前4作の設定を引きずっております。そちらからお読みいただければ幸いです。
 タヌキ
 

 

LASから始まる
 
新たな戦い
 

 


 

タヌキ        2004.07.25

 

 










 病院の朝は早い。あちこちの病室に看護師が出入りし、夜の間にたまった排泄物を処理
したり、朝食を配膳したりする。
 だが、ネルフ医療施設特別病棟303号室へは、誰も入らない。入れないのだ。うかつ
に入りこんだが最後、確実に一日戦力にはならなくなるからだ。
 特に独身の看護師は影響を受けやすい。ノックし忘れて扉を開けた23歳独身のY看護
師は、その足で憧れていたK医師にの元へと向かい、1時間医局の扉を閉じて籠城した。
「もう、お婿にいけない。責任とって」
 涙ながらに白衣の裾を噛むK医師と乱れ髪をなでつけながらつやつやした顔色のY看護
師の間に何があったかは、未だにわからないが、それ以降、303号室には一枚にプレー
トがかけられた。
『勝手に開けるな!! 危険、精神汚染の可能性あり』
 病院にあるありったけのバイオハザード警告シールを貼りつけられたその扉の向こうで
は毎朝恒例の行事が行われていた。


「アスカ、準備できたよ。体拭こうか」


 シンジが大きな洗面器二つにやや熱めのお湯と冷たい水、そして数枚のタオルを用意
してアスカのシーツを剥いだ。


「ううん、今日はいいわ。後で看護師さんに頼むから」


 アスカの返事にすでに患者衣の紐を解きかけていたシンジが驚いた顔を見せる。
 まだベッドから起きあがることができないアスカである。入浴代わりの清拭を何よりの
楽しみにしている。それを我慢するというのだ。シンジが暗い顔になる。


「そう、やっぱり僕じゃ駄目なんだね」


 寝たきりに近い状態での清拭は、それこそ親にしか見せたことのない、それも赤ん坊の
頃限定というところまでさらけだすことになる。見られるだけではない、タオル越しとは
いえ、触られるのだ。すこしでも嫌悪感を持つ相手にさせられることではない。


「ち、違うわよ」


 一人いじけの迷宮に入りこみかけたシンジにアスカがあわてた。


「シンジの宿題を見なきゃいけないから。アタシの体、たとえ女とはいえ、シンジ以外の
人間に見られたり触らせたりするの嫌なんだからね。いいこと、アタシの体を見たり、
触ったり、舐めたりしていいのは、シンジだけなんだから」


 とんでもない一言を口にしてアスカが真っ赤になって下を向く。シンジも耳まで染めて
うつむく。


「じゃ、朝ご飯を自分で食べてくれれば……」


 シンジが顔を上げる。箸さえも持たずひな鳥のように口を開け、そこに適度な大きさに
した食事を入れてもらうという、世に言う「ああああん」をやめれば、余裕で30分の時間
は生みだせる。


「却下よ。食事をおろそかにしたら治るものも治らないでしょうが。シンジが愛情こめて
作ってくれた朝食なんだから、ちゃんと食べなきゃ申し訳ないじゃない。それに………」


 アスカが上目遣いでシンジを見る。


「それに、アタシ、もうシンジにああやって食べさせてもらわないと食べられなくなっちゃったし」


 二人が恋仲になってから、動けないアスカはシンジによって完全に餌付けされている。


「だから、清拭はなし。わかった、エロシンジ」


 アスカの論理が納得できないようだったが、シンジは頷いてシーツを元に戻した。


「さあ、食事の前に宿題をちゃっちゃとかたづけるわよ。宿題ぐらい前の日にやっちゃい
なさいよ。本当に情けないんだから」

「うん」


 申し訳なさそうに応えながら、シンジは不満そうだ。それはそうだろう。前日に宿題を
済ませられなかったのはアスカの焼き餅が原因だったからだ。でも、それを口にすれば、
宿題をすることなく学校へ行かなければならなくなる。シンジもそれぐらいはわかってい
た。


「出しなさい」


 アスカの命令でシンジが鞄から問題集を出す。ドイツで大学を卒業しているアスカにと
っては、屁のようなレベルである。


「自分でやれるところをまずやりなさい。時間は30分よ」


 さっと目を通してアスカはシンジに問題集を返す。
 シンジが問題集に目を落とす。すらすらと答えを書いていくかと思えば、じっと考えこ
んでしまうところもある。やがて時間が来た。アスカは問題集に書きこまれた解答を見な
がら思案していた。


「やはり二年生で習うところが理解できてないわねえ。無理ないか」

「ゴ、ゴメン」


 シンジがいつものように謝る。


「シンジのせいじゃないわよ」


 アスカはシンジの出来なかったところを教えながら、今後の勉強の計画をたてる。


「世界三賢女の一人、碇ユイ博士の血を引いているんだから、頭が悪いわけはないわ。
シンジの場合、基礎がおろそかになっているのがネックのようね。アタシと逆だったから
ね。アタシは群れの中で目立つことで人に見て欲しかったし、シンジは目立たないことで
人に嫌われないようにしていたから。まったく、あの髭司令のせいだわ。アタシの旦那を
こんなにして」


 アスカの目が燃え始める。それを見てシンジが落ち着かなくなる。


「見てなさい、髭親爺。アンタがシンジに10年かけて与えた影響を、アタシは2年、い
や、1年で消してやるから。ふふふふ、この天才美少女惣流・アスカ・ラングレー様が、
愛の力を思い知らせてやるわ」


 この日、シンジは遅刻ぎりぎりで登校した。いつもより濃厚な接吻が原因であったが、
それを知るものは、この世に三人しかいない。もっとも当事者を覗く最後の一人は、監視
モニターの向こうでビール片手にもだえ死にしていた。




「やっと来たわね」

「まにあってよかったですう」

「お話しする間がございませんでしたわ」

「遅刻しなくて、よかった」


 シンジが来るのを手ぐすね引いて待っている4人の留学生たちが、それぞれに声を漏ら
す。

 伝達事項のないホームルームが終わり、授業までわずかな時間が空く。4人娘が来る
より先にケンスケがやってきた。


「遅かったな。惣流だろ、シンジと離れたくないと泣いてすがったとか」

「そんなわけないだろ。泣いてすがるのはいつも僕だよ」


 シンジが苦笑する。ケンスケも笑う。ケンスケの胸に光るのは昨日アスカから渡された、
シャープペンシル型集音マイクである。


「男同士でにやけて、気味悪いわね」


 マリアが口を挟んできた。


「あっ、おはよう。マクリアータさん」


 シンジがにこやかに挨拶をする。殺してやりたいほど憎んだ相手と許し合った経験を持
つ人の笑みというのは、まさに無垢であり天使のようである。


「うぐっ」


 マリアがたじたじと下がり、目をそらす。使徒戦役の頃のアスカとよく似た反応である。
 他の三人が寄ってこようとしたが、タイミングよく扉が開いて一時間目の教師が入って
きた。


 その後の休み時間は、ケンスケがシンジを教室から連れ出すことで無事に過ぎた。
 問題は昼休みである。弁当持ちのシンジ、パンを買うために購買へ行かなければならな
いケンスケ。どうしても二人が離れる時間が出来るのだ。


「シンジ、屋上で飯にしようぜ。パン買ってくるから、先に行っててくれ」


 授業終了のチャイムと共にケンスケが走り去る。


「いつものところで待ってるよ」


 のんびりした声で返事をしたシンジは、鞄から弁当を取りだして立ちあがった。そこへ、
呂貞春とフランスワーズが近づいてきた。


「い、碇さん、お昼ご飯一緒にたべませんか」

「ワタシもお弁当なんです」


 二人がシンジを上目遣いに見る。


「うん、いいよ」


 アスカから他の女とふれあうのは厳禁と命じられているが、かつてヒカリと一緒に弁当
を食べることも多かったことからか、シンジは昼食を一緒に取ると言うことが、中学生の
男女にとってどれだけ大きな意味を持つかわかっていない。


「触るわけじゃないから、いいよね」


 シンジが一人で納得するように頷く。ケンスケの努力は一瞬で無になった。
 アスカが顔色を変えた。ケンスケがシンジのそばを離れる事態は考えていなかったのだ。


「ちっ、相田の昼ご飯を考えてなかったわ。この天才美少女、惣流・アスカ・ラングレーとも
あろうものが、こんなミスをするなんて。でも、シンジに相田の弁当を作らせるわけにはいか
ないわよねえ。あまりに不自然だし、なんといってもシンジの弁当は私だけの特権だから。
仕方ないわね。相田のパンは諜報部で用意させるか。いい、明日から用意して、水城一尉」

「了解しました」


 看護師としてナースセンターに詰めることになった諜報部別班水城一尉は、なにもしな
いでいるのは居づらいのでとアスカの清拭を買って出て、アスカの病室に来ていた。

 さらにアスカの怒りを増幅させる行動を残りの二人が取る。


「わたくしもよろしいでしょうか? 」


 イリーナがまとわりつく同級生の男子を振り払うようにして近づいてくる。手にはコン
ビニのビニール袋を下げている。


「アタシも、パン買ってくるから、食べずに待っているのよ」


 やはり囲んでいた男子生徒を蹴散らすようにマリアが教室を出て行く。


「屋上にいるからね」


 その背中になにも考えていないシンジが声をかける。


「じゃ、行こうか」


 三人の美少女留学生を引き連れて出ていくシンジに呪いの言葉を同級生が吐く。


「いい死に方はしないぞ」

「月夜の晩が続くと思うなよ」


 中には哀れな声もある。


「惣流、さっさと帰ってきてくれ」


 アスカがシンジのことを好きだというのは、周知の事実である。ただ、それにアスカと
シンジが気づいていなかっただけで、使徒戦役中は、シンジに女子が話しかけるたびに
アスカの邪魔が入った。もし、今ここにアスカがいれば、シンジが留学生にかまうことな
どはない。もっともシンジは無事ではすまないだろうが。


「せっかく惣流さんが、いなくなったから、シンジくんに告白しようと思ったのに」

「いつも惣流さんにいじめられていたから情けないように見ていたけど、物静かで優しい
じゃない。あんなぽっとでの外国娘に奪われたと有っては、大和撫子の恥よ」


 男子とは裏返しの意味で憎々しげな目線を留学生にぶつける女子もいる。
 いろいろな思惑を持った眼差しに見送られてシンジたちは教室を出た。





 第一中学校の屋上は中央棟、東棟の二つがある。かつてはどちらも生徒の使用が可能で
あったが、先日急に東棟の屋上になにか大きな物置のようなものが設置され、生徒の出入
りは禁止になった。
 シンジたちは中央棟の昇降口をでて少し行ったところに陣取った。


「ちょっと待ってね」


 シンジがズボンの尻ポケットからレジャーシートを出した。もともとアスカと二人で使
うためのものだからそう大きくはないが、詰めれば三人は座れる。


「どうぞ」


 勧められてイリーナ、呂、フランソワーズの順に腰を下ろす。シンジはその真正面に、そのまま座る。


「シンジ、げっ」


 走ってきたケンスケが三人の留学生を見て、うめく。


「見張りがおろそかすぎるって、惣流に殴られるな」


 ケンスケは口の中で呟きながら、シンジに近づいていった。


「待ってたでしょうねえ」


 そのすぐ後にマリアが走り込んできた。荒い息をしているところを見ると、一階の購買
から四階にあたる屋上まで一気に来たのだろう。


「あっ、マクリアータさん、ここに座ってよ」


 シンジは自分のお弁当を包んでいたバンダナを自分の右隣に敷く。眼前の三人娘の目が
厳しくなるが、シンジは気づかない。


「アンタの隣か、冴えないけどまあ我慢してあげるわ」


 マリアが勝ち誇ったように三人に笑いかける。


「シ、シンジ、いいのか? 」


 ケンスケが、震えた。会話の全てをアスカに訊かれているのだ。要注意人物として特に
排除すべきマリアがシンジにくっつかんばかりのところにいる。


「なにが? とりあえず食べようよ、時間もないことだし」


 シンジは全く気にしていない。さっさと弁当箱を開けた。


「きれいなこと」

「い、碇さんが作っているですか? 」 

「すごいです、碇さん」

「男が弁当うまく作れても仕方ないじゃない。でも、やるわね」


 4人4様の反応にシンジが照れる。頬を染めたシンジを見てアスカの怒りを想像したの
だろう、ケンスケが顔をゆがめる。
 まさにケンスケの危惧は当たっていた。


「あんのばかぁ」


 モニターを見ていたアスカが地の底から湧くような声を出す。学校中に仕掛けられた監
視カメラはずっとシンジの行動を追っかけている。ケンスケが離れたときだけ音声が悪く
なるが、屋上で全員が集まった今、集音マイクからは、シンジがご飯を噛む音さえ聞こえ
る。


「惣流三佐、もうちょっと足を拡げていただかないと」


 水城一尉の声もアスカには聞こえていない。


「三佐、清拭できませんが……。三佐」

「ああ、そこはいいわ、自分でやるから」


 左手は全く問題ないアスカである、いかに同性とはいえ、女性の一番女性たるところを
他人に触れさせるのは嫌なのだ。


「こんな体じゃなかったら、絶対こんなことはさせないんだからね。アンタだけなんだか
ら、感謝しなさいよ」


 毎日真っ赤になりながらもシンジにさせているのは、シンジと自分はただならぬ仲なん
だというアピールなのだ。それだけではない、量産型エヴァに弐号機の内臓を喰われた時
に出来た下腹部の傷、赤黒いミミズが這うような痕から、シンジの目をそらしたいという
のもある。なによりもシンジを自分につなぎ止めておきたいという女としての想い。


「では、お昼ご飯の用意をいたしましょう」


 水城がシンジが作っておいたアスカ用の弁当を用意する。


「おいしそうですね」


 ふたを開けた水城が、感心した。
 特別に頼みこんで303号室には簡易キッチンが備えられている。アスカがどうしても
シンジの作ったものでないと嫌だとわめいたからだ。


「まあね」


 般若になっていたアスカの顔が一瞬ほころんだ。が、すぐにモニターに目を戻す。


「じゃないわよ。シンジの馬鹿、なに褒められて喜んでんのよ。アンタは、アタシの前で
だけはにかんでいいの。そのほほえみはアタシだけに向けられていればいいの」


 鬼気迫る声音に諜報という人間の裏を探り出す仕事をしている水城さえもおののく。


「シンジ、惣流に弁当は作ってきたのか」


 モニターに接続されたスピーカーからケンスケの声が響く。


「うん。今頃アスカも食べてくれているかなあ」


 シンジの顔が病院の方に向く。


「ナイス、相田。その調子よ。シンジの意識を絶えずアタシに向けさせなさい」


 聞こえていないと承知の上でアスカがケンスケを応援する。


「い、碇さん、そのお弁当はご自身でお作りになっているようですけど、おかずのレパー
トリーはどのくらいお持ちなんですか? 」


 呂貞春がシンジの弁当を覗きながら訊く。


「そんなに無いよ。卵焼き、ウインナー、ベーコンアスパラ、焼き肉、ハンバーグ、あと、
肉団子ぐらいかなあ。少ないよ」


 シンジが箸を銜えながら答える。


「中華のお総菜が少ないですね」


 呂貞春が話を続ける。


「そうかな。そうかもしれないね」


 相変わらずシンジはなにも考えていないようだ。


「お料理もそうですか? 」

「うん、料理しだしてからまだ一年にならないからね。それに同居していた二人が、和食
と洋食派だったから」

「中華は嫌いですか? 」


 シンジの言葉に呂が重ねて訊いた。


「とんでもないよ。僕は大好きだよ。麻婆豆腐とか酢豚とか、エビチリなんか。随分食べ
てないけど。そういえば、呂さんのおうちは、あの北京亭なんだって」


 呂の自己紹介をさすがのシンジも覚えていたらしい。新強羅駅まえの中華料理北京亭は、
第三東京市で名の通った店である。


「はい。よければ一度来てください。ごちそうしますから」


 呂貞春が誘う。


「ありがとう。いつかお邪魔するね。でもごちそうはしないでね。お店なんだから、プロ
は無料で仕事をしちゃいけないから」


 シンジが微笑む。


「はい、すいませんでした。では、今週の土曜日のお昼に」


 シンジの笑顔に頬を染めながらも呂貞春が話を決めた。


「えっ、ちょっと困るよ」


 シンジがあわてたが、呂貞春に、じっと潤んだ目で見あげられ、


「わたしの家にそんなに来るのが嫌ですか? 」


 と言われて断れるわけはない。


「そこまで行ってくれるなら、行かせてもらうよ。でも、正式な返事は明日まで待ってね。
許可もらわなければいけないから」

「はい。お待ちしてますから。よろしければ、碇さんのご家族もご一緒に」


 呂貞春が嬉しそうに頷いた。


「却下よ、却下。没、論外」


 アスカがモニターに向かって叫ぶ。


「三佐」


 激高しているアスカに水城が声をかけた。


「なによ、うっさいわねえ」


 アスカは水城に顔も向けない。シンジから一瞬でも目を離したくないのだ。


「利用できます。この状況」


 水城の発言にアスカの顔色がバネ仕掛けのように変わる。赤から白へと。


「どういうこと? 」

「中国の呂でしたか、彼女が碇二尉を誘ったのは、そこでなんらかの行動を起こすつもり
に違いありません。言葉を選ぶ時間がないので、そのまま申しますが、それこそ碇二尉を
押し倒して既成事実の構成。運がよければ妊娠、おそらく今週末は彼女の危険日なのでし
ょう、を狙っているものと考えられます。また、彼女以外の中国工作班は、碇二尉の拉致を
計画しているのではないかと」


 水城がアスカの問いに説明する。


「言うとおりね」

「中華料理屋なら、諜報部の人間を客として向かわせることができます」

「なるほど。一気に中国の勢力を排除してしまおうと」

「はい」


 水城が首肯する。


「わかったわ。水城一尉、あなたはすぐに作戦の立案にかかって。あと、飯田一尉を呼び
だして。中国の動きを残り三国が黙ってみているとは思えないから」

「了解」


 看護師姿の水城が、背筋を伸して敬礼し、部屋を出て行く。それを見送ってアスカは再
び、モニターに目を戻し、激怒した。


「浮気者、帰ってきたらコロシテヤル」


 アスカの目が縦に避けたかと思えるほどつり上がった原因は、シンジが自分の弁当から
卵焼きを取りだし、ロシアからの刺客イリーナに与えたことである。


「日本のお弁当文化は、非常に彩りが綺麗ですわ。ロシアのお弁当にあたるものは、ほと
んど黒パンのサンドイッチか、ピロシキのような揚げたパンですの。ですから連日同じ物
が続きとすぐに飽きてしまいますの。日本のお弁当は味わいも多彩なんでしょうね。その
黄色いものはなんなのでしょう? 」

「卵焼き、食べたこと無いの? じゃ、よければどうぞ」


 シンジが卵焼きを箸につかんでイリーナのパンを包んでいたビニール袋の上に置こうと
した。それよりも早くイリーナが口を突きだし、直接口に入れたのである。ゆっくりと唇
で箸を拭うような動き、そう、シンジの箸を使った間接キス。アスカが火を吐いたのも当
然であった。


「シ、シンジの作る料理は全部アタシだけの物。特に出汁のきいた甘めの卵焼きは、ハン
バーグの次にアタシが好物だと知っていて、他の女に、それもあーんなんて。アタシだけ
しか見ないと言っていたのはやっぱり嘘だったのね。傷ついたアタシをまた見捨てて、あ
の胸のふくらみにすりすりしようってわけ。ふふふふ、いい根性だわ。ドイツ女は嫉妬深
いのよ。シンジは誰にも渡さない。渡すぐらいなら、アタシが全部食べてやる」


 アスカの目がいってしまっている。まさにシンジの命は今夕までかと思われた。

 殺気ばしったアスカの目に、急いで手を引いたシンジが箸を箸入れに戻すのが映る。

「…………? 」

 アスカの顔に疑問が浮かんだ。弁当はほとんど手つかずに近い。見ているとシンジが、
デザートのリンゴ、しっかりウサギさんである、に突きささっていた爪楊枝でちまちま弁
当をつつきだしたのだ。


「なにやってんだ、シンジ」


 ケンスケが問うた。4人の留学生も呆然としている。


「イリーナさんが触れた箸を使うわけにはいかないよ。僕が触れて良いのは、いや触れた
いのはアスカだけだから」


 ケンスケの耳元で答えるシンジの声は小さいが、集音マイクは十分拾える。


「えへっ」


 一気にアスカの顔が綻びた。この世に戻ってきてからのアスカは、前にも増して感情の
起伏が激しくなっている。


「しんじぃ、早く帰ってきてほしいの」


 力の入らない右手でシーツにのの字を書いてアスカが独り言を言う。


「でね、んでね、ぎゅっとだっこしてね。キスも忘れちゃ駄目なのよ」


 アスカの脳裏には霞がかかったに違いない。


「失礼します。お呼びとのことですが……」


 ノックして入ってきた調査部第三班班長飯田一尉が、固まった。アスカの照れまくりを
目の当たりにしたのだ。


「三佐どの」


 さすがは戦自でも将来を嘱望されただけのことはある。理解不能な事態からの復帰は早
かったが、経験が薄い。こういうときは、声をかけずにそっと部屋を出て、もう一度ノッ
クし直すべきだということを知らなかった。


「げっ、いつから居たの」


 アスカが飯田の姿に気づいた。目つきがころっと変わる。40度のぬるま湯から、零下
90度の極寒へと。


「だっこのあたりからですが……」


 飯田がおずおずと答える。鍛え上げられた肉体が、まるでライオンを前にしたウサギの
ように細かく振えている。


「忘れなさい。あなたは、この病室に入ってきて、何も見ていないのよ。いいこと、思い出
したりしたら、155ミリ砲の弾頭に転属させてやるから」


 アスカの声は低く平坦である。感情がこもっていない言い方は怖い。


「も、もちろんであります。三佐どの。わたくしは、決して三佐どのが、碇二尉にだっこ
してほしいだとか、キスしてほしいだとか申されていたことなど見ておりません」


 恐怖の余り、飯田は余分なことを口にした。


「リツコの実験台決定」


 アスカが静かに宣告する。


「そ、それだけは、お許しください」


 飯田の声がうわずった。戦自にもリツコのマッドぶりは聞こえているようだ。


「なんでもする? 」


 アスカが訊く。


「ど、どのようなご命令にも従います」


 飯田が一筋の光明にすがろうとアスカが垂らした蜘蛛の糸に手を伸した。それは仏が、
地獄にいるカンダダにもたらした救いではなく、がんじがらめに捕らえる罠だとも知らず
に。


「そう、じゃ、アンタ一生アタシの下僕ね。呼んだら30分以内に来ること。いいわね」


 アスカの宣言に飯田が肩を落とす。


「さて、飯田一尉、あなたを呼んだのは下僕にするためじゃない。今週土曜日、シンジを
新強羅駅前の北京亭にいかせることにしたわ」


 アスカが話を切り替える。呆然としていた飯田の目に光が戻る。


「北京亭といえば、中国の呂貞春の寄宿先ではありませんか。なるほど、こちらから仕掛
けるのですか。わかりました。十名ほど前もって客として出します」

「頼むわ。でも、それより問題はね。残りの連中なのよ」

「北京亭行きが、残りの三国に知られていると言うことですか。なるほど、獲物を持って
行かれるのを黙ってみてはいないでしょうね」

「ふふ、なかなかいいわ。さすが、アタシの下僕二号ね」


 飯田の応えに満足そうにアスカが笑う。飯田が小さなため息をついた。


「では、一気に殲滅と参りますか? すでにアメリカのマリア・マクリアータの邸宅、ロシア
のイリーナ・ガルバチョフのマンション、フランスのフランソワーズ・立花・ウオルターの住居
に見張りをつけています」


 飯田が顔を引き締めて問うた。


「いえ、それは駄目。一度にやろうとして失敗したら、シンジの命に関わるわ。それに、
あの女たちの家が、それぞれの国の出先とは限らないしね。とりあえず、今回は中国を排
除することに専念して」


 アスカが首を振る。


「了解しました。では、土曜日は、三国の留学生宅の監視要員はそのまま、残りで新強羅
駅周辺を探索、状況で迎撃ということでよろしいでしょうか? 」

「そうして」


 編成をし直すために時間が欲しいのだろう、飯田はすぐにアスカの元を去っていった。


 アスカがモニターから目を離している隙に、シンジたちの昼食は終わっていた。
 ケンスケの顔色がよくない。ケンスケはアスカがずっとシンジを見張っているというこ
とを知っている。実は、アスカが見ていない間に争奪戦があったのだ。もちろん留学生
によるシンジ……の弁当のおかずの取り合いが。
 イリーナの行動を黙ってみている事が出来なかったのは、言わずとしれたマリアである。


「アタシにもよこしなさいよ」


 シンジの真横という位置的有利を使ってさっと指先で残った卵焼きを取り上げた。


「へえ、悪くないわね」


 感想までアスカにそっくりなマリアである。


「あっ、ずるいですう」


 呂貞春が、腰を浮かせてシンジの弁当から唐揚げをつまむ。


「醤油とお酒、それにこれはショウガですね。下味をしっかり付けてますね。すごいです」


 呂貞春が唐揚げを咀嚼しながら感心する。


「あはははは」


 空虚な笑いを浮かべるシンジ、アスカの報復をおそれたのか固まったケンスケ。そして
もう一人、思い切った行動に出れず、さみしそうにたたずむフランソワーズ。
 シンジがフランソワーズの様子に気がついた。


「ショウガ焼き味見してくれないかな? 」


 アスカとのつきあいでシンジは他人にものを勧めるときにでも、頼みこむようにする。
相手のプライドを考えてのことである。なにせアスカのプライドは、エベレストよりも1mは
高いのだ。


「あの、でも」


 間違いなく弁当のメインであるショウガ焼きをもらっていいかどうか迷っているフラン
ソワーズにシンジが微笑みかける。


「じゃ、そのソーセージと交換してくれない? 」

「こんなのでいいんですか? 」


 おずおずとソーセージを差しだすフランソワーズ。シンジはにっこりとしながら受け取
り、ショウガ焼きを渡す。二人が顔を見合わせてちょっとはにかんだ。


「ちっ」


 マリアがシンジを睨みつけるが、鈍いシンジは全く気づいていない。
 ライオン、グリズリー、虎、狼に囲まれた羊の食事会は、気の弱い狼と動きの早い虎が、
ポイントを稼ぐ形で終わった。



 昼食後の中学校、まともに授業を聞いている奴は、変人である。それが特に日本史だと
か、古文となれば、たまったものではない。アスカのために早起きして朝食を作り、弁当を
用意し、さらに清拭までしなければならないシンジは慢性的な寝不足である。午後の二
時間の睡眠は貴重な体力の回復タイムである。寝息まで立てて眠るシンジをフランソワー
ズが柔らかい瞳で見つめ、それをマリアが険しい顔で睨んでいた。


「ご、ご家族の方に忘れずにつたえてくださいね。じゃ、また明日」


 呂貞春は、実にあっさりとシンジに別れの挨拶をする。


「シンジ、帰ろうぜ」


 ケンスケがシンジを誘いに来る。その前にイリーナが割りこんだ。最後の一歩で軽く跳
んで自慢の胸を揺らせる。シンジの顔がちょっとだけ紅くなり、そっと目をそらす。してや
ったりとイリーナが笑う。


「碇さん、わたくしも明日から日本のお弁当というものを作ってみようと思いますの。
そこでランチボックスを買いたいのですが、お店を案内してくださいませんか? 」


 イリーナがシンジを誘った。そのシンジの様子をフランソワーズ、マリアが伺う。もち
ろんアスカも見ている。


「ごめん、今日は急いで帰らなきゃいけないんだ。お弁当箱なら駅前のデパートの五階、
日用品売り場に行けばあるから。じゃ」


 シンジは真正面をふさぐように存在を誇示する二つの膨らみを見ないようにして、立ち
あがり、急いで教室を後にした。


「シンちゃん」


 校門で待っていたのはミサトである。愛車のルノーに背中をもたれさせながら、小さく手を振る。


「お待たせしました、ミサトさん」


 シンジが頭を下げる。


「じゃな、シンジ。失礼します葛城二佐」


 お役目終了とばかりにケンスケが去っていく。


「さって、急いで帰らないとアスカが切れるからね」


 ミサトが助手席にシンジをのせ、扉を閉める。男と女の役目が逆のようだが、狙撃を警
戒しているからだ。


「ミサトさん、ちょっとスーパーに寄ってもらえませんか? 晩ご飯の材料を買いたいので」

「わかったわ」


 シンジの求めにミサトが応じ、ルノーが砂煙を上げて走りだす。
 スーパーに着いたシンジはあたりを見回して、首をかしげた。


「随分、空いてますね、今日は」


 4時といえば、夕食の買い物にくる人でごった返している時間帯である。それが、ほと
んど人がいない。


「タイミングじゃないの? 」


 ミサトが明るい声で言うが、すっと右手が懐に入る。
 そこへ、買い物カートを押しながら中年の女性がやってきた。ミサトが止めた奥の軽自
動車へとむかう。シンジをかばうように立ったミサトの隣を通りながら、女性が囁く。


「アメリカ、16名。排除済み。店内クリア。4名死亡、3名負傷」


 ミサトが黙って頷く。シンジはそんなミサトを気にも留めず、店内へと入っていった。


「7名削られたか、痛いわね」


 人手不足なネルフにとって、戦闘経験者は貴重である。


「戦自から補充するしかないけど、完全に信用出来ないのが辛いわね」


 独り言を言いながらミサトはシンジの後を追った。





「ただいま、遅くなってゴメン」


 病室に入ったシンジは、手にしていた荷物を簡易キッチンに置くとすぐにアスカの元へ
と向かう。


「お帰り、さみしかったんだからね」


 アスカがそう言って目を閉じる。軽く唇を合わせたシンジは、すぐに離れる。アスカが
不満そうに目を開け、シンジを見る。それに笑いかけて、シンジが近づく。


「アスカ、好きだよ」


 湿ったような音が病室にしみこむようなキス、かつてミサトがシンジに「大人のキス」
と言ったものより、数段濃い。カップラーメンならお湯を沸かしてできあがって食べ終わ
るほどの時間、二人はつながった。


「はあ、あたしもいるんだけどなあ、アスカ、シンちゃん」


 ミサトが笑っている。


「あら、居たんだ」


 アスカは今気づいたようにミサトを睨んだ。


「行ってきます、ただいま、おはよう、お休み、頂きます、ごちそうさまの挨拶は、キス
とセットなのよ。ちょっとの間なんだから、気をつかいなさいよ」


 アスカの言い分にミサトがあきれたように天を仰ぐ。


「あのねえ、どこの世界に挨拶ごとに10分以上もキスしているカップルが居るの? 」

「えっ、海外じゃ常識じゃないんですか? 」


 ミサトの言葉にシンジが驚いた顔をする。


「アスカ、あんまりシンちゃんに妙な習慣を植え付けちゃ駄目よ。いい、ここは、日本で、
あなたはもう日本人なんだからね」


 ミサトがアスカを指さす。


「へえ、アタシ日本人になってたんだ。シンジと一緒」


 語尾に音符がつきそうなほど楽しげにアスカが笑う。実際は自我崩壊したアスカの面倒
を押しつけられたくないとアメリカが国籍剥奪したのを受けて、アスカを日本国籍にした
のである。事実を告げることは、アスカの精神によくないとの判断で報されていない。


「そうよ。どうせ、アスカはシンちゃんと結婚するんでしょ。だったら、アメリカ国籍だ
と、いろいろ書類は要るし、大使館にも行かなきゃならないからね、面倒でしょ」

「そうね。ねえ、シンジ、アタシをもらってくれるんでしょ」

「もちろん、嫌だと言っても僕のものにしちゃうけど」

「そんなこと言っちゃっていいの? もう取り返しつかないよ。絶対にアタシシンジから
離れてあげないよ」

「僕が離さない」

「好きよ、馬鹿シンジ」


 アスカとシンジの顔がぐずぐずににやける。


「はいはい、もう好きにして。それよりシンちゃん、、あたしお腹空いたんだけど、ごち
そうしてくれない? 」


 ミサトがシンジに顔を向けた。


「ええっ、ミサトも食べるの? 」


 アスカが不満の声をあげる。


「たまにはいいじゃない、シンちゃんの手料理随分食べてないのよねえ。最近ネルフの食
堂ばっかでさ」

「わかりました、今作りますからちょっと待っててください」


 シンジがまだ文句を言っているアスカの口を口で黙らせ、病室の片隅のキッチンへと
行った。


「どうしたの、ミサト、なにか有った? 」


 傍に来たミサトにアスカが訊いた。


「帰りに寄ったスーパーでね、待ち伏せがあったらしいの。幸い、作戦部が撃退したけ
ど、4名やられ、3名が戦線離脱」


 ミサトがアスカの耳元で囁く。


「どこの国よ? 」


 シンジに聞こえないようにアスカが小声で尋ねる。


「アメリカらしいわ」

「そう。すでにシンジが今週末に中国と接触することは知られているという事ね」

「だと思うわ」


 ミサトも頷く。


「素早いわね」

「ええ。シンジくんは、放課後いつもあのスーパーに寄るわけじゃないわ。商店街の時も
有れば、まっすぐ帰る事も多い」


 ミサトの顔が深刻になる。


「ヤンキー女が、シンジと離れたのは、昼休みの終わりに女子トイレへ行ったときだけ。
2時間ほどでそれだけの布陣が取れるとなると、かなりの戦力が入りこんでいると言うわ
けね」


 アスカが顔をゆがめ、ふと思いついたようにナースコールを押す。


「どうしたの、具合でも悪くなった? 」


 ミサトがアスカを見下ろす。


「違うわ」


 アスカが応えたところに水城が入ってきた。


「何か連絡はあった? 」

「はい、熊を見張っていたものから連絡です」


 水城がちらとシンジの方を伺う。調理に夢中のシンジはこちらを気にしていない。


「駅前でデパートに熊の手勢が20名待機していたようです」


 熊とはロシアのことだ。


「それでか、放課後シンジを弁当箱を買うのにつきあえと言ったのは」


 アスカはしっかりイリーナの言動をチェックしていた。


「フランスの動きがないのが気になりますね」


 水城が顎の下に手を当てて呟く。


「土曜日、無事には済みそうにないわね」


 アスカの言葉にミサトも水城も同意する。


「出来ましたよ。あっ、看護婦さん、いつもお世話になってます」


 シンジが手に料理を持ちながら頭を下げる。


「いえいえ。まあ、おいしそうなビーフストロガノフですね」


 水城がにっこりとシンジに応える。


「たくさん作りすぎたので、後でナースセンターに持っていきます。よかったら食べてく
ださい」


 シンジがちょっと赤くなった。ミサトほどではないが水城もかなりの美人である。


「ふん」


 アスカが横を向く。


「あらあら、彼女に叱られるわ。じゃ、楽しみにしてますね」


 水城がアスカの目から逃げるように病室を後にした。


「まったく、女に甘いんだから。シンジ、わかってる? アンタにとって、世界中で唯一
の女は、アタシ、惣流・アスカ・ラングレーだけなんだからね」


 アスカがシンジを指さして怒った。


「わかってるよ。アスカ以外は全部大根かカボチャにしか見えないから」


 シンジがアスカの機嫌を取るように言う。


「ほほう、じゃ、あたしはどっちかな? シンちゃん」


 ミサトが意地悪そうに訊くのを、アスカが一刀両断にする。


「その足見ればわかるでしょ、アンタは大根よ、大根」





 かつてかりそめの家族であった頃のような和やかな夕食が始まった。






            続く
 

 


 

 

後書き
 ここまでお読み頂きありがとうございます。
 話がなかなか進まないとご不満でしょうが、勘弁してください。




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 タヌキ様の当サイトへの5作目。
 ああ、ケンスケの食事の心配までしないといけないなんてっ!
 それもこれもシンジを愛するがため。がんばんなきゃ。
 あ、世界三賢女って当然わかるわよね。
 碇ユイ、惣流・キョウコ・ツェッペリン、そして…。ん?赤木リツコ?アンタ、一度死んできなさい。
 この私、碇・アスカ・ラングレーに決まってんでしょ!え?姓はまだ変わってないって?
 うっさいわねぇ、細かいことは気にしないほうが身の為よ。
 続きがすっごく楽しみっ!
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、タヌキ様。

 

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