マイリヴァー


リンカ     2010.7.7








 





 バカシンジから、色のついた細長い紙の札を渡された。
 中学校の教室でのことだ。
 一体それが何を意味するのか、まったく見当もつかなかったから、突き返すこともできなかった。
 今その紙の札は、学校からの帰路についているあたしのカバンの中にしまわれている。足取りに合わせてカバンが揺れるたび、かさこそとそいつが自己主張する音が聞こえるようだ。あたしは妙に重いカバンを引きずり、家までの道のりを急いだ。
 バカシンジというのは、バカのことだ。
 といっても、分からないかもしれないので、もう少しだけ補足説明する。
 バカシンジというのは、あたしと同級生で十五歳のバカのことだ。二人ともエヴァンゲリオンという人型兵器の元パイロットで、何ヶ月か一緒に暮らしていた。
 エヴァンゲリオンのパイロットとは何かというと、世界を救った英雄ということになっている。なっている、というのは、ようするに本当は英雄なんかじゃないということだ。あたしたちはただ、自分たちのごく個人的な問題に取り組んでいただけで、その間に世界は勝手に自らを救っていた。あるいは、まったく救われなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、その問題を検証するつもりはない。大事なのは、今あたしもあのバカも生きていて、もうパイロットなんかではなく、ただの中学生として、同じ学校に通っているということだ。ちなみに、今はもうバカシンジとは一緒に暮らしていない。あいつにあたしを押し倒す勇気がないとしても、世間はそうは見ないからだ。
 というわけで、バカシンジというのは、同級生で、元同僚で、前に一緒に暮らしていたこともあるけど今はそうじゃない、バカな男のことだ。

「せっかくだから、アスカも何かタナバタの願いごとを書いてみて」

 というのが、紙の札をあたしに渡す際にシンジが言った言葉だ。
 何がせっかくなのか、タナバタとは何なのか、せめて説明の一つもしたらどうなのか、と呆れてしまう。あたしが育ったドイツは、日本とは文化も慣習も大きく異なる。それなのに何でもかんでも暗黙の了解みたいに話を進められても、こちらは困るだけだということを彼はまったく分かっていない。
 相手があたしをよく知らなければ、まだ笑って許せる。でも、曲がりなりにもシンジは数ヶ月あたしと一緒に暮らしたのだ。昔からほとんど友達のいなかったあたしにとって、両親を除けば、シンジはあたしをもっともよく知っている相手なのだ。誰よりも気心が知れている存在といってもいいだろう。
 なのに、これだ。怒る理由は充分にある。
 家に帰ったら、さっそくタナバタの意味を調べてみた。分かったのは、日本における七夕(と書く)は、中国の行事と日本の伝承の合わさった言葉であるということだ。
 一般的な七夕伝承では、天帝の娘である織姫と牛飼いの彦星が結婚したが、結婚生活の楽しさのあまり、まったく働かなくなってしまったため、怒った天帝が二人を天の川を隔てて引き離し、一年に一度、七月七日にだけ会うことを許した、とある。七月七日には天の川にカササギが橋を架けてくれ、二人は会うことができるが、その日に雨が降ると、天の川の水かさが増し、二人は会うことができない。そして、二人が悲しみにくれて流す涙が、この地上に降り注ぐのだそうだ。
 手渡された紙の札は、短冊といって、願いごとを書いて笹に結びつける。これは日本にだけ見られる習慣で、もともとは技芸の上達を願う別の慣習が取り込まれたもののようだ。大きな祭りが行われる地域もあるようだけど、あたしたちが住んでいる街では、商店街を飾り付けるほかは特に何もないらしい。そういえば、ここ最近、商店街に見慣れない飾り付けがされていたのを見たような気がする。
 大体のところは、これで理解できた。
 シンジがあたしに短冊を渡したのは、一緒に七夕に参加しよう、という意図があるのだろう。まさか短冊だけ渡しておいて、あとは知らんふりを決め込むとは思えない。というか、もし本当にそんなことをしやがったら、あのバカの足を縄でくくって、短冊と一緒に吊るしてやる。とまあ、過激なことを言ってみたりもするけど、実際には、あいつがあたしの期待を裏切ることはないはずだ。どこかに笹も用意されてあるに違いない。あいつが山から切り出してくるのかしら?
 とにかく、それならそうと言ってくれればいいものを。何ごとにつけ、あのバカは言葉が足りない。あたしだって他人のことを言えたものではないかもしれないが、バカシンジと比べれば数段ましだ。
 ところで、あまりにもあたしがシンジをバカと呼びすぎるせいで、誤解されてしまうかもしれないから、一応釈明しておくが、あたしは別に悪意からあいつをバカ呼ばわりしているわけではない。かといって、好意からバカ呼ばわりしているのかといえば、それも微妙なところなのだけど、とにかく、あたしが口で言うほどシンジをバカだと思っているのではない、ということを忘れないでほしい。
 さて、それにしても願いごとに何を書けばいいのだろう。いや、素直に願っていることを書けばいいのでは、と思われるかもしれないが、調べたところ、笹には多くの人が自由に短冊を吊り下げるらしい。ということは、当然あたしの書いた願いごとも、広く一般の目にさらされてしまうということだ。別に記名するわけではないのだから、構わないといえば構わない。でも何となく、そう何となくだけど、あたしの本当の願いごとが公にされてしまうのは、困る。うん、困る。
 当たり障りのない内容で誤魔化すというのは、性に合わない。かといって、ドイツ語で書くというのもアンフェアな気がする。
 夕飯を食べ終わり、机の上に赤い色の短冊を置き、腕を組んで悩んでいると、携帯電話が軽快な音で着信を知らせてきた。かけてきたのはシンジだ。通話を開くと、最近少し低くなった彼の声が耳に飛び込んできた。

「今、話す時間ある?」

「なければ電話に出てないわよ。話って何?」

 あたしの返答が可愛くない、というのは正当な評価だろう。実際、あたしは大半の人たちから可愛くない性格だと思われている。ナイアガラの滝へ突き落とされる気分だろうな、とは、あたしに交際を申し込んで振られた男どもを評したシンジの友人の言だ。それこそ虹色に彩られた期待を抱いていたのに、実際のあたしは、寒気のするほど落差がある滝つぼでとぐろを巻いていたというわけだ。
 でも、誰も彼もが振り回すしっぽを持っているとは限らない。演技でならそれもできるが、あたしはシンジの前では演技できない。だから、こういう言い方をするしかないのだ。
 可愛くないあたしに付き合い慣れているのか、シンジは怒りもせずに言った。

「今日渡した短冊のことだけどね、あ、放課後に渡したあの細長い紙が短冊なんだけど。アスカ、七夕のことを知らないんじゃないかと思って。ごめんね、うっかりしてて」

 遅ればせながら、あたしがドイツ出身だということに気付いたというわけだ。
 と、憎まれ口を利いてもよかったのだけど、とりあえずあたしは相槌を打っておいた。

「ああ、あれのことね」

「そうそう。いつも一緒にいるせいか、アスカが日本に来て、まだ一年ちょっとしか経ってないってこと、忘れちゃうみたい」

 シンジは、それで自分のうっかりはすべて説明できると言わんばかりの口調だった。
 でも、あたしにとってはとんでもない話だ。

「いつも一緒になんかいないわよ」

 そんなはずないじゃない。
 現に今、あんたはここに、あたしのそばにいないじゃないのよ。

「あ……、そ、そうだね。ごめん、変なこと言って。何かなれなれしくて嫌だったよね」

 あたしの棘のある口調に何を思い違いをしたのか、シンジは卑屈な調子で謝罪した。
 まったく、これではまるで、あたしがただの意地悪みたいだ。あたしの言葉は、ただ単に現実をそのまま言い表しただけのもので、それ以上の意味はない。『いつも一緒にいる』というのは、あたしにとってはもっと緊密で、誠意あり、別ちがたい関係を言うものであって、あたしとバカシンジとの関係はそれに当てはまらない。あたしたちのはせいぜい『よく顔を合わせる』か、あるいは『しばしば行動を共にする』くらいのものだ。
 どちらにしても、シンジの勘違いを追求する気はなかったので、あたしは話を先に進めることにした。

「それで、七夕が何かを教えてくれるんじゃなかったの?」

 本当はもう自分で調べて知っていたのだけど、あたしはあえてシンジの説明の機会を尊重してやることにした。せっかく彼があたしに向かって知識を披露しようというのだ。滅多にないその機会を奪うのも忍びない。それに、そう……話を聞いてあげるくらいのことは何でもないし。

「ああ、えっと、そうだったね。うん。アスカは七夕、全然知らない?」

「ええ。知らないわ」

 もちろん、あたしの嘘がシンジに分かるわけはない。それから、彼は七夕について説明をした。大体、あたしが調べた内容と同じだった。

「この短冊を飾る笹はどこにあるの?」

 あたしは訊ねた。斧を片手にエキゾチックな笹林に入っていくシンジの姿を想像すると、なかなか滑稽だ。

「笹はね、学校にあるんだ。生徒会が企画した七夕祭りのために、一階のロビーの柱に結び付けてあるんだよ。アスカは見なかった?」

「あら、気付いてなかったわ。なぁんだ、あんたが切り出してきてくれるんじゃなかったのね」

「へ?」

「ううん、何でもない」

 困惑するシンジの表情が目に浮かぶようで、あたしは彼に分からないように少し笑った。正直、シンジがあたしのために笹を取ってくるのをちょっぴり期待していた。

「願いごとを書いた短冊は、生徒会室の前に置いてある回収ボックスの中に入れておけば、役員が飾り付けてくれるよ。もちろん、自分で付けるのも構わないと思うけど」

「ふぅん。あんたも書いたの?」

「うん、いや、まだ書いてはいないんだけど、ぼくも短冊は持ってるよ」

「ふぅん」

 シンジがどんな願いごとを書くのか、訊きたくもあったのだけど、そうするとこちらのほうも説明しなくてはならなくなる気がして、あたしはちょっと迷っていた。
 それにしても、考えてみれば、七夕というのは不思議な風習だ。父親の怒りに触れて、一年に一度しか会うことができなくなった夫婦が、地上の人々の願いを叶えてくれるなどと、どうして考えたりしたのだろう。どちらかというと、これは悲劇に近い。神でもある父親が愛し合う夫婦の仲を強引に引き裂く様子は、絶対的家父長制や儒教思想の反映だろうが、現代的な感覚からすれば、理不尽極まりない。愛し合う織姫と彦星にとっては、自業自得とはいえ、仲を引き裂かれ、年に一日しか会うことを許されない(雨が降ればそれさえも叶わない)というのは、幸福な結末とはいえないはずだ。そんな二人が、なぜ他人の願いまで気にかけたりしなければならないのか。
 それについてシンジに訊いてみると、彼は少し迷ってから答えた。

「確かにアスカの言うとおりかもしれないけど、織姫と彦星は、少なくとも、二度と会えなくなったわけじゃないし」

「だから、一日だけ会うことを許した父親の慈悲に感謝しろって?」

「うーん」

 シンジは困ったようにため息を吐いた。
 長い髪の毛に指を通しながら、あたしはゆっくりと彼の言葉を待った。

「たとえば、罪を犯した二人がいるとして」

 低く、穏やかで、慎重な声だった。
 あたしはかすかな相槌で続きを促した。

「たとえ一日であっても、犯した罪を許され、再会することができるのなら、それは幸せなことといえなくはない」

「でも、果たしてこれは相応の罰といえるかしら」

「……自分たちのことしか考えなかったのが、二人の罪。だから、一日だけ許された再会の日には、自分たちの幸福を他人にも分け与えなくちゃいけないんじゃないかな」

「永遠に?」

「いつかはすべてが許される日も来るかもしれない。天の川を越えて、今度こそいつまでも一緒にいられる日が来るかも」

 あたしは立ち上がると、窓を開け、ベランダへ出た。
 生ぬるく、じっとりとした風が頬をなでる。母国でも今ごろ、乾いた短い夏の訪れを迎えているだろうが、日本のこれとは比べものにならない。
 日が沈んでもなお濃密な夏の空気を深く吸い、あたしは頭上を見上げた。夜空は薄ぼんやりとしていたが、かすかに天の川らしきものが認められた。

「あんたって、相変わらず暗いのね」

 身も蓋もないあたしの指摘に、シンジはちょっと言葉を詰まらせた。

「う、そ、そんなこと言われたって。訊いたのはアスカだろ。昔のお話なんて、大抵は理不尽なものだよ」

「はいはい。ま、あたしだったら、大人しく言うことなんて聞かないけどね」

「アスカはそうだろうね」

「こら、納得しすぎよ」

 冗談めいたやり取りに、あたしたちは電話越しで笑い合った。見上げる夜空にまたたく星のどれがベガとアルタイルなのか、あたしには分からない。もしかすると、街明かりに消されて見えなくなっているのかもしれない。それでも、七月七日の再会の日には、あたしたちの声が、願いが、天の川の上で抱き合う恋人たちに届くのだろうか。
 二人の笑い声が何となく同時におさまって、ぎこちない沈黙が訪れた。声を出すのを迷った末、先にその沈黙を破ったのは、シンジだった。

「じゃ、じゃあ」

 でも、あたしは不意に衝動に駆られて、シンジの言葉を遮っていた。

「川……」

「え?」

 シンジは戸惑った声を上げた。でも、あたしは構わずに言葉を続けた。

「小さい頃、住んでいた場所の近くに、川があったの。そんなに大きな川じゃなかった。せいぜい幅が百メートルに満たないくらいの。他のいくつかの川と合流して、ずっと遠くにある北海へ注ぎ込んでいるのよ」

 電話の向こうで、シンジが耳をそばだてているのが分かった。あたしはささやくような声で、記憶にある川のことを語った。

「ドイツって、すごく寒いの。特に北のほうの冬は、本当に寒くて、何もかもが凍てついてしまう。その川も、真冬の一番寒い時期には、すべて凍結してしまったわ。川が凍ると、その上をみんなが渡った。スケートやそりで。自動車でさえ走るのよ。船の輸送ができなくなるから、その代わりにトラックが走るの」

「アスカもそこを渡った?」

 その問いかけに、あたしはくちびるをほころばせた。

「何度かスケートで滑ったわ。町中から集まってきた人たちに混ざって。一緒に滑ってくれる人はいなかったけど、楽しかった」

「ア、アスカ、あの……」

 シンジはなぜか口ごもった。こういうところがシンジの駄目なところだ。あたしは、嫌いではないけれど。

「情けないわねぇ。『今度はぼくが一緒に滑ってあげるよ』とか、気の利いたこと言えないの?」

 あたしはシンジをからかうために、そんなことを言った。
 でも、もし本当にシンジがそんなことを言ったら、彼には悪いけれど、きっとあたしはひっくり返って笑ってしまうと思う。それとも、泣いてしまうかしら。たぶん、その両方かもしれない。

「だだ、だって、ぼく、スケートしたことないんだ」

「あら。だったら、そりに乗せて、あたしが引っ張ってあげなくちゃ」

「やだよ。そんなみっともないこと」

「それじゃ、レッスンをしないとね。いつまでも手を繋いだまま滑るのは、それはそれで難しいと思うわ」

 それはそれで、楽しいかもしれないけど、ね。
 あたしの手にしがみつき、へっぴり腰で隣を滑るシンジの姿を想像して、実際に声に出して笑ってしまった。でも、電話の向こうで、シンジが少しむっとしたような気配を感じたので、気を取り直して、彼に謝った。

「からかって悪かったわ。慰めようとしてくれたのよね。ありがと」

「そんなこと……」

「珍しくあたしがお礼を言ってるんだから、黙って受け取りなさいよ。そうね、あのころ、一緒に滑ってくれる誰かが……それはたとえばスケートのできないあんたでもいいわけだけど、誰かがいてくれたとしたら、ずいぶん違った思い出になっていたのかもしれないわね」

「思い出」

 シンジがあたしの言葉を繰り返した。

「凍った川を滑る足を止めると、ある光景にあたしは目を奪われた。冬特有のいつも曇った空より、一面に雪を被った街並みより、いっとう白く輝くものが、あたしの足下からどこまでも伸びていたわ。それは、視界の果てまで続く、真っ白で平らな道だった。
 周囲のざわめきから、まるで切り離されたようだった。遮るもののない川の上を吹き抜ける強い風でさえ、あたしを避けていくような気がした。凍りつくような寒さの中で、あたしは一人、立ち尽くしていた。
 普通なら、船に乗らなければ、この川を下っていくことはできない。でも、今なら、スケート靴を履いている自分の足で、あたしは滑っていける。川の向こう岸なんかじゃない。この川が注ぎ込む、はるか遠くにある海へ。もし海も凍りついていたとしたら、その海さえも越えていける。ここじゃないどこかへ。あたしは滑って……逃げ出せるんだ、って」

 あの町の川は、今もあたしの心の中で凍りついている。
 まるで、神が巨大な筆でひと刷きしたかのように、白々と横たわっている。

「アスカは逃げ出したかったの?」

 シンジのその言葉がたまらなく優しくて、あたしはもう少しで泣き出してしまうところだった。

「本気だったわけじゃないわ。あたしは賢かったから、子ども心に、実際にはどこへも行けないってことが分かってた。たとえ、遠く離れた北海へ注ぎ込む河口まで、本当に滑っていったとしても、あたしはあたしの置かれた状況から、一歩も逃げ出したことにはならないんだって。でも、うん、そう……きっと、少しは本気だった。あたしは、たぶん、ひとりぼっちのさみしさから逃げ出したかったのよ」

「でも、逃げなかったんだ。アスカは強いね」

「強かったんじゃないわ。留まるより逃げ出すことのほうが、あたしには怖かったの」

「それでも、ぼくは、アスカより強い人を知らないよ」

 彼の心遣いは素直に嬉しかった。
 でも、やはり、あたしは強くなどない。
 今でもあたしの心の中には、白く輝く氷の川の上で立ち尽くしている、小さな女の子がいる。彼女は今この瞬間も、白い息を吐きながら、凍りついた川が伸びる先、果てしない彼方に、目を奪われ続けているのだ。

「ふふっ。だから、あのとき、もしも」

 シンジが、と言おうとして、あたしはゆっくりとまばたきをし、くちびるを噛んでから、慎重に言い換えた。

「誰かが、一緒にいてくれたとしたら、きっと、まったく違った思い出になっていたわ」

 もしも、天の川がいつか凍りつくことがあったとしたら、織姫と彦星は、手に手を取り合って逃げ出すのだろうか。今度こそ、永遠に寄り添っていられるよう。
 あるいは、それとも……?





 朝、通学路の途中でバカシンジの後姿を見つけたので、あたしはきわめて事務的な、面白くとも何ともないという対外的な仮面を顔に張りつけて、彼の背後に忍び寄り、それから耳元で特大のあいさつをお見舞いしてあげた。

「おっはよーっ!」

「うっひゃあ!」

 あたしにまったく気付いていなかったシンジは、文字どおり飛び上がって驚いた。その様子があんまりおかしかったから、あたしはおなかが痛くなるくらい大笑いした。うらめしげにこちらをにらむシンジには悪いと思ったけど、あたしの笑いはなかなか収まらなかった。

「ねえ、もういい加減にしてくれない」

 隣を歩くシンジが、横目であたしをにらみながら、むすっとした口調で言った。

「ご、ごめんごめん。だって、あんなに驚くとは思ってなくて。あんな風に、本当にまんがみたいに飛び上がるなんて」

 こらえきれなくて、またくつくつと笑うと、シンジは不機嫌な表情で、ぷいっとそっぽを向いた。

「だから、悪かったってば。そんなに怒らないで」

 あたしが手を合わせて謝ると、ようやく彼は、機嫌を直してくれた。

「まったくもう、心臓が止まるかと思ったよ」

「大丈夫よ。もし本当に止まっても、あたしが心臓マッサージして起こしてあげるから。それとも、キスで目を覚ますほうがいい?」

 あたしは可愛らしく小首を傾げ、挑発的に突き出したくちびるへ人差し指をあてがい、隣を歩くシンジの横顔を見つめた。
 でも、彼は何も答えようとはしなかった。

「こら、バカシンジ。ノリが悪いわよ」

 くちびるに当てていた指で、シンジの頬をつつくと、彼はどこかすねたような顔で言った。

「……ノリでそんなことされちゃ、たまらないよ」

 そんなこと、というのは、当然キスのことに違いない。
 ナイーブなのが悪いというつもりはないけれど、シンジの場合、もうちょっと図太くなるべきだ、とあたしは思う。
 ノリでも何でも、好きなら強引にキスを奪うくらいのことをしてみたって、罰は当たらない。女の子のほうだって、それでよろめくこともある。万一相手が怒り出すような子なら、それはそれで脈はないと諦めて、潔く怒られてしまえばいい。
 もちろん、あくまで、これはたとえばの話だけれど。

「そういえば、アスカ。今日短冊を持ってきてる?」

 シンジが、急に思い出した、とでもいうように言った。明らかに、話題を変えようという魂胆が見え見えだけれど、あたしもそれに乗ってやることにした。バカシンジをからかうのは、あたしの趣味みたいなものだけど、あまりやりすぎて本当の喧嘩になってしまうのは、嫌だからだ。

「持ってきてるわ」

「じゃあ、ロビーに寄って行こうか。アスカはまだ見てないんだろ、ロビーにある笹」

 校舎の一階のロビーには、本当にシンジが言ったとおり、大きな笹が飾られていた。四、五メートルはあるだろうか。吹き抜け部分の角に当たる柱に上手く結わえつけられており、青々とした葉には、たくさんの色とりどりの短冊や、不思議な形をした飾りが付けられていた。
 あたしとシンジが近づくと、笹に向かって立てられた脚立の上で何か作業をしていた男子生徒が、こちらを見て手を振った。
 その男子生徒の顔には、見覚えがあった。生徒会の会長で、確かシンジの友達だ。

「やあ。お二人さん」

 生徒会長は、軽快な足取りで脚立から降りてくると、しげしげとあたしたちを見て言った。

「今日も二人で登校かい。相変わらず仲がいいね」

「そんなのじゃないよ」

「ええ、そんなのじゃないわ」

 あたしたちは、息もぴったりに生徒会長の言葉を否定した。生徒会長はきょとんとした顔でこちらを見ていたけど、すぐに笑顔になると、大らかな調子で言った。

「はは、まあ、いいや。ところで、二人はもう願いごとを書いた短冊を飾りつけたかい?」

「いや、ちょうど今日、書いて持ってきたところだよ」

「惣流さんも?」

「ええ」

 あたしが頷くと、生徒会長はにっこり笑い、身振りで笹を指し示した。

「じゃあ、ちょうどいい。せっかくだから、自分で付けていったらどうかな。この笹はご利益あるよ。何せ、神社の裏山から切り出したのを神主さんが譲ってくださったんだ」

「七夕と神社って関係あるの?」

 あたしが質問すると、シンジは首を傾げた。

「さあ?」

「それじゃ、ご利益があるかどうかなんて分からないわよね」

 大体、笹を屋外に出さなければ、織姫と彦星からは見えないんじゃないかしら。

「いやあ、意外と細かいなあ、きみたち」

 生徒会長はあたしたちのやり取りに苦笑いしていた。それを見て気を遣ったのか、シンジが取り成すように言った。

「まあ、いいじゃない。短冊を付けていこうよ、アスカ。せっかくなんだし」

 何がせっかくなのかは知らないけど、シンジがこちらに笑顔を向けてくるから、あたしも肩を竦めて同意した。そもそも、本当にご利益があるかどうかにこだわってなんていない。
 葉を繁らせた大きな笹をあたしは見上げた。色とりどりの短冊は、比較的低い部分に付けられている場合が多く、上部はあまり飾りつけられずに残っていた。あたしの視線に気付いた生徒会長が、笹のそばに立てられた脚立を指差しながら、言った。

「もし上のほうに付けたければ、脚立を使っても構わないよ」

「あれに昇れって言うの、あたしに?」

 優に三メートルはある脚立を見て、あたしは顔をしかめた。制服姿のあたしは、当然スカートを穿いている。下着が見える程度のことをそれほど気にしたりはしないけど、登校してきた生徒たちが多数行き交う場所でスカートの中身を見せびらかすほど、サービス精神旺盛というわけでもない。
 でも、生徒会長は、あたしの反応に笑って、調子よく答えた。

「もちろん、シンジくんがきみのために昇ってくれるよ。ぼくが下で脚立を支えていよう」

「またそうやって勝手に……」

「あんたは嫌なの?」

 ぼやくシンジに訊くと、彼は肩を竦めて、笹を見あげた。

「アスカは上のほうに付けたいの?」

「一番高いところがいいわ」

「じゃあ、短冊を貸して。付けてあげるよ」

 赤い短冊をカバンから取り出して手渡すと、シンジはそのおもてに書かれたあたしの願いごとを見て、一瞬動きを止めた。それから、あたしのほうへ顔を向けて、自分のカバンを差し出してきた。

「ちょっと持ってて」

 カバンを受け取りながら、ふと思いついたあたしは言った。

「高いところでなくていいなら、シンジのはあたしが付けてあげるわ」

 実は少し、ほんのちょっとだけど、シンジがどんな願いごとを書いたのか、気になっていた。あたしの願いごとはもう見られてしまったわけだから、こちらだって彼のを見せてもらうのが、フェアというものだ。まあ、このバカのことだから、『健康に暮らせますように』とか、つまらない願いを書いているかもしれないけれど。
 あたしの申し出に、シンジはちょっと視線をさまよわせてから、小さく頷いた。

「それじゃ、お願い。カバンに入ってるから」

 シンジのカバンの中を探ると、短冊はすぐに見つかった。あたしは緑色のそれを取り出し、文面を眺めた。

 ――いつか、凍りついた川の上に、立ってみたい

 これが、シンジの願いごとだった。
 あたしはたぶん、相当変な顔をしていたと思う。しばらくして顔を上げると、シンジはもう脚立に昇って、あたしの願いごとが書かれた短冊を笹の葉に結わえつけているところだった。その足下では生徒会長が、脚立を倒れないように支えていて、上にいるシンジと、何か笑いながらやり取りしている。
 笹の葉に手を伸ばすと、薄く、硬く、細長い葉のこすれ合う音が、さらさらと耳に心地よかった。七夕について調べたとき、『笹の葉さらさら』と始まる童謡があるのを知ったのだけど、本当にさらさらという音がするんだわ、と妙な感心をしつつ、あたしは笹の葉に触れた手を何度か往復させた。
 シンジの短冊は、手の届く高さの、まだあまり短冊が結び付けられていない場所に結ぶことにした。あたしの短冊とは違って、充分に生徒たちの視界に入る高さだから、きっとこれを見た生徒たちは、奇妙な願いごとの内容に首を傾げることだろう。
 脚立から降りてきたシンジが、大きな笹のてっぺん付近を指差して言った。

「ほら、あそこだよ」

「うん。ありがとう」

 シンジはあたしの希望どおり、他のどの短冊よりも高い場所にあたしの短冊を吊るしてくれていた。
 別にあたしが高い場所が好きだから、そんな風に要求したわけではない。ただ、より空に近いほうが、願いごとも届きやすそうだ、と何となく思ったからに過ぎない。もちろん、織姫と彦星は現実に存在しないし、七夕の願いに本当に効力があるなんて信じてはいないけれど、こういったイベントを楽しむには、多少のロマンチシズムやセンチメンタリズムを発揮する必要があるのだ。
 それに、効力を本気にしていないとはいえ、願いごとの内容自体は本心からのものだ。切実とさえいってもいい。先ほど、あたしの願いごとを読んで、考え込むような顔をしていたシンジは、そのことに気がついただろうか。そうであればいい、とあたしは柄にもなく願った。
 回収ボックスで集められた生徒たちの短冊の束を手に、飾り付け作業に戻った生徒会長をあとにして、あたしとシンジは自分たちの教室に向かって歩き出した。

「ねえ、シンジ」

 あたしは隣を歩くシンジに話しかけた。

「なに?」

「あんたのお願い、あんなのでよかったの?」

 川が凍結する現象は、暖かい日本ではさすがに見られないだろうけど、パスポートと飛行機代さえあれば、シンジの願いごとはいつでも叶えられる。

「いいんだよ」

「その気になれば、すぐに叶っちゃうじゃない。どうせなら、もっと夢のあることを願えばいいのに。大体、どうしてあのお願いなの?」

 あたしに突っ込まれて、少し苦笑するような表情をしていたシンジは、自分自身に確認するように説明した。

「そこで何が見えるのか知りたいから、かな」

「……あんたって、ものすごく、物好き」

 別に凍った川自体に、何か見るべきものがあるというわけではない。あたしにはシンジの本心がよく分からなかった。昨晩あんな話をしたあたしを気遣っているつもりなのか、それともあの話に真実感じ入るところがあったのか。あるいは、単に川が凍結する現象に興味を抱いたというだけのことかもしれないし、ひょっとすると、あれであたしの気を引こうという魂胆なのかもしれない。
 いずれにせよ、こういう回りくどいことをして、直接あたしを口説こうとしないところが、バカシンジのバカなところだと思う。
 嫌いではないけれど。でも、やっぱり、バカ。

「アスカだって、他人のこと言えないと思うな。アスカのも夢のある願いごとには思えなかったけど」

 生意気なことを言うシンジに、あたしはつんとあごを尖らして答えた。

「あたしもいいの、あれで。あたしにとっては、充分夢のあることなんだから」

「まあ……、アスカがそう言うなら、別にぼくは……」

 シンジが何だかごにゃごにゃと口ごもるのを横目で見て、そ知らぬ顔を装ったあたしは、彼に言った。

「ねえ、もし本当に氷の川を見てみたいなら、まずはスケートの練習をしなくちゃね」

「ええ? スケート?」

 途端にシンジは情けない顔になった。運動神経が鈍いというのでもないのに、どういうわけか、シンジはこの手のことにチャレンジするのをためらう傾向がある。ことによると、同居していたころに彼があたしを押し倒そうとしなかったのも、チャレンジに尻込みしていただけが理由なのかもしれない。あたしの貞操のことはさておくとしても、やってみれば案外簡単なことは多いのに、臆病なせいで、シンジはずいぶん損をしていると思う。

「だって、普通の靴じゃまともに立てやしないわよ。それとも、氷の上にお尻で座って、手押しで進みたいの? お尻がしもやけになっていいなら、それも面白そうだけど」

「しもやけって何?」

 常夏の国で生まれ育ったシンジの疑問は、どこまでも純粋だ。真っ赤っかに腫れ上がったバカシンジの可愛いお尻を想像していたあたしは、少し気まずくなって、咳払いをした。

「……とにかく、スケートくらいできなくちゃ、話にならないってこと」

「難しいのかな」

 シンジは自信なさげに訊いてきた。
 まったく、こうして絶えずお尻を引っ叩かなくちゃいけないくらいなら、いっそ一度パンパンに腫れ上がるまで、しもやけにしてやったほうがいいのかしら。
 といっても、実際には口で言うほど、あたしは頼りないシンジに発破をかけるのを嫌がっているわけではないし、そもそも彼がそれほど頼りないとも思っていない。
 彼が弱気を言い、それにあたしが強気で答える、というのは、いわばあたしたちの間のコミュニケーションの一形式なのだ。傍目には理解しにくいことかもしれないけど、実際にはシンジがどれほど頼りになる男なのかを知っているのは、あたしが持つある種の特権といっていい。その特権を他の人と分かち合うつもりは、今のところ一切ない。
 そんなことを考えつつ、あたしはシンジを安心させるために、こう答えた。

「エヴァに乗ることに比べたら、楽勝よ」

 そう、あれに比べたら、何だって楽勝だ。あたしたちは、それを誰よりもよく知っている。当然、シンジにもあたしの意図はすぐに伝わった。

「そっか。そうだよね」

 シンジは顔をほころばせて頷いている。
 まったくもう、とあたしはこっそりため息を吐いた。駄目な男に惚れる女の気持ちって、こんな感じなのかしら。
 もちろん、あたしが口で言うほどシンジを駄目な男だと考えているわけではない、というのは、もはや説明するまでもないと思うけど。
 




 もし、今のあたしが、あの町の凍りついた川の上に立ったとしたら、何を思うだろう。
 そのとき、あたしの隣にシンジがいてくれたとしたら、何かが変わるのだろうか。
 あたしは想像する。
 今でも鮮明に記憶している、あの白く輝く氷の川に、シンジと一緒に立つ自分の姿を。
 幼いころ感じたさみしさは、今は感じられない。どこまでも伸びる氷の川は、あくまでただの川でしかなく、スケート靴を履いたあたしは、その表面を上手に滑り、まだスケートが下手くそなシンジは、ときどき転ぶ。
 あたしは、きっと笑っている。シンジも、きっと笑っている。あたしたちは、心からスケートを楽しんでいる。
 冬のドイツは厳しい寒さだ。それでも、白い息を吐きながら滑り続けていると、徐々に身体が温まってくる。充分に楽しんだあたしたちは、最後に凍った川の伸びる先を一瞥してから、固く手を繋ぎ、一緒に岸へ上がる。
 動かして上気していた身体は、すぐにまた冷えてしまう。でも、繋いだ手から伝わってくるぬくもりだけは、いつまでも失われることがない。
 あたしの中で凍りついている川が、曇った冬の日に差し込む日差しのような暖かさに溶け出し、流れていくのが分かる。あのさみしんぼの小さな女の子は、もうどこにもいない。
 空想は、不思議な予感を伴っていた。
 あるいは、案外本当に、あたしたちの願いごとが叶う日は、早く訪れるのかもしれない。

「晴れるといいわね、七夕」

 校舎の窓から、夏の青い空を臨みながら、ぽつりと呟くと、あたしの好きなシンジの柔らかい声が、優しく答えてくれた。

「うん。晴れるといいね」



 


fin.





あとがき

 当初、七夕のお話として、SFチックで切なめのお話を書いていたのですが、思ったより楽しくなく、すぐに筆が止まってしまったので、しかたなく、ノーマルな内容のものに切り替えました。
 とはいえ、やはり、ひとひねりを加えずにはいられませんでした。
 基本的に、変にひねっていたり難しかったりする内容のものより、単純にシンジとアスカがいちゃいちゃしているお話のほうが受けが良いのだろうとは思います。
 それが分かってはいても、変なお話ばかり書くので、いまいちな奴と思われているのかもしれません。
 その変なSF七夕も、いずれはどこかで日の目を見ることもあるでしょうか。

 アスカの語る川は、イメージとしては、北海に注ぐエルベ川の支流のひとつでしょうか。ドイツの北のほうです。
 幅百メートルというのは、流れている水の部分のみ指しているとお考え下さい。
 ドイツを流れるエルベ川などでは、実際に結氷して、氷塊が流れていくそうです。
 エヴァンゲリオン時空においては、根拠不明ですが、欧州が寒冷化しているという設定がよく見られますので、このお話でもそれに従い、アスカの故郷の川を完全に凍結させてしまいました。たぶん、スケートをするアスカの鼻水も凍る寒さです。
 このお話は、いわゆるEOEの後ということになりますが、気候はそのままで、日本は年中暑いということになっています。ですから、たとえ北海道に行ったとしても、結氷は見られないのかもしれません。
 私は凍った川というものを実際に目にしたことがありません。
 ですが、直線の線路が伸びる先を電車の最後尾や鉄橋の上から眺めていると、少し不思議な感覚を覚えます。
 そういえば、スケートをする人をrinkerともいうんですよ。
 それにしても、後書きにおいてさえ「これは本当に七夕のお話なのか?」と首を傾げざるを得ない空気が醸し出されていているのが、何ともいえません。

 さて、それでは。
 ここまでお読み下さった読者の皆様。掲載して下さったジュン様。
 本当にありがとうございました。



 rinker/リンカ

 





リンカ様から短編を頂戴しました。

管理人としては七夕イベントを見逃し三振かと思っていた矢先のご投稿でしたのでもうほくほくですよ、はい。

さてさて、アスカの願い事はいったいなんだったんでしょうね。
一般的に夢のあるものではなくて、かなえられやすいもの…。
あれか、それともこれか。
いったいなんだったのか、今日も眠れない(笑)。
二人だけの秘密だとアスカに鼻で笑われそうですね。
後片付けをするであろう生徒会長さんにこっそり教えてもらいましょうかねぇ。

本当にありがとうございました。

(文責:ジュン)

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