こちら心臓、脈拍上昇の命を受けた。
こちらの表情、悟られないように。
警報、警報、警報。
静寂、静寂、静寂。
サイレン&サイレント
私が「それ」に気がついたのは、碇くんが手を上げた時だった。
冷や水を浴びせられたような感覚を覚える。碇くんが帰った今ならわかる。あれはそういう感覚。
脈拍が急激に上昇した。顔面の筋肉が硬直していくのが手に取るようにわかる。
「少し、あがってけば?」
気がついたらそう言っていた。表情をいつも通りに保ちながら。
「え……うん」
入ってきてくれたことは、よかった。
碇くんは、私の部屋に一つしかないイスに座っている。
私は普段あまり使わない台所に立って、お湯を沸かしている。紅茶を淹れるために。
「紅茶って……どれくらい、葉っぱいれるのかな。あっても、使ったことないから……」
紅茶の缶には使うべき量が書いていなかった。
「え、あ、いいよ、気を使ってくれなくても」
「これくらい?」
私は調味料用スプーンに一杯すくって碇君に訊いてみた。
「それじゃ、多すぎじゃないかな……」
一度葉っぱを缶に戻すと、碇くんが私の持っていたスプーンを受け取り、さっきより少ない量の葉っぱをポットに入れた。
しゅん、しゅん。お湯が沸いたのでヤカンに手を伸ばす。
見間違いかもしれないと思って、碇くんの肩についていた髪の毛を横目で見ながらだったので、取っ手を掴み損なってヤカンに触れてしまった。
「熱っ!」
手を引いた。中指の第二関節のあたりが熱い。
「どうしたの!?」
「少し、ヤケドしただけだから」
これくらいの怪我はあまり気にしてこなかったけれど、彼はちがった。あわててわたしの手を掴んで、
「早く冷やさないと!」
水道の蛇口をひねって、患部を水で冷やす。ヤケドをした部分だけ冷たくなかった。
碇くんの手が、私の腕を掴んでる。
だから、掴まれている部分が温かいのはわかる。でも、顔が熱くなるのは理解できなかった。
横目で碇くんを見る。少し顔を赤くしている。たぶん、私も同じような色をしてる。
私の視線に気づいた彼は手を放した。それから慌てた様子で「こ、紅茶は僕が淹れるから……綾波は、しばらくそうしてなよ」
「うん……」
頷いた。それだけじゃ足りないような気がして、頭の中で言うべきことばを探す。
「ありがとう」
使ったことのない、感謝のことば。はじめてのことば。あの人にも言ったことなかったのに。
「夕べさ、パーティーやったんだ」
「パーティー?」
「うん。ミサトさんが三佐に昇進にしたからウチで、焼き肉パーティー。ケンスケとトウジと、委員長、リツコさんに、加持さんも。リツコさんはわりとすぐ帰っちゃったんだけど。あの、綾波も呼ぼうと思ったんだけど、電話つながらなくて……実験だったなんて、知らなかったし……」
「いいの。そういうの、好きじゃないから」
「そうなの?」
「……肉も、嫌い」
「そう、なんだ……。でも、僕は楽しかったんだ。みんなでわいわいやって、笑って……今まではそういうの、くだらないって笑ってきたんだけど……今度そういう機会があったら、綾波も来なよ。綾波が食べられるもの作っておくから。そうしたら――」
「碇くん、今日はすごくおしゃべりみたい」
横目で彼を見る。肩についている、長い赤茶色の髪の毛はやっぱりついたままだった。
「あ……ごめん」
言いながら、彼は熱いお湯を注いだポットから紙コップに紅茶を少し注ぐ。
「綾波、父さんてどんな人?」
唐突な質問だった。
「どうして?」
「もし、そういう場に父さんがいたら、少しは話せたかなと思って……」
「お父さんと話がしたいの?」
「……うん。話して、何かが変わるわけじゃないと思うけど、でも……今のまま、父さんを信じられないままエヴァに乗り続けるのは、つらいんだ」
碇くんは、怒ったり、泣いたりはしていなかった。
でも、悲しそう。
静かに、あくまで静かに、碇くんは自分の心に響く警告を口にしていた。
「そう……言えば、いいのに」
「え?」
「思っている本当のこと、お父さんに言えばいいのよ。そうしなければ、何も始まらないわ」
◆
落ち着かなかった。
私の胸の中で、警報が鳴り響いている。碇くんが部屋に入ってきて、途中少しはやんだけれど、2人で紅茶を飲んでいる今、また鳴り出していた。
碇くんの肩についていた長い、赤茶色の髪の毛は、彼のカバンの上に落ちた。
どうしてあの人の髪の毛が?私にはわからなかった。
でも、たったそれだけのことが、私はどうしてこんなに気になるの?どうして。
髪の毛が、身体につくくらい、近くに。
さっきの私たちくらい、近くに。碇くんが私の手を握った、あれくらいの近さ。
彼女も、そのくらい近くに。
私が眠っている間、彼女と碇くんは、そんなに近くにいた。どうして?
「……」
「……」
紅茶を飲む私達は、一言も話さない。完全な沈黙。だけど、私の頭の中ではことばの渦が、「どうして」と問い続ける声が鳴り止まずに響きつづけていた。
(どうしてこんなに、気持ち悪いの?そのことが)
不快感ばかり胸に渦巻いた。
(弐号機パイロットと、碇くんが近くにいるのがそんなに嫌なの?)
そうかもしれない。
碇くんが隣にいて、2人が何をしているのか、気になる。
さっきは、碇くんが私に気を使ってくれただけ。怪我をしたから。
でも、弐号機パイロットは違う。いつも2人は一緒にいる。
家も同じ。同じ家に住んでいる。
同じ家に住んで、どんなこと話をしているの?どんなことを、しているの?
「あ、あの……どうか、したの?」
「え?」
いきなり声をかけられて驚いた。
「あの、じっとしたまま、動かないから……あの、ゴメン、さっきは変なこと聞いちゃって。綾波にも、気を使わせちゃったみたいだし……」
「そんなこと、ないわ……」
(思っている本当のこと、お父さんに言えばいいのよ。そうしなければ、何も始まらない)
さっき私自身が言ったことば。
(わたしも、何も始まってない)
あの人は碇くんの隣にいるとどんな気持ちになるのか、気になった。
碇くんはあの人と一緒にいるとどんな気持ちになるのか、聞きたかった。でも、聞きたくない。
わたしは、碇くんの隣にいたら、どんな気持ちになれるだろう。今は、向かい合って座っているけど。
「それじゃあ、僕、そろそろ行くよ」
「……そう」
言わなければ、始まらない。
「今日はありがとう。なんだか、意外だったな……綾波があんなこと言ってくれると思わなかったから」
「……」
ちがう。私は私の言いたいことを言えてない。
「じゃ、じゃあ、帰るから……」
碇くんが立ち上がる。わたしは頷いて玄関まで見送った。
わたしは何をしてるんだろう。
もう一度、手を握ってほしいのに。その一言が言えないで、苦しんで。
「じゃあまた、学校でね」
碇君の浮かべる笑顔に心拍数をこんなにあげてるのに。
「……うん」
碇くんが前を向いて、歩きはじめる。距離が遠くなる。あの人がいる家に帰る。
それでもわたしにはどうすることもできない。
碇くんがいなくなって、ようやくわたしは入り口の扉をしめて部屋に戻った。
頭の中で警報は鳴り続けている。
わたしはベッドにもぐって目を閉じることにした。そうすれば静寂が生まれるから。
それでも、サイレンはやまなかった。
To Be Continued By "Wind Machine"
あとがき
仮タイトル「サイレンとサイレント」に惹かれて書いた短編です。
部屋は静かだけど、心ではサイレンが鳴り響いてる。そういう話。
とにかくレイの一人称――シンジを相手に悩むレイの一人称は難しい。
セリフに悩む。話し方に悩む。独白に悩む。つまり「綾波レイの話し方」に悩む。
まあ思いつきで書いたヤツなんで、これくらいで許してたもれ(笑)
「幻想日和」掲載に当ってのあとがき
このたびtamb氏が管理する「綾波レイの幸せ」内の掲示板に投下した短編を「幻想日和」にてサルベージすることとなりました。
良作を書き我が道を行くD・T氏との共作に近い形で、こうして併せて掲載していただけるのは嬉しい限りです。
正式掲載にあたり、言葉の言い回しを若干変えてあります。「サイレン」という言葉を多用していたので一回にしました。
あと、レイがシンジを呼ぶときの表記を実験的に「碇君」にしていましたが、通常通り「碇くん」に戻しました。
最後に、自分のサイトに投下したSSを「幻想日和」にサルベージすることを勧めてくださったtamb氏に感謝します。
ぜひあなたの感想をののさんまでお送りください。