バスに乗って月へ行こう

 

「月に行きたいわ」と綾波レイは言ったんだ。

「結構遠いから、ちょっと無理じゃないのかな」とシンジ君は言い返した。

「第三新東京駅のバスロータリィから行けるのよ」って言っちゃったんだね、綾波レイは。

「バスで行けるんだ」感心して言うシンジ君。「知らなかったな」

「ちょっと行ってみましょう」とレイ。

 というわけで、バスロータリィにやってきた二人だったんだよ。実に自然な感じで、神聖な夜の湖を渡るようにデートに漕ぎついたんだね。初めてのデートは月へ行くことになった。そういうのってすごくロマンチックだよね。

 バスが来るまで、くたびれた青いベンチに座って待つ二人だった。ミンミンジワジワ蝉が鳴きやまない、終わらない夏の昼下がりなんだ。

 第三新東京駅は無人だった。なんでだろうね。それは誰にもわからない。シンジ君にも綾波レイにも君にも僕にも分からない。とにかく、二人は、無人の駅前でしみったれた青いベンチに座っていたんだ。

 もう一つわからないのは、二人が座っている青いベンチのことだった。第三新東京市はこの国の首都で、その名前がついている駅ともなれば、それはそれは巨大な駅なんだ。その駅前のバスロータリィに置いてあるベンチにしては、それはあまりにも貧弱で青かった。まあ、それはどうでも良い。

 ちょっと時間が経って、バスがやってきた。結構オンボロでくたびれた感じのバスだ。外国のスクールバスみたいな形をしている(どんな形かは自由に想像してくれてかまわない)。バスって、おでこの部分(アレって、何ていう部位なんだろう)に行き先が出てるよね。そこにはちゃんと『第三新東京→月』と書かれていた。

「ふうん」とシンジ君は息を吐きながら言った。「本当に走ってたんだ」

「本当に走っていたのね」と綾波レイも言った。

「知ってたんじゃなかったの?」とシンジ君が当然の問いかけをした。

「噂で聞いていただけよ」しれっと綾波レイは答えた。

 そんな会話をしながら、二人はバスに乗り込んだ。手は繋いでいない。まだ、そこまでの仲になっていないんだ。わりに微妙な時期なんだね。あともう一歩ってところだ。

 運転席の脇に、お金を入れる所がある(これも何て名前なんだろう)。二人はそこに何枚かの硬貨を滑らせる。びっくりするくらい安い料金で月まで行けるらしい。缶ジュースより高く、量産型エヴァンゲリオンよりかは安い。

 君が可能性の一部として想像している通り、バスの中に乗客は一人もいない。帽子をかぶった寡黙な運転手が、一人でじっと運転席に座っているだけだった。碇シンジと綾波レイの二人は、一番奥の席に友達以上恋人未満の隙間を空けて並んで座った。とにかくあと一歩なんだ。

 ガタガタ音を立てながら扉が閉まり、ゴトゴト車輪を鳴らしながらバスが発進した。のどかな昼下がりの音だった。窓から見える景色は、駅前の近代的な風景からあっという間に田園が広がる田舎道に変わっていった。

 青い空が気持ちよく広がり、くっきりとした白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。田んぼの彼方には薄い緑色でなだらかな山々が描かれている。写実派の画家が『昼の故郷』とかそういう題名で描きそうな、つまり平和な情景だった。

『お客様方に申し上げます』しばらく走った頃に運転手の声が聞こえだした。絶頂期のデーン・トンプソンみたいな渋いテノールだ。知ってるかな。本当に美しい声で歌うんだよ。『当機はまもなくワープを行います。安全のため、座席に深く座り、目の前にあるバーにお掴まりください。その後に、旅の神様にワープの成功を祈ることもお忘れなく。オーヴァ』

 あまり安心できない宣言だよね。そこにはカジノのルーレットみたいな危険がありそうだ。

 二人は言われたとおりにバーを掴んだ。いまさら「やっぱりやめます」なんて言うのはちょっと面倒くさかったのかもしれない。

「ドキドキするね」とシンジ君が言った。

「そう?」と綾波レイは答えた。ちょっと考えて、「そうかもしれない」ともう一度答えた。

 さあ、ワープだ。バスが変形する。バスのお尻に巨大なジェットが出現する。サイド部分からは小さな翼。前部は突き出して風を切る。点火。バスが飛ぶ。

 

 

 宇宙だった。ソラと読んでも良いよ。そこら辺はわりに自由なんだ。真っ黒なダークマターが満ちている、空っぽな空間だ。後ろを振り返れば地球。黒い月が生えている。

「宇宙だよ、綾波」シンジ君が教える。

「そうね」と綾波レイが返事をする。

 まあ、会話はそれで終わっちゃうんだ。あまり弾まないね。シンジ君はそういう状況をなんとかしたいと思ってる。もっと沢山お話をしたいってね。でもね、皆知ってると思うけれど、彼はかなりシャイなんだ。そりゃもう、殺戮的に恥ずかしがり屋なんだ。この例えは失敗かもしれないね。どうでもいいんだけどね。

 月に着く。月の重力は確か、地球の6分の1だ。全ての重さが6分の1ということだね。

 プシュンと音をさせてバスのドアが開く。二人は月に降りる。そこはついに月だ。草一本生えていない、岩と闇の世界だ。空気が無いので空の気配が無い。太陽の光がガンガン差し込んでいる。つまり、それに比例して闇が濃い。

 二人はバス停から離れて、月の表面をふわふわ歩く。音を伝えるものが無いのでひどく静かに歩く。でもここは、あえてサクサクと月の砂を踏む音を入れておこう。結構、雰囲気を重視するタイプなんだ。

 しばらく歩いて、月の昼と夜の境目に到達する二人。定規で線を引いたみたいに真っ直ぐに分かれている。綾波レイが昼の位置に立ち、シンジ君が夜の位置に立つ。暗い方からは、明るい方が良く見える。その逆は逆だ。

「不思議な感じがする」とシンジ君が口を開く。思ったとおりに言う。

「……でも、なぜか知っているわ」と綾波レイがそっと秘密を打ち明ける。

 時間が少し進んで、二人は立ち位置を交換する。何度かその行為を繰り返して楽しむ。それに意味は無い。死と再生の暗喩でもない。光と闇の境界線を、ステップを踏んで行き来しているだけなんだ。

 ここで綾波レイがこける。昼から夜に行こうとしたときに、明暗の段差につまずく。もちろんシンジ君は綾波レイにさっと手を差し伸べる。二人は折り重なって夜の側に倒れ込む。シンジ君は咄嗟に、自分が下になる。背中に軽く月の衝撃。胸と腹に綾波レイの感触。

 シンジ君は綾波レイに「大丈夫?」なんて声をかける。綾波レイは「……ええ」なんて答える。しばらく意味の深そうな沈黙と夜が過ぎて、綾波レイが上体を起こす。シンジ君に跨った形になる。

「前にも、こんな事があったね」とシンジ君が綾波レイを見上げて言う。

「あったわ」とレイが返事をする。返事をしながら、どっちのことかしら、なんて考えもする。一度目はシンジ君が綾波レイを押し倒し、胸を触った。二度目は綾波レイが上で、互いに裸で溶け合っていた。

 ここまで密着するのは、久しぶりのことだった。普段は手もつなげない二人だから。

 しばらく、ぽつぽつと喋り、バスの時間が迫ってきたので二人は立ち上がる。レイが腰を上げ、シンジ君に手を差し伸べる。シンジ君はその手をしっかりと掴む。6分の1の体重は、レイの腕でも簡単に引っぱり上げられる。

 二人はその手を離さずに、夜から朝へと進み、昼の月を歩いてバス停に戻っていった。

 

 僕と君は月に残る。二人に気を利かせて、バスを一本遅らせよう。

 赤色の地球を見上げて、そろそろ体を再構築しなくちゃな、なんて思ってみる。

 まあ、それは次のバスが来てから考えれば良いんだよ。座って二人を見送ろう。

 月には、しみったれた青いベンチはないけれど。

 

 


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