幼馴染

 

−序−

あの頃のいつかある日、
雲ひとつない夏空の下にて




 少年がその幼馴染に恋をしたのはいったい何時の頃からだったのだろう。
 それは彼にはわからなかった。
 だが自覚した日はよく覚えている。
 あの、暑い夏の日。
 夏の日差しが容赦なく照りつけている、夏休みに入る2日前のことだった。
 少年はD校舎の裏に呼び出されていた。
 相手は一年上の3年生の女子。
 ハンドボール部のキャプテンで学年の中でも指折りの容姿だと人気があり、放課後や休
みの日に男子と二人でいるところを何度か目撃されている。噂によると先頃付き合ってい
た相手と別れたとのことだ。
 その彼女が少年に目をつけたのだ。
 蝉の音、吹奏楽部の練習する音、どこかで噂話に興じている女生徒の笑い声、ここから
は見えないがグラウンドで汗びっしょりになっている運動部の連中の声。
 そんな音が混ざり合っている校舎の裏で、彼女はうっすらと額に汗を滲ませていた。
 男子から人気の笑顔は既に彼女の顔から消えてしまっている。
 絶対に大丈夫という自信があったわけではないが、少しは考えてくれるのではないかと
は思っていたのだ。
 しかし交際を申し込んだ少年はいともあっさり無理だと断った。
 微笑を浮かべながら謝罪する少年に彼女は理由を問う。
 彼は悪いけど好きじゃないからだと告げた。
 そして、付け加える。
「きっと僕なんかよりもっといい男性が…」
「やめてよっ」
 無理矢理の笑顔が引っ込んだ。
 咄嗟に叫んでしまった彼女の顔が強張っている。
「よぉく、わかった。そういうことって言っちゃいけなかったのよ」
 少し怒ったような、少し哀しいような、そして毅然とした表情を浮かべた彼女の顔を少
年は見直した。
 ああ、綺麗だ、と。
 だが、それはあくまで表面的な美しさだけであって、精神的な部分は皆無だった。
 
「私、同じ言葉を随分言ってきたのよね。これって逆にきついわ」
 彼女は言葉が止められなかった。
 不思議だと感じた。
 どうしてこんなに饒舌になるのか。
 そう言えば、これまで彼女に告白し断られた男子は大きくふたつに分かれていたことを
思い出す。哀しげに黙りこむか、照れ隠しのように喋りだすか。
 間違いだった。
 これは照れ隠しなんかじゃない。喋っていないと、心の中がどうにかなってしまいそう
なのだ。こういうことだったのかと、乱れる頭の中のごく一部で至極冷静な自分が納得し
ていた。
 その上、彼女は内心忸怩たるものとなっている。
 もっと軽い気持ちで声をかけたって言うのに、なんだか断られてからの方が余計に好意
を持ってしまっている。まったく何てことなの、と彼女は自分にあきれた。
 だが、少年の方はそんな彼女の内面のことなどわかりはしない。
 一歳年上の先輩が喋る姿を見て、心の中で大きな溜息を吐いていたのだ。
 もうしばらく我慢すればいい。
 そうすれば、この嵐も収まる。
 彼は微笑みを溜めたまま、じっと待っていた。
 
「おぉ〜い!」「どこにおるんやぁ?」
 助かった。
 少年は思わず笑みを深くした。
 昇降口に残してきた友人二人が痺れを切らして探しに来た様だ。
 先輩は苦笑した。
 少年の様子を察したのである。
 彼女は短い髪を指で弾いて微笑む。
「私、髪伸ばそうかしら。まあ、金髪にはしないけどね」
 その意味深な笑顔に少年は苦笑した。
「アイツとは関係ないですよ。これは…」
「嘘言わないでよ。好きな人がいるからって本当のことを言われる方がすっきりする」
「だから、いませんよ。好きな人なんて」
 彼は心底からそう思っていた。
 この時までは。
「アイツは友達。ただの幼馴染ですよ」
 くだらないことを言うなとばかりの彼の顔をじっと彼女は見つめた。
「じゃ、あの子が誰かと付き合ったら?キスとかしたらどうなの?そうやって笑っていら
れる?」
「それは…」
 少年がはじめて口ごもった。
 何事も立て板に水が如くに喋る彼が。
「おった!こっちや、ケンスケ」
「おい!探したぞ、渚……えっ」
 声高にやってきた二人が友人の傍に立つ先輩の姿を見て口をつぐんでしまう。
 こういう場の空気などは敏感に察知できるものだ。
 彼女は背筋を伸ばし、精一杯の笑顔を作った。
 そして、立ちすくんでいる二人の真ん中をゆっくりと歩いていく。
「あ〜あ、振られちゃった。ショックぅっ!」
 努めて明るい声を張り上げた。何と自分は見栄っ張りなんだろうか、と彼女は自嘲しな
がらも同じペースで歩き続けた。
 ゆっくりと退場してやる。
 少なくとも、彼らの視界にいる間は。
 彼女は唇をきつく噛んだ。
 その後姿を呆然と見送って、相田ケンスケは大きく首を振った。
「おい、渚。お前、ミサト先輩を振ったのか」
「なにぃっ。ミサト先輩につきおぅてって言われたんかっ、ほんまかっ」
「まあね」
 詰め寄る鈴原トウジをいなす様に、渚カヲルは己の背中を校舎の壁に預けた。
 
「お、お前!なんちゅうもったいないことをぉっ〜!」
「ああ、羨ましい。俺だったら、間髪をおかずにOK!だぞ」
「わしもや!一生大事にしますって言うでっ」
「それじゃ、俺はお墓に一緒に入ってくださいって頼む!」
「アホか、それやったら、心中に誘うとるみたいやんけ」
「馬鹿か、心中なんかするかっ。先輩と付き合えるんなら死ぬまで付き合うぞ」
「で、どこを突き合うんや?え?ぐふふ、先輩のおっぱいホンマにごっついからのぉ」
「ああ、一度でいいから触ってみたいぜ」
「アホっ。一度やのうてずっと触りたいわい」
 馬鹿らしいことを言い合っているが、彼らも性に目覚めたお年頃だ。
 臆面もなくこういう話ができるのは周りに女子がいない所為でもあっただろう。
 それにこうした話題に食いついてこないカヲルをからかうという意味もほんの少しだけ
あった。映画雑誌などでヌード写真に鼻息を荒くする友人にひきかえ、彼は純粋に美的観
点からの感想しか漏らさないのだから。「まだ子供やねん、こいつは」と認定されても、
カヲルは「そういうことにしておこうか」と澄ました笑顔しかしない。
 だからこそか親友二人が声高に騒ぎ続けるのを尻目に、カヲルはそっと溜息を吐いた。
 確かにこれまで考えたことがなかったのは確かだ。
 葛城ミサトが言い残した言葉。
 これまで、同級生たちにからかわれたことは何度もある。
 幼馴染との親しい関係はみんなの目から見ると恋人同士にしか見えないという。
 だが、彼も幼馴染の方も笑って否定していた。
 自分たちはただの友人だ、と。
 そう主張すればするほど、疑惑はつのっていたのだが彼ら二人からするとそれ以上に言
うことはなかったのだ。
 本当に二人はただの仲のいい幼馴染に過ぎない。
 しかし、傍目から見るとそれが異性の友人としてはあまりに仲がよすぎる。
 だから、渚カヲルと惣流・アスカ・ラングレーは交際していると一般認識されていたわけ
だ。
 少なくともこの第壱中学校では。
 二人の共通の友人であるトウジやケンスケでさえ、現状では交際していないことは知っ
てはいるのだが、そのうちにそういう関係になるものと思っていたほどだ。
 彼は再び溜息を吐くと、頭を壁につけてそのまま空を見上げた。
 雲ひとつない青空。
 真上の教室から合唱部の歌声が聴こえてくる。
 自分の好きなシューベルトの『菩提樹』だったからか、わが意を得たりと彼はにやりと
笑った。
「歌はいいねぇ」

 


 

 

−壱−

気取屋カヲル、
恋の味を知りしとき




 カヲルは学習机の椅子に腰掛けている。
 そして両足をぼんと机の上に投げ出して椅子を斜めに傾けていた。
 彼は喉を大きく伸ばして天井を見つめて、じっと目を瞑って考えている。
 ただしその思考が行きつ戻りつしているのは時折顔を動かしていることでわかる。
 ステレオから流れている交響曲にリズムを取っているのだ。
 渚家の両親は一人息子を信頼しているのかどうか、帰りがすこぶる遅い。応接間に置い
ていたステレオを息子が部屋に持って上がると言い出しても、近所迷惑にならん程度でか
けるんだぞと笑って許した。
 このステレオから流れる曲はすべてクラシック音楽である。
 膨大なレコードをコレクションしていた父親に彼は感謝していた。その一方でそんなに
好きな音楽を聴く余裕もないほど働いていることが可哀相だとも。
 しかしながら今、彼が考えているのは両親のことではない。
 隣家の幼馴染についてだ。
 交際の申し込みを断った葛城ミサトに言われた言葉。
 
 あの子が誰かと付き合ったら?
 キスとかしたらどうなの?
 そうやって笑っていられる?
 
 笑っていられるのか、僕は?
 自問自答したカヲルは、その時に出くわした時の自分を想像してみようとした。
 だが想像はできず、逆に胸の中がもやもやしてくる。

 どうしたんだ、らしくないぞ。
 
 別に気取っているわけではないが、クールだとの評判はあながち間違いではないと自負
している。
 それなのに、こんな想像ができないのが歯がゆくてならない。
 カヲルは精神を統一して、相手役を舞台上に引っ張り上げてきた。
 鈴原トウジに相田ケンスケだ。二人ともアスカがキスしてくれるというなら喜んでする
だろう。身近な友人に登場してもらったのだが、キスするどころかそれ以前に彼らは強制
退場させられた。アスカのすぐ傍に立っただけで、カヲルは舞台から二人を追い出したの
だ。
 カヲルは瞼を上げた。
 だめだ、想像できないのではなく、許せないのだ。
 彼女のキスが許されるのは自分しかいない。
 
 その瞬間だった。

 彼が自分の想いを自覚したのは。
 だが、だからと言ってどうなのだ。
 カヲルは笑みを深めた。
 あんなじゃじゃ馬でお転婆な幼馴染を御することができるのは、この宇宙でただ一人自
分だけだ。彼女も自分のことを深く信頼しているではないか。交際を求められる度に全部
カヲルに報告してくる。映画や買い物にも何度も二人だけで行っている。
 これまではカヲルはそれをデートとも思わず、ただ遊びに行っただけだと思っていた。
 おそらく、彼女は…。
 彼は断言できる。
 アスカはまだ恋を知らない。
 恋に憧れてもいない。
 まだ子供なのだ。
 あんなに男子に人気があるにもかかわらず。
 カヲルはレコードに合わせて鼻歌を歌った。
 楽しそうに、嬉しそうに、指で調子をとりながら。
 彼女に一番近い場所にいるのはこの自分だ。
 しかも彼女のことを彼女の両親を除いて彼が一番知っているし理解している。
 そして、彼女が男子の中で彼だけを名前で呼ぶ。トウジとも幼稚園から一緒なのに、昔
から呼び名は“鈴原”か“ジャージ”であった。
 きっと彼女の親友である綾波レイよりもカヲルの方がよく喋っているだろう。元よりレ
イは無口な方だから、アスカが一方的に喋っているに違いないが。
 よく考えることもない。
 同級生たちが言うように、これは“つきあっている”のだ。
 彼女が自覚していないだけで。
 つい今しがたまで自分も自覚していなかったことを棚に上げて、カヲルは結論付けた。
 焦ることは何もない。
 これまで通りの生活を続けていけばいいのだ。
 そうすればそのうち彼女も自覚することだろう。
 一学年が8クラスもあるから、アスカと同じ組になる可能性は少ない。小学校で一度、
それと中学1年の時だけだった。今も隣のクラスで体育の時に合同になることが運がいい
方だとも言える。因みにアスカと同じ1組なのはトウジだけで、カヲルは2組。レイは5
組、ケンスケは遥か彼方の7組で、洞木ヒカリは4組。中学1年の時のグループはそれな
りに分かれてしまっている。
 そういう意味ではアスカの学校での言動に眼が届きにくいのは確かだ。
 だが、まず彼は安心している。
 同級生たちの中でアスカが恋をするような者はいない。
 恋心という彼女の意識内で埋もれた存在を目覚めさせる者などいるはずがない。
 しかも、あのお転婆アスカがそう簡単に目覚めるとは思えないが…。

 ゴン、ゴン。

 タイミングがまさしくばっちりだった。
 危うく彼は椅子ごと後方に倒れてしまうところである。
 何とか踏みとどまったカヲルは息を整えた。
 そんなに長い時間ではなかったが、気の短いお隣さんにはそれがかなりのロスタイムだ
ったようだ。
 
 ゴンゴンゴンゴン!

 窓ガラスを叩く音の感覚が短くなり、音も大きくなっていく。
 まさかガラスを割りはすまいが、その保証はまったくない。
 カヲルよりも数倍暴力的な人間なのだから。
 惣流・アスカ・ラングレーという金髪碧眼の少女は。

 カヲルは嬉しげに微笑むと、窓の前に立ちレースのカーテンをさっと開いた。
 ガラスの向こうには隣家の窓の灯り。
 その灯りの中心に彼女がいた。
 アスカは早く開けなさいよと睨みつける。
 彼はわざとゆっくりと窓を開いた。
 一気にむわっとした空気が彼に押し寄せてくる。

「こらっ、早く出なさいよ、カヲル」

 彼女は窓ガラスを叩いていた角材をカヲルの鼻先に突きつける。
 さすがに中学生になってからはガラスを割ってはいけないという配慮で角材の先には布
を巻きつけるようになった。
 思えばこの棒を使うようになってもう5年になる。
 この角材はアスカの名付けたところの“ゆうじょ〜のかけはし”の為れの果てだ。
 小学校3年生になった彼女は隣家の幼馴染のところへ遊びに行くのに、わざわざ一階に
降りて靴を履いて外に出るのが面倒になったのである。
 そして空き地などから角材やパイプなどを集めて家と家との間に通路を作ろうとしたの
だ。
 向かい合う幼馴染の部屋の窓への距離はわずか2m足らず。窓と窓との間に橋を渡せば
いいと考えたアスカはその名案に有頂天になり、無理だと思うよと言うカヲルを尻目に材
料を収集にかかり、そして部屋の中にこっそりと資材を持ち込んだのである。
 しかしながらこの壮大な計画は建設中に母親に発見され、彼女はお尻をしこたまぶたれ
た。
 おそらく彼女の計画通りに完成したとしても、彼女の手が窓の縁から離れた瞬間に友情
の架け橋ごとアスカは転落し大怪我をしていたことは間違いない。
 二度とこういう真似をさせまいと母親が彼女の前で実験をして見せたのだから。彼女の
集めた材料をくくりつけ橋渡しをし、その上に漬物石を置いた瞬間に万有引力の法則は見
事に橋を崩壊し擬似アスカを落下させ、さらにそれをきれいに3つに割ってみせたのだ。
 母の折檻が怖かったのか道理をわきまえたのか、アスカは二度と通路の建設を試みよう
とはしなかったが、この時折れずに生き残った角材一本だけは手元に残した。
 そしてそれをカヲルを呼び出すときに使うようになったのだ。

「クーラー使ってたんでしょ。この贅沢もんがっ」

「暑いからねぇ。それにどこかのお隣さんがこの素晴らしい音楽を騒音だって叫ぶから」

「はんっ、どこが素晴らしいのよ、素晴らしいのはこっちよ、こっち」

 背後から流れている音楽を彼女は誇らしげに瞳を動かして示す。

「ビートルズならイエスタディとかミッシェルとかにすればいいさ」

「あんなの、眠たくなるだけよ。勉強のBGMには不向きこの上ないわっ」

「よくもまあ、そんなに騒がしい音楽を聴きながら勉強なんてできるもんだね」

「頭の出来が違うのよ。で、そっちは何?モーツァルト?」

「違うよ、ベートーベンさ。ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2。
 『月光』と呼ばれているのさ。ケンプはいいねぇ。見事な演奏だよ」

「ケンプ…?ああ、ピアノの人ね。自分では楽器は全然駄目なくせに」

「君だって駄目じゃないか」

「ふふん、でもまあ、ベートーベンならピッタリじゃない。
 今かかってるのわかる?Roll Over Beethoven!
 ベートーベンをぶっとばせ!よっ。サイコーじゃない?」

「最低だね。酷い題名だよ」

 クラシックとロックが家の境で衝突しせめぎあっている。
 それは別に珍しいことではない。渚家と惣流家の境界線では常に前世紀以前の巨匠と2
0世紀の巨匠が真っ向から対決していた。
 だが、カヲルもアスカもその対決に決着をつける気はさらさらなかった。
 相手の趣味に合わせる気がまるでなかったのである。
 とはいえ、この状況では喋りにくいことこの上ない。そこで二人はいつものようにそれ
ぞれの音源のボリュームを下げに行った。まだ曲は鳴っているにもかかわらず、二人の周
りが急に静かになった印象を受ける。
 カヲルは微笑を深くし、アスカはニンマリと笑った。
 彼はその笑いに彼女のわくわく感を受け取った。
 相変わらず実にわかりやすい。
 しかし、彼はアスカが口を開くのを待った。
 それが彼のスタンスだからだ。

「聞いたわよっ」

 なるほど、用件はわかった。
 今日の葛城先輩からの告白の件だ。
 元々察しのいいカヲルだが、ことアスカのことになると余計に察しがよくなる。
 この幼馴染が非常にわかりやすい性格をしているということもあるのだが、
 やはりこの二人が物心ついたときから一緒にいるということがすべてだろう。

「アンタ、あの葛城先輩をふったんですってぇ」

 カヲルは彼女の表情を観察した。
 もしかすると、その面に嫉妬心やら猜疑心やらといった類のものが浮かんではいないか
と。
 かなりの期待を込めて、彼はアスカを見た。
 しかし、そこにはきらきら光る青い瞳と楽しくて仕方がないという表情しか見えない。
 駄目だ、これは。
 カヲルは簡単にあきらめた。
 今の状況のアスカには恋愛という感情が欠如している。知識としてはあるし、好奇心も
あるのだろうが、実感はまったくないのだ。だから交際を申し込みに来る男子にはあっけ
らかんと断りの返事をしていた。「アタシ、全然興味ないのよ。そういうのにさ」、と。
 この返事とカヲルの断り文句のどちらが相手を傷つけないか。
 そんなことは二人とも考えもしていない。
 自己中心的というか、それが恋を知らないという証拠だったのか。
 
「ああ、そういうことになるね」

「もうっ、また気取っちゃってさ。で、でっ、どうだった?葛城先輩泣いた?」

「悪趣味だねぇ、君は。涙は見せてないよ」

 表面上は、という言葉は付け加えなかった。
 デリカシーが欠如しているように見えても、彼にはそういうぎりぎりのラインで踏みと
どまっている。だからこそ、学校でもつまはじきにされることもなく過ごしているのだ。

「なぁ〜んだ。残念。まっ、男子に超人気のあの人がアンタに振られたっていうのは、ま
あ、あれよ、凄いってことね」

「で、誰に聞いたんだい?トウジ君か?」

「はぁ?どうしてこのアタシがあんなジャージ男とアンタのことを喋らないといけないの
よ」

「へぇ、そうなんだ。じゃ、噂かい?」

 ケンスケの方はトウジよりもさらにアスカと話さない。
 カヲルはあっさりとその答を捨てた。

「レイから電話があったのよ」

「へぇ、女子はそういうことに連絡網を使っているのかい?」

「まさか。まあ、レイの電話を切った後にヒカリにもすぐ電話して教えてあげたけどさ」
 
 カヲルは苦笑した。
 女性というものはやはり噂話というものが大好きなようだ。
 ゴーイングマイウェーを旨とする彼にはとんと興味がわかないものなのだが。
 今、彼に興味があるのはアスカだ。
 彼は軽くジャブを打ってみた。

「そうだねぇ、もし彼女の申し出を僕が受けていたらどうだい?」

 少しばかりの期待を込めて、彼はおどけるように言った。
 すると彼女はいくばくか額に皺を寄せ瞳を宙に彷徨わせた。
 これは困惑とか憤激を意味するのではないことはカヲルには百も承知だ。
 彼女が精一杯想像している時の表情なのだ。
 そして彼女は口を開いた。

「やっぱ、駄目ね。
 ま、並んでたら見た目は合うかもしれないけど、アンタの趣味とはねぇ。
 きっとそうねぇ、ヒデキかジュリーって感じ。クラシック聴いたら欠伸しそうだしさ」

「そうかなぁ」

「そうよ。例え、学校一の美人でもアンタにゃ合わないわ。ま、先のこと考えたら断って
正解かもね」

「ふぅん。じゃ、僕に合うのはどんな女の子かな?」

 内心どきどきしているなど他人にはわかるまい。
 鉄壁のポーカーフェイスである。
 しかも無表情なのでなく、にやにや笑っているのだから余計にわかりにくい。

「わかんないわよ、そんなの」

 アスカは即答した。

「とにかく、カヲルの相手は並の人間じゃ駄目ってことよ」

「なるほど、じゃアスカは並の人間じゃないってことだね」

「はははっ、そうよね。毎日毎日アンタの相手をしてやってんだもん。
 もしかしたらアタシって世界一忍耐強いのかもしんないわ」

 腰に手をやって彼女は豪語した。

 それは、忍耐強いんじゃないだろう?
 好き、ってことさ。

 カヲルはその言葉を飲み込んだ。
 まだ早い。
 今、そんなことを言えば、この見かけよりもかなり繊細なアスカは戸惑ってしまうだろ
う。
 そしてその戸惑いのあげく、間違った選択をしてしまうかもしれない。
 彼は焦らなかった。ことアスカ争奪戦においては彼は一歩も二歩も、いやグラウンドを
10周以上ライバルに差をつけている。その自信はたっぷりあった。
 だから、悠然と彼は話題を変えた。

「明日はどうするんだい?」

「明日?明日はお昼からレイとテニスをしに行くの。アンタも来る?」

 恋を知った今となってはその誘いは嬉しいものだったが、同伴者が彼は気に入らなかっ
た。
 彼の目から見ると綾波レイは尋常以上にアスカに接近している。あれはレズビアンだと
噂されても仕方がないくらいに。ただし、カヲルの存在がアスカとレイが怪しいという噂
を発生させなかった。ましてやアスカがカヲルとレイを二股に掛けているなどといった、
耽美な世界感などこの当時の子供たちには想像の域を超えている。

「やめておくよ。どうも彼女は苦手だ」

「どうしてよっ」

 いつもと同じ理由が返ってくるとわかっていても、親友が大好きなアスカは聞き返さず
にはいられない。そしてカヲルの方も同じ会話の繰り返しだとわかっているのだが別に気
にせずに理由を口にする。

「彼女は反応が悪いからねぇ。何を言っても睨まれるだけだし」

「それはアンタが悪いんでしょ。くだらないことばかり言うからよ」

 何度も何度も繰り返されてきた言葉の応酬である。
 かなり暑かった昼の名残は無防備になった窓からどんどん侵入してきて、快適だった部
屋の温度はぐんぐん上がっていく。したがって二人も額や背中に汗が滲んでくるのだが、
お喋りの楽しさに肉体的な不快感は気にならない。
 
「くだらないはないと思うよ。僕はいつもいろいろと考えて喋っているのだからね」

「はぁ?どの口からそんなこと言うんだろ。壊れた蛇口みたいにだだ漏れじゃない」

「ふふん、溢れ出る知性の泉。みんなは僕の話の深さがわからないのさ」

「アタシ、潜水は苦手なの。そっちの方はレイが得意よ」

「僕は浮かんでいるのが好きさ。どうして体育の授業に浮き袋はいけないんだろう」

「またまた馬鹿なことを。でもいいわよねぇ。おっきな鮫の浮き袋とか」

「ジョーズのテーマを流してかい?いいねぇ、それ」

「流すのよ。歌わないでよ、頼むから。アンタってびみょ〜に音痴なんだからさ」

「酷いこと言うなぁ。君レベルの音楽センスじゃわからないのさ」

 会話に脈絡がない。
 だが、それこそが気の合った者同士というものだろう。
 討論会ではないのだから。

「レイが巧いのよ、歌。あの子、恥ずかしがり屋だから小さな声でしか歌わないんだけど
さ」

「へぇ、そうなんだ。仏のレイちゃんがねぇ」

「仏ぇ?」

「そうさ。綾波レイちゃんは仏のレイちゃん。そう思わないかい?」

「そう?」

「ああ、仏様、観音様、菩薩様。ほら、彼女は無表情だけど、何となく笑っているように
見えるじゃないか」

 カヲルは冗談で言っているのではなかった。
 
「まあね。でもよく見てるわね、アンタ」

「お褒めに預かり恐悦至極。僕は注意力が鋭いからね」

「はいはい。でも大抵の子があの子の事無愛想で仏頂面って言うのよ。酷いんだからっ」

「そうかなぁ。アルカイックスマイルは素敵だと思うよ」

「アルカ…って何よ」

「おやおや、学年トップのアスカさんでも知らないことがあるのかい?」

「教科書に載ってないんでしょ、どうせ。ほら、教えなさいよ」

 カヲルはアスカに講釈した。
 ギリシャや飛鳥時代の彫刻に見られる微笑のことだ。
 古拙の微笑とも言われ、内面の美しさがそのかすかな笑みに表されている。
 淀みのないカヲルの説明を受けてアスカは素直にうんうんと頷く。

「なるほどね、ま、確かにレイの表情はそのアルカイックスマイルってヤツよ。
 でも、まあいつものことだけど、アンタそういうことはよく知ってるわよね」

「ああ、僕は美しいモノが好きなのさ」

「そういやそうね、修学旅行に行った時、みんな台風みたいにお寺なんか走り抜けて行っ
たのに、アンタだけは仏像とかそんなのの前で動かなかったわよね」

「ああ、そうだよ。美しかったねぇ、仁王像でさえそうだよ。そして、君はみんなの先頭
で走っていたよね」

「そうだったっけ?」

「そうだよ」

「でも、何か嬉しいなぁ」

 アスカが笑った。
 思い出話が懐かしくて嬉しいのか、それともカヲルの講釈を聞くことなのか。
 どちらにしても彼にとっても嬉しいことなのだが、笑いの元は違った。

「レイの微笑が飛鳥時代の仏像っていいじゃない?ねっ」

「そっちか」

 レイがアルカイックスマイルならば、カヲルの笑みは黄金仮面か。
 笑みが深い分だけ人はみなそれに誤魔化される。
 これもまたポーカーフェイスと言うべきかもしれない。
 アスカは確かに頭がいい。
 だが芸術家タイプではない。じっくり人の心を読んだり読ませたりというようなことよ
りも身体を動かし、脳髄を働かせる方が得意だ。だからカヲルの心の動きの深いところま
では見抜けない。
 ただし、そこは幼馴染だ。本当に笑っているかどうかの見分けくらいはつく。この時も
彼がちゃんと笑っていることはわかったから、彼女も楽しそうに笑った。
 しかし、この時の彼の笑いが期待が崩れたことに対する苦笑と自嘲が入り混じったもの
だとまではわからない。
 たとえ幼馴染相手でもそれを悟られるようなカヲルではないのだ。

「で、仏のレイってわけぇ?なんだかねぇ」

「みんなは好きに呼べばいいさ」

 呼び名。
 カヲルにとって、アスカはアスカであって他の呼び名などない。
 恋心を確認した今となってもそれは同じだ。
 愛しいアスカとか、可愛いアスカ、ではない。
 彼女はただ“アスカ”でしかないのだ。

「でも、何となくいい感じ。レイはどう言うか知らないけど」

「きっと睨まれるさ」

 カヲルはさらりと言い捨てる。
 アスカへの気持ちを自覚した今、彼女の親友であるレイへの軽い反感の正体が了解でき
た。
 嫉妬だったのだ。
 アスカに一番近いのは自分だという想いが、ややもすればレイへの憎まれ口になってい
たのかもしれない。
 やれやれ人間というものは弱いものだと、達観癖が彼の脳裏を掠めた。
 これからはせいぜい憎まれ口は慎むことにしよう。
 好きな人の親友なのだから少しは敬意を表せねば。
 そんな軽い決意が大きな事件の発端になったとは、さすがの彼も気づくことはなかった
のである。

 満月が明るく輝いていた、そんな夜の出来事だった。

 

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