黄昏時も悪くない

 


無名の人     2012.12.06





 1995年12月4日、円山公園の枝垂桜の下で、僕は彼女を待っていた。蛇女よりも妖艶で、僕に巻き付いて離さない彼女を。
 
 1995年1月下旬、京都の大学を受験すべく、僕は電車に乗っていた。関西では誰も起きるとは思っていなかった大地震のため、線路は寸断されて鈍行に揺られ、長距離を移動することになった。
 「なんだって僕の受験の年に」とは思わなかった。みなが平等に影響を受けていることで、自分だけが被害に遭ったわけじゃない。しかし、それでも何時間もすし詰めの電車で立ち続けるのはしんどい。窓の外の景色も、それほど軽快に後ろに流れて行ってくれるわけではないから爽快感に乏しい。疲労感がむしろ退屈を紛らわせてくれていることは認めざるを得ないが、この二つに同時に悩まされていると言える。せめて気を紛らわそうと、集中力を失いがちな頭を叱咤して、カバンから参考書を取り出そうとした時、パサリと紙束が落ちる音がした。そちらに目を向けると、人と人の隙間に一冊の参考書が落ちている。そのそばの女の子が拾おうとしているが、周りの人に迷惑をかけないように拾おうとしていて、思うように手が伸ばせないらしい。周囲も気が付いているが、姿勢を変えられないようだ。
 幸いなことに僕は上手に姿勢を変え、その参考書を拾ってあげることができた。差し出した参考書が相手の白くて細い指が参考書にかかり、周囲にもホッとした空気が流れる。この大変な状況で、人生の分かれ道に挑戦しようとしていることは、お互いの学生服でよく分かった。
 「ありがとう」
 人と人との隙間から参考書を受け取るその女性の顔を見て、瞳が青いこと、髪が黒くないことに気づいた。
 「あ……You’re welcome」
 「日本語でいいわよ」
 「あ、その、えっと、どういたしまして」
 どういたしまして、なんて、You’re welcomeの訳でないかぎり言わないよ。そう思っていると、その女性は、無理な姿勢を取りながら、鼻を鳴らした。
 「ねえ、あんたも受験生?」
 物言いから察して、日本語は上手だけど、まだ丁寧語の使い方を知らないんだと思った。
 「はい。ということは、そちらも」
 「そ。アタシも受験生」
 彼女は、自分の受験校を言った。僕の受ける学校と同じだった。

 「どうだった?」
 試験終了までねばり、大勢の同類と一緒に会場から吐き出された僕を、試験時間途中で会場を後にした彼女が小説を読みながら待っていた。小説のタイトルは『失われた時を求めて』。
 「まあまあ、かな? そっちは?」
 気が付くと対等の口利きになっていた。
 「いけるん、じゃないかな」
 こっちの口調に合わせた表現をしているのは顔を見れば分かる。自信満々といった顔だ。僕は若干劣等感に捕われる。
 「ほか、どこ受けるのさ」
 試験日が違う国立なんか儲けるに違いない。
 「んー」
 彼女は向こうを向いたままちょっと唸った。
 「ね。自己紹介まだだったわね。アタシは惣流アスカ=ラングレー」
 「あ。僕は碇シンジ」
 名前や、これまでのなれなれしさから、彼女は帰国子女ではないかと推測した。
 「お昼まだでしょ。アタシ、多めにサンドイッチ持ってきたの。その時の好みに合わせて食べられるように。アンタ、呼ばれる?」
 やっぱり、帰国子女だろう。日本語は知識としては持っているけど、ことばの距離感がめちゃくちゃだ、そう思いながらも、女の子とのお昼は悪くない気がして、彼女に付いていくことにした。

 午後の試験も、近くの親戚の家に泊まって翌日の試験もすべて、アスカが先に外に出て、時間いっぱい受けていた僕を待っているというパターンが繰り返された。一度、ちょっと意地になって、自分も全部記入を終えていた得意の国語を、彼女の後に続いて提出し、退出しようと思ったけどやめた。ケアレスミスをしていてそれが命取りになったら大変だ。だって……
 実際、彼女のペースに合わせようと思って無理をしていたのだろう、不注意による漢字の誤記が見つかった。危ない、危ない。結局、ミスはそれだけで、ほんの1、2点の違いだったけど、それでもミスはしない方がいい。
 「慎重居士ね」
 出てきた僕を迎えた彼女の一言。ボキャブラリーは広いんだけどなあ。
 「それが僕のいいところ」
 当時もう古くなっていたコマーシャルをもじって返事をする。
 「ねえ、アンタ、どこに帰るの?」
 「家が東京だからね」
 「だったら、アタシも同じね。一緒に帰らない? 帰りも鈍行でしょ。退屈だから一緒に帰ったげるわ」
 勢いにのまれたのは、スケベ心ゆえにではなく、青い瞳に魅了されて、とでも言っておこうかな。

 3月上旬、僕のところに通知が届いたのとほぼ同時にアスカから電話がかかってきた。帰りの電車が別になる時、お互いの家の電話番号を交換していたんだけど、毎日のように向こうからかかってくるので、こっちからかけることはほとんどない。
 「アンタ、合格した?」
 通知を開ける前だったので答えようがない。
 「ええと、一旦おくよ」
 「だめよ。教えてよ」
 そんなこと言ったって、片手で開けて破きでもしたら、なんだか縁起が悪いよ。どうしようか困っていると、父さんが通知を取り上げて、開封した。
 「あ、ありがとう、父さん」
 「問題ない」
 と、室内でもかけっぱなしのサングラス越しに父さんは言いながら、通知を確認した。合格か不合格かはこちらからは見えない。父さんはめったに表情を変えないので、考えが読みづらい。合格だったら嬉しそうになるのが普通だろうし、不合格だったら顔が曇るもんだと思う。それが父さんときたら、まったく表情が変化しないんだから、質が悪い。
 「ふ」
 あ、鼻で笑った。ということは合格なのかな。父さんは、そばのテーブルに通知を置いて僕の両肩に手をかけた。
 「問題あり、だ。シンジ」
 があああああん。頭の中で鈍い金属音が鳴り響いた。と、父さん。わが子に残念なお知らせをするのに、何だよ、その勝ち誇った顔は!
 「あ、アスカ〜、不合格だって〜」
 「ええええええ〜っ!? ま、まあ、落ち込まないでよ、シンジ。アタシと一緒に浪人しましょうよ」
 「アタシも、ってアスカも?」
 「そう、そう、そう。だから、落ち込まないで」
 そんなこと言ったって、と思っていると後ろで、すぱこーんと軽快な音がした。振り返ると、父さんが後頭部を押さえ、母さんが、スリッパ片手に通知を見ていた。
 「まったく、悪ふざけが過ぎるわよ。シンジ、合格だって」
 「えええっ! 父さん、僕をだましたの!?」
 「私学だからな。学費が……」
 「あなたがしっかり働けばいいでしょ!」
 もう一度すぱこーんとスリッパが父さんの頭と衝突音を立てる。裏切ったな! 僕の心を裏切ったな!なんてやってる場合じゃない。
 「アスカ、合格だって! 僕合格したんだよ!」
 と嬉しそうに叫んでから、僕は真っ青になった。
 「あ、ご、ごめん、アスカ、その……」
 こっちの無神経をなじる怒号が聴こえてくるか、それとも泣かれるか、覚悟が気間ならないまま首をすくめる僕の耳に届いたのは
 「やった〜、おめでとう、シンジ。アタシも合格。一緒に大学に言ってあげるから喜びなさい」
 「え? さっきは落ちたって」
 「男が細かいこと気にしない、気にしない。じゃ、こっちも合格祝いがあるから、それじゃ。入学前に一度会いましょ」
 そう言って電話が切れた。何なんだよ、まったく。

 4月上旬、履修登録を終えた後、アスカと僕は、京の街中を散策した。丸太町から御池通りまで下がり、寺町通りから先斗町と、ふらふら目的を定めず面白そうなほうに歩き、宵には、お互い隣り合って、円山公園の枝垂桜を眺めていた。桜の妖気にあてられて妙な気分になる。近くは祇園。幽玄と陥落が混じりあう、この得難い空気。八坂神社は祟り神の社と聞くが、この世ならぬ千年の古都の凄味を二人で肌に感じる。
 「ね、あれ、見て行かない?」
 アスカは近くの見世物小屋を指差した。看板には蛇女の絵が描いてある。ちょうどそれが舞台に上がっているらしく、窓からは、口を開けて舞台を眺めている人々の顔が見えている。
 「いや」
 僕は君に見とれていたいから、そう言いたかったけど、照れてしまって言えなかった。
 「怖いんだ。いくじなしね。今、この時期しか見られないのに」

 「待った?」
 1995年12月4日、約束の時間よりも30分前に来て、小説を読んで僕を待つのが習慣のアスカが、めずらしく自分より先に来ていた僕の姿を見てあわててかけてくる。青い瞳に金に輝く髪、そして白い肌は京都の冬の底冷えと今走ってきたのに上気してむしろ赤く色づいている。これが妖気なら、それにからめとられてもいい。だって
 「アスカ、お礼、言いたくてさ」
 「何?」
 「あの時、僕が落ちてたら、自分が合格したのを辞退して、一緒に浪人するつもりだったんだろ」
 「あ、ああ〜」
 点の悪いテストを隠していたのがばれた子どものような、決まり悪げな顔を見せるアスカ。
 「今年、いろいろあり過ぎたじゃないか。まさかとは思うけど、後4年経ったら1999年だしさ、なにより、19歳の年って今しかないんだし」
 「あら……やっと分かったの? 時間は無駄に使えないのよ」
 「だからさ」
 あの時言えなかった一言を言う。
 「君に見とれさせてよ。これからもずっと」
 「え? 何?」
 肝心のアスカは天を見上げていた。
 「あああ、アスカ〜」
 出た声のあまりの情けなさに、アスカは狼狽する。
 「ご、ごめん、だって、ほら」
 指差した先から、ちらほら舞い散ってくるのは、天の花。
 「雪?」
 「ねえ。初雪よ」
 「そうか。雪か」
 僕は舞い落ちてきた雪を指先で受けて、アスカの頬に押し付けた。
 「きゃっ、何するのよ、も〜。冷たい!」
 「これは積もるよ。明日は雪合戦ができるな」
 「そう!? じゃ、明日も来ましょうよ。で、今日はどこに行くの」
 あせることはないか。世界がどんなに混乱しても、滅びるのは今すぐでは、たぶんまだない。悲しみ苦しみと戦いながらでも共に喜びを感じることはできる。一緒に過ごしながらででも、黄昏を長引かせることはできるはず。だから
 「まずは、喫茶店で、君の顔でも見とれるか」


 
 
 
 
 
 

 

 作者の無名の人様に感想メールをどうぞ  メールはこちら

SSメニューへ