ある裏山にて

 

ジュン   2003.07.21

 



 少年はその裏山によく登った。
 山といっても小高い丘のようなものだったが。
 晴れた日には、大きなチェロを汗びっしょりになって抱えて登った。
 そして、音楽を奏でる。
 その調べを聞くものは植物と小動物だけ。
 本人が言うように巧い演奏ではないが、暖かい気分になれる。
 
 今日も彼は裏山に登った。
 母親の顔はほとんど覚えていない。
 父親の笑顔は見たことがない。
 
 裏山への道はもちろん舗装されていない。
 だから雨上がりの日などは、チェロを抱えては上がれない。
 そんな日はDATウォークマンだけを持っていく。

 少年は父親に疎んじられていると思っていた。
 そう思い込んでいた。
 
 DATウォークマンのような高価なものが何故彼の手元にあるのか。
 チェロを続けるための費用がどこから出ているのか。

 そのことに気が付いたのは最近である。

 だが、彼はそれを贖罪だと受け止めていた。
 もちろんその意味合いが濃いのは確かだったが。
 その贖罪に込められていた父親の想いに気付くには少年の心は幼すぎたのかもしれない。
 
 チェロを続けているのは、誰もやめろと言わないから。
 少年は口には出さないがそう思っている。
 チェロを教えに来る先生も彼の覇気を感じ取ることが出来なかった。
 教えられることは受け入れる。
 だが、自分から巧くなろうとは思っていない。

 少年は自分の気持ちには気付いていない。
 
 父親に与えられたチェロが、彼と父親との唯一の接点であったことを。
 それを断ち切ることが出来ないから、チェロを続けていることを。
 
 少年も、そしてその父親も、不器用な心の持ち主だということを。


 その日はよく晴れていた。
 そよ風が坂を登る彼の背中を後押ししている。
 今日は何故かチェロが軽めに感じられる。
 常夏の国なのに、少年が知ることのない秋という季節のような、そんな日だった。

 一心不乱ではない。
 静かに流れるように少年はチェロを弾く。
 目を閉じて…。
 これが童話ならば、少年の周りに小動物が集まるところだろうが、
 そんなファンタジックな光景はそれまで見たことがなかった。

 今日までは。

 バッハのカノン。
 
 その曲を弾き終わり、弓を離す。
 そして、目を開けたとき、そこには妖精が立っていた。


「もう終わり?もっと弾いてよ」

 真っ先に目に入ったのは、黄色いワンピースだった。
 高原の緑色の中の鮮やかな黄色。
 次に見えたのが、妖精の赤の強い金髪である。
 そして、少年を見ている青い瞳。

「じろじろ見ないでよね」

 妖精は、腰に手をやって少年を睨みつけた。

「妖精…さん…?」

「はぁ?妖精…って、私が?」

 妖精は笑い出した。

「は、はっは…、おかしい!私が妖精?ははは!」

「違うの?」

「私は人間よ。アンタと同じ」

「なんだ…僕はてっきり…」

「アンタの演奏に誘い出された、高原の森に住む妖精?」

「う、うん」

「ま、そんなロマンチックなものに間違えられたんなら、怒るわけにはいかないわよね」

 妖精改め少女は、手頃な岩を見つけて腰掛けた。

「さ、弾きなさいよ」

「えっと…何がいい?」

「わかんない。それチェロでしょ。それで弾ける曲って知らないもん」

「あ、そ、そうだよね。ごめん」

「はぁ…そんなことで謝んないでよ。任せるから、弾いて」

「うん」

 少年は少し考えて、それから弓を動かし始めた。
 一番得意な曲を選んだのは何故だろう?
 いいところを見せたかったから?
 少女に誉めてほしかったから?
 よくわからない。
 ただ、少年はその曲を弾き始めた。

 バッハの無伴奏チェロ組曲。
 全部弾くと17分を超える長い曲だ。
 得意な曲だからといって、この曲を選んでしまうあたりは人付き合いの下手さを示しているのであろう。
 少女もこの曲が短い時間で終わりそうもないことは知っていた。
 だが、文句も何も言わずに、じっと目を瞑って耳を傾けていた。

 毎日が訓練と実験の繰り返し。
 周りにいるのは、大人ばかり。
 ただ一人の同世代である、ファーストチルドレンは打ち解けようとはしない。
 常に距離を保って、少女のことなど関係がないもののように扱っている。
 チルドレン同士で仲良くしようと意気込んでいた少女は、
 肩透かしどころか腹立ちまで覚えてしまった。
 故国で大学まで卒業しているのだから、年相応の中学校に行くなど馬鹿らしい。
 そう宣言して、毎日をネルフの本部で過ごしている。
 そんな毎日でストレスがたまらないはずがない。
 今日だってそのストレスを発散させる意味もあって、こんな遠くまで足を伸ばしたのだ。
 そんなストレスがどこかへ流れていく。
 少女はチェロの調べに身を委ねながら、落ち着いていく心の心地良さを楽しんでいた。

 長い曲のはずなのに、その時間はすぐに終わった。

 少年は大きく息を吐いて、少女を見つめた。
 揃えた膝の上に肘をつき、ひろげた両の掌に形の良い顎を預けて、
 少女はまだ目を瞑っていた。

 眠ってるのかな…?
 やっぱりチェロなんか退屈だったのかな?
 少年の表情に不安げなものが加わった時、
 少女は口を開いた。

「眠ってなんかいないわよ。
 余韻を楽しんでるの…」

「あ、ありがとう…」

「聴いてくれて、嬉しいってこと?
 そんなこと言われたら、素直に聞かせてくれてありがとうって言えないわよねぇ」

「いいよ、お礼なんて」

「じゃあさ、お礼は言わないから、もっと聴かせてよ」

「うん。じゃ…」

「ね、あれ弾ける?」

「あれって?」

「Der Lindenbaum」

「ダーリンデバ?」

「あはは!リンデンバウム。菩提樹よ」

「あ、シューベルトの?」

「そう。ダメかな?」

「ちょっと待って」

 少年は考えた。
 一度も弾いたことはないけど、メロディーは知っている。
 歌だって歌える。
 大丈夫かもしれない。

「巧く弾けるかわからないけど、やってみていい?」

 少女は真顔で頷いた。

「巧いかどうかは問題じゃないわ。つまってもいいから、弾いてみなさいよ」

「うん、やってみる」

 少年は弓を構えた。
 そして大きく深呼吸すると、音を紡ぎ始めた。
 あの有名なメロディーがつかえつかえしながらも進んでいく。
 何度か繰り返してるうちに、コツを掴んだのかスムーズにメロディーが流れ出した。
 少年は目を閉じた。
 もう指先を見なくても弾ける。
 自信を持って、何度目かの主旋律を奏ではじめた時…。
 少女が歌い始めた。
 少年はほんの一瞬戸惑ったが、すぐに持ち直した。
 ドイツ語だ…多分。
 凄いや、原語で歌ってる。

 

 

 少年は目を開けて少女が唄っている姿を見てみたかったが、
 目を開けた途端に歌が止まってしまいそうで、どうしてもできなかった。

 しばらく少女は歌い続けた。
 少年は自分も歌ってみたかった。
 ただ、ドイツ語なんか知らない。
 だから、自分が知っている日本語の詩を小さな声で口ずさみだした。

 泉に添いて 茂る菩提樹 したいゆきては うまし夢見つ
 幹には彫りぬ ゆかし言葉 うれし悲しに 訪いしその蔭 訪いしその蔭

 一番しか覚えていない。
 だから、少年はその歌詞を繰り返した。
 気が付くと、少女の歌声はいつの間にかしていない。
 少女が消えてしまったのではないかと、少年は慌てて手を止めて目を開いた。

「ちょっと!どうしてやめんのよ!」

 少女が眦を吊り上げて、少年を睨んでいる。

「いや、その…僕の歌が迷惑だったんじゃないかって」

「もう!アンタ馬鹿ぁ!その歌をうっとり…」

 少女が咳払いをした。

「その歌を聴いていたのに。やめないでくれる?」

「そ、そうだったの…?」

「そうよ!全然意味がわからないけど、綺麗だったもん」

「綺麗…?」

「そ、そうよ。き、綺麗だったんだから」

 少女は少し頬を赤らめて、詰まりながら言葉を返した。
 少年が見ていないのをいいことに、歌っている顔をじっと見ていたのだ。
 無心で弾き、歌う、その表情は何故か美しかった。
 異性を美しいと思ったことなど一度もなかっただけに、少女はうろたえたのだ。
 とりあえず、歌が綺麗だということで少年は誤魔化せたようだが、
 もちろん、自分を誤魔化すことはできない。
 見ず知らずの少年にそんな感情を抱くなど、驚き以外の何物でもなかった。

 少年には人の心を理解する能力が少し欠けていた。
 だから、少女の気持ちはわからない。
 ただその言葉どおりに、歌が気に入ったのだということだけを受け止めていた。
 顔を真っ赤にして、少年は再び弓を操り、そして歌い始めた。 
 もちろん目は瞑っている。
 歌っているところを見られているだけで、意識しすぎて失敗しそうだ。

 彼が目を瞑っているので、少女はホッとした。
 これでまたゆっくりと少年を見ることができる。 
 冴えない感じである。
 好みのタイプではない。 
 絶対にありえない。 
 ただ、心は安らぐ。

 そうしている間に、少女はいつしかドイツ語で歌い始めていた。
 ドイツ語と日本語の合唱。 
 韻が異なるのだから、美しいものではない。 
 しかし、本人たちにとっては素晴らしい合唱であった。

 しばらく、「菩提樹」を二人で歌い、
 そして少年は少女の好きそうな曲を弾こうと考えた。 
 ドイツ語で歌ったんだから、ドイツの方の曲がいいんだろうな。 
 そんなに知識があるわけではないから、ドイツではない曲も弾くことになる。 
 例えば「エーデルワイス」はスイス民謡だ。
 でも、少女は文句も言わずに聴き、そして歌った。
 ただ、モーツアルトの子守唄を弾き始めた時、
 少女は激しい口調で少年を制した。

「それは弾かないで!」

 少年は息を呑んだ。 
 嫌いだからじゃないと思う。 
 この曲を聴くのが辛いんだ。
 瞬間的に、少年は少女の心を察した。
 そういう行為自体が、これまでの少年には欠けていたことを彼は意識していなかった。
 ただ、かわいそうなことをしてしまったなぁと思い、そしてどうしようかと躊躇って、弓を動かすことができなかった。

 小さい時…。
 3歳くらいの時、少女は母親の子守唄を聴いていた。 
 今まで忘れていた。 
 少年が最初のフレーズを弾いた瞬間に、その事を思い出したのである。 
 そして、思わず叫んでしまった。
 母親の死をイメージしてしまって…。
 脳裏に浮かぶ、母親の死体。
 その無機質な死体と、優しい歌声のギャップが少女を苦しめた。 
 ボロボロと涙が出てくる。
 人前では絶対に流すまいと誓ったはずの涙が湧き出てくる。
 少年に見られていることは意識してなかった。 
 ただ、哀しくて…、そして懐かしくて。 
 母親のイメージといえば、ぶらさがる縊死体とその前夜に締められた首の痛みしかなかった。
 それが、この少年の弾いた子守唄のワンフレーズだけで、懐かしい思い出も甦ったのだ。
 悲しい事だけじゃなかった。
 初めて食べたピーマンに喜んでくれたり、
 一緒に庭のブランコに乗ったことも…。 
 どうしてそんな事を忘れてしまっていたんだろう? 
 哀しい記憶にすべて上塗りされていたんだろうか?
 少女は涙と共に溢れてくる母親との想い出に胸を締め付けられていた。

「Meine Mutter…」

 少女はそう呟いて、掌に顔を埋めた。

 ドイツ語はわからないが、少年にはその言葉が意味するのが母親のことだと理解することは容易かった。
 セカンドインパクト以降、親のいない子供の数は膨大である。
 少年は自分の母親の思い出を振り返ってみた。
 あまりに少ないそのイメージ。 
 その笑顔と抱き上げられた時の暖かい感触。
 その程度の思い出しかなかった。 
 母親がどうやって死んだのかもよく覚えていない。 
 この時、少年は少しだけ少女に嫉妬を覚えた。 
 少女は母親のことを覚えているんだ。
 だから、哀しいんだと。 
 そう、考えた次の瞬間、少年は自分の心を恥じた。 
 自分は最低だと。 
 人のことを思いやるより先に、自分の感情を優先させてしまう。
 そんな自分が厭わしかった。
 少女の涙を見て、初めて自分の欠点を思い知ったのだ。

 どうしたらいいんだろう?

 少年の頭では解決方法が思い浮かばなかった。
 気が利いた言葉など、思いつくわけがない。
 では、何かできることはないだろうか。
 自分にできることはチェロを弾くことくらいしかない。
 明るい曲を弾いてみようか? 
 いや、そんな曲を聴かされたら、きっと腹立たしいだけだ。
 では、静かな曲を…。

 少年は目を瞑って、弓を動かした。 
 ゆっくり…静かに…。 

 バッハの『G線上のアリア』。

 少女の心が少しでも安らぐように、少年はただそれだけを考えて弾いた。
 そして、その調べは少女に暖かな母のことを思い出させていた。 
 完全に忘れていた事を。 
 家の近くの公園で母と遊んだこと。 
 蝶々を追いかけて転び、泣く少女を優しくあやしてくれたこと。
 帰り道におんぶしてくれたこと。 
 そして、その時、あの子守唄を歌ってくれたことを…。

「Mutter…、Meine Mutter、Singen Sie bitte ein Lied für mich.」 
 
 少女は呟いた。
 もう二度と聴くことのできない、母の歌声をねだった。 
 あの夕陽の帰り道で、母の背中で聞いた子守唄を。 
 聴きたい。
 あの子守唄を。

 少女は目を開けた。

「アリガト。アンタ、優しいのね」

 少年も目を開けた。 
 その少女の一言は少年の頬を赤らめた。

「僕は…優しくなんかない。そんなこと言われたことない」

 少女は黙って首を振った。
 少年が何か言いたそうに口を開けたが、紅茶色の髪の少女はもう一度首を振って黙らせた。

「弾いて。さっきの子守唄。もう大丈夫だから」

「うん、じゃ…」

「ねえ、目を開けて弾いてくれる?もう泣いたりしないから」

「あ、うん。わかった」

 正直言うと、目を開けて演奏すると少女を意識してしまって恥ずかしいのだが、
 少年は少女の願いに逆らえなかった。 

「じゃ、弾くね」

 少女はこくんと頷いた。
 そして、モーツアルトの子守唄が奏でられる。
 最初に聴いたときとは違い、その調べは暖かく心の中に染み渡るような安らぎを与えてくれた。
 少女は微笑んだ。 
 少年に向かって。 
 その微笑に、少年が微笑み返そうとした時…。

 少女のポケットから、無粋な音が漏れた。
 携帯電話の着信音。

 一瞬、少女は悲しげな表情を浮かべ、通話ボタンを押した。

「もしもし…うん、わかった。すぐ帰るわ」

 少年は弓を止めた。  
 少女は少し躊躇って、しかし立ち上がった。 

「ごめん。帰って来いってさ…」

「あの…」

「アリガトね。ホントにアリガト。私、アンタに会えて良かった」

「僕…」

「アンタのチェロ。凄く良かったよ。できればまた聴きたいな…」

「あ、だったら、僕、いつもここで…」

 少年は必死に訴えた。
 このまま別れたくない。

「ダメなの。多分、二度とここにはこられない。アンタとも二度と会う事はないわ」

「そんな…」

「ごめんね。どうしようもないの。私には責任があるから」

「責任?」

「そう、責任。だから、もう会えない」

「……」

 少年は下唇を噛んだ。
 この少女も僕から去っていく。 
 僕はやっぱりひとりぼっちだ。

 そんな表情の少年に、少女は胸が締め付けられた。
 でも、少女の立場では下手な慰めは言えない。 
 戦いが始まると、少女自身の命の保証もないのだ。
 もちろん、彼女は死ぬ気などさらさらなかったのだが。
 しかし、このような別れ方はできない。
 二人は心を触れ合ってしまったのだから。

「アンタ、一生懸命生きてる?」

「と、突然何だよ」

「答えなさいよ。今、一生懸命にしてる?」

 その質問に少年は俯いてしまった。 
 流されて生きているだけの自分。 
 一生懸命に生きているなどとは、絶対に言えやしない。

「そう…。じゃあ、これから一生懸命にやんなさいよ」

「え…」

「一生懸命に生きてみるの。そうしたら…」

「また会える?」

 少女は躊躇った。
 嘘をつくことになる。 
 しかし、気持ちの上では嘘ではない。 
 戦いが終われば、ここに彼のチェロを聴きにやって来たい。 
 その気持ちに嘘偽りはない。

「うん。会える。ううん、会いに来てあげる。アンタが一生懸命に生きていればね」 

「わかった。僕、がんばってみるよ」

 少女はニッコリ微笑んだ。

「がんばんなさいよ。ね、私の姿が消えるまで、アレ弾いてよ」

「菩提樹?」

「そ、よくわかったわねぇ。それを弾きながら見送ってくれる?」

「うん。約束だよ」

「約束…ね」

 少年は弓を構えた。
 息を吐いて、それから腕を動かす。 
 奏でられる、リンデンバウムのメロディ。
 少女は少年に背中を向けた。
 その後姿を見て、少年は熱いものがこみ上げてきたが、必死に耐えた。
 メロディを乱さないように。
 少女は背中を向けたまま、手を振った。 
 そして、道を下っていく。
 少年が登ってきたのとは違う道を。

 

 少女は歌った。
 その歌声は後姿と共に、だんだん小さくなっていく。 
 そして、緑色の中に黄色いワンピースが完全に消えてしまった時、
 少年の頬に一筋の涙が流れた。

 信じよう。 
 彼女は僕のために、言ってくれたんだ。 
 一生懸命に生きてみよう。
 そうすれば、また彼女に会える。

 その時、少年はお互いの名前を告げてなかったことに気付いた。

 馬鹿だなぁ、僕は。  

 少年は苦笑すると、メロディに合わせて歌いだした。
 今度、ドイツ語の詩を覚えようと決意しながら。

 泉に添いて 茂る菩提樹 したいゆきては うまし夢見つ
 幹には彫りぬ ゆかし言葉 うれし悲しに 訪いしその蔭 訪いしその蔭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
「遅かったな、アスカ」

「それはこっちのセリフ。いい加減、このポンコツ買い換えたら?」

「おいおい、買うのは俺だぜ」

「ミサトなんかルノーよ、ルノー。加持さんもベンツくらい買いなさいよ」

 アスカは、加持の車のボンネットに寄りかかった。

「さ、乗れよ。後10分もかからないから」

「ごめん…」

 アスカは申し訳なさそうに言った。

「ん?どうしたんだい?」

「今日はやめとく」

「どうして?アスカが言い出したんだぜ、サードの顔を拝みに行きたいって」

「う〜ん、あのね、今ちょっと気分いいの。だから、今はそのサードの顔なんか見たくないのよ」

 ごめんなさい!と手を合わせるアスカに、加持は苦笑した。
 本当に我儘なお姫様だ。

「わかった。じゃ、乗れよ。第三新東京まで飛ばすから」

「ゆっくりでいい。ポンコツで飛ばされたら怖いもん」

「そうポンコツポンコツって言うなよ。さあ」

 助手席の扉を開けた加持に、アスカは後部座席の扉を開けた。

「おや?後かい?」

「そう、今日はこっちがいいの。あ、それからカーステかけないでね」

「何かよっぽどいいことがあったみたいだな」

 加持は扉を閉めると、逆サイドに歩いた。  
 アスカはシートに背中を預けると、少年のことを思い出した。  
 アイツ…本当にもう一度会えたらいいな…。 
 アイツ…。 

「あっ!」

 運転席についた加持は、素っ頓狂な声を上げたアスカに驚かされた。

「な、何だい、いきなり?」

「私って馬鹿」

「はぁ?」

 名前聞かなかった。
 私の名前も言ってない。

「いいの、いいの。こっちの話」

「変だぞ、今日のアスカ。山の中で変な茸でもつまみ食いしたんじゃないか?」

「そんなことしませんよ〜だ」

「ははは、じゃ、行くぞ」

 アスカはリアウインドウから、あの山を見上げた。
 修理中の暇つぶしで登山道を歩いているうちに、チェロの音に誘われたのだった。 
 せっかくのいい出来事が、司令の息子とかのサードなんかと会って穢れてしまうのなんかまっぴらだ。  
 だから、アスカは無理を言って加持に連れてきてもらったこの場所から、今の気分のまま帰りたかったのだ。  
 もともとが、訓練と実験の繰り返しからの逃避だったのである。
 サードに会うというのは、ただの方便だった。
 加持にすれば、これも情報収集の一環だったのだが。

「ああそうだ。直している間に電話したんだが、あのまま行ってもシンジ君には会えなかったかもしれなかったんだぞ」

「へぇ…お留守だったの?」

 気のない返事を返すアスカ。

「ああ、ご本人がチェロ持ってどこかに…うわっ!」

 タイヤが大きな音を立てた。
 すぐに体勢を戻した車体は再び坂を降りていく。

「危ないじゃないか。俺はまだ死にたくないぞ」

「ね、それホント?チェロ持ってって!」

 加持の言葉を聞いて後部座席で大声で叫んで、アスカは加持の肩口にかじり付いたのだ。 
 まさか…アイツがサード?

「ああ、裏山にチェロを弾きに行ったそうだ。それがどうしたんだ?」

 アスカの顔がニンマリと笑み崩れた。
 そして、リアシートに横に倒れて大声で笑い出した。 
 お腹を抱えて、嬉しそうに。 

「おい、どうしたんだ?やっぱり笑い茸かなんか食べたんじゃないのか?」

 ハンドルを握りながら、バックミラーの中のアスカを見る加持。 
 ミラーの中ではアスカのすらっとした足がバタバタしている。
 大学を卒業したといっても、まだまだ子供だな。 
 加持は微笑むと、アクセルを踏んだ。

 アスカは可笑しくて仕方がなかった。 
 あんなに気張って別れてきたのに、すぐに再会する運命だったのだ。
 こうなったら、どんな状況で再会するか、
 悪戯好きなアスカとしては、楽しみで仕方がなかった。 
 アイツ…確かシンジだったわよね。 
 アイツ、どんな顔して、私を見るだろう? 
 いっそ、初めて見るって白を切ってやろうかな?
 それとも、先輩面して説教してやろうかしら?
 ああっ!ホントに楽しみ! 

 アスカはもう一度、リアウィンドウからあの山を見ようとした。
 もうすっかり小さくなり、見分けがつかなくなっている。
 アスカは微笑むと、小さく呟いた。 

「Auf Wiedersehen. Und, sehen Sie Sie wieder.」

 また、会いましょう。
 チェロ弾きのサードチルドレンさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一年後、あの裏山で、リンデンバウムがドイツ語で歌われた。
 少女と少年の合唱で。
 あのチェロは戦いの中で壊れてしまったが、
 伴奏がなくても、二人の歌声は乱れることはなかった。 
 ようやく訪れた秋という季節の、その青く高い空に届かんばかりに。 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

ある裏山にて  − 終 −

 


<あとがき>

 この作品は、33333HITのお題応募中にインスパイアされたものです。

 もしアスカが先に来日していたなら…、そしてシンジが日本にいるなら。好奇心旺盛なアスカがどんなヤツか見に行きたいって思わないほうがおかしいんじゃないでしょうか?てことで、加持を篭絡……アスカはしたつもりですが、加持は加持の理由でシンジの身辺を探りたかったに違いありませんね……して、シンジのところを急襲する予定だったのです。で、お約束の車の故障。そのおかげでシンジと実にいい雰囲気で会うことができました。こんな二人が負けるわけがありません。

 ということで、今回は少しメルヘン(?)かな。ま、いいんじゃないですか、二人がハッピーなら。

2003.07.21  ジュン

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