リンカ     2012.04.06



 




10.レイ


 

 友達という言葉から連想するのは、たとえば陽だまりの暖かさ。降り注ぐ月光の優しさ。それに、星空を引っくり返したみたいな騒がしさ。
 これまでずっとわたしとは無縁だった言葉。関心も持たず、求めることもなく、冷えたコンクリートのような孤独に安住してきた過去。いくら寄り添っても温もりが伝わることのない、硬い感触のする孤独。それがこの世界に生を享けたわたしが手に掴むすべてなのだと、疑問も抱かずに受け入れてきた。
 けれど、今はもう違う。友達という言葉はすでにわたしの中で、手触りや温もりや匂いや音、そうした感覚と記憶と感情とに彩られて立体的に存在している。決して辞書の知識をなぞるようなものではなく、この血肉、この精神、この心と間違いなく結びついているのを感じることができる。
 好きという言葉。
 わたしは碇司令が好き。赤木博士が好き。碇くんが好き。アスカのことが好き。
 わたしと彼らとの関係における価値のあるなしを越えて、否応なしにこの心は彼らが好きだと叫んでいる。そう、これまでの自分を顧みれば、それはほとんど絶叫といっても差し支えない。これほどに強烈で鮮やかな感情。こんなものに内側から揺さぶられて、どうしてまっすぐじっと立っていられるだろう。彼らの姿が視界に映るたびに駆け寄りたい衝動に駆られるのは、たぶんそのせいなのだ。好きという感情が内側からわたしを彼らのほうへ押し出してしまう。
 そして発見したのは、この衝動を彼らのほうでも受け止めてくれるということ、それが嬉しいこと。どんな顔をすればいいか考えるまでもなく笑顔になること。
 父親と母親。
 これはまだよく分からない。
 わたしという生命を生み出した、という意味においては、碇司令が私の親ということになる。男性なので父親だ。その考え方で行くと、さしずめ主要遺伝子パターンを提供した碇ユイが母親だろうか。しかし、わたしは彼女を母親とする考えに馴染むことができない。
 感情的な繋がりの有無が問題なのだ、と考える。
 わたしが碇司令に父親になってほしいと願うのは、彼がわたしを生み出したという事実を理由とするのではない。当然、血の繋がりのためでもない。わたしたちの間にはそんなものはないのだから。
 大切なのは、まさにわたしがそれを願っているというこの心、この感情そのもの。彼を慕うこの気持ちそのものだ。ゆえにこそ、わたしは彼を父と呼ぶのだ。
 けれど、母は……。わたしの母がどこにいるかはまだ分からない。誰かをそう呼びたいと思う日が来るのか、それすらも分からない。しかし、いずれこの心が答えを教えてくれるはずだ。きっと、いつかは。

「お疲れさま。もう上がっていいわよ」

 細長いシリンダーを満たす粘り気のあるオレンジ色の液体を通して投げかけられた女性の声が、わたしの注意を捉えた。そちらに目を向けると、分厚いオレンジの膜の向こうに女性の姿が見える。肩に届かないオレンジ色の髪。オレンジ色の肌。オレンジ色の長衣。すべてにオレンジ色のフィルターがかけられた、見慣れた姿の女性の名は赤木博士。わたしの好きな一人だ。
 ごぼごぼ、と音がしてシリンダーの上方から下方へ流れが生まれる。筒内を満たしていた液体はあっという間に水位を下げ、わたしの濡れた身体を残してシリンダーの底に開いたフィルター付きの穴に吸い込まれた。液体が全部なくなるとロックが外れて、わたしを閉じ込めていた透明な筒は天井へ吊り上っていく。装着された器具を外し、オレンジ色の濡れた足跡を残しながら装置を降りると、赤木博士はタオルを広げてわたしの身体を包んでくれた。そんな風にしてくれるようになったのはごく最近のことだけど、いつも甘んじてその行為を受け入れることにしていた。
 タオルを持つ彼女の腕がこの身体を包み込む瞬間。
 その瞬間が、わたしは好きだ。
 なぜ好きなのか、その理由を上手く言語化することは難しい。好きな人に触れられるのが嬉しい。たぶん、そういうことなのだろう。でも、それですべてを説明できているとは到底思えない。碇くんやアスカなら、この気持ちをどんな風に説明するだろうか。

「今週は調子がいいみたいね。いい傾向だわ。このまま落ち着いてくれたらいいのだけど」

「はい」

 わたしの身体は普通の人間とは違う。使徒と呼ばれるある特異な生命体との、いわばハイブリッドだ。ハイブリッドの利点として、わたしには他の人間にはないいくつかの特質が備わっている。しかし一方で人間として見た場合、わたしの身体は明らかな遺伝子異常を抱えていることになる。たとえば色素欠乏やホルモン異常。両者の形質は、つねに相手を排除しようとせめぎ合っている。このせめぎ合いには時に苦痛が伴う。だから、こうして頻繁に調整を受けなくてはならないのだ。
 シャワーを浴び、衣服を身に着けて戻ってくると、赤木博士がコーヒーを淹れているところだった。

「あなたも飲むでしょ?」

 頷いて応えると、赤木博士は出来上がったコーヒーをマグカップに注いで差し出してくれた。椅子を引きよせて座り、湯気を立てるコーヒーを味わう。とても熱く、苦みが鮮やかだ。
 以前はこんな風に『メンテナンス』のあとで赤木博士と一緒にくつろぐことなどなかった。かつてのわたしたちはよそよそしく、感情的な繋がりなどほとんど存在しなかった。それを寂しいことだと思うことさえ、一度としてなかった。
 けれど、今になって思う。わたしたちは、なぜもっと早く心を通い合わせることができなかったのだろう。知り合って以来の何年もの時間が、今になって寂しく思い起こされる。きっかけさえあれば、何もかも違っていたかもしれないというのに。

「どうかしたの、レイ?」

 声をかけられて視線を向ける。わたしと同じように椅子に腰かけてマグカップを手に持った赤木博士は、穏やかな眼差しでこちらを見ていた。

「顔が笑っているわよ」

「そうですか?」

 指摘されて自分の顔に手を伸ばしてみるが、触ったところでよく分からない。どうも笑顔というものは、知らない間に表に出てしまう類のものらしく、まだわたしは上手くコントロールすることができずにいた。

「楽しいことでもあった?」

「ええ……はい。楽しいのだと思います」

 今、こうしていることが、わたしには楽しく嬉しい。

「そう」

 赤木博士は短く相槌を打ち、赤く着色されたくちびるをマグカップに寄せた。

「そういえばアスカとは仲良くなれたようね。とてもいいことよ。わたしも嬉しいわ」

「はい。彼女はたくさんのことを教えてくれますし、友情の証だといって彼女の大切なものもくれました」

「大切なもの?」

「ぬいぐるみです。名前はバルトロメウス」

 わたしの言葉を聞いて、赤木博士はおかしそうに肩を竦めた。

「シンジくんといい、アスカといい、まったく。でもそうね、レイ、わたしからも何かプレゼントしましょうか。欲しいものはある?」

「欲しいもの……分かりません」

 赤木博士の突然の提案は嬉しかったが、急に言われてもわたしには何も思いつかなかった。アスカなどはもっと自分を主張しろとわたしを叱咤するが、日々広がりゆく世界にこちらはついて行くので手一杯なのだ。しかし幸い赤木博士は、アスカほど早急でもスパルタ式でもなかった。

「まあ、じっくり考えておきなさい。どのみちすぐには時間が取れそうもないし」

「はい。……ありがとうございます、赤木博士」

「いいのよ。わたしがそうしたいのだから」

 小さく手を振って、彼女はまたマグカップに赤いくちびるを寄せた。その様子を眺めていたわたしはあることに気付き、彼女に呼びかけた。

「赤木博士」

「なあに?」

「赤木博士も笑っています」

 指摘を受けた彼女はちょっと目を細めてから、くすくすと笑いをこぼした。

「そうね」





「何してんの?」

 急にかけられた声に顔を上げると、エヴァのインターフェイスヘッドセットで留めた鮮やかな赤毛が印象的な少女がこちらを見下ろしていた。

「アスカ。何って?」

 わたしの席の前に仁王立ちした友達の名を呼び、逆に訊ね返す。
 今は中学校の昼休憩。わたしはちょうど机の上に持参したパンと飲み物を出したところだ。何をしているといっても、これから昼食を摂ろうとしているのは一目瞭然だと思うのだけど。
 アスカはわたしの顔と机の上とを交互に見やり、左右を見やり、天井を見やってから、やっと言った。

「こっち来なさいよ。あたしたちと一緒に食べましょ」

 顔が赤らんでいるのは、彼女なりの葛藤の成果だろうか。

「一緒に……いいの?」

「よくなけりゃ誘いやしないわよ。いいから来なさいってば、レイ」

「分かった」

 パンと飲み物を手に持ち、席から立ってアスカに続く。教室を出た廊下で待っていたのは、髪を二つにくくったそばかす顔の少女だった。名前は確か洞木さん。

「……碇くんと一緒ではなかったのね」

「はあ? あったりまえでしょ」

 あたしたち、とアスカが言うので、てっきり他にいるのは碇くんなのだと思ったのだけど、強い調子で否定された。別におかしなことを言ったつもりはなかったのだけど。

「シンジなら二馬鹿と一緒よ。いいからほら、早く屋上行きましょ」

「ええ」

 二馬鹿とは、相田くんと鈴原くんという名の少年のことだろう。わたしは直接話したことがないが、中学校でよく碇くんと行動をともにしていることは知っていた。そういえば、教室で彼ら三人が固まって昼食を摂っているのをこれまで何度も見たことがある。
 さっさと先導するアスカに続いて、わたしも洞木さんと一緒に歩き出す。

「ねえ、綾波さん」

 控えめな呼びかけに顔を向けると、洞木さんが戸惑ったような表情で訊ねてきた。

「碇くんが一緒のほうがよかった?」

 この質問にわたしは少し考え込んだ。碇くんが一緒にいると考えたのは、それがごく自然な発想のように思われたからであって、いいとか悪いとかそういう考えがあったわけではない。しかし、改めて彼がいるのがよかったか悪かったかと訊かれると、やはりいたほうがよかった、とわたしは思う。すると、ひょっとしてわたしは、自分でもそれと気づかないうちに最初から彼にいて欲しいと思っていたから、あのように言ったのだろうか。つまり、わたしは碇くんがいることを期待していた、ということなのだ。
 そうなのか、と胸の内で思った。この気持ちが、期待するということなのだ。かつてのわたしには無縁だった感情。与えられた役割のほか何もなかった過去には知らなかった心の働き。

「そのとおりだと思う、洞木さん」

 考えた結果を正直に答えると、洞木さんはちょっと目を丸くしてから、なぜか顔を赤くさせた。

「ごめんね、碇くんじゃなくてわたしが一緒で。がっかりした?」

「がっかりはしてない。気にしないで」

 そう、別にがっかりはしていない。今になって、そうだったのだ、と自分の気持ちを知ったところなのだから。でも、なぜ洞木さんはこんな表情をしているのだろう。

「洞木さん、顔が赤いわ。なぜ?」

 わたしの質問に洞木さんは目に見えてうろたえた。わけが分からず眺めていると、ややあって彼女は別の質問を投げ返した。

「綾波さん、ひょっとして碇くんのこと、好きなの?」

 洞木さんの声は、まるで他の誰にも聞かれてはならないと恐れているかのように、低く抑えられたものだった。なぜ彼女がそんな態度を取るのか分からないまま、わたしは考えるまでもなく質問に答えた。

「そうよ」

「えっ! や、やっぱりそうだったんだ。どうしよう、大変なこと聞いちゃった」

 洞木さんは衝撃的なことを聞かされたみたいによろめいた。が、どう考えても、今のやり取りにそのような部分はなかったように思う。それとも彼女が特殊な反応を示す傾向のある人間だというだけのことなのだろうか。

「こ、困っちゃったな。あ、でも秘密は守るから安心してね」

 何に困って、何を秘密にするのだろう。
 なぜか洞木さんは、前方を進むアスカの背中をちらちらと窺いながら、わたしにそう約束した。

「なぜ秘密にするの」

「え、だって、それはそのぉ……」

「二人とも何やってるの。置いて行くわよ」

 話しているうちに遅れてしまったわたしたち二人を振り返って、アスカが呼びかけた。

「あっ、待ってよぉ」

 小走りに急ぐ洞木さんの背中を眺め、わたしは少し首を傾げた。

「おかしな人」

 屋上は強い日差しに照らされていたが、吹き抜ける風が焼かれる肌に心地よい。わたしたち三人の他にも生徒たちのグループがあちこちに固まって昼食を摂っていたり談笑していたりする。これまで昼食の場所をわざわざ移動することの意味が理解できなかったのだが、雨の日でなければ毎日こんな様子なのだそうだ。 
 わたしたちは校舎の端、グラウンドに面したフェンスのすぐそばに位置取り、円になって腰を下ろした。わたしの昼食は登校途中にコンビニで買ったパン二つと野菜ジュースだが、アスカと洞木さんは布で包まれたお弁当箱と小さな水筒を持って来ている。二人がお弁当のふたを開けると、色とりどりのおかずやおにぎりが小さな空間の中へにぎやかに詰め込まれていた。こういった形式の食事をしたことがなく、物珍しくて覗き込んでいたわたしの様子を見て、二人はなぜか顔を見合わせてくすくす笑った。

「お弁当が珍しい?」

「ええ。売っているのは見たことがあるけど、自分で食べたことはない。お肉嫌いだし」

 肉が嫌い、というのがわたしがお弁当から遠ざかる一因ではあった。この偏食がなければ、一度くらいは食べてみようという気になったかもしれない。

「レイってさ、いつもパンなの?」

 フォークに突き刺したおにぎりをわたしのほうへ向けて、アスカが訊いた。ちょうど包みを破ったアンパンを口で咥えたところだったわたしは、目をぱちぱちさせてから、アンパンと一緒に頷いた。

「そうね。編入してきて以来、綾波さんがお弁当食べている記憶ってないわ」

「よく見てるわね、ヒカリ。さすが委員長ってところ?」

「そんなんじゃないってば。ただ思い返してみればそうかなってこと」

 アンパンを咀嚼しながら、やり取りする二人の膝の上に載せられたお弁当を眺めていた。確かにこれまで一度も食べたことはないけれど、お弁当そのものはコンビニやスーパーで見たことがないわけではない。しかし、二人の食べているものは、コンビニなどで売られているものとは異なる印象を受けた。

「どうかした、綾波さん?」

「ううん。ただ二人のお弁当が」

「お弁当が?」

 この感触をどんな言葉で表現すればいいのだろう。

「……柔らかい感じがする」

 そうだ、たとえば、オレンジ色の調整液で濡れた身体に赤木博士がかけてくれるタオル。それと同じような柔らかさを二人のお弁当から感じる。
 わたしの言葉を聞いて、アスカと洞木さんは視線を交わした。あまり適切ではない表現だったろうか。一瞬そう思ったが、こちらを向いた二人の表情を見て杞憂と分かった。

「それ、たぶん手作りだからね」

「手作り」

 優しい微笑みを浮かべた洞木さんの言葉をわたしは繰り返し、咀嚼した。

「食べてくれる人の顔が見えてるっていうのかな。お店に出して売るために作るんじゃないから、見た目は不揃いで不恰好かもしれない。でも、特別な人に食べてもらうために作ったものには、そのぶん気持ちがこもるわ。綾波さんの目に柔らかく映っているのは、きっとお弁当にこめられた気持ちなんじゃないかな」

「特別な人。……それはその人のことが好きだから?」

「口に出すと照れちゃうけどね」

 そばかすの浮いた目元を少し赤らめて、くすぐったそうに洞木さんは言った。

「と言ったって、ヒカリは自分で自分のお弁当を作ってるんでしょ。自分が大好きーってこと?」

「これは家族のぶんと一緒に作ってるものだもの。もうアスカったら、知ってるくせに」

「あはは、ごめんごめん」

 アスカはけらけらと笑って、わたしのほうへ顔を向けた。

「レイは料理とか……したことないわよね。あのキッチンを見る限りじゃ」

「家庭科の調理実習でしたことはあるわ」

「それは数のうちに入るのかしらね」

 肩を竦めるアスカ。

「ああ、そういえば綾波さんってけっこう上手らしいわよ。調理実習で同じ班になった子たちが言っていたの」

「へぇ、そうなの? 意外だわ」

「説明どおりの作業をしただけよ。複雑な工程は何もなかった。誰がやっても同じ結果になるはず」

 わたしは本心からそう言ったのだが、これはどうやら二人を呆れさせてしまったようだった。アスカなど思い切りため息を吐いている。

「あんたねぇ……」

「ま、そこが料理の奥が深いところよね。同じことをやっているはずなのに、同じ味になることはないってとこが」

「さすがお弁当のプロ。深いおコトバ」

「こら、茶化すな」

 洞木さんは片手を振り上げてアスカをぶつ真似をした。二人とも楽しそうに笑っている。二人は友達同士だから。
 わたしとアスカも友達だ。でも、こんな風に冗談を言ってふざけあうようなことはしない。自分でこんな振る舞いをしようと思ったことはないし、今後しようと思うようになるかも分からない。
 ひとくちに友達同士といってもその関係は人それぞれ、十人十色だ。同じものなど一つとしてない。人には心があるから。そこが、面白い。わたしは洞木さんとも友達になれるだろうか。

「大体、アスカは綾波さんにエラそうなこと言えないわよね。そのお弁当だって碇くんに作ってもらってるんだもの」

 洞木さんに言われたアスカは、フォークの先を口にくわえて言葉に詰まった。

「……そうなの?」

 わたしは初めて知る事実に驚いていた。戸惑っていた、というべきかもしれない。
 これまでアスカのお弁当の出所など気にしたことがなかったが、彼女が手作りのそれを食べている以上、誰かが作ったということであり、誰かとは、一緒に住んでいる人間と考えるのが自然だ。アスカと一緒に住んでいるのは上官の葛城三佐と同じパイロットの碇くん。だから、碇くんがお弁当を作っているというのは不思議なことではない。ないのだけど……。

「こ、これはあいつに作らせてやっているんであって、決してあたしが料理ができないとかそういうことじゃ」

「はいはい」

 アスカがまくしたてる反論を洞木さんは軽くいなす。そんな二人に、わたしは話しかけた。

「アスカのお弁当からも、洞木さんのお弁当と同じ柔らかさを感じた」

「綾波さん?」

 二人は不思議そうにわたしの顔を見ている。

「それは碇くんにとってアスカが特別な人だからなのね」

 遮るもののない屋上を一陣の風が吹き抜けていく。それにあおられて舞う鮮やかな赤毛と同じくらいに、アスカの顔が赤らんでいる。わたしは自分の口元に微笑みが浮かんでいることに気付く。
 わたしにもこんな柔らかいお弁当を作ることができるだろうか。このわたしにそんな未来は訪れるのだろうか。
 ……きっと、訪れる。





 三人のパイロットのうちわたしだけ、放課後にネルフで実験の予定が入っていた。これは別に珍しいことではない。わたし自身の出自の特殊性や、扱う機体が実験機であるという点からも、他の二人にはない実験が組まれることはよくあることだ。
 本来なら学校が終わればすぐにネルフに向かうのだが、この日に限ってそうしなかったのは、気まぐれというより、昼休憩での出来事が心に残っていたためなのだろう。わたし一人だけ違う予定を組まれたことへの不満をさんざん表明したアスカが洞木さんと一緒に帰るのを見送って、わたしは三人で昼食を摂った屋上へ向かった。
 昼の名残りのようなものを探していたのかもしれない。自分でもよく分からない衝動に突き動かされて屋上へ出たわたしが見つけたのは、屋上のふちに佇む碇くんの姿だった。
 彼はフェンスの内側から外をじっと眺めていた。その背中に近づき、声をかけるまで、彼は一度も振り返らなかった。

「何を見ているの」

 わたしの問いかけに、碇くんは静かな声で答えた。

「街だよ、綾波」

 振り返った顔にかすかな微笑を浮かべ、碇くんは続けて言った。

「ちょっとね、高いところからこの街の風景を見てみたくなったんだ。でも学校の屋上じゃ、それほど高いとは言えないね」

 彼に並び、わたしも彼と同じ光景を眺めた。
 綺麗に整備された街が強い太陽に照らされて光り輝いている。緑豊かな住宅街と密集するビル街。たくさんの人間が暮らす活気ある街。しかし、そこかしこにそびえる背の高い建物のいくつかが兵装ビルであることをわたしは知っている。今目に見えない場所にも、さまざまな兵器や装置が隠されている。
 この街は使徒を迎撃するために造営された要塞。いや、本当はそれを装って、一人の人間の望みを叶えるために造られた砦だ。でも、そんな事情とは無関係に、暮らす人々の思いはこの街に息衝いている。自らに与えられた目的しか見えていなかったころのわたしには到底理解し得なかったことだが、今はよく分かった。

「この街に来てすぐのころにミサトさんが高台に連れて行ってくれたことがあるんだ。ミサトさんはぼくに街を示して『あなたが護った街だ』って言った。でも、実感は湧かなかった。ぼくが戦ったのは自分が死にたくなかったからだ。この場所を守りたかったからじゃない。ここに暮らす人たちがいることを考えていたんじゃない。そう思ったけど、なぜか口に出すべきじゃない気がして、ミサトさんには言えなかった」

「けど、あなたは今それを口にしている」

「うん。何だか綾波になら言ってもいいかなって。とにかくそれ以来、自分が何でこんなことしているのか迷ったら、こうやって高いところに来て街を眺めることにしているんだ」

「それで迷いは晴れる?」

 わたしの問いに、碇くんの横顔は苦笑したようだった。

「どうかな。でも、少なくともぼくだけじゃないんだなって思う」

 風が碇くんの短い黒髪を吹き散らしていく。

「誰もが自分の人生を生きている。それはみんな変わらないんだ」

「自分の人生……」

 わたしと赤木博士の関係が変わるきっかけを与えてくれたのは碇くんだ。彼がくれたクマタローがすべての始まりだった。クマタローと過ごすことでわたしは碇くんの人生に想いを馳せ、次には自分自身にも人生というものがあることに気付いた。さらにはわたしの人生に係わる人たち。わたしにとって特別な存在のことにも。

「使徒が攻めてくることなんてウソみたいに穏やかだね」

「ええ。そうね」

「このまま何も起きなければいいのにね」

 穏やかな街の光景を眺めながら、碇くんは小さく呟いた。

「そういうわけには行かないんだろうけど」

「……そうね」

 強い風が雲を呼んでいる。
 巨大な黒雲が太陽の光を遮り、光り輝いていた街を急速に暗い影で覆っていく。
 すぐに空を見上げるわたしの鼻が湿った匂いを捉えた。

「夕立が来るわ」

「うん」

 雷鳴のように、二人の携帯電話が鳴り響いたのは、その時だった。空気を引き裂く独特の音は、ネルフのエマージェンシーコール。使徒出現を告げる報だ。
 わたしたちは顔を見合わせ、頷き合った。

「行こう、綾波」

「ええ。行きましょう」

 駆け出したわたしたちの背で、激しい雨が降り始めていた。





 インド洋上空衛星軌道に現れた使徒は、ゆっくりと近づいて来ていた。その途中、太平洋上で自らの身体の一部を落下させ、大きな爆発を起こしていた。使徒の目的は自らを爆弾としてジオフロントを爆撃することである、とマギシステムは推測し、それを踏まえて対策が練られることになった。
 使徒発見の翌日早朝、会議室に呼ばれたわたしたちを待っていたのは、赤木博士と葛城三佐の二人だった。今現在、碇司令と冬月副司令は南極へ向かっており、ネルフ本部にいない。そのため赤木博士と葛城三佐の二人に全権が委ねられていた。その二人の責任の上で遂行される作戦の説明をわたしたちは聞かされた。

「えーっ!」

「素手で受け止めるぅ?」

 素っ頓狂な叫び声を上げたのは碇くんとアスカだ。赤木博士たちもその反応を予期していたのか、表情を変えずに二人の様子を眺めている。わたしでさえ、聞いた瞬間にあまりの無茶さ加減に呆れたのだから、わたしよりずっと感情の振幅豊かな二人の反応は無理もないものであった。

「落下予測地点で待ち構えたエヴァ三機が、ATフィールド最大で直接受け止める、というのが作戦のあらましよ」

「ミサトさん、本当にそれで上手く行くと思ってるんですか?」

 碇くんの指摘に、葛城三佐は苦虫を噛み潰したような表情になった。

「残念だけど、上手く行く可能性は非常に小さいわ。何パーセントだっけ、リツコ?」

「0.00001パーセントよ」

「泣ける数字を感謝するわ、博士」

 大人二人のやり取りに激昂したアスカが叫んだ。

「ふざけてる場合なの、あんたたち!」

 しかし、葛城三佐は落ち着き払って切り返した。

「もちろんふざけちゃいない。大真面目で言っているのよ。他に方法があるならそうする。でも、今のところ対抗手段はこれしかない」

「奇跡に賭けるようじゃおしまいね」

 アスカの皮肉を沈痛な面持ちで受け止めた赤木博士と葛城三佐は、頷き合ってから言った。

「説明したとおり、この作戦ともいえない作戦は、成功する見込みがほとんどない。全権をゆだねられた指揮官として、我々は最後まで逃げるわけには行かない。でも、あなたたちは別よ。本部機能の松代移管はもうすぐ完了する。すでに半径五十キロ圏内に最低限の人員の他は誰もいない。幸いなことに司令と副司令も今は南極にいる。ジオフロントを捨てた上で、松代で体勢を立て直すのも選択肢の一つよ。それに爆発による破壊がジオフロント最深部にまで及ばない可能性もある。そうなれば、まだ望みは充分にあるわ」

「だから逃げてもいい、と言っているんですか」

 碇くんが憤ったような声で訊いた。

「総司令および副司令の代行者として、わたしたちはあなたたち三人に命令できる権限がある。でも、一私人としては逃げてもらいたい。逃げて、あなたたちが生き延びる道に希望を託したい」

 それが悩み抜いた二人の本音なのだろう、とわたしは感じた。
 碇くんとアスカへ視線を向けると、二人もこちらを見ていた。しばし三人で視線を交錯させてから、まっすぐに葛城三佐を見据えて、まずアスカが言った。

「逃げてどうなるっていうの。そもそも一度でも負けたら人類滅亡、そういう話だったでしょ」

「そうはならないかもしれないわ」

「その可能性に賭ける気はないわね。あんたたちの無茶な作戦よりさらに見込みなさそうだし。それに逃げ出して運を天に任せるのは性に合わないの」

 わたしも頷いてアスカの言葉に続いた。

「わたしも同じ意見です。ここに留まって戦います」

「レイ、あなた……」

 赤木博士は絶句したように言葉を詰まらせた。でも、わたしはそんな彼女に笑いかけて言った。

「大丈夫です。きっと、大丈夫」

「ぼくも逃げません。何より自分の未来のために」

 はっきりとした声で、碇くんがわたしに続いた。
 碇くんと目が合うと、彼は柔らかく微笑みかけてきた。わたしもそれに微笑みで返した。
 そうだ。わたしたちは戦う。
 戦って、未来を掴むのだ。わたしたち自身の未来を生きるのだ。

「決まりね」

 とアスカが腰に手を当て、赤木博士と葛城三佐に向かって胸を張る。

「うん。決まりだ」

 碇くんも肩を並べ、まっすぐに大人たちを見た。

「わたしたちは心を決めました。赤木博士、葛城三佐。命令を下さい」

 わたしも、二人に並んだ。
 大好きな二人とこうして肩を並べられることが誇らしかった。確かに作戦の成功確率は限りなく低いのかもしれない。でも、わたしは自分自身を信じ、碇くんとアスカを信じている。だから、きっと使徒には負けない。
 わたしたち三人を前にして押し黙っていた大人たちだったが、やがて葛藤を振り払うように葛城三佐が声を上げた。

「分かったわ。今作戦、決行します」

「ミサト……」

 抗議するように名を呼んだ赤木博士を手で制し、葛城三佐は一歩前に進み出て、その大きな胸を反らして言った。

「ただし、条件があります」

「条件」

 と、碇くんが繰り返す。
 厳しい表情でわたしたち三人を見つめていた葛城三佐は、不意に表情を和らげて、その条件を言った。

「必ず生きて帰ること。それがあなたたちを送り出す条件よ」

 わたしたちはその言葉に目を丸くして顔を見合わせた。最初に破顔したのは碇くんだった。少し遅れてアスカ、釣られるようにわたしの口元もほころんだ。

「はい!」

 碇くんとアスカの大きな返事に、わたしも頷いた。
 そう、死にに行くわけではない。必ず生きて帰る。絶対に。

「作戦が終わったら、ごちそうしてあげるわ。ステーキなんてどう?」

「あら、それはダメよ」

 葛城三佐の言葉を聞いたアスカは、あっさりと拒否した。こんな時に一番喜びそうなのはアスカなのに、と碇くんも葛城三佐も、このわたしさえも意外に思っていると、彼女は澄ました顔で言葉を続けた。

「レイはお肉が嫌いなの。だから、ステーキ以外よ」

 アスカはいたずらっぽくわたしに向かって片目をつむってみせた。碇くんが笑い声を上げ、葛城三佐も苦笑して頭をかいた。

「オーケー、オーケー。食べたいものはあなたたち三人で相談なさい。それじゃ、この場はこれまで。あなたたちはプラグスーツに着替えて一時間後に発令所に出頭。いいわね。赤木博士、行きましょう。わたしたちにはわたしたちの仕事が、わたしたちの戦いがある」

「え、ええ」

 ためらうように返事を残して、赤木博士は葛城三佐とともにその場をあとにした。

「やれやれ、大見得切っちゃったわねぇ」

 子ども三人が残された会議室で、かぶりを振ってアスカが言った。

「あれ、アスカは作戦が失敗すると思ってるの?」

「バーカシンジ。あたしを誰だと思っているのよ」

「アスカ」

 そのままな答えを返した碇くんのひたいを指で突き、アスカは肩を竦めた。

「分かってるんじゃない。あたしはアスカよ。使徒なんかにやられるわけないでしょ」

「そうね。わたしたちは使徒には負けない」

「綾波までそんなことを」

「何よ、あんたは自信ないっていうの、シンジ」

「そ、そんなことないさ」

「だったらどうしてグズグズ言うのよ」

「いや、だから最初にアスカが……」

 じゃれあっている二人を見て、わたしは声を立てて笑った。

「綾波?」

「レイ、どうしたの?」

 二人がびっくりしたようにこちらを向いた。その表情がそっくりだったのがおかしくて、わたしはまた笑った。
 一時間後、プラグスーツに着替えたわたしたちは揃って発令所へ向かった。わたしたちパイロットは普段この場所へ立ち入ることがないのだが、一歩足を踏み入れた時から緊迫した気配を肌で感じた。おそらくわたしたちが考えている以上に状況は厳しいのだ。
 中央の投射スクリーンを指しながら、赤木博士と葛城三佐による作戦の具体的説明が始められた。一時間前の会議室でも分かっていたが、作戦は非常に大雑把で、ほとんど運頼みとしか思えない。使徒の現在位置は不明だが、マギシステムが算出した落下予測地点をもとに三機の配置が地図に示される。

「範囲が広いわね」

 ぽつりとアスカが呟く。
 使徒の落下速度とエヴァの走行速度、それに守備範囲。場所によっては明らかに全機を間に合わせることは不可能だ。しかし、使徒の質量と落下エネルギーを考えると、三機揃わなければ支えきれないだろう。

「これが最少範囲よ。こちらから最大限フォローする。最後の瞬間まで」

 赤木博士が硬い表情で言った。
 アスカもそれに同意するように頷いた。

「そうするしかないわね。ま、足の速さには自信あるわ。任せておいて」

 ひととおりの説明と指示が終わると、パイロットはただちにエヴァに乗り込み、各配置について待機することになった。
 碇くんとアスカはすぐに発令所を出て行った。でも、わたしはすぐには動き出さず、いまだに硬い表情をした赤木博士と向かい合った。

「赤木博士」

「本当にいいのね、レイ」 

 気遣わしげな彼女の問いかけに、わたしは自然と微笑みを返していた。

「はい。またあとで会いましょう」

 硬かった彼女の表情はこの一言でほぐれ、再び柔らかさを取り戻した。

「ええ。ええ、またあとで」





 プールの底から水面を見上げるのが昔から好きだった。
 ゆらゆらと絶え間なく揺らめき続ける水面が高い天井に吊るされたライトの光を乱反射して、不可思議なきらめきを生み出す。
 たゆたうきらめきはわたしの心を落ち着かせる。自らに心というものがあることを知らなかったころから、その作用は変わらない。肺が持ちこたえられる限り、わたしは水面を見上げ続ける。
 先日の定期メンテナンス後も、わたしはネルフ本部内の室内プールを訪れていた。ロッカールームで水着に着替え、プールへ続く扉を開けると、いつもどおり誰もいない。このプールは職員ならば誰でも利用できるはずだが、わたしはこの数年間で他の利用者を見たことがなかった。
 プールサイドで筋肉をほぐし、矢のように水の中に滑り込む。底近くに潜水したまま、身体をくねらせて水中を進み、途中で浮き上がる。見渡すと、そこは五十メートルプールのほぼ中央だ。立ち泳ぎで身体の向きを変え、今度は仰向けに浮かんでゆっくりと背泳ぎを始める。やがて指先がプールの端を捉えると、そこを掴んで身体を直立させ、鋭く息を吸い込んでから身体をすべて水中に沈める。プールの壁を蹴り、頭を下にして水をかき、底を目指す。水色にぼやけた周囲を見回し、プールの底から突き出した小さなバーを探り当てると、そこに足を引っかけて、膝を抱いて身体を丸める。
 見上げた先には、不規則に光り輝く水面がある。
 時間も空間も不確かな青と光の世界の中で、わたしの意識は記憶の底に沈んでいく。
 初めてこの光景を見つけたのはいつだっただろうか。まだずいぶん幼いころだったはず。今よりもっと背丈が低く、手足が短く、閉ざされた小さな世界しか知らなかったころ。ジオフロント深部、セントラルドグマの研究室で暮らしていたころ。
 そのころ、わたしの世界はこの薄暗い地下施設とエヴァンゲリオン、碇司令のみで構成されていた。それ以上を知らず、知ろうともせず、来たるべき目的の日まで代謝を繰り返すだけの毎日。やがて一人の女性がそこに加わった。それは赤木リツコという名の女性だった。
 くちびるの隙間から空気の泡が漏れ出し、わたしは水面を目指す泡のあとを追うように一気に浮上した。
 その日二度目のわたしの訪問を受けた時、赤木博士はコンピュータコンソールに向かって無数の数式を打ち込んでいるところだった。

「どうしたの、レイ?」

 最初はちらりとこちらに視線を向けるだけでキーを打つ指を止めなかった赤木博士も、わたしが答えなかったので、手を止めて身体ごとこちらを向いた。

「レイ?」

 右手を腰の後ろに回してそばに立つわたしを彼女は不思議そうに見た。

「初めてあなたに会った時」

 切り出した言葉に、赤木博士は少し目を見開いた。

「あなたは今のように優しかった」

 ゆらめく水面の光のようにぎこちなく笑いかける女性の顔が、記憶の底にある。
 わたしがこの世に生を享けて初めて知った笑顔。
 彼女は、わたしをまっすぐに見ている。

「一度だけ、あなたがわたしを膝の上に載せて抱き締めてくれたことを思い出しました」

「……憶えているわ」

 小さくささやいた赤木博士のくちびるがわななくのにわたしは気付いた。

「あれも初めて会った日よ。これから幼い女の子の面倒をみてもらうことになると碇司令に言われて、セントラルドグマの小部屋であなたに対面させられた。計画のための重要な子だと。あなたはとても小さくて、薄汚れていた。こんなひどい環境でどうしてあなたのような子どもが、と疑問に思ったけど、それを司令に訊ねる勇気はなかったわ」

 少し伏し目がちに、赤木博士は当時を語った。

「碇司令はすぐにその場を外した。あの人はいつも多忙にしていたから。わたしはあなたと二人で取り残されてしまった。子どもの相手なんてしたことないし、あなたはとても変わった子どもに見えたので、わたしは戸惑ったわ。どうしていいか分からずあれこれとあなたに話しかけて、思うようにコミュニケーションが取れないと分かると、途方に暮れてしまってそばにあったベッドに腰を下ろした。頭を抱えて、これからどうしようと考えている時だったわ。いつの間にかあなたがわたしの足元に近寄って来ていた」

 椅子に座る赤木博士は、かたわらに立つわたしの顔を見上げて、充血した目を細めた。

「あなたはとても小さかったの。赤い大きな瞳が、まっすぐにわたしのことを見上げていた。……気付いたら、あなたを抱き上げて膝の上に載せていた。あなたがとても軽いことに驚いたわ。小さくて、痩せていて、本当に軽かった。あなたを抱き締めたのに理由なんてない。でも、あえて言うなら、あなたの軽さが理由かもしれないわね。軽くて、頼りなくて、抱き締めていなくては不安でこちらが泣き出してしまいそうだった」

 言葉を切って、身体の横に垂らされたわたしの左手を取った赤木博士は、赤く着色された爪を持つ指で大きさを確かめるようになぞった。

「……あなたはほとんど何もしゃべらなかったけど、何時間もわたしの膝から降りなかったわ。わたしの脚はもうすっかり痺れてしまっていた。でも、不思議と自分からあなたを降ろそうとは考えなかった。数時間後、再び戻ってきた碇司令は、わたしがまだそこにいることに驚いていたわね。そして、彼に言われてわたしはあなたを膝から降ろした。いつからかわたしの服を握りこんでいた、あなたの小さな手を引き剥がして」

 彼女の手が、成長したわたしの手を握る。

「あの時、あなたを膝から降ろすべきではなかった。あなたの小さな手を無理矢理ほどくべきではなかった。でも、わたしは道を誤ったのよ」

「……セントラルドグマの、あなたと出会った部屋で、これを見つけました」

 わたしは後ろに回した右手に隠し持っていたものを赤木博士に差し出してみせた。それは、埃がこびりついた汚い紙包みだった。上部の破れ目からは尖った動物の耳のようなものが覗いている。
 プールを出たわたしはその足でセントラルドグマに向かい、かつて暮らした部屋を目指した。そこはすでに人が立ち入らなくなって久しく、かび臭い埃で埋まっていた。わたしの一番最初の記憶は、この部屋とともにある。しかし、灰色に朽ちたベッドの上に、わたしは記憶にないものを見つけた。それは奇妙な紙包みだった。その表面は、かつては綺麗な包装紙だったのだろうが、今はすっかり埃で色がくすんでしまっている。妙なことに、包みにはリボンがかけられていた。これも同じように汚くくすんでいる。持ち上げてみると、酷く軽かった。大きさも重さもわたしのクマタローと同じくらい。
 これを予感と呼んでいいのか、期待と呼んでいいのか、わたしには判断がつかない。だが、包みを破る手に躊躇がなかったことだけは確かだ。破れ目から覗いたのは、ぬいぐるみの耳だった。それを見たわたしは身を翻して、この場所を目指したのだ。

「懐かしいわ」

 赤木博士はわたしの左手を離し、震える手で薄汚れた包みを受け取った。彼女は赤い爪で破れ目をさらに開いて、中身を取り出した。出てきたのは猫を模したぬいぐるみだ。グレーの身体に黒い縞が入っていて、口の周りが白く、鼻はピンク。瞳は大きな透き通る青色をしている。密封保存されていたわけではないせいか、その猫はかび臭かった。

「赤木博士はこのぬいぐるみを知っているのですか」

「そうよ。これはわたしがあなたに贈ろうとしたものなのだから」

 なぜかわたしは彼女の告白に大きな驚きを感じなかった。何となくそうではないかと、ぬいぐるみを一目見た時から考えていたのだ。

「二回目にあなたに会いに行く時、持って行くはずだった。でも碇司令に咎められて……わたしは彼の強制に抵抗できなかった。だからこの子をあなたにあげることを諦め、あなたに優しく接することもやめて、道具として扱うことにした。臆病で卑怯だったから、楽な道を選んだのよ」

「それなのになぜ、あの部屋にこれが?」

「あなたに渡さないと決めたあとも捨てるに捨てられず、ずっと戸棚の奥にしまい込んでいたの。それからしばらく経ってあなたがあの部屋を立ち去ったあと、何となく気まぐれを起こして、もう誰も立ち入らないあの場所へ置きに行った。その時すでにわたしは、あなたを憎むようになっていた。認めるのはつらいけど事実よ。だからたぶん、わたしがぬいぐるみをあの部屋へ置き去りにしたのは、何も知らなかった過去の自分をあざ笑い、決別するため。そしてあの部屋の扉を閉め、過去の記憶に背を向けた。これもわたしの過ちだわ」 

「でも、わたしはあなたとの出会いを思い出し、あなたの記憶もまた消え去ることはなかった。そしてぬいぐるみは、わたしの手に渡った。過去にあなたがそうしようとしたとおりに。だからもう、過ちは正されました」

「今ならもっといいぬいぐるみをあげられるのよ。言ったでしょう、考えておいてって」

「わたしはこれが欲しい」

 わたしの言葉に赤木博士は短く笑い声を上げ、それから少し震えた声で言った。

「あなたへのプレゼントよ。ずいぶん遅くなってしまったけれど」

 差し出された猫のぬいぐるみをわたしは両手でしっかりと受け取った。

「ありがとう」

 あそこで赤木博士にお礼を言った時、本当はもう一つ訊きたいことがあったのだ、とわたしはエヴァのエントリープラグの中で思い出していた。
 実際に走っていたのは数秒か、せいぜい十数秒だろうが、一日中走り続けていたような気がしていた。脚の筋肉は張りつめて強張り、ひどく痛んだ。巨大な使徒の落下エネルギーを支えたせいで肩も軋む。
 あの時、わたしは訊きたかった。再びあなたの膝の上に載るには、わたしはもう成長しすぎてしまっただろうか、と。

「勝ったのはいいけど、あとでひどい筋肉痛になりそうだね」

 通信機から碇くんの声が聞こえてくる。ぼやいてはいるが、戦いが無事に終わってほっとした響きだ。

「ホント、脚も腕もパンパンだわ。フィードバックシステムも考えものよね。そうだ、シンジ、今夜あたしの腕と脚をマッサージしなさいよ」

 いいことを思いついた、とばかりのアスカの大声がそれに続く。疲労しているのは彼女も同じはずなのに、本当に元気がいい。

「で、できるわけないだろ、そんなこと」

「なんでよケチ。それくらいしてくれたっていいじゃない。あーっ、分かった! あんた、エッチなこと考えたんでしょ!」

「そんなことないよ!」

「信じらんない、エッチ、チカン、ヘンタイ! ねえ、レイ聞いた? バカシンジったら……」

「やめろよ、綾波にでたらめ言うのは!」

 わたしが口を挟む暇もなく、二人はあっという間に言い争いを始めた。本当に二人とも元気だ。わたしは座席の背もたれに体重を預け、けたたましい二人の声に耳を澄ませた。
 長い間ずっと、他人の声はわたしにとってただの雑音でしかなかった。ごく限られた相手、碇司令や赤木博士の言葉のほかは、他人が何を言おうとわたしの関心を捉えることはなかった。それが今ではこんなにも心地よい。多少、騒がしいところがなくはないが、彼らの話し声はわたしの心を和ませる効果があった。

「ふーん、いいわよ、いいわよ。あんたがそんなだったら、あたしはレイと二人でマッサージするから。あんたは一人で好きなだけ筋肉痛になりなさいよ。それであんたにわざと重いものを持たせたりしてこき使ってやるんだから。同情なんかしないわよ。せいぜいもがき苦しむといいわ」

「ひ、ひどいよ、アスカ」

「ひどくてけっこうよ。ね、レイ。あとで二人だけでマッサージしましょうね」

 疲労のせいか、様々なことに思いを巡らせていたせいか、話を振られていることに最初気付かなかった。そのせいで二人がいぶかしげに呼びかけてきた。

「レイ、どうかした?」

「もしかして怪我でもしたの、綾波?」

 二人の呼び掛けに何か答えなくては、とわたしは思ったことをそのまま口に出した。

「わたしも筋肉痛になりそう」

 その一言が碇くんとアスカに巻き起こした笑いは、わたしの理解を超えていた。別におかしなことを言ったつもりはなかったのだけど。

「はーっ、はーっ、お、おなか痛い、身体中痛い!」

 碇くんは息も絶え絶えにそう言った。

「こ、こら、笑いすぎよ、あんた!」

 と言いつつ、アスカも碇くんに負けないくらい激しく笑い続けている。
 本当にどうしたのだろう。
 二人の笑いの発作が治まったあとで、やっとわたしは理由を教えてもらった。しかし、やはり理解できない。わたしだって筋肉を酷使すればあとで痛みを生じる。筋肉痛になるのに似合うも似合わないもないはず。
 似合わない言動をしたらしいわたしをアスカはかわいいと評し、碇くんもそれを否定しなかった。これが馬鹿にされたのならともかく、二人の態度からは明確な好意が感じられたので、気分を害しはしなかった。あとでアスカとマッサージをしながら、似合う言動と似合わない言動についてもう少し理解を深めてみよう、とわたしは考えた。
 こんな風に、わたしたち三人が和やかな雰囲気に包まれていたから、本部に帰還して発令所に出頭した際に起きたことにはとても驚かされた。
 シャワーを浴びて、アスカとお互い簡単なマッサージをし合って筋肉をほぐし、服に着替えて更衣室を出たわたしたちは、廊下で待ちぼうけていた碇くんと合流して、一緒に発令所へ向かった。避難命令が出ていたので、発令所へ向かう途中で出会う職員はあまりいなかったが、それでもすれ違った数人は皆心からわたしたちを労ってくれているように思えた。
 作戦前に入ったのと同じ、中央スクリーンの正面。メインオペレートエリアに足を踏み入れると、そこにいた皆がいっせいにわたしたちを振り返った。数人のオペレータ、葛城三佐、そして白衣を着た赤木博士。
 わたしはまっすぐ赤木博士のそばへ向かおうとした。しかしそれよりも早く、白衣が翻るのが見えたと思った次の瞬間には、わたしの視界は何か柔らかく温かいもので塞がれてしまった。

「赤木博士?」

 きつい抱擁の中で首を巡らせ、この身を抱き締めている女性にわたしは呼びかけた。
 赤木博士は熱い息とともに、絞り出すような声で言った。

「よかった……本当に無事でよかった……」

 その声が肌に染み込むのが分かった。染み込んで、わたしの心に優しく降り注ぐのが感じられた。それはまるで、光でできた柔らかな雨のようだった。

「はい。赤木博士」

 彼女の乳房にほおを押し付け、斜め下から彼女の顔を眺める。間近にすると、肌の表面に施された化粧の下からやつれが浮き上がっているのが見える。そのやつれを洗い流すかのように透明な涙が流れ落ちていく。

「また会えましたね」

 赤木博士の濡れたほおに手を伸ばしたいと思ったのだけど、抱き締める力があまりに強くて腕を抜き取ることができなかったので、言葉だけを投げかけた。彼女はわたしの言葉にいっそう身を震わせ、わたしを抱き締めたままその場に膝を突き、へたり込んだ。
 膝を突いたオペレートエリアの床は、下に無数の配線が通っているせいか、存外に暖かい。ほとんど赤木博士の膝に載るように身体を預けたわたしは、彼女の肩に顔を埋め、まぶたを閉じた。体勢が崩れたせいで動くようになった腕は自然と彼女に巻き付き、その服をぎゅっと握った。
 ずっと昔、彼女に抱き締められた時の気持ちは、今となっては思い出すことができない。そして今、わたしが感じているこの気持ちも、はっきりと言い表すことは難しい。
 だが、確かにわたしは、この気持ちを求めていたのだ。もしかすると、ずっと昔から。
 わたしたち二人に起きた出来事に呆気に取られて言葉もない周囲であったが、しばらくしてから碇くんがひどく優しい声で、ぽつりと言ってくれた。

「何だかお母さんと子どもみたいだね」

 閉じたまぶたの裏側にゆらめく水面のきらめきを見た。
 それは溢れ、集まり、結晶して、わたしの外へ流れ出していった。
 好きという言葉には収まり切らない気持ちとともに。










− 続く −

 








なかがき


 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございます。

 レイのお話でした。
 思ったより長くなりました。
 このお話に含めようと考えていた部分を一部次へ回すことにしたので、これでも短くなったのですけど。

 映画「ターミネーター」シリーズで「嵐が来る」という台詞があるのですが、レイとシンジが屋上で話す場面の「夕立が来る」という台詞は、これを真似たものです。二作目と三作目はどうだったか忘れましたが、一作目と四作目でこの台詞が使われています。
 ちなみに関係ない話ですが「スターウォーズ」シリーズで登場人物が必ず口にするのは「I have a bad feeling about this.(イヤな予感がする。)」だったと思います。大抵オビ=ワンやハン・ソロやルークがイヤそうな顔で呟きます。

 この種のお話であえて使徒との戦いを出したのは、前回のレイの台詞「そのためにわたしは戦う」を引き継ぐためです。
 あの台詞のあとに「戦ってわたし自身の未来を掴む」というような感じのをうっかり入れ忘れていましたし。
 まあほら、使徒は空気を読まないものですし。
 ぬいぐるみだの何だのかんだのやっていても来ちゃう時は来ちゃうわけで。
 つまり、あくまでこれが本編世界と重なり合うところのあるお話であることを示す意味もあります。
 だからどうした、と言われると、困ってしまうのですけど。

 かび臭い猫のぬいぐるみはアメリカンショートヘアのイメージです。
 ヒカリがお弁当を語るのは以前にもやった気がするのですが、懲りずにまたやりました。
 メインオペレートエリアという言葉があるのかどうか知りませんが、マコッちゃんたちがいる場所のことです。彼らは名前さえ出ませんね。たぶんこのお話のレイは、彼らの名前をまだ知らないのだと思います。

 あと、マッサージと聞いて(読んで)エッチぃ想像をした紳士淑女の皆様は筋肉痛のシンジと一緒に廊下へ出ましょう。


 では、お読み下さった皆様。ジュン様。
 あと少しでこのお話も終わります。
 よろしければ、最後までお付き合いください。
 といっても、それは私が無事に最後まで書き終えることができればの話ですけど。
 ともあれ、ここまでお読み下さり感謝いたします。
 本当にありがとうございました。


 rinker/リンカ

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