前作までの設定を引きずっております。先にそちらをお読みいただけると幸いです。
 タヌキ
 

 

LASから始まる
 
新たな戦い
 

 


 

タヌキ        2004.11.07

 

 










 深夜の病院というのは静かである。それはネルフ職員専用の医療施設も同じ。特に外来
専用のフロアーである1階は人気すらない。非常口を示す明かりとわずかな常夜灯、自動
販売機の光がうっすらと長椅子や案内板などの待合室風景を映し出しているだけ。
 無人の野を行くように若い看護婦が歩いている。静音性を重視したナースシューズのせ
いか、あるいは看護婦の体術なのか、足音はまったくしない。薄暗い待合室をさっさとわ
たりきった看護婦は階段を上がっていく。ついている蛍光灯の数は半減しているが、さす
がに階段の照明は残されている。
 ネルフの医療施設は7階建てである。1階が外来、2階がレントゲンやMRIなどの各
種検査場所、3階がVIP専用の入院施設、4階から6階が一般入院施設、7階が医局と
給食施設になっている。
 2階までは誰でも上がれるが、そこから上は許可がないと入れない。階段は全て施錠さ
れた特殊合金製の扉で締め切られ、IDカードをスロットに差しこまないと開かない。看
護婦は白衣のポケットからIDカードを取り出した。一瞬見えたカードの写真は、先ほど
この世を去った臨床検査技師のものだ。
 小さな認証音と共に扉のロックがはずれる。看護婦はカードを再びポケットに戻すと、
扉を押した。
 だが、入れたのはそこまでだった。3階の病棟へ続く踊り場には別の扉があり、そのロ
ックは持っているIDカードでは開かなかった。
 無効カード挿入を関知したセキュリティが警告を発し、それを聞いた看護婦が、小さな
笑いを貼りつけたままその場に崩れるように倒れる。
 扉の向こうに足音が響くのを看護婦は酷薄な笑いを消して意識を失った振りで聞く。
 階段口全体を締め切っている大きな扉の片隅、畳一枚ほどのスペースが内側へ引きこま
れるように開いてそこから二人の保安部員が顔をだす。すぐに踊り場に倒れている看護婦
に気づき、目配せを交わす。

「おい」

 一人が看護婦の頭近くに腰を落として声をかけ、もう一人が2メートルほど離れた扉の
入り口を護るように立つ。すでに拳銃を手にしている。

「なにがあった」

「男が、いきなり私を突きとばして、4階に……」

 弱々しい看護婦の声に二人の目が階上を見あげた。
 一瞬の隙、看護婦の手が小さく動き、近くにいた保安部員が崩れる。残った保安部員が、
慌てて拳銃の銃口を向けるが、それよりも早く看護婦の右手がひらめき、保安部員が落ち
た。見ると二人の喉にたたみ針のようなものが刺さっている。
 動かなくなった保安部員の胸ポケットからIDカードを取り上げる。

「3時間は動けないわ。後遺症もしばらく声が出なくなるだけよ。あんた達の分まで料金
貰ってないの。よかったわね、けちな依頼主で」

 冷徹な殺し屋は婉然と微笑むと、二人をそのままに開かれていた小扉をくぐった。
 階段口からアスカの病室である303号室までは、かなり離れている。もちろん警備上
の問題からである。
 看護婦は堂々と廊下の真ん中を進んでいく。
 廊下の中程、右側にあるナースセンターの前もそのまま通過していく。夜勤の人間が足
りないのか、ナースセンターに人影は一つしかない。それも机の上で書きものをしている
のか、顔を上げることもない。ちらと見た看護婦の歩みが止めることはない。
 アスカ自筆の勝手に入ったらコロスの看板前に立った看護婦が呟く。

「ここね」

 看護婦は白衣のポケットからストローほどの太さのパイプを取り出す。その先をドアの
上にある通気口へと差しこんでいく。弾力のある素材なのだろう、パイプは折れることな
く通気口の隙間へと入っていく。2メートルほどの長さが出たにも関わらずポケットにつ
ながったままだ。

「ゆっくりおやすみ、子供たち」

 看護婦の手が腰に当てられ何かを操作するように蠢く。透明だったパイプが白濁してい
く。パイプが変わっていくのではない、パイプの中を白いものが通っていくのだ。
 よほど沸点が低いのか、空気に触れることで気化するようになっているのか、パイプの
先から出た液体は直ぐにガスになり、霜が降りるように静かに部屋の床へとたまっていく。
ものの2分ほどでガスは部屋の天井まで充満した。
 最後の液体が通り抜け、透明に戻ったパイプを引きちぎるようにして捨てた看護婦が、
腕時計の秒針を見つめる。

「そろそろね」

 看護婦は保安部員から取り上げたIDカードを病室のドアスロットに滑らせた。
 淡い光と小さな音を連れてロックが解除され、圧縮空気の音を立ててドアが開く。看護
婦が口と鼻を手で覆い、息を止める。密閉空間から解放されたガスが、足元を伝わって出
ていく。ガスはあっさりと拡散した。

「さて、お姫様と王子様のご機嫌はどうかしら」

 看護婦が一歩踏みだした。

 303号室は、個室としては広い。20畳ほどある主室と今やシンジの城、台所と化し
ている4畳ほどの小部屋からなり、主室にはアスカのベッドと応接セットが配されている。
30で始まる病室は全て同じ造りであるが、303号室には大きな違いが一つある。中央
のベッドに添うようにもう一つベッドがあることだ。
 もちろん、そこに寝ているのは、アスカが唯一気を許す相手、碇シンジである。
 いつかは一つのベッドで共に同じ夢を見ることになる二人だが、アスカの体調が万全で
ない今は、こうやってベッドを並べるしかできない。

「なにもしないから一緒に寝ても良いじゃない」

 アスカの要望が、真っ赤になったシンジの「僕が我慢できないよ」で潰えたことは、
アスカの友人洞木ヒカリ嬢には内緒である。亀の怪獣と戦った鳥の怪獣に比肩される彼女
の絶叫は、アスカの傷口を開きかねないと懸念されたからだ。
 常夜灯というには明るすぎる照明の下で、二人は、扉が開いたことにも気づかず、小さ
な寝息を立てて眠りこけている。

「お手手つないでお休みなの。お子様じゃない」

 アスカの左手とシンジの右手がしっかりと握られているのを見た看護婦があきれたよう
な声を出す。

「ドイツの至宝とまで言われた惣流・アスカ・ラングレーを只の色ボケにおとした男は、
どんな顔をしているのかしら」

 看護婦がそっとシンジの寝顔を覗きこむ。

「あら、かわいい。まつげも長いし、女の子みたい。とてもこの子を巡って世界の4大国
家が争っているとは思えないわね。ふふ、わたしが頂いちゃおうかな。ほっぺなんかすべ
すべじゃない」

 看護婦が微笑みながら右手をシンジの頬へと伸ばす。

「ひとの男にちょっかい出すの辞めてくれる? 」

 地の底に住む魑魅魍魎といえども凍り付くような殺気を含んだ声が、看護婦の身体を凍
らせた。

「麻酔ガスが、効かなかったの? 」

「ここは特殊病棟よ。ベッドに酸素ボンベが直結されていて当然じゃない」

 アスカは布団の中からマスクを取り出してみせる。

「無味無臭のガスにどうして気づいたの? 」

「酸素より重いガスだったからね。アタシのベッドよりシンジのベッドの方が下でしょ、
シンジが先に眠ったから気づいたのよ。寝ていても普段のシンジならアタシの手をしっか
り握ってくれるのに、ふっと力が抜けたからね」

「さすがは、ネルフの諜報部長ね。で、このどじな私をどうするのかしら? 」

 看護婦があきらめたように両手を頭の上で組む。

「質問を繰り返してアタシの意識を逸らそうなんて甘いわよ。ついでに言っておくけど、
ナースキャップの下にナイフを隠して居るぐらいは判っているから無駄なことはしない」

 アスカが冷たい目を向ける。

「そう言うわけにも行かないのよ。いろいろお金がいるの。このボディラインを維持する
のって大変なのよ」

 胸を張って足を見せつけるポーズを取るように見せて看護婦が足を振った。ナースシュ
ーズから小さな金属の固まりがアスカめがけて飛ぶ。アスカは布団をかぶってそれを止め
る。羽毛布団とはいえ、空気を含んだそれは、小型の刃物を通すことはない。
 一瞬アスカの視界を布団が覆い、看護婦の姿が消える。

「死になさい、セカンドチルドレン」

 ナースキャップの下から現れたのは、手のひらの半分もないような拳銃である。
 眠りについた病院に銃声は大きく響いた。

「馬鹿ね、こいつ入院したこと無いんじゃない? ベッドにはナースコールが着いている
ことさえ知らないなんて」

 床に倒れ、身体の下から赤い絨毯を拡げて行っている看護婦にアスカは哀れみの目を送
った。

「ご無事ですか、惣流三佐」

 油断無く銃を床に向けたまま、水城一尉が訊く。

「アリガト。おかげで助かったわ」

「いえ、ですが、よろしかったんですか、ここまで侵入させて」

 水城一尉が非難めいた口調でアスカに問うた。指示とはいえ、世界に二人しかいない適
格者の命を危険にさらしたのだ。

「でなければ、もっと被害が出ていたわね。こいつの服を脱がせてご覧なさい、たぶん背
中にプラスチック爆弾ぐらいは背負って居るはずよ」

 アスカの言葉に水城一尉が、看護婦の服をナイフで裂く。ボディスーツの様に体型にフ
ィットした形のプラスチック爆弾が現れた。

「三佐」

 水城一尉の顔色が変わる。これだけ有れば、病院を崩壊させることは無理でも、303
号室を跡形もなく消し去ることは出来る。

「大丈夫よ、ここでこれを使うつもりはなかったはずだから。なんせ、アタシの直ぐ側に
は絶対に殺してはいけないシンジが居るのよ。だから、毒ガスも使えない。アタシを直接
手で殺すしかない」

「それで、あえて見逃していたと」

 水城一尉が驚いた顔を見せる。14歳の度胸とは思えなかったのだろう。

「それより、急いでここを片づけて、シンジに知られたらことよ」

 アスカが慌てて水城一尉に指示をだす。アスカの命が狙われたと知るとシンジが切れか
ねない。切れたシンジの無謀さは、アスカの身にしみている。

「了解しました」

 水城一尉がポケットから無線機を出して部下を集め、死体を持ち去り、床に溢れた血を
拭い、穴の開いた壁をふさぎ、切り裂かれたアスカの布団を交換する。ものの1時間ほど
で303号室は、元の姿に戻った。

「その女の素性を作戦部に調べてもらって。たぶん、依頼者はロシアだと思うけど、予想
外のものが出てくるかもしれないからね」

 諜報部はアスカとシンジの警護で手が足りない。

「了解しました。三佐」

 水城一尉が何か言いたそうにアスカの顔を伺う。

「なに? 」

「提案があるのですが……」

「言って」

「三佐が亡くなられたことにしてはいけませんか? 」

 水城一尉の言いたいことはアスカにも分かった。この暗殺者の襲撃でアスカが死んだこ
とにすれば、あとあと刺客が送られることもなくなるし、各国のシンジへのアタックも露
骨になり、ミスを誘いやすくなる。諜報戦術としては、常道である。

「駄目よ。シンジに嘘がつけると思う? 」

 アスカは一言で却下した。

「では、碇二尉には隠して……」

「世界を破滅させるつもり? 」

 水城一尉の声をアスカが遮る。

「シンジはアタシのために世界を再構築したのよ。そのアタシが殺されたとなって、平常
心で生きていけるはずはないわ。犯人だけじゃない背後にある国を滅ぼして自殺するわよ」

 アスカの言葉は真実であり、アスカの女としての自信でもあった。一人の男が自分のた
めに惜しげもなく命を捨てる。女にとって夢と言っていい。
 世間の男のように「君のためなら死ねる」などとシンジが口にすることはない。でも、
事実なのだ。アスカが死ねばシンジも死ぬ。シンジが死ねばアスカも死ぬ。二人は命さえ
ユニゾンしている。

「浅慮でした」

 水城一尉が頭をたれる。シンジに何か有れば、よくて日本壊滅、ひょっとすればフォー
スインパクトによる人類全滅になる。

「進言には感謝しているわ」

 アスカは水城一尉を慰める。

「もう下がって良いわ、もう少し寝れるでしょ」

「それでは、お休みなさい、三佐」

 水城一尉の敬礼を眠そうな眼でアスカは見送った。



 迎えた土曜日の朝。中学校が週休二日制になって久しいが、残り1ヶ月ちょっととなっ
た中学二年生の履修課程に大幅な不足があるシンジは、補習を命じられて登校していった。

「どう、順調に回復している? 」

 残されたアスカの元に久しぶりに赤木リツコが訪れる。リツコはアスカの許可を取るこ
となく、隣に並べられているシンジのベッドに腰を降ろす。

「何の用? 」

 休日で一緒に居られるはずのシンジを学校に奪われて機嫌の悪いアスカは、険悪な表情
を浮かべる。

「あら、ご機嫌な斜めのようね。愛しのシンジくんが居なくて欲求不満かしら? 」

「リツコ、アンタだんだんミサトに似てきているわよ。たしか、日本じゃ朱に交われば赤
くなるというんだっけ? それとも類は友を呼ぶだっけ? 」

「冗談にしてもやめて欲しいわ。ミサトと一緒にされるくらいなら、使徒と結婚する方が
ましよ」

 心底リツコが嫌そうな顔をする。

「ふん、使徒でさえ貰ってくれない嫁き遅れ同士のくせに」

 アスカのその発言は、してはいけないものであった。たちまちリツコの顔から表情が消
えていく。

「ねえ、アスカ。あなた早くシンジくんと一緒に学校に通いたいでしょ。良い方法がある
わ。まだ、開発途中なんだけどね。有機アンドロイドにあなたの脳を移植するの。もちろ
ん、外見はあなたそっくりにできるわよ。全身どこをとっても人間そのまま。キスはおろ
か、性行為も問題ないわ。あなたの卵子を保存しておけば、妊娠出産も可能よ」

「め、めずらしくアンタにしてはまともなものを作っているじゃない」

 アスカはちょっと震えながらも強気を装う。

「でしょ。そうそう、言わなくてもいいと思うけど、ちゃんと自爆装置もついているから。
スイッチは当然、開発者の私が持つことになるけどね」

 リツコの目が狂気に彩られた科学者のものになる。

「え、遠慮しておくわ。アタシ、この身体気に入っているから」

「そう。もったいないわね。ご希望と有れば、胸を大きくしたりお尻を小さくしたり、足
を長くしたりも出来るのに」

「うっ……」

 ちょっと揺らいだアスカだったが、気を取り直す。

「で、何しに来たの? 」

 話題を変えようとアスカが訊いた。

「ちょっとシンジくんの事で話があったんだけど、その前に、アスカ」

「は、はい」

 リツコの気迫に思わずアスカが素直に返事をしてしまう。

「今度嫁き遅れなんて口にしたら、シンジくんと結婚できないように性転換しちゃうから」

「ゴ、ゴメンナサイ」

 アスカは悲鳴のような声で謝った。

「で、シンジくんのことだけど、月曜日にシンクロテストをやったことは知っているわよ
ね」

 リツコの問いにアスカは頷く。シンジの口から具体的な数字とかは聞かされていないが、
実験があったことは知っている。

「その時のシンクロ率なんだけどね。高すぎるのよ」

「どういうこと? まさか、取りこまれてしまうとでも」

 アスカはシンジを一ヶ月ほどとはいえ、失った事を思い出した。シンジは殺されかけた
アスカを助けるために二度と乗るまいと決心した初号機に搭乗し、力の使徒ゼルエルと戦
った。圧倒的な強さの使徒を倒すためにシンジは、過剰シンクロせざるを得ず、シンジは
エヴァと自我をすりあわせ、ついに溶けこんでしまった。
 素直でなかったアスカの心を壊す一因ともなった事件であり、今のアスカにとって、
記憶に蘇らせたくないことである。

「それで済めばいいのだけどね」

 リツコの歯切れは悪い。

「はっきり言いなさいよ、リツコらしくない」

 気の長い方ではないアスカが、いらだつ。

「シンジくんは、間違いなくエヴァを動かせる。それも今までとは格段に違った動きでね。
おそらく、いまのシンジくんに量産型エヴァなど100機かかってもかなわないわ。彼は
真の意味でエヴァとシンクロできるようになった」

「真のシンクロ? 」

「ええ。真のシンクロ、エヴァと直接に通じ合う。これを普段の自分の動きとするならば、
コアに閉じこめられた人の魂を介してのシンクロなど両手両足を括られ、目隠しをされた
状態で水泳するようなもの」

「シンジは、エヴァの100%の力を引き出せるというの? 」

 アスカの質問は核心を突いている。リツコが首肯した。

「シンジくんは、一撃で地球を、いえ、太陽系を破壊するだけの力を持ったに等しい」

 中性的な風貌、料理や洗濯などの家事が得意で、誰にでも優しく、人を傷つけるなら
自分が傷つく、女の子の気持ちになどまったく気が及ばない鈍感な少年と神をもしのぐ力
を持つ少年のイメージは合わない。だが、それが現実なのだ。

「それで、アタシに話って、ひょっとして子供のこと? 」

「アスカ、あなたは本当に鋭いわね」

 リツコが小さく目を見張って感心した声を漏らす。

「これがシンジくんだけ、パーソナルなものなら問題はあまり無い。シンジくんの死をも
って地球は破壊の恐怖から逃れられるわ。でも、知っての通りエヴァとチルドレンの間に
は現代科学では解明できない何かがある。もし、彼の遺伝子にこの適格情報が含まれてい
たとしたら。シンジくんの子供は、彼ほどじゃないにしても強力な戦略兵器となるわ。居
るだけで核兵器をしのぐ外交手段となり得る」

「抑止力か」

「ええ」

「要するに今後ますますシンジの争奪戦は激しくなると言いたいのね」

「それもあるわ。でももう一つ」

「アタシとシンジの子供が一番危ないと言いたいのでしょ」

 アスカの眼が殺気を含んでリツコを睨む。

「畏れ入るわ。その通り、世界に二人しかいない適格者同士の子供、それがどれほどの能
力を持つのか想像が付かないの。もしかしたら、シンジくんをしのぐかもしれない。科学
者として推論は言うべきじゃないけど、エヴァを遠隔で操作できる可能性も考えなきゃな
らない」

 唯一残ったエヴァ、衛星軌道を周回している初号機を遠隔で操作できれば、地球征服も
夢物語ではなくなる。

「まさか、シンジとの間に子供を作るなって言う気じゃないでしょうね」

「言わないわよ。アスカに殺されたくはないもの。ただね、シンジくんの力を制限する方
法が見つかるまで我慢して欲しいの」

「妊娠するなっていうこと? 」

「……じゃ無くて……」

 リツコが言いにくそうに下を向いた。小さな声で「全部私に押しつけて、ミサト、恨む
わよ」と呟いている。

「はっきり言いなさいよ」

 アスカの堪忍袋の緒が切れかける。

「しないでほしいのよ」

「はあ? 」

「100%の避妊方法はない。だから、しないでほしいの」

「ア、アンタ馬鹿ぁ? いつ開発できるか判らない制御システムができるまで待っていろ
というの? そんなもの、下手したら、アタシ一生処女のままじゃない」

 アスカがあきれた顔をした。

「ぜ、全力をあげて開発するから……」

「聞く耳持たないわ」

 アスカの声が絶対零度の冷気を放つ。

「アタシは、いますぐにでもシンジのものになりたいの。身体のことがあるから耐えてい
るだけ。退院したらその日に抱いてもらう。それを楽しみにこの傷だらけの身体をさらし
て生きているアタシの夢を奪おうって言うの? 第一、シンジが我慢できないわ」

「…………」

 アスカの言い分にリツコが黙りこむ。愛情や性愛を司るA−10神経の肥大したシンジ
とアスカの性欲は通常人をはるかに超える。

「まさか、シンジにアタシの代役となる女を与えようなんて思ってないでしょうね。……
ふうん、そうなんだ。そりゃあ、便利よねえ。妊娠も出産もネルフのコントロール下で行
えるものねえ」

 リツコがびくっと肩を震わせる。

「で、誰が立候補したの? マヤ? ミサト? リツコ? 」

 アスカがものを数えるように無感情に名前を呼ぶ。その威圧感はすさまじい恐怖をリツ
コに与えた。リツコの顔色が無くなっていく。

「そ、そんな気は無いわ。ただ、アスカにお願いをしに来ただけ。いけない、もうこんな
時間。アスカも疲れたでしょ。帰るわ。ああ、忘れるところだったわ。制御システムの開
発にシンジくんの協力が不可欠だから、ネルフに来て貰う回数が大幅に増えることになる
けど我慢して。じゃ、考えておいて」

 リツコはそそくさと病室を後に逃げだす。

「あのショタコンどもめ。アタシのシンジにちょっかい出したらコロシテヤル」

 殺気という名の光線がアスカの瞳から放たれた。



 補習を終えたシンジが戻ってきたのは、それから2時間ほど経ってからである。

「ただいま、アスカ」

「お帰り、寂しかったの、シンジ」

 アスカはまだくすぶっていた殺気を霧散させて、シンジと唇を合わせる。お互いの存在
を確認するような軽いキスは、やがて相手の息吹を奪い取らんばかりの激しいものに変わ
っていく。

「お腹空いたでしょ、すぐにご飯にするから」

 唇を離したシンジを逃がさないとばかりにアスカがぐっと抱きしめる。

「もうちょっとこのままで」

「何かあったの? 」

 いつもと違うアスカの振る舞いにシンジが尋ねた。

「うううん、こうしていたいだけ」

 シンジの胸に顔を埋めてアスカが囁く。シンジはそれ以上訊かない。
 二人は30分ほど抱き合っていたが、シンジの無粋な腹の虫が鳴くことで終わりを告げ
た。

「ゴメン」

「ふふふ、もう、2時だもの。アタシもお腹空いた。シンジ、ご飯にして」

「うん、今日はしゃぶしゃぶスパゲッティにするから」

「ふうん、初めてね、それ」

「茹でたパスタの上に豚肉を湯通ししたものを載せて、その上に大根おろしを積み上げて、
ポン酢で食べるんだ。アスカしゃぶしゃぶ好きでしょ? 」

「うん、日本に来てから食べたお鍋なら、すき焼きの次に好き」

 アスカが笑顔になる。

「ちょっと待ってね」

 シンジが台所に向かう。
 昨夜からつい先ほどまでこの病室であった攻防をシンジは知らない。
 アスカは鼻歌を歌いながら炊事をするシンジの背中を飽きもせずずっと見ていた。



 さすがに日曜日まで補習はない。朝からハートマークが部屋の外までこぼれていきそう
な甘い時間を過ごしている二人の元に、ケンスケとヒカリがやってきた。

「よう、惣流、元気そうだな。顔色も随分良くなったし、肉付きも戻ってきたんじゃない
か? 」

 ケンスケの手にカメラはもう無い。アスカの姿を撮ることはやめたのだ。

「惣流の本当の美しさは、カメラの写しきれないところにあるからな」

 かつて病室を訪れたケンスケがそう言うのをアスカは聞いている。もちろん、アスカの
返事は「今頃気づいたの? やっぱり、アンタはバカね」であったが。

「アスカ、ちょっと碇君と離れたら」

 ヒカリがあきれた声をだす。
 無理もない。アスカは両手をシンジの首に巻き付けたままなのだ。

「いいじゃない。アタシたち恋人同士なんだから」

 アスカが頬を膨れさせる。まだ、昨日リツコから言われたことが尾を引いているらしい。

「私たちは良いわ、慣れているもの。でもお客さんに見せるには問題があると思うの」

「客? 」

 ヒカリの言葉にアスカが怪訝な顔をした。
 アスカとシンジがべたべたとしていることを知らない人間が、この部屋を訪れることは
ない。

「シンジ君はよく知っていると思うけど、アスカは初めてじゃないかな」

 ヒカリがケンスケに顔を向ける。なにか口にしがたいらしい。

「俺に振るなよ」

 ケンスケも腰が引けている。

「葛城さんから頼まれたのは相田くんだったでしょ」

「それを言われると……」

 中身を知らなければ、ミサトは極上の美女なのだ。完成された女の魅力は、いまだ少女
という枠組みに囚われているアスカの及ぶところではない。中学生の男子が魅惑されるの
は当然だ。その頼みと有れば無条件に引き受けるだろう。
 かつて同居していたシンジがミサトの虜にならなかったのは、初日に知った正体とまも
なく同居しだした天下の美少女アスカのおかげである。
 こんな二人を見てアスカが黙っているはずもない。シンジの首に回していた手を名残惜
しそうに離しながら、声を荒げる。ミサトがらみとなると特に厳しい。

「さっさと言いなさい」

「と、とりあえず会ってもらおうな」

 ケンスケは、すでに逃げだす用意をしている。

「そ、そうね。じゃ、わたしが迎えに行ってくるわ」

「お、俺も行く」

 いそいそと病室を出て行こうとするヒカリにケンスケが従う。

「なにやってんの? アイツら」

 アスカは不審を露骨に言葉に乗せながらシンジに訊いた。

「さあ? 」

 シンジが首を振る。
 ヒカリとケンスケを飲みこんで一度閉まった扉が再び開かれる。
 ひょこっと出た顔を見てシンジが驚愕の声をあげた。

「呂さん」

 シンジを自家薬籠中のものとすべく襲った中国の美少女、呂貞春である。

「えっ、アンタ、ネルフに捕まったんじゃないの? 」

 アスカも驚きを隠せない。シンジの前では呂の顔をアスカは知らないことになっている
ことなど忘れてしまっている。

「そうなんだけどねえ」

 今度は扉の向こうから声がした。

「その声は、ミサト」

「ミサトさん」

 気まずそうな表情を浮かべながら葛城ミサトがアスカの病室に入る。

「どういうことよ? 」

 側までこないミサトに、アスカはいらだつ声を投げる。

「シンジに危害を加えようとしたんでしょ、コイツ。だったら良くて本国送還、普通なら
警察を通じて拘留、悪ければネルフの手で密かに……」

「危害って、この娘はシンジくんと愛を交わそうとしただけじゃない。痛いのは彼女で、
どちらかといえば、シンジくんは気持ちいい……」

「それ以上言ったら、生まれてきたことを後悔させてやるわよ、ミサト」

「うっ……」

「呂さん、なんか大変だったんだね。もう、大丈夫なの? 」

 空中をとぶ会話も周囲の雰囲気もまったく判っていないシンジが呂の側に駆けよる。

「ありがとう、碇さん。心配してくれるんですね」

「当たり前じゃないか。クラスメートなんだから」

 呂貞春の眼が寂しそうに、にこやかに笑っているシンジを見つめた。二人の間に無言の
空間が出現する。
 アスカの辛抱がとぎれる直前、呂貞春が視線をアスカに向けた。

「初めまして、呂貞春といいます。あなたが碇さんの恋人の惣流さんですね」

 呂貞春の口から出た恋人という言葉に罵詈雑言を浴びせかけようとしていたアスカは出
鼻をくじかれた。 

「は、初めまして、惣流・アスカ・ラングレーよ」

 珍しくアスカが食い込まれている。ケンスケとヒカリが驚きのあまり顔を見合わせてい
る。
 呂貞春がアスカの枕元へとやってきた。アスカが布団の中で身構える。

「わたしは、ネルフに負けたのではありません。碇さんのあなたへの想いに敗れたのです」

 呂貞春がアスカにしか聞こえない小さな声で囁く。

「…………」

 じっとアスカは見つめ返す。お互いの瞳をぶつけ合っていた二人をミサトが分けた。

「あらあ、アスカにそんな性癖があったなんて、お姉さん、驚き」

「うるさいわね。アタシはシンジ一筋よ」

 アスカがミサトのからかいに暴発する。

「それより、なによ、コイツがどうしたっていうの? 」

「シンちゃん」

 アスカの怒鳴り声を無視してミサトがシンジに声をかけた。

「なんです、ミサトさん」 

 シンジが反応する。

「みんなにお菓子でも買ってきてくれる? あたしが出すから」

 ミサトがお金をシンジに渡す。了解したシンジが一階に有る売店へと病室を出て行った。

「さて、残ったみんなは事情を知っているものばかりっと」

 ミサトが一同の顔を見る。

「さっさと言いなさいよ。シンジのことだから直ぐに帰ってくるわよ」

「わかっているわよ。アスカったらシンジくん以外には厳しいんだから、お姉さんすねち
ゃう」

「30越えてすねても可愛くないわよ」

 アスカの科白にミサトから殺気が放たれる。

「いつか、アスカとは話をつけなきゃならないようね」

「今でも良いわよ」

「ちょっと、落ち着いてください、二人とも」

 売り言葉に買い言葉となりかけた二人をヒカリが抑える。
 ミサトが気を取り直して口を開く。

「呂さんが、中国の間諜だということは知っているわね。それも任務に失敗しただけじゃ
なく、敵に捕まるという大失敗をやらかした」

 ミサトの言い分に呂貞春が俯く。

「あ、ゴメン、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」

 ミサトが慌てて呂貞春の肩を抱く。

「いえ、気にしないでください」

「なるほど。失敗したスパイに帰る国はないと」

 アスカは遠慮無く呂貞春の傷をえぐる。

「で、その行き所のない娘をネルフはどうしようっていうわけ? まさか、リツコの計画
の実験台に……」

「それは大丈夫。しないから」

 ミサトがきつくなったアスカの眼差しに急いで否定する。

「あのね、この間のロシア娘の攻撃を相田くんも洞木さんも防げなかったでしょ。たった
一人のアタックさえカバーできない。残り三人が一度に攻勢にでたら、とても二人では対
処できない。そこで、身寄り頼りもなく帰るところもない呂貞春さんをネルフはスカウト
したの」

「はあ? ばっかじゃないの? この間までシンジを狙っていた女にシンジのガードをさ
せるなんて、狼に羊の番をさせるようなものじゃない」

 アスカは、ミサトの話に心底あきれた。

「その心配は有りません。わたしはもう碇さんを狙いませんから」

 呂貞春が言った。

「信じられるわけ無いでしょう」

「女として最後の武器を使って、わたしは負けたのです。もう一度戦いを挑むことは出来
ません」

 呂貞春が、蚊の鳴くような声で呟いた。

「女の最後の武器? まさか」

 そういえば、シンジが「形も匂いも違うや」と言っていたなとアスカは思い出す。

「心配しないでください。碇さんは、裸の私を見ても興奮さえしてくれませんでしたから。
あんなに女であることが辛いことはありませんでした」

 呂貞春が、感情を押し殺してアスカに告げる。

「ですから、私はもう碇さんを男として見ません」

「そ、そう」

 きっぱりという呂貞春にアスカはちょっと複雑である。恋人が男でないといわれたよう
なものだからだ。安心感と怒りがないまぜになる。

「わかったわ。じゃ、あらためてよろしく。惣流・アスカ・ラングレーよ。アスカって呼
んでくれて良いわ」

「よろしくお願いします。私のことは貞春と呼んでください」

 一人の男を争った二人の女が握手した。

「じゃ、あんた達は外で待ってて。シンジくんが戻ってくる前にちょっとアスカと話があ
るからね」

 ミサトが呂貞春、ケンスケ、ヒカリを病室から追い出す。

「あの暗殺者の事が判ったのね」

 アスカはミサトの用件を直ぐに見抜いた。

「ええ。MAGIでDNA検索をしたらね。日本人だったわ。西暦1975年、富山県生
まれ、両親を含め兄弟縁者全くなし。セカンドインパクトによる避難民認定を受けていた
わ」

「ちょ、ちょっと待って。1975年生まれって、今年で40歳じゃない。どう見ても2
0歳そこそこだったわよ」

「特殊なホルモン療法を受けていたようね。セカンドインパクトの後係累を失って生きて
いくためにどうやら戦自の人体実験を受けたらしいわ」

「戦自か、何でもありね」

「新陳代謝を通常の半分に落とすことで老化を抑えていたようよ。もっとも効果に個人差
が多すぎて、実用化は見送られ、被験者達は放逐された。数少ない成功者とはいえ、永久
に老化が止められるわけではなく、特殊な薬剤を摂取し続けなければならない。その費用
を捻出するために暗殺者になったようね」

「訓練も受けてない人間が暗殺者になれるわけないじゃない。最初の仕事で死ぬわよ」

「実験の副作用というか、新陳代謝を落とすことに成功した人間は、時間の感覚が狂った
のよ。アスカ、聞いたこと無い? 一流のスポーツ選手の中にはボールが止まって見える
という人がいることを」

「あれって、動体視力が異常に良いだけでしょ」

「そう。でも彼女の場合は違った。あたしたちが感じる1分は、彼女にとって2分なのよ」

「もののスピードが半分になるということ? 」

「ええ」

「一種の能力者ね。で、背後は? 」

「依頼者は特定できず。まあ、プロなんだから当然だけど。一応、ここ数日の行動をMA
GIで検索したら、ロシア娘と一瞬だけ邂逅してるわ。あと、彼女の住居も徹底的に洗っ
たけどなんもなし。どこでどうやったのか、ちゃんと2年前から強羅女子大学家政学科の
学生だったわ」

「MAGIを使わずにそんなことの出来るのは、松代のMAGI2を使ったか」

 アスカが爪をかみ始める。真剣に物事を考えるときの癖だ。

「どうやら、背後には日本政府がいるわね。薬のことを考えても背後に強力な組織がない
と無理だものね」

「たぶん。まだ、確証はないけど。リツコがやる気になっていたから、もうすぐわかると
思うけど」

 ミサトが同意する。

「ふん、どうやらアタシが日本人じゃないというのが気にくわないようね」

 アスカが暗い笑いを浮かべる。
 世界の命運を握る碇シンジのパートナーが、ドイツとアメリカの血を多く引いているこ
とが問題になっているのだろう。いつ、シンジを連れてドイツあるいはアメリカに寝返ら
ないとも限らないと思われているのだ。
 そこでロシアの動きに便乗したと言うことだろう。

「官僚と政治家は、自分の思い通りにならないことは排除したがるから。でも、ネルフを
なめたこの落とし前はきっちりつけてやるから」

 ミサトが力強く言った。

「そろそろシンジくんが帰ってくるわね。じゃ、あたしはこれで帰るわ」

 ミサトが手をひらひらさせて出ていく。入れ替わりに戻ってきたシンジとケンスケ、ヒ
カリ、呂貞春が入ってくる。
 同年代の少年少女達は、飲み物とお菓子を手に歓談に移った。



「モスクワ発第三新東京空港経由ニューデリー行きの飛行機はただいま到着致しました」

 空港にアナウンスが流れる。ものの30分もしない内に第三新東京市で途中降機する人
間がぞろぞろと入国ゲートに集まってくる。

「観光ですか? ええっと、スミノビッチ、ガルバチョフさん」

 差しだされたパスポートの写真と実物を見比べながら入国管理官が問う。

「いえ、商用です」

 流ちょうな日本語で応えたのは、身長180センチを超える中年の白人である。白いコ
ートに身を包み、小型のスーツケースを下げた姿は一流の商社マンのようである。

「そうですか。ようこそ日本へ。商用の成功を祈ってますよ」

 返されたパスポートを手に軽く頷いてゲートを出たガルバチョフことロシア陸軍情報部
クリヤコフ大佐は、周囲を見わたして眼を細めた。

「姿がないということは、失敗したか。さすがはネルフというべきか、それとも東洋の女
暗殺者は、名前だけだったということか」

 クリヤコフは、ポケットからサングラスを出すとタクシー乗り場へと進んでいった。
 
 





            続く
 

 


 

 

後書き
 またもや日にちがあきました。すいません。ロシア編も終わりませんでした。

タヌキ 拝

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 タヌキ様の当サイトへの12作目。
 ふふん、さすがは私。殺し屋なんか…。
 なぁんて自画自賛してる場合じゃないわよね。
 日本政府まで敵ってことか。
 まったくあの爺どもは。
 いよいよロシアのボスが乗り込んできたわよ。
 シンジをしっかり護んなきゃ!
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、タヌキ様。

 

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