予想に反して、感慨は何もなかった。
 苦痛はほとんど瞬間的なもので、その圧倒的な衝撃の一瞬が過ぎ去ると、あとはもう底のない漆黒の慰安の中へ落ちていくのみだ。
 エヴァンゲリオン弐号機の搭乗者として選ばれてから十年。ひたすら訓練と学問に打ち込み、来たるべき使徒との戦いに備えてきたこの十年。そして、ようやくあたしの実力を誇示し、世界に認めさせる時が来たと思ったこの数か月。
 それらもすべて、一瞬のうちに泡と消える。
 やかましくがなり立てているプラグ内のスピーカー。
 全方位スクリーンを真っ赤に染める緊急アラート。
 それらを隅で捉えていたあたしの意識は、巨大な暗幕が音もなく滑り落ちるように、隙間なく塗り潰された。









明 日 香




リンカ     2011.5.28










 あたし、アスカ・ラングレー・ミヒャルケは、二〇〇一年十二月四日にアメリカ合衆国で産まれた。父をフランツ・ミヒャルケ、母を惣流・キョウコ・ツェッペリンとする。
 生後すぐに父の故郷であるEUドイツ連邦共和国に移住し、その後、四歳まで両親に慈しまれ、何不自由なく育つ。
 しかし、四歳の時、母が事故に遭った。
 彼女は当時、エヴァンゲリオンと呼ばれる兵器の開発に携わっていた。汎用人型決戦兵器とも呼ばれる、数十メートルもの体高があるこの巨大な兵器は、裏死海文書という古文書に出現を預言された人類の敵『使徒』に対抗する手段として、開発が進められていた。エヴァンゲリオンの操作は、搭乗者が精神同調を行い、思考によって自らの身体のように機体を操作するという特殊な方法による。これを提唱したのが、あたしの母だった。母は提唱者として、当時ドイツで開発されていたエヴァンゲリオン弐号機との接続実験を行い、そこで事故が起きた。
 この事故は母の命こそ奪いはしなかったが、代わりにその精神を壊した。母は病床で、娘のあたしだと思い込んだ人形を毎日抱き、あやしていた。こちらの呼び掛けには一切反応せず、人形の相手ばかりする母の姿が、今も記憶に焼き付いている。
 あたしがもっといい子なら、褒められるようなことをすれば、母は再びこちらを振り向いてくれるのではないか。
 幼心にそう考えたあたしを嘲笑うことは、誰にもできないはずだ。あたしは母の心を捉える材料としてあるものに目を付けた。エヴァンゲリオンを開発したゲヒルンという組織は、来たるべき戦いのために弐号機のパイロットとなる者を探していた。皮肉なことに、母の事故を代償として、エヴァとの接合について多くのことが解明し、現実の運用が可能になったのだ。だが、そのためには、パイロットを幼いころから長期間に渡り、訓練する必要があった。その候補者として選ばれた子どもたちの中に、母の娘として、アスカ・ラングレー・ミヒャルケの名前もあった。
 そこで、あたしは自ら進んでエヴァ弐号機パイロットの選別を受け、見事これに合格した。史上二人目のエヴァンゲリオン適合者。人類の敵から世界を救う英雄。何より、母が開発した弐号機のパイロットとして、娘であるあたしが選ばれたのだ。
 これならきっと母は喜び、誇らしく感じてくれることだろう。そして、人形ではなく本物の娘を、このあたしを見てくれるに違いない。
 逸る気持ちを抑えきれず、病室までの道のりをあたしは駆けた。
 でも……病室の扉を勢いよく開けて中に飛び込んだあたしが目にしたものは、天井から紐につながれてぶら下がる、すでに事切れた母の姿だった。
 首を千切られて白いベッドの上に転がる、母がアスカと呼び可愛がっていた人形。
 母が垂れ流した汚物の強烈な臭い。
 何より息絶えた母の、あのおぞましい表情。
 惣流・キョウコ・ツェッペリンと刻まれた母の墓標。それを前にし、あたしは涙を流さなかった。灰色の墓石の真下に納められた棺の中では、物言わぬ母の亡骸がゆっくりと腐りつつある。父は葬儀後すぐに、母を担当していた医者と再婚することを決めていた。冷たい雨の降りこめる葬儀の場で、あたしはそんな父に背を向け、一人きりで生きる決意をひそかに固めていたのだ。もし今泣けば、雨に緩む地面のように、固めたばかりの決意が崩れてしまう。だから、泣けない。もう二度と泣かない。
 その日から、あたしは父の姓を捨て、惣流・アスカ・ラングレーと名乗るようになった。
 




 くちびるへ触れて溶けた冷たい感触に目を開けると、灰色の空に真っ白な綿毛みたいな無数の雪のかけらが舞っていた。
 どうやらあたしは降り積もった冷たい雪の上に大の字になって倒れているようだ。
 状況を掴めずにいると、突然、甲高くて舌足らずな声が降ってきた。

「こんにちは」

 声のしたほうへ視線を向けると、三、四歳ほどの小さな女の子が、もこもこと着ぶくれした姿でこちらを窺っていた。

「……こんにちは」

 返事をし、頭をもたげる。ドイツでいつも着ていたダウンジャケットに包まれた自分の身体が視界に入る。周囲に広がるのは普通の町並みだ。どうやらあたしは除雪されていない歩道脇に寝っ転がっているらしい。
 よくよく観察すれば、町並みには見覚えがあった。道の向かいにあるのは、白ソーセージが絶品なエッダとオスカーの肉屋。店主のオスカーは父と幼なじみで、若はげの頭がいつもぴかぴか光っていて、ぽっちゃりした妻のエッダは、いつもおおらかな笑顔の優しい女性だった。同じ並びに、口うるさいけど優しいシャルロッテばあちゃんのおもちゃ屋。ここでクマのぬいぐるみが欲しいと泣き喚いて父を困らせたことがある。他にも、母がいつもパンを買っていたハンスのパン屋や、同じ幼稚園に通っていた意地悪なクヌートの両親が営む雑貨屋、おひげのおじいさんみたいな顔をした黒毛のジャイアント・シュナウザーがいつも表で寝そべっていたカフェ。
 記憶の中にある、四歳まで暮らした町の光景と寸分たがわぬものが目の前に広がっている。
 しかし、これは一体どういうことなの?
 なぜこんなところに? あたしのエヴァは? 赤いプラグスーツは? 使徒はどこへ行った?
 わけが分からずにいると、そばに立ってじっとこちらを観察していた、ころころした防寒ジャケットのかたまりが可愛らしい声でさえずった。

「おねえちゃん、なんでこんなとこでねてるの?」

 あたしは何と答えてよいか迷い、その小さな女の子の、大きくて真ん丸な瞳を見つめ返しながら、言った。

「さあ……、お姉ちゃんにも分からない」

 本当に分からないのだ。あたしは戸惑っていた。
 確かにあたしはエヴァに乗って使徒と戦っている最中だったはずなのに、何が起こったのだろう。
 途切れてしまった記憶を思い出そうとすると、心臓が嫌な音を立てた。

「全然……思い出せない」

「ふーん。へんなの」

 あたしの顔の横にちょこんと座りこんで、女の子は小さなくちびるを尖らせた。すっぽりと耳元まで覆う、てっぺんにぽんぽんの付いた毛糸の帽子からはみ出した女の子の髪の毛は、赤みの強い金髪だった。ぷくぷくして赤らんだ頬と真っ青な瞳には、物おじしない好奇心が強く表れている。
 その表情を見て、あたしは強い既視感に襲われた。この子の顔をどこかで見たことがあるような気がする。それも、とても馴染みのある顔だ。
 でも、まさかそんなことが……。

「ひょっとして、おねえちゃん、まいご?」

 女の子は、いかにも閃いたという得意げな表情を隠しもせず、あたしに訊いた。

「迷子……、かもしれないわ」

 あいまいに認めると、女の子は「やっぱり!」と毛糸の手袋に覆われた小さな手をぱむ、と叩き合わせた。

「アスカもね、まえはよくまいごになったの。でもね、もうおっきくなったから、おそとでもまいごにはならないよ。えらいでしょ?」

 得意満面という笑みを浮かべて胸を張る小さな女の子の顔をあたしは息を詰めて凝視した。
 彼女は自分のことを『アスカ』と言った。
 やはり間違いない。何がどうなっているのかは知らないけれど、目の前にいる小さな女の子は、この町に住んでいたころのあたし自身なのだ。

「どうしたの、おねえちゃん? どこかいたいの? アスカのせい?」

 こちらの表情が変わったのを見て取った小さなあたしが、首をかしげて不安そうに言った。
 あたしは安心させるように微笑んで答えた。

「ううん。何でもないよ。お名前はアスカちゃんっていうのね」

「うん! ママがつけてくれたんだよ。ママのパパのくにのことばなの。いみはね、えっとヨアケノ……ウ、ウツ……? 忘れちゃった! えへっ」

 照れ隠しに舌をぺろっと見せた女の子の姿に、あたしの作り笑いが本物の微笑みに変わった。
 でも、ふと疑問に思う。あたしの名前に込められた意味なんて、過去に母から聞かされたことが本当にあったのだろうか。

「ねえ、アスカちゃん。ママは……、アスカちゃんのお母さんはどうしたの?」

「ママ? ママはねえ」

 と、立ち上がった小さな女の子はこまみたいにくるっと勢いよく振り返った。その視線の先で、三十前後くらいの背の高い女性がちょうど近づいてくるところだった。おそらく女の子が面白いもの(つまり雪の上に寝転がったあたし)を見つけて、母親の元から駆け出したのだろう。女性は女の子の合図に気付くと、手を振りながら、ゆっくりと娘に追いついた。

「こぉら、おちびさん。勝手に飛び出していかないの。危ないでしょ」

 肩にかかるほどの金髪。薄いブラウンの瞳。優しげな表情を浮かべた顔は、娘よりも色濃くアジア人種の面影を有している。
 あたしは動くのを忘れ、息をするのさえ忘れて、その女性を凝視していた。
 この十年夢に見なかった日はない、元気だったころの母そのままの姿で、その女性は小さな女の子のかたわらに立ち、雪の上に横たわるあたしを柔らかく見下ろした。

「このおねえちゃん、まいごなんだって」

 母の脚に取りついた小さなあたしは、真上を見あげて言った。

「おとななのに、おっかしいよね」

 いかにもこまっしゃくれたその言い方を母はやんわりと咎めて言った。

「そんな言い方しちゃ駄目。別に大人が迷子になったっていいじゃない」

「ぶぅ。でも、アスカはまいごになんかならないよ」

「まぁ、本当?」

「ほんとうだもん。うそじゃないもん」

 そんなやり取りが交わされる間も、あたしは母の顔から目を離すことができずにいた。
 今目の前に見えているものが、とても信じられなかった。幻ではないのか。触れれば溶けて消える雪のかけらのように、もしあたしが声をかければ、いや身じろぎ一つするだけでも、あっという間に掻き消えてしまうのではないだろうか。
 あたしの顔は、きっと青褪めているはずだ。けれど、母はそれに怪訝な顔をすることもなく、いっそう微笑みを深くして、話しかけてきた。

「お嬢さん、具合が悪いの?」

「……い」

 震えるくちびるを叱咤して、あたしは母の問いかけに答えようとした。

「あ、あたし、……大丈夫、です」

「そう? でも、どっちにしても起き上がったほうがよさそうね。雪はあまりいいベッドにならないわ」

 そう言うなり母はコートの裾が汚れるのも構わず地面に膝をついて、横たわるあたしの身体を背中から支え、手を引っ張って助け起こしてくれた。身体は鉛のように重い。まるで一年も寝たきりになっていたようにぎくしゃくしている。でも、柔らかなレザーの手袋に覆われた母の手から伝わる仄かな温もりに促されるまま、身体は自然と立ち上がっていた。
 あたしのジャケットや髪の毛に付いた雪を母の手がごく何気ないしぐさではたいて落としてくれる。小さな女の子がそれを真似して、ジャケットの裾や脚をぺしぺしと叩く。
 呆然とされるがままになっていると、母は優しい声で言った。

「さ、これでよし。髪の毛もちゃんと整えて。素敵な色ね、あなたの髪」

 赤みの強いあたしの金髪を手のひらに一房のせ、母はにっこり笑った。

「わたしの娘と同じ色だわ」

 母が足元へ向けた愛おしげな眼差しを追うと、そこにはこぼれ落ちそうに大きな青い瞳とぷくぷくの頬、それに十年後も変わらない赤らんだ金髪が。

「おねえちゃん、アスカとおそろいっ、おそろいだねっ」

 小さなあたしは飛び跳ねるような言葉とともに、実際にその身体をぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねさせた。
 もし母にもう一度会えたなら、話したいことがたくさん、本当にたくさんあった。
 でも、実際にこうしてみると、言葉は何一つとして出てこない。もどかしさに喉をかきむしろうとしても、指先さえぴくりとも動かせない。
 母は口ごもるあたしのジャケットの襟元を直し、気遣うように優しく訊ねてきた。

「あなた、この町に住んでるの?」

「……いいえ」

「もし何か困っていることがあるなら、相談に乗るわよ」

 おそらく母は、あたしを家出した若者か何かだと考えているのだろう。
 実際、困っているのは確かだ。何しろ、今のこの状況がまったく理解できない。なぜ日本にいたはずのあたしが、昔暮らしていたドイツの町の、雪の積もった歩道脇に寝っ転がっていたのだろう。いや、そもそもあたしは使徒との戦闘中だったはずだ。なのに、どうしてこんなところで十年前に死んだ母と、幼児の自分自身と話したりしているのだろう。

「おねえちゃん、おうちにかえれなくなっちゃったの? もしアスカといっしょにきたかったらね、きてもいいよ。それでね、えへへ、パーティにね、ごしょーたいしてあげる!」

 ペンギンのひれみたいに両手をパタパタさせて、女の子はいかにも名案だとばかりに顔を輝かせて言った。この際『おねえちゃん』が困っている事実は考慮に入らないようだけど、このあたしにもこんな無邪気な時期があったのかと思うと、咎める気にもなれない。

「もうアスカ、あなた、ちょっと黙ってなさい」

 苦笑交じりの母に注意されると、小さなあたしはぷくぷくした頬を風船みたいに膨らませて言い返した。

「やだ。アスカはおねえちゃんがきてくれたらうれしいもん。おねえちゃんだってきたいっていってるもん」

 もちろん、そんなことは一言もいっていない、というのは小さな自分には関係ないらしい。どうやらこのころから強引でわがままなのは変わらないようだ。といっても、このくらいの歳ならまだ可愛げがある。けれど、十年経った今では、ただの嫌な性格の女の子でしかない。世界中の人間に認められるならそれでも構わないというのが、あたしの考えだったのだけど。
 ふと、日本での同居人の少年の顔が思い浮かぶ。それに保護者の女性や同級生、エヴァを運用するネルフのスタッフたち。わがまま勝手で鼻持ちならないあたしの相手をするのに、いつも彼らは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
 それなのに、どうして母はこんな風に、あたしのわがままがなおさら愛おしいと言わんばかりの表情をしていられるのだろう。
 母を亡くした日の衝撃が、心臓の太い血管を通って不意に生々しく甦ってくる。
 何ていう大切なひとをあたしは失ってしまったのか。
 本当に、言葉にならないほど大切なひとだったのに。
 十年前の誓いのとおり、涙は決して流さない。それでも、動揺が表情にあらわれないわけはなかった。母はそれを読み取ったのだろう、気遣わしげな顔でこちらを窺い、小さなあたしも困惑したように見上げていた。
 勢いをつけてしゃがみ込み、幼い少女と視線の高さを合わせて、精一杯微笑みかけながら問いかけたのは、あたしを押し流そうとする強烈な感情から逃れるためだ。

「アスカちゃん、今日は何のパーティがあるの? お姉ちゃんに教えてくれますか?」

「えへへ、んとねえ、きょうはねえ、アスカのおたんじょうびなの。アスカね、きょうでよっつになるんだよ。だからね、ママがおっきなケーキをやいてくれるの。クリストシュトレンとはべつなんだよ。くりーむいっぱいでね、しろくて、ふわふわやさしくて、すっごーくあまいの。あとね、アスカのだいこうぶつもいっぱい、いっぱーい、つくってくれるんだ」

 嬉しくてたまらないという満面の笑みで、幼児のあたしは長靴をはいたつま先でぴょこぴょこ跳ねながら教えてくれた。
 あたしの誕生日は十二月四日だ。そうか、この子は今日で四歳になるのね。
 喜びではちきれそうになっている四歳のあたしの頭をよしよしと撫で、あたしは言った。

「お誕生日おめでとう、アスカちゃん。お母さんのケーキ、楽しみだね」

「うんっ! ママのケーキ、アスカだいすき! うわーい!」

 こちらの手を取り、袖口を掴み、小さなあたしは全身で喜びを表現していた。

「あさってはね、アスカのおくつをきれいにしてげんかんのおそとにならべるの。そしたら、せいなるニコラウスがおくつにプレゼントのおかしをいれてくれるの!」

 興奮で真っ赤に染まったまんまるな頬を小さな手で押さえ、女の子は言った。
 あたしの誕生日の二日後、つまり十二月六日は聖ニコラウスの日だ。この日、ドイツの子どもはカトリックの聖人である聖ニコラウスからプレゼントか、あるいは鞭をもらう。

「欲張りなおちびさん。どうせ二十四日には、クリストキントと、ついでにヴァイナハツマンからもプレゼントをもらうって言うんでしょう。でも、いい子でなくちゃ、降臨節のプレゼントはもらえないのよ?」

「アスカ、いいこだもん! いつもママがおしごとでも、いいこにしてるもん……」

 幼子の切ない声に、母ははっとしたようだった。仕事でろくに家に帰ってこないということはさすがになかったが、それでも母は非常に忙しい人だったと記憶している。その分あたしは、母といられる時には可能な限りそばを離れず甘えていた。

「そっか。……そうよね。それなら、きっと聖ニコラウスもクリストキントも、素敵なプレゼントを下さるわね」

「ヴァイナハツマンは?」

「そうねえ……、アスカがだいきらいなニンジンをちゃんと食べられるようになったら、もしかするとうちにも来てくれるかもしれないわね」

「ええーっ?」

 小さな女の子は大きな不満の声を上げ、それから頬を膨らませたりへこませたり、散々思い悩んだ末に、決心を固めて、力いっぱいに宣言した。

「アスカ、にんじんたべる!」

「まっ、えらい。本当にできるかな?」

「がんばる!」

 母が死んで以降、あたしにとっては誕生日や降臨節は何の意味もなくなってしまった。なぜなら、あたしの誕生を祝ってくれる人などこの世にはおらず、あたしから母を奪った神への信仰も失ったからだ。
 こちらの手を取り、嬉しそうにはしゃいでいる小さな自分自身を前に、あたしは複雑な気持ちだった。もしこの場に母の姿がなければ、怒りさえ覚えただろう。でも、この幼子にそんなことを言って何になる? この子は幸せなのだ。かつて、あたしがそうだったのとまさしく同じように。

「プレゼント楽しみだね、アスカちゃん」

「うんっ!」

 女の子ははちきれんばかりの笑顔を浮かべ、身体全体で頷いた。
 そんな娘の姿を見て、母は少し困ったという表情を作りながら、微笑ましげに弁解した。

「まったく、この子ったら。ごめんなさいね、昨日からはしゃぎっぱなしなのよ。ほら、アスカ。お姉ちゃんをそんなに引っ張るんじゃないの」

「はぁい。えへ、へへへ」

 注意されてあたしを引っ張るのはやめたものの、まだ手を離そうとはせず、ころころとまるで鈴が鳴るような笑い声を立てている四歳の自分。あたしは悲しい気持ちを抑えながら、その姿を見つめていた。
 母の愛さえあれば満たされていた幼い女の子。
 でも、これからわずか三か月後に、世界一大好きな母を喪うことになるのだ。
 あたしが心から喜んで迎えられた最後の誕生日。
 何一つ疑うことなく幸せでいられた最後の冬。
 アスカ・ラングレー・ミヒャルケとして生きた最後の三か月。
 むろん、そんなことは今目の前にいる四歳のあたしや母には知る由もない。言っても詮ないこと。それは分かっている。
 しかし、それでもあたしは悲しかった。
 今この瞬間の彼女らがどれほど幸せに輝いていようとも、死は圧倒的な現実となって覆いかぶさってくる。そして、すべてを押し潰すのだ。

「この子がこう言っているからというわけじゃないけど、もしよかったら……」

 言いかけた母の顔を見上げ、あたしはゆっくりとかぶりを振って立ち上がった。

「お気遣い感謝します。でも、ごめんなさい」

 本当は、このまま彼女たちについていきたい気持ちが強くあった。エヴァのことも日本のことも忘れて、彼女たちとずっと一緒にいたい。真実あたしはそれを願った。
 けれど、行くことはできない。
 あたしにとって、母は十年前に首をくくって死んだ存在なのだ。
 今目の前にいる優しい女性にとって、娘とは四歳になったばかりの可愛らしくて小さな女の子のことなのだ。
 この状況が夢でも幻でも、あたしたちの間にあるその溝だけは決して埋まることはない。
 あたしは母に謝り、それから手を掴んでいる小さな女の子に視線を向けた。

「ごめんね、アスカちゃん。お姉ちゃん、お誕生パーティには行けないわ」

「ええー、なんでぇ?」

 小さなあたしは不満一杯に口を尖らせる。自分自身にずいぶんと気に入られたものだが、あたしは彼女の小さな手を優しくほどくと、毛糸帽をかぶった頭を撫でてあげながら言った。

「行かなくちゃいけない場所があるの」

「本当に大丈夫?」

 母はまだ心配そうな顔をしていた。他人としての立場ではあっても、四歳までの記憶の中でおぼろげだった母の優しさをじかに感じることができ、あたしは胸が詰まる思いがした。でも、この優しい人に向かって、決して母と呼びかけることはできないのだ。彼女があたしを『アスカ』として見ることは決してないのだ。だから、あたしの未練をこの母子に押し付けることはできない。

「はい。……ありがとう」

 あたしの心が変わらないことを見て取ったのか、まだ心配げな表情をした母は、諦めたように言った。

「分かったわ。無理強いはできないものね。なぜかあなたを見ていると、放っておけないような気持ちになるのだけど。それじゃあ、気を付けて。アスカ、わたしたちももう行きましょう」

 母が促すように女の子の手を引く。でも、女の子は急に思いついたように、母の手に逆らい言った。

「まって! おなまえ! まだおねえちゃんのおなまえきいてないよ!」

「あら、そういえば」

 と、母も頬を手で押さえてこちらを見た。

「おなまえがわからないと、おてがみがだせないもん。ヴァイナハテンにはアスカがおてがみをかいてあげるね」

 むろん名前だけで手紙が届くものではないことは承知の上だが、それでも母もあたしもそのことには触れなかった。
 ドイツの子どもたちは、ヴァイナハテン(クリスマス)にもらうプレゼントのリクエストを手紙にしたためてクリストキント(幼子キリスト)やヴァイナハツマン(降誕祭の男)に届ける。あたしもきっとクリストキントにリクエストの手紙を書いたことがあるのだろう。憶えてはいないけれど。
 当然それだけでなく、降臨節の時期には親しい友人や直接会えない親類に宛ててカードのやり取りもされる。この場合、女の子が言っているのはこれのことだろう。
 しかし、名前を問われて、あたしは黙り込んでしまった。幼子の微笑ましい言葉にこの場で付き合うのはいいとしても、まさか本当の名を明かすわけにはいかない。ドイツ広しといえども、アスカという日本名を与えられた少女がそう何人もいるとは考えられない。

「おねえちゃん、おなまえはなんていうの?」
 
「……エリィ」

 悩んだ結果、出てきたのは継母エリザ・ドレスラーの愛称だった。ドイツ人女性の名として、真っ先に思い浮かんだのがこれだったのだ。これはつまり、取り澄ました表情の裏側であれほど疎んじていたにもかかわらず、母国であたしと近しい女性が継母の他にいなかったことを意味している。あたしはエヴァパイロットになるということと、他人と適切な関係を築くということを両立させることができずにいた。

「じゃあ、エリィおねえちゃん。おてがみまっててね」

「ありがとう、アスカちゃん。今日は本当にお誕生日おめでとう。そして、よい降臨節を過ごしてね」

「うん!」

「アスカちゃんのお母さんも……、さようなら」

「ええ。エリィもよい降臨節を。もう雪の上で寝ちゃ駄目よ」

 いたずらっぽい母の言葉に、あたしはぎこちなく微笑で応えた。
 母が継母の名を呼ぶのを聞くのは妙な気分だ。エリザは、結果的にこの女性から夫を略奪したのだ。たとえ、当時すでに精神障害から回復する見込みがなかった母と父との夫婦関係の現実的継続が不可能であったとしても、その事実は変わらない。
 あたしはエリィと名乗ったことを少し後悔した。でも、これもまた言っても仕方のないことだ。悲しみは内に閉じ込めるほかなかった。

「さあ、ママのかわいいおちびさん。うちに帰るわよ。パーティの準備をしなくちゃ」

「アスカのパーティ?」

「そうよ。ママもパパもね、アスカがママたちのところに生まれてきてくれて、とっても嬉しかったの。だから、これまで一緒にいてくれてありがとう、これからも毎日元気にすくすく大きくなって素敵な女の子になってね、という感謝とお祝いをするのよ」

「ねえねえ、ママ? あのね、アスカもね、ママとパパのこどもになれて、とってもうれしかったよ」

 幼子の無邪気な言葉が母に及ぼした影響は劇的なものだった。表情というのは、ここまで雄弁になれるものなのだ。
 ああ、この人は本当に、本当に娘のことを愛している。
 母の表情を見たあたしには心底からそれが分かった。そして同時に、どうしようもないほど思い知らされた。あたしの母は、やはり死んだのだということを。

「ありがとう、アスカ」

 礼を言われて、小さな女の子は照れ臭そうに身をくねらせた。

「えへへ。うん!」

 手を繋ぎ合った母と子は、あたしに最後の一瞥を送り、背中を向けた。
 これでお別れだ。母と娘としての再会ではないとはいえ、何度も夢に見た機会はあっけなく終わろうとしていた。

「待って! もう一つだけ!」

 道に積もった雪に大小の足跡を残しながら遠ざかろうとしていた母と女の子をあたしはほとんど衝動的に呼び止めていた。
 振り返った母がこちらをじっと見る。あたしはその場に立ちすくみ、震える手をぎゅっと握りこんで、喉から声を絞り出した。

「一つだけ、お願いがあります……」

「いいわ。何?」

 あたしが立ちすくむこの場所から母と幼子が立つ場所まで、雪の上に続く足跡の列。
 空を舞う雪のかけらは、踏みしめられたくぼみに降り積もり、やがては跡形もなく消してしまう。
 あたしの心にだけ、鮮明な痕跡を残して。

「たとえこれから何が起こったとしても、どうかその子のそばにいてあげて下さい」

 母の顔に怪訝そうな色が浮かんだ。それはそうだろう。あたしの言葉は、まるで不吉な予言のようだ。
 果たして母が何を思ったのかは分からない。妙なことを言う女だと思ったかもしれないし、あるいはこの時すでに母には自らの未来について予感があったのかもしれない。
 あたしが何を言ったところで、しょせん起きてしまった過去が変えられないのは百も承知だ。しかしそれでも、この言葉を伝えずにはいられなかった。あたしは母に、世界の未来などより娘であるあたしのことを一番に考えていてほしかった。エヴァの開発がどれほど重要で偉大な仕事であったとしても、彼女には平凡な母としてそばにいてほしかったのだ。
 母はしばらくあたしを見つめた後、不思議そうに顔を見あげている幼子と繋いだ手をきつく握り、はっきりと頷いて答えた。

「分かったわ。約束する」

 雪の町の向こうへ遠ざかっていく母子の背中が見えなくなってしまうまで、あたしはじっと見送っていた。
 きっと、母の言葉は本心からのものなのだ。彼女の娘への愛情を疑ったことなど一度もない。
 しかし、それでも母は死に、あたしを孤独にする。

「ママの嘘つき……」

 こみ上げようとする涙を振り払い、あたしは雪の舞う灰色の空を見あげた。



 


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