起きるのが怖い。

 カーテン越しにくっきりと存在を主張している太陽から逃れるように、アスカは布団の中にもぐりこむとこれからの行動を検討した。

 1.普通に起き、普通に行動する。

 2.昨日のことは嘘だと素直に謝り、一昨日までと同じように振舞う。

 3.昨日のことは本当だと断言し、昨日のように振舞う。

 アスカは溜息をついた。

 どれも妥当な方法ではないように思える。

 どうしよう…。アスカは顔を覆った。

 悩むくらいならあんなことをしなければよいものを。

 調子に乗ってしまったアスカを止めることは誰にも…いや本人にもできない相談であった。

 

 

4月2日

 

 

2004.04.02         ジュン

 

 

 話は24時間前に遡る。

 4月1日午前5時。

 どうしてやろうかとわくわくしすぎて、アスカは一睡もできなかった。

 何しろ相手はあの鈍感魔王のシンジなのだ。

 少々の嘘は気付きもしないし、もし嘘だとわかっても「なんだ」くらいで済ましてしまいそうだ。

 どうせ吐くならアイツをギャフンといわせるくらいの嘘でなくては。

 この大作戦なら絶対に大丈夫!

 まずは起き抜けに一発かましてやらなくては。

 アスカはベッドの上に立ち上がった。

 そして、両手の拳を硬く握り締めた。

「行くわよぉっ!」

 

 リビング、及びダイニングに人影はなし。

 ふっふっふ、敵はまだ就寝中ね。

 起きたらどんなことになってるか…。楽しみにしておくのね。

 アスカは不気味に笑った。

 そう、シンジと出逢った時の「ちゃ〜んす」と同じように。

 

 リビングにまで芳しい匂いが立ち込めていた。

 シンジはいつものように目覚まし時計が鳴る前に目覚めると、ベッドに身体を起こす。

 彼が居住している元物置部屋にまで、その匂いは侵入していた。

 シンジは首を捻った。彼の保護者は家事を放棄して久しい。

 いや彼女はたまにご馳走しようと親切に(気まぐれに)言い出すことはあるのだが、ご丁重にお断りさせていただいている。

 もう一人の同居人。シンジがこの世で一番大切に思っている女性の方は…。

 彼女は最初から家事はシンジに任せきりにしている。

 では、誰なんだ?この匂いの元は。

 シンジは匂いを吸い込んだ。

 その中に異臭が混じっていないかどうか。

 ない。焦げた臭いなどはその中には混じってはいなかった。

 おかしい。時計を見ると午前6時40分。

 学校は春休みなのだから、起きるのは8時前でいい筈なのに…。

 シンジは急いで着替え終えると、戸に手をかけた。

 

「おはよ!」

 にこやかに笑う彼女が台所に立っていた。

 いつものように腰に手をやった仁王立ちのポーズではない。

 両手は後にまわして、肩をきゅっとすぼめている。

 おまけになんと身に纏っているのは真紅のエプロン。

 もちろんその下にはちゃんと普段着を着ている。

 いくら何でもシンジを悩殺することが目的ではないのだから。

 それに後数日で中学3年生に進学するところだ。

 まだまだ大人の関係に進むにはもっとしておくことがある。

 そう、まずはシンジをギャフンと言わせたい。

 まだまだアスカは子供だった。

 この日の為に彼女はヒカリの家に通いつめた。

 いや厳密に言うと、ヒカリの家に行き、それから実習会場であるトウジの家に移動したわけだ。

 ヒカリは鈴原家の食事を毎晩司っていたのだ。

 いつからこんな関係に?

 目をひん剥くアスカにヒカリははにかみながら言ったものだ。

 彼が入院していたときに妹さんの世話をしてたから…そのまま成り行きで…。

 彼だってさぁ!アスカは天を仰いだ。

 羨ましいっ!

 私もシンジのことを彼って言い触らしたいよぉっ!

 まあ、そのことを置いといて…と、アスカはとにかくシンジをギャフンと言わせたかった。

 そういつもいつも関係を進める事だけを考えているわけではないのだ。

 エープリルフールにはとにかくシンジの頭を抱えさせたい。

 小さな嘘を積み重ねていてはダメだ。

 この日一日を大きな嘘で固めないと。

 

「おはよう、アスカ。あ、あの…」

「なぁに?」

「ど、どうして?こ、これは…」

 テーブルには整然と朝食の用意がされている。

 程よく焼けたトーストに、ベーコンエッグ。ポテトをさりげなく添えているのはドイツ人の血のなせる業か。

「さ、食べましょ」

 アスカは唾を飲み込んだ。

 次の言葉はさりげなく言わなきゃならない。

「…あなた」

 椅子に座るところだったシンジはそのアスカの言葉にすかさず反応した。

 普通なら『ええっ?』と大声を出すところであろうが、シンジはそれすらできなかった。

 口を開け、目を見開いたまま、中腰の体勢だったのでそのまま引力の影響でどしんと椅子にへたり込んでしまった。

 アスカは心の中で手を叩いて喜んだ。

 きたきたきたきたきたぁっ!

「あら、どうしたの?あなた。私の料理まずそう?」

「あ、あ、あ、あなたっ?」

「はい。あなた」

 ダメよ、笑っちゃダメ。

 ここは一気に押し切っちゃうのよ。

「シンジが決めたのよ。

 あなたって呼べって。

 まったくもう、あんなに優しかったのに、結婚した途端に亭主関白になっちゃうんだから。

 私は“ダーリン”って呼びたかったのに、“あなた”にしろってね。

 ま、私はシンジがそれでいいなら全然異存はないんだけどさ。

 だって、愛してるんだもん」

 最後の一言だけは少し声が上ずってしまった。

 毎晩イメージトレーニングを重ねてきたアスカである。

 ただその相手はシンジの虚像。実物を前にして「好き」だの「愛してる」だのという言葉は口にしたことはない。

 エープリルフールだという言い訳が後でいくらでもできるからこそ言えるのだ。

 言いたくて言いたくて仕方がなかった言葉だが、こういう格好でしか言えないところがいかにもアスカなわけだ。

 普通ならこんな嘘をつくような展開で大切な言葉を告げるなどとんでもない話なのだが、

 彼女の場合こういう時にしか言えないわけである。

 そもそもこの大嘘大作戦はこういった言葉をアスカが実物相手におおっぴらに言いたいという欲求から発生していたのだ。

 見かけからは想像もできないほど好きな人から嫌われることに臆病なアスカだ。

 まず大丈夫だと自分に言い聞かし、且つ周囲の者は、そうあのファーストチルドレンでさえ碇シンジはアスカのことを好きなのだと断言しているのだ。

 それでも本人の口から聞くまでは心配でならないし、なおかつそういう関係に突入したとしても不安で一杯なのである。

 もし彼氏であるシンジに愛想尽かしされたなら…あの精神強姦使徒に与えられた以上のダメージとなってアスカに襲い掛かってくるだろう。

 それがアスカには怖くて怖くてたまらない。

 だから最後の一歩を踏み出す勇気が彼女には欠けていたのである。

 ところがそんな彼女でありながら、こういう展開であれば平気でシンジに向かって「愛してる」などと言えるのだから…。

 まったくもって厄介な精神構造をしている女性である。

 

 さて、シンジだ。

 あなた、結婚、亭主関白、ダーリン、愛してる!

 アスカの言葉が頭の中を全力で駆け回っていた。

 思考回路は危うくずたずたに切り裂かれる寸前だったのだ。

 しかし、間の悪いことでは常人以上の能力を誇るシンジだ。

 ぎりぎりのところでカレンダーが目に入った。

 何しろ、1のところに大きく赤で丸がされてあったのだ。

 もちろん、丸を書いたのはアスカ本人である。

 シンジにまず疑わせないと、どこかで気付かれてはまずいからだ。

「アスカ、いい加減にしてよ。今日はエープリルフールなんだろ」

 シンジはほっとしてトーストを手にした。

「でも、アスカもちゃんと料理できるんだね」

「うわぁ〜んっ!」

 ぼとん。

 アスカの大きな泣き声にシンジはトーストをお皿に落としてしまった。

 テーブルに突っ伏して泣き声を上げるアスカ。

 シンジは一瞬困った表情を浮かべたが、また済ました表情に戻った。

「ダメだよ、そんなお芝居しても。

 大体、14歳で結婚できるわけがないじゃないか」

 そう発言してトーストを再び掴もうとした時、むっくりとアスカが顔を上げる。

 その顔は涙に濡れ、そして思い切り開かれた目には驚愕の表情が浮かんでいた。

 シンジは思わずドキッとしてしまった。

「な、なんだよ。そ、そんな顔したって騙されやしないよ」

「また…再発したの?」

「はい?」

「また後遺症が出たのね」

「はぁ?」

 シンジはあきれた。

 どこまで嘘をつこうっていうんだ?

 それにあのアスカの表情ときたら…。僕を騙そうとして随分練習したんだなぁ。

 でも、後遺症だなんて…あはは、もう少し上手に嘘をつかなきゃね。

 まあ、せっかくのエープリルフールだから騙されてあげようか。

 アスカがせっかく一生懸命なんだし。

 

 優しいシンジがそう決心することもアスカは計算に入れていた。

 そして、目的のためなら手段を選ばないアスカはさらにシンジを追い詰めていこうとしたのだ。

「そうよ、シンジはサードインパクトの後遺症で記憶喪失になったのよ」

「へぇ、そうだったんだ」

「記憶が分断されて、その間の記憶が途切れ途切れになったり、別の記憶とごちゃ混ぜになったり…」

「だって、昨日のこともちゃんと覚えてるよ。アスカと二人でトウジの家に行ったじゃないか」

「えっ!覚えてるの?良かったぁ」

「当たり前じゃないか。洞木さんもいてさ、晩御飯をご馳走に…」

「あなた?」

「アスカ、そのあなたはやめてよ」

「だって、シンジはあなたって…」

「う、うん、恥ずかしいけど、アスカがそう呼びたいなら…」

 とは言うものの、実は“あなた”と呼ばれると背筋に快感が走るシンジである。

「あなた…ヒカリは洞木じゃなくて、鈴原なんだけど…」

 まだがんばるの?シンジはアスカの見え見えの嘘に苦笑した。

 そりゃあ、トウジと洞木さんはラブラブだけどね。

 僕もアスカとあんな感じになりたいな…。

「もしかして、あなた。あの子の事も覚えてないんじゃないの?」

「あの子?カコちゃんは…」

「鈴原の妹のことじゃないわよ。鈴原の…鈴原とヒカリの娘のことよ。ホントに覚えてないの?」

「は?娘だって?」

「そうよ、サクラちゃん。やっぱり、あなた…後遺症が」

「やめてよ、もう。結構面白かったよ。うん、エープリルフ…って、アスカ?」

 アスカは携帯電話を取り出していた。

 そして、短縮番号を呼び出すと、電話をシンジに押しやった。

「え?何?」

 シンジは慌てて電話を受け取る。

 誰かの声が聞こえてきたからだ。

「もしもし?」

『はぁ?何やセンセかいな。あんなぁ、今急がしいんや、用があるんやったらあとでかけ直してぇな』

「え、えっと…」

『サクラにミルクやっとんや。どや?うちのサクラはホンマに可愛かったやろ?』

 トウジの声の向こうで赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

 『おっ!すまん、サクラ。すぐ終わるよってにな』とトウジが別の誰かに語りかけている。

「あ、あの…」

『あわわ!ヒカリが怒っとるわ。ほな切るで。センセも奥さんの尻にしかれんようにな!』

 ツーツーツー…。

 シンジは沈黙してしまった。

 し、芝居してるんだよね。み、みんなで寄ってたかって…。

 そんなシンジの様子を見て、アスカは止めの一撃を放った。

「ヒカリって病院で意識不明の鈴原を見て、この人と一緒に歩いていこうって誓ったんだって…」

 病院!意識不明!

 シンジの脳裏にあの日のあの場面が甦る。

 ぼ、僕は最低だっ!

 病院と意識不明という二つの単語はシンジのトラウマになっているのだ。

 従ってこの口撃はシンジから正常な判断力を奪うのに有効だったわけである。

「ぼ、僕は…」

「いいのよ、あなた。いやなことは思い出さなくても」

 アスカが優しく語り掛ける。

 これは芝居ではない。好きな男が苦しむのを見てアスカが楽しくなるわけがないからだ。

 まったくそんな気持ちがあるのなら、何もあの病院の一件を自分で持ち出すことはあるまいに。

「アスカ…」

「食べ終わったらネルフに行きましょうか。ミサトやリツコに相談しないとね」

「相談?」

「うん。後遺症がまた出たって」

 あくまで真剣且つ優しげな表情は崩さない。

「み、ミサトさんなら…いるだろ。昨日の夜中もぐでんぐでんで二人で部屋まで運んだじゃないか」

 シンジは腐海と呼称されるミサトの居室を見た。

 その戸は堅く閉ざされている。

「はい?」

 アスカは第3段階に入ったことを確認した。

 くっくっく、これはおったまげるでしょうね。

「ミサト?そんな邪魔者が私たちの愛の巣にいるわけないでしょ」

「はぁ?」

 ごめんね、ミサト。別に本心じゃないわよ。時々鬱陶しくなることはあるけどね。でも、アンタも家族の一人なんだから。

「ミサトは私たちが結婚した時に出て行ったじゃない」

「まさか…だって昨日も酔っ払って…」

 シンジは立ち上がって、腐海の扉を開け放った。

 広がる異臭と不快な光景……のはずだった。

 ところがそこは綺麗に整理された、ほとんど家具も置いてない部屋だったのだ。

「こ、これは…」

 シンジは戸に手をかけたまま立ちすくんだ。

 その背中を見てアスカの唇がにっと広がる。

 リツコが用意した無味無臭の催眠ガスをシンジの寝室に仕掛け、夜中にシンジを目覚めないように仕組んだ。

 そしてその間にミサトの身体と部屋の中のゴミ(にしか他人には見えない)は隣室に運ばれたのだ。

 もちろん、それをアスカ一人でできるわけがない。

 オペレーターズの全面協力で実施されたわけだ。

 綺麗好きのマヤはゴーグルとマスク付きで。

 今でもミサトのことをあきらめていないマコトは、顔を真っ赤にしてミサトをお姫様抱っこして運んだ。

 アスカの目にはその時ミサトは目を覚ましていたように思えた。

 加持さんのことふっきれたのかな?もしそうなら日向さんのことも考えてあげたらいいのにな。

 そう思ったアスカだった。

 何しろ3人組の2人がラブラブ状態に突入してしまったのだから、あぶれたマコトが可哀相なのだ。

 さて、シンジはこの視覚効果でかなりのダメージを受けた。

 あのゴミだめがすっきりした部屋に。

「こ、ここは…」

 アスカはわざと勘違いした。

「あ、ここは…私たちの寝室になる予定なの…」

「へぇっ?」

 ゆっくりと振り返ったシンジの顔は真っ赤になっていた。

 夫婦、寝室、○○、XX、△▽…。

 蔑んではいけない。シンジだって充分健康な男の子なのである。

「よ、予定…って。そ、そういえば、僕たち夫婦なのにどうして別々に寝ているの?」

 アスカは頭の中でガッツポーズをした。

 完全にシンジはひっかかった。

 ホントにこいつったらどスケベなんだから。

 性欲に正常な判断が踏み潰されてしまったじゃない。

 “僕たち夫婦”ですって!

「それはね。シンジの後遺症が治るまでは絶対に不純異性交遊をしてはいけないって、リツコが…」

「不純って、キスも?」

「うん」

 これは本当に恥ずかしかった。

 シンジとキスしたのはあの時のアレだけ。

 だからアスカは顔が赤くなり俯いてしまった。

「僕は…治さないとダメだ」

 シンジは断言した。

「えっ…」

「だって、僕たち夫婦なのに、これじゃ夫婦じゃないじゃないか。トウジには子供だっているのに。えっと…」

「サクラちゃん」

「そうそう、サクラちゃんっていう可愛い赤ちゃんだっているのに」

 アスカは少し不安になった。

 ちょっとやりすぎちゃったかしら?

 自分をサードインパクトの後遺症があると思い込みはじめた。

「じゃ、朝ごはん食べたら、ネルフに行こうか」

 シンジは真剣な顔でテーブルに向かった。

「あ、えっと、うん。じゃ、リツコに連絡してみる」

 ネルフには行けないのだ。

 今回の作戦に協力してもらっているのはネルフの全員ではない。

 そんなに知り合いの多い場所に行けば嘘がばれてしまう。

 

 アスカはリツコからの指示をシンジに伝えた。

 この場合、まず心身ともにリフレッシュしないと診断できないと。

 だから気分転換してきなさいということを。

 アスカの提案で二人はサイクリングに出かけた。

 その前に二人でお弁当を作って。

 芦ノ湖の周りを走り、夕方になってから帰宅。

 その間はシンジは後遺症や嘘の設定のことは一言も持ち出さなかったのである。

 正直アスカはほっとしていた。

 そのおかげで自然に楽しむことができたからだ。

 だから、帰宅して嘘を隠すためにシンジに薬と称する睡眠薬を飲ませるのに抵抗があった。

 物凄い罪を犯しているような…。胸が痛かった。

 でも、今更言えやしない。こんな楽しい一日が嫌な気持ちで終わらせたくなかったからだ。

 シンジの喉を通っていく薬と水の音がアスカの心を締め付けた。

 

 

 

 

 

 そして、今。

 夜の間にあの部屋は元の腐海に戻された。

 但しそこの住人は打ち上げだとオペレーターズと飲みに出かけてしまった。

 アスカのおでこをピンとはじいて。

 『アスカ、うまくやんなさいよ』

 にっこり笑ったその表情は姉なのか母なのか。

 実際アスカに協力した連中は、シンジを騙すために面白がって汗を流したのではない。

 いい加減にアスカとシンジを彼氏彼女の関係に進めようと考えたわけだ。

 こんなことをすれば新たな局面に向かうのは間違いない。

 それはアスカもよくわかっていた。

 で、最初の選択に戻る。

 1.普通に起き、普通に行動する。

 2.昨日のことは嘘だと素直に謝り、一昨日までと同じように振舞う。

 3.昨日のことは本当だと断言し、昨日のように振舞う。

「うぅ〜ん。どうしよ…?」

 

 その時、アスカがもぐりこんでいる布団の中に芳しい香りが進入してきた。

 ん?これって、トースト?

 やばい!シンジの方が先に出てきちゃった。

 どうしよどうしよどうしよどうしよどうしよ…。

 いくら慌ててもいい策など出てくるわけがない。

 もともと2日徹夜しているのだ。

 ぼけぼけの頭で考えてもダメなものはダメだ。

 そして、シンジの声が襲い掛かってきた。

「アスカ、起きなよ。食事の準備できたよ」

 起きねば仕方がない。

 こうなるといつもの強がりで虚勢を張るしかない。

 アスカはそう判断…というよりも、他に出来ることがなかったのだ。

 

「なぁんだ。トーストとサラダだけ?もっと美味しいもの食べたい」

 内心滝のような冷汗を流しながらも、すらすらとこんな台詞を吐けるのだからアスカも只者ではない。

「ごめんね。その代わり、お昼には美味しいものつくるからね」

 にっこり笑うシンジ。

 ここに至ってアスカはようやく気付いた。

 シンジが一昨日とまったく同じように家事をしている。

 じゃ、昨日のことは?

 忘れてしまったってこと?それとも…。

 ああぁん、全然わかんないよぉ。

「あ、あのさ、シンジ?き、き、昨日のことなんだけどさ」

「昨日?はい、コーヒー。熱いからね」

「アリガト。あのさ…あの…」

 やはり言えない。

「さ、サイクリング楽しかったわね」

「はい?」

「だ、だから、昨日アンタと行ったサイクリングが楽しかったって」

「わかんないや。昨日はトウジの家に行っただけだよ」

「へ?」

「アスカ、いくら今日がエープリルフールだってそんなバレバレの嘘つかなくたって」

「ななななな、何言ってんのよ。今日は4月2日じゃないの!」

「アスカこそ変だよ。ほら」

 シンジが綺麗に畳まれている新聞を見せた。

 広告がまだ中に挟まっているその新聞の日付は、4月1日。

 それを見たアスカは奇声を上げて立ち上がった。

「嘘ぉっ!」

「嘘だよ」

「へ?」

 シンジはにっこり笑って座っていた。

「はい、こっちが今日届いた新聞。どうぞ」

 シンジはやはり綺麗に畳まれた広告付きの新聞を差し出した。

 アスカはその新聞をひったくると、シンジの頭をパシンと叩いた。

「痛いなぁ」

「こ、この馬鹿シンジ!人を騙すなっ!」

「エープリルフールじゃないとダメ?」

 悪戯っぽく笑うシンジに、アスカはすべてバレてしまったことを悟った。

 椅子にどすんと腰掛けると、アスカは大きな溜息をついた。

「なぁんだ。いつ、わかったの?」

「えっと、いつかなぁ…。さすがにミサトさんの部屋の時は僕も混乱したけどね」

「だからいつなのよ?」

「言わなきゃダメ?」

「ダメ」

 アスカは膨れてみせた。

「じ、じゃあさ、今日は絶対に本当のことを言わないとダメだって日にしない?」

「何それ。ま、いいわ。私は隠し事なんかないしさ」

 早速大嘘を吐くアスカである。

 それより何より、シンジがどうして気付いたのか。それが知りたいのだ。

「じゃ、今日は絶対に本当のことを言う日だよ。いいね」

「いいわよ。だから、早く言いなさいよ」

「わかった。じゃ、ちょっと待っててね」

 シンジは自分の部屋に戻っていった。

 その背中を見つめながら、アスカはコーヒーを啜る。

 アスカ好みの甘さとミルクの量。

 何だか飼いならされてるって感じよね…。それは決して悪い感じじゃなかった。

 シンジの足音には敏感なアスカだ。

 ダイニングに向かってくるその足音に徐々に胸の動悸が早くなっていく。

 シンジはどうしてアレが嘘だとわかったんだろう。

 シンジはアスカの横に立つと、静かに小さなノートをテーブルに置いた。

「これ…?」

「うん。恥ずかしいけど、僕の日記」

「じゃ…」

「いくら後遺症でも、書いたことまで変わっちゃったりしないよね」

 アスカはその小さな日記を手にした。

「読んでいいの?」

「全部は読まないでよ、恥ずかしいから」

 シンジは真っ赤な顔をして「3月31日のだけだよ」と付け加えた。

 パラパラとページをめくり、その日付を探す。

 その指が止まった。

 

 ぼふっ!

 

 ただでさえ赤かったアスカの顔が真っ赤に染まった。

「わ、わかった?」

 アスカは言葉を出すことができずに、ただ何度も頷いた。

「着替えに行ったときにそれを見たんだ。だからアスカやみんなが僕をかついだんだってわかって…。

 でも、せっかくのエープリルフールだから今日は一日騙されたままでいようかなって」

「そ、そうだったんだ」

「だって、アスカが僕のことを“あなた”て呼んでくれるから…」

「嬉しかったんだ…」

「うん。凄く嬉しくて。だから…」

「これからも…呼んで欲しい?」

「う、うん…」

 シンジは期待を込めてアスカを見た。

「い・や・よ」

「……」

 一瞬で青ざめたシンジに、アスカは優しく微笑みかけた。

「馬鹿ね。今はイヤだっていう意味よ」

「えっ!」

「だってまだ私たち15歳にもなってないんだもん。しばらくはこのままで…」

「じゃ、大人になったら?」

「それはこれからのアンタの頑張り次第よね。頑張ってみる?」

「当たり前だよ!」

「じゃ、そういうことで」

 アスカはもう一度日記に目を落とした。

 

 ぼふっ!

 

 何度読んでも顔が赤らむ。

「あ、アンタって…。結構、思い切ったこと書くのね」

 文章にはしていないが、これに類したことならアスカも毎日のように妄想しているのだが。

 自分を棚に上げて、アスカはシンジを冷やかした。

「う、うん…。言葉にはできなくても、文章なら…。思ってることは全部書けるし…」

「でも、言葉にはして欲しいなぁ。今日はホントのことしか言っちゃダメな日なんでしょ」

 期待を込めてアスカはシンジを見る。

 日頃の彼とは違い、決心したシンジはまっすぐにアスカを見ていた。

「好きだ、アスカ。誰よりも」

 アスカは昇天してしまいそうだった。

 毎晩のシュミレーションでは仮想シンジが何度も言う言葉だ。

 でも、現実に目の前でこういう風に言われると、返す言葉は頭から完全に消えていた。

「は、はは、そ、そうなんだ。はは、いや、まいっちゃったわよね。

 わ、わ、私のことが好きなんだ。な。な。何て言えばいいのか、はは…」

「本当のことを言ってよ、アスカ!」

「大好き!シンジ!」

 アスカは口を押さえ、シンジの顔はぱっと輝いた。

「ありがとう、アスカ」

「言っちゃった…ね」

 アスカは目を落とした。

 視線の先にはシンジが片思いのたけを思うが儘に綴った日記。

 一瞬の沈黙に、シンジは悪い予感がしたのだ。

 日記にさっと手を伸ばしたその時、アスカはその日記を掴んで立ち上がった。

「アスカ!ダメだよ、返してよ!」

「ダぁメっ!これは私の宝物!」

「か、返せっ!」

 シンジが真っ赤になってテーブルを回り込もうとした。

 その瞬間、アスカはとんでもない行動に出たのだ。

 立ち上がると、スカートをまくって、パンティーのお尻もめくって、そこにその小さな日記帳を押し込んだ。

 そして、スカートを戻すと、腰に手をやりいつものポーズでシンジを睨みつけた。

「こいつは私がいただいたわ!」

「そ、そんな!返してよ!」

「はん!こんないいもの返すわけないでしょ!」

「ダメだ、ダメだ、ダメだっ!」

「うっさいわねぇ。ふん!欲しけりゃ力ずくで来れば?

 ま、そんなことしたら痴漢では済まないわよねぇ」

 勝ち誇ったように仁王立ちするアスカ。

 シンジは考えた。

 もしアスカが言うように力ずくで彼女を押し倒して…。

 多分アスカはそれでも許してくれると思う。

 でも、やめた。

 いつかはしたいけど、まだしばらくは今のままでいい。

 彼氏彼女になった初日なんだし。

「わかったよ。もう書かないんだし、ね」

「何だ、もう書かないの?」

「だって、思いはもう叶ったんだし。こ、言葉にした方がいいんだろ?」

「う、うん」

 アスカはこくんと頷いた。

「じゃ、それはアスカに預けるよ」

「やった!ずぅ〜と大事にするね!」

 アスカはお尻の日記を押さえた。

 こんなの誰にも読ましたりしないないから。

 死んだら一緒に焼いてもらおう。

 遺言状にしっかり書いておこうと誓うアスカだった。

 もっともあと百年以上死ぬ気はなさそうだが。

 

 さて、この4月2日の物語は終わりだ。

 何故かって?

 せっかくの両想いになったのだから、その記念に遊びまくったのではないかと。

 その予想は外れである。

 アスカが徹夜を二晩続けていたことを忘れてもらっては困る。

 この朝の出来事が嘘ではないように、

 アスカはシンジをソファーに座らせ、その膝を枕にして横たわったのだ。

 「寝てる間に変な真似したら殺すわよ」と言い残して。

 あまりの幸せに眠れそうな気分ではなかったが、

 睡眠不足とシンジの膝の気持ちよさにアスカはすぐに眠りの世界に引き込まれた。

 目覚めた時はもう日付は変わっていた。

 当然、枕役のシンジも変な体勢で眠りこけていたが。

 

 

 

 4月3日の未明、腹ペコの二人はありあわせの食材を精一杯使って、記念日の御馳走としたのである。

 双方の片想いから、両想いの恋人へと昇格した記念日の。

 

 

<おしまい>


 

<あとがき>

 電波です。はい。

 エープリールフールに間に合わなかったからこういう話にしたのではありません(笑)。4月1日の夜にふと思いついたもので…。

 トウジの妹はカコ(笑)ちゃん。当時と過去ってことで。サクラちゃんは岩男さん繋がりですね。

 いや、読み飛ばしてください。今回は。二度三度くすっとしていただいたらそれで本望です。

 

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