by  rinker

 

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3.嵐の大洋


「アキラちゃんってさ、よく食べるよね」

 ちーぽんのこの何気ない一言によって私は口に含んだストロベリータルトを危うく喉に詰まらせて人生に幕を下ろしそうになった。慌てて流し込んだ紅茶とともに必死の思いで飲み下すと、私にこんな仕打ちをしたにもかかわらずぽわぽわした顔でクリームソーダに載せられたアイスをスプーンでつついている天使のような友人を睨みつけ、抗議を行った。

「私のどこを見てそんなでまかせを言ってんの?」

「えぇ、でまかせじゃないよう。だってあたしの倍は食べてるよ?」

 んなわけないじゃない。いくらちーぽんと体格差があるとはいっても、食事量が倍も違うはずがない。

「だってそのタルト二個目だよ」

「今日は体育で特別お腹が空いたの!」

 やれやれ、とんだ言いがかりである。たまたまこの日体育があって、しかもその体育で行われたマラソンで何故か血が騒いで一着ゴールを成し遂げた私が、学校帰りに立ち寄ったケーキ屋さんで消費したエネルギーを補充するためにケーキを二個頼んだって、別に食べ過ぎということはないはずだ。

「でも体育はお昼の前だったじゃん。お弁当足りなかったの?」

 大体アキラちゃんのお弁当箱ってあたしのより大きいじゃん、と可愛いふりしてこしゃくなことを言うちーぽんが憎い。私も薄々勘付いてはいたのだ、最近食事量が増してきているということに。そして多分その分だけ背が伸びてきている。以前に比べたらヨシノちゃんとの視点の高低差が縮んだような気がするからだ。でもあまりのっぽの女にはなりたくない私は(別にヨシノちゃんに対しての含みはない)面白くないので適当にはぐらかすことにした。

「成長期なの。どんどん食べておっぱい大きくすんの」

「へぇぇ、いいなぁ」

 素直なちーぽんは私の言葉に納得して自分のない胸を触っている。ブラジャーもしてないし、まさか生理もまだってことはないと思うけどどうなんだろうか。

「ねえねえ、ちょこっと触らせてっ」

 テーブル越しに手を伸ばしてくるちーぽんが邪気のない顔で目を輝かせているので、正直私は嫌だったのだけど、渋々胸を張ってみせた。ますます嬉しそうな顔をして私のささやかな膨らみに羽根のように手を載せたちーぽんは感心した様子でほわぁ、とか言っている。

「あたしもアキラちゃんとかよしのんみたいになりたいなぁ」

「ヨシノちゃんはともかく私のどこがいいっての」

「かっこいいもん」

「んなことないって」

「あるの」

 ちんまりとした作りのふわふわしたクリームみたいな顔を精一杯引き締めてちーぽんは自己完結してしまう。その姿を見て私もなんだかこれ以上自分を卑下するのも馬鹿らしくなってしまい、大きく息を吸って吐くと、残りのストロベリータルトに取り掛かることにした。腹ぺこなのである。
 それから数日後、朝起きた私は洗面所の鏡に映し出されたみっともない寝起き姿と向かい合いながらちーぽんの言葉を思い出すとため息をついた。この私が格好いいだって! 冗談にしてもたちが悪いし、おそらくちーぽんは冗談で言っているのではないというところがさらにたちが悪い。もちろん友人にこのように褒められて嬉しくないはずはないのだけど、あまり買い被られると複雑な気分がする。鏡の中にいる色白で茶色い髪と瞳の女の子に私は言う。うぬぼれは禁物だよ。すべての人間がちーぽんと同じ意見を持つわけじゃない。すると鏡の中の女の子はそんなこと分かってると不貞腐れて私に言い返した。ちなみに私はいわゆる混血という奴で、ちーぽんより鼻はでかいし彫りは深いし、幼い頃ほとんど金髪だった色素の薄い髪は茶色の猫毛で、瞳も薄い茶色をしている。お父さんはどう見ても普通の日本人だから私を産んだ母がそうではなかったのだろう。まあ母が白人だろうがなんだろうがどうでもいいことだ。私にはこの容姿が最初から当たり前のものなのだから。

「アキちゃん、洗面所早く空けて欲しいんだけど」

 横から掛けられた声に私が顔を上げると、寝ぐせのついた頭を撫でつけながら大あくびをしているお父さんが立っていた。いけない、つい考えに没頭してしまっていた。

「ごめんごめん。すぐに済ませるからちょっと待ってて」

「なんか悩みか?」

 洗面所に入ってきてシェーバーを手に取ったお父さんが訊ねてくる。

「悩みってどうして?」

「だってお前、洗面台にデコくっつけてうなだれてたぞ」

「うっそ、気のせいでしょ」

「気のせいねぇ。さようでござんすか。んじゃ空いたら教えて。早くしろよ」

 じょりりりり、と髭剃り音をうるさく立てながらお父さんが廊下を去っていくと、私はもう一度鏡の中の不細工な女の子を睨みつけて、勢いよく水を流してばしゃばしゃと顔を洗った。
 途中にヨシノちゃんと合流して一緒に学校へ向かうのは、女子剣道部の朝練がある日以外の日課だ。ヨシノちゃんと私だけでちーぽんがいないのには理由があって、残念ながらちーぽんは私の家から見ると学校を挟んだ向こう側に住んでいるので、待ち合わせというのはできないのだ。この日も待ち合わせの場所に立っていたヨシノちゃんに手を振って駆け寄ると、私たちはお喋りをしながら学校へ向かう。ちーぽんは私やヨシノちゃんのようになりたいと言っていたけど、私とヨシノちゃんとではだいぶ印象が違う。共通点といえばちーぽんよりも背が高いということくらいだし、ぱっと見の印象からしてくだけている私と違ってヨシノちゃんはいつもきりっとしている。横を窺えば今日も我が友は完璧な女子中学生姿で、まるで制服の販促ポスターのモデルみたいだ。ところが私はといえば、

「アキラ、襟曲がってる」

 こうなんだな。だらしなくしているつもりはないんだけどね。指摘されて襟を直すと、品定めするような目で私を見ていたヨシノちゃんが付け加えて言った。

「ネクタイも」

「はいはいっ」

 ま、こんな感じで傍目から見てもヨシノちゃんと私のどちらがいいのかなんて火を見るより明らかだと思う。ところがそれが分からない困った輩も中にはいるみたいで、ヨシノちゃんと並んで歩く私に声を掛けたのもその一人らしい。

「おす、碇。今日も五十嵐さんと一緒なんだ。仲いいなぁ」

「幸村には関係ないでしょ」

 私が横目で睨みつけてやるとそいつは苦笑いする。名前は幸村といって同じクラスの男子で、気がよくて優しい奴だけど私は苦手だ。いつもいつもおっとりしていて他人とは争わないのを身上にしているような八方美人なところが特に嫌だ。こういう奴は他人のことを本当はどう思っているのか見えてこない。だから、誰にでも似たような態度を取るのならこちらだってただのクラスメイトの一人という立場を崩さなくていいのだと私は考える。まあ、こんな捻くれたことを思っているのはクラスでも私くらいかもしれないけど。現にちーぽんなどはわりに幸村と気が合うみたい。おっとり者同士で波長が重なるのかしらん。

「そういう言い方をされると困っちゃうな。五十嵐さんもおはよう」

 ついでのように声を掛けられたヨシノちゃんが頷きながら挨拶を返すと、幸村はまた私のほうに顔を向けて話を振ってきた。最近こいつはやたらと私に話しかけてくるのだ。正直苦手な奴だから対処に困っている。

「社会科の宿題やった? 今日は僕の班が発表当てられるんだよね」

「あー、あれ。遺棄された市街地をどうやってリサイクルするかっての」

「そうそう。旧第3東京跡地公園の話。僕、あそこ行ったことあるけど、何もなかったよ」

「別に放っときゃ森になるんじゃないのって思うけどね。どうせ街の半分は吹き飛んだって場所なんだから」

 さすがに話しかけられて無視するほど私も意地悪ではない。だから仕方がなく学校の授業の話などに適当に付き合ってやっていたのだけど、しばらくすると突然幸村はまるで関係ないことを言い出した。

「碇さ、こないだ観たい映画あるって言ってたでしょ」

 確かに前々から私が観たいと思っていた映画の題を挙げて幸村がこちらを見る。こいつの前でそんな話をしたっけか。ひょっとしたら訊ねられて答えたこともあったかもしれない。

「僕もちょっと観たいと思ってたんだ」

「ふーん」

 足元に転がっていた邪魔っけな石ころを蹴飛ばす。こーんころころ。石ころは勢いよく車道に飛び出していって、気付くと少し咎めるような目でヨシノちゃんが見ていた。

「観たらいいでしょ、観たいんなら」

「明日の土曜日、予定ある?」

 いやいや、空気読んでよ。気のないこちらの様子などまるでお構いなしに予定を訊ねてくる幸村に私は苛立つ。そんなもんこいつに答える義理はないけど、少なくともこいつと映画を観に行くという予定がないことだけは百パーセント確実だ。

「もしよかったら一緒に観に行こうよ。なんだったら五十嵐さんとか森とかも一緒でもいいよ」

 私の様子が見えていないのだろうか、それとも分かってやっているのだとしたら幸村は思っていたよりずっと図太い奴だ。でもとにかくこいつと一緒に映画に行く気なんてさらさらないってことは変わらない。クラスメイトにばれてからかわれると恥ずかしいからとか、そういうのもないわけじゃないんだけど、それよりなによりこいつのことが好きじゃないんだからしょうがない。もっと仲のいい奴だったらまた話は別だったのかもしれないけどね。ちなみに幸村の言う森とはちーぽんの苗字だ。それこそ仲がいいんだからちーぽんを誘えばいいのに。
 というわけで、私は誘いを断った。私の拒絶に動揺したらしくちょっと落ち込んでいた幸村の姿を見て、こちらのほうも心苦しさを覚えてしまった。振るとか振られるとかって、本当に面倒くさい。だってどちらの立場にいるにしても疲れちゃうんだもの。私は今回のことが初めてだったけど、これから先もこんなことがあるのは勘弁して欲しい。
 昼休みに屋上で弁当を食べているときにこの顛末を知ったちーぽんは、可愛い柄の箸をぎゅっと握り締めて、ほぇーと言った。もともと私は話すつもりはなかったのだけど、ヨシノちゃんが水を向けてきたので仕方なく話したのだ。ちーぽんもしばらく前に似たようなことをやっているからこの話に何か思うところでもあるだろうかとも考えていたけど、どうもこの件に関しては私よりも幸村の肩を持ちたいらしい。薄情な友達だ。

「だって幸村くん、いい人だよ」

 ちーぽんは納得いかないという感じで私に訊いた。けれど人の印象なんて個々人それぞれで、好きじゃないものは好きじゃないのだ。ちーぽんは幸村と仲がいいから肩のひとつも持ちたくなるのは無理ないのかもしれないけど、私は違うし、仲よくなる気もない。それだけのことだ。

「アキラちゃんって案外冷たい」

 ちーぽんがぷっと膨れて私を非難する。

「どうとでも」

 ちーぽんにこんな顔をされると私としても胸が苦しいけど、どうにもならないことだってある。だからこんな体験談より今は弁当を平らげるほうが大事。

「それに頑固」

 炒めものの汁が他に移っちゃってるなぁ。今日はあまり時間に余裕がなかったから雑になってしまった。自分で作ったものだから仕方がないけど。
 ちーぽんは生返事をする私を無視してごちゃごちゃと言い続けている。

「せっかく好きって言ってくれてる人がいるのに」

「ああーっ! もう、うるさいなぁっ!」

 食べ終えた弁当箱の蓋を壊さんばかりの勢いで叩きつけるように閉めて私は叫んだ。

「いいじゃん、振ろうがどうしようが私の勝手でしょ!? 言ってくれてる? じゃあ何、私は感謝しなくちゃいけないの? 大体そんなに言うんならちーぽんがあいつと付き合えばいい!」

 我ながらみっともなくて嫌になるけど、自分でもどうにもならない。カッとなるとわけ分かんなくなっちゃうんだ。それでも大声を出して多少なりとも溜め込んだいらいらを発散した私は、すぐに冷静さを取り戻して周りが見えた。ショックを受けて硬直したちーぽんの顔。
 違う、こんなことがしたいんじゃない。

「ゴメン」

 気まずくてちーぽんの顔を見られず、弁当箱を巾着にしまう手元に視線を落とす。

「ううん。あたしもなんか口出し過ぎた」

 私も幸村もちーぽんも、誰が悪いわけでもないのにどうしてこんな気分にならなければいけないんだろう。男とか女とか、恋とかどうとか考えなければ楽なのに。最近は皆そわそわして、人が変わったみたいだ。

「まあ正確には」

 と、しばらくの間私とちーぽんとの応酬に参加せず無言の聴衆となっていたヨシノちゃんが突然口を開いた。

「好きと告白されたわけじゃない。ただ映画に誘われただけで。だから幸村が諦めるかどうかはまだ分からないと思うな」

 またヨシノちゃんは余計なことを。じろりと睨んでやったけどヨシノちゃんはどこ吹く風とばかりに卵焼きを口に放り込み、ちーぽんと目配せをし合っていた。
 まったくどいつもこいつも。
 次の日の土曜日、私は当然幸村と映画を観に行くはずもなく、休日の惰眠を貪るお父さんを尻目に午前中から掃除に洗濯にと精を出し、こんな健気なおさんどん少女なんて今時なかなかいないわ、と自分で自分を褒めてやりたい気持ちになりながら過ごしていた。本当ならどこかに遊びに行きたいところだけどあいにくとヨシノちゃんは剣道部の練習試合、ちーぽんは家族でお出かけ、他の友達も皆掴まらなかったので、意外と寂しがりやの私としては一人で出かけるというのも侘しいものがあるし今日は家でのんびりしていようかなと考えていた。
 洗濯物を干すためにベランダに出るとよく晴れた朝の陽射しが気持ちよく射し込んでいて、こういう一日で一番清々しい時間帯にぐずぐずと寝ているお父さんをしょうがないオヤジだなどと陽射しを一杯に浴びながら考えつつ、今日も暑くなりそうだと嘘みたいに真っ青な空を見上げる。私は寒い冬というものを知らない世代だけど、毎日暑いのだってそれなりに悪くはないと思う。大体が大人ってのは後ろ向きなんだ。
 ちょうど私の小さくて可憐なパンツの隣にお父さんの変な柄のでっかいトランクスを干している時だった。家の中からピリリリリッ! と携帯電話が鳴るのが聞こえてきた。これはお父さんの仕事用の携帯電話の音だ。しばらく鳴り続けて音はやむ。おそらくお父さんが電話に出たのだろう。けれど私が洗濯物を干し終えてリビングでテレビを見始めてもまだお父さんが部屋から出てくる気配はなかった。
 これはひょっとして今日も休日出勤かしらと、嫌味なくらいにハイテンションなテレビ司会者の声を聞き流しながら考えていると、ようやくお父さんが部屋から出てきた。声をかけてくる気配がないので仕方なくこちらから振り返ると、お父さんはなんだかすごくこんがらがった顔をしてパジャマのままぼんやり立っていた。できれば一生顔を合わせたくないと思っていた大嫌いな奴が実は長年探し続けていた生き別れの兄弟だったことを発見したみたいな顔だ。

「何かあったの? 今日仕事?」

 私が呼びかけると、

「ああ、いや、仕事じゃないよ、大丈夫。おはよう」

 まるきりうわの空でお父さんは答えた。

「朝ご飯食べる? 食パン焼こうか」

「いや、いらない」

「そ。じゃあコーヒー淹れようか」

「うん、頼む」

 受け答えは一応しているけれど、どうも見たところ全然大丈夫じゃないみたいだ。心ここにあらずといった様子で突っ立っているお父さんを不気味に感じながら、私はやかんに水を入れて火にかける。コーヒーを用意している間、お父さんは背後で冷蔵庫を開けたりごそごそしていて、二人分を淹れ終えて私が振り返ると、お父さんはいつもは私しか飲まない牛乳を注いだグラスを手にこちらをじっと見つめていた。

「なに?」

「いや、別に」

「ふぅん。それよりコーヒー飲むんじゃないの?」

 湯気を立てるコーヒーカップを持ち上げてみせると、お父さんは自分の手の中のグラスとコーヒーカップとを交互に見て、たった今夢から目覚めたという風にぱちぱちとまばたきをしてから言った。

「飲むよ。コーヒーだろ」

 挙動不審なお父さんに眉根を寄せてみせてコーヒーを手渡す。

「それどうするの」

「どれ?」

「牛乳」

 なみなみと注がれた牛乳のグラスを指差して私は言った。

「ああ、えっと、そうだな、アキラ飲むか?」

「いらない」

 右手に牛乳のグラス、左手にコーヒーカップを持ったお父さんと両手を腰に当てた私との間に沈黙が落ちる。たっぷり十秒は経ってからお父さんはうう、とかなんとかうなると、牛乳のグラスを持ち上げて一気に飲み干してげっぷをした。いつも飲まないものを無理にそんな一気飲みしなくてもいいのに。

「これ、流しに」

 差し出されたグラスを受け取り、ふらふらした足取りでソファのほうへ向かうお父さんの背中に私は言った。

「パジャマ、脱いだら洗濯かごに入れといてね」

 こんな風になんだかとっても変な様子のお父さんをいぶかしみつつ、かといって私はカウンセラーでもテレパシストでもないのでどうにもできないまま昼まで時間が過ぎていった。ひょっとして夜寝ている間にエイリアンがお父さんに成り代わってしまったんじゃないかしらと疑ってじろじろと観察してみたけれど、どうやらそれはなさそうだった。昨日の夜寝る前におかしな行動を取っていたということもなさそうだし、やはり朝の電話が原因なのだろうが、本当にどうしたのやら。心配だ。
 大きなお腹の音が鳴って空腹感に気付いた私は読んでいたマンガから顔を上げた。時計を確かめると十二時半を回っている。お昼ごはんを食べなきゃとリビングに顔を出すと、ちゃんと着替えて身繕いをしたお父さんがクラシック専門の音楽雑誌のページを捲っていた。やっと落ち着きを取り戻していつものお父さんに戻ったかしらと正面へ回ってみて、思わず私は足を止めて両手を腰に当て、大きなため息を吐き出した。一定のリズムでページを捲るお父さん。ただし、まったく読んではいない。だって雑誌から俯角三十度ほど外れた絨毯の上をじっと見つめてるんだもの。何してるんだよもう。

「お父さん、ホントに大丈夫?」

「アキラか。どうした?」

 顔を上げたお父さんは声をかけられて驚いているみたいに目を丸くして私を見た。いい加減この人をこっちの世界に引き摺り戻さなきゃ、私の忍耐もそろそろ限界だ。

「どうした、じゃなくて。お父さん朝から変だよ。やっぱり何かあったんじゃないの。ドッキリはやめてよ。うちが破産した? それとも悪性の腫瘍が見つかった? 何か犯罪に巻き込まれでもしてる? お願いだから大事なことは隠さないで。私はもうわけ分かんない状態なんだからね!」

 ひとしきり叫び終わると私はぎろっとお父さんを睨みつけた。やべ、ちょっと涙出てきた。
 そのあと三十分くらい経ってようやく私たちはお昼ごはんのことを思い出した。結局お父さんはあの電話が何だったのか口を割らなかったけど、私が言うような悪いことは一切何もないから安心しろと言うので、仕方なくではあったけど引き下がることにした。基本的に私はお父さんを信じているので、大丈夫というなら大丈夫なのだろう。たかだか父親の様子がおかしかったくらいで騒ぎすぎだと思われるだろうが、何しろ親一人子一人で親戚縁者もいない身の上ではしつこくもなろうというものだ。自立の道にいまだ届かない私にはさしあたって頼る相手が一人きりしかいないのだから。子どもだって必死なんだ。だからもしこれで大丈夫じゃなかったら、見ていろ親父め、私にだって考えがあるぞ。
 お昼ごはんのインスタントラーメンを(だって手軽なんだもの。野菜くらいは入れるし、お父さんも文句言わないし)食べていると、じっとこちらを見つめているお父さんに気付いた。

「今度はなに?」

 ふーふーしてから麺を啜る。猫舌なんだよね。にゃあ。

「いや……」

 お父さんはかぶりを振り、野菜も麺も一緒くたにしてずぞぞぞぞっ! と啜って盛んにあごを動かして咀嚼しながら、また私のことをじっと見つめる。心なしか目元が笑っているようだ。なんだろ、気色悪いな。

「人の顔見て何ニタニタしてんの」

「お前、今度いくつになるんだっけ」

「十四」

 花も恥らうお年頃だ。四十手前のおっさんとは違う。

「十四か。大きくなったな。ついこないだまでオムツしてよちよち歩いてたのに。いつの間にかこんなだもんなぁ」

 こんなってなによ、こんなって。

「いっちょまえにブラなんか着けて」

「ぎゃーっ! スケベ親父、ブラとか言うな!」

 胸を隠して悲鳴を上げる私。わっはっは、と笑うお父さん。朝から変だった我が家の空気はこうして組み直されていく。あ、別にいつもお父さんがセクハラっぽいこと言うってわけじゃないけど。とにかく、それを実感して私は安心していた。
 ところが波乱が起こったのは翌日だった。やはりお父さんは嘘をついていたのだ。私は激怒した。そりゃあもう、生まれてこのかたこんなに怒ったことはないってくらいの大激怒だ。正直いってお父さんにはかなり失望させられた。裏切られたといってもいい。
 何が起こったのかって?
 思い出すだに忌々しい。この私の人生で絶対に絶対にあって欲しくないと思っていたこと、同時にきっと起こり得ないだろうと予感していたこと。けれど予感は私を裏切り、そしてやはりお父さんが私を裏切った。
 母が現れたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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