ドイツの夜空は冷たい風が吹きぬけていく。
星は御伽噺のターナー金貨のように輝いて、お話を聞いたときのママの事をうっすら思い出す。
お祖母ちゃんが亡くなった夜。

ママ、そこにいるの。
お祖母ちゃんを迎えに来てるの。
わたしの傍から、お祖母ちゃんを見てるの。
そこから二人でわたしを見ているの?

風がバラ園を揺らす。その風が家の中に香りを運び入れる。
お祖母ちゃんの顔は苦しみの跡も無く、安らかだった。薄っすらと微笑みさえ浮かべていた。
死化粧をしてくれる業者の人たちがその必要が無いというほどだった。
遺族のために言ってくれる言葉かもしれない。でもその言葉通りだと思った。
最期を看取ったのは、パパとシンジのお父さん。そして羽仁先生だった。
病院に詰めている神父が最後の香油を額に塗ってくれたという。
お祖母ちゃんはドイツ人のキリスト教徒として最期を迎えた。その希望通りに。

お祖母ちゃんの所属していた教会は、バラ園の家から歩いて5分ほどの所にある。
お祖父さんも、曾お祖父ちゃんも、曾お祖母ちゃんも、皆ここで葬儀を行った。
この街の人たちは200年昔から皆ここで天に召されていったのだ。
今日は、バラを愛し、この街を愛した、トワコ・惣流・ツェッペリンの葬儀と告別式が行われる。

ドイツの葬儀は昔と比べれば随分簡略化されてるって聞いていた。
それでも随分長い。日本の葬儀と比較すれば随分時間が掛かってるように思えた。
昔誰かの葬儀に立ち会った事が記憶の底から甦ってきた。もうずっと前のことだ。
記憶ははっきりしてないけれど、わたしは誰かにしっかり右手を握られてた。その手が湿っていたのを憶えている。

その人には天井から真っ直ぐに射しこんで来た光が当たっており見上げても誰なのかよく分からなかった。
正面には白い花に覆われた棺が壇の上に置かれており、そこに大きな故人の写真が掲げられていた。
写真の人をわたしは良く知っていたはずだ。良く知っているはずなのにそれが誰なのか思い出せない。
思い出せないんじゃなくて、それが誰なのかを知る事をあたしは拒絶していたのかもしれない。
stained glass、marble statue、relief、Hammondorgan、Requiem.長く影を伸ばしていく小尖塔。

静かに悲しげに鐘が鳴り、葬儀が始った。

聖書の朗読がありミサのようにパンとぶどう酒の奉納があって、散水や散香が行われている。
正面で説教を続けている神父様が、人は死ぬことで罪が贖われて神の元へ到ることを教えてくれた。
あの写真の人が罪のある人だなんてとても信じられなくて、悲しくなってあたしはひどく泣き出した。
声は出さなかったけれど、涙が驚くほど流れ出て、周囲の人たちが屈み込んでしきりとハンカチで
顔を拭ってくれて、抱きしめてくれた。かわいそうに、という言葉がその時いつまでもわたしを包んでいた。

「人の子の栄光を受くべき時来たれり。誠に汝等に告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なば、唯一つにて在らん、
もし死なば、多くの実を結ぶべし。己が命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその命を憎む者は、之を
保ちて永遠の生命に至るべし。」

煙の出る金属の玉が打ち振られて、煙が立ち昇る。それと一緒に賛美歌を唱った。
ああ、こんな事、昔にも経験した事があったな。そうぼんやり思っていた。写真の顔が揺らぐ。
抱き上げられ、棺の中に手を伸ばして白い花を入れる。
そこに目を瞑って横たわっているのはあれは。
あ、そうか。あれはママの顔だ。
飾られているあの大きな写真は少し若い頃のお祖母ちゃんの顔だ。
はっきり見つめようとしたけど、どんどんその写真はぼやけていくばかりで何も見えなくなって。
その間に人々は棺の周囲を巡り献花を続けていく。


「お祖母ちゃん…」


身体から力が抜けそう。


「アスカ、頑張って。」


小さく耳元でママが言った。わたしの腕を取って支えてくれているのでなんとか立っていられる。
パパの大きな身体が右側にあって身体をもたせ掛けてる。シンジとあいつのお父さんがわたしの後ろに立っている。
左の列とわたしの後ろ側は初対面の親族たちが並んでいる。シンジとお父さんは特別だ。
そのうち親族になるかもってこともあるし、喪主であるわたしとの付き合いはこの中で一番古いから当然だ。
羽仁ヒロコ先生も同じ列に一緒にいる。ああ、わたし、何を考えてるんだろう。
そのさらに後ろには、一般の参列者として街の人たちや、昔お祖母ちゃんが教えた人たちが大勢列席してくれている。
こんなに人が集まってくれるくらい、お祖母ちゃんは愛されていたし、幸せに暮らしていたんだろう。
あたしが心配するようなことは何もなかった。
親戚の人たちも礼儀正しく声を掛けてくれた。それがどういう意味合いだったとしても別に構わない。
最初に倒れているおばあちゃんを発見し、病院に運び連絡をくれたのは近所に住む大叔父の孫息子さん。
つまり、お祖父ちゃんの弟さんの息子。さらにそこにはわたしと幾らも年の変わらない子供もいて。
その子らも列席してくれていた。

昔、まだ戦争の傷跡もいえていない頃、このウルムの町にやってきた日本人の女の子を、人々はどう迎え入れたのだろうか。
ドイツ人は特に悪い感情を日本に抱いていたわけではない。だがアジア人に対する蔑視はそれとは別に存在していたし、
御祖父ちゃんの親は日本の娘との結婚には決して賛成ではなかったと聞いている。
それでもお祖父ちゃんはそれを押し切ってお祖母ちゃんと結婚した。最初は勘当同然だったと叔父さんが話してくれた。
それでもお祖父ちゃんが亡くなる頃には二人を認めていたのはお母さんが生まれた事もあるけど、街の人たちが認めたように、
曾お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんという人を否定しきれなくなったからだって。
没落したとは言え、誇り高いユンカーの出身であった曾お祖父ちゃん。けれど御祖母ちゃんに心を開き、一緒に幸せに暮らしだした。
不思議な調和が戻り、お祖父ちゃんが亡くなってからもそれは喪われることはなかった。

お祖母ちゃんは自分の努力と態度で周囲のみんなから認められるまで頑張った。誠実に人につくし、学校に通い教師になった。
そうやって、ママと義父母を荒れ果てた戦後の世界で養った。
だからママは学校ではいじめられることなんか無かったし、パパとママの結婚の時も街の皆が祝福してくれたらしい。


「そりゃあ、あの頃の先生の頑張りって言ったら無かったさ。」

「みんなが大変な時代だった。それでも先生はわしら生徒の事を誰よりもわかってくれる人だったさ。」

「身を持ち崩しそうになった奴もいた。でも結局先生がそんな事を許さなかったんだな。」

「旦那が愛したこの街。そこの人々とご両親を、どんな事があっても守ると命がけで生きてきたんだよあの人は。」


バラ園で、わたしはいろいろな人に色々な事を聞いた。お祖母ちゃんの生き方をわたしは少しずつ理解する事が出来た。
ママはお祖母ちゃんの頑張りの中で育ち、その結果としてわたしの今の生活がある。
そのお祖母ちゃんのDNAはわたしの中にも存在してる。
勇敢で、誇り高く、我慢強く、愛情と献身を惜しまないお祖母ちゃんの心が街の人たちに認められたんだ。
わたしは、そのお祖母ちゃんから受け継いでるはずの美点を未だに生かしきれていない怠け者だ。
シンジが言っていたように、今この瞬間も、お祖母ちゃんの遺伝子がわたしの中で生き続けている。
ママを通じて、お祖母ちゃんとママはわたしをここに存在させている。
生命の連続性とか、繫がりとか、色々な言い方があるけど、それは途切れない絆ということ。ウルムとお祖母ちゃんの絆。

教会での長い葬儀と告別式が終り、お祖母ちゃんは郊外の見晴らしのいい墓地に運ばれてそこに埋葬された。
お祖母ちゃんの庭から摘まれて来た白いバラや赤いバラが棺の上にいっぱい積み上げられた。
棺が掘られた穴の中に自動的に沈んでいくと、パパとわたしが土を掛けた。ママや小さな弟も。
続いて叔父さんや叔母さんが。火葬も増えていたけれど、ここでは未だに土葬が主流だ。
シンジのパパも、シンジも。街の近所の人々も。皆、涙を堪えて埋葬に参加してくれた。

わたしが死んだ時に、こんなに大勢の人が列席してくれるだろうか。わたしの死を心から惜しんでくれるだろうか。
今並んでくれる人は学友や、パパやママを悼んで来てくれる人たちだろう。一緒にいるから仲間と思ってくれてるだけ。
わたしにはこんな風に列席してもらうほど価値が無い。それだけの理由が無い。卒業したらもう縁は切れてしまう。
学校関係の人を除けば、わたしの為に来てくれるのはシンジとレイと家族だけかもしれない。
それを考えるだけで、自分が今どのくらい価値のある人間なのかどうかがわかる。
これから先、自分がどう生きるべきなのか。人との関わりを疎んじるような今の状態でよいのだろうか。
人を蔑んで見るような時がある自分。そのままで、人に愛される事は無い。例え自分に非が無くとも。
どうこの人間の世界に関わり、お祖母ちゃんのような人間になれるか。それを何時でも自分に問おう。
ずっと気がついてたの。ヒカリがそのことでわたしをずっと心配してくれてる事。
妥協は要らないが許すことも許されることも大事な事に違いない。それを考えるとちょっと恐ろしい気持ちにすらなる。
死と生を紡ぎながら、私達は永遠の時の中を流れ下っていく。
わたしたちという木の葉は寄り添ったり離れたりしながら共に同じ先を目指している。
最後の場所へ流れ着いた時、もう一度お祖母ちゃんにもママにも会う事ができる事だろうと思う。

隣に立っていたシンジの手を握った。シンジはわたしの手を温かく包み、わたしの顔を見下ろした。
わたしより小さかったシンジが今はわたしを見下ろしているのが不思議。
あの男の子がいつの間にかわたしを守ってくれてると感じているのが不思議。
どうしてなんだろう。シンジと繋いだ手の温かさ。それがわたしの身体の中に広がっていくの。
手を繋いだ先から微かな脈動を感じて、その脈動はわたしの細胞に一定のリズムを与え、あいつと足並みを
揃えて歩いていこうとしてるみたい。あいつの目を見上げると、シンジはわかってるよと言わんばかりに
視線を合わせたあとでわたしの手を軽く握り締めてくれた。

なによ――なによ生意気なんだからっ。
あんたなんか、あんたなんか。わたしの事ちっともわかってなんかいないくせに。
勝手にわかってるって思い込んでるだけの癖に。
ちょっとわたしが悄気て(しょげて)る間に、わたしの中にこんなに深く入り込んじゃって。
――ずるい、ずるいよ。

それでも、わかっている事。けっして、わたしたちは離れたりしないよね。
いつまでも、この世界中を飛び回った遺伝子を持っているわたしは、シンジのいる場所から離れない。
わたしは、シンジのいる場所にいる。それが多分わたしの望みなんじゃないかと思う。
いつの日か、その事を互いに誓い合う日がやって来たら。

わたしは、ひときわ大きく喉から突きあがって来る感情に負けて、シンジの腕を両手で取って、顔を押し付けた。
そんな事、ちっともしようなんて思ってなかったのに。シンジの腕に顔を押し付けて、泣いてしまった。
シンジは真っ直ぐ前を向き、あたしの替わりみたいに胸を張って、庇うようにしっかり立っていてくれた。
だから、わたしは。こいつを頼りに出来る。
安心して涙を流す事ができた。こんなにシンジを頼もしく思った事は無かった。


「ありがとう。シンジ。」






埋葬が終ったあと、風の吹きぬける広い芝生墓地を歩いた。
お祖母ちゃんは逝ってしまった。

わたし達は明日には日本に帰る。お祖母ちゃんはお祖父ちゃんと並んでこの墓地に眠る。
それがお祖母ちゃんのたった一つの望みだった。そのお祖父ちゃんの両親も息子の墓地に並んで眠っている。
お祖母ちゃんはドイツの大地に眠る事を望み、日本にはついに戻らなかった。同じようにわたしのママは
日本の墓地に眠っている。わたしの直系の母と祖母は地球の反対側で眠っている。
それぞれの配偶者は、民族も国籍も文化も違う。でも彼女たちにとってはそんなことは何でもないことだった。
その情熱のままに海を越えその土地に眠った。その地で子供を育て、その地に根を張って生きその地となった。
それがわたしの中を流れる血。とんでもない情熱家の血が流れてると羽仁先生が言うわけだ。
だって、先生はその『とんでもない情熱家』の親友だったんだもんね。

いったい、御祖母ちゃんとお祖父ちゃんの間にはどんな大恋愛物語が展開されたんだろう。
どんな思いで海を渡り、遠いドイツに渡って行ったんだろう。
そして、ママだって生まれ育ったドイツを捨ててまで、アメリカ人のパパと結婚する決意を固めたんだろう。
お祖母ちゃんはその時ママに何と言ったんだろう。
自分の故国に娘が住むことになった時、帰ってみたいとは思わなかったんだろうか。
そして、ママは異国の土の中に眠っている。御祖母ちゃんもドイツの土に。
くるりと振り返って後ろ向きに歩きながら、10歩くらい離れて付いてくるあたしのボーイフレンドを眺めた。
わたしは、一体どこで永遠の眠りにつく事になるんだろう。そして、もう一度思った。

いつかは、シンジと一緒になる日が来るかもしれない。
いつかは シンジと並んで教会で祝福を受ける日が来るかもしれない。
いつかは シンジとの子供を胸に抱く日が来るかもしれない。

今はただの幻想かもしれないけど、きっとすぐ近い未来であるような気もする。
そう思うと、わたしの顔は勝手に上気する。


「シンジ!ねぇ。」

「なんだい。」

「もしも――もしもの話だけど、わたしがあんたより早く死んだら――」

「冗談でも、そんなこと言うもんじゃないよ。」

「だから、もしもの話しよっ!」


シンジはわたしのところに急いで走ってきてわたしの手をぎゅっと掴んだ。
そして近くの大きな楡の木の下に引っ張っていった。


「痛いでしょっ。一体なによっ。」

「縁起の悪い事を言った時は、木を三回叩いて、無かった事にしてもらうんだって教えてもらった。」

「なによそれ。」

「ドイツの習慣なんだって。木の妖精はいい妖精だからこのくらいで簡単に望みを叶えてくれるんだって。
縁起の悪い発言を無かった事にしてくれるそうだよ。」

「へえ。そんなお呪(まじない)があるんだ。」

「ほら、三回叩いて。」

「あんもう、わかったわよ。」


そうは言ったけど、わたしはかなり大急ぎで木の幹を三回叩いた。
少しでも長くシンジと一緒に暮らしていたいじゃない。木の妖精頼んだわよ。って一体何言ってるんだろ。
でも、見ちゃった。その時シンジッたらほっと溜息をついたんだよ。


「シンジ、あたしの事が心配だったの?」

「え、う、うん。当たり前じゃないか。」

「カワイイ!お呪いだって。真剣な顔しちゃって。安心して溜息ついて。」

「何だよ、悪いかよ。」


ちょっと拗ねかけた顔も可愛い。ここは一つご機嫌を伺っておこうかな。


「うそうそ。本当はね、嬉しかったのっ。」


そういった途端にシンジの顔がぱっと明るくなった。ほーんと、男の子って単純よね。


「あたしも、きっとシンジとね・・・」

「え?何?」

「ううん、なんでもないの。」


これ以上言うのはちょっとサービスしすぎよね。あなたの傍に眠りたいなんて。
大体まだ100年は先の話よ、わたしが死ぬのは。
もちろんシンジだってどうあろうともそのくらい先まで生きてもらうわよ。
それまでにやらなきゃいけないことは山ほどあるんだからねっ。何って、とにかくいっぱいよ。
それこそ天に届くほどいっぱい。










「シンジっ。準備は出来たのっ。」


すっかり「お出かけ用の格好」で決めたアスカは部屋の中に入るなり、机に上に腰掛けて高く足を組んだ。
もうすっかり怪我も良くなってるから嬉しくてしょうがないんだろうけど。
僕にしてみると目のやり場に困っちゃう。その上アスカはそんな事承知の上で、僕がどぎまぎしてるのを
面白がってるに決まってるんだ。


「うん、ホテルに残してきた荷物は向こうで日本宛に発送してくれるんだって。」

「おじ様は?」

「ほら、病院に残してきた鯉のぼりの片付けの指揮をしてるようだよ。200匹からあるから大変みたい。
あそこ、ポールだけでも片方30本ずつあったからね。」

「一本当り真鯉緋鯉子供の鯉って、5匹ついてるのまであったし、横に綱張って泳がしたのもあったし、
凄い数だったものね。200匹じゃきかないかも。あんないっぱいの鯉のぼり、生まれて始めて見た。」

「そうだよね。テレビでも流れたんだって。どこかの美術評論家が絶賛してたって。」

「あ、私もそれ見た。日本の伝統的意匠は素晴らしいって。空を流れに見立てて悠然と泳ぐ龍の化身としての
魚の吹流しを泳がせる。男子の武勇とたくましく育つ事を祈る考えはすごいとか。あーあ、わたしも1ゼット 
買ってもらいたいなあ。」

「君のうち、屋上にポールがあったっけ?」

「わたしだけじゃないわよ。テレビ局にはどこで手に入れられるのかって問い合わせが殺到したらしいもの。
ドイツも男の子を大事にする文化があるからね。いいなあと思った人が多かったんじゃないかな。」


来年初夏のドイツの青空いっぱいに鯉のぼりが悠然と舞ったらさぞ痛快だろうなと想像した。


「そうねっ。それも面白いかも。」


アスカはこの素晴らしいバラの庭園付きの家をウルム市に寄付する事にしたんだ。お父さんも賛成してくれたって。
街の人たちは、この家とバラ園を守り続けていく事を約束してくれたんだって嬉しそうに言った。
お祖母さんの、バラのお弟子さんみたいな人たちがこの街にはいっぱい住んでいる。
その人たちが今日も朝から庭に入って手入れをしている。バラの手入れは一日も休む事は出来ない。
このバラ園と共に永遠子(トワコ)・惣流・ツェッペリンの名前がウルムの街に残る。
それはアスカにとっても、お祖母さん自身にとっても一番うれしい事に違いないと思った。


僕らは出発までの時間を街に出て過ごした。石畳の街。アインシュタインの生家。高い尖塔にも登った。
赤金色の長い髪を翻したアスカと手を繋いで、笑いながら街角を駆け抜けた。

風船の束を抱えた大道芸人。荷車に満載された花々。ロバに引かれたパン屋さんの屋台。
店先に売られているソーセージの薫り。パン屋で鳴る焼きたてパンを知らせる鉦の音。学校帰りの小学生
たちのランドセルの群れ。花の零れる生垣。酢漬けの何種類もの野菜やピクルスを売る軒先の店。
お祖母さんが暮らした街の日常。細い運河の流れ。日向の暖かい、ゆっくりとした時間が流れる街。
もし、アスカがこの街で生まれていても僕らはめぐり合う事があっただろうか。
地球の反対側に生きていても、必ず僕らは出会っていたに違いないと、そう思った。

この街には僕を引き寄せずにはおかない何かがある。ここは僕に何か特別なものを僕に感じさせるんだ。
アスカと大して年の変わらない頃のお祖母さんが、この街角で買い物籠を抱えているまぼろしが見える。
珍しい形のパンを見つけて目を丸くしたり、肉屋の店先では、ウサギや鹿や鶉がそのまま並べられているのに
びっくりして転びそうになって慌てている。そんな様子が想像できた。
それはアスカ自身が転んでいる場面に、簡単に転換してしまう。思わず声に出して笑ってしまった。


「むう。一体何がおかしいのよ。」


ほんとにいい勘してるよな、アスカって。
ドイツでは肉はほとんどブロックでしか売っていない。ひき肉は自分の家で引くし、ソーセージを詰める
腸膜や簡易スモークの箱、何種もの香料なんかも売られている。それだけに獣肉を売っているという迫力がある。
時間があったら自分で作ってみたかったな。

市場の前にはパラソルつきの座席が幾つもおいてある。
小さな水盤から水が溢れていて、そこで顔を洗ったり、タオルを絞って人々がくつろいでいた。
走り回って息が切れていた僕らも、そこで休憩して汗を拭った。
絞りたて生ジュースやシャーベットも売られている。そこに腰を降ろして冷たいジュースを飲んだ。


「ツピィィッ。」


その囀りに僕らが振り返ると、むこうの角のペットショップの店先に見慣れた小鳥の姿があった。


「あれぇっ、あれってジュウシマツじゃない?」

「えっ?ドイツにいるような小鳥だっけ?」


アスカは店先にいたオヤジさんに話しかけた。やっぱりジュウシマツなんだって、とアスカが言った。
そこのオヤジさんはかなりの物知りでアスカを通じてヨーロッパにジュウシマツが渡ってきた経緯を
詳しく教えてくれた。中国南部原産のジュウシマツの原種が日本で今のような白の多い種に固定され、
1860年ごろイギリスに輸入され、それがヨーロッパに広まったらしいことも初めて知った。

「1860年って言ったら桜田門外の変とか、日本使節団が渡米した年だよね。」

「リンカーンが大統領に当選して、アロー戦争が英仏の勝利で終った年でもあったわね。」

「そんな昔に、ジュウシマツは日本からヨーロッパに渡って来てたんだ。」

「こんなひよわそうな小鳥なのに、何十日もかけて赤道を越える様な旅をしてヨーロッパにまで行ったなんて凄いね。」


オヤジさんは僕らが日本人だと気づくと笑いを浮かべながらさらに何か言った。


「そして今はヨーロッパ産のジュウシマツがまた日本に輸出されてるんだって。大型の品評会用の品種なんだって。
この羽色の品種はドイツで作られたもので、ドイツと日本を繋ぐ小鳥だって。」


なんか、惣流一族みたいね、とアスカは言って、ジュウシマツのかごを不思議そうにじっと覗き込んだ。
薄茶色の斑と幾分大柄な身体つき。いわゆる梵天と呼ばれる逆毛がついた奴もいる。小さな小鳥の旅。
日本のものより尾羽が少し長くて鋭敏な感じがする。何代にも受け継がれた日本とドイツの小さな架け橋。
そうか、ここにもジュウシマツが飼われてるんだね。
お祖母ちゃんもこの小鳥を見て日本の事を思い出した事があったかなあ、と彼女は呟いて、僕を振り返った。
この角を曲がると市場がある。向こうへ真っ直ぐ進むとお祖母さんの家だ。
そうだね、きっと毎日のようにきみのお祖母さんはこの角のかごに吊るされてるジュウシマツを見たに違いない。
肯いた僕。アスカは満足したように青い色の瞳を細めて小鳥を見た。


「こんなとこにも、あるのね。」


何を、と聞き返す必要も無い。お祖母さんの跡は、この街中に溢れていて、この町にアスカが住んでいれば
おばあさんと同じような所をアスカはきっと歩き回るに違いない。同じような事を考えて、同じような
冒険や、同じような生活を送るに違いない。それはきっとアスカのママとだって被さっているだろう。
そうか、だから僕はこの街にアスカの気配を感じるんだ。
ここに残っている君のお祖母さんや、君のママの気配を、君の気配のように感じてしまうんだ。
例え世界中どこの街に行っても、そこにもしアスカが立ち寄った気配があれば君のいた場所を感じてしまうんだ。


「シンジ、この街でかくれんぼしても、きっと私を見つけてくれるよね。」


まるで僕の心を読んだような事をアスカは言う。


「もちろん!」


不思議なくらい自信を持って僕は応えた。例え百万人の中からだって。


「さあ、そろそろ時間だよ。噴水の広場に行かなくちゃね。」

「うん。」


その時だった。向こう側の通りから、背の高い金髪の青年が走ってきた。
僕らの後ろからその青年に向かって、長い黒髪の小柄な女性が駆け寄った。二人は久しぶりに巡り合ったように、
軽く抱き合うように輪を描いてから、腕を絡めあって歩き出した。その女性がアスカにそっくりなように思えた。


「あれっ。」


アスカも同じ思いで二人を見ていたのかもしれない。すれ違った途端、僕らは振り返った。
そこにいたのは、さっきとは違う、ごく普通の栗毛色の髪のカップルだった。


「見た?」

「うん。」


アスカは、いきなり僕の手を取って歩き出した。


「な、なんだよっ。」

「ふふふっ。お祖母ちゃんもやるなぁって思って。」

「な、何のことだよ。」

「馬鹿シンジッ、いいのよっ。」


そういうとアスカは笑って、駅に向かって駆け出した。僕はその後を追っかけて走り出す。
君の笑顔はいつもどおりの、教会の天使のような笑顔。
綺麗に洗われた石畳の街。美しい街路樹の続く、古風な旧市街と尖塔の街、ウルム。

さよなら、アスカのお祖母ちゃん。











第45話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

もう一度ジュウシマツを(44)
天使の微笑と死神の誘惑はどちらが男の子にとって魅力的か「さよならお祖母ちゃん」(終)  2005-06-05 komedokoro






「もう一度ジュウシマツを」第44話です。
アスカのおばあさん、名前がトワコ。
永遠子とは泣かせますね。
ドイツの男を愛し、彼の生まれ育った街を愛し、その町の土となる。
きっとアスカも愛する男と共に過ごした街に骨を埋めることでしょう。
もちろんその相手はシンジ君。
私の住んでいる街に素晴らしいバラ公園がありまして、
今回だけはタイトルバックを謹呈したくなり撮影してまいりました。
粗タイトルではありますが、ドイツ編終了を記念いたしまして
ゴリ押しタイトル画像押し売りさせていただきました(笑)。
思わず周囲を眺めてみましたがアスカとシンジらしき二人は見当たりません(当然ですが)。
ただ、この作品ではアスカとシンジは幻のようなカップルを見かけます。
おそらくこの街が地上にある限り、そしてこの地に住まう、または訪れる恋人たちがいる限り、
トワコと彼はこの公園でデートしていることでしょう。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)

 

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