稜線を下り、数十キロを走ったろうか。あたしたちは都市部から離れた小さな町の病院に滑り込んだ。 
まだ建ってからさほど経っていない新しい病棟。付属の施設の庭もよく整備されている。
豊かな人のための老健施設だったのだろう。
慢性リウマチや脳溢血後などのリハビリを行う、温泉病院というタイプの病院だ。
ここなら薬品も、食料もある。襲われた時にシャッターを下ろすこともできるし、第一鉄筋で防御性が高い。 
それに、なんと言っても温泉に入れるのだ。 
それが一番の理由だったかもしれない。もう4日以上風呂に入らないままでいた。いいかげん我慢の限界! 
自分の身体が匂うなんてこと考えたくもないわ、このままシンジと一緒にいるなんて。
だってあいつも垢臭いんだもん。ということはあたしもでしょ? 

ストレッチャーを探してシンジを乗せ、力いっぱい押して院内に入った。 
まだ新しい建物らしい。ナースセンターや薬剤部、医局を回ってみたがやはり人影はない。 
ただ展望台と同じように人々の服や白衣がぺちゃんこになって打ち捨てられている。 
皆同じように、赤い液体に染まって生乾きになっている。 
通常に生活していて、唐突に溶けたように見える。本当に一体何が起こったのだろう。 

病院と売店の倉庫には食料や薬品の他に人が暮らすための物品がふんだんにあった。 
250床の病院はほぼ満床だったらしい。普通の病院ではなく温泉治療のための病院だから 
昔と違って病院というよりはケアのための療養施設に付属の病院部があるというイメージだ。 
多分ここはかなり高級な施設だったんだと思う。クアハウス部分が日本にしては豪勢だった。 
あたしは安全のためにそこを使うのは諦めた。一階の平屋の施設ではいくらなんでも無用心だ。 
と言って病院部分のペントハウスである高級差額ベッドの病室も明かりをつけると目立ちすぎる。 
結局全館を監視できる警備員室とそこに続くスタッフルームを使うことにした。 


「い、いやだよ。」 

「体裁言ってる状況じゃないでしょ。何日も海岸で海草と砂の中に埋もれてたんだよ。」 


シンジはいいかもしれないけどあたしの方がたまらない、という理由で無理やり衣服を引き剥がした。 
まるで時代劇の悪人のように、じたばたするお姫様を手篭めにしてる気分。 
にやつきながらタオルを引き込んで丸まったシンジをストレッチャーごと浴場に連れ込んだ。 
もともと温泉を利用して治療をする施設。
ストレッチャーや車椅子ごとお風呂に入れるプールのような浴場がある。 
あいつは自分で身体ぐらい洗えると必死で主張したけど、それも許さない。 

「ふふふ…今お姉さんがあんじょうしたるさかいなあ。大人しくしいやぁ。」 

自分でもいつこんな台詞がインプットされたんだか笑える。
頭から体から泡だらけにしながらシンジを磨き上げた。 
ほら泡だらけになるとシンジも身体が見えなくなったと思って安心するでしょ。 
隅々まで洗っちゃった。 
だって脇とか首とか髪の毛とか、ピーな辺りだって汚れてるに決まってるし。
いくら目逸らしたって存在するものは存在するんだし、しょうがないじゃない。 


「あ、アスカ。そこは勘弁してよぅ。そこは敏感なんだからっ、うひゃあああっ。」 

「静かにしなさいよっ。あたしだってやりたくてやってるわけじゃないわよっ!あばれるなぁっ!」」 


ぎゅって握ったらむくむくと形状変化していく。こ、これが男の子なのね。
こうなる事は知ってたわよ、でも知ってるのと実践は全然こんなに違うものだったなんて。 
うそ、いやーっと叫びたいのを必死でこらえた。そういう態度見せたら今後舐められちゃうじゃない。 
タオルを垢擦りに持ち替えてごしごし乱暴に、そこ洗ってやったわ。 シンジは真っ赤な顔してひいひい言ってた。いいきみよ。 
あたしがちょっと優しくしたからっていい気になって大きくしたりするから罰が当たったのよ!そうよバチ! 
この後、お湯からでて体を洗い流して拭くときまた一悶着あったけれどまぁそれは省く。 
さすがに丸出しの股間とかパンツとかの面倒をお湯の外で泡というバリアなしではこっちだって恥ずかしい。 
脱がすときはお遊びだったけどさ。はかすときは適当にやってたらいつまでも終わらないじゃん。 

あたしだってこんなことしてないでゆっくり温泉に入っていたい。 
お湯を見た途端に頭や体が痒くなったように思えたけど、シンジを洗ってしまわないとゆっくりできないじゃない? 
患者用の浴衣まで着せ終わると、ほんとに温泉に遊びに来たみたいな感じになった。 
何でここで照れるのよ、変なあたしっ! 

シンジをベッドに転がすと、やっと自分の番。ペントハウス下の従業員用らしい浴室を見つけた。 
一応シンジの部屋は鍵を閉めて、階段の防火シャッターを降ろした。 
浴室前後の通路シャッターも下ろし、浴室の明かりはつけない。まだまだ油断するわけには行かないからね。 
更衣室まで自動小銃を持ち込むのは武士の嗜みって言うか、うん、シンジだって危険かもしれないしね。
まぁ、今のシンジなら安全だけどさ。
いや、待ってよ。そうするとあたしがシンジを回復させればさせるだけ自分の首を締めることになるの? 
ざっとお湯を身体に被る。先ず適当に身体を洗って髪を流す。手足を伸ばしながら浴槽に浸かった。 
ああ!何ていい気持ち。これで甘くて冷たいモーゼルワインでもあったら最高なんだけどなー、病院では望めないか。 

湯から上がって、髪を久しぶりで本格的に洗うことができた。体も隅々まで洗った。 
LCLがそのまま乾いただけの状態で、潮風に曝されていた髪だ。おしゃれなど今後も期待できはしないわね。 
いっそ切ってしまった方が良いのは分かっていたけど、それをためらう気持ちもまだあった。 
自分は戦士であって、あの中途半端な覚悟さえないシンジとは違うと思っていたけれどこの件に関しては踏ん切りがつかない。 
自分の中の女の子の部分が悲しむ、とか言うつもり?アスカ。 
自分で自分を蔑む声がする。長い美しい髪?一体誰に見せるというのよっ!ほんとに馬鹿よね。 

その、甘ったれた気分の最中、いきなりものすごい風の音と一緒に何かが壊れた音が外で響いた。 
とっさに洗面器の中から拳銃をつかみ出し、目元まで湯に沈みながら構えた。その後は何の音もない。 
ステンレス製の銃を構えたまま低い姿勢で更衣室に入る。自動小銃を脇に抱えながら急いで下着を手に取った。 
ロックはしっかりと掛かったままだが病院だけあって非常時には外から開けられる仕組みになっている。油断はできない。 
もし、あの音が侵入者を示す物音だったとしたら。階下にいるシンジが危ない。 
ゆっくり着替えている暇などなかった。スポーツショーツだけを身に付け、シャツを羽織って廊下に進み出た。
拳銃をショーツの横のホルスターにつっこみ、自動小銃を構え、安全装置をはずす。 
相変わらず院内には何の物音もない。外は風に加えて大粒の雨がが叩きつけるように窓を打っている。夕立?
しかし、確認ができるまで警戒は怠れない。雨の音に隠れて接近されたらどうしようもない。 

エレベーターは動いていない。一気に階段を駆け下りた。シンジのいる部屋の隣。総合監視室に駆け入りモニターを見回す。 
北側の大きな木の枝が折れて、自転車やごみバケツなどを置いてある納屋のトタン屋根に被さっている。 
これが多分さっきの音の原因だろう。ホッと溜息をついてシンジの部屋のドアを開けた。 
その途端に病院全体の照明が落ちた。工作?咄嗟にまた伏せたが多分ただの停電。すぐに点灯するだろう。 


「だれっ!」 


シンジの声。はだしだったからあたしの足音だと分からないのね。 


「あたしよ。なぁによびびっちゃって。雷が怖いのかな。」 

「馬鹿言うなよっ。アスカこそ怖くてお風呂から飛び出してきたんじゃないのっ?」 

「なぁんですって?もういっぺん言ってみなさいよっ!」 


叫んで立ち上がった途端に電気がついた。地下から伝わる振動。自家発電装置ね。 


「アスカ、そ、その格好。」 

「えっ。」 


シンジがベッドの上で顔に布団を被ったのと、あたしが身体を抱きかかえながらしゃがみこんだのは殆ど一緒だった。 


「見、見なかったでしょうねっ!」 


って、見えたに決まってるじゃないっ、だからシンジ、叫んだんでしょ、馬鹿。 


「見てないっ、ほんの一瞬だけ。細かいところは全然見えてないから。大丈夫。」 


一体何が大丈夫なのよっ。下着姿を見られたってこと自体が問題なんじゃないのっ! 
ああ、しかも濡れた体に直接はおっただけの薄地のシャツは殆ど前あけっぱなしぃっ!
今更とも思ったけど、背もたれつきのソファのカバーを引き摺り降ろし、身体に巻きつけて立ち上がった。 


「ほら、もう大丈夫だから布団取りなさい。」 


小銃の筒先で布団を払いのけた。ホンと、このまま撃ってやろうかしら。 


「ご、ごめんっ。」 

「なぁに謝ってんのよ、今更このくらいで恥ずかしがる仲じゃないでしょ。」 


できるだけ平気を装う。こんなことできゃあきゃあ言う娘だなんて思われたら返って悔しいじゃん。
でも、ノーブラでシャツのボタンも適当、下だってショーツだけだなんてっ、ひどすぎる。
軍隊育ちの女の子なんて損ばっかりだ。戦闘となると嗜みも何も頭から蒸発しちゃう。わーん泣きそうよっ。


「な、仲っていっても。」 

「さっきあんたの体を洗ってやった時、あたしのTシャツ、濡れて張り付いてたでしょ。
あんたのストレッチャーの脇でズボンはき替えたし。 知らん振りしながらちらちら見てたの知ってんだからね。」 

「それこそ誤解だよっ!」 

「ふん、どうだか。」 

「ほぉんとだって!」 


悔し紛れにシンジをいじめる。
そう言ってやっと目をこっちに向けたシンジの顔は真っ赤でそれがなんともおかしかった。 


「じゃあ、裸のあたしを想像してHなこと考えてたのかなー、男の子って、その、いろいろ凄いんでしょ。」 

「何が…さ。アスカは、自意識過剰なんじゃないのっ。胸なんかミサトさんの半分もない癖にっ。」 


な、生意気っ!こんな侮辱ってないっ!! 


「なんですってっ!この年であんなのがついてたら、かえって化けもんでしょうがっ。あたしは清純派なんだからねっ。」 


・・・清純派の子って、男の子殴ったりしないわよね。
我が儘とかいわないし、命令口調とか使わないし、怪我を労ったり食事を食べさせたり。
優しいお母さんみたいな女の子のこと言うんだよね。 
特に日本では、そういうのを良妻賢母とか言って特に尊重するんだって聞いた。
そう、ヒカリみたいな子のことをいうのよね、きっとそう。 
いつかのリツコとミサトの言い争いを思い出した。

『だからわたしもリツコも売れ残ってるのよねー。』 
『のよねーって、一緒にしないでくれる?ミサト!
私は少なくとも高校までは自分のお弁当は自分で作ってたし、大学時代だって自炊してたわよ。』 
『ああ、あのパソコンコードだらけの部屋で自炊してたんだ。確か流しにまでキーボードがあったわよねえ。』 
『お、お湯さえあれば食事もできるし、コーヒーも飲めるからいいのよっ!』 

あれじゃあ、お弁当だって何を持って行ってたのかしらね。良妻賢母って言うのとは二人とも違うと思う。 
そんなことを思い出してたら、いつの間にかシンジの襟元を直して、額の乱れた髪を手で梳いてかきあげていた。 


「あ、ご、ごめん。」 

「こういうときはさ、日本語では『ありがとう』って言うもんじゃない?」 

「あ、ああそうだよね。ごめ…ありがとう、アスカ。」 

「うん、それでよし。一旦着替えてから、ちょっと外回り見てくる。ちゃんと寝てんのよ。」 

「うん。でも、気をつけて。」 

「もちろんっ!」 


そう言って、ドアを閉めた。 シンジの奴、慌ててた。なんか勝ったような気分でほくそ笑む。いいぞあたし!



病室を出た後、ヤッケを着こんで自動小銃を持ち、病院のぐるりをみて回った。特に異常なし。 
だが、その時病院のある丘のすぐ下の段に学校の体育館があるのに気づいた。明かりがついている。 
他の建物は皆明かりが消えていたのに、なぜここは明かりがついているんだろう。 
念のため、道は行かずに丘の斜面の木立をかき分け、滑り降りていく。目論見どおり学校の裏手に出た。 
小型乗用車が何台も停めてある。ここの先生達の車なんだろう。自転車もぎっしりと停められている。 
生徒達はまだ下校していなかったようだ。 

今まで見てきた景色をまた思い出す。ここでもまた、大量の抜け殻のような服を見るだけなんだろうか。 
校庭側に回り込んだあたしは、反射的に茂みに飛び込んだ。 
大量のテント、戦車、装甲兵員輸送車、大型トラック、4WD車、攻撃ヘリまでが広い校庭に展開していた。 
しかし、良くみると同じように全く人気がない。隠れた茂みのすぐ前の渡り廊下に、空き缶が一つあった。 
その周囲に、迷彩服が数枚と銃、そしてそこにタバコの吸殻が落ちている。 
そうか、タバコを手放す暇もないほど急に起こった事だったんだ。突然皆、一瞬で溶けてしまったんだ。 
臨戦態勢の軍一個師団が、おそらく何が起こったかもわからないまま消えてしまったのだ。 
教室を外から覗いていく。教科書は開かれたまま、生徒たちの服が机や椅子の上に張り付いたように投げ出されていた。 
もう、おなじみの景色だった。体育館も全く同じだった。 
煌々と明かりがついているのは、単に体育館では照明がなければ薄暗いというそれだけの理由だった。 
あたしは、身体を震わせながら舞台の裾にあった配盤を操作して灯りを消した。 見るに耐えられない光景。
体操着が建物中に散らばっていた。 

突然身体が溶け落ち、体育着だけが暫く液体を抱えたまま慣性で動き続け、壁に突き当たって弾けとんだ。 
ボールは転がり、その先で溶けた別の子の濡れたジャージで止まったのだ。 
その景色が想像できる。 阿鼻叫喚の渦。バケツの水を撒いたような音が次々と響く。
気がつくと身体が震えていた。それだけじゃなく、確信できたのよ。 校庭に向かい、立ち尽くす。
この世にはもう、人はあたしとシンジしか残ってないんだと。
あたしを見て、痩せた犬がヒステリックに吠え立てた。



部屋の明かりをいきなりつけたので、シンジは眩しそうな目ををしながら「どうかしたの?」と尋ねた。 
多分その時、あたしの顔は真っ青だったと思う。髪が顔に垂れてたからシンジには見えなかったとは思うけど。


「別になんでもないわよ、この町には特に危険はなさそうだと思っただけ。」 

「そんならいいけど。あのさ、アスカ。」 


ためらいがちにシンジが何か言いかけた。 


「あ、トイレね。」 

「…うん。」 

「あんたもいいかげん慣れなさいよ、そう急に直りそうでもないんだし、いちいち恥ずかしがってちゃ身が持たないわよ。」 

「だからって、アスカおしっこ〜なんて簡単には言えないよ。」 

「それだってトイレまで肩貸すってだけじゃない。ゆっくりでも手足は何とか動くし、腰掛けることもできるんだからまだましよ。」 


と言ったって、シンジにしてみりゃ屈辱以外のなんでもないわよね。 
でもここであたしが一緒になって恥ずかしがったって何のたしにもならない。男の子みたいにからっと行くしかない。 


「ま、あたしがそうなった時までの貸しにしといてやるわよ。何十年後か知らないけどね。」 


そう、あたしは医者じゃないからシンジがこうなった原因も何も分からない。 
でも仮に戦闘が原因の精神的なストレスが原因なら。
もう争いあう人間同士もなく、おそらく使徒も全滅したのならストレスの原因も消えたことになる。 
シンジの体も自然元通りになるんじゃないかと思う。でも、元に戻るのにどのくらい時間が掛かるか。 
この際あたし自身もふっきってこの状況を楽しむくらいじゃないといけないわねっ。 
状況を楽しむってどういうことよ。自分で言ったことにびっくりした。 
ええとつまり、シンジをいたぶるとかシンジに悪戯するとかそういうこと? 

確かにお風呂に入れたときなんか結構おもちゃ扱いだったけど、だってあいつの反応っていろいろ面白いんだもん。 
真っ赤になって恥ずかしがったり、へんなとこ大きくしちゃったりでさぁ。 
あの手の中でむくむくと膨れ上がった感触、とんでもないわよねっ! 
第一恋人とかガールフレンドとか言う関係でもないただの戦友にでも欲情できちゃうってとこが信じがたいのよね、男子って。 
ああもう、変な感触思い出しちゃったじゃないのよ、ええいっ! 
ぶんぶんと顔を振り回したけど多分あたしの顔も赤くなってたわよね、シンジに見られないように気をつけないと。 

調理場の自動ユニットにはほぼ完成した昼食が大量に残っていた。そのまま白く保存されて冷蔵庫に並んでいる。 
同じ献立だけど、悪くなっていないから暫くはこれで普通の食事が取れるわね。 
正直言って料理を作るほど身体は休まっていない。シンジの事がなければ今頃泥のように眠り込んでいるはずだ。 
森の中で逃げ回っていたとこからこっちうとうととしか寝ていないから助かる。汁さえ作れば済むもの。
相変わらず無線もラジオも例のタウンFM以外うんともすんとも言わない。
この世界にあたしとシンジの二人、本当にそうならこれからどうすればいい。 
ほんとにどうしたらいいの、シンジの面倒を見ながら、こうやって2人だけで暮らしていくの? 
それは、あたしにとって、誰からも捨てられない、絶対的に自分が必要とされる世界でもある。
だけどそれが永遠に続くことに耐えられる? 


「ここのトイレって自動洗浄機付きで助かるよ。」 

「まぁそうよねえ、自分で拭けるとか言ってもやっぱり支えは必要なわけだし。」

「く、臭いのも…」 

「その先は言いっこなし、あったりまえのことでお礼もなし!
それともあんたはあたしがこうなったら助けてくれないとでも言うの?」 


ニカっと笑ったら、シンジも照れながら笑った、うんそれ、いい笑顔じゃない! 
でも、うわ、考えたら凄いこと言っちゃった。馬鹿シンジの奴、絶対あたしがトイレ入ってる場面想像したに決まってる。 
ほら、ちょっと赤くなってるもん。こいつ、すぐ調子に乗るんだからっ! 口をひねり上げた。


「はうっ!な、なにすんだよっ!」 

「あ、あんた今あたしのお尻とか想像したでしょっ!」 

「え、えぇぇー?どうして、わかっ。」 


慌てて手を口に持ち上げても遅い、やっぱりねぇ。 


「待ってよ、そんなこと考えてないっ、いや、ほんのちょっぴり、これっくらい。」 

「あんたには、お風呂場での反省とか、恩人への遠慮とかないのかこのバカッ!」 

「ご、ごめんっ!」 

「しょうがないとは思うけどさ、いつもそんな目で見られてるかと思うと哀しいな。」 


ちょっとすねた様子で悲しそうに言ってみる。


「ア、アスカ… 悪かったよ。」 


なーんて素直な奴。これだからたまんないのよねえ。 


「だからこれだけで許してあげる。」 


そう言ってビンタ一発で赦してあげた。悲惨。でもそのせいか、その後の食事も素直にあーんと口を開けたわ。 
いつもだと自分で食べられるとか、赤ちゃん扱いするなとか煩いんだから。 
大体海辺では最初干し肉をあたしが歯で引き裂いたり少し噛んで柔らかくしたの食べてたくせに今更何言ってんのよ、ねえ? 
麦茶もわざわざ吸い口を探してきてそれで飲ませた。 
あんまり過保護すぎるとリハビリも大変になるから、おもちゃ扱いは今後はリハビリを兼ねた時にやるけどね。 
結構病み付きになりそうだわ、あはは。 

結局一緒の部屋に寝ることにして、部屋の畳の部分に布団を広げた。 
シンジが寝ているベッドは仮眠用で、こっちは熟睡用ってことなのかな。 
障子に囲まれているのでいろいろ着替えとかにも都合がいい。寝姿も見られたくないしね。 
着替え終わってから、シンジにはトイレに行きたくなったら起こすように言いつける。 


「無理してベッドから落ちて骨折でもしたら返って面倒になるんだからね、ちゃんと呼ぶのよ。」 

「わかったってば。」 


ってシンジは言ったけど遠慮の塊だからなこいつ。しょうがない目が覚めたら起こして連れて行くか。 
ここに留まるのもいいけど、もうすこし都市の方に移動してみようかとも思う。 
都市部にも病院はあるだろうし、物資も豊かだと思う。万々が一シェルターに誰かが生き残っている可能性だってゼロではないだろう。 
脅威となる軍は外にいたから溶け、あたし達はエヴァの中にいたから溶けずに済んだとも考えられるじゃない。
いや、そのあと山の中でしつこく追ってきた連中はどこから来たんだろう。溶けたのがどの時点なのかが分からない。 
人間は一人きりになるよりは悪魔とでも一緒にいたいものって言うことなのかな。 
シンジのことだけ考えれば、そして安全性からもこの温泉病院に留まればいいのに、あたしは先に進みたがってる。 
パジャマに着替え終わって、シンジのベッドの横に立つ。シンジは眠ってしまっていた。 


「シンジ…」 


外の風きり音が部屋の中まで聞こえる。あんたを連れて先に進んでもいいのかな。訳もなく少しだけ不安を感じる。 
あたしはどうして先に進みたいんだろう。今は留まる方がいいけど、シンジの先の事がやはり心配なんだろうか。 
そうよね、医者が生き残っていれば一番いいわけだし、少なくとも誰かネルフの関係者とめぐり合えれば大分状況は変わるだろう。 
今は小さな弟のように眠っているシンジ。あたしにとってシンジは友達で弟みたいで、Hで馬鹿な同僚、同居人。 
ほんとに可愛い顔して寝てるわね、こいつ。 
声変わりだってまだ終わってないし、かっこつけて学校では「おれ」とか言ってたけど全然似合わないよね。 
ま、当たり前か。あたしだってシンジだってまだ子どもの年だものね。シンジは特に「お子ちゃま」だしねっ。 
でも、あたし達はすぐ大きくなる。 
大きくなれば、もしこの世界に二人きりだったらまるでアダムとイブみたいだけど、そんな残り物同士でくっつくなんてヤだからね。 
とんでもない設定よ!人類がそれで滅びたからってあたし達の責任じゃあないわよ。 
第一その後はどうすんのよ、その後は!
兄妹同士で増えて行こうって言うわけ?冗談じゃないわよ、そんな不健全な関係は母親が許さないんだから。 
ええ、何でもう母親があたしって前提になってんのよ、腹立つーっ。 
こいつ、平穏無事な顔しちゃって、一発ぶん殴ってやろうかしら。見てると腹立ってくるから、寝よ。 



その晩、あたしはシンジを引きずる様にして森を走り続けている夢を見て、あまり良く眠れなかった。





結局、先に進みたいと言う気持ちを抑えて、シンジのためにここに居座り続けた。
まるで芝居のカキワリのように背景になっているこの町が次第に白々しく思えてくる。
とにかく人がいない。
一般庶民なんて存在は、資源の無駄みたいに思っていたのが嘘のように、胸に大穴が空いたような気持ち。
シンジの車椅子を押して、海とこの先の道を見渡せる 坂道の上にある景勝地に、毎朝やってくる。
監視システムのある警備員室に続くスタッフルームは、便利だが空気の流れがわるい。
だからこの景勝地に連れ出すんだけどね。ここはふかふかの芝生があり、長い手すりがある。
これを使って実際に歩く練習をさせている。いいか悪いかは分からないけど、外傷もないのに動けないでは筋肉が落ちてしまう。
ほんの一週間、寝たきりでいたらかけっこのタイムがどのくらい落ちるか知ってる?
知らないんだったら一度試してみたら?まぁ、それを試せる人なんていないかもしれないけどね。
一日同じ姿勢で内勤業務やってたら、胸の筋肉がつぼまって、息が苦しいような気になるでしょ。あれと同じよ。
シンジ自身も少しあせっている。そりゃあ、何が原因かも分からないまま筋肉が突然力を失ったら誰だって仰天する。
あたしだったら泣き喚いてわが身の不幸を嘆くだろう。
だけど、シンジはこういうことだってあるさ、という感じで飄々としてるのよね。
こいつ、生への執着が薄いんじゃないかと思う事がある。
武士は死ぬ事が肝要。死ぬべき時に死ねないなどというのは不断の心構えが無いからでござる。
時代劇で言ってたけど、あいつのはそういうのとは違う。
日本人は諦めることが美徳であると教えられてきたけど、決して生に執着が無いわけじゃない。
ただ、投げ出して思考を中断させてしまうのよね、見なければそれがなかったと言わんばかりに。
ひとりで生き延びるよりみんなと一緒に死ぬことを選んだりするのよ。
現実を見ないで無かったことにするのよ。無いモノは怖がらなくていい、それが日本人の小児性ってこと。 
シンジはそれが得意。あせっているのを気取られまいとする。
今回のことも夢の中の出来事としてしか把握してないんだわ、きっと。 
柵を手すり代わりに、100歩以上歩くことができた。手の指はまだ良く動かないが足はまだ身体を支えられるようになってきた。 
良く観察すると、手指を動かせないからつかめない。足先の感覚が無いからバランスが取れないということで歩けないのだ。
四肢の末端が駄目になると全てが駄目になってしまうのね。 
何か突発的に起こった事なのだろうか。どこかで頭部をぶつけたんだろうか。 
どこかで神経が、血腫や浮腫で圧迫されてるのだろうか。
説明書を読んで、何とか全身のスキャンをしてみたが、自動判別診断の結果では異常なし。 
第一シンジ自身にもあたしと同じように記憶の脱落があるのだ。最初の記憶はあたしは森だったがシンジは浜辺だったという。 
それ以前のことは夢なのか現実のことなのか、はっきりしないらしい。そこで何かが起こったのだ。それはいつ起きたのか。
本当のことなのか、口にしたくないような事が起ったのか。 
あたしとシンジに意識が戻ったのが同じ時期なのかどうかも確信はもてない。同じ時間軸の上にいたのかどうかさえ。


「アスカ!」 


はっとしてシンジを見た。柵から手を離し、あたしの方へ何歩かを踏み出している。え、歩けたの?
すごい! 
シンジが手を伸ばした。それを捕まえて、抱きあうようにして支えてあげた。 


「久しぶりに歩いたら、なんか感触が違うね。歩くってこんなことだったっけっていう感じ。なんか、ふわふわしたよ。」 

「良かったじゃない。この分なら少しずつ歩けるようになりそうね。」 

「そりゃあ、出来たらアスカに抱かれるよりは抱きしめる方がいいから。」 


思い切り突き倒してやったわよ。 
何この馬鹿、あたしがこんなに心配してるのに自分ばっか気楽な顔して。腹立つ! 



人間の身体にはいろいろなものが溜まっていて、それが状況によって身体の働きに影響を与えるんだって聞いた事がある。 
その日のリハビリが終わったあと、シンジをお風呂に入れながら思い出していた。 
自己免疫疾患なんかが突然原因不明のまま突発的に発症するってことはその事例であるんだってどこかで読んだ。 
例えば、何もかもを溶かし出すLCLの様なものを飲用していれば、細胞の中に溜まっていた不純物が溶け出して体循環に載ることになる。 
そのまま体外に出てしまえば良いけれど、再度どこかで吸収されたりすれば、そちらでは溜まっていたものを一気に取り込むわけだから。
それがBBB(血液脳関門:毒物等を脳に進入させない為の化学的なバリア)を越えたりすれば精神、神経的な異常が起きたりするだろう。
一気に致死レベルを越えてしまうかも知れないでしょう。そういうことよ。
細胞レベルで有毒物を洗い流す水なんてものが流行ったことがある。
だけどその直後に、身体を壊した人が何人も出た。それは多分このことと関係があるんだろう。 
シンジはエヴァに乗り始めてから数ヶ月で、それまでは普通の生活してたわけよね。 
あたしはほんの子どものころからLCLに浸って生きてきたから今更何の影響も無いんじゃないかしら。 
そう思いついて、再度詳しく観察した限りのシンジの症状を詳しく記入し、血液の自動分析を実施してみた。 
可能性の欄には若年性リウマチなどの自己免疫疾患がいくつか並んで出た。 
でもこれだけじゃ何にもならない。自己免疫疾患に効く薬なんて殆どなくて、ベテランの医師が手探りで治療するしかない疾患だから。 
とても自動治療装置の手に負える病気ではない。あたしは頭を抱えてしまった。 

それでも、最近は自律作動型の医療コンピューターがあるのを色々な検索をしているうちに知る事ができた。 
つまり首都の国立高度医療センターに行けばわかるかもしれないとうこと。 
決めた。とにかくシンジが取り返しのつかない状態にならないうちに自己学習型先進医療コンピューターのある施設に行くのよ。 
なんか妙にシンジが明るいのも、積極的なのも気になる。こうなったらいいのにと思ってた理想のシンジ像ではあるんだけどさ。 
だって、実際そうなってみたらちょっと違和感あるんだもん、仕方ないじゃん。 
わがままで言ってるんじゃなくて、…今までのシンジの方が自然なのよっ!文句あるわけっ! 
思い立ったら、さぁすぐに行動したくなるのがあたしの長所でもあり欠点でもある。


「アスカぁ。」 

「なによっ。」 

「何よって、寒いんだけどな…」 


ああ、しまった。シンジを洗ってる最中だったんだっけ。あたしは介護用の赤い水着と短い白衣を身に着けてる。 
シンジは当然真っ裸なわけで、そのまま温泉治療用の車椅子に乗っている。 
ぼんやりしてて、暫く吹きっさらしにしてたのよ。「ご、ごめん。」体が冷たくなっちゃってる。
慌てて温かいお湯を何杯かかけてやりながら、いつものシンジのように謝ってしまった。


「何考えてたのさ。」 

「何も。この先あんたの病気をどうしたらいいかなって思ってただけ。」 


そっぽを向いて言った。 


「ごめん、心配かけてるよね。」 

「ほら、そこで謝るなって言ってるじゃない。あんただってあたしが病気だったらこうして面倒見るでしょ。」 


こんな風に裸にして身体洗ったりしたら、舌噛んで死んじゃうとか言って大騒ぎだろうけどねってシンジは笑った。
ああ、たしかにあたしそう言って騒ぐだろうな。想像した光景は多分シンジと一緒だろう。
そんなことを思いながら、湯槽のスロープから車椅子ごと湯に浸けて行く。


「そうなんだけど、アスカに僕の世話を焼かせるなんて。悪いなって思ってるよ。」 

「いいのよっ、好きでやってるんだから。」 


え?好きでやってるって、何? あたしは仕方なくやってるんでしょ。
この馬鹿どじ間抜けなシンジを置き去りにするわけにはいかないし、頼んでいこうにも他の人間はいないからでしょ。 
馬鹿なこと言った。シンジが目を丸くしてんじゃない。 


「好きで?」 


誤解すんじゃないわよとか、誤解するなとか言おうと思ったのよ、誓ってそうだったの。 
シンジをへこます大チャンス! だけどあたしは、馬ッ鹿みたいにこういってたのよ。 


「シンジのこと心配だから。・・・そんなのほっとけるわけ、ないじゃない。」 


あ、あたし今なに口走った?
あたしにとって、その言葉は告白に等しかった。何でこんなこと言ったの?分からなかった。
あいつ、あっけに散られたような顔して、それから照れたように俯いた。
もうっ!
カーッと顔が真っ赤にのぼせたのが自分でわかって慌てて湯船を飛び出して頭から冷たいシャワーを被った。 
「ああ、なんかのぼせちゃったみたい。」って大声で叫んでた。
い、今さら遅いかな。

あいつのリハビリはかなり辛そう。指を伸ばしたり反らしたりするだけで激痛が走るらしい。
見てるほうがキツイほど汗をかいてるシンジ。指って神経集まってるし骨なんて細いもんだし。 
整形外科とリハビリセンターの図書館の指導書を見て、指の牽引とかソフトマッサージ、ローラーを使った矯正訓練をしてあげる。 
あと、シンジの腕に、見つけ出した高振動リハビリ装置を取り付けたりする。 
温泉で行うとで効果がでるのは、温泉成分の他に、地下の高圧下で溶け込んだ空気が弾けて微振動を体に伝えるからなんだって。 
この装置はそれと同じ効果を筋肉に伝え、指のリハビリのような比較的辛い症例を楽に受けられる工夫の一つ。 
柔らかな粘土のような物質を使って何かを形成する訓練。指から測定した弱電流を感じ取って適格な負荷を与えてくれる。 
この分野の研究って随分進んでたのね。
シンジのためにはとっても嬉しいことだけど、こういう運動療法以外の治療はどうしようもない。 
金製剤とか色々薬は揃っているけれど、鎮痛剤一つ使って問題ないかどうかが分からない。
だから…もう少ししたらあたし達は彼方の大都市に向かって旅立たねばならない。 
そして、出来れば生き残りの人を見つけ、シンジを見てくれる医師を探すことが出来れば。 


脂汗を流しながらリハビリを続けたおかげで、シンジの指は少しずつ動くようになった。
摘めもしなかったジュース缶を握れるようになった。
曲がって固定化していた指がスプーンくらいならつかんだりする事ができる。 
実際にはつかむというか巧く挟む程度なんだけどね、それでもシンジを思わず抱きしめて歓声を上げてしまって恥ずかしかった。 


「アスカ、アスカ痛いってば。」 

「良く頑張ったね、シンジ。指さえ動けば大分楽になるわよっ。」 

「腕もかなり上まで上げられるようになったしね。」 



それからも少しづつシンジは回復して行った。毎日一緒に温泉にはいり、マッサージや通電療法を行った。
腕も肘の高さまで上げられるようになった。もう少し頑張れば自分で食事が楽に取れるようになるわね。 
お茶碗を手で持つ事ができる、まだ持ち上げることはできないけど。
お箸は無理でもフォークやナスプーンは使えるようになった。
歩く方は安定感が増したけれど、歩ける距離はさほど伸びてはいない。
階段もまだ上れない。コップは取り落とす時がある。 
だけど、一旦落ちた足なんかの筋肉が大分付いてきた。自力で普通に歩けるようになるのも、もうすぐなんじゃないかな。 
気がつけば、この病院に来てから、もう半年が過ぎていた。 
相変わらずラジオにも無線機にも何も入ってこない、タウンFMの放送も聞こえなくなった。どこか故障したんだろうか。 
屋上から双眼鏡で先を見渡したり、シンジを載せて山の展望台まで行ってみたりしたが変化は無かった。 
あたしとシンジはこの温泉病院の施設に留まることを選び、この先へと進めないでいた。 
それは行けなかったのではなく、この先に待ち受けているものに対面する事が恐ろしかったから。 
ついでに言えばそれを決めていたのはシンジではなくあたし本人だった。 


「シンジ、そろそろ…この先に進まなくちゃいけないわね。」 

「そうだね、この先には誰かがいるかもしれない。何かが待ち受けているかもしれない。」 

「行かなければわからないよね。」 


この施設の名は健康福祉施設「エデン」併設温泉病院「エデンの園」大きな修道院教会の寄付で建てられたものだ。 
エデンにエデンの園。出来すぎたネーミングよね、と思わず笑いが浮かぶ。 
あたしがここを出るのが嫌だと思うもう一つの理由がそれだった。 
エデンの園を出て行く男女という一致になんとなく不吉さを感じたのよ。笑っちゃうような話なんだけど。 
でも、あたし達はここを追放されるわけではない。自らの生き方を決定して出て行くんだから。 
あたしは、乗っていくつもりの軍用4WD車にガソリンを入れたり、付いていた機関銃の弾を補充した。 
少しづつ服や食料、水、薬品やタオルも軽油も積み込めるだけ詰め込んだ。 
待ち受けているのはエデンの東の荒地なのか、それとも。



そして、いよいよ旅立つ日を今日と決定した。 
真っ青な空、カレンダーでは今日は10月1日だ。目指すは首都の国立高度医療センターだ。





 

−V−へ続く