジはくんくんと鼻を鳴らした。

「へへへ、いい匂いでしょ」

 先に入っていたアスカが振り返った。
 さすがに5歳児。
 何も隠そうとはしていない。
 それはシンジも同様。

「うん、すっごくいい匂い」

「アタシもグランマのとこの木のお風呂大好きなの」

「おうちのお風呂は木じゃないの?」

「違うわよ。つるつるのお風呂」

「つるつる?」

 プラスチックという言葉は二人は知らない。
 プラモデルがプラスチックモデルのことだということでさえ知らないのだから。
 シンジは銭湯の表面がタイルのお風呂しかわからない。
 片や、アスカは銭湯を知らない。
 木のお風呂に並んで腰掛けて、二人は自分の知っているお風呂のことを話した。
 まるでサイコロのように正方形の惣流家のお風呂。
 その半ばあたりに腰掛がある。
 直接熱湯が当たらないような仕掛けになっている場所の上側に蓋のようにして、幅30cmくらいの板が渡っている。
 その場所がアスカやシンジのサイズには丁度いい腰掛になるのだ。
 
「ねぇねぇ、明日はそのせんと〜に行こうよ」

「え?僕は行くと思うけど?」

 ついておいでよとは言わないシンジに、アスカはぷぅと頬を膨らませた。

「アタシは行っちゃいけないってことなのぉ?」

「だって、おばあちゃんがダメって言うんじゃないの。こんないいお風呂があるんだもん」

「行くの、行くの、行くのっ!」

「う、うん」

「でね、でねっ、アタシもそのフルーツ牛乳とリンゴジュースを飲むのっ」

「ふたつも飲んだらお腹が痛くなっちゃうよ」

「じゃ、アンタがどっちか飲みなさいよ。半分っこしよっ」

 これは名案だとばかりにアスカが笑う。
 その時、扉をこんこんとノックする音。
 
「これ、早く身体を洗いなさい。のぼせてしまうよ」

「はぁい」

 いい返事を返して、アスカは舌をぺろりと出した。
 
「ね、シンジ。洗いっこしよっ!」



 



「ユイ…、その…なんだ…つまり…」

「子供はダメですよ」

 おずおずと切り出したゲンドウにユイはきっぱりと言い放つ。
 シンジはぐっすりと夢の世界。
 今日の夢はアスカと一緒に遊んでいる夢。
 暗闇に包まれた部屋の中に二人の囁き声が微かに聞こえた。

「そうか……」

「気持ちはよぉくわかりますけどね」

 本当は私も欲しいんですよ…。
 その言葉はユイの心の中だけで発せられた。






(3) 昭和42年4月11日 火曜日



 次の日、アスカは物干し台に上がっていた。
 背後ではクリスティーネが洗濯物を干している。
 アスカはつまらなそうな表情で手すりに寄りかかっていた。

「仕方がないわよ、シンジちゃんは幼稚園なんだから」

「ぷぅ、アスカも幼稚園行きたい」

「ハンブルグに行ったら似たようなものがあるわよ」

「グランマのいじわる。そこにはシンジはいないもん」

「おやまぁ、よほど気に入ったようだね」

「うん、結婚してあげてもいいわよ」

「おやおや。シンジちゃんは困るでしょうねぇ」

「どうしてよ」

「こんな何もできないお嫁さんじゃあねぇ」

 アスカはすっと洗濯籠からタオルを拾い、ばたばたと振ってそれから祖母に差し出す。

「はい、どうぞ」

「洗濯干しの手伝いくらいはできます、か。じゃ、洗って干すのはシンジちゃんの役かい?」

 からかうクリスティーネにアスカは膨れてぷいっと横を向いた。

「グランマのウルトラいじわるっ!」

 横を向いた先には碇家の窓。
 その窓が開いた。
 ぱっと輝いたアスカの顔は期待外れにふて腐れる。

「あら、アスカちゃん、おはよう!」

「オハヨ…」

「惣流さん、おはようございます」

「碇の奥さん、おはようさん」

「あの…できれば、名前で呼んでいただけませんか?」

 クリスティーネは手を止めてユイを見下ろした。
 彼女はニコニコ笑いながら、こう言った。

「だって、いつも怒ってるような感じじゃないですか」

「はは、そうだね。じゃ…」

「ユイ、です」

「そうか、じゃユイさん。それなら私のことも名前で呼んでほしいものだね」

 ユイは緊張した。
 舌を噛まないような名前だったらいいんだけど…。

「クリスティーネ。言いにくければ、くりさんでいいよ。古くからの知り合いはそう呼んでる」

「えぇっと、クリス、ティーネ、さん…」

 ユイはにっこり微笑んだ。

「やっぱり、くりさんにします。おはようございます、くりさん」

「はい、おはようさん、ユイさん」

 そのあと、二人の女は微笑みあった。
 名前で呼び合うと、随分と親しくなったような気がする。
 そんな二人を見てアスカは思った。
 大人って変だ。あたしとシンジは最初から名前で呼んでいるのに、と。


 
 そのシンジは幼稚園から帰りお昼を食べてから、惣流家を訪問した。
 玄関先に座って出迎えたアスカは少しご機嫌斜めだった。

「遅かったわね…」

 三和土に届かない足をぶらぶらさせながら、アスカは頬を膨らませて見せた。
 お昼をシンジと一緒にと言うアスカの希望はクリスティーネにはねつけられた。
 碇家の暮らしぶりは彼女には予想できる。
 毎日のようにアスカが押しかけるのはよくない。
 しかしそれをアスカに説明などできるわけがない。
 それにシンジを呼んで食事を振舞うのもユイの気持ちがいいわけがない。
 いきおい、ダメと言ったらダメという言い方しかできなくなる。
 それでアスカはご機嫌斜めだったというわけだ。

「ごめんね。待った?」

「待ったわよ。100万年も待ったわよ」

「100万ってどれくらいなの?」

 アスカはうっとつまった。
 わかるわけがない。

「とにかく、目茶苦茶長い間なのっ」

「ごめんね」

 シンジに他の言葉があるはずがない。
 
「仕方がないわね、上がんなさいよ」

「おじゃましま〜すっ」

 明るく言って靴を脱ぐシンジ。
 きちんとそれを揃えていくのはユイのしつけの賜物だ。
 アスカに続いて階段をとんとんと上がると、惣流家の居間や台所などがある。
 常識をまだ知らないシンジは一階にはトイレとお風呂しかない、この家のつくりを特に変だとは思ってなかった。
 
「おや、いらっしゃい、シンジちゃん」

「あ、おじゃまします」

 きちんと頭を下げるシンジに、クリスティーネは目じりを下げた。

「偉いねぇ。ちゃんと挨拶ができてるよ。アスカはどうなんだい?シンジちゃんところに行ったら挨拶できてるかい?」

「してるわよっ!ねっ、シンジ」

「えっと…」

 正直に考えてしまうシンジにクリスティーネは笑みを漏らした。
 その後、二人はかくれんぼうをはじめた。
 シンジの家と違い、惣流家には隠れるところがいっぱいだ。
 ルールは隠れていいのは一階と二階だけ。外と物干し台は禁止というわけだ。
 
「もういいか〜い」

「もういいわよっ!探せるもんなら探してみなさいよっ」

 アスカの声が一階から響く。
 おやおや、どこにいるのかこれじゃもろわかりだよ。
 クリスティーネは新聞の株式欄を見ながら鼻で笑った。
 
「えっと、どこかなぁ。下の方で聞こえたような…」

 シンジがゆっくりと歩いていく。
 アスカは探してもらえるまで我慢できるだろうか?
 きっと自分から見つけてもらえるように色々するのに決まっている。
 短気な上に独占欲の強い孫娘のことを彼女はよくわかっていた。

 案の定、アスカは餌を撒いていた。
 彼女が隠れたのは一階の使われていない部屋。
 そこへの入り口を少し開いておいたのだ。
 それにはもうひとつ理由がある。
 その部屋の窓は雨戸で遮られているから、扉を開けていないと何も見えないのだった。
 シンジは一階に降りると周りを見渡した。

「どこかなぁ…?」

 その声を聞いてアスカはほくそ笑む。
 
「うん、お風呂かも…」

 見当違いの場所を決め込んだシンジはその方角へ進む。
 そして、その途中にあった少し開いていた扉を何の気なしに閉じてしまった。
 げげっ!
 一瞬にして回りは真っ暗闇。
 アスカは予想もしなかった展開に声も出なかった。
 彼女が隠れていたのはその部屋の真ん中辺りにある金属製のベッドの下。
 まったく使われていない部屋なのだが、クリスティーネがまめに掃除をしているから埃は殆どない。
 だからこそ、アスカがその下にもぐりこんだのだが…。
 最初はアスカにも我慢ができた。
 暗い部屋。誰もいない部屋。ここは死んだグランパが仕事をしていた部屋。その仕事は…。
 そこまで考えてしまうと、急にアスカは怖くなってしまった。
 こ、ここで、グランパはきっと…。

「うぎゃあっ!」
 
 アスカは一声とんでもない大声を上げると立ち上がろうとした。
 もちろん、ベッドの下にもぐりこんでいるのだから、立てるわけがない。
 すぐに頭をベッドに打ち付けてべちゃっと顔と手から床に倒される。
 それがアスカには怪物か幽霊かに押さえつけられたように思えた。

「うぎ、うげ、ぐぎゃあああっ!」

 何とかその化け物から逃げようと這って逃げようとするのだがうまく身体は動かない。
 叫び声を上げ続けながら、アスカは必死に逃げた。
 広いといっても日本の家。
 アスカの叫びはシンジにもクリスティーネにも聞こえた。
 ただ勝手のわからないシンジは右往左往するだけ。
 お嫁さんにする予定のアスカがあんなに凄い声で泣き叫んでいるのだ。
 僕が助けないと、とは思ってようやく声がする先を特定した。
 クリスティーネも階段を降りてきた時、シンジは扉を開いた。

「うわわあああぁ〜んっ」

 その瞬間、シンジは中から飛び出してきた金色のオバケに飛びつかれてしまった。
 廊下に押し倒されるシンジ。
 その上でアスカは狂ったように泣き叫びシンジの胸をぽんぽんと叩く。

「怖かったよぉぉ〜。どうして閉めたのよぉ。シンジのいじわるぅ!」

「これ、アスカ、止めなさい」

 アスカの脇に手をいれひょいと抱き上げるクリスティーネ。

「あ〜ん、グランマ、グランマぁ」

 祖母の胸に顔を伏せ泣くアスカ。
 その姿をきょとんとした顔で見上げているシンジに、クリスティーネは優しく微笑んだ。

「馬鹿だね、この子は」

 口ではそんなことを言いながらも手は優しくアスカの背中を撫でている。
 祖母や祖父を知らないシンジにとって、その姿はどこか羨ましく見えた。
 でも自分には母さんや父さんがいる。
 アスカにはお父さんがいないんだもん。
 そう思ったシンジは立ち上がると、アスカが飛び出してきた部屋を恐る恐る覗き込んだ。
 しかし暗くてよく見えない。
 ぱちっ。
 明かりが点いた。
 アスカを抱き上げているクリスティーネが壁のスイッチを入れたのだ。
 そこに見えたのは…。 



 その日の夕方のことである。
 碇家のお風呂は午後5時半に部屋を出るときから始まる。
 行先は徒歩7分の伊吹湯。
 県道の方に出て信号を渡って一つ目の角を曲がったところにある。
 その伊吹湯の煙突はシンジの部屋からもよく見える。
 家や商店が立ち並ぶ界隈では抜き出て高いものだ。
 それから南へ目を移すと、もくもくと白や灰色の煙を吐き出す煙突が何本も見える。
 その煙突たちは伊吹湯のそれよりも遥かに高く、そして太い。
 そこから吐き出される煙は雨の日でも衰えを見せない。
 一番海に近いところに大企業の工場がある。
 そこに立つ煙突が一番太く高く大きい。
 その手前に関連企業の工場。
 そこの煙突は大企業に遠慮をしているかのように、一段低くなっているように見える。
 遠慮知らずなのは一番町に近い工場街にある煙突たち。
 決して高くはない。
 ここの煙突は細めで低いが、何しろ数が多い。
 下請企業の町工場の煙突たちだ。
 その数が多い煙突が立ち並ぶ界隈でゲンドウは毎日汗に塗れていた。
 ある程度の企業ともなると、その工場の敷地の中に汗を流す場所がある。
 当然、冬月精密機械製作所にはそんな施設はない。
 だから彼は工場からパチンコ屋に向う途中でこの銭湯に寄る。
 それが5時半過ぎ。
 運がよければ伊吹湯の前で家族が出くわすこともある。
 そんな時もシンジはゲンドウと一緒の暖簾はくぐらない。
 それは日曜日だけ。
 あとの6日間はシンジは女湯。
 アスカも同行している今日も、もちろん女湯。

「いい?アスカ、気をつけるんだよ。ここの信号は青になっても危ないんだよ」

「嘘っ!」

「本当だよ。この前も小学生のお兄ちゃんが轢かれて死んじゃったんだよ。ねえ、お母さん」

「ええ、かわいそうに…。車には充分気をつけなさいよ」

「うんっ!」

 明るく答えるシンジとは裏腹に、アスカは緊張した。
 信号を信用してはいけないなんて大変だ。
 目の前の信号が青になったのを確認すると、アスカは左右を順番にきっと睨みつける。
 そして、車がちゃんと停まっているのを見て頷くと、「行くわよ、シンジ!」と手を引っ張る。
 ああ、可愛いなぁ。もう。
 ゲンドウの申し出を断ったもののやはり自分でも女の子が欲しいユイだった。

 くりさんも一緒にいきませんかと誘ったのだが、彼女は笑顔で断った。
 私は家庭風呂のほうがいいのだと。
 その気持ちはユイには少しわかるような気がした。
 銭湯に肌の色が違うものがいたら、気になるに決まっている。
 これまでの銭湯人生…といってもまだ2年にもならないが、その中で人種の違う裸体を見たことはない。
 数回、墨を背負っている女性を見たことはあるのだが。
 その時は怖いというよりも触ってみたい、近くで見てみたいと持ち前の好奇心を抑えるのに必死だった覚えがある。
 今日は日系だけど白人にしか見えないアスカが一緒なのだ。
 きれいに洗ってあげようと、少しわくわくしている。

「まあっ、可愛いっ!」

 女湯側に入って、周りをきょろきょろしていたアスカはいきなり黄色い声を浴びせられた。
 声の方角を見ると、体操服の上に半纏を着た高校生くらいの娘が立っていた。
 胸のところできれいに畳まれたタオルをたくさん抱えて、にこにこしながらアスカを見下ろしている。
 可愛いといわれて意表をつく表情を見せられるほどアスカは大きくない。
 もちろん、にこっと笑って、どうだとばかりにシンジに向って顎を上げる。

「でしょう?マヤちゃん。すっごく可愛いでしょ」

「ええ、本当に。こんにちは、ユイさん」

 マヤはタオルを番台の母に届けると、すぐに三人のところに戻ってきた。
 そして膝を抱えるように身をかがめると、アスカのすぐ前でにこにこ笑う。

「こんにちは、お名前は?」

 シンジの時は「アンタが先に名乗りなさい」と言わんばかりのアスカだったが、
 アスカにとっては立派に大人なマヤに向ってそんな口が聞けるわけがない。

「あ、アスカ…」

 消え入らんばかりの声で名前を言うのだが、それがまたマヤのハートを直撃した。

「か、可愛いっ!」

 その大声にアスカはすっとシンジの背中に隠れた。
 といっても、隠れられるほどシンジが大きいわけではない。
 
「あ、こんにちは、マヤお姉ちゃん」

「こんにちは、シンジちゃん。今日はすっごく可愛いガールフレンドと一緒ね」

「うんっ!」

 元気に答えるシンジに気分を良くしたアスカがニコニコ笑いながらその横に立つ。

「シンジ、この人誰?」

「うん、このお風呂屋さんのお姉ちゃんでね。大人になったら僕と結婚してくれるんだって」

 わっ、言ったぞ、我が息子。
 ユイはブラウスのボタンを外す手を止めた。
 こいつはおもしろそう。

「うふふ、そうよねぇ。シンジちゃんだったら、マヤお嫁さんになってあげるわよ」

 アスカの目がくわっと開いた。

「んまっ!信じらんない!アタシの方が美人じゃないのっ。髪の毛の色だってアタシの方が金色よ!」

「あらら、私、日本人だからなぁ。そんなきれいな色にはなれないわ」

「ふふん!アタシの勝ちね」

 アスカは可愛らしく仁王立ちして顎を上げた。
 
「じゃあアタシの勝ちだから、アタシがシンジのお嫁さんになるのよ!」

 ユイの頬が緩む。
 言った、言った、言ってくれました。
 ブラウスの胸をはだけたまま、息子の対応をわくわくしながら見守っている。

「えっと…じゃ、僕がアスカのおむこさんになるの?」

「と〜ぜん!あたり前田のクラッカーよ」

「えっと、どうしようかな…?」

 真剣に悩む息子の姿がユイには面白くて仕方がない。
 しかしながら、もしアスカがマヤと同じ年頃であれば当然男ならば悩むところだと思う。
 ショートカットで明るくて優しそうな美人のマヤ。
 長い金髪で気は強くてやはり美人のアスカ。
 どっちを選んだにしても折に触れて自分の選択に間違いはなかったのかと振り返ることだろう。
 ただし、今はマヤが高校生で、アスカとシンジは幼児。
 シンジの選択基準は何なのか、それがユイの知りたいところだ。

「アンタ、何悩んでんのよ。アタシが結婚してあげるって言ってんだから、結婚しなさいよ!」

「で、でも、最初に約束したのはマヤお姉ちゃんだし…。困っちゃったな…」

 碇シンジ。
 5歳にして真剣に恋ではなく、結婚に悩んでいた。
 マヤもやはりこんな可愛い二人をからかってみたいのだろう。
 茶々を入れてしまった。

「そうよ、私の方は1年前から約束してるの。ごめんね、あきらめてくれる?」

 その言葉がきっかけとなって、幼児の最大の武器が出た。
 泣く子と地頭には勝てない。
 涙が溢れてきたかと思うと、あっという間にアスカの顔が歪んでいった。
 ありゃま、これはまずいわ。
 さすがに母親歴5年。このあと、どのような騒ぎになるかユイにはよくわかった。
 でも、ここまで来れば誰にも止めることはできない。
 それに当事者の母親だけに逃げ出すわけにもいかないのだ。

 アスカは泣き出した。
 大粒の涙をボロボロ零して、天にも届けとばかりに大声で。

「こら、マヤっ!あんた、何してるの!」

 番台から娘を怒鳴る母親にマヤはただうろたえるのみ。
 自分の一言でここまで泣くとは思ってもみなかったのだろう。
 周囲の全裸、半裸、着衣の女性陣は何事かと注目し、
 すぐに人垣が形成された。

「ち、ちょっと、えっと、アスカちゃん?ごめんなさい。あのね…」

「うわぁ〜んっ!」

 聞く耳を持たないというのはこのこと。
 マヤが言葉を発するたびにさらに声を張り上げてしまう。
 
「ゆ、ユイさん!助けてください!」

「ごめんね、こうなったらもう無理よ」

「ええっ!そんな…」

「うふ、シンジ。こら、シンジっ!」

 アスカの真横で両耳を手で塞いでいる息子の手をユイは引っ剥がした。

「わぁっ。お母さん、助けて」

「馬鹿。シンジがちゃんとしないからこうなったのよ。
 さっさと覚悟を決めてアスカちゃんをお嫁さんにしなさい」

「で、でも…」

 シンジは先約のマヤの顔を仰ぎ見た。
 マヤは大きく手を振って、それからシンジを拝んだ。

「ごめん!私、あきらめるから、シンジちゃんはこの子と結婚してあげて。お願い」

「あ、うん」

 晴れやかな顔になったシンジはそれでも顔をしかめながら、騒音の元凶の耳元に顔を近づけた。

「あのね、僕!アスカと結婚するよっ!」

 ぴたり。
 騒音が一気に止んだ。
 そこに響くのは男湯からの物音と、テレビの声、そして扇風機のがたことという音だけ。
 アスカは顔を上げた。
 真っ赤にはれた目。そしてまだひくひくしている胸。

「ホント…?」

 やっとのことで出した声。

「うん、僕はアスカをお嫁さんにする」

 アスカはマヤを見上げた。
 慌ててうんうんと頷くマヤ。

「負けたわ。私、シンジちゃんをあきらめる。幸せになってね」

「ホント?絶対にホント?」

「本当よ。じゃ、そうね、本当だって証拠にフルーツ牛乳奢ってあげる」

「シンジのも?」

「はいはい。二人に奢ってあげるわよ。結婚祝いでね」

 マヤがにっこり笑った。

「やった!」

「よかったね!」

「じゃ、シンジはりんごジュースの方にしなさいよ」

「うん、半分っこだったよね」

 見る見る機嫌が直っていくその様子にマヤは胸を撫で下ろした。

「あの、マヤちゃん、私の分は?」

「ありません。お姑さんは自分で払ってください」

「あらら。ごめんね、騒がしちゃって」

 素に戻って謝るユイにマヤは微笑んだ。
 
「いえいえ。ちょっとからかいすぎちゃいましたね。えへへ」

 こつんと頭を叩いたマヤは、その後番台に呼ばれて母親からごつんと一撃を貰った。
 その間に子供たちは真っ裸に。
 ユイに先に入ってるねと言い残して、二人は大きなガラス戸の前に立つ。
 
「あのね、滑るから走っちゃダメだよ」

「うんっ。わかった」

「じゃ、開けるね」

 がらがらがら。
 むわっと熱気があふれてくる。
 そして、アスカの眼前に初めて見る光景が広がった。
 
「すっごぉ〜いっ!」

 タイルが敷かれた広い床。
 わんわんと音が反響する空間に、大きな浴槽。
 それにそこを動き回っている裸の人たち。
 当然、アスカはこんなに大勢の裸の人間を見るのは初めてだった。
 子供から老婆まで。年齢層は幅広いが、もちろん男は子供が数人だけ。
 
「行っていいのっ?」

「うん、でも…」

 もう一度念を押そうとしたシンジだったが、もう遅かった。
 わっと駆け出したアスカは四歩目でつるっと滑る。
 それほど勢いがついてなかったので、ぺたんと尻餅をつくだけですんだ。

「いったぁ〜いっ」

 アスカの声がわんわんと響く。
 その自分の声にアスカはビックリしてきょろきょろ。

「もう、だから言ったのに。走ると滑るよって」

 手を差し伸べたシンジにすがってアスカが立ち上がる。

「だってぇ…」

「危ないから、僕の言うとおりにしてよ、ねっ」

「うん、わかった。シンジの言うとおりにする」

「じゃ、そこの桶をひとつ取って」

 アスカはシンジの指差す方向を見る。
 入り口の横には積み上げられた風呂桶が。

「どれでもいいの?」

「うん、好きなのを」

「じゃ、アタシ赤っ!」

 アスカがさっと赤い桶を手にする。
 黄色の桶を手にしたシンジがゆっくりと浴槽へ歩いていく。
 滑らないように用心しながらアスカもその後に続く。
 そんな二人の姿を扉のところで口を押さえながらユイが見ていた。
 この様子はくりさんに全部教えなきゃねぇ。



 慣れというのはやはり凄いものだ。
 ユイが初めてこの銭湯に来た時のこと。
 シンジを連れて暖簾をくぐったまではよかった。
 家庭風呂で育ったユイは集団で風呂に入るのは学校での旅行ぐらいだった。
 しかもそれは友達たちと一緒。少しだけ恥ずかしかっただけだ。
 だが、この街の銭湯に知り合いは一人もいない。
 その日は引っ越してきたその当日。
 ゲンドウは心配そうに言ったものだ。

「大丈夫か。俺は一緒に行ってやれないが…」

 その真面目な一言でユイの緊張は少し解けた。

「大丈夫よ。あなたが女湯に入ってきたらすぐに警察行きよ。
 それにシンジだって一緒だし。別に中に男の人がいるわけないでしょう?」

 当然だ、冗談じゃないとばかりに睨みつけるゲンドウ。
 自分以外の男にユイの裸を見られるくらいなら彼女の命を奪ってしまいかねない。
 そんなゲンドウの表情にユイは微笑んだ。
 
「シンジ…」

 母親に手をつながれたシンジの前に膝を折る。
 それでも長身のゲンドウは見下ろす形になる。
 シンジの頭に手を置くとじっと真面目な目で見つめた。

「ユイを…母さんを頼むぞ」 
 
「うん」

 まだ3歳のシンジは、それでもしっかりと頷いた。
 ユイは吹き出しそうになるのを耐えた。
 ここで笑うと親子ともに拗ねてしまいそうだ。

「よろしくね、シンジ。じゃ、行きましょうか」

 それが引越しの荷物がまだ片付け切れてない、あの部屋での出来事。
 そうして余裕を持って伊吹湯に赴いたユイだったが、
 やはり一糸纏わぬ姿になってみると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
 周りの女性を見てみても、みんなけろりとして素っ裸で歩いている。
 十代の女の子がさりげなくタオルを垂らして前を隠していたが、胸はそのまま。
 ああダメダメ。恥ずかしがっていちゃ。
 そうは思うものの脚が動かない。
 脱衣籠に下着まで入れて、シンジのパンツも全部入った。
 その脱衣籠を棚に入れて札を取ればそれで準備は終わる。
 
「おかあさん、どうしたの?」

 手におもちゃのアヒルを持ってシンジがあどけない笑顔で見上げる。
 
「え、うん。何てことないわよ」

 何てことないことはない。
 脱衣場に向けている裸の背中が熱い。
 みんなが自分を見ているような感じがしてたまらない。
 お尻の辺りがむずむずするのだ。

「あのぉ…」

「ひぃっ!」

 全身で驚いてしまった。
 恐る恐る振り向くと、そこには女の子が立っていた。
 そのお下げ髪の彼女はにこにことユイを見つめている。
 
「あの、すみません」

「は、はいっ?」

 声が裏返ってしまっている母親にシンジが首を捻っている。
 そのシンジの頭を優しく撫でた少女が少しだけ頬を赤らめて言う。

「もしかしたら…初めてですか?」

「わ、わかりますか……?」

 消え入らんばかりの声でユイが答える。
 
「はい、私ここの娘なんです。だから初めての人ってよくわかるんですよ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。でも、綺麗」

 マヤはうふふと笑った。
 その視線はユイの身体を見ている。

「まだ、結婚されてないみたいに見えますよ。とてもお母さんって感じじゃなくて」

「おかあさんだよ。ぼくの」

 不平を漏らすシンジにマヤは「ごめんね」と笑った。

「さて、じゃ行きましょうか」

「え…」

「だって、そんなになって固まってちゃ目立つだけですよ。さっさと中に入らないと」

「あ、そ、そうなんですか」

「うふ、じゃ私も一緒に。お母さぁん!」

 マヤは番台の母に叫んだ。
 
「私、お風呂入ってくるねっ」

 言うが早いか、マヤはぱっぱと着ているものを脱ぎ捨てた。
 そして服を脱衣籠に放り込むと、シンジに「じゃ、行こうか?」と呼びかける。
 ガラスの向こうが何なのか興味津々のシンジは父親の頼みも忘れてあっさりとマヤに応じた。
 
「うんっ!」

「あ、シンジ…」

 止める間もなく、マヤとシンジは入り口の方へ。
 そして、二人はから〜んと桶の音が鳴り響く浴室へ入っていってしまった。
 残されたのはユイ一人。
 いつまでも裸で立ち尽くしているわけにはいかない。
 ユイは大きく頷くと、扉へ向ってゆっくりと歩き出した。
 右手と右足が一緒に出てるのではないかと思うくらい、ギクシャクした動きで。


 
 子供っていいわねぇ。
 私は最初あんなに勇気が要ったのに、あの子ったら全然平気。
 あの日の自分を思い出して、ユイは微笑まずにはいられなかった。

「あのね、入る前にはしっかりと前と足を洗うんだよ」

「アタシ、汚くないもん」

「ダメ!それが礼儀なんだよ。ほらこうやって」

 浴槽に桶を入れてお湯を掬い、それを自分の前にかける。
 そしてまた掬ったお湯で足の裏を交互に濯ぐ。
 文句を言っていたアスカもシンジの真似をする。

「どぉお?」

「うん、よくできました」

「へへんっ」

 アスカが得意げに胸を張る。

「じゃ、入るよ」

 よいしょと浴槽の縁に手をかけ跨ごうとするシンジ。

「ねえ、あっちの大きい方じゃないの?」

「あっちは大人のお風呂だよ。僕たちはこっち」

「でも、小さいのもいるよ」

 アスカが自分たちと変わらない子供を見つけて言った。

「あ、あれはお母さんと一緒だから。それじゃ、大きい方はあとでね。今はこっちだよ」

 ざぷん。
 シンジが子供用の浴槽に入る。
 丁度股の辺りまでしかお湯はない。
 座っても首が充分出る高さだ。
 
「アスカもお出でよ」

「うん」

 ざっぷん。
 勢い込んで入ったアスカは、すぐに喜色を浮かべた。

「ひっろぉ〜いっ」

 足をいっぱいに伸ばして、ばしゃばしゃさせる。
 
「プールみたいっ!」

「そうだよね」

「アスカちゃん、気に入った?」

 いつの間にかユイが近くに来て、かかり湯をしている。
 アスカは振り返ると、大きく二回頷いた。

「シンジ、泳ごっ」

「ああ、ダメだよ。怒られちゃうよ」

「ええっ、泳いじゃいけないの?そんなの、つまんないっ」

 膨れるアスカにシンジはにっこりと笑いかけた。

「ほら、アスカ、これ見て」

 シンジは手にしたタオルを左手の握り拳の上に置いた。
 そして、水面にタオルを静かに置くと拳を抜く。
 拳の後に空気が残っているので、その周りをシンジは絞るようにまとめていった。
 アスカはこの先どうなるのか、まるでわからずにじっとタオルを見ている。
 タオルがまとめられるにつれて、空気の入った部分がだんだん照る照る坊主の頭のようになっていく。

「わぁ…」

 アスカが目を見張る。
 シンジは得意げに張りつめたその頭をお湯の中へ沈めた。
 すると、タオルの生地の隙間から小さな泡がぶつぶつと湧き出てきた。
 そして、ぎゅっとタオルと絞るとぼこんと大きな泡が出る。

「あたしがする。あたしがっ!」

「うん、やってみて」

 簡単なようではじめての者には少し難しい。
 それでも何度目かのチャレンジで小さな頭ができた。

「やったっ」

 えへへと笑うアスカ。
 頭を沈めると、ぶくぶくと小さな泡。
 そして小さな手でお湯の中の頭を握る。
 ぶほんっという感じで残った空気が昇ってきた。

「おもしろ〜い」

「でもね、身体を洗ったあとのタオルで遊んだらダメだよ。怒られるからね」

「アスカ、汚くないもん」

 膨れながらも仕方がないわねという顔つきのアスカ。
 その後も二人はタオルで遊び続けた。

 しばらくして二人はカランの前に座った。
 コの字型の緑色の椅子を二つ並べて、そこにアスカとシンジはくっつかんばかりに座る。
 もちろんその隣には笑みを絶やさないユイが陣取っていた。

「あのね、このボタンを押すとお湯とかお水が出てくるの」

「ふ〜ん」

「でもね、気をつけないと…」

「えいっ!」

 アスカが手を伸ばしたのは、大好きな赤色のボタン。
 軽く押しても何もおこらないので、ぐいっと体重をかけて押してみた。
 それを見て、シンジもユイもわっと口を開けて止めようとしたが、間に合わない。
 ぶしゅっ!

「あつっ!熱い熱い熱い!」

 勢いよく噴出したお湯が赤い桶の底で跳ね返り、アスカの身体中に飛び散る。
 立ち上がって暴れるアスカに、シンジは咄嗟に青いボタンを押して出てきた水を桶に入れアスカにかける。

「きゃっ!冷たい冷たい冷たい!」

 熱湯の後の冷水だから効果は倍増。
 即座にアスカはユイに伴われて子供用浴槽へ。
 程よい温度に回復したアスカは、物凄い目付きで帰ってきた。
 シンジは少し背中を丸くして、「ごめんなさい」と小さな声。

「わざと?」

「違うよ、絶対に違うよ。熱いって言ってたから慌てて」

 それでもぷぅっと膨れるアスカ。
 ここでシンジは自分の身体で反省した。
 青いボタンで自分の桶に水をためると、それを自分の身体にかけた。

「ひぃっ」

 一声叫ぶと、シンジはばたばたと浴槽へ。
 中に入りほっと息をつくと、ばしゃんと隣にアスカも入ってきた。

「アンタね、アタシにもかかっちゃったじゃないの」

「あ、ご、ごめんなさい」

「でもいいわ、許したげる」

「あ、ありがとう」

「だけど、あれってどうやって使うのよ。あんな熱いのと冷たいのじゃ…」

「えっとね、混ぜるの」

「混ぜる?」

「うん、こうやるの」

 もう一度、洗い場に戻った二人。
 アスカは少し身を引き加減にシンジの実演を見守る。

「最初にねお水の方を入れるの。ぐいってしないでね」

 半押しの状態で水を1/3ほど桶に溜める。

「それからね、お湯を気をつけて入れるんだよ」

 飛び散らないように気をつけて赤いボタンを押す。
 ぶしゅっと音がして、アスカが少し足をずらす。
 だが、お湯はそれほど飛び散らず桶の中に。
 
「これでちょうどよかったらこれを使うの。
 熱かったら水を足すんだよ。ぬるかったら、しんちょ〜に赤いのを押すの」

「わ、わかった。やってみるわ」

 恐々と自分の桶を置き、そして青いボタンに手を伸ばすアスカ。
 随分と時間はかかったが、何とか桶に適温のお湯は溜まった。

「やった、やったぁ」

「やったねっ」

 喜ぶ子供たちを見て、泡だらけのユイは思った。
 あの最初の日、私もアスカちゃんと同じことをしたっけ。
 シンジと大騒ぎしたのをマヤちゃんに助けてもらって。
 あの時、あの娘がいてくれなかったら本当に困っちゃったでしょうね。
 でもまあ、この街の人なら戸惑っている人を見たら誰かが教えてくれていたと思う。
 この街はそんな街。
 環境は悪いけど、人情は厚いわ。



 湯上り。
 アスカとシンジはマヤの奢りのフルーツ牛乳とりんごジュースを半分ずつ飲んだ。
 
「あ〜あ、お小遣いから引かれちゃった」

 横目で番台の母親を見るマヤ。
 奢るといっておきながら、自分の懐は痛める気にはなっていなかったようだ。

「ごめんね、マヤちゃん」
 
「いいえ、いいんですよ。二人とも可愛いから」

 ごくごくと飲んでいる二人を温かい目で見るユイとマヤ。
 子供っていいなぁとマヤは思った。
 自分の子供を持つには結婚しないといけない。
 それには相手が要る。この人と家庭を持ちたいって思うような人が。
 私にもいつかそういう人が現れるんだろうか?
 だけど、どうしてユイさんはあんな無愛想な男の人を選んだのだろうかとマヤは笑顔の影で首を捻っていた。
 何度か風呂上りにここの前で待ち合わせをしている碇家の家族を見たことがある。
 挨拶をして「うむ」と無愛想に返事をされたことも。
 ユイさんならカッコよくてお金持ちの相手くらい簡単に見つかりそうなのに…。
 あの、髭親父のどこがいいんだろ…?



 その髭親父は、伊吹湯を出たところでじっと立っていた。
 今日はパチンコ屋に行かずに、アスカと一緒だと言っていた三人が出てくるのを待っていたのだ。
 遅いな……。
 空を見上げたゲンドウの目に一番星。
 スモッグで煙った空にぽつんと晴れ間。
 そのわずかな部分に星が煌く。
 ゲンドウはその星をじっと見つめ、家族の幸せを願った。
 そして、ふっと鼻で笑った。
 星が動いた。人工衛星だったのだ。

「あ、お父さんだっ!」

 息子の声に首を戻す。
 駆けて来る息子としっかり手を繋いでいる金髪の少女。
 そして、その向こうに愛する妻の笑顔。
 少なくとも自分は幸せだ。
 願わくは家族も自分と同じように思っていることを。





「マヤ、ケースの飲み物も勘定しておいてよ」

「はぁ〜い」

 伊吹湯の営業時間は終わり。
 少し落とした照明の下で後片付けをする母娘。

「もう髪は伸ばさないのかい」

「うん。似合ってるでしょ」

「母さんは長い方が好きだったんだけどねぇ」

 鼻歌交じりに動く彼女が何故髪を切ったのか。
 憧れのユイの真似をしたとはマヤ本人しか知らない。





(4) 昭和42年4月12日 水曜日・その壱


 


 その夜。
 いや、もう日付はとっくに翌日になっている。
 アスカは目を覚ましていた。
 何故かというと、おしっこ。
 尿意を覚えているのだが、今日は怖くて一階のトイレまで一人で行けない。
 いつもはさっさと言っているのだが、
 あの暗闇に一人ぼっちになった恐怖心のためか布団から出ることができなかった。
 でも、このままではおねしょということになってしまう。
 それはダメだ。
 おねしょなどすれば、シンジの部屋の窓の真ん前にその布団を干さねばならない。
 いくらなんでもグランマがしたと嘘をついても誰も信じてくれないだろう。
 アスカは決意した。
 グランマを起こしてトイレに着いてきてもらおう。
 弱虫と笑われるかもしれないが、おねしょよりはましだ。
 そう決めたアスカは布団から抜け出した。
 半開きになっている祖母の部屋との間の襖。
 何かあったらと寝る時にはいつも少し開けているのだ。
 そこに足を踏み出したアスカの耳に変な声が聞こえた。
 お、オバケ…?
 恐る恐る襖に近づいたアスカはその声がクリスティーネの口から漏れていることを知った。



 どんどんどんどんどんっ!
 
 連打される扉に真っ先に飛び起きたのはゲンドウ。
 扉を開けると泣きじゃくるアスカがそこにいた。

「どうした?」

「ぐ、ぐ、グランマが…変なの…苦しいって」

 やっとのことで言葉を出したアスカを押しのけるようにしてゲンドウは飛び出した。
 素足のままで階段を駆け下りていく。
 少し遅れて起き出したユイがアスカを抱き上げた。

「くりさんが…おばあちゃんが?」

 うんうんと頷くアスカ。

「シンジ!」

 母の声にシンジは目を擦りながらようやく布団の上に座り込んだ。

「こらっ、さっさと目を覚ます。アスカちゃんが大変なの!」

「えっ」

 その言葉にシンジは一気に目覚めたようだ。
 ユイはそんな息子の横にアスカを降ろした。

「いい?ここにいなさい。おじさんとおばさんが何とかするから!いいわね!」

 顔をゆがめながらも頷くアスカ。

「シンジ!アスカちゃんを頼むわよ!」

 言うが早いか、ユイも夫の後を追った。
 もちろん素足のままで。
 階段を降りて、裏通りから表通りへ。
 まだ真っ暗な道をユイは駆けた。
 花の小道を抜けて、開け放されている格子戸をくぐる。
 ユイもここから先はわからない。

「あなたっ!どこっ!」

「こっちだ!急げっ!」

 夫の声が二階からする。
 もつれる足を必死に動かして階段を駆け上がる。
 蛍光灯がついている部屋に飛び込むと、
 ゲンドウがクリスティーネにかがみこんでいた。
 そして、彼女の胸をはだけさせて、じかに心臓マッサージをしている。

「ユイ!救急車だ。おそらく心臓発作。まだ間に合う!」

「はいっ!」

 ユイは周りを見渡した。
 電話、電話、電話!
 ここならどこかにあるはず。
 電話は隣の部屋の居間にあった。
 119をまわす。
 ゆっくりと戻っていく9のダイヤルがもどかしい。
 そして、出てきた相手に住所と症状を手短に伝える。

「お願い!急いでくださいっ!」

 最後にそう叫んで電話を切ると、ユイは急いで部屋に戻った。

「あなた!」

「騒ぐな。脈を診てくれ」

 ゲンドウは人工呼吸に切り替えていた。
 脈が復活したのだろう。
 夫のこんな姿は久しぶりだった。
 落ち着いて最善の方法を選び対処する。
 あの頃の夫の姿がそのまま。

「何をしておる。早くせんか」

「はいっ!」

 腕時計などしていないから、自分で見当をつけるしかない。
 そのためには落ち着かないと。
 深く深呼吸をしてユイはクリスティーネの手首を取った。
 よかった。脈はある。

「脈はあるわ。でも少し弱い」

「よし、では担架が入ってこられるように玄関からここまでの通路を確保」

「はい!」

 ユイは新しくできた年上の友人の命を夫に預けた。
 あの人なら大丈夫。
 絶対に助けてくれる。
 そう呟きながら、ユイは身体を動かした。
 通路を確保すると、彼女はまた素足のままでアパートへ駆け戻る。
 扉が開けられたままの部屋。
 シンジは抱きついて泣きじゃくっているアスカの背中を撫でていた。

「シンジ!」

 ユイの叫びにアスカがはっと顔を上げる。

「アスカちゃん、おばあちゃんは大丈夫だから。ね?あの人…おじさんはお医者様なの。
 だから、絶対に大丈夫よ。死なせたりするもんですか」

 最後の一言は自分に向けて言ったような気もする。
 この騒動で顔を出した隣人の奥さんに事情を簡単に説明して、子供たちのことを頼んでいると、
 救急車のサイレンが聞こえてきた。
 「お願いします!」と頭を下げて再びユイは駆ける。

「もうすぐ来るわ」

「うむ、何とかなりそうだ。自己呼吸も始まった」

 ゲンドウは確固たる調子で言い切った。
 夫が言うなら間違いない。
 もう少しで足の力が抜けてしまいそうになるのを必死にくいとめながら、ユイは階段を降りた。
 救急隊を案内しないといけない。



 数分後、クリスティーネは救急車で運ばれていった。
 ゲンドウはそれに同行した。
 寝巻きと素足のままで。
 電報でどこの病院に行ったか知らせてもらうことにした。
 それがわかればそこに服や靴を持っていかないといけない。
 くりさんの服もいるわよね。
 あの人ったら、くりさんの寝巻きを引き裂いちゃってた。
 それがどこかおかしかった。
 ユイは少し笑うと、二階へ上がろうとした。
 その時、扉が目に入った。
 シンジから聞いた、アスカが閉じ込められてしまった部屋。
 好奇心の強いユイはその扉を開いた。
 真っ暗な部屋。
 ユイは扉の近くにあるはずの電灯のスイッチを手探りで探す。
 あ…あった。

 ぱちっ。

 デジャヴではない。
 電灯に照らし出されたその部屋はユイの目に涙を溢れ出させた。
 シンジが言っていた。
 「何のお部屋かわからなかったけど、凄く懐かしかったよ」
 息子の言うとおりだ。
 懐かしい。懐かしい我が家を思い出させる。
 そこは診療室。
 使われなくなって何年も経って、開業している医院とは雰囲気は違うが、
 確かにここは病院の診療室だ。
 クリスティーネの死んだ夫は医者だったのだ。

 そして、碇ゲンドウもまた医者だった。

 ユイは部屋の中へ歩き、そして患者用の椅子に腰掛けた。
 ここも…うちと同じだったのだろうか?
 内科、小児科、それに簡単な外科も。
 いわゆる街の診療所。
 そんな感じがする。
 くりさんはお医者様の奥さんだったんだ。
 ユイは天井を見つめた。
 すっと涙が頬を伝う。
 何に対しての涙だったのだろうか?
 くりさんが助かりそうだという安堵の涙?
 それとも過去の懐かしい暮らしへの涙?
 よくわからなかった。
 ただ一つだけはわかる。
 ゲンドウはやはり医師として生きていかないといけない。
 これまでずっと、それを思って暮らしてきたユイだった。
 今回の出来事はそれを再認識させてくれた。
 だって、あの人の姿。とってもかっこよかったじゃない。
 ユイは涙を乱暴に拭った。

「あっ!」

 突然、思い出す。
 子供たちだ。
 隣の人にお願いしてても、一度顔を出さないと。
 ユイは玄関に出た。
 素足で三和土に降り立つ。

「痛ぁい」

 何度も素足で往復したのに、急に足の裏に痛みを覚えた。
 きっと安堵した所為だろう。

「くりさん、つっかけ借りますね…って、大きい!」

 ぶかぶかのサンダルを引っ掛けてユイは玄関から出た。
 格子戸を閉めて、鍵は持っていないからとりあえず無視。
 子供の様子を見てすぐに戻るつもりだから。
 あ…でも幼稚園は…。って、私が病院に行ったらアスカちゃんは一人になっちゃうよね。
 でも連れて行ったらいいのか。
 さて、どうしましょ。
 幾分ループ思考に入りかけていたユイの頭は部屋の扉を開けた途端にはっきりした。
 隣の奥さんが大慌てで布団にタオルを押し当てている。
 何が起こったかということはその動きと泣きながら立っているアスカがシンジのズボンを履いている事でわかった。
 彼女はお漏らしをしたようだ。
 ユイは泣いているアスカを安心させ、それから隣の奥さんに何度も頭を下げて事情を説明した。
 いいのよ、困った時はお互い様と隣家の奥さんは笑って帰っていった。
 そして、シンジとアスカはほっとしたのか、一つの布団で眠ってしまった。
 ユイはふっと息を吐いた。

「問題は…これよね」

 彼女が見下ろした先。
 アスカが地図を描いたのは、ゲンドウの布団だった。



 午前5時前に、電報が配達された。
 クリスティーネが入院したのは県立病院だった。
 その時点で子供を起こし、三人揃って惣流家に移動。
 やや寝ぼけ頭のアスカに鍵の位置や母親の連絡先を聞き出す。
 アスカが寝ていた布団で子供たちはあっさりとまた眠りについた。
 パンツを自分のに着替えるかとアスカに聞いたが彼女はこのままでいいと首を振る。
 6時を過ぎた頃に「くりさん、ごめん。貸してね」と電話を借りて、
 冬月にゲンドウが仕事に遅れるか休むかどちらかになると伝えた。
 そういうことなら休むといいと言ってはくれたが、ゲンドウのことだからきっと遅れても出勤することだろう。
 ああ、忙しい!
 お日様が出るから干さなきゃっ。
 ユイはまたアパートに戻り、通路側の手摺を雑巾で拭くとそこにゲンドウの布団を干す。
 隣の奥さんもがんばってくれたけど…う〜ん、北海道…いや四国って感じかしら。
 シミで残らなきゃいいけどな。
 そして、午前7時になったところで、ユイは緊張した手でダイヤルを回した。
 初めて話す相手に驚くようなことを伝えなければならない。

「Hellow…」

「あの…キョウコ様でしょうか?」

「そうですが…どなた?」

 警戒するような声が受話器を通ってくる。
 いきなりファーストネームはまずかったかもしれない。
 
「いきなりすみません。私、●●市に住んでいる碇と申します。
 惣流さんの裏手のアパートに住んでいます」

「ああ、あそこの。で、何かしら?」

「突然なのですが、お母さんが倒れられたんです」

 ユイの言葉に受話器の向こうは沈黙した。
 
「もしもし…?」

「ママは大丈夫?」

 物凄く冷静な声。
 一歩間違うと冷淡と捉えられそうな語感。
 しかし、ユイにはわかった。
 伊達に医者の女房を…そして、娘を何年もこなしてきたのではない。
 キョウコの内部でかなりの葛藤があって、それを必死に抑えているのだ。

「はい。県立有岡病院に入院してますけど、病状は安定しています」

「心臓?」

「ええ、心臓麻痺だったんです。発見が早かったので」

「そう。アスカ…娘は?」

「アスカちゃんは今眠ってます。私が責任を持って…」

「ごめんなさい。大丈夫なら今日だけお願いできませんか?」

「お母さんを?それともアスカちゃん?」

「両方です」

 うわっ!言いにくいことをはっきり言うじゃない。
 本来ならむっと来てもおかしくないやりとりなのに、何故か不快感はなかった。

「今日は私でないとできない取材があります。それを終えて、引継ぎしたら…。
 新幹線に間に合わなければ、夜行でも、いやタクシーでも」

 最後の方は母を思う娘の感情が少しだけ出ていた。
 このキョウコさんって人に弱みを見せるのがいやな人なのね。
 ユイはことさらに明るく言った。
 相手に不安感を抱かさないように。

「任せといてください。お母さんの方もアスカちゃんの方も」
 
「あの…アスカは人見知りする方なので…」

 今度は母親の声。

「大丈夫です。うちの息子と仲がいいので…。あの…」

「はい?」

 言っちゃおう。それでかなり気が休まるはず。

「うちにお嫁に来てくれるそうですよ」

「まあっ!」

 一声叫ぶと、キョウコはくすくすと笑い出した。

「ごめんなさい。アスカがそんなに…。あら、笑っちゃダメよね。こんな時に」

「いえ、こんな時ですから、笑ってください」

 受話器からほっと溜息が聞こえた。

「あなたって良い方ね。では二人まとめてお願いします」

 明るく了解したユイはまさかの時の連絡先を聞き、そして電話を切った。
 大きく息を吐く。
 どんな感じの人だろう?
 もちろん私より年上よね。
 アスカちゃんがそのまま大きくなったような感じ?
 ああ、いけない。幼稚園にも連絡しなきゃ。
 ユイは玄関から飛び出すと、アパートの1階に走った。
 そこの娘がシンジと同じ幼稚園の上級さんなのだ。
 手短に事情を話すと、次にアパートへ走る。
 ゲンドウのお弁当を作らないと。
 今日は手抜きさせてもらう。
 おむすびをぎゅっぎゅっと握ると、お皿の上に盛っていく。
 子供たちの朝食にもしないと。
 時間が惜しいから、握っている間にひとつ咥える。
 ゲンドウ用に大きなおむすびを5個。
 それに沢庵を3切れ付けて新聞紙で包む。
 その包みを蝿避け網の中に。
 子供たち用に小さめのおむすびを10個。
 それを持って惣流家に戻る途中に、もう一度隣家の奥さんにお礼と状況説明。
 階段をかんかんと降りていく途中で、ユイは少し大きく息を吐いた。

「忙しいっ」

 ただ、イヤじゃない。
 くりさんは生きているのだ。そのために身体を動かすことに少しも否応があるわけがない。
 惣流家に戻ると、台所を襲う。
 お茶の準備だ。
 きれいに整頓されている様子を見て、
 そういえばドイツ人って整理整頓が大好きだってミッションスクールで聞いたわよねとふと思った。
 で、アスカちゃんは何人になるわけ?
 これは本人に聞いても戸惑うでしょうねぇ。
 死んだお父さんはアメリカの人だから今はアメリカ人なのかしら?
 くりさんがドイツの人で…でも、ご本人にそんなこと言ったら「私は大和撫子」と怒鳴られそうな気がする。
 もし、うちのシンジのお嫁さんになればまたまた日本人ってわけなのかなぁ?
 さぁて、くりさんの入院の準備もしなきゃね。
 10日か2週間くらいよね。
 あ、でもあまり張り切ってしない方が良いかも。
 娘さんに仕事を残しておかないと。
 とりあえず今日明日の分だけ。



 県立有岡病院まで電車で二駅。
 そこから歩いて数分の距離にある。
 この辺りでは一番近代的で大きな病院だ。

「グランマ、大丈夫よね」

「大丈夫だよ」

 シンジがギュッとアスカの手を握りしめる。
 ふふふ、これじゃ私の出番はないわね。
 我が息子よ、よろしくね。
 受付で病室を聞き、エレベーターで3階に上がる。
 ナースセンターに行きお礼を言い、それから病室へ。
 扉を開けると、ベッドに横たわっているクリスティーネとその脇に立っているゲンドウの姿が見えた。
 クリスティーネは起きていた。

「グランマっ」

 飛びつかんばかりにアスカが駆け寄る。
 そんな孫娘にクリスティーネは目を細めた。

「おやおやアスカ。ごめんねぇ、びっくりしただろ」

 ううんと大きく首を振るアスカ。
 ユイは夫の傍らに歩み寄る。

「ご苦労様」

「ふん。何てことはない」

「それはそうでしょうよ。あなたなんですもの」
 
 ユイは意味ありげに微笑みかけ、ゲンドウはその笑みから目を逸らした。

「手術は要らんそうだ。2週間も入院すればいい」

「こんなこと言うんだよ。ユイさんの亭主は。私は今日にも帰りたいくらいだよ」

「ふん。無茶を言ってはいかん。周りが迷惑する」

「もう、あなたったら…。こういう言い方しかできないんですよ」

 ユイの言い訳にクリスティーネは微笑んだ。
 よくわかっているとでも言いたげに。

「娘さんにも連絡しました。お仕事があるので、今晩か明日の朝にはお出でになるでしょう」

「おやおや相変わらずの合理主義者だねぇ、あの子は」

「私が大丈夫だって太鼓判を押したからですよ」

「ありがとよ、ユイさん。何から何まで」

 ゲンドウが物言いたげに身をよじる。

「どうしたの?」

「後は任せていいか?遅刻だ」

「冬月の伯父様には電話しておきました。あっ、電話を勝手に借りちゃいました」

 問題ないとばかりにクリスティーネは頷く。

「休みでもいいって言ってくださいましたけど」

「そんなわけにいくか。今から行く」

「そういうと思ってました。台所におむすびをつくってますからそれをお弁当にしてください。
 あ、それから手摺に干しているものがありますから、乾いてたら中に入れてくださいね」

 その言葉にアスカは真っ赤になってそっぽを向いた。
 おねしょならまだしも、お漏らしだったのだ。
 しかもゲンドウの布団の上で。

「わかった。ではな」

 ゲンドウはじろりとクリスティーネを睨みつけると、大股で部屋を出て行く。

「いってらっしゃい!お父さん」

 シンジの声に背中で手を振るゲンドウ。
 わぁ、かっこいいとアスカとシンジは思う。

「あら、その格好で帰るのですか?」

 笑みを含んだユイの言葉にゲンドウの足が止まる。
 その足には病院の名前の入った緑色のスリッパ。
 そして身に纏っているのはこの場所に実に違和感のない着物。
 寝巻きだ。
 クリスティーネに蘇生術を施しそのまま救急車に同乗したのだ。
 したがって、眠っていたそのままの格好なのだ。
 ゲンドウはそのままの姿勢で固まっている。
 病院の入り口まではいいだろう。だが、さすがにこの格好で電車に乗る勇気はない。

「はい、持って来てますよ、着替え」

 風呂敷包みを捧げ持つユイ。
 ゲンドウが振り向いた。何故早く言わないかと言いたげに。言っても無駄なので言葉にはしないが。
 さっさと部屋の隅で着替え、寝巻きは風呂敷に包み直し、そして片方の手にはスリッパを持つ。
 
「では」

「はい、いってらっしゃいませ」

 丁寧なユイの言葉にゲンドウは少し悲しげに見やる。
 にこりとユイが微笑む。その片側の頬に少しだけえくぼが。
 それを見てゲンドウはふふんと鼻を鳴らし、そして扉に手をかけた。
 その背中を見送ったアスカが祖母のベッドによじ登らんばかりに身を乗り出す。

「よかったね、グランマ」

「ああ、本当に。ユイさんとこのご亭主のおかげだよ」

「いいんです。あれが神様があの人に与えた本当の仕事なのですから」

「ほう…」

 ユイの言葉の意味をクリスティーネはすべてわかっているような顔つきだった。
 もともと医者の奥方だったのだから、直感的にわかるところがあるのかもしれない。

「じゃ、私は先生に話を聞いてきますから…。アスカちゃん、後はお願いできる?」

「任しといて!」

 予想していたより元気な祖母の姿に、アスカは元気を取り戻していた。
 僕だっているよと言いたげに唇を尖らせた息子の頭をぽんぽんと叩いてユイは病室を出て行った。
 病院特有の匂いの中、ユイはゆっくりと廊下を歩いた。
 これが…このことがあの人にもう一度やる気を与えてくれたのならいいのだけど。
 ユイはあの日のことを思い出していた。



 2年前の正月。
 年末年始はさすがに碇診療所は休みだった。
 ユイの父親が死んでもう2年になる。
 突然の交通事故死だったが、ともかくも孫のシンジの顔だけは見せることができた。
 それだけがユイの救いだった。
 母親は中学にあがる時に亡くしているので、ユイもゲンドウもこれで親という存在が一切いなくなってしまったのだ。
 だから正月といっても帰省や挨拶回りはしなくてもいい。
 それに休みといっても急患もあれば、要注意の患者もいる。
 要注意というのは、発作の危険がある患者。
 正月ということで日頃の節制を忘れてしまうことがあるのだ。
 したがって、ゲンドウ自身も羽目を外すことはできない。
 その正月に届けられた年賀状をコタツで読んでいたときだった。
 近所に住む老人が倒れたと家族が駆け込んできた。
 餅が喉につまったとのことで、ゲンドウが駆けつけたときはもう手遅れだった。
 何とか取り出して人工呼吸を繰り返したが、老人は息を吹き返さなかった。
 家族も酔っていたのでゲンドウを呼ぶのが遅れたのがいけなかった。
 老人の家族はひとつも繰言を言わなかったが、しかしゲンドウにとっては結果がすべてだ。
 ただでさえ無口の彼が陰鬱な表情で杯を重ねた。
 いつもより少し多めに。
 それをユイは止められなかった。
 そのことが彼女の悔恨のもととなったのである。
 医師の妻からすれば止めるべきだった。
 間の悪いことに、その時診療所のすぐそばで交通事故が起きたのだ。
 目の前に診療所がある。
 当然、ゲンドウはすぐに現場に飛び出してきた。
 被害者は女性で見るからに手遅れの感が強い。
 緊急手術をしようにも碇診療所にそこまでの施設はない。
 しかし、救急車を待っていてはどうしようもない。
 無理を承知でゲンドウは診療所に女性を運んだ。
 ストックの血液などあるはずがない。
 止血する一方で血液型を調べる。
 女性の意識は既になく、脈も弱まる一方。
 やっとのことで救急車が到着したが、もはや動かせる状態ではなかった。
 そして、女性は碇診療所の診療室で死亡した。
 内臓破裂、出血多量。
 そして、非難がゲンドウへ集中する。
 専門医でもないのに無理に手術を執刀した。
 その上、その時酒気を帯びていたと、救急隊員の談話もその地方の新聞に掲載された。
 だが、これには裏があった。
 女性をはねた車はそのまま逃げた。その後発見された車は盗難車で運転していた人間は無論姿を消していた。
 そのままでも記事にはなるのだが、その記者はさらにエキセントリックな記事を欲したのだ。
 そこで救急隊員がぽろりと漏らした言葉を拡大解釈したのだ。
 もっとも彼が話したのはあれで少しも手が震えたりしなかったのだから腕はいい先生だった、
 という内容だったのだが。
 しかし、記事ではあのまま救急車で総合病院に運んでいれば被害者は助かったはずだと論旨が展開されたのだ。
 もちろん、解剖によりゲンドウの判断に間違いはなかったことは証明されたのだが、
 彼の評判はがた落ちになった。
 先代院長の人当たりの良さとは大きく異なる無愛想さ。
 腕は確かなのだが、患者の評判はすこぶる悪い。
 それがベースにあったのが、今回の事件。
 どちらの死因もゲンドウに責任はない。
 それなのに、街の噂はヤブ医者に人殺し。
 年始休みが終わっても患者は殆ど来なくなってしまった。
 ゲンドウはそれでも超然としていた。

 だが、2ヵ月後、彼は突然ユイに言い出した。
 金が要る、と。
 どのくらいの金額かと問われると、ゲンドウは唇を噛み締め、そして一言だけ言った。

「できるだけ、多く」

 ユイは一瞬だけ息を呑み、そして優しく微笑んだ。

「わかりました。では、ここを処分しましょう」

 その明るい口調にゲンドウは黙って頭を下げた。
 何に使うのかも訊かない。
 別の医者が建物のまま買ってくれれば高く売れたのだが、
 評判の悪くなった医院を建物ごと引き継ぐ酔狂者がいるはずがない。
 取り壊すことが条件で不動産屋に安く売るしかなかった。
 家財道具や衣類もすべて金に替えて、ユイはゲンドウに渡してしまった。
 手元に残したのは当座の生活費だけ。
 その掻き集めた大金をゲンドウはどこかに持っていった。
 ユイにはその行先がどこか見当がついていたのだ。
 あの交通事故で死んだ女性は母子家庭で、高校生の娘がひとりぼっちで遺されたそうだ。
 そのことを新聞で読んだユイは、間違いなくその娘にお金が渡るように計らったと察した。
 ゲンドウにはもちろん社会的な責任はない。
 知らぬ顔をするのが当然だ。
 だがユイにはわかっていた。
 あの時、老人が死んだ後に自棄酒を飲んだ。
 もちろん、それが原因で女性が死んだわけではない。
 ただもしかするともっと手際よく施術できていたかもしれない。
 それがゲンドウを苦しめているのだ。
 まったく不器用というか真正直というか…。
 ユイはそんな夫がたまらなく愛しかった。
 それにこのままこの街で医師をしていても行き詰るのは目に見えている。
 もし他の街で病院に勤めても今の気持ちではおそらく仕事にならないだろう。
 ならば、ここは一度ゲンドウの思うとおりにさせてみよう。
 私はどこまでも着いていく。

 数日後、あれほど大きな家に住んでいたのにもかかわらず、ほんの身の回りのものだけを手にして、
 碇家の三人はその街を去った。
 悪意のある者はまるで夜逃げのようだったと陰口を叩いたものだ。
 ところが夜逃げにしては多くの人間がその時駅に見送りに来てくれたのだ。
 ゲンドウに命を救われた者、病を治してもらった者、そして古くからの知り合い。診療所の関係者。
 ただユイが友人と思っていた者は殆ど来なかった。
 ミッションスクールの教師がただ一人来ただけ。

「これは試練なのです。神様が与えてくださった。そうとでも思っておきなさい。気休めにはなるわ」

 敬虔な信者が聞いたなら目を剥くような言葉がユイへの餞の言葉だった。

「はい、先生」

 ユイは少し声を潜めた。

「泣いてくださっている方には悪いのですが、私、実は楽しみなんです。
 あの人と、子供と、三人で一からはじめるって、なんだかわくわくするんです」

 教師にだけそっと笑顔を向けたユイは、心底からそう思っていたようだ。
 
「それにこういう時にはあの無愛想な顔が役に立つとは思えませんか、先生?」

 教師は見送りの者から別れの言葉を沈痛な表情で受けているユイの夫を見つめた。
 なるほど、あの顔はこういう場面にはピッタリだ。ユイでは明るすぎる。

「ユイさん、あの方を支えてさしあげなさい。どうやらこの世界中であなたにしかできないような気がします」

「先生、この宇宙中で、の間違いです」

 にこやかに言い返すユイを教師はぐっと抱きしめた。
 この娘ならきっと…。
 それは彼女は言葉にはしなかった。
 医者を辞めてこの街を去っていく夫をしっかり支えていくのは間違いがないから。
 彼女のような妻を持ち、そして母に持つ、この二人の男性は幸せ者だ。
 教師はユイと手を繋いでいる若い方の男性の頭を優しく撫でる。
 シンジはただにこにこと教師の顔を見上げていた。

 そして、彼らはユイの伯父である冬月を頼ってこの街へやってきた。
 医者だった人間に肉体労働ができるのかと冬月は眉を顰めたが、
 不退転といった印象をゲンドウに受け自分の工場で働かせることにしたのだ。
 ゲンドウは二度と医師に戻るつもりはないと言い切っている。
 だが、ユイは別の日に冬月に頭を下げている。
 もし、いつか主人が医師に戻りたいと思ったならばそれを応援していくつもりだ。
 その時は辞めさせて下さい。都合のいい時だけお世話になるのは申し訳ないがお許しくださいと。
 
「頭を上げなさい。それはわかった。わかったがひとつだけ訊きたい。ユイ、あの男のどこがいいのだ?」

 小さい時から可愛がってくれた母方の伯父。
 その伯父にユイはあっさりと答える。

「すべてです。伯父様」

 こんな答を聞けば、冬月は苦笑するしかない。

「お前が願うとおりになればいいな。そうだ、就職祝いにテレビを買ってやろう。
 ああ、断るなよ。シンジちゃんが可哀相だからな」

 ゲンドウが頑固に断ったので、カラーテレビは白黒テレビに化けた。
 給料天引きの月賦返済だということで折り合いがついたわけだ。
 それ以降、冬月は返済された金を貯金している。
 将来ゲンドウが医師に戻る気になった時、必要経費にするためだ。
 作業員の服で医師の仕事はできないから。
 それに腕時計も医者には必要だ。

 冬月は始めてゲンドウを見たときに驚いた覚えがある。
 何故なら高校生のユイがべったりとくっつきかいがいしく世話をしていたのだ。
 その日は妹の…ユイの母の七回忌だった。
 医学大学を卒業したばかりのゲンドウが碇診療所に就職したのが一年前。
 無愛想なヤツだが腕はいい、と義弟がはがきに書いてきたこともある。
 その無愛想なヤツが可愛いユイのハートを射止めるとは…。
 ユイはゲテモノ好きだったのか、何故しっかりと監督しなかったかと義弟に本気で詰め寄ったものだ。
 


 ゲンドウは駅からアパートまでの道を急いでいた。
 今は10時過ぎ。完全に遅刻である。
 その道すがら、パチンコ屋を横目で見る。
 例の高校生の時の停学事件。
 パチンコ屋を見ると、その記憶が甦り、そして妻の顔が浮かぶ。
 まだ高校生になったばかりのユイの顔が。

「あなた…私のことが好きだったんでしょ?」

 初対面でこれだ。
 しかも「好きでしょ」ではなく「好きだった」なのだ。
 当然即座に返事などできるわけがない。
 戸惑って立ち尽くしていると、彼女はぷぅっと膨れて見せた。

「あっ!覚えてないんだ。私ははっきり覚えているわよ。あの秋の日の夕暮れ。
 あなたは駅から歩いてきて、私を見かけるとびくっと立ち止まって、
 それから顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げると、どこかへ走って行ったわ」

 ゲンドウはまったく覚えていなかった。
 こんなに可愛い娘なら忘れるわけがない。
 ならば向こうの人違いか?
 まさか、この俺と間違えられるような変なヤツがこの街にはいるってことか?

「ひどいなぁ。本当に覚えてないの?じゃあ、あんなに顔を赤くしたのは何の所為だって言うのよ。
 まさかあの夕焼けが顔に照りかかって、なぁんてこと言い出すんじゃないでしょうね」

「わ、わからん」

「わからないですって?」

 女子高生は通りの真ん中で腕組みをした。
 彼女は真剣に怒っている。
 嫌がられたことはあるが、怒られたことは少ない。
 
「こっちへ来てよ」

「お、おい」

 はっきり言って女性から手を繋がれたのはいつ以来か覚えもない。
 医療実習等でこちらから手を伸ばしたことはあるのだが、
 女性の方から、しかもこんなに可愛い娘から手を繋がれたなどゲンドウの人生で前代未聞。
 もっとも繋がれたといっても引っ張られたという方が正しいのだが。
 ともかく、六分儀ゲンドウは内心とんでもないパニックに襲われていたのだ。
 そして、引っ張り出されたのは駅前の通り。

「ここよ。あなたは向こうから歩いてきたの。詰襟の2番目まではだけてね」

「つ、詰襟!」

 いつの話だ…と頭を悩ましたゲンドウが傍らの女子高生をよく見る。
 その瞬間、軽いデジャヴが彼を襲った。
 
「すまん、笑ってみてくれんか」

「いいわよ」

 彼女は微笑んだ。
 それはあの頃憧れていた診療所の看護婦さんの微笑と同じだった。
 ゲンドウがこの街の診療所に職を求めたのは、あの若き日の苦い思い出と無縁ではない。
 憧れだけで自爆した思い出が何故か懐かしく、あの微笑をもう一度見たいと思ったのである。
 ただその看護婦さんであり、医師の妻だったその彼女は既に夭折していた。
 もう二度とあの微笑みは見られないものと、そう思ってこの街に彼はやって来たのだ。
 その微笑と殆ど変わらない笑顔で娘が自分を見つめている。

「どう?思い出したみたいね」

「ああ、君はあの時の…」

「そう、あなたは私を見て真っ赤な顔になって…」

「いや、違う。俺が見ていたのは…君のお母さんの方で……」

 言わずもがなの言葉。
 甘酸っぱい少女時代の思い出として大事にしまっていた彼女は怒った。
 自分のことを…小学生の自分に見とれていたものと真剣に思い込んでいたのだ。
 
「じゃ、何?あなたはお母さんみたいなおばさんの方が好みってわけなの?」

「いや、それは確かに、その時は、だから」

 歯切れが悪いことこの上ない。
 その上、しっかりと肯定してしまっている。
 当然、ミッションスクールの制服の彼女はかんかんに怒った。
 
「私には全然魅力がなかったということなの?はっきり言ってよっ」

「ランドセルを背負った子供には…魅力など…」

 六分儀ゲンドウ、己の容姿はともかくその嗜好はノーマルである。
 あの当時の母子を並べてみてどちらに魅力があるかは、ノーマルな男なら母親をチョイスするだろう。
 だが、もし今のこの健康な高校生の娘とあの時の母親が並んでいたなら?
 ゲンドウは悩乱し、娘は霍乱した。

「子供子供って言わないで。私はもう子供じゃないのよ」

 これを見よとばかりに胸を突き出す。
 ゲンドウは逃げ出したくなった。
 どうしてこんなことになったのだ?
 俺は別に可笑しいことは言ってないではないか。

「はっきり答えて。私に魅力はないの、あるの、どっち?」

「それは、ある」

 ゲンドウは答えた。
 真っ正直に。
 娘はけろりとした顔でうなずいた。

「なんだ。それならそうと、はじめからそう言えばいいのに」

「おい…いい加減にしてくれんか」

「どうして?」

 からかわれているのだと、ゲンドウは了解したのだ。

「俺のような男をからかっても…」

「うふ」

 ペロッと舌を出し、ばれたかと笑う娘にゲンドウは言葉を継ぐことができなかった。

「ごめんなさい。だって、あなた、可愛いんだもの」

 耳を疑うとはこのことかとゲンドウは思った。
 しかし、疑おうにも彼女の発した言葉はゲンドウの頭の中で何度も何度もリフレインされている。
 あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛
いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あ
なた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。あなた、可愛いんだもの。
 頬が熱い。
 喉が渇く。
 くらくらする。
 
 この瞬間、ゲンドウは碇ユイをただ一人の女として恋してしまった。



 ユイは、俺のことを何故……。
 これはゲンドウの生涯の疑問となった。
 彼女はその疑問にはただひとつの答しか喋らない。
 それは高校生の時も今も同じ。

「だって好きなんだもの。理由なんかないわ」

 確かに好きなものに理由など要らない。
 ゲンドウが好物の秋刀魚の塩焼きを好きなことに理由を並べようと思えばいくらでも並べられる。
 ただそれらの好きな理由というのは後付けだ。
 根本的に好きだからというベースがあっての話だ。
 それはわかる。
 わかるが、その対象がこと自分であれば話が違うではないかと思う。
 誰からも好かれにくい人間を好きだというには何か理由がないと納得しかねる。
 容姿がいいとか、身体が凄いとか、家が金持ちとか、頭がいいとか……。
 頭、か。悪くはない、な。医大に入って、免許を取ったのだから。
 だが、それでも、無愛想で無骨な自分を好きになるのはおかしい。
 このことを考え出すと止まらない。
 止めるためには、ユイの笑顔を見るしかなかった。
 
 それは左の頬に浮かぶえくぼの存在。

「よく見て。私はね、大好きな人にしかこのえくぼは出せないの。
 これまではお父さん、お母さん、だけだった。お母さんが見つけたのよ。
 お父さんがユイの嘘発見器だなんて笑ったわ。
 ほら、どうしてあなたと話していると、ここにえくぼができるんでしょうね?」

 確かにえくぼができていた。
 その後、ユイのことを見ていたが、どんなに笑顔になっていても、
 友達と喋っていても、左の頬にはえくぼは刻まれない。
 それが、自分と話すときにはあっさりとそれが出てくる。
 ゲンドウが勤めだして半年後、ユイの父親も爆笑して言った。
 ユイが君みたいなタイプの男を好きになるとは想像もできなかったと。
 「どう言い訳してもだめだぞ、証拠があるんだからな。ほら」と、父親はユイの左頬をつついた。
 そこにえくぼが刻まれている以上、ゲンドウはそれを信用する他ない。
 実際、ユイのえくぼはその後もゲンドウとそしてシンジにしか見せていないのだから。
 伯父の冬月にも見せはしない。
 
 先ほど、病院で別れた時もユイは自分にえくぼを見せてくれた。
 ユイは俺のことをまだ愛してくれている。
 ゲンドウは小さく頷くと、アパートの階段を駆け上がった。
 たんたんたんたんっ。
 睡眠不足のはずだが、身体も、そして心も軽い。
 惣流未亡人の命を救ったからか?
 ふん、未練がましい。
 俺は医者を辞めたのだ。
 その時、ゲンドウの足が止まった。
 手すりに干されているものを目の当たりにしたからだ。
 俺の…布団。
 何故だ?



「2週間?それはまた長いね」

「仕方がないと思いますわ。心臓ですからね」

「ふふん、あの亭主殿は藪ではなかったと言うことか。心臓に気をつけろとよく言ってたわ」

「まあ、名医でしたのね」

 外交辞令とは見えないユイの言葉にクリスティーネは鼻で笑った。

「名医なものかね。自分の病気は治せなかったのに」

「そんなこと言っちゃ、ダメですよ」

「で、アンタのとこのはどうなんだい?」

「名医ですよ。愛想はありませんけど」

 くくくっと笑うユイ。
 
「いいんだよ、医者なんて商売してるんじゃないから愛想などなくてもね」

「そうでしょうか?」

「まあ、ないよりあった方がいいのは確かだけどね」

 その一言に二人は顔を見合わせて笑った。
 アスカとシンジは探検だと、病院の中をうろついているようだ。
 ずっとこの部屋に閉じ込めておくのも可哀相だし、走ったらダメだと念を押して子供たちを送り出したのだ。
 その間、クリスティーネは横にはなっているが、眠ろうとはしない。
 そして、ユイとゲンドウの話を聞きたがった。
 この街に来て、冬月以外のものにこの話をしたことはなかった。
 すべてを話し終えると、クリスティーネは大きな溜息をついた。

「なんだよ、いったい。肝心の話より、二人の恋物語の方が分量がやたら多かったじゃないか。
 たまらないねぇ、まったく。こっちは愛する夫に先立たれた不幸せな未亡人だっていうのに。
 人様の気も知らないでよくもまあそんな惚気をしゃあしゃあと言ってくれるもんだよ。え?」

 言葉とは裏腹にクリスティーネの顔は笑っていた。
 その時、ユイは左の頬にある感触を覚えていた。

「あのぉ、くりさん。私の左の頬なんですけど、出てます?」

「ん?ああ、えくぼだね。片えくぼってヤツかい。でも、これまで気付かなかったねぇ」

 うふふ、くりさん。あなたは5番目の人。
 まだ親しくなってそんなに時間が経ってないのに。不思議ですよね。
 同じ医者の妻だからでしょうか。
 あの人は完全に辞めたものだと思っていますけど、誰が辞めさせるものですか。
 碇ゲンドウは世界一の名医。
 悪いけど今は亡き惣流先生は世界で二番目にしていただくわ。
 もうお亡くなりになってるからいいでしょ、ね、くりさん。



「アスカ、怖いよ。もう帰ろうよ」

「うっさいわね。ここからが面白いのよ」

「でもさ、ここ、し〜んとしてて怖いよ」

「弱虫。ミイラ人間もラゴンもダダもここに出てくるわけないじゃない」

「そりゃあそうだけど…」

「ほら、周りを見てみなさいよ。誰もいないわよ」

「いないから怖いんじゃないか」

「ホントにシンジは臆病者ねっ」

「ねえ、ここはどこなの?」

 アスカは扉の上に貼られたプレートを睨みつけた。

「わかんないわよ。ふりがな打ってないもん」

 二人はプレートを見上げた。

「でも、真ん中の字はわかるわよ。安売りの安よっ」

「わぁっ、アスカって凄い」

「えへへへ」

 県立有岡病院の人気のない地下一階。
 霊安室の前でアスカとシンジはニコニコしながら手を繋いでいた。



「もうっ!そこは死んだ人を安置する場所なのよ。霊安室って読むの」

「ええええっ!」

「死んだ人って死んでるの?」

 とぼけたことを言いながらもシンジは思い切りびびってしまっている。
 アスカもそれは同じ。
 そこがどんな場所か知っていれば、当然行くわけがない。

「あなたたち、幽霊なんか連れてきてないでしょうねぇ」

 大仰な身振りで二人の頭越しに向こうを見るユイ。

「ああ〜ん、そんなの連れてきてないよぉ」

「お母さんの意地悪っ!」

 二人とも怖くて後が見られない。
 まったく何と言う場所に入り込んでしまったのかと、二人とも猛烈に後悔していた。
 もっともあの後すぐに、色の白い看護婦さんにあそこから追い出されたのだが。
 ここはあなたたちの来る場所じゃない、早く戻りなさいと。
 つくづく長居しなくてよかったと胸を撫で下ろすシンジだった。

 お昼前にはアスカとシンジは暇をもてあまし始めていた。
 子供たちはとろんとした目付きになっている。
 そこでユイは子供たちを連れて一旦戻ることに決めた。
 クリスティーネはもう大丈夫だから来なくていいと言うが、そうもいかない。
 夕方前に顔を見せると約束して3人は病室を出た。
 帰りの電車の中で幼い二人は頭を寄せあって眠っている。
 昼前の電車は乗客が少ない。
 四両編成の各駅停車ががたごと走る。
 これは帰ったらお昼を食べて、それからお昼寝ね。
 私もちょっとだけその横で眠らせてもらおうかしら。
 アスカちゃんは邪魔だって言うかな?
 ふふふ…。
 電車の窓の外を風景が流れていく。
 南側を向いているから、殺風景な工場ばかりが目立つ。
 もくもくもくと白や黒の煙がどんどんと空に送り込まれている。
 この環境でシンジがどうなるかだけが心配だったけど、意外と病気ひとつしないのよね。
 あの人に似て結構頑丈なのかしら?
 あ、でも、私もこっちにきてから風邪ひいてないわよね。
 なんだ、じゃシンジは健康体夫婦の産物ってわけか。
 まあ、がんばれ我が息子。
 環境にさえ目を瞑れば、この街の方が私は好き。
 あの人だってこっちの方が合っているかも。
 昔ながらの屋敷町っていうのはあの無愛想男には元から難しかったのかもしれないわね。
 この街を医者をすれば…。
 そこまで考えた時、ユイの顔が綻んだ。
 無理かもしれない。
 でも、やってみよう。

 決意に燃えたあまり、ユイは電車を降り損ねた。
 駅に到着して扉が開いた時に気が付いたのだが、子供たちを起こしている間に扉は無情に閉まってしまった。
 と言っても下町を走る電車だけに一駅一駅の間隔は異様に短い。
 国鉄の一駅の間に三つも駅があるのだから。
 アスカとシンジは文句を言うどころかかえって喜んでいる。
 知らない街を歩くのは旅行気分でもあり、探検気分もある。
 何故なら、シンジの街の駅と次の駅の間には大きな川が流れていて、その川が市の境になっているからだ。
 市が違うとすぐ隣なのに足を向けることが少ない。
 日常の買い物は駅前の市場や商店街で充分間に合うし、
 役所等も当然自分たちが住んでいる町の役所を使う。
 したがってシンジもこの駅で降りたこと自体が初めてというわけになる。
 
「わぁっ、お母さん、お母さん、映画館だよ!」

 シンジの叫びを待つまでもなく、改札口の真ん前に映画館が立っている。
 大都市のものに比べると、小さい上にやや汚い。
 
「ねぇねぇ、ここでゴジラはする?」

 ユイは看板を見た。
 そこには夏木陽介がかっこよく笑っている。
 ゴジラって東宝映画よね。
 ポスターに東宝のマークが描かれているから多分大丈夫だろう。

「するんじゃないかな?同じ会社の映画館みたいよ」

「見たいなぁ、ゴジラ」

「私、見たわよ。東京で。ゴジラ対エビラ。モスラも出てきたわよっ!」

「わぁ、いいなぁ。僕、映画を見たことないんだ」

 卑屈になることなく、シンジが純粋に羨ましがる。
 そうなるとアスカの方は鼻高々だ。

「すっごくおっきな画面でね、それからね、眠っているゴジラを起こすの」

「エビラが?それともモスラ?」

「馬鹿ねっ、人間に決まってるでしょっ」

「えっ、人間がどうしてゴジラを起こすのさ。暴れられたら困るじゃないか」

 アスカが言葉に詰まった。
 一生懸命に筋を思い出そうとしている。
 だが、結局思い出せなかったようだ。

「そんなことはど〜でもいいのっ。とにかくゴジラが、エビラと、それから悪もんもやっつけんのっ」

「悪者も出てくるの?見たいなぁ、僕も」

 へへへと胸を張るアスカ。

「お母さん、お願い。次のゴジラを見たいの。映画館に連れてって」

「う〜ん、まあいいか。夏休みよね」

「わかんないよ」

「でしょうね。その時にはきっと忙しくなっているでしょうけど、なんとかするわ」

 意味不明のユイの言葉だったが、シンジは最後の部分だけで了解した。

「ほんとっ!やった、やったぁっ!」

 文字通り躍り上がって喜ぶシンジだったが、それとは対照的にアスカの表情が曇っていた。
 その意味はわかっているユイだったが、わざと話題にする。
 それがこの子達のためだから。

「あら、どうしたの?アスカちゃん」

「う、うん…」

 喜んでいたシンジも何事かとアスカの様子を窺っている。
 アスカは俯き加減に小さな声で言った。

「私、見られない。ドイツに行っちゃうから」

「あ、そうか。もうすぐお母さんとドイツに行くんだったわね。あっちではゴジラはしてないか」

 ことさらに明るく言うユイは、横目で息子の様子を確かめる。
 シンジは悲しげな目でアスカを見ていたが、大きく一度頷いた。
 よしよし。言っちゃえ!我が息子。
 そして、ユイの期待通りの言葉をシンジは発した。

「お母さん!僕、ゴジラは見ない!」

「あらま、どうしたの?」

「だって、アスカが見られないんだもん。僕も我慢する!」

 シンジの言葉は落ち込んでいたアスカの表情を一気に明るくさせた。
 
「シンジ!それはダメよ!」

 喜んでもらえると思っていたのに、アスカの予想外の返事でシンジは呆然となった。
 アスカは腰に手をやると、シンジに向かって胸を張った。

「アンタはゴジラを見るの。ちゃんと見るの。
 それでね、私にお手紙頂戴。どんなお話だったか教えてよ」

 ほほう、そう来たか、この娘もやりおるわい。
 小さな二人のやりとりを見下ろしていると、まるで神様の視点みたいだわとユイは思っていた。
 神様って言うのも面白いものね。
 なる気はさらさらないけど。私はあの人だけの女神さまで充分なのよ。
 誰かこの惚気聞いてくれないかなぁ?
 あ、そうだ。くりさんはどこにも逃げられないわよね。
 入院患者を苦しめる計画をユイは素晴らしい笑顔で決定した。

「うん!わかったよ!じゃ、画用紙に絵も描くよ」

「わぁい、楽しみ!じゃ、じゃあ、私も一杯描いて送るわよね。向こうにもゴジラみたいなのがいるかもしんないから」

 アスカは瞳をキラキラ輝かせた。

「うん!約束だよ!」

「と〜ぜんっ。破ったら許さないわよっ!」

「じゃ、指切りっ」

「うん、でも私は針なんか飲まないもんねっ。約束破らないもん」

 アスカは顎をすっと斜め上に突き出して、小指をぐっと前に突き出した。

「僕だって、飲まないもんっ。だって僕とアスカは結婚するんだもん。ずっと仲良しでいなきゃ」

「結婚、結婚!それも、指きりっ!」

 おやおや、我が息子もしっかりしているものだわ。
 アスカちゃんをしっかり捕まえておくつもりね。
 まあ、この年でこれじゃあ末恐ろしいのは確実よね。
 美少女に成長するのは間違いないけど、この気の強さもしっかり成長しそうだわ。
 未来の姑としては困りものだけど。
 ま、いいか。アスカちゃんならいい戦いができそう。
 私は姑にいびられた経験がないもの。あの人婿養子だし。
 シンジを挟んでああだこうだってやりあおうかしら?
 シンジはどっちの味方をする気かな?

 駅前から線路沿いに歩く。
 こちらの市はすぐそばなのに、どちらかというと住宅街。
 ほんの少ししか離れていないのに、南の空が青く見える。
 でも、南東を見るとスモッグだらけ。
 その方向がユイたちの街。
 こうして見るとよくわかる。
 スモッグの向こう側には青空があるってことが。
 手を繋いで歩く子供たちの後ろにユイ。
 二人は大きな声でウルトラマンの唄を歌っている。
 実はユイも聞こえない程度の声で一緒に歌っていることを前の二人は気付いていない。
 そのうち、アスカの歌唱指導が始まる。
 歌唱といっても歌詞の指導だ。
 シンジは3番をよく知らなかったのだ。
 テレビでは2番までしか唄われていないので、シンジは本で知っているだけなのだ。
 アスカはソノシートを持っているので完璧に歌える。
 片やシンジの家にはレコードプレーヤーすらない。
 そうやってわいわいやっているうちに、川岸にたどり着いた。
 少し南側の国道には歩道がないので、歩行者は電車の鉄橋のすぐ横にある専用の橋を渡る。
 まるで鉄橋にへばりついているような感じなのでかなり揺れる上に、
 電車が鉄橋を通過すると金網越しに風がびゅんびゅんと吹き付ける。
 アスカは内心怖くて仕方がないのだが、シンジがけろりとしているので言葉には出せない。
 但し、無理をして見せている笑顔は大いに引き攣っているのだが。
 
「アスカはすごいなぁ。僕なんてはじめてあそこを通った時、お母さんにしがみついて泣いちゃったんだよ」

「は、はは、あれくらい、ははは、私ってすごいでしょ」

「うん、本当に凄いや。ねぇ、お母さん」

「そうね」

 これもくりさんに教えてあげよう。
 たとえ可愛い孫娘であっても、きっと大笑いするだろう。
 でも、笑いものにしちゃうだけなのは少し可哀相ね。
 出演料を払ってあげようかしら。

「お昼にたこ焼き、買って帰ろうか?」

「えっ、本当?」

「やったっ!」

 今日はちょっと贅沢。
 アスカちゃんにとっても大変な日だったんだからね。
 ううん、あの子がいなかったら、くりさんは死んでいたんだもん。
 殊勲賞ってとこかな?たこ焼き程度じゃ悪いけど。
 
「お母さん、市場のたこ焼き屋さんでしょ。先に行って頼んでおいていい?」

「いいわよ。10個のを3つね」

「わかった。行くよ、アスカ」

「うん、私、焼いてるの見てるの好き!」

「僕もっ」

 駅前の商店街を手を繋いで駆けていく二人。
 その後姿を見やりながら、ユイは微笑んで…そして、あっと唇に手をやった。
 しまった。どうして3人分頼んじゃったんだろう。
 ちょっと調子に乗っちゃったか。私、残り御飯食べるつもりだったのに…。
 そして、ユイはぺろりと舌を出した。
 でも、たこ焼きは熱いうちに食べないとね。
 ごめんね、あなた。全部食べちゃうわ。



 ぐぅえっしゅっん!

 奇妙なくしゃみをしたゲンドウを同僚がからかう。
 
「どないしたんや。けったいなくしゃみしてからに」

「うむ。風邪ではない」

「なんや。医者みたいな口ぶりやな。ゲンさんみたいな医者やったら、みんな怖がってよりつかへんのとちゃうか」

 ゲンドウは鼻で笑った。

「そうだろうな。いや、そうに決まっている」

 医者は俺向きの仕事ではなかったんだ。
 こうやって機械を相手にしている方が向いているんだ。
 ゲンドウは自嘲するまでもなく、本心からそう思っていた。
 この時はユイもそう思ってくれているものと、彼はそう信じていた。






「あ、お母さん眠っちゃってる」

「静かにしなさいよ、馬鹿シンジ」

 丸い卓袱台で、仲良くたこ焼きを食べていると、
 いつの間にかユイの声がしなくなっていた。
 母親は卓袱台に寄りかかってすやすやと寝息をたてている。
 走り回った疲れが出たことくらい、幼稚園児でもわかるのは当然。

「うん、わかった。起こさないように…」

「ホントにアリガトね。グランマを助けてくれて」





(5) 昭和42年4月12日 水曜日・その弐



 キョウコはまだ病院に到着していなかった。
 ただ容態を尋ねる電話が数度病院に入っていると看護婦がクリスティーネに教えてくれた。
 
「それでいて、私と話をしたいなんて一言も言ってくれないのさ。冷たい子だよ」

「心臓麻痺を起こした人を電話口まで運ぶんですか?とんでもないですよ」

 お昼寝を少しした後に、また3人は病院へ。
 その途中、アスカとシンジはユイを真ん中にして手を繋いでいた。
 アスカはシンジの掌とはまた少し違った感触。
 ちょっぴり柔らかくて女の子って感じがする。
 この子の母親ってどんな感じなんだろうか?
 電話で話した感じでは確かに合理的な口調だったけど、母親を気遣う気持ちは伝わってきた。
 アスカちゃんだって気は強いけど変な子じゃない。
 母一人でちゃんと育てていると思う。
 まあ、楽しみね。もうすぐ、ご対面できるんだから。

「で、持ってきてくれたのかい?私の愛読書」

「はい、ありましたよ。おっしゃってた場所に。それから、短波ラジオも」

 袋から取り出してきた本と小型ラジオにクリスティーネの顔が綻ぶ。

「ああよかった。これで暇が潰せるよ」

「くりさんってこんな趣味があったんですね。ちょっと意外だなぁ」

「趣味だけじゃないよ、実益も兼ねてるのさ」

 なるほど、無職のくりさんの生活を支えているのはこれだったのかとユイは思った。
 だが、こんな先がどうなるかわからないような収入はユイの目では物凄く危ない橋に思えて仕方がない。

「ユイさんや、アンタ、こんなので金を儲けているのが気にいらないかい?」

 クリスティーネは四季報をめくりながら、ユイに問いかけた。
 アスカはその祖母のベッドの端でスケッチブックを広げてお絵かき中。
 描いているのはゴジラと、そしてエビというよりもザリガニの怪獣。
 今日話題になった怪獣映画の絵を早速描いているのだ。
 そんなアスカは大人の会話には興味なし。
 シンジはといえば、寝ている。
 あまりお昼寝ができなかったととろんとした目をしていたので、
 隣の空いているベッドを拝借しているのだ。
 もちろん看護婦さんの許可を貰って。
 彼は寝つきは悪いが、眠ってしまうとなかなか起きない。
 
「いえ、ただ驚いただけです。株で生活していたとは予想もしていなかったので」

「私も吃驚したよ。こんな才能があったとはね。もともとは亭主がしてたのよ。
 で、お前もやってみろと遊び半分でしてみたら、これが大当たり。
 最初は亭主もむきになって張り合っていたけど、お前には負けたってね。
 実は惣流家って案外金持ち…いや、資産家なんだよ。
 うちの隣の建物もうちのものだしね」

「あら、あの廃工場が?」

「あはは、中身はすっからかんさ。いつでも立て替えられるようにね。
 本当は病院を大きくしようかって買ったんだけど、計画中に藪医者殿はあの世に行っちゃって。
 次はキョウコが結婚したらそこに家を建てればいいと思ってたんだけど…」

 後は言いよどむ。
 はっきりした性格のクリスティーネにしては珍しい。
 おそらくキョウコの結婚の時にいろいろあったんだろうとユイは推察した。
 
「うちと電気屋の間の空き地もうちのものさ。
 こうなれば使いようもないんだけどね。
 アンタ、要るかい?」

 四季報から目を上げて、ユイを見つめる。
 その目は悪戯っぽく輝いてはいるが、けっしてからかったりしている目ではない。

「ありがとうございます。いずれお願いするかもしれません」

「おや、家でも建てるのかい?」

「いえ、診療所を…」

 ユイは微笑んだ。

「そう言ってくれると思ってたよ。
 アンタ、あの亭主の尻を叩くつもりだね」

「はい、ぱしんと」

 ユイは右手を勢いよく振り下ろす。
 その仕草を見て

「だけど、難しいんじゃないのかい?
 一度なくした自信はなかなか戻らないよ」

「ええ、そう思います。でも、今がチャンスですから」

「私の命を助けたからかい?私はいい出汁ってところか」

「はい、コンソメ味の」

「こら、私は鰹出汁だよ。西洋料理よりも日本料理の方がもう得意さ」

「それは失礼しました」

 おどけて一礼するユイに、クリスティーネは楽しげに笑った。

「そうなれば、わざわざ診療所を建てる必要はないんじゃないかい?
 うちを使えばいいのさ。綺麗なものだよ」

「はい、拝見させていただきました。よく掃除されていて」

「アンタ、なかなかの策士だよ。私がこう言うってわかってたんだろ」

 ユイは微笑みで肯定した。

「まったく喰えない女だね。キョウコの方が単純で素直ないい子に思えてきたよ」

「あら、ママに褒めてもらえるなんて、いつ以来かしら?」

 新来の声に扉の方を見る。
 そこに立っているのは、洒落たスーツ姿の白人女性。
 腕組みをして、顎を突き出しているところなどはまさしくアスカの母親。

「ママっ!」

 さすがに娘。
 アスカが一番反応が早かった。
 クレヨンを投げ出して、母親のところに突進する。

「アスカ。元気みたいね」

「うん!アタシ、とっても元気よ。あ、そうだ。あのね、アタシ、結婚するからっ」

 抱き上げた娘にいきなり結婚宣言をされて言葉を失ってしまったキョウコ。

「おむこさんはね、シンジっていうのよ。大きくなったら結婚するって指切りしたの。
 えっとね、そこで…お昼寝中」

 母親に紹介しようとしたが、あいにくシンジはまだ夢の中。
 キョウコは少し醒めた目でそのうら若き婚約者を見下ろした。

「そうなの?まあ、随分と若い時に結婚を決めちゃうのね」

「はっ、いい気味だ。私の気持ちがわかったかい」

「ママはまたそうやって減らず口を叩く」

 アスカを床に下ろしたキョウコはずんずんと母親の前へ進んでいく。
 身体をベッドの後の方にずらしたユイは好奇心丸出しで成り行きを見ている。

「アスカの相手はもしかしてこの人の息子?」

「ああそうだよ。シンジちゃんはとてもいい子さ」

「うんっ。シンジはとってもいいヤツよ!」

 キョウコはぐっとユイを睨みつける。
 こういうときは神妙な顔をすべきなのだろうか。
 きっとそうなのだろうが、ユイは笑ってしまった。

「ごめんなさい。惣流家の土地や財産を狙ってますの」

「あ、貴女ねぇ…」

 何か言い訳や話を逸らしでもすれば、言葉の洪水で押し流してやると準備していたのに、
 こうもあっけらかんと言われると唖然とする他ない。

「馬鹿言うんじゃないよ。アンタ、今の今までうちが資産家だなんて知らなかったじゃないか」

「いえいえ、あんな立派な診療所があるのは知ってましたよ。今朝知ったばかりですけど。
 あれが一番の狙いです。建てる必要がないもの」

「だ、そうだ。キョウコ?どうしようかね」

「ママっ」

 冷やかすような口調にキョウコは眉を上げる。
 
「そんな大声を上げると心臓に悪いねぇ」

「いい加減にしなさいよ。ママ」

「ママ、ややこしいよぉ。グランマはグランマって呼んでよ」

「あのね、アスカ。グランマはママのママなんだから、ママでいいのよ」

「じゃ、アタシのママにしてよ。シンジのママの事は“シンジのママ”ってアタシ言ってるよ」

「あのね、でも、例えばアスカとそこのわけのわからない子が結婚すれば、
 アナタはそこの図太い女のことをママと呼ばないといけないのよ」

「えっ、そうなの?」

 アスカがユイを見る。
 いささか照れくさいが、間違ったことは言えない。

「うん、そうなるわね。私の娘って事にもなるから」

「じゃ、ママって呼んでもいいのね。ママ!」

 この呼びかけは効いた。
 自分が産むことのできない白人幼児からにっこり笑って「ママ」。
 くらっとしそうなほどの快感を覚えた。

「こら、アスカ、やめなさい」

 娘の身体をぐいっと引き寄せて、キョウコはユイを睨みつける。

「貴女、何よ。とろんとした顔しちゃってさ」

「あ、ごめんなさい。女の子にママって言われるのもいいものねぇ。
 あ、そうか。うちじゃお母さんだっけ。あの、アスカちゃん?お母さんって呼んでくれる」

「おか…ぐわぅ」

 言わせてなるものかとキョウコが娘の口を塞ぐ。

「これ、キョウコ。乱暴な。ああ、それじゃユイさんや、あんたは私のことをお母さんと呼んでくれるかい?」

「あら、いいんですか?それでは…お母さん」

「おお、いいもんだねぇ。キョウコはずっと“ママ”ばっかりだったから」

「ママっ、いい加減にしてっ」

 本当は怒鳴り上げたいのだが、ここは病院の上に相手は昨日心臓発作を起こしたばかりの人間。
 
「もう、いいわ。ママが元気なことはよくわかりました。
 これで心置きなくドイツに旅立てるわ」

 キョウコはニヤリと笑った。

「さあ、行くわよ、アスカ。こんなところに長居は無用」

「おうちに帰るの?」

「違います。東京に帰るの。ママが入院してるんだからアスカの面倒を見る人間がいないでしょ」

「それはマ…マじゃない、お母さんがしてくれるもん」

「まだお母さんじゃありません」

 咄嗟にそう言ってしまい、キョウコは天井を仰いだ。
 こんなことを言ったら、まるで婚約していると認めたみたいじゃないの。
 超高速で仕事片付けて飛んできたっていうのに、この三人ときたら…。
 もう、ほっとしちゃったじゃない。
 そうは言っても、このままには済ましてはいられないわ。
 この私は負けず嫌いなのよ。
 キョウコはニヤリと笑った。

「そうねぇ。よく考えたら株券とかあのままにしておくのはまずいわよねぇ。
 泥棒猫がすぐ近くに…いいえ、家の中にも出入りしているんですから」

 まあ、とユイの顔。
 クリスティーネは見えないようにくすくす笑う。
 娘の性格はよくわかっている。
 これはユイをぎゃふんと言わせるまでは帰らないつもりね。
 もっとも今日中にそうするつもりでしょうけど。
 見られないのが残念だね。



「ふふふん。楽しいなぁ。ママとお母さんっ」

 真ん中のアスカはしっかりと二人の手を握り締めている。
 左手にユイ、右手にキョウコ。
 キョウコはアスカには笑顔を見せるが、ユイと視線が合うとふんっとすぐに目を逸らす。
 シンジがどこにいるかというと、母の背中。
 まだ眠たくてキョウコへの挨拶もはっきりできなかった。

「アスカ。何度も言っているでしょう。その人はお母さんじゃないって」

「だって、シンジのママなんだもん。結婚したら、アスカのお母さんになるんだもん。ねぇ〜」

 左側を見上げるアスカ。

「まあ、結婚すればね」

「じゃ、絶対に大丈夫。アスカはシンジと結婚するもん」

「あら、ありがとう」

 溜息雑じりに空を仰ぐ。
 ああ、この街の空だ。
 東京の空がきれいだとは決して言えっこない。
 それでもここよりはましだ。
 海に近づくほど濃くなっていく灰色の空。
 彼の元へ飛び出していくまでずっと眺めていたこの空。
 大嫌いだった。
 でも、懐かしい。

「アスカ、クリームソーダ飲んでいきましょうか?時間はまだあるんでしょ」

「わっ!ホント?」

 歓声を上げたアスカがユイを仰ぎ見る。
 
「飲んでいらっしゃい。おばさんは掃除とか色々あるから。あの…」

 ユイはキョウコの顔を見る。
 彼女は素知らぬ顔で線路の方を見ている。
 なんと呼ぼうか、その答を欲しかったユイだが、そういう対応をされては仕方がない。

「アスカちゃんはお母さんと一緒に喫茶店に行ってらっしゃい。シンジはまだ眠りそうだから」

「う〜ん、ママとお母さんとシンジと、み〜んな一緒がいいよぉ」

「わがまま言わないで行ってらっしゃいな。あの、お昼はどうされましたか?」

 ユイにとってはけっこう大問題。
 この2日ばかり計画外の出費が重なっている。
 もちろんそのことを周囲に気取らせてはいない。
 ところが、ユイは気付いている。
 ゲンドウも、くりさんも知ってて知らないふりをしてくれているだけだと。
 そしてこの時、もう一人その仲間が増えた。
 アスカにシンジのことを病院を出る前からずっと聞かされ続けている。
 住んでいるのは裏手のアパート。
 父親は町工場に勤めている。
 となれば、その収入はいいわけがない。
 それならば喫茶店に誘ってもそれとなく断ることは当然。
 しかし、わからないのは、その父親とやらは元医者らしい。
 ならば収入がいいはずのその仕事を何故辞めているのか。
 そこのところがはっきりしないと、戦うことができない。
 キョウコはそう思っていた。
 戦うならば正々堂々と真正面から。
 それがキョウコの信条だった。
 昔から、そして今も。
 となれば、ここはこうしないことには気がすまない。

「アスカ。今は我慢しなさい」

「え?」

 キョウコは至極自然に話す。

「クリームソーダはおやつにしましょう。その寝ぼすけのアスカのボーイフレンドと一緒に」

「わっ!ホント?嬉しい!じゃ、そうするっ」

 アスカに不満があるわけがない。

「ということで、お昼が終わったら私たちは喫茶店。あ、私は角の来々軒で食べますからご心配なく。
 その間、アスカはそちらで昼寝でもさせておいてくださる?」

 これで如何と言いたげなキョウコにユイは笑いをこらえていた。
 スポーツマンシップというのか直球勝負というか、こういうのは彼女の好みだった。
 あの変化球が一切投げられないゲンドウを愛しているユイなのだから。



 3時のおやつは喫茶店でクリームソーダ。
 百貨店の大食堂でクリームソーダは食べたことがあるが、
 喫茶店に入るのはシンジは生まれて初めての経験だった。
 駅から商店街を抜けて、アパートに一番近い喫茶店・黎明。
 オレンジ色の日除けが通りの中で眩しいほど派手で、
 シンジは当然そこに大きく書かれた店名を読むことができない。
 母親に聞いて、れいめいと読むことを知った。夜明けという意味ということも。
 店の中に入って、夜明けという店名と少し薄暗い店内にどのような関係があるのか…
 もちろん、そんなことをシンジは考えない。
 彼が今一番悩んでいるのは、キョウコのことを何と呼んだらいいかということなのだ。
 こんなことで悩むのはこのまだうら若き幼稚園児にとって初めてのことだった。
 “おばさん”“おばあさん”“お姉さん”…。年上の女性のその殆どがこの3つに分類される。
 マヤのような年頃の女性は“お姉さん”。
 クリスティーネは“おばあさん”というほどではないが、アスカの“グランマ”という呼びかけに倣ってそう言っている。
 近所の母親たちはすべて“おばさん”である。
 で、問題は目の前に座っている女性。
 見るからにアスカそっくりの容姿で、雑誌を手に少し身体を横にずらして読みふけっている。
 足を組んで座っている、その姿はシンジにとってテレビでしか見たことのないような雰囲気たっぷりなのだ。
 そう。“おばさん”と呼ぶにはキョウコはあまりにカッコよすぎるのである。
 初めて会ったときからこの苦しみは続いている。
 いや初めてのときは頭がぼけっとしていて夢うつつだった。
 苦しみはお昼寝が終わって玄関先でキョウコに真上から見下ろされた時からだ。
 少し無愛想に見下ろされているその人のことをすっと“おばちゃん”と言えなかった。
 その第一印象がアスカの母親というよりも姉の様に思えたからだ。
 だが、どこかで呼びかけないといけないときが来る。
 シンジは困ってしまった。

「どうしたのよ、シンジ。飲まないの?」

 ストローをクリームソーダに突き刺しもせずに、考え込んでいるボーイフレンドにアスカは眉を顰めた。
 この問いかけはシンジにとって渡りに船。
 すぐにアスカの耳元に口を寄せる。

「あのね、アスカのお母さんって何て呼べばいいの?」

「はい?」

 まるでウルトラマンは怪獣の仲間かと訊かれでもしたかのように、アスカが呆気にとられた。

「何よ、それ。ママはママに決まってんじゃない」

「え、でも、そんなの、僕言えないよ。僕のお母さんじゃないもん」

 うっ。
 キョウコは口に含んだコーヒーをやっとの思いで吹き出さずにすんだ。
 この子、何?
 最初に会ったときから、何かを一生懸命に考えているかと思っていたら…。
 
「いいのよ、ママで。だって、アンタ、アタシと結婚すんでしょ。そしたらアンタのママになるんじゃない」

「え…、そうなの?」

 よかった。
 今度は口に入れていたら間違いなく吹き出していたわ。
 この子、天然?
 いや違うわね。この年頃でアスカの様にませている方がおかしいのよ。
 結婚すれば母親とか父親とか兄弟が急に増えることを知らないのは当然。
 ここで、キョウコは少しだけ自嘲した。
 増えない場合もあるけどね。
 戦死したラングレー少尉と結婚はしたものの、結局彼の両親には認めてはもらえなかった。
 会ったのは一度だけ。彼の遺骨を奪い取りにきた時。
 法的にも認められている妻と娘の下に、あの人たちは夫であり父親でもある彼の遺骨を残そうとはしなかった。
 キョウコは孫の顔を見れば…などと少し期待していたのだが、彼らはそんなことに頓着しない。
 アスカも彼らを見た途端に泣き出してしまったのだし。
 その上、ジャップとナチの混血児だなどと毒づかれ、キョウコは彼の母親を平手打ちしてしまった。
 結局短い結婚生活で残されたのは、数少ない遺品とそしてアスカだけ。
 いや、それと思い出か。
 後悔はしていない。少しも。
 ……。
 さて、この子はどうするのかな?
 意識を前の子供たちに戻したキョウコは内心わくわくしていた。

「じゃ、お母さんって言うの?」

「当たり前じゃない」

「で、でもさ、お母さんって感じじゃないもん」

「んま!何よそれ。アタシのママに向ってっ。これでもちゃんとお料理もお洗濯もできんのよっ」

 あとでアスカを折檻しよう。
 キョウコは即決した。
 あまりに口の利き方が悪すぎる。お尻を三発くらいは叩いてやらないと。
 もちろん、小声で喋っているつもりの二人は、
 雑誌を読んでいるキョウコがすべて聴いているとは夢にも思っていなかった。

「ち、違うよ。えっと、あのね。だって、アスカのお姉ちゃんみたいなんだもん」

「んま!ママに向ってお姉ちゃんって何よ。ママはおばさんよ。それだったらシンジのママの方がお姉ちゃんって感じよ」

 アスカの尻叩き、後五発追加。
 雑誌を持つキョウコの手が少し強くなってページが破れそうになったことを二人は見ていない。
 
「えぇっ、そうかなぁ。お母さんはおばちゃんだよ。うん」

 子供にとって自分の親は親でしかない。客観的に見られるものではないのだ。
 ユイなどは未婚だと主張しなくてもそう見える。
 シンジやゲンドウと一緒にいるから所帯持ちだと認識されているだけだ。

「そんなことないわよ。アンタ、変なんじゃない?」

「アスカこそ変だよ。おかしいなぁ」

 会話は平行線。
 キョウコは自分が単純な人間だということを再認識していた。
 この幼児に好感を持ち始めているのだ。
 それも自分がアスカの姉のように見えると、思ってくれていることがわかっただけで。
 本当に虚栄心の塊ね、私って。
 
「シンジちゃん」

「はい!」

 いきなり声をかけられて、シンジは起立した。
 まあ、可愛い。
 一度好感を持ってしまうと、雪崩現象だった。
 
「早く飲まないと、ぬるくなってしまうわよ」

「はいっ、ごめんなさい」

 慌てて座って、クリームソーダにいきなりストローを突っ込む。
 当然、炭酸が弾けみるみる泡が上がってくる。

「わわっ!」

 さらに慌てたシンジが咄嗟に動けないでいると、キョウコがすっと顔を近づけてきた。
 そして、クリームソーダのグラスの端にそっと口をつけると、その泡をすすすと吸い込む。
 
「ふふ、いけないわよ、いきなりは」

 ぼけっとその仕草を見ていたシンジは我に返って言った。

「ごめんなさい。お姉ちゃ…痛いっ」

「あ、ごめんね!わざとじゃないわよっ」

 明らかにわざとシンジの足を踏みつけたアスカである。
 惜しかった。もう少しでお姉ちゃんと言って貰えたのになぁ。
 そんなキョウコの虚栄心いっぱいの心はその数十秒後に粉砕された。

「ほら、ママにママって言いなさいよ」

 対抗心で満ち溢れているアスカはいきなりシンジに強要した。
 脈絡も何もあったものじゃない。

「で、でも…」

「言わないと、結婚してあげないわよっ!」

「ええっ!そんなの酷いよ」

「うっさいわね。早く言いなさい!」

 シンジは内心泣き出したくなりそうな気持ちで、キョウコを見上げた。
 この人をお母さんというのは違うような気がする。
 だって、お母さんってもっと大人の人に言う感じだから。
 そこで、生まれて初めての言葉を口にした。

「ま、ま、ま、……ママ……」

 言ったきり俯いてしまうシンジを見て、キョウコは胸が一杯になった。
 こ、この感情はいったい何?
 もしかすると、この子の母親がアスカに“お母さん”って言われて蕩けた顔になってしまうのはこのこと?
 まさか、私もあんな顔を…!
 あんな無様なにやけた顔を?
 この惣流キョウコともあろうものがっ!

「はん!ほら御覧なさいよ。ママったらすっかり喜んじゃってるじゃない」

 ああ、やっぱりそうなんだ。
 う〜ん、男の子にママって言われるのもいいものね。
 彼との子供は男の子がいいなぁ。
 
「う、うん。でもやっぱり恥ずかしいよ、僕」

「そんなことは気にしなくていいのよ、シンジちゃん」

 考えるより先に言葉が出た。

「おばさんはこういう外人の顔だから、ママって言葉の方が似合うのよ。だから…」

 そこまで言ってから、キョウコは心の中で溜息を大きくついた。
 何をこんなに必死になってるんだろう。
 まあ、いいわ。別に悪いことじゃないし。
 自己完結したキョウコは、ひとまず愛娘の結婚問題については棚置きとすることに決めた。

 次の問題は、母親の財産問題。
 この子の母親がうちの財産を狙っている件。
 これはただでは済ましておかないわ。
 このおやつが終わったら、決戦よっ!



 そして、決戦の場。
 子供たちは惣流家に隔離。
 おそらく二人はお絵かきか読書か鬼ごっこか。
 遊ぶ種には困らない。何しろ二人は子供なのだから。
 その母親同士はアパートの2階、丸い卓袱台を挟んで対峙していた。
 とはいえ、ユイの方は余裕いっぱい。微笑を絶やさない。
 キョウコも対抗して自分では微笑を浮かべているはずだが、そこのところは自信がない。
 となれば無理に相手に合わせることはない。
 彼女は笑顔を引っ込めて真剣な表情で相対した。

「さぁて、じゃ話してもらいましょうか。一部始終をね」

「そうですね、どこから話せばいいのか…」

「簡単でしょ。最初から初めて終わりで終わればいいのよ」

「あら。アリスですか?」

「なんだ。知ってるの」

「はい。アリスは持って来ませんでしたけど」

 ユイはそれとなく整理ダンスの上に並べている10冊程度のの本を見やった。
 随分と読み込んでいることがわかるその装丁の崩れ。
 
「本が好きなの?」

「はい」

「なるほど、ね」

 何がなるほどなのかをユイは訊ねてはみなかった。
 おそらくキョウコはいろいろと推察したものと見える。

「じゃ、そうね、貴女とご主人の出逢いくらいからはじめてもらいましょうか」

「そんなに前から?恥ずかしいわ」

「前っていつ?」

「小学校4年生」

「このマセガキ」

「はい?」

「別に?さ、まあ、面白そうだからその恥ずかしいところからにしなさいよ」

 表情は硬いが目が笑っているような気がする。
 ユイは口を開いた。

「あれは、母と肩を並べて駅前に向かって歩いていた時でした…」



 その一時間後。
 ユイの左頬にはあの片えくぼが浮かんでいた。
 
「オ〜ケイ、そういう話ならこの私も協力してあげる」

 キョウコはニヤリと笑った。
 
「あんな場所でよければ使えばいいのよ。あのままにしておいても仕方ないしね
 但し、病院の名前だけは惣流の名前を使ってくれる?
 パパとママの思い出の場所だから。ま、多分ママは名前なんてどうでもいいって言うだろうけどね」

「名前は仰るとおりにします。でも、物凄く気前がいいのね」

「ふんっ、乗っ取られるっていうのなら徹底的に戦って、そして最後に勝つ。
 その時にはアンタの勝ち目はこれっぽっちもないわ」

 この人なら本当にそうするだろう。
 敵にならなくてよかった。
 そう思い、そして気持ちよさそうなキョウコの笑顔につられて顔を綻ばせた時だ。
 左の頬にあの感覚が生まれたのは。
 あら、6人目。
 この人と友達になりたいなぁ。

「アンタ、誕生日いつ?」

「3月30日。18年の」

「じゃ、アンタは妹。私は14年の11月21日だから」

 勝ち誇ったように笑うキョウコ。
 やっぱり年上だったんだ。
 でも、なんだか雰囲気が違ってきたような。

「ん?どうしたの。何がおかしいのよ」

「あ、ごめんなさい。だって、急に口調が…」

「口調がどうだって言うのよ」

「アスカちゃんそっくり」

 一瞬きょとんとなるキョウコ。
 そして、爆笑する。

「ははは!メッキ剥げちゃった?あのママの娘だし、アスカがあんなのよ。
 こういう口調の方が自然じゃない?」

「ふふ、そうですね」

「で、そっちはどうなの?その丁寧な口調はメッキ?」

「あの…ごめんなさい」

 頭を下げるユイに、キョウコは唇を尖らせる。

「なぁんだ、そっか。えらくおしとやかな妹ができたもんだ。ははは」

 キョウコは豪快この上ない。
 
「あの…キョウコさん…って呼んでいいですか?」

「ダメ」

「え…」

 予想外の返事に戸惑うユイ。
 キョウコはちっちっちと舌を鳴らし、指を立てて横に振る。
 
「さん、なんか付けないでくれる?キョウコって言ってよ」

「でも、私年下ですし」

「うるさい。そんなの許さないわよ」

 ユイは困ってしまった。
 ミッションスクールでもそういう教えを受けてきた。
 先輩を年上を敬え、後輩を年下を慈しめと。
 そんなユイに4つも年長のキョウコを呼び捨てにすることは出来ない。

「あの…すみませんが、それだけは…」

 断り続けるユイにキョウコは頭にきた。
 眉を上げ、卓袱台に肘を突いて掌に顎を乗せる。

「ふ〜ん、そうなの。いいわよ〜、それでもさ。
 じゃ、私はアンタのことをユイ様って呼ばせてもらうことにするわ」

「えっ」

「それとも、お姉さまとでも呼ぼうかな?どっちがいい、ねぇ、ユイ様?」

 ユイはこめかみを押さえた。
 この人はたちが悪い。
 これまで付き合ってきた人の中には一人としていなかったタイプだ。
 唯我独尊を絵に描いたような女性。
 アスカがこの母親そのままに成長するなら、シンジは苦労するかもしれない。
 ま、当人が納得しているのなら別に言うことはないがと、ユイは思った。
 
「呼び捨てします。ですから、それは止めてください」

「それって何?教えてよ、ユイ様ぁ」

 しつこい。
 嬉しそうに笑い続けるキョウコをユイは睨みつけた。

「いい加減にしてくださらないと、怒りますよ。キョウコ」

 キョウコは自分を呼び捨てにした時点でころりと表情を変えた。

「OK。できるじゃない。でも、アンタに怒られるのは止めとく。何されるか見当もつかないし」

「それはどうも」

 言葉が切れた。
 見つめあった二人は、やがて堰を切ったように笑い出す。
 まるで女学生の当時に戻ったかのように。
 キョウコは卓袱台をバシバシ叩きながら。
 ユイは仰向けになって足をバタバタさせながら。
 その笑いがおさまるまでにはしばらくかかった。



「さて、ユイ。これからどうしようか。アンタの亭主って並大抵じゃ動かないでしょ」

「ええ。難しいですよ。でも、やらなきゃ」

「ああ、面白そう!ちゃんと計画つくるわよ。そうね、碇ゲンドウサルベージ計画ってのはどう?」

「あの…キョウコ?もしかして、貴女は面白そうだから協力してくれてるだけだとか…?」

「ふふ、と〜ぜんじゃないの。こういうのってわくわくするわ」

 悪びれずもせずに、キョウコは言い切った。
 もちろんそれだけのために力を貸してくれるのじゃないことはよくわかる。
 ずいぶんと素直じゃない、少し年上の友人。
 この人とは長い付き合いになりそうだ。
 ユイはそう思った。いや、そう願ったのかもしれない。

 
 




「お母さん、お母さん、クリームソーダすっごくおいしかったよ」

「そう?よかったわね」

「それからね、アスカのお母さんのことをね。あのね、僕、ママって呼んだの」

「あらま、そうなの?」

「うん、恥ずかしかったけど、アスカのお母さんは喜んでくれたよ
 そのあと、ホットケーキもご馳走してくれたんだ」

「まあ、ホットケーキまで!」

 しくじったとユイは心底から思った。

 仲良くなってから一緒に行き、私も奢ってもらうんだったと。



(6) 昭和42年4月12日 水曜日・その参




「この度は母の命をお助けいただき本当にありがとうございました」

 キョウコ、やり過ぎ。
 ユイは心の中で最大級の溜息をついた。
 パチンコ屋にはいなかったよと、迎えに行ったシンジとアスカが報告。
 今日は遅刻したので、その分を残業してきたのだ。
 愚直なまでに真面目。
 まずは、礼を言わねばならないというキョウコの主張はもっともなようにユイには思えた。
 実の母親の心臓麻痺を蘇生術で助けたのだから、お礼を言うのは当然。
 ただし、キョウコのお礼はあまりに芝居がかりすぎていた。

「う、うむ…」

 立ちすくむゲンドウ。
 いや、そうするしかなかったのだ。
 部屋の中に入ろうと思えば、目の前で平伏している金髪女性の背中を踏みつけねばならない。
 ここは自分の家だし、そこには愛する家族がいるから、まさか逃げ出すわけにもいかない。
 内心パニック状態だが、外見はそうは見えないのがゲンドウのゲンドウたる所以だ。
 キョウコはくどくどと大時代的な礼を言い続ける。
 しかも土下座をしたままの格好だ。
 いかにもプライドの高そうな彼女がそんな真似をするとはユイには予想もできていなかった。
 もっともキョウコには大きな二つの理由があったから平然とそうしたまで。
 ひとつはやはり母の命を助けてもらったのだ。どんなに礼を言っても言い足りるものではないから。
 そして、二つ目は反応が面白そうだから。
 それにキョウコが命名するところの“碇ゲンドウサルベージ計画”においては、
  ゲンドウの頑なな心を揺さぶらなければならない。
 そして、キョウコは続けざまにもう一撃を放った。
 頭を床につけたまま、背後の娘にきつい調子で告げたのだ。

「これ、アスカ。貴女もきちんとお礼を申し上げたのですか?ここに来て御礼を言いなさい」

「うんっ」

 ちょこちょこと奥の部屋から歩いてきて、母親の隣にぺたんと座る。
 にっこり笑いながら、ゲンドウを見上げてこう言った。

「グランマを助けてくれてアリガト。お父様」

 そしてばたんという様な凄い勢いで頭を下げる。
 金髪の母娘に土下座をされてゲンドウは言葉を失い、そして助けをユイに求めた。
 そのユイは思っていた。
 アスカちゃんの“お父様”はまずかったわね。
 パニック状態だったから聞き流してくれたけど、もしその言葉を認識していたら
 もう舞い上がってしまって計画どころじゃなくなっていたものね。
 まあ、どちらにしても一筋縄ではいかないはずだけど。

「いや…まあ、人として当然なことを…したまでだ」

 うんうん、当然そう言うしかないわよね。

「いえいえ、普通のお方では間に合っていませんでしたわ。
 もしかすると、貴方様は医療の心得があるのではございませんでしょうか?」

 お前、喋ったのか!と言わんばかりにゲンドウがユイを睨みつける。
 もちろんユイは慌てて首を振る。
 喋ってないわよと無言でアピールし、大嘘を塗り固めた。
 ユイの面の皮はかなり厚い。

「聞けば、工場にお勤めとか。それなのに、心臓麻痺の蘇生術を…」

 キョウコの言葉は宙を彷徨った。
 相手が姿を消してしまったからだ。

「パチンコ、だ」

 それだけを言い捨ててゲンドウはあたふたと外に飛び出した。

「あ、逃げた」

「ええっ!ここまでしたのに!」

「やりすぎなのよ、キョウコ。そんなやり方じゃあの人恥ずかしがってダメよ」

「あ〜あ、土下座なんて生まれてこの方したことなかったのにぃっ」

 悔しがることこの上ないキョウコだったが、
 その陰でただひとつだけは確認できた。
 彼女はシンジを見つめる。
 つるんとして可愛い顔。
 お願いだからママの方に似てよね。あんなのにならないでよ。
 そう願わずにはいられないキョウコだった。
 彼女は面食いだったのである。

 面食いではないユイは考えた。
 ゲンドウの心の重荷になっているのは、やはり交通事故で死んだ女性のことだ。
 母子家庭で保険にも入っていなかった上に、ひき逃げで犯人は未逮捕。
 そのために賠償金もない状態。
 もちろん、ゲンドウはひき逃げでなくても償おうとは考えていたのだが。
 ユイは結局その娘さんとは会えなかった。
 東京の全寮制の高等学校にいるとかで、
 ゲンドウも弁護士に頼んで育英金という名目で彼女に毎月の生活費と教育の費用が渡るようにしている。
 家や資産を売り払って彼女が大学を卒業できるまでは面倒をみるくらいの金額にはなっていた。
 その娘に力を貸してもらうわけにはいかないだろうか。
 そのためにはまず彼女を探し当てないといけないわけだが。

「あの…キョウコ?お願いがあるんだけど」

 行動力や組織力はユイにはない。
 となれば、このできたばかりの友人に頼まざるを得ない。

「ダメよ。私にはやることがあるんだから」

 新しい友はそっけなく答えた。
 まだお願いとしか言っていないのに。

「私、東京に帰る。その被害者の娘を使って、あの無愛想面をぎゅって言わせてやるわ」

 夫に対する暴言は聞かなかったことにしようとユイは決めた。
 でも、考えていたことは同じだった。
 
「アスカは置いていくから。花嫁修業でもさせておいて」

「うんっ!任せといて!」

 ユイが答えるより先に隣でぺたんと座り込んでいるアスカが手を上げた。

「シンジっ!アンタはお婿さんの修行をすんのよ!」

「修行て何?」

 幼稚園児には当然の質問だった。
 同い年の幼女にわかるように説明できるわけがない。

「修行は修行なのよ!えっと、ほら美味しい料理をつくったり、洗濯を上手にしたり…」

「アスカ、それは花嫁修業の方よ。アンタがするの」

「ええっ、やだやだ。私、食べたり、お洋服着たりする方がいい!」

「ユイ?こんなお嫁さんじゃ困るでしょ。結婚させるのはやめる?」

 もちろん、ユイが答えるより先にアスカが立ち上がって抗議する。

「ぐわっ、だめだめ。私シンジのお嫁さんになるんだもん!」

「じゃ、アスカもしっかり修行しなさい」

「ぐぅ…」

 唇を尖らせてアスカは母親を睨みつけた。
 その母親はさっさと玄関で靴を履きはじめる。

「じゃ、私行くわね」

「まさか今から東京に?」

「と〜ぜん!タイムイズマネーでしょっ。夜行に乗って、明日の朝一番から動き回らなきゃ」

「ごめんなさい」

「何言ってんのよ。絶対に日本を離れる前に何とかするわよっ。アスカ元気でねっ。シンジちゃんよろしくねっ」

 キョウコは誰の返事を待っていなかった。
 言うが早いか、もう階段を駆け下りる音が聞えてくる。
 かんかんかんかんっどすっ。
 最後の音は足を滑らせたのかそれとも飛び降りたのか。
 とりあえず飛び降りて見事に着地したことにしておこう。
 そう決めたユイは膝を上げた。
 
「シンジにアスカちゃん、あの人を迎えに行ってきてくれる?もういないからって」

「うん、わかった」

「いないってママが?んまっ!失礼なっ。とっちめてあげるわ」

「お父さんをいじめちゃイヤだ」

 アスカは少しだけ泣き出しそうなそのシンジの声に安心させるように微笑んで見せた。
 
「だいじょ〜ぶ。ぶったりなんかしないもん。お父様って言ったらシンジのパパが困るんだって」

「どうして?」

「そんなのわかんないわよ。ママがそう言ったんだもん」

「ふ〜ん、そうなんだ。きっと嬉しいと思うけどなぁ」

 首を捻るシンジ。
 彼には照れくさいというゲンドウの気持ちはまだわからない。

「じゃ、お願いね。車には気をつけて」

 二人が出て行くのと入れ違いに、キョウコが飛び込んできた。
 
「はい、家の鍵。それから、これは金庫の鍵ね。
 隠し金庫だから場所は泥棒が入っても見つけにくいと思うけど、念のため金庫と鍵の場所は分けとくわ」

「私が預かってていいの?くりさんに渡しておきましょうか?」

「いいの。病院の金庫よりアンタの方が信用できる。ま、盗みたかったら金庫を家捜ししてごらん」

「ありがとうございます。やってみます」

「どうぞどうぞ。じゃ、ね。また連絡…って電話はないのよね。う〜ん、じゃママに連絡するわ。
 見舞いに行ったときにママに聞いて。どうせ毎日行ってくれるんでしょ」

「ええ、そのつもり」

「じゃ、ママと娘をよろしくね。東京の方はこのキョウコに任せておいて!」

 にやりと笑いだけを残して、キョウコは姿を消した。
 まるでチェシャ猫みたい。
 アリス。また読んでみたいなぁ。貸し本屋さんにあるかしら?
 あ、惣流家にあるかも。
 キョウコは身体ひとつで飛び出したって聞いたから。
 きっと本とかは残っているわ。
 よぉし、明日はお掃除ついでに家捜し家捜し。
 金庫なんてどうでもいいけど、本は楽しみ。
 どんなのがあるのかしら。

 よほど嬉しかったのだろう。
 顔を火照らせたゲンドウが両の手を子供たちにしっかり握られて帰ってきたとき、
 ユイはすこぶる上機嫌だった。
 あまりの機嫌の良さにゲンドウは鯨のフライを胃袋に片付けてから訊ねてみた。
 すると、惣流家の蔵書を読ませてもらうのだと嬉しそうに答えてきた。
 その笑顔にゲンドウは身を切られるような痛みを覚えた。
 あの町を出る時に、ユイはあの蔵書から見るとわずかな数の愛読書しか持ち出さなかった。
 まるで小さな図書館のようなユイの本棚に納めてあった書籍はすべて学校に寄付した。
 どうしても売却するのは許して欲しいと、泣きながら頼まれたのだ。
 持って行くのは少しでいいから、残りは学校とかに寄付したいと。
 妻の気持ちは何となくわかるような気がした。
 自分の好きなものをお金で換算されたくない。
 ほとんどわがままを言わないユイの頼みだ。
 ゲンドウがだめだというはずがなかった。
 もとより家や資産を売ってしまうということ自体がゲンドウの言わばわがままなのだから。
 だからそれから毎日、ニコニコと笑いながら本の整理をするユイを見ることがたまらなく辛かった。
 そんなゲンドウの背中にユイは飛びついて、髭だらけの頬にスベスベした頬を摺り寄せる。

「そんな悲しそうな顔しないの。私今凄く楽しいのよ。
 これは小学校にしようか、それとも幼稚園か。これは学園の高等部にしようとかね。
 自分の好きだった本を少しでも多くの子供に読んで欲しいんだもの。
 こういうのが楽しいってのは、ご本を読まないお髭のゲンちゃんにはわからないかな?」

「お、俺だって本くらい読むぞ」

「まあ、どんなのを?」

「そ、それはだな…」

「医学書とかそういうのはダメですよ」

 先に決め付けられて、ゲンドウは言葉を失った。
 そして、かくんと首を折った。

「すまん」

 一世一代のウケを狙おうとしたゲンドウの目論見は敢無く潰えた。
 そんなゲンドウの様子を見て幼女のように嬉しそうな顔で笑うユイ。

「それにね、これ見て」

 ユイは足元に置かれた大きな旅行鞄を指差した。
 
「なんだ、これは?」

「この中にはね、私の大事なものが一杯詰まってるの。
 これだけはもって行きたいの。いい?」

 断れるわけがない。
 きっと中にはぎっしりと本が詰まっているのだから。
 ゲンドウは重々しく頷いた。感謝の気持ちを込めて。
 だが、その中には本は詰まっていなかった。
 中身が何かわかっていたら、ゲンドウは決して首を縦には振らなかっただろう。
 

 それがもう2年前のこと。



「シンジっ!赤影見る?」

「当たり前だよっ!」

 先週始まったばかりの特撮番組があと15分ばかりで放送される。
 『仮面の忍者赤影』。
 ただし、碇家の白黒テレビでは赤も青もあったものじゃなかったのだが。
 それでもシンジは堪能した。
 敵の忍者も面白かったし、何より赤影と大ガマの対決には手に汗を握った。
 因みにこっそりユイも手に汗握っていたのだが。

「じゃあさ、うちで見ない?カラーだよ」

「え……」

 白黒が当たり前と思って…いや、思うことで両親を悲しませたくないとしていたシンジだったが、
 この誘惑は強烈である。
 目と鼻の先にある家にカラーテレビがあり、
 さらにそこの娘であるアスカに一緒に見ようとせがまれているのだ。
 赤影の赤い仮面が赤で見られるのだ。
 彼がつい両親の顔を見てしまったのは仕方がない。
 ユイは優しく首を横に振った。
 今日はキョウコが来ていたので、お風呂にまだ行っていない。
 赤影を見てからにしても、隣に行ったりなどしていてはいろいろ手間がかかりすぎる。
 子供たちだけで夜にあの家にいさせるのも保護者としてはよくない。たとえ30分にしても。
 お風呂をやめるという手もあるが、病院にいったり何かと汗も掻いているので銭湯には行った方がいい。
 惣流家のお風呂の入り方はわかるが、沸かし方がわからないかもしれない。
 変に使ってガス爆発でも起こしたら大変だ。
 したがって、子供たちには我慢してもらおうと考えたわけだ。
 
「行って来ればいい」

「でも、あなた」

「お前が一緒に行ってやればいい。風呂はそれからみんなで行こう」

「だけど、それじゃ遅くなりますよ。子供たち眠ってしまわないかしら」

「大丈夫!いっぱいお昼寝したもん」

 ゲンドウは小さな咳払いをし、そしてユイに温かい目を向けた。

「行って来なさい。ついでと言ってはなんだが、本も見てくればいいではないか」

 この言葉はユイを誘惑した。
 明日調べてみるつもりだったが、やはり少しでも早く見てみたい。
 どんな本があるのか、それを考えただけでも胸がどきどきする。
 そして、彼女はあっさりとその誘惑に乗った。

「ありがとう、あなた」

 卓袱台の向こう側に胡坐をかいているゲンドウのところまですすすっと膝を進めると、
 髭だらけのその頬にユイは軽く唇を寄せた。
 ちゅっ。
 そして、鍵を手にそそくさと出て行く。

「早く来なさい。二人とも」

「あ、待ってよ、お母さん!」

「んまっ!大人の癖にちゅってしたわね。子供が見てるのに」

 アスカがゲンドウを見ると、ほんの少しだけ頬が赤く見える。
 彼女はにやりと笑うとゲンドウの肩をぽんぽんと叩き、シンジの背中を追う。

「ああ〜ん、待ってよぉ!」

 ぽつんと残されたのはゲンドウ一人。
 彼はくちづけられた頬を指の腹で撫でると、満足げに息を吐いた。
 子供の見ている前でキスされるなど初めてのことだ。
 なかなかいいものだが、やはり顔から火が出るほど恥ずかしいのでやめてほしい。
 いないところでなら存分にしてもらって結構だが。
 もしユイがいれば「いやらしそうな顔で笑うな!」とでも言われそうな微かな笑みを浮かべるゲンドウだった。



「うわぁ、凄い!」

 書斎とでも言えばいいのだろうか。
 片面の壁に書籍がぎっしり詰まっている。
 ユイの家も小さな図書館と友達に言われていたくらいなのだが、惣流家はスケールが違う。
 5mくらいの幅の壁面がすべて本なのだ。
 その真ん中に応接セットが置かれていて、逆側の壁には窓と写真が貼られている。
 おそらくはこの写真が一杯貼られているのはクリスティーネの外国人らしい趣味だろう。
 窓の下には大きなステレオセット。スピーカーの上にはおなじみの白い犬の置物が置かれている。
 ユイの家にもひとまわり小さなステレオがあり、やはりそこには白い犬が置かれていた。
 ただし、ふたまわりくらい小さな。

「くそぅ、うちのニッパー君より大きいじゃない。後藤電気の大将、一番大きいのを差し上げますって…。
 騙されたっ!」

 言葉は悔しげに、しかし表情は嬉しげに、ユイは犬の背中を撫でた。
 すべすべとした陶器特有の少し冷たい感触。
 うちのはステレオと一緒に持っていかれたのかな?
 冷静な風に装っていたが、実際は声を上げて泣きたかったのだ。
 だがそんなことをすれば、いや少しでも悲しげな表情をすれば、ゲンドウにすぐに悟られてしまう。
 そこでずっと微笑を絶やさずにあの町を出たのだ。
 シンジも母親の心を察していたのか泣いたりはしなかった。

「まったく親孝行な息子だこと。もうちょっと子供っぽくてもいいのよ」

 開け放たれた扉の向こうから、廊下を渡ってシンジとアスカの歌声が聞える。

「手裏剣しゅっしゅっしゅっしゅしゅうっ!」

 その歌声にユイは優しげな微笑を浮かべた。
 そして、ゆっくりと本棚の方を見る。
 真っ先にそこを見るのはもったいないような気がして、まわりをまず見たわけだ。
 ゲンドウの背よりも高い本棚。
 そこにぎっしりと書籍が詰まっている。
 下の方は重そうな辞典と、おそらく幼き日のキョウコが読んでいたのだろう、
 たくさんの絵本がいかめしい装丁の辞典と同居しているのが微笑ましい。
 真ん中辺りにはハードカバーと文庫本が並んでいる。

「へぇ…惣流家の人ってこういう趣味があったんだ」

 江戸川乱歩、横溝正史、木々高太郎といった日本人から、
 ポー、ドイル、クリスティ、カーなどの外国人までずらりとミステリー小説が並んでいる。
 キョウコもこういう類のを読んでいたのかしら?
 ジュブナイルの少年探偵団シリーズもあるところを見ると、どうやらそのようだ。
 ということは、今東京へ向かっているキョウコの心中はすっかり名探偵気分なのかも。
 ユイはこの手の小説は少年向けに翻案されたものしか読んでなかったので、
 そのうち借りて読んでみようかと思った。
 そして、首を上げると、上の方は背表紙に洋文字が。

「わっ、洋書?」

 あってもおかしくはない。
 クリスティーネは私は日本人だと怒るだろうが、元々ドイツ人。
 その彼女と恋を語ったであろう今は亡きご亭主も語学には堪能だったに違いない。
 生粋のアメリカ人と結婚したのだから、キョウコも英語やドイツ語はぺらぺらなのであろう。
 アスカがその二ヶ国語を日本語と同様に喋っているのだから。
 ユイはその洋書に手を伸ばそうとしたが背が届かない。
 ソファーを引きずってこようかとも思ったが、そこまですることはないかと今は手の届く場所の本を見回す。
 
「ああ、あった。アリス」

 キョウコの言葉に出てきた『不思議の国のアリス』が見つかる。
 その本を取り出し、ぺらぺらとめくってみる。
 最初は立って読んでいたが、だんだん本に引き込まれてしまいソファーに腰を下ろす。
 何度も読んだ本だが、やはり面白い。
 彼女は時間を忘れて『アリス』に没頭していた。



「おい。子供たちが眠ってしまうぞ」

 ゲンドウの声にユイが顔をもたげる。

「はい?」

「もう8時を過ぎているぞ。風呂はやめるのか?」

「えっ、もうそんな時間?」

 壁の時計を見ると、確かに短針は8を過ぎ長針は5のあたり。

「あらっ、いけない!」

「ふん。相変わらずだな」

 ゲンドウは本の世界に飲み込まれてしまい家事を忘れることがよくあった、あの頃のユイを思い出していた。
 そして、自分よりも背の高い本棚を見上げる。

「これはまた、凄いな」

「でしょ」

 大切そうに本を閉じると、ユイは元の棚に戻す。

「ねぇ、上の方の洋書とってよ」

「子供たちが待っていると言ったぞ」

「ねぇ、少しだけ。お願い」

 ユイにお願いされて逆らえるわけがない。
 ゲンドウは中に足を踏み入れた。

「どれだ?」

「ここからじゃ題名なんか読めないわ。適当に、お願い」

「うむ」

 ゲンドウは手を伸ばした。
 ハードカバーを3冊ほど引き抜く。
 それを手元まで降ろした時、彼は長く息を曳いた。

「どうしたの?見せて」

 ゲンドウは無言でユイに本を手渡し、そして部屋を出て行った。
 怪訝に思った彼女は本を開いてみる。
 医学書だった。
 ユイは唇をすぼめる。

「なるほどね、あの人も逃げられないってことかな?」

 ユイは応接テーブルの上に3冊の本を置くと、よしっと一度大きく頷くと部屋を出た。
 まずはお風呂。とにかくお風呂だ。
 子供たちが睡魔に負けてしまわないうちに。



 碇ユイは策士である。
 ただしキョウコのようにいろいろな角度から攻めたり退いたりする様な技は持っていない。
 ただ、押すだけ。
 その夜も彼女は押した。

「え?じゃ、あなたは私にこの暗い夜道を歩いて行けと仰るのですか?」

「すぐそこではないか」

「もし、惣流さんのところに痴漢が潜んでいたらどうなるのですか?
 私は操を守るために舌を噛んで自害しないといけないということですね」

「俺が窓から監視を…」

「それに大事なことが。私の背では届きません」

「ならば二人で」

「この子達を置いてはいけません」

 ユイの視線の先には小さな洗面台に頭をくっつけるようにして歯を磨いているアスカとシンジがいる。
 眠るのはやはりアパートでみんな一緒にということになったのだ。
 アスカはともかくシンジの方はすでに目がとろんとなっている。
 
「さあ、いってらっしゃい。テーブルの上に置いたままにしてますから」

 ゲンドウはまだ何か言いたげに口を動かしたが、あきらめた。
 軽く溜息を吐くと無言で部屋を出て行く。
 その背中を見送り、ユイは笑顔を引っ込めた。
 真剣な面持ちで、ゆっくりと奥の部屋に向う。
 そして、しっかりと閉められているカーテンの端をそっと握りしめた。

「お母さん、おやすみなさい」

「グンナイ、お母さん」

「おやすみなさい」

 アスカの布団は夕方のうちに惣流家から運び込んでいた。
 シンジの布団よりも少し大きめだが小さな4畳半でも二つはゆったりと並べることができる。
 早速横になった二人の頬を順に撫でると、ユイは電灯のスイッチを捻った。
 そして、6畳間の灯りを襖で遮る。
 すっかりと暗くなる部屋。
 ユイはその暗闇の中をもう一度窓際に向った。
 カーテンの隙間を少しだけ広げて、目の前の惣流家の様子を窺う。
 玄関の電球が点いている。
 そして、しばらくすると二階の一室の電気も灯った。
 蛍光灯の白い灯りが窓を浮き立たせている。
 その部屋があの本棚のあった部屋。
 お願い。消えないで、電気。
 ユイは一生懸命に祈った。
 10秒、20秒。
 ただ本を戻すだけなら、30秒も経たずに電気は消えるはずだ。
 あの人は医師の仕事が嫌いになったわけじゃない。
 ただ責任を感じすぎているだけ。
 それだけのはず。
 だから…あの医学書には興味があってもおかしくない。
 ちょっとだけでもページをめくる気持ちが起きてくれたら…。

 それからきっちり4分半後。
 その部屋の電気が消えた。
 ユイは溢れる涙を拭って、静かに6畳間へと歩いていく。
 もうすでに幼い二人は寝息をたてていた。
 襖の向こう側は白い灯りに包まれ、目が痛いほど。
 さてと、顔でも洗って涙を隠さなきゃ。
 ばしゃばしゃと顔を濡らしながら、ユイは思う。
 もし、医学書を読んでなくてニッパー君とかを触っていたのなら…ただじゃ済まさないんだから!
 








 いかん、読んでしまった。
 もう二度とあの仕事はする気はないのに。
 こんなことではいかん。
 
 つい医学書を読んでしまったゲンドウは、
 自戒を込めて自らの頬を軽く拳で打つ。
 そして、本を元の場所に戻した。

 部屋の電気を消そうとした時、
 壁に貼られた写真が目に入る。
 若き日のクリスティーネとその夫。

 なんと、美しい。
 そう思った瞬間、心の中でユイに向って手を合わせた。
 ただ、その美人の隣に立つ故惣流医師の顔を見た途端、
 ゲンドウはすこぶる不愉快になった。

 何故なら、彼は素晴らしい二枚目だったから。

 部屋の電気は消え、かすかな溜息だけが残った。





(7) 昭和42年4月13〜14日 木曜日〜金曜日・その壱



「ほう、そんなに面白かったのかい?」

「うん、物凄く面白かったよ。でね、今日はシンジと赤影ごっこするの」

 クリスティーネのベッドに登っていきそうないきおいでアスカが熱心に喋る。
 よほど、昨日の夜に見た特撮テレビ時代劇がお気に召したようだ。

「アスカが悪者をするのかい?」

「はん!アタシは赤影に決まってるの。だってアタシは赤が大好きなんだもん!」

「おやおや、じゃシンジちゃんが悪者かい?」

 アスカは唇を尖らせた。

「そんなのダメ!シンジは青影なの。アタシの仲間なんだからっ。勝手に悪者にしないでよ」

「ははは、じゃ悪者無しで忍者ごっこをするつもりなのかい?こりゃお笑いだ」

「グランマの意地悪!」

 アスカはユイを振り返って見た。期待を込めて。
 ユイはにっこりと微笑んで、しかし拒絶した。

「ごめんね。おばさんはチャンバラはちょっと…」

「ぐふぅ…」

「ははは、それじゃ正義の忍者たちは訓練しかできないね」

 アスカはつまらなさそうに身を起こしたが、ぱっと顔を輝かせた。

「ねえねえ、悪者にしていい?」

 誰を…が抜けているが、もちろんユイには察しが付いた。

「おじさんを?構わないわよ。蝦蟇法師でも幻妖斉でも好きなようにして頂戴」

 アスカがぽかんと口を開けた。

「あれ?どうしたの、そんな顔して」

「だって、詳しいもん。昨日一緒に見てなかったのに」

「あ、はは」

 ユイはばれたかというような顔でぽりぽりと頬を掻いた。

「先週見たからよ。新番組の時に」

「あ、そっか。でも、凄いよ。覚えてるんだ」

「はは、実はシンジちゃんよりも熱中して見てたりしてね」

 クリスティーネの揶揄にユイは顔を赤らめた。
 文学や歴史が好きな彼女にとって、あの番組はツボを突いていたのだ。
 始まった途端のナレーションで引き込まれてしまったのだ。
 『豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃……』という語りは、ほほぅそうきたかとユイに思わせた。
 その上、ちゃんと木下藤吉郎や竹中半兵衛まで出てきた。
 番組が終わった後に、シンジに説明をしてしまったほどだ。

「くわっ!それでシンジがあんなにいろいろ知ってたのね!」

 ユイは吹きだしてしまった。
 きっとアスカにいいところを見せようと思ったのだろう。
 シンジは母の受け売りの知識を披露したのに違いない。

「へぇ、それはなかなか面白そうだねぇ。あ、そうだ」

 クリスティーネは傍らの財布から500円札を出した。

「ユイさんや、文具店に行って折り紙を買ってきてくれないかい?」

「ええ、いいですよ」

 ユイは差し出された500円札を受け取るまいとしたが、クリスティーネの微笑には負ける。
 仕方なしに受け取ったお札を折って、小さながま口に入れた。

「アスカも行くっ!」

「じゃ、一緒に行きましょうか」

「やった!」

 この年頃の子供は自分だけでお店に入ることがなかなかできない。
 したがって、こういう機会に大人にくっついてお店に入るのは願ってもないチャンスなのだ。

「ああ、ユイさん。アスカがあれが欲しいこれが欲しいって駄々をこねても買っちゃいけませんよ」

「えええっ!グランマのウルトラいじわる!」

「それからシンジちゃんにお土産なんて言われても相手にしちゃいけないからね。
 この子は欲しいと思ったら何がなんでもって感じになっちゃうんだから」

 アスカは火星人か明石の蛸かと思わんばかりに、唇を突き出した。
 そんな彼女の表情が面白く、ユイとクリスティーネは大笑いしてしまった。



 笑われたアスカはしっかり復讐した。
 右手に折り紙、そして左手にはノートが2冊。
 ウルトラマンとバルタン星人が戦っている絵柄のものと、東宝の怪獣映画の写真が表紙のノートだ。

「おや、買っちゃったのかい。ダメだねぇ、甘いよ、ユイさん」

「すみません。おばあちゃんにお手紙書くからって」

「いつも顔を合わせてるじゃないか」

「ドイツに行ってから書くんですって」

「向こうにもノートは売ってるじゃないか。しかもどうして2冊なのさ」

「へへへ。いっぱいお手紙書くの」

 にんまり笑うアスカはしてやったりという表情。
 
「どうせ、ノートの表紙が目当てなんだろ。この悪ガキが」

「ふふん、シンジにもひとつあげんの」

 厳格なことを言いながらも、やはり孫には甘くなってしまうクリスティーネは仕方がないという表情で首を振った。
 そして、アスカから折り紙を受け取る。

「何つくるの?グランマ」

「ん?ちょっと待ってな」

 クリスティーネは器用に紙を折る。
 そして、完成したのは…。

「わっ!手裏剣!」

「どうだい。これはいいだろ」

「うんうん!凄い凄い!」

「へぇ、こんなのができるんだ」

「おや、ユイさんは折り紙はしなかったのかい?」

「してましたよ。でも、手裏剣なんかつくったことありませんでした」

「なるほど、鶴とかお人形とかかい?うちはよく作らされたよ。キョウコのヤツにさ」

「キョウコに?」

「ああ、すこぶるつきのお転婆だったからねぇ。
 何しろ身体が周りの子よりも一回り大きかったから、すっかりガキ大将さ。
 近所の子を引っ張りまわしてチャンバラや草野球。
 生傷の絶えない子だったねぇ。膝小僧はいつも赤チンが塗られていたよ」

 想像できる。
 近所の空き地で暴れまわっているキョウコの姿が。
 でも、そうやって遊びながらもきっと勉強もしっかりしていたのだろう。
 毎日が遊びに勉強に凄く忙しかったのではないかと思う。
 そんな時分に出会っていたら、友達になれたかな?
 多分、友達になっていたら私もお転婆の仲間入りをしていたかもしれない。
 そんなことを思いながら、ユイはクリスティーネに手裏剣作りの講習を受けていた。
 手裏剣を10個作り、残りの折り紙で鶴を折る。
 アスカにも折り方を教えたが、なかなか鶴にはなってくれない。
 一生懸命に折り続けて、ようやく少しくたびれた鶴の完成。
 4羽の美しい鶴と、1羽の不恰好な鶴がベッドサイドの台の上に並んだ。

「くぅぅ。悔しいよぉ。私ももっと綺麗に折りたいっ」

「ははは、アスカは初めてだからね」

「練習すればすぐに上手になるわよ」

「ホント?じゃ、練習する!だから…」

「帰りに折り紙を買ってくれと。ダメだよ、ユイさん」

「はい、わかってます。家に帰って、新聞紙を切って作ります」

「ああ、それがいいよ。アスカ、しばらくはそれで練習だ。綺麗に折れるようになったら本物の折り紙を買ってやるよ」

「ぐふぅ、わかったわよ。練習する」

 シンジにもさせてみよう。
 そう思ったユイだったが、ある予感に顔を綻ばせた。
 もしかすると、シンジの方が上手いかもしれない。
 そうだったなら、アスカちゃんはムキになるだろうなぁと。



 アスカはムキになった。
 新聞紙で練習しているから手はもう真っ黒。
 お昼ごはんが終わってから、まずは手裏剣を使って忍者ごっこ。
 近くの空き地でひとしきり暴れてきてから、お昼寝。
 そのあとに、折り紙の練習となったのだが、シンジはすぐに鶴を折れるようになった。
 アスカはまだまだ綺麗に折ることはできない。
 ユイに言われて何度も石鹸で手を洗ってくるのだが、真っ白だった石鹸の方もすっかり黒ずんできた。
 半ばべそを掻きながらそれでもアスカはやめない。
 この根性は凄いわ、きっと母親譲りなのね。
 こうなれば付き合うしかないわねとユイは覚悟を決めた。
 そして午後4時前になって、ようやく形になってきた。
 折り続けること2時間。
 これはうちのシンジには真似できないわね。凄い粘りと根性だわ。
 感心したユイがアスカを見ると、満足げ上げたアスカの顔は真っ黒。
 インクの色がついた指で顔を触ったのだろう。
 ユイはアスカを流しに連行し、タオルと石鹸でごしごし洗う。
 痛いよぉと悲鳴を上げるがお構いなし。
 綺麗になったアスカにユイはご褒美をあげることにした。
 厚紙を切って、それに輪ゴムを2つ付ける。
 その厚紙をアスカに赤いクレヨンで塗らせる。
 できあがったのは、赤い仮面。
 輪ゴムを耳に引っ掛けてアスカは得意満面。
 腕を組んで、すっくと立つ。
 そしてにやりと笑うと、高らかに叫んだ。

「赤影参上っ!」

 赤い仮面の下に見える、青い瞳はとても綺麗だった。
 そう思ったのはユイだけではなかった様だ。
 シンジも少しぼけっとアスカを見つめ、その後幼児本来の欲求に目覚めた。

「いいなぁ、アスカ。僕も赤影したい」

「はん!アンタは青影なの。それとも蝦蟇法師する?」

「そんなのやだよ」

「じゃ、白影は?凧に乗れるよ」

「やだよ。僕あんなおじいさんじゃないもん」

 その時、アスカの知らない声がした。

「邪魔するよ」

「あら、伯父さま」

 玄関の扉を開けてきたのは、白髪の冬月だった。
 その彼を見た途端にアスカが叫ぶ。

「あ!白影さん発見っ!」

 見慣れない幼女に指を指されて冬月は眉間に皺を寄せた。
 この白影は仲間になってもらえなかったので、小さな赤影と青影は再び空き地へと手を繋いで向かった。
 残った冬月はあの金髪の幼女がシンジの婚約者だと聞いて笑みを漏らす。

「ふふ、これじゃユイよりも早いな。結婚相手を見つけたのが。ん?」

「そういえばそうですね。誰に似たんだか」

「お前じゃないか、それは。あいつの方は放っておいたら一生結婚などできんぞ」

 ユイは首を捻った。

「そこがわからないんですよね。世間の人ってどうして目がないんだろう?」

 冗談抜きで真剣にそう考えているユイに冬月は苦笑する。

「そうか、惣流医院の孫娘か。なるほど、あのお転婆娘の面影があるわい」

「まあ、伯父さまはキョウコをご存知なのですか?」

「ああ、知っとるよ。うちの工場の廃材を盗みに来たことが何度もあるぞ、あいつは」

「あらま」

「空き地に秘密基地をつくるんだとかなんとかで、あちこちの工場のゴミを集めておったんじゃ」

「でもゴミなんだから盗みじゃないじゃありません?」

「ああ、それはそうだがな。だが、あんな場所に子供にうろつかれると、危なくて仕方がない。
 今ほどダンプやトレーラーが走っていたわけではないが」

 少し懐かしげにその頃を思い出している冬月だった。

「ところでな、あいつのことだが」

「ふふ、ぼけっとしていたんじゃありません?」

「ああ、仕事中はいつものように一心不乱だったが、昼休みに弁当を食べた後、ぼうっと空を見つめておったわ」

「空を」

「それがまた似合わない姿でな」

「酷い!伯父さまったら」

 まったくどうしてこの姪っ子は心底あの男に惚れ抜いているのだろうか。
 まあ、悪い男ではないことはこの2年でよくわかったが。
 何よりあの無愛想な面体がすべてをぶち壊している。
 ところが意外に他の工員たちからの評判はいい。
 仕事以外の付き合いをまったくしていないにも関わらずだ。
 あのパチンコ屋での行動も誰かが耳にして笑い話になった。
 それも本人の前でだ。
 正直冬月はハラハラしてその成り行きを見守ったものだ。
 案の定、ゲンドウは鼻でふんと笑った。
 するとどうだろう。
 みんなよりいっそう笑い出したのだ。
 無愛想というのも度を越すと逆に可愛げが出てくるのかもしれない。
 まあ、それも下町ならではというところだろう。
 そういう意味ではユイが私を頼ってきたのは間違いではなかった。
 いや、もしかすればこの聡明な姪っ子はそこまで読んでいたのかも知れぬが。

「で、伯父さまはあの人を笑いものにしにわざわざ来たんですか?」

「ふふ、まさか。それほど暇ではない。実はドイツの大きな会社と契約話が持ち上がってな…」

 冬月はユイに事情を説明した。
 ゼーレというドイツの医療機器会社が冬月の造っている精密機器の性能に目をつけたのだ。
 この話がまとまれば、今の何十倍の規模で会社が大きくなる。
 その上、既にその用地の見当もつけているのだ。
 この街より30km北方の田園地区。
 県が工業団地を作ろうとしている場所で、高速道路にも近い。

「まあ、それは素晴らしいお話。で、この私に何を?」

「ユイ。碇をわしにくれんか。あいつなら外人とでも平気で喋れる。後にも退かん。
 副社長になって前よりも大きな家に住んで、暮らしも前以上になる。
 きっとあいつはわしの片腕になって…。いずれはわしの後を継がせても」

 その時、ユイが卓袱台からすっと下がって、畳に頭をつけた。

「ごめんなさい!伯父さま、それは許してくださいっ!」

 ユイのその姿に冬月は大きく息を吐いた。
 もしかしたらと淡い期待を抱いてやってきたのだが、やはり無理だったようだ。

「あいつは絶対にいい経営者になるぞ」

 冬月の声にはさっきのような張りはもうなかった。
 
「あの人はお医者さまが天職なんです。夢の仕事なんです。
 たとえそのお仕事で偉くなっても、一生後悔するはずです」

「あいつに確かめたのか?どちらかを選べと訊けば…」

 顔を上げたユイはにっこり微笑む。

「間違いなく、そのお仕事を選ぶと思いますよ。絶対に」

「何と。それはどういうことだ?」

「だって、逃げられるんですもの。辛く苦しい道から。
 医者に戻る方があの人にとれば何十倍も苦しむんですよ。
 暮らし向きがよくなるのであれば、私たちへの言い訳にもなる。
 今、心が揺れ動きだしたあの人からすれば絶好の逃げ道になるんですよ。
 選ばないほうがおかしい」

 ユイはきっぱりと言い切った。
 その言葉の辛らつさに冬月は舌を巻いた。
 
「それがわかっていて、お前は亭主に辛い道を歩ませようと…」

「はい」

 ユイに躊躇いはまるでない。
 しかも微笑みながら言ってのけているのだ。

「あいつもお前みたいな妻を娶って幸せなんだかどうかわからんな」

「あら、どうして?絶対に幸せですよ。あの人には私が必要なんです」

「凄い自信だな。まったく」

「ええ、自信なら凄くあります。だから、あの人は逃がしません。
 ここで医者をしてもらいます。だって、もう外堀は埋まっているんですもの。
 今、あの人が逃げる手伝いを誰かがするのなら、
 それが例え伯父さまであっても許しはしません」

 冬月は苦笑した。
 どうやら会社のことは自分で何とかせねばならないようだ。
 仕方がない。
 お前が考えている通りにやってみなさいとだけ言い残して、冬月は部屋を出た。
 ゆっくりと階段を降り、そして工場のある南の方へ歩いていこうとした時だ。

「ああっ、酷いよ、アスカ。僕だって赤影したいよぉ」

「うっさいわねっ。赤はアタシの色だって何べん言ったら気が済むのよっ」

 二人の声が聞こえてくる。
 冬月はその声に誘われるように足の向きを変えた。
 アパートと長屋の間の路地を進むと、すぐ近くに資材置き場崩れの空き地がある。
 二人はそこで遊んでいるようだ。
 隣のアパートの角を過ぎるとすぐに子供たちの姿が見えた。
 少し山になっているその頂に、赤い仮面をつけたアスカが腕を組んで立っている。
 冬月には子供がいない。
 早くに妻を亡くし、そのまま独身を通してきたのだ。
 精神的にはユイを実の娘のように考えていたようなところもあったと、自ら認めている。
 だからこそ子供が遊ぶ姿というのは彼にとって感傷的なものでさえあった。

「あ、危ないっ!悪者の忍者が来たわよ!」

「え?どこどこ?」

 まわりをきょろきょろするシンジにかまわず、アスカは手にした手裏剣を投げる。
 そのひとつがシンジに当たる。

「あ、何すんだよ。僕に当たっちゃったじゃないか」

「そんなのすっと避けなさいよ。アタシは透明忍者を狙って投げてんのよ。アンタも青影なんでしょうが」

「やっぱりちゃんと敵がいないとダメだよ。お父さんが帰ってきてから二人でやっつけちゃおうよ」

 仮面のアスカはう〜んと腕組みする。
 
「じゃ、今は何して遊ぶのよ」

「えっと、手裏剣を投げる練習とか」

「やだやだ、そんなのつまんないよぉ」

 アスカは山からぴょんと飛び降りる。
 
「それより、喉渇いちゃった。お水飲みに帰ろ」

「あ、僕も…」

 即座に合意に達した二人がアパートに帰ろうとした時、冬月が目の前に出てきた。

「あっ、白影さん」

「違うってば、おじさんだよ。えっと、それでお父さんの行ってる工場の社長さんだって。それに凧に乗ってないだろ」

「だってぇ、髪の毛が白いんだもん」

「それにさ、お父さんを蝦蟇法師にするんなら、小父さんは幻妖斉になっちゃうもん」

 二人の会話は冬月にはまるで理解できない。
 そこで共通の言葉を彼は用いた。

「喉が渇いたのなら、アイスキャンデーでも食べるか?」

 二人は大きく頷いた。

「こっちこっち、一番近いのは文房具屋さんだよ」

「おじさん、早く早く!」

 それぞれの手を二人に引っ張られて、冬月は唇の端に笑みを浮かべて普段より早い歩みで進む。
 空き地の奥の身体ひとつがやっとの広さの路地を何度か曲がって抜けると、表通りに出る。
 ほう、こんなところに。
 塀を乗り越えさせられたり、破れを潜ったりさせられなかっただけでもましというものか。
 街中の獣道というような道を通ってきた冬月の素直な感想だった。
 そんなことを思って抜けてきた路地の奥を見ていると、
 子供たちはもう既にアイスクリームのボックスにしがみついていた。

「アスカ、何する?」

「アタシ、ミルクキャンデーっ」

「じゃ、僕も」

「おじさんはどれ?」

 アスカが振り返って微笑む。
 ああ、可愛いな。そう思った冬月は「同じでいいよ」と言って、
 ボックスの横に出てきていたでっぷり太ったおばさんに代金を支払う。
 さあ、ではどこかで…と言おうと振り返った冬月だったが、
 すでに二人は紙を破ってアイスキャンデーを舐め始めていた。
 しかたあるまい。子供なんだ。
 すでに老域に差し掛かっている冬月は子供たちの隣でアイスを舐める羽目になった。

「やったっ!あたりよっ!」

 舐め終わった棒にあたりのマークが入っているのを見て、アスカが躍り上がって喜ぶ。

「えっ!凄い!僕も…」

 急いで食べるシンジだったが、彼の棒にはあたりマークはない。

「ちぇっ、はずれだ」

「へっへぇ〜ん、アタシ凄いでしょ!」

 まるでオリンピックで金メダルを取ったかのように得意満面のアスカ。
 
「ふふ、わしのもはずれだ」

 冬月の言葉を聞いて、アスカは「残念でした」と笑いかける。
 そしてぺこりと頭を下げて、「ごちそうさまでした」と大声で言う。
 慌ててシンジも続いた。
 いささか面映ゆい。あまり子供に接することがない彼だから。

「どうするの、あたりは?すぐ食べるの」 

「ううん、これはね。蝦蟇法師にあげる。悪者になってもらうんだから」

「あ、そうか。お父さん、きっと喜ぶよ」

「じゃあねぇ、おじさん、これシンジのパパに渡してくれる?」

 アスカは冬月に向ってあたりの棒を突き出した。

「ああ、いいよ、ちゃんと渡しておく。で、蝦蟇法師とは何だ?」

 好奇心で訊いた冬月だったが、
 その結果はその場でアスカとシンジに『仮面の忍者赤影』の第一話を再現させることになった。
 止めるに止められず、文房具屋の隣でずっと見なければならない羽目と相成ったわけだ。
 もっともそれは少しも不快ではなかったのだが。

 工場に帰る道すがら、冬月はこみ上げてくる温かいものに心が和んでいた。
 あいつも覚悟を決めて医者にとっとと戻ればいい。
 まあ、私からは何も言うまい。
 ユイに任せておこう。
 冬月はポケットからあたりの棒を取り出して眺めた。
 これを渡した時にあいつはどんな顔をするのだか。
 そして、あの文具屋でどんな顔をして食べるのか見てみたい。
 きちんと食べて帰り自分の棒が当たりか外れだったかを教えてやらんと、
 子供たちががっくりするぞとも言っておかんとな。
 しかしまあ、あいつがその蝦蟇法師とかになって二人に斬られる真似などできるのか?
 どうも想像ができん、と冬月はくすくす笑いながら、
 黒いスモッグが重く圧し掛かっている臨海工業地区へ歩いていった。



 その翌朝。
 シンジは幼稚園に。
 ゲンドウは工場に。
 ユイはアスカと一緒に洗濯と掃除をしていた。 
 花嫁修業だから手伝うんだとアスカは、待っていてねというユイの言葉を聞かない。
 一人でした方がぱっぱと早く済むんだけどなぁ、
 とは思いながらもこれが姑の責務かとユイはアスカにあれこれ指示していた。
 碇家には掃除機はないから、箒と塵取が主役。
 身に余る大きさのその二つを両手で何とか抱えながら、アスカはゴミを掃き取っていく。
 何度も失敗しゴミを広げる結果になるのだが、姑たるもの手出しはしてはならない。
 その間にユイは洗濯物を干さねばならない。
 留守に見えては泥棒に入られるかもしれないという言い訳で、惣流家の物干し台を拝借する。
 もちろんクリスティーネの許可は得てある。
 元の碇家は平屋だったので、裏庭に洗濯物を干していた。
 だから、彼女にとってこの物干し台というものは言わば憧れの場所だった。
 空に少しでも近くなるというのは、心が軽くなるような気がする。
 それに今日はこの場所にお似合いのものを洗濯していた。
 あの押入れの中の旅行鞄から出してきたもの。
 もうすぐ使うようになるのだから、綺麗に洗濯しておかないと。
 アイロンだってきっちりかけちゃうんだから…。
 だから、これを使うようになってよね…。
 ユイは風にはためく洗濯物を見上げた。
 診療所の物干し台には白衣が似合う。
 彼女は大きく頷いた。
 もうすぐこの白衣をあの頑固者に着させてあげるんだから、と。

 洗濯物を干していると、自宅の窓の向こうにアスカの姿が見える。
 大きな箒を抱えて一生懸命に畳の上を掃いているアスカ。
 ああいう姿を見てると意地悪はできっこないわねぇ。
 
「おぉ〜い、アスカちゃぁ〜ん!」

 思わず声をかけてしまった。
 びっくりして、箒を畳に落としてしまうアスカ。
 おまけにその箒は塵取の上に落ちてくれたので、アスカのせっかくの苦労は無となった。
 あちゃぁ、まずいことをしちゃった!
 半ば泣きべそをかきながら振り返ったアスカに、ユイは手を合わせて謝る。

「ごめん!ごめんねっ!」

 アスカはこくんと頷く。
 きっと声にもならないくらいショックだったのだろう。

「おばさんすぐに戻るから、お掃除はしなくていいわよ」

 責任を感じたユイの言葉にアスカははっきりと首を横に振った。
 そして泣きべそのまままた箒を手にする。
 ユイは慌てた。
 ああいう顔をされてしまうと堪らない。
 手早く洗濯物を干すと、アパートに戻った。
 それでもアスカは箒を手放さない。
 ユイは困り果ててしまった。
 その反面、クリスティーネとキョウコに通じる頑固さとか強情さが凄く微笑ましく思える。
 結局、ユイは自責の念からアスカを買収することにした。
 


 クリスティーネの病室に現れた時、アスカは満面の笑みでその手に黄緑色の袋を持っている。

「ん?何だいそれは。駄菓子屋の袋みたいだけど」

「ふっふぅ〜ん、見て見てぇ」

 その袋をさかさまにすると、中から流れ落ちてきたのはたくさんの派手な色をした包みのお菓子。
 シスコのウルトラマンチョコレートである。
 しかも10枚も。

「こら、アスカ!」

「ち、違うもん。え、選んだのはアタシだけど。お母さんが買ってくれたんだもん」

「アンタが駄々を捏ねたんでしょう!」

「違うってばっ。お母さんが何がいいかって言うから…」

「ユイさんっ」

 アスカを睨みつけたその形相そのままにクリスティーネが顔の角度を変える。
 こ、怖い!
 ユイもまるで母に叱られるが如き有様になってしまった。

「あ、あの、それがですね、お宅の物干しを借りて洗濯物を干していたら、うちの窓にアスカちゃんが見えたので…」

 いつもに似ず、くどくどと喋る。
 ああ完全に言い訳だ。
 それでも、ユイは懐かしくて涙が出てきそうになった。
 お母さんに最後に叱られたのはいつだったっけ。
 こんな感じで言い訳するのはミッションスクールの高等部の時先生に叱られて以来?
 そんなことを考えながら言葉を発しているうちに、ユイはだんだん可笑しくなってきた。

「これ、何を笑ってるの。私は怒ってるんだよ」

「ご、ごめんなさい。つい、懐かしくて」

「何言ってんだよ、もう。この子ったら」

「あれ?涙まで出てきちゃった。変ですよね。はは」

 ごしごしと手の甲で目を拭うユイを見て、アスカは首を捻った。

「ねぇ、グランマ。どうしてお母さんは泣いてるの?怒られて悲しいの?」

「ははは、アスカはそう思うのかい?どうだろうかねぇ」

 クリスティーネにはユイの涙のわけはわかっている。
 ユイは十代前半で母親を失っているのだから。
 それにその涙はクリスティーネ自身も少しほろりとさせたのである。
 違う民族のこの自分をまるで母親のように感じてくれているのだから。

「本当にごめんなさい」

「いいえ、許しませんよ。これは一ついくらなんだい?え」

「えっと、20円だよっ」

「てことは、こんなものに200円も使ったのかい。馬鹿じゃない?それで晩御飯のおかずが仕立てられるでしょうに」

「そ、そうですよね。何考えてたんだろ、私」

「グランマったら、もう許してあげてよ。お母さんが可哀相だよ」

 いけしゃあしゃあとアスカが言う。
 クリスティーネがすぐさまアスカの頭をこつんと叩いた。

「調子がいいよ、この子は。いくらウルトラマンとかが好きでもそんなに買う子がいますか」

「でもでも、流星バッチが欲しいんだもん!」

「何だよ、それは」

「あたりが入ってたら、流星バッチがもらえるんだよっ」

 ああ、懸賞つきのお菓子か。
 まったく、そんなものに乗せられて…。
 
「いっぱいあるからって次々と食べるんじゃないよ。虫歯になって痛い目に遭うよ」

「うん、1日5個でいい?」

「馬鹿。1日1個だよ」

「ええっ!そんなのヤダ」

「じゃあ、これはユイさんに頼んで返してきてもらうよ」

「ぐわっ!グランマのウルトラ意地悪!」

 しかし、アスカは納得せざるを得ない。
 それでも、今日の一枚をもう食べようとしている。
 慎重にウルトラマンと怪獣が描かれている包装紙を破いていくアスカ。

「こら、おやつまで待ちなさい」

 祖母の制止をまるで聞かず、アスカは赤い包装紙をきれいに取り去った。
 そして…。

「あ、え、ええええっ!」

 病室にアスカの絶叫が響き渡った。

「静かにせんか、アスカ」

「アスカちゃん、病院ですよ」

「あたっちゃった……」

 呆然とした顔でアスカが中に入っていたカードを二人に示す。
 その小さなカードにユイとクリスティーネは顔を近づけた。
 確かにそこには、流星バッチがあたったことが書かれている。
 そして15円切手を同封して、シスコに送れとも。

「おやまぁ」

「あたっちゃいましたね」

「へ、へへ、へへへへへ、あ、あたった、あたった、あたったぁっ!」

 昨日のアイスのあたりとはレベルが違う。
 アスカも東京でずっと買い続けてきたが、一度もあたったことはなかった。
 ユイもシンジに時々買い与えていたが、もちろんあたりはまったくない。
 アスカがはしゃぎまわるもの無理はなかった。
 そのあとは、三世代の女たちは目の色を変えてチョコレートの包装紙を開いた。
 もちろん、食べるのは一日一個として、あたりの有無を確かめたわけだ。
 結果は最初の一つだけがあたり。
 アスカは病室を踊りまわって喜んだ。

「シンジ、早く帰ってこないかなぁ。きっとびっくりするわよぉ」

「そうね、凄く羨ましがるわ、きっと」

「あ、そっか。これ一つしかないんだ。うぅ〜」

 アスカはまるで仔犬のような唸り声を上げた。
 そして、きっぱりと宣言した。

「アタシ、もう一個あてる!それで、シンジとおそろいにするのっ」

 その意気込みは買うが、お金を出すのは大人たちだ。
 早速クリスティーネから小言を言われたが、アスカの気持ちは揺らがなかった。
 絶対にもう一つあててやると。



 幼稚園から帰ってきたシンジは文字通り目を丸くして、あたりのカードを見つめた。
 
「す、凄いやっ!入ってたんだ。本当に入ってたんだ。僕、あたりなんか一枚も入ってないんだって思ってたよ」

「へへへへへへへ!凄いでしょ、私っ!」

「うん、うんっ!凄いよ、アスカって。アイスはあてるし、流星バッチもあてるし、信じられないよ」

 その時のアスカの鼻はきっとピノキオよりも長く高かっただろう。
 何しろシンジからのこの賞賛を受けたくて、今を遅しと彼の帰りを待ち望んでいたのだ。
 
「ふっふぅ〜んっ」

 声にもならないほどの歓びなのであろう。
 その日の昼寝は、アスカは興奮しきってしまいまったく眠ることができなかった。
 隣ではシンジがすやすや。
 相手をしてもらえないアスカは、こっそりチョコレートを食べようとしてユイに逮捕される。
 彼女としては早くチョコレートをなくしてしまい、もう一つあてようという高尚な理由からの行動だったが。
 お尻を一発叩かれたアスカはお布団に強制連行。
 ユイに添い寝をしてもらっているうちに、いつの間にか眠ってしまった。



 アスカはまったく気付いていなかった。
 そして、周囲の大人たちは少しだけそのことを予感していた。

 アスカは彼女の人生で一番のあたりをすでに引いてしまっている事を。
 この前の日曜日の夜。
 光の国に帰っていくウルトラマンに別れを告げるために、わざわざ物干し台まで上がっていったこと。
 そのおかげでシンジと出逢えた事など、アスカはまるで認識していない。
 クリスティーネはアスカがシンジと友達になったために、心臓麻痺から蘇生できた事を知っている。
 そしてユイは逆にクリスティーネと知り合い、彼女の命を救うことで彼女の念願が叶うかもしれない事を知っていた。
 さらにゲンドウも己の生き方がぶれはじめた事をそれとなく了解していた。
 何かが大きく動き始めている。
 こんな小さな子供たちのふとした出逢いが、周囲の大人たちの人生を変えはじめていた。

 願わくは、すべてがうまく進むことを。
 ユイは願った。
 彼女にとっては神の使いのような、アスカの寝顔に。
  




 バルタン星人が出た!
 アスカは流星バッチでシンジに連絡。
 そして胸ポケットに入っているフラッシュビームを…。
 
 ない!
 あれがないと、ウルトラマンに変身出来ない。
 
 フォッフォッフォッ。
 不気味に笑うバルタン星人が、アスカの方を見下ろした。
 
 ひ、ひええええっ。怖いよぉ!
 
 その時、空から凧が飛んできてスーツ姿の冬月が
 アスカに向かってフラッシュビームを投げた。
 しかし、受け止めたそれはアイスの当たり棒。
 
 げげげげぇっ!ダメじゃないっ!

 その時、走ってきたシンジがウルトラマンに変身する……。


 目覚めたアスカは少し不愉快気に隣のシンジを睨みつけた。





(8) 昭和42年4月14日 金曜日・その弐



 キョウコの伝言が来た。
 病院に電話が入り、今日そっちに行くから家で待ってろとだけ。
 急ぎだからユイさんに電報を打っておいてと病床の母に頼む。
 ナースセンターに出向いたクリスティーネは、アンタが自分で打てと言い返したが、
 住所がわからないから打てない。急いでいるからお願いと。
 言いたいことだけ言って電話を切ってしまった。
 まったくあの子ったら、いつもこんなだよと、クリスティーネはひとりごちた。
 
 電報はすぐにユイの元に届いた。
 『キヨウイクカライエテ゛マツテロ。キヨウコヨリテ゛ンコ゛ン。
 ヒ゛ヨウニンヲコキツカウナンテナンテコタ゛。ワタシカ゛オコツテイタトキツクイツテオイトクレ』
 電報代をまるで考えずに、クリスティーネも言いたいことを言って来ている。
 これを受け付けた電報局の係りの人の顔を見てみたかった。
 ただ、ユイはキョウコのその短い…母親のそれよりはるかに短い伝言に手ごたえを感じていた。
 あのキョウコが自信もないのに伝言などするわけがない。
 きっと何か素晴らしい情報を手にやってきてくれるに違いないと。



 それは情報ではなかった上に、手に持てるような代物ではなかった。

「赤木リツコと申します」

 場所はあの喫茶店・黎明。
 昼下がりの喫茶店で、アスカとシンジはクリームソーダとホットケーキを相手に格闘中。
 ユイと並んだキョウコは反対側の椅子に東京から連れてきた女性を座らせた。
 たしかまだ20歳にはなっていなかったはず。
 就職しているのだろうか、それとも大学生?
 いずれにしても、その娘は背筋を伸ばし、真っ直ぐにユイを見つめていた。
 いや、この場合、睨んでいたという方が正しいかもしれない。
 意志の強そうな太い眉毛の下で、瞬きもしない目がじっと動かない。
 まるでユイを検分しているかのように。

「全部、喋っちゃったわよ。この娘に」

「え…」

 キョウコは不敵に笑いながら、コーヒーカップに唇を寄せた。

「単刀直入に申し上げます」

「あ、はい、どうぞ」

 個性的な短い髪のその娘は、まるで真剣勝負を挑むかのように紋切り型で切り出してきた。
 居住まいを正すユイ。

「貴方たちがされたことは大変迷惑です。どうしてくれるのですか?」

「え?あの、つまり、どういう意味ですか?」

 リツコは眦を上げた。
 
「これまで私が使った分のお金を返す当ては今はないんです。いつまで待っていただけるのですか?」

「ちょっと待って。つまり…」

「つまり、アンタたちが用意したお金はこの娘にとって迷惑この上ないお金ってことなのよ」

「あ、親の敵からってこと…」

 ユイが納得しかけた時、いらだたしげにリツコが口を挟んできた。

「違います。母が死んだのは車の所為で医者の所為ではありません。
 それなのに、どうして母を助けようとしてくださった方を恨まねばならないのです?」

「憎しみの対象にするとか。ひき逃げの犯人が逮捕されなかったわけですし」

「貴方のご主人が車を運転していたわけではないでしょう?
 それなのに、どうしてひき逃げ犯の代わりに恨まねばならないのです?
 理屈に合わないではないですか」

 何を馬鹿げた事を言っているのだとリツコは明らかに腹をたてている。

「でも、それが普通の気持ちの流れじゃないのかしら?それにお酒を呑んでいたのだし」

「あきれた…」

 リツコは首を横に振った。

「そんなに憎まれたいのですか?自己犠牲もいいところ。そういう自分たちに酔ってられるのではないですか?
 酔うといえば、お酒にしてもそうです。
 新聞にはそう載っていましたが、
 度を過ぎた飲酒であれば救急隊員の方が処置を任せるはずがないじゃないですか。
 馬鹿馬鹿しいったらありません」

 いやはや随分とはっきりものを言う娘だと、ユイは呆気にとられた。
 しかし、不快ではない。寧ろさっぱりしていて気持ちいいくらいだ。
 隣のキョウコはくすくすと笑っている。

「なかなかいい子でしょ。話しやすくて。でも、自分の主義主張と異なれば納得させるのは一苦労よ」

 キョウコのその批評がピッタリだとユイは思った。
 
「つまり、主人が用意したお金が邪魔だと?」

「はい。交通災害育英基金だと弁護士の方が申されましたので、素直に受け取って今まで毎月使ってきました。
 アルバイトをしようにも研究が主体の学問なので、そのお金で助かってきたのは事実です。
 つまり、学費と生活費で毎月の手当はすべて使ってしまっているということ。
 返えそうにも今は返しようがありません」

 熱っぽく語っているのだが、どこか客観的に喋っているように見える。
 まさに理系で研究者タイプの女性なのだ。

「そんな、返さなくてもいいのよ」

「何故ですか。私は貴方たちに保護を受ける謂れがありません。この方に」

 と、リツコに視線を向けられて、キョウコがにっこり笑って小さく手を上げる。

「事情は聞きましたが、それこそそちらの事情だけの話ではありませんか。
 自分の気持ちを納得するためだけにこの私を利用したとしか思えません」

「あ、確かにそれもあるけど。だけどかわいそうだって」

「可哀相なのはこの世で私だけではありません。勝手にこんなことをされた私はどうなるのですか?」

「えっと、どういうことかしら?」

「まるでマリオネットの人形。
 自分で生計を立てることができるようになっても、貴方たちに返すお金で首が回らなくなります」

「いや、ですから、返さなくてもいいって」

「だから、いただく理由がありません」

 ユイは困り果ててしまった。
 隣のキョウコをすがるように見ると、彼女はにやっと笑って「はい、平行線」と小声で言う。

「じ、じゃ…、貴女のご希望は?」

「希望?そうね、まずとっととそのような自己憐憫と卑下した生活をやめてくださらないかしら。不愉快この上ないわ」

「不愉快って、そんな…」

「はぁ…頭の周りがよくないのね。貴方たちが私のために苦しい生活をしていることが耐えられないのよ」

 碇ユイ。
 小さな時から賢い子だと言われ続けてきた。
 生まれて初めてだった。頭の周りが悪いと目の前で言われたのは。

「くくくっ、言われたわね、ユイ。確かにこの娘の言う通りよ。
 彼女の主張が基になれば、アンタたちがあんな安アパートに暮らしているのは物凄いプレッシャーになるわ。
 学生食堂で200円Aランチを食べるのでさえ、気になると思うわ。この娘なら」

「Aランチは120円です」

「はいはい、120円ね。安いわね、それ。まあいいわ。でも、やっぱり気になるでしょ」

「はい、喉が通りにくくなります。でも、栄養を取らないと学問を続けられませんし、続けるとアルバイトはできない。
 どうしてくれるのですか。身動きが取れないではありませんか」

 どこかが間違っているような気がするのだが、彼女の主張を是とすれば確かにがんじがらめ。
 頑固なこの娘にすれば、キョウコの訪問で足元の大地があっという間に崩れ去ったようなものだったのだろう。
 その理由がわかればそんなお金を使うわけにいかなくなるからだ。

「因みに新幹線代は私が貸してあげたの。もう使えないからって」

「あらら、そこまで」

「当然ではないですか。返せないものを使うわけにはいきません」

「だから返さなくてもって、また平行線ね。困っちゃったわ」

 頭を抱えたくなったユイの肩をキョウコがぱしんと叩いた。

「おやおや、アンタともあろうものが何を困ってんのよ」

「だって、キョウコ。どうしたらいいのか…」

「あはは、簡単じゃない、こんなの。だからここまで引っ張ってきたのよ」

 自信たっぷりに言うキョウコを二人は呆然と見つめる。
 
「アンタはこのユイたちのお金で生活と勉学を続けることができないわけよね。それが負担になって」

 リツコが頷く。

「要はそのお金が押し付けがましい善意だからなわけよ。はいはい、ユイの気持ちはわかるけど今はシャラップ」

 押し付けがましいとまで言われてむっとしたユイが口を開こうとしたが、キョウコに頭から押さえつけられる。

「ということは、善意じゃなければいいわけ。わかる?お二人さん」

「わからないわ」

 リツコも首を振った。

「おやまぁ、察しの悪いこと。アンタたち、契約しなさい」

「はい?契約…」

「そう、契約。アンタは…」

 キョウコはリツコを真っ向から指差した。
 その指先にまったく動じる様子もなく、リツコは眉だけを顰めた。

「もうそのお金を使っちゃってるんだから、その分を返したい上に、
 これからの学費や生活費を何とか工面しないといけないわけよね」

 はっきりと頷くリツコ。

「だったら一番簡単なのは、これまで通りにそのお金を使うことね」

「ですから、それは」

「黙ってらっしゃい。先に進まないから」

 キョウコがニヤリと笑った。

「問題はそのお金が道理に反しているってことなのよ。
 彼女にすればね。てことは、そのお金を道理に合うようにすればいいの。ほら、簡単」

「どうやって?」

「だから、ユイがこの娘に条件をつければいいのよ。ああしろこうしろって」

「はい?」

 ユイもリツコもきょとんとしている。
 キョウコは悪戯っぽい瞳を輝かせて話を続けた。

「わかんないかなぁ。分割で金返せってのでもいいし、自分の女になれって…」

「キョウコったら!」

 慌てて子供たちの方を見るユイ。
 二人はいまだホットケーキと格闘中。
 シンジの方がナイフの使い方が巧いのは何故だろうかとユイは少しだけ思ってしまった。
 ビジュアル白人のアスカは不ぞろいなサイズでホットケーキを切っている。
 我が息子の方はきれいな格子状に切りそろえている。
 よく考えればナイフの使い方は教えたことがなかったのに、こういうのって素質なのかしらと微笑んでしまった。
 顔を戻すと、リツコが考え込んでいた。

「あの…」

「なるほど、わかりました。金を返すか身体で支払えと。それならば、私は…」

「こらこら、わかってないぞ。二者選択じゃないわよ。私は例を上げただけ」

「そうだったんですか。わたしはてっきり」

 少し頬を染めて自分を見つめたリツコに少しだけ不安を感じたユイだった。
 進む方向性が見えてきた所為か、リツコに余裕ができたのかもしれない。
 ミッションスクールでそういう趣味の生徒を少なからず見てきたので、何となくわかるものがあるのだ。
 ここは話を逸らさないと。

「えっと、貴女は大学生?」

「はい。おねえ…」

「な、何を勉強しているの?」

 慌てて質問を続けるユイ。

「薬学です。おね…」

「ああ、そうなの。そうなんだ」

 ユイは隣でくすくすと笑っているキョウコを横目で睨みつけた。
 キョウコはどうやら最初から彼女の嗜好性を知っていたようだ。
 私にはミッションスクールの昔からそういう趣味はないの。あの人一筋なんだから。

「ああ、それじゃ、こういうのはどうかしら?
 しっかり勉強に励んでもらって、そして医学界の発展にっていうか、
 今は治せない患者さんを一人でも多く治せる様にがんばってもらうっていうのは。
 お金の方はもちろん返還不要ね」

「なるほど、奨学金ってわけか。それならいいわね」

「少し抽象的ですね」

 小首を傾げるリツコ。

「その条件が呑めないなら、今すぐ使ったお金を返していただくってことで」

「わっ、脅迫。居直っちゃったよ、この人は」

 キョウコがおどけて見せる。

「今現在の返却が無理なんですから、選択肢はないということですね。
 なかなか酷な事を…。もしかすると、そのような趣味が」

「ありません」

 頭から言い切るユイ。

「ふふ、それじゃ、これで決まりってことで」

「待ってください。こちらからも条件があります」

 場を締めようとしたキョウコをリツコが制する。
 妙なことを言い出すのかと警戒した二人だったが、リツコの口から出てきたのはあまりにまともな要求だった。



 今日の仕事は定時に終わった。
 ゲンドウはいつものように伊吹湯に回り一日の汗を流した。
 そして県道を北に歩き、国道を越えて2本目の通りを左に曲がる。
 仕事帰りのいつもの道だ。
 すぐ隣を私鉄が走っている。
 4両編成の短い電車ががたごとと車輪を響かせながら走り去っていった。
 恒例のパチンコ屋は駅のすぐ手前にある。
 駅前では一番大きな建物になる上、
 夕方の風景にネオンサインが自己主張を始めているので遠くからでもよく見える。
 ゲンドウ本人はゆっくり足を進めているつもりでも
 コンパスの長さで周りのものには早歩きをしているかの印象を与えていた。
 シンジの大好きな小さなプラモデル屋さんを通り過ぎ、
 胃袋を大きく刺激する匂いに悩まされながら、ゲンドウは歩いていった。
 タレの香ばしい匂いが通りにあふれ出している焼き鳥屋。
 鉄板に焼けたソースの匂いがするお好み焼き屋。
 焼き魚の匂いがじわりじわりと表にたちこめている小料理屋。
 今日の晩飯は何だ?
 できれば日本料理がいい。
 どうも客人に合わせて西洋料理ばかり続いているような気がするゲンドウは、
 焼き魚であったなら言う事はないなと思った。
 もちろん、ゲンドウがユイに文句を言うわけはないのだが。

 この数日、ゲンドウはどこか心が軽かった。
 それを彼はアスカの所為だと思い込んでいた。
 確かにその発端はアスカの出現である。
 しかし、実際にはクリスティーネに施した医療行為が彼の心を満たしていた。
 そのことをユイはよく知っていた。
 わかっていないのは、いやわかろうとせずに別のことが原因だと思い込もうとしているゲンドウ本人なのだ。
 
 パチンコ屋まで後20mほど。
 勤め帰りの会社員が駅からどんどん押し寄せてくる。
 この時間帯に駅前の商店街を通る車はまずないため、車道にも人が行き来していた。
 ゲンドウは歩く早さを少し抑え、ゆっくりと足を動かす。
 そして、目の前に立っていた女性を避けて進もうとした時、その女性から声をかけられた。

「何の挨拶も無しなのかしら?」

 ゲンドウは顔を上げた。
 聞き慣れた声ではなかったので、その声が自分に向けられたものだとは最初思っていなかったのだ。
 そこに立っていたのはショートカットの若い女性。

「む。すまん」

 いったい何の粗相をしたのかまるでわからないが、とにかく謝っておいた方がいい。
 まったく視界に入っていなかった女性から睨まれたと怒られたこともあるゲンドウなのだ。

「あら、私のこと、お忘れなの?酷いわね」

 予想外の言葉。
 女性の知り合いなど、この町には数少ない。
 ゲンドウは不躾は承知でまじまじとその女性を見る。

「おやおや、本当に忘れているみたいね。私、赤木リツコです」

 リツコは腕組みをしながら名乗った。
 もちろん、その名前の女性が何者なのかはすぐにゲンドウにはわかった。
 そして、彼はもう何も話せなくなってしまったのだ。

「お久しぶりです。碇先生」

「む…。先生では、ない。もう辞めた」

 何故ここに彼女が来たのか。
 ゲンドウは想像もできなかった。
 償いはしているつもりなのだ。
 完全にできるとは露ほども思っていなかったが。

「私は、許しません」

 あの時、この娘はまだ高校生で、制服を着て通夜の席にいた。
 頭を下げて詫びる俺に彼女は何も言わなかった。
 それどころか、激昂する親戚を冷ややかに制止したくらいだ。
 死んだ者は帰らないし、母親が死んだのは交通事故で医療事故ではないのだと。
 その時の冷静な口調そのままに、彼女は俺にそう言った。

「ど、どうすればいいのだ?」

 ゲンドウは訊くしかなかった。
 リツコはゲンドウから育英基金が出ていることなど知らないはずだ。
 つまり、頭を下げ、医者を辞めただけでは駄目だと、そういうことだとゲンドウは了解した。

「お仕事を辞めたそうですね」

「む。うむ…」

 ぱしぃんっ!

 
「あちゃあっ!あの娘、手加減無しでぶったわよ!」

「その方がいいわ。小細工しない方が」

「お父さん、かわいそう」

「アタシはシンジをぶったりはしないからね」

 道路の真ん中で頬を引っ叩かれたゲンドウの親近者4名がすぐ近くに隠れていた。
 キョウコの知り合いの洋品店の中に潜んでいたのだ。
 ガラス越しで、距離も10mは離れているので声はまったく聞こえないが、大体の雰囲気はわかる。
 リツコという娘もゲンドウ同様にマイペースなので、
 街中の人通りが多い場所でこのようなやりとりをすることに何の躊躇いも恥じらいも持ってはいないようだ。
 
「シンジにアスカちゃん、このことはお父さんには秘密ですからね」

「大丈夫!アタシの口は固いのよ!」

 固いはずである。
 シンジとアスカの手にはお菓子屋さんの緑色の袋。
 どうやら口止め料にまたシスコ社のウルトラマンチョコをせしめた様だ。
 
「ちょっと、ユイ。私のアスカを恐喝の常習者にしないでよ。癖になったらどうするの」

「う〜ん、それはやっぱり母親の責任かな?あ、あの人ったら、変な顔してる」


 それはそうだろう。
 殴られたことは理解できる。
 なにしろこの娘の母親の命を救えなかったのだから。
 しかし、その後に言われた言葉はまるで理解できない。

「許しません。今すぐ医者に戻って下さい」

「何?何と言った」

「あら、聞こえなかったのかしら?貴方が医者を辞めたのは母への責任を負ったのではないのじゃないかしら。
 辞めてしまえば、逃げることができるんですから。つまり、貴方は弱い人間なわけ」

 激するわけでもなく、淡々としかし辛辣な言葉を口にする。
 別にこの話す内容をあらかじめユイたちと決めていたわけではない。
 もしリツコの言葉をユイが聞いていたなら、どれだけ驚いたことだろう。
 ゲンドウの行動の本質をリツコが見抜いていたわけだから。
 世界中で自分ひとりがゲンドウを理解できるものだと思い込んでいたのだから。
 だが、しかし、幸いにもリツコの言葉はユイには聞こえなかった。
 聞こえていなくてよかった。誰にとっても。

 ゲンドウはすぅっと息を曳いた。
 どうしてこの女は俺の心の中にずかずかと土足で入ってくるのだ。
 殴ってやろうか。
 彼が女性に対してこんな暴力的なことを考えたのはこれが最初で、そして最後であった。
 
「殴るんですか?どうぞ、お好きなように。人間は本当のことを言われると腹が立つらしいですわね」

 この時、ゲンドウの頭の中にユイの顔が浮かんだ。
 なるほど、ユイは素晴らしい。
 この娘と同じことを考えていても、ユイは口に出さない。
 もし彼女にこのようなことを言われたら、首を絞め殺しているかもしれない。
 そして自分の命も…。
 
「医者には、戻らん。いや、戻れん…」

 それだけ言うと、ゲンドウは目を伏せた。
 
「意気地なし。貴方がそんな調子では、死んだ母も浮かばれません」

 リツコはさらに言葉を重ねた。

「育英基金という名のお金が貴方から出ていることを私は最近になって知りました」

「うっ…」

 呻くゲンドウ。どこから漏れたのだ?
 
「お金のことは感謝します。もしご支援いただいてなければ、私は進学できませんでしたから。
 ただし、貴方がこういうことになっているのなら、私、貴方にお金をお返ししないといけません」

「いや、それはいかん」

「では、お医者さまに戻ってください。今すぐとは申しません。
 でも、半年経ってもまだ戻っていらっしゃらなければ、
 私はこの身体を売り払ってでも、お金をお返しするつもりですので。
 それでは、その時を楽しみにしています。碇先生」

 リツコはさっと一礼すると、すたすたと駅の方へ歩いていった。

「ま、待て」

 ゲンドウはそう声をかけたものの、彼女を追いかけようとはしなかった。
 そのまま数分ほど歩道に立ち尽くして、そしてパチンコ屋に背を向けた。
 アパートの方ではなく、河川敷の方へ向かったようだ。


「かわいそう…。あんなにしょげちゃって」

「へぇ、あれで落ち込んでるの?わかりにくい人ね」

「あら、凄くよくわかるんだけどなぁ。どうしてわからないのかしら」

 ユイが小首を傾げた時、子供たちの声が聞えた。

「ああん、はずればっかり。シンジは?」

「僕のもダメ。あたらないよ」

 背後の二人はお菓子屋の袋を開けて、流星バッジのあたりカードが入っていないか捜索中。
 いや、捜索が終わったところだった。
 さすがにチョコレートを咥えてはいないが、剥き出しのチョコレートが袋の上に散乱している。

「あっ、あなたたちっ」

「こらっ、もう開けたの?馬鹿っ」

「だって、暇だったんだもん」

 言い返すアスカに、慌てて袋の中にチョコレートを戻すシンジ。
 アスカの方は悠然ともう一度包装紙で包みなおしている。
 
「この子らったら」

「あ、そうだ。駅に行かないと。リツコさん、待ちぼうけよ」

「ああそうだった。急げっ」

 洋品店のおばさんにお礼を言って、4人は駅に向かった。
 案の定、改札口でリツコはじっと待っていた。

「ごめんねっ、待たせちゃって」

 リツコは涼しい顔をしてさらりと言う。

「引っ叩いてしまいました。いけませんでしたか?」

「いえいえ、ありがとうございます。なんだったら反対側も叩いていただいても」

「あら、キリスト教ですか」

「ええ、ミッションスクール」

「で、どうだったの?反応は?」

 のんびりとした世間話に突入しそうなユイに代わって、キョウコが結果を訊く。
 まったくユイったらのほほんとしちゃって…。
 ま、こんな調子だからこの子に惹かれる人間が多いのかもね。
 この初対面の癖に頬を少し染めている合理的娘だってそうだし、ママだって…。
 ふふ、このキョウコでさえいちころだったものねぇ。
 ホント、私が男だったらなぁ…。
 あんな不細工な男に独占なんかさせないのに!
 そっちの方の趣味がないのが残念というか、なかってよかったというべきか。

「揺さぶることはできたと思います」

 リツコは結論だけを告げた。
 半年後にゲンドウが医師に戻ってないときは、彼女が自ら身を滅ぼすと言ってのけたことを。
 詳しく話さないでよかった。
 ゲンドウの心の動きをリツコがそこまで把握していたことがわかると、
 間違いなくユイはショックを受ける。
 ところがリツコはゲンドウにまるで興味を持っていないので、
 今後彼に関わることはないだろう。
 ただ、もしゲンドウが自信あふれる姿でリツコの前に現れていたら…。
 面食いではないリツコはもしかすると、ゲンドウに惹かれていたのではないだろうか。
 出逢い方ひとつで人と人の関わり方は随分と違ってしまうのかもしれない。



 リツコは新幹線の駅までユイに送ってもらいたげではあったが、
 子供たちがいるのでと言われてしまうとこの改札口で我慢せざるを得ない。
 握手を求めるユイの手をどきどきしながら握りしめたリツコはしばらくは右手を洗えなかった。
 2日後の実験の際に泣く泣く消毒薬が入った洗面器に手を入れた彼女である。

「はい、お姉ちゃん、これあげる」

「あ、僕も僕も」

 アスカとシンジは握り締めていたお菓子の袋に手を突っ込んだ。
 
「このチョコ、美味しいよぉ」

「こら待て、アスカ。アンタ、在庫をはかそうとしてるでしょ」

「シンジまで!」

「在庫って何?わかんない」

「ああっ、つまり、今あるチョコをなくして、次のを手に入れようって思ってんでしょ!」

「そ、そんなの知んないわよ。ねぇ、シンジ!」

 いきなり話を振られて戸惑うシンジ。
 彼はアスカにつられただけで、そんな目論みはまるでなかったのだ。

「え、う、うん。おみやげ」

「そうよ、おみやげおみやげ!」

 母の疑惑通りのことを考えていたアスカはシンジの尻馬に乗ってあどけない5歳児に徹した。

「はぁ…、仕方ないわね。リツコさん、一つづつ貰ってくれます?」

「はい。では」

 その時、キョウコとユイは目を丸くした。
 リツコはアスカとシンジの持っていた袋をそのまま取り上げたのだ。
 一瞬えっとなった子供たちだったが、当然この展開は願ったりかなったり。
 ニコニコ笑いながら、はいどうぞと。

「ちょっと、リツコさん?」

「一つってチョコを一つなのよ。アンタ、そんなに」

「大丈夫です。一度で食べるわけではありませんから。研究の時に小腹が空きますので丁度いいんです」

 リツコが微笑んだ。
 それは初めて見る彼女の素直な笑顔だった。
 あら、可愛いじゃない、歳相応で。
 キョウコは腕組みしながらそう思った。

「アリガトね。ホントはママの言う通りなの。流星バッジが欲しいから」

 みんなに聞こえているのも知らず、アスカがこそこそとリツコに耳打ちする。
 
「流星?何それ?」

「ウルトラマンの。ほら、科学特捜隊のっ」

「はい?ウルトラ…何?」

 呆気にとられた二人の子供を残してリツコは東京へ帰っていった。
 ウルトラマンを知らない人間がいるなんて、アスカとシンジには信じられない。
 チョコを持って行ってくれたのはよかったのだが。



 キョウコは一旦母親の病院に向かった。
 娘に「ママと一緒のお布団で寝る?それともシンジちゃんの隣で…」と訊ねたところ、
 いともあっさりふられてしまった訳だ。
 今晩は病院の簡易ベッドでクリスティーネの横で眠り、明日の朝一番に東京へ向かうそうだ。
 身体は大丈夫かと心配するユイに、キョウコは高らかに笑った。
 アンタたちとは身体の出来が違うのよと。
 
 晩御飯の仕度はできている。
 今日は肉じゃがとほうれん草のお浸し。それとキャベツのおみそ汁だ。
 おみそ汁のお鍋はまだコンロの上。
 ゲンドウがまだ帰ってきていないからだ。

「お母さん、お父さん遅いね」

「うん。でも、大丈夫よ。お腹が減ればちゃんと帰ってくるわ」

「ふぅん、なんだか子供みたい」

 自分が幼児の癖にませたことを言うアスカに、ユイはにっこり微笑んだ。

「あのね、男の人ってどんなに歳をとっても子供みたいなのよ」

「シンジも?」

「そうね、きっとシンジも」

「ええっ、僕は大人になったらちゃんと大人になるもん」

 少し頬を膨らませてシンジが主張する。
 
「ふふ、そうなるかな?」

「なるもん!」

 精一杯胸を張るシンジをアスカは嬉しげに見つめている。
 そうねぇ、将来アスカちゃんと結婚するなら、
 しっかりと手綱を持っておかないとどこへ走っていくかわからないものね。
 
「じゃあねぇ、アスカちゃんはどっちがいい?
 大人っぽいシンジと子供のようなシンジとだったら」

「どっちでもいいよ。だって、シンジなんでしょ、どっちも」

 即答だった。
 こいつは恐れ入りました。
 ユイはぺたんと自分のおでこを叩いた。
 ただし、どうも惣流家の女性の夫は若死にするようだ。
 シンジはそんなの真似しちゃダメよ、と母たるユイは思うのだった。

 その時、扉がすっと開いた。
 玄関側に背を向けていたユイだったが、神経はそっちに集中していた。

「おかえりなさい、あなた」

「う、うむ」

 いきなり喋りかけて来た妻の背中に、ゲンドウは精神的に数歩後退りする。
 本当に後に下がれば手すりを越えて転落してしまうので、それはできっこない。
 
「遅かったんですね。どちらにいらしたんですか?
 シンジとアスカちゃんが迎えに行ったのに、パチンコ屋さんにはいらっしゃらなかったみたいですね」

 きっとユイは微笑みながら喋っている。
 背中しか見えないが絶対にそうだ。
 
「す、すまん。少し川っぺりをあるいていた」

「お一人で?まさか、女の人と会っていたんじゃないでしょうね」

 ゲンドウは面の皮は厚くない。
 無愛想で表情に乏しいだけなのだ。

「そ、そんなことはない。待ち合わせなどしておらん」

「あ、そ。じゃ、早く食べましょう。子供たち、お腹がぺこぺこよ」

 ユイは少し溜息をついた。
 なるほど、かなり気持ちは揺れている。
 それでもまだ医者に戻るとは言えないようだ。
 戻る気があって言えないのか。
 それとも戻る気がないから言えないのか。
 外堀はこれで埋まったのだ。
 あとは、本人次第。
 自分は医者だと認めてしまえばそれでおしまい。
 ええ〜い、言ってしまえ、碇ゲンドウ!
 ユイはお味噌汁を温めなおしながら、握りこぶしに力を入れた。

 ゲンドウが卓袱台に座り、子供たちは既にお箸を構えている。
 お味噌汁を配り、そして御飯をよそう。
 
「はい、どうぞ」

 このユイの一言が晩御飯の開始の合図。
 「うむ」と一言唸るだけのゲンドウ。
 「いただきまぁ〜す!」と叫ぶシンジとアスカ。
 その後で「いただきます」と手を合わせるユイ。
 晩御飯はできるだけ家族が顔を揃える。
 これは別に碇家だけの事ではない。この当時の日本の家族はこれが普通だったのだ。
 
 随分と待たされた所為だろう。
 アスカとシンジは凄い勢いで食べ始める。

「こら、二人とも。よく噛まないとダメよ」

「ふぁ〜い!」

 口の中におじゃがが入ったまま返事をする二人。
 卓袱台の上を見ると、アスカのほうれん草はすでに全部なくなっていて、
 逆にシンジのそれは手がつけられていない。
 食前に二人が話していたところによると、二人ともほうれん草が嫌いなようだ。
 先に食べてしまうか最後に食べるか。
 こういうところにも性格が出るのね、とユイは微笑ましく思う。
 さて、目をゲンドウに向けると、当然食が進んでいない。
 単純なゲンドウは気持ちの揺れがそのまま食欲にも直結しているのだ。

「あら、あなた。肉じゃがはお嫌いでしたっけ」

「む、いや、そんなことはないが」

「ないが…なんですか?」

「うむ…」

 言うことはできない。
 言えば、ユイは必ずこの俺を医者に戻してしまうだろう。
 ユイの気持ちはよくわかっている。
 だが、ここは何か言わねばならない。
 変化球を投げられないゲンドウは咄嗟にリツコに出くわす寸前に思っていたことを口にした。

「焼き魚が食べたかった」

 その言葉を聞いた途端、ユイは目を丸くした。
 そして、口を押さえると、畳に転がって笑い出したのだ。
 どう言い訳するのかと思えば、焼き魚が食べたいだなんてっ!
 まったくもうどうしてこの人はこんなにっ!
 
「お母さん、どうしたの?」

「大丈夫?おじゃがに毒でもはいってたの?」

「アスカったら!毒なんか入ってるわけないだろ」

「わかんないわよ。笑うのが止まらない毒とかさ」

「そんなの僕たちも食べてるじゃないか」

「あ、そっか」

 家族の心配を余所にユイはその後数分笑い続けた。
 横隔膜が痛くなるまで。
 ゲンドウに心配しなくていいから食事を続けるように言われ、子供たちはまた肉じゃがと格闘する。
 焼き魚がユイのツボだったのか?
 ともかく誤魔化せてよかったと、ゲンドウはホッとして肉じゃがに箸を伸ばした。
 うむ、旨い。
 誤魔化せてあげてよかった。
 ユイはひくつく胸を押さえながらそう思っていた。
 これで明日の晩御飯のおかずは決定。
 さて、何の魚にしようかしら?





 
 


 洗濯物を干していると
 今日も窓越しにアスカの背中が見える。
 声をかけようとして、ユイは思いとどまった。
 いけないいけない、またびっくりさせちゃう。
 ん?
 あれぇ?
 何、あの子。もしかして…。
 やっぱりそうだ。ちらちらこっちを見てるもの。
 そうか。柳の下の泥鰌を狙ってるのね。
 くくくっ、可愛いっ。
 私が声をかけた途端に、びっくりしてずっこけるってわけね。
 そして泣き顔をして、またチョコを買ってもらおうと。
 ああ、どういう風にするのか見てみたいっ。
 ダメダメ。毎日お菓子を200円も買えないわ。
 ごめんね、アスカちゃん。
 ああ、でも、あの背中ったら!
 
 まだかなぁ〜、まだかなぁ〜。
 今日こそ流星バッジをもひとつあてて、シンジとお揃いにするんだから。
 う〜ん、まぁだかなぁ〜。
 早くお名前呼んでよぉ〜。





(9) 昭和42年4月15日 土曜日


 今日は土曜日。
 それでも、ゲンドウは一日仕事だし、シンジもやはりお昼までは幼稚園だ。
 病院のクリスティーネは今日も元気だった。
 病院食は食べ飽きた、うな丼を持ってきてくれないかと真剣に言い出し、ユイは困ってしまった。
 いくらお金を出すといわれても、あんな匂いの強烈なものを持って病院を歩けやしない。
 こっそりとお鮭の焼いたのを持ってくるからと言い含めたが、
 鰻と鮭じゃ全然違うとクリスティーネはご機嫌斜めだった。
 どうせポンコツ心臓で老い先が短いってわかったんだ。
 好きなものを食べて何が悪い。

「なぁユイさんや、全財産アンタに譲るからさ。うな丼を食べさせておくれよ」

「まあ嬉しい。お鮭は鰻の何パーセントになるのかしら?」

「アンタ、鬼ね、鬼」

 クリスティーネは肩をすくめた。

「アスカ、気をつけなさい。この人は嫁をいびるわよ。じわじわくどくどと」

「いびるって何?」

「いじめるってことよ」

「ええっ、お母さんがアタシをいじめるのぉっ?」

 驚いてユイを見上げるアスカ。

「いじめないわよ」

 笑いながら胸のところで手を振るユイ。
 クリスティーネは部屋中に聞こえるような小声でアスカに囁く。

「あの笑顔に騙されちゃあいかんぞ、アスカ。
 現にこの可哀相なばばあにうな丼を食べさせてくれんのじゃ」

「そ、そうなの?」

 混乱してきたアスカ。

「ああ、この女はな、にっこり笑いながら…」

「お鮭持ってくるのも止めましょうか?」

「な、アスカ。こういうこと。いじめてるだろ?」

 アスカにはよくわからないが、ユイの喋り方にはからかうような響きを感じた。

「もう!お母さん。グランマをいじめちゃダメぇ」

「くりさん、いい加減にしてください。アスカちゃんに先入観ができちゃうじゃないですか」

「ははは、家庭争議の元をつくることはないか」

「そうですよ。あ、本当にお鮭でいいですか?」

「ああ、何でもいいよ。少しボリュームのあるヤツで頼むよ」

「じゃ、帰りにお魚屋さんに寄りますから、その時に」

「任せたよ」

 と、財布を開こうとする彼女をユイは止めた。

「そのうちがっぽりと返していただきますから」

「ああ、そうしておくれ。楽しみだ」

「ねえねえ、チョコはダメ?」

 恐る恐る訊いてきたアスカに「ダメっ」の唱和。

「いじわるぅ」

 いくら膨れて見せても、アスカの要求が通ることはなかった。



「さぁて、アスカちゃん。何にしようか?」

「あれ!あれがいいっ」

 アスカが指差したのは尾頭付きの鯛。
 どうしてこんな下町の魚屋にこんな豪勢なものがあるのかは、魚屋の大将の宣伝戦略だ。
 なじみの料理屋に渡す前に店頭に置いて客引きと見た目をよくするためだ。
 もちろん、料理屋には広告料の分を値引きして渡している。

「あれはダメよ。目の玉飛び出るほど、高いじゃない。
 それにうちのコンロでどうやって焼くの?切り身じゃないとダメ」

「くぅ、つまんないよぉ。大きいのがいい」

「おやおや、奥さん。今日は外人さんのお嬢ちゃん連れて…って、
 この嬢ちゃん、ひょっとして惣流さんちのあのお転婆娘の子供じゃねぇのかい?」

「あら、わかりました?」

「ねぇねぇ、お転婆娘ってママのこと?」

「あいたっ、ごめんよ嬢ちゃん。今はお転婆じゃねぇよなぁ」

 今も充分お転婆だけど。
 そうは思ってもユイは口には出さない。
 
「嬢ちゃん、名前は何ていうんだ?」

「アタシ、アスカっ!」

「へぇアスカちゃんかぁ。あれ?で、どうして奥さんが連れてるんだい?」

「あまりに可愛いから誘拐しましたの」

「げげっって、悪い冗談だぜ。ああ、そういや惣流さんとこのご近所だっけか。
 そうか、くりさんが倒れたんで、アンタが預かってるわけか。偉いねぇ」

「そうか、てことは、あんたんとこのご主人かい?くりさんの命を助けたのって」
 
 魚屋のおかみさんが接客を放り出して話に加わる。
 いや、放り出された中年の主婦も興味ありげに近寄ってきた。

「私も聞いたよ。ほら、黒澤の映画でさ、三船敏郎がやっただろ。ええっと…」

「おお、赤ひげだ」

「ああ、それだ。そんな感じで救急車に乗って行ったって、神田さんとこの奥さんが喋ってた」

「神田さんってえらく遠いじゃねぇか。あそこの奥さんそんなに野次馬なのかい?」

「いいえ、ご主人の方よ。パジャマ姿で飛び出して行ったんだってさ。救急車の音聞いて」

「ははは、なるほどそりゃあいかにもってな感じだよ。今度会ったら冷やかしてやろ」

「あ。あの…」

 話が別の方向に飛び火して、世間話に突入してしまいそうだ。
 それに誇らしい気持ちもあるが、恥ずかしさもある。
 その上、ぐずぐずしているとシンジが幼稚園から帰ってきてしまう。
 おずおずと口を挟んだユイを大将だけではなく、その場の全員が注目した。
 わっ、みんなに見られちゃった。
 でも、誰の目も温かい感じ。
 
「おっとすまねぇ、買い物に来てくれたんだよな。何にする?」 

 ユイはもう一度並べてある魚を見渡した。
 大きな魚は料理できないので、切り身にしてもらわないといけない。
 財布の中身と相談すると、1キレ70円の鰆あたりが無難かもしれない。
 魚偏に春だから、それでいいよね。くりさん。

「鰆…にしようかな。切り身にしてくれませんか。5つで」

「ありがとよ。じゃ、5つで…70円にオマケだ」

 ユイは言葉を失った。
 安すぎる。
 1キレおまけというのは夕方に買い物に行った時にしてもらったことはあるが、
 これでは4キレおまけになってしまう。

「ちょっとあんたっ。そりゃあおまけしすぎだよって、奥さんごめんなさいね」

 一旦ユイに愛想笑いをしてから、おかみさんは大将に詰め寄る。

「あんたはいつもいつも美人に弱いんだから。えっ、何とか言ってごらんなさいよっ。
 いくらなんでも70円で5キレはないんじゃないかい」

「ば、馬鹿野郎。そ、そりゃあ、この奥さんはとびっきりの美人には違いねぇけどよ」

 魚屋の店先でという戸惑いはあるが、こうはっきりと人前で美人だと言われると嬉しくないわけがない。

「あらぁ、大将。そいつは聞き捨てならないわねぇ。美人にはサービスするわけぇ?」

 当然、近所の主婦たちもおかみさんの援軍となった。
 
「み、みんな、誤解だぜ。お、おいらがおまけしたのは、くりさんのためでぇ」

 少し顔色が青くなった大将が、やっとのことで言い返す。
 くりさんのためと聞いて、全員があっと口を開ける。
 そして、おかみさんがぼんと大将の肩を叩いた。

「痛えっ!」

「あんた、それならそうと最初っからはっきり言いなよ、もうっ!」
 
「ちょっと、加持鮮魚店さん?」

 どきりっ。
 主婦連中が店の名前をフルネームで呼ぶ時はいちゃもんをつけるときと相場が決まっている。
 まさか他の買い物客にも同じサービスをしろと迫られるのか?
 大将もおかみもまずいと思ったその時、

「あんたらけちけちしないで、もっとばぁ〜んとしてやんなよ」

「へ?」

「尾頭付きの鯛とかさ、舟盛りの鰹とか鮪とか、出してあげなさいよっ」

 主婦たちは予想外の要求をしてきた。

「惣流医院にはね、随分とお世話になったんだから」

「そうそう、私は結婚したばかりの時だったよ。まだこんな身体じゃなかったからさ。
 風邪ひいた時に惣流先生の前で胸を出すのが恥ずかしくて」

 でっぷりと太ったおばさんが顔を赤らめた。

「何しろ、惣流先生はハンサムだったからねぇ」

「美人薄命って言うけど、やっぱり美男子も儚いもんかねぇ」

「あの先生が死んだ時には私ゃおんおん泣いたよ」

「まあさ、あれで奥さんが私らと同じ日本人だったら多分憎まれたんだろうけどねぇ」

「外人さんの美人ときた日にゃ、もう好きにしてよってもんだ」

「あの人の胸はあんた並みでさ、ウエストがあんたくらいなんだよ。信じられるかい?」

 その主婦は胸の時に太ったおばさんを指差し、ウエストの時はがりがりの奥さんを指差した。

「ほ、本当かい!なあ、あんたなら知ってるだろ?」

 いきなり話をふられて戸惑うユイ。

「え、えっと、胸は確かに」

 大きかった。
 その胸をゲンドウが…などと考えてはいけない。
 私は医者の妻なんだ!と、必死で自分に言い聞かせるユイだった。
 つまり、ユイがそう思ってしまうほどだったというわけだ。
 しかしウエストの記憶はない。

「ねぇねぇ、ウエストって何?」

 アスカがユイのスカートを引っ張る。
 
「あ、うん。あのね、ここのこと」

 自分の腰を指差すユイ。
 なぁんだとアスカは得心顔。

「グランマのここはママと変わんなかったよ」

 耳をそばだたせる主婦たち。

「ママはね、お母さんよりちょっとだけ大きいかな?」

 主婦たちはユイの腰を見て一様に驚き顔。
 そして、その中の一人が気がついた。

「あれ?今、お嬢ちゃん、この人のことをお母さんって言わなかったかい?」

「うん、言ったよ。だって、お母さんだもん」

 アスカは胸を張った。
 そして、事の成り行きにユイは暗然となる。
 これは行くところまで行かないと止まらないかもしれないと。

「どうしてお母さんなんだい。お嬢ちゃんの…」

「アスカだよ」

「ああ、ごめんね。アスカちゃんのお母さんは惣流さんとこの娘なんだろ?」

「そうだよ。ママはママ。でね、お母さんはお母さんなの」

 は、はは。笑っておくしかない。
 魚を楽しみにしている二人のことがなかったら、アスカを引っ担いで雲を霞と逃げ出しているところだ。

「どうして?」

 ああ、言う。言うわ。絶対に言う。

「だって、アタシはシンジと結婚するんだもん。だからシンジのママはアタシのお母さんなの」

 いい笑顔ね。
 そう言って頭を撫でてあげたくなるような笑顔だった。
 その満足気な顔に、一同は最初呆気にとられ、やがて顔を見合すと爆笑した。
 次々とアスカの頭を撫でて「おめでとう」「よかったねぇ」とお祝いの言葉を与える。
 そうなると、アスカはもう得意の絶頂。
 
「あんたも大変だね、こんなに小さなお嫁さんじゃ」

「え、ええ、まあ」

「こら、加持鮮魚店。これだけ祝いが重なってるんだよ。そこの大漁旗が泣いてるわよ」

 景気付けに壁に貼ってある大漁旗が指差される。

「ああっ、もう仕方ねえや。鯛でも持ってくかい?」

 破れかぶれの大将が叫んだ。
 ユイは慌てて手を横に振る。

「あ、あの、嬉しいんですけど、けっこうですよ。そんな大きな魚、うちで料理できませんし」

「いいよ、何ならうちで焼いて持っていってやるよ」

 大将よりも度量が大きいおかみさんが仕方ないねぇと笑う。

「あ、で、でも、あ、そうだ。もし、いただけるのなら、くりさんの退院祝いの時にっていうのは如何ですか?」

 ユイのその提案は圧倒的な好意を持って受け入れられた。
 
「加持鮮魚店?わたしらが証人だよ。ちゃんと特大の鯛をしつらえるんだよ」

「お、おう。任せとけ。清水の舞台から飛び降りてやらい」

「へぇ、今日は随分と男ぶりがいいよ、大将。まるで裕次郎みたい」

「そ、そうかい?へっへっへ」

「あ、あの…それで、鰆なんですけど…」

 ユイが50円玉一枚と10円玉二枚を掌に乗せ差し出す。

「いいよ、お代は」

「いえ、払います」

 そして、ユイはにっこりと笑った。

「その代わり、少し分厚めに。って言ったら怒られますか?」

 この発言も笑いを誘った。
 おかみさんは「任しときな」と鰆の片身を手に奥へ。
 こんな買い物は初めてだった。
 店の人とはけっこう喋るが、こういう場で出くわした主婦たちと話したことはない。
 こういう買い物ってけっこう病みつきになるかも。
 ユイはそう予感した。

「お〜い、ごめんよ。中に入れないんだけどさ」

 通りの方から若い男の声。

「ちょっと、開けてやんな。加持鮮魚店の次男坊のお帰りだよ」

 詰襟の一番上を開けた高校生が主婦連中を掻き分けるように入ってきた。

「ただいま」

「おう、おかえり。上で美人が待ってるぜ」

 肩に引っ掛けた鞄を下ろしかけたところで、その動きが止まった。
 
「待ってるって、まさか…」

「そのまさかのミッちゃんさ。リョウジ、おめえ、ミサトちゃん放り出して逃げ出したんだって?」

「に、逃げたんじゃねぇぜ。ダチと…」

「嘘つけ。伊吹湯の看板娘に声かけてよ。それでほっぺた引っ叩かれたんだって?
 ミサトちゃんが教えてくれたぞ。ん?往復ビンタだったのか?両方赤いぞ」

「もう片方は葛城がやったんだよ」

 つまらないぜと言いたげな高校生の表情を見て、ユイは可笑しくて仕方がなかった。
 それに変なところで知り合いの名前が登場したものだし。
 今日、お風呂に行ったらマヤちゃんをたっぷりひやかしてやろっと。
 そこへ奥からおかみさんが息子を突き除けるように出てきた。

「へい、お待ちどう。分厚めに切っといたよ」

「ありがとうございます」

 ユイのお礼を軽く受け流し、おかみさんは息子の尻をばちんと叩く。

「こら、逃げるんじゃないよ。ミサトちゃん、あんたの部屋でコーラの自棄飲みしてるんだから。早く行きな」

 鮮魚店の息子の退路はおかみさんによって絶たれている。
 彼は大きく溜息を吐くと、全然幸せそうもない調子で「幸せだなぁ…」と
 加山雄三の『君といつまでも』を口ずさみながら奥へ歩いていった。



「ねぇねぇ、あのお兄ちゃんどうしたの?」

「う〜ん、多分浮気がばれた。違うかな?」

「浮気って何?」

 魚屋からアパートまでの短い距離。
 その間にアスカが質問してきた。
 この返事は簡単なようで難しい。
 恋愛についてどこまでわかっているのか見当もつかないからだ。

「えっとね、アスカちゃんとシンジが結婚したとするでしょ」

「やった、結婚結婚!」

 言葉だけでそこまで喜ばなくてもと思うくらいの喜びを身体中で表すアスカ。

「それなのに、シンジがアスカちゃんとは違う女の子を好きになっちゃうの」

「げっ!」

 アスカが手にしていたお出かけバックをぼとんと落とした。

「嘘!シンジ、アタシのほかに好きな子いるのぉっ?!」

「ち、違うわよ。これは説明のために」

「やだやだ、シンジがそんなのヤダっ!」

「う〜ん、じゃあ…」

「そうだ。お母さんとお父さんで説明して。髭のお父さんがほかの…」

「駄目っ!」

「ひっ!」

 開けてはならない扉がある。
 そのことをアスカは知った。
 あのお母さんがあんな目をするなんて。あんな声を出すなんて。
 きっとお父さんのことを好きで好きでたまらないのだろう。
 そして、アスカは自分に誓った。
 お母さんがお父さんを好きなくらい、自分もシンジを好きになろうと。
 ただし、どうやってこれ以上好きになればいいのかまるでわからないのだが。
 だが、浮気のことは何となくわかった。
 別の人間を好きになること。
 確かにそれは許せない。



 シンジはアパートの階段にぽつんと座っていた。
 やはり魚屋さんでの騒動で少し遅くなったのだ。

「あ、お母さん!アスカ!ただいまぁ!」

 最上段で立ち上がって手を振るシンジ。
 そのシンジに向って、アスカは大きく手を振った。

「おかえり!シンジっ!」

 あなたたち、その挨拶は逆だってば。
 そうは思いながらも、階段を駆け上がっていくアスカの後姿がとてもきれいに見えた。
 危なっかしげに足を大きく上げて、よいしょよいしょと一段ずつ上っていく。
 少しでも早くシンジのところに到達したいという気持ちが全身からほとばしっている。
 羨ましいなぁ。私はあんなに身体中で愛情を表現できないから。
 ユイ自身はそう思ってはいたが、それは誤解。
 彼女のゲンドウへの愛情は誰が見てもわかる。
 もしこれで彼女が自覚できるほどの愛情表現をしていたら、近所迷惑この上なかっただろう。

「遅かったね、待ってたんだよ」

「奥さんにはいろいろあんのよ。魚屋さんで晩御飯選んでたの」

「今日はお魚か。どんなお魚かなぁ?」

「んっと、さわらって言ってたよ」

「さわら?佐原健二ってウルトラQの人だよね」

「馬鹿シンジ。あの人はお魚じゃないでしょ。お魚の人間はラゴンじゃない」

「えっ、じゃラゴンを食べるの?」

「さわらって言ってるでしょ。ラゴンじゃないわよ」

 まったくこの馬鹿はと言いたげにアスカは肩をすくめた。
 その時、背後にユイの影が。

「お〜い、通行妨害ですよ。おうちのほうに進む」

 は〜いとばたばた駆けていく二人。
 鍵を開けて中に入り、まずは鰆の切り身を冷蔵庫の上の段に。
 ちらっと包みの中を見ると、確かに大きい。
 一切れが普段の倍くらいの大きさだ。
 これはもう浮気できないわね、加持鮮魚店さんからは。
 お昼御飯は惣流家の冷蔵庫から徴発してきたハムを使ってハムエッグ。
 冷蔵庫の中のものを腐らせてはいけないと、クリスティーネから処理を頼まれているのだ。
 
「いただきまぁ〜す!」

 手を合わせて、子供たちがお箸を掴んだ。
 そして、シンジが醤油を手にお皿の方へ動かすと…。

「ちょっと待ちなさいよ。アンタ、ハムエッグにお醤油かけんの?」

「はい?かけるよ」

「私、ソース。ウスターソースよ」

「あ、そうなんだ。ちょっと待っててね」

 ユイが水屋からウスターソースを出してくる。
 受け取ったアスカはふふふんと笑いながら、ハムエッグの上に丸く黒色の輪を描く。

「それ、おいしいの?」

 疑わしげに訊ねるシンジに、アスカは何も言わずにさっとシンジのお皿にも同じ輪を描いた。

「あああっ。何するんだよ〜」

「うっさいわね。私と同じもの食べなさいよ」

「お母さん…」

 悲惨な顔で母親を見やるシンジを無視して、ユイは自分の分に醤油をかける。

「あ、自分だけずるい」

「シンジ。あなた、アスカちゃんと結婚するんだから、アスカちゃんに合わせなさい」

 優しい母親がきっぱりと宣言した。
 シンジは泣きそうな顔でお皿を見下ろす。
 色はそんなに変わらないが、匂いがまるで違う。

「アンタ、食べられないの?浮気するって言うの?」

「う、浮気ってなんだよ」

 ぼそりと言うシンジ。
 こういう時は父親似になってしまうのは、
 やはりその肉体にゲンドウの遺伝子がしっかり受け継がれているという証明か。
 
「んまっ、しらばっくれて。アンタはお醤油をかける女の子が好きなのねっ!」

 疑心暗鬼の奥さんは白でも黒だと思い込む。
 こんな調子で夫婦喧嘩をされては食事が進まないので、ユイは断を下す。
 二人ともぐずぐず言ってないで、早く食べなさい、と。
 世にも情けなさそうな顔で、シンジがハムエッグの皿に箸を伸ばした。



「どぅお?美味しかったでしょ」

「う、まずくはなかった」

 素直な発言は当然アスカを怒らせる。

「んまっ、酷い。お母さん、シンジったら酷いよぉ」

 顔を真っ赤にして地団太を踏むアスカに、ユイは優しく微笑みかけた。

「アスカちゃん、大丈夫よ。こういうのは慣れと、そして愛情だから」

「愛情って好きってこと?」

「そうよ」

「やったっ!じゃ、絶対だいじょ〜ぶ。シンジはアタシの事が大好きだもんねっ」

「う、うん…」

 歯切れの悪いその声に、アスカの顔が少し歪む。
 あらら、もう破局なの。この二人は。
 無理矢理くっつけようとは思わないけど、こういうのってまわりで見てるのはいやなものね。

「で、でも…僕やっぱり…」

「やっぱり、何よ!もう私のことなんか!」

「だって、お刺身にソースなんていやだよっ!」

 その時、時間は止まった。
 シンジの心からの叫び。
 アスカはぽけっと口を開け、ユイは頬の筋肉がつりそうになった。
 なんだ、そういうことか。

「アンタ、馬鹿?お刺身にどうしてソースをかけんのよ」

「だって、さっきアスカが…」

「はぁ?アタシ、お刺身にソースなんかかけないわよ」 

「でも、お醤油じゃなくて、ウスターソースを使うって…」

 もう限界だった。
 ユイは横倒しになりバンバンと畳を叩いて笑い出した。
 シンジはすべての食品において醤油をソースに代えて食べないといけないのだと思い込んだらしい。
 まだわけがわかっていない二人の誤解を解くのにはしばらく時間がかかってしまった。
 ユイの笑いが治まるまで。



「よかったぁ。ハムエッグならいいけど、お刺身とかいか天にソースはいやだよ」

「そんなのアタシだってイヤよ。アンタ、じょ〜しきで考えなさいよ」

 ユイは思った。
 アスカは常識という意味をわからずに使っていると。
 きっとキョウコがその言葉をよく使っているのだろう。
 これ以上笑うと身体によくなさそうなので、ここは我慢。
 
「あ、そうだ。僕ちょっと行ってくる」

「どこへ?アスカも行くっ」

「え?でも、アスカの知らない人のとこだよ」

「誰んとこ?」

「あのね、幼稚園で一緒のヒカリちゃんの…」

 ぱんっ!

 アスカが卓袱台を叩いたが、手が小さいので可愛い音しか出ない。

「浮気っ!」

「何、それ?」

 シンジはけろりとした顔で聞き返した。
 さっきの会話の中では浮気の説明はされていなかったのである。
 
「浮気っていうのは他の女の子を好きになるってことよっ!」

「あ、そうなんだ」

 にこにこと頷くシンジ。
 それに引き換え、アスカの疑わしそうな顔といったら物凄い。
 この顔はニセウルトラマンが出てきたときに、テレビを睨んでいた時の表情と同じだった。
 
「じゃ、僕は違うよ。僕はアスカが好きなんだもん」

 聞いている母親の方が照れてしまうようなストレートな物言いである。
 だが、言っているシンジも告白を受けたアスカもまだそういう恥じらいを知らない。

「ふん。信じられますかっていうのよ。アタシもついてく。
 アンタが浮気をしてないかこの目で確かめてやるわっ」

 やる気満々のアスカを先頭に真ん中にシンジ、
 そして先方に迷惑をかけてはまずいので最後尾にユイも控えている。

「あ、違うよ。アスカ。そこ、左」

「わかってるわよ!知らなかっただけよっ」

 アパートから徒歩1分。
 ほんのすぐ近くの六軒長屋の一番奥が目的地だった。
 インターホンや呼び出しベルなどあるわけもなく、
 アスカは格子戸をごんごんと叩いた。
 ガラスがびりびりと震える。
 
「はぁ〜い」

 がらがらっと扉を開けたのは小学校高学年の女の子。
 長い髪をきゅっとくくった活発そうな美少女だ。
 そう、彼女が綺麗であることはアスカにもわかった。

「どちらさま?」

「アンタがシンジをゆ〜わくしたのねっ!」

 完全に場違いなビジュアルの白人幼女にいきなりまっこうから指さされて、
 洞木コダマは対応に困ってしまった。
 もとより、外人と喋ったこともない。
 その相手が日本語を使っていることすら気が付かないくらいだ。

「え、えっと、あの…お母さんいないの。困っちゃったな」

「ああっ、やっぱり困ってるっ。アタシはシンジの奥さんなのよ!」

「わっ、どうしよう」

「こら、シンジ。こいつの名前は何ていうのよ!」

「僕知らない」

「んまっ、名前も知らないのに好きになったのっ?信じらんない!」

 目の前で幼児に夫婦喧嘩をされてコダマはさらにうろたえる。
 ああ、やっぱり着いてきて良かったと、ユイは思った。

「アスカちゃん、いい加減にしなさい。ごめんなさいね、いきなりで」

 優しそうな大人に声をかけられて、コダマは一安心。
 
「い、いえ、そんなことないですよ。はい」

 現在、洞木家を精神的に支えている彼女だ。
 落ち着いてしまえば、同年代の少女よりも遥かに大人である。

「アスカちゃん、シンジのことを好きなのだったら、シンジを信用しなさい。
 あんまり疑いすぎると、嫌われちゃうかもしれないわよ」

 ユイの真剣な言葉にアスカの肩がびくんと震えた。

「ほ、ホント?」

「うん。本当よ。そうやって別れてしまった夫婦も多いわ」

 ユイはほんの少しだけ言葉を省略した。
 映画や小説では、という言葉を。
 浮気して別れた夫婦のことは少しは聞いたことはあるが、愛しすぎて鬱陶しがられたなんて物語の世界だけ。
 もちろんそういう例も世の中にはあるのだろうが、残念ながらユイの周りでそういう夫婦はいない。
 それにここのところはアスカにそこまで教える必要はないわけだ。
 
「げっ!」

 ユイの言葉は効果覿面。
 アスカは恐る恐るシンジを振り返った。

「し、シンジ?アタシのこと嫌い?」

 その返事は実にあっさりとしたものだった。

「ううん、大好きだよ。だってアスカは僕のお嫁さんだもん」

「えへっ」

 六軒長屋の洞木家の玄関先。
 突然現れた幼稚園児に夫婦喧嘩と仲直りを見せられ、コダマは困ってしまった。
 そして助けを求めるようにユイを見上げる。

「ふふ、ごめんなさい。人様の玄関先で」

「あ、あの、ご用件は…?」

 当然である。
 
「あら、そうね。シンジ、あなたでしょう?」

「うん。あのね、ヒカリちゃんにこれをって」

 シンジは手にしていた封筒を差し出した。

「はい?」

「えっと、幼稚園の先生からです」

「あ、なんだ。じゃ、ヒカリ呼んでくるね」

 コダマは身を翻して、中に入っていった。

「あ、あのさ、それってもしかして、ら、ラブレター?」

「へ?らぶれた〜って何?」

「そんなことも知らないの?えっとね、アンタの事が好きってお手紙に書くの」

「それがらぶれた〜なの?それじゃ違うと思うけど」

 幼稚園の先生に頼まれたのだと、シンジは説明する。
 もちろんユイにはわかっていたが、最初からアスカにちゃんと説明しないのは彼女の悪い癖。
 好奇心が強いのと面白がる性格は少し傍迷惑かもしれない。
 ただ面白がって見物するだけのためについてきたのではないことだけはわかるが。
 ラブレターについての二人のやりとりを微笑んで見ていた、ユイの耳に家の奥の方でこんこんと咳の音が聞こえてきた。
 そしてミシミシという階段がきしむ音。
 まだ何やら言いあいをしている二人に「こらもう止めなさい」と注意する。
 やがて奥から出てきたのは髪をお下げにした少女。
 彼女を見てユイはあれっと思った。
 病気だと思ったのに、パジャマでも寝巻きでもなく普段着なのだ。
 その少女の後ろにコダマも続いて出てくる。
 やはり姉らしく妹が心配なのだ。何しろちょっと意味不明の幼児カップルが相手なのだ。

「あ、えっと、シンジちゃんだったっけ?」

「うん、僕、シンジだよ。えっとね、これ先生からお手紙なの」

「ありがとう」

 シンジよりも健康そうな手で手紙を受け取る。

「ねぇ、シンジ。紹介しなさいよ」

「あ、うん。あのね、なんとかヒカリちゃん」

 シンジにはヒカリやコダマの姓が読めなかった。

「洞木、よ。こほん…」

 ふふふ、と笑うヒカリ。
 その後、少し顔を背けてこんこんと咳をする。
 アスカとしてはシンジがこの女の子の苗字を知らないことに嬉しさを隠せなかった。

「アタシ、惣流・アスカ・ラングレー!アスカって呼んでいいわよ!」

 シンジを押しのけるようにして自己紹介する。
 少し偉そうな態度なのは仕方がないとして、
 アスカが初対面の人間に自分から名乗りを上げるのは珍しい。
 
「私、洞木ヒカリ。あの…アスカちゃんって、幼稚園にいなかったよね」

 アスカのような容姿の園児がいれば目に付くはずだ。
 でも、ヒカリはまだ2日しか通園していない。
 だから自信がなかったのだ。

「うん、アタシはもうすぐドイツに行くの。だから幼稚園には行ってないの」

「あ、そうなの?ドイツってどこだっけ?アメリカのお隣?」

「違うわよ。フランスの隣。ヨーロッパよ」

 その時、コダマがとんとんと快活な足音を立てて階段を上っていった。
 そしてすぐに降りてきた時には、手に地球儀を持っている。

「ねぇ、これで見てごらんよ」

 玄関先に地球儀が置かれ、みんなが顔を寄せ合う。

「見て見て、ドイツはここよ」

 さすがに小学校高学年。
 コダマがすぐにドイツを指差す。

「うんうん、ドイツはここなのよ」

「へぇ、遠いんだ。ここに行くの、あなた?」

「そうよ、ここの……」
 
 目を皿のようにしてドイツを見るアスカ。

「あれ?どこどこ?ハンブルグがないよ。この辺なんだけど」

「え、アスカって地図に載ってないところに行くの?」

「違うわよ、ハンブルグはドイツなの。西ドイツよ」

「でもこっちのドイツにないよ。お隣のドイツじゃないの?」

「そっちは同じドイツでも行けないドイツなの」

「どうして?」

「そんなの知んないわよ。ど〜せ、大人の勝手でしょっ」

 確かにそうだ。
 ドイツが戦後東西に分かれたのは大人の都合。
 朝鮮半島だってそう。ベトナムだって。
 この子供たちにそんな大人の理屈がわかるわけがないし、わかって欲しくもない。
 この子たちが二度とあんな戦争を経験しないで済みますように…。
 子供たちを見ていて、そう願わずにはいられないユイだった。
 終戦はユイが2歳の時。
 ユイは覚えている。
 山一つ向こうの町が空襲に遭ったときのことを。
 母の背におぶられ、まるで夕焼けのように山向こうの夜空が赤くなっていたことを。
 その時、その町に住んでいたユイの親戚は一家全員死んでいる。
 おぼろげな記憶の中の遊んでくれた従姉妹もその中にいた。まだ国民学校に入ったばかりの双子だったが。
 防空壕が直撃されたのだと、数年後母親に聞いた。
 丁度彼女たちと同じ年頃になっていたユイはショックを受け泣き明かした。
 はっきりとした記憶がなかったので、その遊んでくれた双子の女の子が実在していたのかも知らなかったのだ。
 母親が彼女たちが写っていた写真を見ていたのを横から見て思い出したわけだ。
 ベトナム戦争が続き、ソ連とアメリカが睨みあうこの時代。
 絶対に戦争は起こしたくない。
 ユイはそう思わずにはいられなかった。
 この子供たちのためにも。

 ハンブルグの一件は、コダマが地図帳を出してきてくれたので解決した。
 
「ほらね、おっきな港町だってママが言ってたもん」

 危うく地図に存在しない町に引っ越すものだと思いかけていたアスカが気を取り直した。

「凄く遠いところに行くのね。こんこん…ごめんなさい」

 また咳をするヒカリ。

「まだ病気治ってないの?」

「ううん、熱はなくなってるの。でも、咳が止まらなくて…」

 咳をしているヒカリの代わりにコダマが答える。

「うちね、今お母さんが入院してるから…」

「まあ、どこか悪いの?」

 つい口を挟んでしまったユイに、コダマとヒカリはよく似た微笑を浮かべた。

「ううん、妹ができたの。それでまだ入院してるんです」

「あ、そうなの。おめでとう」

「おめでとっ!」

「えっと、おめでとう」

「ありがとうございます!」

 コダマに続いて礼を言おうとしたヒカリだったが、また咳き込んでしまう。

「大丈夫?」

「うん、すぐにおさまる…こんっ…」

「お医者様には?」

「行ってないの。お金が…」

 ユイの質問にコダマが答えにくそうに小さな声で言った。
 
「お父様は?」

「お父さんは仕事。今、日雇いなの」

 どういう事情かわからないが、洞木家は経済的に困っているようだ。
 
「お薬は?」

「ただの風邪だから大丈夫だってお父さんが」

「飲んでないの?」

 おせっかいだとは思う。
 でも、医者の妻だったユイなのだ。
 放ってはおけない。

「とにかく風邪薬を…」

 そう言いかけて、ユイは口をつぐんだ。
 ただの風邪でいいんだろうか。
 もし間違えていたら。いや、風邪じゃなかったら?
 これは予感なのかもしれない。いや、もしかすると手前勝手な願望なのかも。
 そうは思いながらも、ユイは言わずにはいられなかった。

「今晩はうちでお食事しない?おばさんが風邪に負けないものつくるから」



 ユイは再び魚屋へ。
 二人分、増えたから。
 しかも病中の人間が食べるのだから、精のつくものが良い。
 加持鮮魚店のおかみは鰈を安くしてくれた。
 煮付けにしよう。
 4枚買って、1枚はくりさんにも持っていこう。
 
 コダマは恐縮していたが、食欲には勝てない。
 この数日、彼女が作れるものと父親が買ってくるものしか食べていない。
 母親の料理から遠ざかっているのだ。
 それにコダマはまだ良い。
 彼女には給食があるのだから。
 幼稚園を休んでいるヒカリのお昼には、コダマが作ったおむすびとお漬物だけ。
 これじゃ身体がよくなるわけがない。
 今日会ったばかりの人の世話になるのは少し恥ずかしいが、別に気後れはしない。
 このあたりは下町育ちの良さだろう。
 ユイのつくった鰈の煮つけを卓袱台の蝿除け網の中に入れ、置手紙を書く。
 第3青葉荘の碇さんのところで晩御飯を食べてます、と。

 今日はゲンドウの迎えにはシンジとアスカは行かさない。
 それではヒカリとコダマの居心地が悪くなってしまうから。
 それに一番大きな理由は、事前にシンジたちに喋られてしまうとゲンドウに警戒をさせてしまうから。
 ゲンドウには突然ヒカリちゃんと出逢ってもらう。
 ヒカリちゃんには悪いけど、あなたには武器になってもらいますね。

 ユイは勝負をかけていた。
 父親が失業し日雇い状態で収入が不安定。
 母親は出産で入院し、しかも重いお産だったので入院が長引くそうだ。
 出産と入院の費用を捻出しようと父親は必死になって働いているのだが…。
 コダマに聞いた話ではヒカリの病気のことは父親には黙っているらしい。
 病院に行く費用のことが気になって言い出せないのだ。
 幼い姉妹の健気さにユイは胸が詰まる想いだった。
 そのためにゲンドウにヒカリを診させようと思ったのだが、
 素直に頼んだだけでは逃げられてしまうかもしれない。
 いや、何とか逃げようとするだろう。
 ユイにはわかっていた。
 本当にゲンドウが医師を辞める気でいるならば、
 逆にヒカリを気軽に診てくれるだろう。
 心が揺れているからこそ逃げるのだ。
 ならば、逃げられないようにするまで。
 これでも、逃げようとするならば、私が身体を張る。
 どうすればいいかはよくわからないけどね。

「おばさん、美味しい!」

「本当?」

「うん、凄く美味しいよ。ね、ヒカリ」

「うんっ。美味しい」

 ところどころに咳は混じるが、ヒカリも嬉しそうに食べている。
 そんな彼女の様子を横目で見ながらアスカとシンジも楽しそうだ。
 別に物凄いご馳走が並んでいるわけではないが、楽しく食べることが一番のご馳走。
 ゲンドウを待たずに晩御飯を食べるのは、シンジには久しぶりだった。
 前の街では診療で忙しい父親と一緒に食卓を囲むことの方が珍しかったのだ。
 それがここに引っ越してきてからは毎日晩御飯は一緒。
 ほとんど父親と会話をすることはないのだが、
 家族全員で食べる晩御飯はシンジにとって何ものにも代え難かった。
 だが、今日の晩御飯は楽しい。
 ユイはゲンドウを待っているので、卓袱台には子供たち4人。
 別にお喋りが白熱しているわけではない。
 それでも子供だけの食卓というのはどこか楽しいものだ。
 
「ねぇねぇ、妹って名前決まったの?」

「うん。ノゾミっていうの」

 嬉しそうに答えるコダマ。
 ヒカリも嬉しそうだ。

「ヒカリは妹を欲しがってたもんね。これでお姉ちゃんになれるんだもん」

「うん、わた…こほんこほんっ」

 勢い込んで喋ろうとしたヒカリだったが、咳がそれを邪魔する。
 食べ終わったアスカがちょこちょこと歩いて行き、ヒカリの背中をさする。

「痛い?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 咳を出さないためにか、小さな声で礼を言う。

「そうだっ。ね、どっち見る?悟空と黄金バット」

 コダマとヒカリは顔を見合わせた。

「遠慮しなくていいのよ。白黒だけどね」

 ユイが優しく言葉を添える。
 すると、コダマが恥ずかしげに目を落とした。

「うちはないんです。今」

 あ、しまった。ユイは臍を噛んだ。
 そこまで考えてなかった。
 今ないってことは、質に入れたのか。
 どうしよう。変に慰めなんか言わない方がいいし。

「そっか、ないのね。じゃ、悟空にしよっ。おっもしろいんだからっ!」

 アスカは空気を読んでいるのだろうか。
 それとも無意識に?
 ともあれ、助かった。
 ユイの感謝を背にアスカはテレビの前に。
 ガチャガチャとチャンネルを回し、そのままシンジの横にちょこんと座る。
 その場所は最初に座っていた場所とは違う。
 これも無意識なのかしら。
 ユイはこれから訪れるはずのクライマックスのために緊張していた気持ちが和らいだのを感じた。
 うん、将来どうなるかはわからないけど、うちの息子のためにアスカちゃんは欲しい。
 この子なら、きっとシンジがくじけても背中をどやしつけてくれるだろう。
 そう思うと、すっと笑みが広がった。
 そして、左の頬にあの感触が…。
 あ、そういえば、アスカちゃんには片えくぼがまだ出てなかったんだ。
 どうしてなんだろう?
 母親の性ってことなのかしら…。
 くりさんに話したら笑われるでしょうね、きっと。
 ユイは片えくぼを浮かべながら、小さな恋人たちの背中を見つめていた。



 こつ、こつ、こつ……。

 来た……。
 ユイは息を呑んだ。
 あの足音のリズム。
 絶対に間違えやしない。
 毎日あの足音が楽しみなんだから。
 あのリズムがシンジの軽やかな足音に雑じる、ユイにとって絶妙のアンサンブルを。
 ただし、今日はいつもとは違う。
 胸が苦しい。喉が渇く。
 お願い、あなた。
 お医者様をすることが貴方の夢なんでしょう?

 がちゃり。

 扉が開いた。

「今、帰った」

 玄関先にぬっと立つ仏頂面の髭男。
 ゲンドウを見て、コダマとヒカリがびっくりしたのは仕方がないと言える。
 ただし、ゲンドウの方も驚いたのだ。
 シンジとアスカの迎えもなく一人寂しく帰宅すれば、家の中には見慣れぬ少女が二人増えている。
 この前はいきなり金髪美人に土下座された。
 一人で帰宅するのはしばらく避けたほうがいい。
 彼が咄嗟にそんなことを考えていたなどとは、子供たちにわかるわけがない。
 
「おかえりなさい、お父さん!」

「おかえり、お父さん!」

 シンジとアスカの声が重なる。
 それを聞いてようやくお客様二人は、玄関先の大男が闖入者ではなくこの家の主人だと思い出した。
 
「あ、あの、こんばんは」

「こんばんは、こほん…」

 ヒカリが遠慮がちに咳をする。
 その時、ゲンドウがかすかに身じろぎしたのをユイは見逃さなかった。
 
「あなた、突っ立ってないで中に入りなさいよ。お客様が困っちゃうでしょ」

「ああ、うむ」

 ぎこちなく頷くと、ゲンドウは靴を脱ぎ、歩み寄ったユイに弁当の包みと汚れ物を渡す。
 その間に何度かちらりとヒカリの方を見ている。
 それを確認したユイは心の中でしっかり頷いていた。
 やっぱりこの人はお医者様。あの咳が気になるんだ。
 でも、だからといってこっちから追いやるのは駄目。
 せいぜい水を向ける程度にしなきゃ。

「お母さんはご出産で入院してて、お父さんは朝から夜遅くまで働きに出てるんだって。
 だから今晩はご招待したの」

「うむ…そうか」

 その時、コダマとヒカリが目配せをした。
 一家団欒の時間だからお邪魔をしてはいけない。ここらで帰りましょうと。
 そして、言葉を出そうとした時、アスカが先に喋った。

「ねぇ、7時30分から何か見る?」

「あ、う、ううん。もう帰らないと。それにお風呂にも行かないといけないから」

 まずい、このまま帰られちゃいけない。
 ユイは水を向けることにした。

「ああ、そうか。ヒカリちゃん、ずっと入れなかったんだものね。でも…大丈夫?」

「う、うん、大丈夫…こほっ…です」

「そう?だけど、お医者様にも診てもらってないんだから…」

 言葉はヒカリの方を向いているが、訴えているのはゲンドウへ。

「何?」

 それは意識せずに出た言葉だった。
 自分の声が聞こえて、ゲンドウはしまったと思った。
 こういう話は避けないと…。
 しかし、あの咳は…。

 3秒もかかっていなかっただろう。
 だが、そのわずかな時間の中でゲンドウは葛藤していた。
 自分はもう医者ではない。
 しかし、あの咳を見過ごしにはできない。
 このまま放置していいのか?自分が逃げるために…。

 ゲンドウは目を瞑り大きく息を吐いた。
 そして、彼はつかつかとヒカリの前に歩み寄った。
 彼女の前に膝をつくと、無愛想もいいところな顔つきで言う。

「口を開けるんだ」

「え…」

 明らかに怯えているヒカリ。
 ユイは思い通りに動いてくれた嬉しさもさることながら、相変わらずのつっけんどんさを見て軽く溜息をついた。
 これはやはりいい看護婦さんを探さないと…。
 流石に姉だ。コダマがさっと二人の間に入った。

「あの、すみません…」

「よかったねっ」

 コダマの背中でアスカの声がした。
 振り向くと、アスカがヒカリの肩をぽんぽんと叩いていた。

「あのね、シンジのパパはお医者さんなんだよ。
 アタシのグランマが死にそうだったのを助けてくれたんだよ。
 ヒカリのごほんごほんも治してくれるよ」

「えっ、お医者さんなの?」

 明らかに医者のイメージとは違うゲンドウに戸惑うコダマ。

「う、うむ」

 仕方なしに頷くゲンドウ。

「お金がないんですけど、いいですか?」

「金などいらん」

 ユイは嬉しかった。
 が、続くゲンドウの言葉でその嬉しさもかなり退いてしまったのだが。

「手遅れになっては大変だからな」

「あなたっ!」

 慌てて駆け寄るユイ。

「この咳は良くない。ぜんそくか…いや、推量はいかん」

「あ、あのっ」

 さすがにコダマの年齢ともなると、ゲンドウの言葉の意味がわかる。
 
「ユイ。懐中電灯だ。大きくてもそれでいい」

「はい、あなた」

 ユイは懐中電灯が置いてある玄関脇の戸棚ではなく、押入れの方に向かった。
 そして、押入れの襖を開けると、下の段に入っているあの旅行鞄を引っ張り出す。

「何をしている。早くし……」

 言いかけたゲンドウの口が止まる。
 ユイが開いた鞄の中身には黒い往診用の鞄がそっくり入っていた。
 その横にはアイロンがあてられ綺麗に畳まれた白衣も入っている。

「ユイ。お前は…」

「聴診器も要りますよね」

 ゲンドウは瞑目した。
 鞄の中身は本ではなかった。
 捨てる様に言ってあった医療器具だったのだ。
 それを見た途端、ユイの気持ちは痛いようにわかった。
 医者を続けさせたいという彼女の気持ちが。

「ね、ヒカリ。上を脱がないとダメよ。ほら、早く」

 コダマがヒカリを急かす。
 生活費が少ないから、大丈夫だと言う妹の頑張りに甘えてしまっていた後悔がコダマを苦しめていた。
 小児喘息がどれほど辛いものかは同級生の姿を見てよく知っている。
 工場のすぐ傍にあるこの街では呼吸器を痛める子供の数が多いのだ。
 まだ公害病という社会現象が一般化されていない時代だった。

「シンジは見ちゃダメ」

「へ?どうして」

「アンタ馬鹿ぁ?れでぃが裸になるのを見ちゃダメでしょうが」

「だって、お風呂だって…」

「だってもくそもないのっ。アンタはあっちむいてなさい」

「う、うん」

 納得できないままにシンジは背を向ける。

「あ〜、と言ってごらん」

 もはやゲンドウは目の前の患者しか見ていなかった。
 ヒカリの上着を手にしたコダマは手にじわりと汗をかいている。

「よし、もう服を着ていいぞ」

 ゲンドウは聴診器を外した。

「おじさん!あ、えっと、先生。ヒカリは?」

「ここでは詳しくはわからん。大きな病院で診てもらったほうがいい。
 今なら手遅れにならんで済むと思う」

「本当ですか!で、でも…」

 コダマは躊躇った。
 お金がない。

「父親は仕事だと言ってたな。まだ帰らんのか」

 コダマは柱時計を見た。
 8時過ぎ。
 もう帰っているはずだ。
 その旨を伝えると、ゲンドウは黙って立ち上がった。

「案内してくれんか。話をしてくる」

「はいっ」

 コダマが大声で答える。

「あなた、私も…」

「お前はここにいろ。子供たちを見ていてくれ」

「でも…」

「ふん、俺にそういう話ができるか不安なのか?」

 ゲンドウは自嘲するように口を歪めた。

「俺は医者だ。言うべきことは言う」



 30分後、ゲンドウとコダマはアパートに戻ってきた。
 左の頬を少し腫らし、少し喋りにくそうに彼は言った。

「今から社長のところに行ってくる」

「伯父さまの?」

「ああ、少しやりあって来る」
 
 にやりと笑ってゲンドウは背中を向けた。
 その背中をコダマが憧憬を込めた眼差しで見送る。

「かっこいい…」

 10歳やそこらでゲンドウのことを理解されては困る。
 自分がそうであったことなど完全に忘れ、ユイはむっとなった。
 そしてユイは好奇心と嫉妬をも併せて、コダマに何がおきたのかを訊ねた。

 洞木家の主人にゲンドウはヒカリに喘息の疑いが強いことを伝え、検査を強く勧めた。
 酒の入っていた彼はゲンドウの胸倉を掴み、いい加減なことを言うなと凄む。
 止めようとしたコダマにさらに興奮してしまった父親はゲンドウを殴ってしまうが、
 ゲンドウは蚊にでも刺されたかのような表情で粘り強く病状を説明する。
 このままでは悪くなる一方だ、娘のためにもこの町を離れる方が良いと。
 そして、金の心配をする父親に風呂に入ってきて酒を抜けと命令した。
 その上で就職を一緒に頼みに行ってやるとそっけなく言う。
 
「ははぁ、それで伯父さまのところか。なるほどね」

「何がなるほどなんですか?」

「うん。きっと自分の代わりにあなたのお父さんを雇えと要求しに行ったんだと思うわ」

「代わりって。じゃ、先生は?」

 おやおや、この娘ったら、あの人を完全にお医者さまにしちゃったわね。

「今はね、あの人工場で働いてたの。でも、これからはお医者さまに戻るから」

「そうなんですか…」

 わかったようなわからないような表情で、コダマが首を捻った。
 その表情が可笑しくてユイは「ふふふ」と笑みを漏らし、それから大声を上げた。

「ああっ、いけない」

「どうしたんですか」

「ほら、見て」

 ユイの視線の先は奥の4畳半。
 すでに時計は9時を回っていて、3人の5歳児は頭をくっつけるようにして畳に寝転がっていた。

「こら、みんな歯を磨きなさいっ」

「ヒカリったら…」

「どうする?このままうちで寝かせる?」

「いいえ、お父さんが心配すると思いますから。連れて帰ります」

 ああ、いい子だ。
 本当に長女って感じで。
 結局、ユイはヒカリを背負い、六軒長屋まで歩いた。
 そして、別れ際にコダマがまたもユイを驚かせるようなことを口走ったのだ。

「おやすみなさい。本当にありがとうございました。
 あの…先生にもよろしくお願いします」

 ぴょんと頭を下げたしっかり者の小学4年生にユイは笑みを浮かべた。

「ありがとう。こっちの方がお礼を言わないといけないのよ」

「はい?」

 怪訝な顔のコダマにユイは右手を差し出した。
 わけがわからないままに、コダマはその手を握りしめた。
 少なくとも、何かすべてがうまく行きそうな気がする。
 それもこれもこの碇家の人々と知り合ったおかげ。
 ユイの方もそれとは逆のことを考えていた。
 まさかこういう形でゲンドウが医者に戻るとは思ってもいなかった。
 これは彼女たち姉妹のおかげだと。

 長屋からアパートまでの短い距離をユイは踊りながら歩きたい気分だった。
 お医者さまのあの人が帰ってくる。
 やっと、帰ってくるのだと。







 「ヒカリ、寝た?」

 「ううん、まだ起きてるよ」

 「あのね、お姉ちゃん、決めたの」

 「何を?」

 「大きくなったらね、私、看護婦さんになる」

 「へぇ、こほん…そうなの」

 「あ、ごめんね。早くおやすみなさい、ヒカリ」

 「うん、おやすみ、お姉ちゃん」

  コダマはもう一つ決めたことをヒカリに言わなかった。
  それはどこの病院の看護婦になるか。
   
  私、あの先生のところで看護婦さんになるんだよ…。



(10) 昭和42年4月16日 日曜日
 



 ゲンドウは複雑な表情をして立っていた。
 その隣でユイは笑いを堪えていた。
 まるで小学生が宿題を忘れて怒られているような雰囲気だからだ。

「へぇ、それじゃアンタはうちの診療所を貸せと。そう言いたい訳だ」

「貸せとは言ってない。俺を雇えと言ってるんだ」

「やなこった。誰がアンタみたいな仏頂面を雇うもんか」

 クリスティーネはベッドの上でそっぽを向いた。
 約束が違うとユイは言いそうになったが、ぐっと堪えた。
 相手はくりさんだ。あのキョウコの母親で、アスカの祖母なのだ。
 どう出るかなど予想できるわけがない。

「そうか。では余所を探す」

「ふん、無愛想の上に短気か。そんな医者を雇うような酔狂な病院があるもんか」

「うむ、それはそうだろう」

 ああ、この人ったら納得してるよ。

「だったら自分でやれば良いじゃないか。私はアンタなんか雇いたくないからね。
 自分で勝手にやれば良いのさ。そうだね、廃工場の方を改築して住処でもつくるんだね。
 私は家賃をいれてくれればそれでいいよ」

「ふん、改築だと。そんな金があるか」

「へぇ、最近の改築は店子の方が費用を持つのかい?
 そいつは初耳だ。大家は濡れ手で粟というわけか」

 クリスティーネは明らかに会話を楽しんでいた。
 ゲンドウはというと、会話など楽しむというものではない。

「アンタはこっちでは医者をしたことがないんだ。
 私に任せておけばいい。医師会やら何やら面倒くさい手続きが一杯あるからねぇ。
 それに薬の会社とのやり取りもあるし、看護婦も必要だ。
 どうせ前はユイさんとこに居座ったんだから、開業医の初歩なんてわからないんだろ?」

「む…わからん。まったく」

「まったく何て医者なんだろうね。恐れ入るよ。ユイさんや」

「はいっ」

 急に話を振られて、ユイも直立不動になってしまった。
 これではゲンドウのことを笑えやしない。
 クリスティーネは活き活きとした目で話し続ける。

「やっぱりアンタがしっかりしないとダメだよ。
 私が退院したらアンタと一緒にいろいろ出かけるからね。
 医師会とか、役所とか、薬の会社だってそうだ。心しておくんだよ。
 前みたいに家付きのお嬢様って悠然とはしてられないんだ。
 アンタがこの診療所の中心にならないと」

「えっ!」

「おっと、妙な顔するねぇ。そんな覚悟もなくて主人の尻を叩いてたのかい?
 甘いねぇ、本当に甘い。アンタがしっかり診療所を支えないといけないんだよ」

 その言葉にゲンドウが大きく頷いた。

「その通りだ」

 ばしんっ!

「痛いではないか」

「はぁ…、まったく何て人だろ」

 ゲンドウの尻を平手で叩いたユイが病室の天井を見上げた。
 
「アンタ、それがわかっててこの仏頂面を医者に戻そうとしてたんじゃなかったのかい?」

「う〜ん、どうなんでしょう?」

 ユイは真剣に悩んだ。
 とにかく医者に戻すことが最優先で、その後のことはどこか安直に考えていたのかもしれない。

「おいおい、冗談だろ。本当に考えてなかったのかい?」

 こくんと頷くユイ。
 珍妙な表情でユイを見つめていたクリスティーネはやがて、あはははと笑い出した。
 いかにも嬉しそうに。

「どうだろ、うちのキョウコのことだけを猪だなんて言えないよ、まったく。アンタも充分猪だわ」

「私、羊年ですのに…」

「羊の皮を被った猪ね。うちのキョウコはウサギの皮を被ってるけど」

「まあ悔しい。ウサギの方が可愛い」

 ゲンドウが口を開いた。
 
「いいではないか。俺はう…」

「はいはい、丑年にぴったりのあなたは黙ってて」

 クリスティーネはにんまりと笑った。

「いいねぇ、日本は。私なんか1918年生まれなんだけどさ。向こうじゃそれだけだよ。
 こっちなら大正7年ってのもあるし、午年だよ。お馬さんだなんて本当に嬉しかったね。
 若かった時は私ゃポニーテールにしてたんだよ。あの人にもクリスの髪はお馬さんの…」

 ユイもゲンドウも言葉を挟まなかった。
 いや、挟めなかったのだ。
 二人の目の前には、ポニーテールをした20歳足らずの美しい少女が確かにいた。
 その少女は自分の恋物語を語り始めた。
 惣流医師とクリスティーネは日本へと向う客船で知り合ったらしい。
 ドイツの医学校に留学していた彼に一目惚れ。
 南十字星が見える客船の甲板で始めて交わした口づけ。
 その上、下船した時大胆にもクリスティーネはそのまま惣流医師と駆け落ちしたと。

「駆け落ち!」

「だって。仕方がなかったんだよ。パパは大使館の職員だ、となれば私も東京に住まないといけないわけよ。
 そうなったら、あのこちこちのゲルマン至上主義者のパパが私と彼の間を裂こうとするのは間違いないじゃない。
 ふふん、無理矢理彼にくっついてきたわけよ。彼も日本語のわからない私を放り出すわけにいかないものね」

 不敵に笑うクリスティーネ。
 その顔を見て、ユイはぽんと手を叩く。

「なるほど、キョウコやアスカちゃんはくりさんに似たわけか」

「ん?当たり前じゃないか。一目惚れとしつこいのは我が家の女性の伝統なんだよ」

「ふんっ」

 ゲンドウが鼻を鳴らした。
 ぷっとユイが吹き出す。

「おや、今のが仏頂面の笑いなのかね」

「ええ、爆笑。わかりました?」

「ああ、まったくわかりにくい男だよ。これから長い付き合いになるというのに…」

 クリスティーネのその一言に、ユイは片えくぼを見せた。
 
「ふん、長くなるかどうか。その心臓じゃあな」

「あなた!」

「本当のことだ。まあ、食事を変えて…」

「やなこった。私は食べたいものを食べるんだ。放っておいておくれ。
 ああ、この鰈はおいしいねぇ。鰻の方がいいけどさ」

 ユイが持ってきた鰈の煮つけを美味しそうに食べるクリスティーネ。

「そうそう、加持さんとこがくりさんが退院したら鯛の尾頭付きをお祝いにくれるんですって」

「へぇ、そいつはいいや。じゃ、明日にでも…」

「ふん、減らず口を叩く。まだ一週間はここにいてもらう」

「なんだい、偉そうに。このろくでなしが」

「ああ、ろくでなしでけっこうだ」

 ユイは涙が溢れてきそうだった。
 あれ以来無口に輪をかけていたゲンドウがこんなに喋っている。
 しかも他人にはわかりにくいだろうが、こんなに上機嫌で。
 よかったんだ、私のしたことは。



「アスカぁ、地下はダメだよ。幽霊が出てくるよ」

「わかってるわよ。あそこには行かないわよ。ここの階段を上がるわよ」

「帰り道わかるの?」

「はん!あったり前田のクラッカー。アタシは天才なのよっ」

 前回の病院探検の時には、知らずに霊安室を訪れてしまった二人。
 今日は慎重に探検をしている。

「天才のアスカでももう1本はなかなか当たらないよね」

「ん?流星バッジ?」

「うん。ひとつ当たっただけでも凄いけどね」

「へへん。凄いでしょ、アタシ」

 得意満面のアスカ。
 
「アタシってさ、運がいいのよ」

「凄いね」

 シンジに褒められると、物凄く嬉しい。
 保育園で保母さんや他の子供たちにどんなに褒められても、ここまでの喜びはない。
 ただ得意になるだけだった。
 それなのに、いつもは唇を尖らせて少し不満げに一人でいることが多い。
 それがアスカだった。
 そんなアスカをシンジは知らない。
 シンジの知っているアスカは、いつも自信たっぷりでぐいぐいと自分を引っ張ってくれる。
 そしてその場所へ自分は行きたい。
 アスカと一緒にいたい。
 もちろんシンジの年齢でそこまで自己分析ができるわけがない。
 彼が思っているのは、ただアスカといれば楽しいというだけ。
 
 毎日があまりに楽しすぎて。
 シンジはすっかり忘れていた。
 いや、忘れていたわけではない。
 アスカがドイツに行くこと。
 クリスティーネのところにはお別れのために10日ほど滞在するだけ。
 本当なら今日東京に帰るはずだったのだ。
 それがあの入院騒ぎとそれに続くゲンドウサルベージ計画でうやむやになっている。
 大人たちは敢えて口にしていない。
 アスカはもうすぐそんな時がやってくることを知っている。
 でも、完全に忘れている風に見えるシンジに言わずにいる。
 シンジが泣き出しそうだから。
 そんなことはアスカにはできなかった。
 
「アスカとお揃いにしたいなぁ」

「絶対にあててあげるわよ。シンジの分も」

「お願い。僕あたらないから」

「ま〜かせて!」

 そう宣言したのはいいが、正直言って自信はない。
 あの一枚が当たっただけでも凄い幸運だったということはアスカのような幼児でもわかる。
 だから、あのあたりはシンジに渡していこうと決心していた。
 ドイツに行けばシンジに会えない。
 それを考えると泣きたくなってしまう。
 ところがいつもシンジと一緒にいるので、アスカには泣く暇と場所がない。
 それにアスカは泣かないでおこうと決めている。
 シンジが幼稚園に行っている間に泣くことはできた。
 でも一度泣いてしまうともう我慢することができなくなる。
 アスカはそう教えられていた。
 クリスティーネに。
 病院でユイが席を外した時、祖母にこんこんと教えられた。
 悲しむのは一度きりの方がいい。
 それにシンジのことも考えてあげろ。
 別れが迫っていることを知られてしまうと、あの素直で真正直な子は打ちのめされてしまう。
 その間際まで隠してあげなさい、あの子のためだと。
 アスカはそのすべてを理解できたわけではない。
 ただシンジが悲しむ顔を見たくない。どうせ見ないといけないなら一度だけの方がいい。
 それならば自分が我慢しないといけないんだ。
 そう納得した。

「ねぇねぇ、お昼は何かなぁ?」

「う〜ん、食堂のおうどんじゃないかなぁ」

「おうどんかぁ…ま、いっか。じゃ、アタシきつねうどん」

「僕も」

 シンジが笑う。
 その笑顔を見ているとお腹がキュウと鳴る。

「アスカ、お腹がすいてるんだ」

「うっさいわね、アンタはすいてないの?」

「あ、うん。食べたいなぁ」

「はん!アンタのためにお腹を鳴らしてあげたのよっ。さ、行くわよ!」

 照れ隠しも手伝って、アスカはずんずん進んだ。
 
「待ってよぉ。置いていかないでよ〜」

 アスカは唇をへの字にしたまま、シンジに顔を見せまいと歩いていく。
 置いていきたくなんかないわよ!
 そう、心の中で叫びながら。



「ごちそうさまでしたっ!」

「アスカ、早い!」

「アンタが遅すぎんのよ」

「だって、よく噛んで食べろって」

「アタシだってちゃんと噛んでるわよ」

 並んで座っている二人を見てユイはくすくすと笑う。
 確かにシンジは少し食べるのが遅い。
 逆にアスカは食べるのが早い。
 嫌いなものはいち早く食べる上に、好きなものはさらに速度が速くなる。
 別に欲張っているわけでもなく、美味しいから食が進むという風が正しいのだろう。
 シンジの方は嫌いなものを食べることは食べるのだが、時に箸で転がしていたりもする。
 そんな食べ方をユイが注意するのだが、この数日はその役目はアスカが果たしている。

「ほら、ワカメも食べないと」

「食べないと、ダメ?」

「そんなの当たり前でしょうが。好き嫌いしてたら大きくなんないわよ。アンタ、お父さんみたいに大きくなりたいんでしょっ」

 シンジが顔を上げる。
 目の前でゆっくりうどんを食べているゲンドウ。
 隣に座るユイと頭一つくらい違う。
 父親のように大きくなりたい。
 シンジは大きく頷くと、2切れのワカメを箸でつまみ、一気に口の中へ。
 顔を歪めながら咀嚼する。

「そうそう、よく噛むのよ。すぐに飲み込んだら栄養にならないわよ」

 おそらくキョウコの受け売り。
 隣で口やかましく言うアスカに嫌な顔も見せずに、シンジは言われるがままに口を動かしている。

「はい、ごっくんしていいわよ。よくできました」

 ゲンドウがふんと鼻を鳴らす。
 そしてユイに横目で睨まれて再び丼に顔を埋める。
 普通の人間には笑われているとはわかるわけもないが、何しろシンジは実の子。
 父親に爆笑されては気分がいいわけがない。
 今はアスカに神経が集中していたので気付かなかったが。

「お口の中が気持ち悪いよぉ」

「だったらお汁を飲みなさいよ。ほら」

 丼を抱えて口を近づける。
 こくんこくんと出汁を呑むシンジに、アスカはさらにお説教。

「最後に残してるからそうなっちゃうのよ。美味しいのと一緒に食べたらいいじゃない」

「だって、せっかく美味しいのに…変な味になっちゃうもん」

「アンタ馬鹿ぁ?それじゃ最初に食べなさいよっ」

「でも…」

「もう知んないっ。ぷんっ!」

 わざわざ声に出して、アスカはぷいっと顔を背けた。
 その横顔をシンジは情けなさそうな顔で見やる。
 それでも彼は言わなかった。
 次からそうするとは。



 食事が終わり、病室に戻るとキョウコがそこにいた。
 腕組みをし、ニヤリと笑っている。

「ママっ!」

「ふふ、お久しぶり」

 一昨日に会ったばかりで久しぶりもないものだが、彼女はいかにも嬉しそうに立っている。
 ゲンドウなどは初対面の土下座以来なので、少し腰が引け気味だ。
 キョウコは朝一番に受け取った電報を見て飛んできたらしい。
 もちろん、その電報を打ったのはユイだ。
 サルベーシ゛セイコウ の10文字を見て天井に向って右腕を突き上げたそうだ。
 それから、キョウコはしきりにゲンドウをからかった。
 まるで午前中のクリスティーネのように。
 やはり母子だ。



 そして、一時間ほども談笑していただろうか。
 会話が途切れた時、おもむろにキョウコが立ち上がった。

「さ、アスカ。帰るわよ」

 その言葉を聞き、アスカとユイははっとした。
 クリスティーネは目を瞑り、微かに息を吐く。
 母と娘だけの時間にすでに話し合っていたのだ。これからのことを。
 
「ママ?帰るって…おうち?」

 恐る恐る訊ねるアスカ。
 青い瞳が不安に揺れている。
 その5歳にもならない娘に母親は笑顔を向けた。
 ただし、その目は少しも笑わずに、真剣な眼差しをアスカに向けている。
 わかっているでしょうねとの思いを込めて見つめていたのだ。
 その意図はアスカに充分伝わっていた。
 そして、ユイにも。
 
「そっか、そうなのか、はは…」

 無理にでも笑い声を出そうとしていることは大人たちにはすぐにわかった。
 ごめんね、アスカ。
 まだこんなに小さいのに無理させちゃって。
 そんな思いをキョウコは決して表に出さない。

「そうよ。もうママだって大丈夫なんだし。ドイツに行く準備をしないといけないの。わかるでしょ、アスカ」

 その言葉はアスカではなくシンジに向けられていた。
 シンジが理解できるように。アスカがいなくなることが。
 それでも、あのキョウコでさえシンジの顔を見ることはできなかった。
 彼の両親も覗き見ることを躊躇していた。
 その中でただひとり、クリスティーネだけがシンジの顔を直視していたのだ。

 この子らもまだ若いねぇ。可哀相で見ることができないってことかい?
 大人っていうのはね、こういう時こそきちんと見届けてあげないといけないのさ。
 子供にとっては生きるか死ぬかって大事だ。
 それに目を逸らしていちゃいけない。
 まだまだだねぇ、すっかり大人って顔してるくせにさ。

 シンジはわかった。
 アスカが行ってしまうことを。
 まだまだ先のことと思っていたのに、それはもう今すぐのことだった。
 丸イスにちょこんと座ったシンジは口をぽかんと開けて、そして顔を歪める。
 今にも泣き出そうとしたとき、アスカが口を開いた。

「というわけよ、馬鹿シンジ。アタシ、ドイツに行くからさ。アンタ、ちゃんと待ってんのよっ」

 イスからぴょんと飛び降りたアスカは、にかっと笑ってシンジの肩をぽんぽんと叩いた。
 
「ふふん、何よ、変な顔しちゃってさ。アタシがドイツに行くことは前からわかってたでしょっ」

 アスカは喋り続けた。
 黙ってしまうと泣いてしまいそうだったから。
 
「そうそう、流星バッジのあたり券はさ、アンタに渡しとくからちゃんとこ〜かんしとくのよっ。
 忘れたりなんかしたら許さないからね。預けとくだけなんだからね。ま、遊んでてもいいけどさ」

 手を後に組みながら、アスカはシンジの周りをゆっくりと回る。

「あ、そうだ。あの赤影の仮面はアンタにプレゼントしたげる。大事に使いなさいよ」

「青影でいい。僕…」

 ぼそりと呟いた言葉にアスカの声がつまる。
 シンジの背中の方でアスカが顔を歪ませた。
 
「あ、アタシ…」

 口がへの字になる。
 そのアスカの肩にゲンドウがそっと手を置いた。
 アスカが見上げるといつもと同じゲンドウの無愛想な顔。
 そんな顔で睨みつけていると、アスカが唇を尖らせた。

 おやおや、無愛想面にも取り得があるもんだねぇ。
 なまじ母親の優しげな顔で接しられるよりも、アスカのような子にはそっちの方がいいってわけか。
 だけど、シンジちゃんの方は…。

 シンジはボロボロ涙をこぼしていた。
 アスカがいなくなってしまう。
 もう遊べないんだ。一緒にいることができないんだ。
 もっと一緒にいたいのに!

「アスカ、行くわよ」

 キョウコが動いた。
 打開策などどこにもない。
 あるわけがない。
 アスカはまだ5歳にもなっていないのだから。

「う、うん」

 アスカは顔を上げた。
 その時には既にキョウコは外に出て行こうとしていた。
 それはアスカにとっては好都合だった。
 きっとママはエレベーターのところにいるに違いない。
 そして下りのエレベーターを呼んでおいてくれている。
 すっと外へ出られるように。
 ゲンドウとユイがアスカに頷く。
 そしてクリスティーネが厳粛な顔つきで孫娘を見つめている。
 数秒の葛藤の後、アスカはにっこりと笑った。
 そして二度ばかり頷くと、その笑顔のままシンジの前に。
 
「アスカ…」

「あはは、変な顔。安心しなさいよ。アタシ、世界一の美人になってもちゃあんとアンタと結婚したげるからさ。
 でも、浮気なんかしたらずぇ〜ったいに許さないからねっ」

 ぼんっぼんっ!

 アスカがシンジの右肩を二度突いた。
 
「うわっ」

 イスから落ちそうになるシンジに目もくれず、アスカは祖母の方を向いた。
 
「グランマ!」

「なんだい」

「いってきますっ!」

 言うが早いか、アスカはクリスティーネに飛びついた。
 ベッドに身を起こしている彼女によじ登るようにして、その頬にキスする。
 そして、すっとベッドを降りるともう一度シンジを見る。

「じゃあねっ、馬鹿シンジ!」

 返事は待っていなかった。
 いや、もう限界だったのだ。
 アスカはそのままずんずんと扉の方へ歩いていく。
 それを見て、シンジは慌てて椅子から降りようとしたが、
 彼が着地した時には扉はばたんと閉まっていた。

「あ、アスカぁっ」

 後を追おうとしたシンジは足を縺れさせて床に転げた。
 膝を強かに打ったが、それでも必死に追いかける。
 廊下に出てエレベーターの方へ走ると、丁度扉が締まるところ。
 その隙間に一瞬アスカの髪の毛の金色が見えた。

 エレベーターの中では、キョウコがアスカの頭に手を置いていた。

「アスカ、まだダメよ。アンタの好きなあの子なら追いかけてくるでしょ」

「う、うん…」

 アスカは必死に涙を堪えていた。
 大声で泣きたいのに。大暴れして泣きたいのに。
 キョウコにはアスカのそんな気持ちが痛いほどわかる。
 でも仕方がない。
 何度も結婚をあきらめようと思ったのは事実だ。
 ところがそんな弱音をさっきクリスティーネに漏らした。
 すると、真顔の母親に一喝された。
 アンタはアスカに一生消せない心の傷を残すつもりか、と。
 自分のために母親が結婚をあきらめたなどということは、
 アスカのような子には決して許されることじゃない。
 アスカのためにもここは鬼の母になりきりなさいと。
 今、キョウコも子供に戻って泣きたい気持ちで一杯だった。

 絶望に打ちのめされようとしたシンジだったが、そのまま隣の階段に走る。
 「何でだよ、何でだよ」と呟きながら、階段を降りる。
 大人だったら何段もとばしながら降りれるのにと、シンジは悔しかった。
 彼にできるのは最後の一段を飛び降りることだけ。
 やっとのことで1階に降りたシンジは正面玄関に走る。
 そこの自動扉はすぐに開いてくれない。
 シンジの体重では反応してくれないのだ。

「開いてよ、お願いだよ!」

 その場で何度もジャンプしながら、シンジは叫んだ。
 アスカと二人なら開いたのに…。
 ようやくゆっくりと開いた扉の隙間にシンジは身体を潜り込ませた。
 駅まではほんの少し。
 シンジはぜいぜい言いながら改札口へ。
 「こら、子供だけはダメだぞ」という駅員の叫びを背中に、シンジはホームに駆け上がった。
 アスカは?
 アスカはどこ?
 ホームをずっと見るが、あの目立つ髪の毛はどこにも見えない。
 電車が走ってくる音とアナウンスがする。
 反対側のホームだ。
 はっとそっちを見ると、停車する電車の向こうに一瞬アスカとその母の姿が。

「あああああああっ!」

 言葉にはならなかった。
 もう間に合わない。
 シンジの家の方へ向かう電車じゃなかったのだ。
 反対側の国鉄に乗り換える駅へ向かう方のホーム。
 地下道を通って向こうに行く頃には電車は走り去ってしまっているだろう。
 アスカ、気づいてよっ!
 シンジは意味不明の叫び声をあげ続けた。
 電車に乗り込んだアスカの頭が扉ごしに見える。
 
「ああああっ、ああああああっ!」

 開いていた窓を通してシンジの声が届いた。
 追いついてこられても振り返らないつもりだったのに、
 こんな声を出されては無条件でそっちを見てしまう。
 シンジからはアスカの顔半分から上しか見えなかった。

 シンジは叫んだ。

「さよならぁ!」

 そして、手を振る。

「さよならっ!さ・よ・な・ら・っ・!!!!」

 アスカも手を振った。

「さよなら…」

 大きな声が出ない。
 アスカは両の頬をぱしんを叩いた。

「さ、さよならあっ!シンジ、帰ってくるからねっ!アタシ、ちゃんと帰ってくるからっ」

「さよならぁっ!」

 ほんの一週間前に光の国に帰っていったヒーローに対するものよりも、
 その二人の声はさらに大きく、さらに悲痛で。

 がたん。
 電車が動き出した。
 シンジはさらに大きく腕を振った。
 
「待ってるから!僕、ちゃんと待ってるからぁっ!」

「さよなら、シンジっ!」

 最後に聞えたのはそれだけだった。
 スピードを増した四両編成の電車はあっという間にアスカを連れ去ってしまった。

 シンジはその場にぺたんと尻餅をついた。

「行っちゃった…」

 我慢していたわけじゃない。
 ただ、きっかけがなかっただけ。
 力が抜けた今、シンジの涙を止めるものは何もない。
 じわりと出てきた涙はやがて雨粒のようにぽたんぽたんとホームを濡らした。

「ちゃんと食べるから…。ワカメもほうれんそうもレバーも食べるから…。
 きらいなのは最初に食べるから…。
 だから、行っちゃイヤだ…。イヤだよぉ!」

「シンジ…」

 ユイの声にもシンジは顔を上げられなかった。
 ぺたんとお尻と両手をついて、涙と鼻水と涎がぼとぼとと落ちる。
 そんな息子の姿にユイも涙ぐんでいた。
 その母親の肩をゆっくりと歩いてきた父親は優しく叩く。
 そして、ゲンドウは息子をぐっと抱き上げた。
 乱暴な抱き上げ方だったが、すぐにシンジはゲンドウの胸に縋りついてわあわあと大声で泣いた。
 両手と両足が暴れまわる。
 しっかり抱いていないと落ちてしまいそうだった。
 息子のこんな泣き声はゲンドウもユイも初めて聞いた。

 キョウコも同じだった。
 電車の中で泣き出したアスカはべたんと座り込んで床をばんばん叩きながら泣いた。
 こんな泣き方、私したことあったっけ…。
 結局次の駅で降りて、アスカが落ち着くのを待つしかなかった。


 
 本人たちはすでに日本とドイツに別れてしまったかのように思っていたが、
 実は30分くらいの間は、ほんの300mほどしか離れていなかったのである。











 あれから、10日。

 昭和42年4月26日、水曜日。
 クリスティーネが退院する日だ。
 幼稚園のためにその大イベントに参加できないシンジの悔しがりようはなかった。
 タクシーなどもったいないというご本人の希望で電車でのご帰還。
 ただし、電車を使ったのは訳があったことをユイは商店街で知った。

「おや!くりさん、退院かい?」「よかったねぇ」

 八百屋や肉屋からの祝いの言葉に笑顔で答えるクリスティーネ。
 その後ろに控えるユイとゲンドウ。

 ゲンドウはすでに月曜日から洞木家の大黒柱と選手交代をしていた。
 なんと気が早いと冬月にあきれられたが、言われて引き下がる彼ではない。
 それに洞木家のためにも早く働かせる方がいいと判断したわけだ。

「ほんなら、再出発の無愛想先生に万歳三唱や!それっ!」

 新工場の設営監督責任者となった彼の音頭で万歳が叫ばれた。
 因みに洞木も彼と一緒に新工場にすぐ行くことになっている。
 家族ごと引っ越さないとヒカリの身体を治す意味がないからだ。
 本当はまだ建設中だから一人で充分なのだが、
 逆に新しい業務を一から覚える方がよかろうという冬月の配慮もあったわけだ。
 それで喜んだのは関西弁の鈴原主任も同様だった。
 何故なら彼のところは奥さんを亡くしているので、子供たちの世話が大変だったからだ。
 洞木家の奥さんが出産後で大変なことはわかっているが、
 挨拶に来たコダマと、そして息子と同い年のヒカリがしっかりしているのを見て安心したわけだ。
 そして「悪いけどうちのごんたくれをよろしゅう頼むわ」と幼い姉妹に丁寧に頭を下げたのである。
 わかりましたと、笑って応える姉妹に息子は少し膨れっ面でそっぽをむき、父親にこつんと頭を叩かれた。
 もう一人の子供である2歳の妹の方は嬉しそうにコダマの服の裾を握って離さなかった。
 それを見て兄のトウジはさらに面白くなさそうな顔をした。
 これまでちゃんと面倒見て可愛がってやったんやないか。薄情なもんや、ほんまに…。
 その表情を見てヒカリは大いに不満だった。
 こんな暴れん坊みたいでお兄ちゃんらしくないのなんか大嫌い、と。
 お兄ちゃんは優しくないと…と、自分の姉であるコダマと比べてしまったヒカリである。
 この評価はトウジにとって酷だっただろう。
 彼は彼なりに妹の面倒を見、そして可愛がっていたのだから。
 この同い年であるトウジとヒカリはしばらくは顔を合わせても口を聞かなかった。

 さて、加持鮮魚店前に一同が達した。
 その頃にはユイはクリスティーネの意図がはっきりわかっていた。
 これはゲンドウのお披露目だと。
 自分の命を救ったのがこの無愛想な男で、そして実は医者だったと彼女は語った。
 そのうち惣流医院を再開し、この男がそこの医者になるとは一言も言わない。
 実に巧妙な宣伝だとユイは思った。
 ここでそんなことを言えば、ゲンドウに底意があるようなイメージになってしまう。
 まずはお披露目だけ。
 そしてそのうちに徐々に話を広めていくつもりなのだ。
 この無愛想な男が実はけっこう愛らしいということを少しずつ町の人間にわからせていこうというわけだ。
 
「おや!こりゃあ、くりさんじゃないか!退院おめでとう!」

 大将が真っ先に怒鳴った。

「ありがとよ。なんだって、私の退院祝いをしてくれるんだって?」

「おうよ、今日だってユイさんに聞いてるからさ、ちゃあんと用意してるぜ。なあ。おい」

「聞いたよ。尾頭付きの鯛に、それから舟盛りの刺身だって?」

 クリスティーネはからかってやろうと約束以上のものも加えた。
 ところが大将もおかみさんもニコニコ笑うだけ。

「ああ、よくわかったねぇ。食べきれるかわからないほど、豪勢に盛るよ」

 冗談とは思えないのでおかみさんに尋ねてみると、舟盛りは近所の人からのお祝いらしい。
 あの時店先に居合わせた主婦たちが音頭を取って、みんなで代金を出し合ったらしい。
 それを聞いてクリスティーネが珍妙な顔になった。

「おや、どうしたんだい、くりさん。泣いちゃうのかい?」

「ば、馬鹿だね。泣くことなんかあるかい。魚の匂いがきつかったんだよ」

「へぇ、そうかい。ま、そういうことにしてやっか」

 悪戯っぽく大将が笑うと、夕方に持って行ってやるからと大声で怒鳴った。
 そして、クリスティーネの背後に突っ立っている髭面の男に首を傾げる。
 その隣にユイが寄り添っているところを見ると…。

「あ、わかった。あんたが赤ひげ先生だねっ!」

「む…、俺の髭は赤くないぞ」

 とぼけたわけでもなく、ゲンドウは不機嫌そうに言った。
 ところが、その返事を聞いて大将は大笑いしたのだ。
 
「こ、こいつはいいや。ますます赤ひげ先生だぁねっ」

「ふんっ、わけのわからん…」

「あなた?あなたのことを三船敏郎のようだと仰っていただいてるのですよ」

「むっ、三船だと?」

 ゲンドウは眉をひそめた。
 その表情を見てユイは笑いを堪えるのに必死だった。
 わっ、この人ったら喜んでるぅ。
 
「おおっ、漢だねぇ。煽てには乗らないってか?」

 乗ってるってば、しっかり。
 しばらくは本人だけが三船敏郎のつもりでいるわね、こりゃあ。
 でも、この人が医者として生きるなら、あの赤ひげがいい手本になるのは間違いないわ。
 ユイは心の中でしっかりと頷いた。



「いいねぇ、我が家。あんなとこにいると我が家の良さがよくわかるよ」

 麗しの花の小道の前でクリスティーネは腰に手をやって、しげしげと自分の家を見渡した。
 そして、表通りに面した二階の角を指差す。

「あのあたりに看板がいるね。碇医院…いや、碇診療所かい?」

「まだあんなこと言ってる。ねぇ、あなた?」

 惣流医院という名前をそのままにするとユイたちは言っていた。
 呼びかけた相手の様子を見てユイはふんっと顔を背ける。

「赤ひげ診療所なんて絶対にダメですからねっ!」

「ははは、それもいいね。アンタもなかなか言うじゃないか」

「むっ、何も言っておらん」

 そうは言いながらもゲンドウは少し恥ずかしげだ。
 ユイの言ったことは的を射ていたのだろう。

「でも、本当にダメですよ。ここは惣流医院。
 アスカちゃんが帰ってくる場所なんですから」

「だからさ、お嫁に行くんなら碇でいいじゃないか」

「シンジがお婿さんに行くかもしれませんよ」

「それじゃあ、アンタんちが…」

 言いさして、クリスティーネはそういうことかと頷いた。

「で、2番目は女の子かい。それともまた男の子かね?」

「さあ…どっちでしょう?どちらでもいいです。元気であれば」

「俺はおん…」

「はいはい、でもあなた似の女の子はイヤですからね」

 ゲンドウは慌てて首を振った。
 自分に似るのは困る。
 ただ、彼は思った。
 十数年前に街角で見かけた母娘。
 あんな感じの二人が十年後くらい後にこの街を歩いているような気がする。
 歴史はめぐるものなのだ。

「さあ、中に入ろうか。宴会の準備をしないとね」

「まあ、催促しますか?あらら?」

 鍵穴に鍵を差し込むと手ごたえがない。
 ユイは格子戸に手をかけた。
 がらり。
 少し開く。

「おい、鍵を掛けてなかったのか?」

「掛けましたよ…うん、多分」

「どけ。泥棒かもしれん」

 ユイの身体を押しのけるゲンドウ。
 がらがら…。
 格子戸を開ける。

「えいっ!」

 ゲンドウの身体に手裏剣が突き刺さ…らずに、当たってそのまま下へ。
 赤と黄色の折り紙で折られた派手な手裏剣が三和土にぱらぱらと落ちた。

「出たわね、蝦蟇法師!」

 三和土の向こうに立っていたのは、黄色のワンピースに赤い仮面の金髪少女。

「赤影参上っ!」

 3人とも咄嗟に声が出なかった。
 10日前に東京に帰ったはずのアスカがそこにいた。
 
「へへんっ!」

 最初に声を出したのは思いがけなくゲンドウだった。

「俺は、……赤ひげだ」

「んまっ!赤影はアタシ!アンタは蝦蟇法師でいいのっ」

「むうっ」

 ゲンドウは不満げに声を漏らした。
 
「アスカ、誰と来たんだい?」

「パパとママよ!グランマに挨拶したいんだって、パパが」

「へぇ、そうかい。またご馳走を狙いに来たのかと思ったよ」

「へへっ、おっきなお魚でしょ。アタシ知ってるもん。
 グランマが退院するときにお魚屋さんが持ってきてくれるって」

 一瞬ユイは真剣に考えてしまった。
 本当にキョウコがそれを狙ったのではないかと。



「失礼ね。私はそんなに意地汚くありません!アスカじゃあるまいし」

「ああっ、酷い!ママ、酷いっ!」

「ま、あるものはいただきますけどね。ねぇ、ハインツぅ」

 ごほんっ!
 咳払いが二箇所から聞えた。
 クリスティーネとハインツと呼ばれた男の口から。
 キョウコが甘えて身体を摺り寄せたからだ。
 
「年を考えなさい、年を」

「まあ失礼な!私まだ24よ」

「それはユイさんでしょうが。アンタは今年で28になるんだろう」

「あら、知ってたの?」

「馬鹿言うんじゃないよ。アンタは曲がりなりにも私の一人娘なんだからね」

 そう言うとクリスティーネは視線を若きドイツ人に向けた。

「いいのかい?こんなおばさんでさ」

「ママったら!」

「あ、あ〜、私はぁ、そ、そのぉ…」

「ママっ。ドイツ人なんだからドイツ語で喋ってよ」

「私は、元、ドイツ人だ」

 聞く事はできるが喋る方は得意ではないハインツのために、キョウコが助け舟を出す。
 それを見てユイは微笑ましく思った。
 しかしその笑顔も長くは続かなかった。
 何故?
 それはメンバーが悪かった。
 惣流家の応接間兼書斎。
 そのソファーセットに腰掛けているのは…。
 クリスティーネ・惣流。ミュンヘン出身の元ドイツ人。ドイツ語はペラペラ。
 キョウコ・惣流。日本人だが、ドイツ人と結婚してドイツに永住する予定で英語とドイツ語はペラペラ。
 アスカ・惣流。日本人だが母親の影響で小さな時から英語・ドイツ語・日本語を自由自在に操る天才美幼女。
 ハインツ・ツェッペリン。ハンブルグ出身の生粋のドイツ人。日本語は危なっかしいがドイツ語はもちろん大丈夫。
 碇ゲンドウ。医者。ドイツ語は喋るのは苦手だがヒヤリングと読み書きは大学で優をもらっている。
 そして、碇ユイ。ミッションスクールで英語を習い人並み以上には話せる。ドイツ語?バームクーヘン程度。
 つまりユイだけが蚊帳の外というわけだ。
 真っ赤な顔で必死にキョウコへの愛情を訴えているハインツにみんなが笑っている。
 そう、ゲンドウでさえ鼻で笑っている。
 その上、みんな大きい。
 アスカは例外として、他の大人はみんなユイが見上げないといけない背の高さだ。
 疎外感…。
 う〜ん、シンジがこうなったら大変だ。
 アスカとの将来のためにもシンジは外国語を勉強しないと!
 教育ママとやらになりそうな自分にユイはくすりと笑った。



「キョウコ。本当に食べていくのかい?」

「あら、私たち邪魔者?」

 真顔のクリスティーネにキョウコがおどけて言う。
 彼女の言いたいことはわかる。
 シンジとアスカを会わせるつもりかというわけだ。
 
「孫たちのそんなの私に見せないでおくれよ。頼むよ」

「そんなのって何?アスカとシンジちゃんの感動の再会のこと?ママ、見たくないの?」

「その後が嫌なんだよ、アンタ何も考え…」

「んまっ!アタシとシンジを会わせてくれないの?グランマのウルトラいじわるっ!」

「だってね、アスカ。その後が…」

 目の前で涙の別れをやらかされれば心臓がパンクしてしまうかもしれない。
 話で聞いただけで涙が止まらなかったのだから。

「ああ、後ね。私の部屋をアスカに使わせるわよ」

 アスカはニコニコ笑っている。
 
「ほら、アスカきちんと挨拶しなさい」

「わかった!これからずっとお世話になります。ふつつかな嫁ですがよろしくごしどうください」

「アスカちゃん、意味わかってる?」

 ユイが思わず突っ込んでしまった。

「うん、わかってるよ。これはね、お嫁さんの挨拶なの。えっと、それからね。
 お父様、お母様、末永く可愛がってやってくださいませ。へへ〜ん、間違えなかったよ」

 得意げに顔をほころばせるアスカ。
 ユイは呆気にとられ、ゲンドウは舞い上がってしまっている。

「こ、これ、キョウコ。てことは、アスカを置いていくってことかい?」

 さすがのクリスティーネも慌てている。
 ついこの間、言い聞かせたところではないか。

「だって、あれは私が結婚をあきらめるかどうかってことでしょ。
 アスカとハインツと3人で話し合った結果なのよ、これは」

「ダメだよ、私は許さないよ。まだアスカは5つにもなってないんだ。
 母親と離れて暮らすだなんて、絶対にダメだ。言語道断だよ」

「ママがいるから安心じゃない。それに未来の両親だってほんのすぐ隣にいるんだし」

「何言ってんだい。私なんかいつ死ぬかわからないじゃないか」

「だから、アスカが傍にいるほうが安心じゃない。これも親孝行の一環よ」

「私を出汁にするつもりか。この親不孝者」

「それにさ、ドイツじゃダメなのよね。
 アスカはお医者さまになりたいんだって。
 それならドイツで免許とるって手もあるけど、そんなことをしたら医は仁術にならない。
 ちゃんと日本語を話してきちんとコミュニケーションが取れないといいお医者さまにはなれないわ」

 キョウコはまくしたてた。

「私だってアスカと離れて暮らすのは寂しいし不安よ。だけど…」

「だからアタシが言ったの。寂しいんなら、弟か妹をつくったらいいのって」

 アスカがクリスティーネの膝に纏わりつくようにして言った。

「ああ、その手もあるなって」

「キョウコ!」

 ハインツは真っ赤になっている。
 ゲンドウがしきりに頷いているので、ユイは肘鉄を食らわしてやった。
 
「ま、アスカが耐えられなくなったり、シンジちゃんを嫌いになったらいつでもドイツに送ってよ。
 着払いでいいからさ。どうせ、そんなことにはならないけど」

「うん!アタシ、シンジと結婚するもん」

「アンタたちは、本当に、もう…」

 クリスティーネはさじを投げた。
 別にアスカの面倒を見ることがイヤなのではない。
 母と娘が離れて暮らすことに異議があったのだ。

「ユイ。お願いね。アンタ、アスカに甘そうだから、ビシビシ鍛えてやってよ」

「え、えっと、どう答えたらいいんだろう?」

「わかりました。姑としてたっぷりしごきますって言えばいいのよ」

 キョウコが笑いながら言った。
 本当は寂しいはずなのに…。
 きっと彼女が一番辛いはず。
 でもそのキョウコがあんなに明るく振舞っているんだから…。

「じゃ、わかりました。ガンガンしごきます。容赦しません。これでいい?」

「OK。アスカ、しっかりしないとダメよ。ユイはにっこり笑いながら嫁をいじめるくちだからね」

「うん、アスカがんばるっ」

 アスカはしっかりと頷いた。その瞳は闘志に燃えている。
 クリスティーネは溜息をついてソファーに深く腰掛けた。

「話はまとまっちゃったようだね。ま、誰も彼も後悔しないように」

「大丈夫!」「わかってるって」「はい」「Ja!」「ふんっ」

 口々に誓う皆に、クリスティーネは肩をすくめた。

「さぁて、じゃあ次の議題」

 キョウコがにやりと笑った。それはもう、嬉しそうに。





 今日はお弁当の日だった。
 歩いて5分の幼稚園からシンジは一人で帰ってくる。
 こつんこつんこつん。
 階段を上がって、部屋の扉を開ける。

「ただいま!今日も残さずに食べたよ!あれ?」

 部屋にいるはずの母親の姿が見えない。
 シンジは靴を脱いで中に入り、鞄を下ろし、スモックを脱いだ。

「あ、そうか。おばあちゃんが帰ってきたんだ。
 アスカのところにいるんだ…」

 シンジは風でカーテンがはためいている窓に向かった。
 そして、顔を覗かせて、惣流家を見たときだった。
 物干し台に黄色い物体。

「あれ?」

 見間違えたかと思った。
 ごしごしと目を擦って、もう一度見る。
 物干し台に仁王立ちしている黄色いワンピースの女の子。
 赤めの金髪を風に靡かせているのは、紛れもなくアスカだ。

「あ、あ、あ、あ…」

「はん!もう忘れちゃったの?この浮気者!」

「あわわわ、わ、あ、…」

 動転したシンジは窓を乗り越えようとした。
 びっくりしたのはアスカ。

「こ、こら!馬鹿シンジ。そんなことしたら死んじゃうじゃない!」

「あ、アスカっ!」

 やっと言えた。
 
「ほ、本物?」

 アスカは怒った。
 もっと別の言葉を期待してたのに。

「くわっ!アンタ、アタシをニセモノだと思ってんの!
 アタシのどこがザラブ星人だって言うのよ!」

 物干し台の下。
 応接間兼書斎では、ユイがザラブ星人の解説を皆にしていた。
 窓から姿を見えないようにしているが、音は全部聞える。
 感動の再会を楽しもうとしていたのだ。

「ユイ、アンタよく知ってるわね」

「だって、シンジが見てるから」

「嘘吐き。自分だって好きなくせに」

 言われてぺろりと舌を出すユイ。

 さて、物干し台では地団駄を踏んでアスカが怒っている。

「だ、だって、アスカはドイツに行っちゃったんじゃないか」

「ふん!行ってないもん。それとも、アンタアタシに行って欲しかったのっ?」

 シンジは慌てて首を振った。

「じ、じゃ…本当に本物のアスカなんだね!や、やった!」

「あったり前田のクラッカーよ!これからずぅ〜っとアタシはここにいるんだからねっ!覚悟しなさいよ!」

「ぐわぁ!ほ、本当っ?やった、やった、やった!」

 大人組。
 喜びに躍り上がっているシンジの様子が手に取るようだ。

「ね、あの二人。ぶちゅってすると思う?」

「喜びのキス?どうかな…」

 そこのところは気になる。
 天使のようなキスシーンを見せてくれるのか、皆は期待に満ち溢れていた。

 シンジは、どんどんと畳の上でジャンプしていた。
 アスカの方も手すりを握りしめながらぴょんぴょん跳んでいる。

「やった!やった!やった!」

「あははははっ!あ、そうだっ!シンジ、アタシいいもの持ってるの。見せてあげる!」

「僕もいいものがあるんだよ!見せてあげるね!」

 シンジは部屋の中に戻った。
 アスカも物干し台から脱兎のように駆けだす。
 シンジの方が早かった。
 丁度、麗しの花の小道の真ん中で二人は出くわす。
 その真上が応接間兼書斎の窓だ。
 大人たちはその窓から首を覗かせた。

「アスカ!」

「シンジ!」

 二人は抱き合わなかった。
 アスカとシンジはお互いの手に持っているものを見、そして自分の手にあるものを見つめた。

「同じ…」「一緒だ…」

 手にしていたのはスパイダーガン。
 科学特捜隊のアラシ隊員が持っている大型の銃だ。
 引き金を絞るとプラスチック状の泡が出てくる子供たちの垂涎のおもちゃだった。
 アスカとシンジはにやっと笑った。
 そして、どちらからともなく手を繋いだ。

「いこっか!」「うん!」

 行き先は裏手の空き地。
 表通りの方に走っていく二人を見下ろして、キョウコが呟いた。

「なぁんだ、キスしないんだ」

「がっかりですね」

「こら、アンタたち」

 窓から離れたクリスティーネが腰に手をやって叱りつけた。

「あの後、おもちゃを買ってやって宥めたんだね。情けない。何て親だろうね、まったく」

 10日前に泣き叫ぶ子供についおもちゃを買って機嫌を取ってしまった母親同士は、
 顔を見合わせて苦笑した。
 この時とばかり、高価なものを要求した子供たちも抜け目なかったが。

 その後、しばらく二人は空き地で遊んでいた。
 別れた前と少しも変わらずに。



 夕方。
 手桶を持った二人の若者が惣流家を訪れた。

「ごめんくださ〜いっ!」

「すみません…」

「ちょっとぉ!もっと大きな声出しなさいよ!
 魚屋なんだから景気よくしないとっ!」

「お前の馬鹿声で景気は充分いいじゃないか。それよりどうして葛城が付いてくるんだ」

「サービスよ、サービスぅっ。ごめんくださぁ〜い、活きのいい魚が売り物の加持鮮魚店でぇ〜すっ!」

「焼き魚の活きはよくないってば」

 ぼそりとつぶやく学生服のリョウジをミサトは睨みつけた。

「は〜い、ごめんなさいね」

 2階から降りてきたのはキョウコ。
 予期せぬ金髪美人にリョウジの相好が崩れた。

「こ、こんにちは、加持鮮魚…、痛ぇっ!」

 足を思い切り踏みつけられて、それでも手桶をひっくりかえさなかったのは魚屋の息子として偉い。
 
「加持鮮魚店からお届けものです!」

「まあ、可愛いお魚屋さんね」

 セーラー服のミサトにキョウコが微笑みかける。

「ここに置きますね」

「アリガト。う〜ん、二人は恋人?」

「あらっ、違いますよ!もうっ!」

「痛えっ!」

 ミサトは肘でリョウジのわき腹を思い切り突いた。

「何するんだよ!」

「あ、ごみん。痛かった?」

「痛いに決まってるだろ」

「あははは。あ、ごめんなさい!これからもご贔屓に!」

 ミサトは逃げるようにリョウジの背中を押して玄関から出て行った。
 そんな二人を見送って、キョウコはにんまりと笑った。

「加持鮮魚店の二代目大将とおかみさんか。ありゃ、尻に敷かれるな。ふふ」



 退院祝いは豪勢なものになった。
 主賓には料理をさせられないので、ユイとキョウコが担当。
 和食と洋食が入り混じった賑やかな食卓となり、
 アスカとシンジは目を輝かせて料理に飛びついていった。
 そして、ゲンドウはあれ以来となるお酒を飲んだ。
 固辞する彼にクリスティーネが絡んだのだ。
 周りの皆も彼に勧めた。
 コップに注がれたビールをゲンドウはゆっくりと飲んだ。
 もちろんそれで酔うほどのものではなかった。
 だが、アルコールには酔うことはなかったのだが、
 ゲンドウは人の心に酔った。
 人の心の温かさに。

 食事の後は、アスカとシンジは『仮面の忍者赤影』を見た。
 今日は第4話。
 「白影さん捕まっちゃったぁ」「わっ蜘蛛!毒蜘蛛ぉ?」「のっぺらぼうだ、あの忍者」
 作品に一喜一憂する二人の反応を聞いているだけでも、充分な酒の肴になる。

「さて、見終わったらお風呂に行きましょうか」

 キョウコがそんなことを言い出した。
 
「ハインツは一度も銭湯に入ったことがないの。ゲンドウさん、お願いしますね」

「うむ…」

 ゲンドウは頷いた。
 そんなに喋りあったわけではないが、悪い男ではない。
 風呂の面倒くらい見てやろう。

「それから、ママも行くわよ。いいわね」

「えっ!な、何を言い出すんだ、お前は」

「だって、私はママとお風呂に入りたいんだもん。
 いくらなんでもここに大人二人入るのは狭いじゃない。ね、行こうよ、ママ」

「だ、だって、お前…」

 戸惑うクリスティ−ネ。
 これまで銭湯には行ったことがないのだ。

「お、お前は恥ずかしくないのかい?」

「全然。別に男湯に入るわけじゃないし。ユイだっているから」

「だ、だけどさ…」

「くりさん、覚悟を決めましょう。キョウコはしばらく会えないから甘えたいんでしょう」

「ふん!私は…」

「行こっ!ねっ、グランマ。おっきなお風呂!」

 クリスティーネは言い負けた。
 この歳でありながら恥ずかしくてたまらなかったが、結局伊吹湯に向うことになったのである。
 その伊吹湯では彼女が想像していた通りの反応が起こった。
 女湯でも男湯でも。
 ゲンドウは毎日来ているので違和感はないが、ハインツはもちろん初めて。
 紅毛碧眼で顔も知らない長身の青年が突然出現したのだ。
 その上、英語ではない言葉でゲンドウと会話をしている。
 彼は恥ずかしがらずに真っ裸になり、ゲンドウの指図どおりに曇ったガラス戸の向こうへ消えていった。
 その後姿を見送って、マヤの母親が顔を赤らめ溜息をついたとか。
 さて、番台の向こう側。女湯では…。
 町ではよく知られていたが未だ一度も銭湯に姿を見せたことのないクリスティーネが注目の的となった。
 しかし、それは彼女の予想していた遠巻きにしてじろじろ見られるというものではなかった。

「おや、くりさんじゃないか!」

「本当!ああ、そう言えば今日退院だったんだねぇ」

「初めてじゃないの、ここに来るのは」

 顔見知りの古参の奥さん連中が、着替えを始めようとしたクリスティーネの傍へすっと寄ってきた。
 ユイたちはさっと離れる。
 アスカとシンジはどうなるのかと好奇心丸出しで見ていた。
 もっとも二人の母親もわくわくして見ていたのだが。

「おめでとう!よかったねぇ、ここだって?」

 自分の裸の左胸を押さえる太りじしの奥さん。

「あ、ああ、危うくおっ死んじゃうとこだったよ」

 何とか会話を始めるクリスティーネ。
 彼女はまだ脱ぐ前だが、取り囲んでいる奥さんたちは全裸もいれば半裸も。
 ひとしきり退院祝いの会話をしたあと、頭株の奥さんが周りの奥さんを追い払った。

「ほらほら、くりさんは風呂に入りに来たんだ。話ばっかりじゃいけないだろ」

 ああ、そうかと離れる奥さんたちだが、視線はクリスティーネに釘付け。
 それがわかっているだけに彼女はなかなか脱げない。
 そこにアスカがちょこちょこと走り寄る。
 
「早く入ろうよ、グランマぁ」

 そう言うアスカは素っ裸。
 当然彼女の右手はしっかりとシンジの手を掴んでいる。
 
「そ、そうだね」

「くりさん?」

 ユイがにっこり笑った。

「こういう時はぱぱっと脱いでしまうのが一番ですよ」

「あ、ああ、わかったよ」

 クリスティーネは覚悟を決めた。
 そうなると、滅法潔くなるのが彼女だ。
 さっさと服を脱ぐとかいがいしく世話をするアスカの指示通りに脱衣籠に入れる。
 全裸になったその姿に溜息と嬌声が上がる。
 ユイもそうだ。
 あれで孫がいるの?反則じゃない。
 それでもやはり恥らいながら、クリスティーネは孫に手を引かれて洋室へ歩いていった。
 きっと、アスカがシンジから受け売りの銭湯の入り方を伝授することだろう。
 走ったらダメだよ。入るときには前を洗って。赤いボタンは慎重に…。
 ユイはそれを早く見たくてあっという間に裸になった。
 ところが隣のキョウコはまだ服を脱いでいない。
 それを見てユイは意地悪く笑った。

「あらあら、もしかしてキョウコも初めてでしたの?」

「ぐっ、は、初めて…よ。悪い?」

「いいえ。誰でも初めてがあるものですから。でも早くしないと置いていきますよ」

「や、やめてよ。脱ぐから待ってっ」

 慌てて服を脱ぐキョウコ。
 曝け出される白い裸身にユイは再度溜息を吐いた。
 き、綺麗…。
 クリスティーネのスタイルに日本人の血がそうさせたのか白く輝く肌理の細かさ。
 やだ、こんなのの隣にいたら比べられちゃうじゃない。

「先に行きますよ」

「ま、待ってよ。ねえっ!」

 二人の姿が脱衣場から消えた時、残された女性たちはことごとく首を振って溜息を吐いた。
 今日は凄いものを見させてもらったと。



 布団の準備がなかったので、ハインツはソファーでおやすみ。
 キョウコは母親の隣に布団を引っ張って行きおやすみ。
 クリスティーネは狭いのにとぼやきながらも嬉しそうだ。
 ユイとゲンドウはいつものように仲良く布団を並べている。
 奥の4畳半ではアスカとシンジも同じように布団を並べ、もう夢の中。
 すぅすぅと寝息が聞こえる。

「ユイ。寝たか」

「もう、寝ました」

「そうか」

「何ですか」

「その…何だ。二人目…」

「馬鹿おっしゃい」

「そ、そうか…」

「明日、子供たちはくりさんところで寝るみたいですよ。くりさんがにやにや笑ってました」

「ふんっ…」

 暗闇の中で満足そうにゲンドウが笑った…はずだ。
 しかもいやらしげに。
 ユイはぷうっと頬を膨らませて、そして形のいい足を布団からすぅっと出した。
 せぇのっ!

 ぼすんっ。

「げふっ!」

 命中!
 捕まえられないように、ユイはすぐにゲンドウの腹の上に叩きつけた足を布団に回収する。



 昭和42年4月27日に日付は変わった。

 すべて世はこともなし。
 
 



 


  この数ヵ月後。
  
  日本のどこかの街で、
  しばらくの間閉ざされていた小さな医院が再び開業した。


  以前はすこぶる美男子の医者だったが、
  今度の医者はすこぶる無愛想であった。

  ただ、その医院は妙に明るい雰囲気で、
  患者たちの評判は何故かよかった。

  
  その医院の名前は、惣流医院という。






〜 その後のことども 〜





 昭和42年夏。

「きゃあっ!」「うわぁっ!」

 アスカとシンジは悲鳴を上げた。
 突然、シスコ社から郵便が送られてきて、中を開けると流星バッジが入っていたのだ。
 この春にアスカがあてたものは既に送られてきて、
 アスカの部屋にある彼女の机…キョウコのお下がりの机の一番上の引き出しに厳重に保管されている。
 ではこれは何だ?
 間違いで送られてきたのだろうか?
 もしそうならこのまま貰っておいていいのだろうか?
 二人は顔をくっつけるようにして合議する。
 だが、いくら考えても結論は出ない。

「そうよ!間違えたのは向こうなんだからさ。知らん顔してりゃいいのよ」

「で、でも…返せって言って来たらどうするんだよ」

「だから、そんなの知らないって言えばいいのよ」

「だけど、おまわりさんが来たら?ザ・ガードマンが来たらどうするんだよぉ」

「ザ・ガードマンはおまわりさんじゃないわよ」

「でもでも、アスカが捕まっちゃうのなんてイヤだ」

「ど、どうして、アタシなのよ!」

「だって、アスカ宛に来たんだろ」

 アスカは封筒の宛名を見た。

「違うわよ。惣流医院宛だけど、碇ユイ様って…へっ?」

「お母さん?」

 二人は先を争って階段を降りた。
 ユイはクリスティーネの特訓を受けて病院事務を受け持っている。
 したがって今は家事よりも事務仕事を優先しているというわけだ。
 時間は2時過ぎで休診している時間なのだが、午前中の仕事のチェックで追いまくられている。
 
「お母さん、いい?」

「よくないけど、いいわよ」

 背中が喋った。
 シンジはアスカの顔を見た。
 アスカは顎をしゃくって、行けと指示する。
 忙しそうな母親の邪魔をすることはいい子のシンジとしては気がひける。
 だが、アスカに逆らうことはできない。
 それにこの流星バッジについてはシンジにとっても大事件なのだ。
 
「あ、あのね、き、今日ね、流星バッジが届いたの」

「あら、また当てたの?」

「ううん、違うの。間違えて送ってきたのかなぁ」

「じゃ、そうなんじゃないの」

 母親の背中はそっけない。
 だが、二人は気付いてなかった。
 机の前においてある鏡と壁の鏡を合わせて、ユイはしっかり二人の様子を見ていたのだ。
 しかも思い切り笑顔で。もちろん、片えくぼ付きで。
 喋りにくそうなシンジに代わって、アスカが口を出す。

「ねぇ、このまま貰っちゃいけない?」

「おまわりさんに捕まっちゃうわよ」

「げっ、やっぱり?」

 どうしようと顔を見合す二人。
 手に持っている封筒が凄く重く感じてきて、アスカはしっかりと持ち直した。
 シンジは泣き出しそうな顔でアスカに言った。

「交番に行こうか。ううん、僕が行ってくるよ」

 おお、よく言った我が息子。
 そうよ、男なんだからいざという時には凛々しくしないと。ま、泣きそうな顔してるけど。
 ほら、アスカちゃんったらうっとりした顔でシンジを見ているじゃない。
 
「大丈夫、シンジ?」

「うん、ちゃんと話をしてくるよ。アスカが捕まらないように」

「アリガト…って、アタシがやっぱり捕まるのぉ?」

 ちっ、気づいたか。
 やっぱりキョウコの娘ねぇ。うちのおっとり息子とは違うわ。
 
「捕まるのはお母さんよ!」

 真っ向から指を指すアスカ。
 おいおい、いつの間にか気分は名探偵か刑事さん?
 まあ、惣流家の人はミステリー好きだからアスカちゃんだってそうなるのはわかるけど。

「ええ〜、私が捕まるの?それは困っちゃったわね」

「しょ〜こがあるのよ。しょ〜こが」

「アスカ、しょ〜こって何?」

「知んないわよ。この前テレビで言ってたの。犯人を捕まえる時に言うのよっ」

「う〜ん、でもねぇ。お母さん、お腹に赤ちゃんがいるから…」

 その言葉を聞いた途端に、子供たちの表情が一変した。

「ホント?シンジの妹?」

「あら、弟かもしれないわよ」

「妹よ、妹。シンジ!アンタに妹ができるのよ!」

「うわぁ!凄いやっ!妹だって!」

「あのね、だから、弟かもって…」

「名前決めよ。アタシ、えっとぉ…何にしようかな?シンジは何がいい?」

「う〜ん。花子とか」

「何それ!変っ!そうだ、マーガレットは?いい名前でしょ」

「そっちの方が変だよ。碇マーガレットだなんて、おかしいよ」

 それはそうだ。まだ碇花子のほうがいい。
 もっとも花子などという名前は論外だが。
 いやそれよりもすっかり流星バッジのことを忘れてしまっている二人が可愛らしくて仕方がない。

「じゃ、じゃあ…あれ?何の話してたっけ?」

「僕の妹の話だよ」

「違うわよ、その前っ!あ、そうだ。お母さんが逮捕されるって話よ」

「逮捕って何?」

「おまわりさんに捕まって、死刑になるってことよ!」

 おいおい、アスカちゃん、前の方しかあたってないわよ。
 またテレビの影響ね。
 
「ええええっ!お母さん死刑になっちゃうの?」

 笑顔から泣き顔に一変するシンジ。
 現状では知識という点ではアスカにはまったくかなわない。
 ここいらで真相を話してあげようかとユイは決めた。

「あのね、あの流星バッジは二人へのプレゼントなの」

「へ?」

 アスカがきょとんとなった。
 
「プレゼントって誰から?まさか、ウルトラマンから?」

「う〜ん残念だけど人間よ。誰だと思う?」

 あんな凄いものをプレゼントしてくれるなんて、いったい誰だろうか?
 二人は考え込んでしまった。

「あっ、ママ?」

「ドイツにはウルトラマンチョコは売ってないでしょう」

「そうよね、言ってみただけよ。うん」

「えっと…、あはは、わかんないや」

「しっかり考えなさいよ。あっ、白影さん?」

「冬月の伯父さまじゃありません」

「あ〜ん、思いつかないよぉ。ヒント、ヒント!」

 ユイは片えくぼで微笑んだ。
 アスカの反応は本当に可愛い。
 息子の方は思いついても口に出さずに考え込んでいる。

「その人は東京にいます。女の人。二人とも会ったことがあるわ」

「へ?そんな人いたっけ」

「あっ!え、でも…やっぱり違うかも」

「言ってみなさいよ。ほらっ」

 煮え切らないシンジに痺れを切らしてアスカが催促する。

「えっとね、あの、お父さんを叩いた女の人」

「あっ!そうか。でも、あの人、ウルトラマン知らないって…」

 ユイはにっこりと笑った。

「正解よ。赤木リツコさん。あの子、今はウルトラマンのことよく知ってるみたいよ」

「そうなの?」

 アスカはいぶかしげにユイを見た。
 何しろあの時、彼女はウルトラマンの存在自体を知らなかったのだ。

「ええ、手紙を貰ったの。この前の映画を見たんですって」

「あっ!僕たちも見た、あれ?」

「キングコングと一緒にあったやつ?」

 言いながらアスカは手で胸をボンボン叩く。
 キングコングのつもりだろう。鼻の下を伸ばし顎を突き出して、美少女が台無しである。

「そうそう、3人で隣町の映画館に見に行ったあれ」

 夏休みに入ってすぐに公開された『長編怪獣映画ウルトラマン』と『キングコングの逆襲』。
 すでにそのころユイのお腹には新しい命が宿っていたはずだから、
 今更ながらにあの時座ることができてよかったとユイは思った。
 何しろ劇場の中は子供と付き添いの大人でいっぱい。
 ようやく座れた前から2列目でユイは後の観客のために身体を小さくして画面に見入った。
 ビデオがなく、しかも白黒テレビがまだ大半の時代だから、
 子供たちは大画面でカラーのウルトラマンに再会でき、どの顔もご満悦といった状態だった。
 ただ、子供たちが一様に「変だ」「おかしいよ」などと言い出したのは、
 同時上映の『キングコングの逆襲』に悪役で黒部進が出演していたからだ。
 黒部進というのはウルトラマンに変身する科学特捜隊のハヤタ隊員に他ならない。
 アスカとシンジも「どうしてハヤタさんがわるもんなのか?」と不満たらたらだった。
 それでも子供たちは作品自体は喜んで鑑賞した。
 大画面で格闘するキングコングとメカニコングの姿に歓声が上がっていたのだ。
 その中でユイは冬月に天本英世演ずるドクターフーの扮装をさせてみたらどうだろうか…、
 などと彼女らしいことを考えていたのだが。
 その映画をリツコが観に行ったということなのだ。

「へぇ、そうだったの。で、あの人があててくれたの?」

「ええ、毎日買っていたみたいよ」

「わあ、いいなぁ」

「大人の癖にずるい」

「でね、なんと、リツコさんったら、結局2つも当てたの」

「えええっ!」

 子供たちはビックリしてしまった。
 どれだけ買ったかという問題ではなく、結果的に2つも流星バッジを手に入れた彼女を素直に凄いと思ったのだ。

「それで、ひとつをプレゼントしますって。よかったわね」

「もうひとつは?」

「さあ、書いてなかったわ。誰かにあげたんじゃないの?」

「そっか。でも、嬉しいっ!これでシンジとお揃いっ!」

「えっ、じゃあれは僕がもらえるの?」

「あったり前田のクラッカー!古い方はアタシのね」

「うんっ!じゃ、遊ぼうよ、科特隊ごっこしようよ!」

「OK!空き地行こっ!あ、そうだ。ねえお母さん」

「なぁに、アスカ」

 この頃にはもうユイはアスカのことをちゃん付けで呼ばないようになっていた。
 もちろん、その方がアスカとしても嬉しいに決まっている。

「お礼のお手紙書くから。でも、後でいい?」

「ふふ、いいわよ。お昼寝終わってからね」

「わかった!じゃ、いってきます!」

「お母さん、いってきます!」

 先を争うように事務室から駆けていく二人。

「スパイダーガン、取って来ようよ!」

「じゃ、シンジはアラシね、アタシがハヤタさん!」

「あ、そんなのイヤだよ!アスカはフジ隊員でいいじゃないか。女なんだから」

「んまっ!しっつれいなっ!じゃ、アンタはバルタン星人に操られたアラシに決定!」

「そ、そんな…酷いよ!」

 微笑ましい言い争いをしながら、二人が階段を上がっていく。
 ユイはまだ膨らみを見せていないお腹を撫でた。

「元気で可愛いお兄ちゃんとお姉ちゃんでしょ。
 さてさて、あなたにはおちんちんがついてるのかな?」











 その赤ん坊にはおちんちんはついていなかった。
 昭和43年3月30日午後11時57分、碇家の第二子が誕生した。
 
「よかった、なんとか私と誕生日が一緒」

「よくない。明日だったら誕生日パーティーが2日続くのにさ」

「あ、そうか。アスカ凄い」

「へへんっ!」

「馬鹿だね、この子達は。ユイさん、でかしたよ。
 可愛い女の子じゃないか。色が白くて、アンタに似てるよ」

「そうでしょうか?抱かせてもらった時にあの人にそっくりな表情をしたんですけど」

「おやおや、どんな顔を見せてくれたんだい?」

「こんなのですよ」

 ユイは真剣な表情を作って、唇をすっとゆがめて言った。

「ふっ」
 
 それを見て3人は腹を抱えて笑った。
 
「そんなのヤだぁ。お母さんに似てる妹がいい!」

「僕も僕も!」

「もうっ!可愛いじゃないの、どうしてみんなわからないのかなぁ?」

「私も孫たちに賛成だ。顔はアンタに似てる方がいいよ」















 彼女はユイそっくりだった。
 少し色素が薄めなので、肌の色は白く、そして髪の毛の色もやや栗色だった。
 物静かでまだ2つになったばかりなのに、町で評判の美少女だったのである。
 ただし、問題がひとつあった。
 笑わないのである。
 いや、感情がないとかそういう意味ではなく、大声で笑わないという意味だ。
 可笑しいことがあっても、ただくすくすと笑うだけ。
 その笑顔も見慣れぬ人間には見せない。

「まったく、くだらぬところが似たものだ」

 ゲンドウはよくこぼした。
 そんな夫にユイはけらけら笑いながら言ったものである。

「あら、ご存じないの?あの子の…レイの笑顔って評判がいいんですよ。
 神秘的で美しいんですって。私も時々あの子の笑い顔を見てうっとりしちゃう時があるんですもの」

 そう言ってから、ゲンドウのいぶかしげな表情を見てユイは慌てて手を振った。

「違いますよ。私ナルシストじゃありません。いくら似てるからって…」

 午前中の診察が終わり、診療室にゲンドウのお昼を持ってきてそこでお喋り。
 
 ただ、ゲンドウのお昼というのはにぎりめしに漬物。
 質素なものだが、彼にとってはご馳走なのだ。
 何と言ってもユイが目の前にいるのだから。
 このお昼ごはんがユイとゲンドウの大事な時間である。
 職員たちも極力二人の邪魔はしない。

 だが、この日は違った。

「ユイさん!」

 この春、惣流医院に就職したばかりのはつらつとした娘が診察室に顔を覗かせた。
 彼女たちはこの時間を二階の食堂で過ごすのが通例となっている。

「あら、どうしたの?」

「お客様です」

「私に?」

 薬品会社の営業ならこの時間は鬼門だということをよく知っている。
 仏…いや観音さまのユイの機嫌が明らかに悪くなるからだ。
 従ってこの時間に顔を出すような野暮な客は見当がつかない。

「はい。ユイさんに」

「誰だろ。いいわ、そっちに行く」

「はい。あ、あららら、来ちゃった」

 マヤが慌てて扉から飛びのく。
 その彼女の足元をよたよたと歩いてきたのは色の白い幼児。
 一瞬、レイかと思ったが、その表情は彼女とはまるで違っていた。
 笑顔なのである。
 にこにこと笑いながら、彼はまっすぐにユイの方へ歩いてくる。

「え、えっと…。あっ!わかった!」

 ユイは彼のところまで駆け寄ると、ぐいっと抱き上げた。

「はじめまして。カール君よね」

 こくんと笑いながら頷く。

「わぁ!話には聞いてたけど、本当にニコニコ笑ってる!可愛い!」

「でしょう?なかなかの出来だと思わない?」

 扉のところで腕組みをしているのはますます美しさに磨きのかかったキョウコだった。

「キョウコ!」

「はい!ユイ。元気してた?」

「してるわよ!もう!連絡もなしに来るんだから!」

「連絡したでしょ。去年のクリスマスに。来年は万博見物に里帰りするからって」

「ま、キョウコらしいか」

 そう、いかにも電光石火のキョウコらしい。
 顔を合わすのはアスカを預けて行った時以来になる。
 30を越しているのだが、とてもそうは見えない。

「あ、ユイ。そろそろ降ろしてくれない?
 そいつ色魔だから、綺麗な女の人に抱かれてるとすぐに眠っちゃうのよ」

「へぇ、そうなの?」

「ええ、男には薄笑いなのよ。ほら」

 床に降ろされたキョウコの長男はゲンドウを見て鼻で笑った。
 そしてぷぃっと背中を向けるとよたよたと扉の方へ歩いていく。
 明らかに態度が違う。

「さっきの女の子。伊吹湯の娘でしょ」

「そうよ。マヤちゃん」

「あの子の足にもピッタリ抱きついちゃってさ。先が思いやられるわ」

「いいじゃない、可愛いから」

「そこがヤツの付け目なのよ。まさかママにまで手を出すとは思えないけど…」

「誰が何だって?」

 不服気な声にキョウコが振り向くと、そこにはクリスティーネが立っていた。
 幸せそうな顔をしている孫息子がその腕の中に。

「これだ。年齢制限無しか、うちの息子は」

 肩をすくめたキョウコはその母親の足元にくっついている未見の生物を発見した。

「きゃっ!リトルユイ!可愛い!」

 レイにとっては姉と慕うアスカが突然巨大化したように思ったのだろう。
 目を大きく開いて信じられないと言わんばかりの表情になっている。
 そのレイの前にキョウコは膝を曲げて目線を合わせた。

「はじめまして。私、キョウコって言うのよ」

「お姉ちゃん?」

「お姉ちゃんでいいわよ、うん」

「調子に乗るんじゃないの、キョウコ。レイ、その人はアスカのママ。おばさんよ、おばさん」

 ユイの暴言にキョウコは横目で睨みつけた。

「ふん!自分が20代だと思って、何よ!よし、ユイ!今日は伊吹湯に行くわよ!
 ドイツで年下の亭主に可愛がってもらって、さらに磨きのかかった肉体でぎゃふんと言わせてあげるわ」

「ふふ、いいわよ。ぎゃふんって言ってあげる。こら、あなた。鼻の下伸ばすんじゃありません!」

「う、うむ」

 やはりユイはことゲンドウのことになると目が早い。
 銭湯でのキョウコを想像してしまったゲンドウの些細な表情の変化を見逃してなかった。

「ただいまぁっ!誰か来てるの……わっ!ママだっ!」

 赤いランドセルを背負ったアスカが玄関から飛び込んできた。
 彼女の脱ぎとばした靴をきちんとそろえてから、シンジも部屋に入ってくる。
 アスカはレイを突き飛ばさないように大回りして、母親の背中にジャンプした。

「ママ!ママっ!」

「こら、アスカ。もう2年生なんでしょ。この甘えん坊!」

「うっさいわねっ!」

 その時、クリスティーネの腕の中でカールが身じろぎした。
 降ろせと言っているらしい。
 床に降ろしてもらったカールはそのままべたっと姉の頬に顔をくっつけた。

「きゃっ!誰?」

「カールよ。アンタの弟」

 突然の攻撃に驚いたアスカだったが、正体がわかると安心した。
 
「そっか、お前がカールね。アタシがアンタのお姉ちゃんよ!世界一の美少女なんだから喜びなさい!」

 うんうんと頷きながらも、カールは姉の身体にびたっとくっついたまま。

「うふっ、くすぐったいよ、もう!」

 その美しい姉弟の初対面の抱擁に、みなが微笑ましく見守っているその場でただ一人だけ気分を害していた男がいた。
 そう、この場合、彼は少年ではなく一人の男だった。
 シンジはむっとした顔つきで足を進めると、カールの脇に手を入れて強引にアスカから引っぺがした。
 そして、目を白黒させているカールの身体を無意識に手近な人間の身体の方へ押しやった。
 そこに立っていたのは無表情でことの成り行きを見ていたレイだった。
 カールはレイを見て、さらに笑顔を深くした。
 彼にしてはエデンの園だったかもしれない。ここは美人だらけだ。
 そんなカールに向かって、レイは人差し指を突きつけた。
 
「あなた、だれ?」

 さすがにキョウコはまだカールに英才教育は施していない。
 したがって言葉は通じていないのだが、ニュアンスはわかるようだ。
 カールはにっこり笑って、巻き舌で言う。

「カァルゥ」

 レイは険しい表情をした。聞き取れなかったのだろう。
 そして、自己流で翻訳したのだった。
 彼女は大きく頷くと、カールの名前を呼んだ。

「かおる。あなた、かおる、ね」

 カールはそれでいいよとばかりににっこりと笑う。
 そして、一同はレイの微笑を拝観する事ができたのである。

 この時、キョウコは直感した。
 もう一人子供が要る、と。
 結局、その勘は正しかった。
 その22年後、カールは碇という姓を名乗ることになったのだから。
 現在、ハンブルグのツェッペリン家の老夫婦は3人目の子供にできた孫たちに囲まれている。














「こぉら、シンジ。早く歩きなさいよ!」

「待ってよ、アスカ。ジャンケン強すぎるんだよ」

 二人分の荷物を持ったシンジがひいひい言いながら、それでもアスカに追いつこうと足を動かす。

「シンジが弱すぎるのよ。何出すかわかっちゃうんだもん!」

「どうしてわかるのかなぁ」

 ぼやくシンジの前にアスカはつつつと引き返してきた。
 そして、真っ直ぐに指を突きつけると、ニヤリと笑った。

「それはね、愛の力よ!」

「や、やめてよ、こんなところで」

「何よっ、私の愛が要らないって言うのっ!」

 この頃にはアスカは「アタシ」から「私」に自然に切り替わっていた。
 場所は二人が通っている中学校からの帰り道。
 中学校は駅の北側。小学校は線路のこちら側だった。
 アスカにとっては通学路が長くなったことは幸いしている。
 中学生になって授業等でシンジといる時間がどんどん少なくなっているのだ。
 何しろこの頃は一学年に10クラスある。
 二人が同じクラスになることはまず不可能だ。
 小学校の6年間5クラスでも一年しか同じ教室で過ごしたことがない。
 そんな学校生活を過ごしているのだから、登下校の時間は貴重なのだ。
 
「そ、それは要るよ。絶対に要るけど、でも、こんな場所で」

 シンジは周りを見渡した。
 二人とも部活動をしていない(アスカの要望)ので、時間は午後4時前。
 
 昭和52年10月28日、金曜日。
 今日の二人の関心ごとは、今晩の『太陽にほえろ!』で転勤したスコッチ刑事がゲスト出演すること。
 さっきまではその話題で盛り上がっていた。
 ただし、鞄持ちでシンジが5連敗したことで話題がスライドしていったのである。
 
 アスカの声は大きい。
 わざとかと思うくらい大きい。
 夕方前の商店街への通りはけっこうな人通りだ。
 当然、アスカの声に二人は注目の的。
 思春期を迎えたシンジはそれが恥ずかしくてたまらない。
 同じく思春期を迎えたはずのアスカは人目が気にならないようだ。
 買い物中のおばさんに露骨に笑われても、へへへと愛想笑いで済ましてしまう。
 世間では惣流医院の跡取り夫婦がまたやってるよ、と思われているだけ。
 仲裁に入ったりするような馬鹿者は一人もいない。
 仲が良いことくらい見ていればすぐにわかるからだ。

 ところがこの日は違った。
 仲裁ではなかったが、声をかけてきたものがいたのだ。

「もしかして、アスカちゃんと……えっと、ごめん、名前忘れちゃった」

「失礼ねっ!シンジよ、シンジ。馬鹿シンジっ!」

 叫びながら振り向いたアスカは、そこに立っている女性を見て首をかしげた。
 見覚えが少しもなかったからだ。
 それはシンジも同様。
 とにかく美人であることは間違いないが、知り合いではない。
 ショートカットにしているがマヤとは少し雰囲気が違う。
 きりっとしていて、しっかり者という雰囲気がたっぷりである。
 アスカは口調を改めて訊ねた。
 
「えっと、どちら様でしたっけ?」

 こういうときのアスカとシンジの構図。
 何故かシンジを背後に置いてしまうアスカ。
 闘争意欲が人よりも弱いシンジと、人よりもかなり強いアスカ。
 この二人は自然にこういう動きになってしまうのだ。
 ガキ大将や野犬に相対する時、必ずアスカがシンジを庇ってしまう。
 ただし、シンジの名誉のために付け加えておこう。
 彼が闘争本能に目覚めるといささか怖い。
 小学校低学年までは「泣虫強虫」と呼ばれていた。
 アスカがピンチに陥った時には、わあわあ泣きながら前後不覚に敵に飛びついていくのだ。
 ガキ大将は逃げ出し、野犬も最終的には遁走してしまう。
 何しろ危険なのだ。叩かれたり、噛まれても一切退かないのだから。
 アスカや親たちがどれだけ狂犬病のことを心配したことか。
 だが、今回の敵(アスカにとって)は、美人の女性。
 アスカの背後でシンジは暢気に誰だっけと考えている。

「やっぱり覚えてないか。ま、仕方ないわね。何回かしか会ってないし」

 ジーパンにカッターシャツの女性はにっこり微笑んだ。
 どこかで見たような気がしてならない。
 そんな二人の背中を押すようにして、娘は道を急がせた。
 早く行かないと診療時間始まっちゃうから、と。



「お久しぶりです!洞木コダマです!」

 ゲンドウとユイの前で深々と頭を下げる彼女の名乗りを聞いて、アスカとシンジはあっと顔を見合わせた。
 あの六軒長屋の洞木家の長女。
 
「ああ、あなたね、すっかり美人になっちゃって」

 うむと頷いたゲンドウは後でユイにねちねちと責められた。
 やっぱり若い子の方がいいのね、鼻の下伸ばしちゃって、エトセトラエトセトラ。

「ありがとうございます。実は私、本日は就職のお願いに来ました!」

 高校卒業後看護学校に入学し来年春が卒業予定のコダマは、あの時の誓いを成就すべく、
 念願の惣流医院での看護婦の仕事を求めにやってきたのだ。

「いいって仰っていただくまで、私ここを動きません!」

 と頭をもう一度下げた場所は診察室の真ん中。
 しかももう患者たちは待合室を埋め始めている。

「あなた…この時間を選んできたわね」

「ごめんなさい!絶対に断られないようにと思って。妹にはあきれられましたけど」

「あ、妹さんはどう?元気?」

「はい!お蔭様で。すっかりよくなって、走り回ってます!」



 もともと断る理由はなかった。
 ゲンドウともそろそろ若手の看護婦が必要だと話していたのだ。
 コダマは上機嫌で帰っていった。

「ふぅ…なんだか緊張するわね」

「アスカでも緊張することがあるんだ」

「こら、馬鹿シンジ!だって、何年ぶり?あの時にちょっとだけ話した相手なんだもん。どうやって喋ればいいか不安よ」

 アスカはもう一度すぅっと深呼吸して黒電話のダイヤルを回した。
 そのダイヤルはコダマが残していった自宅の番号。
 久しぶりに話がしたいと思ったのもある上に、コダマから聞いたヒカリの進学希望先がアスカたちと同じだったのだ。
 その高校は隣の市にある公立の進学校。
 二人は医大志望なのでその学校を目指していたのだ。

「もしもし、あの、私、惣流と申しますが…」

 緊張していたアスカの顔が崩れた。

「あ、なんだ。コダマさんか。ふぅ…緊張して損した」

 その表情の変化に笑い出したシンジをアスカは横目で睨みつける。

「はい。お願いします。………あ、もしもし、私、アスカ。覚えてる?」



 電話が終わったアスカはすこぶる上機嫌だった。
 何しろ3時間である。
 シンジは15分間は我慢した。が、それが限界。
 アスカは途中でクリスティーネとユイに何度も頭を小突かれたが、その度に舌を出してもう少しとねだるのだ。
 最初はなかなかスムーズに会話できなかったが、それぞれの学校の話をしたりしているうちに打ち解けてきた。
 それにアスカがシンジの自慢を何度もするものだから、ヒカリがいいわねぇと羨ましげに漏らした。
 その言葉の調子を気に留めたアスカがヒカリの口をこじ開けた。
 隣の家に住んでいる幼馴染の少年のことが好きなのだと。
 だが、顔を合わすと喧嘩ばかりしていると悩みを打ち明けさせたのだ。
 そこでアスカはダブルデートを提案した。
 ヒカリに有無を言わせず2日後の日曜日に遊園地に行くことを決めた。
 彼がどういうかと不安げなヒカリにアスカはアドバイスする。
 どうしても男子同伴になる。もし一緒に来てくれないと恥をかいてしまう、と言えばいい。
 聞いてる範囲じゃアンタに気があるのは確かだから、絶対に大丈夫。
 あ、変に他の男子の名前を持ち出さないほうがいいわよ。
 男って馬鹿だから気を回しすぎてピエロを気取られてしまったら笑い事ですまないからね!
 アスカの愛読書はやはりミステリー。惣流家の蔵書は次から次へと読破している上に、今は横溝正史が大ブーム。
 角川文庫の新刊が出るたびに即行で購入しているアスカである。
 推理力と対応力には自信を持っていた。

「ええっ、じゃ、映画は中止?『八つ墓村』あんなに楽しみにしてたじゃないか」

「延期よ延期。止めるとは言ってないでしょ。
 それに明日初日なんだしさ、これだけブームなんだから一週間で終わるわけないじゃない」

「う〜ん、仕方がないか。ダブルデートで『祟りじゃぁ〜』なんておかしいもんね」

「そりゃあそうよ。さぁて、となれば軍資金集めね。遊園地なんか計画に入ってないから、何とかしないと」

「えっと、じゃ僕はくりさんだよね」

「そうそう、お母さんに見つかるんじゃないわよ。グランマには律儀に頼めば大丈夫だから。
 問題はお父さんからどうやってお母さんを引っぺがすかよね。まさかトイレやお風呂に飛び込んでいくわけにいかないし」

「そんなのダメだよ!それは僕が何とかするよ。うまく母さんを呼び出すから」

「OK!ま、一分あれば余裕よ、余裕」

 アスカが腰に手をやって豪語した。
 確かにゲンドウはアスカに甘い。

 軍資金強奪計画は見事に成功した。
 ただし、2日後のダブルデートは、おまけがついた。
 アスカとシンジの間にはレイが嬉しそうな表情を浮かべていたのだ。
 密謀を聴かれてしまっていたのである。もっとも隣の部屋にいればアスカの声は筒抜けなのだが。
 口止め料として遊園地についてきたレイはご満悦。
 アスカとシンジも瘤付きデートでも文句はさほどない。
 何しろレイは可愛い妹なのだから。
 それに、ヒカリと幼馴染で意中の少年・トウジとの仲もアスカが見たところ「全然OK!」であった。
 筋書き通り途中ではぐれて二人きりにさせて、オバケ屋敷で手も繋がせることに成功した。
 その夜のヒカリからの電話は感謝と経過報告でまた3時間を越えてしまったのだが。

 シンジは思った。
 これまでアスカには友達はいても親友と呼べる女の子がいなかった。
 どうもあの洞木さんはアスカの親友になってくれそうだ。
 あのボーイフレンドの鈴原君も悪いやつじゃなさそうだし。
 なんだか彼といい友達になれそうな気がする。
 アスカの長電話を微かに聞きながらシンジはそんなことを考えていた。
 そのためにはみんな揃ってあそこに入らないと。
 そう言えば鈴原君は毎晩洞木さんに家庭教師されてるってこぼしてたなぁ。
 でも、不平そうに言ってたけど、嬉しそうだった。
 きっと彼も洞木さんと同じ高校に入りたいんだ。
 よし、僕もがんばろう。
 そう思い、シンジは単行本を閉じた。
 書名は『花神』。その年の大河ドラマの原作だった。
 主人公が無愛想な医者というのがシンジのツボだった。
 誰を連想したかは書かずともわかるはず。

 5ヵ月後、彼ら4人は揃って志望高校に合格した。

 


 










「この中に、●●新聞の人はいますか?」

 彼女の第一声はそれだった。
 大学の講義室に設けられた記者会見の場。
 ●●新聞といえば日本でも有数の大新聞。
 世界的な新薬を生み出した才媛の記者会見にいないほうがおかしい。
 何かいい話でもあるのかと、その記者がにこやかに手を上げた。
 彼女は目を細めると、いとも素っ気無く言った。

「ではこの部屋から出て行ってください。●●新聞には記事にしていただきたくありませんから」

 どよめく場内。フラッシュが続けざまに焚かれ、リツコの白い肌が浮かび上がる。

「な、何故だ。いや、何故ですか。どうしてうちが」

「だって、嘘を書かれるのは嫌ですから」

 記者は激怒した。当然、そうだろう。
 そして、その理由を尋ねる。
 記者会見は波乱の幕開けとなった。
 大学関係者は青ざめ、他の記者たちはこれはいいネタが拾えそうだとほくそ笑む。
 リツコのシナリオ通りにその場は展開していった。

 ところが、少しだけシナリオは狂った。
 別の新聞社の記者が、リツコに反論したのだ。
 それは理屈に合わないと。
 理由はわからないが、一方的に自分の主張を押し付けるのは良くない。
 それにたとえ●●新聞側に非があるとしても、それならそれで記者会見までに対処しておくべきではないかと。
 リツコは眉を顰め、そして冷ややかに訊ねた。

「あなたはどこの方?」

「毎朝新聞の日向です」

「わかりました、では先に説明しましょう」

 彼女が語った母親の死にまつわる憶測記事についての話は記者たちの興味をそそった。
 社会部の記者ではないが、みなやはり新聞記者なのだ。
 記事になりそうなネタにはそそられる。
 いい加減な記事の結果医者が医院を閉じその街を去った。
 そしてその医師は私財を名を隠して自分の育英費に回るように手配した。
 その2年後に立ち直った彼はある町でまた医者を始めている。
 美談だ。どこを料理しても格好の記事になる。
 リツコが淡々と喋るだけに話はリアルさが増すばかり。
 結局、本人とは何の関係もない●●新聞の記者が独自の判断で社を代表して陳謝し、そのことは調査させると頭を下げた。
 そうせざるを得なかっただろう。
 もしここでそうしなければ、間違いなく自分の新聞がマスコミから袋叩きにあう。
 リツコは『無様ね』と言いたい所だったが、ここは堪えて無理に微笑んだ。
 そのぎこちなさがさらに彼女の無念さを示すものだと過剰演出されたのはご愛嬌。

 結局肝心の新薬の会見よりもそちらの方が目立ってしまった。
 それはリツコの期待通りの結果だったのだが。
 これで少しでも恩返しができたか、と。
 日本人は美談が好きだから。
 あの先生どんな顔してインタビューを受けるんだろう。
 ユイさんがいらっしゃるからうまくフォローしてくれるはず。
 それにキョウコさんのお母さんが美談の上塗りをきっとしてくれる。
 この人がいなかったら私は死んでいたとか。
 そんなことを思っていたリツコに質問が飛んだ。

「すみません、あの…これは新薬とは関係のない質問なんですが…」

 質問をしたのは先ほどリツコが感心した日向記者だった。

「はい、なんでしょう?」

「その胸ポケットについているものなんですけど…。それはもしかして…」

「あら、これ?」

 リツコは大事そうにその宝物を触った。
 胸に輝くマークは流星。

「私の宝物」

 そのリツコの微笑みはその日の会見の中で一番美しかった。
 日向記者はそう思った。



「ああっ、ほら見て見て!」

 自分のことが書かれた記事にゲンドウは恥ずかしがってすでに診察室へ逃走していた。
 居間で広げた記事を読んでいたアスカがリツコの写真を指差したのだ。

「え、何?何か写ってるの?」

「ほらほら、3個目はリツコさんが持っていたんだ」

「あっ、本当だ…。へぇ、なんだか嬉しいね」

「うん、そうね」

 自分たちの流星バッジはそれぞれの机の上に飾ってある。
 あの時の二人の出会いを記念して。

「ほら、早く行かないと遅刻するわよ!はいお弁当!」

「アリガト!あ、シンジ、駅で新聞買おうよ。もっと色々書いてるかも」

「うん!じゃ、急がないと!」

「こらっ、そんな野次馬根性丸出しで!」

 ユイは二人の首根っこを抱えながら注意する。そしてこう付け加えた。

「ちゃんと持って帰ってくるのよ。私も読みたいからね」

「はぁい!いってきます!」

 シンジが慌てて弁当箱を鞄に入れてアスカの背中を追う。
 その孫たちを見送って、クリスティーネが日本茶を啜った。

「今日は大変な一日になりそうだね。きっと記者とかが来るよ」

「そうでしょうか?」

「ああ、間違いないね。こりゃあ、うまく使えば…」

「また、くりさんはよからぬことを」

「ふん、どこがよからぬことかい。あの子達のためにもこの病院を大きくしてあげようってんだよ」

「あらあら、また大層なことを」

「それよりいいのかい。また寝坊してるよ」

「あ、いけない!レイの馬鹿!」

 診療所の隣に改築された碇家。
 クリスティーネもこちらの家で寝起きしている。
 心臓に負担がかからないように一階に部屋を割り当てられて、
 「私は高いところが好きなんだよ」と不満は言っていたが、その後心臓の発作は一度もない。
 7時前に家を出ないといけないアスカとシンジと違い、中学一年生のレイには余裕がある。
 余裕があるから寝坊の癖ができたのか、深夜放送のせいか、おそらく両方が原因なのだが。

 クリスティーネの予報通りに新聞記者が次々と惣流医院を来訪した。
 恥ずかしがり屋のゲンドウは診療中だと逃げ、そして午前の診療が終わると往診だと黒い鞄を抱えてさっさと逃げ出してしまった。
 それもまた誤解され、毅然とした態度の立派な医者だという記事のもとになったのだ。
 ●●新聞からは局長自ら頭を下げにきて、あの記者は退職しているので懲罰できずに申し訳ないと繰り返し詫びた。
 それに対してユイが「今が幸せですから、かえってあれで良かったのかもしれませんよ」と微笑んだものだから
 彼らはさらに恐縮してしまった。
 また、クリスティーネはゲンドウ復活のいきさつを面白おかしく語り、
 看護婦のコダマも妹の病気を見つけてくれた大恩人で父親の就職の世話もしてくれたと思い切り持ち上げた。
 
「ユイさん、照れくさそうですね」

「本当。なんだか恥ずかしいわ。私も逃げ出したいくらい」

「先生はどこかしら。まさか白衣を着てパチンコ屋じゃないでしょう?」

「それはいくらなんでも…。まあ、川っぺリじゃないかしら?ぼけっと川面でも眺めてるんでしょう」

 マヤは夫のことを何でも見抜いているユイに感服していた。
 彼女はこの春に12年来のプロポーズをようやく受けたばかり。
 結婚式を来月に控えている。
 ミュージシャンの夢破れ、東京から帰ってきた青葉シゲルは、今伊吹湯の見習いとして汗を流している。
 結婚の条件は、@婿養子になること(一人娘だから)
 A共働きを続けること(惣流医院の事務仕事が好きだから)
 B番台でギターは弾かないこと(客足が悪くなるから)
 C一日一曲はマヤのためにビートルズを弾くこと(ラブソング希望)
 D昔の女のことはすべて忘れる(東京での過去の火遊びは寛大にも許してあげる) だそうだ。
 もっとも、5番目の項目はシゲルは忘れてもマヤは一生忘れなかったが。
 自分でも意外だった。こんなに妬くほどこの人のことが好きなんだったっけ、と。
 中学の時からつきあってくれとシゲルに言われ続けてきた。
 東京の大学に行ってそのまま中退しアルバイトをしながらミュージシャンになろうとした頃からだろうか。
 たまに帰ってきた時ごとにプロポーズする彼のことが気になりだしたのは。
 それは多分、惣流医院に就職してユイとゲンドウの夫婦を見てきたためかもしれない。
 夫婦っていいなと、憧れを持ったため。
 何度自費出版しても殆どレコードが売れず、ついに一人寂しく故郷に帰ってきたシゲルの姿が胸を打ったのは確かだ。
 ともあれ、マヤはユイのようになりたかった。
 あんな妻に。なかなかなれないとは思うけど。
 だからこそ、マヤは惣流医院を離れられなかったのかもしれない。

 クリスティーネの目論みは成功した。
 惣流医院の評判はぐんぐん上がり、患者の数も増えた。
 その上、マヤとのつながりでシゲルの父・ゴウゾウを説き伏せることに成功し、
 マンションを建設しようとしていた場所を病院の用地に切り替えさせた。
 それはシンジたちが住んでいたアパートや六軒長屋の界隈である。
 老朽化していた六軒長屋は取り壊している途中だったし、アパートの住人も近くの第二青葉マンションに移っていた。
 まあ、うちのろくでなしを貰ってくれたマヤさんへの結婚祝いじゃと最後はゴウゾウは豪快に笑ったものだ。



 翌年、昭和55年2月。
 惣流医院は鉄筋コンクリート5階建ての病院となった。
 碇ゲンドウが院長となり、医師や看護婦の数も増え、入院設備も整った。
 その新しい建物の前に、かつての惣流医院と碇家の住居はそのまま残されている。
 その二つの建物は今は増設した短い渡り廊下で繋がれた。
 そして、アスカとシンジはあの物干し台に上がって、新築の惣流医院を見上げた。

「なんだか、圧倒されるね」

「何言ってんのよ。ヤル気を出さなきゃダメじゃない。あそこのお医者様にならないといけないんだから」

「そうだね。浪人しないようにがんばらなきゃ」

「こら、馬鹿シンジ。また弱気なんだからっ。前を向け、前をっ!」

 そうシンジにはっぱをかけながら、実はアスカは一抹の寂しさを覚えていたのだ。
 シンジが住んでいたアパートがなくなってしまったことを。
 すでに別の人間が生活していたのだが、あの数日のことは忘れることなどできない。
 あそこはアスカにとっての聖地だったわけだ。
 だけど、まだここがある。
 この物干し台があるんだ。
 アスカは手摺を握ってぴょんとジャンプしてみた。
 ぎしぎしっ。
 幼児の頃とは違い、物干し台が悲鳴を上げる。

「まっ、失礼ねっ!」

「ん?何が?」

 小さな声で抗議したアスカにシンジが尋ねる。

「なんでもないわよ。なんでも…」






























 そして、さらに月日が流れた。


















「あ、あのね…」

「ん、何かな?」

「あのね、あれ…」

「えっ!こ、これ?これ、欲しいの?」

「うん」

「こ、こ、困ったなぁ…」

 3歳くらいの子供が指差しているのは、机の上の棚に飾ってあるウルトラマンの人形。
 世間ではガシャポンと呼ばれているフィギュアだ。
 銀縁メガネの優しげな顔の医師は頬を爪で掻いた。

「すみません、先生。こら、ケイタ」

「仕方ないわよねぇ、こんなところに飾ってあるんだもの。ね、僕」

 白いカーテンを捲り上げて、金髪に白衣の女性が顔を覗かせた。

「はい、これをあげるから。こっちの人形はごめんね」

「あっ、コスモスだっ!やったぁ!」

「まあ、女先生。ごめんなさい」

「いいんですよ」

「ありがとう!」

 顔をほころばせて母親と出て行く子供に手を振って見送る二人の医師。

「今のが最後の患者さん?」

「あ、ああ、そうだよ」

 その返事を聞いた途端、金髪女性の表情が変わった。

「こら、馬鹿シンジっ」

「はいっ」

 40を過ぎてもこの二人の力関係は変わっていない。
 心なしかシンジの背中がぴっと伸びたような気もする。

「アンタね、あれほど言ったじゃないの。このガシャはこっちに飾っちゃいけないって。
 家の方に飾っておきなさいって、口を酸っぱくして説教してあげたでしょうが」

「で、でも、どうせならAタイプの方がいいじゃないか。アスカもそう思うだろ」

「そりゃあウルトラマンはAタイプが…って、話をはぐらかすんじゃないわよ!」

「それにアスカだって自分の机にバルタンとかカネゴンとか飾ってるじゃないか」

「私はいいの。いつ子供におねだりされても代替品を用意してるんだもの」

「酷いよなぁ。ダブったの全部自分で持っていくんだもん」

「何言ってんのよ、アンタにもわけてあげたでしょうが」

「ブルトンばっかり8個もね。あんなのあっても仕方ないじゃないか」

「何よ、アレは掌の中でぐにぐに動かしたら血行にいいじゃない。喜ばれるわよ」

「子供が血行にいいって喜ぶわけないだろ」

「他にもまわしてあげたでしょ。ダブったの」

「ヤメタランスとかモチロンとかブニョとかをね。自分はミクラスとかタッコングとかしっかり抱えてるくせに」

「まっ!人聞きの悪い!だいたいアンタが悪いんでしょうが。同じモノ何度も出して!」

「し、仕方ないだろ。運の問題だよ」

「次回は私が回す番ですからね!1200円で全部揃えてやる!」

「あ、バルタンはダブってもいいよ。僕が…」

「うっさい!夫婦なんですからね、財産は共有すればいいじゃない!」

「自分は私物化してるのもある癖に…」

「何か言った?」

 アスカが腰に手をやってイスに座ったままのシンジを見下ろした。
 
「だいたいねぇ…」

「惣流先生!」

「はい!」「何?」

 二人の声が重なる。
 声をかけた看護師が吹き出した。

「女性の方の惣流先生です。お電話、そちらにまわしますね」

「アリガト、お願い」

 そう笑顔で返したあと、「ふん!」と顎を突き出して受話器をとる。

「もしもし?あ、ムサシ君?あ、入荷したの?わかったわ、すぐ行くからよろしくねっ」

 受話器を置いたアスカはニヤリとシンジに笑いかけた。

「シンジ、入荷したって。さ、行くわよ!」

 肩で風を切るようにしてアスカが出て行く。

「あ、こら、アスカ。白衣で行くのか?もう!」

 脱いだ白衣をちゃんと畳み、シンジがアスカの後を追う。
 そんなふたりを見送って、さっきの看護師がぷっと吹き出した。

「これ。霧島さん?」

「ごめんなさい、でもまるで子供みたいだから。二人とも」

「いいじゃない。仲がよくて」

「それはそうですけど…婦長?」

「何?」

「本当に二人とも40過ぎてるんですか?」

 まだおかしそうに新人看護師が笑う。

「そうよ。妹と同い年だから、もう42になるわね、二人とも」

 コダマは表情を崩した。
 とてもそうは見えないわね、あの二人は。
 どう見ても30代半ば。羨ましい!





「こんちは!女先生!」

「どうもっ!」

「えらくお急ぎだねぇ」

 つかつかと歩くアスカに商店街の店主たちや通行人が声をかける。
 金髪で白衣なだけに目立つ目立つ。
 声をかけた一人一人にアスカはにこやかに笑って、それでも肩で風を切って歩いていく。

「これ、アスカ?」

 その落ち着いた声に、アスカは急停止。
 加持鮮魚店の前にいたユイが呼び止めたのだ。

「何?お母さん」

「白衣で歩くんじゃありませんよ。それに何ですか、そんなに急いで」

「あ、ちょっとねっ!」

 えへへと笑ってアスカはまた足を進める。
 その後を走ってくるシンジをユイは呼び止めなかった。

「あれ?ユイさん、息子さんは呼び止めないの?」

「ふふ、いいのよ。あの子はアスカしか目に入らない子だから」

「へぇ、いいね。一途でさ。ね、今度息子さんの爪の垢持ってきてくださいよ」

「どうするんだい?」

「決まってるじゃない。うちのろくでなしに煎じて飲ませるのさ。
 営業営業って、また女の尻追っかけてるんだ。店ほったらかして」

 ユイは微笑んだ。
 その背筋は曲がってもおらず、碇家と惣流家の家事は一手に引き受けている。
 さすがにクリスティーネも86歳。彼女に家事をさせておくわけにはいかない。
 医院の方は伊吹マヤ事務長がそつなくこなしているので、安心して任せていた。
 
「違うんじゃないの。ミサトさんがしっかりしてるからお店の方は安心して任せているとか」

「あはは!」

 ミサトは豪快に笑った。
 先代のおかみさんよりも女丈夫である。
 ただ、最近はバストサイズを維持しているのはいいのだが、ウエストが拙い状態になりつつあるらしい。
 ビールの量を控えるべきかと真剣に悩んでいる加持鮮魚店二代目おかみだった。

「今日は秋刀魚をいただこうかしら。11尾ね」

「あいよっ!毎度っ」





「こんにちは…」

 玄関から顔を覗かすと、奥から可愛らしい足音が二人分聞こえてきた。

「おばあちゃん!」「ば〜ば」

 レイのところは子供がなかなかできなかった。
 碇家の跡継ぎということにはこだわっていなかったが、やはり子供は欲しい。
 そうこうしているうちに、なんかの拍子であっさりとレイは妊娠した。
 それが彼女の32歳の時。
 待望の第一子は活発な女の子。
 そして、1年おいて第二子を妊娠。
 今度は愛想のいい男の子だった。
 口の悪いアスカなどは「何か詰まっていたのではないか」と続けざまの出産をからかったものである。

「ああ、こんにちは。ユウコにアキラ」

 よっこらしょと靴を脱ぎ、まとわりつく二人の孫の頭を撫でながらユイはリビングへ向う。
 扉を開けると、レイはソファーでくつろいでいた。

「あら、いらっしゃい」

「いらっしゃいもないものよ。今日は秋刀魚ね。塩焼きでいいかしら?」

「うん、お任せ」

「はぁ…これだ」

「ごめんね、今度は少し早くなりそう」

 レイはにっこり微笑むと、はちきれそうなお腹をさすった。
 予定日まであと二週間あるが、どうやら早めに出てきそうな気配である。

「あなた、これで終わりでしょうね。調子に乗ってぽんぽん産むんじゃありませんよ」

「う〜ん、神様の思し召しかな?」

「まったく、もう…」

 あきれながらもユイは第二碇家の晩御飯の用意をする。
 第二といっても第一碇家との距離はおよそ5mほど。
 前に貸し本屋をしていた場所を買い取って住居に改築したのだ。
 そこに住んだのが、碇家長女のレイとその夫で婿養子のカール。
 10年ほどの間は二人には広い家だったが、今は遊びまわる子供たちのおかげで広さを感じなくなった。
 
「兄貴たち元気?」

 レイに言葉をかけられ、隣の台所の母親の声だけが返ってくる。

「ああ、いつもと同じ。さっきもすたこら歩いてくアスカを追っかけてシンジが走って行ったよ」

「くすくす。相変わらずね」

「カオル君は?」

「もう、お母さんったら!うちの亭主の名前はカールです」

「あら、あなたが言ったのよ、カオルって。覚えてないの?」

「覚えてるわ。でも、カールなの。お母さん、しつこい」

「それじゃ、生まれてくる子供に付けたらどう?カオルなら男でも女でも大丈夫よ」

「……」

「どうしたの、レイ?」

 黙りこんだ娘に母親は台所から顔を覗かせた。

「カールと同じことを言うのね。お母さん」

「あら、カオル君じゃなかったカール君もそんなことを?」

 レイは膨れっ面で母親を睨みつけた。

「お母さんがいけないの。あのことを何度も言うから。それでカールまで」

「あらら、そうだったの?」

 それだけ言うと、ユイは台所に引っ込んだ。
 彼女が不機嫌になるとなかなか復旧しないことをよく知っているから。
 ただし、今はレイに見事に担がれていた。
 ユイの顔が引っ込むと、レイはにっこり微笑むと優しくお腹を撫でた。
 元気で出てらっしゃいね、カヲルちゃん。





「おおきに!助かったで、カール」

「いえいえ、どういたしまして。あのゼーレの担当者はバイエリッシュが強すぎます」

「何や、それ?」

「ミュンヘンの方の方言ですよ。関西弁みたいなものです」

「アホ言え、関西弁は方言やあらへんで。ホンマに」

 営業第一課長の鈴原トウジが凄んでみせるが、付き合いの長いカールはあっさり受け流す。

「課長は面白いですね。英語とドイツ語を喋るのに、日本語は標準語がダメなんですから」

「そんなんかまへんやないか。これで通じるんやさかい」

「奥さんも綺麗な標準語ですし」

「へっ、綺麗なのは言葉だけやあらへんで」

「はい、そこまで。奥さん自慢はもうお腹いっぱいです。なんならうちの素敵なレイのお話でも?」

「あちゃあ、そいつは勘弁してくれや。カールの惚気もきっついさかいにな」

 トウジは手を振ると、自分のデスクに戻って行った。
 そんなトウジの後姿を見送って、カールは微笑んだ。
 そして、いけないいけないと慌てて自分の部署に戻る。
 来週あたりに産まれそうだとレイが言っていたのだ。
 仕事は前倒しに片付けておかないと。





「ああ、わしや。どないや、ノゾミちゃんとこは。引越し終わったんかいな?」

「ええ、まだお部屋は片付いてないけど、家具は納まったわ」

「さよか。手伝いに行かれへんで悪かったなぁってよう言うといてや。旦那さんにもな」

「お仕事ですもの。仕方ないじゃない。あなたの代わりに私ががんばったから大丈夫よ」

「すまんなぁ」

「いえいえ、その代わり出されたお寿司は私が一人でいただきますから」

 電話の向こうでくすくす笑うヒカリ。

「おっ!持ち帰りはあらへんのか?」

「意地汚いわね。まあ、帰りに駅前寿司買って帰っておくわ。来週になったらしばらく日本料理食べられないものね」

「は?何や、それ。どういうこっちゃ?」

 愛妻に携帯電話を入れながらメールチェックをしていたトウジは首を捻った。

「あら、お父さんが言ってたわよ。来週はあなたがドイツに出張するって」

「おいおい、わしまだ聞いてへんで。あのクソ部長、わしより先に娘に漏らすか、ホンマに」

 本来ならカールの仕事だが、あそこはもうすぐ子供が産まれる。
 まあ仕方あらへんな…と、トウジは思った。
 ヒカリの方は父親への悪罵は聞き流すことにした。
 真剣に悪口を言っているのかと少女の時はトウジのことが大嫌いだった。
 だが、そのうちに関西弁への慣れと彼の照れに気付いてしまうと、そこから好意へと向うのは簡単だったのだ。
 引っ越してきてよかった、本当に。ヒカリはいつもそう思っていた。

「だれか偉い人の道案内らしいわよ。大丈夫?」

「偉い人か…。苦手やな、そんなん」
 




「あなたぐらい語学に堪能なら道案内は不要なのではないのですか?」

「私、興味のないことは覚える気がないんです」

 冬月会長はこの女性ならそうだろうなと思った。
 世界的に有名な薬学博士。
 ユイの親戚だからと今回のプロジェクトに参加してくれたのだ。
 まあこの女性なら、あの海千山千のキール会長と互角に張り合えるだろう。
 その光景を見てみたいものだと、冬月はほくそ笑んだ。
 
「そういう事は主人が面倒を見てくれましたから」

 そういう普通なら言葉にできないようなことでも平然と喋る。
 それが恥ずかしいことと思わないから。
 自分に足りないところを補ってくれる人。
 リツコの辞書には一目惚れという単語が存在しなかったために、夫のことはそのように理解してきた。
 妻は研究所にでずっぱり。夫は新聞社に出ずっぱり。
 すれ違い夫婦なのに、離婚話など一度も出たことがない。
 生まれた三人の子供もそれぞれ自分の進みたい道を自分で見つけ突き進んでいるようだ。
 ただ、周りから見ただけではわからないところで、みんなが結びついているのだろう。
 ここも一風変わった夫婦だな。
 自分の姪夫婦のことを思い出しながら、冬月はなぜか楽しかった。

「今日は東京に帰られるのですか?」

「いいえ。貴方の姪御さんに会ってからにしますわ」

「では、連絡しておきましょう。今からではユイのところには夜になってしまいますからね」

「あら、大丈夫ですわ。仕事柄、診察室のベッドでもゆっくり眠れますから」

 やはり観点が違う。研究者という人種はわからん。
 リツコを見送ってから、冬月はユイに連絡を取った。





「わかりました。ユイさんに伝えておきます」

 マヤは受話器を置いた。
 ネルフの冬月会長って90越えてるわよね、それで現役で働いてるんだから凄いわ。
 少しボケ気味の舅と比べて、マヤは軽く首を左右に振った。
 それでも、冬月はいつまでたってもこの事務室に電話をかけてくる。
 ユイはいるかと。
 マヤがユイから事務長職をバトンタッチされてもう3年経つのだが。
 やはり人間歳を取ると頑固というかやり方を変えられないものなのかとふと思う。
 
 第一碇家に連絡しても誰も出ない。
 惣流家も同様。
 アスカとシンジは現在診察時間。
 ゲンドウも院長室。
 ユイは第二碇家で食事の準備だろう。
 おそらく惣流家の子供たちはまだ部活動なのだろう。
 残るはクリスティーネだが、花壇の手入れか散歩か。
 仕方がない。マヤは第二碇家の短縮ボタンを押した。

「もしもし、あ、ユイさん?マヤです。あの…日向リツコ博士がおいでになるそうです」

 電話の向こうでユイは慌てている。
 秋刀魚は人数分しかないのだ。

「あの、お寿司かなにか手配しましょうか?」

 それはダメだと、ユイは断言した。
 家庭料理を食べさせてあげないと。
 あの人、インスタントの女王なんだからと、ユイはマヤにあることを頼んだ。
 了解したと伝えて、マヤは別の短縮ボタンを押す。

「もしもし、私。はいはい、私も愛してます。もうそっちにシンイチ君行った?」

 まだだと相手の返事。
 では、来たらこれこれのことを頼むってお祖母様が仰ってたと伝えてくれと頼む。
 
「あ、そうそう。今日は『And I Love Her』にしてね。そんな気分だから」

 電話を切った後、マヤはにっこり笑ってイスに深く腰掛けた。
 もうテンポの速い曲は指が苦しくなってきたから、ラブソングばっかりでいいわ。
 もともと甘い曲のほうが好きだし。
 さてさて、あの子の方はどうなんだろう?
 マヤは机の上に飾っている写真を見つめた。
 伊吹湯前で一家全員集合している写真。
 祖父。祖母。シゲルにマヤ。そして、ギターを抱えたロン毛の長男に、兄貴なんか嫌いって感じで膨れっ面の長女。
 長男が帰省してきた時に撮影した写真だ。
 あの子は父親を越えられるのかな?
 父親と違って作曲できるから、いい線行くかも…って、親馬鹿だ、私。
 とにかく精一杯がんばってみ。そう思いながら、マヤは写真の長男の顔を指で突付いた。





「おうっ!来たな、若旦那」

「こんちは」

「ありがたいねぇ、家に風呂があるのに、うちに寄っていってくれるのはさ」

「あ、う、うん。大きいお風呂って気持ちいいからね」

 この大嘘吐き野郎が。
 シゲルは心の中で悪態を吐いた。
 わかってるんだぞ、お前の魂胆は。
 お前は俺の可愛い可愛い娘を狙ってるんだ。
 くそぉ、背が高くて、頭が良くて、スポーツもできて、顔だって…俺には負けるがハンサムだ。
 髪の毛の色が染めてないのに金髪というのも癪に障る。
 瞳だって蒼い。黙っていれば立派な外国人だ。
 文句のつけようがないほど完璧な●●中学生徒会長に、シゲルは営業笑いを浮かべた。

「家から伝言だぜ。帰りに加持さんとこに寄って秋刀魚を一尾買って来いってさ」

「ええっ。面倒くさいなぁ…」

「そんな口聞いたらあのお母さんに頭小突かれるぞ」

「うちのお袋様は小突くんじゃなくて、殴ってるんです。手加減ないんだから」

「ははは、それで剣道することにしたのかい?防具で頭を護るためによ」

「そうかも。でも竹刀で向っていっても負けそうです。お袋様には」

「へへ、だろうな。じゃ、忘れるなよ。風呂でのぼせてしまって」

「あはは、まさか」

 シンイチは脱衣籠の方へ歩いていった。
 番台の上に座るシゲルはしかめっ面で彼が裸になる姿を眺めていた。
 しかしまあいい男だねぇ。そりゃああんなのが同じクラスにいたら惚れてしまうのは当たり前…。
 ええぃ、くそっ!
 ダメだダメだ、うちのサツキにゃまだまだ男はいらねっ。
 けっこう年を取ってからできた二番目の子供で、しかも女の子だけにシゲルはサツキにべったりだ。

「ちょっと、お父ちゃん!」

「わっ!」

 番台というのはけっこうバランス感覚が必要だ。
 女湯側から当の愛娘に声をかけられ、シゲルは危うく男湯側によろっとなる。

「こらっ、驚かすな!」

「何度も呼んでるわよ。それより何?男湯に指名手配犯人でも来たの?すっごい目で睨んじゃって」

「ふん、惣流医院の跡取り息子が来ただけだ」

 ちらっと顔を覗かせようとした伊吹サツキは父親の言葉に顔を真っ赤にして飛び退った。

「うへっ!惣流君が!」

 親というものは子供の恋心には敏感なのが普通である。
 何しろ自分も思春期を過ごしてきたのだから。
 それにシゲルは12年間、マヤを想い続けてきたのだ。
 ただその割には東京で数人の女と付き合っていたのがマイナス点。
 しかもそのことをマヤのみならず、義父義母、その上二人の子供にまで知られている。
 夫婦喧嘩のたびにマヤがそれを持ち出すからだ。
 確かにそれを言われると二の句が継げない。
 息子はともかく、目にいれても痛くない娘にそんな過去を知られているのはシゲルにとって痛恨だ。
 
「あ、あのさ、惣流君が出てきたらね、生徒会の連絡事項があるからって…」

「裸のまま呼ぶのか?」

「不潔っ!お父ちゃんのスケベっ!」

 くるっと背を向けてサツキはのしのしと長椅子に進み、どんと腰を下ろす。
 そして、父親の顔を睨みつけ、ぷいっと顔を逸らす。

 へっへっへ、マヤによく似てやがら。
 よく言われたよな、不潔ってさ。『プレイボーイ』とか『平凡パンチ』を学校に持っていって、
 わざとアイツに見られるようにしてたっけ。
 あれはあれで気を惹こうとしてたんだろうな、馬鹿なことしてたぜ。
 




「どうして伊吹君もついて来るんだ?」

「あ、ああ、あのね、文房具屋さんにちょっと」

「ちょっと、何?」

「え、えっと、消しゴム」

「消しゴムならそこのコンビニでも売ってるよ」

 言ってしまってから、シンイチはしまったと思った。
 せっかく伊吹さんと二人きりで歩いているのに!
 言ってしまってから、サツキはしまったと思った。
 消しゴムじゃなくてもっと違うものを言えばよかった!

「あ、そ、それと、0.3で4Hのシャー芯を!」

「あ、そ、そうなんだ。い、伊吹さんって僕と同じ芯使ってるんだ」

「あ、そ、そうなの?知らなかった。全然、知らなかったわ。あはは」

 知らないはずがない。
 サツキの決死の調査の結果、シンイチが使っているシャーペンを特定できたのだ。
 当然、恋する乙女としては同じシャーペンを探し回ったわけ。
 
「それじゃ、時田文具店に行かないとないよね。あそこでも時々品切れしてるから。
 あ、そ、そうだ。も、も、も、もし、なかったらさ、僕のわけてあげるよ。家に買い置きがあるから」

「ほ、本当?じ、じゃ、も、も、も、もし、なかったら、お願いしちゃおうかなぁ」

 夕焼けさん、ありがとう。
 これだけ赤かったら、顔の赤みはわからないよね。

 夕日の中のサツキの横顔をシンイチはとても綺麗だと思った。
 マヤさんの若いときの写真をおばあちゃんに見せてもらったけど、やっぱりお母さん似なんだなぁ。
 でも、僕には伊吹さんの方が綺麗に見える。
 ああ、ずっと見ていたい!でも、そんなところを見られたら嫌われてしまう。
 シンイチは涙を飲んで前を向いた。

 綺麗な横顔。
 お母さんが外国の血を引いてるからかな?
 あの眼の蒼さは吸い込まれそう…。
 ああ、いけない。こんなところを見られたら嫌われちゃう。
 サツキは涙を飲んで前を向いた。





「いいねぇ、あの風景」

「何がよ?」

「あれだよ、あれ」

 リョウジが店先を真っ直ぐに前を見つめながら歩いていく二人連れを顎でしゃくった。

「惣流医院の若大将と伊吹湯のマドンナだ。惚れあってるのに、気付いてない」

「ふふん、そうねぇ、周りから見てると一目瞭然なのにね、不思議なもんね」

「中学や高校の頃はあんなもんか」

「そうそう、私とアンタもそうだった」

「違うぜ。俺は別にお前のことは…」

「私、今、ちょうど包丁持ってるんだけど?」

「はぁ…またそれか」

 営業帰りのリョウジが店先でミサトといつもの調子で会話している。
 リョウジが大学に落ちたその日。
 その大学に自分は合格が決まっていたミサトが加持鮮魚店に飛び込んできた。
 「私、大学行かないから、加持も大学行かずに家の仕事をしなさい!」と脈絡のないことを叫び、
 こうなったら結婚しましょうとリョウジの部屋に立てこもったのだ。
 両方の両親の説得も功を奏さず、挙句の果てに刺身包丁を胸に押し当てお嫁さんにしないなら死んでやると。
 しからばと、今度は渋るリョウジを両方の両親が説得。
 頭を抱えたリョウジは結局頷くしかなかった。
 おまけに喜んだミサトが手にした包丁に力を入れてしまい、5mmほど自分の胸を刺してしまい、さらに大騒動。
 担ぎ込まれた惣流医院でゲンドウにこんなものは傷には入らんとぺたんとバンドエイドを貼られた。
 結局、その夜からミサトはずっと加持鮮魚店に居ついてしまった。そのまま押しかけ若妻となったわけである。
 ミサト曰く、アイツは浪人したらこれ幸いと女の尻を追っかけるに決まってるから…だそうだ。

 こうして二人がシンイチとサツキが店先を通っていくのを見送っているということは、
 シンイチは秋刀魚のことはすっかり忘れているということになる。





「わあ!綺麗っ!」

 相田写真館のウィンドウをサツキは食い入るように見つめた。
 大きく引き伸ばされた結婚写真。
 緊張している花婿の隣は幸せいっぱいの花嫁がにっこり笑っている。
 その金髪の花嫁の顔はシンイチが毎日見ている顔だ。もちろん花婿の方も。
 
「しっかし、お袋様はバケモンだよな」

 サツキの後ろでシンイチが呟いた。

「あら、どうして?こんなに綺麗なのに」

「これ、もう20年近く前の写真なんだ。親父はそれなりに年くってきてるけど、お袋様は凄いよ。上手に年取ってるっていうのか」

「へぇ…。じ、じゃ、惣流君はお母さんみたいなのが、た、タイプなんだ」

「えっ、た、タイプ?」

「うん、やっぱり外国の人みたいなのがいいのかなぁなんて」

 シンイチが背中の方にいることを幸いに、サツキは頬を赤らめながら訊ねた。
 サツキがウィンドウを見ていることを幸いに、シンイチは頬を赤らめながら答える。

「ぼ、僕は日本人の方が。髪も黒いのが好きだし。み、短い方が…」

 サツキは絶対に髪は伸ばさずに、そして染めまいと決めた。
 シンイチがサツキの髪を見つめながら答えていたことを知らずに。

 そのやりとりを前からウィンドウ越しにしっかり見ていた男がいた。
 晩御飯までの間、暇をもてあましていた写真館の主人、相田ケンスケである。
 ケンスケは小学校と中学校の間、二人とよく遊んでいた。
 その縁で二人の写真はけっこう撮影してきている。
 練習だからと、恥ずかしがるシンジを説き伏せてアスカと二人で写真のモデルにしたこともある。
 その時の写真はウィンドウではなく、カウンターの中の写真楯に飾られていた。
 中学の制服姿で直立不動のシンジの腕にアスカがしがみついている。
 この写真を見ると凄く心が和むのだ。

「さてさて、おっちゃんがお節介をやいてあげようかな…」

 ニヤリと笑うとケンスケはカウンターのイスから腰を上げた。





「そ、そんな、困ります!」

「そ、そうですよ!どうして僕たちがモデルに!」

「惣流に…あ、女の方だぜ。アイツに頼まれてたんだ。
 ドイツの母親に送るからお前さんを見つけたら撮っといてくれってな」

 大嘘だ。

「そ、それなら、どうして私が!」

「そうですよ」

「そりゃあな、ガールフレンドと一緒に写ってる方がドイツのおばあさんも喜ぶに決まってるじゃないか」

「が、が、が…」

「私、そんな…」

 違いますとは言いたくなかった。
 それにこれはチャンスだ。
 サツキはありったけの勇気を出した。

「わ、わかりました。じゃ、写ります!」

「い、いいの?」

「うん!」

 顔を真っ赤にして頷くサツキ。
 シンイチにも異存はなかった。当然であろう。
 大好きな女の子とツーショットで写真に撮られるのだから。





 その写真店の前をリツコが歩いてきた。
 そして、いつものように、アスカとシンジの結婚写真を眺める。
 彼女の視線は二人の胸元。
 あの、景品の流星バッジがついている。
 ふふふと笑うと、彼女はウィンドウから離れた。
 ふと空を見上げると、すでに夕日の残り香は消えようとしていた。
 私とマコトって…結婚写真撮ってたかしら?
 




 写真撮影で大胆になったサツキは、時田文具店にはなかったことにして、
 シンイチにシャー芯をわけてもらうことにした。
 そこで二人揃って惣流家の玄関に入ったのだが、即座にユイに叱られる羽目になる。
 秋刀魚を忘れていた。
 しかもお客様は既に到着していると。

「罰です。シンイチはカレーを食べなさい」

「あ、うん。いいよ。二日目だからかえって美味しいし」

「サツキちゃんも食べていく?シンイチと同じカレーになるけど。マヤ…お母さんには電話しておくから」
 
「いいんですか?カレー大好きです」

 伊吹サツキは幸せだった。
 今日は素晴らしい一日だ。
 昨日よりもシンイチの方に何歩か近づけたような気がする。





 午後8時30分。
 今日は珍しくアスカとシンジは夜勤ではない。
 もっとも何かあればすぐに呼び出される距離なのだが。
 二人は食事前にあの物干し台に上がっていた。
 
「あ〜あ、けっこうダブっちゃたなぁ」

「でも、よかったじゃないか。リツコさん、あんなに喜んで貰ってくれたんだし」

 シンジはリツコの様子を思い出して頬を緩めた。
 キングジョーとリツコはどこかよく似合っている。
 嬉しげにロボット怪獣を掌に置いたリツコはとても若々しげに見えた。

「結果じゃなくて経過なのよ!1200円で揃えるつもりだったのにぃ。悔しい!」

「医者は結果がすべてなんだろ?」

「ガシャと医者の仕事は別物っ!」

 すぐに熱くなる妻の膨れっ面にシンジはそっと口付けた。

「ば、ば、馬鹿っ!アンタ、何考えてんのよ!ここは病院から丸見えなのよ!ほらっ!」

 アスカが真っ赤になって指差した先には、本当に人がいた。
 窓のところに立っていた看護師が口を押さえているのが見える。

「はは、あれは霧島さんだっけ?」

「アンタって昔っから変なところで大胆なのよね。こらっ、見世物じゃないわよ、あっち行けっ」

 犬でも追い払うようなアスカのジェスチャーに霧島看護師は慌てて一礼して窓から消えた。

「まったく、もう」

「はは、たまたま居合わせただけだよ。そんなに…」

「馬鹿シンジ。アンタに怒ってるんじゃない」

「あ、そうなんだ」

 アスカはくぅっと手を空に伸ばした。
 背筋をぐっと伸ばす。

「くううううぅっ、お腹空いたぁっ!」

「今日は秋刀魚だよ。ほら…」

「ホント、いい匂い…」

 秋刀魚の焼ける芳しい匂いが仄かにたちこめて来ている。

「さあ、そろそろ降りようか」

「待ちなさいよ。そろそろ迎えに来るんだから、待ってあげなさいよ」

「あ、そうか」

 



「ふん、王手だ」

「馬鹿だね。そこは角が効いてるよ。ほれっ」

「うっ」

 クリスティーネはしっかりとした手つきでゲンドウが打ち込んだ香車を取り上げた。

「油断も隙もない婆さんだ」

「何言ってんだろうね、アンタがヘボなんだよ」

「ならば…」

 ゲンドウは腕組みをして考え込んだ。
 その顔にはいまだ髭は健在だが、もはや赤ひげとは言えない。
 限りなく白に近い灰色という感じだ。
 クリスティーネはわざとらしくその掌でゲンドウから取り上げた駒をジャラジャラと弄ぶ。

「むぅ、ならば、王手角取りだ。どうだ」

 得意げなゲンドウの顔は一瞬で歪んだ。

「そこは飛車道だ。どうして見えてないんだろうねぇ」

「ま、待て。それは間違いだ」

「おやおや、待った、かい?男らしくないねぇ。ほれ、もう王手はないのかい?これで詰みだよ」

「ううっ」

 呻き声を上げたゲンドウはがっくりと肩を落とした。

「せっかく飛車落ちで勝負してやってるのに、すぐに肝心の飛車を取られちゃ意味ないじゃないか」

「くそっ、もう一番だ」

「けっこうだね。ただし、その前に」

 クリスティーネがすっと手を差し出す。

「このクソ婆」

 ゲンドウは懐から財布を出すと100円玉を取り出し、その掌に憎憎しげに叩きつける。

「毎度あり。どうだい、次は角も落とそうか?」

「ふん!このままでかまわん」

 そう履き捨てるように言うと、ゲンドウは小銭の中から銀色の球を取り出して無意識に掌で遊ばせる。
 あの日、アスカに貰ったパチンコ玉だ。
 その後、彼はこのパチンコ玉をお守り代わりにいつも持ち歩いていた。
 その謂れを知っているクリスティーネはそのことをからかったりはしなかった。

「お〜い、ミクや。おいで」

 床に腹ばいになって本を見ていたアスカとシンジの第二子の惣流ミクが顔を起こした。
 小学校3年生の癖に文庫本に夢中で、国語辞典を脇においてじっくりと本の世界に入り込んでいたのだ。
 この娘の本好きはユイの隔世遺伝だろうと皆に言われている。

「なぁに、おっきいばあちゃん?」

「じいさまがまた負けおった。こいつをいつものところに頼むよ」

「うん、わかった」

 ぱっと立ってすたすたと歩いてくる。
 それは本人からすれば普通の動きだが、老人たちから見ればなんて素敵なんだろうと思える。
 自分たちにもあんなに身軽に動けた時があった。
 ミクの姿が眩しく見えるほどだ。
 老人が子供に甘いのはこれも理由の一つかもしれない。

 彼女は曾祖母から100円玉を受け取ると、飾り棚に置いてある大きなビンに入れた。
 これはある程度溜まるとユニセフなどに募金するシステムになったいる。
 もちろん、賭け将棋に負け続けているゲンドウだけが加金しているわけではない。
 ミクやシンイチも小遣いから出していたのだ。

「ミク?」

「なぁに、おばあちゃん」

「そろそろ焼けるから、パパとママを呼んでおいで」

「うん!」

 ミクは長い黒髪を靡かせて、隣の元医院へ向った。
 黒髪と黒い瞳を除けば、アスカと顔の造作はそっくりである。
 
「そういえば、客人はどうしたんだい?姿が見えないけど」

「うふ、リツコさんなら隣の図書室で熱心に読書中ですよ」

「おや、医学書かい?それとも…」

「漫画、ですよ。アスカとシンジが溜め込んだ漫画。あれを読むのがうちに来る楽しみなんですって」

 まったく変な人だよとでも言いたげに、クリスティーネは首をこくんこくんと左右に曲げた。

「で、シンイチとマヤさんとこの娘は?部屋でキスでもしてるのかい?」

「もうっ、くりさんったら。二人とも相手の顔も見られずに、自分のコーヒーカップを一生懸命見つめてますよ」

「おやおや、あの二人の息子のわりに晩生だね、シンちゃんは」

「わりにって、くりさんご存知なんですか。二人のファーストキス」

「ああ、知ってるよ。中2の6月6日。シンジの誕生日の夜さ。場所は物干し台の上」

「この出歯亀婆が」

「あら、私も見てましたよ。物干しの入り口のところで。本当に初々しかったわ」

「私は下の花壇からだった。何しろアスカの声が大きいからねぇ。歯が当たったって大騒ぎさ」

「ああ、そうでしたそうでした」

 まったく、この家の女どもは。ゲンドウは額に皺を刻んで、いらだたしげに言った。

「おい、クソ婆。次の勝負だ」

「あいよ。また連勝記録を伸ばさせてもらおうかい」

「ふん。心臓に毛がはえとる。発作もあの時一度きりではないか。まるで詐欺だ」

「よく喋るねぇ。ユイさんや、このじいさんの方が詐欺だと思わないかい?あの頃の100倍以上喋ってるよ。
 初めて会ったときは『うむ』とか『ふん』ばかりで、アンタの通訳が必要だったのにねぇ」

「うるさい。ほれ、これはどうだ」

「なんだい、また中飛車か。アホの一つ覚えだね」

 この二人の将棋は見ているだけで嬉しくなってしまう。
 ユイは楽しげに皺を深くした。
 その皺のせいで、もう片えくぼは見えにくくなっている。
 ただ、彼女は自覚していた。
 今はもう誰と話していてもあの片えくぼができているのだと。

 ああ、人生は素晴らしい。





「パパ、ママ!」

「来たわよ。お迎えが」

「ああ、秋刀魚の使いがね」

「何?私のこと?」

 危なっかしげな表情でミクは物干し台を見た。
 
「ねえ、ここ大丈夫?」

「へ?大丈夫よ。ほら」

 アスカが足を踏ん張ると、物干し台がぎしぎしと文句を言う。

「ええっ!壊れるんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ほら、おいで」

 シンジが誘うとおっかなびっくりでミクが足を踏み出す。
 ぎしっと床が鳴り、少し顔が引き攣る。

「本当に大丈夫?」

「そうね、ミクの世代はこういう場所に馴染みがないもんね。怖くて当たり前か」

「昔はね、ここがこの周りで一番高い場所だったんだよ。
 ここに黄色いワンピースを着た…」

「ストップ!パパとママの出会いの話は耳にタコができました。あっ!あそこに」

 ミクが表通りを指差した。
 サツキを送っていくのだろう。
 彼女とシンイチが通りを歩いていくのが見えた。
 その距離感は微妙なもの。
 ただし、伊吹湯を出たときよりは前後左右ともに近づいていることは確かだ。

「おにい…きゃっ」

 二人に声をかけようとしたミクの口をアスカの手が塞いだ。

「こら!気の利かない妹ねぇ」

「うぐぐっ」

「えっ、あの二人ってそうだったのか?」

「相変わらずの鈍感馬鹿シンジね。二人っともお互いをいつも意識してるじゃない」

「うぐぐぐっ」

「アスカ、ミクが死にそうだよ」

「あ、ごめんねっ」

 手が外された途端に、ぷはぁっと大きく口を開けて酸素を取り込むミク。

「酷い酷い。児童虐待」

 ぷぅっと膨れるミクの頭を撫でてシンジはアスカの横に立った。
 街灯に照らし出されて歩いていく、若き二人の姿がだんだん遠ざかっていく。
 その姿を見送っているうち、いつしかアスカとシンジの手はしっかり握り合っていた。

「もう!秋刀魚冷めちゃうぞ」

 ミクはつきあってられないとばかりに肩をすくめ、両親を置き去りにして物干し台から姿を消す。
 私もいつか好きな人ができるのかな?
 そして、ずっと先にはどこかの誰かと結婚して…やっぱりパパとママみたいに…なれたらいいな。
 ミクはリビングに戻る途中で、扉が開いている両親の部屋を覗いた。
 電気のスイッチを入れると、壁面にある大きな飾り棚が浮かび上がった。
 そこには人形やおもちゃが飾ってある。
 そういう場所によく見られるような洋酒のビンなどはまったくない。
 時々、模様替えだと言って二人で嬉しそうに並べ方を変えたりしている。
 だが、あの流星バッジはふたつ並んで飾り棚の特等席から動くことはなく、
 そしてその横にはミニサイズの赤い座布団の上に銀色のパチンコ球が二個、いつも身体を寄せ合っていた。




 
 物干し台の二人はしばらく手を繋いだままじっと空を見上げていた。

 幼きアスカが「あっち」と指さした星空を。

 
 






<おしまい>
 


 




<あとがき>

 長い長いエピローグにお付き合いいただき、ありがとうございます。
 第一回を掲載した時に触れましたが、この作品は読者様であるtweety様とのメールのやりとりで発想し、 
 そして、執筆いたしました。
 一番最初に浮かんだのはパチンコ屋のゲンドウ。そこに迎えに行くシンジの姿でした。
 今から考えると想像もできないほど、あの当時のパチンコ屋は汚かった。
 空気は悪いし、床は痰だらけ。でも、そういう場所ならゲンドウがぴったりくると。
 しかも一球一球盤を睨みつけながら打つその姿は作家としてそそるものがあったんです。
 それととんでもなく長いエピローグを書いてみたいなという事も思っていました。
 誰がどうしたということを書き漏らしがないように。
 そのかわり本編の方は一週間の話にしようかなという構想も。
 ただし本編の方は最終回にプラス10日になってしまいましたが。

 それに本編に登場し損ねた人が多かったこと。
 まずは青葉シゲル。第一回に青葉ゴウゾウなる強欲大家が出てきたのですから当然その息子。
 しかもマヤまで出てるのですから彼女との恋物語も描くはず…でした。
 近所の貸し本屋の真面目な息子がマコトという名で、二人でマヤを張り合うはずだったのです。
 ところが話がわき道に逸れそうなのでそのエピソードは丸ごとカット。
 シゲルはゴウゾウを先に出した手前引っ込めるわけにもいかず、彼としては幸運なことに競争相手無しにマヤを射止めることができました。
 そのかわりようやく登場したのはエピローグですが。
 さて、貸し本屋の息子でユイに淡い憧憬を抱き現実にはマヤに恋をしていたマコトは?
 次のチャンスは県立病院の医師でゲンドウに傾倒し惣流医院に勤めることになる青年医師でした。
 これも冗長になるのでカット。最後はリツコとくっついてもらおうと思ったのですが、なかなか機会がない。
 そこで強引に記者会見で登場していただきリツコに見初めてもらったというわけです。
 さすがにその後の珍妙な恋物語をエピローグで延々と展開するわけにもいかず、あっさりとおしどり夫婦になっていただきました。
 トウジもそうですね。ゲンドウの同僚で関西弁の男が出てきたときは、この男の息子がトウジだということは誰にもわかったと思います。
 ところが登場する機会がない!なぜならシンジにはアスカがピッタリくっついているから(笑)。
 もっと哀れなのはケンスケ。何故なら完全に忘れられていたから!っていうのは嘘ですが、登場する機会がない。
 最初から駅前の相田写真館の子供であることは決めていたのですが、トウジと同じ理由で出て来れない。
 まさか、5歳でカメラを持ってうろうろできるほど、当時のカメラは安くない。
 何とかエピローグに間に合いましたが、彼にもかわいそうなことをしました。
 哀れなのはミサトさんでした。各後書きでも触れましたが、すべてのオーディションに落選。
 ようやくつかんだのが加持鮮魚店の二代目おかみさんになる役。
 二人の娘を産んでいるのですが、そのことには筆を運ぶことができませんでした。
 マユミ?ゲームしてないから書けないんですよ。イメージが湧かないので。

 ああ、本文同様長い後書きだ(笑)。
 ともあれ、このような作品に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
 注釈もなしに進んできましたので、わからないとご不快の方もいらっしゃったと思います。
 ただ、この作品はそういう注釈をなしで読んでいただけたらなぁと思いまして。
 必要だったら、本当にごめんなさい。
 近鉄LASは別として、次回の昭和LASは来年の予定。
 今度は子供たちを中心にしようと考えてます。
 では。

ジュン   2004.09.24

 

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