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Smoke Gets In Your Eyes


リンカ       2005.5.27(発表)

挿絵:リンカ











「ふぇ、えっ、えぷちょっ!」

「あらあら。ほら、レイちゃん。チーン」


くしゃみをした拍子に盛大に鼻水を垂らしたレイを見て、
リツコは甲斐甲斐しく彼女の顔にティッシュを当てて鼻をかませた。
ブビィッと音をさせて力一杯鼻をかむレイと、微笑みながらその世話をしているリツコを見ながら、
シンジとゲンドウは呆れたように口を開いた。


「何か・・・リツコさん、楽しそうだね」

「ああ・・・甲斐甲斐しいにも程があるな」


リツコがやってきた日―彼女はナオコが帰るまで碇家に泊まることになった―から、
万事がこの調子なのだ。
こんなに子供好きだったろうかとゲンドウは呆気に取られたし、
シンジはシンジで他人に甘えるレイの姿が何やら面白くないのだが、
それでも彼女に悪気がある訳でもなく、明日になればナオコが帰ってくるのだから
四六時中リツコがレイを構っているのもそれまでの間だけのことだと、ふたりともそう考えて
傍観することにしたのだ。さすがに彼女が他人であるという遠慮はあるのだが、
何しろあんなに楽しそうに世話をするものだから、遠慮するのも馬鹿らしくなってしまった。


「ねえ、父さん・・・」

「何だ、シンジ・・・」

「今日はリツコさん、僕達と一緒に寝るなんて言い出さないよね・・・?」

「安心しろ。今日もお前の部屋で寝てもらうから」

「レイは?」

「・・・レイも俺達と一緒だ。いい加減リツコに対して甘え癖がつく」


昨夜レイが寝る時になってもリツコと離れたがらず困ったことになったのだ。
元よりゲンドウは彼女に今は使われていないシンジの部屋で寝てもらおうと思っていたし、
彼女もその点については当然従うつもりだった。
が、レイが一緒に寝ると言って聞かない。
ではリツコと二人で寝るかと問えば、今度は父と兄と離されることを嫌がる。
つまりは彼女は4人で一緒に寝たいと言っているのだ。
そして、それなら自分は一緒でも構わないと平然と言ったリツコに対して、
いかに親子ほど年が離れていて産まれた時からの付き合いをしてきたとはいえ
大人の女性のすることではないとゲンドウは彼女をたしなめ、
結局レイが寝付くまでリツコに添い寝をしてもらうというところに妥協点を見出した。
そこで迷惑を被ったのがシンジだ。
別にリツコが悪い訳でもないのだが、亡き母のパジャマを着て布団でレイをあやしている彼女の姿に
どうしても過去を思い出してしまう。
更にレイが寝付いた後もいつまでもその傍で寝顔を眺めているものだから、
シンジはそうやって寝そべっている彼女のすぐ脇に身を横たえる羽目になったのだ。
結果、昨夜の彼の寝付きは最悪だった。少なくとも、彼自身は最悪だと思った。
そんなことを思い出しながら、シンジは改めて妹を眺めた。
きゃらきゃらとよく笑っている。
無邪気さには罪がないといえば、それはその通りなのだろう。
兄の気も知らずにリツコに遊んでもらっている彼女の姿に、シンジはそっと微苦笑した。


「ねえ、父さん・・・」

「何だ、シンジ・・・」

「トイレ行って来る」

「・・・ああ、頑張って来い」












翌日の夜、ゲンドウが会社から我が家へと帰りついてみると、
待ちかねたといった表情のシンジに出迎えられた。
一体何事かと思えば、お向かいにナオコが帰ってきたのでリツコが話をしに行ったらしいのだが、
垣間見た2人の間の雰囲気がどうも険悪な感じだったと言うのだ。
ゲンドウとしては半ば以上そうなることを予見していたので、とりあえず放って置こうと思っていたのだが、
シンジがそれに責めるような視線を向けながら自分の後ろを付き纏ってくる。
疲れて帰ってきたというのにネチネチとした視線で責められては居心地が悪いことこの上ない。
いい加減うんざりしてゲンドウは溜息混じりに息子に問いかけた。


「で、どうして欲しいんだ、お前は」

「見に行かなくっていいの?」

「・・・あのな、シンジ。いくらなんでもこれは余所の家のことだし、父さんがそこに呼ばれもしてない首を
突っ込むのはおかしいだろう?家庭の事情って奴にはそうそう立ち入らないもんだ」


そう言い切って、ゲンドウは食事の用意をしようとエプロンを着けながらキッチンへ向かった。
別に憎み合っている訳でもないが、あの母娘は一度思う存分やりあった方がいいだろうと
ゲンドウは思う。話が平行線を辿ったとしても、どの道リツコはこちらに一旦戻ってくることになるだろう。
何故なら荷物をまだこの家に置きっぱなしにしていたとシンジが言っていたから。
でしゃばるのはそれからでいい。
そんな風に考えながら冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ彼のエプロンの裾を、
後ろからクイクイと引っ張っている者がいる。
ゲンドウは溜息を吐きながら、振り返った。


「父さんは心配じゃないの?」


無論心配だ。


「妹みたいなものなんでしょ?」


その通りだ。
見覚えのある視線を向けてくる息子から逃れるように、ゲンドウはもう一度冷蔵庫に向き合った。


「余所の家だなんて、父さんって意外と冷たいんだ。そうなんだ。でもレイはそんな父さん嫌だよねえ?」

「れいねー、もっとりっちゃとあそびたいのー。ねー、ぱぱー」


いつの間に寄ってきていたのか、レイがゲンドウのズボンを引っ張って訴えている。
どうしてこの息子はこういうところで母親に似るのか、ゲンドウは空の上の妻に泣き付きたくなった。


「シンジ君、レイちゃん。君達の言い分はよく分かったけどな、だからといって・・」


子供達に振り返って、そう言い掛けたところで玄関の呼び鈴の音が甲高く響いた。


「・・・リツコさんかな?」


シンジの呟きに、だろうな、と答えてゲンドウは訪問者を出迎えに行った。
当然リツコが戻って来たのだろうと思っていたのだが、
しかし玄関を開けた先に立っていたのはその予想図とはまるでかけ離れたものだった。
思わず不躾な物言いになってしまったのは、我ながら気が小さいと内心歯噛みしたものだが。


「・・・誰だお前は」

「あのぅ・・・こんばんは」


赤ん坊を抱きかかえた見知らぬ若い男が、旅行バッグを足元に所在なさげに立っていた。
















「ということはリツコの奴、結婚していたのか!?」

「はあ・・・御存知なかったんですか?」


赤子を連れた男は、この家に上がらせてもらうようにリツコに言われて来たのだと説明した。
とりあえず居間に通して事情を聞いてみれば、何と彼はリツコの夫で、赤子はふたりの子だと言うのだ。
左手で赤子を抱きかかえたまま右手で頭を掻いたその男を、ゲンドウは呆然と見た。


「・・・あの、お茶です」

「あ、これはどうも。すると君がシンジ君か」


茶をテーブルの上に並べてゲンドウの横に座ったシンジを見て、男は微笑んだ。
どうやらリツコから碇家の話は聞いていたらしい。
そんな彼を見つめながら、ゲンドウは困ったように問いかけた。


「何だか話がよく分からんのだが。どうして君はうちに来るように言われたんだ?
ナオコさん・・・リツコの母親ならもう帰ってきているぞ。あちらに顔を出さなくていいのか?」

「いや、それが・・・奥の手は陣中で待機してろ、と」


その言葉に、皆の視線が“奥の手”に集まる。
彼女―女の赤ん坊だった―は、父のかいなですやすやと眠っていた。
レイがその小さな赤ん坊を興味深そうに見つめている。
そんな妹の様子と赤ん坊を眺めながらシンジは、リツコさんってお母さんだったんだ、と
この3日間のリツコの態度に納得がいった。


「・・・あの馬鹿、嫌でもうちを巻き込むつもりだな。何が陣中だ」

「あの、御迷惑でしたでしょうか」


男がゲンドウの言葉に心底申し訳なさそうな顔をして訊いてきた。
その様子に碇家の主は苦笑する。
そんな表情をされてもこの男が悪い訳ではないし、リツコに対して本気で腹を立てている訳でもないので
頭を振って気にしなくていいと断わった。
それにしても、よくもこんな誠実そうな男を掴まえたものだと彼は思う。
まだ彼がリツコの夫だという、それだけしか聞いていないのだが、
こうして向かい合って感じる印象は決して悪いものではなかった。
目を細めて髭をしごいた彼が思わず口が滑らせてしまったのはそんな男の雰囲気に釣られたからだ。


「・・・それにしてもあんなのでいいのかね、本当に。あいつは結構手が焼けるぞ」

「はは・・・知ってます」


男は苦笑して答えた。


「ふふっ、まあともかく、ここで待っていろとあいつが言ったのならその内呼びに来るだろうがな。
シンジ、リツコが話をしに行ってどれくらい経つ?」

「えっと、6時前に赤木のおばさんが帰ってきてお土産持ってきてくれたから、もう1時間以上になるよ」

「そうか。結構話し込んでるみたいだな」

「そうですね・・・お義母さんとは上手く話せてるんでしょうか」

「さてな。ふたりとも向こうっ気が強いからな。今頃派手に・・」


ゲンドウが言い掛けたところで男が急にシャツのポケットから振動音を立てている携帯電話を取り出した。
どうやらリツコからお呼びが掛かったらしい。
二言三言喋った後、電話を切った彼の顔をゲンドウは見つめた。


「・・・出番かね」

「そうですね。まずは・・・勝手に結婚したことを詫びなくてはいけないでしょうね」

「ま、頑張ってきたまえ」


そう言って、ゲンドウは励ますように頷いて見せた。
しかし男はそのゲンドウの顔を困ったように見返すだけで立ち上がらない。


「・・・どうしたのかね」

「申し上げ難いんですけど・・・碇さんも御一緒に、とのことです」

「・・・・・そんなトコだろうと思ったよ」


あの馬鹿娘め、と心中で悪態をつきながら彼は盛大に溜息を吐いて立ち上がった。
リツコの夫もバッグを持って立ち上がり、ゲンドウに詫びながらもふたり部屋を出て行く。
そして碇家の居間にはシンジとレイのふたりだけが取り残された。


「・・・ご飯どうなるの?」

「にいちゃぁ、ぽんぽんすいたのー」
















「はっ、初めまして、お義母さん!マコトと申します!」


赤木家の居間に上がってナオコの顔を見るなり、赤ん坊を抱きかかえたリツコの夫は
深深とお辞儀をしながら、そう言い放った。
緊張してるな、とそれを横目に見てゲンドウは思いながら、
テーブルを挟んで母親の向かい側に座っているリツコの左隣に腰を下ろした。
そのまま横をちらりと見て、面倒を掛けるなと彼女に文句を言う。
しかしリツコは平然として、母さんが怒って話が続かなくなっていたから助かった、と
ゲンドウに礼を返した。
ナオコはというと、その娘とゲンドウのやり取りも目に入らない様子で、
家に上がり込むなり自分をお義母さんと呼んだ男に目を丸くして言葉を失っていた。


「・・・・・」

「あ、あのっ、娘さんと勝手に結婚して申し訳ありませんでしたっ!」

「・・・・・」

「え、えっと・・・」

「いいからとりあえず座りなさいよ、マコト君」


落ち着き払ったリツコに言われてそそくさとマコトは彼女の右側に座り込んだ。


「あ、その子貸して」

「え、ああ」


自分を抱いていたマコトの大声にさすがに目が覚めたのか、
僅かにむずがるような様子を見せた赤ん坊をリツコは大事そうに夫から受け取って胸に抱いた。
先ほどから固まってしまい反応を見せないナオコへゲンドウが話し掛けた。


「ナオコさん、大丈夫か?」

「・・・ゲンちゃん。あの・・・リツコが胸に抱いてる物体は何かしら・・・」

「一応見えてはいるんだな。リツコ、その子は何だと訊いてるぞ。答えてみろ」

「私とマコト君の赤ちゃんよ。見たら分かるでしょ?」


あっさりとリツコは答えた。


「だそうだ。ついにあんたもおばあちゃんだな」

「あの、勝手に結婚した上、子供まで作ってホントすみません!」


テーブルに頭をぶつけるような勢いでマコトがナオコに向かって頭を下げた。
それを呆然と見やったナオコは深呼吸しながら声を絞り出した。


「結婚した・・・?」

「そうよ。結婚したの」

「何と婿養子に貰ったそうだぞ、ナオコさん。一人娘を取られなくてよかったな」


ゲンドウがからかうように言うと、ようやく状況が飲み込めてきたのか
ナオコの顔色がみるみる赤く染まっていった。


「リ、リツコ!あんた、余所様の息子さんに何してんの!」

「母さん、それって普通逆じゃないの?どっちかっていうと私はされた方なんだけど」

「いやその何とお詫びしていいか・・・すみませんお義母さん!」


先ほどから謝ってばかりのマコトにいささか呆れながらも、
リツコはこのままでは埒があかないので話を戻すことにした。


「でね、母さん。最初の話に戻るけど、私達この家で暮らしたいのよ。いいわよね?」

「いいも何も・・・ちょっと待ちなさいよ」

「・・・どうして帰ってくることにしたんだ」


戸惑っている様子のナオコを見て、ゲンドウは始めから気になっていたことを質問した。
そもそも何故今頃になってリツコがここに帰ってくる気になったのか、まだ聞いていない。
その問いに対して、リツコはマコトと顔を見合わせてからぽつぽつと答え始めた。


「さっき母さんには少し話したけど・・・私、仕事が今軌道に乗ってきてるのよ。
展覧会を開いてくれるエージェントなんかもいてくれるし、制作の依頼なんかも来るようになったわ。
でもこの子からも目を離す訳にはいかなくって・・・マコト君も仕事があるし。
けどここでチャンスを逃したらこのまま芽が開かないで終わってしまうことにだってなりかねない。
だから、ここで母さんと暮らしてたら少しはこの子のことも安心だし・・・それに・・・」

「・・・それに?」

「それに、ここのアトリエを使わせてもらいたいの。母さんが昔使ってたアトリエを。残してあるんでしょ?」

「・・・残してるわ」

「私は自分が育ったこの場所で打ち込みたいのよ。母さんなら分かるでしょ?」


リツコは母親の目をじっと見つめた。
ナオコも先ほどまでうろたえていたことを感じさせない様子でその視線を受け止める。
この娘は自分に似過ぎていると昔からナオコは思ってきた。
彼女自身画家の父親の影響で絵を描き始め、そんな娘に父親は家の敷地に離れのようにして
アトリエを建ててくれた。少女の頃からそこでずっと絵を描き続けた。
美大に入ってからヨーロッパに留学し、そして帰ってきたナオコが活動の場としたのは
やはり慣れ親しんだこの場所だった。
結婚し、リツコが産まれ、それでもナオコは変わらずこの場所で一心に絵に打ち込んできた。
だが、今は彼女はほとんど絵を描いていない。
夫と離婚し、その後彼が亡くなったと聞いた時に、彼女は不意に力が抜けてしまったのだ。
8年前のことだ。
離婚自体もしたくてした訳ではない。
ただ彼女も夫も些細な積み重ねから引き下がれないところまで意地を張ってしまった為に、
気が付いた時にはもう離婚するより他になくなっていたのだ。
そうして父が去っていって悲しむ娘を持て余しながらもふたり暮らしていたナオコの元へ、
離婚から1年後、彼が事故で亡くなったと報せが舞い込んだ。
彼は保険金の受け取り人を元の妻のナオコにしていた。
結婚してからずっとお互いを頼りに生きてきた彼女は、その報せに愕然とした。
離婚して彼が去って以来、感じ続けていた空虚さが一気に彼女を飲み込んだ。
もう自分が描いた絵を見せる相手がいない。
彼と出会って以来、自分は彼に見せる為だけに情熱を傾けてきたのだ。
だが、もうこの世界のどこにも彼はいないのだ。
美術界で高い評価を受けていた赤木ナオコの名は、その時を境に過去のものとなった。
ナオコは絵を捨てたのだ。


「ねえ、母さん。私が絵に懸けることに今でも反対してるの?」


リツコが傷付いたような顔をしてナオコに問い掛けた。
娘はナオコが絵を捨てると同時に、絵で名声を得たいと考えるようになったようだ。
それはあれほど打ち込んできた絵をあっさり捨てた母親への反発のようでもあり、
亡き父親への自己の証明のようでもあった。
ナオコはそんな娘の有り様にどこか危うい儚さを感じたのだ。
だから反対した。
このまま描き続けてもこの娘が得られるものは少ないだろう。
たとえ評価を得たとしても、彼女の創作意欲を支える基盤が酷く脆いようではいつか行き詰まってしまう。
情熱ではなく意地でもって創作を続けることは出来はしない。
だが、ナオコとリツコは分かり合えなかった。
リツコは母親の言葉を頑なに拒み、ナオコも娘に一体どうやって自分の想いを説明していいか
分かりかね、勢い頭ごなしに否定する調子になってしまう。
そうしてついにはリツコは勝手に大学を辞めてその身ひとつで夢を追い求め始めたのだ。
周りが見えなくなるくらい事にのめり込むのも母親譲りだとナオコはその時思ったものだ。
しかし娘を突き動かしているのは絵に対する情熱ではなく、自分の名を世に知らしめたいという思いだ。
この娘が舞い戻ってくるのは折れてしまった時だろうと、そう考えていた。


「私、ずっと描いて描いて、描きまくって、それでも全然駄目だったの。
あちこち歩き回って、色んなもの見て、色々描いてみて、それでもやっぱり駄目だった。
でも、マコト君に会ってから段々と・・・思ったものが描けることが多くなってきたの。
美術的な評価がどうこうじゃなくて、私自身が思い描いたものを形に出来るようになってきたのよ。
今なら私、やれそうな気がするのよ。だからこの場所で・・・。
昔の私がすごく身勝手だったことは分かってるわ。この子が産まれてからは特にそう思う。
でも・・・この家に帰ってきたいのよ、母さん」


娘が戻ってくる時は、きっとその志も何もかも折れてしまった姿で戻ってくるだろうと思っていた。
ところが今目の前にある娘の姿は何なのだろう。これは一体どうしたことなのか。
彼女は、確かに自分の危惧した通り行き詰まりに苦しんだらしい。
だが、彼女はそれを乗り越えた。
一体どうして、と考えて、しかしそれは考えるまでもないことだ。
彼女の隣にいる男性が、その愛が、彼女の美術というものを創り上げる力となったのだ。
ただひとりの人に見てもらいたいという想いで彼女の心は一杯になって、
それが絵の制作の何よりの力となったのだ。
かつてのナオコと同じように。
世間の評価などその後からついてくるものなのだ。初めからそれを目指して制作が出来るものではない。
リツコにはそれが分かったのだろう。
ナオコはやはりこの娘は自分に似過ぎていると、改めて感じた。
自分の場合は夫を失って、そこで絵に対する意欲も失ってしまった。
だがこの娘はこれからなのだ。
そろそろこの娘も一人前と認めてやらなくてはならないのかも知れない。
そう考えると、随分と自分が老け込んでしまったような気がして何だか可笑しくなってしまった。


「・・・ふふ、ま、話は分かったわ。あんたの仕事の話はね」

「・・・?どういうことよ」


突然含み笑いをしながら口を開いた母親を怪訝そうに見ながらリツコは問い返した。


「けどね、私がそれより気になってるのはそちらの男性と赤ちゃんのことなんだけどね。
そろそろ私の孫の名前を教えてくれたっていいんじゃないの?」


そう言って、リツコとマコトの顔をまじまじと見つめる。
その視線にやっと子供の名前も紹介していないことに気付いたのか、マコトが慌てて声を上げた。


「あっ、あの、お義母さん。この子の名前はアイです」

「アイちゃん・・・女の子?」

「そうよ。もうじき1歳になるわ」

「・・・今時24歳で母親になるってのは早いのかしら?」

「す、すいません・・・お義母さん」


別段他意があった訳ではないのだが、マコトがそのナオコの言葉に反応して謝りながらうな垂れた。
その様子にナオコはピンと来る。


「さては出来ちゃった婚ね、あんた達」

「やあね。出来なくたって結婚するつもりだったわよ、私は。
それに一発必中ってのも相性の為せる技かしらね・・・どうなの、ゲンちゃん?」

「お、俺に振るんじゃない。何にせよ、めでたいことじゃないか。なあ、ナオコさん?」

「すぐそうやってめでたいとか言って丸く収めようとするのね、男って。
リツコ。避妊はちゃんとしなくちゃ駄目じゃない。女が言わなきゃ男は無責任なんだから。
あ、別に貴方を責めてるんじゃないわよ?」


ナオコの最後の言葉はマコトへ向けたものだが、彼はそれに顔を引き攣らせるだけで精一杯だった。


「もう、この子が産まれた幸せにケチつけないでよ。これでも母親頑張ってんだから」

「・・・わざと避妊しなかったんじゃないでしょうね」


母親の疑いの視線を、リツコはニッコリと笑って受け止めてみせた。
ナオコはその人を食った態度に呆れてしまい、真偽を確かめるのは止めて他の話題に移ることにした。


「で、その結果が婿養子な訳ね。いいの、マコトさん?」

「ええ、僕は三男坊ですし・・・両親も彼女のこと気に入ってくれたみたいで。
どちらにしても結婚はしたいと考えてましたから・・・あの、許して頂けますか」


居住まいを正して、マコトは真剣な表情で己の義母となる女を見据えた。
なかなかいい男ね、とその視線を受け止めたナオコは感心する。
まあ、ちょっと“先走った”みたいだけど。
でもちゃんと受け止めてるなら問題ないかしらね。
そろそろ帰宅してからの騒動を収める頃合いだろう。
微笑みながら彼女はリツコ達3人を見て、彼の言葉に答えた。


「勿論、貴方達がお互いに求め合って一緒になったというなら私はとやかく言わないわ。
この家で暮らすことについても歓迎する。でもね、マコトさん?」

「はい」

「この娘はホントに手が焼けると思いますよ。結構バカだし。いいの、こんなので?」


その言葉にマコトは目を丸くし、そしてゲンドウが噴き出した。


「何よ、ゲンちゃん。ちょっと母さん。いくらなんでも、こんなの、はないんじゃないの?」


横で笑いを堪えている髭面の男の膝をピシャリを叩いてから
非難するように母親を睨んだリツコを尻目に、彼女の夫は楽しそうに答えた。


「こんなの、が一番いいみたいなんです、僕は。ふふ、実際飽きなくて楽しいですよ」

「年下の癖に生意気よ、マコト君」

「あら、リツコが年上なの?」

「そうよ。姉さん女房ね。その上婿養子。完璧だわ?」


顎を上げて得意そうな顔をしたリツコを見て、ゲンドウとナオコは顔を見合わせて溜息を吐いた。


「ユイちゃんに何を吹き込まれたんだか。昔は婿養子なんて認めないって粋がってた癖に」

「あいつは邪気のない顔して時々とんでもないこと言ったからな。
まあでも、婿養子なんてそんなに気にすることでもないと思うがなぁ」

「ゲンちゃんは自分の家の表札を六分儀から碇に変えただけじゃないの。
そりゃ気遣いする相手がいないんだから気楽なものよ。まあ、女でもそれは一緒だけど。
けどあの時のゲンちゃんの潔さと来たら、天国のおじさんたちもさぞ呆れたでしょうね」

「そうか?」

「あの頃のリツコの涙はなんだったのかしらねぇ?」


可笑しそうにそう言いながら、ナオコは立ち上がって自分の灰皿とタバコを取って戻ってきた。
口に咥えたタバコに火を点けてゆっくりと吸い込み、煙を吐き出した。
私も皺やら何やら増えるはずね、と彼女は煙を眺めながら考える。
ユイちゃんに張り合おうと懸命に突っ張ってたあの小さな女の子が赤ちゃん産んだですって。
でも嬉し涙なんか流してやるもんですか。
ナオコは自分を奮い立たせるように軽い調子でゲンドウに語り掛けた。


「お互い年取ったわね、ゲンちゃん?」

「そうだな。今度から遠慮なくナオコ婆と呼ばせてもらおうか?」

「お姉ちゃんって呼んでくれてたあの純真な少年はどこに行ったのかしら?
あらやだ。面白いこと思い出したわ。昔リッちゃんがユイちゃんのこと、ババアって呼んだのよね。
大方嫉妬に狂って、ない知恵絞った結果がそんな子供っぽい攻撃だったんだろうけど。
そしたら、まあ、ユイちゃんの怖いこと。帰ってきて涙ぐんでるリッちゃんにどうしたのか聞いてみたらさ・・」

「ちょっと母さん!そんな昔の話なんて蒸し返さないでよ!」


都合の悪い話題に流れそうな雲行きになってきたのを察知したリツコが慌てて2人を止めに掛かる。
しかし、そうは言っても実に6年以上振りのリツコとの再会であり、
積もる話などそれこそ山のようにあり余っている。
だからゲンドウが非常に大事なことをようやく思い出したのは
迂闊にも自分自身の生理的な飢餓を報せる音に気がついた時だった。
つまり、腹が地響きのような音を盛大に立てたのだ。


「ああっ!夕飯を忘れていたっ!シンジ、レイ!」


雄叫び一番、駆け出して我が家へと舞い戻って行ったゲンドウの姿に
ナオコ達は笑いながらも、自分達も彼と同様に夕食をまだ摂っていないことに気付いた。
これから作るにも遅くなってしまったし、どうせだから碇家と赤木家で一緒にどこかに食べに行こうと
何やら騒がしい声が聞こえてくる碇家の玄関の前に赤木家の4人は立った。
正確には3人が立って、1人は抱きかかえられているのだが。


「それじゃ、リッちゃんの帰還祝いと、お婿さんを貰ったお祝いと、それから私の初孫が出来たお祝い。
加えて碇家とのお付き合いの新たな出発ということで」


長々とナオコが並べ立ててリツコの顔を見た。


「随分お祝い尽くしね、母さん?」

「あら、足りないくらいだわ。この6年つまらなかったんだから」

「母さん・・・」

「・・・さ、インターフォン、押しましょうか?」


見つめ合ったまま不意に黙り込んだ母娘の気を紛らすようにしてマコトが口を開いた。
そして彼の言葉に、ナオコが赤ん坊のアイの頭を撫でながら楽しそうに言う。


「こういう時はやっぱりこうしなきゃね」


そう言って、アイの手を取って指差すような形にさせた。


「母さん・・・恥ずかしいことしないでよ。私はそんな馬鹿なことはやらないわよ」

「まあまあ、いいじゃないか、リツコちゃん」

「そうそう。“ちゃん”に“くん”なんて呼び合ってる恥ずかしい夫婦よりましよ」

「・・・何ですって?」


凍えるような暗い声で母親に問い返したリツコだったが、
ナオコはそんな娘をまったく無視してマコトから自分の愛すべき孫を受け取り、
そしてその手を取って呼び鈴にすっと伸ばした。嬉々として。


「ほら、アイちゃん。おゆび伸ばしてぎゅっと押すのよー。ぴんぽーん」


果たして祖母の行動に楽しみを覚えたのか、
自分自身の小さな指で呼び鈴の小さなボタンをぎゅうっと押したアイは、
その呼び出し音に合わせて甲高い声を実に嬉しそうに上げた。
無論、合わせたといってもピンポンと言える訳もなく、
ただ、あーっ!と叫んだだけだったが。



これが碇家と赤木家の付き合いの新たな出発の、その事の次第だ。






















お兄ちゃんとおひるね





描:リンカ

第10話へつづく

碇家のアルバムより 写:碇ゲンドウ




ジュン様、読者の皆様、こんにちは。
リンカです。

という訳で、8話、9話は碇家のお向かいの赤木家のお話でした。
リツコのお相手は、赤木マコト、旧姓日向です。
まあ・・・好みはそれぞれおありだと思いますが、ゲンドウを彼女の相手として宛がえない以上、
では誰を持ってくるべきかと考えた時に日向マコトになってしまった訳です。
何というかね、彼、年上好きだと思うから。綺麗なお姉さんが好きなんでしょ、マコッちゃん。
そんな感じで許して頂けたなら感謝。

2話連続でアスカが出て来ませんでしたが、次回からは再び出演致します。
次からは6年生ですね。舞台はサクラ咲く春ですね。
春には浮かれた人が出没するものです。
えー、次回予告はそんな感じでしょうか。

さて、相変わらずつたないお話ではございますが、
この先もお付き合い下さる方が少しでもいらっしゃれば嬉しい限りです。

それでは、これで失礼。

 



リンカ様の連載第9話です。
またまた新しい登場人物が二人。
赤木ナオコさんは予想していましたが、日向マコト…じゃない、赤木マコトくんとは…。
嬉しい誤算ってことです。
彼らのこれからの活躍が楽しみですね。
とくにレイちゃん!
妹分ができたのですから。

アスカが出てきていないことを忘れていました。
こういう展開のお話には夢中になってしまう性分なのです。
6年生になった二人のお話ですか。
次回が楽しみです。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)

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