幸せは球音とともに

年末年始特別

ー 1975〜76 

〜 始 〜


 

2005.01.09        ジュン

描:神有月葵

 
 




 唐突だが、僕には親戚が異様に少ない。
 父さんは天涯孤独の身の上らしいので親類縁者との親交は皆無。
 母さんの方は僕がまだ赤ん坊の時に最後の身寄りだったお父さん(僕のおじいさんにあたる)を亡くしている。
 で、現在は親戚づきあいは殆どしていない。
 法事に呼ばれても母さん一人で行って日帰りしてくるほどだ。
 いや、別に僕はそのことを問題にしているんじゃない。
 問題は一年のうち最も重大なこの時局において、親交のある親戚が皆無だってことだ。
 その上、お父さんは工場長という重職に就いていながら虚礼廃止という斬新な方針をもって任じている。
 それは立派なことだと思う。
 一年のうちの99%は。
 ただこの正月の間はそうは思えない。
 絶対に思ってなるもんか。
 僕のその思いにアスカは賛同してくれた。

 1974年の正月。
 僕もアスカもお年玉の総額は6009円だ。
 そして翌75年の正月。
 二人ともに総額6051円。
 間違えないでもらいたい。
 総額がその金額なのだ。
 金額が半端なのはわけがある。
 アスカが家に来て、そして正月にその両親が来ると聞いて僕は人知れずガッツポーズをした。
 これでお年玉のポチ袋1枚という環境からおさらばできるんだもの。
 さすがにキョウコさんは日本で育っただけにお年玉の習慣は熟知していた。
 僕は逸る心を抑えつつ、ラングレーさんから頂戴したポチ袋を右手に、
 そしてアスカの手を左手に階段を駆け上がった。
 まずキツネにつままれた顔のアスカにお年玉の風習を説明する。
 当然、アスカは喜んだ。
 そりゃあそうだと思う。
 子供なら喜んで当然。
 そして、そのお年玉に金額の差が出ることに憤りを覚えるのも。
 アスカは瞬時にお年玉の風習に馴染んだ。
 そして、僕はわくわくしながらポチ袋の封を開けたんだ。
 へ…、これ…、人生ゲームのお金じゃないよね?
 僕は白人の顔が印刷された紙に途方にくれた。

「10ドルじゃない」

「え、ってことはアメリカのお金?」

「うん。10ドル紙幣よ…これ。あ、私のも同じだ」

「これって日本で使えるの?」

「両替したら使えるわよ。そのままじゃ当然ダメだけど」

「両替っていくらになるの?」

「ちょっと待って」

 アスカはばたばたと階下に降りて行った。
 10秒も経たずに上がってきたその手には新聞が握られていた。
 そして、それを広げるとアスカは紙面に見入った。

「12月31日で…300円よ」

「えっ、それだけ?」

「馬鹿ね。1ドルが300円よ。300円94銭だから、10ドルは3009円よ」

「あ、そうか。じゃ、これでお年玉は倍増か。よかったぁ」

 喜んだのはつかの間だった。
 子供部屋にやってきた母さんに僕たちはあっさりポチ袋を回収されてしまったんだ。
 手数料を出して日本円に両替するのかと問われて答に困ってしまったんだ。
 それが2年前のお正月。
 去年もまったく同じ。
 二人とも母さんにポチ袋を回収されてしまった。
 ということで、僕もアスカもお年玉貧乏には変わりがない。
 アスカはキョウコさんに日本円を要求したが、文句を言うなら1セントも出さないと言われ交渉はあっさり決裂。
 もっとも、実質3000円のお年玉ではどうしようもないことは両親はよくわかっているんだ。
 ただ中学生に5千円札をお年玉で与えるのはよくないという信念でこうなっているだけ。
 だから、初詣にはお小遣いを出してくれる。
 それはいいんだけどね、やっぱり額は欲しい。
 それは子供時代を経験した人ならわかってくれると思う。



「はい、お年玉」

 母さんは笑顔で声を出すだけ。
 父さんは無言でポチ袋をぐっと差し出すだけ。
 僕とアスカは「ありがとうございます」と神妙に受け取る。
 そのポチ袋の厚みは紙幣が数枚。
 まあ、いつもの通りだ。
 僕とアスカは呼吸を合わせたように首を横に向ける。
 そこに座っているのは、アスカの両親。
 ラングレーさんは紋付袴。キョウコさんも一見振袖に見えそうなくらい晴れやかな着物。
 因みに家の母さんもそれに負けじと晴れやかだ。
 もっとも見た目じゃ30そこそこにしか見えない二人だもんね。
 おっと、危ない。本人たちは20代のつもりなんだ。

「シンジ君にアスカ。お年玉よ」

「オットシダゥマァッ!」

 あ、あの、無理に日本語で喋らなくていいですから、ラングレーさん。
 何だか凄く………不気味です。

「ありがとうございますっ!」

 例年の感想は余所に、明るくお礼を言う僕。
 これが礼儀っていうものだ。
 ポチ袋の手触りは、例によって紙幣が一枚。
 これはオフクロ銀行に直行だ。
 そしていつもははっきりものを言う隣に座っている金髪のお嬢さんも同様。
 正月にはそのアスカも晴れ着だから部屋の中が凄く明るい感じになる。
 ただし、僕だけは和服は勘弁してもらっている。
 何故かと言うと、初詣のためだ。
 実は2年前にアスカが初めて振袖を着たとき、僕も和服を着た。
 玄関で並んで写真を撮ったとき、凄くお似合いだと近所のおばあさんにも言われて有頂天になったんだ。
 ところがその後、僕は地獄を見た。
 初詣の行先は清荒神。
 最寄り駅の宝塚南口から二駅。ただし乗換えがあるから、清荒神駅までは15分くらいかかってしまう。
 家から駅まで普通は15分だけど、和服で歩くと25分かかってしまった。
 草履で歩き慣れないアスカがしっかりと僕の腕を掴んでいるから。
 僕も下駄だったから危なっかしいのなんのって。
 その時点でその先に大きな口を開けて待っている地獄の大釜に気付くべきだった。
 清荒神の駅から、目的地の清荒神清澄寺まで坂道を上っていく。
 小さな土産物屋さんや食べ物屋さんが軒を連ねた参道がずっと続いているんだ。
 引っ越してきて初めて清荒神に初詣に行ったときは僕は楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 1kmほどの道のりで、色々な店に目をとられて足を止める僕の手を両親が引っ張っていったっけ。
 その後トウジたちと遊びに行った時は30分もかからずに清荒神まで到着したけど、
 引っ越してきて初めての初詣の時は1時間はしっかりかかった。
 何しろ人出が物凄いからね。
 だから僕は甘く考えていたんだ。
 ゆっくりと上っていけばいいのだと。
 とんでもなかった。
 履きなれない下駄を履いた上に片腕にはアスカが縋り付いている。
 いや縋り付かれる事には文句はない。寧ろ嬉しいくらいだ。
 だって、それだけアスカに信用されてるってことだからね。
 だけど、世界は二人だけで構成されていない。
 通称“荒神さん”として近隣に親しまれている清荒神清澄寺は初詣客が殺到する場所だ。
 ケンスケなどは12月31日の真夜中に家族で参っているくらいだ。
 その参道の真ん中でよたよた歩いている二人組が許されるわけがない。
 僕たちは脇に追いやられ、あの目立ちやすい父さんの長身もあっという間に見失ってしまった。
 今更戻るわけにもいかず、僕たちは進むしかなかった。
 何とかアスカを守ろうとするんだけど、僕も下駄だ。
 進みにくいったらありゃしない。
 30分近くも悪戦苦闘しただろうか。
 救いの主が前に見えた。
 ラングレーさんが腕組みをして参道の真ん中に仁王立ちしている。
 泣きべそ寸前だったアスカはころっと表情を変えた。
 「パパっ!」と一声叫ぶとラングレーさんはのしのしと逆行してくる。
 これが父さんならみんな文句を言うはずだけど、何しろ見るからに外国人で首ひとつ大きい。
 みんな逆に避けるようにして進路を譲ってくれたんだ。
 感動の再会だったが、それでもアスカは父親に悪態を吐いた。
 「先に行くなんて酷い」と。
 頭を掻いたラングレーさんがその後、壁になってくれたのでその後は何とか進むことができた。
 それでも駅から上までに1時間45分かかってしまったんだ。
 去年はその経験があるので僕は普通の格好に運動靴。ラングレーさんとキョウコさんに後ろの壁になってもらって進んだ。
 それでもやっぱり1時間以上はかかったけどね。
 
 さて、今年の初詣は計画的だ。
 まず、予定の時間に合わせて何とか上らないといけない。
 秘密の待ち合わせをしているからね。
 アスカもそれがわかっているから必死に足を進めた。
 作戦決行時間は午後0時。
 それまでにお参りも済ましておかないと!

 高校に入学できますように。

 これは3番目のお願い。

 近鉄が今年はリーグ優勝できますように。

 これは2番目。去年は後期優勝だけでプレーオフに負けちゃったもんね。

 アスカとずっと一緒にいられますように。

 もちろん、これが僕の最大の願い。
 アスカの方はどうかな?
 ちらりと隣のアスカを盗み見ると、目を閉じて手を合わせている。
 ああ…綺麗だ。
 じっとその横顔を鑑賞していたいけど、今日はそうも行かない。
 ここに来るまでにもずっと並んで待っていたんだ。
 後にもぎっしりと順番待ちの人が控えている。
 順路に沿って父さんたちの後について歩きながら、僕は父さんのお下がりの腕時計を確認した。
 午前11時50分。
 僕はアスカと頷きあった。
 決行まで後10分。
 連中はちゃんとスタンバイしてるだろうか。
 
「今日はアスカちゃんは頑張ったわねぇ。いつもより早く終ったわね」

「どうせアスカのことだからお昼を早く食べたかったんでしょう」

「酷いっ、ママったら」

 膨れて見せるアスカ。
 ああ、役者だ。
 僕たちの大作戦のことなどおくびにも出さない。

「うむ、では少し早いが降りるか」

「だ、だ、ダメだよ。そんなの」

 ううううぅんっ!
 隣でアスカが唸った。
 うわっ、アスカの目が怖い。
 彼女は一瞬で僕を黙らせて、またすぐに会話に戻った。
 父さんたちと話をしている。足止め作戦だな。さすがはアスカだ。
 その時、くすっとキョウコさんが笑った。
 アスカに見られないようにして僕だけに。
 えっ…と思う間もなくそのアスカに似た笑顔は消えた。
 悪戯っぽく、そして嬉しげで、その中にどこか温かみのある笑顔。
 僕にちらりとウィンクすると、何事か母さんに耳打ちしている。
 そして、その言葉に母さんが微笑む。
 何だか二人には見通されているような気がしてきた。
 ……。
 ええいっ!ダメだ、もう作戦は始まっているんだ。
 ここで弱気になっちゃいけない。

「あ、センセやないか。こんなところでえらい奇遇やなぁ」

 文字にするとなんてことはないけど、耳にするととんでもない棒読み。
 僕は思わず空を仰いでしまった。
 青い空。少し灰色の雲がちらほら。
 トウジと僕のどっちが演技力がないかな?
 いい勝負だと思うけど。
 あ…キョウコさんが笑いを堪えている。
 やっぱり見抜かれているんだ。
 さすがに母さんの面の顔は厚いや。
 でも涼しい顔をしているけど、内心は大爆笑してるんだろうな。
 しかし、作戦は続行!
 僕たちの誰もが幸せになれるんだから。
 あ、子供たちだけだけど。

「なぁんだ、鈴原じゃない。偶然ねっ。
 あれ?ヒカリに相田も!
 あけましておめでとうございますっ」

 きわめて自然に口と身体が動いているアスカ。
 それに引き換え、トウジはギクシャク。
 洞木さんは罪悪感だろうか、うつむき加減。
 ただ一人ケンスケだけがいつものようにニヤニヤしてるけど、少し頬が引き攣っている。

「ほら!シンジも挨拶しなきゃ!何してんのよ」

「あ、うん。あけましておめでとうございます」

 ことさら丁寧に頭を下げた。
 もう、引き返せないんだ。
 こうなったら見破られていようがいまいが突き進むしかない。
 僕は覚悟を決めた。

「そうだっ!ケンスケ写真撮ってよ」

「え、おっ、う、うん」

「ねぇ、キョウコさん!写真撮ってもらおうよ。みんな一緒に」

 シナリオは変更された。
 本当は母さんに言うはずだったんだ。
 でも、さっきのキョウコさんの笑顔とウィンクを見て気が変わった。
 キョウコさんなら僕たちの計画に乗ってくれると。

「アナタのパパがカメラ持ってるじゃない?」

「でも誰かがシャッター押さないといけないでしょ。お願い」

 僕はキョウコさんを見つめた。
 
「ちょっと、シンジ?アンタ…」

「そうね。もっともだわ。ねぇ、君?」

「はいっ!」

 ケンスケの声が裏返った。
 直立不動ってヤツだ。

「いつまでに仕上げてくれる?引き伸ばしてくれるんでしょう?」

「はいっ!今晩中に仕上げるであります。我が家に暗室がありますからっ!」

 敬礼でもしかねないほどの軍隊式の返答。
 ケンスケのヤツ、顔を真っ赤にしているぞ。
 まあ、キョウコさん綺麗だからな。
 何しろ僕のアスカのお母さんなんだもの。

「そう。それはありがとう。じゃ、何処かで…」

「はぁ…キョウコったら…」

 僕の背後で母さんの声。
 いつの間にそこに移動してたんだよ。

「シンジ?どうやら最強の味方を得たみたいね。
 アスカちゃんによく言っておかないとね」

 その囁きに僕も小さな声で返した。

「何を?」

「あなたみたいな僕ちゃんにはわからないわよ」

「何だよ、それ。わかんないよ」

「ね、わからないでしょ。あ〜あ、予定外の出費だわ。
 この策士め。まんまとしてやられちゃった」

 謎のような言葉を残して母さんはキョウコさんのところへ歩いていった。
 やっぱり見抜かれていたようだ。
 父さんたちは二家族の全員写真で、尚且つそれを引き伸ばしてもらえると聞き大喜び。
 僕は思った。
 男って単純な動物なんだと。
 母さんたちはその結果が既にわかってるのにね。

 そして、その結果の第一弾。
 3枚シャッターが押された後、キョウコさんはにこやかにカメラマンに近づいていった。

「ありがとう、君。これ、むき出しで悪いけど、お年玉兼必要経費ね。
 3人で分けなさい。そう、君が4千円で後の二人が3千円ずつ。
 あ、アナタがよさそうね。えっと、ヒカリちゃんだったわね。アスカの親友の」

「は、はいっ」

 どうしてみんなキョウコさんには直立不動になってしまうんだろう?
 僕も最初の時そうだった事を思い出していた。

「どうしようもないアスカの友達をしてくれてありがとうね」

「ま、ママっ。どうしようもないって」

 キョウコさんはじろりとアスカを睨みつけてから、洞木さんに微笑んだ。
 そして声を潜めたんだ。

「来年はこんな下手なお芝居しなくてもいいからね。
 ちゃんと3人にお年玉を用意しておいてあげる。
 そのかわり、みんなで一緒に初詣しましょう」

「ご、ごめんなさい」

「いいのよ。主犯が誰かなんて聞かなくてもわかってるから」

 またじろりとアスカを横目で見る。
 正解。アスカが言いだしっぺだ。
 初詣で偶然出会ったことにして、ケンスケが写真を撮る。
 大人ならその行為に対して何らかの謝礼が必要だってことは了解するはず。
 そして時期が正月なんだから、その謝礼をお年玉という名目にするに決まっている。
 これで3人は2軒からお年玉をゲットできる。
 さらに家に帰った3人は碇家と惣流家からお年玉をもらったことを報告する。
 そうなると、3人の親はその両家の子供である僕とアスカにお年玉を返さねば仕方がないという寸法だ。
 もしケンスケが必要経費を入手できなかったらそれは全員で分担する。
 そんな濡れ手で粟を目論んだ作戦だったんだ。
 アスカが計画した作戦にまず男3人が速攻で賛成。
 しぶる洞木さんをアスカが強引に説得したってわけ。
 どうやら作戦は半ば成功したみたいだ。
 アスカは少し得意げな表情をしていたけど、キョウコさんの横目に慌てて表情を引き締めた。
 その表情の変化も素早いけど、キョウコさんのさっと切り替わる微笑と叱責も凄いものだ。
 よくもまああんなに短時間で表情を変えれるものだよ。
 さすがはアスカのお母さん。
 いや、キョウコさんの娘だからアスカがああなのかな?
 アスカはすかさず目を逸らして、ラングレーさんに何か喋っている。

「うむ、これはうちからだ。同じようにみんなでわけなさい」

 母さんに言われて父さんが洞木さんにちりがみで包んだ紙幣を渡す。
 洞木さんはどうやら罪悪感に満ち溢れていたようだったが、
 それでもはっきりとお礼を言った。
 もちろん、トウジとケンスケも。

「どう?みんなでたこ焼きでも食べない?
 おばさんが奢ってあげる」

 僕は思った。
 おばさんなんて心にも思ってないくせに。
 でもまあ、この提案は願ってもない。
 僕たちはこの集団が全員入れる屋台を探し、そしてたこ焼きに舌鼓を打った。
 ラングレーさんは近鉄にいたときにチームメートに騙されて食べさせられたんだって。
 


 結果的に作戦は大成功だった。
 その夕方、僕とアスカは3軒を回った。
 やっぱり面と向かってお礼を言わないといけないからね。
 罪悪感はあるけど、嬉しいのは事実。
 いっきに総額が4倍だもん。
 あ、惣流家からの10ドルは計算外だよ。
 因みにうちの両親もアスカのところも、トウジや洞木さんの姉妹にもお年玉を用意した。
 自分のところの子供のために余所の家に散在させることになるんだものね。
 
 ということで、その夜は新年早々のお叱りとなっちゃった。
 朝一番の年賀の挨拶をしたのとまったく同じ場所で。
 ただ前に座っているのは午前中とは打って変わった怒りの表情の大人たち。
 アスカも流石に身を小さくしている。
 僕同様に事の重大さを今更ながらに思い知ったってこと。
 何しろ余所の家庭にお金を出させることを目的としたんだから、怒られるのは当然といえば当然。
 父さんなどは僕をいきなり殴ろうとしたんだもの。
 まあ、これは殴られても仕方がない。
 せっかく貰ったお年玉を回収されても仕方がない。
 そう、あきらめていたんだ。
 でも、父さんが拳を握った時、アスカがその間に割って入って、
 悪いのは全部自分だと泣きながら詫びたんだ。
 僕もぼけっとそれを見ていたわけじゃない。
 一緒になって頭を下げた、

 父さんと母さんはアスカの涙に弱い。
 あ、それにラングレーさんも。
 しかも今回は嘘泣きじゃなく、本当に泣いて謝っていたんだから。
 ただ、キョウコさんはアスカに厳しい。
 今年のお年玉はすべて没収だと断固としてアスカに告げたんだ。
 その時、僕は思わず言ってしまった。

「ごめんなさい!僕のは全部返しますから、アスカのは許してください!」

 アスカがお年玉で両親の結婚15周年のプレゼントを買おうとしていたのを知っているからね。
 でも、そんなことを漏らしちゃいけない。
 そんなプレゼントなんかいらないって逆に怒られるのがオチだから。
 だから、僕はそれ以上何も言わずにただキョウコさんを見つめた。
 アスカが許してもらえますようにって祈りながら。
 その思いが通じたんだろうか、キョウコさんは優しく僕に微笑んだ。

「仕方がないわね。シンジ君にそんな風に言われちゃうと…」

 そこにごほんと咳払い。
 母さんだ。

「キョウコはシンジに甘い」

「あら、悪い?シンジ君可愛いんだもの」

「ママっ!」

 叫びとともにアスカが立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとしたけど、痺れを切らしていたんだろう、足元がもつれて僕の肩をむずっと掴みあげた。

「痛っ!」

「我慢しなさい、馬鹿シンジっ!」

「アスカ。前から言ってるでしょう。その馬鹿シンジはやめなさい」

「い・や・よ。馬鹿シンジは私だけの馬鹿シンジなんだから。アンタもそれでいいんでしょ、馬鹿シンジ」

「えっと、うん」

 これが不思議なんだ。
 アスカに馬鹿シンジと言われても腹が立たないんだけど、もし別の人に言われたら絶対にむかむかくると思う。
 
「アスカ。そんなに傍若無人に振舞ってたら、そのうちシンジ君に嫌われちゃうわよ」

 ここは自信を持って「大丈夫!」ってアスカが言うと思った。
 ところがキョウコさんにそう言われると、アスカは隣の僕をこわごわと見たんだ。
 
「シンジ、ホント?私のこと嫌いになっちゃう?」

 僕は絶大の自信を胸いっぱいに膨らませて断言した。

「そんなこと絶対にならない。
 アスカを嫌いになるなんて絶対にありえないよっ」

「そ、そ、そうだよね。ははは、見てみなさいよ、ママっ。私たちの愛は揺るがないわ」

 キョウコさんは鼻で笑った。

「ふん。その割には随分とおっかなびっくりみたいだったけど?」

「うっさいわね!大丈夫だって言ったら大丈夫なのっ。
 それにママにはパパがいるんだから、私のシンジに色目使わないでくれる?」

 げへっ、何てこと言い出すんだよ、アスカは。
 色目だなんて言いがかりもいいところだよ。

「あらそう?じゃ、ハインツがいなければ色目を使ってもいいってことかしら?」

「ママっ!」

「シンジ君好きよ、私も。アナタみたいな大きな娘がいなければねぇ…」

 僕を見てにっこりと微笑むキョウコさん。
 その微笑を真正面に見ていると何だか顔が熱くなってくる。

「くわっ。何言い出すのよ!」

 ぐいっ。
 アスカが僕の頬を両手で挟んで、無理矢理に自分の方へ向ける。
 く、首が…。

「絶対にダメっ!シンジは売約済みっ。
 もうキスだってしてるんだから、横取りなんて許さないわよ!」

 あわわ…。
 アスカが自分の言ったことに気付くまでたっぷり10秒はかかった。
 その間、キョウコさんはにこにこ笑い、
 母さんは口を手で押さえて目が思い切り笑っている。
 父さんはしかつめらしい顔で何度も頷き、
 ラングレーさんは…わかってるんだろうか?僕に向ってにやりと笑って親指を立てて見せた。
 でもって僕は正座したままアスカの両手で挟まれた頬を真っ赤に熱していた。
 そして、アスカは…。

「シンジ、いい?」

「え?」

 いいも何も身動きが取れない。
 上から顔を押さえられてるんだから。
 
「ほら、よく見なさいよ、ママっ」

 えっ、えっ、えええっ!
 ぶちゅう。
 逃げられなかった。
 両親…しかも相手の両親の目の前で、僕はアスカに唇を奪われた。
 しかもいつもより強烈に。
 30秒以上経ってから、アスカは唇を離した。
 ついでに頬を挟んでいた掌もいきおいよく離したものだから、僕は見事に仰向けに転がった。

「はんっ!どぅおっ、見事に恋人してるでしょ。ママなんか入ってくる余地は1mmもないのよ!」

 アスカの背中が僕の前で大見得を切った。
 見上げる目にはその姿はまさに仁王立ち。
 いやはや親の見ている前でなんてことを…。
 その時、キョウコさんが拍手した。

「はい、新年の余興はおしまい。まあ、いいでしょう。
 アスカなんかに纏わりつかれているシンジ君の不幸に免じて、今回は許してあげます」

「ああっ、シンジは全然不幸じゃないわよ!私みたいな天才美少女に…」

「お黙りなさい。まだごちゃごちゃ言うようなら本当に…」

 僕は飛び起きて、後からアスカの口を手で押さえた。
 こんなことで黙るようなアスカじゃない。

「はい、わかってます。よ〜くわかってます。アスカもそう言ってます」

 僕の掌の中でアスカが喚いている。
 こうなりゃ、退場するしかない。

「えっと、あの…」

 アスカを襖の方に引きずって行きながら、僕は言葉を捜した。
 何か言っておかないといけないから。
 怒られていたんだもんね。

「本当にお騒がせしました…」

 4人とも笑っている。
 父さんなど早く行かんかとでも言いたげに手を振っていた。
 アスカはまだ何かもごもご言っていたけど知ったことじゃない。
 場が和やかなうちに逃げるのが一番だ。
 そのことはアスカもわかっていたようで、階段のところまで来ると静かになった。
 ほっと溜息をついた瞬間。
 がぶりっ!

「痛っ!」

 噛み付かれた掌をぶらぶらさせるとアスカは真っ赤な顔で睨みつけた。

「アンタねぇ、少しは手加減しなさいよ。苦しいったらありゃしない」

 ふんっと顔を背けるとアスカはのしのしと階段を上がって行く。
 僕は頭をぽりぽり掻くと、その背中に続く。
 アスカは僕の部屋のほうに入っていくと、どすんと椅子に座った。
 そして、僕を見上げるとにやりと笑ったんだ。

「これでもう親公認よ」

「え?それはこれまでだって…」

「うっさいわねぇ。親の目の前でキスしたんだから、これで正式に婚約成立なの」

 う〜ん、アスカが日本に来た段階でもう婚約しているも同然じゃないか。
 学校でも散々そう主張していたし。

「文句ある?まあ、あっても却下だけどさ」

 僕は苦笑した。
 あるわけがない。

「よし、じゃ降りようか」

「え?今上がってきたばっかりなのに?また怒られるかも…」

「アンタ馬鹿ぁ?何年あの両親の子供をしてるのよ。
 きっと今頃婚約成立祝賀会の準備をしてるわよ」

 そんな馬鹿なと僕は主張したけど、1階に降りるとアスカの言ったとおりだった。
 母さんとキョウコさんは飲み物とかの準備。
 父さんは神妙な顔で長半紙の前に座り筆を手にしていた。
 そして、ラングレーさんの見守る中書き上げたのが、
 『碇家惣流家婚約成立祝賀会』。
 やがてはじまったその会の間、僕はラングレーさんとキョウコさんに挟まれて、
 ワインとかを飲まされてしまった。
 しかも、キョウコさんに頬へキスまでされて。
 その時、もちろんアスカに見せつける様にしたものだから、当然アスカは激怒した。
 脱兎の如く…とはいかず、よろよろと僕のところまでくると、ろれつの回らない口でなにやら喚いている。
 どうやらアスカはアスカでうちの両親に飲まされていたみたいだ。
 すると、ラングレーさんが大声で笑い、僕とアスカの首を掴んだ。
 そして、強制的に顔同士をくっつける。
 ぶちゅうというよりも、ぐにゅうって…。

 覚えていたのはそれくらいまで。
 気がついたときには、もう窓の外は太陽の光に満ち溢れていた。
 ああ、頭が痛い。
 もしかして、これがあの二日酔いってやつなのかなぁ?
 うぅ…きも…。

「キモチワルイ」

 すぐ傍で僕の気持を代弁してくれる声。
 声の方を見ると、アスカが僕の隣の布団に寝ていた。
 ……。
 眉間に皺を寄せてこめかみを指で押さえている。

「アスカ、大丈夫?」

「くわっ、大きな声出さないで。頭に響く…」

 別に大きな声じゃなかったんだけどな。
 でも、今のアスカの声もがんがんして聴こえた。
 
「シンジ、動ける?」

 僕は布団から身体を起こした。
 ここは…客間だ。
 あの大騒ぎして干した布団に僕は眠っていたんだ。
 しかも昨日のままの格好で。
 まあ、あの状態でパジャマに着替えていた方が可笑しいけどね。

「うん、何とか。頭が割れそうだけど」

「動けるんならまだいいじゃない。それで頭が割れそうなんだったら、私はもう割れちゃってるわよ。いててて…」

「昨日の事覚えてる?」

「ううん、パパにシンジと強制的にキスさせられたとこくらい」

「僕も…」

 僕は苦笑して、部屋の中を見渡した。
 綺麗に並んだ布団が二つだけ。
 カーテンはレースだけになっているから、明るい日差しが充分部屋の中に満たされている。
 あ、僕の方が小さな布団。

「アスカはラングレーさんのお布団だったんだね」

 何気ない一言だった。
 別に何の意図もない。
 ところが、その僕の一言を聞いて、アスカがカッと目を見開いた。

「う、うう…じ、じゃ、アンタはママの?」

 頭痛を堪えながらアスカが呟くように問う。

「うん、そうみたいだよ」

「ぐぐぐぅっ…」

 アスカが身体をひねらせてうつ伏せになった。
 そして、まさしく這うようにして僕の布団の方へ身体を寄せてくる。

「ど、どうしたの?わっ!」

 アスカが掛け布団の中に頭を突っ込んだ。
 あわてて布団から外に出る。
 わぁ、寒いっ。
 そりゃあ、布団の中で普段着だったんだもんね。
 アスカはしばらくすると、顔を布団から出した。
 そして、物凄い目つきで僕を見上げる。

「シンジ…。アンタ、私を裏切ったんじゃないでしょうね」

「へ?」

 何の事だかさっぱりわからない。

「ママの匂いがする。布団から」

「ええっ!」

「アンタ、ママと寝たの?」

 げげげっ。
 この言葉ははっきり言ってかなりエッチな響きだ。
 もし子供ならあどけなさが強いほのぼのとした雰囲気だろうけど、僕は15歳。
 キョウコさんと同じ布団で眠ったなんて、言葉だけでも刺激が強い。
 思わず顔を赤らめてしまった。

「わっ、何よ、その顔!アンタ、ホントにっ!」

「ば、馬鹿なこと言わないでよっ。そんなことしてないってばっ」

 僕は全身で否定した。
 そりゃ、そうだ。
 まったく身に覚えがないもの。
 だけど、アスカの目はつり上がったまま。
 
「そ、そ、それにほら、キョウコさんが2日寝たんだからお布団に匂いが残って…」

 正直に言ったのに、アスカは余計に口を歪めた。
 そして、また這うようにして僕に迫ってくる。
 はっきり言って怖いっ。

「な、何するんだよ」

 アスカは僕の足を掴むとぐいっと引きずり倒す。
 痛っ。お尻をもろに畳に打ちつけた。

「くんくん」

 僕の襟元に顔を近づけて匂いを嗅ぐアスカ。
 逆にすぐそばから香ってくるアスカの甘い匂いの方が僕にとっては強烈で…。
 ぐいっと抱きしめたくなってしまう。

「う〜ん」

「匂いなんか、し、しないだろ?」

「お酒の匂いが強くてわかんない」

 不満げな顔のアスカ。

「そ、それとも、匂いがした方がいいの?」

「ば、馬鹿っ。そんなわけないでしょうがっ」

 ごつんっ。

「痛っ!叩かなくてもいいだろ」

「はんっ。ホントはママにぎゅってしてもらいたいんでしょ」

 え…。
 咄嗟に反論できなかった。
 キョウコさんに抱きしめてもらいたいかどうかといえば…。
 ごめん、アスカ。
 否定できないよ。

「シンジ、アンタ……」

 アスカの顔が見る見る歪んでいく。

「そうなんだ。はは…私よりママの方がいいんだ」

「ち、違うよ。そうじゃなくて」

「酷い、酷いっ。婚約したばっかりなのに!」

 アスカはいきなり立ち上がろうとした。
 けど、まだふらふらの頭だからそのままぺたんと尻餅をついてしまう。

「アスカ、大丈夫?」

 手を貸そうとしたら、アスカは物凄い顔で睨みつけた。

「触らないでよ、不潔っ!婚約者の母親に手を出す?
 アンタ、ダスティン・ホスマンなのっ?」

「へ?」

 あ、わかった。「卒業」の主人公のことを言ってるんだ。
 ひどいなぁ。僕があんなことするわけないじゃないか。

「酔っ払った勢いで嫌がるママを無理矢理…」

「アスカ、怒るよ」

 僕は宣言した。
 いいがかりもいいところだ。
 酔わされて熟睡していた人間にそんなことできるわけないじゃないか。
 まあ、アスカが妄想をはじめたら止まらないっていうのはよくわかっているけど、
 今回はいい加減にして欲しい。

「お、お、怒れば…いいじゃない」

 言葉とは裏腹にアスカの顔は引き攣っている。
 喧嘩をすることはあっても、僕がこんなことを言うのが初めてだったからだろう。
 でも、僕の怒気はもう消えていたんだ。
 アスカのあんな顔を見てしまったらね。
 だって泣き出しそうな顔してたんだもの。

「あのさ、キョウコさんに聞いてみれば?」

 顔を歪めたまま、首を横に振るアスカ。

「だって、二人とも眠っていたんだから」

 アスカは駄々っ子のように首を振るだけ。
 ああ、困ったなぁ。
 そこに救いの主が現れた。

「Hey!Let's play catch!」

 襖を開けて大きな身体を見せたのはラングレーさんだった。

「そうだ、ラングレーさんなら知っているかも。訊いてごらんよ、アスカ」

 でも、アスカはまだ首を振り続けている。
 う〜ん、こうなったら僕が…って、通じるんだろうか?

「えっと、Do you sleep this room?」

「Ya!●△×□◎…」

 わかんないよ。
 この部屋で眠ったってことは確かみたいだけど…。

「パパは私のお布団で一緒に眠ったんだって」

 アスカはぼそりと言う。
 
「てことはママはやっぱりシンジと」

「ば、ば、馬鹿なっ。ラングレーさんの見ている前でそんなことするわけないじゃないか」

 それでもアスカの唇は歪んだまま。
 
「ああっと、えっと、Where is Kyokoさん?」

「?◎■▽」

「馬鹿。下でユイさんと喋ってるって。訊くんならちゃんと訊きなさいよ」

「ああ、頼むよ。アスカが訊いてよ。大事なことなんだから」

 アスカは大きな溜息をついた。
 でも、仕方ないという顔でラングレーさんに英語で尋ねる。
 少し首を捻っていたラングレーさんは真面目な顔で返事をしていた。
 それを聞いていたアスカの顔は最初思い切り悲しそうな顔になり、そしてだんだん笑顔が戻ってきた。
 話を終わると、ラングレーさんは僕の頭をこつんと叩いて階段を降りていったんだ。

「え、えっと、アスカ?」

「知らない」

「へ?」

「ほら、何してんのよ。早く下に降りて…二日酔いの治し方教えてもらわなきゃ」

「ち、ちょっと」

 アスカは颯爽と立ち上がり…はできなかった。
 お布団にお尻をついたまま手を僕に差し伸べる。

「ほら、手を貸す。馬鹿シンジ」

「う、うん」

 その頃には僕の頭痛はかなりましになっていた。
 僕はアスカの手を引っ張り立ち上がらせた。
 すると、アスカはそのまま僕に抱きついてくると、右の頬に唇を押し付けてきた。
 しかもなかり濃厚に。
 だって時々唇を離すと、まるで猫みたいにペロペロと僕の頬を舌の先で舐める。

「わっ、や、やめてよ。何を…」

「消毒」

 アスカは短くそう言うと、またペロペロ舐めたり、キスしたり…。
 まあ、気持ち悪いものでもない…というか、気持ちいいんだけどね。
 僕はアスカの為すがままにされていたわけ。
 
 ごつんっ。こつっ。

 桃源郷にいた僕は頭に落とされた拳骨で現実に引き戻された。
 母さんだった。

「この子たちったら、正式に婚約したからって盛りのついた猫みたいにベタベタベタベタ。
 いい加減にしなさい。ほら、アスカちゃんはシャワーでも浴びてきなさい。すきっとするわよ」

「は、はいっ」

 慌てて自分の部屋に走るアスカ。
 まだ、少しよろけてるけど。

「シンジ」

「はいっ」

 こ、怖い!
 横目でじろりと睨みつけられて、そしてアスカの涎でべちゃべちゃの頬をぱちんと指で弾く。

「痛いっ!」

「貴方は男なんだからしゃきっとしなさい」

 さっきの拳骨もアスカの3倍くらい音が大きかった。
 母さんは真剣に怒っているようだ。
 ま、そりゃそうだろうね。親の立場からすると。

「そんなだらしない顔でにたにた笑ってるんじゃありません。
 お父さんを見なさい。私がどんなに甘えても毅然としているでしょう」

 母さんは僕の周りをゆっくりとぐるぐる回りながら説教する。
 
「でも、本当は父さんだってへらへら笑ってるじゃないか。家族にしかわからないだけで」

「お黙りなさいっ!」

 ぴしっと背中が伸びた。
 今の余計な一言の所為でお説教の時間はたっぷり3倍は長くなったはずだ。
 口は災いの元。



 その後、キャッチボールをしているときにアスカが教えてくれた。
 僕とアスカが隣り合わせの布団で熟睡している時に、ラングレーさんとキョウコさんが上がってきたんだって。
 そして、こんなチャンスはもう二度とないだろうと、ラングレーさんは娘に添い寝。
 そのラングレーさん用の超特大の布団に娘をサンドイッチにして眠ろうというのが夫妻の計画だったらしい。
 まあ、アスカがああいう感じで前後不覚に眠ってでもいない限り、そんなことはできないだろうね。
 私はもう子供じゃないって本当は嬉しいくせに突っぱねると思う。
 で、そのはずだったのに、キョウコさんが僕の布団で一時停車したんだ。
 あ、もちろん中に潜りこんできたんじゃないよ。
 そんなことしたら、ラングレーさんが笑っているわけない。
 掛け布団の上で僕に添い寝して、僕の顔で遊んでいたらしい。
 頬をつんつんしたり、鼻をつまんだり。
 そして最後に頬にちゅっと軽くキスして、アスカの隣に潜りこんだんだ。
 なるほど、それで消毒か。
 ……。
 ちょっと、もったいない気がした。
 これはアスカに知られないようにしよう。
 キョウコさんって…アスカの何年後かの姿のように思えて来るんだ。
 だから、憧れてしまうんだと思う。
 でも、そういうことはうまく説明できないと思うから、アスカには秘密にしておこう。
 でも、やっぱりもったいない。
 そんなことがあったのなら、その瞬間だけでいいから目覚めていたかったなぁ。

 ただ、ラングレーさんにはいいのを一発もらった。
 最後に一球思い切り投げるからしっかり構えろと言われたんだ。
 アスカは少し通訳する時に顔がこわばっていた。
 腰を少し落として、真っ直ぐにグローブを構える。
 できるものなら断りたいところ。
 でも、あの真剣な表情のラングレーさんに冗談でもそんなことは言えっこない。
 僕は覚悟を決めた。

「OK?」

「よし来いっ!」

 僕は日本語で応えた。
 もう、周りの景色は見えてなかった。
 おそらく心配げに僕を見ているはずのアスカさえも。
 ラングレーさんに向って、グローブを構える。
 足を踏ん張って、歯も食いしばった。
 もし、落としたらアスカを失う。
 そう願掛けをした。
 だから絶対に取り損ねたりするもんかっ。

 ラングレーさんが大きく振りかぶった。
 来るっ!
 それは一瞬だった。
 別にボールがぐんぐん大きくなってくるような錯覚を覚える暇もなく、
 凄まじいスピードで白球はグローブの近くへ。
 本能的にグローブを少しずらした。

 ばしいぃぃぃっ!

 その網の部分にとんでもない衝撃が。
 グローブがボールの勢いそのままに僕の胸に衝突する。
 くそっ、落とさないぞっ!
 尻餅だってついてたまるか!

 最初に見えたのはラングレーさんの笑顔。
 最初に聞こえたのはアスカの歓声だった。





 その翌日、ラングレーさんとキョウコさんは大阪国際空港から飛び立っていった。
 搭乗ゲートに入る時、ラングレーさんは僕に向って大声で叫んだんだ。
 言葉の意味はわからなかったけど、僕は大きく頷いてそして手を振る。
 ラングレーさんも頷いて、そしてにやりと笑った。
 二人の背中が見えなくなってから、アスカが僕の手を握ってきた。

「ねぇ、パパの言ったことわかったの?」

「ううん、わからなかった」

「じゃ、適当に?」

 僕はアスカを見て微笑んだ。

「あのさ、ラングレーさんはアスカを頼むって言ったんじゃなかったの?」

 アスカは一瞬息を呑んで、そして、僕の頬にくちづけた。
 空港の人ごみの中で。

「正解よ」
 
 


 

 

「幸せは球音とともに」

年末年始特別編 −1975〜76−  始  
 


 

<あとがき>
 

 ああ、これだけの話にこんなに長いのを書いてしまった…。
 今回は危うくキョウコさんにシンジを誘惑させるところでした。危ない危ない。
 どうも私の世代は「個人教授」とか「青い体験」で育ってますからねぇ。
 次回は76年のお話です。高校進学あたりの話でしょうか。
 近鉄弱かったから、あまりこの年は野球の話題はないと思います。

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