リンカ     2010.01.31



 




6.赤木リツコ


 世の中には絶対とか確実とかいえることは意外と少ないものだが、わたし自身について一つだけ確実にいえることがある。
 それは、死んだらわたしは地獄に落ちる、ということだ。
 ……もちろん、地獄があると仮定しての話だけれど。
 二日ぶりの睡眠を目前に控えて吸う煙草の煙は妙に濃く粘っこくて、顔の前を撫で回すように漂っている白いそれをわたしは何度か手のひらで追い払った。連日の過負荷によって心身ともにショート寸前で、今にも倒れ込んでしまいそうなのに、頭のどこかが妙に冴え冴えとして落ち着かない気分だ。
 仕事はまさしく積み上がり続ける石の山のようだった。
 前回の使徒との一戦で大破したエヴァンゲリオンの修復を始めたのがつい一週間前だ。
 どうしても素体の一部の取替えをしなくてはならなくて、交渉の末ドイツから空輸を受けて修復作業を本格的に開始したのが六日前。
 五日前には本部のスーパーコンピュータ・マギにシステムエラーが発生した。専門家はわたしだ。その解決に丸一日費やした。
 アメリカ支部からS2機関研究に関する協力を求められたのが四日前。わたしは本部のコンピュータで一からプログラムを組んだシミュレーション実験を繰り返しながら、何度もアメリカ側とオンラインで検証を行い、アメリカ支部の周囲百キロ圏内が蒸発するのをすんでのところで防いだ。
 三日前、碇司令から綾波レイを使用したダミーシステム構築に関する報告書を出すよう命令があった。ダミーシステムについては理論はあるが実現不可能というのがわたしの正直な見解だが、それを三秒で書き終える代わりに、じめじめして嫌なにおいのするセントラルドグマに半日こもって前向きでもっともらしい報告書をでっち上げ、残りの半日はわたしが地底にこもっている間に欠陥があることが発覚したエヴァ用新兵器の改良のために兵器部門の科学者と会議。結局成果は出ず、新兵器は当面凍結されて課題は今後に持ち越された。
 休みなしの急ピッチで進めていたエヴァの修復に一応目処が立ちそうな気配が漂ってきた二日前、新しい使徒が現れた。華々しく戦闘に出たエヴァは見事に使徒を撃破、自らはまた大破。修復もまたやり直しだ。
 さらに昨日はエヴァ修復計画の指示を出し、その後回収した使徒の残骸をラボで調査し、マギのシステムチェックを行い、綾波レイの定期メンテナンスと司令への報告、ダミーシステムのシミュレーションに何十回と失敗し、それらの業務の合間に先日の礼を伝えてきたアメリカ支部長の笑えないジョークに顔筋運動をしたり、作戦課長をしている友人のつまらない愚痴にまで付き合わされたりして一日を費やした。
 そして今日、引き継げるものはすべて同僚や部下に引き継いでわたしは仮眠室に立てこもった。もう誰にも邪魔されることはない。ここで最近の睡眠不足を一気に解消し、目覚めたら久しぶりの休暇に入るのだ。
 フィルター手前まで吸った煙草を仮眠室に勝手に持ち込んだ私物の灰皿に押し付け、休暇に入る前の最後の一服を終えたわたしは、窮屈なタイトスカートとストッキングから下半身を脱皮させ、シャツのボタンを真ん中まで空けて胸を締め付けるブラジャーを抜き取ってぽいと捨て、化粧落としコットンでおざなりに顔を拭いてから、気持ちいいシーツの上に滑りこんだ。そして、胸一杯に吸い込んだため息を吐き出すか出さないかといううちに、ぶつんと意識は途切れた。電源が切れたコンピュータみたいに。 



 ネルフでの仕事は確かにかつてのわたし自身が望んだものだ。在学中からわたしは自ら志願して、得体は知れないが間違いなく当時最先端の技術を所持していた巨大で強力な組織の一員となることを決めていた。
 そこに母がいたから、というのも大きな理由の一つだ。わたしの母ナオコは科学者だった。それもとびきりの天才だった。当時誰もまともに研究などしようとはしなかった人格移植OSを搭載した有機コンピュータ・マギシステムをほとんど独力で完成させたのは母のあまりにも有名な伝説だ。わたしは科学者として母をほとんど崇拝していたといっていい。彼女と一緒に働けることは非常な喜びだったし、また科学者として母を超えることが夢だったわたしにとって他の場所で働くことなど考えられなかった。初めは部下として働くことになるが、いずれは母に取って代わり、母を越える功績で科学史に名を残すことがわたしの目標だった。
 しかし、今のわたしの姿を十年前のわたしが想像していたかといえば、それは否定せざるを得ない。崇高な大義と誇りに溢れていると考えていた仕事は、実際にはそうではなかった。
 母が突然亡くなったのはわたしが当時ゲヒルンと呼ばれていたこのネルフへ入ってしばらくしてのことだ。
 まだ在学中のとき、卒業後は母のもとで働くつもりだと伝えにジオフロントを訪問したことを強く記憶している。ちょうどマギシステム完成が現実味を帯び始めていたころだ。。
 実はわたしにとって、母としての赤木ナオコの印象はごく薄い。小学校へ上がったころから、わたしは母方の祖母のもとへ預けられていた。父はすでに事故で故人となっており、研究に忙しい母は満足にわたしの面倒を看られなかった。最初こそわたしに会うため頻繁に祖母の家と職場近くに借りたアパートとを行き来していた母だったが、次第にその足は遠のいていった。わたしもまた、いつも仕事に追われて疲れた顔をしている母に甘えるのを遠慮するようになり、その代わりとばかりに祖母に懐いた。
 子どもを放ったらかしにして仕事に没入する様子を内心でどう思っていたかはともかく、祖母は娘のことを悪くいうようなことはしなかった。これは大人になったあとでわたしが想像したことだが、たぶん祖母は娘への非難の気持ちを孫のわたしに感染させてしまうことを恐れたのだろう。子どもは大人の悪意を容易く吸収して自らもそれを纏ってしまう。自分を捨てた母への憎悪、母に捨てられたことから来る劣等感や攻撃的な感情、そういったものから祖母はわたしを守ろうとしていたのだ。
 今にして思えば、事実祖母はわたしを肯定することに腐心していた。級友が親のことを煙たがって語るときによくありがちな、ああしろこうしろと口うるさくされたことなど一度もない。ただ祖母は、わたし自身がよく考えて決断するよう促し、見守るだけだった。そしてひとたびわたしが決断すると、それが世の中の道理とかに照らして明らかに間違っているという場合でない限り、支持して認めてくれた。その過程で、わたしはわたし自身の価値というものに対する自信を得られたのではないだろうか。
 わたしが母と同じ道に進むと決めたときでさえ、祖母は優しい微笑みを浮かべて認めてくれた。本当は反対したかったのかもしれない。思い返せば、そのときの祖母の微笑みはどこか悲しげなものだったようにも感じられる。しかし、輝かしい未来しか見えていなかった当時のわたしは、祖母の愛情に背中を押されてゲヒルンの母のもとを訪れたのだ。
 久しぶりに会った母は少し痩せてはいたが、表情には充実したものがあった。一緒に働きたいというわたしのことを喜んでくれたし、珍しく母親らしいことまで口にしていた。その姿を見て、研究三昧の母から娘としては放置されてきたわたしは、これからはきっと彼女と新しい関係を築けるだろうと期待を抱きさえした。
 まさか一緒に働き始めてやっとこれからというときに死んでしまうことになるなんて想像もしていなかった。
 結果的に母のいなくなった職場でわたしは頭角を現して瞬く間に重要なポストを手に入れた。碇司令の真の目的に触れることのできる重要で、そして汚らわしいポストだ。彼はそれをわたしの純潔と引き換えにねじこんで手放せないよう仕向けた。が、この話は不快なので思い出したくない。
 連日の激務に困ぱいし仮眠室で眠るわたしは、夢の中で駅のプラットホームに一人立っていた。駅には列車が停車していて、わたしはプラットホームからそれを見ているのだ。停車した列車は扉を開けて乗客を待っている。わたしの足元には大きなカバンが一つ置かれている。ぽっかりと口を空けた列車の扉を見つめながら、わたしはそこから動き出そうとはしない。ホームにはベルがけたたましく鳴り響いている。発車時刻を知らせる合図だろうか。しかし、列車は扉を開いたまま動き出そうとはしない。わたしもまた縫い止められたように動き出さない。扉を開けて待つ列車の中は何も見えない。ベルがいつまでも鳴り続けている。
 目蓋を持ち上げると急に意識がはっきりして、ベッド脇に置いていた携帯電話が鳴っていることに気付いた。夢の中でしつこく鳴り続けていた駅のベルはこれだったのだ。一体何時間くらい眠れたのだろうと、夢の光景がまだこびりついている頭で考えながら、ベッドに横たわったままでわたしは電話に出た。

「はい。赤木です」

 まだ寝ぼけている声をしゃっきりさせるために軽く咳払いをする。

「わたしだ。赤木博士」

 その低い声を聞いて、わたしは飛び起きて声を整えた。

「司令」

 寝乱れた髪をほとんど無意識に撫でつける。脱色させた髪は猫の毛のように柔らかくわたしの指に絡んだ。

「まだ本部にいるのか?」

「ええ、はい。仮眠室で眠っていたものですから……、何かございました?」

 またもや問題発生だろうか。
 わたしは舌打ちするのをかろうじてこらえた。このところトラブルに次ぐトラブルで満足な休みも取れていない。もう二週間近く自宅にさえ帰っていないのだ。技術部門のトップにいるわたしにすべての技術的問題の解決を委ねたくなるのは無理もないし、また司令の秘密に係わる事柄であれば否応なしにわたしが対応せざるを得ないのは事実ではある。だが、いい加減にしてちょうだいと恨み言の一つもいいたくなるのは人情というものだろう。しかし、命令を下す碇司令は他人の恨み言になど何の痛痒も感じない人間なので、いくら恨みに思おうと無駄な足掻きなのはすでに分かりきっている。
 わたしは久しぶりの休暇を早くも諦めながら司令の言葉を待った。

「赤木博士は今日から休みだったな?」

「はい」

「ではその前に一つ仕事を片付けてもらう」

 やはり仕事なのだ。続けられた碇司令の言葉はいつものように簡潔で、有無をいわせない調子だった。

「レイの家に行ってくれ」

「……レイの家に、ですか? 失礼ですが司令、それはどのような」

「そこでレイの生活状況を確認してきてもらいたい」

 呆気に取られて言葉が見つからず、わたしは金魚みたいに口をぱくぱくさせた。
 生活状況の確認だって? 一体何の冗談だ、これは?

「彼女の身辺に何か問題でもあったのですか?」

「だからそれをきみに確かめてもらいたいといっている」

「ですが……」

 普段どんなに憎々しく思っても碇司令の言葉に逆らうことのできないわたしが、このときは珍しく食い下がった。自分でもことさらに意識した結果ではない。認めるのはしゃくだが、おそらくはレイに対する嫉妬のせいだろう。ともに碇司令の道具として使われる身だが、わたしに対するのとレイに対するのとでは明らかに碇司令の態度には違いがある。
 むろん碇司令がレイを愛しているなどと考えてはいない。彼は綾波レイという人形を通して、そのDNA塩基配列の基本構築モデルとなった妻ユイの影を見ているに過ぎない。
 使徒とヒトのハイブリッドである綾波レイを生成する際に、当時エヴァンゲリオンと接触があった唯一の人間である碇ユイの遺伝情報をモデルとして使用したことは、確かに合理的な選択ではあったが、一面でそれは碇ゲンドウという人間のおぞましい狂気を増長させる結果に繋がったのではないだろうか。
 セントラルドグマの培養プラントを前にしたときの彼の心境たるや想像を絶するものがある。
 しかし、たとえどのような要因から来るものであったとしても、レイに対する慈しむような態度と、わたしへの一貫して冷淡な態度との間の温度差が厳然としてあることには変わりはない。
 これがわたしには許しがたい。
 愛を求めているのではない。分かっている。わたしは勘違いしたりしない。
 ただ屈辱なのだ。あのような男が一度ならずわたしの身体をいいようにしたという事実がいっそう屈辱なのだ。あの焼けつくような行為のさなかにさえ、あの男の寒々と凍てついた心を肌で感じずにはいられなかったという事実が。
 傷つけられたのは愛じゃない。わたしのちっぽけなプライドだ。
 だからわたしは、あの哀れなレイにさえ醜く嫉妬せずにはいられないのだ。

「不服か、赤木博士」

「いえ、そのようなことは」

 どうせ命令に逆らえないのなら、できるだけ碇司令を焦らして困らせてやりたい。言葉を濁すわたしが考えていたのはそんなことだ。
 分かっている。これはつまらない嫌がらせだ。他人が知れば『あの赤木博士が』と呆気に取られるだろうか。でも、構わない。わたしはこういう女なのだ。
 ところが、どうやらわたしをいいくるめる手間が惜しかったのか、あるいはよほどこの問題を早く片付けたいのか、碇司令が珍しく本当のところを打ち明けた。

「レイとシンジたちとの接触をわたしは特に禁じてはいない。その結果、計画に支障が出るようなことがないかどうかを確認したいのだ」

「つまり、気になることがあるとおっしゃる?」

「昨日……」

 これまた珍しいことだが碇司令は言葉に迷って口ごもった。あの傲岸不遜な絶対者がである。
 わたしは休みを潰されるかもしれないということをすっかり忘れ、息を止めて彼の言葉を待った。

「レイが昔のことをわたしに話した」

「昔とおっしゃいますと、つまりセントラルドグマの」

「そうだ。そのころの話だ。別にわたしが水を向けたわけではない。彼女が自分から切り出したのだ。出し抜けにな」

 なるほど、それは驚きだ。大事件だ、といってもいい。
 わたしの知っているレイは自分から会話を作り出すほど情緒能力が高くないはずだ。それも話題が過去のこととなるとさらに驚かざるを得ない。レイにとって重要なのは来たるべき目的にその身を捧げることのみだ。そのために作られ、そのように育てられたからだ。従って彼女は自らの生命や人生にほとんど関心を抱いていない。当然のことながら、そんな彼女にとって『過去を思い出す』などというのはまったく必要も意味もない行為ということになる。

「シンジが何か詮索でもしたのかもしれない。二人の会話の一つ一つまで把握することはできないが、もしわたしの目的にとって望ましくない変化が起きているのなら、それを知っておかなくてはならない。結果如何によっては対応を変えることもあり得る」

「分かりました」

「ああ。では任せたぞ」

「ところで司令」

「何だ」

「レイは何を話したのですか?」

 碇司令が苦虫をいくつか噛み潰している間、わたしは片手で箱から煙草を一本抜き取ろうとしていた。

「詳細はすぐ報告しろ。それが済めば休暇に入っていい」

「了解いたしました」

 相手側が通話を切るのを待って携帯電話を顔から離し、ささやかな復讐を果たしたことに卑小な満足を得たわたしは、咥えた煙草の先に火をつけて大きく吸い込んだ。



 レイの住む幽霊団地はいつ訪れても気味が悪い。朽ちかけた無数の同じ形の建物が規則正しく並んで視界を覆いつくすために、自らの位置もどれだけ進んだかも分からなくなり、この廃墟のような場所に飲み込まれさまよい続けて二度と外の世界へ出られなくなるような錯覚を引き起こすのだ。
 目指す玄関の前にようやく辿り着き、わたしは額に浮かんだ汗をハンカチで拭き取った。日本が常夏の国になってもう十年以上が経つが、いまだに慣れたような気がしない。生まれたときからこの環境で育った者と、わたしのように四季が巡る中で育った者とでは、明らかに適応能力に開きがある。日光に弱いレイでさえ暑さに対しては恐ろしく強いのだ。この点では、寒冷なヨーロッパで生まれ育ったもう一人のエヴァパイロットに同情せざるを得ない。彼女にとってこの国は呼吸しているだけでもさぞや気が立つことだろうに。
 インターホンを押してみるが、何の反応もない。どうやら電池が切れているようだ。確かに訪問者などいないのだろうし、たぶんレイはインターホンの電池が切れていること自体気付いてもいないに違いない。
 今度はノックをして声をかけてみたが、やはり何の反応もなかった。監視護衛からの報告ではレイはすでに中学校から帰宅したということだった。そのあと外出もしていない。ということは家にいるはずだ。
 ノブに手をかけてひねると、鍵はかかっていなかった。仮にも年頃の少女が一人で住んでいるのに玄関に鍵もかけないとはいくらなんでも無用心だ、というのは常識的な感覚であって、どうせレイには通用しないのだろう。
 埃の積もった床に足跡を残し、わたしは部屋の中央から周囲をぐるりと見回した。見事なまでに殺伐とした部屋。必要最低限のものさえ揃っているとは思えない。おそらく生まれ育ったセントラルドグマの研究室に似た環境が落ち着くのだろうが、それにしたってひどいものだ。
 レイの姿は見当たらない。代わりに水音のようなものが聞こえている。シャワーを浴びているのだろうか。
 腰に手を当ててわたしは視線を移動させていき、ある一点でぴたりと止まった。
 それはぬいぐるみだった。クマのぬいぐるみだ。キャビネットの上にちょこんと可愛らしいクマのぬいぐるみが座らされていた。
 これだ。一瞬でわたしは確信した。間違いなくこれが答えだ。この場違いなクマのぬいぐるみが、レイを変えたのだ。
 でも、と解答を得たわたしは眉をひそめた。分からないことはまだたくさんある。そもそもこのぬいぐるみをなぜレイが持っている? 自分で買ったとは考えられない。それはありえない。ではシンジくんが? それが一番妥当な推測だ。しかし、こんな行動は彼らしくない。やはり分からない。
 この家に入ったときから聞こえていた水音が止んだことに、考えに没頭していたわたしは気付かなかった。無意識にクマのぬいぐるみを手に取って持ち上げたところで急に声をかけられ、わたしは仰天してもう少しで悲鳴を上げるところだった。

「レイッ! 驚かせないでよ。ああ、ごめんなさい、今何ていったの?」

 胸を押さえて声のほうを振り向いたわたしが訊くと、手にタオルを提げた丸裸のレイがまっすぐにこちら(というよりわたしの手の中のぬいぐるみ)を見つめて先ほどの言葉を繰り返した。

「クマタローをどうするの」

「クマタロー? ああ、これね。勝手に触ってごめんなさい。何もしないわ。ほら、もとに戻すから」

 弁解してクマのぬいぐるみをキャビネットの上に素早く戻しながら、同時にわたしは冷静さを保とうと必死だった。
 レイはこのクマのぬいぐるみをクマタローと名前で呼んだ。勝手にぬいぐるみに触ったわたしに対して明らかに警戒心を抱いていた。
 あのレイが? わたしは自分の目や耳を疑った。しかし、これは幻覚などではない。彼女は確かにこの取るに足らないクマのぬいぐるみに対して、何らかの執着を抱いている。いや、それとも愛着だろうか。碇司令の目的のためにのみ存在するレイにとって、その目的を果たすことだけがこの世で意味のある唯一のものだ。だが、彼女は今こうして司令の目的には何の係わりもなく役にも立たないクマのぬいぐるみに意味を見出している。
 自らの生命や人生に関心がないから、レイは私物も必要としない。この部屋にある最小限度の物でさえ、入居当時に碇司令が揃えさせた。しかも、その後の生活で新しく物が増えた気配もない。そんな中にあって、明らかにこのクマのぬいぐるみは、場違いもはなはだしい異物だった。
 裸のレイはわたしの隣に立つと、わたしがおざなりにキャビネットの上に置いた『クマタロー』の姿勢を直してきちんと座らせ、さらに慎重な手付きで腕の角度まで調節した。
 これは本物の異常事態だ。

「ねえ、レイ」

「何でしょうか、赤木博士」

 レイはわたしを見上げて従順な返事をした。シャワーを浴びたばかりでしっとりと湿った髪の毛が額や頬に張り付いている。幼い乳房は張りがあり、その丸みが貧弱な手足や折れそうな腰と比べていかにもアンバランスだ。白磁のような顔にひときわ映える赤い瞳はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれている。
 見慣れているはずの少女の裸体になぜか居た堪れなくなったわたしは彼女にいった。

「先に服を着なさい。たとえ家の中でも裸でうろうろするものではないわ」

「了解しました」

 いうことを素直に聞いたレイは回れ右してタンスのほうへ歩いていった。細く白いその背中を眺めていたわたしの胸にはもうずっと以前から抱いている疑問がある。
 レイの美しさは、その遺伝子構築モデルとされた碇ユイのものだろうか。それとも、レイの中にある使徒というヒトでない存在が美しいのだろうか。
 いくら考えてもわたしには答えが分からない。しかし、もしもレイの美しさが畏怖を感じさせるほどに際立っていなければ、もしもレイがもっと人間らしかったら、わたしの心は彼女への嫉妬のあまりぐちゃぐちゃになっていたかもしれない。
 ある意味で彼女の人間離れした容姿はわたしを踏み止まらせていた。それがよかったのか、あるいはいっそう悪かったかはまた別の問題だが。

「服を着ました。赤木博士」

 再びわたしの前に戻ってきたレイの格好は下着にブラウス一枚というものだった。

「下にも何か穿きなさい、レイ」

「必要ありません。下着は穿いています」

 そう、これがレイだ。必要のないことはしない。意味を認めない。むき出しの細い脚を眺めてなかば安堵しつつ、わたしは繰り返しいった。

「一人ならそれでよくても、他人といるときは下着だけでは駄目よ。スカートを穿きなさい」

 見上げてくるレイの赤い瞳はどこまでも無表情だ。

「それは命令ですか?」

「そう取りたければいいわ。命令よ。それに見慣れているわたしはともかく、たとえばシンジくんの前でもあなたが服を着ずにうろうろしたりしたら、きっと彼はひどく困るでしょうね」

「碇くん……」

「あなただって少しは女の子らしくしてもいいんじゃないかしら」

「でも、わたしは女であって女ではないわ」

 まっすぐにこちらを見て告げられた言葉の意味をわたしは知っている。その言葉どおり、ある意味で彼女は絶対に女にはなれないのだ。
 レイには生殖機能が備わっていない。これは完全体であるために生殖が一切必要ない使徒の因子をレイが有しているためだ。
 彼女の遺伝情報に含まれる使徒の因子は、使徒独自の特性を宿すのと引き換えにヒトが持つ機能のいくつかを阻害する働きがある。生殖能力はその一つだ。レイにも子宮や卵巣などの生殖器は一応形だけ備わってはいるが、いずれも未発達で本来の機能は果たさない。
 当然彼女には月経もない。エストロゲンの分泌も少ないため、定期的に投与することによりできるだけ正常な女性に近い成長ができるよう調整されている。しかし、仮に成長したとしても、生殖どころか正常な性交が可能かどうかすら疑わしい。
 もっとも、これまでの彼女の考え方からすれば、それらは無意味で不必要な行為ということになるのだが。
 いずれにせよ、そういった事実をはっきりと自覚し認めた上で、自ら口にのぼらせるというのは、耐えがたい苦痛となるはずだ。ところが、それを彼女は表情一つ動かさず、まるで空が青いとか海が広いとかいうような当たり前の調子でいってのけ、こちらをじっと見つめるのだ。誰より彼女を知っているくせに、女らしくしろなどというわたしを責める色さえ浮かべず。
 十年前のわたしは、自分がどれほど残酷になれるかなんて想像したこともなかった。そして今、わたしは自らがいかに残酷かをよく知っている。十二分に知り、そしてその事実がこんなにもわたしを打ちのめすだなんて、思いも寄らなかった。
 わたしのもっとも大きな罪はレイに対する仕打ちだ。彼女がどういう経緯で生まれ、どんな役割を押し付けられているかを知っているにもかかわらず、ほんの幼児といってもいいころから、本来ならば庇護すべき彼女を道具として扱ってきた。同じ道具なのにわたしは顧みられず、彼女は気遣われるのが許せないと愚かな嫉妬心を抱き、そんなつまらないもののために自らの良心をすべて焼き潰した。
 レイを人格も権利もなく人間ですらない物として扱うことで、みじめな自分を慰めているつもりなのだ。レイなんかよりわたしはずっとましだ、と。
 そんなことをしてもいっそうみじめになるだけなのは理性では分かっている。何もかも間違っているのは百も承知だ。
 しかし、それでもわたしは自分を止められない。皮膚の下の病みただれた醜い心などおくびにも出さず、いつものように冷たい表情でまっすぐに彼女を見下ろし、わたしはいう。

「議論をするつもりはないわ。わたしが来たのは用件があるからよ。スカートを穿いたらベッドに腰掛けてちょうだい。いくつか話があるから」

「はい。赤木博士」

 レイは表情を動かさず服従した。彼女にとって命令とは絶対の言葉だ。ずっと幼いころから自らの意思など持たず忠実に指示に従うよう仕向けられてきたのだから。
 制服のスカート(これしか服がないのだろう)を穿いたレイがベッドに腰を下ろすと、わたしはその正面に立ち、威圧的に腕を組んで話を始めた。

「ここでの生活はどうかしら。困っていることはある?」

「ありません」

「最近何か変わったことは?」

「いいえ」

「そう……このぬいぐるみはどうしたの」

「もらいました」

「誰から?」

「碇くん」

 やはりそうなのだ。わたしはレイを見下ろす目をわずかに細めた。レイはそんなわたしを大きな赤い瞳でまっすぐに見つめ返している。

「なぜシンジくんはあなたにこれをくれたの」

 この質問にレイはやや考える素振りを見せ、それから答えた。

「わたしの部屋が寂しいからと」

「なるほどね。確かにこの部屋は物がなくて殺風景だわ。彼は驚いたでしょう。それで、あなたはいわれるままこれを受け取ったのね」

 わたしの責めるような口調にレイの瞳にかすかな困惑が浮かんだ。これは非常に珍しいことだ。

「わたしはただ、碇くんの言葉が分からなかった。碇くんはわたしを寂しいといった。自分が寂しいことに気付いてさえいないから寂しいと。わたしはそうは考えなかった。でも、クマタローを受け取れば彼の言葉が分かるかもしれないと思ったから」

「だから受け取った」

「そうです」

「あなたがこれをクマタローと呼ぶのはなぜ? まさかあなたが自分で考えたの?」

「彼の名前がクマタローだから」

 要領を得ないレイの答えにわたしはかぶりを振った。

「いいこと、これはぬいぐるみなのよ。ただの物よ。分かっているはずでしょう」

 うんざりといい聞かせるわたしの言葉に、レイはただこちらをじっと見上げるのみだ。

「ぬいぐるみ遊びをする年じゃないでしょう。あなたが考えたの? 答えてちょうだい」

「クマタローは碇くんが付けた名前です」

「シンジくんが?」

「クマタローは碇くんが幼いころ持っていたもの。彼は昔クマタローに寂しさを慰められたといった。だから、わたしにこれをくれた。クマタローならわたしの寂しさも埋めてくれると考えて」

 事態を把握しようとわたしはこめかみを指で揉んだ。
 つまり、このクマのぬいぐるみはもともとシンジくんの昔の所有物だった。彼はレイに対して何らかの感情(彼が説明するところの寂しさ)を抱き、そのためにこれをレイに与えた。レイも素直に受け取った。彼が過去このぬいぐるみをクマタローと呼んでいたこともそのときに教えられたのだろう。そして今やレイの頭の中には空想のお友達が住み着いてしまったというわけだ。
 これは間違いなく碇司令にとって想定外の事態に違いない。しかし、彼の計画にどこまで影響を及ぼすものかはまだ不明だ。わたしはそれを確かめなければならない。

「それでどう。寂しさは埋められた?」

「分かりません」

「あなたは寂しいの、レイ?」

「わたしには……分かりません」

 本当に分からないのだろうか。レイの表情には困惑の色がある。白いブラウスを羽織った彼女の細い肩がひどく頼りなげに見えて、弱いものいじめをしている苦々しさが口の中に広がるようだった。

「それじゃあ、あなたにとってこのクマのぬいぐるみは何?」

「わたしにとって……」

 レイは考え込んだまま答えなかった。
 彼女の水色の髪を見下ろしながら、シンジくんも厄介なことをしてくれたものだとわたしは腹立たしく思った。きっと彼は、純粋にレイのことが放っておけなかったのだろう。あの父親の子とも思えないが、確かにシンジくんは優しい気質の少年なのだ。このクマのぬいぐるみは彼からレイへのささやかな善意の贈り物。
 しかし、この世には優しさだけではどうしようもないことがあり、それどころかささやかな善意が期せずしてより悪い結果を招くこともある。
 深呼吸すると、心が静かになっていくのが分かった。いつもそうだ。わたしの悪意は井戸の底に溜まる水のように暗く静かで冷たい。
 ひどく落ち着いた声で噛んで含めるようにわたしはいった。

「答えられないなら質問を変えましょう。あなたには果たすべき使命がある。分かっているわね、レイ?」

「分かっています」

 レイはわたしの顔をまっすぐに見ていた。

「このぬいぐるみは、あなたが使命を果たすのに何ら役には立たない。そうでしょう?」

「……はい」

「結構。それなら必要のないものを持っていることはないわね。このぬいぐるみはわたしが預かるわ」

 ぬいぐるみを取ろうとわたしが手を伸ばしながら一歩踏み出すと、突然レイがらしくない早急さで立ち上がった。なりふり構わぬその所作にわたしは動きを止めて彼女に視線を向けた。美しい顔が今は青褪め怯えているようにも見え、緊張した身体はじりじりとわたしのぬいぐるみとの間に割り込もうとしている。まるで大切な何かを背に庇おうとするかのように。

「どうしたの。レイ」

 丁寧に筆でなぞるようにわたしはことさらゆっくりと訊ねた。
 レイは青褪めたままこちらを見ている。いや、睨んでいる。彼女からこんな目で睨まれるのは初めての経験だ。

「何か問題でもあるかしら?」

「あ……」

 わたしの問いかけにレイの開きかけた口からか細い声がこぼれた。しかし、続く言葉はない。わたしから視線を逸らした彼女の表情は、初めての反抗をした自分自身に戸惑っているように見えた。

「どうしたの。いいたいことがあるんじゃないの?」

「わたし……」

 水中で空気を求めて喘ぐようにやっとそれだけを言葉にすると、レイは再び石像のように押し黙った。だが、わたしを見る目には相変わらず恐怖がみなぎっている。たとえ言葉にされなくとも、彼女がこれほど雄弁に感情を表したことはいまだかつてなかった。
 今わたしの目の前に命令に絶対服従するこれまでのレイはいない。いるのは、大切な宝物を取り上げられまいと大人に反抗するただの子どもだ。
 もうずっと前からわたしには分かっていた。いくら道具扱いしようが人格を認めまいが、それはこちらの勝手な都合であって、レイにはレイの心や感情があるのだ。ごく普通の少女と感情表現のサイクルが少し違うからといって、決して感情がないわけではない。
 おそらくシンジくんにはそれが分かったのだろう。他にもきっと分かってくれる人間はいるはずだ。レイがもっと他人と交わるようになれば。

「レイ。このぬいぐるみが大切?」

 レイの不安を和らげるため、努めて穏やかな口調でわたしは問いかけた。しかし、それでも彼女はまだ不安げな表情でこちらを凝視している。もう一度問いかけたとき、わたしは微笑んでさえいた。

「重要なことなのよ、レイ。だから正直に答えて。あなたにとってこのぬいぐるみ……クマタローは大切なの?」

 しばらく悩んだ末、レイは恐る恐る頷いた。
 偽りの微笑みの裏でわたしは考えていた。結局、司令の懸念は当たっていたわけだ。今ならまだ無理矢理いうことを聞かせられるだろう。しかし、今後どうなるかは保証できない。レイは自らの大切なもののために碇司令を裏切ることになるかもしれない。クマのぬいぐるみのため。シンジくんのため。あるいは彼女自身のために。
 しかし、決めるのはわたしではない。わたしの仕事はただ確認して報告するだけだ。

「あなたの気持ちはよく分かった。ぬいぐるみを取り上げるというのはなしよ。持っていなさい」

「……はい」

 わたしの言葉を聞いたレイは全身の緊張を解き、安堵の表情を浮かべた。
 だが、安堵するレイに釘を刺すようにわたしは付け加えた。

「ただし、もし碇司令が駄目とおっしゃったら、そのときはあなたも諦めなくては駄目よ。分かっているわね」

「分かりました」

 従順な返事をし、ぎゅっと唇を締めて、レイはこぼれ落ちそうな赤い瞳でわたしを見つめた。
 もちろんいうまでもないことだが、ぬいぐるみを取り上げるのをやめにしたのはレイへの優しさからではない。
 前提として、この件に関してわたしは決定権を持たない。碇司令は確かめて報告しろとだけわたしに命じた。だから、レイに対して勝手な干渉はできない。
 かといって、彼女への軽率な嫌がらせのためにあんなことをいったというわけでもない。第一、痛みを痛みとも思わぬ顔で受け入れる彼女ほどいじめがいのない存在はいない。そういうのは相手が痛がるからこそ楽しいのだ。今回に限っていえば、レイの反応はわたしの嗜虐心をくすぐったが、しかし求めていたのはそんなことではない。
 わたしの言葉の真意はきわめて簡単なところにある。
 レイがぬいぐるみを取り上げられるのを嫌がっているのは明白だが、一方で碇司令はぬいぐるみを取り上げるべきと判断するはずだ。彼の計画にとって今の状況は充分に憂慮すべきものであると、わたしの報告によって彼は知るのだから。
 さて、それではどういう事態が起こるのか。レイは当然司令に強い反感を抱くだろう。ぬいぐるみを持つのを許したわたしとは違って、本当に取り上げようとする司令に対して。しかし、司令にとってもここは譲れない。子どもじみた感傷のために十年来すべてをかけてきた計画を水泡に帰させるわけにはいくはずもない。
 この二人にとって初めての対立だ。
 当然この一件だけで何もかも瓦解するわけではない。最初はいわば小さな棘のようなものだ。しかし、この棘は深く皮膚の奥に潜り込み、取り出すこともできず、触れると鋭い痛みがいつまでも残ることだろう。そして、やがては多くの棘が積み重なり、致命的な凶器となって皮膚を、血管を、心臓を食い破る。初めは小さな棘だったものが、やがてはこの二人の間に結ばれた絆の結び目を断ち切る剣となるのだ。
 これこそ見ものというべきだ。飼い犬どころか道具に手を噛まれるか、それとも……。
 碇司令の計画がどうなろうがわたしは興味がない。レイがどうなるかもだ。
 そんなもの知ったことじゃない。
 誇りと希望に満ちていると信じていた未来は幻想だった。若いころのわたしは確かに愚かだったが、それが罪だったわけではない。しかし、今はもうあごの先まで罪の沼に浸かりきって、そこから抜け出そうと考えることさえできない。
 頭のてっぺんまで沈んだとき、きっとわたしは死ぬ。
 最期の最期まで何一つ自分は正しいことをしたなんて思えないまま、いまわの際に自嘲で唇を歪めながらヤニくさい息で空中に爪を立てて、わたしは地獄に転がり落ちていく。
 だが、そんなことさえ今はどうだっていい。
 自棄を起こしているからではない。わたしは頭の芯まで冷静そのものだ。冷静そのものに、心の底からこの二人の破滅を望んでいる。
 暗い井戸の底にこごる悪意が染み出すように、満足からわたしは醜い微笑みを浮かべていた。



 ところが、そんなわたしの思惑も知らず、美しいレイは童女のような表情を浮かべてわたしから視線を逸らし、背後を振り返って、クマのぬいぐるみに手を差し伸べ触れようとしていた。
 もうこのくらいで司令への報告のための材料は充分だろう。そう判断したわたしは最後にこちらを見ていないレイに声をかけようとした。
 そのとき、電話が鳴った。わたしの携帯電話だ。
 電話に出るべきかわたしは一瞬迷ったが、レイを相手に遠慮などする必要はないと考え、ぬいぐるみに気を取られている彼女から視線を逸らしながら、スーツのポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。

「はい。赤木です」

「リツちゃん?」

 スピーカーから聞こえてきた優しげな声がわたしを呼んだ。

「おばあちゃん」

 電話の相手は祖母だった。応えたわたしの声は少し高くなっていたかもしれない。いつ耳にしても祖母の声はわたしをたまらなく安心させる。祖母の前でだけわたしは子どもに戻ることができる。肩書きも何もないただのリツコに。
 しかし、本当のわたしは薄汚い罪を犯し続ける女だ。そして、それを祖母は知らない。知ったら何というだろうか? たぶん、きっと、祖母は初めてわたしを否定するだろう。これまでずっとわたしの意思を尊重し認めてきてくれたその微笑みが凍りつき、嫌悪の表情に変わることだろう。
 だが、本当のことを告げる勇気はない。祖母の前でわたしは昔のような無邪気なリツコに戻る。戻りたいのだ。つかの間の安らぎを得るために。これもまたわたしが犯す罪の一つだ。

「どうしたの。おばあちゃん」

「ごめんね、リツちゃん。お仕事の邪魔じゃなかったかしら」

「ううん、今は少しなら大丈夫。何かあったの?」

「実は一週間くらい前にもリツちゃんのうちにかけて、留守電に入れておいたんだけどね、リツちゃん忙しいみたいで返事がなかったから、直接携帯にかけようと思って」

「ああ、ごめんなさい。しばらく泊り込みの仕事で家に帰ってなかったから」

 もう二週間近く家に帰っていないのだから、当然祖母が留守番電話に吹き込んだメッセージもわたしは知らない。
 普段祖母が電話をかけてくることはあまりない。曜日や時間にかかわらず激務に追われているため、祖母からの電話に応えられる余裕がわたしにないことを知っているので、邪魔をすまいと気遣ってくれているのだ。その代わり暇があればこちらから連絡を取るようにしてはいたのだが、それもこの半年ほどはまったく絶えていた。使徒が現れてからというもの、いよいよ仕事が殺人的に忙しくなったからだ。
 祖母は一人暮らしをしている。祖父も一人娘であるわたしの母もすでに亡くなった。祖母の兄弟姉妹も離れた土地でそれぞれ家を構えていたり亡くなっていたりで、身寄りといえば孫であるわたしの他にはいない状況だ。
 親代わりとしてわたしを育てたこともあり、祖母は長い音信不通に心配を募らせていたのかもしれない。このときはまだその程度に考えていたわたしは、特に気負わず祖母に訊ねた。

「それで、おばあちゃん。用事はなあに?」

 祖母は少し口ごもってから、やがて意を決したと分かるはっきりとした口調でいった。

「もう一週間前のことなの、リツちゃん。気を落とさないでほしいんだけど、実はね、ミミちゃんが亡くなったの」

「え……」

 祖母の言葉はきちんと耳に入ってきたにもかかわらず、何をいわれたのかしばらく理解することができなかった。
 メスの三毛猫のミミはわたしの飼い猫だ。祖母にねだって飼い始めたのはわたしがまだ中学生になるかならないかのころだったので、ミミは十七、八歳のはずだ。大学に入って第二新東京市で一人暮らしを始めたときにも一緒に連れて来ていたのだけど、ゲヒルンに入所してからは生活がひどく不規則になって、きちんと面倒が看てあげられなかったので、泣く泣く祖母のもとへ帰したのだ。
 そのミミが、死んだ?

「あの……ごめん、おばあちゃん。それ、本当に?」

 ハンマーでぶん殴られたような衝撃に息を乱しながら、ようやくそれだけ訊くことができた。

「残念だわ。高齢だったし、ここ数ヶ月は確かに弱ってたのよ。でも、大きな病気とかはなかったから、まだしばらくは大丈夫だと思っていたのに」

 血の気が引いて顔の皮膚が冷たくなるのがはっきり分かった。上手く呼吸ができず、焦点がぼやける。

「ど、どんな風に……」

「一週間前の朝、庭に面した縁側の右から二番目の柱のそばで、横たわったまま冷たくなっていたわ。苦しみはなかったと思う」

 祖母の家の情景が一瞬で甦る。庭木と小さな花壇がある南側の庭に面した縁側の、庭に向かって右から二番目の柱のそばはミミの特等席だった。そして、その隣がわたしの特等席。いつもわたしは祖母の美しい庭をぼんやりと眺めながら、ミミの柔らかな毛に包まれた温かい身体を撫でていた。
 そこはわたしたちだけのお気に入りの場所だった。誰にも邪魔されない、穏やかで幸福に守られた場所だった。
 その場所でミミが死んだ。隣にいるべきだったわたしはおらず、一人きりで眠るようにして息を引き取った。

「最期まであの場所でリツちゃんのことを想ってたのよ、ミミちゃんは。本当に、本当にリツちゃんのことが好きだったのよ」

 わたしの心を汲み取ったように祖母がいってくれた。
 ミミは待っていたのだ。わたしのことをずっと待っていたのだ。
 死の瞬間まで待ち続け、そうしてそのまま逝ってしまった。わたしは間に合うことができず、ミミはもう永遠にわたしが追いつけないところへ去ってしまった。
 心臓が握り潰されたみたいに痛み、わたしは乳房の上から爪を立てて押さえ、それをこらえようとした。
 だが、無理だ。とてもこらえられない。
 感情が爆発しそうになるのをわたしは必死で抑えた。せめて一人になるまではこらえなくてはならない。レイの前で醜態を見せるような無様な真似だけは間違ってもしてはならない。

「そうね……。報せてくれてありがとう、おばあちゃん。申し訳ないけど、もう切らなくちゃいけないわ。またあとでわたしからかけ直すから」

 震える声でやっとそれだけ伝えると、祖母は気遣いの感じられる口調で答えた。

「分かった、リツちゃん。それじゃ待ってるから。お仕事無理しないでね」

「うん。それじゃ」

 電話を切ると、わたしは目を閉じてゆっくりと深呼吸した。
 大丈夫だ。感情をコントロールするのには慣れている。わたしは取り乱したりしない。
 電話中レイに背中を向けていたのは幸運だった。携帯電話をポケットにしまい、表情を消すよう意識しながら、わたしはレイを振り返った。彼女はぬいぐるみが置かれたキャビネットに片手をかけ、こちらを窺うように見ていた。

「待たせたわね、レイ」

「いえ」

 レイの返事は簡潔だ。もっとも、わたしにはそれがありがたい。彼女には他人に気遣いができる感情の機微などないし、そもそも気遣われたりしても迷惑でしかない。
 とにかく、ここでのわたしの仕事はもう果たした。あとは碇司令に報告さえしてしまえばそれで終わりだ。
 一刻も早くこの場から立ち去りたくて、わたしはおざなりな言葉を投げた。

「わたしの用件はさっきので終わりよ。ぬいぐるみのことは心配しなくていいわ。他にも何か必要なことがあったら、こちらで対応するからいつでも伝えて。分かったわね?」

「了解しました」

 レイは真っ赤な瞳でこちらをまっすぐに見据えている。その赤い虹彩から彼女の思考を読み取ることは難しい。しかし、いかに感情の機微に疎い彼女であっても、わたしが祖母からの電話で受けた動揺を少しは感じ取っているらしく、こちらを詮索するような気配をわずかに含んだその眼差しに居心地が悪くなって、わたしは逃げるように身を翻した。

「それじゃ失礼するわ」

 司令への報告をすぐにしなければ。口頭の報告で充分だろう。内容はもう頭の中でできている。玄関から外に出て、団地を抜けたらすぐにでも。それさえ済ませばしばらくネルフから、このうんざりさせられる現実から解放される。あとはどうなろうが構わない。今はとにかくミミのことで頭が一杯だ。
 わたしのミミ。大好きなミミ。この世からいなくなってしまったなんて信じられない。もう二度と会えないだなんて。信じたくない。
 しかし、急ぐわたしを呼び止めたのは背に投げかけられたレイの声だった。

「赤木博士」

 呼びかけと同時に袖先を掴まれてわたしは足を止めた。
 首だけ振り返ると、どこか必死な形相のレイが追いすがってこちらを見上げていた。

「一体何の……!」

「博士も寂しいのですか?」

 突然のレイの不可解な行動に苛立ったわたしは声を荒げたが、言い切る前に彼女が投げかけた質問がわたしの口を塞いでしまった。
 この人形は何を言っている? 寂しいのかだって? わたしも?
 レイは掴んだ袖口を離そうとしなかった。強引に振り払ってしまえばそれで済むことだが、意表を突かれて固まっているわたしは動くこともできず、阿呆みたいに口を開けて、彼女の顔を穴が開くほど見つめていた。

「クマタローなら博士の寂しさも埋めることはできますか?」

「なっ、何を馬鹿なことをいっているの! いいから離してちょうだい!」

 あまりに馬鹿げたレイの発言にわたしは今度こそ怒りを露わにして、袖口を掴む彼女の小さな手を振り払った。
 まったく意味が分からない。一体何のつもりなのだ。
 わたしは本当に怒っていた。ただでさえミミの死にショックを受けているのに、これ以上忌々しいレイにわずらわされるのなんてうんざりだ。
 わたしの突然の激発を見たレイはその端正な顔を傷ついたように歪ませた。
 どうしてそんな表情をするのだ。碇司令に作られた人形のくせに。自分の気持ちを表現する方法も知らず、まして他人の気持ちなど何一つ分かりもしないくせに。

「でも、わたしは……、クマタローは」

「しつこいわよ! いい加減にして! あなたなんかに何が分かるっていうのよ! あなた……お前なんかに、このわたしのっ……」

 腕を振り上げ、人差し指を突きつけて、わたしは大声でレイをなじろうとした。しかし、言葉は途中で喉に詰まり、代わりに熱い空気が途切れ途切れに震える喉を焼いた。
 最後に泣いたのは五年前だろうか。それとも六年前だろうか。自分を組み敷いた碇司令の凍りついた心に傷つけられ、しかしこの身体の奥に確かな熱の痕跡は残っており、そんなことを夜のアパートで思い出して、どうしようもなくなって一人で泣いたのが最後の記憶だ。
 我ながら無様な過去だが、あれからわたしは変わった。もう涙なんてものはこの汚らわしい身体には一滴も残っていないと思っていた。もしもわたしの目頭から流れるものがあるとするならば、それは血か、あるいはもっとどす黒く嫌なにおいのするどろどろした何かだと。
 ところが、目頭からこぼれ落ちたのはそんなものではなかった。頬を伝うそれを指で拭って見ると、指先は透明な涙のしずくに濡れて光っていた。

「ナミダ……」

 レイがぽつりと呟いた。わたしは首を振って否定しようとした。

「違う、違う! これはそんなものじゃない!」

「では、なぜ?」

 喉から漏れた空気は声にならなかった。
 わたしが泣くのはミミのためだ。
 愛していた。本当に心から愛していた。姉妹のように。親子のように。
 しかし、わたしはそれほどに想っていたミミを手元から離し、孤独なままに死なせてしまった。仕事が忙しくて面倒が看られなかったのは事実だ。祖母のもとにいたほうが確かにミミの生活は満たされただろう。だが、それら全てをいいわけにして、まさに母がわたしにしたのと同じことをわたしがミミに対して行ったのだ。
 そして、取り残されるのはいつもこのわたしだ。わたしを祖母に預けた母は一人で死に、わたしによって祖母に預けられたミミもまた一人で死んだ。わたしのいないところで、わたしをあとに残して。
 本当に望んでいたのは安楽な生活なんかではなかった。科学の才能でもない。富や名誉や栄光なんか少しも欲しくなかった。
 ただ愛だけが必要だった。それさえあれば何もいらなかった。一緒にいられたらそれだけで充分だった。
 なのに、愛はいつもわたしの手の中に留まってくれない。愛する者はいつもわたしの手からこぼれ落ち続ける。わたしのもとから去って行ってしまう。
 まるで愚かなわたしに神が与えたもうた罰だとでもいうように。
 ずっとずっと愛していた。今も愛している。
 母さんも、ミミも、おばあちゃんのことも。
 震えるわたしを他の誰かを想いながら抱いた碇司令のことも、初めて出会った日には背丈がまだわたしの腰にも満たないほど幼かったレイのことだって。
 でも、いつしかわたしを諦めが支配し、切望していた愛はごみのように打ち捨てられた。そして、前置きもなく目の前に現れる取り返しのつかない現実に頬を殴りつけられ、自分が捨て去ったものがどれほど大切だったかを思い知らされて、わたしはまたこうして絶望の深みに沈んでいく。
 その場に膝から崩れ落ちたわたしの肩に、レイがその小鳥の羽のような華奢な手を静かに置いた。

「赤木博士」

 重さのない羽のようなレイの手からは、不思議なことにしっかりとした重みと体温が感じられた。その存在感が、絶望の淵に沈み込もうとしているわたしの意識を繋ぎ止めてくれていた。
 レイの手はこんな感触をしていただろうか。他人の手というのはこんな風だっただろうか。
 記憶の底をさらおうとするが、上から堆積した泥じみたものが邪魔をする。さらにそこへ涙が洪水のように押し寄せて、堆積した泥や色々なものと一緒にわたしはどこかへ押し流されていった。
 一度わたしに呼びかけたきりレイは何もいおうとしない。
 五・六年ぶりの涙はただただ止まらない。どこからか湧き出す澄んだものが、この身体をすぐに満たし、行き場を失って破裂するように外へと流れ出すのをわたしはどうすることもできず受け入れるほかなかった。
 死んだら確実にわたしは地獄に落ちる。
 どうせ地獄行きが決まっているのなら、臆することなど何もない。そのときが来るまで己の意思に正直でありたい。もう一瞬だって後悔したくはない。
 流れ着いた先がどこなのかまだわたしには分からない。
 しかし、これからは思うままに生きて死のう。
 そう心に決めた。





− 続く −

 

なかがきその2

お付き合い頂き、誠にありがとうございます。

これまでと比して長大な内容でしたが、子どもたち三人は除くとしてどのキャラクターが一番好きかと問われれば、
私なら迷わずリツコです。あの行動の分かりやすさが好きなのです。
削るか構成を変えるべきと分かっているのですが、
お話のバランスが悪くなってでも書かずにはいられなかった業のようなものがあるとでも申しましょうか。
どうかご容赦下さい。


本当なら「さくっ」と書き終えるはずだったこのお話ですが、予想に反して今は「ぐぬぬ」と書き続けております。
加えてこの先また忙しくなりそうなので、大変申し訳ありませんが完結まで長引くことになるかもしれません。
2010年はこのあとも書きたいお話がいくつかあったのですけど……。

それでも、もし皆様の貴重なお時間を割いて頂けるなら最後までお付き合い下さい。

読者の皆様。そしてジュン様。
ありがとうございました。

rinker/リンカ

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