The scenes between EOE and LAS より


 

神様は見ていた


リンカ       2009.1.15








 拝殿の柿葺屋根のてっぺんに二人の人物が腰掛けて、初詣に群れ集った人並みを見下ろしていた。ここ一・二年で多少寒くはなったが厳冬というには程遠い気温で、すし詰め重箱の様相を呈している境内は湿り気のある熱気がこもっている。しかし、それを屋根から見下ろす二人は至って涼しげに神酒など飲みつつ歓談していた。

「活気がありますねぇ」

「そうじゃのう。ようもこれだけ集まったこと。昨年には壊れた街と同様に荒れ果て疲れた目をした人間がわずかに訪れたくらいじゃが、今年はちと違うようじゃのう」

「人々に希望があるのはいいことですよ」

「何にせよ祀って拝んでもらわねばこちらとしても商売上がったりじゃ。おや、今賽銭に一万円投げ込んだ者がおるぞ。ほっほっ、感心感心」

「神頼みも金次第ですか?」

「その心意気を褒めておるのじゃ。賽銭の多寡で差別をしようというのではない」

 一人は薄紫の狩衣姿の古風な青年で、もう一人は灰色の髪に赤い瞳が印象的な学生服姿の少年だった。双方とも不安定な屋根のてっぺんに危なげもなく胡坐をかき、手には神酒に満たされた朱塗りの杯を持っている。飲み干すと狩衣の青年が空の杯の上に手をかざした。するとどこからか神酒が湧き出し、みるみるうちに空の杯を満たすのだった。彼らは隠れもせず悠々と境内の様子を眺めていたが、参拝者たちの誰一人として屋根の上の存在に気付く者はいなかった。
 狩衣の青年はこの神社に祀られている祭神だ。要塞都市第3新東京市が造成されるはるか以前からこの土地で祀られ、この土地と暮らす人々を守ってきた。名は時代とともに様々に移り変わってきたが、仮にミナカタとしておこう。
 一方の学生服の少年がこの街へやって来たのはつい一年ちょっと前のことだ。そしてすぐに死んだ。通常、人は死ねばそれなりの辿る道というものがあるのだが、この少年は持って生まれた力の特異さというより、実のところほとんど人ではなかったので、そんなものはまるで関係なしとばかりにこの世に留まり続けている。名は渚カヲルという。死んで以後ふらふらと第3新東京市をうろついていたのだが、少し前からはこの神社に居候している。
 参拝客の賑わいを肴に誰の目にも映らない酒宴を続けていると、ふとミナカタが回廊の人並みから横へ外れた場所へ目をやって声を上げた。回廊を挟むようにして長屋根が見え、そこでは初詣客にお守りなどを販売しているのだが、ちょうどおみくじを売っている辺りに騒がしい集団を見つけたのだ。

「おや、何やら騒いでおるのう」

 長い赤毛の外国人と思しき少女が、水色の髪の少女に背中から羽交い絞めにされて何やら喚いている。その脇では気の優しそうな少年が困った顔をしている。ミナカタは袖口から笏(しゃく)を取り出して口元に宛がって目を細めた。

「ははあ。彼ですよ、僕が待っていたのは」

 とカヲルがミナカタに言った。

「ほほう、あれが。しかし、あれはそなたを殺したおのこではあるまいか」

「そうですよ。彼が僕を殺してくれてよかった」

 カヲルはしみじみと言って、ミナカタの目を丸くさせた。この気持ちを誰に分かってもらえるだろうか、とカヲルは心中で呟いた。あの時、地下深くに隠されていたのがアダムでなくリリスであって、本当によかった。なぜなら、あそこにアダムがあれば彼は躊躇なく合一を果たして、リリスの子である人類を消し去っていただろうから。だが、賽の目は人間に出た。その偶然に今の彼は感謝すらしていた。

「よう分からん奴め。すわ名のある物の怪かそれとも荒神か、この気配はただならぬ、と初めにおぬしが土地へ現れた時にはわしでさえ心穏やかでなかったものを、あっという間に殺されおって、あげくそれでよかったと申すではないか」

「いいんですよ。だって、シンジくんは幸せそうじゃないですか」

「人間の幸せの何たるかをそなたが知っておると申すか。人間自身さえ、それが分からずに右往左往するというのに」

「あなたは人の幸せを叶える神様ではないのですか?」

「そなたは夷狄の神ゆえ知らぬであろうが、この国には古来八百万の神々が存在するという。八百万(やおよろず)とは数え切れぬくらいたくさんという意味じゃ。神はどこにでも宿る。木にも石にも山にも水にも。かまどや櫛、ひしゃくに茶碗、何にでもじゃ。しかして仏法では人間は一人にして百八の煩悩を持つという。この街だけでも数十万の人間がひしめいておるのに、この国全体では一体どれほどになるか。煩悩の数は果たしてどれほどになるか。数え切れぬほどおると言われる神ですら、人の煩悩は追いきれぬ。現に今こうして参拝に来ておる人々の心の騒がしきことよ。その騒がしき心に隙間なくひしめく願いの中からたったひとつを掬い上げたところで、それが当人の幸せに繋がると断言できるのか?」

「何だ。そんなの簡単ですよ」

 カヲルは口元を大きく弓なりにすると、こともなげに言った。

「顔を見れば分かります」

 彼の視線はまっすぐにシンジを向いていた。その赤い瞳は確信に満ちていて、誇らしげでさえあった。ミナカタはなかば呆れ、なかば感心して笑った。

「面白い奴じゃ。夷狄の神もなかなかやるのう」

「僕は別に神様ではないんですがね」

 一年前までこの街を襲っていた使徒の成り立ちを、この古い神に説明しようかとも思ったが、カヲルはそれを踏みとどまった。自分自身でもうまく説明できないのだ。織り込まれたひとつの絵のように鮮明に理解しているのに、言葉にするのは容易ではない。なぜだろうかとカヲルは思っていたが、この神社に居候するようになってから理由が分かった。人間の言葉だからだ。そしてカヲルの中に織り込まれている絵が、使徒の言葉なのだ。人間の言葉に織り直すことは至難といっていい。
 だが、そんな小難しいカヲルの思考を一蹴してミナカタはうそぶいた。

「じゃが人でもなかろう。獣でもなし、草木でもなし、ましてただの物でもない。そういうものを神というのよ」

「まあ、人でないことは確かです」

 カヲルは苦笑して杯を傾け、下ろすと空のそれにミナカタが手をかざした。一体どういう理屈で何もないところから酒が湧くのかと考えていると、思考を読んだようにミナカタが答えた。

「人の理屈で考えるから分からぬのよ。ちと違う見方をすれば、酒が湧くのは当たり前と分かるはず」

「でも不思議だ」

「やれやれ。なまじ人の姿をしておったのがようなかった。その頑迷さには呆れ返る。見よ、あの娘も自らを迷路に迷い込ませて右往左往しておる。目の前には簡単な事実しかないというに」

 ミナカタが笏の先で、おみくじ所前の騒ぎの中心を指し示した。異国の風貌を持つ少女は何ごとか喚いてかたわらの少年に噛み付いていた。

「彼女は何を騒いでいるのです?」

 すべてを承知しているミナカタにカヲルは訊ねた。カヲルにも超常の力は備わっていたが、ミナカタのように神社の敷地内で起きる事柄や人々の思考がすべて流れ込んできて理解できるわけではない。結界に囲まれた神社はミナカタの肉体と同義だが、カヲルはあくまでも客神に過ぎないからだ。

「引いたくじの文が気に入らぬそうじゃ。待ち人来たらぬ、と」

「待ち人、ねぇ」

 つまりはシンジのことか、とカヲルは得心した。あの惣流・アスカ・ラングレーという少女の秘めた思いは知っている。そして、その秘めた思いがいまだに成就されていないことも。とはいえ、秘めているつもりなのが当人だけなら、成就しがたしと考えているのも当人だけ。傍から見ればこれほど滑稽なことはない。ミナカタもそれが分かっているので、さも哀れげに目を細めてみせた。

「分からぬなぁ。くじの通りではないか。すでに目の前に来ておるものを、さらに来させる道理がどこにあるか。あとは待つのをやめればよいだけの話。簡単なことではないか」

「もうずっと前からいつもそばにいるんですけどね。でも、人というのは自分自身のことはなかなか分からないものなんですよ」

「難儀なものよ。とはいえ、非のないくじに八つ当たりして破り捨てたのは看過できぬ。素直に結んで帰ればよいものを、罰当たりめ。これはちと仕置きが必要じゃな」

 風に乗ってひらひらと飛んできた紙片をカヲルが掴まえると、そこには元は和歌の一部だったと見える文字がいくらか並んでいるのみで、かろうじておみくじの破片であることが判別できた。よほど細かく刻んだらしい。恐ろしい執念といえる。向ける方向が違えばとうに願いは成就しているだろうに、と何やらカヲルまで哀れな気分になってきた。
 しかし、そうはいっても生前の知人に神罰が下るのを黙って見ているのは忍びない。カヲルは背筋を伸ばしたミナカタへ控えめな口調で申し出た。

「ミナカタ様。彼女はあれでも僕の知人……いや、直接の面識はなかったな。とにかく、僕の大切な親友が、大切に思っている人なんです。許してやっては頂けませんか」

 しかしミナカタはカヲルの嘆願を頑としてはねつけた。

「駄目じゃ。これは神としてのけじめじゃ。そなたも神ならば覚えておくがよい。神は礼を示す人間はどこの誰であろうとも等しく守るが、それをおろそかにしたり、なかんずくは無礼を働くような輩には相応の態度で応じねばならぬ。特別扱いはない」

「しかし……」

「案ずるな。命を奪おうというのではない。少しばかり懲らしめるだけよ」

 ほっほっほっ、とミナカタは笑って取り合おうとしない。

「それにしても、あの娘の頭の中ときたら、奇天烈極まりないのう。それほど好いておるのなら、一言そう申せば済むことではないか。何の難しいことがあろうや。想い人は常にかたわらにおるというのに。想いとはとどめること適わぬもの。口を閉じておくことのほうがよほど難しいのではないか」

「閉じているのではなく、開いても裏腹な言葉が出てくるのですよ。きっと」

 正直なところ、カヲルもミナカタ同様にアスカが一体何を躊躇っているのか理解しがたかった。何しろ、思うところを正直に述べるのはカヲルの身上だ。だからこそシンジと出会ってすぐに好意を伝えたし、そのために彼の親友となり得た。そのカヲルからすれば、アスカの態度はまったくもって奇妙奇天烈としかいいようがなかった。自分が生きてあの場にいれば、決して彼女のような醜態は晒さないだろうとも考えたが、しかし死んでしまったものは仕方がない。そもそも使徒であるとはそういう約束なのだ。使徒が生きるなら人は死に、人が生きるなら使徒は死ぬ。賽の目が人間に出た時、彼はあっさりと自らの死を選んだ。だから、後悔はない。ないが、何とも歯がゆい気がするのはどうしようもない事実だった。

「珍奇なる娘に見込まれたものじゃな、そなたの親友とやら」

「その点は多少なりともシンジくんに同情しています」

「同情か。ふふん、どうもまだ人間臭さが抜けぬのう。まあ、わしが手ほどきをしてやるから安心せい」

「はは……、お手柔らかに」

 そうこうしているうちにアスカは参拝客に背を向けて歩き出し、それを追ってシンジも行ってしまった。彼らの友人たちはまだしばらく留まっているつもりのようだったが、カヲルの関心は彼らの上にはなく、ひたすらに生涯ただ一人の友の背中を追い続けていた。
 ミナカタがそのかたわらで神酒を口に運びながら、皮肉げに口を歪めて言った。

「健気なこと。……ふむ、誰ぞやって来るな」

 笏の先が指し示す方向へカヲルが注意を向けると、はるか西の彼方に広がる山肌から金色じみたかすみのようなものが生じ、それが尾を引きながらこちらへ向かって飛んできた。金のかすみはカヲルたちの目の前で停止すると、その場に留まって練り固まるように人に似た姿を形作った。

「長尾峠の尾裂き狐か」

「ミナカタ殿へ新年のご挨拶に参上致しました」

 ミナカタとカヲルが座る屋根の頂上より低い場所に膝を突いて、尾裂き狐はうやうやしくこうべを垂れた。一見して人の姿を取っているが、本来耳のあるよりもやや上の辺りから毛皮に覆われた大きな狐の耳が立っていて、腰の後ろにはふさふさと太い尾が垂らされている。簡素な狩衣を纏ってはいるがどうやら雌らしく、ススキの穂のような金色の長い髪を流し、雪のような肌をしていて、切れ上がった目尻の辺りが妖しくけぶっていた。

「そなたも息災で何より。眷属はいかがした」

「恥ずかしながら月日とともに我らの力衰え、顕現するほどの精気も萎え果てて眠りにつくもの多く、わたしくめが名代としてまかりこした次第にござります」

「ふむ。致し方ない。時代というものじゃな」

 ミナカタは頷くと、手を打ち鳴らして使いを呼んだ。

「たま。とら。客神に酒を持て」

 すると参道の左右から狛犬が滑るように屋根の上まで駆けて来て、人の形になってふところからうやうやしく杯を差し出した。尾裂き狐がそれを受け取り、ミナカタへ拝礼してから口に含んだ。
 それにしても狛犬がなぜ猫の名前なのか、とカヲルは脇に畏まっているたまととらを見て、つくづくと思った。これも神の理屈からすれば当たり前のことなのだろうか。いやいや、そういう問題じゃないだろう。かぶりを振り振り、カヲルは杯を干す。二頭は人のような姿を取っているが、ふさふさと巻いた長いたてがみを生やしていて、小柄だが逞しい身体つきをしている。角があるほうがたま、ないのがとらだ。

「ミナカタ殿。そちらの神はいずこより参られた神か」

 尾裂き狐がカヲルを見て言った。

「夷狄の神よ。一年以上前にこの土地を騒がしたものどもがおったであろう。あれの眷属じゃ。その力強く、死してなお性を失わず漂っておったのを、三月ほど前から我が社で預かっておる」

「韓神(からかみ)か。そなた名は?」

「渚カヲルといいます。でも、別に神様ではありませんよ」

 訊ねられて答えたカヲルはいい加減言い飽きている台詞を付け加えることを忘れなかったが、ミナカタも尾裂き狐も彼の言葉をまったく意に介していないようだった。

「わらわは長尾峠に棲まう白狐の白穂と申す」

「はあ。どうもよろしく」

「おや。また誰ぞ来たようじゃな。苦しゅうない。姿を現してみせよ」

 現れたのは蛙面の大男だ。着流しのぼろの前を割ってでっぷりと突き出した腹を波打たせながらミナカタの前にこうべを垂れると、たまから杯を受け取って答えた。

「須雲川の大蝦蟇にござりまする」

「蛙の神様ですか?」

 カヲルが訊ねると、ミナカタが笑って答えた。

「元は川原に転がるただの岩よ。形が似ておるから蝦蟇よ蝦蟇よと人が呼ぶうちに、蝦蟇の性を持ったのじゃ」

 大蝦蟇に続いて続々と集まってくる。どれもこれも人間離れした神々だ。気付けば拝殿の屋根が何倍にも膨れ上がるほど寄り集まって、大宴会が始まっていた。

「餅を持参致しました。皆で食いましょう」

「おお、それはよい。誰ぞ餅を炙る網でも持っておらぬか」

「えい、面倒くさい。そこの焚き上げの火で焼けばよいわ。金物の神でもおらぬのか。ちと行って焼いて来ておくれ」

 呼びかけに応じて出てきた古ぼけた鉄鍋か何かの神様が餅を自分の身体に並べると、ふわふわと焚き上げの火に当たりに行って、焼きあがり戻ってくると、皆で手を伸ばしてわいわいと餅を食った。騒ぎの中心でカヲルも相伴に預かりながら楽しんでいた。

「こりゃ大蝦蟇よ。お前二十も餅を食うたな。これ以上肥える気か」

「魚も焼くか。ひとっ走り誰か釣り上げて来ぬか」

「そなた長尾の白穂姫か。母御はどうされた」

「脚を悪くしたゆえ山にこもっておる。近く湯治にでも連れてゆかねば」

「いいところを知っておるぞ。人間の近づかぬ秘湯よ。長尾の大栗に生る実と引き換えに教えてやってもよい」

 宴席の中心に座り、ミナカタは満足げに杯を傾けていた。たまととらは神々の間で忙しく立ち働いている。カヲルはふと、先ほどからこの神社の主であるミナカタが一言も発しないことに気付いて声を掛けてみた。

「賑やかですね。毎年こうなのですか?」

「何、これで減ったほうなのよ。長尾のが申した通り、神であれ妖であれ近年ますます力が衰え、まさに絶滅寸前といったところ。人間の精がなくては彼らは存在できぬ。ところが人間が増えるほど進歩するほどに精気は薄まるばかり。昔のようには行かぬ。彼らは忘れられつつあるのじゃ。右も左も人間という今の世で、自分たち自身の他に関心を失ってしまった人間たちにな」

「でも、あなたを元へこうして参拝に訪れる人々はまだこれだけいる」

「それはわしが社を持っておるからじゃ。そうではない野の神々はなかなかに立ち行かぬであろう。実のところ、こやつらの目的もそれよ。わしに対する挨拶などというのは口実で、参拝する人々がひしめくこの場所に充満する精気のおこぼれに預かろうというのじゃ。わしへの敬意などほんのおまけよ。したたかなこと」

 ミナカタも元は素朴な地神であったのを、この地へ建てられた社に習合された神だ。だから、ここに集う神々への共感はある。まったくの孤独な存在としてこの世に産み落とされたカヲルにとって、彼らのこのような姿は人間たちを見るのとは違う意味でまた感慨深いものだった。
 しばらくすると、酒に酔った神々の一団が見慣れないカヲルを取り囲み、彼を肴に盛り上がり始めた。

「おぬし新顔じゃな。名は何と申す」

「渚カヲルです。どうもよろしく」

「こやつ、おととし土地を荒らしたあの韓神の眷属よ」

「なにっ。あの韓神の一人にわしの棲む大楠がなぎ倒されたのじゃ」

「はあ、その節は僕の兄弟がご迷惑を」

「この箱根もあれで終わりかと思ったものじゃが、どうにか乗り切ってほっとしたわい。しかし恐るべきはあの人間よ。鬼を操りことごとく夷狄の神を平らげた様は、まさに鬼神の如しであった。この不毛の時代に侮れぬ人間もおったものよ」

「鬼神だなんて。シンジくんは本当はとても繊細で優しい男の子なんですよ」

「なんじゃ。そなた、あの鬼子と知り合いか。それならひとつ頼まれてくれぬかのう。最近わらわのねぐらのそばでおかしな輩が騒いで夜も寝られぬのよ。出て行けと言うても話が通じぬし、難儀しておるのだ。そこであの鬼子がことを収めてくれたらありがたいのじゃが」

「シンジくんはゴースト・バスターズじゃないんですよ」

「『ごおすと・ばすたあず』とは何じゃ?」

「そんなことより新入りよ。歌でも歌え」

「おお、それはよい。歌え歌え」

 皆から口々に請われはやし立てられて、カヲルもいそいそと立ち上がった。とはいえ、知っている歌などいくらもない。それもすべてオーケストラだ。いわゆる西洋音楽というやつである。ここに集まる古い神々に通用するのだろうか、と思いつつも彼は歌い始めた。ベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章だ。

「O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか)」

 むろん、神々にカヲルが何と歌っているのかを理解することはできない。だが、そんなことはさほど重要なことではないのだ。

「音じゃ。笛を持て! 鼓を打て!」

 誰かが一声上げると、どこからか楽器を携えた一団が出てきて場を陣取り、カヲルの歌に合わせて即興の演奏を始めた。ほとんどは完全な和音階だが、カヲルの歌とのミスマッチも滑稽で何とも楽しげな調べだ。

「舞うものはおらぬか。たま、とら。そなたらも舞え」

「あとは何じゃ。何が足らぬ?」

「花はどうか。花があれば満足じゃ」

「では冬の花ではいかが。ひとつわしが咲かせて進ぜよう」

 要望に応えて角髪(みずら)を結った古い水神がぶるぶると身体を震わせ、龍身に変じると螺旋を巻きながら上空へ昇っていった。まもなく、羽衣のように薄雲を羽織った冬の空から真っ白な牡丹雪が音もなく次々と舞い降りてきた。この街に降る十七年ぶりの雪だ。風に舞う冬の花だ。
 カヲルは歌い、ミナカタはにこやかに杯を傾け、狛犬のたまにとらはひらすら踊り、神々は大いに楽しんでいた。そして、そんな頭上の大宴会のことなど少しも知らず、初詣に訪れた人間たちは熱心に一年の祈願をしてゆくのだった。
 僕の歌声は、大好きな彼らに届いたろうか。
 そんなことを考えながら、カヲルは雪降りしきる街並みを目に焼きつけていた。





「こらっ。もうちょっとゆっくり歩いてよ!」

「そんなこと言われても。うわっ、引っ張らないで」

「きゃあっ!」

 お揃いの毛糸帽子はシンジとアスカだ。この冬に初めて買い揃えた防寒着なのだろう、シンジは青いダウンジャケットを、アスカは丈の短い赤のダッフルコートを着ていた。そうやって二人はなぜか密着して雪道を危なっかしく歩いていた。
 彼らの初詣の翌日のことだった。
 今度はミナカタが近場で祀られている他の神のところへ年始の挨拶に伺うというので、カヲルもそれについて行ったのだが、行きしなに面白いものを発見した。
 昨日の雪が降り積もって一面の銀世界となった街並みを、お揃いの毛糸の帽子がふたつ並んで進んでいく。おやおや、とカヲルは思わず彼らの頭上に停止してその様子を観察した。
 二人は買い物に出かけているところで、踏み固められた雪道を危なっかしくえっちらおっちらと歩いているのだが、どういうわけかアスカのほうがシンジの腕にきつくしがみついて密着している。まさか一夜明けてついに満願成就の時を迎えたのかと目を凝らし耳を澄ませてみれば、こういうことだ。
 足元をつるつると滑らせて、そのたびにアスカは悲鳴を上げ、命綱のようにシンジにしがみついていた。一方しがみつかれたほうはたまったものではない。何しろ自分と変わらないくらいの体格をした相手から全体重をこんちくしょうとばかり不意に預けられるのだ。当然、無事に立っていられるはずもなく、二人の服のそこかしこが雪に濡れていた。
 それにしても奇妙なのはアスカだ。寒冷地のドイツで育ったアスカは雪道など慣れ親しんでいるはずで、むしろ不器用に滑って転ぶのは初めて雪を踏むシンジでなくてはならない。それなのに彼らの立場は逆転していた。
 では、アスカはわざとやっているのか? それも違う。正真正銘、彼女は雪に足を滑らせていた。それも一度や二度ではない。支えなしに歩けば三歩に一度転ぶほどだ。彼女は真実命綱としてシンジを頼っているのだった。

「アスカってドイツでもいつもこうだったの?」

「そんなわけないでしょ、失礼しちゃうわ。いつもはちゃんと歩け……ひえっ!」

「ぐえっ!」

 またしても二人は転んでしまった。尻餅をついたアスカはいいとしても、彼女に無理矢理引っ張られて足がすっぽ抜けたシンジは背中から地面に激突して変なうめき声を上げた。相当に痛かったのか、空を向いた目が若干泳いでいる。

「あーあ。かわいそうに」

 見下ろすカヲルはもはや苦笑しか出てこない。

「嘘だ。絶対嘘だ。アスカがドイツ育ちとか絶対に嘘だ」

「な、何でそんなこと言うのよ」

「ドイツで育ったんなら、そんなに雪道を歩くのが下手くそなわけないよ。この前だって真っ先に風邪引くし、今日はまともに雪道歩けないし、本当は日本生まれの日本育ちなんだろ。雪見たのも初めてなんだろ」

「失礼ね。あたしは正真正銘アメリカ生まれのドイツ育ちよ! 雪なんか見まくってたわよ、むしろ食べてたわよ!」

「食べたの?」

「……ちょっと好奇しうっわー!」

「ああそんなっ!」

 また転んだ。
 こんな調子だったのだが、二人が外出を頑としてやめないのにはわけがある。
 そもそもの外出の目的は食料品の買い物だ。昨日も初詣のあとに買い物へ出かけたのだが、いつも一度で使い切るくらいの量しか購入しないので、度々買い物に出かける必要があるのだ。非効率なようでいて、実はこれは計略である。買い物に出かけるということすなわち二人で一緒ということであり、ならば回数は多ければ多いほどよい。素直になれない珍奇なる娘が明晰な頭脳を絞って考え出した会心の策だった。事情を知る隣家の優しい新婚夫婦は涙ぐましくて何も言えない。
 とはいえ、たかが一食分くらいは買い足さなくともどうにでもなる。それでは彼らがあまりにも危険な道のりを引き返さないのはなぜであるか。

「ふっふふふ。侮れないわ、日本の雪。いいでしょう、来なさい。受けて立つわ。そして征服してやる……ぶつぶつ」

「ア、アスカ。打ちどころでも悪かった?」

「おかげさまであたしが打ったのはお尻くらいよ」

 シンジはこのまま行けば全身打撲だ。

「お尻……」

 ひょいと背後に顔を出して、しがみつく少女の丸いお尻を眺めたシンジだったが、思い切り手の甲をねじられて涙ぐみながら正面を向き直した。悪気はなかったのだが、こういうところで気を使わなければならない女の子って厄介だなぁ、とシンジは思った。しかし、もちろんそんなことは顔にも出さなかった。

「馬鹿、すけべ、サイテー」

 顔を真っ赤にしてアスカは怒ったが、密着した身体は離さなかった。今も地面を踏む両足は勝手な方向へ滑り出そうと待ち構えているからだ。

「ごめんなさいすいません。でも、何だって今日に限ってこんなに滑るの?」

「あたしだって知らないわよ。大体天気予報では雪が降るなんて一言も言ってなかったじゃない。何よ、騙されたわ、気象庁めぇ」

「そうなんだよね。本格的な冬が戻ってくるのはまだまだ先とか言ってたのに。でも、買っておいた冬物は役に立ったね」

 昔通りの季節はまだ戻らないが、いつその時が来てもいいようにとレイも巻き込んで冬物を一式買っておいたのだ。品は限られていたし、高くついたが、彼らははしゃいでコートやセーターを選んだ。毛糸の帽子もそうだ。一度は失われた季節がいつか戻ってくる。しかも彼らがそれに一役買っているのだ。こんな素敵なことがあるだろうか。完全防備で家を出た時にはもう内心大はしゃぎだった。

「ああもう、どうして普通に歩けないのよ。日本で降る雪は特別滑るんだわ。きっとそうよ」

「そんなむちゃくちゃな」

 本当にアスカにも上手く歩けない理由が分からなかった。とにかく足を踏み出せば片っぱしから滑るのだ。彼女は混乱した頭から必死になって両脚へちゃんと歩くよう命令を送っていたが、今のところ成果はなしだった。

「今日はちょっと調子が出ないだけよ。また雪の上を歩くことがあるとは思ってなかったから」

「へえ。なんで?」

 それは日本で一生暮らすつもりだからよ。あんたのいるところにあたしもいたいからよって、ああ無理無理、死ぬ死ぬ死んじゃう。
 ちゃんと答えようとしたアスカであったが、心の中での独白さえ彼女の心臓を異常に跳ねさせた。顔にきゅーっと血が集まって、みるみる熱を持って赤くなっていく。それを隠そうと毛糸の帽子を不審者並に深く被り、シンジにしがみつく腕の力を強くして顔を埋めたが、歩行の面では危険極まりないその状況に命綱のシンジとしてはまさに綱渡り気分だった。天国と地獄はいつだって紙一重だ。
 多分、雪のない普段の買い物道だったら、こんな風にお互いしがみついたりしがみつかれたりするなんてことは、絶対に無理だ。そんなことはできない。シンジにはアスカを抱き寄せる勇気なんてまだ引き出すことができないし、心とは裏腹なアスカの手足は彼のことを文字通り突き放すだろう。
 つまり、これは絶好のチャンスなのだった。雪で滑るのだから、何もかも仕方がない。しがみつこうが抱きつこうがトリプルアクセルを決めようが、すべては雪のせいなのだ。ああ、仕方がない仕方がない。と自己洗脳が完了したら、あとは前へ進むのみ。この機会を逃す手はない、絶対にない、ないったらない、というところでは二人の思惑は完璧に一致していた。

「ゆっくり、ゆっくりよ。あたしの歩幅に合わせて」

 仕方がないのよ。何度も転ばせてシンジには悪いと思っているけど、スーパーに行かなきゃ買い物できないし、買い物をしなきゃご飯作れないし、ご飯作らなきゃうちにはインスタント食なんて置いてないし、シンジはあたしのご飯美味しいって言ってくれるし。そう、すべてはそのためよ。何て健気なあたし。別に滑るのを口実にシンジに抱きつけてラッキーとか、転んでばっかりだけどすごく楽しいとか、シンジあったかいとかシンジ力強いとかシンジ好きとか、思っているけどそういうのはまったく関係ないのよ。あたしはシンジのために買い物に行かなくちゃいけないのよ。だからこのつるつるの雪の上を歩いて転ばなくちゃいけないのよ。いや、間違えた。転んじゃ駄目よ、あたし。
 さんはいっ、みぎっ、ひだりっ、みぎっ、ひだりっ、みぎっ、ひだだだああっ……!

「べ、弁慶が泣いてるよ……」

「えっ、何それっ!? 誰っ?」

 また足を滑らせたアスカの巻き添えになって変な体勢でつんのめったシンジは、弁慶の泣きどころをしたたか打ちつけ、涙をこらえながらどうにか冗談で済まそうとしたのだが、あいにくと外国出身の彼女には通じなかった。一緒に転んだアスカと二人で起き上がる努力も放棄して、今はひたすら痛みに耐えている。きっとひどいあざができているだろう。
 しかし、口ではぼやきながらも彼は内心では結構楽しんでいた。何といっても初めての雪だ。アスカも隣にいてしがみついてくる。転ぶくらいどうした。

「立てる?」

「もうちょっと待って」

 本当にアスカってば雪道を歩くのが下手だなぁ。やっぱりドイツでもこんな感じで、恥ずかしいからそれを隠して強がっているんじゃないかな。うん、きっとそうに違いない。アスカの性格からいって。僕は雪が初めてだから、多少転んでも、あくまで多少だけど、転んでもむしろ楽しいからいいけど、アスカの場合はせっかく寒いドイツから暑い日本に来たのに、こちらでも雪なんか降ってがっかりしたんだろうな。だってこんなに雪を歩くのが下手なんだもの。雪道を歩くことがあるなんて思ってなかったって、さっき話してたし。ああ、でも仕方がないんだ。歩いて行かなくちゃスーパーに着かないし、スーパーに行かなくちゃ買い物できないし、買い物できないとご飯作れないし、アスカの作るご飯美味しいし。だからせめてアスカが転んで怪我とかしないように僕が支えよう。決してしがみつかれてラッキーとかアスカ柔らかいとかアスカ好きとか、アスカ柔らかいとか思ってるわけじゃないけど。柔らかいとか。いや、思ってるけど。柔らかいんですけど。……怪我、させないようにしよう。

「あのおねーちゃん、ぱんつまるだしー」

「こぉら。しーっ。雪にまだ慣れてないのよ」

 きゃはは、と笑う幼い子どもとそれをたしなめて微笑ましげにアスカたちを見た母親の二人連れが脇を通り過ぎていく。ほとんど雪の地面に寝そべるような格好をしていたアスカは慌てて身体を起こし、スカートの乱れを直した。正確には彼女のパンツは分厚い生地のタイツの下なので丸出しには語弊があるし、雪には幼少から慣れ親しんでいるのだが、そんなことを幼児に弁解しても仕方がない。やっちゃったなぁ、という顔のシンジと目が合うと、アスカは手近な雪をかき集めて彼に投げつけた。

「あんたのせいよ。早く起きなさい」

「僕はアスカの巻き添えで転んだんだよ。いてて」

 再び彼女が投げつけた雪玉がシンジの胸元でぺし、と潰れた。

「だから、あたしをもっとしっかり支えてよ」

「あ、はい」

 なぜかかしこまって返事をすると、夕焼け空みたいな肌の色になったアスカを起こそうとシンジは手を差し伸べた。すると黒塗りの自動車が横付けして、開いたウインドウから隣家の新郎の顔がのぞいて言った。

「や、シンジくんとアスカちゃん。スーパーまで買い物かい? 歩きにくいだろ。よかったら乗せてくよ」

 黒塗りの自動車はネルフの公用車だ。仕事で外に出ていた帰りなのだろう。予想外な積雪のために交通網はほぼ麻痺している。もともとは雪の多い山地ということもあって季節がなくなってしまう以前に使っていた冬用タイヤやチェーンを引っ張り出してきた住民たちや、限られた公共機関の車両だけが現在道路を走っているのだが、さすがにネルフはその点で不自由していないようだった。
 いたって人の良さげな日向マコトの視線が自分たちのひどいありさまを観察するのを自覚しながら、二人はほぼ同時に答えた。

「ううん。あたしたちは大丈夫」

「雪って初めてだから、歩きたいんです」

 にこにこと輝くような笑顔を見て、マコトはくすくす笑って訊いた。

「そうか。楽しい?」

 これには二人ともすぐには答えられなかった。楽しい、と正直に答えてしまうとこの状況を仕方なく受け入れているのだという言い訳を破ってしまうことになるからだ。
 二人が「ああ」とか「うう」とか口ごもっていると、マコトの背後からひょいと顔を出した妻のミサトがしたり顔で言った。

「二人とも。帰ったらすぐに濡れた服を脱いでお風呂。それから傷の治療よ。雪合戦は家の前か公園で。しもやけ、あかぎれになるかもだから、クリームを塗りなさい。いいわね」

「は、はい」

「分かったわよ。何よ、ママみたいに」

 二人の反応を見てにっこりと笑ったミサトは、もう一言付け加えて顔を引っ込めた。

「じゃ、お二人さん。楽しんで。雪でもそれ以外でも、何でもね」

 呆気に取られる二人を置き去りにして、肩を竦めてウインドウを閉めたマコトは車を出した。遠くなっていくその影を二人はしばらく馬鹿みたいに眺めていた。あとになってから、あれは「私も楽しんでるわよ」というメッセージだと気付いたのだが、それはともかく、二人の道のりはまだまだ長い。改めてアスカの腕を引いて立ち上がらせると、シンジは毅然として言った。

「行こう、アスカ。僕がちゃんと支えてあげるから」

「シンジ……」

 天国のママ、ドイツにいるパパ、ママ・マリア。アスカは幸せで死にそうです。まだ望みが叶ったわけでもないのだが、彼女は感動で一杯だった。
 やっぱりアスカ神社のご利益は最高ね。さすがあたし! 最初に引いたおみくじはなしだわ、なし。ああもう、踊りだしたい気分。
 こんな風にアスカは、そしてシンジも雪道のハプニングにもめげずに楽しんで浮かれていたのだが、残念ながらこれで済むわけはなかった。雪に慣れているはずの彼女が異様に足を滑らせるのは、引いたおみくじを破り捨てた彼女へのミナカタの神罰なのだ。当然アスカ神社のご利益などというものは存在しない。この後、家で熱いお茶をひっくり返してシンジの前でスカートとタイツをずり下げる羽目になるとは、まだ思いも寄らないアスカであった。他にも料理を失敗して代わりに作ってもらったり、今日一日はとことん失敗し続けるのだが。
 やれやれ。神罰覿面、ご愁傷様。とカヲルはアスカに向かって手を合わせた。
 これがすべてミナカタの仕業だと分かっているのだ。

「何をしておる、渚カヲル。早う行かねば礼を失する。置いてゆくぞ」

 下界の状況は見えているはずなのに、見事なくらいにそら惚けた顔でミナカタはカヲルに呼びかけた。そんなミナカタの態度に、ひょっとして、と彼はふと気付いた。アスカは確かに失敗の連続に陥っているようだけど、そのわりにシンジはいい目を見ているようだし、結果的にはアスカにも上手い具合に転がっているようだ。もちろん、身体にこしらえる青痣はひとつやふたつでは済まないだろうが、今の彼らなら青痣だらけになったって本望だと感じているのではないだろうか。
 えこひいきはしないと言っておきながら、なかなか味な真似をするじゃないか。

「今行きます。それにしても……」

 カヲルは改めて下界のシンジとアスカを見下ろした。二人お揃いのてっぺんにぽんぽんのついた毛糸の帽子がふらふら蛇行しながら進んでいき、危なっかしいと思った矢先に案の定、すってんと転んだ。いい加減何度目になるか分からず身体も痛いはずなのに、それでもカヲルの元まで二人の笑い声が届いてきそうだった。
 実際に彼らは道なりにずっと笑って来ていたのだ。本人たちは気付いているのか、いないのか。

「やっぱりいいなぁ、人間は。僕はずっとそう思っていたよ、シンジくん」

「こりゃっ! 本当に置いてゆくぞ、この灰色頭め!」

「はーい。すみません」

 今度こそカヲルはミナカタのあとに追って再び飛び始めた。
 まったくこれじゃから夷狄の神はどうしようもない、とミナカタは考えていた。神社という結界の中から通常出ることのないミナカタにとって、カヲルはもってこいの退屈しのぎだった。強力な力を宿しているのに、その自覚が驚くほど薄い少年姿の神を見て、何とも鍛えがいのある、と胸が高鳴るほどだった。次の出雲では神々の話題を独占することだろう。この国へ現れた新たな神だ。それを育てられるなら鼻が高いし、自らの格も上がる。
 だが、どうやら諦めねばならないようだ。カヲルはどう考えても神に向いていない。彼の人間への強い憧憬は、そんなものは微塵もないミナカタも心を動かされるほどだ。それほどまでに人間になりたいのなら、そうしてやるのが彼の幸せだろう。
 くしくも前日にカヲルと交わした会話が思い起こされた。人間の幸せが分かるかと問うたミナカタに、顔を見れば分かるとカヲルは答えた。今、彼の顔を見てミナカタにも分かるのだった。人間になるのが彼の幸せなのだ。
 ちょうど折りよく、彼の神社にある願いを掛けていった人間がいた。

「元気な息子を授かりますように。あの子との約束を果たせるよう」

 碇リツコという名の、まだ子を産んだことのない女だった。彼女がどういう人間なのか、すべては自然と意識の中に流れ込んできて知ることができた。情が深く、罪とは何かを知る人間だった。
 同じ願いを掛けた人間が実は他にも四人いる。一人はリツコの夫であるゲンドウ。限りなく深い後悔の中に半生を生きた人間だが、ようやく希望の光を取り戻しつつあった。もう一人は碇レイ。この半神半人の少女に弟を授けるというのが、リツコのいう約束だった。
 さらにシンジ。リツコにとってはレイとともに血の繋がらない息子ということになる。彼もまた、義理の母子のために同じ祈りを捧げていた。ミナカタには彼に借りがある。むろんミナカタのみではないのだが、長い年月見守ってきたこの土地を幾度となく救ってもらった恩がある。神とはいえ、いや、神だからこそ、その恩に報いないわけにはいかなかった。
 そして、最後にアスカだ。この少女については無礼者だと思わなくはないのだが、力及ばずといえども恩を受けているのはシンジと同様だったし、何より好いた男のために自分自身には何の得にもならない願いを一心に唱えるその心根にミナカタは感じ入った。かつてはそういう人間ではなかったこともすべて分かっているのだ。それだけに、人間とはこういうものかとしみじみと思ったのだった。
 叶えずにはおられまい。たとえ儚く他愛ない生き物だと知っていたとしても。それだけではないとカヲルは信じているのだから。ミナカタでさえ信じかけているのだから。

「出雲へのよい土産話ができた、と。それで満足するほかないかのう」

「え、何か仰いましたか?」

「何でもないわ。どれ、見えてきたな。くれぐれも粗相のないようにな。女神はお美しいが、お怒りになれば我ら消し炭の憂き目に遭うぞよ」

「神様というのも世知辛いんですねぇ」

「ほっほっほっ。そうじゃ。気に入りの名を考えておくのじゃぞ」

「名前? 女神様へ自己紹介するためですか?」

 そなたが次に生まれてきた時の名前とするためよ。
 とは、口に出して教えないミナカタであった。唯一の友のところへ行きたいという願いに嫉妬しているのだ、とは神の威厳に掛けて到底認めるわけにはいかなかった。













あとがき

 最後までお付き合い下さって、まことにありがとうございました。

 ジュン様の「The scenes between EOE and LAS −御神籤−」を拝見して、『待ち人来ない』おみくじという設定が私にサンダーボルトでした。
 読み終わった五分後には頭の中でお話が出来上がっていたので、あとは書くだけでした。だから、私にしては珍しいことにすぐ書き上がりました。
 しかし、この設定を自分でも使いたいと思っても、事前にジュン様の了解を取らなくてはなりません。快諾して下さったジュン様。ありがとうございました。出来栄えに関しましては目を瞑って頂けるとありがたいところです。
 前半部分はほとんどエヴァなど関係ない始末になっておりますが、ご容赦頂ければと思います。ミナカタって誰ですかと。狐耳とか安直ではないですかと。仰らないで下さい。
 ちなみに建御名方神(たけみなかたのかみ)で調べると、ちゃんと出てきます。一応のモデルを探すくらいの気遣いは私でもするのです。もしも興味がおありの方がいらっしゃれば、ぜひお調べになってみて下さい。
 対する後半でまるで言い訳のような怒涛の展開になってしまいました。多少やり過ぎました。

 ジュン様の元の作品を崩しすぎはしなかっただろうかと、それだけが心配ですが、あくまで私のお話とジュン様の作品は別としてお読み下さい。

 それでは、お読み下さった方々。ジュン様。
 改めて、ありがとうございました。

 rinker

 





リンカ様から短編を頂戴しました。
拙作からインスピレーションを受けていただいたそうで嬉しいやら何やら。
それに何とか掌話集にも私以外の方が(微笑)。

あとがきで別物と仰ってますが、この設定は取り込ませていただきましょう。
本当にありがとうございました、リンカ様。
これは管理人としてではなく、読者として。

(文責:ジュン)

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