彼はじっと座っていた。
 冬空がホームや線路へと微かな雪化粧を施しはじめても尚。
 ホーム半ばにある待合室に避難しようと彼は思ってないようだ。その頭上に屋根はあるものの足元や襟元に吹き込む寒風は我慢の限界に達しているのではないだろうか。もし今日が2月14日でなければ、彼も待合室に入っていたに違いない。
 そして、その彼の姿を私は瞬きもせずじっと見つめていた。
 昭和51年の冬、あの時私は16歳だった。




聖ネルフ学園物語


ホワイトバレンタイン

 

 2008.02.14        ジュン







 いつからだろうか。2月14日がこのような日になったのは。
 いったいどこの製菓会社が言い出したことなのか。
 昨日も担任が嘆かわしげな口調で生徒たちに注意していた。聖バレンタインの祝日にチョコレートを贈るという風習など世界のどこにもない、と。大切な記念日を商業主義に毒されてはならないとも言っていた。確かに我が校はキリスト教の教えの下に設立されているのだから、先生たちの気持ちはよくわかる。ましてチョコレートを持ってきてはならないという通達はそういう意識の問題だけには留まらない。元来学園に持ち込んでよい飲食物はお弁当にパン、水筒類だけなのだ。お菓子という存在自体が持込を許されてはいない。もっとも許されていないだけで、こっそりと鞄や制服のどこかにお菓子を忍ばせている生徒は少なからずいるのではあるが。
 私もその一人だった。私の場合は慎ましく飴を二三粒ポケットに入れている程度だったが、友人の中には大胆にもカップヌードルを鞄に入れてきた者もいた。ただ彼女の場合はお湯を調達することが出来ずに、バレーボール部の仲間たちと体育館の裏手で固まったままの麺をばりぼり食べたそうな。どんな味がするのか興味はあったが実際に食べたくはない。事実彼女はそれ以降カップヌードルは持ち込んでいないのだから、癖になるようなものではないのだろう。
 話が逸れてしまった。
 つまりはチョコレート。2月14日に学園にチョコレートを持ち込んではならない。そういうことだ。
 そのように担任に通告され、その場はみなおとなしく頷いた。だが、ホームルームが終わり教師が姿を消すと、教室のあちらこちらで不満の声が上がった。例えそれが商業主義によって汚染された記念日であっても、乙女たちにとっては実に魅惑的な響きがするのである。
 愛する人に己の気持ちを込めてチョコレートを贈る。
 ああ、なんと素晴らしい。
 相手がいれば。
 そう。チョコレートを贈りたくても、ここにはその相手がいない。何しろ学内にいる男性といえば、教師連中と事務員の類だけである。恋を語るべき相手ではない。中にはそういう趣味を持った生徒もいるかもしれないが、私にはその気持ちはわかりたくもない。またもう一つ、絶対にわかりたくもない趣味もある。これは私自身いくつかの実例を知っている。数ヶ月前にD棟の美術室でキスをしている上級生を見かけ、悲鳴を抑え、足音を忍ばせ、全速力で逃げた。忘れ物の教科書など取りに入れるものではない。噂には聞いていたが、女同士であんなことをするなんて私には理解できないのだ。
 恋をするには男性に限る。しかも、やはり自分と同じくらいの年恰好でないと。
 で、この時、私は恋をしていた。名字は知らないが、名前は“シンジ”という。らしい。彼女がそう叫んでいたのを聞いたから。



 彼女。惣流・アスカ・ラングレーという日本人とは思えないような珍妙な名前の持ち主。その容姿も日本人にはまったく見えない。赤みがかった金髪に、蒼い瞳、白い肌。どこから見ても西洋人である。ところが彼女は日本生まれの日本育ちで、パスポートすら持っていないという。まあ、私もそのパスポートというものがどういう姿形をしているものなのかまるで知らないのだが。いくら月面に人間が降り立とうが、人類の進歩と調和だとか言って国中で浮かれようが(私も二回浮かれに行ったが。正直楽しかった)、海外旅行の経験者などクラスに数人いれば多い方である。公立の小学校の時など全校生で何人いたことだろうか。我が聖ネルフ学園が私立で、それなりの伝統を持っているからこそ、お金持ちのお嬢さんがちらほらいるわけで。そういう人たちがビューンと飛行機に乗って海外まで行っているわけだ。まあ、はっきり言って羨ましい。私は正直者なのだ。
 さて、聖ネルフ学園の中でただ一人の異端児。ただしそれは見た目という点に限ってだが、その異端児が彼女である。何となく不思議な感じはするのだがこういうことだ。我が聖ネルフ学園はキリスト教の学び舎なのだから全体的なイメージはまさしく西洋チックである。したがって彼女が学園内を歩いている姿はまさに絵になることこの上ない。だけど、それは彼女一人が歩いていればこそで、そのまわりには黒髪で黒い瞳で黄色人種の女の子たちで満ち溢れているのだ。変な話だが、そのために彼女は常に浮いて見えた。つまり、目立ったわけだ。
 彼女は高校編入組だ。中学までは公立に通っていた。高校編入といえば、そのほとんどがスポーツ推薦と相場が決まっていたのだけど、彼女は違った。数少ない一般入試組だったのだ。
 因みにこの私は中学編入組。ということは学力重視組になるので自分で言うのもなんだが私は成績優秀である。逆に言えばそう宿命付けられているということにもなる。つまりこういうことだ。
 聖ネルフ学園というのはこんな風にできている。幼等部が一学年2クラス。初等部が一学年3クラス。
中等部が一学年4クラス。高等部が一学年5クラスなのだ。大学に関してはよくわからない。そもそも大学部は同じ敷地にないし(昔はここにあったが15年ほど前に隣町に移転した)、各学部で何百人の受け入れをしているのか調べたこともないからだ。それに大学部(どうして大等部じゃないのだろう?逆に小学部中学部ではないのか)ともなると、一気に外部入学が増えるので、世間でも聖ネルフ学園といえば幼等部から高等部までを意味し、学園抜きの聖ネルフと呼称されるのは大学、もしくは短大となる。その二つの格差は世間一般的に言ってかなり大きい。学園付きの聖ネルフ学園に在籍している者は世間一般的にお嬢様と思われている。ごく普通の公務員の娘で賃貸の団地住まいの私などはそう思われることに対してお尻の辺りがこそばゆくなってしまう。幼等や初等から在籍している連中と一緒にされては困るのだ。私は奨学金をいただく事によりこの場に存在することを許されている存在。だから一生懸命に勉強する義務を課せられているのである。
 逆ピラミッド形式に人数が増えているのは学園の対面上の問題だという。教育という観点だけでなく、私立の学校として存続していく上ではコマーシャルというものが必要だ。とはいえ、歌手やタレントを何人出しましたなどという分野では何の効果もない。むしろ聖ネルフ(学園付き)のような学び舎においては逆効果であろう。この場合、より効果的なコマーシャルは学問とスポーツだ。有名大学に進学した。または国体やスポーツ大会で優秀な成績を収めた。そんな生徒の数が多ければ多いほど、学校としての格は上がる。単純だがそれは間違いない。聖ネルフ(学園付き)の場合はその上にお嬢様学校としての風格が基盤にあるだけにその効果は絶大だ。
 というわけで、学校としては優秀なコマーシャルタレント(和製英語のタレントではない)が必要なのだ。そこでその才能のある者(talent)を聖ネルフ学園は毎年補充しているのである。もちろん幼等部から純正培養されているお嬢様たちの中にも得意な技能をお持ちな方もお出でになる。テニスの海外大会で活躍したり、舌を噛みそうな名前の音楽コンクールに入賞したりといった、いかにもそれらしい技能である。そんな方々もいらっしゃるのだが、基本的に純正培養されたお嬢様たちはのんびりしていて競争心にやや欠けがちなのだ。勉強はできるのだが外部の大学に進もうとは思っていない。となれば聖ネルフに通っているというステータスと奨学金を飴にして、勉学優秀な子羊をかき集めるのは当然の手法だろう。しかもそれは中学受験組をターゲットにするのが自然だ。即戦力を集められる。その意味で高校受験組をスポーツ推薦中心にするのも正しい選択かもしれない。学園内ではプロ野球になぞらえて、中学受験組がドラフト指名組。高校受験組が助っ人外人組とそれぞれ言われている。言い得て妙、だ。
 私は中等部編入組。だから、勉学に勤しみ大学受験の際は聖エルフ(学園抜き)という選択はせずに、それなりの有名大学に浪人せずにストレート入学しないといけないのだ。もちろんそんな契約書を交わしたわけではないのだが、暗黙の了解というわけで両親も私も納得している。そして、周囲の同級生たちも。
 彼女。惣流さんは高等部編入組だった。しかも一般入試組からの聖ネルフ入学だからスポーツ系の推薦ではなく、学力で合格してきたはずだ。その証拠に彼女は各定期試験で常に学年10位以内をキープしている。自分の卑しい優越感を満足させるために書き足しておくと、この私は彼女に未だ一度も順位を抜かれたことはない。
 ともあれ、彼女は高等部からの仲間入りでその分世間の風を私たちより余計に受けている。私も彼女より3年短いものの公立小学生生活を経験しているのだが、やはり共学の中学校を経由しているというのは大きな違いがあるのだ。
 何故なら、彼女には“男”がいた。
 訂正。そして補足。彼は“男”というにはまだまだ子供っぽい。だから少年と書くべきだろうが、この場合の“男”というのは性別を意味するのではなく、その立場を意味する。彼は彼女と交際している。そういうことだ。
 彼はすぐ近くにある私立六文儀学院(変な名前だ)に通っている。そこはキリスト教系でも仏教系でもない。いわゆる進学校というタイプの高校だ。我が聖ネルフから二三人レベルが入学できるような某有名大学(私も志望している)に毎年30人前後の合格者を出している。しかもそれはストレート合格のみの数字だというのだから恐れ入る。こういう高校と私鉄の駅を挟んで位置している聖ネルフが芸術スポーツだけでなく、学力に対しても力を入れる気持ちはわかる。比較対象にされてはかなわないからだ。
 彼が六文儀学院の高校生だというのはその学生服でわかる。不純異性交遊は固く禁じられているが、不純でない異性交遊については取り締まりようがない。先生方も正直いい顔をしたくないとは思うが、キス一つしていないようなつきあいに口出しもできないだろう。事実、聖ネルフの女子学生たちの中に六文儀学院の生徒と交際しているものも少なからずいる。おそらくクラスに二三人はいるに違いない。何しろご近所様で、顔を合わせる機会が一番多いのだからだ。もっとも交際宣言などする者など滅多にいないから、断定は出来ないがまず間違いないと思う。断定できるのはただ一人、彼女だけだ。
 惣流さんは彼の存在をまったく隠していない。寧ろ公言して憚らない。そんなイメージがある。
 ところがよく考えてみると、彼女が彼のことを話すことなどほとんどないではないか。私は彼女と仲がいいわけではないので、直接世間話をすることはない。しかし狭い教室でのこと。しかも私は休み時間は大抵本の世界に逃げこんでいる。誤解のないように言っておくが、私にも友人はいる。親友とまでは言えないかもしれないが、学校外でもそれなりの付き合い(買い物とか映画とか)をしている相手が三人はいる。ただ高等部に上がって当然クラス替えになり、見事に私はひとりぼっち。そしてこのクラスでの友人を作り損ねてしまったのだ。タイミングが悪かったのかどうか。その辺りはよくわからないが、とにかく今学年の私は文庫本が友達になっていた。その友達とのやり取りの間にも、周囲の音が耳に入ってくる。没頭している時は無音にしたいのは山々だが、それでも周りの声は耳へと勝手に飛び込んでくる。周囲の音をカットできるような機能は私には備わっていないのだ。そのような時に聞いたことがある。
 『今日?いいわよ。アイツなら大丈夫。決めた時間まで待ってこなかったら帰るって…』
 惣流さんはこともなげに言った。そしてそこから惚気話に入る事もなく、話し相手も追求もしない。彼の話はそれだけで終わった。
 彼女は饒舌ではない。ただしそこには“彼”についてはという注釈は入るのだが。日頃の彼女はすこぶる煩い。少なくとも私の一日に発する言葉の量の優に10倍は喋るだろう。私がいささか無口な方であるという問題もあるが。いや、しかしそれも彼女の親友のひとりとは比べようもない。あれに比べたら私は芸人並みに喋っているということになるだろう。ともあれ、そんな風に饒舌な彼女だからこそ、誤解されてしまうのだろう。彼の存在を惚気まくっている、と。
 さて、私は文芸部に所属している。運動部や他の文化部とは違い、文芸部は会誌を発行する時以外は特にしなければならない活動はない。敢えて挙げるならば本を読むこと。だがそのためにわざわざ部室に集い、部員全員がそれぞれ黙読する光景を思い描いていただきたい。不気味なことこの上ないではないか。かと言って会話をしながら読書をしては意味がない。いきおい普通の日は図書館に足を向ける。または帰宅部同様に掃除が終わると校門を出ることも多いのだ。
 そんな時、よく彼女を駅で見かけた。見かけるときはいつも彼女は一人だ。明らかに“彼”と待ち合わせているわけで、“彼”が姿を現すとホームで話しこむこともなく到着した電車に乗り込んでいく。その時の彼女は見るからに澄ました顔をしていた。“彼”が現れるまでの顔つきとは全然違う。いつもは自信たっぷりの彼女がそわそわしている様が遠目でもわかるのだ。おそらく決めた時間に彼が現れなかったのだろう。ある時など座りながら地面をがつがつと何度も蹴っていたこともある。おお、怖ろしい。時には先に帰る時間が過ぎても待ち続けていたのか、ついにあきらめてベンチから立ったその顔が迷子の如く寂しげに見えた。
 そう、私はいつも彼女を意識していたのだ。それは成績上のライバルであるためか、彼女の容姿に惹かれていたのか。ともあれ“彼”のことを意識していたわけではない。おそらく“彼”とホームに居合わせていたとしても気がつかなかっただろう。その程度の認識だったのである。
 ところが2学期の終業式間際のある朝だった。その認識が覆ってしまったのは。

「ねぇ、惣流さんの彼氏ってたいしたことないわよねぇ」

 私は文庫本からほんの少しだけ目を離した。惣流さんは教室にまだいない。そして彼女の友達たちも。たまたまバスや電車の連絡がよく、私はいつもより20分も早く登校してしまったのだ。この時教室にいたのは朝連あがりの運動部の連中だけだった。だからこそそんな話をしていたのだろう。窓際の席で本を読む私の存在など数のうちに入っていない。その時私はくだらない会話など耳に入れないように努めた。だがそういう時に限って、勝手に聞いてしまうものだ。話をしているクラスメイトたちは、揃ってスポーツ推薦で聖ネルフに来た人たちだ。惣流さんとは同じ高校受験組なのだが、意外に彼女たちと惣流さんは馬が合わないようだ。不思議と元からここにいる生徒と惣流さんは仲良しになっている。そういうところも彼女たちが惣流さんを少しばかり気に入らない理由になっているのかもしれない。もっとも面と向って喧嘩をしたことは一度も見受けられなかったが。

「うんうん。ちょっとなよっとしてるわよね」

「うちの制服でも似合いそうじゃない?」

「ははは、そうねっ。それは言える」

 その時の私は少しだけ考えただけだ。そうだっけ、と。確かに男らしい雰囲気はないと断言できる。背も惣流さんより少し高いくらいか。ひょろっとしてるような印象しかない。

「惣流さんってさ、あの程度のでOKなわけ?ちょっと信じられないわよね。私が惣流さんだったら選り取り見取りしちゃうっ」

「そうよねぇ、金髪に蒼い瞳。羨ましいわ!」

 馬鹿ね。
 私は心の中で呟き、文庫本に目を移した。彼女たちの顔の造作で金髪に蒼い瞳では綺麗というよりも不気味でしかない。

「でも、彼、ちょっといいかも」

 話の流れを断ち切るような発言が聞こえ、私は再び顔を上げた。発言の主は私だけでなく、周りの連中にも見つめられていた。確か、彼女は陸上部だったはず。一瞬の間が空き、話の中心にいた柔道部の子が慌てて話を引き戻そうとする。

「おやおや、あんた…じゃない、あなたまで?あんなのちょんと突付いたら尻餅つきそうじゃない」

「ヤスエさんに突かれちゃ誰でも倒れちゃうわよ」

 バレーボール部の子が混ぜ返した。それはそうだろう。あの子に突き飛ばされれば、私なら3メートルくらい吹っ飛ばされそうだ。

「ひどいわねぇ。私は相撲部じゃなくて柔道部よ。柔道部」

 確かに我が校に相撲部はない。そのまま彼女たちの会話は笑い話へと流れていき、惣流さんの話題から完全に離れてしまった。だが私はその前に確認したのだ。あの陸上部の子が不満そうな表情を微かに浮かべていたのを。どうやら彼女は惣流さんの“彼”の話題を続けたかったらしい。私はそう直感した。そしてふと思ったのである。もしかすると彼女は惣流さんの“彼”に気があるのではないか、と。
 私は本を閉じた。福永武彦の『愛の試み』。文芸部に属し、文章を書こうと志している私にとって、未知の世界を理解できるかもしれないと思い、昨年の初夏に買い求めた文庫本だ。本屋の新刊コーナーに置かれていたのを見つけ購ったのである。未だ初恋を知らぬ少女にとって、愛情についての表現が難しい。書いている者が知らないことを文章にはできないではないか。手っ取り早く考えると、誰かに恋をすればよいのだろうが、生憎ピンと来る異性が見つからない。本の世界ではそういう相手を見つけたときには、それなりの意識が生じるというではないか。胸がドキドキするとか、そのような。自力でどうにもならないようなので本の助けを借りようと思い、この本を求めたわけだ。このエッセーと短編が入り混じった文庫本はそれなりに面白かったが、しかし当初の目的にはそぐわなかった。書かれていることには理解できるのだが、いざ自分に当てはめてみるとどうもはっきりしない。愛情というものがどういうものか。やはり人に教えられてわかるものではないのでは?そのように思いながらも、折に触れこの本を読み返している私だった。
 先に書いたように私はまだ初恋を経験していない。そんな私だが、この本に書かれていた初恋に対する定義にはそんなものだろうなと漠然と了解した。初恋は、時期は青春の初め、性格はプラトニック、結果は不成功。最初から不首尾が運命付けられているものなのかと私は苦笑してしまった。この件(くだり)を読んでから、私は初恋というものは大人の愛への通過儀礼なのだと定義していた。
 さてさて、陸上部の子は初恋なのか、それとも何回目かの恋なのか。いずれにしてもその恋は実りそうもない。何にしても相手が悪い。惣流さんの“彼”に懸想しても仕方がないではないか。実に分の悪い勝負をしたものだ。

 まさか、この私までそんな分の悪い勝負をする羽目になるとは。
 そのきっかけはやはりその陸上部の子だった。放課後に図書館から昇降口へと向かった時のことだ。今にも雨が降り出しそうな雲行きで、運動部も早めに練習を切り上げようとしていた。クラブハウスに向うには私の進路を横切る必要がある。

「惣流さんの彼さ、笑顔が凄くいいのよね。優しいって感じ」

「おっ、横取り?大胆!」

「まさか。でもフリーだったら告白してるかも」

 陸上部の集団が目の前をゆっくり横切るのを待っている間に聞き取れたのはそれだけだった。別に意識して聞いたわけではない。文字通り偶然である。しかし、翌日にはその偶然を私は運命だと認識してしまった。

 その日は図書館にも部室にも寄らず、私は理科室の掃除を終えるとさっさと帰宅の途についた。そして間近で見てしまったのだ。彼の笑顔を。確かにそれはかなりの破壊力を私に与えたようだ。何しろ家に帰りつくまで開いていた本を閉ざすことはなく、それなのに一文字も読んでいなかったのだから。
 私が駅に着いたのは電車の来る3分前だった。なかなかタイミングがよかったとニヤリと笑ってしまった。聖ネルフ学園の周辺は山間にあるだけに我が家の近辺と比べて格段に寒い。だからそのような場所にある駅で電車を待つ時間は短いに越したことがないのだ。18時までは15分に1本。もし電車が発射した後にホームに到着しでもすれば、10分以上も寒風の中で立ちんぼうとなる。待合室に入ればよいのだろうが、無人ならまだしも冬場なら何人かが既に中にいるわけで、私のような小心者はとても中に入る勇気がない。そもそもそういう場合は「失礼します」とでも言いながら入るものなのだろうか。そういうことすら知らない私なのである。いや、知らないと言うよりも自分から環境を変える勇気がないのだろう。だから友達が出来にくい。わかってはいるけどそういう性分なのだ。
 そういうわけで私はちょうどいいタイミングでホームに到着したことを素直に喜んだ。緩いスロープを上っていき顔を上げると、5メートルほど先に彼がいた。 
 彼はにっこり微笑みながら、私に手を大きく振ったのだ。
 足が止まってしまった。私なのかと何故か疑わなかった。いや疑うよりも先に、天使の矢が私の心にぐさっと突き刺さってしまったのである。だから私はそれが誤解だということに気がついても尚、彼への思いをどんどん膨らませていったのである。
 誤解というのは3秒もかからずに解消された。人違いとかではない。彼は私の身体の向こうにいる人に手を振っただけなのだ。立ち止まってしまった私の背中の方から、荒い息が聞こえてきて、それからつっけんどんな言葉が飛んできた。

「時間通りに帰ってないアンタが悪いっ。アタシは悪くないわよ」

 惣流さんの声だ。ああなるほど、そういうことか。彼は私ではなく、恋人に向かって微笑み手を振っただけのことだ。私は理解した。理解はしたが、私の網膜には彼の笑顔が焼き付いてしまったのだ。
 それが私の恋のはじまり。福永武彦の定義によると結果は不成功となるはずの初恋というものがその瞬間にはじまったのだ。
 もっともそれを“恋”と認識したのはその夜だった。ずいぶんと時間差が出たものである。電車やバスの中で読みもせずにただ本を開いていただけという状況については、まだ“恋”が為せる業とは気がついてなかったのだ。その時は何を考えていたのか。とりとめもないことだったが、例えば惣流さんのこと。あんなことを怒鳴るように喋っていたけど随分呼吸が乱れていた。察するに聖ネルフから駅まで走ってきたに違いない。約束の時間に遅れていてもまだ彼が待っていてくれると信じて。その彼を少しでも待たせたくないために。それなのにそんなことは彼には見せたくないようだ。いやはや素直でないというか、可愛らしいというか、子供みたいというか。彼女の気持ちは本を読むように理解できた。しかし自分の気持ちにはすぐに気がつかなかった。それだけ私が晩生だったということか。気がついたのは勉強中だった。宿題だけはやらなければならないと無意識に思っていたのかどうか。その時の宿題は数学だった。私は数学が苦手だ。定期考査では常に90点台をキープしているのではあるが、苦手なものは苦手だし嫌いなものは嫌いなのだ。ともかく“恋”に結びついたのはその時だ。おそらく証明問題を解いていたからなのだろう。
 プリントの問題よりも先に私の心中のもやもやの方が解明されたのだ。彼のあの笑顔をもう一度見たいか?答はイエス。何故見たいのか?答は出ない。ではあの笑顔が好きか?答はイエスだ。その他にもいろいろな質問が心の中に投げかけられた。その結果、“恋”が正解だと導かれたのだ。
 その時、私は意外に冷静だった。そうか、これが初恋というものなのか。自分もそれをついに経験することになったのだ、と。そしてこの恋は不成功に終わるということも最初から理解していたのだ。もし、初恋の相手に彼女がいなければ、最初からあきらめてしまうこともなかったのかもしれない。ただ彼には惣流さんがいる。どう考えても私に勝てるわけがない。随分と弱気なようだが、私は戦う前から負けを確信していた。いや戦う気すら起こらなかったのだ。
 あ〜あ、やっぱり初恋は実らないものなのだ。福永先生の言うとおりだ。
 私は苦笑すると、もう15分以上も文字を作り出していないシャープペンをプリントの上に置いた。本格的に考えないといけないことができたからだ。
 それは、失恋すること。
 このまま恋心の自然消滅を待つのも手だが、そんなことをすればいつまでもうじうじと思い悩んでしまうことは明白だ。しかも勝つ見込みがないのに、ずっと忍ぶ恋を貫くというのも癪である。私は人付き合いは苦手だが、性格的にはさっぱりしている方なのだ。多分。
 だから私は失恋することに決めた。となれば、どうすればいい?自分が納得できる失恋方法とは?告白して振られる。確かに簡単で実際的な方法だが、それにはどうもロマンがない。文系で読書好きで下手な小説を書く私としては、どうせ失恋するならもう少しロマンチックなやり方がいいのだ。
 かといって、失恋どころか恋愛の経験すらほんの30分前までなかった私だ。経験値がまるでないうえに、本や映画の世界だけの知識が普通の生活で活かせるなどという幻想は持っていない。どうにも中途半端なロマンチストだ。

 散々考えた末にカレンダーを何とはなしに見て、ある数字に眼が留まった。
 14。
 製菓会社によって制定された世界でも稀有な祝日だ。カレンダーには何も書かれていないただの土曜日だが、この日は聖バレンタインデーなのだ。
 そうだ。この日に彼にチョコレートを贈ればいい。受け取ってもらえれば…などと甘い期待もあるのが我ながら悔しいが…、もしそうなればそれはそれで嬉しい。もちろん、それで彼と交際できるなどという途方もない期待までは抱くわけがない。当然彼に振られる上でチョコレートを受け取ってもらえるという意味だ。これならいい記念になる。また、受け取りすら拒否されるという残酷な幕切れも予想している。寧ろそちらの方が確率が高いのではないか。だがそうであってもそれはそれで仕方がない。
 初恋は不成功に終わるのだから。
 私は近所のスーパーでチョコレートを買った。奮発して一番高いのを選んだ。百貨店にでも行けば舶来品とかの高級品があるのだろうが、私にはこの程度が分相応だ。レジのおばさんはバレンタイン用の買い物だと思っただろうか。恥ずかしいからカールとエンゼルパイと小枝も買ったから迷彩になったのではないかとは思っているが。しかし、しめて本3冊分か。これは痛い。迷彩分でも1冊相当だったのだ。お小遣いがほとんど本に消費される私にとっては大きな痛手である。
 さて、このままの状態で彼にぽんと渡すのはさすがの私も気が引ける。家の中に洒落た包装紙はないかと探してみれば百貨店の包装紙くらいしかない。我が母親の守備範囲はその辺りまでなので、自宅での調達はあきらめた。結局、私は駅前の文房具店で小奇麗な紙を買った。自分でもなんだかなぁと思うくらいに地味な無地の薄い桃色の紙。でも私の分際ではこんなところだろう。机の中にあった緑色のリボンでその包みを飾る。クリスマスプレゼントからの転用品。同じキリスト教関係で、且つ同じように日本流に変調した記念日だから、お許し下さい、イエス様。
 こうして実に素っ気無い、聖バレンタインの贈り物が仕上がった。なんとも味気ないプレゼントだと自分で苦笑してしまう。しかしこれが自分だ。ありのままの私がそこにいる。

 2月14日は土曜日だった。学校はお昼まで。とはいえ、4時限が終るのは12時40分だからHRや掃除が終わると午後1時はあっさり越えてしまう。つまり土曜日は週の中で一番お腹が空く日なのだ。だから土曜日に掃除当番や日直になるととりわけブルーになってしまう。
 だが私は運良く14日はフリーの立場だった。そして惣流さんは運が悪く日直の上に掃除当番でもある。少なく見積もっても私には25分の余裕が生まれるというわけだ。毎日二人は待ち合わせをしているのだから、今日も彼は駅にいるだろう。私が彼にアプローチできるのはそこしかない。
 ところが今日は天気が悪い。しかも雨ではなく、霙に近い雪なのだ。積もりもせずにただ地面をべちゃべちゃにするだけという、はっきり言ってロマンチックでもなくただ鬱陶しいだけの状況だった。これがもっと雪の量が増えて周囲を雪景色にでもしてくれればいい思い出になるのに、と私は昇降口で溜息を吐いた。傘を開くとすぐにぼちゃぼちゃっと歯切れの悪い音が頭上で響く。足元でもべちゃんべちゃんと音が続く。雪ならばさくさくっと小気味のいい音になったのに。
 私はドロドロになってしまっている水たまりを避けてできるだけ靴を汚さないように校門へと向った。これが小学生ならば長靴を履いて歩けるところだが、私の聖ネルフ学園における4年間の歴史上でそれは一度も目撃されたことがない。超名門お嬢様学校ではないが、聖ネルフ学園は一応名門女子校としてのステータスが高いのだ。汚れた靴で電車に乗るのはどうにも気がひける。きっとこれはつまらないプライドというものだろう。ただ、今日はそういうプライドの問題ではない。玉砕をしに行くのだからせめて身なりはきちんとして行きたい。すでに濡れた傘を持たねばならないのだから。
 駅までの道は思いのほか短かった。水たまりを注意して歩いたために緊張感がいささかそがれてしまったのかもしれない。彼が先に来ていたらどうしようとか、駅にまだいなければどこで待ち伏せようとか。そんなことを昨日から考え続けていたのに、幸か不幸かこの移動中はそんなことを考えることが出来なかったのだ。どうしようか、と思い出したのは、駅に到着し傘を閉じた時だった。
 だが私の思考は結局まとまることがなかったのだ。
 何故ならばどちらのケースも当てはまらなかったのだから。
 ジャンプ傘というものを使い始めたのは高校へ進んでからだった。だから時々傘を閉めたのにボタンに触れてしまい再び傘を開くという道化たことを仕出かすことがあったのだ。この時もそうだった。
 いきなり傘が開いた。それだけではない。開いたところに人がいた。

「わっ」

「ごめんなさい!」

 慌てて閉じた、傘の向こうに見えたのは彼の顔だった。
 その瞬間、私の時間は止まった。止まり続けてくれていた方がよかったかもしれない。しかし時を司る神様は私のことなどこれっぽっちも鑑みてくれなかった。止まったのは私の意識だけで、時間の方は容赦なく経過していく。
 まるで映画のスローモーションのようだ。自分の目前に広がる光景を私はただ見ているだけだった。黒い傘が閉じられる。学生鞄がコンクリートの上に置かれ、顔に飛び散った雫をその手で拭う。それからズボンのポケットに手を突っ込み、取り出したハンカチで再度顔を拭く。そうした彼の動作を観ている私の顔はとても滑稽だっただろう。かなり間抜けな表情をしていたに違いない。
 だからこそ被害者であるはずの彼が加害者たるこの私に心配そうな顔を見せたのだ。

「あ、あの…、大丈夫?あ、いや、僕は大丈夫だから。そんなに濡れてないし」

 これが彼の声。
 そういえば、彼の声は聞いていなかった。いや聞こえてこなかったという方が正しい。あれから何度か、彼と惣流さんの姿を垣間見たが、いつも耳にするのは惣流さんの声音だけ。彼女の声がよく通るという事もあったのだろうが、私はそのことに何の違和感も持っていなかったのだ。彼の声が聞きたいと思っていなかったというのか?
 自分の気持ちに僅かな揺れを感じたのはこの時が最初だった。

「心配しないで。ねっ」

 優しげな声だった。私は返事ができず、ただうんうんと首を縦に動かすことしか出来ない。情けない限りだ。せっかくのチャンスだというのに言葉が出てこないのではチョコレートを渡すことが出来ないではないか。いやそもそもコートのポケットからチョコレートを取り出すことすらできやしない。

「じゃあね」

 彼は微笑んでくれた。そして改札の方に歩いていく。その背中を見送って、私は…。
 私は何もしなかった。できなかった、のではない。しなかったのだ。頭の中はプレゼントを渡すことよりも、渡すべきかどうかという思考にとりつかれてしまったのだ。

 彼はホームのベンチに座っていた。さすがに屋根のあるところではあったが、それでも雪の舞う中でベンチに腰をかけて電車を待つような人は他にはいない。座りたい者は待合室に入り、立っている人は小刻みに身体を震わせながら、電車が到着しだいに暖かな車両へ乗り込もうと考えているようだ。
 いつしか霙は雪に変わっていた。べちゃべちゃになってしまった地面を隠そうと、舞い落ちる雪が次第に白いベールを覆い被せようとしている様にも見える。もしかすると何年振りかに積もるのかもしれない。ここは山が近く市街地よりも気温が低めだから、本格的に雪となれば慣れていない街の人々にとっては楽しみと不便さを与える。いとも簡単に交通機関がマヒしてしまうのだ。
 私の頭もマヒしていた。惣流さんという彼女がいる男性に初恋をした。その大前提が崩れだしているのである。
 何故ならば、彼の笑顔を見てしまったからだ。その微笑みに惹かれて、彼に初恋をしたのではないか。ところがその微笑が違ったのだ。確かに優しげな微笑だったのだが、私が心惹かれたあの笑みとは大きく違う。どこがどうという具体的なものを指摘はできないが、明らかにあの時の笑顔とは別物だった。そこに違和感を持ってしまったのが私の思考がマヒした原因である。
 私は待合室の脇から彼を見ていた。その彼はじっと待っている。何を待っているかなど考えるまでもない。私は腕時計を確認した。経験上、掃除と日直の業務をすべて終えてこの駅までたどり着くには後10分はかかるだろう。しかもこの雪の中だ。さすがの惣流さんも雪道を疾走するほど愚かではあるまい。したくてもできる状況ではないはずだ。
 ということで、私にはもうしばらく考える暇があるわけだ。考えることなどせずに、彼へチョコレートをさっさと渡し、そして失恋し初恋を終わらせてしまえばいいだけではないか。別に恋の成就など私は望んでいないのだから。
 何故望まない?彼には惣流さんがいるから。
 何故奪わない?私と惣流さんでは勝負にならないから。
 最初からそう考えている。勝負など問題外なのだ。ではさっさと終わらせればよい。
 また元に戻ってしまった。まさに堂々巡りだ。
 私は溜息を吐きそっと頭を振る。何に引っかかっているのだろう。これだけは確かなのだ。足を踏み出せないのは、何かが私を引き止めているのだ。行ってはいけないと。まさか惣流さんの思念なのか?オカルト映画のブームはもう終わっているはずだ。もしかすると自分の防衛本能というものなのかもしれない。失恋することで心が傷つくと思い、それで無意識に体が動かないのか。どうやらそうに違いない。私はその解答を選択した。
 ポケットの中に手を入れる。かさこそと音がした。もちろんのことながらそこにはちゃんとプレゼントは存在している。箱の中には直径3cmほどの丸いチョコレートが3個並ぶ。試食していないから味の保証はないけれど、あの値段なのだから美味しくないと困るのだ。どうせ食べてもらうならば美味しい方がよいではないか。食べてくれればいいな…と、私は望んだ。彼女がいるからもらえない。そう言われれば、こう言うつもりだった。好きになってもらわなくていい。これは自分の気持ちに決着をつけるための儀式なのだから…。しかし、こんな文語そのものの台詞など実際に喋ることができるのか。そういえば、私が芝居をしたのはもう4年以上も前ではないか。聖ネルフ学年中等部に入学してからは学園祭で何故か芝居をすることがなかったのだ。となれば小学校の時の文化行事発表会のとき以来だ。あの時、私は村人その4だった。台詞は『お願いします』だけ。何ということだ。今回もそれしか言えないのではないだろうか。まあ、いい。時間は限られているのだ。さっさと済まそう。
 私はポケットの中でプレゼントを握り締めた。そしてそっと外へ出す。リボン飾りが崩れていないことを確認し、その右手を背中に回す。彼の前でポケットから出すのも、見えるように運ぶのも私の美意識に反している。さっと出すには後ろ手に持っているに限る。
 さあ、行こう。

「ちょっとアンタ、何のつもり?」

 私は身体が固まってしまった。寒さの所為ではない。耳のすぐ後ろで響いた低い声音のためだ。教室でこんな口調で喋るところを耳にしたことはないが、私にはわかった。惣流さんだ。私の背後に惣流さんがいる。
 怪獣!
 咄嗟に浮かんだフレーズはそれだった。私はもちろん女の子だが、弟と一緒に怪獣モノのテレビはよく見ていた。特に白黒テレビの時代の怪獣は怖かった。雪が舞う今の状況がそんな記憶を呼び覚ましたのかもしれない。あの南極に出てきた怪獣の名前って何だっけ?と、一瞬考えてしまった。そんな余裕などない筈なのに。

「それ、チョコでしょ。アタシのいない隙を狙ってたんでしょ。アンタ、アタシのシンジを狙ってるんでしょ」

 ごめんなさい。三つ目は外れです。
 そう返事をすれば許してくれるだろうか。いや余計に怒るような気がする。火に油を注ぐように。

「あれ?アンタ…、うちのクラスの…」

 私の名前をフルネームで彼女は言った。おやおや。惣流さんは私如きをフルネームで覚えていてくれてたのだ。
 だが、彼女の声音は少し変化していた。恋敵…とまでのものではないのだが、その相手がクラスメートだとわかったからだろう。零下140度から氷点下15度くらいにまでは暖まったのではないか。それでも充分凍りつかせる温度なのだが。
 その時だった。

「アスカぁ〜!」

 私は顔を上げた。彼が立ち上がっている。惣流さんに気がついたのだ。
 そして私はようやく覚ったのだ。自分が大いに間違っていることを。何故なら今この時、私の心を射抜いたあの微笑が見えたのだから。そしてその微笑みは私の背後にいる冷凍怪獣…もとへ、惣流さんに向けられているのである。
 私は苦笑した。何と馬鹿らしい。私が好きになったのは、惣流さんを好きな彼、だったのだ。
 そう理解してしまうと、すべての辻褄が合った。ジグソーパズルのピースがあっという間に埋まった様な感じである。

「私…どうしよう…」

 つい漏らしてしまった。

「はぁ?そうね、このままUターンしてくれたら、アタシは嬉しいんだけど」

 惣流さんは素っ気無く言った。それはそうだろう。恋敵というものはいないに越したことはない。だが、私は彼女の疑念をそのままにしておけなかった。

「私、どうも勘違いしていたみたい」

「シンジにアタシって者がいないって思ってたってこと?」

 ああ、そうか。普通はそう考えるか。

「違うの。私、惣流さんを好きなあの人に好意を持っていたみたい」

「だから、シンジのことでしょ」

「あのね、ついさっきあの人の笑顔を見ても何も感じなかったの。でも、今貴女を見て笑ったあの人の笑顔は確かに…」

 どうも簡単に説明するのは難しい。するといきなりチョコを持っていた方の手首が何かに掴まれた。一瞬ひやりとしたくらいに冷たい手だった。惣流さんは手袋もせずに駅まで来たのだ。それほど気が急いていたのだろう。

「ちょっとこっち来てよ」

 私に向かって短く告げると、惣流さんは彼に怒鳴った。傍にいる私の耳が痛いくらいの大声で。

「もうちょっと待ってて!この子と話があるから!」

 すぐに「うん!」と返事があり、素直すぎるくらいにおとなしく彼はベンチに座り直した。そして、私は惣流さんに待合室の裏側へと連行されたのだ。そこなら彼に見えないからに違いない。
 少しむっとしたような表情を浮かべてはいたが、それでもその惣流さんから威圧感とか恐怖心を受けることがなかった。私は詳しい説明を求められたのである。
 私は喋った。包み隠さず、端的に。それでもその途中で電車が到着し、ホームや待合室の人々が急いで乗り込んでしまっているほどの時間は過ぎた。話し終えると、惣流さんは眼を何度かぱちくりさせてそれから組んでいた腕をほどき、そうして私に右手を差し出したのだ。握手ではない。何故ならその手は掌が上に向いているからだ。明らかに出しなさいという感じだ。チョコレートを没収するということか。私は小さく笑った。これでよいのかもしれない。私はポケットに戻していたチョコレートを惣流さんの掌に置いた。

「アンタねぇ、もうちょっと可愛らしくラッピングできない?あまりに地味すぎるわよ」

 そんな嫌味を言いながら、惣流さんはなんとリボンを解き、包みを開けてしまったのだ。(スーパーで一番高かった)チョコレートが中から出てくる。

「おっ、ちょうどいい数じゃない」

 そう言うと惣流さんはチョコレートを一つ摘み、自分の口に放り込んだ。私は彼女が咀嚼していくのをただ眺めていることしかできなかった。すると食べ終わった惣流さんはさらにもうひとつのチョコレートを摘んだのである。おやおや、今ここで全部彼女が食べてしまおうということなのか。

「あ〜ん」

 あ〜ん?あ〜んというのは、やはりあのあ〜んのことなのか。

「ほら、早く口を開けなさいよ。指で溶けちゃうじゃない」

「あ、うん」

 慌てて唇を開いた瞬間、その隙間に丸いチョコレートが押し込まれた。これは一口で食べるものではないと実感できた。何とか噛み砕こうと私が努力していると、惣流さんは指についたチョコレートをはしたなくも舌で舐めている。

「最後の1個はシンジに食べさせてあげるわ。それでアンタの勘違い初恋は終わり。それでいいでしょ」

「ぐぇ?」

 自分では「え?」と言ったつもりだったが、口の中のチョコレートがそれを邪魔した。だから初恋ではないと説明したのに…。

「アンタの定義…じゃない、その本の定義によれば初恋は実らないんでしょ。じゃあ、今のを初恋にしてしまえばさ、次に誰かを好きになった時に結ばれる確率が増えるってわけじゃない?そうしてしまいなさいよ、ねっ」

 惣流さんが喋っている間にようやくまともに喋ることができる状態にはなった。ただし口の中は甘い感触でいっぱいだったが。

「でも、それっておかしいんじゃないかしら。だって私は…」

「はいはい。アタシのことを好きな馬鹿シンジという存在をアンタが好きになったって事はよぉ〜くわかってるって。
 でもね、そうならアンタは永久に馬鹿シンジに好意を持つってことになっちゃうんだよね。ずぅっと、墓の中までアイツに恋し続けるわけぇ?
 それはアタシとしても困る」

 惣流さんは胸を張って言い切った。何という自信だろう。今、この思春期だけではなく、死んでもなお彼に好かれ続ける自信があるというわけだ。まったく敵わない。

「だからさ、アンタ、振られてくれない?まあ、アンタの名誉もあるだろうからさ。馬鹿シンジには何も言わないから。アンタに好意持たれてたなんて」

 私は笑ってしまった。確かにこれは私にとって都合のいい話ではないか。奇妙な初恋については誰に知られることもなく、しかも誤解はあったものの恋した相手にチョコレートを食べてもらえるのだ。その上、初恋が破れたことによって次の恋への安心感が少しはできる。二度目の恋だから不成功の確率は多少は下がる。そうでしょう、福永武彦先生?
 私は頷いた。軽くではあったが、心の中では大きく。

「よしっ。じゃ、これはアンタがアタシにくれたってことにしよう」

「ええっ、私たち女同士じゃない」

「いいからいいから。あの馬鹿はそういうところに気の回るヤツじゃないわよ。鈍感なんだから」

「鈍感?」

 惣流さんはにっこり笑った。ああ、綺麗な笑顔だなと私は思った。それは美しいという意味でなく、そう…何かを達成した人間が見せる満足気な笑みである。

「そうっ。アイツって超鈍感。こうなるまでにどんだけ苦労したか…」

 思わずその苦労話を聞きたいと私は言い出しそうになった。しかし、この時点ではそれを聞くことはできなかったのだ。何故なら、私が言葉を発するより先に、ベンチに座る彼の方が大きく口を開けたからだ。
 はっくしょんっ!
 その大きなくしゃみを聞いて、私たちは顔を見合わせて笑った。

「それじゃ、こいつはアタシが確かに預かったわ。ラッピングの方は返す。中身だけでいいでしょ」

 そう言うと惣流さんは私に包みごとチョコの箱を渡すと、白い指で最後の一個をつまみあげた。

「惣流さんは…」

 渡さないのかという愚問を口にしそうになって、私はその言葉を飲み込んだ。惣流さんがバレンタインのプレゼントを彼に渡さないわけがない。

「ああっ、今は駄目。シンジが風邪をひいちゃうじゃない。話は月曜にね。あと、アタシのことは惣流さんじゃなくて、アスカでいいから」

 早口で喋ると惣流さんはいたずらっ子のように笑い、さっと背中を向けた。そして、ゆっくりと彼に向って歩いていく。もちろんゆっくりにというのは見た目の問題で、私には彼女がスキップしているように見えたのだ。それは幻影ではない。彼女の心は軽やかに躍っていた。
 二度目の恋。私にそれがいつ訪れるのかわからないが、その時には私も彼女のように強烈な愛情をその男性に向けることができるのだろうか。できたらいいな、とだけ私は思った。
 彼の元に到達した惣流さんは何か喋ると、いきなり彼の口に私のチョコをねじ込んだ。文字通りねじ込んだのだ。あの様子ならば、惣流さんの掌は茶色になっているだろうし、彼の口の周りはチョコレート塗れに違いない。
 だが私はそこまで確認しなかった。折りよく到着した電車に乗ったからだ。私は閉まったドアに向かい、水滴で曇ったガラスを掌で拭う。すると惣流さんが私に向って手を振っていた。動き出した電車の中の私も小さく手を振る。そして彼女の隣に立つ彼は笑顔を私に向けてくれていた。しかしそれは所謂愛想笑いというもので、私が恋した笑顔のそれではない。やがて、窓から二人の姿が消えた。そして舞い散る雪だけが窓から見えるすべてと化した。
 これが私の初恋とバレンタインの記憶だ。舞い落ちる雪のおかげで随分とロマンチックな思い出になってくれたものだ。
 だが、正直に言おう。その夜、布団の中で。豆ランプも消した、真っ暗な部屋の中で。私は少しだけ泣いた。悔しくて、羨ましくて、情けなくて、そして、切なくて。でもそうでなくてはならないと思う。
 初恋という類の記憶には甘酸っぱさというエッセンスが加わっているべき。そう、私は思うからだ。
 






− おわり −




 



 

 
 


「これってさぁ…」

 30年来の友人は歯に衣着せず喋る。あの時に比べ金髪の色は赤みを失ってきているが、それでも羨ましいくらいに若く見える。おそらく同級生の中で一番若く見えるだろう。

「文章が変じゃない?堅苦しいというか。もっと柔らかく書いたら?ほらライトノベルっていうの?あんな感じで」

「まあ、明日香ったら、あんなの読んでるの?」

「読んでるわよ。この前二番目の息子が読んでた本のカバーをめくってみたらそれだったのよ」

「へぇ、で、息子さんのを盗み読み?」

「ははは、誰が盗んで読みますかって」

 明日香は楽しげに笑った。確かに彼女ならばそうしないだろう。興味を持てばはっきりと相手に告げるに違いない。さぞかしその息子さんも大変だっただろう。せっかくカバーで隠していたのに。今日は明日香以外の人はお出かけのようだ。もしかして避けられてしまったのかもしれない。私は彼女と違って歳相応のおばさんなのだから。

「冒険もの?それともアニメの小説?」

「それがね」

 くすくすと笑う彼女は本の内容を教えてくれた。碇家の次男坊はもう卒業目前の大学生だが、一番下の妹…まだ中学1年生だ。明日香は友達の誰より早く子供を産み、誰よりも最後に出産している。4人も産んでいるのにあの体形は…、っと、脱線してしまった。とにかくその妹から本を借りて読んでいたらしい。その本の題名を聞いて、私は少しバツが悪くなる。何故ならば私も読んでいるシリーズだったからだ。上の娘に借りて読んでいるうちに病み付きになったわけだ。正直に白状するとアスカは手を叩いて喜んだ。

「でしょう?私たちの学校はあそこまでお嬢様学校でもないし、スールなんて制度もなかったけどね、それでもあれを読んでたら物凄く懐かしいのよね」

 全面的に大賛成の意見だ。だからこそ、私も久しぶりに小説もどきを書きたくなったのだ。確かに明日香の言うように私の文章はおかしいと思う。若い頃、無謀にも小説家になりたいと思い、大学生の間は散々純文学調のものを書いていた。しかし就職してからはそんな余裕などなくなり、文章など綴ることなど皆無となったのだ。書くものといえば所謂ビジネス文書ばかり。そしてこの歳でいざ小説を書こうと思ったときに唖然とした。自分でも珍妙な文章だと溜息ばかり。だから明日香の指摘は至極もっともなわけである。

「それに実名はよくないんじゃない?私と主人の名前は思い切り出しているのに、当の自分の名前はしっかり伏せているのはどういうことかしら?」

「お約束」

 即座に短く返事すると、明日香はまるで十代の頃のように唇を尖らせて不満を訴えた。いくら名前をカタカナ表記をしても姓はそのままなのだから丸わかりではないかと、彼女はさらに文句を続けた。しかし私はどこ吹く風だ。惣流明日香と書きたい気持ちをどれだけ抑えてきたか。名をカタカナにするだけでも大いなる譲歩なのだ。

「それに読者は貴方たちだけでしょう?聖ネルフ学園に集った乙女たち…」

「の、成れの果てのおばさんたちでしょ」

「そうそう。だからご主人にも読ませないようにしてよね」

「却下。登場人物の一人なんだから、あの馬鹿にも読む権利があるわ」

 出ました。あの馬鹿。馬鹿という単語に“この世で一番愛しい人”などという長ったらしいフリガナがふってあるのは、私たち同級生には周知の事実だ。
 私がUSBメモリを引き抜こうとすると、明日香はその手をパシンと叩き、素早くデスクトップにファイルをコピーした。おお、痛い。相変わらず、手加減がない。まったく明日香ときたら。

「ああ、そうだ。主人がどうして待合室に入らなかったかわかる?」

 明日香は悪戯っぽく微笑む。こういう場合、相手が答えるより先に正解を言ってしまうのが彼女の彼女たる所以だ。この時ももちろん私が口を開く前に答を喋りだした。

「待合室の中で私からチョコレートを貰うのが恥ずかしかったんだって。家に帰ってから渡すとは思ってもみなかったみたい」

「そうだったの」

「だからね、あのチョコレート、私からのだと思ったらしいわ。失礼しちゃうじゃない?あんなに乱暴に渡すわけないじゃない」

「それはどうだか」

 私は否定してやった。友達の性癖は承知している。彼女なら自分のプレゼントでもやりかねない。それは自覚もあるようで、明日香は急に話を変えた。

「で、続きは?もちろん書くんでしょうね」

「さあ、どうしようかしら」

 これは本音。下の子が大学に入学して確かに生活に余裕がでてきている。仕事の方も名誉職に近いのは事実で、責任は重いが自分の時間はかなり増えた。だからこそ、こんなものを書いてしまったのだろう。

「よし、じゃあ多数決にしましょう。今度みんなで集まった時に…」

 おやおや、明日香ったら私の小説をダシにしてみんなと騒ごうというつもりね。それはそれで楽しみ。あの頃の友達たちに読まれるのはかなり恥ずかしいけれど、そこはもういい歳をしているのだから我慢も出来ようもの。

「ねぇ、次を書く時にはもっと文章を柔らかくして…」

 どうやら明日香の中では私は書かねばならないようだ。やれやれ。
 しかし正直に言うと、嬉しくもある。これは物書き(もどき)の性なのだろう。
 私は明日香の用意したおやつが乗っているお皿からチョコレートをつまみあげた。どうしてだろう?この高級チョコレートの方がずっと美味しい筈なのに、何故かしらあの時の味が忘れられない。
 初恋の終わりと、友情のはじまりの味を。




 


 

<あとがき>
 
 バレンタインモノを書くつもりはなかったのですが、何となくこういう話を書きたくなりました。おそらくは正月明けから没頭して読んでしまった某シリーズの影響かと。子供に読めと勧められていて、アニメも見ていたのですが、小説自体は封印していたのです。それが何の拍子か忘れたのですが、ついに封印を破ってしまい読みはじめてしまいました。そして、こんなものが出来上がった次第。お恥ずかしい限りです。


 

 

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