彼方からの手紙

(1) 〜 (3)



(1) 2016年2月

「あなた、アスカちゃんから手紙が来たわよ」

 毎度の事ながらけたたましい音を立てながら夫がリビングへ突進してくる。
 踏み潰されないよう呼びかける前に床に置かれている大きな籠を妻はテーブルの上に移動させた。
 籠の中の赤ちゃんは相手をしてもらったかと青い瞳をキョロキョロさせて笑顔を浮かべている。
 ハインツ・ラングレーとマリア・マグダレーネ・ラングレーの第二子。
 学校に上がったばかりの長男はまだ授業中で留守だった。
 二人とも男の子なのでハインツが血を分けた娘に愛情を抱くのも無理はない。
 それは惣流・アスカ・ラングレーが彼を憎み続けていた時も同じだった。
 彼は娘のことを心配し、その無事を祈っていた。
 まして使徒なる異形の畏怖なる存在と戦いに遥かなる日本に赴いてからはさらに。

 そして、サードインパクト。
 この時、アスカとその父の心は触れ合い、彼女の誤解は解けた。
 父の思いを知った今、アスカの心には憎悪の欠片もない。
 ただ残っているのはわだかまり。
 憎悪はなくとも、逡巡はある。
 会話によって誤解が解けたわけではないのだ。
 急に「パパ」と呼びかけることができるわけがない。
 特にアスカのような片意地な娘にとっては。
 
 ここに血を分けた娘と父の奇妙で滑稽な交流が始まったのである。
 義母であるマリアとアスカとの文通というアナクロな手段によって。







 時に2016年2月14日早朝。
 少女は短い眠りから目を覚ました。
 4時前まで眠ることができずにベッドの上で自分は如何にすべきかを考え続けていたのだ。
 決して回答が出ないことを自覚しながら。
 まず、2月14日がそんなに大変な日だということをアスカはまるで知らなかったのが拙かった。
 欧米には好きな人にチョコレートを贈るなどという奇妙な風習などまったくなかったからだ。
 もし知っていたならばこの恐るべき記念日に合わせて周到な計画を練っていただろう。
 時間がなさすぎる!
 アスカは唇を噛んだ。
 もっとも筆者は知っている。
 たとえ、永久の時を与えられたとしても彼女は決定的な計画を策定することはできなかった。
 まだ彼女には時が満ちていなかったのだ。
 同居人であり元戦友でもあり、そしておそらく自分に好意を持っている…はずの少年に、
 己の好意を表明するにはまだまだ決定的に追い詰められていなかったのだ。
 まずは最大のライバルであるべき、その綾波レイがサードインパクトの2ヵ月後にいきなり姿を現したかと思うと、
 突然碇シンジの肉親宣言を表明したことが大きい。

 「絆だから妹なの」
 
 よくわからないが、アスカは内心その意見に大々的に賛同した。
 もっとも対外的には澄ました顔をして「勝手にすれば」と言っただけだったが。
 ただ、ここで義母マリアに宛てた手紙を一部だけ紹介しよう。

 本当に嬉しかった。
 だってあの女に彼の心が向いたなら、絶対にこっちの方へ向かせるのなんて不可能だと思ってたから。
 これで私のことを好きになってくれるかもしれない。
 ねぇ、ママ。好きになってくれるかしら?
 私、全然自信がないの。
 私みたいな女、彼が好きになるわけない。

 このあたりで抜粋を終えよう。
 何故なら同じことの繰り返しで便箋を3枚も使っているのだから。
 マリアはそんな手紙も端折ることもなく丹念に読んだ。
 そしてもちろんすぐに励ましの手紙を返す。
 しばらくすると御礼とまたまた失敗と後悔と失望と落胆と自己嫌悪が満載の手紙が届く。
 こんな風に日本とドイツの間をせわしなく手紙が行き来していた。
 
 話は遡る。
 今や、血の繋がっていないマリアとアスカは本当に仲のいい親子になっていた。
 義理の親子ではあったが、父親を拒否していたアスカがその親権者として彼女を指名したことより二人の交流は始まっている。
 最初は二人の関係はぎこちないというよりも痛々しさしかなかった。
 アスカは憎い父親の妻であり、彼女からすれば愛する母親を死に追いやった者の一人。
 片やマリアにとっては愛する夫を理不尽にも憎んでいる可愛くない少女。
 互いに親愛の情などまるでなく、儀礼すれすれの応対をしていた。
 そんなマリアが見方を変えたのはハインツの懇願からだった。
 悪いのは自分だ、あの子を孤独に追いやったのは自分だ。
 大人の方から歩み寄るのが当然ではないか。
 マリアの手を握り、涙を浮かべて言葉を迸らせる。
 本当なら自分でしないといけないのだが、顔も見たくないほど嫌われている今の状況ではどうにもならない。
 この世界中でそれができるのはお前だけなのだ。
 そう真剣に頼まれれば、マリアも意地を張り続けるわけにはいかなかった。
 アスカはまだ子供。
 まだ7歳だったのだ。
 そんな子供を相手にむきになっている自分の姿に気がついた。
 自分の立場と義務に気づいたマリアのすることはただひとつだけだった。

 3年。
 たっぷり3年はかかった。
 アスカのぎこちない笑顔を見るまでに。
 それからまた3年。
 日本へ旅立つ前日。
 ドイツネルフの応接室で二人はほんの短い時間を語り合った。
 話題は主にアスカの弟になるシュレーダーのことで、
 もちろんその頃は憎悪の対象だった父親のことは言葉にも出てこない。
 常冬のドイツで雪の中を駆け回って遊ぶ弟の話に彼女は笑顔だった。
 そして最後にアスカは扉のところで振り返ってマリアに一言残していった。

「じゃ、行ってくる。お土産楽しみにね、ママ」 

「お土産は貴女の無事な姿だけでいいわよ」

 立ち去りかけていたアスカの足が止まる。
 
「はんっ、ただ戦いに勝って帰るだけじゃ面白くないわよ。
 何か戦利品を持って帰らないとねっ」

 マリアはその時のアスカの表情をよく覚えている。
 ニンマリ笑ったその顔は物凄く子供っぽく見えたのだが…。
 


 さて、2月14日早朝のアスカである。
 彼女はベッドの中でようやく決意した。
 もう遅い。
 今からプレゼントを用意する余裕はない。
 時間的金銭的余裕はまだまだ充分あるのだが、精神的な余裕はまるでない。
 つまり彼女は考えることを投げたのだ。
 投げてしまって結局決意したのは今年は諦めるということ。
 もちろん想い人を諦めるのではない。
 バレンタインのその日にチョコレートを贈ることをだ。
 延いては告白することをも。
 その動機付けとして告白というものは男の方からすべきだということを導き出した。
 そうだ、こんな大事なことは男のすべきことなのだ。
 何しろ自分はか弱い乙女なのだから。
 そう決め付けると、アスカの心は少し軽くなった。
 そして、もうひとつの問題を片付けることにした。
 彼女はベッドの上に起き直った。
 部屋の中はいささか涼しいが、ドイツの冬に育った彼女にとっては快適ともいえる気温。
 地軸が元に戻りこれから四季が戻っていくとのこと。
 ただこの冬はいきなり元通りの寒さにはならなかった。
 そのことに葛城ミサトや赤木リツコは公私共にほっとしていたのだ。
 何しろ十数年にわたる常夏の生活に慣れた日本国民が
 いきなり厳冬の環境に投げ込まれたならばとんでもない事態になっていただろうから。
 衣食住すべてにわたって暖房のための用意が間に合わないことは目に見えて明白。
 例えば常冬の国であるヨーロッパと緊急貿易をしたとしても日本側の方が割に合わなくなってしまう。
 分厚い衣料と薄い衣料とでは明らかに冬用が分が悪い。
 しかも一刻も早く必要なのだから相手の言いなりになる他ない。
 そんなことにならず、1年の余裕ができた。
 これがネルフの幹部としての公的な不安解消。
 私的にはやはり二人も女性。
 私服が気になるわけだ。
 ネオネルフの職場では薄着で大丈夫なのだが、通勤着や休みの日はそうはいかない。
 元々第3新東京市は山の上であり、冬ともなれば雪の中。
 海抜が低くなっているのでどうなるのか予想もつかないが、
 当然セカンドインパクト前くらいの防寒具は必要とされる。
 そういう意味でその悩みが一年先送りされたことは何よりの歓びだ。
 一年後ならメーカーも冬物衣料も生産し準備できているだろうから。
 それに彼女たちの立派な大人の体格では、
 その当時“A物資”と呼称された冬物衣料を身に纏うことはできなかったのだから。

 “A物資”。
 すなわち、アスカの義母から送られてきた防寒具の山。
 もっとも山と言ってもそれはリビングの真ん中で70〜80cmほどの高さに過ぎなかったが。
 中学生以下の児童には政府から衣料が支給されていたが、
 それは一着だけのことだったのでこの小さな山は宝の山に相違なかった。
 アスカはドイツで使っていたお気に入りの分厚めのジャンパーと
 マリアが彼女にと見立てたコート、それに特注の一品の3着だけを予め分けておき、
 残りを友人たちに分配したのである。
 レイやヒカリには優先的に、女物ではあるがそうは見えそうもないものをシンジたちが。
 その後で同じクラスの女の子たちにも。
 ヒカリなどは周りに悪いと言いながらも、
 「横流しじゃないんだから気にすることない」と平然としているレイに勇気付けられて服を選んだ。
 当のレイはこれまで私服を自分で選んだことがなかったため、
 急遽ファッションショーという瞑目の男子禁制着せ替えショーが開催され、
 白いコートと空色のジャンパーの2枚がレイに与えられることになった。
 その時の淡い微笑を見て、アスカはつくづく思ったものだ。
 コイツったらけっこういい友達になれるかも、と。
 何しろ恋する男の親族なのだから、という身贔屓はぐっと飲み込んで。
 クラスメートたち以外にその物資を受け取ることのできた幸運な女性は伊吹マヤだけ。
 たまたまその日に旅行の土産物を届けに来ておこぼれにあずかったのだ。
 結果としてリツコたちに白い目で見られることにはなったが、
 この時ばかりは160cm台だった自分の体格を喜んだのである。
 少しばかり胸が窮屈だったが少し肌寒い朝にはそのジャンパーの存在が本当に嬉しかった。
 その“A物資”の中の一着。
 そう。例のアスカが事前に取り分けておいた特注品である。
 大方の予想通り、それはシンジ用のものに相違なかった。
 少しばかり脱線するが、その時の様子を見てみよう。

 その日は分配がすっかり終わった翌日。
 アスカは何とかその日まで我慢した。
 本当は届いたその日に渡したかったのだが、彼女としては全力で自制心を発揮しここまで引き伸ばすことに何とか成功したのだ。
 何故なら少しばかり遠慮がちな同居人のことだ。
 友人たちに気兼ねしてすんなり受け取らない可能性が高い。
 幸いにもサードインパクトで互いの心のうちをいささかなりとも覗き見た間柄だけに、
 そういった部分はわかってしまうのである。
 その心の補完についてはしばらく後で詳しく触れたい。
 ここではアスカが物凄い自制心で耐えに耐えたということだけ記憶していただきたい。
 もっともその間、シンジがアスカのいらいらした態度に悩まされたということは付け加えておこう。
 アスカは実にさりげなくシンジにジャンパーを突き出した。
 いや、さりげなくしたつもりで、結果的にはシンジの胸を突いて彼をよたよたと後ずさりさせたのだったが。
 
「これ、あまってたから。仕方がないから。しかも男物だから。
 近くにアンタしかいないから。置いていてももったいないから。ママに悪いから…」
 
 エトセトラエトセトラ。
 20個くらいは“から”を羅列してシンジに受け取らせた。
 彼の「ありがとう」と笑顔を受けて、彼女はことさらに顎を突き出しのしのしと自分の部屋に戻った。
 その夜、幸福感でいっぱいで明け方まで眠れなかったのは言うまでもない。
 さらに昼前まで眠り、「休みだからってだらだらしないでよ」という彼の小言にも内心笑顔で応対した。
 見かけは「うっさいわね、放っておいてよっ」としかめっ面だったが。

 当然の如く、マリアへの手紙には感謝と歓喜に満ち溢れていた。
 ただ、分厚いジャンパーを着るほど寒い日はこの年の日本には訪れず、
 彼女とお揃いになるはずのジャンパーで出かける機会は一日もなかった。
 「偶然よね。一緒のジャンパーじゃない。ま、仕方ないから許してあげるわ」等の台詞も用意されていたのだが、
 アスカは涙を飲んで来年の冬に賭けることにしたのである。

 さてさて随分と脱線してしまったが、問題はバレンタインデーだ。
 仕掛けが遅すぎてチョコレートを準備することができなかった。
 最初はヒカリの事を恨んだがそれは逆恨みだということは百も承知している。
 それに逆恨みは教えてくれるのが遅かったということではなく、
 鈴原トウジに手作りチョコを渡すのだというその恥じらいいっぱいの笑顔に嫉妬しただけ。
 自分にできそうもないから。
 羨ましさから来る逆恨み。
 もっともだからといって意地悪をしたり嫌味を言うわけではない。
 あくまでその逆恨みはすべて自分に返しているのだ。
 つまり、自己嫌悪。
 アスカは自分で自分が不思議だったのだ。
 あんなに何事についても自信満々だったのに。
 いや、自信のないことでも虚勢を張ることで周囲に弱みを見せてこなかったのだ。
 それが今は不安で一杯。
 していることは以前となんら変わっていないというのに、心の中はおどおどはらはら。
 想いを寄せている同居人に嫌われるのではないか。
 もしチョコレートを贈ったとしても「義理だよね」と言われそうだし、
 仮に大きく本命と書いたカードを添えたとしても「また冗談なんか…」とあっさり言われてしまいそうだ。
 そしてもし彼女の意図が伝わったとして「ごめん」という一言が返ってきたりなどしたら…。
 間違いなく、そこで精神崩壊が始まるだろう。
 もしかしたら、少年の喉を掻っ切って返す刃で己の喉も。
 妄想で済みそうもない気がするから自分で怖い。
 ともあれ、現時点では彼女に自信はまったくない。
 未だに同居を続けているのは家事ができない…と思わせている…彼女を一人で放り出せないからに違いない。
 アスカはそう断定していた。
 もちろん、都合のいい方の解釈もするのだがその度に全力で否定しているのである。
 断られることを考えれば、絶対に告白などできない。
 だから、バレンタインデーのイベントには参加を見送る。
 それがアスカの結論。

 だが、問題はもう一つあった。
 シンジが他の女からチョコレートを貰うのではないかということだ。
 この惣流・アスカ・ラングレーが惚れるのだから他の女だって彼にのぼせ上がるに違いない。
 ヒカリのような例外はほんの少数だと彼女は認識していた。
 それにもし可愛い子から「本命よ」とチョコを受け取って、シンジがその気になってしまったらどうする?
 いや、あの優柔不断な性格から断ることができなくてずるずる…。
 十分考えられる。

 午前5時48分。
 アスカは立ち上がった。



「アタシ、病気だから休むわよ」

 その1時間13分後、アスカは胸を張ってそう宣言した。

「へ?」

 弁当の準備をしようとしていたシンジは首をかしげた。
 どこをどう見ても元気そのものだ。
 それに何をしてきたのか知らないが、6時前に家を飛び出してつい今しがた帰宅してきたところではないか。

「ど、どこが悪いの?」

「気分が悪い」

 嘘ではない。
 バレンタインデーの贈り物を準備できなくて気分がいいはずがないではないか。

「か、ぜ…?」

「知らないっ。あ、まあ、その風邪でいいわ。とにかくアタシは休むのっ」

 仁王立ちする彼女は元気そのもの。
 だが、こういう場合アスカに逆らわない方がいいという事はシンジも重々承知している。

「う、うん。わかったよ。じゃ学校に行ったら先生に言っておくから…」

「はんっ、アンタも休むのよ」

「ええっ」

 目を丸くするシンジに彼女はお願いをした。
 さて、ここで使った“お願い”というのは彼女の心の声というわけで、
 実際にはこう怒鳴っただけだったのだが。

「うっさいわね!つべこべ言わずにアンタはアタシの看病をしてればいいのよ。
 あ、それとも何?ふふん、アンタ、義理チョコ欲しさに学校へ行きたいわけぇ?」

 お願いだから今日は私のためにここに一緒にいてください。
 学校へなど行って他の女の子からチョコレートなんて貰わないで欲しいの。

 アスカ語訳は今のところ彼女自身しかできない。
 もちろん、碇シンジは直訳した。

「えっ、じゃ僕は仮病を使うの?」

「あったりまえじゃない。あ、そもそも同居人が風邪なんだから、同じ風邪でも自然じゃない?」

「でも、ミサトさんなんて風邪は全然感染らなかったよ」

「馬鹿は風邪ひかないのよ」

 ちなみにシンジは時々風邪をひくが、惣流・アスカ・ラングレーは健康そのものである。
 本当は“ミサト”ではなく目の前の同居人を引き合いに出したかったが、そんなことをすると何が返ってくるかわからない。
 それくらいの知恵はさすがのシンジにもついてきているのだ。
 おそらくはアスカの病欠という知らせを聞いて教室では『鬼の霍乱』などと囁かれていることだろう。

「欠席届はヒカリに頼んだからアンタは何もしなくていいわ。あ、朝食お願い」
 
「困ったなぁ」

 何もするなということとアスカの世話をするということは相反することではないらしい。
 少年は存外そういう表情は浮かべずに言葉だけは不服と困惑を表明していた。
 もちろん、アスカにそんな彼の意識など読めるわけもなく、
 いつものように我侭にしか見えない要求を続けざまに送り出すことになる。

 ハムエッグが食べたい。
 喉が渇いた。
 布団をリビングに持って来い、リビングで寝るから。
 テレビは消して音楽にしろ。
 CDはもういいから、生演奏に替えろ。
 エトセトラ、エトセトラ。

 少年がトイレに立った隙に、
 ドアのロックとインターホンと電話線の切断、それに携帯電話のバッテリー抜き。
 
 碇シンジ隔離計画。
 早朝の中学校に侵入し、教室のシンジの机と下足箱には『義理に限らずチョコお断り』という張り紙をしておいた。
 できるだけ丁寧に書いたからアスカの筆跡だとは誰も思うまい。
 アスカは思い出し笑いをした。
 もっとも筆跡は判然としないがその張り紙からは惣流・アスカ・ラングレーのオーラが湧き上がっている。
 どこをどう見てもアスカの仕業だということは歴然としている。
 張り紙を見たすべての人間が彼女の報復を恐れ義理チョコを鞄に戻したのは言うまでもない。
 本命チョコの女の子達もいるにはいたのだが、やはり何をしでかすかわからないアスカは怖い。
 それにどう見ても意中のシンジはアスカに夢中だ。
 その時点であきらめたのだから彼女達の思いもたかが知れていたということだろう。


 午後2時。
 アスカはじっと天井を見ていた。
 
「病気なんだから寝ないとダメだ」

 珍しくぴしりと言われ、彼女は思いのほか従順にシンジの言う事を聞いた。
 だが、そこのソファーでアンタも昼寝しなさいよと条件を出したのは流石にアスカ。
 しかも疲れていたのかシンジはすぐに眠ってしまったのだ。

 アスカはそんなシンジを起こそうとは思わない。
 愛する人が眠っている、そのすぐ近くにいるというのは実に幸福なものだ。
 彼女は微笑を浮かべ、そして天井を見つめた。

 その時、彼女が考えていたのはサードインパクトのこと。
 
 その昔、思い出したくもない、その昔。
 精神崩壊中のアスカは病室にシンジのおかずにされた。
 おかずになるほどの女としての魅力を少年が抱いたというわけだ。
 サードインパクトの最中、混濁し混ざり合う記憶の中でアスカはそのことを知った。
 彼女も亡くした母への想いや生い立ち、コンプレックスなどを知られてしまっているはずだ。
 ところが不思議なのである。
 記憶を共有したのはすべての人間ではなかった。
 つまり人類は完璧に補完されたわけではなかったのだ。
 周囲の人間もそう証言している。
 親子兄弟。そういった近い間柄の人間しか記憶は共有されなかったのだ。
 身体は一旦原子の海に溶け、物質的には混ざり合ったはずなのに。
 そこでアスカは誤解した。
 シンジは自分を兄弟のように思っているのだろう、と。
 その誤解はやがて信念に変わり、恋情の深まりとともに悔恨の坩堝へと己を追いやっていたのだ。
 何を後悔しているのかというと何故早く自分の気持ちに気付かなかったのかということだった。
 そうすれば今こんな苦労をしなくて済んだのに。
 それは記憶の共有、すなわちサードインパクトの折にシンジに加えて親近者二人の感情を知った経験に根付いている。

 アスカはあの時、遥かドイツの地にいた父親と義母の心にも触れた。
 いや、当時の彼女の感情からすれば触れてしまったと言っても差し支えなかろう。
 特に父親は忌避すべき存在だった。
 母親の死後、別の女とすぐに再婚した節操のない男。
 それを引け目に思っているのか何度も自分とコンタクトをとろうとしてきた男。
 絶対に顔を合わそうとしない、言葉すら交わそうとしない娘のことを忘れたのか何年も知らぬ顔をしている男。
 それが誤解だったということはサードインパクトの時にわかったのである。
 彼の心の中は娘への愛に溢れていた。
 使徒との戦いに命を賭けているまだ14歳に過ぎない娘のことを彼は心配し、
 毎日彼女の無事を祈っていた。
 そして亡き妻にも。
 娘のことを守ってくれるようにと。
 もちろん、彼は惣流キョウコがエヴァンゲリオン弐号機のコアになっているなどまるで知らず、
 その祈りはただ我が子を思う父の単純なこころの流れに過ぎなかったのだが。
 そして父の思いを知った今、アスカの心には憎悪の欠片もない。
 ただ残っているのはわだかまり。
 憎悪はなくとも、逡巡はある。
 会話によって誤解が解けたわけではないのだ。
 急に「パパ」と呼びかけることができるわけがない。
 特にアスカのような片意地な娘にとっては。
 
 次にマリア。
 義母である彼女が心からアスカのことを愛してくれていることは心が通い合った時によくわかった。
 偽善ではなかったのである。
 そのことを彼女は素直に喜んだ。
 そしてその喜びもまたマリアに届いた。
 やがて二人の文通が始まった。
 電話でもメールでもなく、アナクロな手紙のやりとり。
 アスカはその手紙の数々を大切に保管している。
 ある時、マリアが書いてきた。

 ねえ、あの人に読ませていい?

 ダメよ、ダメダメ。絶対にダメ。

 じゃ、問題のないところを読んで聞かせるのは?

 う〜ん、恥ずかしいけど、ママに任せるわ。

 この間、実に一ヵ月半。
 電話でならすぐに結論が出るのに、海を渡り山を越えての気の長いやりとりだ。
 実はその間にも電話で何度か喋っていたのだが、
 その時には話題にすら上っていない。
 後で気がついてアスカは思い出し笑いをしたものだ。
 
 あ…。

 この期に及んでアスカは思いついた。
 そうだ、何も日本式のバレンタインデーに拘ることはないじゃないか、と。
 好きな人に手紙を贈る。
 それでいいじゃないか。

 アスカはそっと起き直った。
 ソファーで横になっている愛しの彼の目を覚まさないように。



 1時間と少しあと。
 シンジが目覚めた時、胸の上に封筒が置いてあった。
 彼とてもバレンタインデーを心待ちに待っていた一人。
 封筒の中にチョコレートが入っているのではと胸が躍る。
 逸る心を一生懸命に落ち着かせた。
 シンジにとってもアスカと気持は同じだった。
 サードインパクトの時に触れた彼女の心の中には彼の居場所は殆どなく、
 そのことがあるだけにアスカに告白などとんでもないという気持である。
 二人とも失うものの大きさを考えて臆病になっているわけだ。
 トウジやケンスケたちには絶対大丈夫だと呆れられているほどだが、
 彼には一歩踏み出す勇気はない。
 もしかするとアスカの方から歩み寄ってくれたのか。
 いや、義理チョコでもいい。
 なんでもいいからアスカからのチョコレートが欲しい。

 彼は封を開けた。

 ようやく目を覚ましたわね。おはよう!
 気持よさそうだったけど、間抜けな顔して昼寝してんじゃないわよ。
 スパゲティもいいけど、晩御飯はカレーがいいな。

 たった3行だけしかない。
 シンジは便箋の裏もひっくり返してみてみたが真っ白な白紙。
 封筒の中にも何もない。
 シンジは呆気に取られた顔で何度も読み返す。
 でもそこからは何も読み取れはしない。
 彼は大きな溜息を吐くと苦笑した。

「カレーか。お肉あったっけ」

 あるに決まっている。
 冷蔵庫の中を確認して書いたのだから。
 今日はシンジを隔離することが最大の目的なのだ。
 アスカはこっそりと部屋からシンジの様子を覗き見ていたが、
 彼が台所に向って姿を消したのを確認し、彼女もまた溜息を吐いた。
 一生懸命に考えたのだがやはりシンジは気がつかなかったようだ。
 逆さ縦読み。
 策を弄しすぎたわけだが、今のアスカが自分の意思表示を明らかにできるのはそれが関の山。
 それでも彼女は満足だった。
 バレンタインデーに最愛の人に手紙を渡し、“スキヨ”と自分の想いを届けたのだから。









 最初は喜びを素直に書いてあった。
 だが、その筆はやがて自己嫌悪に向かいいつものように愚痴と後悔と落胆が書き連ねられることになる。
 マリアは笑ってしまった。
 娘には悪いと思ってもつい笑ってしまう。
 微笑ましくて仕方がないのだ。
 彼女の目から見るとどう見ても娘アスカとその想い人は相思相愛に違いない。
 アスカへの手紙にはいつもそう太鼓判を押して励ましているのだが、
 自信のない娘は励ましの言葉だけをありがたく頂戴している始末。
 まだもう少し時間がかかりそうね。
 マリアは頭の中で返信の文章の断片を考え始めた。

「お、おい。あの子は何と書いてきたんだ」

 お預けを食った犬の如く、ハインツはマリアの前で立ち尽くしている。
 マリアは夫を見上げた。

「いつもと一緒よ。彼のことが好きで好きでたまらないって」

「畜生」

「あ、それいただくわ。アスカが読んだらどう思うでしょうね。
 愛するシンジ君のことを話すとハインツは汚い言葉を吐き捨てます」

「おお、ダーリン。お願いだからそんなことは書かないでおくれ。あの子に嫌われてしまう」

「あら、そうかしら。その方が父親らしいんじゃないかしらね」

 妻の一言にうっと黙ってしまうハインツ。
 確かにそんな気はする。
 でも、もう10年近く言葉を交わしてない娘に嫌われる。
 そんな危惧の方が彼にとっては大きい。

「うぅむ、いや、やはり書かんでくれ」

「そう。わかったわ」

「ありがとう、ダーリン」

 わかっただけで書かないとは言ってないわ。
 マリアはほっとした顔の主人を見つめる。
 こういうやりとりをしたということを詳しく書こう。
 それを読めば少しでもハインツのことが身近に感じられるに違いない。
 
「それよりも、他のことは?わ、私のことなどは書いてないだろうね」

 「Nichts」と短く答えるとハインツはいつものように天井を仰ぐ。

「おお、またか。いつになれば許してくれるんだろう。あの子は」

 これもお決まりの台詞。
 そしてこれもいつもと同様にマリアは心底からの言葉を口にする。

「あの子と言わずにアスカとおっしゃい」

「ううむ、しかしだな。そんなに馴れ馴れしくすると嫌われるのではないかと…」

 アスカは前妻キョウコに似ている。
 そうマリアは聞いてきた。
 だが、この父と娘の愛する者への臆病さは遺伝ではないか?
 アスカとの文通を始めてからそんな気がしてたまらない。

「親子でしょう。馴れ馴れしいも何もあったものじゃないわ」

「しかし、お前」

「ああ、ミルクの時間。お願いできる?」

 「Natuerlich」とハインツは籠の中の次男の頬を指で突付きキッチンへ歩いていった。
 マリアは微笑みを浮かべたまま、再びアスカの手紙を読み返す。
 彼女の手紙はいつも最後が面白い。
 散々、自己嫌悪や後悔を繰り返した挙句、最後には復活しているからだ。
 もちろん、そんな単純なものではないだろう。
 おそらく遠くドイツの地にいる家族に心配をかけまいという心がそうしてるのだ。
 そして、もうひとつ大きな理由がある。
 自分を奮い立たせるため。
 根が真面目なのだから、宣言すればやり遂げねばならぬ。
 自分を追い込むためにそう結ぶのだ。



『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』



 もう…。
 あの化け物との戦いは本当の戦いじゃなかったって言うの?
 まあ、わかるけどね。
 女にとれば本当の戦いに違いないわ。
 がんばってね、アスカ。
 それと最後のはもうしばらく後にしましょう。
 ハインツに教えてあげるのは。
 今聞かせたら、きっと舞い上がっちゃってミルクをカールの喉に詰まらせちゃうわ。
 キッチンから聞こえる夫のへたくそな鼻歌を聞きながら、マリアは籠の中のカール・ラングレーに微笑みかけた。



『PS.春物や夏物の服を送ります。そっちじゃ高いでしょう?みんなのサイズを教えてください。家族4人全員の』

 






(2) 2016年3月



『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』





「あらら、アスカもやるわね」

「な、なんだ。何をした?」

「ふふ、可愛いわよ。教えてあげるわ」

「ああ、頼む。聞かせてくれ」

 マリア・マグダレーネ・ラングレーは夫に微笑みかけた。
 ハインツ・ラングレーはすやすやと眠る次男を胸に抱き、妻の言葉を待つ。

「いい?その日、二人は買い物に行ったの……」





「アンタ、何にするか考えて来た?」

「えっ、アスカが選んでくれるんじゃ…」

 アスカの予想通りの反応だった。
 駅前までやって来て、一番大きなショッピングセンターの玄関に立った時だった。
 シンジが隣に立つアスカの顔を見た瞬間に彼女がずばりと訊いて来たのである。

「何言ってんのよ。アンタがもらったんでしょうが」

「えっ、別に欲しくなかったよ、僕は」

 この答えは予期していなかった。
 不意打ちだった。
 表情に困った。
 
 そこでアスカはいつもの手に出ることにしたのである。
 そっぽを向いて知らぬ顔。
 頬を染めた上に歓んでいる顔など見せられたものではない。
 それでも頭の中ではシンジの言葉がリピート再生され続けている。

「ねぇ、お願いだよ。手伝ってよ。そのために来てくれたんでしょ」

「はっ、誰がっ。アタシは欲しい本があって、暇だし、ケーキ驕ってくれるって話だし。
 ま、どうしてもって言うなら、見てあげるくらいしてあげてもいいわよ。
 ど〜せ、アンタのセンスじゃどうしようもないもの選ぶんだろうしねぇ〜」

 憎まれ口も極まれり。
 シンジから顔を背けてフロアマップを見ている振りをしながらそんなことを嘯く。
 扉のところに立っていた案内嬢が顔をしかめている。
 そしてそんな言葉に笑顔で「助かるよ」と返事する少年の方にも呆れた視線を送っていた。

 アスカはシンジの顔を見ることができないままにずんずんと足を進めていった。
 シンジからのホワイトデーのお返しは何にするか。
 そんなものはもう決めている。
 何しろ2月15日から考えていたのだから。
 基本は消えモノ。
 当たり前である。
 贈られるのはこの自分にではない。
 別の、オ・ン・ナなのだ。
 もっとも彼女たちはアスカが絶対安全圏にいると認定しているからまず一安心。
 だが、焼棒杭に火が点いてはたまらない。
 何と言ってもこの惣流・アスカ・ラングレーが地球上の男どもの中から唯一無二の男として選出したシンジである。
 少し甘い言葉や態度を見せたことで彼女たちがふらふらすることは充分考えられる。
 
 現在、妊娠中の葛城夫人…加持が何故婿養子になったのかは誰にもわからないことだった…彼女だって、シンジにファースト“大人の”キスを仕掛けたのだ。
 そのことを知った時にアスカはつくづく思ったものだ。
 あんな形ではあったが、シンジの唇をあの時点で奪っておいてよかった。
 ともあれ、あれが彼のファーストキスになるのだから。
 
 現在、婚約中の伊吹マヤ…2ヵ月後の青葉夫人もそうだ。
 何がいいのかまったくわからないが、あんなロン毛で変な歌ばかり唄っている男よりもシンジの方が100倍以上魅力たっぷりではないか。
 それに気がついたらどうなる。
 そう考えるとアスカは背筋が震えた。

 現在、妊娠計画中と噂される碇夫人…この呼称方法はアスカは即行で変更した。
 ヒゲグラサン夫人…にしようと思ったのだが、アスカの遠大な計画通りにことが進むと、
 何とこの女性はアスカの義理の母になるではないか。
 ということは、ヒゲグラサンは義理の父。
 ぶるるるる。
 その時、アスカはまだ和解しきれていない父ハインツの容姿を思い出した。
 素晴らしい。世界に冠たるドイツ男性。
 しかし仕方がない。ヒゲグラサンはシンジの父親なのだ。
 彼女は時々夜中にイメージトレーニングに勤しんでいる。
 ヒゲグラサンを思い描いて、彼に語りかけるのだ。
 ようやく最近になって「お父様」と詰まらずに言えるようになってきた。
 10回に一度くらいは。
 このトレーニングは確実に続けられなくてはならない。
 素晴らしく、輝ける未来のために。
 そして、彼をお父様と呼ぶからには、金髪黒眉毛のあの女性はお母様。
 正直、勘弁して欲しいとアスカは思った。
 もっとも呼ばれる方もそうだろう。
 シンジにも“リツコさん”と言わせているのだから。
 ただ、それが曲者である。
 もしかすると、彼女もシンジを狙っているのではなかろうか。
 だからこそそういう呼び名で通しているのではないか。
 妄想は広がり、そしてどんどん曲がっていくばかりである。

 さて、大問題の女が残っている。
 綾波レイ。
 自分から絆だからと身を退いた女。
 アスカは彼女の言う事を100%信用していた。
 戸籍上はともかく遺伝子上は明らかにシンジの肉親。
 アスカは目撃していないが、シンジとミサトは魂の入っていないレイのいれものたちの姿をしっかりと見ている。
 そのことについてシンジはたったの一言だけアスカに話していた。

「綾波は母さんと同じだったんだ。うまく言えないけど」

 確かにまったく説明し切れていない発言だった。
 だが、アスカにはそれで充分だったのである。
 しかし彼女はそれに念を押した。
 ことシンジのことになると彼女は石橋を叩きまくって壊してしまうほどなのだ。

「へぇ、そ〜なんだ。
 まっ、マザコンの馬鹿シンジにとっては嬉しいってことよね。
 ファーストは胸もおっきいしさ」

 アスカはつくづくあの精神崩壊を後悔していた。
 何よりもその時に肉体が痩せ衰えてしまったから。
 悔しいことに健康な時でさえ、レイの方が数センチ胸が大きいと彼女は踏んでいた。
 それがあの入院やサードインパクトのおかげで全盛時よりも1センチ5ミリ、
 実は1センチ8ミリが正しいのだが、バストサイズが縮んでいたのである。
 これにはアスカも慌てた。
 大いに慌ててしまった。
 そして、暴飲暴食、いつもの牛乳パックも1リットルに増やしたのである。
 その結果、肝心のバストが増えずにウェストとヒップの数値がアップした。
 この時のことはマリアへの手紙に詳しく記述されている。
 見たこともないアスカの部屋がマリアに見えるくらいそのイメージが伝わってきたのである。

 湯上りのアスカは牛乳を飲むのが日課である。
 それはコンフォートに住むようになってからかかさず行われてきた。
 ただし、あの頃のようにバスタオルを巻いただけの姿ではない。
 ちゃんとパジャマに着替えていた。
 これはいかなる心境の変化だろうか。
 アスカはマリアへの手紙でこう書いている。
 恥ずかしくなった、と。
 使徒と戦っている時はシンジのことを意識していなかったからああいうことができた。
 挑発するようにバスタオル一枚でシンジの目の前を歩いた。
 今、もしそんなことをすれば足をもつれさせてすってんころりんとこけてしまうだろう。
 さすがに好きだということを意識してしまうと大胆なことができなくなってしまった。
 そんなアスカにマリアは返事をしている。
 男を誘うような娘じゃなくてよかった、と。
 そしてアドバイスもきちんと付け加えた。
 肉体の魅力で深い関係ができたとしてもそれはいつ破綻するかわからない。
 しっかりと心と心で結ばれてから、好きなようにしなさい。
 赤ちゃんはまだ早いけどね、と最後に付け加えられてアスカがどんなに真っ赤になったことか。
 当たり前!ママって酷い!と手紙に書いて、アスカは少し胸を撫で下ろした。
 もしマリアに相談していなければ、切羽詰ってシンジを誘惑していた可能性も否定できない。
 それが彼女に手紙を書いたという事で一種の防波堤の役目ができた。
 確かにマリアの言うことが正しいだろう。
 アスカはシンジのすべてが欲しいのだ。
 身体だけでなく、こころもすべてを。
 さて、上記のような理由からアスカはパジャマを着用している。
 その姿に変わってはいても牛乳を飲むポーズなどはまったく同じであった。
 冷蔵庫から紙パックの牛乳を出してコップに注がずに直接喉に流し込む。
 シンジに行儀が悪いと注意されても知らぬ顔なのも変わらない。
 彼のことが好きだと意識するようになっても180度性格が変わるわけがないのだ。
 寧ろ余計に彼のあきれたような顔を見るのが楽しかったりもする。
 彼女は腰に手をやり紙パックに口をつける。
 角度をつけてぐびぐびっと飲んでいく。
 途中でシンジの様子を窺うことも忘れない。
 もしこっちを見ていたら不敵な視線を返す。
 すると彼は慌てて目線を他に逸らすのだ。
 そして、彼女は一気に500ccの牛乳を体内に取得するのである。
 さてさて、その500ccが倍の1リットルになった。
 バストアップのためならと、アスカは一生懸命に飲んだ。
 だが、量が増えたというのに飲み方を替えようとはしない。
 アスカは基本的に大いに意固地なのだ。
 500ccまではいつものことでまったく問題はない。
 だが、600ccを超えたあたりから肉体から不満の声が上がり始める。
 それを叱咤激励し、アスカは涼しい顔で飲み続ける。
 休憩すればいいものをいつものように一気に飲もうとするのだ。
 当然、本人は涼しい顔をしているつもりなのだが、まわりから…つまりシンジから見ると何とも苦しげに見える。
 何度も彼は「ゆっくりと飲めばいいのに」と声をかけるのだが、その都度アスカは睨みつけ、飲み終わった後に悪罵を放ってしまう。

「途中でやめろって?うっさいわね、アタシはそんな軟弱者じゃないのよ!
 ははぁ〜ん、さては残した牛乳を飲もうってわけぇ?
 間接キスがしたいんでしょっ。ま、仕方ないとは思うけどさ。何しろこのアタシと間接キスなんだからねっ」

 一度、彼女は彼の言うとおりに途中でやめて牛乳を冷蔵庫に戻したことがあった。
 そしてわざと外出したのだ。
 そして内心ワクワクしながら帰宅し、こっそりとチェックした。
 紙パックが持ち上げられると仕掛けていた髪の毛が外れているはず。
 しかし、その髪の毛はしっかりとついたまま。
 アスカは小さな声で「意気地なし」と彼を罵り、そしてまた次の日からムキになって1リットル一気飲みを敢行するようになったのである。

 ここでアスカの知らない重要なことをこっそりとお教えしよう。
 問題のシンジ君がアスカ嬢のことを猛烈に好きだということは、賢明なる読者諸君はよく承知されていることと思う。
 彼はこれまで何度もアスカと間接キスをしてきている。
 いや、アスカに間接キスをさせていたのだ。
 何しろこの家の家事担当は彼。
 アスカが毎日飲んでいる牛乳を購入してくるのは彼の役目なのだ。
 彼は彼女がお風呂に入っている間に冷蔵庫から新品の牛乳パックを取り出す。
 そして、まず念入りにアスカが口をつけるあたりを清潔なハンカチでごしごしと何度も拭く。
 その部分に誰かの…特に男の指が触れているかもしれない。
 一度そんなことを考えてしまうともういけない。
 アスカほど表面には出ないがシンジもまた独占欲の強さは尋常ではないのである。
 しかも表に出さないだけにその暗い情熱は相当なものだ。
 実父のゲンドウを見ればよくわかっていただけると思う。
 シンジは彼の遺伝子を強く受け継いでいるのだ。
 そして、碇ユイの愛する人への盲目的な愛情を注ぐという遺伝子も。
 すなわち、アスカ以外の女には目もくれない。
 そこで彼が何をしたかというと、牛乳パックの口の部分にそっと口づけたのだ。
 満足げな表情でその部分を眺めると、慌てて耳を澄ます。
 お風呂場から微かに水の音。
 安堵の溜息を吐いて、彼は急いで逆サイドにも口づける。
 これで完璧だ。
 どちらサイドを開けても間違いなくアスカはシンジと間接キスをすることになる。
 おお、見よ。
 シンジの邪悪な微笑を。
 しかしそれはゲンドウというよりも最近学校で有名なレイの微笑みにどちらかというと似ている。
 ということはすなわち母譲りというわけ。
 しかし碇シンジという少年の奥は深い。
 その夜、湯上りのアスカが紙パックに直接桃色の唇をつけてぐびぐびと牛乳を飲んでいるその姿を
 彼は表情も変えずにじっと見ているのだ。
 ただ唇が触れた瞬間、瞳が少しだけ輝いたのみで。

「はっ、何見てんのよ!アンタになんかあげないわよっ。
 ああ、わかった。間接キスを狙ってんでしょ!まったく、懲りないヤツね。はんっ」

 飲み終えたアスカがいつもの悪態。
 その悪罵にもシンジは曖昧模糊な笑みで応えるだけ。
 彼としてはアスカに間接キスをさせているのだから満足といえば満足なのだ。
 もちろん、生のアスカの唇とキスしたいことだけは確かだが。

 さて、こういうダークなシンジの部分は生憎アスカが感ずいていないので、
 当然ドイツにも知れ渡ってはいない。
 もし、そんなことがハインツに伝えられれば、シンジは地獄を垣間見ることになったかもしれない。
 もっともそんなことになれば、アスカは父親と和解などまったくできなくなってしまうので、
 ここはアスカ視点の意気地なしシンジということで話を進めようと思う。

 

 
 また、つい10日ほど前のことだ。
 レイが遊びに来た。
 彼女の住んでいた廃墟のような団地は使徒戦により本当に廃墟になってしまっていたので、
 綾波レイは今は碇家に住んでいる。
 当然、その碇家というのはシンジとアスカのいる場所ではなく、
 ゲンドウとリツコの夫婦が新婚生活を送っている新居である。
 新居は新築でそれなりに広い。
 いや、敷地自体がかなり広い。
 庭も広いが、住居の左右にそれぞれ更地があった。
 アスカはミサトとリツコが話しているのを聞いたことがある。

「ねぇ、あれって、2世帯住居用?」

「そうみたいよ」

「あらン、一家の奥様が知らないのぉ?」

 からかうミサトを氷のような視線で射すくめるリツコ。
 当然わかっていて知らぬ振りをしているわけだ。

「へっへ、そういう顔をするって事は未来のベイビー用じゃなくて、
 シンちゃんとレイのためってことね」

 そう言いながら、ミサトは3mほど向こうで耳をダンボにしているアスカの方に笑いかけた。
 
「だって、アスカ。わかったぁ?」

「はんっ」

 条件反射でそっぽを向いてしまったアスカだったが、これでは聞いてましたと白状しているようなものだ。
 そんなアスカに若奥様ならぬ新婚奥様二人が顔を見合わせて微笑みあう。
 リツコはいささか不満なようだが、ゲンドウはシンジとレイがそれぞれ持つ家庭を将来一緒に住まわせたいようだ。
 そんな情報をアスカは早速ドイツの義母に書き記したのである。
 
 国土が狭いのはわかるがやたらと親子で住みたがるのはどうかと思う。
 でも、もし自分に子供ができたら一緒に住みたいと思うのかもしれない。
 ママは私と住みたい?


 私もハインツも大歓迎よ。
 でも、あなたの夫になる人がいやがるんじゃないかしら?


 ママのいじわる。
 夫になってくれなかったらどうしたらいいのよ。

 大丈夫。彼は絶対にアスカと夫婦になるわ。

 ありがとう、ママ。

 などというやりとりが日本とドイツの間で交わされていたのだが、これはここの部分では余談。
 何故ならここではレイのことを語らねばならないからだ。
 綾波レイ。
 実は現在、その名前は芸名と化しているのだ。
 彼女の本名は碇レイ。
 この度、ゲンドウとリツコの婚姻を機に二人の養子となったわけだ。
 だから彼女の正式な名前は碇レイとなる。
 だが、学校では彼女は元の通りに綾波レイで通しているのだ。
 その理由とは何か。

「はは、でも名前で急に呼びにくいなぁ。ずっと綾波って言ってきたから」

「じゃ、これからもそうしなさいよ。うん、それがいいわ。その方が慣れてるんだし」

 横から口を出したのはアスカだった。
 彼女の意図は明らかだ。
 たとえ妹(らしき)であっても、シンジに名前で呼ばせたくない。
 しかもミサトやリツコと違って“さん”付けではなく、“レイ”と呼び捨てになるのだから。
 シンジが呼び捨てにする女性はこの世界中で自分ひとりだけがいい。
 
「ねっ、アンタもいつもの『いかりくん』の方がいいでしょうがっ」

 普通の人間ならあとずさってしまいそうな勢いでアスカがレイに迫る。
 ただし、レイは普通の人間ではない。
 そんな勢いで目の前に燃える青い瞳が迫っているのに、ただじっと考え込んでいる。
 
「お兄ちゃんがいいかも」

 ぼそりと言うレイにアスカは慌てた。
 シンジに妹属性などあるのかどうかまったくわからないが、もしあったなら拙い。
 拙すぎる。
 人間はアダムとイヴの昔から“禁断の”というフレーズに弱いのだ。
 
「それはダメ。だってシンジは綾波ってアンタのことを呼ぶのよ」

 アスカはその呼び名を規定事実として植えつけた。
 さすがに巧妙なテクニックを弄している。
 事実、素直なシンジはこの時点で“綾波”継続を受け入れていたのだ。

「それなのに姓の違うアンタが“お兄ちゃん”じゃあ変じゃない」

 その言葉を聞いてレイはぐっと赤い瞳でアスカを睨みつけた。
 何故ならこの呼び方は今思いついたものではなかったのである。
 そう、たっぷり10日は一人で悩み続けたのだ。
 さすがの彼女もシンジを“碇君”と呼ぶのはおかしいと思っていた。
 では、何と呼ぼう?
 そこで考えついたのが“お兄ちゃん”だった。
 事の発端はリツコの一言。
 
「誕生日はシンジ君の方が先になるのね。レイの方がお姉さんに見えるけど」

 彼女がそう笑った時、レイはピンと来た。
 ならば私は妹ではないか。
 ということは碇シンジはお兄さん。
 レイは思いつくばかりにその呼称方法を羅列してみたのである。
 お兄さん、兄上、兄貴、お兄ちゃん、兄様、マイブラザー、えとせとらえとせとら。
 そして選択したのが“お兄ちゃん”だったのである。
 それだけ考えに考えたのだから、アスカのこの横暴な横槍にむっと来るのが当たり前だ。
 そこで彼女はまさに決定的な一打をアスカに打ち返した。
 
「わかった。じゃ、私は碇君と繋がりがなくなるのね。だったら、碇君と結婚することもでき…」

「いいと思うわっ。うん、お兄ちゃんっていいじゃないっ。ねっ、シンジ、アンタもそう思うでしょっ!」

「え、う、うん。ちょっと恥ずかしいけど」

「何言ってんのよっ!こぉ〜んな可愛い妹がいるのに照れてどうすんのよ!この馬鹿シンジがっ」

 妹の部分に思い切りアクセントを置いてアスカは強調した。
 もっとも彼女がそんなに力まなくてもシンジもレイもお互いを恋愛対象とは微塵も思っていない。
 まさに空回りなのだが、最近頓に感情領域が広がってきたレイは密かにそんなアスカを楽しんでいたりする。
 サードインパクトの後、また綾波レイとして生活を始めて以来、
 他人の行動が面白い、可笑しいと感じるようになったのはアスカを見ていてからだ。
 そういう意味ではアスカという感情の起伏が激しく周囲を喧騒に巻き込むキャラクターが身近にいたことは
 レイにとって幸福だったのかもしれない。
 と、リツコが言っていた。
 そのことをレイは素直に受け入れていたのである。
 この時も“お兄ちゃん”という呼び名がアスカに認められ、胸の奥の方がぽかぽかと温かい気分になった。
 そして、思った。
 これが、嬉しい、のね、と。

「じゃ、お兄ちゃん、で、いいのね」

「あったり前じゃない。誰が反対してたのよ」

 こういう時に「そりゃアンタや」などというツッコミを入れるようなシンジとレイではない。
 レイは勝利に微笑み、シンジは苦笑した。
 さて、だが問題はシンジの呼び名ではなく、レイの呼称方法である。
 世界中でただ一人のシンジから呼び捨てにされる栄誉を他の女に渡したくない。
 
「でも、シンジは“綾波”でいいわよねっ」

「え?でも、お兄ちゃんなのに綾波って言うのは変じゃないかなぁ」

 アスカはぶるんぶるんと首を横に振った。
 
「変じゃないっ。全然、変じゃないっ!」

「そうかなぁ」

「変」

「変じゃないわよっ」

 とは言うものの、やっぱり変だ。
 それはアスカもよくわかっている。
 しかしここは何としても何とかしないといけない。
 レイちゃん、レイちょむ、レイっぺ、レイどん、レイりん、レイてぃー……。
 ダメだ、しっくり来ない。
 
「ねぇ、アスカ、それじゃ、名前でいいんじゃないかなぁ。恥ずかしいけど」

 ピンっ!
 発想の転換が素早いのはアスカならではである。
 行き詰ったからあきらめて他の解決策に飛びついたのではない。
 決して、ない。
 彼女の名誉のためにそういうことにしておこう。
 因みにその後のマリアへの手紙に自分の不甲斐なさに涙が出そうだったと本音を漏らしているのは秘密だ。

「恥ずかしがるからいけないのよ!」

「はい?」

「今、急にできた妹じゃなくて、生まれたときからの兄と妹っ。
 い〜い?アンタとレイは兄と妹っ!実の兄と妹っ!わかる?」

「あ、うん、そういうことになるよね」

 アスカの勢いにまたまた素直にシンジは納得。
 もっと深い絆なのだと主張したかったレイだったが、あることに気付き彼女は矛先を収めることにしたのである。

「嬉しい」

「はっ、そうでしょうよっ。これでアンタはシンジの妹に…」

 ううん、違うと首を横に振るレイ。

「レイって呼んでくれたから」

「はぁ?まだ呼んでないじゃない、馬鹿シンジは」

「アスカ」

 少し頬を赤らめてレイは呟いた。

「何よっ」

「ふふ、私も初めて」

「はあ?」

 アスカは眉間に皺を寄せた。
 レイはいったい何を言っているのか。
 このファーストチルドレンで、命令通りに動く人形のような少女は…。
 彼女は少しだけ俯き加減にアスカに薄く微笑む。

「な、何よっ。変な顔してアタシを見るんじゃないわよ、まったく」

「初めて。名前で呼んでくれたのは」

「へ?嘘…」

 アスカは心もち斜めに視線を上げ、これまでのことを思い起こしていた。
 普通は“アンタ”に“ファースト”。
 機嫌の悪い時には“人形女”である。
 さて、名前で呼んだことがあったか。

「あのさ、ホントになかった?」

「ないわ」

「そうだっけ?」

「私もアスカとは言ってなかった」

「ああ、そうだよね、そういえば」

 なるほどと頷くシンジ。
 しかし、アスカは未だに怪訝な表情であった。
 だが、この時のアスカの頬にはレイほどではないが微かに赤みが差している。
 その通り。
 アスカも気がつき、そして照れていたのである。

 本当にびっくりしちゃった。
 よく考えたら、私はあの子に随分酷いことを言ってきたの。
 もし彼女の出生の秘密を知っていたら、とてもじゃないけどそんなこと言えなかったと思う。
 ああ、でもシンジのことを好きだって感じてたら、やっぱり対抗心を燃やして滅茶苦茶言っていたかも。
 レイとはいい友達になれそうな気がする。
 戦友だから、ね。
 それにシンジを争わなくてもよくなったし。


 アスカ、よかったわね。
 でも、いい友達になれるのは、2番目の方の理由なんでしょう?


 随分と脱線してしまった。
 このようなやりとりの末、シンジとアスカは“レイ”と彼女を呼ぶようになったわけだ。
 しかし、学校の方ではいろいろと手続きが面倒なので“綾波レイ”で通すこととなる。
 高校に進学する時に正式に“碇レイ”と改めるそうだ。
 
 さて、問題はレイの呼び名ではない。
 そのレイが遊びに来た時のことである。

 この日はお泊りとのことで、アスカとレイは仲良くお風呂に入っている。
 不思議かもしれないが、そのことでシンジが妄想をたくましくはしていない。
 何故なら彼にとってレイは妹であり、尚且つ恋するアスカについては彼女がお風呂に入るのは毎日のことだから、
 特にレイと一緒に入浴しているからといって取り立てて男性の本能を駆り立てられるものではなかったのだ。
 そう、寧ろ彼は二人が仲がいいことに安心していた。
 心がほんわかと温かかったのである。
 その彼が一瞬で青ざめたのは二人がお風呂から出てきてからであった。

「こら、馬鹿シンジ。アンタ、何か言うことあるでしょうがっ」

「はい?何を?デザート?」

「アンタ、馬鹿ぁ?」

 彼女は顎でレイを指し示した。
 アスカと同様にパジャマを着て、そのショートヘアは水分を含んで重く見える。

「えっと…なんだろ」

「はぁ…、レイ。こいつはこ〜ゆ〜ヤツなのよ。鈍感で気が利かなくて」

 ふふふと微笑みながらも少し残念そうな表情をするレイ。
 隣のアスカは腕組みをして、そして一生懸命に横目でレイを見ている。
 その二人の間をシンジの視線が何度もターンして泳ぐ。
 
「無理よ、コイツにわかるわけないわ」

「ダメなのね、もう」

「ご、ごめん。えっと、レイが使ったシャンプーはアスカのだとか…」

「なんでわかったのよ…って、あ、そっか、アンタのを使うわけないもんね」

 うんうんと頷くアスカはその匂いをシンジが嗅ぎ分けたとは思いもよらなかったようだ。
 そして、彼女はシンジに気をつかせることを諦めてしまった。 
 決して気が長い方ではないのである。
 
「あのねぇ、女の子を見たらまず顔とか服を見なさいよ」

「あ、うん」

 言われたとおりにしげしげとレイを見るがただそれだけ。
 その様子を見て、アスカは再び天を仰ぐ。

「アンタの大切な妹のパジャマ姿を見たのよ。なんか感想を言いなさいよっ」

「感想?あ、うん、えっと…あれ?」

 適当な言葉が出てこず口ごもってしまうシンジ。
 そんな彼に顔を見合わせて笑うアスカとレイ。
 実に平和な光景。
 問題は、その後だった。

「さあっ、レイ。湯上りにはね、これが一番なのよっ!」

 ぎくっ!
 シンジはいやな予感がした。
 アスカがレイの手を引っ張りながらずんずんと進んでいくのは紛う方もなき冷蔵庫。
 彼のいやな予感はさらに加速度を上げて膨らむ。

「コップに入れて飲むのは邪道っ。いい?こうやって注ぎ口を開けて…」

「わわわわわぁっ!」

 アスカに牛乳パックを手渡されたレイが彼女の言う通りに飲もうとしたその時である。
 奇声とともにシンジが突進してきた。
 その意外な動きに唖然としているアスカの手から牛乳パックをもぎ取ると、そのまま食器棚に駆け寄る。
 そしてガラスコップを取り出し、危なっかしげな手つきで牛乳を注いだ。
 レイはともかくアスカまでが声を失ってシンジの背中を見つめている。
 彼はコップに牛乳をなみなみと注ぐと振り返った。
 真剣な表情でコップをレイに、そして牛乳パックをアスカに差し出す。
 何となくそれぞれの前に突き出されているものを二人は受け取った。

「く、口飲みなんか、だ、駄目だ。女の子なんだから」

「わかった。お兄ちゃん」

 素直に頷くと、レイはコップに唇を寄せる。
 ほっと溜息をつくシンジの意図がどこにあったかはみなさんにはおわかりだろう。
 そう、レイに間接キスをさせたくなかったからだ。
 その日も彼は牛乳パックにキスをしていたのである。

 しかし、そんなことをアスカが知りようもない。
 彼女にわかったのは、レイにはコップで飲ませてアスカには口飲みを許しているということ。
 しかもその理由が「女の子なんだから」。
 つまり、アスカを女の子として思っていないということではないか。

 ママ、懺悔するわ。
 私は悪い子。
 昨日の夜にね、シンジを引っ叩いちゃったの。
 だって、私のことを女の子として見てないって。
 涙が出てくる前に彼の頬をバシンと。
 私、謝りもしなかった。
 そのまま自分の部屋に入っちゃったから。
 でもね、扉を少しだけ開けてそっと立ち聞きしていたら、馬鹿らしくなっちゃった。
 どうしてだと思う?
 彼とレイが私がどうして怒ったのかを悩んでいるのよ。
 それでね、やっと出した二人の結論は、
 私がレイに親切にしていたのにそれをシンジが邪魔したから…だって。
 呆れたというか、そういう考え方もあったんだと、私はようやく気がついたわ。
 そのことに気がつくと無性にそのことに腹が立ってきたの。
 
 
まあ、これって懺悔?
 その割には悪かったって反省はどこにも書かれてなかったように見えるけど。
 私の読み方が悪いのかしら?
 ところで、あなたは大事なことを忘れているように思うの。
 シンジ君は本当にそんなことを考えて牛乳パックを取り上げたのかしら?
 それだけじゃないように思うわ。


 え、あれが理由じゃないの?
 私はシンジに嘘はつけないって思ってたから、てっきり本当にそうだと思ってた。
 でも、いくら考えても他の理由って見つからないわ。
 ねぇ、何だと思う?
 ママ、わかる?
 
 
わかるわけないでしょう。
 その場にいたのならともかく。
 ただはっきり言えるのは、彼があなたのことを好きだということね。
 間違いないわ…って、いつも言っているでしょう?

 だって、自信ないもの…。

 アスカに、そして遥か彼方の地のマリアに、シンジの秘密がわかろうはずもない。
 もっともこの時の騒動が元で彼は牛乳パックにキスをしておくのをやめてしまったのだが。



 さてさて、ようやく話は元に戻る。
 アスカの1リットル牛乳口飲みの件だ。
 幸いにもバストはアップしてくれた。
 1センチ8ミリ。もしかすると6ミリかもしれなかったが。
 だが。
 不幸にもウエストが1センチ9ミリ。おそらくは2センチ7ミリ成長していた。
 これにはアスカはさらに慌てた。
 拙い、拙過ぎる。
 全体的に太ってどうする。
 アスカはすぐさま牛乳の量を元の500ccに戻した。
 だが、それでことが済むわけではない。
 アスカの目的はバストアップなのだ。
 マッサージをすればいいのかとお風呂で揉んでみたが、
 目的と異なる方向に突っ走って行きそうになりこの方法も頓挫。
 結局、しっかり運動もしながら栄養を摂るという消極的な方法をとるしかなかったのである。
 もっとも、その方法がじわりじわりと功を奏しているのではあったが。

 そんなアスカはホワイトデーの買い物にある計画を盛り込んでいたのである。
 題して『こっそりホワイトデーのプレゼントをゲット大作戦』。
 いささか長いが作戦の立案実行者に敬意を表して彼女の付けたタイトルどおりにしておこう。
 
 

 レイたちへのホワイトデーのお返し。
 それは消えものにするとは遥か昔から決めている。
 連中にそんな気持がないとしても後に残るものなど真っ平だ。
 ただ変なものを渡したくもない。
 それがシンジの評価にも繋がってしまうのだから。
 洒落ていて、美味しくて、それでいてそれほど高価に見えないもの。
 これが常夏の日本であればアイスクリームとかのデザート系でよかった。
 今はサードインパクトを越えて地軸が元の状態となり四季が戻った日本である。
 春ってこういう感じだっけ?とミサトがリツコに確認していたのをアスカも聞いたことがある。
 それへの答えは気温はセカンドインパクト以前に比べると…と数値を並べ立てていたわけだが。
 ともあれ要約すると通常の初夏くらいの気温だそうだ。
 つまり少し暖かい程度。
 それでも常夏に慣れた人々には肌寒さを感じる時もある。
 だから冷たいものは避けた方がいい気がする。
 アスカが候補にしているのはビスケットにクッキー、ケーキ、それに和菓子の類だった。
 しかし、あくまで候補にしているだけで決め込んではいない。
 それは何故か。
 どれにするか決めるのにシンジとぶらぶらできるではないか。
 これはデートに見えなくもないではないか。
 かなりアスカとしては謙虚に思っていたが、シンジを筆頭に事情を知らない第三者までがその光景はデート以外の何物でもないと見えていた。
 遥か彼方のドイツにいるマリアどころか、弟のシュレーダーでさえ「アスカお姉ちゃんは彼氏とデートのこと書いてきた?」などと母に尋ねていたりするのだ。
 さてさて、アスカはその計画通りにシンジを引き連れてデパートの地下や名店街などをぐるぐると回る。
 昔のシンジなら間違いなく「疲れたよ、もうどれでもいい」などとぼやいていたところだろう。
 だが、今のシンジはこうしてアスカと一緒に過ごす時間が楽しくてならない。
 だからこそ少々足が疲れてもアスカにしっかりついていく。
 しかしこういう時には幼少の時から教練に明け暮れたアスカとの差は明瞭になってしまう。
 まずシンジの方が先に疲れてしまうのである。
 ところがシンジは弱音を吐くわけにはいかない。
 好きな女の子の前でカッコ悪い真似はできないからだ。
 昔のアスカならそんなシンジの状態に気が付かなかっただろう。
 いや、気が付いたとしても、情けない男だとして軽蔑するか無視するかのどちらかだった。
 でも今のアスカは違う。
 少なくともシンジが疲れていること、そしてそれを彼女に隠そうとしていることはわかるようになった。
 ところが何故隠そうとしているかを誤解している。
 彼女はシンジが単にやせ我慢をしているだけだと確信し、それがアスカへの想いの発露であるなどとは想像だにしていない。
 もし考えたとしても瞬時に打ち消したことだろう。
 何にでも自信満々なアスカの唯一の弱点と言ってもいい。
 愛する気持が深くなればなるほど、その相手に嫌われるのではないかという気持ちがどんどん強くなってくる。
 それなのに、その相手にでさえも弱みを見せたくない。
 言わば矛盾の塊なのだ。
 
「シンジ、喉渇いた。何か飲も」



 いい、アスカ?
 素直に相手のことを心配して動くことができないのなら、
 いっそのこと自分のわがままの所為にしてしかったらどうかしら?
 相手の食べたいものを自分が食べたいって言ったり、
 相手の行きたいところを考えていかにも自分のためにその場所に向うってこと。
 こうすれば、どう言えばいいか悩んでしまってタイミングを外すなんて事がなくなるんじゃない?

 
 ママ、ありがとう!本当にありがとう!
 これなら大丈夫よ!
 自分でもわかってるの。
 私って全然素直じゃない。
 でも、このやり方なら何とかなりそう。
 ううん、何とかしてみせるわ!




「馬鹿シンジ、何かめぼしいのあった?」

「え、アスカが見繕ってくれるんじゃ…」

 シンジはちびりちびりと突いていたアイスクリームをぐっとソーダの中に押し込んでしまった。
 しゅわしゅわっと緑色の泡がグラスの縁に我先にと昇ってくる。

「わっ」

「馬鹿っ。早くっ」

 こういうときのシンジの動きは鈍い。
 というよりも、わけのわからない行動をとることが多い。
 この時も泡を飲もうともせずにその泡をスプーンで掬おうとした。

「ああっ、もう!」

 向こう側から身を乗り出したアスカはグラスに唇をつけた。
 唇を縁に沿ってスライドさせながらずずずと泡を飲んでいく。
 すんでのところで泡の氾濫は防がれた。
 だが、シンジは途惑ってしまった。
 このままクリームソーダを飲んでいいのだろうか。
 あの自分にしかわからない牛乳パックの間接キスなどとは大違いの誰が見ても一目瞭然の間接キス。
 アスカはまったく素知らぬ顔で元の姿勢に戻った。
 ソファーに背中を預け窓の外を見ている。
 そんな真剣な眼差しを送っている先は消費者金融の大きな看板。
 シンジは思った。
 アスカはお金に困っているのだろうか。
 もしかするとドイツは大変なことになっていて彼女は実家に送金しているのではないか。
 毎日牛乳をごくごくと飲んでいるのは、もしかドイツの実家が牧場を経営していて牛乳の消費を増やすという涙ぐましい努力を?
 
「あ、あのさ」

「何よ」

 アスカの視線は窓の外のまま。
 何故なら彼女は平静を装っていたからである。
 クリームソーダの泡をグラスの縁から直接吸ってしまった。

 馬鹿シンジがさっさと対処しないからいけないのよっ。
 ああ…飲んじゃった、アタシ。
 どうしよ、どうしよ、シンジ、汚いとか思ってないでしょうね。
 続きを飲んでくれなかったらどうしよ…。
 飲んだら恥ずかしいけど、でも飲まないってことはアタシのことが…。
 ああぁん、どうしよ、どうしよ、どうしよ。

 うろたえ波打つ心をひた隠しに、アスカはじっと窓の外を見ている振りをしていた。
 
「アスカのお父さんって何の仕事してるの?」

 ずざっ!
 効果音が聞こえてきそうな勢いでアスカは首を前に向けた。
 その勢いに少しだけ身を引いてしまうシンジ。
 
「アタシの…パパ?」

「う、うん」

 訊ねてはいけなかったかと少ししまったと思ってしまった。
 何しろサードインパクトの時にアスカの事情はわかったものの彼女の口からは一切聞いてはいないのだ。
 無意識に視線を外してしまうシンジに彼女は心の中で盛大な溜息を吐いた。
 それは質問してきたシンジにではなく、己自身に。
 
「パパはカーエンジニア。詳しいことは知らないけどね」

 笑顔、笑顔、笑顔よ、アスカ。
 
 彼女は自分を奮い立たせた。
 父親をもう憎んではいない。
 だが彼のことをマリア以外の人間と喋るのは殆どないことだ。
 しかもその相手が愛するシンジなのだから。
 
「あ、そうなんだ。エンジニアって設計とかをするんだよね。凄いなぁ。リツコさんみたい…な…」

「わけないでしょっ。パパをあんな危ないのと一緒にしないでくれるっ」

「あ、危ないって、僕のお母さんになるんだよ」

 二人の視線が真っ向からぶつかった。
 ただし、それは険しいものではなく、家族のことを話題にしている一種の温かさが互いの瞳の中に見られたのである。
 同時に二人は笑顔になった。
 この後、アスカの父親のことは話題にはならなかったが、微妙な緊張感はもうどこにも見受けられない。
 そして、二人とも気がつかなかった。
 シンジがクリームソーダをいつの間にか飲んでいたことを。
 そのことに気づいたのはアスカが先だった。
 シンジの方はトイレに立ち帰ってきてテーブルの上が片付けられていた時にようやく思い出した。
 その時、アスカは座ってはいたがもうデイバックを背負っている。

「ほら、行くわよ、馬鹿シンジ。まだ何も買ってないんだから」

「うん、あれ?」

 勘定書きがない。
 テーブルの上を探しているシンジにアスカはいかにもつまらなそうに吐き捨てた。

「もう払っといたわ。遅いわよ、馬鹿シンジ」

「ごめん、ごちそう様」

「ふんっ、次はアンタが払いなさいよ!」

「あ、うん、わかった」

 次という言葉に嬉しくなるシンジだったが、お芝居に必死なアスカはその笑顔を確認できなかった。
 背中を向けてつんつんとした態度をとっていたのだから。
 その背中に目があれば、シンジの嬉しげな笑みを見ることができたのだが。
 


 結局、ホワイトデーの贈り物はクッキーの詰め合わせとなった。
 そして、アスカはその計画を見事に崩されてしまったのである。
 彼女の予定ではこうだった。
 プレゼントを決める前にあちらこちらの店を二人でうろうろ歩く。
 まず、シンジを巧みに誘導して、何か後に残るものを選ばせる。
 それを彼を巧みに誘導して、自分で代金を払わせる。
 さらに彼を巧みに誘導して、それをアスカに渡させる。
 これでホワイトデーのプレゼントがアスカに手渡されるというわけだ。
 心がこもっていないではないかと言うなかれ。
 今のアスカにはこれで充分なのだ。
 ただし、巧みに誘導する部分が多すぎて、アスカが幾重にも張り巡らせた言葉のトラップにシンジが中々引っかかってくれない。
 いらだち、焦るアスカだったが、プレゼントはもう決まってしまった。
 彼女は半ばあきらめかけていたのだ。
 その時である。

「すみません、このクッキーのセットを5つ下さい」

 放心状態に近かったアスカだが、シンジのその言葉に引っかかった。
 5つ?
 レイ、ミサト、リツコ、マヤ……。
 4つである。
 ということはもう一人プレゼントを渡す女性がいるというわけではないか。
 一気にヒートアップしていくアスカの頭の中でまずヒカリが登場し、血相を変えて否定した。
 
 違う、違う!私じゃない!私は今年から本命以外渡さないことにしたの。す、鈴原以外の男の人にチョコなんて。

 アスカはまず親友を寛大にも釈放した。
 その後ろで恐れおののいているクラスメートたちも我先に自分ではないと申告し始める。
 胡散臭げに彼女たちを睨みつけるアスカだったが、どうも彼女たちでもないようだ。
 その時、ふっと映像が湧いて出てきた。
 アスカ、臨界点突破。
 
「ちょっと、シンジっ」

 さすがにそれでも高級洋菓子店の中で叫ばなかっただけでもまだ理性は残っていたようだ。
 彼の肘を掴んで彼女は囁き声で怒鳴った。
 相変わらず器用なものである。

「アンタ、その5つ目のは誰にあげんのよっ」

「あ、ごめん」

 振り返ったシンジは少しおどおどしていた。

「くわっ、やっぱりっ。あの戦自のスパイ女ねっ。アイツ、こっそり戻ってきてたんだっ。いつの間にっ」

「えっ、ち、違うよ」

 彼女には可哀相だが、今のシンジには完全に過去の思い出の中に生きている少女となっている。
 今の今まで、アスカに問いつめられるまですっかり忘れていたのだ。
 ただ、サードインパクトの時に彼女が生きていることを確認してしまった事実は、シンジを少なからず動揺させたのである。
 その様子がさらにアスカの戦意を攪き立てる。

「何よっ、言い訳なんかしちゃってさ。はっ、まったくアタシもお人よしよね、アイツへのプレゼントを見立ててやってたなんて……」

「これ、アスカにだよっ」

「はっ、何がアスカによ。気安く名前なんて呼んでくれて…へ?アスカ?」

 うん、と大きく頷くシンジ。
 その頬は赤く染まっているのだが、頭の中でそのアスカと言う名前を高速照合中の彼女の目には入っていない。

「うん、アスカ」

「アスカって…、このアスカ?」

 自分の鼻先を指さすアスカ。

「うん、そうだよ」

「でも、アタシ…。アタシ、シンジにあげてない……」

 もしかするとシンジは誤解しているのではないか。
 アスカがバレンタインにチョコを渡したものと思い込んでいるのかもしれない。
 とすると、それは物凄く悲しいことではないか。
 彼女が悲しみの淵に身投げしようかと思っていたとき、シンジは頭を掻きながら言った。

「あ、う、うん。あの…今日のお礼なんだけど」

「あ、なんだ、そういうことか。ふ〜ん、そうなんだ」

 複雑な思いでアスカは了解した。

「あの、お客様。5250円になりますが…」

 二人のやりとりはおずおずと声をかけてきた店員の一言で終わりを告げた。
 




 さて、マリアに書き送ったアスカのホワイトデーの頂き物とはクッキーのことだったのか。
 いや、そうではない。
 肝心な部分はその後だったのである。

「おい、もったいぶらずに先を読んでくれよ」

「待って。喉が渇いちゃった」

「ああ、コーヒーか?紅茶か?それともあの子が送ってくれた日本茶か?」

「あの子じゃなくて、アスカ。名前で呼んであげなさい」

「ああ、わかっているんだが、なかなか」

「なかなかじゃありません。仕方がありませんね。教育しないと」

「コーヒーでいいだろう。少し待ってくれ」

 抱いていた次男をベビーベッドに置き慌てて逃げ去っていった夫を見送り、マリアは椅子から立ち上がった。
 まったく無器用な人だ。
 そして、彼女はベビーベッドの赤ん坊を愛しげに眺める。
 彼はすやすやと眠っていた。

「お前もあの人に似るのかしら」





「ねぇ、シンジ。ガラス玉を売ってるとこ知ってる?」
 
「ガラス玉?」

「うん。色つきの。小さくて丸いの。インテリアショップかなぁ」

「えっと、それってビー玉のこと?」

「び〜だま?何、それ」

「ええっと。確かあれはあそこに。こっちだよ」

 怪訝な顔のアスカにシンジはこっちだと促す。
 名店街のフロアを抜けてファーストフードの店が並ぶ界隈に出る。
 真ん中に噴水の広場を設けそこは吹き抜けになり、
 天気のいい日には天井のドームが稼動し広場に太陽の光が直接入る設計になっているのだ。
 今日は天井が開き気持ちのいい風が入ってきている。
 子供達は噴水の周りの人工のせせらぎで下着姿で走りまわり遊んでいた。
 使徒戦終結の前はここはもっと無機質な空間だった。
 機能的で合理的な場所がこんなにも暖かい気持ちになる。
 平和っていいな、と二人は思った。
 その平和をもたらしたのが自分達であるなどということはすっかり忘れている。
 いや、そんな意識が元々チルドレンたちにはなかったのかもしれない。
 戦っている時はまだしも、普通の中学生に戻ってからは。

「ここだよ」

「えっ、これって何屋さんなの?」

 アスカはその場所を知らなかった。
 言うなれば駄菓子屋さんである。
 もっともシンジもケンスケとトウジに教えられたのだったが。
 ファーストフードの店が立ち並ぶその裏手にその店はあった。
 昭和の時代にあった駄菓子屋とは大きく違い、スペースも広く先を争って選ぶという雰囲気ではない。
 ゆったりと商品は平置きされて小さな子供もにこにこと手にとっておもちゃを見ている。
 
「これって何屋さん?」

「えっ?えっと、新世紀駄菓子屋……さんだって」

「看板くらいアタシにも読めるわよっ。って駄菓子屋って何なのよ」

「はは」

「笑って誤魔化すな。でも…楽しそうね」

 3歳くらいの子供もいれば、シンジたちと同世代のものもいる。
 
「ふ〜ん、お菓子とかおもちゃを売ってんのか」

「うん、安いからそんなに立派なものじゃないけどね」

「でも、面白そうじゃない」

 きょろきょろと商品を見渡す彼女は、目的のものも忘れて通路を歩く。
 そして、すぐに肝心のものが目に入った。

「あっ、これねっ」

 様々な色のビー玉が色ごとにボックスへ入れられている。
 
「うん、これだよ。これがビー玉」

「ふぅ〜ん、まあ、アタシが言ってたのとはちょっと違うけどさ。でも、これで充分よ」

 アスカは青いビー玉の前に蹲った。
 
「あっ、こっちの方がいいかな。ねぇ、シンジ、どっちがいいと思う?」

「えっと、何に使うの?」

 その的を射た質問にアスカは慌てて話をそらす。

「うう〜ん、こっちのつや消しのはよくないわねぇ。まあ、こういう感じのガラス玉を考えてたんだけど」

 いくら鈍感なシンジでもアスカが隠し事をしていることはわかる。
 それにそれは別にいやな感じではない。
 何だか温かい目で見てしまうような雰囲気なのだ。

「青色の?」

「うん、混ぜてもいいかな。こっちの水色のとかコバルトブルーとかも。ああ、でも、あまりごちゃ混ぜにするものねぇ」

 こういうアスカを見ているのは楽しい。

「あのさ、これ量り売りだから、色々選べば?」

「あ、そうなんだ。これに入れるのねっ」

 小さなプラスチックのバケツをむんずと掴むその動きはまだまだ子供である。
 大学を卒業しているとはいえ、まだ14歳なのだ。

「えっと、これ、僕が払ってもいいかな?」

 バケツにビー玉を移していたアスカの背中がぴくんと動く。
 彼女の心臓はばこんばこんと大きな音を立てて連打され始めた。
 これはチャンス。
 大チャンスである。
 彼女は凄い勢いで首を上下に3度も振った。

 アスカは調子に乗った。
 ビー玉だけでなく、福笑いや紙風船、すごろくに得体の知れないゲーム。
 それから飴玉やカレー煎餅などの駄菓子も次々に選んでいく。
 結局はシンジの財布からお札が3枚ほど羽を生やしお店のレジの中に消えていった。
 もっとも千円札だったから彼の被害はそう大きいとはいえない。
 しかも彼は充分納得して払ったのだし。
 
 ビー玉だけはアスカは自分で持った。
 シンジの右手はホワイトデーのプレゼントが入った紙袋。
 左の手には駄菓子やおもちゃがいっぱい入ったビニール袋。
 両手に荷物の彼の目の前をアスカは意気揚々と歩いていく。
 そのリズムに合わせて赤金色の髪の毛が左右に揺れた。
 そしてその髪の毛の間から真っ赤なデイバックがちらちらと姿を覗かせていた。




 
「なんだい?この写真は」

 ハインツは同封されていた写真を手にとってしげしげと眺めた。
 机の上に置かれたガラスのコップ。
 その中には青いビー玉が入っている。

「アスカの戦利品よ。ホワイトデーとやらの」

「クッキーではなかったのか?」

「いいえ。これは、ほら喫茶店のクリームソーダが入っていたグラスなのよ。
 彼が席を立った間に交渉してアスカが買ったの。記念にね」

 お店の人にさっと洗ってもらって新聞で包んでもらったのだ。
 そしてそれは彼女のデイバッグの中に。
 レジのお姉さんはタダでもいいと言ってくれたが、アスカはいくらでもいいから払わせてくださいと頼んだ。
 その様子は紛れもなく恋する乙女の一心不乱に違いない。
 紅茶とクリームソーダで850円。
 千円札でお釣りなしということで商談は成立した。

「ほう、間接キスの記念か。まだまだ子供だな」

 鼻で笑うハインツにマリアは惚けた調子でこう告げたのである。

「あら?あなたはご存じなかったかしら。
 アスカと彼はキスしたことがあるのよ」

「なにぃっ!」

 カールが、ベビーベッドの赤ん坊が、家を揺るがすような父親の叫びに目を覚まし、そして大声で泣き出した。
 妻に叱られハインツは息子を抱き上げ慌てた調子であやすが、そう簡単に泣き止んでくれない。
 困った顔の夫を見て、マリアは楽しそうに笑った。
 キスといっても、ムードも何もないとんでもないキスだったとアスカは教えてくれた。
 あれがファーストキスだなど、残念でたまらない、と。
 ただ、じゃ彼のファーストキスが別の誰かだったらどうなのと返信されて、アスカはすぐに書き返してきた。

 問題ない。私が彼の最初で最後のキスの相手になるのだから。

 そんな断固とした調子にもかかわらず、次の行で早速弱気の虫が顔を覗かせる。

 そうなるように、ママも祈ってね。

「おぉ〜い、頼む。助けてくれよ」

 仕方がないわね、とマリアはハインツから赤ちゃんを受け取る。
 しばらくはむずかっていたが、やがて彼は母の胸で再びすやすやと眠りにつく。

「やはり母親の胸の方がいいのか」

 少し唇を尖らせるその仕草をシンジが見たならアスカとの相似性にすぐに気がついただろう。
 二人を知っているマリアだけがハインツとアスカの親子ならではの似た部分を知っている。
 外見だけでなく、精神的な部分も。

「ああ、そうだ。あなた?」

 マリアは最後においてあった切り札を出す。

「なんだい?」

「封筒の中にカードが入っているから見てくださる?」

「私が見ていいのか」

「ええ、あなた宛だから」

「そうなのかっ」

 巨体をテーブルにダッシュさせるハインツ。
 後のことが予想できるマリアはカールを抱いたまま少し離れる。
 ハインツは突進したもののすぐに封筒の中を見ることができない。
 おそらくアスカもあんな風に逡巡するのだろう。
 彼は封筒を手にして、そして振り返った。

「なあ、私が見ていいのか?本当に」

「あなた宛ですから」

「そうか、そうなのか。それなら私が見ないといけないな。ああ、そうに決まっている」

「ぶつぶつ言ってないでさっさと見なさい。封筒ごと暖炉で燃やしてしまうわよ」

 まるで長男を嗜めるような声音でマリアがぴしりと言う。
 バネに弾かれたようにハインツは封筒の中に指を入れた。
 マリアは赤ん坊を優しく抱きしめる。
 また大声を出されてカールが泣き出されては困るから。
 だが、驚愕の叫びはまるで起こらなかった。
 10秒、20秒。
 彼はじっとカードを見つめていた。
 ハインツは泣いている。
 アスカからのカードを何度も読み返しながら。
 たった一言だけ書かれたカードを。



 バレンタインデーのお返しありがとう。

 アスカ

 パパへ



 言葉ではないが、長い間待ち望んだ娘からの呼びかけ。
 それは胸を熱くさせた。
 歓喜の叫びよりも涙を要求したのである。
 その姿は見ているマリアの涙腺も刺激して。
 ぽつんと雫がカールのふくよかな頬に落ちた。
 赤ん坊は何を思ったか、むにゃむにゃと顔を動かしそして少し微笑んだ。





 アスカにとっては大切な思い出の品となったクリームソーダのガラスコップ。
 もちろん、それを机の上に飾りっぱなしにはできっこない。
 アスカの机には鍵の掛かる引き出しがある。
 いつもはそこに大切にしまわれているのだ。
 ジェリコの壁はもうアスカの心にはまったくないが、未だにシンジは入室禁止だ。
 これは心より肉体が先に結ばれるのはいけないという、マリアの忠告を守っているわけだ。
 だが、開いた扉からこのガラスコップが見えるのは拙い。
 だから、宝物庫に厳重に保管されているのである。
 そして物思いにふけったり、ドイツへの手紙を書く時にそれらはスタンドの隣に飾られる。
 それらと複数形なのは間接キスの思い出の品だけではないからだ。
 一緒に並んで飾られるのはドイツのラングレー家の写真。
 それは最近撮影されたもので長男のシュレーダーは元気一杯に笑い、
 次男で赤ちゃんのカールはマリアの腕に抱かれている。
 何とかカールの表情が見えるが、その愛らしさにアスカは微笑んでしまう。
 そして、彼らの後にハインツが硬さ一杯の引き攣った笑顔で立っている。
 マリアの話ではアスカに送ると言われてこういう表情になったそうだ。
 その写真が飾られている、木製の飾り気の少ない写真立て。
 この写真立てこそがハインツからの贈り物……であると称されていた。
 確かに選んだのは彼である。
 マリアからアスカに送るならどの写真立てがいいかと問われ、これを選んだのだ。
 それをいつの間にか購入し、ギフト包装をしてアスカに贈ったのはマリア。
 バレンタインの後にアスカから家族4人の服のサイズを問われたことを
 ハインツへのメッセージだと了解し、それをバレンタインデーのプレゼントだと受け取ったのである。
 しかし、そのことを伝えても夫は照れているのか自信がないのか、はっきりしない。
 そこでマリアがアスカにハインツからのプレゼントだとこの写真立てを贈ったのだ。
 まったく手のかかる父娘である。
 それでもまた少しだけ前進した。
 いつか二人が笑顔で会話する日が必ず来る。
 マリアはそう信じていた。
 
 


 

「よぉ〜しっ、またアタシの勝ちねっ」

 ぐっと握りこぶしを突き上げる金髪の少女。

「ずるいよ、アスカ。どうして僕ばっかり振り出しに戻すんだよ」

「はんっ、アンタはアタシの後についてくればいいのよっ」

 新世紀駄菓子屋で購入したすごろく。
 3コマ前を進んでいたシンジをアスカが振り出しに戻したのだ。
 勝つのはいつも彼女がシンジに集中攻撃をするために漁夫の利を得て独走するレイだった。

「私、一番。商品貰うわ」

「はいはい、ど〜ぞ。カレー煎餅でも黒棒でもお好きに。さあ、もう一回するわよっ」

「まったく勝つまでするんだもんな、アスカは」

「はんっ、そ〜ゆ〜台詞はアタシに勝ってから言うのねっ」

 惣流・アスカ・ラングレーは不敵に笑った。



 シンジは間違ってるの。
 私が何度もこのゲームをするのは楽しいから。
 レイたちも一緒になって、そして彼とわいわいい言いながら。
 まるで小さな子供みたい。
 だけどそれでもいいと思わない?
 小さい時からずっと張りつめて生きてきたんだから。
 ふふふ、自分で言っちゃいけないよね。
 そうだ、シュレーダーにこのゲームのドイツ語版をつくってあげる。
 でも、ルールの説明をしないといけないわね。
 いつか、きっとそっちに行くわ。
 できれば彼と一緒に。
 そんな日がいつか来ればいいなぁ。
 じゃ、みんなによろしく。

 アスカ

 PS.
 4月になれば私も中学3年生です。
 ただクラス替えがあるそうなの。
 シンジと同じクラスになれるようにママも祈ってね。






(3) 2016年4月



 アスカ、ごめんなさい。
 貴女があそこまで怒るとは思わなかった。
 ごめんね、いくらエープリルフールといっても、よくない冗談だった。
 物凄く反省してます。
 許してくれるかしら。




 ママ、こちらこそ、ごめんなさい。
 あの一週間くらい前にエープリルフールの話題をしてたよね。
 私は絶対騙されないって豪語してたから、ママもとっておきの嘘をついたんだもの。
 完全に騙されちゃった。
 泣きながら電話してるもんだから、シンジがおろおろしちゃって。
 私、慰められちゃった。
 その意味ではママに感謝してるの。
 しゃくりあげてたから背中をよしよしって撫でられて。
 今度、嘘泣きしてみようかな?
 泣き虫アスカだったら、彼は好きになってくれるかも。
 
 でも、やっぱりお願い。
 ああいう冗談はこれからはやめてね。
 お願いします、愛するママ。




 マリアはすこぶる反省していた。
 もちろん、彼女は面白がって嘘をついたわけではない。
 エープリルフールにかこつけて、アスカがどれくらいハインツのことを思っているのか確認しようとしたのだ。
 彼が死んだとか、浮気したとは例え嘘でもとんでもない。
 そこでマリアはこう言った。

「私、キスされたの。ハインツじゃない男の人に」

 この言葉を補完すると実に他愛もないことになる。
 キスしたのは赤ん坊のカール君で、もちろん彼はハインツではない。
 彼の遺伝子はたっぷり仕込まれているが。
 だが、その前に話題にしていたのが世界的にヒットした映画だった。
 その作品では愛する人がいながら別の男に肉体的な快感を覚えさせられた女がヒロイン。
 当然、アスカはエキサイトしてそのヒロインを罵倒していたのだ。
 その直後にマリアがそんな台詞を言ったものだから、アスカが仰天してしまったのだ。
 マリアの嘘など聞いた事もなかったので、彼女は絶句して、電話口で泣き出した。
 慌てて、嘘だ、エイプリルフールだと、マリアは謝ったのだが、アスカはひどく怒った。
 ママなんて嫌い!と叫ばれた時には、この数年間に及ぶ二人の努力が無に帰したのかと胸が締め付けられた。
 なんと馬鹿な嘘を言ってしまったのかと後悔した。
 アスカが落ち着くまでのほんの3分ほどがいつまでも続くのではないかと感じたのである。
 青ざめて涙目で僅かに身体を震わせて立っている彼女の姿を見ていたのは、ベビーベッドのカールだけ。
 夫は会社、長男は学校に行っていたのが幸いだった。
 電話の向こう、遥か極東の地で、ぐすんぐすんと鼻を鳴らしている娘の声と、
 優しげな声音だが生憎とまったく意味のわからない日本語の少年の声が聞こえる。
 お願い、アスカを宥めて。
 まだ実際に会ったこともない碇シンジに彼女は縋った。 
 その人となりはアスカにたっぷりと聞かされていたのだから、そんな気持ちになるのは無理もない。
 そして結果的にその祈りは叶えられた。
 明らかに膨れ気味の声音のアスカが電話に出て、「ママの意地悪」とだけぼそりと言う。
 その後、マリアは必死に謝罪し、アスカも「こっちこそごめんなさい」と返した。
 
 これがエイプリルフールの顛末。



 追伸、私も大きな嘘をついたの。
 4月1日の夜。
 シンジにおやすみを言ったあとに、思い切って言ってやったの。
 アンタなんか大嫌い、世界一嫌いよって。

 


 シンジは傷ついただろうか?
 いや、似たようなことは別にこの日に限らず言われていることでもあるし、
 何より今日は4月1日。
 エイプリルフールなのだ。
 アスカが本音で喋っているにしても、自分で脳内変換すればいい。
 嘘をついているのだから正反対の「世界一好きだ」という意味にとればいいのだ。
 そう思うことで幸せになれる。
 アスカの真意はしっかり伝わっているのに、それが真意とは思われていない。
 二人の心の微妙なすれ違いはまだしばらくは続く。





 

「アスカ、今日のお昼はどうする?」

「何でもいいっ!」

 アスカは上ずった声で返事をした。
 この日は4月7日。
 3年生になってはじめての登校日になる。
 そう、運命のクラス替えの日なのであった。

「じゃ、帰りに何か食べて帰ろうか。何がいい?ファーストフード?」

「任せるっ!」

 彼女は鼻息も荒く、唇をへの字に結んだ。
 テーブルに上がった朝ご飯はすべて平らげているのに、彼女はまだフォークを握りしめたままだ。
 シンジの方は彼女がきれいに食べたハムエッグとサラダのお皿を回収し目下洗い物中。
 二人の朝の時間は結構余裕がある。
 6時にはシンジは目を覚まし、弁当の準備や洗濯を始めるからだ。
 アスカの方はどうだろうか。
 彼女が部屋から欠伸交じりに出てくるのは6時45分。
 それからおもむろにお風呂場に向い、シャワーを浴びる。
 朝にシャワーというのはドイツの習慣だから仕方がない。
 だが彼女は日本の風習にも倣い、夜にはゆったりと湯船で身体を休めているのだ。
 実に贅沢なことをしているのだが、シンジは何も言わない。
 アスカの好きなようにさせているというのが9割方の理由。
 残り1割は大好きな女性の風呂上りの姿を拝むことができるという、実に嘆かわしくもまた素直な想いからであった。

 さて、今朝はアスカはお湯を使わなかった。
 シャワーを浴びなかったという意味ではない。
 お湯ではなく水だったのだ。
 4月とはいえ、まだ少し冷える。
 アスカは歯を食いしばってその冷たさに耐えた。
 何故か。
 親友洞木ヒカリに聞いたのである。
 日本には思いを遂げるために水垢離という風習があると。
 滝に打たれるのも良いと言われたが、その二つを合わせればさらにご利益が上がるのではないかと考えたのだ。
 だから、シャワーを滝に見立ててアスカはその飛沫を全身に浴びた。
 最初はシャワーのように立っていたが、お願いのポーズらしくするにはちゃんと座ったほうがよかろうとバスマットに正座する。
 当然のことながらアスカは正座が苦手だ。
 よくもまあこんな拷問のような座り方ができるものだと、彼女は日本人に呆れていたほどだ。
 感心などするわけがない。
 痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいのだ。
 だがしかし、ここはその拷問的な正座を彼女は選択した。
 こういう場合は苦痛を伴う方がよく効く様な気がするからだ。
 シンジと同じクラスにしてください。
 そう念じながら、寒さに耐える。
 この場合、主に祈るべきなのか、日本であることを考慮して仏様に縋るべきなのか。
 考えていても寒いだけなので、アスカはありとあらゆる神様たちにお願いすることにした。
 信仰心が足りないと非難される事は承知の上で彼女は祈った。
 シンジと同じクラス、シンジと同じクラス、シンジと同じクラス、神様お願いします。仏様お願いします。
 掌を合わせ、一心に祈る。
 彼女の白い裸身に容赦なくシャワーは降り注いだ。
 冷たい。背筋が勝手に震えてくる。
 しかし、アスカは耐えた。
 この苦しさ、辛さが願いを届けることになるのだと。
 すっかり身体が冷え切ってしまってから、もうよかろうとシャワーを止めた。
 そしてそこで考える。
 この後、お湯を浴び直して良いものだかどうか。
 アスカはぶるんと身体を震わせて、方針を決めた。
 変なことをしてせっかくの祈りが届かなくては困るではないか。
 ここは自力で身体を温めることにしよう、と。
 ラジオ体操第一と第二をバスルームで無言で執り行うアスカの顔は真剣そのものだった。
 いささかシュールな光景であったことは否めなかったが。

 そのようにして、気合を入れまくり始業式に臨んだアスカだったが、
 その結果はあっけないものだった。

 2年から3年への進級について、本年度は組替えを実施しない。
 
 アスカは呆然となった。
 嬉しいことは間違いないのだが、拍子抜けしたのも事実。
 帰りのハンバーガーショップで思わずシンジに愚痴を零してしまったのである。

「あ〜あ、まったく、また一年おんなじ顔と一緒なわけぇ?」

「はは、僕は嬉しいけど」

 もっとはっきり言えばこの物語も早々に終わりを迎えるのだが、残念ながらシンジの一言はアスカに届いていない。
 口の中でもごもごと言っただけだったから。

「へ?何か言った?」

 今のが愛情を示す言葉だとアスカにわかるはずもない。
 彼女は反論されたと思い込み、いつものように眉を顰めて彼を睨みつける。
 当然そんな表情のアスカにはっきりと繰り返せるわけもなく、いつものように俯いて彼は話を変える。

「う、ううん、あ、アスカ、何にする?」

「アンタの奢りだったら、ゴージャスセット」

「うん、飲み物は?」

「馬鹿。普通のハンバーガーセットでいいわよ。飲み物はホットティーね」

「えっ、ホット?」

 今日はかなり暖かい。
 サードインパクト前よりは暦に応じてそれなりに気温は下がっているが、それでも今日は20度を越えている。
 もちろん、みんなこれまで通りの制服。つまり、夏服を着用している。

「悪い?」

「あ、い、いや、じゃ、買ってくるから席取っといてよ」

「はっ、仕方ないわね」

 アスカは吐き捨てるように言うと、いかにも面倒くさそうな足取りで2階への階段に向う。
 ところがシンジの視界から外れたと確信するや、彼女は階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 そして、じろりとフロアを一望する。
 二人の素晴らしいひとときに最適な場所はどこか。
 他の人間に邪魔をされたくないし、自分よりは劣るもののまあ美人と言えそうな女性のいる席の近くは絶対に選ばない。
 かと言って、ビジネスマンや暇そうな野郎どもの傍には座りたくない。
 周囲の会話で煩いのはたまらないし、などと考えていたらテイクアウトにする以外にはないではないか。
 アスカは適当なところで妥協することにした。
 幼児二人に母親一人の席の隣。
 反対側は壁だ。
 願わくは幼児が泣き出したり騒いだりしないことを。
 そんなことを祈っていたアスカは急に表情を変えた。
 シンジの接近を察知したからだ。

「遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ」

 最近は面と向って悪罵を口にできなくなってしまった。
 今もシンジの斜め右の壁に貼られていたポスターに顔は向いている。
 『お待たせしません、まずはスマイルをどうぞ』
 ここの制服を着たアイドルが微笑んでいる。
 
 はんっ、シンジの方が可愛いわよっ。

 異性であるシンジと比べられては彼女もかなわないが、まあアスカの視点だからよしとしよう。
 アスカはその青い瞳をポスターからシンジへと移す。

 ふふん、やっぱり、シンジの方がいいわっ。

「ごめんね、はい」

 二人分のセットが乗ったトレイがテーブルに置かれる。
 
「待ってましたっ」

 アスカは真っ先に自分の飲み物に手を伸ばした。

「ふわぁ、気持ちいい」

 手元に置いた紙コップを両手で包み込み嘆息する。
 そんな彼女をシンジは怪訝な表情で見る。
 自分の飲み物はオレンジジュース。
 少し汗ばむような陽気なんだからこっちの方が気持ちいいに決まっているではないか。
 シンジはストローをコップに突っ込みずずっと啜った。
 ああ、美味しい。
 一気に1/3ほど飲んだので、氷同士がぶつかって軽く音を立てる。

「もうっ、そんな音させないでよっ」

 アスカは肩をすぼめると慌ててホットティーに口をつける。

「ああ、あったまるぅ」

 この一連の言動にシンジの疑惑は募った。
 これはどう見ても風邪ではないのか?

「アスカ、風邪じゃないの?」

「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?このアタシが風邪なんか…ひ、ひ、ひく…へっ!くしゅん」

 くしゃみ一発。



 アスカはヒカリたちに憧れていた。
 くしゅん。
 どうすればあんなに可愛いくしゃみができるのだろうか。
 自分がくしゃみをする時には“くしゅん”の前に絶対に“へっ”か“はっ”が入ってしまうのだ。
 寧ろシンジの方が彼女よりおとなしめなくしゃみをしている。
 これではいけないとアスカは特訓したことがある。
 誰もいない時間を見計らって、テイッシュで紙縒りを作って鼻の穴に突っ込む。

 ふわぅっくしょんっ!

 可愛くいこうと思っていたのに、いつもより派手なくしゃみをやらかしてしまった。
 もしかすると、誰もいないから余計にそうなるのかもしれない。
 こんなくしゃみをシンジに聞かれれば思い切り軽蔑されるに違いない。
 それは拙い。拙すぎる。
 彼女は机の上に秘蔵の写真を置いた。
 ケンスケから没収したシンジの写真である。
 その隣にはレイが写っていたのだが…もちろんケンスケはレイ狙い…、その部分はしっかり切り取られている。
 アスカの隠し持っているシンジの写真の中でこの一枚が彼女は一番好きなのだ。
 物凄くうっとりするような笑顔でカメラ目線ではなく他の何かを見ている。
 その視線の先にいるのが少なくともレイではないことも彼女のお気に入りの原因のひとつだ。
 撮影したケンスケでさえも、その時シンジが見ていたのはアスカであることなど知らない。
 もしその事実を彼女が知ったなら、照れてしまって写真を凝視することなどできなかっただろう。

 ともあれ、アスカは写真のシンジに微笑みかけた。
 アタシ、がんばるからねっ。
 彼女は紙縒りを突っ込んだ。

 ひゃっくしょんっ!
 
「きゃああっ!」

 アスカは絶叫した。
 哀れ、アスカのたからものが彼女自身の唾液塗れ。
 当然、それでも写真のシンジはにこやかに。
 ごめんなさいを連発しながらアスカは清掃活動に勤しんだ。
 結局、その日は特訓の成果はほとんど上がらず、
 帰宅したシンジに心配されただけに終った。
 紙縒りの挿しすぎで両方の鼻の穴にティッシュを詰めて憤然としているアスカを見たから。
 理由を尋ねたら空になったティッシュケースが飛んできたので、もちろんそれ以上の詮索はしない。
 シンジにとってアスカは謎の多い、愛しい人だった。

 さて、アスカのくしゃみである。
 それからも折を見て繰り広げられた特訓の効果が現れていた。
 彼女の血と、汗と、唾液の成果である。
 最初の一言を何とかすることは結果的にできなかった。
 それは“はっ”とか“ひっ”とか“へっ”といった、言わばアスカのくしゃみにおける接頭語である。
 この接頭語を抑えることはどうにもならなかったのだ。
 だが、彼女の血と…(略)のおかげでくしゃみ本体の音はかなり軽減することができた。
 言うなれば当社比30%という大幅な削減である。
 もっとも肝心の当社比なる基本のくしゃみの音自体が世間の女子よりも200%大きいということには目を瞑っていただこう。
 アスカがこれだけ頑張ったのだから。
 ともあれ、アスカはくしゃみをした。

「へっ!くしゅん」

 詳しく解説すると、接頭語に相当する“へっ”がシンジを驚かせるくらい大きくて、
 続く“くしゅん”がなんとも可愛らしい音に留まった。
 特訓をはじめて以来、シンジの前で初めてのくしゃみである。
 その出来栄えに彼女はまず納得し、心の中でガッツポーズ。
 
「アスカ、風邪だよ。やっぱり」

「そ、そんなことな…な…、ひゃっ!くしゅん」

 2度目の接頭語は“ひゃっ”だった。
 これらの接頭語に法則は見受けられない。
 いずれにしても、くしゃみ本体の音が小さいだけに、それらの接頭語は余計に注目を浴びる。

「ほら、絶対に風邪だよ。だから温かい飲み物が欲しかったんだよ」

「うっさいわね。ほっといてよ。アタシは…」

 流れ出しそうになった鼻水をアスカは慌てて啜り上げた。
 これは本当に風邪かもしれない。
 思い当たる節は大いにある。
 真っ裸で長い時間水を浴びていたのだから。
 しかし、熱は出ていない。

「ちょっと、ごめんね」

 シンジが手を伸ばしてきた。
 アスカのおでこにその掌が接触した。

 熱が出た。





 ママ、私とっても幸せ。
 あの日、熱がぐっと上がってさすがの私もベッドでうんうん唸ってただけ。
 だけど、ずっとシンジが世話をしてくれていたみたい。
 断片的にしか記憶がないんだけどね。
 それが凄く残念。
 でもでも、もし意識がしっかりしてたらきっと熱が上がりっぱなしになっていたかも。
 ああ、見てみたかったなぁ。
 シンジがどんな顔で私の看病をしていたかを。
 面倒くさそうな顔だったら、私がっくりきちゃう。
 たまには病気もいいかもね。




 

「あなた、アスカが風邪を引いたんですって」

「なにっ!」

 まるで宇宙人が侵略してきたかのような勢いでハインツが振り返った。
 血相が変わっているその表情にマリアは笑みを漏らした。

「大丈夫ですよ。彼に看病してもらって嬉しそうですし」

「おお、日本の医療は大丈夫なのか?変な薬など飲んでるんじゃないか?」

「あなたったら。日本は先進国ですよ。ただ、あそこはアロパシーがほとんどだったんじゃなかったかしら」

「なんだ、そのアロパシーって言うのはっ」

 噛み付かんばかりに問い返してくる夫にマリアは説明した。
 アロパシーは逆症療法で例えば熱が出ているのなら解熱薬、便秘には下剤と、出ている症状と反対の効果があるものを投薬する治療法だ、と。
 その説明を聞いてハインツはああなるほどそのことかと頷いた。
 そして、眉を顰めて…その顰め方がアスカそっくりだといつもマリアは思っていた…質問した。

「もしかすると、日本にはホメオパシーの考え方がないのか?」

「さあ、どうでしょう。少なくとも西洋医学の分野ではアロパシーが主流だって聞いてますよ」

「わかったっ!」

 聞くなり家を飛び出していったその姿にアリアは笑い転げた。
 おそらくホメオパシー薬剤を山のように購入してくるのだろう。

 ※ホメオパシー…類似療法と呼ばれ、例えば健康な人が服用すると発熱する類の薬を極微量投与し発熱を治療する方法。(作者註)

 置き場に困るだろうが、それがアスカのハインツへの感情を和らげることに繋がるのだからまあいいだろう。
 このことを面白おかしく手紙に綴らねば。
 


 その月末。
 アスカからの返事が来た。
 ぎこちない父への感謝の言葉と、そして物騒なことが追伸で書かれていた。





 追伸

 ねえ、ママ。
 私、看病したいの。
 うんうん苦しんでいる彼を優しくいたわってあげるの。
 でも、彼ったら健康そのもの。
 華奢な感じなのに全然病気とかしないのよ。
 そうだ、今度シンジにホメオパシーの発熱剤をこっそり飲ましてみようかしら。
 いい考えだと思わない?






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