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夢の人


リンカ       2005.4.24(発表)

挿絵:リンカ










「じゃ、おじさま。ありがとうございました。ほら、アンタもお礼を言いなさい」

「ありがと、おじさん。じゃあね、レイちゃん、お兄様。今日は楽しかったよ」

「・・・アハハ・・・。そ、それじゃ、えと、碇・・・くん。またねっ」


勢いよく言ってから、アスカは少年の父に向かって頭をペコリと下げ、そして自分の家の
玄関へとカヲルの手を引いてそそくさと歩いていった。
それを見送ったゲンドウは同じく彼女達を見送っていたシンジをちらりと見やり、
次いでアスカとカヲルに向かって小さな手のひらをブンブン振りながら
バイバーイ、と叫んでいるレイの様子に微笑んでから愛車のハンドルを握り直した。


「それじゃ行くか。シンジ、レイ。何が食べたいか、乗ってる間に考えるんだぞ」


言って、惣流邸の前に停車させていた車を再び発進させた。
何故彼らがこうしていたかというと、アスカ達が帰る段になって予想外に天候が崩れ、
霧のような雨が降り出してしまったのだ。そして当然のように家を出る日の朝どころか前日の夜から
何度も天気予報を確認してその情報を信じていたアスカは、雨に対する備えをしていなかった。
そこでゲンドウが家まで送ると言い出したのだ。
アスカは無論のこと慎み深く遠慮をしたのだが、そんなものを受け入れるような人間は
碇家にはいなかった―レイは除くべきだろう。何故なら彼女は話がよく分かっていなかった―ので、
ともあれそうして車に5人乗り込んで、歩いても10分少々という距離をドライブすることと相成ったのだった。






「どうだ、シンジ、レイ。今日は楽しかったか」


ゲンドウが車を走らせながら子供達に訊いた。


「あーい。あのね、あのね、ちゅみきしてね、おしろちゅくったの。そいでね、かおーがばーんてこわしたの。
おねちゃがね、めっていったの。そいで、そいで、おえかきしてあたまなでなでしてね、いちごおいしいの。
それからにいちゃが・・・」


レイが幼児用のチャイルドシートに座って足をバタバタさせながら興奮気味に支離滅裂な言葉を
捲し立て始めた。信号待ちで停止中に後ろを振り返り、薄暗い車内に咲いた花のように娘の頬が
紅潮しているのを見て、ゲンドウは心底からよかったと思わずにはいられなかった。
シンジも色々とレイの為に考えているのだな、と本来は親が与えるべきであったろう機会を
設けてくれた息子に彼は感謝した。乳幼児達の繋がりはそのまま母親達の繋がりでもある。
だがユイはおらず、普段シンジが公園へレイを連れていってもその時間にはもう子を連れた
母親達はいないし、そう頻繁には息子も妹を外へ連れ出せない。もう少し大きくなって小学校に
入れば変わってくるだろうがと思いはするが、誰か友達に会えるのが保育園の中だけというのも
寂しいものだ。
前にも確かシンジはレイを連れて友達のトウジ君の所に遊びに行ってたな、とゲンドウは思い出した。
本当なら同級生達と思う存分好きなことをして遊びたいだろうに。
だが、ここで息子に同情しても始まらない。
興奮して些か疲れた様子のレイに返事をした後、ゲンドウはシンジにもどうだったかと改めて訊いてみた。


「どうって・・・レイが喜んだみたいでよかったよ。保育園でもいつもカヲル君、
レイと遊んでくれてるみたいで・・・クラスは違うんだけどね。何かね、レイのことが好きみたいだよ」


シンジは嘘偽りなく自分の気持ちを答えたつもりだった。どうだったかと訊かれれば、
レイがどうだったのかということが一番重要でそれが真っ先に口をついて出たのだ。
妹が楽しんだから自分もよかったと。
その辺りがシンジのお人好しで面倒見がいい所でもあり、同時に損な性分でもある。
相変わらずな息子に微苦笑しながら、ゲンドウはどうしても気になっていたことを
訊いてみたくなった。何しろ彼は純な息子をからかうのが好きなのだ。


「ほう、そうか。で、シンジ。アスカちゃんの方はどうなんだ?」

「は?惣流さん?」

「そう。その惣流さん。中々可愛い子だな」


シンジは父の緩んだ目尻とその口調に、からかう気満々だと気付いた。
こうなると彼にはどうしたって父親を止められないのだ。そして勝てない。
無駄と知りつつ、何を言い出す気だとミラーの中の父を睨むと、ゲンドウは可笑しそうに続けた。


「お前が朝クラスメートだと言った時はてっきり男の子だと思ったぞ。トウジ君とかな」

「・・・惣流さんは初め保育園でばったり出くわしたんだよ。それでレイの友達のカヲル君の
兄弟だって知ったんだ。カヲル君はいつもレイと遊んでくれてるみたいだったから」

「ほほう、ばったりな。それで仲良くなった訳か。なるほどな」

「別に特別仲がいいって訳じゃ・・・」

「そうか?お前、女の子を呼んだことなんてなかったろ」

「だからそれはカヲル君を・・・」

「ふんふん。まあ、何だな。女の子と仲良くするのはいいことだ。可愛い子なら尚更だな」

「・・・どういう意味さ」

「どうもこうも、シンジ。ガールフレンドは可愛い方がいいに決まってるだろ」


にやつきながらゲンドウがそう言うと、シンジは、ガッ、と口を開きかけて固まった。
そのまま口をアグアグさせている息子の姿に、可愛い奴め、と思いながら、
意地悪な父親は更に続けた。


「お前も成長したもんだ。ガールフレンドを家に連れて来るようになるとは。
しかもあんな可愛い子はそうそういないぞ。中々面食いだな。それに礼儀も悪くない。
俺としてはアスカちゃんなら十分及第点だな。母さんだって文句言わないぞ、きっと」


大分話を飛躍させて好き勝手言っている父に、シンジは顔を赤くさせたり青くさせたりしながら
どうにか言い返そうとしているが、ゲンドウはもう少しの間この可愛い息子をいたぶりたいという
己の欲求に従うことにした。


「さっきアスカちゃんの家族に挨拶しとくんだったかな。これからのこともあるし。なあ、シンジ?」

「こ、こ、これからって何!大体ガールフレンドなんかじゃないってば」


漸く硬直から解けたシンジにゲンドウはほくそ笑んだ。妻が息子をからかうのが好きだった
理由がよく分かる。と同時に、自分をからかうのが大好きだった理由もよく分かってしまうのが
彼には複雑ではあったが、つまりはゲンドウとシンジはよく似ているのだ。
言い募られて詰まってしまう所もそっくりなら、恥ずかしがったり慌てたりする事柄の傾向も同じだった。
ユイにもう少し似ていれば器用になれたのにな、と息子の不幸を人事のように哀れんだ。
彼の亡き妻は器用と言うより大胆と言った方がいいかもしれなかったが、
とにかくこの不器用でシャイな男からすれば、彼女はまったくもって理不尽なくらいに魅力的な暴君だった。
竜巻のような彼女に手も足も出ず、巻き上げられ絡め取られて愛を誓う羽目になったのだ。
きっと息子もそうなるに違いないと人生の先輩としては可笑しくてならなかった。


「何だ、違うのか?恥ずかしがることはないぞ、シンジ。父さんは反対して苛めたりしないからな」


むしろあの子なら大歓迎なんだがな、と内心では思いながらも、本当にそうなってはくれないだろうかと
口を尖らせて拗ね出した息子の顔を窺った。そういえば前に喧嘩をしたらしいクラスの女の子とは
アスカちゃんのことなのではないだろうかと不意に気付き、もしそうなら益々悪くないとゲンドウは
思ったのだが、結局この子はまだ子供で、恋といってもピンとは来ないのだろう、とも分かっていた。
これでも一年か二年経てばふとした拍子にいとも容易く変わるのだろうが、今はやはり興味がないらしい。
端から見ていればアスカのシンジに対する友情以上の好意はありありと感じられたが、
肝心のシンジがそれを感じ取っていないのでは話にならないし、彼女にしてもどこまでの気持ちなのか、
さすがにそこまではゲンドウには分かる訳もなかったので、これくらいにしておくことにした。


「まあ、冗談はこれくらいにして・・・シンジ、怒ったのか?」

「怒ってなんかないもん。別に気にしてないもん」


頬を膨らませて顔を背けてしまった息子に、いよいよ拗ねてしまったとゲンドウは苦笑した。
窓ガラスの水滴を手を伸ばして拭いて薄暗い外の景色を眺めていたレイが、シンジの様子に
気付いて自分も真似して頬を一杯に膨らませた。次いで息を吐きながらぶうーっといわせたのに
シンジはむっとして彼女の頬を摘まんで伸ばした。


「やーん」


レイが腕を振りまわして抵抗するが、シンジはそれを意に介さず妹の餅のような頬を弄ぶ。
彼はゲンドウが言ったことを考えていた。ただ単にからかわれただけだとは分かっていたのだが、
それでも彼は考えずにはいられなかった。ガールフレンドなど考えたこともなく、テレビや映画の
恋愛話など彼にとっては遠い出来事だった。およそ現実味のない、自分とは関わり合いのない
ものだとずっと思っていたのだ。今までにこうした話題で具体的にからかわれたことがあったのは
精々バレンタインデーにポストに差出人不明のチョコレートが入っていた時くらいのものだった。
母や父はそのチョコレートの可愛らしい包装を見てどんな女の子か想像を巡らせ、碇シンジくんへ、と
丸っこい字で隅に書いてあるそのいじらしさに息子をからかって楽しんでいた。
当然身に覚えのないシンジがまともに答えられる訳もなく、ただチョコレートの甘さに
からかわれたことへの釈然としない思いを抱える、年に一度の行事みたいなものだった。
シンジにとっては恋と自分との関係とはその程度のものだったのだ。
いつか大人になれば結婚する。それは子供である彼にとって自明の理であるように思われた。
しかし、子供である今現在から大人になってする結婚までの間の過程として、
恋愛という項目がすっぽり抜け落ちていることには気が付いていなかった。
無論成長するにつれ恋愛というものが非常に重要なファクターであることは何となく分かってきたが、
それも実感を伴うものである訳もなく、好きだ嫌いだと騒ぐ気持ちは分からなかった。
シンジは運転席の父を見た。父さんも母さんと“恋愛”してから結婚したのかな、と不意に
両親の過去の軌跡に思いを馳せた。それは想像し難いことであった。
何故ならシンジが生まれた時から彼らは父であり母であったのだ。父は常に山のように大きく、
何だって出来てしまう神様みたいなすごい存在で、母は優しく温かく、魔法みたいに美味しい料理を
作ってくれて、いつも自分を包んでくれる誰よりも好きな存在だった。
そして父と母は初めからふたりでひとつだったのだ。
ところが彼らがかつては自分と同じような子供で、そしてやがて出会い、恋愛を繰り広げたという、
そんなことを想像しろと言われてもシンジは殆ど気が遠くなる思いだった。
アスカのことを好きか嫌いかと問われれば好きだと答えるだろう。
しかしそれは限りなく“どっちでもない”に近い“好き”だ。
何故なら嫌いではないが自分はきっと恋をしていない。そもそも恋とはどういう気持ちなのだろうと思った。
トウジ達を好きだと思う気持ちとどれだけ違うというのだろう。ドキドキすれば恋なのだろうか。
そういえばアスカを綺麗だと言った時にドキドキして顔が熱くなったが、それは単に恥ずかしかったからだ
とシンジは頑なにそう思い込もうとした。断じて彼女に惹かれたからではない、と。
何故彼が恥ずかしく感じたかというと、この年頃の男の子は女の子に興味を示したり接したりするのが
恥ずかしいからだ。それは男女の変化が現れる頃であるからでもあり、男の子のコミュニティからの
逸脱であるからでもあり、そして恋愛への畏怖を感じるからでもある。
柔らかな丸みを帯び始める少女に少年は神秘と性を意識的にせよ無意識にせよ感じ取り、
そして無邪気な男同士の友愛から外れてどこかへ行ってしまうことを怖れ、恋愛という未知の
感情と体験に憧れと怖れの綯い交ぜになった思いを抱き、同時にそれによって自分が変わって
しまうことを予感してこの途方もない化け物に身構えるのだ。
きっと本当に恋に落ちてしまえばシンジの戸惑いや逡巡は全て流れ去ってしまうのだろう。
恋焦がれる存在を追い求めるのに夢中になってしまうから。だが今はまだその時ではない。
シンジにとっては求めるものはこの狭い車の中に全てあった。すなわち父と妹と。それで十分だった。
レイの頬を両手で挟んでぶにぶにと押していた彼は溜息を吐いた。
無邪気なレイが羨ましかった。少なくとも今は幼い彼女が兄と同じことで悩むまでにはまだ時間があり、
そして兄と違って女である彼女にとっては悩み方も違うだろう。とかく恋に興味を持つのは女なのだ。
興味がないのに引き摺り込まれ飲み込まれて何か違う生き物に変えられてしまうなんて、
何という理不尽なのだろうと、世の中への怨嗟の声を口中に押し留めた。


「こらこら。レイで遊ぶんじゃない。で、何が食べたいかは考えたのか?」


ゲンドウがシンジを窘めながらそう訊いた。車で出たついでに少しの間ぶらぶらしてその後
外食して帰ることにしたのだ。父の問いかけにシンジはようやく妹のぷにぷにした頬を解放して、
それから宙を仰いで思案した。


「そうだなぁ・・・。レイは何が食べたいの?」

「いちご」

「いちごは今日食べただろ。ていうかご飯に何が食べたいか訊いてるの。他には?」

「ん〜・・・かれーらいしゅ」

「・・・昨日食べたな。他にはないのか?シンジはどうなんだ」

「うーんとねぇ・・・ハンバーグ?」

「ぎょーじゃ」

「ああ、餃子もいいかも」


同じ角度に首を傾げている子供達にゲンドウは笑って言った。


「じゃ、そのどっちかだな。後10分で決めておけよ」


霧雨の降りしきる灰色の街中を彼らは走り抜けていった。












「で、どうだったのかしら?参考までに聞かせてもらえる?」


アスカの背を流しながらマリアが唐突にそう尋ねた。
この日も再び一緒に風呂に入ろうとアスカは姉に誘われたのだ。どう見ても何かからかう気だと彼女は
姉の微笑みの奥に不穏な気配を感じたが、素直に従うことにした。それくらい気分がよかったからだ。
気分がいい時、人間は寛大になったり大胆になったりする。アスカはこの極悪非道の姉が仕掛ける攻撃を
受けて立つ気になってしまったのだ。この休日の前から落ち着かなく過ごしていたアスカの様子は
家族皆にあからさまに映ったし、何よりカヲルの素晴らしく素直な口からこの日のイベントはいとも簡単に
知れ渡っていた。という訳で、最近真ん中の妹が可愛くて仕方ない、というよりは構いたくて仕方ない
恋人無しの長女は例によって秘密の会話が出来る浴室に妹を連れ込むことにしたのだ。
しかもどういう訳か裸になると口も滑りやすくなる。アスカに限ったことなのか皆そうなのかは知らないが、
とにかくマリアは妹の真っ白な背中を泡だらけにしながら本日のメーンイベントに着手することにした。


「どうって・・・カー坊は楽しんだみたいよ」

「アタシはアンタがどうだったかって訊いてんの」

「ア、アタシは・・・その・・・」

「シンジ君と何か進展があったかしら。そうね、その子の特別になれるような何かが」

「・・・別に」


どことなく不貞腐れたような声でぼそりと答えたアスカに、マリアははっきりとした進展はなかったのだと
早くも悟った。以前に一緒に風呂に入った時に既に事のあらましを巧みに聞き出していた彼女は
内心で、面白くないわ、と思いながらも切り口を変えてみることにした。


「彼のパパ、どんな人だった?送ってもらったんでしょ。ママなんかお礼を言えばよかったって
言ってたけど。ね、どんな感じ?愛しのシンジ君に似てるのかしら?」


姉の問いにアスカは顔を上げて、今度は楽しそうに答えた。


「あ、アイツのパパはね、結構格好よかったわよ。アイツとよく似てた」

「へえ、アスカが格好いいって認めるとは中々やるわねぇ。どんなの?」

「えっとね、背が高くってすらっとしてて、髭生やしてる」

「髭?」

「そう。顎の端から端まで。レイちゃんがね、自分のパパのこと、くまさんって言って歌うのよ。
初めに見た時、ホントにもじゃもじゃで驚いちゃったわ。あと、目がアイツに似てるの」

「ふぅん。さてはアスカはシンジ少年の目元が好きなのね」

「そ、そ!そんなことないわよ!目元だけじゃなくて・・うきゃあっ!!」

「声が大きい!」


興奮して大声を上げたアスカを止める為にマリアはちょっと手を滑らせた。
何しろ浴室は反響がする。わんわんと煩いことこの上ないし、加えてこれでは外へ丸聞こえだ。
多分今の彼女の悲鳴に父が何事だと腰を浮かせただろうとマリアは思った。ついでに言うなら
弟のキョウタは楽しそうだなと振り返っただろうし母は何事か完璧に理解して微笑んだだろう。
それはともかく、滑った手がどこへ行ったらアスカがこんな素っ頓狂な悲鳴を上げるのかは
置いておくとして、泡だらけの彼女の背に湯を掛けてマリアは自分の背も流してくれるように頼んだ。
妹はぶつくさと文句を言いながら姉の滑らかな背をスポンジで擦り始めた。


「けーっきょく、シンジ君の全部が好きなんでしょ。まったく」

「そ、そんなんじゃないもん」

「ハイハイ。で、シンジ君のパパのことも気に入ったのね」

「う・・・むぅ」


言われたことは間違っていないのでしゃくに障ってもアスカは言い返せない。
ゲンドウが帰ってきて以後の時間で、彼女はこのシンジの父のことが俄然気に入ってしまった。
シンジと並ぶと本当によく似ているのだ。それは外見だけでなく、むしろ性格の方が
より似ているのだと分かった。彼女は彼ら親子を可愛いとさえ感じた。
シンジの全てが好きだということも事実だ。彼女は彼の全てを知っている訳では無論ない。
それでも全てが好きなどと夢見がちなことを言う所が小娘の証だと言えばそれまでだが、
むしろ彼女にとってはシンジの存在そのものが好きなのだと言うべきかもしれなかった。
そうした訳でアスカが唸りながら姉の背を泡だらけにする作業に専念していると、
不意にこの日一番自分の胸を打った出来事を思い出した。
アスカはシンジに綺麗だと言われた時に何とも不可解な、恥じらいや嬉しさに混じった
切なく懐かしい想いが胸を過ぎった。
正確には自分は綺麗だろうと問うて、彼がそうだねと答えたのだ。
自分で問い詰めておいてどうかと思いながらも、恥ずかしくまた嬉しいのは事実だったのだが、
それにもうひとつ、彼女にとってはこれは意味のある事だった。
容姿にそれなりの自負はあるが、この少女にとってはそれは微妙な問題だった。
この国では自分は異邦人なのだ。外見的に。兄弟達は皆大なり小なり自分と同じ問題を抱えている。
幼い頃から外では奇異の目に晒される事が多かった。子供とは残酷なものだ。
しかし家に帰れば家族がいる。だからアスカはそれに耐えられたが、
とはいえ傷付いていたのは事実で、そしてある時少女の身に革新的な出来事が起こった。
アスカとシンジは5年生で初めて同じクラスになった。
お互いの事を知ったのもそれからだと、シンジは思っているだろう。
しかし実の所彼女は6歳のころからこの少年を知っていた。
小学校に入っても紅い髪と青い瞳に対する視線はそれまでと大差なく、
むしろ幼児よりも成長した同級生達からはより苛められたと言ってもいい。
ある日アスカが公園で、偶々出会った同級生達にまた囃し立てられていると、
そこに少年が現れた。
本当に偶然行き会っただけだったのだろうし、そして彼にとっては然したる深い理由もなかったのだろう。
だがその少年は自分を庇ってくれた。
彼女を苛めていた子供達はよもや闖入者が現れるとは思ってなかったのか、
興が冷めたとでもいった風情で去っていき、そして振り返って微笑み掛けた少年の笑顔に、
アスカは初めて泣いた。
今までは耐えられた。何を言われようが家に帰れば両親と兄弟が包んでくれる。
だが初めて他人に庇われて、その自分と同じくらいに小さな少年の綺麗な笑顔に何かが弾けた。
ポロポロと柔らかな頬を伝って零れ落ちる涙に少年は驚き、そして言ってくれた。
空の夕焼けみたいで、大きな海みたいで、とっても綺麗、と。
アスカは少年の言葉を一字一句覚えている。
そのまま彼女は涙を零しながら精一杯笑って、反対を向いて駆け出した。
自分が果たして礼を言ったかどうか、アスカは憶えていない。
駆けて駆けて、家に駆け込んで、帰って来た娘の様子に驚いた顔をしている母の胸に飛び付いた。
まだ背が足りないので母の胸からずり下がってしまい、仕方ないので腹に顔を埋めて
グリグリと押し付けた。いい匂いがした。キョウコがまたアスカが何か苛められでもしたのかと
娘の顔を覗き込むと、幼い少女は顔をクシャクシャにして涙を流しながら笑っていた。
その後母に何をどう捲し立てたのかも良く憶えていないが、
それから彼女がシンジを目で追う日々が始まった。
アスカはいつもシンジを探していた。
学校の行き帰りの道でも、教室から校庭をふと眺める時も、廊下を歩いて生徒達と擦れ違う時も、
商店街を歩いている時も、踏み切りを待っている時も、夜に部屋の窓から外を眺める時も、
いつだってふとした瞬間に少年の姿を探してしまった。
そして暫くして彼を見つけた。同じ学校にいた。
始めは別人かとも思ったのだが、しかし間違えようもなかった。
そうしてアスカはシンジのことを見続け、5年生に上がってようやく同じクラスになったのだ。
実は彼を見つけて数ヶ月後に一度話しかけたことがあるのだが、
彼はこの紅い髪に青い瞳の少女を憶えていなかった。
アスカはそのことにショックを受けたが、彼が憶えていないならいないで構わなかった。
あの日の出来事とそこから生まれた想いはアスカの胸の中で結晶している。
彼女は今も彼にかつての出来事を言う気はない。
しかし同じクラスになって毎日彼を見続けているといつしかアスカは自分の想いを抑え切れなくなってきた。
思い出せなどとは言わない。だが今の自分を見て応えて欲しい。シンジが欲しい。
その想いを抱えながらある日カヲルの話を聞いて、アスカは決意した。
彼を掴まえる事にしたのだ。
アスカは少年の家での光景を思い出しながら考えた。彼は綺麗だろうと訊いた自分に
そうだねと返して頬を染めた。少なくとも彼は恥らいつつも自分の容姿に好意的な印象を
抱いてくれている。どうでもいい女の子ならあそこで恥じることもないだろうし、
そもそも彼の価値観が昔と変わっていなければ、自分の容姿は彼の好みのはずだが、
果たして今の自分は彼を魅了するほど綺麗なのかというのは深刻な問いであった。
なまじ母と姉がかなりの美貌を誇る存在だと知っているだけに彼女は自分の容姿に、
外見的異邦人の抱える問題は置いておくとしても、変な自惚れはなかった。
だからどうしたらシンジに魅力的に映るだろうか、振り向いてくれるだろうかと、
そこの所も彼女にとっては悩みだったのだ。
外見だけで恋をするものではないとは理屈であって、実際には幾らでも気になることはある。
そうしてアスカがもんもんと考え込んでいると、いつのまにか姉と並んで湯の中に身を沈めている
自分にふと気付いて力が抜けた。結局何か自分が事を起こさなければ彼は気付いてくれないのだ。
例えば以前に彼を殴った時のように。


「気持ちいいわねぇ・・・」

「そうね・・・」


まったりと姉妹は同じように溜息を漏らした。


「愛しのシンジ君の為に毎日体を磨くのよ?」

「な、何言ってるのよ、いやらしい」

「ハッ、その気があるならどうせ避けては通れない道よ。それなら綺麗な姿でいようと思わないの」

「・・・彼氏いないくせに」


アスカがぼそりと言った途端、悲鳴と共に浴槽から湯が勢いよく撥ね上がって溢れたのは言うまでもない。


「アンタ、声がデカイわよ。まったく、それくらいで飛び上がってんじゃないわよ」

「もうっ、何すんのよ。・・・ねえ、お姉ちゃん」

「何、アーちゃん」

「アタシ、綺麗?」


妹の問いにマリアは目を丸くしてから思わず噴き出した。


「アンタねぇ。安心しなさいな。世の中の大方の人間よりアンタは美人よ。どうして?」

「あのね、アイツがね、アタシのこと綺麗って・・・」


言いながら、恥ずかしいのかアスカは口元まで湯に沈んだ。


「綺麗って言ってくれたの?」

「・・・・・言わせた」


暫くの間、浴室に盛大な笑い声と水音が木霊した。


「・・・そんなに笑うことないじゃん」

「だって、アスカ・・・もう、何やってるの、アンタは」

拗ねた妹の細い肩に腕を廻してマリアはゆったりと天井を見上げた。上から零れ落ちそうな水滴が
鈴なりにぶら下がっているのが見える。ひとつがふるふると震えて落ちてきて、ぴちょんと湯船で弾けた。
この妹の不器用でいじらしい、一所懸命な奮闘ぶりがおかしくて可愛くて堪らないのだが、
生憎と彼女自身まともに恋をしたことがないので一般論以上のアドバイスは難しい。
せめて話を聞いて慰めたりからかったりが精一杯なのだが、それにしたってこの子は
キラキラしてると悔しくなって廻した腕に力が入った。顔が綺麗なだけで恋が成就するくらいなら
今頃自分には子供が出来ている。そう考えてマリアは妹の不安を笑い飛ばした。
この子の目が確かなら、シンジ少年はこの子に惹かれるだろう。
だってこんなに素敵な子なんだから、と普段はあまり見せない姉らしい優しさを
胸の内で滾らせていると、その胸がふにふにと形を変えた。


「・・・何してるのかしら、アスカちゃん」

「いいな、お姉ちゃんのおっぱい。アタシも大きくなるのかしら」

「なるわよ。ま、11歳のガキンチョじゃあまだその程度だろうけどね」


そう言ってアスカの胸を指差し、つられて視線を下げた妹の顔に指で弾いて湯を浴びせた。


「アタシもシンジ君に会ってみたいわぁ?」

「・・・ダメ」

「アタシが26の時シンジ君は20よね。アタシが56の時シンジ君は50よね。
釣り合いは取れてると思わない?ね、アスカちゃん」

「ダメ」

「ギュッと抱き締めてキスしたらイチコロかも?」

「ダメダメダメッたらダメ!」

「ケチ」

「アイツはアタシのなの!」


威勢よく言い切った妹の姿に、誰よりも美人だと少なくとも家族内では認められている姉は
こういう必死さが可愛いのよねと思いつつ、寛大にも笑って身を引いてやることにした。


が、まだからかいたい。


「義理の姉と弟の危険な恋なんて・・・」

「あり得ないわよそんなもん!」





マリア姉





描:リンカ

第8話へつづく

惣流家のアルバムより 写:惣流キョウコ

 



リンカ様の連載第7話です。
さすがに一目惚れではないアスカは、
シンジとゲンドウの親子が内面が似ていることを見抜いてました。
恋は盲目とも言いますが、
逆に恋は乙女を名探偵にも変えるのです。
ただしこの作品の名探偵はいささかへっぽこですが(笑)。
解決策や方向性は承知しているのに
なかなか踏み出せない。
まあそこがまだ子供でもあるというか、アスカらしいというか。

さて、今回のポートレートは(って言葉を選んでしまいますね、今回の被写体は)、
惣流5兄弟…ああ、ウルトラ5兄弟を連想してしまいました、ごめんなさいリンカ様…
その長女であるゾフィー…じゃない、マリア様です。
実は私は彼女のファンになってしまいました(笑)。
リンカ様とも彼女の声を担当させるなら誰かなどと盛り上がってしまいました。
二人ともある声優さんを想定していたのは偶然でしょうか。
それが誰かは秘密です。読まれている読者様一人一人にイメージがあるでしょうから。
美人なのにボーイフレンドがいない。
本当は妹が羨ましいのが自分でも気付いていないというところがいいですね。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)

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