「こらっ、早く帰ってこいよ!残業とか夜遊びとかしてんじゃねぇだろうな!」

 青葉シゲル先生は受話器を叩きつけるようにして電話機に置いた。
 そしてもう何度も聴き返しているカセットを再生させる。
 演奏間違いをするイントロを聴いて漏らす嘆息はもう何度目か数え切れない。

「しっかし、すげぇよなぁ。あ、でもこれ海賊盤ってことないだろうな。う〜ん、ジャケットも拝ませてもらうべきたったか…」

 短縮番号など影も形もない時代であり、ダイヤルはひとつづつ回さないといけない。
 10回以上ダイヤルしているのでもう番号は記憶していたが、ダイヤルが戻ってくる間隔がもどかしく青葉先生をいらいらさせた。
 そもそも電話の相手は青葉先生とはまったく面識のない人間だ。
 大学の同期でサークル仲間だったその男に連絡し、彼の友達でバンドをやっていた男を紹介してもらい、さらにその先輩でビートルズのコピーバンドをやっていた男の連絡先をようやく聞き出したものの、操作の糸はそこでどこに隠れたものか見えなくなってしまったのである。
 大学時代にその男は金持ちのボンボンの親のすねかじりだがそんなに悪い男ではなく、その潤沢な資金でビートルズ関連のレコードや文献、資料を収集していて、博物館並みの所持アイテムを誇り、そしてまたその知識量もとんでもないものだと青葉先生は聞いている。
 大学時代にビートルズ好きなら紹介してやろうかと声をかけてもらったにもかかわらずブルジョワな彼の素性に反感を持ち遠慮したのだが、青葉先生の知る限りではその男が頼みの綱なのだ。
 時間があれば東京に出て行き、専門のレコード店などに足を運べば正解を得ることができると確信している。
 しかし明日の朝までと伊吹先生に期限をつけられている以上、これしか手がないのだ。

「出ろ!出ろ!出ろ!出ろ!……お願い、出てちょうだいよ……」 




33回転上のふたり


B面 3曲目



ー We Can Work It Out ー



 2012.7.7        ジュン

 
 


 


 布団は押入れに片付けられていた。
 最初はそのまま就寝仕様に変更して敷いてしまおうかとも思ったのだが、今すぐに眠るわけではないので部屋の真ん中にどんと布団が広がるのは目障りだし、さりとて滅茶苦茶のままに小山状にしておくのは布団に皺が寄ってしまう。
 そこできちんと畳んで仕舞ったのだが、片付けながらこういうことが気になる自分の性格に惣流アスカは苦笑していた。
 あれほど泣いたのに喉は痛くない。
 ただ目の周りや頬がひりひりして気持ちが悪い。
 顔を洗いたいのだが、それには廊下を移動する必要があり、みっともない顔を祖父に見られてしまう可能性がある。
 部屋で泣いていたことは絶対にばれているはずだが、それでも乙女としては当然の心理だ。
 机に頬杖をつき、溜息を何度もくりかえすアスカが見ているのは一枚の写真である。
 それはあの時屋上でケンスケが写した記念写真だった。
 どうしてもっといい笑顔で写らなかったんだろう、アタシは…。
 ぎこちない笑顔というよりも引きつっている。
 もっとも引きつった笑顔は写っているものすべてに共通しているので、アスカ一人が目立っているわけではない。
 写っている全員がそれぞれ同じ写真に好意を持つ異性が存在し、そしてそこにいるのがわずか4人であるという設定が彼らみんなの笑顔を不自然にさせたわけだ。
 アスカは恐る恐る碇シンジの顔を見た。
 彼もまたいつもの愛想笑いさえ浮かべることもできず、目線もカメラを避けているように見える。
 どうしてこうなっちゃうんだろうな、馬鹿シンジは…。
 あんなにいい笑顔をすることができるのに、愛想笑いしか人に見せない。
 いやいやいや、そんなことはないはず。
 家でまで、家族の前でまで、愛想笑いなどするわけがないではないか。

 きっと2馬鹿相手には見せているんだよね。こんなに仲良くなってるのにアタシには一度も見せてくんないのって…。

 また鼻のあたりが熱くなってきて、アスカは写真から目を離し天井を見上げた。
 するとお腹の辺りの筋肉が伸びたせいだろうか、きゅぅっとお腹の虫が鳴った。
 こんなに悲しいのにお腹は空くんだなと溜息を吐く。
 そもそも晩御飯は自分の当番だったのに完全に放り出してしまっている。

 おじいちゃん、ごはんどうしたんだろう…。

 ずっと一人暮らしで自分で作っていたのだから大丈夫のはずだと思おうとしても気になりだすと責任感の強いアスカとしては確かめずにはいられない。
 だがやはり今顔を合わすのは避けたいという気持ちも強く、彼女は椅子から腰を上げることができなかった。
 その時、廊下の襖越しにチャイムの音が聞こえた。
 時計を見るともう8時過ぎだ。
 こんな時間に誰だろうか、まさかシンジがと一瞬期待してすぐに打ち消す。
 彼は自分のことをそんなに思ってはくれていないのだ。
 そしてもう何度目かもわからないほど出し続けた溜息を漏らしていると、廊下に足音が聞こえた。

「おい、そばが届いた。わしは茶の間にいるからな。そばがのびるからさっさとこい」

 ぶっきらぼうな言葉を残してトモロヲは茶の間の方へと歩いていったようだ。
 どうしようかと思ったが、腹の虫をこのまま鳴かし続ける訳にもいかず、それに祖父が茶の間なら顔を洗いにも行けよう。
 アスカは襖を開け、そして廊下の様子を伺い人気がないのを確かめてから洗面所に向かって駆けていった。
 鏡の中の顔は無残なものだったが、じゃぶじゃぶと何度も洗っていくうちに肌はしゃっきりしたような感じがする。
 タオルで顔を拭いた後、軽く両頬を手で叩き気合を入れたアスカはのしのしと茶の間に歩いていった。

「ああっ、おそばじゃないじゃない!」

「うむ、のびてはまずいからな。お前は天丼じゃ」

「ぐふぅ」

 トモロヲはそばを啜るのをやめ、孫に座るように促した。
 
「今日はお前の当番じゃったからな。さぼった罰で、これはお前の奢りじゃ。小遣いから差っぴいとく」

「えっ。って、これもしかして特上じゃないの?」

 天麩羅の、特に海老の大きさを見てアスカは不満の声を上げた。

「そりゃあ、店屋物を取るなど滅多にないことじゃから奮発せんとな」

 嘯きながら、トモロヲは箸で大海老天をつまんで「こりゃあ大きいのう」と笑顔を浮かべる。
 その姿を見て思わず笑ってしまったアスカは丼のふたを開けた。
 ふたから尻尾がはみ出ていた海老天を見ていったんは小さく歓声を上げたアスカだったが、祖父の天そばの方が一回り大きいのを見て文句を言う。

「おじいちゃん、のびるからじゃなくて、海老の大きさでどっちか決めたんじゃないでしょうね」

「知らんの。ほれ、早く食べい」

 膨れっ面をしながらアスカは箸をつけた。

「美味しいっ。どうやって揚げればこんなのになるの?悔しい」

「そりゃあ向こうはプロじゃからの。プロはお金を貰えるようになるまでに苦労を積み重ねとる」

「でも天才料理人だったとか?」

「それならこんな町にはおらず世界に羽ばたいておる」

「天麩羅で?世界に?」

 混ぜっ返すとトモロヲはじろりと睨みつけ、ずるずるとそばを啜った。
 これだけ喋れればまず大丈夫じゃろう。ただ、喋りすぎじゃの。年寄りを安心させようと無理しておる。
 問題は、男、か。
 はてさて、この孫娘、どういう男に惚れよったものか。




 シンジはインターホンを押すのを少しだけためらった。
 赤木小児科医院に一人で訪れたことはないし、それももちろん病院の方の玄関から入るのが常だった。
 しかも最後に診察を受けたのはいつのことだったか。
 赤木先生の印象は悪くはなかったが優しいという感じは受けなかった記憶がある。
 それでもあんなに嫌いな注射で泣かなかったということは冷徹な対応をされなかったのではないかとも思う。
 いずれにしても母親と個人的に知り合いだったということには驚いた。
 ただ歳も変わらないのに“ばあさん”とはどういうことなのだろうか。
 彼は病院の裏手にあった、赤木という表札がかかった玄関のチャイムを押した。
 するとまるで警報のような音が鋭く響き、指を離すと音はすぐに消えたがそれでもシンジの肝を冷やすには充分だった。
 打てば響くという形容がぴったりなほど素早さで奥から足音が聞こえ扉が開かれる。
 姿を見せたのは3年生の赤木リツコで、シンジはどぎまぎしてしまった。
 制服以外の彼女を見たことがなく、Tシャツにジーパンというカジュアルな格好だからよけいに新鮮に目に映ったのかもしれない。

「いらっしゃい。あら、どうしたの?」

 玄関の灯りに浮き出た訪問者の顔を見て、当然のごとく質問が出てくる。
 シンジは用意していた言葉を出した。

「ちょっと転んじゃって」

「今?」

「いえ、学校で」

「そう…。どうぞ。母が待ってます」

「あ、あの、夜分遅くごめんなさび」

 遅くなった挨拶を慌てて返したので語尾を噛んでしまったシンジは赤面し、その後リツコに導かれ家の中に入ってからも言葉が出せなくなってしまった。
 案内されたのは食堂でそのテーブルには赤木先生が食事をしているところだったので、シンジは咄嗟に挨拶よりも先に手にしたビニール袋を差し出した。
 
「なに、これ?」

「あ、あの、餃子です。母から。明日まで大丈夫。あ、冷蔵庫で、ですけど」

「うおっ、嬉しいわね。ねえ、リツコ、焼いてくれない?」

「駄目よ。今日はお魚。明日にして」

「ちぇ。じゃ、冷蔵庫で保管、保管」

 シンジから袋を受け取るとリツコは母が指差す冷蔵庫へ歩んだ。

「ほら、シンジちゃん。座りなさい。大丈夫よ、今日は注射しないから」

「あ、はい」

 促されるままに着席したシンジは見るとはなしに赤木先生の晩御飯の献立をチェックする。
 鰯を焼いたお皿に大根おろしが添えられているのがメインで、ほうれん草のお浸しの小鉢に漬物、それに味噌汁というごく普通の晩御飯だ。

「ごめんね、食べられるときに食べないといけないのよ。医者っていうのは因果な商売だからね」

「あ、ごめんなさい。勝手に押しかけてきて」

「いいのよ、碇君。緊急の往診とか急患なんて週に一二回ってところだから」

「リツコったら。そこは毎日のようにって言っておきなさい。本当に融通が利かないんだから、あなたは」

 それでもシンジは驚いてしまった。
 ということは一週間に一度はあるということではないか。
 
「それに本当に差し迫っているときはうちでは手に負えないから救急に案内するしかないのよ。ほとんどが薬屋さんみたいなもの」

「そんな言い方しないの。親からすると子供の病気は大変なんだから。ただの風邪でも手遅れになるんじゃないかって必死になるのよ」

 言葉の途中からはシンジに向かって話しかけていた。

「あのゲンの字だってあんな風体してるのに血相変えて電話してきたのよ。覚えてる?ずっと前のこと」

 覚えてませんとしか答えようがないシンジは、父親のことを“ゲンの字”と呼ぶことの方に驚いた。
 
「母さん、電話で血相なんてわからないでしょう」

「わかるって。せっかくの日曜の夜にすぐ来い飛んで来いですからね。私が飛行機を用意するよりもあなたがおぶって市民病院に走るほうが早いって言ってやったら、なんて言って電話を切ったと思う?」

 いきなり質問されて慌てて答えたのが、先ほど家で散々聞かされていた単語だった。

「……ばあさん」

「惜しい!糞ばばあ、よ、糞ばばあ。同い年の癖してね。失礼と思わない?」

「あ、そうなんですか?」

「母さん、食事中にやめてよ」

「あなたはずっと前に食べ終わってるじゃない。母さん一人にさびしく食事させてる癖に思いやりがないわね。あ、ゲンの字とは幼馴染なのよ、私。知らなかった?」

 シンジは驚嘆していた。
 特に早口で喋っているわけでもないのにとんでもない情報量がその口から飛び出してくる。
 さらに相手が二人の上に、食事もきちんと進めているのだからたまらない。

「は、はい、知りませんでした」

「そんなに硬くならなくても注射なんかしないって言ってるでしょう。ふふふ。あ、リツコ、お醤油」

「駄目よ。母さんはかけ過ぎなんだから。医者の不養生って言葉、知ってるでしょう」

「もう、このケチ。あなたなんかお嫁に行けないわよ」

 ぽんぽんと飛び出す言葉の応酬にシンジは目を丸くしていた。
 碇家では母親だけは言葉の奔流をみなに浴びせかけるが今のところ同じ勢いで言い返すものはいない。
 父親とシンジがたまに言い返すことはあっても短い言葉に過ぎず、しかもさらなる言葉が飛沫のように返ってくるのだからすぐに黙ってしまう。
 レイがもっと大きくなればもしかすると赤木家のように母親と対峙するのかもしれないが、現状ではユイの一人天下である。

「あら、珍しい。いつもならそこで『お嫁なんかいきません』なのに、今日はどうしたの?シンジちゃんの前だから?もしかしてシンジちゃんに興味があるの?」

「ないわ。全然」

 きっぱりと言われて少し残念な気持ちになってしまうのは悲しい男の性だろうか。

「まあ、もったいない。ゲンの字とユイさんの子供よ。今のうちに唾つけといたらいい買い物になるわよ」

「人間は売り物ではありません。それに私は碇君に男性的な魅力を感じませんから」

「きついわね。本人を前にしてそんなこと言う?ごめんなさいね、シンジちゃん。こういう子だから許してくれる?」

「あ、いえ、僕なんて」

「まあ、ゲンの字そっくりね。はい、ごちそうさま」

 手を合わせた赤木ナオコ先生がお皿を片付けようとするが、リツコが横から手を出し「母さんは碇君の話を聞いて」とさっさと食器を流しに運んでいく。
 その姿を横目で見ながらナオコは上体を伸ばしシンジに小声で告げる。

「ね、見かけと違ってものすごく家庭的な子なのよ。どう?」

 どうと言われても返事に困る。
 シンジはお決まりの愛想笑いを浮かべたが、それがナオコには面白かったようでクスクスと笑い出す。

「あらまあ、ゲンの字と同じかと思ったら少しはユイさんも混じってるのね」

「母さん、後輩をからかわないでくれる?ちゃんと話を聞いてあげて」

「でもね、ゲンの字そっくりなのよ。頬の痣なんて、思い出しちゃうわね。まあ、それくらいなら二三日で目立たなくなるでしょう」」

 ナオコが何も言わないので不思議に思っていたが、口に出してないだけでしっかり診ていたんだとシンジは凄いなと感じた。

「で、勝った?負けた?ちゃんとやりかえした?」

「あ、いえ、その…、これは喧嘩じゃなくて」

「学校で転んだそうよ」

 リツコが言い訳をそのまま伝えてくれたが、ナオコはにたりと笑った。

「最近の学校の床には握り拳が生えてるのかしらね。まあ、そういうことにしておきましょうか」

「あの…父さんもよく?」

「小学校のときは多かったわね。中学のときは時々。高校は向こうは男子校で私は女子高だから知らない。何しろあの背格好に無愛想だから悪目立ちしてね」

 そういえば母親の女子高生当時の写真は見たことはあったが、父親のほうは結婚写真が一番若いころのものだった。
 だから、父親の学生時代など想像したこともなく、ナオコの話が新鮮に聞こえた。
 もっと話を聞いてみたいという気持ちもあったが、今はそれどころではない。

「えっと、実は…」

「ごめん。コーヒー入れて。シンジちゃんは何がいい?好きな飲み物リクエストしていいから。リツコはできる子だからなんでも大丈夫よ」

「え、あの、何でもいいです」

「碇君、話を始めて。母さんのペースに合わせてたら時間が経つだけよ」

「あ、はい。じゃ…」

 事件の経過については整理しておいたから順序だてて喋ることができる。
 その見返りとして3教科あった宿題のうち仕上げることができたのは1つもないのだが、碇シンジ、生まれて初めて自発的に宿題を忘れていってもいいと決意していた。
 驚いたことに話を始めると、赤木ナオコ医師は身を乗り出してきて目を輝かせながら聞き入っているではないか。
 少しは予想していたのだが間違いなく彼女はビートルズファンなのだろうとシンジは確信した。
 シンジはアスカの名前は出さずにビートルズが大好きで何でも知っている女子だとしか言わなかった。

「…そこでその女子がこう言ったんです。どうして編集したのか。演奏ミスでも…」

「もういいわ」

 話の途中でさえぎられてシンジは驚いてしまった。
 これだけでわかるのか?この人は神様なのか?ビートルズの神様なのか?

「つまらないわね。それだけのこと?もっとすごいことかと期待しすぎたわ」

「あ、あの…、もうわかったんですか?」

「だって『I'm looking through you』の…ああ、ユイさん風に言い直すと『君はいずこへ』のイントロのことでしょう。簡単すぎるクイズだわ」

「クイズって…」

 今日の騒動を単なるクイズ扱いされてしまい、シンジは少なからず鼻白んだ。

「母さん、そんな言い方したらかわいそうじゃない。ごめんなさい、碇君。この人、ビートルズ絡みになると少しエキセントリックになるの」

「えきせ…?」

「簡単に言えばおかしくなるって意味。ほら、答えてあげてよ、母さん」

 その時、シンジはこれまで抱いていた赤木リツコのイメージが全然本人とは違うものだったのだと悟った。
 冷徹で合理的で男子には甘い顔一つ向けないという印象はシンジだけでなくほとんどの生徒が感じていたものだ。
 しかし赤木家を訪問してからの彼女の言動を見ていると、そう、優しいお姉さん、そのものではないか。

「だってさ、リツコ。おかしいじゃない。シンジちゃんがここまで来たってことはユイさんでは解決できなかったってことじゃない?」

「あの…、母さんには何も話してません。というか、話そうとしたら、えっと、輸入盤の話って言ったとたんに…」

 “ばあさん”に聞けと言ったとまではもちろん言うはずもない。
 いくら鈍感&素直で定評のあるシンジであってもそれくらいの気配りはできるのだ。

「そうよね。ユイさんは輸入盤がお嫌いだから」

 ナオコは我勝てりといった風情でにやにや笑った。
 これはこの二人の間でビートルズの輸入盤に絡む揉め事か何かがあったに違いないとシンジは推理した。
 ただ揉め事があった割には、餃子をお裾分けしたりシンジちゃんと呼んだりとかで仲が悪いようには見えず、彼は大いに戸惑ってしまった。
 だが、それよりも何よりも、まずアスカの謎をしっかりと解明しないといけないではないか。
 シンジは勇気を振り絞ってもう一歩踏み込んだ。

「じ、じゃ、やっぱり輸入盤に謎が隠されているんですね!」

「ふふふ、謎って、別に謎でもなんでもないわよ。そこにあるのはただの事実。ユイさんが知らないだけ」

「で、でも、青葉先生も知りませんでしたし。あんなにビートルズに詳しいアスカ自身が知らないんだから」

 シンジはぽろりとアスカの名前を出したが、ナオコは当然のことながらその名を耳にもとめずにユイのことに会話をつないだ。

「庇うわね。でも当然か。ゲンの字といい、シンジちゃんといい、そんなにあの頑固者が好きなのね。うらやましい」

「す、すみません」

 急にトーンが落ちたナオコに歩調を合わせてシンジも早口大声(彼としては)から普段の口調に戻す。

「答は教えてあげる。その代わり、おばさんの愚痴を聞きなさい」

「ぐ、愚痴?」

「リツコ、コーヒーおかわり」

 すでに準備していたようでリツコは湯気の出ているコーヒーカップを空のものと交換した。
 シンジの紅茶はまだ半分以上残っているので大丈夫だと目算し、そして彼女は彼の耳元で囁いた。

「ごめんね。聞いてあげて。息抜きしたいの、きっと」

 うんうんと頷いたシンジだったが、それはリツコの息がくすぐったかったからだった。
 思春期を迎えてこんなに近くに異性の身体を感じたのは初めてだったのだ。

「こら、リツコ、何をこそこそ言ってるの」

「お酒も飲んでいないのに酔っ払っているみたいよ、母さん」

「母さん、母さんってうるさいわね。あなたの方が母親みたいじゃない」

 こういう親子のやり取りもいいもんだなぁとシンジは感じていた。
 とにかくアスカの件に関しては答えをもらえそうだと安心したせいもあるだろう。
 赤木医師の話を聞いてもいいかと彼は思ったのだ。

 それから30分余が経った頃、彼は両親の秘密を知ってしまい愕然とした。
 とかく子供は親の青春時代にはそれほど興味を持っていないものだ。
 そういう部分に関心が出てくるのはえてして自分が親の年代に達した頃である。
 青春真っ盛りの彼らには若かりし親たちの話というものは面映いだけだった。
 したがって、シンジはかなり上気した表情でナオコの話を拝聴する羽目になったのだ。

 なんと幼馴染だった二人の間に割って入ったのがユイで、ゲンドウが若い方をとったのだとナオコは言う。
 それじゃ、二人は付き合っていたんですかとシンジが青ざめた表情で訊くと、ナオコはあっさりと首を横に振った。
 ゲンドウは何度告白してもお前と愛は語れんと突っぱねていたそうだ。
 拒否するにしてもその断り方は何なんだとシンジは開いた口がふさがらなかった。
 あの父親がそんなことを口にしたとは到底信じられないが、ナオコは1億円賭けてもいいと主張するのだから本当のことなんだろう。
 それでもチャンスをうかがうこと10年。
 その日も六分儀レコード店の店番をしているゲンドウにナオコはからんでいたらしい。

 自分ひとりしかいなかったために逃げ出すわけにもいかず、苦い顔をしてカウンターに座っていたそうだ。
 若きナオコは頼みもしないのに店のBGMとしてレコードを鳴らしていた。
 もちろんそれはビートルズでだった。
 時に昭和39年。
 東京オリンピックを控え活気に溢れていた東京の、とある医大からナオコは夏休みのため帰省していた。
 その時、すでにビートルズファンだった彼女は問題のレコードを入手していたのである。
 そのレコードとは『A Hard Day's Night』。
 ナオコは眉をひそめるゲンドウを尻目にそのレコードをかけ続けた。
 東京の下宿では大きな音では楽しめないし、それは実家でも同様だった。
 ロックなど聴こえると患者の子供たちが泣くと親からきつく戒められていたのである。
 だから、六分儀レコード店で楽しもうという考えと、ビートルズなどの音楽が嫌いなゲンドウをからかうための一石二鳥を考えてA面からB面、そしてまたA面へと何度も流し続けたのだ。
 ところがそのような彼女の行為が、延いてはこの物語を生んだのである。
 防音設備が完備されておらず、どちらかというと客引きの意味も兼ねて、店で流す音楽はそれなりに表にも聴こえるようになっていた。
 そして、『This Boy』B面の4曲目が流れているとき、彼女は店に飛び込んできたのだ。
 白いセーラー服を着た女子高生は扉を勢いよく開けてカウンター目がけて突進して来た。

「このレコード!くださいっ!」

 そう、もちろん彼女が碇ユイ、その人である。
 当然のことながらカウンターの六分儀ゲンドウは驚いてしまって言葉も出ない。

「あ、ごめんね。これ売り物じゃないのよ」

「おばさん、お店の人ですか?」

「違うけど」

「違うのなら黙っていてください。あなたがお店の人ですよね。そうですよね」

 カウンター越しに身を乗り出してつめ寄られたゲンドウは頷くしかなかった。
 
「じゃ、このレコード売ってください!いくらですか?」

「だから、売り物じゃないの」

「うるさいわね、おばさん」

「さっきからおばさん、おばさんって失礼な子ね。あなた、江波女よね。何期?」

「だから、お店の人じゃないんでしょう。関係ないじゃないですか。口出ししないでください」

「口出しします。私も江波女の卒業生なの。で、このレコードは私のなの。わかる?」

「そうですか、それは失礼しました」

 若きユイは丁寧に頭を下げた。
 隣町にある江波女学院は躾に厳しい由緒ある女子高なのだ。
 先輩に対しては礼儀正しくしないといけないために、ユイは頭を下げた。
 しかし必要以上にぐっと下げたものだから、これは下げられたほうがカチンとくる。

「で、後輩さんは今何年生?1年?あ、まさか中等部とか」

 わざと若く見積もっているのがありありとわかり、ユイは憤懣のために頬を赤くした。
 背伸びをしたい年頃では若く見られるのは屈辱以外の何者でもない。

「2年です、2年!高等部2年!」

 誕生日が3月31日という学年ぎりぎりに近い領域であることは絶対に口にすまいとユイは決めた。
 発育上は充分同級生と比べて劣ってはいないという自信はある。

「そう、じゃ50期生ね、おめでたいこと」

「先輩は何期ですか?」

「私は46期。今、医大の3回生なのよ。もう忙しくて」

 忙しい人間が何をレコード店で油を売っているのかと油性の極太マジックで表情に出したまま、ユイは慇懃無礼に言った。

「あ、聞いたことがあります。先生から聞かされました。わが校で初めて帝国医科大学に合格した、名前は…、赤城山ナオコ先輩でしたよね」

 このアマ、わざと間違えやがったな。

「赤木ナオコ。山は要らないのよ。これだから田舎の子は山にこだわって困るわ」

「うちの家は京都のお公卿さんでお姫様の行儀作法教授のためにわざわざこんな草深い土地まで来てあげて、明治維新のときに…」

「ああ、知ってる、知ってる。お殿様に幕府を裏切るように進言した、いかりや長介だっけ」

「碇真澄です。このあたりを戦場にしなかったのだから褒められこそすれ…」

 ちっ、このお嬢、いかりや長介知らなかったのか。言い間違えても意味ないじゃない!
 (註:この時期彼の名はほとんど知られていない)
 この子、田舎ものだと思ってたら、けっこういいところの出じゃないの。悔しい。
 
「それじゃ、レコード屋さん。これと同じレコード売ってください」

 カウンターの中へ顔を突き出して迫るユイにゲンドウは耳のあたりを赤くしていた。
 その赤みを見て、ナオコは激怒した。
 こいつ!こんなガキを女として意識していやがる!
 私の誘いには全然のってこないのに、何よ!

「ふふふ、残念ね、お嬢様。このレコードは六分儀レコード店なぞじゃ到底買えないの。取り寄せもできないわ」

「何言ってるの?このレコードがあなたのでも、新しいのを取り寄せできるでしょう?」

「それができないの。ほら、これを見て」

 ナオコは自慢げにレコードのジャケットを出した。
 それはユイが見慣れている『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』のジャケットではなく、見たこともない赤色をバックにビートルズのメンバーの鼻から上の写真を4枚田圃上に並べたものだった。
 輸入盤というものを知らなかったユイは愕然とした。

「私はこれを渋谷で買ったの。アメリカ盤よ。イギリス盤のほうは日本と同じだから意味ないの。こっちはサウンドトラックの演奏も入っているから貴重なのよ」

 それは承知している。
 ユイは『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』を映画館で都合5回見た。
 だからリンゴが町を彷徨う場面で流れた曲に鋭く反応して通りすがりのレコード店に飛び込んでいったのだ。
 
「『This Boy』以外にもサントラはいっぱい入っているのよ。ビートルズファンなら当然持ってないといけないわよね。渋谷のお店の人の話じゃ北海道から買いに来た女の子もいたそうよ」

 今度の言葉は相手の琴線に見事にヒットした模様だ。
 ユイは唇をかみ締めると肩を細かく震わせた。
 あ、言い過ぎちゃったかなとナオコが反省したとき、ずっと黙っていたゲンドウが口を開いた。

「問題ない。俺が手に入れてきてやる」

 きっぱりと言い切った彼は鼻息も荒く何度も頷いたのだった。
 そんな彼に対し、ユイは鞄から手帳を出し自宅の電話番号を記すと涙で目を潤ませながら感謝した。
 いつまでも待ちます、ありがとうございますとゲンドウの手を握りレコード店を出て行った。
 最後に扉のガラス越しに彼めがけ手を振ったとき、ナオコの勝負は終わってしまったのである。
 その瞬間、ゲンドウは完全に初対面の女子高生相手に恋におち、なんと向こうもそれに応えてしまったのだ。
 無愛想で無口でハンサムとはいえないゲンドウを好きになる人間などこの自分だけだと思い込んでいたナオコは、もしかすると世界でたった一人の恋敵かもしれない女性を自分から呼び込んでしまったわけだ。

 シンジは呆気にとられてしまっていた。
 まさか二人の出逢いと恋愛を取り持ったのがビートルズだったとは。

「あ、あの…、つまり、赤木先生が母さんと父さんを出逢わせてくれたってことになりますよね」

「そうなのよ!悔しいったらありゃしない」

「えっと、あの…、ありがとうございます」

「そうよね、シンジちゃんからすれば、そうなるわよね。あの時、私がゲンの字をからかうために何度もレコードをかけ続けてなかったら…」

「だったら、碇君だけでなく私も生まれてこなかったかもしれない。勘弁して頂戴。私、けっこうこの人生楽しいのよ」

 リツコが言葉を挟んできた。

「そりゃああなたはそうでしょうけど。私は…」

「やけになって同期の医学生と同棲して私が生まれて、大喧嘩して別れて、私をおじいちゃんおばあちゃんに預けて猛勉強。苦学の結果、おじいちゃんのあとを継ぐことができました。よかったじゃない」

 うわ、そんな秘密を僕に聞かせていいんですか!
 シンジはものすごく居心地が悪くなった。
 しかし、リツコは悪びれずに彼に向かって言った。

「別に秘密になんかしていないのよ。友達はみんな知っているわ。このことで私を避ける人はそういう人だと思っているしね」

 ふっと笑ったリツコは今度は母親に向き直る。

「さあ、母さん。教えてあげてよ。約束でしょ」

「仕方ないわねぇ。ま、すっきりしたから、感謝の気持ちをこめてってところね」

 それからナオコは『君はいずこへ』のことを話してくれた。
 彼女も実際に曲を訊いた事はなかったが、雑誌などの情報で知識として持っていたのだ。
 あの曲はアメリカ盤のステレオ仕様のものだけが、イントロ部分がオリジナルと違うのであった。
 イントロを明らかに弾き間違え、そしてやり直し、さらにもう一度やり直している。

「アメリカ人はあれを聴いてる人がほとんどだからそれで正しいと思っているわよね。コアなファンならいざ知らず、普通のファンならわざわざ他の国のレコードを買うなんてしないもの。アメリカ人ならよけいに」

 なるほど、だからアスカは他のバージョンを知らなかったんだとシンジは納得した。
 ということは、この事実をみなに知らせれば絶対に誤解は解ける。
 シンジは思わず拳を握って「よしっ」と小さく声を漏らした。

「あ、シンジちゃん、お願いがあるの。そのアメリカ盤を聴いてみたいのよ。お礼はそれでいいわ」

「母さん、自分からお礼を要求するなんて失礼この上ないわ」

「いいじゃない。いいよね、シンジちゃん。ああ、レコードそのものなんて言わないから。おっ、もしかして…。いやさすがにそれはないか」

 期待と失望を瞬時に切り替えたナオコはさらに付け加えた。

「録音したテープでいいから、その子にお願いしてくれない?それとブッチャーカバーあるかって訊いてもらえる?」

「ブッチャーカバー?」

「そう。あ、それが何かって説明すると長くなるし、もともとそんな可能性は限りなくゼロに等しいから、質問するだけでいいわ」

「は、はい…」

 シンジはとりあえずアスカに打診だけはしてみようと思った。
 自分もその『君はいずこへ』のイントロを聴いてみたい。
 頷いた彼を見てナオコは「よろしく」と言い残し立ち上がり廊下へ出て行った。

「仮眠する。10時に起こして。それからお風呂」

「わかった」

 そして食堂にはシンジとリツコの二人きりとなった。
 先ほどひょんなことで赤木先輩に異性を感じてしまったシンジはそれが恥ずかしくお礼を言って早々に退散しようと思った。
 壁の時計はもう9時30分を回っている。

「たった30分でも熟睡できるのよ。すごいわね、お医者さんは」

 淡々と喋るリツコだったが、その表情は柔和で学校で見るような堅苦しさは感じられない。

「あの…」

「碇君、ちょっといいかしら。訊きたいことがあるの」

 シンジは頷かなかった。
 拒否という意味ではなく反応が遅れただけだったが、リツコは素知らぬ顔でさっさと廊下へ出て行った。
 そして階段を上っていったので、残されたシンジは困ってしまったのである。
 しかしこのまま勝手に家を出て行くわけにもいかず、文字通り恐る恐るといった様子で彼も階段を上がるしかなかったのだ。
 階上のリツコはもう部屋の中に入ったようで扉が大きく開き照明が廊下に漏れている。
 シンジも思春期の男子の一人だ。
 こういうシチュエーションにはどきどきしても当然である。
 そもそも中学生になって女子の部屋に入るなど初めてのことで、しかもその部屋の主は第壱中学でも指折りの美人で有名なリツコなのだ。
 いくら意中の人がいて、さらにその人のために奮闘している最中とはいえ、桃色的想像をしてしまっても仕方がない。
 ただし結論から言うとそんな想像は想像に過ぎず、リツコにはそういう意図はこれっぽっちもなかったのである。
 扉を閉めてと言われ慌てふためくシンジを見てようやく状況に気づいたほどである。

「安心して。さっきも言ったように君には魅力を感じていないから」

 いかに自分に自信のないシンジであってもこうも明言されると傷ついてしまう。

「はあ…」

「閉めるのは母さんに聞かれたくないから。閉めたら、どこか適当に座って」

 言われるままに扉を閉めたシンジは部屋を見渡した。
 思わず目をぱちくりしてしまったのは、いかにも女子の部屋といった様子にびっくりしたからだ。
 パステルカラーのカーテンの下にあるベッドには大きな猫のぬいぐるみ。
 学習机や本棚はきちんと整理されていて、そのところどころに可愛い置物が見える。
 ただ本棚にはびっしりと単行本や文庫本が並べられていて、そこだけは才媛として名高いリツコらしさが窺える。
 ところがその本棚の最下段には大型の絵本や小学生用の図鑑なども見え、中上部とのアンバランスさがかえって際立っていた。
 リツコは学習机の椅子に座り、シンジが座るのを待っている。
 ベッドに腰掛けるなど論外だろうから、彼は結局畳に正座した。
 するとリツコは慌てて椅子の背に置いていたクッションをシンジに使ってと渡した。

「ごめんなさい。男子だから胡坐をかくかと思ったわ。碇君はお行儀がいいのね」

「そうですか?」

「だってミサトなんてスカート履いてても胡坐だもの。部屋、変?」

 座ってもまだきょろきょろしているシンジに対して質問したリツコの表情は少し硬かった。

「あ、いえ、ごめんなさい。女の子の部屋って知らないから」

「そうなんだ。まあ、ミサトの部屋に比べたらすごくきれいだと思うけどね。ミサトは男の子みたいに汚いから」

「そうなんですか?あ、でも、男子の部屋でもそんなに汚いやつって少ないですよ。ケンスケなんてあんなにものが多いのに結構整理して……るし……」

 シンジの語尾はフェードアウトした。
 それほどリツコの吸った息が大きく聞こえたからだ。
 タイミング的にケンスケという名前に反応したとしか考えられないが、シンジにはどうもその関連がつながってこない。
 確かに友人から聞いた話では、写真部と演劇部は仲がいいらしい。
 しかし、演劇部部長で3年生のリツコが2年生のケンスケの名前に反応するのがどうにも理解できなかったのだ。
 その後リツコが何も言わないのでシンジが少し考えて、まさかと思った。
 シンジは加担していないが、ケンスケとトウジが女子の写真を売っていることは知っていた。
 そして演劇部副部長はその企てに対し実に協力的だとも聞いている。
 だが、このリツコが協力的だとは思えないし、知っていれば説教をし止めさせるのは間違いないだろうと思う。

「あの…、まさかケンスケに変な写真かなんかを撮られて困ってるとか…」

 おずおずと切り出したシンジだったが、彼の心配は杞憂に終わった。
 まさしく一笑に付されたのである。
 
「ごめんなさい。笑ってしまって。脅迫とかそういうのじゃないから。全然違うわ。くくくっ、おかしい」

 リツコは机に突っ伏すと拳で軽く天板を叩いた。
 もしかするとこれが赤木リツコという女性の最大級の爆笑なのかもしれないとシンジはなんとなく思った。
 実際に母親も似たような笑い方をするときがあるからだ。
 その経験からするとしばらく放置するしかないんだろうなと思ったものの、彼は時間が気になって仕方がない。
 こんな夜遅くにまで先輩とはいえ女子の部屋にいることがどうにも居心地が悪いのである。
 しかし、今回の件では彼女がいてくれなかったらうまく話が進んでいなかったかもしれないと思うと邪険な扱いなどできるわけがなかった。
 あんな調子のナオコならばリツコが話を誘導してくれていなければまだ思い出話の途中だったかもしれない。
 まだ肩を震わせているリツコを見ながら、シンジはあんなに親子でざっくばらんに話せるのっていいなと思った。
 同じ女同士だからということもあるのだろうけど、自分と母とでも今よりもう少し会話が弾んでもいいような気がする。
 現に自分が小学生のときはもっと…。
 そこでシンジは苦笑し頭をかいた。

 何のことはない。自分が反抗期に入って会話が減っただけの話ではないか。母親はまったく変わっていない。
 甘える必要はない、大人として扱えと背伸びする必要もない。
 リツコのように自然に会話すればいいだけではないのだろうか。
 今日の件でも下手に出て外堀から攻めようとするからいけなかったのではないか。
 最初から事情をきちんと説明すればよかったのに、餃子の件で出鼻をくじかれて拗ねてしまった。

 イラついて妹に八つ当たりして、結局アスカのことを言わずに輸入盤のことだけ聞いて…。
 あれ?赤木先生の話じゃ別に輸入盤が嫌いになったとかそういうのじゃなかったよね。
 どっちかというと、いい思い出じゃないか。
 どうして母さんは輸入盤と聞いて不機嫌になっちゃったんだろう?
 
 シンジは首を傾げた。
 これは一考の余地があるな…って、どうして探偵を気取ってるんだ、僕みたいなのが。
 ああ、そうかとシンジは本棚を見た。
 文庫本がずらりと並んでいる場所には探偵小説が多いのだ。
 コナン・ドイル、クリスティ、横溝正史ぐらいは、ぱっと見ただけでもわかる。
 おそらく他のも探偵小説なのかもしれない。
 そういえば下から2段目にあるのは少年探偵団シリーズではないか。
 これは彼も小学校のときに図書館で読んでいたから良く知っている。
 
「まあ、碇君もミステリー好きなの?」

「わっ、ご、ごめんなさい!」

 いつの間にか復活したリツコに声をかけられて、正座したまま首を伸ばして本棚をじろじろ見ていたシンジは赤面してしまった。
 
「僕はほとんど読んでないです。あ、そういえば、今年は『獄門島』ですよね。見に行きます」

 つい今しがたまではまったくそういう予定をしていなかったシンジだったが、場の空気というものか観劇を約束してしまった、

「そう、ありがとう。期待していてね。あっと言わせてあげるから」

 はい、としか返事はできない。
 そして、数秒間の沈黙が訪れ、お尻がむずむずし始めた頃、リツコが突然質問を投げかけた。

「相田君に彼女はいるかしら?」

「え?ケンスケ?相田ケンスケのことですか?」

「そう、写真部の相田君。相田ケンスケ君よ。君の友達でしょう。どうなの?交際している女子はいるの?」

「いません。全然。まったくいません」

 そこまで否定することもないとは思うが、リツコの語気がシンジに必要以上の明確な返答を促していた。
 まるで嘘偽りを言えば市中引き回しの上獄門晒し首にでもされてしまいそうな問い詰め方なのだ。

「そう。では次の質問。相田君に好きな子はいる?」

「好きな子、ですか?アイドルとか…」

「いいえ、周囲の女性。好意を持つ女子とかがいるかどうかを訊いてるの。例えばミサトとかどう?」

「え……と……」

 シンジの目を宙を泳いだ。
 そういう類の会話になったことがあり、そのときの事を必死に思いだす。

「確か…、あ、そうだ、つりあわないって言ってました」

「もっと詳しく」

「えっ?そ、そうですね、ミサト先輩は美人だけど交際してもうまくいくわけがない。つりあわない。先輩をリードすることもできないし、面倒見てくれるようにも見えない。そんなことを…」

「私と、じゃ、どうかしら?」

 そのときのシンジの状態は、文字通りの絶句。
 まず言葉の意味がわからなかった。
 そして10文字そこそこの言葉を自分の知る日本語に翻訳してから、その内容で正しいのかどうか吟味するのに時間がかかった。
 さらに本当にそういう意味でとらえていいのだろうかと自分を問い詰め、結局答にできない。
 それがこのときのシンジだった。

 シンジは恐る恐るリツコと目を合わせた。
 するとどうだろう。
 このとき彼が感じたのは、ああ綺麗だ、という感情だった。
 それは恋愛感情ではなく、絵画や写真を見たときの感覚に近いものだ。
 顔の造作が整っているだけでなく、目が、真っ直ぐにシンジをとらえている瞳がきらきらして見える。
 これはいい加減な返事は絶対にできない。
 シンジは観念した。

「わかりません。考えたこともないし、考えてもわかりません」

「つりあうかどうかがわからないってこと?それとも相田君が私に興味を持つかどうかがわからないってこと?」

 リツコの追及は厳しかった。
 こうなると本音が出てしまうのが打たれ弱いシンジの常だった。

「一番わからないのは、どうしてケンスケなのかってことですっ」

 振り絞るようにして出した言葉に対して、リツコの反応は目を瞬かせることだった。
 そして先ほどまでの詰め寄る口調などではなく、柔らかい、落ち着いた声音で彼女は言った。

「そんなのわからないわ。きっかけはあるけど。でも、理由がある感情なんて結局打算じゃないのかしら」

 今、ものすごく難しい事を言われた。
 シンジは心の中で言葉を反芻する。
 その意味を噛みしめているとじわじわ味が染み出してきた。
 目から鱗とはこのことだ。
 確かにアスカのことを最初は容姿で好きになった。
 そのことは否定しない。でも、それがリツコの言う“きっかけ”なのだろう。
 そして、今は、ただ好きだ。そう、ただ、好き、なだけで、好きで好きでたまらないのだ。
 理由なんて要らない。
 
「は、はい、わかります。すごくわかります」

 シンジの言葉を聞いて、リツコは破顔した。

「なるほど、碇君も恋をしてるのね」

 これが勢いというものだろう。
 シンジははっきりと首を縦に振り肯定してしまった。
 その後、自分のしたことに真っ青になった。
 他人に恋心を打ち明けたのはこれが初めてだったからだ。
 トウジにもケンスケにもはっきり言った事はない。
 もっとも二人はうすうす感ずいているだろうと思ってはいたが。
 しかし、リツコはそこから先には踏み込んでこなかった。
 彼女は机の引き出しから一枚の写真を出し、裏を向けてシンジに差し出した。
 受け取ったシンジは表に反してあっと息を呑んだ。
 それはケンスケがトウジに見せたものと同じ写真だった。
 彼は2枚だけ焼き付けて、そのうちの一枚を彼女に渡したのだ。
 
 リツコが微笑んでいた。
 まるでそれは聖母の如く優しく美しく温かい。
 これがクールな美人として有名な赤木リツコの写真だとは誰もすぐにはわからないだろう。
 よく見ると第壱中学の制服をちゃんと着ているし、場所は演劇部の練習場である理科室だ。
 それなのにどこか別の場所で、まったく知らない娘が写っているようにしか見えない。
 
「これって…」

「隠し撮りじゃないのよ。ふふ、知っているわ。相田君が女子を隠し撮りしてることは。お小遣い稼ぎしているのはどうかと思うけど」

「ごめんなさい」

「謝るってことは碇君も仲間なの?写真販売業の」

 その言い回しにシンジは笑ってしまいそうになった。
 彼の様子を見てリツコは違うようだと判断した。

「そのうちにミサトともども叱りつけようと思っていたんだけど…」

「やめるんですか?」

「いいえ。その逆。叱るんじゃなくて、たきつけたくなったの」

「はい?」

「だって、私みたいなのをこんな写真にしてしまうのよ。小遣い稼ぎなんてもったいないわ」

「えっと…」

 シンジの単純な頭では言葉遊びのようなリツコの発言についていけない。
 しかしながら、そういう意味ではケンスケにも似たような部分があるのを思い出し、共通点がないわけではなかったことを知った。
 だが、それでもリツコがケンスケに異性としての興味を持っていることの違和感はまったく拭えないのだ。

「稼ぐならもっと大きく、プロの写真家を目指せばいいんだわ。生活は私が支えるし大丈夫」

「は?」

 言葉の前半部分はわかった。
 夢は大きく高く持とうという趣旨と見て間違いないだろう。
 問題は後半部分だ。
 生活はリツコが支えるから大丈夫、ということは…。
 シンジは半ば呆然とリツコを眺めた。
 彼女は頬を赤く染め、机に置かれた左の拳は強く握られ、右の手はまっすぐシンジに向かって差し出されている。
 握手…にしては掌が上を向いているのがおかしい。

「返して。その写真、私の宝物だから」

「あ、ご、ごめんなさい!」

 手にしてしたままだった写真を丁重に返却すると、リツコはそれを胸に押し抱き幸福そうに目を閉じる。
 シンジは午後8時以降に入手した情報量の多さに頭がおかしくなりそうだった。
 彼が知りたかったのは、アスカを助けるためのビートルズの、たった1曲の情報だけだったのだ。
 それが父と母の馴れ初めにはじまり、果てには中学で指折りの美人の先輩が彼の親友に惚れているというとんでもない現実を突きつけられていた。
 シンジは心配だった。
 ケンスケのことだからカッコをつけてリツコからの告白を断ってしまうのではないだろうか。
 俺の好みじゃないとか言い出しそうで怖い。
 もしそうなったらリツコはどうするのだろうか。
 こんなに幸福そうなのに、それはあまりに可哀相だ。

「あ、あの…、じゃ、ケンスケに訊いたらいいんですか?僕が。その、つまり、えっと、先輩が…」

「いらないわ」

 きっぱりにも程があると言いたいくらいにきっぱりとリツコは言ってのけた。

「だって、私のことだもの。他人に自分の人生を託すなんてできるわけないと思わない?」

 また名言が飛び出した、とシンジは感心してしまった。
 リツコ自身のことを喋っているのに、それはまるで彼の行かねばならない道を示してくれているかのような言葉ばかりなのだ。

「それに彼の意向が私を拒否するならばそれであきらめるわけ?そのようなことであきらめられるならば最初から恋などしないわ」

 拍手したい。
 シンジは手がむずむずとしてきた。

「まずは自分が愛情を抱いていることを伝える。その返事がYesかNoかを先に予測するべきではないわ」

 リツコは立ち上がった。

「重要なのは自分の気持ちよ。でも、断られたからといって付きまとったりしない。だけど、あきらめたりもしない。恋する気持ちに誇りを持っているから」

 ブラボー!
 これは立ち上がって拍手すべきである、とシンジは思った。
 赤木恋愛教団というものがあるならば入信してしまいそうなほど彼は感化されていた。
 
「お〜い、もう10時過ぎてるんだけど。起こしてっていったわよね。ユイさん、心配しすぎて、帰ったら今度は右の頬が痣になっちゃうわよ」

 廊下からの声にはっとしたシンジが時計を見ると、なるほど10時を3分過ぎている。
 人を恋するとは素晴らしいものだという魔法の呪縛が解けたシンジは慌てた。
 門限などは設定されていなかったが、あの母親が夜遊び(ではないことを承知しているはずだがそれでも)を容認するはずがない。
 
「す、すみません!帰ります!ありがとうございました!」

 正座したままだったシンジはクッションを外してから畳に手をつけ頭を下げた。
 その礼儀正しさはユイの躾の賜物でろうと、母娘はともにシンジを見て微笑んだ。
 その実、足が少し痺れていたことに今更気づいてバランスをとるために下げた頭がより深くなってしまっただけだったのだが、こういう部分がシンジのシンジたる所以であろう。
 ともあれ、足が痺れたのを我慢しながら階段を下り玄関についたシンジはもう一度礼を言った。

「本当にありがとうございました。おかげで何とかなりそうです」

「アメリカ盤のテープ借りるの忘れないでね。ユイさんによろしく」

「はい。赤木先輩もありがとうございました」

「私は何も…。あ、それより、気になることがあるのよ」

 靴を履いたシンジだったが、何事かとリツコを見上げる。

「碇君、どうしてその人はアメリカ盤しか知らなかったのかしら」

「は?」

 リツコの言うことがよくわからずきょとんとした表情のシンジに向かって、彼女は小学校の教師のようにゆっくりと言葉を発した。

「その人はアメリカ盤だけでビートルズを知っているということでしょう?不思議だと思わない?」

「でも、アメリカで生まれたんだし。その後ドイツで、日本に来たのは去年だからおかしくないと思うんですけど」

「家にあったのはアメリカ盤だけだからそれしか知らない。確かに理屈ね。それじゃ質問。ビートルズが大好きな、ちっちゃなアスカちゃんは自分でレコードを買ったのかしら」

「はい?」

 シンジをワトソン役にするには難しそうである。
 あえて配役するならば刑事Cあたりか。
 呆然と探偵の口上を聞くだけの役しかもらえなさそうだ。
 しかし名探偵を気取ってはいるが心優しきリツコは苛立ちも見せずに説明を続ける。
 因みにナオコはすでに論旨を理解しなるほどなるほどと頷いていた。

「もしかして碇君の実家みたいにレコード屋さんだったという推理もできるけど、どう考えても今もアメリカ盤で聴いているってことになるからそれもなし」

 リツコはかゆくもない頭をぼりぼりとかいた。
 もちろんふけは飛び散りもしないし、せっかくのポーズもシンジ相手では金田一耕助には見てくれない。
 しかし、こういうものは発言者の気持ちの問題だから温かく見守ってあげようと傍らのナオコは笑いをこらえながら見ていた。

「つまりアメリカ在住時代に誰かが揃えていたビートルズのレコードを惣流さん…いえ彼女は持っているということになるわね。となるとその持ち主は」

「お父さんかお母さん!ですよね」

 ようやく探偵のペースに乗ることのできたシンジが明るい声で発言した。

「その通り。じゃ、そのビートルズファンのご両親は同じビートルズのファンになった娘とビートルズの話はしないのかしらね」

「あ、それはご両親は今ドイツだから、もうすぐ日本に来る、いや、住むらしいけど…、えっと」

「アメリカ盤を全部持っているほどビートルズファンのご両親はドイツに行ってラジオとかでビートルズを聴いたことがなく持っているレコードだけで聴いてたとは思えない。たとえビートルズの曲がどんなに多くても」

「全213曲。テイクやミキシング違いもあるけど基本はその数。ただし…」

「もう結構。母さんは黙ってて。たまたまドイツ時代に問題の曲だけ聴いたことがなかった。それも充分ありえるとは思うけど、娘がビートルズを好きになったとして、アメリカ盤を勧めた理由は何故?」

「何故って、持っていたのはアメリカ盤だからじゃないんですか?」

「碇君はどうして日本盤で?」

 家にあったのが日本盤だからと素直に答え、ナオコもユイさんは日本盤しか持っていないわよと言葉を添えた。
 
「お母さんからそれだけしか助言がなかった?」

「あ、まず聴いて、読んで、それから発表順に…」

「あれこれ助言してくれたんでしょう?」

「当然ね。もしあなたがビートルズファンになったら私もあれこれ口出しするわよ」

「残念でした。私にはその可能性はないわ。そうよね、碇君」

 あ、ケンスケにその趣味があるかどうかって事だよね、これって。
 さすがにすぐ意図がわかったシンジは小さく頷いた。
 リツコがそう推理したのは簡単なことでいつも一緒につるんでいる3人のうち2人までがビートルズ同好会に入っているにもかかわらずケンスケは素知らぬ顔をしているからだ。

「アメリカ盤はかなり違うって母さんさっき言っていたわね。曲順とか。ドイツに住んだのだからドイツ盤とアメリカ盤が違うという知識はあるはず。それでもアメリカ盤を娘に薦めたことになるわね」

「う〜ん、と、アメリカ盤が好きだから?」

「親は子供に好きなものならきちんと伝えようとするのよ。だから私の結論。そうりゅ…その子は、自力でビートルズの知識を入手した。しかもそれはこの数ヶ月以内のこと」

「えええっ、まさか!そんなに短い間に?」

「君もそうしたのでしょう?」

 あ、そうか。
 ぽかんとした顔になったシンジを見て、赤木母娘は似たような微笑を浮かべた。

「もしかすると、同じような過ちを犯すかもしれないわよ。誰かがオリジナル、この場合は日本盤でもいいわね。それを教えない限りね」

「碇君はその誰かにはなってあげないのかしら」

 シンジはごくりと唾を飲み込んだ。
 彼は言葉を出さずにただ頷き、二人に対して最敬礼をして玄関から出て行った。
 その後姿を見送ったリツコは何かを思いつき急いで突っ掛けを履くと彼を追いかけた。

「碇君!」

 振り返ったシンジは何事かとリツコを見た。
 秋の夜は更け、街灯だけが静まりかえった町と二人を見ている。

「失礼しました」

 失礼など彼女が自分にしていないのにどうしてそんなことを言うのかと訝しんでいると、リツコはすっとシンジに近づきその耳元に囁いた。

「碇君、あなた惣流さんを愛していられたのですね」

 あっと声にならない叫びをシンジは上げ、顔を真っ赤にするとくるりと背を向けどたばたと不恰好に駆け出していった。
 どんどん小さくなっていく彼の姿を見送って、リツコはしてやったりとばかりに笑った。
 可哀相に汽車に乗っていない磯川警部は自分で走っていかなければならなかったわけだ。
 すっかり満足したリツコが玄関に戻ると、ナオコは先ほどと同じ場所で娘を待っている。

「何してたのかしら?」

「色っぽいものじゃないわ。『悪魔の手毬唄』ごっこ。赤木じゃなくて“そうじゃ”って表札だったら完璧なのに。まあ、そっちは劇場版だけど。まさか現実の世界でこんなシチュエーションがめぐってくるなんてね」

「何言ってるのかわけがわからないわ。あんな物騒なものよりビートルズのほうがいいのに」

「ご愁傷様。私よりも孫に期待すれば?いつの話かわからないけど」

 玄関に鍵をかけたリツコはにやりと笑う母を不敵な目で見返す。

「あなたの口から孫なんてね。一生恋なんかしないって嘯いていたのは先月のあなただと思ったけど。男嫌いのリツコさん?」

「どうせ廊下で全部聞いていたんでしょう?人は進歩するものなの」

 板敷きに上がったリツコは乱れた突っ掛けをきちんと並べなおしながらきっぱりと言い放った。

「ずいぶんと遅い初恋だこと。その代わり、力は入ってるわね、ずいぶんと」

 母親のからかいの言葉に対し、リツコは何の言葉も返さなかった。
 くるりと背を向けると、お風呂に入ってくると言い残し廊下を歩いていく。

「さて、どんな変な男を見初めたものやら。まあ、普通のハンサムボーイじゃないことだけは確かね。ん?お風呂って私が入る予定だわよね。こらっ、リツコ」

 のしのしと廊下を進みながら、ナオコは物騒なことを呟くのだった。

「ユイさん、若死にしてくれないかしら」





「シンジ、今何時だと思ってるの」

 腕組みをしたユイは板敷きからシンジを見下ろしている。
 こういう場合、問われたままに答えとして時間を口にするのがシンジという少年だった。
 そしてそういう息子に苛立ちを覚え叱咤するのがユイという母親の常だ。
 しかし今晩はいつもと展開が異なった。

「遅くなって…、心配をかけてごめんなさい。話し込んでいて時間を忘れてたんだ」

 現実と少し異なる内容であることはシンジも承知していた。
 自分は聞き手一方だったが、かなり有益な話をしてくれたのには違いない。
 リツコとしてはケンスケの情報を得たかったということに尽きるのかもしれないが、結果的にはシンジの目を大きく開かせたことになった。

「それはずいぶんと仲良くなったことで。シンジがばあさん好みだとは知らなかったわ」

「そんなのじゃないよ。知りたかったことを教えてくれたし…、それに、母さんと父さんの馴れ初めも」

「あら、そうなの。ばあさんのやつ、余計なことを」

 ユイは舌打ちしかねないほどの顔でふんと鼻を鳴らした。

「母さんって輸入盤が嫌いってわけじゃなかったんだね」

 シンジは靴を脱ぎながらにこやかな顔で言った。

「馬鹿ね。母さんは輸入盤は嫌いよ。『ヤァヤァヤァ!』だけが特別なだけ」

「『ヤァヤァヤァ!』って、輸入盤なんだから『A Hard Day's Night』じゃないか」

「うるさい子ね。日本盤は『ヤァヤァヤァ!』なんだからそれでいいの。だいたい日本で売るんだったら正規ルートで売りなさいっていうのよ」

「え、輸入盤だって別に密輸しているわけじゃないんだろ」

「あんなの抜け荷みたいなものよ。売るならちゃんと東芝から売りなさいってこと。国旗のみたいに」

「抜け荷って…時代劇じゃあるまいし。でも今回のも『ラバー・ソウル』のアメリカ盤が他のと一緒に国旗シリーズで普通に売られていれば何の問題もなかったんだよね」

「そりゃあそうよ。あれだけ発売しないからややこしくなったの」

 あ、楽しい。
 ユイはふとそう思った。
 ビートルズの話題でこういう感じでシンジとやり取りするのは初めてではないか。
 いや、シンジとの会話でここ数年こんなに会話が弾んだことがあったかどうか。
 中学生になって、反抗期に入ったからかどうか、会話がどうも一方的になったりぶつ切りになったりしがちだった。
 それがどうだろう。
 今は言葉のキャッチボールにちゃんとなっているではないか。
 しかも小学生のときのように何でもうんうんと素直に言うことを聞くだけの会話ではなく、きちんと自分の意見を持って投げ返してくる。
 これは快感だ。

「だよね。だったら家にもレコードがあったはずだし、母さんも即答していたもんね」

 板敷きに上がりユイと面と向かったシンジがにんまりと悪そうな顔で笑った。
 彼としては嫌味で言った訳ではないが、なにぶん今日は人相が悪すぎる。
 しかし人相が悪いという点では彼もまだまだ父親には及ばないし、その父親を骨の髄まで愛している女が会話の相手だ。
 シンジの発言でむっとなるどころか実に素直に受け入れている。

「そうなのよ!だったらわざわざばあさんの力なんて借りなくても良かったんだし」

 ユイは嘘を言った。
 わざわざ赤木ナオコの力を借りて良かった。
 今、彼女は心の底からそう思っている。
 情けない息子がどうやら一皮剥けたようだ。

「さて、お風呂入らないとね。僕が入っていいの?」

「いいわよ。後は母さんだけ。お父さんは晩酌しながらプロ野球ニュース」

「うん、じゃ、先に入ってくるね」

 シンジはさっさと階段を上がっていく。
 その小気味良い足音を聞きながら、ユイは満足げに微笑んだ。
 しかし、すぐに何かおかしいと気がつき、大きく溜息を吐き首を横に振った。
 帰宅が遅くなったことを咎めていたのに、いつの間にか家に上がり楽しい会話をして去っていったではないか。
 シンジ、恐ろしい子。
 この調子でどんどん自信をつけていけばとんでもない男の子になってしまうかもしれない。
 まあ、この私の血も入ってるんだからゲンドウさんのコピーにはならないか…。
 末恐ろしいが面白くもありという思いを抱いていると、2階から末恐ろしい14歳がどたばたと降りてきた。

「こら!何時だと思ってるの!ご近所迷惑でしょう」

「そ、そうなんだよ!もう11時30分だよ!宿題しなきゃ!お風呂も入らなきゃ!」

 パジャマと下着を抱えて風呂場に突進していく我が子は昨日までとなんら変わらない。
 ユイは魔法が解けちゃったかと苦笑すると、茶の間へと向かった。
 ほろ酔い気分の夫をからかうために。





 シンジはいつもより早く登校した。
 まずは先生に報告し、今日の同好会を開くことを進言するためだ。
 もちろん青葉先生も答を見つけてきているかもしれないが、先に自分がアスカへ報告と謝罪をすればいいのである。
 ただし、いつもよりは早く登校してはいたものの、彼の計画よりは30分も遅れてしまってすでに8時になっていた。
 結局宿題に時間をとられ起きそびれてしまったのだ。
 怒鳴る母親を尻目に朝ごはん抜きで飛び出してきたものの、すでに生徒の数はかなり増えている。
 まずいなぁと思いながら昇降口で上靴を脱いでいると、「おはよう!」と明るい声が飛んできた。
 振り返ると、そこには洞木ヒカリが立っていた。

「あ、おはよう」

「わっ、どうしたの?碇君、その痣。それに目も真っ赤よ。隈だってできてるし」

「あ、うん、いろいろあって」

 確かにいろいろあった。
 そしてその成果は大きい。
 シンジは我知れず胸を張って答えていた。
 しかし、その彼の気力を根こそぎ奪ってしまう発言があっさりとヒカリの口から放たれたのである。

「碇君。今日の放課後、同好会あるからね。青葉先生が突き止めたから」

「え…」

 まだこの段階でのショックは少なかった。
 自分だけが解答に到達したとは思っていなかったからだ。

「アスカも喜んで。今1年生の子に連絡お願いしてきたのよ。それでね、これからアスカと一緒に3年生のところに行こうと思うの。アスカは嫌がったんだけど。こういうのはこっちから動くほうがいいと思わない?日本のレコードを知らなかったからこういうことになったって言って少しだけ頭を下げておいたら向こうも変な恨みとか残さないでしょ。アスカを言い聞かせるのが大変だったの。あ、鈴原への伝言お願いできる?じゃあね」

 親友の危機が去った安心感からか上機嫌のヒカリは一気に喋り、そして軽快に駆け去っていった彼女の姿はシンジの目に映ってなかった。
 すべてが収束に向かっている。
 今からアスカはヒカリと3年生と話をしに行くそうだ。
 シンジは引きつった笑みを浮かべた。
 もう、自分の出る幕はどこにもない。
 あるとすれば謝罪することくらいだ。
 それもこうなってしまえば、放課後で充分だろう。
 アスカが何よりも待ち望んでいるのは彼とのやりとりであることなどわかるわけもなく、シンジは急に重みを増した鞄を手にぶら下げながらとぼとぼと教室へと足を進めていった。

 
 


− 11曲目へ続く −


 


− 『33回転上のふたり』メインページへ −


第10回目のためのあとがき

第10回を掲載いたしました。
「33回転上のいちばん長い日」はまだ続きます。

お読みいただいたかたがたには
ナオコとユイの話は不要だったでしょうし、
なんでリツコがケンスケやねん!そんなん絶対あらへんわ!ってところでしょうね。

でも、そういうのが書きたかったの仕方がない。
季違いじゃが仕方がない、も使いたかったのですが仕方がない。
豪雨でBS11の氷菓の録画がダイジェスト版になってしまったのも仕方がないのです。
KBS京都でも録画しておいて正解でした。
この先が気になっていただければ幸いです。

ジュン

 

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