かつて存在したバファローズという名の球団に在籍した、
すべての選手とスタッフ、裏方さん
そしてその球団を愛していた人に捧げます。


 

因みにバファローズファンは、バファローズと書いてそこに“ばっふぁろーず”とふりがなをうちます。

 

 

 

幸せは球音とともに

ー 1975編 

〜 下 〜


 

2004.12.29        ジュン

描:神有月葵

 
 





 昭和50年9月21日。
 場所はあの西宮球場。アスカと出逢った思い出の場所だ。
 その日の第二試合に勝利した近鉄バファローズは後期シリーズを優勝する。
 球団創設以来、初めての優勝だった。

 そして、僕とアスカはその場に居合わせたんだ。
 その日は日曜日だった。

「早くっ!急ぎなさいよ、馬鹿シンジっ!」

「ま、待ってよ。まだ11時だよ。試合開始は3時半じゃないか。そんなに急がなくても…」

「ば、馬鹿ねっ、アンタホントに馬鹿っ!私たちの近鉄が初めて優勝するのよ!
 みんな球場に押し寄せているのに決まってんじゃないっ!」

 その時は、そうかなぁ…とのんびり構えてた。
 西宮北口駅に到着するまでは。
 
 今津線のホームに降りる。
 ええっと、あれ?
 何だか、いつもより近鉄の帽子をかぶってる人が多いような…。
 駅の南口の改札を出ると、お馴染みの球場までの道に人が溢れている。
 
「ほらっ!私の言った通りじゃないっ!」

「う、うんっ。こんなに早い時間に…凄いやっ!」

「行くわよ!いつもの席取れないかも!」

 アスカは僕の手を握り締めて、足を早めた。
 いや、早めただけじゃなく、だんだん靴が地面についている時間が短くなっていく。
 そして、いつの間にか走り出した。
 当然引っ張られてる僕も駆け出すことになる。
 目の前を歩いている大勢の人を掻き分けるようにして走る。

「もうっ!こんなに多かったら全速力出せないよぉっ!」

「アスカ、危ないからさ。もうちょっとゆっくり!」

「馬鹿馬鹿っ。3塁側内野席入れなかったらどうすんのよっ!」

「そ、それはイヤだけど…」

「だったら、アンタも急ぎなさいよっ」

 急ぐよりもアスカの手を離さないようにする方で精一杯だったりして。
 これだけ人が多かったら絶対に迷子になっちゃうよ。
 人の間を縫っていくと、みんなが喋っている声が聞こえる。

「今日こそ決まりやで」「殿下やろ、第一戦は」「昨日は山口にしてやられてもうたなぁ」
「うちの連中みんな固くなっとぉもんな」「そりゃしゃあないで。初めての体験ちゅうやっちゃ」

 そう。近鉄にとっては初めての優勝。
 ナインはともかくファンも初めて。
 モチベーションは上がりっぱなしなのだ。
 金曜日は神部と足立の投げあいで1対1の引き分け。
 昨日の土曜日は、序盤に3点を取られてそのまま山口高志に完封されてしまった。
 今日のダブルヘッダーこそは!ってみんな意気込んでいるのがよくわかる。
 僕たちは宝塚に住んでいるからいいけど、近鉄ファンの多くは大阪南部だものね。
 とにかく一勝すればいいんだけど、なかなか勝てないものだ。

 急な階段を駆け上がり、回廊をひた走り、3塁側の内野席にたどり着くと、
 そこはもうけっこう人が埋まっていた。

「あちゃぁっ!もうこんなにっ!」

 開門時間より早めだったと思う。
 でも、内野席はもうかなりの入りになっていた。
 なにしろ、この日の観客数は2万8千人。
 土曜日に樹立した今年の西宮球場の最高記録(2万人)を大きく超えていたんだ。
 それでも、その日のセリーグの後楽園や中日球場よりも観客数は少ない。
 実はこの試合も関東ではテレビ放送は一切なし。
 NHKのラジオだけが第二試合に優勝がかかった場合だけ放送されるという寂しいものだったと僕は後になって知った。
 まあ、この当時のパリーグってそんなものだったんだ。

「シンジ、あそこっ!」

「あ、うん!」

 僕たちは内野自由席のかなり外野側、そしてスタンドの上側に陣取った。
 いつもは応援団の近くに座っているんだけど、今日は仕方がない。
 3塁側から溢れて、立見や一塁側に回らないといけないのはもっとイヤだ。
 みんな日頃より興奮しているんだろう。
 守備練習をしている近鉄の選手に声援を送ったりしている。

「モーやんっ!今日は頼むでっ!」「伊勢大明神様、お願いしますっ!」「西本さん、よろしゅうなぁっ!」

 試合開始が近くなると、3塁側内野席には空席はまるでなし。
 2階席と1塁側。そして外野に空間が少し見えるくらいだ。
 正直言って、こんなに観客の入った西宮球場を見るのは初めてのこと。
 もっとも阪急の優勝がかかった試合ならもっとお客さんが入るんだろうけどね。
 近鉄ファンである僕とアスカにはこんなお客さんの中にいるのは初めてだ。
 振り返ってみると、どの顔も笑いながら強張っている。
 僕も多分同じ表情だったんだと思う。
 アスカだってそわそわしてたんだもの。
 近鉄ファンをしていてこんな日が来るとは、はっきり言って想像もしていなかったのだから。
 近鉄が優勝する?
 たとえ前後期制の後期だけの優勝だとは言え、球団もファンも優勝は未知の領域。
 どういう風にすればいいのか全然分からない。
 とりあえず、今日用意してきたのは、
 水筒、おにぎり、サンドイッチ、双眼鏡、紙テープを10個ほど、お小遣い二人分720円。
 使いすぎちゃって切符代がなくなったら大変だから、西宮北口駅で帰りの切符はもう買ってあるんだ。
 もっとも、お昼用のおにぎりとサンドイッチはもう全部食べてしまってる。
 第二試合の方は、球場の売店のうどんとお好み焼きでお腹を満足させる予定。
 ああ、だんだん興奮してきた。

「シンジ、ああっ、早く試合始まらないかしらっ!」

「うん、わくわくって言うか、待ちきれないって感じ」

 応援団の人たちも声高に談笑してるし、野次と言うより応援がグラウンドに飛んでいる。
 そして、僕たちも。

「じゃんけん、ポンっ!」

 僕の負け。
 てことで、僕が最初に叫ぶことになった。
 アスカと出逢った日に初めて大声でグラウンドに向って叫んだっけ。
 あんなにすっとしたことはなかった。
 中学生になって少し恥ずかしさもあるけれど、やっぱり応援は大声を出さなきゃ。
 これは発声練習みたいなもの。

「いけっ、シンジ!」

「よしっ!」

 思い切り吸い込んで…。

「がんばれぇっ!今日こそ優勝だぞぉっ!」

 立ち上がって、両手をメガホンにして大声で叫ぶ。
 
「そうやっ!今日こそ頼むでっ!」「優勝してやっ!」

 僕の声に何人かのおじさんが続く。
 ああ…気持ちいい。
 アスカを見下ろすと、にっこり笑って僕を見上げている。
 そのアスカとぽんっと掌を合わせて、僕が座る。
 バトンタッチされてアスカが立ち上がった。
 その時、顔なじみになってる応援団の人から声がかかった。
 何しろアスカの存在って珍しいからね。
 金髪の美少女で熱狂的な近鉄ファン。
 ホームグラウンドは西宮球場の3塁側。
 そして、彼女の隣にはいつも頼りなげな僕がいる、と。
 
「お〜い、姉ちゃん。一発いてもぅたれぇっ!」

 応援団の人に手を振ってから、アスカは大きく息を吸い込んだ。
 そして、手をメガホンにして…。

「Hey!×××△△△◎◎◎■■■!」

 わかりません。
 あ、英語の教師である今ならわかるよ。
 でも、この時の中学生である僕にはわざと訛りを強くしたアスカの英語はちんぷんかん。
 アスカは叫び終わると満足げに椅子に座った。
 そして、僕の顔を見ると顎をしゃくって、どうよって感じ。

「へへんっ、意味わかる?」

「全然」

 首を振る僕のおでこをアスカは指で弾いた。

「痛っ」

「ふふふ、それじゃ是非勝ってもらわんといかんね」

 背中の方からおじさんの声。
 振り返ってみるとお父さんよりも年上のおじさんが微笑んでいた。
 僕は何を言っているのか意味がわからなかったんだけど、隣のアスカが真っ赤な顔になり慌てだした。

「あ、あ、え、えっと、まさか、わかったの?」

「お国はケンタッキーかね?」

 痩せた身体でスーツを着たそのおじさんはアスカににこやかに語りかけた。

「あ、あの、全部わかったってこと?」

「ああ、悪いけどあんなに大声ではね」

 アスカはこれ以上ないくらいに真っ赤な顔をして、そのおじさんに手を合わせた。

「お願いっ!今のなしっ!聞かなかったことにしてっ!シンジにだけは教えないでっ!」

「僕にだけはって、もしかして僕の悪口でも言ったの?」

 アスカなら言いかねない。
 憤然としてアスカに文句を言おうとした時、ぽんぽんと肩を叩かれた。
 叩いたのは後ろのおじさん。

「悪口なんてとんでもない。凄くいい彼女だね。大事にしなさい」

「は、はい…」

 気勢をそがれて僕は何となく頭を軽く下げてしまった。
 アスカの方はグラウンドに向き直り、まだおでこまで赤くして俯いている。
 さっきのおじさんはもう隣に座っている連れのおじさんと喋りだした。

「アスカ?」

 僕は俯いているアスカの膝に置かれている手に掌を重ねた。
 びくんっ。
 
「な、な、な、何よっ!」

「何って…何言ったの?」

「う、うっさいわね。何でもいいでしょっ!何言おうが私の勝手じゃないっ!」

 僕の顔を見ないで足元に向かって吼えるアスカ。
 その時、背中からくすくすという笑い声が聞えた。
 振り返るとさっきのおじさんが拳を口元に持ってきている。

「いや、すまない。ただ…」

「ダメダメっ!言わないでってばっ!」

「うむ、わかってるよ。お嬢さん」

 やはりおじさんの顔も見ないでアスカは喋った。
 よほど、恥ずかしいことを口にしたのかな?
 誰にもわかるはずがないと思って。
 まあ、僕なんかところどころの「アイ」とか「バファローズ」なぁんて少しの単語しかわからなかったものね。
 僕がアスカに教えてもらっている英語は教科書通りの英語だから。
 教えながらもこんな英語喋るアメリカ人なんているわけないなんて、アスカはぼやいていたけどね。
 それは今の僕にはよくわかる。



「そうそう、なんたって、アンタは今は英語の教師なんだもんねぇ。まったく、信じらんないわ」

 定位置の椅子にどっかりと座りながら、アスカはそう嘯く。
 僕はここぞとばかりに反撃する。

「本当に残念だよ。あの時の僕はアスカの言葉が全然わからなかったんだもんね。
 今ならぜ〜んぶ聞き取れるのになぁ。理事長みたいに」

 わざとらしくアスカに向かって言うと、彼女はあの時みたいに真っ赤な顔になってしまった。
 まるで思春期の少女のように。

「ば、ば、馬鹿シンジっ!」

 奥様退場。
 退場する時に一発こつんと頭を小突かれてしまったけどね。
 僕の長年の経験と勘で言うと、数分後には紅茶かコーヒーを淹れて、自分の分だけカップを手に戻ってくるんだけどね。
 そして、僕が「お願いします」と頭を下げると、満足げに自分の飲んでいたそのカップを僕に手渡す。
 この歳になると残念なことに間接キスだと胸をどきどきさせたり顔を赤らめることはなくなってしまった。
 いや、本当に残念だ。
 ああいう想いは思春期の若者だけの特権かもしれない。



 さて、現在の僕とアスカの会話の中に出てきた理事長。
 それは現在の聖ネルフ学園の理事長で、その当時は理事の一人だった。
 冬月現理事長は筋金入りの近鉄ファンだったんだ。
 まだ球団名を近鉄パールズって言ってた時からの。
 その時、冬月さんはまだ大学生で、球団が出来た時に大学の先輩が数人近鉄に入ったそうだ。
 で、先輩を応援しているうちに球団自体のファンになってしまったとか。
 その先輩というのは、先日テレビで近鉄とパリーグを馬鹿にした解説者に向かって
 「ふざけんじゃねぇ、お前」と収録後に叱りつけたあの人だ。
 父親くらいの痩身のその人の前で丸々太った解説者は慌てふためいたとか。
 その話を聞いて僕もアスカも少しは溜飲が下がった。
 だいたい、その解説者自体パリーグにいた時はぱっとしなかったくせに。
 まあ、愚痴はいい。
 冬月さんはその近鉄OBに体型は似ているがあんなにいつもニコニコはしていない。
 かといって苦虫を咬みしめているわけでもない。
 その時だって、真っ赤になってしまったアスカに微笑んでいたから。
 
 もうひとつだけ将来のことを言っておくと、僕の就職先を斡旋してくれたのが冬月さん。
 当時は副理事長になっていたっけ。
 これもまた近鉄が取り持つ縁だったって言うわけだ。
 それから何度も西宮球場で顔を合わしたからね。
 その話はまだ10年近く後の話。
 
 さて、1975年の西宮球場。
 第1試合の先発が発表になった。
 ピッチャーは近鉄が大田幸司で阪急はエース山田。
 この時期でまだ9勝の山田だから、勝ち目はあると思った。
 11勝している大田が阪急を抑えていればそのうちに…。
 抑えていれば、ね。
 大田殿下炎上。
 1回1/3で自責点6…。
 3回表に伊勢が3ランを打ったけど。結局9対5で近鉄の負け。
 僕にはトウジの笑い声が高らかにスタジアムにこだまする様に感じた。

 第2試合が始まったのはもう7時を過ぎていた。
 優勝が決まっていたら帰宅する約束だったけど、こうなったらとことん応援しなきゃ。
 今なら携帯電話で連絡は気軽にできるけど、テレホンカードもなかったこの時代に
 負けたから帰れないなんて不愉快な電話を10円も出してできるわけがない。
 きっとニュースでやってるから、帰りが遅いのは承知してくれると思う。
 冬月さんはアスカを慰めてくれていた。
 あ、何度か言葉を交わしている間にそれぞれの名前を名乗ったんだ。
 冬月さんと一緒にいたのは社会を教えていた根府川先生。
 今はもう引退しているけどね。
 まだまだご存命だから今回の合併騒動はかなり頭にきていると思う。
 きっとお孫さんをつかまえて近鉄球団の歴史をぼそぼそと喋っていることだろう。
 まあ、そのお孫さんはセリーグのファンだって聞いてるから同情しないけどね。
 でもその二人がお嬢様学校で有名な聖ネルフ学園の教職員だったとは驚きで。
 アスカに入学の勧誘をしていたけど、もちろん彼女は即座に断ってくれた。

「ごめんなさい。私はシンジと一緒の高校に行くの。
 あ、でも、シンジを入学させてくれるんだったら考えてあげてもいいわ」

 結構です。
 でも、冬月さんは真剣な顔をして答えたんだ。

「うむ、彼なら女装してもわからないかもしれないな」

「ええ、ええ。うちの生徒たちも最近は活発で、男の子のような喋り方をする子も」

「それはいかんな。しかしどうだね、シンジ君。考えてみんかね?」

 僕はぶるぶると首を横に振った。
 とんでもない。
 真顔で冗談を言わないでもらいたいよ。
 この前も理事長室に呼びつけられて言われたんだ。
 「いったいいつになったら私は登場するのか」と。
 1975年の話になって楽しみにしていたのに、全然続きが書かれないのでお叱りを受けたってこと。
 せっかくの優勝の話なのに君は何を考えているのか、と真剣な顔で小言を言われた。
 冗談ですよねって口にしたら「君には失望した。クビだ」なんて、
 父さんなら似合いそうなことでも言い出しそうなんだもの。
 だからってわけでもないけど、書いてます。ちゃんと。
 第2試合へのインターバルの間。
 僕たちはそんな会話をしていた。
 そして根府川先生がお好み焼きを買いに行ってくれたけど売り切れ。
 奢ってあげようと思ったんだけどすまないねと言ってくれた。
 その気持ちだけで充分です。
 それに優勝への期待感で胸いっぱいで空腹は感じてなかった。
 
 試合が始まる。
 近鉄は売り出し中の井本で阪急の方は白石が先発投手。
 で、いきなり1回の表に近鉄は一点を先取した。
 ただしいつもなら3点くらい入っていてもいいような展開だったのに。
 やっぱりまだみんな固いんだ。
 でも、井本は1回の裏こそ四球の福本に二盗三盗と続けざまに決められたものの何とか0点に抑えた。
 その後、1対0のまま試合は進行。
 そして、4回に平野のホームランが飛び出したんだ。
 やっぱりホームランの威力は凄い。
 いや、もう大騒ぎ。
 フェンスを揺さぶっている人もいるし、フェンスの上に昇って「ええでっ!平野ぉ!」と叫んでいる人も。
 アスカは僕の手を握って飛び跳ねてるし、うしろでは冬月さんたちがうんうんと頷きながら喜んでいる。
 観客は全員立ち上がったまま、平野がベンチに戻っても手が真っ赤になるくらい拍手を続けた。
 


 試合経過をずっと書き続けても仕方がない。
 9回の裏。
 マウンドには鈴木啓示が立っていた。
 文字通り、近鉄の大エース。
 スコアは3対0で、近鉄が勝っている。
 胴上げ投手を鈴木にと西本監督がきっと考えたんだ。
 背中では根府川先生が「とうとうとうとうとうとう」と呟き続けている。
 先生も冬月さん同様球団創設以来のファンなんだ。
 言うなれば僕たちの大先輩。
 僕たちなんかまだ4年しか経ってない。
 それでもここまで来るのに凄く時間がかかったように思えるんだ。
 冬月さんたちはどんなに長かったことだろう。
 バッターボックスには外野手のウィリアムスが立っている。
 2アウトランナーなし。
 観客は全員立ち上がっていた。
 僕とアスカは手をしっかりと握り合っている。
 もう、応援の声は出ない。
 それは周囲の誰もが同じだった。
 ただ、それでも球場内はどよめきに包まれていた。
 大声を出している人も少しはいるけれども、殆どの人は口の中でブツブツと呟いている。
 背後の冬月さんは根府川先生に合流して二人で「とうとうとうとう」を合唱している。
 僕は後でアスカに確認したら「お願いしますお願いします」と繰り返していたらしい。
 そのアスカはと言えば、開いている左手でしきりに十字を切って英語でぼそぼそ何か喋っている。
 多分神様にお祈りしているのだろう。
 周りからも「神様」とか「南無阿弥陀仏」とか聞こえるし、「頼むわ頼むわ」「鈴木ぃ鈴木ぃ」というのはマシな方で
 「ふはぁふはぁ」「ああっああっ」などと擬音にしかならない声を漏らしているおじさんもいる。
 手を合わせている人もいっぱいいるし、応援団の人たちももうグラウンドしか見ていない。
 そんな人たちの声にならない声が幾重にも合わさって、西宮球場全体を包んでいたんだ。

 そして。

 球音は聞こえなかった。
 ただ白球がセンターに向って飛んでいくのが見えただけ。
 その力のない打球が弧を描いていくのを僕たちはただ口をあんぐり開けて見つめていた。
 実際には3秒くらいの時間だったんだろうけど、それが物凄く長い時間に思えたんだ。
 センターの平野が絶対に落とさないぞとばかりにグローブを差し出した。
 僕はそのボールがグローブに収まったところを覚えていない。
 それは、その瞬間球場全体が大きくどよめいたから。
 言葉になっていない怒号と揺れ動いていただろう観客席の騒ぎに巻き込まれて…。
 いや、僕も騒いでいた一人だ。
 何を叫んだのかは全然覚えていない。
 ただ大声で何かをわめきちらし、そして隣にいたアスカと手を取り合って。

 それから、どっちからそうしたのかはわからないけどしっかりと抱き合って、
 そのままの姿勢でぴょんぴょん飛び跳ねた。
 はっきり言って周りがどうなっているのかまったく見えない。
 僕に見えていたのはアスカの顔とそしてその周りの赤みがかった金髪だけ。
 視界が完全にさえぎられていたんだ。
 う〜んと、つまり、その…。
 僕はアスカにキスされていた。
 唇だけじゃない、鼻とか頬っぺたとかそこらじゅうを小鳥が餌を啄ばむようにちゅっちゅっと。
 いや、こんなに冷静に状況がわかっていたわけじゃない。
 周りは大騒ぎだし、キスされていたことに気付いたのはアスカの顔が離れてから。
 その時にはアスカはもう顔をグラウンドに向けて「きゃあきゃあ」と大声を上げていた。
 
「わぁっ!凄い!みんな中にっ!」

 半ば呆然としながら、僕はアスカの指先を見た。
 するとそこにはフェンスを乗り越えてグラウンドを埋めている人、人、人。
 その真ん中に近鉄のユニフォームがちらちら見え隠れしているけど、
 もう何がどうなっているのかわけがわからない。
 相変わらずお惚けの僕が最初に漏らした言葉は、やっぱり情けないの一言に尽きる。

「中に入ってもいいの?」

「知んないわよ!シンジ、行きたいのっ!」

 アスカは大きな音で拍手しながら、僕の方を見もしないで質問を返してきた。
 僕はその愛らしい唇を見つめながら、あああの唇が僕にキスしたんだなんてことを考えていて結局答えは返さなかったんだ。
 あれって優勝が決まった勢いで無意識にしたんだよね。
 やっぱり外国の人だから、アスカは。
 映画なんかでもあんな感じで抱き合ってちゅってしてるのをよく見るもん。
 
 その後、僕は何をどうして、どこをどう歩いたのかよく覚えていない。
 グラウンドに降りたお客さんも、観客席で立っているお客さんも、泣いたりわめいたりバンザイを繰り返したり。
 僕もアスカと一緒に何回もバンザイを繰り返して、投げ損ねていた紙テープを全部グラウンドに向って投げた。
 そのことは意識していたけど、全部アスカの指示通りにしたような気がする。
 帰るときもアスカに「さあ、もう帰ろっか」という言葉に頷いただけ。
 近鉄の優勝はとても嬉しいんだけど、それよりもアスカとキスしたってことが僕の頭を支配していた。



「ホント〜?」

 先の尖ったアスカの顎が僕の肩に食い込む。

「痛いから、顎のけてよ」

 当然そういうことを言うとアスカが僕の希望通りに動いてくれるわけがない。
 逆にぐっと肩へ顎が食い込んでくる。

「あたたたたっ。痛いってば」

「結婚式のことは書いてくれないんだ」

「だ、だって、今は昭和50年じゃないか」

「でも、披露宴で冬月さんが曝露したじゃない。
 私は新郎新婦のファーストキスの目撃者でしたってさ。まさか忘れたんじゃないでしょうね」

 もちろん覚えている。
 顔から火が出るかと思ったくらい恥ずかしかった。
 隣のアスカはそこでぺろりと舌を出すものだから、会場は大受け。
 タキシード姿の僕はその次に待っているのが何かが予想できるだけに暗澹たる気分に包まれた。
 で、僕の予想は当たった。不幸にも。
 冬月さんのスピーチが終ったところで、トウジがにやりと僕を見ながら立ち上がったんだ。
 カメラ係のケンスケが僕の顔を狙っているのが見える。
 ああ、来る!

「ほな会場の皆さんもご期待されていることでしょうし、再現してもらいましょか。そいつを」

 来た……。
 隣のウェディングドレスのアスカは背中を向けて肩を震わせていた。
 しばらくして向き直ってからはじっとうつむいている。
 こいつ。恥ずかしくもないくせに演技してっ。どうせトウジたちと事前に示し合わせてたんだろ。
 どうせ僕なんか仲間はずれなんだ。くそっ。
 知ってたら猛反対して、そんなことなら披露宴なんかしないって叫びまわって…。
 う〜ん、少し見苦しいか、それは。
 どっちにしても僕の意見なんか参考にもされないのはわかってるけどね、こういう場合は。

「ええっと、それでは新郎新婦にはあん時にタイムスリップしてもらいましょか」

 トウジが後ろ手に隠していたものを僕に突き出す。
 あの近鉄の3色帽だ。

「はよかぶりや。観念して」

「トウジっ」

 僕は完全にあきらめていた。
 でも一言だけ言ってやらないことには気がすまない。

「なんや」

「昭和50年の帽子はこれじゃない」

 一瞬会場が静かになり、そしてタキシードの胸がどんどんと叩かれる。
 隣のアスカがぐっぐっと笑い声を口の中に押し込めながら、その苦しさに僕を叩いてるんだ。
 僕の方を見ないようにしてね。
 そんな二人の姿を見て会場に笑いが溢れた。
 それほどうけるようなことじゃないのに。
 僕の顔があまりに憮然としていたからだと、あとでみんなから言われたんだけどね。
 さて、結局ファーストキスは再現されることになった。
 ケンスケが三脚つきのビデオカメラをどしんと僕たちの前に置き、僕たちの前でトウジが優勝決定シーンを演じた。
 鈴木(トウジ)が投げて、ウィリアムス(トウジ)が打って、平野(トウジ)がグラブを構える。
 ああ、この時だ!
 アスカが抱きついてきて、無抵抗の僕の顔のそこらじゅうにキスの嵐。
 僕は主張したい。
 あの時はもっと接触回数が少なくて、もっと接触圧力が低くて、もっと恥じらいがあったように思うんだけど。
 あとで映像で確認したらその時間はなんと1分2秒。62秒も為すがままにされていたわけだ。
 それともう一つ大きな違いはあの時はアスカに上から抱きつかれたような感じだった。
 アスカの方が背が高かったからね。
 この時は下から飛びついてきたような感じ。
 そして、ケンスケはそれを見ているみんなの様子を撮影していた。
 ホントに計画的なヤツだ。
 後でその映像を見ると、男連中はにやにやして見ているし、女性たちはどこかうっとりとした顔つき。
 勘弁して欲しかったのは僕の母さんとキョウコさん。
 二人が二人とも、舌なめずりしてるんだから…。あの二人ってもうっ!
 新婚旅行から帰ってから、後でこっそり父さんに確認したら、
 にやりと笑われてぼそりと言われたんだ。

「あんなに情熱的なキスはひさしぶりだったぞ」

「勘弁してよ。息子のキスで思い出し笑いなんて」

「馬鹿者。貴様たちではない」

 そういうことか、まったくもういい年をして…。
 なんてことを思ったなんて、母さんに知られたらただではすまないだろうね。
 10歳は若く見える人だから。

 もうひとつだけ追加しておくと、あの時…披露宴の時だけど、
 アスカが僕の顔から離れたとき、場内は大爆笑となった。
 式場の人まで笑っていたのだから…。
 みんなの視線は僕の顔。
 アスカを見るといかにも満足といった表情でティッシュで唇を拭いて、口紅を塗っている。
 そのティッシュを見たら…。まるで鼻血を拭いたように真っ赤っか。
 やばいと思って頬を触ってらその指先には物凄い色の口紅がべっとりと。
 そういえば、キスする前にアスカが背中を向けて、それからずっと俯いていたのはこのためか。
 もう、みんなでおもちゃにしてくれるんだから…。
 拳で拭こうとしたら、すっとんできたトウジに羽交い絞めされた。

「お、おい」

「アホ。今から記念撮影じゃ。観念せい」

「こっちは準備OKよ」

 見ると、アスカの顔はすっかり整えられている。
 

「こら、整えられてって何よ。私の顔は散らかってるとでも言いたいの」

「痛ててて」

 僕の両方のこめかみをぐりぐりと拳で圧迫する。
 
「ち、違うってば。いつも整っているから元に戻ったって意味じゃないか」

 拳の力が抜けた。
 ほっ、誤魔化せた。

「ま、いいわ。誤魔化されてあげる」

 寛容なアスカは書棚の方に歩いていくと、その特等席に飾っている写真楯を手にした。
 真ん中が蝶番になっていて、2枚飾れるタイプの木製の写真楯だ。
 新婚旅行の帰りにアスカの実家に寄ったとき、古道具屋で見つけたものなんだ。
 凄く温かみのある色調で木枠には細かく蔦の彫刻がされている。
 二人ともすぐに気に入って買って帰ったんだ。
 で、すぐに飾られたのがこの2枚。
 1枚は緊張しつつもしゃきっとしている僕とすまし顔のアスカ。
 結婚式直後に撮った写真だ。
 そしてもう1枚は、あのファーストキス再現の直後の写真。
 カメラマンが同じケンスケだから、ぴたりと2枚の構図が合う様に撮影されている。
 最初からケンスケはそのつもりだったみたいだ。
 当然僕の顔は毒々しく真っ赤に染まり、額の真ん中には見ればそれとわかるように綺麗な形のアスカの唇の跡。
 隣のアスカは可笑しくて仕方がないという感じでニコニコ笑っている。

「シンジはどっちの私が好きなのかな?」

 2枚の写真を見比べながらアスカが問いかける。
 僕は苦笑した。

「どっちもに決まってるだろ。2枚ともアスカなんだから」

 本音を気軽に喋ったんだけど、アスカの返事も突っ込みもボケもない。
 モニタから目を切り振り返ると、そこには真っ赤に頬を染めた僕の奥さんが立っていた。
 アスカは僕と視線があった途端に、慌てて写真楯を元に戻し「紅茶淹れてくる!」と駆け出していった。
 う〜ん、どうやら今のは彼女のツボにはまった様だ。
 こいつは特級の葉っぱを使ってくれそうな気がする。



 あの日、ファーストキスを僕たちは西宮球場の三塁側内野席でした。
 そういえば、場所は少し離れているけど、同じ三塁側の内野席で、
 その日出逢ったばかりのアスカに僕は頬にちゅっとキスされたんだっけ。
 あの写真も、きちんと飾ってある。ケンスケ、ありがとう。
 そう考えれば、あそこでファーストキスというのはよかったのかもしれない。
 慌しくてムードも何もないキスだったけどね。

 さて、ここから先は誰にも話してない。
 僕とアスカだけの思い出だ。

 優勝の興奮が収まり選手たちの姿もグラウンドから消えていた。
 それでもグラウンドから帰ろうとしない大勢の人たちを見下ろしていたんだけど、
 そんなものをじっと見ていても仕方がない。
 もう10時を過ぎているんだから。
 明日は月曜日で学校もあるんだし早く帰らないと。

「あの…私たちは帰りますね」

 アスカが後の席で祝杯をあげている球団創設以来のファン二人に声をかけた。
 二人はこのために持ってきたのだろう、日本酒の瓶から紙コップに注いで乾杯を繰り返していたんだ。
 さすがに僕たちには勧められないが悪いね、などと言いながら。
 まあ教育者だからね。アスカは少しもの欲しそうな顔をしていたけど。
 甘酒で騒ぎまわって眠ってしまう癖にね。あ、当時は。

「ああ、私たちはもうしばらくここで喜びを噛みしめているよ」

「いい酒の肴です、はい」

「じゃ失礼します」

 僕たちは並んで頭を下げた。
 いろいろ食べ物を奢ってもらったからね。
 持ってきた小遣いはほとんど使い果たしていたから、本当に助かったというか嬉しかった。

「うむ、また会おう。私はなかなか球場に足を運べんが、いずれ会うこともあるだろう」

「はい、その時は一緒に応援しましょう」

 アスカは殊勝に受け答えして、僕も大きく頷いた。
 実際その後も1年に何度かここで冬月さんたちと顔を合わせている。
 その縁で就職の世話までしてもらったという話はもっと後で。

 さて、球場の外でも騒ぎは収まっていない。
 万歳の声があちらこちらで響いている。
 西宮北口の駅までの短い道のりを僕たちはゆっくりと歩いた。

「あ、シンジ。いくら残ってる?」

 アスカの視線を見ると、ジュースの自動販売機。
 ポケットを探すと60円でてきた。
 アスカの掌には40円。
 
「100円じゃ2本買えないね」

「いいじゃない。1本を半分こしよ」

 僕はその魅惑的な提案に即座に乗った。
 こういう間接キスは何度もしているから少し麻痺はしていたかもしれない。
 ただし少しだけ。
 だって間接とはいえキスはキスだもんね。
 いや、魅惑的というのは間接キスのためじゃない。
 喉がカラカラだったんだ。
 自分でもどれだけ叫んでいたのか覚えてないもん。

「シンジ、コカコーラでいいよね」

「うん。頼むからわざと振らないでよ。半分こだからなくなっちゃうよ」

「そんなことを言ったら余計に振りたくなるわよ」

 アスカは10円玉を自動販売機に次々と入れていく。
 スカッとさわやかコカコーラ♪なんて口ずさみながら。

「わぁっ、よく冷えてる。気持ちいい!」

 アスカはおでこにコーラの缶を押し当てて、にこっと笑う。
 そして蓋を開けようとして周りを見た。
 どんどんと嬉しげな顔で人が歩いてくる。
 そんな人の流れの中でコーラを飲みあうのは難しそうだ。
 駅に着いてからにしよっかとアスカは笑った。
 ところが、駅に着いてもまだコーラのプルタップは開かれなかったんだ。

「うそっ!失くしたのぉ、シンジ!」

 呆れ顔のアスカの前で僕はきっと泣きそうな顔をしていたに違いない。
 どこのポケットにも財布の中にも鞄の中にもない。
 球場に入る前に買った、帰りの切符がどこにもないんだ。

「アスカは…自分のだけだよね」

 自分の切符を手にアスカはこくんと頷く。
 アスカも自分のポケットとかを探してくれたけど、当然あるわけがない。
 財布の中に入れておけばよかった。
 それに問題は失くした切符をもう一度買いなおす方なんだ。
 アスカが持っているコーラを買った余りが僕たちの全財産。
 20円だ。
 西宮北口から宝塚南口まで40円。
 因みに初乗りが30円だから、どこにも行ける金額じゃない。
 お店で買ったならコーラを返して電車代に当てることも出来るのに、相手は自動販売機。
 叩こうが、お願いしようが、返品は受け付けてくれない。
 僕は意を決してアスカを見た。
 先に帰ってって言おうと思ったんだ。
 で、家に電話して南口の駅まで誰かにアスカを迎えにきてもらおうと。
 すると、アスカはふっと笑って首を横に振った。

「それはダメ。歩くんだったら一緒に歩くわよ。ど〜して私が一人寂しく帰んなきゃならないのよ」

「ど、どうしてわかるの?」

「顔に書いてあるもん」

「で、でもさ、もう10時30分だよ。歩いて帰ったら何時になるか…」

「任せといて!」

 アスカは胸を叩いた。
 そして、改札口まで来ると僕にコーラを預けたんだ。
 
「ちょっと行って来るから、待っててねっ!」

 アスカの金髪が人ごみに消えて行く。
 ああ、本当に僕って情けないよ。
 しばらく待っているとアスカが人を掻き分けるようにして飛び出してきた。

「シンジ!早く来てっ」

 嬉しそうな顔だけど、いったい何があったんだろう?
 僕はすぐにアスカのところへ飛んで行った。

「あのねっ!駅の人が貸してくれるって!」

「えっ!」

 話はこうだった。
 アスカは自分の分を払い戻しして、手持ちの20円を足して1区の運賃の30円の切符を2枚買おうとしたんだ。
 それで仁川まで行けば1/3くらいは電車でいけるから。
 彼女はそこから歩こうと思ったんだ。
 すると、どうしてそんなことをするのかと駅の人に訊かれ、正直に話すとそのおじさんはあははと笑ったそうだ。
 そして特別に20円を貸してあげようと言ってくれたんだ。
 返すのは宝塚南口の駅員に預けてもらえばいいからと。
 地獄に仏ってこのことだ。
 もっとも自分の馬鹿で飛び込んでしまった地獄だけど。
 僕はアスカについていき、その駅員さんに思い切り頭を下げた。
 で、こんなのを買ってしまったのでこうなりましたとコーラを献上しようとしたんだけど、
 駅員さんは手を振って自分たちで飲みなさいと受け取ってもらえなかった。
 そして、2区の切符を2枚僕たちに渡すと、早く帰りなさい。まだ中学生なんだろう?と微笑んだ。
 最後に「優勝してよかったな、ホンマに」と言ってくれた。
 何度も頭を下げて僕たちは改札に向った。
 優勝もアスカのキスも嬉しかったけど、このことで胸の中が凄く温かくなったんだ。

 宝塚行きの電車に乗って、アスカのお気に入りの連結部分のボックスにおさまる。
 そこでコーラをまだ飲んでいないことに気付いたんだけど、僕たちは電車の中で飲み食いできる世代じゃない。
 
「ぬるくなっちゃうけど、南口に着いてから飲もうね」

「うん。あ、南口の駅の人にも挨拶しておいた方がいいよね。明日の夕方に持ってきますって」

「あっ、シンジの癖にグッドアイディア」

「癖にって何だよ」

「だって、切符失くしたのって誰だっけ?」

 返す言葉なし。
 アスカはそんな僕の頬をつんつんとつついた。
 南口のホームに着くともう11時になっていた。
 日曜日の所為か電車から降りた客はまばらだった。
 僕たちは改札口で事情を説明して、頭を下げてから家路に。
 上り坂だから歩いて20分はかかる。
 これは絶対に母さんに怒られるなとアスカと笑いあった。
 途中のパン屋さんの前でコーラの栓をようやく開ける。
 やっぱりかなりぬるくなっていたコーラをアスカと交代で飲む。
 さっきは間接キスなんて…と思っていたけど、今日は特別だった。
 何しろつい2時間ほど前に初めてのキスをしたんだから。
 缶の飲み口をついじっと見てしまう。

「意識してるの、シンジ?」

「あ、う、うん。やっぱりね」

「ふふ、私も…」

 そう言いながらアスカは僕の手からコーラを奪い取ると、ゆっくりと口をつけた。
 あの唇とキスしたんだ。
 僕はアスカの口元から目が離せなかったんだ。
 飲み終えて自動販売機の横のゴミ箱に缶を入れ、それから二人で手を繋いで歩き出した。
 そこからは家まではもう5分くらいだ。
 右手に大企業のテニスコートが続いて、左側は大きな家が並んでいる。
 家の方の並びには柳が等間隔で植えられていて、所々に街灯がほのかに道を照らしている。
 昼間でも通行人が少ない道だ。
 車もまったく通らない。
 この坂を上りきって、右に曲がると我が家まですぐだ。
 僕たちは無言で歩いていた。
 話題には事欠かないのに、何故か黙り込んでしまう。
 優勝の喜びよりも、やっぱりキスのことが気になっていたんだ。

 その時、アスカが足を止めた。

「シンジ…」

 アスカは空を見上げている。
 その先には真ん丸なお月様がぽっかりと浮かんでいた。
 街灯の途切れていた場所だったので、アスカの白い顔は月明かりに僅かに浮き上がっている。
 
「ああ、満月だね」

「あの時、私が何て言ったか…」

「え?あの時って?」

 アスカは僕の方を見ない。
 ずっと斜め向こうの空を見上げたままで、その横顔が喋った。

「試合の始まる前。英語で叫んだでしょ」

「ああ、うん。全然わからなかったけどね」

「あれね…」

 アスカの声は暗闇に吸い込まれそうに思うくらい小さかった。

「優勝したら…シンジにキスするわよって……」

 あ…。そうだったんだ。
 それで冬月さんがにこにこ笑って…。

「でも、ごめんね。ムードも何もあったもんじゃなかったわね」

 アスカがふっとため息を吐いた。
 こういうときは…。
 どうしたらいいんだろう。
 一瞬のうちにかなり思い悩んだ僕にアスカは答を先に言ってくれた。

「ねぇ、お願い。キスして…。シンジからの心のこもったセカンドキスを」

 ああ、そうか。
 僕は腹に力を入れた。
 アスカの両肩に手を置く。
 空を見ていたアスカの瞼が閉じられて、僕の方をそっと見上げる。
 心もち唇が上向きになって…あれ?
 ちょっとした違和感にふと足元を見る。
 アスカのスカートから覗く膝小僧。
 その膝が少しくの字に曲がっているのが見える。
 アスカの方が背が高いから、僕にリードさせようとしてるんだ。
 ああ、早く背が高くなりたい!
 僕はアスカの唇にそっと顔を近づけた。

 そのセカンドキスはコーラの味がした。
 アスカはその手をぐっとおへそのあたりで握り締め、
 僕はアスカの肩をそっと掴んでいた。
 力を入れると壊れそうに思えたから。
 抱きしめあいもしない、ただ唇だけを接しているだけのキス。
 でも、僕の心は蕩けてしまいそうだった。

 そんな二人を夜空に浮かぶ満月だけがそっと見守っていた。

 

 

「幸せは球音とともに」

1975編 下 

おわり 
 


 

<あとがき>
 優勝の話は少しだけにしました。え?これでも多いって?
 だって近鉄が主体の話なんですから。許してやってください。これでもごっそりカットしたんですよ。
 史実(大袈裟)をベースにしていますから、天候には頭を悩ましました。
 晴れていたのは私の記憶に残っていたのですが、お月様は…。はて満月か三日月かはたまた…。
 WEB上を散々探してやっと見つけました。
 満月はこの日の前日だったんです。シンジは満月と言ってますが、見た目には問題は全然ないでしょう。

 因みに近鉄はプレーオフで阪急に負けました。
 したがってリーグ優勝にはまだ数年を待たねばなりません。

 さて、恒例の注釈コーナーです。

殿下………近鉄の人気選手、大田幸司のニックネームです。彼が入団したことで日本に近鉄バファローズという球団が存在したことをはじめて知った女性も多かったはずです。

馬鹿にした解説者………デーブの野郎です。ウケ狙いで喋って恥をかきました。どこの球団のOBからも。

叱りつけたあの人………関根潤三さんです。元ヤクルトの監督さんですね。

井本………井本隆。高地出身のもじゃもじゃヘアーの右腕投手。横山エミー(グラマータレント)と結婚したのには驚きましたねぇ。のち離婚。

ウィリアムス………阪急黄金時代を支えた黒人外野手。大砲ではなかったがマルカーノと二人で脇をしっかり支えてました。

平野………平野光泰。この時売り出し中の若手外野手。数年後彼の腕が奇蹟を起こしました(超常現象にあらず)。

帽子………有名な三色帽はこの3年後。昭和53年からです。この時は濃紺に赤いBのマーク。ツバは赤でした。この時の帽子は結構好きだったんですよ。イメージ的には大田幸司に島本講平ですね。平野や井本たちは三色帽の印象の方が強い。何故か、鈴木も。300勝した時の帽子だからかな?

コカコーラ………壜式の自動販売機の方が好きでした。でもあれを持ち歩くのって、ねぇ。当時80円。それほど変わってないですね。

阪急の運賃………これは間違っているかもしれません。西宮北口から宝塚南口は3区の料金だったかも。ただ、西宮球場が他の野球場と少し違うのは観戦チケットを売っているすぐ近くに、電車の切符の自動販売機もあったんです。あの景色は何故か懐かしいですね。

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