リンカ       2005.10.02(発表)






この作品はR指定とさせていただきます。

15歳以下の方はご遠慮くださいませ。

<管理人>

 
















そうね、例えばこんな話。
朝、窓から差し込む光に目が覚める。
柔らかな金色の光。閉じた目蓋の裏側が眩しくなる。
私は目を開ける。
真っ白なシーツ。朝日を透過するカーテン。耳に届く朝の街の声。
そして私の身体の横では、男が安らかな寝息を立てている。
私のパートナ。
そのあどけない寝顔に胸が温かくなる。
肘をついて上半身を起こし、彼の上から覗き込む。
髪を優しく梳き、唇にそっと口付ける。
柔らかな感触を感じる。
一人私は満足し、身体に被さったシーツから抜け出し、ベッドの下に降りる。
光で目覚めることは心地好い。
そこには原始的な喜びと素朴な幸せが存在する。
私は窓まで歩みより、カーテンを左右に開く。
分厚い布地に半ば遮られていた光が一杯に差し込む。
その明るさに思わず目を細める。
ベッドの上のパートナが僅かに身じろぎして声を上げる。
私の口元に微笑みが浮かぶ。
愛する人の隣で目覚めることは心地好い。
その喜びの前に私と彼を取り巻く一切は私達を遠巻きにする。
振り返り、腰に手を当てる。
彼が眩しそうに目を開けて、私の姿を探す。
やがて私と彼の目が合う。
特別な言葉なんていらない。
彼に近付きながら、「おはよう。朝よ、起きて」 と声を掛ける。
「おはよう」 と彼も言葉を返す。 「今、何時」
大体、このようにして私の一日は始まる。










早く起きればそれだけ朝の時間はゆったりと流れる。
私は朝食の用意をする。
トーストにサラダ、ヨーグルト、コーヒー。
洗面所で顔を洗っていた私のパートナがダイニングへ入ってくる。
コーヒーメーカが立てるこぽこぽという音に重なって、彼の欠伸の声が聞こえる。
私が、「新聞取ってきて」 と声を掛けると、彼がダイニングを出て行く気配がする。
用意できたものからテーブルへ並べていく。
二人分の朝食。
彼が新聞を手に戻ってくる。
パジャマ姿に裸足で、ぺたぺたとフローリングの上で足音が鳴る。
私の格好も彼と同じパジャマに裸足。
彼はテーブルの椅子に座り、新聞をその横の椅子の上に置く。
最後にコーヒーのマグカップを運んだ私は、彼の向かい側に腰を掛ける。
「いただきます」 と何となく二人とも声を合わせる。
彼はトーストを齧り、私はコーヒーに口をつける。
真っ黒な液体の苦味を楽しみながら、私は正面の彼の顔をじっと見つめる。
別に意味などない。
伏せた目でもぐもぐと口を動かしていた彼が、ふと顔を上げる。
当然のように私達は見つめ合う。
私は無表情。
彼はとろんとした目をしている。
ようやく口の中のものを飲み下した彼が、眠たそうな顔のまま、マグカップを持ち上げてコーヒーを飲む。
私はトーストの端を齧る。
地獄のように熱くて苦い液体が染み渡ったのか、彼が、「あぁ・・・・・・」 と溜息を漏らす。
不思議と私はそれに微笑む。
彼がその私を見て、どうかした? と眉を上げて眠そうな目を大きく開く。
可愛らしい人。
どうもしない、と首を振ってみせると、彼が自分の口の端を指差してみせる。
私が自分の口のその場所を指で拭うと、バターに濡れたパンくずが指につく。
テーブルの上に置いてある布巾でその指を拭いながら、今度は私が口元を指差す。
彼が不思議な顔をする。
その彼の口の端、私のとは反対側にパンくずがついている。
彼が気付いて自分の口の端を拭う。
しかし見当違いの場所を指で払っている彼の姿に悪戯心を出し、身を乗り出して、私が彼の口元を拭う。
すると、私の顔を見ていた彼の視線が、ついとその下に流れる。
何だろうと一瞬いぶかしみ、すぐに彼の視線の先にあるものに思い至る。
ゆったりとしたパジャマの胸元は重力に従って大きく開き、
その中から下着を着けていない私の胸がさぞかしよく覗けるだろう。
さして動揺もせず、身体を戻した私は彼に向かって、「朝から何を考えてるの」 と言う。
私の言葉に彼は少し動揺して、「別に変なことは考えてないよ」 と拗ねたように答える。
多分、その通りなのだろう。
何も考えずとも目に映れば注視するだけの魅力がこの脂肪の塊にはあるらしい。
だが、彼が私の胸を見ていやらしいことを考えていても、私はまったく構わない。
彼のそういうところも好きだし、私にとってそれは誇らしいことだからだ。
ドレッシングをかけたサラダをばりばりと食べている彼に、「ばか」 と甘えた声で言ってみる。
私にとって、「愛してる」 とほぼ同じ意味を持ったその言葉を聞いて、
彼は照れたように鼻で息を漏らす。
私の胸にふらふらと視線を吸い寄せられる彼も馬鹿なら、
彼に自分の胸を見られて意味もなく喜んでいる私も馬鹿だと考える。
テーブルの下の足を伸ばしてぽかんと彼の足を蹴飛ばすと、彼も負けずにやり返してくる。
彼が蹴ってきたその足を私が両足を交差させて捕らえてしまう。
逃れようとする彼の足を、両足でぶらぶらと上下させてみる。
彼は諦めたのか、片足を私の自由にされながらトーストをむしゃむしゃと齧っていく。
私も両足を彼の足に絡めたまま、食事を再開する。
持ち上げて上下させたり、左右に揺すってみたり、足裏で擦ってみたりする。
じゃれつくのがやめられない。
無邪気な快感。
彼の足の甲の上に私は足を乗せてみる。
すると彼は、ぴょこぴょこと足首を使って踵を支点に足を上下させる。
対抗するように私がぎゅうと踏みつけると、彼は大人しくなる。
こんな風に、会話にも色々方法があるものだと再確認する時間が朝食時だと私は思う。
無論、朝食時以外でもそれはいつだって様々に確認できるのだが、
朝のそれは殊更穏やかで平和的で、私は気に入っている。
時折、私がふざけすぎて彼が怒ったり、彼が邪険にするせいで私が金切り声を上げたりするのだが、
それはそれで会話方法の内だということは、彼も納得してくれると考えている。










今日は休日、私はパートナと一緒に出かける約束をしていることを思い出す。
家を出る予定の時刻までには家事と準備を終わらせると、彼を急かす。
パジャマから部屋着に着替えて、洗濯をする。
彼が家中掃除機をかけて周っている音が聞こえる。
洗濯機が回っている内に、朝の洗い物をする。
かちゃかちゃと二人分の食器が音を立てる。
彼がコードを引き摺りながら、キッチンを掃除しにやってくる。
私の足元でハンマヘッドのような掃除機の吸い込み口が邪魔そうに立ち止まる。
その場からひょいと跳ねて身体を避けると、そこをハンマヘッドが入ったり来たりする。
彼の掃除の邪魔にならない為に洗い物を中断した私は、
掃除機を動かしている彼の背中に今日来て欲しい服を伝える。
吸引音に紛れて彼は生返事をする。
やがて彼は掃除機とともに遠ざかっていく。
私は再び洗い物を再開する。
水が流れる音がする。
私はそれをじっと見つめる。
無言で手を動かし続ける。
洗い、流し、片付ける。
洗い物を全て終えた時、いつの間にか掃除機の音が途絶えていることに気付く。
濡れた手を拭き、リビングへ向かう。
洗濯が終わるまですることのない私はリビングへ入る。
テレビをつけて下らないワイドショウを見る。
すると掃除を全て終えた私のパートナもリビングへやってくる。
彼はソファの私の隣に座り、これまで読んでいなかった新聞を広げる。
テレビのスピーカから深刻さを装った滑稽なリポータの声が聞こえる。
隣の彼の顔を見ると、彼は新聞の活字を追うのに没頭している。
何となく私は彼に相手をして欲しくなる。
テレビ画面を見ながら、彼の足の上に手を置く。
彼の足を擦り、内側に手を掛けて揺すってみる。
「んー?」 と彼が間延びした声を出す。
「ねえ」 私は意味もなく呼び掛ける。
すると彼は、「今日は何時に出る?」 と問い掛けてくる。
私は予定していた時間を答える。
まだ二時間近く余裕がある。
紅茶を淹れようかと私が提案すると、彼は新聞から目を離さないまま、それに答える。
私を見ない彼に少しだけ不貞腐れて立ち上がる。
キッチンへ向かう私の背中に、「ありがとう」 という彼の言葉が掛けられる。
そんな些細な言葉で私の胸は温かくなる。










出かける為の身支度を終えてリビングへ入ると、
私のパートナがコンピュータを立ち上げて仕事をしているのが目に入る。
リビングへ入ってきた私の方を振り向きもしない。
腹を立てて彼に向かって文句を言う。
彼は暢気に、「支度は終わったの」 と声を掛けてくる。
どうやら彼はもう、とうに準備を済ませて暇を持て余していたらしい。
だからこの苛立ちは半ばは理不尽ともいえるが、
彼と出かける為に喜び勇んで身支度をしていた私からすれば、
自分と同じだけの期待をもって彼にも出かけるまでの時間を過ごして欲しい。
これは一種の女心であり、とても繊細な精神の為せる業だと私は思う。
さあ、用意が出来た、と彼の元へ駆けつけてみれば、
コンピュータのディスプレイに向かって難しい顔をしているところを見せられるのだから腹だって立つ。
従って、私達は喧嘩をする。
「ただ待ってる間、ファイルを見てただけじゃないか」 と彼が言う。
「もういいわよ。そうやって仕事してたら。今日はもう出かけない」 私は拗ねている自分を自覚する。
彼は困ったように溜息を吐きながら、「そんなこと言うなよ。ほら、折角準備したんだからさ」
ソファに座って腕を組み、彼からそっぽを向く私の肩に、彼が触れる。
だがそんなことで私はほだされない。
彼は私の隣へ腰掛けながら、「ねえ、機嫌直して」 と言う。
接近した彼の体温が温かい。
それでも相変わらず文句を言い続ける私の腰を彼が抱き寄せる。
「ほら、時間がどんどん遅くなるよ」
しかし、私は彼のその行為にますます怒る。
何故なら、彼のせいで折角の洋服が皺になるのだ。
抱き締めたり撫でたりすれば、何でも機嫌がよくなると思ったら大間違いだということが
今だに彼はよく分かっていない。
彼の手を振り払って、私は荒々しく立ち上がる。
「もうっ、離して。出かけないったら出かけないの。着替えてくるから」 と私は言い捨てる。
立ち去りかけた私の背に、「折角の休みなのにな」 という彼の言葉が投げかけられる。
私は足を止める。
「ね、もったいないじゃない」 彼がさも残念そうに、またあやすように言葉を続ける。
彼が立ち上がって近付いてくる気配がする。
私はそれを待つ。
手をそっと握られる。
「ほら、行こう? こんなことで時間を潰してたらもったいない」
「こんなことですって?」 刺のある声で私は言い返す。
彼は謝りながら、更に私に出かけるよう促す。
「いや」 私は我侭を言っていることを充分に理解しながらも、やはり意地を張る。
「じゃあ、どうするの。本当に行かないの? そんなこと言ってないでさ、ほら」
彼が繋いだ手を何度か引く。
「・・・・・・行く」 と、結局私は彼と出かけたい自分の欲求に負けてしまう。
私は彼に手を引かれて、とぼとぼと玄関まで歩く。
こういったケースにおける出かける前の一戦で私はパートナに勝利したことがない。
しかしそれは決して彼が説得が得意だからではなく、
ひとえに私が彼と出かける機会をとても大事に考えているからだ、と私は思う。










私が車の助手席へ、私のパートナが運転席へ座る。
まだ機嫌が完全に回復したわけではないので、私は無口になる。
彼は構わずエンジンを始動させ、ブレーキを離しアクセルを踏み込みながら車を発進させる。
車のラジオが喧しい音をがなりたてる。
苛ついた私がMDプレーヤに勝手に切り替える。
優しいテンポのポップスが流れ始める。
隣で彼が僅かに肩を竦めるような気配がする。
私は彼の方を横目で睨む。
すると、彼が指先で流れる音楽に合わせてリズムを取り始める。
軽く口ずさんでいる彼の平和な姿に私は毒気を抜かれる。
そもそも下らない原因で生じた怒りなので、そうそう持続はしない。
彼がお昼は何を食べようかと訊いてくる。
私は考える。
隣で運転している彼の左足に何となく手を乗せてみる。
すりすりと擦ってみる。
そして軽く叱られる。
意味もないのに触れていたくなる時というのは、女と男とでは違うのだと、こういう時に知らされる。
叱られた私は頬を膨らませてドアフレームに頬杖をつき、窓の外に視線を移す。
食べたいものを呟くように口にする。
彼が笑って賛成する。
また別の食べたいものを口にする。
どっちなんだ、と彼はまた笑う。
両方、と私が言うと、食いしん坊、と返される。
その通りだと私は思う。
今だかつて私が欲張りでなかったことはない。
傍にいると分かっているのに、
いつでもそれを確認するように彼の身体に触れたがるのも、私が欲張りだから。
たとえ、もう出かけない、と機嫌を損ねて駄々を捏ねたとしても、
指定した通りの服を彼が着ているかどうかきちんと確認しているのも、私が欲張りだから。
彼という人間の全てを所有したいと、
かつての私が己の全てを懸けてでも彼が関わり合う世界から己の腕の中に奪い取ったのも、
私が欲張りだからだ。
愛情はいつでもたっぷりで安心感を与えてくれるものでなければ、私は満足できない。
いつでも私はそれを試し、確認し、満足を得る。
次第に彼が決して己の夢想の存在ではなく、私から離れていくことはないと悟った後でも、
私は懲りずにそれを繰り返す。
ふたりの間の愛情を、そこに確信があるにも関わらず、確認し続ける。
彼は私を満足させてくれる。
私は彼を満足させてあげられる。
彼の全てが私の全てを満たしてくれ、私の全ては彼の全てを満たしてあげられる。
一生涯それを手放すつもりがお互いに毛頭ないことも、私とそして彼が、欲張りだからだ。
そして、こうして車の助手席に座りながら、運転する彼に向かって
先ほど機嫌を損ねたことをまだ根に持っている振りをして、拗ねてみたり甘い言葉を掛けてみたり、
彼の態度に傷ついた振りをして、その不実を嘆いてみたり彼の袖を心細げに握ってみたりして
結果、彼から新しいピアスを買ってもらう約束を取りつけるのも、勿論そう。










立体駐車場に車を停める。
もう少し昼までには時間がある。
私は昼食を摂る前にしたいことをパートナに伝える。
それに承諾した彼の腕を私は取り、歩き出す。
腕を組んで歩くのが、ごく当たり前の、自然なことになったのはいつからだったかと、ふと考える。
こうなるまでの紆余曲折に思いを巡らせると、彼の腕に絡めた私のそれに思わず力が入る。
決してそれは平坦ではなく、むしろ一種の奇蹟だった、と私は思う。
障害は山ほど存在し、反対する人間も山ほど、私と彼を引き離そうとする人間も山ほど。
しかも、そもそも彼は私にとって憎い存在だったのだから、尚更それはいばらの道だ。
だが障害が大きければ大きいほど当時の私は燃えたものだ、と懐かしく思う。
それを乗り越えようとする苦しみが、痛みが、愛をより深いものにする。
諦めることをせず、傷つきながらも形振り構わず突き進んだ当時の私が、
もし今の私の目の前にいたとしたら、思い切り抱き締めて頭を撫でてキスを送って、褒めてやりたい。
貴女のおかげで今の私は最高に幸せ。
決して恋する相手として適しているとはいえず、むしろ最悪に近かった彼のことを、
よくも捕まえたものだ、と我ながら感心する。
彼の肩に頬を摺り寄せる。
あの頃の私のガッツに敬意を表して、今日は思う存分デートを満喫してやろう。
昼食前の用事を済ませ、私達はレストランへ入る。
会話などを軽くしながら、向かい合って食事をする。
食べ終わり、バッグを手に私はトイレへ行く。
鏡に映る自分の姿を見る。
口紅を直す。
にっこりと鏡の中の自分に向かって笑いかけてみる。
魅力的な笑顔を繕わなくても出せる女がそこに映っている。
あの頃の私が見たら、羨望に頬を染めるだろう、と想像する。
口紅をバッグに仕舞い、もう一度自分の姿を鏡でチェックする。
異常は見当たらない。
台の上に両手をついて、鏡に映る自分の瞳をじっと覗き込み、
それから私はついていた手を勢いよく離して真っ直ぐに立つ。
全身が引き締まる。
この上なく私は真摯な表情をしている。
戦いに挑む表情。全力で、殺す気で。
「よしっ!」 と、一番魅力的な自分を確認した私は回れ右してトイレから出る。
パートナの姿が視界に入ると、自然と足早に駆け寄ってしまう。
立ち上がった彼の腕にしがみつき、心地好さに胸を温かくさせながら歩き出す。
そうしながら、どうも幼い頃のスパルタの影響か、
気合を入れる自分の姿だけは頂けない、と私は先ほどの自分を思い出す。
日本語だろうがドイツ語だろうが、口から出る言葉は自分を引き締めてはくれるが、可愛さからは程遠い。
そんなところも可愛いと言ってくれるのが私のパートナであるが、
私から言わせれば、そんなことを言う彼が馬鹿で可愛い。
彼の肩に頬を擦り寄せながら、私達はデートを楽しむ。
あの頃の私が今の姿を見たら、きっと羨望に頬を染めるだろう、と想像する。
そしてまた、今の私の甘ったれた姿に怒り出し、呆れ、幻滅するだろう、とも。
おあいにくさま、と私は想像の中、ひとり悦に入る。
ほくそ笑む私に彼が胡乱な目を向ける。
それに気付いた私は彼の手の甲を軽く抓り、それからその手を持ち上げてキスをする。
腕にしがみつかれて、その上、指までがっちり絡められた彼はさぞ歩きにくいだろうが、
私は己の特権を最大限使うことに、更々躊躇する気はない。
今更そんなこと、するわけがない。










ワンピースを一枚、セミロングのスカートを一枚買う。
当然の如く、それらを選ぶ間中、パートナを付き合わせたのだが、
彼は少し疲れてしまったように見える。
しかし私は少しも疲れてないので、意気揚揚と次のお店に入り、
30分店内をぐるぐると眺め回して何も買わずに店を出る。
何か飲みたいと彼に要求する。
すると彼はほっとしたように、座れる場所を探そう、と言って歩き出す。
ほどなく見つけたカフェに入り、私達は席につく。
私はホットコーヒーを、彼はアイスコーヒーを注文する。
買った服が気に入ったので、私の機嫌はいい。
彼にあれこれと話しかけながら、時間を過ごす。
30分ほどそうして、カフェを出る。
次は彼の服を見る。
彼は自分で選ぼうとするのだが、私はいちいちそれに横から口を出す。
結局、彼が選んだTシャツと私が選んだシャツを一枚ずつ、
それからジーンズを一本買う。
私が彼の服選びに口を出すのは、不満があるからではない。
日頃いいものに触れていれば、自ずと洗練される。
そうしてみると、彼はなかなかセンスがいい。
ただ、隣を歩くパートナの当然の権利として私は口を出す。
無論のこと、それは私を楽しませる。
私の時も、もっと口を出して欲しいものだ、と思う。
今度は下着を見に行きたい私は遠回しに、ひとりで見たいものがある、と彼に言う。
彼は、それなら自分はCDを見に行くと私に答える。
少女の頃なら一緒に選びましょうと彼に悪戯をするところだが、今の私はそんなことはしない。
それはとてもはしたないことだし、周りの人間の顰蹙を買うものだとも知っている。
本当に彼を下着選びに連れていったのは一度きりで、
それでも散々からかった後で売り場の外に彼を待たせて選んだのだが、
家に帰った後、それが原因で大喧嘩をしたことを私は思い出す。
その時に買った下着を、私が彼にヴァージンをあげた時に着けていたことも。
一緒に見て欲しかったのはその為なのだという私の半分の嘘を
彼が苦笑しながら受け入れてくれたことも。
それから、下着姿の私を綺麗だと褒めてくれた彼の恥ずかしげに赤らんだ顔も思い出した私は、
突然彼にキスをしたくなったので、それを実行する。
ちょうど待ち合わせの時間について喋っていた彼は不意をつかれた人間の見本みたいな顔をする。
私は彼が抗議を始める前に、さっさと退散することにする。
くるりと身を翻し、彼の言った待ち合わせ時間と場所を繰り返しながら、
私は彼に手を振って別行動を始める。
花屋みたいな下着売り場をうろうろと歩き回る。
悩んだ末に、私の好みに当て嵌まって彼も気に入りそうなものを数点買う。
ちょうど待ち合わせ時間が迫っている。
彼の携帯電話に連絡すると、レコード店の騒々しいBGMに紛れて、彼のお説教が聞こえる。
人前でキスを不意打ちされたことを今だに根に持っている彼は、
相変わらずの恥ずかしがり屋だ、と私は笑う。
きっとこれはお辞儀と握手の違いなのだろうと私は考えている。
接触に関するアティテュードの違い。
電話の切り際、もう一度私は彼にキスを送る。
死ぬまでの間に何回キスが出来るだろう。
私はそれを無駄にするつもりはない。
待ち合わせ場所に突っ立っていたパートナを見つけた私は、彼に駆け寄る。
CDを買ったのかと訊くと、彼は頷く。
その後、また私は服を見て、ブラウスを一枚買う。
疲れた顔を隠そうとしている彼に、どこかに座りたいと要求する。
またか、という顔をしながらも、自分も休みたい、と彼は答える。
ひとつ彼には認識してもらいたいのだけれど、
女性は出歩くと何度も喉が乾き、座りたくなり、甘いものを食べたりしたくなる。
しかし、それは休む為ではない。
足が疲れたりするのは事実だが、だからといって静かに身体を休めたいのではなく、
それは休憩という名のリクリエーションなのだということを彼はいい加減覚えるべきだ、と私は思う。
カフェに入り、席に座ってほっと一息ついている彼のおでこを私は指で弾く。
運ばれてきた紅茶とケーキを、会話と共に私達は楽しむ。
ふと横から視線を感じる。
女の子の二人組が私と彼のことを窺うようにちらちらと見ている。
中学生か高校生くらいの少女達。
私は正面にある彼の顔を見ながら、可笑しさに目を細める。
彼が不思議そうに眉を上げる。
微笑みながら、私はそっと彼の顔に向かって手を差し出す。
「あなた」 と呼びかける。
あまり使わないその言葉に彼はますます分からないという表情をする。
それに構わず、私は彼の耳の上辺りに指を添える。
髪を整えてあげる振りをして、あるいは何かごみでも取ってあげる振りをして、
それから私は彼の頬を撫でる。
私は彼の瞳を見つめる。
彼も私の瞳を見つめる。
愛おしさに包まれた私は、一方で横方向からぴりぴりと視線を感じる。
頬を撫でる私の手を彼が取る。
私の指を優しく擦る彼のそれを、きゅっと握る。
目を細めて口元に笑みを浮かべると、彼も柔らかい微笑みを返してくれる。
そうして無言のまま私達は手を離し、彼はコーヒーを飲み、私はケーキを口に入れる。
ちらりと覗き屋さん達に視線をやると、彼女達が顔を赤らめて小さな声で騒いでいるのが見える。
私の目の動きに、彼もようやく先ほどの私の行動の意味に気付く。
少しだけ眉を顰めた彼に向かって顔を突き出して、にっと歯を剥き出して笑ってみせる。
すると彼にちょんと鼻を摘ままれる。
相変わらずの恥ずかしがり屋だ、と私は思う。
一時間ほどでカフェを出ると、私は彼の腕にしがみついて、ピアスを見に行くと宣言する。
本来は今日の予定になかった買い物だが、プレゼントはプレゼント。
彼に選ばせて私は口を出さないことにする。
腕にしがみついて期待に輝いた目で彼を見上げる私に居心地悪そうにしながら、
私の為に彼はピアス選びを始める。
彼がひとつのピアスに注目する度に、これを買ってくれるの? という目で私は彼を見上げる。
視線をピアスと私の間に入ったり来たりさせながら、
その度に彼は難しそうな顔をして次の選定に移る。
「ああ」 とか、「うう」 とか、唸りながら悩んでいる彼が愛おしい。
一時間も悩んだ末に、彼はホワイトゴールドとサファイアのピアスを選ぶ。
私にそれを見せて、彼は照れたような顔をする。
予想以上に素敵なプレゼントに感激した私は、彼の腕の下に身体を滑り込ませて思い切り抱きつく。
相手をしてくれていた店員が呆れ顔をしつつ、会計と包装をしてくれる。
お幸せに、と言ってくれた優しい店員に、ありがとう、と私は返す。
彼の腕を取り、駐車場へ向かう。
帰りにスーパーに寄って欲しいと運転席の彼に伝える。
踊り出したいくらい上機嫌な私は、本当はデパートのお惣菜か外食で夕食を済ませたかったのだけど、
それはやめにしてとびきり美味しい料理を彼の為に作ってあげようと考える。
少しずつ、青かった空が夕焼けに染まっていく。
今日は最高の一日だわ、と茜色の空に話しかける。
「今日は夕飯、何にしようか」 と彼が訊いてくる。
私の答えは当然、「あなたの好きなもの、何でも作ってあげる」










夕食をふたりで食べる。
ぽつぽつと彼は私に話しかける。
そして私もまた、ぽつぽつと彼に話しかける。
穏やかな雰囲気の中で、私も彼も優しい顔をしている。
彼が私の作った料理を美味しいと言ってくれる。
胸がじんと温かくなる。
私達は満たされている。
食事が終わり、私は食器を洗う。
かちゃかちゃと音が鳴る。
白く泡立つ洗剤、流れる水の冷たさ。
洗い終わった食器を乾燥機に仕舞う。
濡れた手を拭き、エプロンを外す。
微かにお風呂から水音がする。
彼がお風呂から上がったら、私も入ろうかしらと考える。
ポニーテールに結っていた髪をほどきながら、リビングへ向かう。
髪ゴムを手の中で弄びながら、ふと、今日買ってもらったピアスを見たくなる。
私は回れ右して、ピアスが置いてある寝室へ向かう。
包装を解き、ケースを開ける。
私の些細な我侭を、どうして彼は律儀に聞いてくれるのだろうと思う。
何かの記念でもないのに、それなりに高価なものを買うには彼は躊躇った筈だ。
きっと、彼は私の我侭の中に、私の不安を感じ取っている。
いつだって愛情を試さずにはいられない、捻くれた女の不安。
本当はそんなことをしなくたって、信じ合っているのは確かなのに、
愚かで弱い私はそれを止めることが出来ない。
追いかけて欲しい。
いつまでも、いつまでも。
そして、その彼の伸ばした手の証が、私の手の中でころりと輝いている。
時折、こうして根暗なことを考える私は、けれど案外とタフにできていて、
日常のあらゆる場面での彼の姿を思い浮かべればすぐに幸福に浸ることが出来る。
いや、思い浮かべるまでもない。
私はピアスを仕舞って立ち上がり、ベッドへと歩み寄る。
そっと、その上に座る。
ゆっくりと身体を倒す。
ベッドの上で私の髪が広がる。
目蓋を閉じる。
彼の匂い、私の匂い。
いつもそこにいるのが当たり前の存在。
だから私は不安になる。
その当たり前が恐ろしい。
けれど、そうしてひとり恐れ、落ち込んで、不意にその当たり前の大切さに気付く。
離れたくない。
先のことなんて分からない。
保証なんて何もない。
けれど、今は離れたくない。
今は、今は、今は。
それが続いていく。
いつまでも。
いつまでも、いつまでも・・・・・・、いつまでも。
私は幸福に包み込まれる。
彼がお風呂から上がった音が聞こえてくる。










お風呂から上がる。
頭にタオルをターバンのように巻いた私はリビングへ入る。
私のパートナがお酒の用意をしている。
リビングへ入ってきた私の方へ振り向いて、「飲むだろう?」 と訊いてくる。
私は頷く。
丁寧におつまみまで用意している彼の姿に、私は笑う。
目の前で全て用意されていくのを私は座って待つ。
私のグラスに彼がお酒を注いでくれる。
彼のグラスに私もお酒を注いであげる。
かちんとグラスを合わせ、口をつける。
ふたりの共通の姉貴分の影響か、私達は双方ともお酒が好きだが、
反面、その姉貴分と違って私達は静かに飲むのが好きで、量もほどほどしか過ごさない。
私と彼は隣り合ってソファに座り、ぽつりぽつりと会話をしながらお酒を楽しむ。
途中から映画を見始める。
映画館へ出かけていってデートとして見るのよりも、
家でふたりきりで見る方が好きになったのはいつ頃からだろう。
目一杯楽しまなくちゃいけない、なんていう肩の強張りが抜けていったのは、いつ頃からだったか。
同じ時間を過ごしているだけで満たされるようになったのは。
流れる画面を見つめながら、つらつらと考える。
しばらくしてトイレへ行きたくなる。
私は彼に映画を止めておいてくれるように頼んでから席を立つ。
リビングへ戻ってきて、彼の足の間に無理矢理座る。
「どうしたのさ」 と彼が訊く。
私はそれに、「んー?」 と言いながら、彼の身体に自分の身体を摺り寄せる。
答える気がないと悟ったのか、彼は私の肩に顎を乗せてそのままお酒を飲む。
流れる画面を見つめながら、彼の身体の温かさやくすぐったい吐息を感じる。
肩に乗っている彼の顔に頬擦りをする。
お腹に廻されていた彼の腕が、動く。
身体を擦られる。
「ちょっと」 と私は抗議する。
しかし彼はその抗議を無視し、私の身体を擦るのに熱中している。
何となく、ではない、明らかに意味のある動き。
しばらくはくすぐったさに耐えていたのだが、彼の無遠慮な手が私の胸を覆ったので、
ついには私は彼の手を抓りあげる。
「いてててっ」 と彼は声を上げる。
彼の手はとても気持ちいいけど、今はエッチをする気分じゃない。
それにソファでするのも時にはスリリングでいいけど、やはりベッドでの方がいい。
なし崩しに流されるのも嫌だし、とにかく今は映画を見たい。
毎日一緒に寝ている私達だけど、毎日エッチをするわけでもないので、
数日ぶりにその気になってきている彼には悪いのだけど、少し我慢してもらいたい。
私は、「いいとこなんだから、気を散らさないで」 と言い聞かせる。
胸に置かれた彼の手が渋々止まる。
きっと、彼は映画の展開を予想して、これ以上見たくないと思ったのだろう。
無理もないことだ、と私は思う。
映画は今、主人公の男が友人であると思っていた女性への愛に気付くシーンが流れている。
これまで女性を愛したことがなかった中年を過ぎた大学教授が、
離婚して幼い息子を抱える女流詩人と、国籍を彼女に与える為に書類上の偽装結婚する。
しかし彼女が不治の病に倒れたと知り、彼女を失おうとしている痛みに
彼はその愛に初めて気付く。
その痛みに、耐え難い苦しみに、彼は嘆く。
同僚達の同情。
それを受け入れられない男。
病室で病の痛みにうめき耐える女性。
彼女の息子とのぎこちない交流。
やがて彼は、女性との結婚―神の前に誓う本当の結婚―を決意し、
病室で彼の兄と彼女の息子の立会いの元、ベッドの上の彼女と誓いを交わし合う。
やがて病院から彼の家に帰ることを許される彼女。
僅かな間、しかし穏やかで幸せなひととき。
ふたりだけのハネムーン。
しかし病は静かに、確実に進行する。
彼女は死ぬ。
遺された男と息子は、傷付き、苦しむ。
ママに会いたい、と息子は涙を堪えて言う。
私もだ、と男も答える。
抱き締め合い、父と子は泣く。
果たして彼女は天国へ行ったのか、消えてなくなってしまったのか。
何故彼女が死なねばならなかったのか。
その問いに答える者は存在しない。
神ですら。
その時の苦しみは、今の幸せの一部。
彼女との約束を胸に、愛する存在を失った痛みを乗り越えて
父と子は穏やかに生きていく。
映画が終わる。
パートナに後ろから抱き締められながら、私は見終わる。
彼が私の胸をそっと押さえる。
今度は拒まない。
首を後ろに向けて、彼と口付けする。
愛し合いたい。
身体を捻り、彼の首に腕を廻す。
少しだけ潤んでいる泣き虫な彼の瞳を見つめて、私は言う。 「ベッドへ連れていって」










刺し込まれる。抜き出される。
刺し込まれる。抜き出される。
その繰り返し。
刺して、抜いて、刺して、抜いて。
ベッドの上で、裸身の私達はふたり踊る。
それは儀式のようでもあり、食事のようでもあり、
スポーツのようでもあり、瞑想のようでもあり。
そして、会話のようでもある。
私と彼は繋がっている。
男性と繋がる為の女性の器官。
女性と繋がる為の男性の器官。
包み込む。締めつける。
包み込む。締めつける。
彼の動きと呼応する私の器官。
私の中を掻き毟る彼の器官。
汗に光る私の身体を彼の手が撫で回す。
同じように彼の身体を私の手が撫で回す。
ふたりの荒い息遣いが部屋に満ちる。
すすり泣くような私の声が響いている。
顔を押しつける。
口付けをする。
お互いに舌で舐め回す。
言語能力が幼児並に減衰した私は、
涎を垂らしながら埒もない言葉をわめき散らす。
彼の名前を呼ぶ。
何度も何度も、必死に、縋るように、けれど愛おしさを込めて呼びかける。
彼も私の名前を呼ぶ。
その切ない響きをぼやけた頭で感じ取る。
ひたむきに私達は行為を続ける。
刺して、抜いて、包んで、締めつけて。
やがて寄せては引いていた波が、恐ろしいまでの力強さで私を圧倒し始める。
覆い被さる彼の身体を抱き締める。
腕を使って、脚を使って、思い切り。
目を強く瞑る。
喉から迸る叫び声はもはや制御できない。
閉じた目蓋の裏で白い光が明滅する。
私の柔らかい器官が彼の硬い器官を潰しかねないほどの強烈さで絞るように締めつける。
もう何も聞こえない。
身体中が痙攣する。
爆発。
そして解放。
私の身体の奥は、燃え盛る星のようにその寸前で縮み込み、
そして境界を越えた後は、波が引くように穏やかに解放される。
彼の精液が波打ちながら吐き出されたのを、
温かい快感と僅かな鈍い痛みの中、身体の奥で感じ取る。
そこに含まれる数十億の精子。
全世界と同等の可能性を秘めたそれを、私は受け止める。
想像する。
二十数年前、私の母の身体を這い上がっていき、やがて私となった細胞のことを。
その瞬間から約半年前、彼の母の身体を這い上がっていき、やがて彼となった細胞のことを。
たった今、私の身体が受け止めた、やがて私と彼の子どもとなるかもしれない細胞のことを。
男が抱える一個の世界全体の可能性を、女が苗床となり結晶させ現実の世界に産み落とす。
そのありとあらゆる遺伝子のポテンシャル。
身体の奥が温かい。
覆い被さる彼の身体の重さが心地好い。
私は彼とまだ身体を離したくなくて、力の入らない腕と脚で精一杯彼のことを抱き締める。
けれどしばらくすると彼が私に体重を掛けまいと身体をずらそうとする。
それに私は抗議する。
すると彼は私のことを抱き締めて、ゆっくりと身体の上下を入れ換える。
彼の上に被さるように寝そべって私は溜息を吐き出す。
身体中を覆う心地好い疲れは、急速に私を眠りの中に引き込もうとしている。
右手を彼の肩に、左手を脇の下に廻そうとする。
その途中、肩に廻そうとした右手の指が、何かに引っ掛かる。
頬を彼の右胸につけ、横を向いた私の視界に、その場所が映る。
私の指が、彼の左胸にある引き攣れたいびつな肉の盛り上がりに触れている。
そっと、私はそこを撫でる。
とく、とく、と彼の鼓動が私の指をくすぐる。
彼が何か言ったようだったが、よく聞こえない。
私は柔らかく微笑み、右手はそのままに目蓋を閉じる。
もう目を開いていることも億劫だ。
甘やかな痺れと痛みに満たされた身体も、これ以上動かすことが出来そうにない。
彼の胸の上に頬を寄せたままで、私は静かに深呼吸する。
自然と浮かぶ微笑みの中で、彼への愛おしさに満たされる。
全てに、満たされる。
呼び合うことさえ、もう必要ではない。
まだ少しだけ速いけれど、耳に心地好い心臓のリズムに誘われて、
私はゆるりと眠りに落ちる。










夢を見る。
空が青い。
抜けるように青く、太陽が眩しい。
暖かな日差しが、私を照らす。
風が吹き抜ける。
吹き抜ける風は、麦藁帽子から流れる私の赤毛をなびかせる。
麦藁のつばが風に煽られて持ち上がる。
そっと、誰かが頭を押さえてくれる。
その人のことを私は見上げる。
私はその人のことを知っている。
――かぜさん、とってもきもちいいね。
――ああ、そうだね。
――いいおてんきだよ。おひさま、がんばってるね。
――うん、そうだね。本当に、気持ちいい。
優しい声が私の心を落ち着かせる。
車椅子に、私は座っている。
後ろから、彼が押してくれる。
真っ白な建物に囲まれた、木々の植えられた中庭を私とその人は散歩している。
鳥が頭上の枝に止まる。
彼らはさえずる。
思い思いに、美しい声で、自由な声で。
――ちい、ちい、ちい、ちい。
呼び声に誘われるように、私は車椅子から立ち上がろうとする。
後ろの彼の顔をねだるように見上げると、彼は微笑んで私の拘束を外してくれる。
嬉々として立ち上がり、鳥達の歌声に合わせて木々の間を私は自由に舞う。
笑い声が、私の喉から漏れ出す。
きゃらきゃらきゃら。
一本の木の根元に腰掛ける。
私を見守る彼の方へ両手を一杯に差し出すと、彼がクッキーを渡してくれる。
ひとつを自分で頬張りながら、他をいくつか砕いて地面にばらまくと、鳥達が舞い降りてくる。
小さな脚で跳ね回りながら、鳥達は私がまいたクッキーの欠片を啄ばむ。
――おいしい? ねえ、とりさん?
――ちい、ちい、ちい――。
少し離れた場所にぽつんと立って、彼が鳥と私の戯れる姿を見守っている。
無邪気な笑みを浮かべて、私は彼に向かって呼びかける。
――シンジ?
――何だい、アスカ?
――シーンジ?
――アスカ。
――シンジアスカ、シンジアスカ、シンジアスカ――。
身体を揺らして笑いながら、私は繰り返す。
鳥がさえずるように、自由に、無邪気に。
ざあっと一際強い風が吹き抜けていく。
それに私の麦藁帽子が飛ばされて、肩までの赤毛がさらさらとなびく。
飛ばされた麦藁帽子は、ぽっかりと口を開けた青い空に消える。
伸ばした手は永遠に届かない。
自由だ。










己の記憶にない夢を見る。
けれど、私の心は、きっとこの光景を知っている。
14歳のある日、病院のベッドで目覚めた私は、自分の名前以外の一切を失っていた。
困惑する大人達に、私はこう答えたという。
自分は4歳だと。
記憶喪失と幼児退行。
それが私の身体が私自身を守る為にとった防衛手段だった。
その頃の記憶は断片的にしか残っていない。
ただ、私は世界を怖れていた。
何もかもが、化け物の如く私を喰らおうとしているかのように思えた。
世界と私を繋ぐ唯一の窓口として、足繁く自分の元へ通う少年にだけ懐いた。
彼が何を思って私の相手をしていたのか、それを直接彼に訊いたことはない。
ただ、それが和やかであればあるほど、穏やかであればあるほど、
むしろ壮絶な光景であったと後々になって人から聞いた。
4歳の私は彼のことを一途に愛した。
雛鳥が親鳥を慕うように。
夢の中の彼は私の名をいつも呼ぶ。
私が私であるという希望に縋ろうとするように。
4歳の私の中に隠れて眠る本当の私を繋ぎとめようとするかのように。
そんな彼の差し出された手を、愛に満たされた雛の私はすり抜け続けた。
私自身の手さえ、私を捉えることは出来なかった。
そんな日々が一年近くも続いたある日、
失った時と同じように唐突に、私は記憶を取り戻すことになる。
突如襲った凄まじい頭痛と吐き気に、私は泣き叫びながら彼に縋りついて、
そのまま意識を失った。
一週間後、目覚めた私は全てを取り戻していた。
ただし、その一年の記憶と引き換えに。
喜びむせぶ白々しく見える人間達。
枕元へ駆け寄った彼の涙ぐんだ顔を見て、
手も付けないというのに置かれていた果物の皿からフォークを掴み取り、
私は衝動的に彼の左胸を深く刺した。
記憶を取り戻した直後の混乱として処理されてしまったが、
私は明確な殺意をあの瞬間に抱いていた。
誰よりも憎い男。
憎い。
憎い、にくい、ニクイ。
渾身の力で、殺す気で、彼を刺した。抉りさえしたかもしれない。
あの瞬間こそ、私が雛鳥から目を醒まして本当の自分を取り戻した瞬間だった。
彼の左胸から滴る赤い血の甘美な味を、私は忘れてはいない。
これこそが私の姿だった。
だが同時に、私は彼を愛し、追い求めるようになる。
己の中で、自分自身気付きもしない頃からずっと育まれてきた彼への愛を認めることこそ、
この上ない苦しみだった。
しかし一年の清浄な月日は裸身のままに存在させてくれるほどに私を癒してくれたのだ。
何も知らない無邪気な幼児ではない。
親鳥をただ慕う雛鳥でもない。
憎しみに目の曇った復讐者でもなく、愛に目の曇った少女でもない。
再び目醒めた私は、今度こそ全てを受け入れ、まったき己となった。










温かい彼の体温を感じる。
彼に身体を寄せて、裸の私は横たわっている。
一日が終わる。
このままふたり一緒に眠ろう。
明日になれば、また新しい一日を彼と過ごす。
昨日、今日、明日。また明日。
いつまでも、いつまでも。
いつまでも、彼と離れたくない。
永遠に、一緒にいたい。
触れることも、言葉も、もはやいらない。
ただ共に在るということを、
世界の全てから感じ取ることが出来る。
だから、今は眠ろう。
朝の光が目覚めさせてくれるまで。
あどけない夢を見よう。









 


あとがき

ここまでお読み下さった方、ジュン様、
そして、このお話を作るきっかけとなった以下の作品に感謝と敬意を。

高村光太郎 作 「あどけない話」

1993.英作品 「永遠の愛に生きて」 
リチャード・アッテンボロー監督、アンソニー・ホプキンス、デブラ・ウィンガー、ジョセフ・マゼロ

ポール・オースター 著 「孤独の発明」
                         


リンカ






リンカ様から短編を頂戴しました。
AEOEのその後のお話。
不本意ながらもR指定とさせていただきました。
話の内容的には指定する必要もないかと思いましたが、
このあたりの線引きは非常に難しいなと痛感いたしました。
今回のお話についてはやはりその部分が何故存在するのかをお読みいただければいいかなと存じます。
本当にありがとうございました、リンカ様。

(文責:ジュン)

 作者のリンカ様に感想メールをどうぞ  メールはこちら

SSメニューへ