リンカ     2009.12.04



 




2.碇シンジ


 僕がその哀れなぬいぐるみを見つけたのは、放課後にスーパーマーケットに寄ってから帰宅した日だった。食料品の入ったポリ袋をひとまず台所に降ろし、着替えたりするために自分の部屋へ向かおうとしていたら、ちょうど僕の部屋の向かいのアスカの部屋から、勢いよく飛び出してきたぬいぐるみが壁に当たって床に落ちたのだ。そのままアスカの部屋の扉はぴしゃりと閉まった。
 ああ、また怒っているんだな。僕はため息混じりにそう思った。
 妙な経緯から葛城ミサトという人の家で同居することになった惣流・アスカ・ラングレーという女の子は、とても怒りっぽい。しかも、とんでもなく手が早い。黙っていれば可愛らしい女の子なんだけど、そんなことをいえばやっぱり彼女は怒るだろう。だから僕は何もいわない。
 僕は床に落ちたぬいぐるみを拾い上げて観察した。大きさがおよそ40cmくらいの不細工なサルのぬいぐるみだ。ずいぶんとよれよれで薄汚れてさえいる。しかし、先ほど部屋から飛び出してきた様子から察するに、このサルがこんななりをしているのは無理もないことかもしれない。きっと長年に渡って彼女から理不尽な暴力を受け続けてきたのだろう。薄汚れたサルのくたびれた顔に思わず同情の視線を送ってしまう僕だった。
 それにしても、アスカがぬいぐるみを持っているというのは、僕にとってちょっとした驚きだった。何しろあのアスカだ。頭がよくて高慢ちきで、一人だけ大人でいるつもりで他人を見下していて、エヴァンゲリオンパイロットであること以外に何の価値も見出していないような女の子なのだ。そんな彼女に子どもらしいぬいぐるみだなんて、ミスマッチにも程がある。
 でも待てよ、と僕は思った。よくよく考えてみれば、僕はアスカのことなんてほとんど何も知りはしない。彼女が直接態度で表すことのほかは、何も知らないのだ。そうしてみると、たとえ彼女の部屋にぬいぐるみがあろうと拳銃があろうと、驚くようなことではないのかもしれない。
 それはともかく、捨てられたままにしておくのも忍びないということで、ひとまず僕はぬいぐるみを自分の部屋に持ち帰った。またあとでアスカの機嫌が直ったころを見計らって返せばいい、とそのときは思っていた。
 ところが、どうやらアスカの強情さをみくびっていたらしい。夕食中に切り出してみれば無視をされ、翌日の学校で話しかければ「いらない」「知らない」「どうでもいい」の三連発。数日経っても彼女の態度は変わる気配を見せず、果ては「捨てるなり何なりあんたが好きにすれば」と来た。
 そうはいっても、まさか本当に捨ててしまうというわけにはいかない。いざ捨ててしまってから、急にアスカの心が変わったりしたらそれこそ大変だ。何て気の小さなことをと思われるかもしれないけれど、彼女がいかに意地っ張りで素直でないかということだけは身に染みてよぉく知っている僕としては悩ましいところがある。
 というわけで、対処を決めかねたまま、くたびれた不細工なサルは僕の部屋に居座り続けた。
 毎朝目が覚めると、部屋の片隅に彼は(仮に彼と呼ぶことにしよう)佇んでいた。視界に映る彼の姿に思うことは同居人の少女のことだ。
 学校から、あるいはネルフから帰宅して部屋に戻ってくると、やはり彼は朝と変わらない姿でそこにいた。
 僕は部屋で着替え、食事や入浴のために部屋を出て行く。それらが終われば部屋に戻り、中学校の勉強をする。または本を読む。あるいはS-DATで音楽を聴く。
 彼は無言でそんな僕を見つめている。僕もときに彼の目を見返す。そして、アスカのことを考える。
 彼女は一体いつからこのぬいぐるみを持っていたのだろう。彼女にとってこのぬいぐるみは何なのだろう。彼女にこれを買い与えたのは彼女の両親なのだろうか。かつては大切にされていたのだろうか。
 思考はぬいぐるみに関することから次第に外れていく。見たことのないドイツの風景。そこにいる、いたはずの今より幼いアスカの姿。彼女の両親の姿。その両親に挟まれて笑っていたはずの無邪気な少女。その少女がなぜエヴァンゲリオンなどという兵器に乗ることを選ばなければならなかったのか。どんな思いで海を越えてきたのか。
 僕は何一つ知らない。

「きみは全部知っているはずなのにね」

 ふと囁きかけてみる。
 もちろん彼は何も答えない。
 そういえば、と僕は思い出す。僕も昔ぬいぐるみを一つ持っていた。先生の家に預けられたばかりのころ、そのぬいぐるみだけが僕の味方だった。幼い子どもにとっては一抱えほどの大きさだった彼を抱いて毎夜眠ったものだ。
 あれは一体どうしただろう。急に甦った記憶の懐かしさに後押しされてか、僕は先生のところへ電話をかけることにした。考えてみれば父さんに呼ばれて第3 新東京市に来て以来一度も先生に連絡していない。あの先生の性格からして気にしたりはしていないだろうけど、十年間も世話になっておきながらこれではいくらなんでも不義理というものだ。とはいえ、夜分遅くに連絡してきたかと思えば話題が小さなころに持っていたぬいぐるみの所在では、呆れられるのは目に見えているけれど。
 耳に押し当てた受話器から呼び出し音が流れている間中、僕はそんなことを悶々と考えていた。
 十回くらい呼び出してからようやく出てきた先生の声を数ヶ月ぶりに耳にして、不覚にも懐かしさが込み上げてきた僕は思わず最初の言葉を噛んだ。

「シンジくんですか?」

 すると、こちらがもしとも口にしないうちから先生のほうが切り出してきた。さすがに十年も一緒に暮らしていれば呼吸だけでも相手を見分けられるらしい、と妙に感心する一方で、僕を呼ぶときは必ずくん付けを忘れない先生に対して、常に他人としてのよそよそしさを感じていたのだった、ということも思い出した。今僕を呼び捨てにするのは父さんと数人の友達、それにアスカしかいない。けれど、彼らにそこまで親しみを感じているかといえば、それも微妙なところではある。

「はい。久しぶりです。先生」

「ええ。……元気にしていますか?」

「大丈夫。こっちでの生活は何も問題ないです」

 口にしたあとになって、それが何度か耳にしたことのある父さんの口癖だと気付いた僕は妙な気分になった。どちらかといえばこの言葉は、問題を山ほど抱えている事実を隠すための方便という気がする。
 しかし、もちろんそんなことを知るはずがない先生は、構わずに会話を続けようとした。

「ああ。それならいいんです。何しろ急だったものだから。それで、今日はどうしました?」

「それは、えっと、ずいぶん長く連絡をしていなかったと思ったから。ごめんなさい。ここに来てから色んなことがあって忙しくて。ううん、本当は電話する時間くらい作れたはずだけど、思いつかなくて。今ごろになって、と先生は思うかもしれないけど」

「いいんですよ。便りがないのはよい便りともいいますから」

「あの、ところで」

「はい?」

「ぬいぐるみ」

「ぬいぐるみ?」

 気がせいて単語だけをぶつける僕のあとを先生は語尾を持ち上げて繰り返した。

「えっと、僕が昔持ってたぬいぐるみ、今どこにあるか分かりますか」

「ああ、そういえばありましたね」

 僕がぬいぐるみを抱いて寝ていたころのことを思い出していたのか、少し間を空けてから先生は続けた。

「捨ててはいないはずなので、シンジくんの部屋の押入れの中か、そうでなければ納戸にしまってあると思いますが。ぬいぐるみがどうかしました?」

「あ、別にどうっていうわけじゃなかったんだけど」

 確かにこんなことを訊いて一体僕は何をしたかったのだろう、とふと我に返った。本人でさえそうなのだから、先生からすればもっと面食らっただろうに律儀にも宅急便で送りましょうかといってくれた。僕はそれを丁重に断り、もう二言三言だけ取りとめもないことを話して電話を切った。
 翌日、ネルフのエレベータで綾波レイと一緒になった。彼女は僕の同級生で、同じエヴァンゲリオンパイロットだ。寡黙で、そのくせ妙に人を惹き付ける不思議な女の子だ。といっても、僕と彼女は特別親しいわけではない。彼女が唯一親しみを覚えているのは僕の父さんくらいのものだろう。それを考えると少ししゃくだけれど、別に彼女が悪いわけでもないのでそのことで彼女を責めたりはできない。
 エレベータの中は静かだ。一定の速度でシャフトを下降していく音だけが振動とともに響いている。綾波は扉のすぐ脇に、僕は奥の角に立っていた。彼女はぴんと背筋を伸ばし、まっすぐに前を見ていた。迷いなどどこにもないその後姿にぶしつけな視線を送りながら、僕はふと彼女の過去を想像してみようとした。
 今は超然としている綾波にもあどけないころがあったのだろうか。舌足らずな言葉で、子どもらしいわがままを言ったりすることがあったのだろうか。もしもあったとするならば、それを聞いたのは僕の父さんだろうか。

「ねえ、綾波」

 ガラスでできた彫像のような背中に向かって呼びかけると、彼女は振り向かないまま答えた。

「何」

 彼女の声はまさしくガラスの彫像を金属の棒で弾いたみたいな音色だった。

「綾波ってぬいぐるみ持ってる?」

 我ながら馬鹿なことを訊いていると分かっていた。何しろあの綾波レイだ。殺風景な彼女の部屋にもしも可愛いぬいぐるみが隠されていたとしたら、その衝撃はアスカの比ではない。
 案の定、彼女の答えは否定だった。

「持ってないわ」

「一応訊くけど……、ぬいぐるみが何かは知ってるの?」

 すると、綾波は明らかに馬鹿にされたことに気分を害した顔でこちらを振り返って答えた。

「ぬいぐるみ。中に物を入れて包み込むよう周囲を縫ったもの。特に綿などを詰めて動物などの形を象った玩具」

 なるほど確かに綾波はぬいぐるみを知っていた。けれど、彼女の説明は明らかに辞書の知識を丸暗記しただけのもので、あくまで言葉の上では知っているという程度のものでしかなかった。このぶんではぬいぐるみの現物を実際に見たことがあるかどうかも怪しい。

「欲しいと思ったことはある?」

「別に」

 そっけなく彼女は答えて、ぷいと前を向いてしまった。
 ちん、と軽快な音がして、目的の階に到着したエレベータのドアがひとりでに開いた。
 すたすたと(彼女は意識していないのだろうけど)早歩きで前を行く綾波のあとを追いながら、僕はもう一度先生のところへ電話をかけようと考えていた。とあるお願いをするためだ。我ながら馬鹿げているとは思うけれど、結局のところ、僕たちを取り巻く今の状況は何もかも馬鹿げているのだ。それならもう一つ馬鹿げたことが増えたところで、気にすることなんてないじゃないか。




− 続く −

 

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