大変なことになってしまった…。

 惣流・アスカ・ラングレーは古い町並みをとぼとぼと歩いていた。
 武家屋敷が並んでいたあたりに惣流家は位置しており、マンションなどが条例で建てられない場所にあった。
 車もほとんど通らない路を彼女は溜息交じりで足を進める。

 このアタシが…、惣流・アスカ・ラングレーがビートルズを大好きだって?

 アスカはふっと笑う。
 その笑みは自嘲以外のものではありえない。
 何しろこの世の中で何が嫌いかといえば、ビートルズほど嫌いな歌手はいなかったのだ。
 それなのについ勢いで宣言してしまったのである。
 このことをあの母親が知ったならば何と言われるだろう?
 鬼の首を取ったかのように高笑いすることだけは間違いなかろう。
 できることなら母に知られたくはない。
 しかし、ビートルズのことを知るためには、あのコレクションを使わせてもらうしかないではないか。
 何と好都合なことに惣流家には母親が蓄えたビートルズのレコードがそれこそ山のように揃っているのだ。
 もし一から自分の力でそろえなければならないとすればどれほどのお金が必要だろう。
 そのことを考えると、物凄く助かるではないか。

 そうだ。
 あれこれ考えていても仕方がない。
 自分はビートルズの大ファンにならないといけないのだ。
 碇シンジ君が大ファンのビートルズを大好きにならないといけないんだから!

 考えがそこに至った瞬間、アスカの思考はプラス側に切り替わった。
 ラッキーではないか!
 自分の頭脳と芸術的才能を持ってすれば、ビートルズのすべてなど容易に学習できるだろう。
 その教材はなんと家に揃っているのだ。

 アスカはにやりと笑った。
 こうなれば善は急げだ!
 つい今しがたまでとぼとぼと歩いていた少女は、人が変わったかのように明るい表情で駆け出す。
 まだ残暑といってもいいくらいの暖かな陽射しのもと、傍らの塀上で居眠りをしていた猫がいた。
 アスカのけたたましい足音に眼を細く開け、走り去る人間の背中に向かってしゃあぁっと歯をむき出す。
 そして、猫はつまらなさげに欠伸をすると再び目を閉じた。




33回転上のふたり


A面 3曲目

ー Things We Said Today ー



 2010.11.12        ジュン

 
 


 


 碇シンジは驚いていた。
 1時間目に発生したアスカの宣言は放課後にはシンジのいる7組にも届いていたのである。
 しかもかなり脚色されてのことだ。
 それによるとアスカは青葉のギターが鳴ると同時に曲名を答え、英語で歌ったということになっていた。
 その上、彼女はビートルズを嫌いな男子など大嫌いだと言ったらしい。
 
 ど、どうしよう…。

 シンジはその発端が自分の作文だということまで知らずにいた。
 それはそうだろう。
 まさか社会の時間に違うクラスの自分の作文が読まれたなどと想像できるわけがない。
 それ以前に彼はビートルズを何としても好きにならないといけないと咄嗟に決意したのだ。
 憧れの人と交際できるなどという夢など見たことがない。
 いや、それは嘘だ。
 思春期の若者はそういう白昼夢の如き幻を思い描くものである。
 シンジのように自分に自信のない男の子でさえ、アスカと交際できるかもなどという野望を抱くことはあるのだ。
 可能性はゼロではないと考えるからこそ、彼女に嫌われるなどという選択は絶対に避けねばならない。
 だから、彼はビートルズを好きにならないといけないわけだ。

 困ったな…、ビートルズってあのビートルズだよね。
 どうしよう、あのビートルズを好きにならないといけないの?

 シンジは心底困った表情を浮かべながら家路を辿った。
 彼の母親は作文に書かれたとおりに、昭和41年において熱狂的なビートルズファンだった。
 そして、それは今も変わっていない。
 母親の主戦場である台所には大きなラジカセが鎮座しており、そこから流れているのは主にビートルズである。
 もしこのことを知ったならばあの母親はそれはもう文字通りに満面の笑顔を見せることだろう。
 少年は暗い顔つきで溜息を吐いた。

 いやなんだよな、ああいう音楽って。
 そりゃあ、母さんの喜ぶ顔は嫌じゃないけどさ。

 ここの部分はアスカとはまったく違っていた。
 母親があまりにビートルズが好き過ぎて逆に嫌いになってしまったアスカの場合とシンジは異なる。
 彼は単純にビートルズの曲が嫌いだったのだ。
 これはまた別のところで詳しく触れることになるが、シンジの母親のビートルズの曲の聴き方がその大きな原因であった。
 幼きシンジの耳には不協和音にしか聴こえなかったり、騒がしかったりする歌に耳を塞ぎ続けた挙句、少年はクラシック方面に向かったのである。
 アスカの得た情報のとおり、シンジは小学生の時からチェロを習っていた。
 もちろん何故ピアノやバイオリンでなくチェロなのかという理由についてアスカは知っていないが、それは単に知り合いから子供用のチェロを譲り受けただけのことである。
 ではこれを習おうという少年の考えこそが、よく言えば自然流、悪く言えば周囲に流されるシンジの真骨頂かもしれない。
 そしてその彼の性格の物凄さがここにある。
 習っている曲にそれほどの興味を示さないのだ。
 いい曲だと思っても作曲者が誰かだとか、同じような曲はないのかなどという方向には考えが向かないのだ。
 その証明として実にわかりやすい事例がある。
 この話の冒頭を思い出していただきたい。
 図書室でシンジは何の曲を練習していたかを。
 彼は『アンド・アイ・ラブ・ハー』をイメージで弾きながら、憧れのアスカのことを考えていたのだ。
 題名だけではなく、メロディーも美しいものだと思っていたのである。
 しかし彼は楽譜に記載されていた作曲者の名前を一切チェックしていなかった。
 Lennon-McCartneyと書かれていた英文字をカタカナに頭の中で変換していればさすがの彼も気がついたかもしれない。
 ところがそれをしていなかったので、その曲がビートルズのものだとは全然わかっていなかった。
 これが碇シンジという少年なのである。
 
 シンジは新興住宅街に向かう綺麗な橋の上で欄干に肘を置いて小さな川の流れを見下ろした。
 最近雨が降っていないので、随分と水かさが減っている。
 彼は何度目かもわからない溜息を川面へと落とした。

 仕方ないよね。
 ビートルズか…、でも、いやだな、やっぱり。
 だけど、惣流さんが好きなんだもん。
 それに、ビートルズなら母さんが全部持っているはずだし。
 ビートルズを勉強するのは難しくないんだよね。
 でも、う〜ん…。

 彼は寄りかかっていた欄干から身を起こし、またとぼとぼと歩きはじめた。
 切り替えの早いアスカとは違い、どうしてもネガティブに考えてずるずると行動するのがシンジだった。
 結局そうしないといけないのなら積極的にすればいいというのは周囲からのいつものアドバイスだが、どうしてもすぐに気持ちが切り替わらないのが自分でも情けないと思う。
 しかし、いざ切り替わってしまうと実に粘り強く最後までやりとおすのは彼の美点だと親族は口を揃える。
 父親は投げ出す勇気がないのだと素っ気無く言い、母親から睨まれるのも常のことだが。

 ともあれ、少年も目覚めようとしていた。
 いささか消極的な目覚めではあったが、彼もまたビートルズへと近づいていったのである。




 惣流家の玄関戸が派手な音を立てて閉まった。
 びりびりとガラスが震え、そのうちに割れてしまうのではないかと縁側に座るトモロヲは思った。
 もっとも一人娘もあのようにして戸を開け閉めしていたのだからまず大丈夫だろう。
 戸の開け閉めや廊下を歩く足音で孫娘の機嫌は手に取るようにわかる。
 さて今日は随分興奮しているようだが、今日のアスカは何をしでかしてくれるのか。
 耳を澄ますまでもなく、快活な足音が廊下を迫ってくる。

「おじいちゃん、ただいま!」

「おかえり」

 そのトモロヲの声はアスカには届かなかっただろう。
 何しろ縁側のトモロヲに瞬間技で抱きつき挨拶をしたと思えば、もう廊下を駆け去っていたのだ。
 宙に浮いたままの挨拶をどうしたものかとトモロヲは軽く思案していると、自室に飛び込んでいった孫娘がすぐに出てきて今度は母親の部屋に侵入したのだ。
 おお、これはこれは…とトモロヲは眼を細めた。
 アスカが母親の部屋に入るなどこれまで見たことがない。
 そもそもあの部屋はもともと惣流キョウコが子供の時から使っていた部屋で、今はその部屋で寝起きしているわけではない。
 夫婦の部屋がちゃんとあるわけで、ちょうど子供部屋に適した大きさなのでアスカにあてがうのが普通だろう。
 ところがキョウコはその部屋を自分のものにし、アスカには子供部屋にしては少し広い8畳間を与えたのである。
 そしてキョウコの部屋は彼女にとって神聖かつ安らぎの場所となったのである。
 その部屋を一目見たときからアスカは宣言している。
 こんな部屋には絶対に足を踏み入れない、と。
 そう、そこはまさしく“ビートルズの間”と読んでも差し支えないほどの様相を呈していたのだ。
 壁中を埋め尽くすポスター。
 亭主に作らせたレコードラック。
 自分用のステレオ。
 それらの真ん中にキョウコは鎮座し、音楽を楽しんでいたのだ。
 もちろんハイカラ爺さんのトモロヲであるから、応接間にあたる場所にはかなり高価なステレオセットが置かれている。
 彼が洋楽や映画音楽などを楽しむのはもっぱらそちらの方だ。
 アスカもそうである。
 彼女の場合は数枚しか自分のレコードを持っておらず、しかもこれまでは誰かのファンになったということもなかったのでそれで充分だったといえる。
 ドイツやアメリカに住んでいた頃の方が部屋自体は大きかったのだが、逆に大きすぎて隠れ家的な雰囲気が楽しめなかったとキョウコは語っていた。
 日本を飛び出す前にはもうビートルズのことが好きだったのだが、その頃はレコードを買うのが精一杯で渡米のために必死で貯金をしており、自分の部屋をこういう風にしたかったのだとも夫に告げたという。
 それらの発言はハインツを通じてアスカやトモロヲへともたらされ、それを聞いた二人はまるで子供だと苦笑するしかなかった。
 その“ビートルズの間”にアスカは足を踏み入れた。
 何の躊躇もなく、襖を開け放ちずかずかと部屋の中央へ入り込んだのだ。
 アスカは部屋の真ん中で呆然と立ち尽くした。
 ビートルズを好きになるのだ、彼らのすべてを自分のものにするのだと勢い込んできたものの、余りの物凄さに声を失ってしまったのである。
 これまで遠目や通りすがりにちらりとしか見ていなかったので、いざきちんと部屋中のものを見渡してみるととんでもない迫力があった。
 これらをすべて習得できるのか。
 自分がここまでビートルズを好きになることができるのか。
 いや、やるのだ。
 やらねばならないのだ。
 賽は投げられたと言ったのはどこの誰だったか忘れたが、とにかく時間がない。
 もしかすると明日学校に行けば、誰かにビートルズの質問をされるかもしれない。
 その時にきちんとした回答ができなければ、辱めを受けるばかりか、それが愛しの碇シンジ君に伝わってしまったならば…。
 ぶるるるるっ!
 アスカは身震いした。
 そんなことはあってはならない。
 自分は天才なのだと催眠術をかけるように彼女自身に言い聞かせた。
 アスカは大きく頷いた。
 そして、彼女はまず壁にかかったビートルズのポスターを睨みつけた。
 それは映画『レット・イット・ビー』のアメリカ版ポスターなのだが、もちろんビートルズ初心者のアスカにはそれが何なのかわかるわけがない。
 彼女はぼそりと呟いた。

「で……、誰が誰なの?」




「ただいま…」

 まるでにわか雨に遭ってびしょ濡れで帰ってきたかのような印象を与える脱力感がシンジを支配していた。
 どんなに自分を奮い立たせても母親に立ち向かえる自信がない。
 どうすればあのレコードを聴かせてもらえるのだろうか。
 一を聞くどころか何も喋らないうちに、十などは生易しい、自分の知らないことまでを言い当てそうな母親なのである。
 話をどのようにもっていこうが絶対に母親のペースになってしまうのだ。
 
「おかえりなさいっ」

 元気のよい言葉を投げかけられて、扉を閉めていたシンジはびくりと身体を震わせた。
 振り返ると幼稚園児の妹が満面の笑みで立っていた。
 ああ…、とシンジは苦笑する。
 母さんにそっくりだよな、お前は本当に。

「どぉ〜したの?げんきないよ、おにぃ〜ちゃん」

「そう見えるか?いつもといっしょだよ」

 靴を脱いだシンジは妹の頭にぽんと手を置いた。
 いつもは情けなげな彼も妹にだけは強がりを言ったり、実際にいいお兄さんであろうとしている。
 だからこそこの妹は兄にべったりなのだろう。

「あのね、あのね。きょうね、おせきはんだよ」

 いきなり話が変わるのは幼稚園児だけに仕方がないだろう。
 これでも碇レイは上級組の中ではずば抜けて頭がいいおりこうさんなのだが、あくまでそれは幼稚園児の中でということに過ぎない。
 家に戻ってしまえば普通に5歳の幼児になってしまう。
 それが当たり前なのだ。

「お赤飯?今日、誰かの誕生日だっけ?」

「ちがうよっ。あのね、おにぃ〜ちゃんなの」

「へ?」

 お兄ちゃんとは自分のことだが今日は6月6日ではない以上自分の誕生日ではありえないし、そもそも妹自身が誕生日のお祝いではないといっているではないか。
 
「おにぃ〜ちゃんがね、えっと、おか〜さんのだいすきなのをすきになったって、と〜ふやさんがいってたの。あっ、おせきはんとおと〜ふのおみそしるだよ!」

 晩御飯の献立はどうでもいい。
 いや、赤飯と味噌汁だけというのはあまりに少なすぎるから別におかずはあるはずだが、とりあえずそれはどうでもいい。
 問題は妹の発言の真ん中付近にとんでもない内容がさらっと紛れていたような気がする。
 シンジは妹の顔の高さに合わせて廊下に膝をつく。

「レイ。今、なんて言った?」

「おせきはんと…」

「もっと前」

「ん……?」

 首を傾げる仕草は日頃なら微笑ましいものであるが、今のシンジにとっては最重要課題を口にされた気がするのでそれどころではない。
 さすがのシンジもこれは話が通じやすい(妹よりは)母親と対決するしかないと腹を決めた。
 彼は母親のテリトリーである台所へと足を進めた。
 しかしながら、途中で洗面所に寄り道して手洗いをするところはさすがに碇ユイの息子を14年してきただけのことはある。
 下手をすると本題に入る前に手は洗ったのかと逆襲されるかもしれないからだ。
 シンジは深呼吸をして台所へ踏み込んだ。

「ただいま」

「あら、おかえり。シンジ、あなた水臭いわよ。黙ってるなんて、母さん哀しいわ。で、今日はお赤飯でお祝いよ。
それからさんまの尾頭付きもつけちゃうから喜びなさい」

 句読点をつけるのがいけないくらいに、一気に捲し立てた。
 こういう母親に育てられたからこそ、のほほんとしているにもかかわらずシンジはそれなりに抑えるところを抑えられるようになったのだ。

「尾頭付きって…さんまだろ」

「鯛は高かったからね。で、手は洗ったの?」

 やっぱりそう来たなとばかりに、シンジは手を前に出す。
 その仕草はまるで小学生だが、母親は満足気に頷いた。

「でさ、何のお祝いなの?」

「ん?聞いたわよ。お豆腐屋さんに。神田君って1年の時に同じクラスだったのよね。で、今は2組みたい」

 ああ、そうですか。
 神田ヤスアキ君の家は豆腐屋さんで今は2年2組だったんだ。
 そんなのどうでもいい情報だけど、あ、2組だったら惣流さんと同じじゃないか。
 羨ましいなぁ。
 そのようなことを連想していた息子の表情を値踏みした碇家の主婦はどうやら我が息子は全然事情を知らないようだと判断した。

「あら、知らなかった?あなた2組で有名になったらしいわよ」

「えっ、ほ、本当に?」

 おや、今度はえらく反応がよろしいことで…。
 ふふ〜ん、こりゃあ、女ね。
 惚れた女が2組にいるとみた。
 恐ろしく真相をついた感想を持った碇ユイはどうやってからかおうかとわくわくした気分をとりあえず押さえ込む。
 こういうことは小出しにして楽しまないと面白くない。

「そうよ。あなたのね、作文が2組で発表されたの」

「え、ええっ!あ、あれが?」

「そう、アレ、ね。母さんは読んでませんけど。あ、でも、是非読ませていただきたいものね。今、持ってる?部屋にはなかったわよ」

「そ、そんなの持ってないよ。先生に提出したんだから」

 勝手に家捜しするなよ!
 まさかあそこは見てないよね。
 惣流さんの写真とか…。
 あの雑誌はもう処分した方がいいかな?ケンスケに返すか。
 息子の一瞬の動揺を母親は見逃さない。
 家捜しなどしていおらず、ただからかっただけだったのだが、こうなると家捜しの誘惑を抑えるのが大変そうだと自分を戒めるユイだった。

「あら、そう。じゃ、先生にお願いしましょ。担任?いえ、青葉先生かしら?」

「青…って、どうして社会の青葉先生なのさ。あれは国語の提出物だよ」

「そんなの母さんが知るわけないでしょ。だって、青葉先生があなたの作文を読ませたって事なのよ」

 シンジの頭の中には数百匹の蜂が飛び交っていた。
 あの作文が2組で読まれて、そのことを神田君からその親、そして母親に伝わったということだけはわかる。
 いや、単純にこの話はそれだけのことなのだが、当事者となってしまった彼が考えられることはただ一つ。
 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
 蜂はブゥ〜ンと飛ばずに、ドウシヨウと羽を鳴らしているようだ。

「で、で、つまり…」

「うん、母さん嬉しい。やっとお前も目覚めたのね。お腹にいたときからずっと聴かせてきたのに、ずいぶんと時間がかかったことね」

「び、ビートルズ……?」

「それ以外何があるって言うのよ。それであなたが大のビートルズファンだということになったみたいね。このっ」

 ぎゅっと音を立ててシンジは母親に抱きしめられた。

「こ、か、くわ、ひ、ぎゃ、や、やめ、やめろよ!」

 世間で有名な容姿端麗でとても三十代半ばには見えないとの評判が高い女性にしっかりと抱きしめられようが、この世の中でシンジだけは少しも嬉しくはない。
 彼にとってはただの母親なのだ。
 恥ずかしくて、そして気持ちが悪いというのが彼の正直な感想だった。

「やめません!こんなに嬉しいのはジョンが復活して以来だわ!」

「な、だ、誰だよ、ジョンって!あああああっ、キスするなぁっ!」

 頬にべったり押し付けられた唇を離そうとシンジは暴れた。

「ああああ、いいないいなっ。レイにもちゅってして!おか〜さん!」

「後でね!んんんんっ」

 反対側の頬にもしっかりとくちづけされたシンジはようやく母の腕から脱出した。
 いや、彼の力ではなく、ユイが息子を開放したというほうが正しい。
 シンジは流しに駆け寄り蛇口を捻ってほとばしる水で顔を洗った。
 少なくとも唇にされなかっただけでも助かった。
 振り返ると、その唇や頬に母親にキスをされたレイがきゃっきゃっと喜んでいた。
 勘弁してよ、まったく。
 キス魔とまでは思わなかったが、それでも小学校低学年までは何かの拍子にちゅっとされた記憶がある。
 幼稚園の頃までは妹と同様にそれが嬉しかったかもしれないが、さすがに2年生の頃には勘弁して欲しいと思ったものだ。
 それが顔に出たのだろう。
 それからはユイはシンジへのキスはまったくしなかったのだが、今日数年ぶりにそれが炸裂した。
 つまりそれほど嬉しかったのだろう。
 流しのタオルで顔を拭い、もう一度手で頬を拭った。
 もしこれが惣流さんからのキスであったならば天にも昇ろうが、母親では脱力するだけだ。
 それよりも、だ。
 シンジは今の状況を整理した。
 自分はビートルズを好きにならないといけない。
 母親にそれが知れると鬱陶しい。
 ところが母親は既に知っていて、予想通りに狂喜している。
 それは2組の神田君(呪ってやる祟ってやる)が親の豆腐屋さんに喋ってそこから母親に伝わったようだ。
 2組の彼が知っていたのは、何故だかわからないが青葉先生が僕の作文を披露したからだ。
 彼が知っていたということは、惣流さんも知っている。
 惣流さんが知っているのだ。
 僕がビートルズファンだと。
 僕が……ビートルズ…ファン……?
 ビートルズファンだってぇっ!
 この僕がぁっ!

「か、か、かっ、母さん!僕が、僕がビートルズファンだってぇ?」

「うろたえるんじゃありません。あなたがビートルズのことを好きじゃないってことは誰よりもよく知ってます。あ、今朝まではって訂正しておかないとね。今はどうやら…」

 ああ、この人には一生敵わない。
 シンジは観念して、そのおかげで少しばかり落ち着きを取り戻した。

「あ、あのね、実は…」

「レコードに傷をつけたら弁償。本に書込みしたら弁償。ファンをやめたら死刑。以上」

「き、肝に銘じます」

「まあ、どこで覚えてきたの?そういう大人っぽい表現を。で、まず聞きたいのだけど、あなたはどこまで知ってるの?」

「ビートルズを?」

「当たり前でしょう、馬鹿ね、この子は」

 シンジはう〜んと考えた。
 兄の真似をしてレイもその隣で考える前をするが、腕組みをしている分だけ幼児の方がそれっぽい雰囲気を出している。

「えっと、ビートルズは4人で…、あれ?アメリカ?」

「イギリス!このあんぽんたん」

「イギリスのしょとはロンドン!」

 いい子ねとユイはレイの頭を撫でると、彼女はふふふと渾身の微笑を浮かべる。
 それにひきかえ兄のほうはビートルズの情報が全然出てこないことにがっくりきてしまった。

「母さんが好きだって事と、僕が生まれた年に日本に来たって事くらいしかわからないや。はは…」

「笑い事じゃありません。情けないわね、この子は、本当に…」

 ユイは溜息をついた。
 興味のないことには耳に蓋をするのは父親に似たのだろう。
 普通は男の子は母親に似るといわれているはずだが、どうも我が家はその俗説が逆転してしまっているようだ。
 傍らの娘の言動については幼かりし自分のそれに酷似していると自覚している。
 その意味で息子の将来にそこはかとない不安を持っているのも事実だった。
 人間関係が巧くできるのだろうか、悪い女に引っかかってしまわないだろうか、社会に巧く適合できるのだろうか…。
 そういう不安を持ったままずっと育ててきていただけに、一見朗らかで鷹揚な感じの少年に見えるシンジだった。
 小学校の時は親友と呼べるような友達を作らなかったので、何か失敗したかと焦ったものの中学に入ると何故か仲のいい友達ができた。
 関西弁の少し乱暴そうな子と、メガネをかけた少し多趣味そうな子の二人。 
 何度か家に遊びに来たことがあるが、ごくごく普通に友好な関係を築いているように見える。
 そのことにほっとしたユイだったが、それでも時折ふっとふわふわとどこかに息子が飛んでいきそうな気がしてしまう。
 つまり、しっかりとしていないような感じに見えるのだ。
 それが母親ならではの直感なのかそれとも取り越し苦労なのか。
 どちらかに断定はできないが、過保護にならない程度に息子を見守る。
 中学生になった以上、親の手は子供からかなり離れてしまう。
 まあ、離れてもらわないと困るのだが、とユイは苦笑した。

「で、どうなの?一夜漬けしないといけないレベル?それともじっくりゆっくり?」

「えっと、できるだけ早くて詳しく…かなぁ」

「無理言うわね、あなたは」

 珍しいこともあるわねとユイは微笑む。
 普通ならばもっと抽象的な、つまりはっきりとしない返事をするのが息子の常だ。
 それがいきなり無理難題を口にした。

 シンジにとっても自分の言葉が信じられなかった。
 考える前に口から出たのが“早く”と“詳しく”だったのだ。
 自分がビートルズファンであると惣流さんに知られてしまった、いや、そのファンであるという事自体が誤解なのだが、とにかく彼女はそう思っているだろう。
 もちろん校内一の美人が自分風情の趣味など記憶するわけがないとも思う。
 しかし、彼女は物凄いビートルズファンだという話だ。
 となれば、同じファンとして記憶してしまったかもしれない。
 そう考えるとシンジは嬉しくなってしまうのだが、冷静に考えるとそんな悠長なことは言っていられない。
 仮に名前を記憶されたとすると、もしシンジがビートルズのことを何も知らないと彼女に知れてしまえばどうなる?
 シンジからすればまさしく地球最後の日となろう。
 だからこそ、日頃優柔不断な彼の口からビートルズのことを早く詳しく知りたいという希望が漏れてきたのである。

「まずは曲を聴きながら本を読みなさい」

「だ、ダメだよ。僕はながら読みできないんだ」

「あのね、学校の勉強とは違うの。雰囲気の問題」

「でも、曲が鳴ってたら本に集中できないし…」

「もう、この子は!いい加減にしな……、ぐるるるるっ」

 まるで野獣が唸る様な音を口の中で響かせて、ユイは怒りを鎮めた。
 ここでぴしりと叱りつければ息子がどのような反応をするのか手に取るようにわかる。
 簡単にしょげてしまい「もういいよ」と投げ出してしまうか、いずれにせよ、最初の加速が思い切り悪くなるのは間違いない。
 ことはユイが愛してやまないビートルズなのだ。
 偉大な彼らの業績を伝道するためにはこれくらいのいらつきなど収めずにどうする。
 彼女は必死に怒りの矛先を納めたのだが、驚いたのは子供ふたりだ。
 母親が怒ればどういう風になるのかよく知っている。
 日頃優しいだけに、怒ると物凄いのだ。
 泣こうが詫びようが容易に許してくれないのである。
 先ほどのパターンならば「いい加減にしなさい!」と怒鳴った挙句、その次は「晩御飯抜き」「部屋で反省しなさい」「お父さんに何が悪かったのか自分の口で言いなさい」などと続くのだ。
 特に最後の父親の前で正座をして、どうして母親に叱られたのかを説明するというのは子供たちにとって最悪のシナリオである。
 胡坐をかいてもなお背が高く表情も姿勢も崩さない父親から受ける圧迫感は口では説明できないレベルにある。
 その威圧感を前にすれば恐怖の感情は夕立を生みだす黒雲のようにもくもくと心を覆ってしまい、きちんとした説明などできるわけもなく、ただ「ごめんなさい」と謝罪の言葉を連呼しながら滝のように涙を流してしまうのである。
 ただし、碇家の当主である碇ゲンドウの名誉のために弁護しておくが、彼はその行為を嫌々しているにすぎない。
 本当は子供たちをすぐに許してあげたいのである。
 だがそんなことをすれば、妻からきついお仕置きが来る。
 なんと口を一切聞いてくれなくなるのだ。
 その癖に視線はずっと自分を睨みつけてくる。
 口下手な彼が幾度詫びを入れても物で釣ろうが、おいそれとは怒りは解けない。
 結局はその刑罰がちょうど1週間続くことになる。
 いつもその期間は7日と決まっているのでその時間を耐えればいいだけではないかと、ゲンドウは恐怖の七日間が過ぎるといつも思うのだがそうはいかない。
 いくわけがない。
 彼にとってユイは人類の歴史が始まって以来、肉親以外でただ一人愛してくれた女性なのだ。
 亡き母親からもそんな奇特な女性は絶対に他にはおらんから大事にしなさいと遺言されたほどなのだから、その意識はゲンドウの骨の髄まで沁み込んでいる。
 今は田舎に引っ込んでしまった父親からの手紙でも真っ先にユイへの挨拶からはじまっている。
 それほどゲンドウの家族から見ればユイという女性は大切な存在だった。
 まさしく天然記念物と呼称してもよいほどに。
 ともあれ、子供が母に叱られた説明をしに現れたときは、ユイの指示通りにゲンドウは相手をただじっと見ているだけなのだ。
 それが彼の任務であり、泣きながら詫びる子供の前で彼はまるで針の筵に座らされているような気持ちを味わう。
 子供のためだとじっと耐える。
 しかしその感情のベースには妻のお仕置きが怖いという気持ちがあるから余計にゲンドウは子供たちに悪いと思った。
 結局は自分を優先しているのではないかという自責の念が彼を苦しめたのだ。
 もっともこういうことがあるからといって、ゲンドウが子供たちからただ怖がられているわけではない。
 叱られる時は怖いが、それ以外では良き父親として尊敬されている。
 無口だから話をすることはほとんどないが、たまに遊びにいく時などには父の愛情に触れて嬉しくてたまらない。
 今でもレイが肩車をされ喜んでいる姿を見たときに、シンジは少し羨ましいような気分になる。
 ゲンドウが思っているほど子供たちに怖がられているわけではないのだ。
 
 さて、父の前に座らされたのはいつのことだったか。
 確か小学4年のときに散々な点数を取ってしまったテストを隠したことで叱られたのだ。
 素直に悪かったと言えばそういう目には遭わなかっただろう。
 隠したばかりか、点はよかったと嘯いた上に、処理に困ったテスト用紙をハサミで切り刻んだだけでは不安でその残骸を焼却しようとした現場をユイに押さえられたのである。
 その時以来彼はお奉行様の前の白洲ならぬ父親の前の畳で正座させられたことはない。
 ユイが声を荒げた瞬間、思わずその時の光景が頭に浮かんだシンジである。
 まさかあの時のようにぼろぼろ涙をこぼすような真似はしないとは思うが、それでも背筋がぴしりと伸びた。
 その心の動きをすかさず読み取るのはユイの特技とも言えよう。

「うんっ、仕方がないわね。集中できようができまいが、とにかく聴きなさい。読みなさい」

 先ほどの唸り声を耳にした以上、母親に逆らうことなどシンジにはできない。
 彼はぎこちなく頷いた。

「晩御飯になったら呼ぶから」

「えっと、何から読めば…」

「もうっ、そこから面倒見ないといけないの?来なさいっ」

 怒っているかのように見える母の背中をシンジは追った。
 もちろんそれは嬉しさの照れ隠しということに息子は気づいていない。
 当然、幼児であるレイもわからない。

「おか〜さん、きょうはエィティ!のひだからねっ」

 午後7時からはレイが楽しみにしている特撮番組がある。
 晩御飯が遅くなっては彼女にとって由々しき問題となってしまうのだ。
 レイは二人がいなくなった台所でにこりと笑い、冷蔵庫の扉を開けた。
 鬼のいぬ間にこっそりとつまみ食いを考えたのだ。
 何となく鬼さんはしばらく帰ってこない気がしたのである。
 その予感どおり、ユイは今度の学習方針を息子に30分ばかり叩き込み、晩御飯の準備はそれだけ遅れてしまった。
 ただ、レイが見たがっていた『ウルトラマン80』にはちゃんと間に合わせたのはさすがに専業主婦の腕と言えよう。 



 アスカは途方にくれていた。
 どこから手をつければいいのか。
 何しろここはあまりにマニアックすぎる空間だった。
 碇ユイとは違い、惣流キョウコはそのコレクションが多岐にわたっている。
 ユイは日本を出たことがなく、しかもあくまで音楽を聴くという点を重視したファンだった。
 それにひきかえキョウコの場合は、のめりこみ方が尋常ではない。
 それがトモロヲの言う惣流家の血なのであろう。
 好きになればとことん突っ走ってしまうのが彼らの呪われた血であった。
 しかもキョウコは日本、アメリカ、ドイツと3国に住んでいたから、そのコレクションの広がり方は尋常ではない。
 ユイが所持しているビートルズ関連のLPレコードは解散後のものも含めても40枚程度である。
 ところが惣流家の“ビートルズの間”にあるLPレコードは数える気にならないほどの枚数が並べられていた。
 英語やドイツ語の読み書きができるアスカはそのタイトルを読むのに苦労はしないが、それでもLPの背に書かれた小さな文字を読むのは一苦労だ。
 首を大きく捻じ曲げるか、いっそ寝転がって見るかしないといけない。
 シンジは縦書きの日本語で確認できるのだから、この段階での二人の差は大きかった。
 だが、シンジとは違いアスカには不撓不屈の精神がある。
 彼女はぱしんと自分の頬を両手で叩き、レコードの山の前で横たわった。

 ママのことだからこれってちゃんと整理しているはずよね。
 たぶんアメリカ、ドイツで発売順に並べているはず…。
 あれ?ちょっと待って。
 これって…。
 アスカは天を仰いだが、そこには和風照明器具がぶらさがっているだけだ。
 そういえば母がドイツへ向かった時、ドイツ宛に厳重に梱包された荷物が発送されていた。
 その中身には何の興味もなかったのでチェックしていなかったけど…。
 間違いないわ、これは!
 アスカはすべてのLPレコードタイトルをざくっと見て確信した。
 日本語のものが一枚もないではないか。
 確か横浜に帰ってきてからも母親はLPレコードを買い足していたはずだ。
 まだビートルズのLPを買うのかと呆れていた記憶がある。
 それに小さい頃日本へ里帰りした時も駅前のレコード店でビートルズのレコードを買っていたはずだ。
 そういえばあのレコード店はもうつぶれてたわね…。
 じゃなくてっ!
 日本で発売されたビートルズのLPが絶対に何十枚もあるはずなのに、一枚もない!
 起き上がったアスカは胡坐をかいて腕組みをした。
 しばらく考えた後、彼女は肩を落として溜息を吐いた。

「間違いないわ。ママ、日本で発売したレコードを見せびらかすために持っていったんだわ」

 ビートルズの曲を聴くためならばカセットテープという手がある。
 確かミュンヘンに住んでいるというキョウコの友人もビートルズのファンだったはず。
 ミュンヘンでのライヴを見に行ったとか言っていたような気がするし、当然ドイツで発売されたレコードをコンプリートしているとかイタリアやフランスのものも持っているとかでママが悔しがって騒いでたっけ…。
 
 ということは、日本のレコードはないというわけだとアスカは落胆した。
 もちろん日本とアメリカのもので差はないはずだが、碇シンジは当然日本発売のビートルズのレコードを揃えているはずだから同じもので聴きたいと思うのは戦術上…、いや乙女心としては当然だろう。
 しかし、ないものはどうしようもない。
 何十枚か知らないが自分の小遣いで改めてレコードを全部揃えるなど不可能もいいところだ。
 こうなれば仕方がない。
 まずはアメリカ発売とドイツのものとを分けて、アメリカのもので最初から…。
 って、最初かどうかをどうやって確認するのよ!
 アスカは再び寝転がり、英語とドイツ語表記が分かれている場所があるかどうか確認した。
 彼女の予想通りその区分点は存在した。
 キョウコはそのコレクターぶりを発揮していると見ていい。
 とすると、右から左か、はたまた左から右か。
 何らかの法則でレコードを並べているに違いない。
 アスカは同じ会社から発売されているものをチェックし、その2枚を見比べた。
 題名や写真を見てもわかるわけがないので、製品番号や発売年が記載されていないか…。
 アスカは破顔した。
 このCAPITALという会社から出ているもので、番号が若いのが“MEET THE BEATLES”。
 その右にあったものは番号が37多く、しかもタイトルが“THE BEATLES' SECOND ALBUM”ではないか。
 よし、法則は読めた。
 これで勝ったも同然っ!
 勝利宣言を高らかに叫ぼうとしたアスカだったが、愕然とした。
 どうして“MEET THE BEATLES”の左にもう一枚あり、会社名が違うのだ?
 それに“THE BEATLES' SECOND ALBUM”の右にはまたこれまでと違う会社のレコードが並べてある。
 わ、わかんない…。
 母親に聞けばすぐに解決するだろうが、どうしてもあの母親の手を借りたいとは思えない。
 何とか自力で解決したいものだがと、アスカは部屋を見渡した。
 そうだ、本を読めば色々と書いているのではないか。
 そもそもレコードを聴くだけでは、誰が誰かという根本的且つ真っ先に解決すべき問題すら解決できない。
 アスカは本棚の前に立ち、あれこれと本を引き出しページをめくったがすぐに失望する。
 母親が収集している本のほとんどが写真集の類だったのだ。
 とりあえずその写真集で4人の名前と顔だけは確認できた。
 それだけは助かったが、どうして写真集だけなのかと考えてみると、それも母らしいかと苦笑する。
 あの母親は自分の目を一番信用する人なのだ。
 だから他人が書いたビートルズのあれこれなど読む気がしない。
 そういうことなのだろうとアスカは確信した。
 それは良く理解できるが、素早くビートルズの知識を吸収したいアスカとしては実に困ったものだ。
 彼女は深く溜息を吐き、そして腹を鳴らした。
 きゅうという音を聞き、顔を赤らめたアスカは漂ってくる美味しそうな匂いに気がつき驚いた。
 
「まずい!」

 広げた本をそのままにアスカは部屋を飛び出した。
 まずいというのは料理の匂いが不味いのではなく、自分が晩御飯を作るのを忘れていたという行為が拙かったというわけだ。
 おそらく祖父が気を利かせて作ってくれているのだと思うと顔から火が出るような気まずさを覚えた。
 台所へ突入すると、トモロヲが鼻歌交じりで大きな鍋の前に立っていた。

「ごめん!おじいちゃん」

「おお、いいぞ。冷蔵庫の中身を見るとこれはシチューかカレーだと判断して、ビーフシチューに勝手に決定した。どうじゃ、当たったか?」

「えっと…肉じゃが…」

「おおっ、そうじゃったか」

 トモロヲはぺちゃりと額を叩くと、「許せ」と笑った。

「肉じゃがはシチューの出来損ないからはじまったそうだ。だからまあよいじゃろう」

 アスカは「うん」と頷くしかない。
 責任感の強い彼女としてはこの失態はプライドが許さなかった。

「じゃ、明日の朝はアタシが作る」

「それは駄目じゃ。朝はこのじじいの役目じゃからの。そいつはおいそれとは譲れんわい」

「でも…」

 トモロヲは鍋の方を見ながら背中で語った。

「それにアスカは忙しいのではないか?察するにビートルズを勉強しないといけないのじゃろう」

「ど、どうしてわかったのっ?」

 それは丸わかりじゃとトモロヲは明るく笑った。
 これまで入ったことのない“ビートルズの間”にわき目も振らず飛び込んでそのまま2時間も出てこない。
 これは学校でビートルズについて知らねばならない必要が生まれたとしか思えない。
 トモロヲの読みはその理由をのぞいては大当たりである。
 さすがに好きな男子ができて彼の趣味に合わせるために皆に大嘘を吐きました、とはアスカも言えないし、トモロヲもそこまで読み取れるならば超能力者の類となってしまおう。
 だが、彼は孫娘に深くは尋ねなかった。
 それどころか、アスカにとっては物凄く役に立つものを提供してくれたのである。
 鍋を見ていろと言い残し、トモロヲは自室に戻るとすぐに戻ってきた。
 その手には黒い表紙の本が携えられていた。
 ほいとばかりにアスカに渡されたその本の題名は『ビートルズの軌跡』だった。

「これって…ママの本?」

「外れじゃ。わしが買った本じゃ」

「おじいちゃんが?」

 驚くアスカにトモロヲが語った事情はこうだった。

 8年前にキョウコがアスカを連れて帰省してきたときのことだ。
 駅まで二人を送ったトモロヲは駅前の本屋に入った。
 その時に目に付いたのが新刊本コーナーに置かれていた『ビートルズの軌跡』だったのだ。
 手に取ってみると、ビートルズのことがあれこれと書かれ年表までついている。
 これならば今更ながらだが彼らの事を勉強するのに役に立つだろう。
 そう思って財布の口を開いたトモロヲだった。
 自分には少し騒々しすぎると思っていたビートルズだが、解散前くらいにはトモロヲの認識も変わっていた。
 しかし、娘の趣味をいろいろとからかってきた経緯があったので、急にビートルズも悪くないとは言い出しにくかったのだ。
 だから娘とビートルズについて語ることは殆どないにもかかわらず、もしもという時にはちゃんと会話になるように勉強しておこうと考えたわけだ。
 飄々と話す祖父を見て、アスカは何となく胸が熱くなった。

「でも、ママには何も言ってないんでしょ」

「当たり前じゃ。そんなことわしの口から言えるものか」

「じゃあさ、アタシの口から言ってもいい?」

「そうじゃの。どうせばれるからな」

「どうして?」

「お前、封印を破ったのに気がついていなかったのか?アイツは本棚とかレコードの棚に触ればわかるような仕掛をしているんだぞ」

「えええええっ」

 アスカは本を掴んだまま、“ビートルズの間”に駆け戻った。
 やりかねない。
 あの母親ならやりかねないことだ。
 そういえば不在の間は掃除もしなくていいと言い残して旅立っていった。
 あんな場所誰がとその当時のアスカはせせら笑って返事をしたものだったが…。
 棚などをよくよく見ると、真下に金色の長い髪の毛が落ちている。
 そして触っていない棚のそれぞれの上部に金髪が1本すっと横断しており、その端が小さなセロテープで固定されている。
 アスカがその棚の本を抜くとほとんど何の抵抗もなくはらりと髪の毛は下に落ちた。
 これでは気づくわけがない。
 アスカは落ちた髪の毛を拾い上げしげしげと見つめた。
 明らかに母親のものに違いない。
 自分の髪の毛で代用して本やレコードを触ったことを隠蔽しようかと思ったが、そもそも自分の金髪は赤っぽい色をしているので違いはまるわかりだ。
 しかも母親の髪の毛を再利用しようにもセロテープにサインがしてあった。
 わずか5mm四方ほどのセロテープなので一度落ちてしまえば粘着度はもう復活できない。
 糊などを使えば跡が残って丸わかりだろう。
 アスカはどうしてここまでするかなぁと脱力して笑った。
 あの人の性格から考えると、触られたくないからというよりも触ったかどうかで楽しもうという感覚ではないだろうか。
 それにもうひとつ、あの事件がよほど心に強烈に残っているのかもしれない。
 アメリカ時代のアスカがしでかしたビートルズのレコードをおもちゃにして傷だらけにした、あの事件だ。
 今でも悪い夢として甦ってくる、これまでで一番母親に真剣に叱られた3歳の頃の事件だ。
 それを思い出すとアスカは引きつった笑いを浮かべることしかできない。
 もっともそれ以来ビートルズに触れてはいけないという意識がアスカに根付いたことは事実だ。
 その意識のためにビートルズを忌避してきたのだが…。

「結局、ママに喋ってしまわないといけないってことか…」

 アスカは力なく呟くと、部屋の真ん中に座り本を開いた。
 どっと疲れてしまったが時間がないのだ。
 せっかく祖父が用意してくれたこの参考書を有効活用しないといけない。
 彼女は本に没頭した。




 アスカが読んでいる本とまったく同じものをシンジは読んでいた。
 そして部屋の中では3枚目のアルバムが鳴っている。
 くれぐれもレコードに傷をつけるなという母の命令をシンジは遵守していた。
 正直に言うと、音楽の方はほとんど耳に入ってこない。
 本を読みながら、大学ノートに要点を書き出していくのが精一杯だ。
 まるで授業の予習をするかのような態度で少年はビートルズの学習に勤しむ。
 その時だった。
 シンジはきょとんとした表情で顔を上げた。
 そして、ステレオから響いてくるメロディーに耳を傾けたのだ。

「これって……」

 間違いない。
 これはあの曲だ。
 レコードを確認すると、今流れているのは『アンド・アイ・ラブ・ハー』だ。
 曲名も同じである。
 そう、あの日、図書室で練習していた曲はこの曲だった。
 レコードの曲名リストをよく見ると、作詞作曲の項目はレノン&マッカートニーとある。
 1時間半前のシンジならわからなかったが、今の彼ならはっきりと答えられる。

「これって、ビートルズが作った曲だったんだ」

 眼から鱗というのはこういうときに使われる言葉だろう。
 そして、この瞬間である。
 シンジのビートルズの評価が大きく変わったのは。
 作者も知らずにいい曲だと思っていたものがなんとあんなに嫌っていたビートルズが作ったものだった。
 食わず嫌いとはこういうことをいうのかとシンジはこの時大きく意識を変革させたのである。
 気分が高揚した時、人は誰かに訴えずにはいられない。
 少年は台所目指してばたばたと廊下を駆けた。

「母さん!」

「まだよ。お赤飯炊き上がってないから」

「違うよ!あのさ、ビートルズって凄いね。凄かったんだね。びっくりした」

「まあ、もうわかってくれたの?予想よりも早かったわね」

「うん!知らなかったよ。『アンド・アイ・ラブ・ハー』ってビートルズが作ってたんだね。凄いよ!」

 勢い込んで訴えたシンジだったが、最初は喜んでいたユイが急に苦笑したのを見てきょとんとした顔になる。

「どうしたの?」

「もしかして、あなた誰が作ったかも知らずに『アンド・アイ・ラブ・ハー』を弾いてたの?」

「うん」

 それが事実だからと、シンジはまったく悪びれずにあっさりと答えた。

「もう…。母さんはね、あなたがあの曲を練習しているのを聞いてそれはもう嬉しかったのよ。なるほどね、知らずに弾いてた、と…」

 冷やかな視線を送られてシンジは少しひるむが、今の彼はいつもとは一味違う。
 
「ごめん。でも、僕、間違ってたよ。好きになれない曲もあるけど、いい曲もあるんだってわかった」

「OK。まあ、今回だけは許してあげる。晩御飯が終わったら、赤と青を聴きなさい」

「ベスト盤だよね。あの2枚組の」

 ユイは大きく頷いた。
 アルバム派の彼女からすればファーストアルバムから順番に聴いて欲しいのだが、急ぐのだから仕方がない。
 少なくとも明日までに基本をマスターしたいとのことなので、少なくとも有名な曲を聴かせるのが一番だ。
 シンジの場合、チェロを習っていたことが幸いした。
 音楽的なベースがあるので、本人のやる気次第で知識の習得のペースは上がるだろう。

「母さん、僕やるよ。誓うよ。ビートルズをちゃんと勉強するって」

「勉強って…」

 ユイは小さく吹き出したが、いずれにしても今日は喜ばしい日だ。
 ずっと待ち望んで、もう無理かと思っていたビートルズ趣味の継承がはじまったのだ。

「お赤飯で正解ね。シンジ、ビートルズの道は険しいわよ。がんばりなさい」

「うん、わかった。がんばるよ、僕」

 真の動機は知らねども、とにかくあのふわふわした息子が燃えている。
 それだけでユイもまた力がわいてきた。
 燃える親子に水を差すように、お茶の間からレイが大声で叫ぶ。 

「おか〜さん、おかしらつきまだぁ?エイティはじまっちゃうよぉ〜」




 アスカは本の助けを借りて、まずはビートルズの曲を整理することから始めた。
 『ビートルズの軌跡』の最後に書かれていた日本発売のレコードというものから曲名を書き出し、その曲がキョウコの所持しているアメリカ盤とドイツ盤のどれに入っているのかを調べるのだ。
 彼女の場合、シンジとは違って母親の助けはすぐには期待できない。
 何しろ相手はドイツなのだ。
 予定では年内には完全に日本に夫婦共々引っ越すということだが、いつになるかもわからないようなものを待ってはいられない。
 だから彼女は自力でがんばるしかなかった。
 トモロヲの知識はこの本によるものと、そしてFMラジオなどで聴いた事があるというレベルでしかない。
 赤色と青色をしたベスト版があるということすら彼は知らないのだ。
 この時点でシンジと比べてアスカは大きなハンデを背負っている。
 だが、そのことを彼女は知らない。
 アスカはシンジがビートルズのすべてを知っているものと誤解しているのだ。
 少しでも彼に近づきたい。
 そして彼に誉められたい!

 好きな人に誉められたいと思うのはアスカの癖というべきか性格の一端である。
 好意を寄せていない人に、例えその人が総理大臣や大統領であろうが、アスカは誉められても嬉しくもない。
 そのような場合は「当然でしょ!」とばかりに澄ました顔をしてしまうだろう。
 もちろん好きな人に誉められた場合も同じ「当然でしょ!」なのだが、その内面は天地ほどの開きがある。
 後者は照れ隠しに過ぎず、本心は成層圏まで舞い上がって地球を人工衛星のようにぐるぐる回りかねないほどの興奮を示しているのだ。
 そんなアスカだから、ビートルズを通して愛しい少年に誉められたいと思うのも無理はない。
 何しろアスカには物凄い秘密兵器があるのだ。

 碇シンジがビートルズに対して神のような知識を持っていたとしてもそれは日本にいて得られるものばかりのはず。
 アタシにはこれだけの宝物があるのよ!

 アスカは部屋中にあるビートルズグッズを愛しげに見渡した。
 外国で売られているレコードと日本盤が違うことを彼は知らないに違いない。
 日本盤とアメリカ盤をすべてマスターすれば、彼の愛も手に入るのではないか!

 アスカの妄想はどんどん広がっていく。
 ビートルズを1曲覚えればその分だけ彼に近づく。
 彼女は鼻息も荒く、リストを作成し続けた。
 どの曲がどのレコードに入っているかがわかっていないと何もはじまらないのだ。 
 可哀相なことにアスカはベスト盤というものがあることを知らなかった。
 トモロヲが購入した本が発売されたのは昭和47年の10月だ。
 赤盤・青盤と称されるベスト盤がイギリスで発売されたのがその半年後で、もちろんその本に記載されているわけがない。
 そしてその昭和48年にはラングレー家はドイツに住んでおり、アスカが今重点的に調べているアメリカ盤の中には問題のベスト盤は含まれていないのだ。
 ドイツ盤の括りの中にひときわ派手な原色の赤色と青色の2枚組があることはアスカもちらりと見ていた。
 しかし彼女はそのタイトルまで注意して見ていなかったのだ。
 もしも“Beatles 1962-1966”と書かれていることに気がついていれば頭のよい彼女のことだから何かあると感づいただろう。
 だが、彼女は知らない。
 知らないままに、地道な作業を続けていくしかなかったのだ。

 夕食だとトモロヲが呼びにきたとき、アスカは2冊目のノートに書きなおしていた。
 最初に作っていたリストの余白では収まりきれないほどの枚数で収録されている曲もあるのだ。
 そして、よく考えれば一枚一枚のレコードに何が入っているかというリストも必要だった。
 しゃかりきになってリストを作っていた彼女は夕食の時に祖父に言われてはじめて“ながら”をしていなかったことに気づく。
 それほど集中していたわけだが、確かに曲を流しておけば勝手に耳に入ってくるだろう。

「じゃが、気をつけないといかんぞ。レコードに傷でもつけた日にゃ、キョウコにどれほど叱られるか」

「殺されるかもね」

 アスカは冗談ではなく本気でそう言った。
 本を読んだためにあの幼児期の記憶にあったレコードは『イエロー・サブマリン』だとわかった。
 あのレコードを傷だらけにしたときの鬼のような母の形相はおそらく死ぬまで忘れられないだろう。
 ただし、キョウコの名誉のために第三者から付け加えておくと、このアスカの記憶はかなりディフォルメされている。
 何しろ彼女が物心がようやくついた頃のことなのだ。
 確かに怒ったことは怒ったのだが、首を締めたとか頭を叩いたとかのことはなく、逆に怒りを抑えたがために余計に忘れがたい形相になってしまったというわけである。
 だが、キョウコ本人はわざわざ自己弁護などせず、娘視点の思い出話を素知らぬ顔で放置しているのである。
 アスカはともかくとして、夫や父親は何となくそのあたりの事情を察知はしているものの彼女に倣っているようだ。
 
「うむ、気をつけることだ」

 わざとらしく大仰に頷くトモロヲに、アスカはうんうんと何度も頭を上下させた。

「後片付けはアタシがするからね」

「一夜漬けは大丈夫かな?」

「ふふんっ。アタシは天才だから大丈夫!でも、朝起きてこなかったら起こしてね」

「よしきた。しかし、布団で寝ることだ。それとステレオは10時までだぞ」

「音を小さくしてもダメ?」

「ダメじゃ。あのステレオは絞っても結構響くからな」

「だったら、カセットに録音しておかないといけないわね。明日、買ってこないと…」

 アスカが上目遣いに祖父を見ると、彼は知らぬ顔でスプーンを口に運んでいる。
 ちぇっ、出してくれないか。

「まあ、確かにレコードを何度も聴くのはまずいわよね、冗談抜きで傷つけちゃうかもしれないし」

「まったくその通りだな」

 ちぇっ、これでもダメか。

「ああ、でも、困っちゃったな。おじいちゃんと映画に行くんだからお金置いておかないと」

「あれはじいちゃんの奢りだったよな」

 わっ、薮蛇?

「で、でも、ポップコーンはアタシが出す予定だし」

「わしはポップコーンはいらんぞ。歯の間に挟まるわい」

 あの時はそんなこと言ってないじゃない、この耄碌爺い!なぁんてこと、この優しい孫娘が思うわけないわ。
 ……。

「もう、いいわよ。お小遣いで買うから」

「なんじゃ、この爺いに出して欲しくないのか」

 にかりと笑う祖父の顔を恨めしげにアスカは見つめた。
 そして、ぼそりと呟くように言葉を出す。

「お願いします」

「うむ、任せておけ。駅前のSONYに特売で出ておるぞ。JHFを見切り処分しておる」

「じぇい?何それ」

「クロムポジション用のカセットテープじゃ。高音の伸びがいいぞ」

「ああ、そういうの。アタシのラジカセにはそういう高級な機能ついてないから別にいいわよ、安いので」

「いい音楽はいいもので聴かんと駄目じゃ。特別にわしのラジカセを貸してやろう」

「えっ、あの大きくて、重そうで、スイッチだらけで……カッコいいやつ?」

「おお、そうじゃ。あれにはテープセレクトがついておるからの。あれをアスカに貸してやるわい」

「ホントっ?おじいちゃん、大好きっ!」

 眼を輝かせてアスカは叫んだ。
 孫娘の心からの感謝を受けて、トモロヲは少し気恥ずかしくなった。
 実はアスカに今のラジカセを貸し、それを理由にして新しいもっとハイスペックの機種を購入しようと考えていたのである。
 一人で住んでいた頃と違い、娘一家が同居してしまうとあれこれと口出しされるようになってしまう。
 まして新らし物好きなトモロヲの趣味嗜好をよく承知しているキョウコは何かと煩わしい。
 そこで孫をだしにしようという作戦だったのだが、ここまで喜ばれると面映くなる。
 しばらくは新機種購入を見合そうかとトモロヲは決めた。
 もっとも彼のしばらくはそう何ヶ月も先でないことは確かだ。
 惣流家の血筋は気が短いことでも有名なのである。

「録音はこっちのステレオでないといかんぞ。キョウコのステレオのカセットデッキにはクロムポジションはついとらんからの」

「おじいちゃんはホントに詳しいよね。凄いよ」

「う、うむ。まあ、あれじゃ、凝り性じゃからの」

 好きな者に褒められて嬉しいのは、これもやはり惣流家の血筋のようだ。
 トモロヲは緩みそうになる表情を必死に引き締めて、ビーフシチューをスプーンですくった。

「よぉしっ!アタシ、がんばる!今日中にリスト作って全部の曲名を覚える」

「そりゃあ大変じゃ。あまり根を詰めんようにの」

「大丈夫!これ、今日の誓い!へへ、ビートルズにそういう曲があるの」

 力強く宣言したアスカはぱくぱくと食事を進めた。
 後片付けに、入浴、それに数学の宿題も出ている。
 宿題を忘れましたなどとプライドの高いアスカが言えるわけがない。
 そのすべてをこなした上で、ビートルズのすべてを習得するのだ。


 
 
 この日、この町の2軒の家では午前1時を過ぎても照明がついている部屋があった。

 古い町並みの戦前から残っている屋敷では、蒼い目の少女が鼻息も荒くリストの完成を目指している。
 好きな男の子に少しでも近づこうと、彼の大好きなビートルズのすべてを習得するために。

 新興住宅地にある築7年を迎えようとする建売住宅では、少年が机に突っ伏して寝息を立てていた。
 好きな女の子に少しでも近づこうと、彼女の大好きなビートルズの基礎を習得するために。
 一通り覚えたことに安心してそのまま宿題をすることも忘れて眠ってしまったのだ。
 その姿を見て、襖を開けた母親はくすりと笑った。
 どれほど覚えられたのかどうか。
 ビートルズの奥は深いぞと思いながら、ユイは少年を起こすために足を踏み入れた。
 母親としてあのまま寝られた上に風邪でもひかれてはかなわない。

「こら、ちゃんと布団で寝なさい。シンジ」

 ううむ、と身じろぎをするシンジだったが、薄目も開けられない。
 しかしユイは容赦なく、ぱしんとシンジの頭を叩く。

「碇シンジ!布団へ行く!早くしなさい!」

 抑え目な声だが耳元で叱られ、ようやくシンジは細く眼を開けてのろのろと椅子から立ち上がった。
 そのまま布団にたどり着くと端からもぐりこむ息子を見下ろしてユイは微笑んだ。

「I'm Only Sleeping…ってか?」


 午前6時45分。
 孫娘を起こしにトモロヲは襖を開けた。
 アスカはいつまで起きていたのか、ぐっすりと眠りこけている。
 その寝顔を見て、トモロヲは考えた。
 結局、昨晩は曲名のリスト作りに集中していてレコードは1枚もかけず終いだった。
 その勉強の仕方がいかにもアスカらしいかもしれない。
 だが…。

「アスカよ。歌は芸術だぞ。資料を作るより前にその耳で聴かねばな」

 頭のいい孫娘のことだから知識習得は容易にしてのけるだろうが…。
 トモロヲはわずかに胸騒ぎを覚えた。
 
 彼の胸騒ぎは現実のものとなった。
 自宅にあったビートルズのアメリカ盤を基本にしたアスカはやがてそのことで自分を窮地に追い込むことになる。
 その悲劇まではまだ1ヶ月以上余裕がある。
 だが、その悲劇は大いなる幸福に繋がっているのだ。
 そのことを思うと、結局これでよかったのかもしれない。
 ともあれ、ビートルズを好きになることを誓った少年と少女の夜が明けた。



− 4曲目へ続く −


 


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第3回目のためのあとがき

第3回を掲載いたしました。

掲示板で短くなると宣言したそばからこの長さ…。
つい書き込んでしまうのはやっぱり癖ですね(苦笑)。
ただ、テンプレートのゲンドウやユイで書くわけにはいかないんですよね。
エヴァの彼らはあの世界だからこそのキャラクターなのですから。
この世界での彼らは少し違う性格になっていてもおかしくはない。
といいますか、同じじゃおかしいんですよ。
ということで、つい書き込んでしまいます。
以上、言い訳(笑)。

さて、この時点でネタバレしておきます。
この話はアスカが日本盤のビートルズを知識でしか知らないということが問題となります。
そして、日本人であるシンジたちはアメリカ盤の事を詳しく知りません。
そこが問題となっていきますが、その話はB面に裏返してからです。
まあ、この話は謎を解くことが目的ではありませんので。
ただし、ビートルズにかなり詳しい人は楽しみにしてください。
ああ、あれかと含み笑いしていただければ幸いです。

何しろこの昭和55年にはインターネットもなければ、そこまで詳しい研究本もありません。
だからこそ“おはなし”になるわけです。
では、ビートルズの夜明けを迎えた二人の次の話をお待ちくださいませ。

ジュン

 

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