EXPO'70

〜ある少年と少女の出逢い〜

 

 

 シンジは途方にくれていた。
 こんな人の数、生まれてはじめて見たよ。
 とりあえず、人ごみを避けて…と考えたのだが、避けたところ、避けたところ、すべて人がいる。
 どうしよう、僕は何処に行けばいいの?

 

 シンジの通っている神奈川県の小学校では、シンジが万博へ行くからと聞いて、隣のクラスの知らない子まで「凄いな、お前」と声をかけてきた。
 学校を休んで万博に行くと言えば、先生に怒られる。クラスの子にもいじめられる。
 シンジはそう思い込んでいた。
 5月29日の金曜日に新幹線ひかり号で父親の待つ新大阪の駅に向かう。
 そして土曜日に万博会場を見物し、日曜日に帰る。
 つまり、金土と2日間学校を休むわけだ。
 ところが、みんなの反応はシンジの予想と全く違っていたのだ。
 「しっかり見てきなさいよ、碇くん」「色々な国が展示しているからね、勉強になるよ」
 「うらやましいな」「私、夏休みまで待ちきれない」「うちなんか、行けるわけないって頭叩かれたぜ」
 みんな、シンジをちやほやしたのだ。
 5年7組出席番号3番、碇シンジは得意の絶頂にあった。
 土産話を楽しみにしてると、日頃大きな顔をしているガキ大将にまで肩を叩かれたのだから。
 だが、その時、黒ブチメガネの少年がぼそりと言ったのだ。

 「迷子になるなよ」

 

 その言葉どおりに、シンジは迷子になった。
 太陽の塔を見上げながら、お祭り広場を母さんと手を繋いで横切ったところまでは覚えていたが、
 今はどこではぐれたのやら、見当もつかない。
 奇妙な形のロープウェイを潤んだ瞳で見上げながら、シンジはとにかく歩いた。
 じっとしていると不安で押しつぶされそうになる。
 誰か…僕を助けてよ…。
 大声で泣き出しそうになっていたシンジの目が、その時ある一点で止まった。

 スイス館のキラキラツリーの下に、金髪の少女が腰に手をやって足を思い切り踏ん張って立っている。

 シンジはその姿にひきつけられた。
 そして、ふらふらとその少女の近くへ歩いていったのだ。
 黄色いワンピースで、怒った顔付きの少女は近寄りがたい雰囲気を漂わせていて、周囲には誰もいない。
 その前に出て行ったシンジ。
 どうして、そこに進んでいったのか…、シンジにはわからなかった。
 少女は…多分同じくらいの年恰好だとシンジは思った…、シンジの顔をじろりと睨みつけた。
 外人さんだから、わけのわからない言葉でまくし立てられると思ったのだが…。

「何、見てんのよ!アンタ馬鹿ぁ!」

 立派過ぎる日本語である。

「え、あ、日本人なの?」

「まさか!私は、ドイツ人よ!」

 シンジから5段ほど上で、少女は胸を張った。

「でも日本語話してるじゃないか」

「はん!じゃ、ドイツ語で喋ってあげるわよ!」

 そして、少女はシンジにとって意味不明の言葉でまくし立てた。
 シンジは、ああこれがドイツ語なんだと納得していたが、
 彼の知識ではドイツ語でもフランス語でもスワヒリ語でも聞き分けは出来なかっただろう。

「凄いや、君はドイツの人なんだね」

「そうよっ!でも日本語もペラペラよ」

「へぇ、本当に凄いよ。君って天才なんだね」

「天才って…」

 少女は顔を赤らめた。
 自信満々なのだが、さすがに面と向かって誉められると恥ずかしいようだ。

「でも、天才も迷子になるんだね」

「は?アンタ馬鹿ぁ?私は迷子じゃないわよ!」

「え、あ、そうなの?」

 最上段の少女は胸を張って言った。

「ママがはぐれたの!」

「えっ!君のママが?」

「そうよ!ママはとってもドンくさいから、私にはぐれてしまったのよ。
 で、しかたがないから、私がここに立ってママが私を見つけられるようにしてるのよ!」

 胡散臭い話である。
 幼稚園児でも疑ってかかる様な言い訳だ。
 しかし、素直なシンジはこの話を鵜呑みにした。

「へえ、君ってやっぱり凄いんだね」

「はん!当たり前よ!」

「あのさ…聞いていい?」

「ドイツ人の私がどうしてここにいるのか、でしょ?」

「えっ!どうしてわかったの」

「はん!天才だからよ!」

「凄いや。君って本当に凄いよ。
 天才だし、お人形みたいに可愛いし」

 少女は真っ赤になった。
 見も知らぬ日本人の少年に誉めそやされている。
 気分がいい。とってもいい。
 私をこんなにいい気分にしてくれる、コイツは…?
 少女は断言した。

「そういうアンタは、迷子でしょ!」

「わ!また当たった。凄いんだねぇ、君は」

「さっさと迷子センターに行けば?」

「え…うん……」

 俯いたシンジに少女は首を傾げた。

「はは〜ん、わかったわ。アンタ、恥ずかしいんでしょ!迷子って言うのが」

「ど、どうして僕のことそんなにわかるの?
 もしかして、君って魔法使い?」

「そう思う?」

 少女はいたずらっぽそうに笑った。

「だって、天才で可愛くて、何でもわかるんだもん。
 テレビのマンガみたいだよ」

「サリーちゃん?」

「えっと…」

 シンジは一瞬考えた。
 サリーちゃんは確かに凄い。
 でも、髪の毛はオバチャンみたいだし、すみれちゃんの方が可愛い。
 それにこの女の子の方が、そのすみれちゃんより可愛い。
 えっと、マンガでいたかな、こんなに可愛い子。
 そうだ、あれだ。あれなら!

「サイボーグ009の003」

「ええっ?あれ、フランス人じゃない!」

 シンジは首をひねった。
 同じ外国人なのに、どうしてだめなんだろう?
 それにあんなに綺麗な人なのに…。

 少女はシンジの様子を見て、少し慌てたようだ。

「でも、まあいいわ。
 003ならフランス人でも、私くらい綺麗だから許してあげる」

 少女の許しを得て、シンジはホッとした。

「アンタ、何年生?」

「5年7組」

「組まで聞いてないわ。私も5年生よ。
 まあ、そこに座んなさいよ」

 少女の許しを得て、シンジは少女の隣に腰掛けた。

「アンタ、名前は?」

「碇シンジ」

「私、惣流・アスカ・ラングレー。アスカって呼んでいいわ。アンタのこと、シンジって呼ぶから」

 少女の許しを得て、シンジは少女をアスカと呼ぶことになった。

 それから、二人は自己紹介を始めた。
 シンジはEXPOの事務所で働く父親のところに、母親と万博見物を兼ねてやってきたのだ。
 かたやアスカは…。

「えっ!オリンピック?!
 アスカ、オリンピックに出るの?」

「アンタ馬鹿ぁ?オリンピックには美人コンクールの種目はないの。
 私のパパが市のオリンピック事務局に勤めてるのよ」

「えっと、で、それがどうして?」

「あ、もしかして、アンタ、次のオリンピックの場所知らないんじゃない?」

「ははは…」

 シンジは冬季オリンピックが札幌で開かれることしか知らなかった。
 夏のオリンピックは、西ドイツのミュンヘンで開催されるのだ。
 同じ敗戦国である日本の東京オリンピックの研究のために、
 市職員であるアスカの父親は昭和38年から日本に来ていた。

「38年って、アスカまだ3歳じゃないの?」

「そうよ、私がママと来日したのは、4年前。
 パパが万博の準備でドイツになかなか帰れないから、二人で押しかけてきたの」

「それに私のママ、ハーフなの。グランパが日本人だから」

「グランパって何?」

「アンタ、何も知らないのね。おじいさんのことよ」

「あ、そうなんだ」

「だから、私の1/4の血は日本人なの!」

「へぇ、それで日本語がペラペラなんだ。あ、学校は?」

「カナディアンスクール。神戸のね。外国人の子供ばっかりのとこ」

「ふ〜ん、じゃあこっちに住んでるんだね、アスカは」

「そうよ。万博が終わるまではね」

「終わったら帰るの?ドイツに」

「うん。万博でミュンヘン市のパビリオンがあるのもオリンピックの宣伝だからね。
 これが終われば、いよいよ本格的に準備なの」

「嬉しい?自分の国に帰るのは」

「よくわかんないわ。日本のことだってそんなに知ってるわけじゃないし。
 とくにこれって思い出もないもんね」

「ふ〜ん、そうなんだ」

 日本人として、シンジは何処からともなく沸いてくる使命感に突き上げられていた。

「じゃ、思い出つくろうよ。ここで」

「ここで?万博で?」

「うん、このまま万博見物しようよ、二人で…」

 我ながらいい思い付きだと満足していたシンジは、その時とんでもない障害物に気づいた。
 そう。アスカははぐれた母親を探さないといけないのだ。

「あ、でもアスカはママを探さないといけないんだね。
 僕と違って迷子じゃないから。ごめんね、勝手なこと言って」

 自己完結してしまいそうなシンジの手をアスカは慌てて握った。
 女の子に手を握られるのは、運動会のときくらいしかシンジの記憶にはなかった。
 白くて細い手に握られた、その手が燃えるようだ。

「いいの!ママは大丈夫!」

「え、でも…」

「はぐれたの、ホントは私だから…」

 本当のことを白状して俯いたアスカを見て、シンジはわけのわからない思いにとらわれていた。
 胸がどきどきして、顔が熱い。
 碇シンジ。もうすぐ11歳の誕生日。
 この思いが初恋だとわかるには、まだ彼は若すぎた。
 だが、とにかくアスカと一緒にいたい。それだけはよくわかっていたのだ。
 まだ出会ってからほんの30分もたっていないというのに…。

 

 二人は歩き出した。
 近すぎず、遠からず。
 だが、すぐにアスカがシンジの手を握った。
 驚くシンジに、アスカは顔を赤らめて弁明した。

「もうはぐれるのはイヤだから」

 その言葉で簡単に納得したシンジだったが、本当にそうだったのだろうか?
 アスカは想い出が欲しかった。
 日本に来て、言葉を覚えても通う学校は外国人ばかり。
 せっかく日本に来ても日本人の友達は一人もいなかった。
 自分から作ろうとしなかったこともあるが、この時の日本人の外国人に対する違和感はかなりのものがあった。
 それこそ遠くからコソコソ見るというような感じである。
 外国人が多い神戸の町でもそうである。
 もっとも他の町より、外国人への障壁が低かったのは確かだが。
 その外国人コンプレックスが少なからず弱まったのは、この日本万国博覧会だった。
 さまざまな人種がここに集い、しかもかたことでも日本語で応対してくれる。
 オリンピックのときと違い、この万博は一般大衆へのイベントである。
 この博覧会が、世界の中の日本という意識をさらに加速化させたのは間違いなかった。
 現に、紅茶色の髪と碧眼のアスカがそうやってスイス館のキラキラツリーの下で立っていても、まるで違和感がなかったのだから。
 アスカにとっては、シンジの申し出は願ってもないチャンスだった。
 日本の思い出と、
 日本人の友達。
 その二つの願いがこの見知らぬ少年がもたらしてくれた。
 顔には出さないが、アスカの心は感謝でいっぱいだった。
 ホントにアリガト、シンジ。  

 この一日は、二人にとってかけがえのない日になった。 

 

 

 1970年5月30日土曜日。

 空は梅雨に入ったというのに、青く澄み渡っている。

 その空の下、とてつもない雑踏の中を手を繋いで歩く二人。

 

 

 

 スイス館を後にした二人は、青空に聳え立つソビエト館に向かった。

「あんなに並んでる」 

「う〜ん、どうしよう。並ぶ?」

 ソビエト館は明らかにアメリカ館に対抗して作られていた。
 アメリカの売りが<月の石>。その話題性には勝てないと踏んだソビエト連邦はパビリオンで勝負した。
 確かに千里の丘陵と青い空を背景にしたソビエト館は見事なビジュアル効果を見せた。
 ソビエト館を背景にして記念写真を撮るのは、太陽の塔に次いで人気が高かったのだ。
 とりあえず、ソ連の国家威信は保たれたわけだが、この二人もまたここで写真を撮りたくなった。
 シンジが父親からカメラを借りていたのだ。
 セルフタイマーがついている高級品だが、三脚などない。
 誰かにシャッターを押してもらわないとどうしようもないのだ。
 アスカは周囲を物色した。
 盗難事件が多いのは父親から聞いている。
 やっぱり信用のできる人じゃないと…。
 そして選ばれたのは、緑の制服を着たガイドのお姉さんだった。
 ショートカットでくりくりした目をしたお姉さんは、職務上子供だけの二人にまずこう言った。

「どうしたの?迷子になっちゃった?」 

 緑の制服は迷子ホステスなのである。
 迷子の保護と案内が職務だ。
 しかし、迷子の二人組は声を揃えて言った。

「違います!」

 「あ、ごめんなさい。じゃ、何かしら?」 

「シャッターを押してもらえませんでしょうか?」

 口ごもってしまったシンジに代わって、アスカが丁寧に頼んだ。

 「まあ、日本語上手なのね!うん、わかったわ。ソビエト館を背景にすればいいのね」

 さすがに慣れている。
 女子大生でアルバイトのガイド嬢をしているのだが、彼女はいったい何万回シャッターを押したことだろう。
 少しぎこちなく笑っているシンジと満面の笑みのアスカ。

 「う〜ん、少し硬いわよ。僕」

 「あ、はい。ごめんなさい」 

 ちょっと恥ずかしいけど、アスカの思い出なんだ。
 変な写真じゃ可哀想だ。
 シンジは精一杯の笑顔を試みた。
 ファインダー越しに微笑ましい二人の姿を見て、彼女は思った。
 この子達、兄弟じゃないわよね…いいわね、まだ小学生なのに。ませてるゥ!しかも、国際恋愛?

 「じゃ、切りますよ!はい、チーズ」

 ガシャッ。   

 お姉さんにお礼を言って、二人は歩き出した。
 どこのパビリオンも展示を見るためには並ばないといけない。
 いきおい、短めの列に並ばざるを得ない。
 ということで、二人が入るのは人気のないパビリオンが中心となる。
 その国の歴史や風土を展示しているだけの内容。
 だけど、二人でああだこうだと喋りながら見ていると楽しい。
 ホステスたちもこの可愛らしいカップルに親切にしてくれる。
 チェコスロバキア館でも象牙海岸館でもそうだった。
 アスカもシンジも、自分のスタンプ帳を持っていた。
 つまらないなと思うようなパビリオンでも、このスタンプを押す時は思わずニコニコしてしまう。
 スタンプ台を見つけると、小走りになる。もちろん、しっかりと手をつないで。

「今度は私が押したげる」 

「うん、じゃ次は僕だよ」

「いいわよ。わっ!このスタンプ綺麗!」   

 木曜広場の周りは、日本の企業のパビリオンが立ち並んでいる。
 映像を中心とした展示や、奇抜な建物。
 少々並んでも二人はいいと思った。

 みどり館のアストロラマには二人とも驚かされた。
 大きなドームいっぱいに映像が映される。
 どこを見たらいいのかわからないくらいに映像が溢れている。
 二人は手をぎゅっと握りあいながら、キョロキョロと映像を追いかけた。

 住友童話館では、童話なんて…と二人とも口にしていたが、
 実際に中に入ると、歓声を上げて展示に見入ってしまった。
 空中に浮かぶ9つの球体をめぐると、時間はあっという間に過ぎていく。

「まずいわね」 

「え?面白かったよ。アスカだって喜んでたじゃないか」 

「そうなのよ。面白いから問題なのよ。今何時だと思う?」 

 この当時、時計を持っている子供など皆無に近かった。 

「えっと…何時だろ…?」 

「もう12時を過ぎてるのよ!お腹なんてすいてないけど、この調子じゃ回りきれないわ」 

「あ、そ、そうだね。困ったな」 

「少し行きたいところを絞り込まなきゃいけないわね」 

「うん。アスカは行きたいところある?」 

 シンジの質問にアスカは腕組みをして考え込んでしまった。
 場所は水曜広場の横にある池のほとり。
 目の前にはアメリカ館を見るために長蛇の列が並んでいる。 

「月の石、見る?」 

「う、う〜ん」 

 アスカは悩んだ。
 どれくらい並ばないといけないんだろうか?
 並んでいる間に5つくらい回れそうだ。 

「シンジは月の石見たい?」 

「え、僕?僕は…」 

 確かに学校でも月の石は万博の話題の中心だ。
 アポロが持ち帰った月の石。
 人類の偉大な一歩の映像もシンジはちゃんと見ている。
 見たい。
 でも…、それよりももっと大事な…。
 シンジは決心した。 

「やめておこうよ、アスカ」 

「え?見なくていいの?」 

「うん。見たいけど、並ぶ時間がもったいないよ。
 その間にアスカといろんな場所を見たいんだ」 

「シンジ…」 

 もし、シンジがもう少し大きかったなら、その思いをもっと上手に言えたことだろう。
 何を見るかじゃなく、誰と見たかなのだ。
 月の石を一人で見るより、アスカと二人でそこらへんの石ころを見る方が楽しい。
 そういうことだ。

「駄目?」 

「ううん。嬉しい。私も同じこと考えてたの」 

「なんだ、アスカもそうだったの?」 

「じゃあさ、あの変な顔のとこ行こうよ!」 

 アスカが指をさしたのはガスパビリオン館だ。
 蚊取り線香の豚のような変な顔の建物。
 アメリカ館の行列の長さにうんざりした観客がなんとなく足を進めてしまうパビリオンだ。
 ここは笑いをテーマにしたパビリオンだから、面白いことは確かだ。

 すっかり満足して出てきた二人は、いまだに続いているアメリカ館の行列を見て、顔を見合わせて笑った。
 自分たちの選択に満足したからだ。
 そして、次にドイツ館。
 アスカの国のパビリオンだ。
 音楽の花園がテーマだった。
 こちらの方にはアスカの父親は関与していないらしい。
 それでも、アスカは誇らしげにシンジに展示物の説明をする。
 凄いな。僕なんか日本のパビリオンで何の説明もできないのにな…。
 そんなシンジの表情に、アスカの方も気づいた。

「シンジも海外で生活すればわかるわ。
 住んでいたときは何てことなかった町や国が凄く大切に思うのよ」 

「そうなんだ」 

「うんっ!」 

 キラキラした瞳のアスカは、例え様がないほど眩しかった。
 ああ、もっと一緒にいたい。
 もっと色々なことを話したい。
 たった一日だけの友達に過ぎない、このドイツの金髪少女に自分のできる限りのことをしてあげたい。
 シンジは改めてそう決心するのだった。    

 ドイツ館から出ると、次は隣のフランス館に並んだ。
 その行列の中で、アスカのお腹がキュウと音を立てた。 
 途端にアスカの頬が真っ赤に染まる。

「あ」

 不用意に漏らしたシンジの言葉に、アスカは泣き出しそうな顔になった。 
 恥ずかしかったのだろう。 
 俯いて、運動靴のつま先をタイルにグリグリと押し当てている。

「あのさ、僕、いいもの持ってるんだ」

「何よ」

 つっけんどんな口調でアスカが言った。

「ほら、これ」

 背中のリュックサックから、シンジは新聞紙の包みを出した。

「?」

「おにぎり」

 昨日、シンジと母親は大阪に到着し、迎えに来ていた父親に単身赴任している団地に案内された。
 母親は溜息をあげ、その日は夕方まで部屋の掃除となった。
 掃除の邪魔で外に締め出された二人は、団地の近くのお好み焼き屋に入った。 
 この当時は、関東ではお好み焼きやたこ焼きが珍しかったのだ。
 生まれて初めて食べた、この味をシンジはずっと忘れられなかった。
 仕事に忙しい父親と二人だけで食べたお好み焼き。 
 食べ方がわからないシンジに、ヘラでお好み焼きを切り分け、無言でシンジの方へ押しやる。 
 そんな父親の姿がシンジには嬉しかった。 
 結局、ほとんど会話はしなかったものの、シンジにとって大切な思い出となった。
 笹舟に盛られて新聞紙で包まれた、母親へのお土産のたこ焼きを宝物の様に捧げ持ったシンジは、時折背の高い父親を見上げて歩いた。
 そして、その夜は母の手料理。
 見違えるように綺麗になった台所で料理をする母親を見つめる父親の暖かい視線も、シンジには初めて見るように思えた。 
 おにぎりとは縁遠いそんな話をシンジはアスカに聞かせた。 
 誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。 
 ただ、口下手なシンジのことだから、もしアスカと出会ってなければそのまま自分の胸の中に収めたままにしていた可能性の方が高い。
 シンジの家族の風景を聞くアスカの心にも暖かいものが流れてきた。 
 家族っていいな。アスカ自身も、4年前に来日して家族で暮らし始めたときにそう感じた。 
 似てるんだ。シンジと私。 
 でもそんな思いも再び鳴った、キュウという音にかき消されてしまった。

「で、それとおにぎりとは、どこでどうつながるのよ」

「あ、そうか。その話だっけ」

「そうよ。おにぎりの話でしょ」

「ははは、そうだったよね、ごめん」

 シンジは新聞包みに突き刺さるアスカの視線が怖かった。

「だからね、今朝母さんがおにぎりを作ったんだ。で、僕のリュックにこれだけ入ってるんだ」

「何個?」

「4つくらいかな?」

「いくつくれるの?」

「全部でもいいよ」

「馬鹿!半分っこ、するのっ!」 

 アスカはそう力説した。
 本心からアスカに全部食べてもらいたいと思っていたシンジは、彼女の信念に敬意を表した。

「うん、じゃ半分づつにしようね」

「当たり前でしょ。でも…」

「うん、並んだまま食べるのは行儀悪いよね」

 ファーストフードのない時代では、立って食べるのは駅そばか一杯飲み屋のスタンドくらいなものだ。
 まして行列の中でモノを食べるような躾は受けていない。 
 おかげでフランス館は、何が展示してあったのかもわからないようなスピードで駆け抜けることになった。
 ただしスタンプだけはきちんと押したのだが。

 シンジとアスカはお祭り広場の外れのコンクリートに仲良く並んで腰掛けた。 
 そして、新聞包みを開ける。 
 拳より少し小さめのおにぎりが4個。 
 シンジはリュックから水筒も取り出した。

「そういえば、アスカは手ぶらだったんだね」

「わ、悪かったわね。全部…ママに持たせてたのよ」

 顔を真っ赤にさせてアスカは唇を尖らせた。
 それだけ親を頼っていて、甘えん坊のように思われたのではないかと、
 アスカはドキドキしてシンジの表情を伺う。 
 しかし、シンジの表情には何の変化もない。 
 人知れず、アスカは胸を撫で下ろした。 
 シンジに悪く思われたくない。 
 ようやくできそうな、日本人の友達なのだ。 
 アスカはそう思っていた。 
 芽生え始めていた恋心というものの存在には少しも気づかずに。

「あ、アスカは梅は大丈夫?」

「もちろんよ!入ってんの?」

「うん、多分」

「いただきます!」

 二人は手を合わせて、同時におにぎりを口に運んだ。
 アスカはよほどお腹がすいていたのだろう。 
 いきおいよく食べ始め、そしてそのことに気づいて喉を詰まらせた。 
 イヤだ。凄くはしたない女の子だと思われちゃう。

「あ、お茶飲みなよ、ほら」

「あぎがど……」

 ごくごくと喉を鳴らせて、アスカは水筒の蓋に注がれたお茶を飲み干した。
 そして、大きく息を吐いた。

「ふう…死ぬかと思った」

「はは、大げさだな、アスカは」

「うっさいわね、ほらアンタも飲みなさいよ。全部飲んじゃうわよ」

「え、ああ、えっと、うん、僕はいいよ。アスカが飲みなよ」

 顔を赤らめて、おにぎりを食べるシンジにアスカは首を傾げた。 
 何、照れてるんだろ? 
 そして数秒後にアスカはシンジが拒否した理由に思い当たった。

「あっ!」

「な、何だよ」

「間接キスがイヤなんだ」

「え!あ、いや、その」

「私と間接キスするのがいやなんだ」

「ち、違うよ。僕はイヤじゃないよ。でも、アスカがイヤに思うかもって…」

「私は気にしないわ。ほら、飲みなさいよ」

 アスカはポトポトとお茶を注いだ。 
 はいと、手渡された蓋をシンジはじっと見つめた。 
 そして、思い切ったように口をつける。

 あ…!

 心の中でアスカは叫び声をあげた。 
 さっき私が口をつけた場所だ。 
 シンジはそのことに気が付いていない。  
 しかし、アスカは少しも不快ではなかった。 
 汚いとか、そういう気持ちはまったくない。 
 ただ、恥ずかしいだけ。 
 薄く頬を染めて、アスカはゆっくりとお茶を飲むシンジの口元を眺めていた。

 お祭り広場の西の外れ。
 顔を赤らめて、おにぎりを食べている、少年少女がいる。 
 数十万人の入場者の中のたったの2人。 
 こうして仲良く並んで座っている自分たちの姿を今朝までの彼らは全く予想だにしていなかった。 
 こんなに楽しい時間を過ごすとは、思いもかけなかった。 
 その楽しさがどれだけ強いかというと…、二人とも自分たちが迷子であることをすっかり忘れていたのである。

 


 「で、息子さんの特徴は?服装を教えてください」

 「娘さんの髪の色は?あ、服装も…」

 「迷子ワッペンの番号の届はありませんね」

 「迷子センターにはお出でになっていないようです」

 「弱りましたねぇ。10歳でしたらセンターかホステスに連絡しているはずですが」

 

 「もう、アスカったら。信じられないわ」

 「シンジ…。あの馬鹿」

 子供に連絡が取れない限り、親がこの場所を離れるわけにはいかない。
 どんどん迷子が見つかる度に、取り残されていく母親が二人。 
 碇ユイと惣流キョウコである。 
 互いの境遇に共感した二人は、子供たちへの愚痴に始まり、世間話へと突入していった。

 


 親たちの立場と状況など全く気にとめていない、親不孝が二人。 
 お祭り広場を横切って、国内館の立ち並ぶブロックへ足を踏み入れようとしていた。
 まずは、目の前に立つ三菱未来館だった。

 ここの映像には驚かされた。
 動く歩道で展示室に運ばれた二人は、荒れ狂う自然の姿に圧倒された。 
 火山の爆発。大暴風。 
 大自然の猛威に、二人は繋いだ手に無意識に力を込めていた。 
 まるで、ここで手を離したら、二度と会えなくなってしまうようなそんな錯覚を覚える。 
 怪獣映画で有名な東宝映画がこの映像を製作していたのだ。音楽も伊福部昭。
 シンジの…そして実はアスカも大好きな怪獣映画のような映像と音楽は、二人の心をさらに結びつける役目を果たしていた。 
 大自然の前の小さな二人は、よりそい、そして手を固く、固く、繋ぐ。 
 そして、別の展示室の宇宙や海底の映像にも、二人は言葉もなくただ肩を並べて映像に見入っていた。

「凄かったね」

「うん、びっくりしたよ」

 パビリオンから出てきた二人は顔を上気させて、言葉も少なかった。 
 そして、固く繋いだままの手はそのままで、何となくふわふわしたような感覚で他のパビリオンを見物に向かったのだ。
 時間はすでに午後3時を過ぎている。 
 二人の時間はあと少しだ。 
 そのことを暗示するかのように二人の目に、エキスポタワーが見える。 
 あのタワーのそびえるエキスポランドには、アスカの父親がいるミュンヘン館がある。 
 二人の冒険もそこで終わりだ。 
 そのことに二人ともようやく気が付いた。 
 しかし、そのことに気付いてしまったから、余計に繋いだ手に込められた力は強くなっている。

「エキスポランドに…あるんだよね。ミュンヘン館」

 アスカは無言で頷いた。

「すぐ、行く?」

 黙って首を横に振るアスカ。 
 そして、ギュッと手に力を込めた。

「でも…、母さんたち心配してるよ」

 アスカは微かに頷いた。
 わかっている。 
 わかってはいるのだが、もっとシンジと一緒にいたい。 
 その素直な気持ちには嘘はつけない。

「行くわ。ミュンヘン館に」

 やがて顔を上げたアスカは、はっきりとそう言った。 
 その言葉を聞いたとき、シンジは何もかもが終わってしまったことを悟った。

 エキスポランドへ向かう万国橋を渡る人々の顔は明るく、ただアスカとシンジの二人だけは足取りも重かった。

 そして、ミュンヘン館の建物の前に立った二人。

「僕…ここで…」

 繋いだ手の力を弱めたシンジだったが、その手が強い力で握られて顔を上げた。 
 そこには、アスカの笑顔があった。

「アンタ馬鹿ぁ?この手は離さないわよ。来なさいよっ!」

「え?アスカ…、あっ!そんなに引っ張らないでよ」

「うっさい!さっさとついて来る!」

 ぐいぐいと引っ張られて、シンジはミュンヘン館の入口に連れ込まれた。

「惣流・ハインツ!いる?!」

 入口に立ったアスカは、大声で叫んだ。 

「は、ハインツって?まさか」

「パパよ」

「お父さんを呼び捨てにしたら駄目だよ」

「いいのっ!こんなのは勢いなんだから!」

 そして奥から飛び出してきた、金髪の大男はアスカの姿を認めるとドイツ語でまくし立てた。
 その父親に、アスカは冷静に空いた右手の指を大きく広げて見せた。 

「シンジの前でドイツ語は使わないで!」

 そのアスカの言葉で、ハインツはようやく状況に気が付いた。 
 最愛の娘が見も知らぬ少年と手を繋いでいる。 
 ハインツはさらに、ドイツ語で喚き散らす。 
 その父親の姿に、アスカは大きく溜息をついた。

「まったく…。誰に似たんだか。すぐにコ〜フンしちゃうんだから」

 そう言ってシンジに微笑みかける娘の表情は、ハインツの怒りの火に油を注いだようだ。 
 それはそうだろう。 
 父親として初めて見る、娘の“女”を思わせる表情である。 
 逆上しない方がおかしい。 
 だが両手を振り回して叫ぶハインツは、同僚数人に羽交い絞めにされた。 
 もし抑えてくれなかったら、シンジはつかみかかられていたかもしれない。 
 しかしシンジは怖くなかった。 
 アスカの手のぬくもりが、彼に勇気を与えてくれていたのだ。

 アスカは肩をすくめて、シンジの顔を横から覗き込んだ。

「ごめんね、シンジ。うるさいパパで」

「あ、いや、そんなことないよ。アスカのことが可愛いからだと思うし…」

「優しいんだ、シンジは。ああっ!もうっ!静かにしてよ、パパっ! 
 シンジの声が聞こえにくいでしょうがっ!」

 言えば言うほど父親が荒れ狂うことをアスカは知らない。
 だが、少なくともアスカの話を聞く姿勢にはならないことだけはわかった。 
 そこで、彼女は知り合いの顔を探し、伝言を頼むことにした。 
 ちょうど近くに同じ市職員で、このミュンヘン館の副館長であるローレンツがいたので、この初老の男に話し掛けた。 
 日本語がわかるローレンツなら、シンジがわかるように日本語で話すことができる。   
 迷子センターに自分とシンジの母親がいるはずだから、ミュンヘン館で待っていてくれるように伝えて欲しいこと。 
 これからエキスポランドで遊ぶから7時に戻ってくること。 
 その二つを頼んだ後、その人にアスカは頭を下げた。

「それから、お金を貸してください。 
 二人ともママがお金を持っているので、このままではエキスポランドで遊べません。 
 パパがあんなのだから、パパにもらえないんです。お願いします」

「アスカ、そんな…駄目だよ」

「いいから、アンタも頭を下げるのよ。ほら」

「いたたたっ」

 手を下に引っ張られてシンジは体勢を崩した。 
 そんな微笑ましい二人の様子を見て、断ることができるだろうか? 
 あとでハインツから回収すればよいのである。 
 そう判断したローレンツは、財布から1000円札を3枚取り出した。

「これで思い切り遊んできなさい」

「わっ!こんなに?」

「晩御飯も食べてくればいい。7時じゃなくて9時にここに戻ってきなさい。そう伝えておこう」

「ありがとうございます!ほら、シンジもお礼言いなさいよ!」

「あ、すみません。ありがとうございます!」

「ああ、いや、いいんだよ。ハインツから取り立てるからね。気にせず、しっかり遊んできなさい」

「はいっ!」

「ほらほら、ハインツに捕まる前に早く行きなさい」

 再度、お辞儀をして手に手を取って走り去っていく少女と少年の後姿をローレンツは微笑みながら見送った。 
 彼はナチスドイツの政権下に少年時代をおくった。 
 兵隊として最前線で戦い、捕虜となりようやく帰国したときには、故郷の町は東ドイツという国名になっていた。 
 帰ることも出来ず、彼はようやくミュンヘンで仕事を見つけ、そんな最中に知り合った妻と手を取り合って懸命に生きてきたのだ。 
 子宝には恵まれなかったが、今も愛する妻と二人で日本に来ている。 
 戦争を知らないアスカたちの世代を彼は羨ましく、そして慈しんだ。    
 少し甘かったかもしれないが、こういう平和な時代なのだ。 
 楽しんできなさい。おじさんはあの荒れ狂う大熊と戦ってくるから。

「きーるサン!オ金ナンカ渡シテッ!コラ、離セッ!離セッ!」

「ウルサイッ!静カニシナイカ。ミットモナイゾ。アア、迷子せんたーニ電話シテクレンカ。ソコニはいんつノ奥サンガイル」

 

「あのおじさん。いい人だね」

「そうよ。副館長さんは話せる人なんだから」

「でも、こんな大金もらっていいの?僕、伊藤博文なんか使ったことないよ」

「伊藤って、このじいさん?」

 アスカはお札に描かれた人物を眺めた。 

「これ、誰?」

「たしか、最初の総理大臣だよ」

「ふ〜ん、そうなんだ。私も自分で1000円札は使ったことないよ。
 500円札でレコード買ったのが最高」

「何のレコード?」

「え!う〜ん、シンジ笑わない?」

「うん、笑ったりなんかしないよ」

 ピンキーとキラーズとか、マンガのレコードかな?あ、それとも外人だからビートルズだっけ、そんなのかな?
 シンジは何となくそう思った。

「あのね…サインはV……なの」

「え!アスカ、好きなの?」

「うん、カッコいいじゃない。いなづま落しとかさ。で、買っちゃった」

 エヘヘと笑うアスカに、シンジは自分の買ったレコードを白状した。

「僕はさ…河童の三平……」

「ええっ!何それ!」

「知らない?アスカ見たことない?」

「知ってるわよ。見てたもん。でも、そんなの一番最初に買う? 
 ウルトラマンとかタイガーマスクじゃないの、普通は」

「いや、何となく…。欲しくなっちゃったんだよ、あのソノシートが」

「ゆ〜らりゆ〜らりゆ〜ららら♪だっけ」

「うんそうだよ。アスカ、よく覚えてるね」

 好きな歌を覚えていてくれて、シンジは目を輝かした。 
 しかし、次の瞬間、アスカは吹き出した。

「ははは、やっぱり変!」

「あ、笑ったな。自分のときは笑うなって言ったのに。酷いや」

「だって、ぷっ!ははは、河童の三平だよ。河童!私のサインはVなんて可愛いものよ」

 シンジは膨れ面をした。 
 それでも手を離そうとしないところを見ると、拗ねているだけなのだ。

「あ、ごめん。怒った?ジュース奢ってあげるから機嫌直してよ。
 ほら、サインはVの話をしたからネクターを飲みたくなっちゃった。ネクター飲もうよ」

「うん。アスカはピーチとオレンジどっちがいい?」

「私、ピーチ。シンジはオレンジにしなさいよ」

「えぇっ!僕もピーチがいいよ」

「ダメ。途中で交換したら、二つの味が楽しめるでしょ!」

「あ、うん。そうだけど…いいの?」

「は?ああ、間接キス?もうしちゃったんだから、気にしなくていいじゃないの」

「う、うん…アスカが気にしないならいいけど…」

 そうはいいながらもしっかり気にしているシンジ少年だった。 
 もちろん、嫌な方向に気にしているのではないのだが。 
 そして、氷水で冷やしていたネクターを買って、二人は手近なベンチに座った。 
 やはり立って飲むことなど出来ないのだ。

「ねえ、何に乗る?ダイダラザウルス?」

「あ、いや、あの…」

「怖いの?」

「こ、怖くなんか…」

「怖いんだ」

「うん」

 白状したシンジのおでこをツンと指でつついて、アスカはニコリと笑った。

「よし、正直に言ったから、ダイダラザウルスは勘弁してあげる。 
 ねえ、ちょっと早いけど先に食べない?」

 そう言って、アスカは大分傾いてきた太陽の方を見た。 
 その方角には空中ビュッフェがあった。 
 カプセルが上下に回転して、そのカプセルで食事を楽しむ。 
 そんな食事、これまでしたことがない。 
 二人は希望に目を輝かせて、空中ビュッフェに向かった。

 30分後。

「なんか想像してたのとずいぶん違ったわねぇ」

「うん、あれは食事と別々の方が良かったよ」

 期待は裏切られた。
 よく考えたら、観覧車に食べ物を持ち込んでそこで食べるようなもんだ。
 それが楽しいわけじゃない。一石二鳥とはいかないものだ。 
 本日最大の失敗だった。
 それでも、二人は笑っている。 
 時間は無駄にしたけど、その間だって話は弾んだ。 
 夕闇が迫る中、二人はエキスポランドを歩き、楽しんだ。 
 シンジの持っていたカメラのフィルムは全部使ってしまって、 
 アスカのお金で、売店の人に36枚撮りのフィルムに入れ替えてもらう。 
 でも、フラッシュがついていないから、明るい場所じゃないと巧く写らないよと売店のおじさんに教えてもらった。

「慎重に撮らないとダメよね」

「うん、そうだね」

 振り返ってみると、風景は一枚も撮っていない。 
 お互いを撮りあったり、シャッターを押してもらって二人の写真を撮ったりしている。 
 それでいいとシンジは思っている。
 万博の写真なんかいくらでも手に入る。 
 でも、アスカとのひと時は自分たちで残さないといけないのだ。

 時間はどんどん過ぎていく。
 副館長さんと約束した9時まで後1時間をきった。 
 広場の時計を見て、アスカの繋いだ手に力がこもった。  
 シンジも同じ思いだった。 
 できることなら、時計の針が止まって欲しい。

「どこ行く?」

「うん…」

 夜空に聳え立つエキスポタワーが見える。 
 いかにもこの時代というような感じのタワーである。 
 真っ直ぐに立った柱に、数個の球体がへばりついている。 
 美しいとは決して言えないビジュアルだ。 
 しかし、太陽の塔と並ぶ、万博の代表的なイメージといえる。

「あそこ…、登ろうか」

「うん……そうね」

 いやではない。
 でも、これが最後の行き先になるのだ。 
 どうしても気持ちは弾めない。

 少しだけ並び、二人は展望台まで上がった。
 そして、展望窓に近づいた二人は…、 
 まるで予め決めていたかのように、眼下を見下ろした。 
 遠くまで見える景色を眺めるのではなく、今日二人で歩いてきた場所を見つめたのだ。

「キラキラツリー…綺麗ね」

「うん、あそこにアスカが立ってたんだよね」

「ふふ、ママに見つけてもらいたくて、階段の一番上でね」

「凄く目立ってたよ」

「うふっ…でも、見つけてくれたのは、シンジだった」

 その綽名通りにスイス館の名物は、照明を受けてキラキラ光っている。 

「あそこに立ってたら、ここからでも見えるよ。アスカの黄色いワンピースだったら」

「そうね…」

 アスカは神様に感謝した。そして、ママにも。  
 すぐ見つけてくれなくて、ありがとう。 
 おかげで、私はシンジと出会うことが出来ました。 
 日本で出来た、最初のお友達です。

 そして…、最後の……。

「結局、ソビエト館もアメリカ館も日本館も入らなかったね」

「時間がもったいないもん。あんなに並ばされるとね」

「また……来たときに……」

 精一杯の言葉だった。 
 シンジとしては、それ以上のことは言えない。 
 できることなら、アスカともう一度万博に来たい。 
 9月13日まで開催されているんだ。 
 夏休みにもう一度、来ることにはなっている。 
 そのときに、アスカと待ち合わせして…。 
 また、一緒に…。今日と同じように…。

「ごめんね、シンジ」

 アスカの手に力がこもった。 
 シンジが隣に立つ、ドイツ人の女の子を見やると、彼女はぼんやりと眼下の会場を見ている。 
 そして、そのまま顔を動かさずに、もう一度言った。

「本当にごめん」

 シンジは察した。 
 もう会えないんだ。 
 理由はわからないが、それだけはわかる。

「7月には帰国するの…。9月から新学年だから」

「あ…」

「日本は4月からだけど、外国は9月からなの。だから、せっかくの夏休みでも、会えないの」

「そう…なんだ」

 周りには、時間が遅くなった所為か家族連れは少なくなり、アベックがほとんどであった。 
 子供はほんの少し。 
 その中で手を繋ぎ外を眺めている、アスカとシンジの姿を周りの大人たちは微笑ましく見ていた。 
 二人の心が悲しみに包まれているとは知らずに。

「手紙、書いていい?」

「あ…」

 アスカはシンジの方を見た。 
 シンジはぎこちなく笑いながら、アスカを見ていた。 
 その表情を見て、アスカは決心した。
 泣くもんか、泣いたりするもんか。
 泣き虫のドイツ人だなんて、記憶されたらイヤだ。 
 さよならまで、明るく…。

「あ、あったり前でしょっ!手紙書かなきゃ許さないわよ」

「アスカも僕にくれる?」

「ああっ!私をそんな礼儀知らずだと思ってんの?!そんなヤツには書かない!」

「あ!ごめん!ごめんよ、アスカ」

「よろしい。じゃ、文通するからね。あとで住所教えてあげる」

「僕のも」

「あ、そうだ。スタンプ帳に書こうよ。ねっ!」

「うん、それがいいよ。最後のページに住所を書こう」

「駄目よ。住所は最後から2枚目に。
 一番最後にはね、二人の名前を書くの」

「あ、うん、いいよ。じゃ、ミュンヘン館で書くもの貸してもらおうね」

 それから、二人は自分たちの歩いてきた順路を指差し、
 あれだけ歩いたのに、今少しも疲れていないことに驚いてしまった。

 そんな最後の楽しい時間も、やがて終わりのときが来る。

 しかし、二人は約束した。
 これから会う両親の前で、卑屈にならないことを。
 きちんと謝ること。そして、明日の見送りを許してもらうこと。
 あのアスカの父親だって、ちゃんと話せばわかってくれるに違いない。

 ミュンヘン館の前には、二組の夫婦が立っていた。
 アスカとシンジの両親である。
 父親までいたことに、シンジはびっくりしたが、アスカにうなずいて父親の前に進み出た。

「父さん、ごめんなさい。勝手なことをして」

「シンジ」

「はい」

「歯を食いしばれ」

 あっと思った瞬間、シンジは父親に殴り飛ばされた。
 ふわっと身体が浮いて、そのままお尻から地面に落ちる。
 一瞬、時間が止まったようにアスカは思えた。
 ハインツでさえ、息を呑んでしまった。
 手加減ひとつなく、息子の頬を殴り飛ばしたのだ。
 誰よりも早く動いたのは、アスカだった。
 尻餅をついたシンジの前に素早く飛び出し、左右に大きく手を広げた。

「ダメっ!シンジは悪くない!」

「それは違う。アスカ、みんなどんなに心配したと思うんだ?
 ママたちは迷子センターに6時間もいたのだぞ。
 少なくとも、連絡だけはすべきだったな」

 シンジが殴られた所為か、ハインツがさっきとは打って変わった落ち着きようで、アスカを諭す。

「もし、お前が女でなかったら、パパも殴っただろう」

「じゃ…じゃ…殴ってよ」

 アスカは震える声で言った。
 怖い。
 父親に殴られたことは一度もなかった。
 母親の平手のようなわけにはいかないだろう。
 でも…、でも、シンジだけが殴られるのはイヤだ。

「さあ、殴って、パパ。私だって、勝手なことをしたんだから」

「おい、アスカ。それは…」

「シンジだけなんて、不公平よ。そんなの…そんなの…」

 泣かないはずだったのに、アスカの目に泪が溢れてきた。
 対応に困ってしまったハインツは、妻の顔を伺った。
 キョウコはどうぞお好きなようにと肩をすくめるだけだ。
 くそ、逃げたな!
 ハインツは進退窮まってしまった。
 その彼を救ったのは、今まで尻餅をついて殴られた頬を押さえていた少年だった。

「アスカを殴らないでください」

 少しおぼつかない足取りで、それでもシンジはアスカと父親の間に立ちはだかった。

「殴るのなら、僕を」

 数分前までは殴る気満々で構えていたその相手が、殴ってくれと前に立っている。
 右の頬を腫らして…。
 右の頬の次は左の頬か?キリスト様も酷な事をおっしゃる。
 それに、少年の背後の娘の顔といったら…。
 これで殴りでもしたら、一生口を聞いてもらえそうにないな。
 ハインツは白旗を揚げた。
 いや、心の隅でこの日本人の少年に感謝すらしていたのだ。

「碇さん。いい息子さんを持ちましたね」

「うむ」

 当然だといわんばかりに、シンジの父親はうなずいた。
 これが狙いだったんだろう?先に殴って俺の怒気をはぐらかす。まあ、いい作戦だな。
 それに左手で殴ってるんだから、衝撃の割にはダメージは少ないはずだ。喰えない野郎だ。
 ハインツはそう言いたげに、碇ゲンドウの顔を睨んだ。
 この男とは何度もいろいろな事でやりあっている。
 建物の仕様のこと。イベントのこと。防災のこと。
 外人相手でもまったく動じない、この事務局の名物男とは気が合いそうだ。
 まあいい。今度、新地へ飲みに連れて行かそう。
 それで、今回のことは水に流してやる。
 そう決めたハインツは、苦笑した。

「もういい。二人ともママたちに謝りなさい」

「はい!ありがとうございます!」

 深々と頭を下げた少年の向こうに、青い瞳が睨んでいる。
 おいおい、それはないぜ。パパは殴ってないんだ。どうしてそんな目でパパを見る?
 こいつはしばらく相手をしてくれそうもないな。
 シンジはまだ父親を睨んでいるアスカの手を引っ張って、母親たちの前に進んだ。
 さすがにアスカも母親の前では神妙だ。

「ごめんなさい!」

 声を揃えて頭を下げる二人に、ユイは苦笑いを浮かべている。
 そして、キョウコの方は真面目な顔をしてアスカに声をかけた。

「アスカ」

「はい、ママ」

 こころもち顔を上げた次の瞬間、乾いた音がアスカの頬に鳴った。
 叩かれた頬を触りもしないで、アスカはじっと母親を見つめる。
 そして、見る見る涙が溢れてきた。
 その涙をキョウコは指で拭う。

「ママ!ごめんなさい!それに…ありがとう、叩いてくれて…」

 キョウコは何も言わず、胸に飛び込んできたアスカの紅茶色の髪を撫でた。
 ユイはただニコニコとその母娘を見ている。

「いいわねぇ。女の子って」

「母さん。ごめん。僕も…」

「え?ああ、いいわよ、うちは。あの人が叩いたんだから」

 体罰希望のシンジは拍子抜けしたように、抱き合うアスカとキョウコを眺めた。
 母さんも娘が欲しいんだろうか?

「まあ、いいか。いずれ娘はできるんだし」

「えっ?妹?」

 思わず出た独り言に、見事にボケてくれた息子の額をユイはツンと指でつついた。 
 アナタのお嫁さんよ、シンジ。 
 意味がわからず、変な顔をするシンジ。

 そして、父親組の方は…。

 娘か?高齢出産はつらいぞ、ユイ。 
 やはり、親子だ。見事にボケているゲンドウだった。

 どうして殴らない俺が睨まれて、引っ叩いたキョウコの胸に飛び込むんだ!
 男親のわびしさに胸をいためるハインツ。  
 今回の騒ぎで一番精神的な被害を被ったのは、彼だったかもしれない。

 閉館前の午後9時25分。

 アスカとシンジの小さな冒険は終わった。

 

 

 



 
 翌日。

 新大阪駅。

 両方の父親抜きで、母親二人とアスカ、シンジの4人は梅田で昼食を済ませ、上りホームに立っていた。

 気を利かせて、ユイとキョウコは少し離れた場所でお喋りを楽しんでいる。
 もっとも、子供たちの動きは二人ともしっかりチェックしているのだが。

「写真、焼き増しして、神戸に送るね」

「うん、楽しみにしてる。宝物になりそう」

「いい思い出になったかな?日本の」

「もちろんよ!いい友達も出来たしね。アンタのことはドイツでも宣伝しといてあげる。 
 日本に行ったら、碇シンジを訪ねなさい。いい思い出つくってくれるからってね」

「そんな…、僕は観光ガイドじゃないよ」

「はは、まあいいからいいから。アンタももしドイツに来たら、私がガイドしたげるから」

「アスカだってまた日本に来たら、僕が案内してあげるよ」

「じゃ、約束よ」

「うん!」

 二人は知っていた。 
 そんな日が来ることなどない。 
 ここで別れたら、もう二度と顔を合わすことなんかないのだ。 
 ドイツと日本。あまりに、その距離は遠い。 
 特に子供だけにその距離感は絶望的な遠さだ。 
 海外旅行が簡単にできるなんて、夢の夢。 
 でも、そんな現実的なことを言って、涙で別れたくない。 
 口には出してなくても、二人の思いは同じだった。

「スタンプ帳。ちゃんと持ってるわよね」

「持ってるよ。大食堂でもちゃんと見ただろ」

「どうも、アンタはボンヤリしてるから。心配なのよ。私は…」

 その時、アナウンスが流れ、ひかり号がホームに入ってきた。
 始発だから、発車までにもうしばらく時間はあるのだが、 
 その瞬間、アスカもシンジも息が出来ないくらいに胸が苦しくなった。

 お別れなんだ、アスカと。

 もう会えないんだ、シンジとは…。

 もう少し年齢が小さければ、素直にまた会えると信じられただろう。 
 もっと大人に近ければ、会うための手段を考えることも出来た。

 しかし、二人はもう10歳。

 そして、まだ10歳なのだ。 

 これが見納めなのだ。
 その思いが二人の胸を押しつぶしていく。 
 やはり、別れは涙になってしまうのか?

 涙を流すまいとする子供たちを優しい目で見ていた母親たちがゆっくりと近づく。

「シンジ。まだフィルム残ってる?」

「え?あ、うん。あと少しだけ」

「じゃ、二人を撮ってあげる。ひかり号をバックがいいわね」

「あ、うん!」

 シンジが神妙な顔をして、気をつけの姿勢になる。 
 そんなシンジを見て微笑んで、その隣に立とうとしたアスカをキョウコが呼び止めた。 
 口元に笑みをたたえながら、アスカの耳元に何か囁く。 
 はっとするアスカ。 
 そして、大きく頷いて、シンジの横に立った。

「いい?撮るわよ。チーズ!」

 ちゅっ!

 カシャッ!

 

 

 数日後、アスカの元に届けられた分厚い封書の中には、数十枚の写真が入っていた。

 その最後の一枚に、ひかり号の前で、シンジの頬にキスをしているアスカが鮮やかに写っている。

 1970年6月1日。

 二人の別れの風景である。



 

 その3年後。

 1973年、10月。

 碇シンジは中学2年生になっていた。

 万博はすでに終わり、父親も今は家にいる。 
 妹の姿は何処にも見えなかったが。

 アスカとはあれから、何度も手紙のやり取りをした。 
 ドイツに帰国してからも、エアメールで文通を続けた。 

 しかしその間隔は次第に開いていき、最後に葉書をもらってからもう4ヶ月がたとうとしていた。

 

『シンジ、ゲンキにしてますか。私はだんだん日本ごをわすれてしまいそうになっています。

 こうしてシンジにてがみをかいていても、かんじが出てきません。小学生みたいでごめんね。

 ミュンヘンの町もオリンピックがおわってさびしくなりました。あんなにいっぱい人がいたのに。

 でもエキスポのほうがもっと人がいっぱいだったとおもいます。

 すてきなこいびとのシャシンをおくってください。たのしみにしてます。アスカ

 PS たんじょう日、おめでとう』
 

 アスカにわかるように考えて手紙を書くのは大変だった。 
 だから、少しづつ億劫になっていったのかもしれない。

 あの日。 
 二人で歩いた万博の日は、まるで幻のように感じ始めていた。
 あの後、夏休みにもう一度訪れた万博は、人ごみと熱気にもかかわらずシンジには寒々しかった。 
 今度はソ連館や、太陽の塔。そして月の石もきちんと見物できた。
 だが、隣にはアスカがいない。 
 ユイにからかわれても、元気なく笑うだけのシンジだったのだ。
 ただし、アスカと回っていないパビリオンのスタンプはちゃんと押して、そのスタンプ帳はドイツに郵送した。

 それが、3年も経ってしまうと、徐々にアスカの印象が薄れていく。
 誰かを好きになったわけではない。 
 ただ、二人の距離があまりに離れすぎているのだ。

 そんなある日のことである。

 

「ああああああっ!」

「ど、どないしたんや、センセ」

「おい、シンジ。やめろよ」

 2人の友人の間で、シンジは立ち上がって、スクリーンを指差していた。

「こら!座れ!」「静かにしなさいよ」「最近の子供は!」

「えらいすんません」「こら、座れよ、シンジ」

 そのときのシンジは、誰の声も耳に入っていなかった。

 アスカがいた。

 3年前のアスカから見ると、ずいぶん大人っぽく見えるけど、間違いなく、あのアスカだった。

 時間にしてホンの2秒弱。
 観客席を映したカメラに、アスカが写っていたのだ。

 明るく、笑って…。

 『時よとまれ、君は美しい』

 ミュンヘンオリンピックの記録映画であった。

 アスカが写らないかな?
 そう仄かに思いながら、オリンピックのテレビ中継を見ていたのは事実だ。
 ただし、熱心に見ていたわけではない。 
 今日だって、トウジが割引券をもっていたから見に来たのだ。 
 ぼんやり画面を眺めていると、そこにアスカがちらりと写ったのだ。 
 しかも大写しじゃない。群衆の一人だった。

 興奮しきっているシンジは、友人にロビーに引きずり出された。

「アスカがっ!まだ写るかも!離せ、離せよ!」

「こらこら、何を騒いでるんだね」

「あ、えらいすんません。こいつが知り合いが写ってたって騒ぎよるんで」

「ほう…知り合いが?これにかい?」

 タバコを銜えた館主が、壁に貼られたポスターを見やった。

「はい!3年前に帰国した、ドイツ人の女の子なんです!」

「女の子…。これかい?」

 館主は小指を立てた。 
 小指の意味がわからないシンジはきょとんとしている。 
 その表情がおかしく、3人は大笑いした。 
 笑いというのは、人と人との垣根を取り払う効果がある。
 シンジを気に入った館主は、その夜シンジに映画館にもう一度来るように告げた。

 午後8時。シンジと、その付き添いと称するトウジとケンスケは映写室に導かれた。 
 そして、その美少女…と言われると恥ずかしいのだが、確かにアスカは美少女と呼ぶにふさわしい。 
 金髪の美少女が出てくる場面を具体的に教えろと、館主は言う。 
 シンジは頭の中で何度もリプレイしているから、かなり詳しいところまで伝えることができた。

「マコト、わかるか」

「ああ、大丈夫。3巻目の最初の方だから、そんなに時間はかからないよ」

「あの…見せていただけるんですか?」

 瞳を輝かせてシンジは尋ねた。

「へっへっへ。まだまだ」

 よくわからないことを言って、館主はタバコの煙をぷわっと吐き出した。 

「父さん、映写室は禁煙だよ」

「細かいこと言うな。お前はさっさと見つけりゃいいの」

「もう見つけたよ」

「何ぃ!だったら、さっさと言えよ」

 館主は息子の手元を眺めた。
 そこには35mmのフィルムがぶら下がっている。

「よし、じゃ切っちまいな」

「えっ!」

 大声を上げたのはシンジたちである。

「切るって!」

「おう。ばっさりやっちゃいな」

「3コマくらいでいいね」

「何しみったれたこと言ってんだ。どっさりくれてやんな」

「またオヤジは。こんな映画には容赦ないんだから」

「おうよ。映画は活劇だあね」

 映画館の親子のやり取りを聞いて、ケンスケがシンジのわき腹をつついた。

「凄いな。フィルムくれるんだってよ」

「そんなんして、大丈夫かいな」

「あの、僕…」

「大丈夫だよ」

 黒ぶちメガネの息子の方が、シンジを安心させるように笑いかけた。

「映画って何巻ものフィルムを交互に写してるんだ。だから…」

 
 それからしばらく、映画のしくみについての講義が映写室で繰り広げられた。 
 かなりの情熱をこのマコトという青年は映画に対して持っているらしい。 
 話もすごく面白く、シンジたちは時間も忘れて聞き入ってしまった。 
 そんな風景を面白くもなさそうな顔をしつつも、、ハイライトを燻らせながら楽しんでいる館主だった。

 すっかり帰りが遅くなった3人は、こうなったら怒られるのは同じだと開き直ってゆっくり歩いていた。 
 シンジが持っている封筒には、アスカが写っているフィルムが10コマ入っている。 
 映画館のあの親子には、本当にお世話になった。 
 お礼をどうしようかと戸惑っていたら、それを察知したマコトがこう言った。

「また、見に来てくれよ。タダじゃないけどね」

「お前はすぐしみったれたことを言う」

 口が悪い父親だが、お互いに信頼しあっているのがよくわかる。 
 帰り道で、月に一度はあそこに映画を見に行こうということになった。
 保護者無しでも入場させてくれるのも魅力だったからかもしれない。 
 そして、おやすみを言って別れるときに、ケンスケがアスカのフィルムを2〜3コマ貸して欲しいと言い出した。

「なんや、お前、センセの女に横恋慕かぁ?」

「まさか。ちょっと試してみたいことがあるんだ。今、鋏なんかないから、明日学校で頼むよ」

 ケンスケの意図はよくわからなかったが、シンジは快諾した。 
 零れ落ちそうな満月の夜だった。

 

 その2日後。

 シンジはアスカへの手紙を四苦八苦しながら書きつづけていた。
 この感動をどうすれば、わかりやすく書けるだろうか? 
 5年生の自分なら素直にそのまま書けたのだが、今は中学2年生。 
 つい漢字を多用してしまい、何度も何度も書き直した。 
 ひらがなばかりじゃ怒るだろうし、困ったなぁ。 
 そう口にしながらも、シンジの顔から微笑が消えることはなかったのだ。

「シンジ、お友達よ」

 ユイの声に降りてきてみると、玄関に立っていたのはケンスケだった。 
 両手を背中に廻して、ニヤニヤ笑っている。 

「なんだ。上がりなよ」

「いや、今日はいい。渡すものがあるだけだ」

「何?」

「この前借りたフィルム。それと…」

 ケンスケが背中に隠していたものを見て、シンジは声を失った。

 アスカの写真である。

 あの映画の、あの場面に写っていた、アスカの写真だ。

「すまんな。これ以上引き伸ばしたら粒子が粗くなるから。これで我慢しろよな」

 四つ切りサイズに引き伸ばされ、パネルに貼られた写真の中で、アスカが明るく笑っている。

 シンジはその顔を見て、鼻の奥がキュンと痛くなるのを覚えた。
 涙を必死に抑えて、そのパネルと大きな封筒を預かった。

「パネルはサービスだ。写真部の使い古しで悪いけどな。じゃあな」

 本当に何とお礼を言ったらいいかわからない。 
 シンジはケンスケの手を握った。

「お、おい、俺は男に手を握られても嬉しくなんかないぞ」

 そう言いながらも、骨を折ったかいがあったなと満足するケンスケであった。

「あ、念のために言っておくけど、俺はパネル貼りだけだ。 
 35mmを印画紙に焼くテクニックなんて俺にはないから。 
 これから写真の現像は、駅前の青葉写真館で頼む。じゃあな」

 それだけ言い残すと、おやすみも言わずにケンスケは玄関から走り去っていった。 
 彼も恥ずかしかったのだろう。親友に涙まで流されて感謝されるのは。

 周囲の人の善意の中で、シンジはアスカへの手紙をどう書くか、何となくわかってきたような気がしてきた。

 

 

「わっ!シンジから。久しぶりね。もう私のことなんか忘れちゃったのかと思った」

 1ヵ月半後、アスカの元に3通のエアメールが届いた。

「しかも、何?どうして3通も送ってきたの?」

 アスカの手には大中小の3つの封筒が。 
 それぞれ、大きい順に1,2,3と赤い字でナンバーが打たれている。 
 よくわからないままに、アスカは1番の大きい封筒を開いた。

 中には、アスカの写真が入っていた。 
 もちろん、あの映画のフィルムから引き伸ばした写真である。

「えええっ!ど、どうして?どうして私の写真? 
 これ、オリンピックの時よね。どうしてシンジがこんな写真持ってるの?」

 とにかく、アスカは驚いた。 
 日本からエアメールで届いた、自分の写真。 
 まさか、シンジが撮ったはずがない。ドイツに来たなら、自分に声をかけないはずがないからだ。

「わかんない…。そうだ2つ目に何か…。げっ!何これ!読めないよ…」

 そう。2つ目の封筒には、便箋にびっしりと文章が書かれていた。 
 日本語の能力が衰退する一方のアスカには理解できないほど、きちんとした日本語で書かれている。

「いつもかんたんな言葉で書いてくれてるのに…。こんなのパパじゃないと読めない」

 散々迷った挙句、アスカは写真と便箋を手にリビングへ向かった。 
 忘れられた3つ目の手紙を机の上に残して…。 
 窓の外は雨。日本なら春雨と言いたくなるような、優しい雨が降っている。 

 ハインツもキョウコも、引き伸ばされたアスカの写真には驚かされていた。 
 但し、キョウコはアスカの隣で半分に切られている自分が気に入らなかったようだが。 
 二人ともアスカ同様に、シンジの手紙に興味を持った。 
 そして、ハインツの手紙を読む声に耳を傾けたのだった。

「こんにちは、惣流家の方々。 
 おそらくこの手紙を読んでいるのはお父様でしょう。 
 ハインツ様、お願いです。この手紙をアスカに読んであげてください。 
 僕の能力ではこんなに複雑なことを簡単な日本語で表現できないのです。 
 通訳みたいにお使いするのはまことに申し訳ありませんが、他に方法が見つからなかったのです。 
 宜しくお願いします」

 そこまで読んで、ハインツは娘の顔を見た。 
 言葉がわかるかという意味だったが、アスカは大きく頷いた。 
 読むのは苦しいけど、聞く方は何とか理解できる。
 ハインツは、咳払いして、2枚目の便箋に移った。

 それから後は、アスカの写真がどうして送られることになったのかを詳しく説明していた。

 もともとの素材が『時よとまれ、君は美しい』だったとは、3人とも驚いてしまった。 
 何回も見たのに、誰も気が付いてなかったのだ。 
 それを遠く離れた日本で、シンジだけがアスカを見つけていた。 

 そのアスカの心に、忘れかけていた感情が甦りはじめている。

 たった3年前のそのときはわからなかった、理解できなかった感情。
 今なら、わかる。

 この想いを何と呼ぶのか。

 

 

 “ Liebe ”

 

 

 多分、そう。
 あの時、私はシンジに恋をしていたんだ。 
 全然気が付かなかったけど。 

 今は?

 今は、13歳の私はどうなんだろう?

 とりあえず、好きな人はいない。
 それだけしかわからない。

 アスカが自分の心に問い掛けている間も、ハインツの朗読は続いていた。 
 もちろん、その内容の方もアスカは必死で聞いている。 
 わからないところは、恥も外聞もなく、両親に聞く。 

 そして、最後の一枚を手にしたとき、ハインツは不敵に笑った。

「どうしたの?パパ」

「ああ、あの小僧、宣言してるぞ。

 僕はお金をためて、ドイツに行こうと思います。 
 何年かかるかわかりませんが、絶対に行きます。
 それまでは、どこにも引っ越さないで、待っていてください。 
 追伸。
 12月4日の誕生日にはプレゼントを贈ります。必ず。

 碇シンジ…と」

 ハインツは、読み終えた便箋の束をアスカに手渡した。 
 それがアスカのすっかり女らしくなった胸に抱かれるのを見て、
 ハインツとキョウコは顔を見合わせて目だけで笑った。

「アリガト、パパ」

 呟くようにそう言って、雲の上を歩くように自分の部屋に戻る娘の後姿を二人はじっと見つめた。 
 そして、また顔を見合わせて、今度は声に出して笑い合った。

「こういう時は乾杯するのか?」

「どうかしら?私は乾杯してもいいと思うけど」

「じゃ、飲もう。俺が準備するよ。何かつまみ…ふふ、これも日本的だな」

「わかったわ。そっちは私が」

 

 アスカは自室に戻り、抱きしめていた便箋を目の前にかざした。 
 そして、あの写真も一緒に抱きしめていたことを知り、顔色が青ざめてしまった。 
 皺が入ってしまった。 
 慌てて、机の上に置き、皺を伸ばそうと懸命になる。 
 自分の写真。世界中で公開された映画から、見つけられて作られた、貴重な写真だから? 
 違う。シンジが見つけたから、シンジが送ってくれたから。 
 必死に皺を伸ばしていたアスカの眼に、“3”と書かれた封筒が眼に入った。

「あっ!忘れてた!パパに読んでもらわな…」

 封を破って便箋を広げたアスカは、自分にもわかる3つのひらがなを見て、息を呑んだ。

 そして、声に出した。

「す、き、だ」

 その封筒には、そう書かれた便箋が只一枚入っていただけだった。 
 アスカは、目を瞑って、唇を噛み、そして首を左右に振った。

「口惜しいッ!何よこれ!こんなの、こんなのっ!」

 アスカはくるくると回って、ベッドに仰向けに倒れこんだ。 
 大きくため息をつき、もう一度便箋の文字を読む。
 たった3文字なのに、その3文字を何度も何度も繰り返して読む。 
 ついには声に出して読み始めた。

「好きだ。好きだ。好きだ。好きだっ!」

 そして、その便箋に何度もキスをする。

 シンジが精一杯考えた、三段攻撃。
 織田信長の長篠の合戦にヒントを得たといってはいるが、どうだろうか。 
 とにもかくにも、アスカはその気になった。 
 その気になってしまえば、行動派のアスカである。 
 むっくりとベッドから起き上がると、のしのしとリビングへ向かった。

 リビングのソファーでは、ワイングラスを手にした惣流夫妻が仲良く並んで座っていた。
 その目の前に仁王立ちするアスカ。

「お金頂戴。日本に行くわっ!」

 アルコールが入った夫妻は同じ方向に首を傾げている。

「ないって言ってもダメよ。数年分のお小遣いを前借して…」

 高らかに宣言し始めたアスカは、両親の足元に散らばっているガイドブックをようやく認識した。 
 日本、日本、日本、日本……。

「キョウコ。一人分旅費が助かったな」

「ええ、親孝行な娘だこと」

「いつ…?」

「ウィンターバカンスにな。新地では日本酒にやられてしまったが、今度はビールで勝負してやる」

「ユイさん老けたかしら?気になるわね」

 アスカは、すでに娘の事を無視して自分たちだけの世界に入ってしまった両親に、
 イ〜ダッ!としかめ面をして背中を向けた。 
 そして、溢れる想いを爆発させる場所を求めて、アスカはテラスから庭に出た。 
 雨が心地よい。 
 しばらく、顔を上げてシャワーのように雨の雫を身体に受けていたが、 
 ニヤッと表情を綻ばせた。

「碇シンジ!アンタはそうやって、私に勝ったつもりでしょうけどね! 
 次は私の番よっ!アンタがドイツに来るまで待ってられますかっ! 
 こっちからアンタのところに行ってやるんだから!」

 多分、日本の方角だと見当をつけた空にアスカは怒鳴った。
 それから、アスカは両手を大きく広げた。 

「ねえ!誰かこんなラブレターもらったことある?
 きっと世界中で私一人よっ! 
 遠い、遠い日本から、私のこと、好きだって。 
 シンジは私を好きなの。好きなんだってぇっ! 
 私だって、私だって、好きよぉっ!大好きっ!」

 ラングレー家の一人娘は雨の中で、全身びしょ濡れになりながら奇怪な言語を叫んでいる。 
 隣近所の家の人は、見て見ぬ振りをすることにした。

「日本語ならわからないと思って、あの子ったら」

「親に聞かれてもいいのか?絶対に私たちのことを忘れてるな、あれは」

 
 翌日から熱を出して、2日間ベッドの中で甘い夢をむさぼる事になるとは、 
 それこそ夢にも思わなかった、惣流・アスカ・ラングレー。
 13歳がもうすぐ終わる、秋のできごとであった。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、月日は流れた。

 2003年の、とある住宅街のリビングに叫び声が上がった。

「ちょっとっ!エキスポタワー、なくなっちゃったわ!」

 インターネットを楽しんでいた、まだ30そこそこにしか見えないアスカがシンジを呼んだ。 
 シンジがソファーから立ち上がり、アスカの後ろから画面を覗き込む。

「本当だ。撤去されたんだね」

「何だか、哀しいわね。思い出の場所なのに」

「うん。寂しいね」

「この分じゃ、太陽の塔も危ないかもよ?」

「まさか。あれはそのままだろう」

「ねえ、シンジ。行こうか?」

「そうだな。今度の連休にみんなで」

 それから計画に熱中する、碇夫妻。ともに、43歳になった。

 

「何かがらんとしちゃってるわね」

「USJができたからね。けっこうあちこちの遊園地が閉鎖してるらしいよ、関西は」

 エキスポランドにやってきた二人は、落胆の色を隠せずに周りを見渡した。 
 その二人を少し離れた場所で見ている兄妹。

「何だか、古臭いテーマパーク」

「馬鹿だな。古いんだから当たり前だろ。父さんと母さんが子供のときにできたんだぞ」

「知ってるわよ。うっさいわね」

「しかしまぁ、大学生にもなって、親と一緒に遊園地とはね」

「私だって、彼氏とデートだったのに」

「お前のデートは毎週じゃないか。俺のところはもう倦怠期かな?どこにも連れて行けって言わないぞ」

「あら?惚気ぇ?部屋でべたべたしてるくせに。この前お兄ちゃんの部屋でね、私アレ見つけたよ」

「何?!鍵かけてたのに!まさか、お前たち、使って…」

 妹は吹き出した。
 見事に引っ掛けられたことを知った兄は、顔が真っ赤になった。

「母さんには言うなよな…」

「じゃ、口止め料。来週のデートの資金頂戴」

「くそっ。今度はお前たちの尻尾、つかんでやるからな」

「残念でしたぁ。私とカヲルはキスまでしかしてませんよ〜だ」

「そっか、ふふふ、父さんに言ってやろうかな…?」

「あら、大丈夫よ。お父さん、知ってるもんね」

「はぁ…?お前と父さん、仲良すぎるぞ。その歳でさ」

「そうかな?あの二人に比べたら…」

 兄と妹は、腕を組んで周りを見ながら思い出にふけっている両親を見つめた。
 いまだにファーストネームで呼び合う、近所でも有名なアツアツ夫婦である。
 その夫婦に連れられて、東京から大阪まで家族旅行に参加してしまうのだから、
 子供たちも含めて碇家の家庭環境は円満のようだ。

 

 すっかり様変わりしてしまった万博会場の様子に、アスカの表情は冴えなかった。
 唯一変化をそれほど見せていない、日本庭園にはあの時入っていない。

 アスカが仁王立ちしていたキラキラタワー。

 おにぎりを食べたお祭り広場の外れ。

 どこもかしこも、当時の面影はまるでない。

 おそらくそれが怖かったのだろう。

 アスカが日本の大学に入るため…と称して、シンジの家を下宿化してから、
 京都や奈良に(婚前)旅行に行くことはあっても、千里にだけは足を向けなかった。
 大切な想い出が無残な姿を晒しているのは見るに耐えない。
 口には出さなかったが、二人の思いは同じだった。
 結婚して、シンイチが生まれてからは、そんな感覚は薄れていった。
 それでも、千里に行こうという気持ちにはならなかったのだ。

 それが今回行ってみる気になったのは、あのエキスポタワーの解体がショックだったから。
 このまま大阪万博が風化してしまうのではないかと、今のうちにもう一度行ってみようと思ったのである。

 しかし、もう遅かったようだ。

 見物にはもっと長い時間を予定していたのだが、気抜けしたのかごく短時間で帰ろうということになった。
 モノレールに乗ろうと、言葉少なに駅まで移動していたときである。

「ねえ、お父さん。あそこ!」

 レイが父親の開いているほうの腕を掴んで、モノレールの駅前の建物を指差した。
 逆サイドの腕にすがっていたアスカが、娘に文句を言う。

「危ないでしょ。いきなり」

「ほら、万博って書いてるよ」

 視力2.0の娘は建物の前の看板を指差した。

「あれって、ショールームだろ。見ろよ、大きく大阪ガスって書いてるぜ」

「でもでも、万博って書いてるもん!行ってみようよ」

 娘に引きずられるように、入り口の方へ歩く。
 確かにレイの言うとおり、万博資料室が館内にあると表示されている。

「資料ってパネルとかだけじゃないの?」

 いささか、意気消沈気味のアスカが言う。

「いいじゃないか、それでも。見てみようよ」

「うん…、まあ、いいか」

 期待しすぎて裏切られることを恐れて、アスカは足取りを抑えようとした。 
 しかし、娘は父親の手を引っ張ってどんどん中に入っていく。 
 そして、アスカの背中も強い力で押されている。

「アンタ、何すんのよ」

「さあさあ、とっとと入ろうよ。母さんらしくないぜ」

「うっさい!」

 避けることの容易な拳骨を、シンイチはそのまま受ける。
 レイと父親の関係とは種類が違う。 
 これが、シンイチと母親のスタンスなのだ。

 資料館……エキスポ70ホールは二階の奥にあった。

 そこに、足を踏み入れた瞬間。
 アスカは絶句した。 
 これだけ? 
 一瞬、そう思った。 
 しかし、目の前にある懐かしいものを見つけて、 
 まるで33年前に戻ったような歓声を上げた。

「見て、シンジ!スタンプ!」

 アスカはテーブルに飛びついた。 
 あの日の、あのスタンプが置いてある。 
 目を輝かせて、スタンプの裏側を見ているアスカの横にシンジは立った。

「まだ、残ってたんだ」

「馬鹿ね、きっとレプリカよ。でも…でも、ほら、絵柄は一緒よ」

「うん、あっ!ベルギー館だ。ここ、最初に入ったとこだよ」

 そんな両親を少し離れて眺めている兄と妹。

「いいなぁ。あの二人。あんな夫婦になりたいなぁ…」

「無理だな。お前の相手は皮肉っぽいからな」

「あ、兄さんたちだって、ほとんど喋らないじゃない」

「俺もリツコも無口だからな」

「よく言うよ。スイッチ入ったら、ベラベラ喋るくせに」

「ふん」

 子供に暖かい目で見られる。 
 そんな夫婦は幸せだ。

 シンイチが持っていたシステム手帳は、母親に没収され、あっという間にスタンプ帳と化した。
 アスカは手当たり次第に、スタンプを押していく。

「4冊目のスタンプ帳ね」

「ああ、そう言えば、僕が送った3冊目はどこ?」

「あれは、パパにあげたの。あの人ドジだから、毎日会場にいたのにスタンプ集めてなかったの」

「えっ!そうだったんだ」

 今度、ドイツに行ったらハインツを冷やかしてやろう。 
 アルコールに父親たちほど強くないシンジは、対抗手段を一つ手に入れた。 
 もっとも逆襲されて、ビール責めに遭う事は間違いない。

 そんなことを考えながら、シンジは奥の方に歩いていった。

 あ…。

 立ち止まってしまったシンジの眼前に、あの日の千里の風景が広がっている。

 万博の会場模型がそこに展示されていたのだ。

 胸の奥が急に熱くなる。 
 ああ、あの…、あの、キラキラツリーの下に…。

 真夏のように強い日差しの下で、黄色いワンピースの裾をはためかせて、不敵に立つ亜麻色の髪の少女。

 その映像がシンジに襲いかかってきた。

「何、見てんのよ!アンタ馬鹿ぁ!」「はん!天才だからよ!」「はぐれたの、ホントは私だから…」

 シンジは顔を覆った。
 止めることが出来ない。 
 何故だかわからないが、涙が溢れてくる。 
 その背中に暖かいものがかぶさってきた。

「何、見てんのよ!アンタ馬鹿ぁ!」

 あの時とは違う、落ち着いた、しかし愛情がこもった妻の声だ。

「シンジに話した最初の言葉。覚えてた?」

「あ、当たり前だろ」

 必死に涙を止めようとするシンジ。

「泣いてもいいと思うよ。私だって…」

「アスカ…」

 振り向こうとするシンジの背中から離れようとしないアスカ。

「ごめんね、泣き顔見られたくないの」

 シンジは、目を開けてもう一度、模型を見た。

 あの日の二人が、どんどん甦ってくる。

 それはアスカも同様だった。

 会場模型を見、シンジの視線を追い、キラキラツリーを見つけた瞬間、甦る記憶。

 あの暑い日。肩を落としながら歩いてくる少年。私を眩しげに見上げる。そして、ゆっくりと私の方へ…。

「え、あ、日本人なの?」「凄いや…。君って本当に凄いよ。天才だし、お人形みたいに可愛いし」「じゃ、思い出つくろうよ。ここで」

 アスカも涙が止まらなかった。

 大きな模型の前で、二人はいつまでも立ち尽くしていた。

 

 あの日。

 1970年5月30日。快晴。最高気温30度。

 万博当日入場者数、337904人。

 その中のたった二人。

 まだ10歳だった二人。

 アスカとシンジがそこで出会ったのは、奇蹟というものだったのだろうか? 
 あの膨大な入場者の数。半年間の会期の中で、あの日に二人が来場し、迷子になったのは神様の悪戯だったのか? 

 それは誰にもわからない。

 

 ただはっきりしていることは…。

 1970年5月30日の土曜日。午前10時37分。

 アスカとシンジの物語は、その瞬間に始まった。

 

 

 

〜 END 〜

 

 

 

 

 1970年5月30日土曜日。

 空は梅雨に入ったというのに、青く澄み渡っている。

 その空の下、とてつもない雑踏の中を手を繋いで歩く二人。

この一日は、二人にとってかけがえのない日になった。 

 

 

 


 

携帯文庫メニューへ