すばらしいCGを描いてくださった、たんぼ様に捧ぐ


2005.03.14         ジュン

CG : たんぼ様






 話は2月14日の夕方に遡る。
 その時、まるで神様がアスカの熱望に応えたかの様に、真っ赤な夕日が第三新東京市を包んでいた。
 その日は火曜日だったが、アスカは学校が終ると同時にシンジを引きずるようにして帰宅。
 そして、ショッピングに付き合いなさいと厳命し、街へと向ったのである。
 ここまでは計画通り。
 そう、計画通りだった。



 アスカにとって初めてのバレンタインデー。
 去年は使徒戦でそれどころじゃなかった。
 いや、その頃はシンジへの想いにまったく気づいていなかったのだが。
 しかし、今年のアスカは気づいている。
 気づいているどころか、これまでの自分の悪行に対して贖罪の念に苛まれている。
 ところが、そこがアスカである。
 贖罪の念のために余計にシンジに対して傍若無人に振舞ってしまっているのだ。
 まったく素直じゃない。
 すでに鈴原トウジとA+αまで進んでいるヒカリは親友の兇状にあきれ果てていた。
 因みにαというのは大人のキスというわけだ。
 もうひとつ因むとアスカとシンジについては、あの鼻つまみキス以上の進展はない。
 あれをAと認識してもいいのかどうか。
 アスカは判断に苦しんでいた。
 気持の上ではアレをファーストキスだと考えたくはない。
 しかし、アレをしたことでシンジを自分のものに出来るのなら話は別だ。

 こっそり相談した相手が悪かった。
 何しろその女性はシンジとA+αを経験したことがあったのだから。
 ネルフの廊下で真っ赤な顔でやっとの思いでその経験を告白したアスカに、
 即座にそれはAではないと断定したばかりか、シンジとのキスまで喋ってしまった。
 当然、アスカは怒った。
 その場で飛び掛っていったが、相手もさる者。
 あっさりと身をかわされてしまい、廊下から中央司令室に逃走されてしまった。
 その時の報復措置は帰宅後に彼女のビールをすべて処分することであった。
 もちろん、それを予測していたミサトはその日から毎晩加持のところに泊まるという対抗手段に出た。
 その3ヵ月後にミサトと加持ができちゃった婚を執り行ったのもおそらく作戦部長の策のひとつだったのだろう。
 もとより、ミサトが加持のところにしけ込んだのは、しばらく二人きりにしてその関係に進展を促そうという、
 未成年者に対しては危険な状況をつくってあげようというとんでもない親心であった。
 しかし、その結果はやはり二人に進展はなかった。
 アスカがまたもや照れ隠しの傍若無人モードでわがままいっぱいにふるまってしまったからだ。

 さて、問題の相手。
 碇シンジはどのように思っていたのだろうか?
 いささかピントのボケている彼は、自分とアスカは既に交際しているものだと誤解していた。
 状況を深く知らない周囲の人間はアスカとシンジが肉体関係にまで及んでいると決め込んでいたし、
 かなり悪意のこもった噂では妊娠しているとまで陰で囁かれていた。
 また、二人の関係の進捗を知っているものたちは、前述のヒカリの如くあきれ果てていた。
 何しろ、お互いを大好きであるということは目に見えて明らかなのだから。
 あの碇(旧姓:綾波)レイでさえ首を振って溜息をつくくらいなのだ。
 碇(旧姓:赤木)リツコにいたってはアスカに自白剤を使おうとして夫に止められたほどだ。
 ところが二人は交際中と誤認しているシンジは周囲のイライラがわかっていない。
 毎日が楽しくて仕方がないのだ。
 ミサトが姿を消してしまった夜から、コンフォート17は二人だけの愛の城。
 毎日のように繰り広げられるアスカの甘えた言動はシンジを喜ばせた。
 そう、傍若無人な言動がすべてシンジの頭では自分への甘えた行為だと変換されていたのである。
 それはある意味では正しい。
 シンジに甘えていればこそ、ああいう行動をとることができるのだから。
 もしシンジの心が別の女性に向いていることがアスカにわかっていたなら、
 傍若無人どころか精神崩壊へと突入していただろうから。
 アスカもシンジが自分に好意を持っていることはよく認識していた。
 ただその好意がヒカリたちがいうような、自分を愛している というレベルのものだとはどうしても理解できなかったのである。
 アスカは確証が欲しかった。
 欲しいならとっとと告白でも実力行使でも何でもすればいいのだが、
 こと、人に愛されたいという分野ではアスカは臆病者なのだ。
 特に自分が愛されたいと思う人に対しては余計にである。
 その臆病を隠すために傍若無人というのはかなり問題だとは思うのだが。



 はてさて、そのバレタインデー。
 恋する乙女にとっては絶好の日である。
 アスカは今日こそはと気を引き締めていたのだ。
 チョコレートに大きく「本命』という字が入っているものを選ぼうとも考えたが、
 変に誤解されてはとおしゃれな感じのチョコレートに決めた。
 カードに『好きです』と書こうとも思ったが、
 文字よりも言葉で伝えないといけないとそれはやめた。
 ただ、二人の動向を鵜の目鷹の目で見ている連中の目でチョコを渡すのはイヤだ。
 何故なら、もしシンジが喜びのあまり自分を抱きしめて唇を……。
 そんな展開になれば、いい見世物になってしまう。
 ファーストキス(結局鼻つまみキスはカウントしないことにアスカは決めた)を衆人環視の中で行うことなどできやしない。
 そのため、放課後になったら即座にシンジを連れ出すことにした。
 本当はシンジを学校に行かさず、他の女子から隔離してしまいたいのだが、真面目に“クソ”がつくシンジにそんな説明などできない。
 もっとももしシンジがアスカにその申し出を受けたなら二つ返事でOKしていただろうに。
 彼にとってはチョコレートはアスカ一人だけでよかったのだから。
 そんなことを知らないアスカはその当日、朝から放課後までを耐えに耐えた。
 告白までの緊張感もさることながら、問題はシンジを訪ねてくる女生徒たちだった。
 アスカとシンジの関係は深いと…実際それは誤認ではないのだが…、そう思いながらもやはり自分の想いは伝えたい。
 しかしアスカの視線が怖いから、義理と連呼して。
 チョコの中身を見てもらえればカードに本命だと書いているのだから、まずは渡すことが先決。
 何しろ下足箱などに入れてしまえば、嫉妬に狂ったアスカに処分されてしまうのは目に見えるからだ。
 そんな女生徒が16人。
 その数はアスカには予想外だった。
 多すぎる。
 どの子も私の敵じゃない…とは思うものの、中にはけっこう可愛い子もいたりして。
 アスカは努めて平静を装った。
 だが、周りから見ると明らかに物凄い怒気が身体中から漂っている。
 君子危うきに近寄らず。
 この場合、君子でなくてもアスカに近寄ってはならないことくらいわかる。
 ヒカリでさえ喋りかけられないのだから。
 彼女も愚痴と悪態のオンパレードを聞きたいとは思わないのだ。
 何しろ、今日はバレンタインデー。
 トウジの喜ぶ顔を見るのが一番で、親友のフォローはこの際あきらめたわけだ。
 ただ一人、放置されたアスカはひたすら負のエネルギーを蓄積していった。



 そして、夕方。
 アスカは綿密に事前調査を執り行っていた。
 人気が少なくて、それでも結構綺麗なところ。
 何しろ人生最大の記念日にするはずだったのだから。
 向った場所は第3新東京市郊外に位置する、展望台のある公園。
 アベックのデートスポットとして有名な場所だ。
 当然、バレンタインデーのこの日はカップルで一杯のはず。
 とくに展望台は。
 で、アスカが選んだのは展望台ではなく、その公園に隣接するとある施設。
 そこの閉ざされた扉の横にはこんなプレートが取り付けられていた。
 『定点観測所 ネルフ管理物件』
 使徒戦の時に使われていた無人観測所だ。
 すでに機械等は取り払われていたが、森に囲まれた建物の裏側が展望台と同様に市外を見下ろせるようになっていた。
 観測所なのだから見晴らしがいいのはもっともなのだが、
 偶然ここを発見したアスカの口がいつぞやのように「ちゃ〜んす」と醜く歪んでいたのは当人だけの秘密だ。
 ここの鍵を入手するに当たっては、リツコに頼むしかなかった。
 ミサトなどに頼めば鍵のついでにギャラリーと化すのは目に見えているから。
 リツコはただ微笑みながら無言で鍵を渡してくれた。
 それでも前日にアスカが現地をチェックした時に、カメラなどが備え付けられていないか捜してしまったのはご愛嬌だ。
 もっともその日までリツコがカメラやレコーダーを仕掛けたいという欲求と戦っていたのは当人だけの秘密としておこう。
 何しろ、アスカは彼女にとって義理の息子の嫁となるかもしれない…まず間違いない。MAGIも太鼓判を押しているのだから…。
 義理の義理の娘となるわけだから、無用な軋轢は起こさない方がいい。
 ここらあたりがミサトと違って大人なのだとリツコは自分を納得させたのである。強引に。

「へぇ、知らなかった。こんな場所があったんだ」

 さすがに鈍感なシンジでもこれから起こる出来事は予想していた。
 いや、熱望していたのだ。
 アスカからのチョコレート。
 別に本命とか義理とかなど、シンジの頭にはない。
 もはや二人は同棲中なのだから、取り立ててそんな区別がチョコには必要なかったのだ。
 渡す側のアスカとは違って。
 
「そ、そ、そうよ!ぐ〜ぜん発見したのっ!で、で、で、アンタにも見せてあげようかって思ってさ」

 ああ、どうしてすんなりセリフが言えないんだろう!
 昨日の予行練習ではあんなにすらすら言えたのに!
 一昨日も、一昨々日も、その前日も!

 ああ、どうしてアスカはこんなに可愛いんだろう!
 この素直じゃないところが素敵なんだよ!
 見え見えなのに突っ張っちゃって、あああっ大好きだ!

 このシンジの想いをアスカが知ったなら使徒を相手にダンスでもしかねないほど喜んだことだろう。
 だが残念なことに、彼女はそれを知らない。
 それどころか、シンジの様子を窺うことなどまったくできずに、いつもの自問自答モードに突入していた。

 しっかりするのよ、アスカっ!
 でもでも、シンジがアタシの想いに応えてくれなかったら?
 そんなことないわよ、あのレイだって太鼓判を押してくれてるじゃない!
 だけどあの子は最近性格が読めなくなってきてるし、面白がってってことも…。
 馬鹿、馬鹿、馬鹿アスカ!自分を信じなさい!
 ああ、でもでもでも。
 あ、次のセリフなんだっけ?

「わぁ、見てごらんよ。ジオフロントがあんなに小さく見えるよ」

「ほらっ、シンジ。御覧なさいよっ!ジオフロントがあんなにちっちゃくみえるわっ!」
 
 シンジの言葉は耳に入ってない。
 自分のシナリオを進めるので手一杯なのだ。
 シンジは吹き出したいのを必死で抑えた。
 ここで笑ってしまったらアスカのことだ。
 機嫌を損ねて引き返してしまうかもしれない。
 それは困る。本当に困る。
 なにしろ、今日は特別な日。
 バレンタインデーなのだから。
 
「ああ、本当だね。小さいや」

 こういう事が言えるようになったのは僕も成長したもんだ。
 シンジは頭の中で自画自賛した。
 
 夕焼けが周りを包んでいる。
 
 よし、天はアタシに味方してる。
 これなら、どんなに顔が赤くなっても大丈夫。
 カモフラージュしてくれるわ。
 
 アスカはシンジに見えないようにして頷いた。
 いよいよだわっ!

 いよいよだっ!
 頷いたのはわからなかったが、アスカが左手を胸のところでしっかり握り締めているのが見えた。

「し、シンジぃっ!」

 アスカの視線はシンジから斜め右60度を睨みつけている。
 そこにあるのは機械を撤去した後のボルトの穴が開いた壁。
 
 だ、ダメ。シンジの顔が見られない。
 し、仕方がないわ。
 こうなったら、このチョコと「愛してる」って言葉で!
 アスカはコートの左ポケットに入っているチョコレートの箱を取ろうとした。
 げっ、右手が出ない!
 ずっとポケットに突っ込んでいた右手が緊張のためか言うことを聞いてくれない。
 し、仕方がないわ。
 別に左手で渡しちゃダメって事もないし。
 ないよね?
 アスカは左手をポケットに突っ込んだ。
 よし、ちゃんと入ってる。
 何度もその所在を確かめていた箱。
 間違えて財布とかティッシュとかを渡しちゃ、笑い話にしかならない。
 それでもアスカは不安だった。
 ちゃんとラッピングしたよね。
 ちゃんと中身はチョコレートだったよね。
 練習用に使ってたコミック本じゃないよね。
 あんな昔の少女漫画を読んでるなんて知られちゃ恥ずかしくって死んじゃうわよ。
 カバーを哲学の本にしておいてるからバレちゃいないはずだけど。
 よし、しっかりつかんだわよ。

 さあ、行くわよっ、アスカっ!

「こ、これっ!」

 賽は投げられた。
 
 しかし、言葉は出てこない。
 ただ、シンジに向って思い切りチョコの箱を突き出しただけ。
 目線はやはり壁に向っているから、彼がどんな表情でいるのかわからない。
 アスカは沈黙が怖かった。
 シンジが怪訝な顔でいるかもと、彼女の頭に疑念が渦を巻いて捲き起こりはじめている。
 早く何か言わないと、シンジにあらぬ誤解を与えてしまう。
 これは義理チョコではないのだから。義理ではないの!義理じゃ…。

 最後に思い浮かべた単語が悪かった。

「義理よ、義理っ!」






 言ってしまった。
 自分の唇から諦めとともに吐息が白く漂っていく。
 もう目は虚ろで、睨みつけていた壁さえ判然としない。
 ああ、何て事を…。

 ああ、アスカはやっぱり可愛いなぁ。
 こんなシチュエーションをわざわざ作って、それで義理チョコを渡すはずがないじゃないか。
 それなのに恥ずかしがっちゃってもう…。
 
 シンジは幸せだった。

「ありがとう。嬉しいよ」

 チョコを受け取られた左手が軽くなる。
 この手をアタシはどうしたらいいのだろうか?
 アスカはぎこちなくその手をポケットに収めた。
 何よもう、白々しく嬉しそうな声出しちゃって…。
 彼女はやはりシンジの顔を窺うことができなかった。
 一目見たなら、彼の歓びに嘘がないことくらいわかっただろうに。





 それから一ヶ月が経とうとしている。
 二人の間は進展なし。

 バレンタインデーの日はアスカへの感謝も込めてテーブルにはご馳走が並んだ。
 自分の失態に無口になってしまったアスカは、それでも美味しいと思いながら、しかしやはり誤解していた。
 きっと義理チョコをたんまり貰ってご機嫌なのだろうと。
 
 翌日は幸せ一杯のヒカリに向って愚痴を連発。
 しかしながら「次がんばったらいいじゃない」と軽くいなされてしまう。
 どうやらホワイトデーまで待ちきれずにお好み焼きをご馳走になるようだ。
 いつの間にか惚気話に転じてしまった親友には見切りをつけ、アスカは次の獲物に目を移した。
 碇(旧姓綾波)レイ。
 ずっと二人と一緒にお昼を食べる仲になっている。
 しかしその目的はアスカ曰く、シンジの作ったお弁当を狙っているためだとのことだが…。
 確かにレイはアスカの隙をついておかずを狙う。
 最近はお肉も食べられるようになっている。
 寛大なアスカはわざと隙を見せてあげてるのだとシンジに胸を張って言う。
 ありがとうアスカ、と言ってもらいたさに。
 もっとも、レイが度を過ぎるとアスカのお箸は剣と化す。
 無言でから揚げを争う友人二人にヒカリはいつも呆れ顔だった。
 さて、そのレイ。
 バレンタインデーには義理チョコをばら撒いた。
 もっとも相手はネルフ関係者に限定されていたが。
 その中の一人、碇ゲンドウは喜び、そして膨れた。
 何故、私だけではないのだと。
 当然、そんなことをのたまう口には新妻特製のスタミナ剤がたんまり仕込まれたチョコレートのチューブがねじ込まれたのであるが。
 この年の終わりに生まれた子供はこの夜に仕込まれたのだとか何とか。
 そんな先の話はこれまでにして、レイである。
 アスカが口を開く前に、彼女はすっとお箸で玉子焼きをつまみあげた。

「あ、いつもより美味しい」

 ぼそりと言うが早いか、二個目をつまむ。
 まずいと思ったアスカが慌てて最後の玉子焼きを口に運んだ。
 何しろ愚痴を言うのが忙しくてまだお弁当に手をつけていなかったのだ。
 
「ホント。美味しい」

「ええ、唐揚げも見事だわ」

 ぎょっとしてレイを見ると、その頬は異様に膨らんでいる。

「アンタっ、どれだけ食べればいいのよ!」

「ごうげ、ごががぎっがいだべべば…」

「わかった。とにかくその口に入れてる分は許してあげるから、さっさと食べちゃいなさいよ」

 アスカは寛大だった。
 そしてレイが咀嚼している間にこれ以上被害が拡大しないように必死でお弁当に取り組む。
 確かに美味しかった。
 シンジの料理が少しだけ美味しくなる時…いつも美味しいのだからその微妙な違いがわかるのはこの二人だけかもしれないが、
 それは彼に何か嬉しいことがあったときだった。
 レイはアスカがチョコを渡した効果だと確信し、
 アスカは多くの女生徒からチョコを貰ったためだと誤解した。
 


 その後の二人の日々には表面上なんら変わるところはなかった。
 そう、表面上は。
 シンジの方はさらに二人の関係が進展したものと喜びを胸に毎日を楽しく過ごし、
 アスカは不安と失意を胸に、それでも毎日シンジが笑いかけてくれ、そしてほとんどの時間を二人で過ごしているために、
 毎日の生活にただ流されていた。
 ここで変に強引なアプローチをして砂上の楼閣を崩すような真似をしちゃいけない。
 アスカはそう思っていた。
 砂上の楼閣?
 とんでもない。
 二人の関係は鉄筋コンクリートどころか、超合金仕様でたとえ使徒が束になってかかってきても揺るがないほどに仕上がっている。
 これがあの優柔不断だったシンジかと思うくらいに。
 それに気付いていないのはアスカだけ。
 何しろ、シンジがちゃんと報告しているのに思い切り曲解している始末だから。
 報告とは何かというと、バレンタインデーに義理と見せかけて本命チョコを渡した16人の勇猛果敢な戦士について。
 勝ち目がないと知りながら、自分の想いに忠実に攻め込んでいったのだ。
 彼女たちの気持に報いるにはきちんと対処しないといけない。
 碇シンジも成長したものである。
 トウジとケンスケもそんな親友の姿にうんうんと頷いていた。
 ヒカリもレイもそうだった。
 人を愛し、その相手に愛されているという自信が彼を変えたのだろう。
 いささか一方的な思い込みではあるのだが。
 もっともアスカの状況認識という一点だけが食い違いなのだ。
 それ以外の部分は誰が見てもアツアツのカップルだ。
 何しろ同棲までしているのだから。
 
 因みにこの時の日本では法律が改正されていた。
 その理由はセカンドインパクトとサードインパクトの結果、人口が激減したため。
 改正されたのは、3人目以上の子供を産んだ夫婦には国から多額の育英援助金が出ること。
 そして、婚姻可能年齢が15歳に引き下げられたこと。
 ただし、それに伴い刑法も改正された。
 少年法の適応年齢が14歳以下とされたこと。
 家族を持つことができるからには社会的な責任も同様に持たねばならない。
 もっとも、婚姻年齢引下げには何処かからの要請と圧力があったようだ、
 どうやら、碇ゲンドウは初孫の顔を早く見たいようだと、彼らの周囲で噂が立った。
 ただし、これは日本のみならず世界的にその傾向にあった事は確かだ。
 その情報を元に政府に早急な決断を迫った男がいたのも事実だが。

 さて、アスカとシンジは二人とも15歳になっている。
 婚姻届は中学を卒業しないとが受理されない。
 シンジは卒業式を待ちに待っていた。
 当然、彼はアスカもその日を待っているものだと思い込んでいた。
 アスカは…。
 当然、彼女はそのことに思いもついていなかった。
 彼女にとって二人の関係は恋人未満。
 結婚どころではない。
 逆にシンジがキスまでをも我慢しているのは結婚してからのことがあるから。
 結婚すれば後ろ暗いことは何もない。
 好きなだけあんなことやこんなことを…。
 シンジも健康な男なのだ。
 近い将来が見えているからこそ我慢もできたのである。
 来るべきバラ色の夫婦生活のためにイメージトレーニングを繰り返してきていることは当人だけの秘密だ。

 話が脇に逸れた。
 バレンタインデーの翌日のことだった。
 シンジは義理チョコという名の本命チョコを贈った女生徒たちを一人ずつ訪ねた。
 そして、その気持に応えることは絶対にありえないと頭を下げてきたのだ。
 レイたちがそんなシンジの姿に感心したのも当然だろう。
 問題はアスカ。
 彼女だけが誤解していた。
 全員に断りと謝罪をしてきた後に彼女に向ってシンジははっきりと言ったのだ。
 「みんなにちゃんと断ってきたからね」と。
 それをアスカはまたもや思い切り曲解した。
 恋人でも婚約者でもない自分に、笑顔ではっきりとそんなことを告げるのはおかしいと。
 だが、そんな思いでいることをシンジに悟らせて嫌われたら困る。
 だからその場はいつもの一言で済ませた。



 当然、その後で親友二人に泣きついたのだが。
 いつものようにヒカリとレイは「アスカの取り越し苦労だ」と宥めたのだが、
 いつものようにアスカは「慰めはよしてよっ」と泣き続けるだけ。
 そして、いつものように親友たちはあきれてしまい、
 そして、いつものようにアスカは泣き顔を完全に隠して家路を辿った。
 シンジの前で女々しい顔を見せたくないから。
 そんな顔を見せて嫌われたくないから。

 その日からシンジはアルバイトを始めた。
 扶養者の絶対数減少により、中学生のアルバイトは公的に認められている時代である。
 ただし、シンジがはじめたのは、トウジの紹介で彼も行っている流通トラックの横乗りだった。
 仕事は荷物をトラックに積むのと行先で降ろすこと。
 運転ができないからそんなに高いバイト料ではないが、それでも肉体労働だけに販売業よりは実入りがいい。
 どうしてそんなバイトをするのかというアスカの問いにシンジは少し顔を赤くして答えた。

「ホワイトデーのために、ね」

 シンジはアスカに婚約指輪を送るつもりだった。
 結婚指輪は学業を終えて働いてからきちんとしたものを贈るつもりだった。
 だが婚約指輪については明確に婚約したわけではない上に、
 すぐに結婚するのだからと不要と考えていたわけだ。
 しかし、バレンタインデーであんなにはっきりとアスカに意思表示をされてしまうとそうはいかない。
 彼女のピュアな気持ちに応えるためには自分に今できる最大限のことをプレゼントしたい。
 シンジにしてはよく考えたものだと褒めてやりたいところだが、実はトウジの真似。
 トウジがホワイトデーに婚約指輪を贈ると聞き、自分も真似したわけだ。
 そのことであの頑固なアスカも状況がよく了解できるだろうと、トウジたちも彼から情報を聞いたヒカリたちも大きく頷いた。
 ただし、みんなからそのことを聞いてもシンジは首を傾げるだけだった。
 僕たちはいつもラブラブなのに、と。
 確かに状況はその通りだ。
 
 ホワイトデーのために多額の資金を必要とする、シンジの真意はまたもや曲解された。
 顔を赤らめたのも、資金を必要とするのも、あの16人の女生徒のため。
 もし、シンジが自分の所有物であるならば、再起不能になるまでその浮気心を戒めてやるところなのだが、
 あいにく二人はまだそんな関係になはい。
 従って、今アスカにできることは笑ってシンジを迎え入れること。
 アルバイトに行っているという事は疑わなかった。
 汗びっしょりで疲れきって帰ってくるのだから。
 そんな彼のためにアスカは一念発起した。
 家事をするのである。
 掃除、料理、お風呂の準備、それに洗濯。
 これまでシンジに任せきりにしていた分野に手を出そうというのだ。
 もっともアスカは家事に無能なわけではない。
 シンジに恋心を抱く前までは、その方が楽だったから。
 そしてその気持に気づいてからは、彼が自分のために動いてくれるという歓びに身を任せていたから。
 これではいけないと、ようやくアスカは決意したのだ。
 料理以外はこれまでの知識と経験で何とかなる。
 ドイツにいたときは自分でしてきていたからだ。
 だが、料理だけはそうもいかない。
 むこうでは施設の食堂を利用していたのだから。
 それに日本人の口に合う料理でないと。
 となると、頼みの綱は洞木ヒカリ。
 因みにレイの存在は最初からアスカの頭の中では除外されていた。
 但し、彼女の名誉のために付け加えておくと、碇家では毎夜義理の親娘が協力して手料理を作っているのである。
 しかもここ最近は碇ゲンドウの胃腸薬の服用頻度は減ってきたようだ。
 ともあれ、ヒカリはアスカの申し出を歓迎した。
 すでに主婦となるべくその技量をさらに向上させていっているヒカリである。
 近い将来同じように主婦となるべきアスカが現状のままでいていい訳がない。
 例えアスカの誤解が産んだ状況であってもここはそれを利用すべきである。
 ヒカリの脳裏に『碇アスカ育成計画』なるものが浮かんだのはこの時だった。
 愛する夫(ほんの2ヵ月後にはそう呼べるのだ)の友人に素晴らしいプレゼントができる。
 しかもそれが自分の親友なのだから。
 それに二人の子供が産まれて…そこまで想像した時ヒカリは恥ずかしさと嬉しさに意識が飛んでしまいそうだったが…、
 とにかく鈴原家と碇家の子供が育っていく時に友達同士で育児の相談や家事の協力ができるというものではないか。
 今のままのアスカではその協力相手がシンジになってしまう。
 ヒカリにとってそれはできない相談だ。
 何が何でもアスカに育ってもらわないことには。
 親友同士の利害は一致した。



 こうなると、アスカの身体に流れる3/4のドイツ人の血が幸いした。
 何より整理整頓と教育、そして計画立案と遂行が好きな人種である。
 ヒカリの想像以上の物凄いスピードでアスカの主婦化は進んでいった。
 それを身をもって体験していったのがシンジである。
 アルバイト初日に疲れて帰ってきたとき、彼は言葉を失った。
 まずはビジュアル的に。
 彼が想像していたのは不機嫌なアスカ。
 「お腹が空いてるんだけどっ」などと甘えて(シンジ視点で)、腰に手をやって膨れ顔で仁王立ちするに違いない。
 ところが、である。

「はんっ、やっと帰ってきたわねっ」

 靴を脱ぎかけたシンジの手が止まった。
 目の前に立っているのは予想通りに腰に手をやって仁王立ちしているアスカ。
 但し彼女は斜め右45度に顔を捻じ曲げ、その上割烹着を着ていた。

「食事?それとも、お風呂?早く決めてよねっ!こっちは忙しいんだからっ!」

 ヒカリが教えたとおりの台詞は言えなかった。
 『おかえりなさい、アナタ。お食事になさいます?それともお風呂?お疲れになったでしょう?』……。
 恥ずかしくて、恥ずかしくて。
 それにまだこんな大胆な台詞を言える関係ではない。
 もっともシンジが帰ってくるまでは、一所懸命に顔を真っ赤にしながらこの通りの台詞を何度も繰り返していたのだが。
 それが、いざ本番となるとしっかりアスカ語に翻訳されて口から出てしまうのだから、
 彼女の『対シンジ素直に応対できない病』も深刻である。
 ただし、ことシンジだけはアスカ語を現代日本語訳へと見事に翻訳できるのである。
 『おかえりなさい、アナタ。お食事になさいます?それともお風呂?お疲れになったでしょう?』……。
 アスカがこんな優しい言葉で出迎えてくれた。
 シンジは感動していた。
 
 ああ、アスカ…!
 もうすぐやってくる正式な結婚生活のために主婦の特訓を始めたんだね!
 ど、どっちを選べばアスカは喜んでくれるんだろう?
 両方一緒にはできないし…。
 お風呂に一緒になんて…。あわわわわっ!それはまだだっ!まだ早いぞっ!碇シンジ!
 じ、じゃ、食事を一緒に、だったらどうだ?
 う、うん、これならいい。絶対にいい!

「し、し、食事!あ、あ、アスカと一緒にた、た、食べたいなって!」

 変な妄想を抱いた分だけ言葉がすんなり出てこなかった。
 そのぎこちない言葉にアスカはまた誤解してしまう。
 無理に言っているんじゃないだろうか、と。
 おかげでいつもより饒舌で料理を口に運ぶシンジに比べ、アスカは無口で箸の動きも滞りがちだった。
 勘違いとは恐ろしいものだ。
 シンジはアスカの落胆を恥じらいの所為だと思い込んでしまった。
 ここでシンジが素直に自分の想いを言葉にしていれば、この後一ヶ月近くへと及ぶアスカの苦悩はありえなかっただろう。
 もっとも、その苦悩が消え去った後には彼女が思いもかけなかった人類史上最高の歓びがやってきたのだが。

 しかし、その歓びを得るまでにはまだ26日もの時間が必要だった。
 一度は落胆したアスカだったが、燃える闘志を体内に宿す彼女である。
 逆により一層家事に身を入れることになった。
 そしてついにはお弁当作製権までをシンジから剥奪するに至る。
 さすがのシンジもそこまでされてしまうと反抗したくなってしまった。
 何しろ彼にとってアスカの食事を作るのは至上の楽しみだったのだから。
 
「い、いい加減にしてよ!ぼ、僕にもお弁当くらい作らせてよ!」

「う、うっさいわねっ!アタシのつくったものが気に入らないってわけぇ?」

「ち、ち、違うよ!これが本当にアスカが作ったものかって思うくらい美味しかったよ!」

 頭に血が上ったシンジは言葉の選択を誤った。
 アスカは眉間に皺を寄せ、上目遣いにシンジを見据えた。
 
「へぇぇぇぇっ、そぉ〜なぁんだぁぁぁぁっ。じゃあぁぁぁ、アタシがつくるものなんか美味しくないって決め付けてたんだぁぁぁぁぁっ」

 失言に気づいたときはもう遅かった。
 平手が飛んでくるかと思ったら、アスカが予想外の行動に出た。
 ぼろぼろと涙を零すと、自分の部屋に閉じこもってしまったのだ。
 シンジは慌てた。
 久しぶりに余裕も何処かに飛んでしまった。
 彼は足をもつれさせながらアスカの部屋に向かったが、そこから先には進めない。
 ジェリコの壁は彼には健在だったのである。
 あの壁を壊したのはシンジではなくてアスカ自身だったから。
 そう、シンジは思っていた。

 事実は違う。
 確かにシンジから見ればアスカが自分で出てきたのだが、
 実際はそのままではドイツへ送還されるという話がアスカに伝えられたからである。
 退院後にあの部屋に引きこもった彼女にミサトから伝えられたのはドイツへの帰還要請。
 その要請にアスカはあっさりと乗った。
 ジェリコの壁の中から聞こえてくるその大声はシンジの胸を切り裂いたのである。
 そして、ミサトは彼女に二者選択を要求した。
 沖縄のリゾートホテルか、浅間の温泉か。
 日本の思い出に連れて行ってあげると。
 リツコのシナリオは完璧だった。
 そう、帰国要請自体が嘘だったのである。
 心が復活しないアスカのために大人たちが考えたこと。
 自分たちのためにあんなところにまで追いやってしまった彼女を擱いて、自分たちが次の場所へ進むことができないと。
 アスカは選んだ。
 一週間後、その場所から帰ってきた時、アスカはドイツへは帰らないことを宣言する。
 ジェリコの壁は崩壊したのだ。
 その翌日、アスカは登校した。
 あの頃と同じような笑顔で。
 ミサトたちの計画は見事に成功した。
 この旅の一部始終を記述する余裕はないのでここでは割愛する。
 そして本物の帰国命令書はゲンドウの手でシュレッダーにかけられた。
 この一連の計画についてはアスカとシンジだけが知らされていなかった。
 現在に至っても。

 さて、アスカがジェリコの壁を崩壊させたのは、その旅を通じてシンジへの想いに気がついたから。
 だから、壁を崩壊させたのはシンジであるという見方もできるのだが、彼にそんな意識は無い。
 ただアスカがドイツへの帰還要請を断って、その後二人だけの同棲生活を続けていることから、
 そして彼女がああだこうだと四六時中自分にくっついていることと、毎日が楽しすぎるくらい楽しいことで、
 自然の成り行きで二人はラブラブの交際中だという意識を持つに至っていたわけなのだ。
 それはある意味で正しかったのだが。
 ただひとつシンジの気になっていたのがアスカ本人から告白されてないということ。
 その気がかりもバレンタインデーで解消された。
 あのアスカなのだからああいう告白の方が彼女らしいといえる。
 ところが、この唐突なジェリコの壁の復活だ。

 シンジは困ってしまった。
 扉の前に立ったものの、中から聞こえるすすり泣きという展開はこれまでのパターンにはない。
 アスカが泣いている。
 年頃の女の子みたいに。
 シンジは困りながらもアスカの新たな魅力に胸がどきどきしていた。
 あのアスカが自分の前では涙を見せる。
 自分がしっかりしなきゃ!
 恋は少年を成長させる。
 結果から言うと、至極簡単に彼はアスカの涙を拭い去ることができたのである。

「あ、あのさ、こういうのはどうかな?アスカが僕のお弁当を作って、僕がアスカのをつくるっていうのは」

 すすり泣きはピタリと止まった。
 シンジにとってはまるで一日のような長い長い30秒が過ぎて、アスカのか細い声がした。

「お風呂」

「わ、わかった!準備してくるねっ」

 シンジはバスルームに突進する。
 泣き顔を見せたくないからだとシンジは了解していた。
 なんて可愛いんだろうと幸福感に満ち溢れながら。

 どたばたというシンジの足音を聞きながら、ベッドの上のアスカは溜息をついた。
 どうして素直に「ごめんね」と言えないんだろうかと自分を責めながら。
 こんなことでは今にシンジに見捨てられてしまうと慄くアスカだった。



 翌朝、キッチンで楽しげにお弁当を作る二人の姿があった。
 どう見てもラブラブである。
 実際、シンジは楽しくて仕方がなかったし、アスカもそうだった。
 ただ、ちょっとした隙に彼女の心には暗闇が押し寄せてくる。
 この楽しい日々がずっと続くことはないのではないか。
 いや、もしかしたらシンジが出て行ってしまったら…?
 アルバイトをするシンジの帰りを待つ時間。
 その時間がアスカにとってもっとも苦痛だった。
 もう帰ってこないのではないだろうか。
 半ば泣きべそをかきながら彼女はいつもベランダで待っていた。
 一応完全防寒はしていたが、寒空の下だ。
 2月が終ろうとする時、アスカは風邪を引いた。
 
「ただいま」

 いつもなら「遅かったわねっ」と仁王立ちしているアスカがそこにいない。
 何となく拍子抜けしたシンジが中に入ると、アスカはソファーでくったりしていた。
 慌てたシンジが駆け寄ると、アスカはゆっくりと瞼を上げた。

「あ、おかえり…。食事はできてるよ」

「ちょっと待ってよ。アスカ、熱があるんじゃないのっ」

「わかんない」

 シンジはアスカのおでこに手を置いた。
 すぐにわかるほど熱を持っている。

「熱があるじゃないかっ!早く寝ないと!」

「う、うん。そうする…」

 ふらふらっと立ち上がりかけたアスカは膝が砕けたようにまたソファーにお尻をついてしまった。

「あ…」

 シンジの動きは早かった。
 さっとアスカをお姫様抱きすると、彼女の部屋に歩き出す。
 アスカは熱も手伝ってまるで雲の上を動いているかのような気分だった。
 ベッドに横たわったアスカに熱を測ってと体温計を渡しても空返事で反応がない。
 それに服も着替えさせないといけない。
 シンジは…その責務を放棄した。
 30分後にはリツコとレイの義理の親娘が現れる。
 
「まったく…シンジ君?私は技術者であって医者ではないのよ」

「ごめんなさい」

「今流行っているインフルエンザのアンプルだって持っているはずがないのだから」

「でも何故か今それを注射したけど」

「レイ」

 さらりと突っ込みを入れた義理の娘にリツコは眉をひそめた。

「それにネルフの病院もイヤだってどういうこと?
 仕方がないから病院経由で回ってきたけど」

「くすっ、お母様ったら野暮」

「レイっ、その呼び方は止めなさいって」

「だって、お父様は喜んでる」

 リツコは溜息をついた。
 
「お父様って…まったく、あの人は」

「あ、あの、アスカは?」

 新しい碇家の女性たちのペースはシンジには歯がゆいばかり。
 最愛の女性が苦しんでいるというのに。

「大丈夫。それより、野暮って?」

 シンジへの返事は簡単な一言だけ。
 もっともシンジが血相を変えているほどの事はアスカの病状にはない。
 
「お兄ちゃんはアスカの肌を見せたくないから、お母様に頼んだの」

「あら、そう。でも、レイ。何故私がお母様で、シンジ君がお兄ちゃんなの?」

「絆だから」

「またわけのわからない」

「ごめん、でも僕心配で。
 あ、じゃ、僕が看病するから、二人とも…」

 少しばかり据わった目でシンジが呟くと、リツコがさっとレイに目配せした。
 ふっと笑ったレイがシンジの背後に回りこみ、ぐいっと羽交い絞めにする。

「ちょ、ちょっと、レイっ」

「ふふ、もう遅いの」

「えっ。ああっ!」

 リツコの動きも素早かった。
 あっという間にシンジの服の袖を捲り上げると、さっとアルコールを染ませた脱脂綿を肌に押し付ける。
 そして、用意していた注射針を突き立てた。

「暴れると痛いわよ」

「い、痛い…」

「お兄ちゃんは男の子」

 男の子であろうがなかろうが筋肉注射はやはり痛い。
 それに即効性の麻酔だ。

「な、何を…」

「シンジ君も寝ないとダメ。毎日遅くまでアルバイトでしょう?看護ならレイがするから」

「で、でも…」

「お兄ちゃんの看護は任せて」

「こら、レイ。看護の対象はアスカでしょう」

「アスカよりお兄ちゃんの方がいい」

「いい加減にしなさい」

 義理の親娘の漫才にも似たやりとりを聞きながら、シンジは徐々に意識を失っていった。
 レイにアスカのことを任せるのが心配だと考えながら。

 

 翌朝、シンジはずきずきする頭を押さえながら目を開けた。
 あの麻酔薬に副作用はないだろうなぁと懸念はあったが、それよりもアスカだ。
 何しろ彼にとっては1にアスカ、2にアスカ、その後もずっとアスカなのだから。
 アスカの部屋の扉は少し開いていた。
 レイの姿はない。
 シンジは少し躊躇って、そして強く頷くとアスカの部屋に入った。
 そして、アスカのおでこに手を当てる。
 平熱とはいかないが、それでも昨日の高熱とはまったく違う。
 シンジは安堵の溜息をついた。

 こほんっ。

 意味ありげな咳払いに振り返るとレイが立っていた。
 彼女は無表情においでおいでとシンジを手招く。
 小さく頷くとシンジはもう一度アスカの表情を窺った。
 苦しさはまるでなく、ただすやすやと眠ってる。

「お兄ちゃんのスケベ。女の子の部屋に夜這いをかけるなんて見損なった」

「よ、夜這いっ」

 リビングに呼び出されて開口一番、これである。
 シンジはレイの兄になってまだ日が浅い。
 だからリツコのようにレイの冗談の見分けはまだつかないのだ。
 またそれを言うなら“朝這い”だとなど、気の利いたことを言えるはずもない。
 したがって彼は顔を真っ赤にして自分の弁護に努める羽目になった。
 レイは思った。
 こういう反応をされるのがアスカには嬉しいのだろうか?
 自分にはよく理解できない。
 まああの“お父様”の息子なのだから当意即妙な受け答えを望む方が難しいかもしれない。
 それならば“お父様”のようにだんまりでいる方がかえって愛らしい。
 戸籍上の兄は取りとめのない言い訳を続けていたが、レイはもう興味を失っていた。
 そこで彼女がしたことは、シンジにフライパンを突きつけたこと。
 朝ごはんをつくれと。
 
 その後、シンジは後ろ髪を惹かれる思いで登校した。
 レイの方が登校して自分が看護だと主張したのだが、
 じゃ最初にアスカのパジャマを着替えさせてと言われ、何も言えなくなってしまったのだ。
 アスカとレイの欠席届を出しておけと背中を押されるようにシンジは追い出された。
 
「急がないと遅刻するわよ」

 彼女のその言葉をシンジはエレベーターの中で噛みしめていた。
 もし母さんが生きていたら、あんな感じで言われるんだろうか。
 言葉はそっけないのに、何故か気持が温かくなる。
 彼女は一応妹になるんだけどなぁ…。
 シンジはそんなことを思いながら、学校へと走っていった。
 
 さて、アスカにとっては義理の妹となるべく存在でありながら、遺伝子的には姑的気質も備えたレイは…。
 意外なほど、きちんと看護をしていた。
 何度かシンジからアスカの容態を尋ねる電話がかかってきたが、
 レイの返事はこれも素っ気無かった。
 まるで母親のように。

「アスカは大丈夫。しつこい。今度かけてきても取らないわ」

 結局シンジが帰ってきたのはいつもの時間。
 レイの対応に安心したためだろう。
 そのかわり、アスカがへこんだ。
 レイから無理矢理学校とバイトに行かせたと聞いたものの、やはり寂しかった。
 シンジの反応や行動はまったく脚色無しにアスカに伝えられてはいたのだが。
 それに、シンジからの電話をアスカが代わって喋ることができなかったのだ。
 レイの見ている前でどんな風に話せばいいのか見当もつかなかったから。
 虚勢を張る元気がなかったからだともいえる。
 だから、シンジが帰ってきたときもアスカはタヌキ寝入りを決め込んだ。
 ただ、わざと開けておかれた扉からシンジの声が聞こえてくる。
 
「アスカは?熱下がった?」

「ええ、もう平熱。あ、今はダメ。寝てるから」

「う、うん。ちょっとだけ、顔を見るだけだから」

 アスカはぐっと目を瞑った。
 まずいなと思いながらもことさらに寝息をたてる。
 アスカの野性の本能はシンジの接近を察知した。

「ああ…よく眠ってる」

 ダメよっ、反応しちゃダメ!
 アスカは身を硬くした。
 その時、おでこに柔らかな感触が。
 唇っ!のわけないよね。指よ指。
 ああっ、気持ちいいけど早く離しなさいよ、また熱が出てきちゃうじゃない!
 すっと指が離れる。
 あ…。
 名残惜しい。
 さっきは早く離せと思っていたのに、離れてしまったシンジの指がもう一度触れて欲しい。
 そう思わずにはいられないアスカだった。

「平熱じゃないんじゃない?まだ少し熱っぽいし、顔も赤かったよ」

「大丈夫ったら大丈夫。さあ、早くお風呂に入ってきなさい。食事はその後」

「う、うん、わかったよ」

 少し早歩きの足が遠ざかっていく。
 アスカは薄目を開けた。
 その目の前にどしんとお尻が落下する。

「きゃっ」

「まったく子供ね、お兄ちゃんは」

 お尻がぼそぼそと喋った。

「レイ。ママみたい…」

 アスカの呟きに対する返事はおでこを指で弾かれたこと。
 
「私、好きな人もいないのよ」

「し、シンジは…?」

 やっと訊けた。
 ずっと確かめたくて仕方がなかったことを。
 必死の思いで訊ねた言葉をレイはあっさりと否定した。
 
「お兄ちゃんは絆だから。アスカがお兄ちゃんを好きという気持ちとは違う」

「私の気持ち…」

「ええ、お兄ちゃんのことを好きで好きでたまらない気持ち。
 私はその気持ちは未経験。了解した?」

 ここまで冷静に言われると、言い返せない。

「ああ、そう言えば…」

 そこで言葉を切られて無言になってしまったので、
 彼女の言葉を反芻していたアスカが見上げた。
 そのレイはそれはもう嬉しげにアスカを見下ろしている。

「な、何よ」

「結婚式…」

「は?」

「私、フォーマルウェアって持ってないの。買わないとね」

 レイは言葉が足りない。
 彼女は別にアスカを惑わそうと思って言ったわけではなかった。
 ただ、アスカとシンジが結婚式をするならばおめかしするつもりだと。
 そう言いたかったのだ。
 だが、その結果は病み上がりのアスカに新たな大問題を突きつけただけに終ってしまった。
 にこにこ笑いながら出て行ったレイの背中をアスカは引き攣った表情で見送っている。
 彼女は失念していたのだ。
 15歳から結婚できるということを。
 彼女にとっては結婚以前の問題だったのだから仕方がないとも言える。
 ところがこのレイの一言で誰かが結婚するということを知った。
 誰かとは誰だ。
 ゲンドウとリツコは結婚済み。
 レイが着飾って結婚式に出席しそうな知人と言えば、残るは…。
 シンジ……!
 相手は誰だ!
 アスカは息を飲んだ。
 自分がその相手だとは現時点では彼女の想像の域を超えている。
 アスカは頭がくらくらしてきた。

 わかった、あのバレンタインのチョコを送ってきた女狐どもの中の一匹に違いない。
 例によって例の如く、やっぱり誤爆だった。

 

 翌日、アスカはある決意を胸に登校した。
 女狐どもを抹殺する。
 ただし、本当に抹殺してしまえば胸はすっとはするが、殺人犯になってしまう。
 それはできない相談だ。
 そこでアスカは一人ずつ何処かに呼び出して穏便に説得しようと考えたが、それならば逃げられてしまうような気がする。
 ならばこっちから出向くか。
 まず犠牲者に選ばれたのは、隣のクラスの女の子。
 
「お〜い、別府っ、面会だぜ。隣のクラスの惣流さ…」

 教室の出入り口は2箇所ある。
 神でもなければ、クローン人間でもなく、ドッペンゲンガーを引き起こすこともできないアスカには、
 その2箇所を押さえることは不可能だった。
 シンジに本命チョコをプレゼントした別府嬢はアスカの姿を確認した途端に脱兎の如く逃げ出した。
 反対側の扉から。
 そして、休み時間が終わっても彼女は帰ってこなかった。
 アスカは呆れた。
 自分を見た瞬間に逃げ出されたこともそうだったが、2人目の獲物まで同じだったから。
 
「ねぇ、じゃ有馬さん、いる?」

 訊いた時には有馬嬢はその場に存在した。
 だが、彼女は指名された別府嬢が遁走したのを目の当たりにしている。
 そして有馬嬢も前例に倣った。
 その二人を見て、危険を察知した同じクラスの白浜嬢と草津嬢も有馬嬢の背中を追う。
 こうして3−Bのアスカの獲物はすべて取り逃がす結果となってしまった。
 アスカは愕然とした。
 ごく普通にふるまっていたのに…。

 だが後日、第3新東京市立第一中学校3年B組の匿名希望君(15)は語った。
 
『僕、惣流さんに憧れてたんですよ。相(ピー)君から写真だって買ってたし…。
 スペシャルフォトの水着バージョンとかも持ってたんですよ。あれは高かったなぁ…。
 そういやサードインパクトの後、相(ピー)君あの商売しなくなっちゃったなぁ。
 え?そ、それは…そりゃあ僕も年頃の男なんですから写真を何に使ってたかは(以下編集部削除)。
 だって、アイツ(憎々しげに)…あんなヤツとずっと同棲してるんだから。
 あんなことやこんなこともしてるんだろうし、妊娠してるって噂だってあるんです。
 だから、もう惣流さんは完全に大人の女って感じで僕たちからは見られてるんですよ。
 あんな女を一度でいいから(以下編集部削除)。
 でも、アレを見てからはもうそんな気が起こりませんでした。
 そりゃあ恐ろしかったですよ。
 B組の扉に来た時から身体中に物凄いオーラっていうのかな、そんなのが立ち込めていましたし、
 声だって地響きするような感じでした。
 惣流さん本人は平静を装っていましたけど、そんなのとんでもない。
 教室を見渡した時に僕一瞬目が合っちゃったんですよ。
 思わず心の中で“ごめんなさいっ”って土下座しちゃいました。
 ええ、あの目付きに比べたらホラー映画なんか子供騙しだってことよくわかりました。
 応対に出ていたのはやっぱり惣流さんに入れあげていた神(ピー)ってヤツだったんですけど、
 あの表情を間近で見てしまってヤツの背中が震えてました。
 100年の恋も冷めるような感じだったって後で言ってました。女って怖いって。
 結婚したら浮気なんか絶対にしないとも言ってましたね。僕だってそうですよ。
 あんなの見ちゃったら…。怖いですよ、やっぱり。
 それを考えたら、あの惣流さんにあんなに惚れられてるんですから、碇のヤツも見かけとは違って凄いのかもしれませんね。
 まあ、もう惣流さんはいいです。普段がどんなに綺麗でもあんなのになっちゃうんですから。
 もう野獣って言うか、怨霊って言うか。惣流さんは碇のヤツに任せます。ええ、もう未練なんてありませんよ』
 
 この話にはさらにオチがついた。

 その次の休み時間、アスカが狙いをつけた別のクラスにもターゲットとなるべき女生徒は一人も姿が見えなかった。
 すでにアスカの動きは全校に広まっていたというわけだ。
 そして、昼休み。
 アスカは彼女たちに呼び出された。

 アスカはニヤリと笑った。
 望むところだ。
 16人まとめて地獄に送ってやる。
 そんな彼女の後姿に誰も何も声を掛けることができなかったのである。
 ただ一人除いて。

「アスカ、お弁当は?」

「あ…」

 振り返ったアスカの顔はそれはそれは神々しいばかりに凛々しかったそうな。
 
「すぐ片付けてくるから待っててくれる?」

「うん、いいよ」

 そのシンジの簡単な返事はアスカの気に入った。
 量産機のような事にはしない。
 絶対にアタシが勝つ!
 アスカはにっこりと微笑んで教室を後にした。
 愛する人の微笑返しを胸に刻み込んで。

 そして、アスカVS16人の量産機ならぬ乙女たちの戦いが真昼のテニスコート裏で繰り広げられ…るはずだった。

 テニスコートの裏手に足を踏み入れるとそこには16人の制服の乙女がずらりと横一列に並んでいた。
 アスカは唇をすっと舐めた。
 アタシは負けないっ!
 その時、敵集団は一斉に身体を動かしたのだ。

「ごめんなさいっ!」

 大きくアスカに向かって頭が下げる一同。

 惣流・アスカ・ラングレー、不戦勝。

 唖然としたアスカに彼女たちは頭を下げたまま。
 何を言えばいいのか、咄嗟にアスカは思いつかなかった。
 まず、戦わずして勝ったことは間違いない。
 彼女を油断させて一斉に飛び掛ってくるという悪巧みの感触はまるでない。
 もっとも飛び掛ってきて叩き合いになっても何の解決もするわけがないのだが。
 何しろ、彼女たちはアスカを押しのけてシンジと結ばれようとまでは考えていなかったのだから。
 バレンタインデーに浮かれて自分の想いを伝えるだけは伝えようとしただけなのだ。
 それをこんな悪鬼に追い詰められるという結果など予測さえしていなかった。
 彼女たちは自分たちこそ被害者なのだという意識でいっぱいだった。
 それなのにどうしてここまで頭を下げないといけないのか。
 アスカが対応に困って沈黙している間、彼女たちの不満は募っていったのだ。
 そして、アスカの極めつけが出た。
 言葉に詰まると、強気に出る。
 彼女の悪い癖だ。

「はんっ!わかればいいのよ!」

 ぶちっ。
 16個の堪忍袋の緒が切れた。
 本当はみんなで声を合わせて「おめでとう」を言う筈だった。
 もはやそんな気分はこれっぽっちもない。
 そして、一人が口火を切った。

「ああ、でも私たちはいいけどねぇ。あの彼女は別れたりしないんじゃないのかしら」

「そうそう、彼女には碇君もぞっこんなんだし」

「私たちとは違うものねぇ、美人で性格もいいし」

 三人目の女生徒は“性格”を強調した。
 その方面に関しては欠陥を自認しているアスカだ。
 きっちりと。そして実にあっさりと引っ掛かった。
 
「ちょっと、アンタたちぃ〜!」

 アスカは完全に切れてしまっていた。
 シンジに彼女がいる。
 しかも絶対に別れたりしないほど愛し合っていて、美人で性格もいいのだ。
 その敵を殲滅し、シンジを掻っ攫って未開の山奥に逃げる。
 アスカは作戦を即決した。
 となれば、まずはその見知らぬ宿敵の所在を突き止めなければならない。

「その、美人で性格のいい馬鹿シンジの彼女って何年何組のどいつなのよっ!」

 まずい。
 16人の女生徒は危機を察知した。
 このままでは彼女の存在が架空だとすぐにばれてしまう。
 嘘の上塗りをしないといけない。
 それに彼女たちは知っていた。
 とりあえず、この場でアスカをやり込めればそれで気がすむことを。
 そして後日嘘が露見しても彼女たちは安泰であろうことも。
 何故なら、その頃には惣流アスカは幸せいっぱいであるはずだから。
 アスカが単純であることは誰の目にも明らかだった。
 実はアスカが風邪で欠席していた間に、シンジが彼女たち一人一人にお詫びを言って歩いたのである。
 チョコレートを頂戴したが中学を卒業したらすぐにアスカと結婚するからホワイトデーのお返しはできないと。
 彼女たちは納得した。
 そうやって直に謝られれば仕方がない。
 もともと勝ち目のない勝負だと思っていたのだから。
 しかし、シンジには悪意や未練などの気持ちを残しはしなかったが、アスカは憎い。
 いくら美人で頭が良く運動神経もずばぬけていても、憎いものは憎い。
 その上、あの性格である。
 当のシンジが笑って許せても彼に好意を持っている彼女たちには横暴以外の何ものでもない。
 こんなに簡単に引っ掛かるなど思いもしなかったが、こうなれば嘘を突き通そう。
 暗黙のうちに彼女たちは方針を決めた。

「この学校の生徒じゃないわ」

 そう。学校関係者ではすぐにばれてしまう。

「じゃ、どこにいるのよ、シンジを惑わしてるその女狐はっ!」

「名前は知らないわ。でも、惣流さんの知っている人みたいよ」

 ナイス、芦原さん!
 3年C組の芦原嬢の機転に皆が心の中で拍手喝采を送った。

「そうそう、あのね、髪の毛は黒よ」

「ショートカットって聞いたわ」

「いつもニコニコしているって」

「でも凄く潔癖な人で男の人とはお付き合いしたことがなかったらしいわ」

「優しい女の人なんだって」

 彼女たちのいい加減な嘘にアスカの表情が見る見る凍り付いていく。
 
 該当者、あり。

 その女性の笑顔がアスカの脳裏に浮かぶ。

「ま、まさか…その女って年上じゃないでしょうね」

「あ、そうそう。年上って聞いた気がする」

 すかさず返事を入れたのは1年生の城崎嬢。
 その言葉にアスカが呆然とする。
 “年上の女”が偶然ビンゴしたことを知った彼女たちはほくそ笑んだ。
 
「やっぱり男には年上の女って魅了的よねぇ」

 調子に乗った2年生の和倉嬢が言葉を継ぐ。

「そうそう、優しく包んでくれるって感じで。やっぱ少し年上の女性が碇先輩にはぴったりよ」

 和倉嬢の親友である野沢嬢も力説した。
 この際自分たちが年下であるということは棚に置いた。

「す、少しじゃないっ」

 アスカは顔面蒼白で呟いた。
 細かい年齢までは知らないが10歳くらいは違うはず。
 でも、童顔の彼女が少し年上くらいに見られてもおかしくない。
 アスカはまるでフラッシュバックするように、二人の光景を思い出していた。

 『はい、シンジ君、ご苦労様。インスタントだけどどうぞ』
 『あ、ありがとうございます』
 『毎日大変ね。今日は何のおかずにするの?』
 『アスカの好物のトンカツです』
 『へぇ、じゃスープ?』
 『いえ豆腐のおみそ汁にしようかと』

 日常生活の話題で盛り上がっていることが多い二人である。
 そういう話題にはアスカは入ることができない。
 今なら家事もしているだけに大丈夫なのだが、以前はそんな二人に疎外感を持たされていたのだ。
 そういえば、このところ妙に彼女がシンジに話しかけてくることが多い。
 さらに重大なことをアスカは思い出した。
 何度かシンジの言葉に彼女が頬を赤く染めていたことがあった。
 そうなのだ。
 伊吹マヤこそがシンジの隠れた愛人だったのだ。

 アスカは決意した。
 マヤと対決する。
 もうアスカの目には16人の乙女たちの姿はない。
 その目に映っているのは邪悪な笑みを浮かべてシンジに寄り添っているマヤ。
 刺し違えるわけにはいかない。
 確実に相手を倒して、シンジの目を覚ます。
 アスカは駆け出した。
 砂埃を巻き上げて校門の方へ。

 惣流・アスカ・ラングレー、無届早退。

 16人の乙女たちはアスカの姿が視界から消えた時、一様に溜息をついた。
 とりあえず、危機は去った。
 どうやら更なる揉め事が発生しそうだが、そんなものは見物できなくてもいい。
 当初の目的…アスカに謝ってお祝いを言うことなどもう誰の頭にもなかった。
 嵐は去ったのだ。
 そして、彼女たちは自分たちの憧れや恋にサヨナラを告げた。
 とてもじゃないが、勝ち目はない。
 いろいろな意味で、惣流・アスカ・ラングレーという名前の女子には。

 さて、アスカ。
 制服のままでジオフロントまでやってきた。
 よく考えれば鞄も何もかも忘れてしまっている。
 いや、それどころかお昼のお弁当を食べることすら。
 因みに無届早退についてはヒカリの情報網でその経過とアスカの目的地が判明した。
 シンジの心配は、アスカがお昼を抜いたことくらい。
 マヤに対してシンジが“浮気”をしたのでけりをつけに行ったことはそれほど気にしていない。
 何故なら彼には“浮気”などほんの少しも覚えがなかったのだから。
 ところがアスカはシンジがマヤに“本気”だと誤解している。
 マヤは絶体絶命の危機に直面する…はずだった。



 ジオフロントの一部ブロックは改造されて庭園となっている。
 いや、森と言ってもいいくらいの広さと規模だ。
 何故そのようなものがジオフロントにあるのかといえば、サードインパクトの所為である。
 地軸が戻ったとはいえ、十数年も常夏だった日本だ。
 生態系がすんなり戻ってくれる保障はどこにもない。
 だが、年老いた者たちはあの懐かしい日本の四季を欲した。
 そのためにこの場所で四季の草花を育てようと考えたのだ。
 何しろ軍備のスペースなど不要な場所がかなりある上に、ここには最新の科学設備も備えている。

 夢中になってジオフロントにやってきたアスカはまず中央司令室を急襲した。
 そこで書類と格闘していたのは、すっかりお腹が大きくなってきたミサト。
 彼女の名誉のために言っておくが、お腹が大きくなった原因はビールではなく加持だ。
 アスカは次第に母の顔になってきている、家主にずばりと訊いた。

「マヤはどこ?」

「ん?どこだっけ?」

「隠すとためになんないわよっ!」

 アスカとシンジが同棲している家の持ち主は眉を寄せた。
 彼女はいずれ二人に格安であの部屋をプレゼントする予定にしている。
 実はあの部屋自体、タダ同然で手に入れたのだということは秘密だ。
 
「あのさ、アスカ?マヤに何の用?」

 さすがに血相の変わっている元同居人の様子にミサトはきな臭さを感じた。
 もっともいつものようにアスカが誤爆しているのは間違いないとは思うのだが。

「うっさいわね、アンタにゃ関係ないでしょっ!」

「う〜ん、どこだっけ?」

 とぼけることで時間稼ぎをしようとしたミサトの目論見はあっさり崩壊した。

「あ、伊吹さんならB12の庭園に…」

 日向マコトは未だに好意を持つミサトを助けるつもりで口を挟んだのであった。
 その言葉をアスカは最後まで聞きもしなかった。
 身を翻すと、B12ブロックへの最短距離を走る。

「あっちゃぁ…大事にならなきゃいいけど」

 頭をぼりぼりと掻くミサトにマコトが少し拙い対応をしてしまったのかとおずおずと尋ねる。

「行き先、教えなかったほうが良かったですか?」

「ん〜、ま、いいわ。まさか殺人とか爆発とかまではいかないでしょ。さすがのアスカも」

 ミサトは元同居人たちの恋の行方に微笑んだ。
 まだ若いんだからいろいろ楽しんだらいいわ。
 あ、また蹴った。
 元気ねぇ、この子。男の子かな?
 あ、もしかしたら、アスカみたいな女の子かも。
 早く外に出たいって暴れてるのかもねぇ…。
 彼女は8ヶ月のお腹を撫でながら、また書類に向った。



 B12ブロック。
 そのエレベーターホールから中に入った途端、アスカは息を飲んだ。
 マヤと対決するつもりで気持ちはスペシャルハイになっていたが、
 目の前に広がる景色には自分の目的を思わず忘れてしまった。
 アスカはドイツに育った。
 ドイツは常冬。
 そしてやってきた日本は常夏の国だった。
 したがって、彼女は春を知らない。
 いや、サードインパクトの後、春らしきものはあっという間に通り過ぎていっただけ。
 秋の方はこの冬に向う前に雰囲気を味わうことができた。
 青々とした葉が枯れ、冬支度に向う季節。
 だが、春は初体験だ。

「これが…桜?」

 写真では見たことがある。
 ただ、その写真の桜の時間は当然止まっている。
 エアーコンディショナーから送られてくる風にそよぐ花びらを見るのは初めてだった。

「綺麗……」

 その瞬間、アスカはマヤのことも何もかも忘れていた。
 まるで樹全体がひとつの生き物のようにゆったりと動いて見える。
 桃色のざわめきがアスカを呼んでいるようだ。
 彼女は誘われるように一歩二歩と桜の樹に近づいていった。
 近くで見るとひとつひとつの花が予想以上に自己主張して見える。
 アスカは手を伸ばした。
 指先に乗せるようにして、桜の花をじっと見る。
 こんな形をしてたんだ…。
 極寒の地に桜の樹はない。
 日本といえば桜。
 だが、常夏の国になってから桜の花に人々が浮かれることは絶えてしまった。
 桜の樹は人々を酔わせる。
 もはや古典となってしまった昭和初期の小説などアスカが知るはずもない。
 それでも、彼女は心が落ち着いていく一方で胸の奥が騒ぎ出すような奇妙な気分を味わっていた。
 
「ちょっと、こんなところで…やめて…」

 一瞬で興が醒めた。
 無粋な言葉の上に、その声は紛れもなく現在只今の生涯の仇敵、伊吹マヤ。
 アスカはあっという間に戦闘態勢に戻る。
 桜の樹に身体を隠し、まずは目標を確認しようとした。
 目標は…男とキスしていた。

「もう…シゲルったら…」

 なんと目標は頬を染めて抗議したその相手の唇を目がけて再度キスを仕掛けた。
 アスカは開いた口がふさがらなかった。
 マヤが色魔。
 まず考えたのはそれだった。
 愛するシンジは色魔のフェロモンにやられてしまったのだと。
 あんな感じじゃなかったのに、いつからこうなってしまったのか。

「誰かに見られるってばぁ…」

 使徒戦の時からは想像もできないような甘えた声にアスカは背筋に悪寒が走った。
 
「俺は見られてもいいぜ。今は休憩時間だから問題ない」

 ゲンドウを気取った台詞を吐いたのは青葉シゲル。
 アスカは知らなかったが、マヤとシゲルは恋人同士。
 しかもそれを隠しているわけではない。
 ネルフの人間はみんな知っているし、シンジやレイも承知している。
 関係者で知らないのはアスカだけだったかもしれない。
 何しろ彼女は猪だから。
 シンジと自分のことしか目に入っていない。
 したがって結婚寸前のこのカップルに驚いてしまったのは無理も無いところ。
 
「それよりな…これ」

 シゲルはポケットから黒っぽい何かを出した。
 10mほど離れた樹の影にいるアスカは目を凝らした。
 幸い二人は互いに夢中で、にょっきり顔を突き出しているアスカに気がついていない。
 シゲルの手の中にあるものを見て、マヤはパッと顔を輝かせた。

「シゲル、これっ!」

「あ、ああ、給料の4か月分だ」

 実際は3.2か月分。
 まあ、婚約者への見栄もあるからこの場合の切り上げは致し方ない。
 それにマヤにとっては金額は問題ではない。
 
「うふ、やっと。ずっと待ってたのよ。いつくれるのかなぁて」

 アスカは食い入るようにマヤの指先を見つめた。
 この距離でもはっきりわかるあの輝きはダイヤモンド。たぶん。
 それに給料のウンか月分ということは結婚指輪!
 マヤが魔性の女だとかいうことはとりあえず棚上げされ、そしてその後放置された。
 二人の会話を聞いたから。

「で、式はいつ?」

「う、そ、それはいつでもいいぞ。明日でも」

 シゲルはいささか見栄張りだった。
 愛するマヤの前では、特に。
 それをわかっていて、ことさらにマヤは晴やかに笑った。

「じゃ、明日にしてもらおうかな。待ちくたびれちゃった」

「お、おい。住むところだって…」

「うふ、そんなのどこでもいいじゃない。二人で暮らせるなら」

 うんうんと大きく頷くアスカ。
 その通りだ。
 狭くたっていいじゃない。愛する二人がいっしょに暮らすことが一番なのよっ!
 アスカは拳をぐっと握り締めた。
 すっかりマヤに感情移入してしまっている。
 彼女を殲滅するつもりで突っ走ってきたというのに。

「知ってる?私ね、新婚生活に向って勉強してたのよ。先輩にいっぱい教えてもらっちゃった」

 ふふふと笑う恋人にシゲルはさっと顔色を変える。

「お、おい、マヤちゃん、先輩ってまさか!」

 ころころとマヤはしばらく笑った。本当に可笑しそうに。

「違うわよ。そっちの先輩じゃない。家事…生活の方の先輩よ」

「はぁ?誰かいたっけ?ネルフの女性で家事ができる人って」

 私がいるわよ!と、アスカは胸を張った。
 あとは問題外だけど。
 最近めっきりと腕を上げているリツコとレイが聞けば必ず頭に来たことだろう。
 ミサトは確かに問題外だったが。
 家事を始めてほんの一ヶ月弱だがシンジが何の文句も言わないということで、
 自分のやり方や味付けなどには自信を持ち始めているアスカだった。
 何しろアスカは家事については世界に冠たるドイツ女性の一人なのである。

「あら、女性とは言ってないわ。シンジ君よ」

 ああ、そういうことかと、シゲルは安堵し、アスカの方は耳を聳やかせた。

「特に料理ね。アスカちゃんが餌付けされちゃってるくらいなんだもん」

 少しむっときて、それからその通りだと納得する。
 これからは自分で料理を作るつもりだが、週に何度かはシンジの料理も食べたい。
 いや、一緒に作るっていうのもいいかも…。
 妄想に入りかけたアスカを現実に引き戻したのは、シゲルの一言だった。

「おいおい、そういうことは俺に言っておいてくれよ。
 マヤちゃんとシンジ君が妙に仲がいいから、俺は…」
 
「嫉妬してくれた?」

 なぁんだ、そういうことか。
 アスカの闘争心は消えた。
 元より冷静に考えれば、マヤが魔性の女に変身するとは思えない。
 ちっ、アイツらに騙されたかとアスカは唇を尖らせる。
 それでも腹は立たなかった。
 寧ろ礼を言いたいくらいのものだった。
 何故なら、こんなロマンチックなものはそうそう見られるものではない。
 ドラマや映画ではなく、生なのだから。

 咲き誇る桜の花の下、幸福に包まれている恋人同士。
 


 コンフォート17に戻ったアスカがその余韻をずっと残していたのは当然だった。
 バイトを終えて帰宅したシンジを待っていたのはいつもより豪華な食事。
 何故かと訝しげなシンジにアスカは「タダのお礼よっ」とだけ言った。
 ここで「あ、そうなの」と話をうやむやに終わらせてしまうような昔のシンジではない。
 彼は恋人との同棲生活(シンジ視点)を幸福に過ごすためにあれこれ勉強したのだ。
 『ドイツ人の生活』『ドイツ人とは?』『ドイツ人と日本人』『ドイツで暮らすには』エトセトラエトセトラ。
 それらの本を読んで、アスカのあのはっきりした性格も理解できたような気がする。
 それに日本人との違いも。
 思ったことは何でも喋らないといけない。
 反対意見であろうと自分の意見をきちんと言うこと。
 そう言えば、アスカはいつもそうだった。
 すぐに切り替えはできないががんばって自分を変えていこう。
 シンジが成長したのはこのためだったのだ。
 で、その成長した彼は当然の言葉を返した。

「お礼って何?」

 こんな些細な一言だけで人生さえも変わる。
 シンジはそのことを実感した。
 顔を赤らめたアスカは乱暴な口調でマヤに料理などを教えてあげたからだと告げる。
 教えたことは事実だがそれがご馳走やお礼になることがよく了解できないシンジはさらに質問した。
 実は今日のことを喋りたくてうずうずしていたアスカはジオフロントで見たことをシンジに話したのだ。
 満開の桜の樹々の中でのプロポーズ。
 それこそ身振り手振りをしながら力説するアスカの姿にシンジはずっと悩んでいたことに結論を出した。
 ホワイトデーはあのジオフロントの桜の樹の下だ。
 人真似だと言われるかもしれないけど、確かにロマンチックだ。
 アスカはきっと喜んでくれるだろう。
 シンジはそう確信した。
 会話をしっかりすることでこんな大事なことを決めることができた。
 ただし、彼にとっては大事なことというのはプロポーズ自体ではない。
 アスカに断られることなど微塵も疑っていないのだから。
 大事だったのは一生で一度のプロポーズの場所を如何にアスカが喜んでもらえるかだった。
 シンジは幸せだった。
 ホワイトデーまであと5日。

 アスカもまた幸せだった。
 シンジには隠れた愛人はいない。
 そう確信したから。
 まだまだ恋人の関係には昇格はできないけれども、
 その日が来るまでどんな女もシンジには近づけやさせない。
 晴れて惣流・アスカ・ラングレーが碇シンジの恋人だとみんなに認知される日が来るまでは。
 アスカ以外の人間はすべて認知していることなど露知らず。



 情報というものは漏れるものである。
 この場合、人生の一大事を完璧に成し遂げようとしたシンジの慎重さが災いした。
 3月14日にあの地下庭園が閉鎖されてはいないだろうか。
 気になりだすと矢も楯もたまらなくなるものだ。
 シンジは考えうる限りで一番口が堅そうな人間に相談した。
 当然父親は除外した。
 まともに返事をしてくれそうもなかったから。
 で、選んだのはマヤ。
 家事の件とかで親密になっているし、あそこでプロポーズを受けているのだから詳しいだろうと判断したのだ。
 幸せいっぱいのマヤは素早く調査を開始する。
 シンジが何故そのことを聞くかを考えもせずに。
 その点においてはシンジの人選は間違っていなかった。
 ただし、彼女の上司がリツコだということまで考えが及んでいなかったのである。
 最近頓にお喋りになっているマヤは休憩時間にシンジの相談をポロリと口にした。
 リツコのメガネがきらりと光り、彼女はすぐさま司令室に姿を消した。
 ネルフ随一の頭脳とネルフ随一の悪謀家が出した結論はひとつ。
 愛する息子が恋人にプロポーズする。
 二人はいとも嬉しそうに笑顔をかわした。
 いささかそれが邪悪な感じを伴っていたのは問題があるが。
 こんなイベントを黙って見ていられるような二人ではない。
 レイはリツコから知った。
 ミサトは例によって本能的な直感でリツコの動きを察知した。

 3月14日、ギャラリーは4人。
 主要な場所にはカメラとマイクが仕掛けられている。
 そして、おそらくこの場所だろうと推定される場所から離れること5m。
 そこに巧みに隠された観覧席が用意されたのである。
 お茶菓子付きで。

 アスカは期待していた。
 Xデーを待ちきれないシンジがポロリと漏らしてしまったから。
 
「あ、あのさ、3月14日は何も予定入れないでね」

「へっ?」

 いつもの「へ?」の数倍の音量とリアクション。
 無防備にいただきものの“本場関西風たこ焼きレンジで一分”を口にしていたときだった。
 因みにそれを持ってきたヒカリは実に幸せそうな表情だった。
 トウジの実家まで結婚の挨拶に行ったということは恥ずかしくて親友にも口にできない。
 その方面には少し鈍いアスカはそんな事情にはとんと気がつかない。
 ありがたくお土産を頂戴して、夜の10時頃にリビングでシンジと食べていたところだった。
 このところ自分の身につまされて人の恋心に敏感なシンジはしっかりヒカリの事情に気付いていた。
 まあ、トウジから土曜日に実家に二人で帰ると聞かされていた所為もあるが。
 ヒカリがニコニコ笑っているところからその結果が良好だったことを知り、少し焦ったのかもしれない。
 今度は自分たちの番だと。
 そこで唐突にアスカに念押しをしたわけだ。
 実はアスカもホワイトデーのことは気になっていた。
 義理だと宣言したもののもちろん大本命である。
 ただ義理と言ってしまったのだから物凄い見返りは期待していない。
 ちょっとしたお菓子か何かでもシンジから貰えれば最高。
 そんな気持でいたときに、唐突にその日のことを話題にされたのだ。
 口の中にたこ焼きが入ってなくてよかった。
 速射砲のようにシンジの顔面にたこ焼きが飛んで行っていたかもしれない。
 アスカは口元まで運ぼうとしていたたこ焼きをぼとんと自分の膝の上に落とした。

「へっ?」

 アスカは数秒間膝の熱さに気付かなかった。
 3月14日の予定を聞かれたことで意識が飛んでしまったのだ。
 熱さを気付かせてくれたのはシンジの叫び。

「アスカ!たこ焼き!」

 飛んできたシンジが手づかみでたこ焼きを取り除けた瞬間、どっと熱さが押し寄せてきた。
 アスカは飛び跳ねた。
 浴室に飛び込んでいこうとするアスカを押さえるようにシンジがやけど用のスプレーを吹きかける。
 ひとしきりの熱情が過ぎ、ようやく落ち着いた頃アスカはさっきの返事をしていないことを思い出す。
 今更話題をどうやって戻せばいいのか。
 膝に目を落とすとさっきのたこ焼きの形がうっすらと赤く残っている。
 アタシって馬鹿…。
 アスカはそのままの姿勢でうなだれていた。
 すると目と膝の間にたこ焼きのお皿が進入した。
 顔を上げるとシンジが微笑んでいる。

「食べないの?もう一度温めなおそうか?」

「う、うん、このままでいい」

「そう。じゃ、これ」

「アリガト」

 ぼそっと礼を言い、お皿を受け取る。
 ことシンジが絡むとアスカの思考回路は動きが変になる。
 回転むらを起こす。堂々巡りを繰り返す。結論をなかなか出せない。
 そのあげくやっとのことで引っ張り出せた結論が大抵微妙に間違うのだ
 とりあえずここは時間延ばしに出た。

「さっきのたこ焼きは?」

「ん?ああ、あれかぁ。あれは退治したよ」

 胸を張って言うほどのこともないが、シンジは誇らしげ。
 シゲルの例を見るほどのこともなく、男というものは好きな女性の前では似たような言動をするようだ。
 
「そっか、捨てちゃったんだ」

「まさか、もったいないじゃないか。床に落ちたわけじゃないし」

「へ?」

 シンジはにっこり笑った。
 
「僕が食べちゃった。アスカを苦しめた悪いヤツだからね」

 たこ焼きを落とした原因はお前やないか。
 あのたこ焼きが口が聞けたならさぞ憤慨したことだろう。
 ただアスカは恥ずかしかった。
 自分の地肌にべたっと付いたものをシンジが口に入れた。
 もぐもぐと咀嚼した。
 まるで自分の一部を食べられたかのような錯覚を覚えたのだ。
 こうなってしまうと、もうアスカは何も言えない。
 その日は顔を真っ赤にしてほとんど何も喋ることができずじまいだった。
 そして、アスカはベッドの中で泣いた。
 悲しくてではない。悔し泣きだ。
 チャンスはいくらでもあるのに何も言えない自分が口惜しくてたまらないのだ。

 その数メートル先、ベッドに横になっているシンジは幸福だった。
 あんなことで真っ赤になってもじもじしてしまう恋人(シンジ視点)が可愛くて仕方がなかったのだ。
 そして、その可愛い恋人にあと二日でプロポーズする。
 当然、その答えはOKに決まっている。
 そうなると4月になれば彼女は碇アスカになる。
 そこまで妄想が進んでしまうと、いつもの恒例行事が始まる。
 枕を持ってダンス。
 もちろん、枕はダミーアスカ。
 最初の頃は音楽も流れていない中でも珍妙な踊りに過ぎなかったが、そこはチョロを弾きこなすシンジである。
 今となってはこの踊りもそれなりになってはいるが、もとより人に見られて嬉しいものではない。
 ただ心の中に迸る喜びを彼なりに表現しているだけなのだ。

 彼がバラ色の未来に夢を馳せ枕を相手に踊っているその同じ時、
 ほんのすぐ近くでその恋人(シンジ視点)は己の恋が結ばれぬその悲しさに枕を濡らしている。
 
 アスカよ、泣くがいい。
 それもあと二日なのだから。



 さて、ついにホワイトデーがやってきた。

 アスカはもし訊かれたら、「仕方がないわね、ちょうど暇だからつきあってあげるわよ」という台詞を用意していた。
 しかし残念なことにシンジはそのあと二度とアスカに予定を聞きはしなかった。
 彼としてはアスカがホワイトデーに他の人間と予定など立てるわけがないと信じていたわけだ。
 確かにその通りだが、シンジの問いかけを待ち続けたアスカは神経をすり減らしていた。
 3月13日の夜。
 アスカは一睡もできなかった。
 シンジの方はわくわくして1時間ほど枕踊りをし、1時間ほどプロポーズの練習をしたあと熟睡した。
 
 14日、朝、7時。
 シンジはすっきりした顔でリビングに登場。
 片やアスカは眠れぬままに5時ごろにベッドを離れ、リビングのソファーでシンジの部屋を監視し続けた。
 幸福な夢を見ながら熟睡しているシンジが起きてくる訳もなく、彼女は溜息を吐き続けた。
 2分に一度。
 そして、窓の外が明るくなってきた時、彼女は頭をこつんと一発叩いてソファーを立った。
 今日はお弁当はいらない。
 卒業式が間近だから3年生は短縮授業なのだ。
 だが、やはり今日は期待を持ってしまう。
 だからこそ、アスカは心を込めて朝食を作った。
 シンジからホワイトデーのお返しがもらえますように、と。
 すっきりした顔で現れたシンジは、キッチンにたちこめた匂いをたっぷり吸い込んだ。

「おはよう!朝からご馳走だねっ」

 愛情たっぷりの挨拶にアスカは返事もできない。
 睡眠不足の上に素晴らしい笑顔の直撃はかなりの打撃だ。
 アスカにすれば反応が凄すぎるのだ。
 1の結果を期待して何かをすれば倍以上の反応がある。
 だからこそ、シンジも自分に好意を持ってくれているに違いないと思ってはいるのだが、
 やっぱり確かな一言が欲しい。
 この点においてはシンジはまだまだ日本人だった。
 すでに二人はアツアツのカップルで同棲しているのだから、『好きだ』『愛してる』の類の言葉は不要だろうと。
 もし二人が同居していなければ、ラブレターやラブメールの形で、
 そして電話や顔を合わせた時にそういう言葉のやりとりをしていたことだろう。
 その意味では二人は近すぎた。
 それこそ寝る時、お風呂、トイレ以外は殆ど同じ場所にいる。
 今回のようなシンジが一人でバイトをして家を留守にしているのが異質なのだ。
 だからこそ、アスカも神経過敏になっているのかもしれない。
 この一ヶ月の自分の行動はいささか常軌を逸していたとアスカも反省している。
 反省はしているのだが、歯止めは効かない。
 愛するものに愛されたい。
 その想いはアスカのトラウマでもある。
 だからこそシンジの明確な愛情に対して目が曇ってしまうのかもしれない。
 疑心暗鬼を生ず。
 シンジのあの笑顔には自分への愛情は含まれていないのではないだろうか。
 一度暗闇の鬼を生んでしまうと、その鬼に捉われてしまう。
 普段を自信たっぷりに見せかけているだけに、彼女がそんな内面を持っていることは普通に接している者には見えてこない。
 そのことをシンジは当然知っている。
 知っているからこそ彼はアスカに愛情を注いでいる。
 周囲のものにもそれは一目瞭然。
 もちろんアスカもそのシンジの言動に癒されている。
 そのことを彼女も実感している。
 しているが故にそれが愛情だと確信できないのだ。
 いや、できなかったのだ。
 もう、アスカはそのことに悩む必要はない。
 あと数時間我慢すれば。



 数時間経った。
 アスカは胸が破裂してしまうのではないかと不安だった。
 4時間目が終って終礼も済んだ後、シンジに声をかけられた。
 
「じゃ、行こうか」

「はひっ!」

 見事に無様である。
 鞄に教科書を入れるときにぼろぼろ床に落とす。
 椅子を机の上にひっくり返して置こうとしてもバランスを上手く取れない。
 その都度、シンジがにこにこ笑いながら手助けする。
 自分の不恰好さにアスカは泣きだしたいくらいだった。
 そして、シンジの背中を追って教室を出ようとした時、ヒカリがすっと寄ってきた。

「アスカ、がんばってね」

「う、うんっ」

 耳元の囁きにアスカは大きく頷いた。
 その後姿が教室から消えた時、ヒカリは腕組みをして苦笑した。
 先輩の余裕ということだろう。
 婚約者のトウジから今日シンジが結婚を申し込むということを彼女は知っている。
 そして、婚約指輪のためにシンジがアルバイトをしていたことも。
 さらに、そのアルバイトの同僚であるトウジも同じ目的であることも。
 ただし、トウジがその指輪を贈る場所は洞木家のリビングである。
 ヒカリの家族が注視の中でそのイベントを行おうというのだ。
 ロマンチックじゃないけど、漢よね、トウジったら。
 本日のイベントはそれだけでなく、身内だけの結婚式の日取りやミニ新婚旅行などの打ち合わせも含まれている。
 4月になれば彼女は、鈴原ヒカリとなるのだ。
 名実ともに。
 ただし、家族計画だけは二人きりで決めないといけない。
 いくら何でも姉妹や親の前でそんな話はできっこないからだ。
 
「ほ、ほな、い、いこか」

 おニューのジャージ。
 誰が見てもわからないだろうが、ヒカリにはわかる。
 
「うん」

 彼女は微笑んだ。
 緊張する彼を少しでも和ませようと。



 さて、アスカ。
 彼女の緊張は治まるどころか、加速する一方である。
 何しろシンジに手を繋がれているのだ。
 瞬間的な接触を除いてこれまでにこんな経験は無かった。
 街を歩いていても、手を繋いで歩いたことは無かったのだ。
 胸の動悸はバコバコ言っている。
 シンジに聞えるのではないか、この掌を通して伝わっているのではないか。
 アスカは気が気でなかった。
 ああ、恋人になったら毎日でもこうやって歩くことが出来るのに。
 恋人関係になりたいっ!
 アスカの野望は膨らむ一方だった。
 一方、恋人の手をしっかりと握っているシンジは。
 意外に落ち着いている自分を誇らしく思っていた。
 これまでは肉体的接触を嫌っているアスカ(シンジ視点)に遠慮して
 手を繋いだり、キスを求めたりはしていない。
 だが、今日からは違う。
 何しろ、本日のプロポーズに続いて、数週間後には夢のような結婚生活が待っているのだ。
 そうなれば、あんなこともこんなことも。
 トウジから彼らがA+αまで進んでいることを聞き、シンジなりに燃えていたのである。
 そっちの方の予習はケンスケ宅の書籍や映像で行った。
 もっともアスカの目を盗んでだから、その回数は数えるばかりだが。
 流石にそっちの方のトレーニングはアスカから数メートルの場所ではできない。
 したがって、イメージトレーニングに終始していたわけだが、
 その結果アスカをしっかりリードするんだという確固たる決意とある程度の自信を持つに至った。
 Xデー。
 いつでも来いっ!できるなら早いほうがいいけど。
 プロポーズの場に恋人を誘っているにしては少々生々しい妄想に満ち溢れているシンジだった。

 地下庭園までは誰にも会わなかった。
 これは二人にとって幸いだった。
 シンジにとっては、お邪魔虫を呼び込みたくは無かったから。
 アスカにとっては、真っ赤に染まった顔を見られたくは無かったから。



 お邪魔虫は4人揃っている。
 保安部の車を利用して二人を追い抜いてきたレイも含めて。

「あなた、少し落ち着いてください」

「む、うむ。落ち着いているぞ、わしは」

 そんなやり取りをしている二人を横目で見てミサトは思った。
 どう見ても落ち着いているようにしか見えない司令をリツコはすっかり見抜いている。
 ここの夫婦はやはり割れ鍋に綴じ蓋のようだ。
 そして、レイはずっと微笑を浮かべていた。

「レイ、あんたがこういう企てに参加するとは思わなかったわ」

「あら、どうして?面白いわ」

 どうやら本来の資質が表面に出てきたのかもしれない。
 そういう意味では碇家の生活は明らかに彼女にプラスになっているようだ。
 
「来たわ」

 端末のモニターを睨んでいたリツコが呟いた。



 エレベーターの扉が開いた。
 誰もいない。
 二人からはそう見えた。

「わあっ、本当だ。綺麗だなぁ」

「そ、そ、そうでしょっ!」

 未だアスカの調子は戻っていない。
 何しろ手を繋がれたままなのだから。
 それに行き先があの桜が咲き誇る地下庭園だと気づいてからは、
 もう胸の動悸なのか頭の中で除夜の鐘が鳴っているのか区別がつかないほど舞い上がり始めているのだ。
 もしかすると、ホワイトデーのお返しがもらえるのかもしれない。
 もっともしかすると、告白の可能性もっ!
 そう考えてしまうと、早速どういう返事をしたらいいかを検討しはじめたアスカだった。
 事前にきちんと決めておかないと何を口走ってしまうか、本人でさえ見当がつかない。
 もっとも決めていた台詞でさえ満足に喋れず、全然違うことを口にする彼女なのだが。
 ともかく、好きだなどの告白を受けたら躊躇せずに返事をすること。
 それが確定事項だった。
 変に凝ったことを言おうとするとシンジに誤解をさせる元になる。
 「好きだ」と言われたら「私も好き」。
 「付き合ってください」と言われたら「喜んで」。
 彼女の予想の範疇には「結婚してください」などという言葉はまったく含まれていなかった。

 自分からは言えない。
 もし断られたりすれば生きて行くことはできないから。
 そんなことになるくらいなら、このままのうやむやな関係(アスカ視点)でいた方がいい。
 
 アスカの緊張は最頂点に達しようとしていた。



「ふふ、予想通りの場所に向っている」

「MAGIが全員一致であそこだと回答したのよ。間違いがあるはずないわ」

「はいはい」

「うむ、問題ない」

「ほら、あなた落ち着きなさい」



 シンジはさっと振り返った。
 何度も練習した最上級の微笑で。
 
 うわぁっ!
 この微笑返しはアスカのハートを直撃した。
 何しろ距離が近すぎた。
 手を繋いでいたのだから、50cmも離れていなかったのだ。
 彼女の思考回路はずたずたに切断された。
 
 シンジは右手でポケットから指輪のケースを出した。
 そして、器用にその蓋を開け、指輪をつまんだ。
 昨日の夜何度も練習した成果だ。
 放心状態のアスカの指をとり、その薬指にすっと指輪をはめる。
 どうだっ、スマートなもんだろ。
 僕にだってできるんだ。
 シンジは自分の動きに満足して、後に2歩下がった。
 支えを失ったアスカの左手が少し下に下がる。
 その薬指にきらめくシルバーとゴールドがクロスした意匠の指輪。
 
「ごめんね、ダイヤモンドとかは高くて。
 アルバイトで買えるのはそれくらいだったんだ」
 
 アスカは上の空でその言葉を聞いた。
 そうか、アルバイトで買ったんだ。
 これを…。
 この指輪を…。
 この薬指に輝いている指輪を…。
 アタシの薬指に輝いている指輪を…。
 ……。
 へ……?
 指輪?
 これ、指輪よね。
 
 アスカの意識が次第につながっていった。
 そして、指輪に焦点が合う。



「ふええぇっ!」

 アスカは小さく叫んだ。
 そして、また思考をメリーゴーランドさせた。



 リツコは端末を操作した。
 地下庭園の空調が変動し、あたかも風がそよぐ様に空気が動き出した。
 その風に揺られて桜の花びらが舞い始める。

「うむ、見事な演出だ」

「ありがとう、あなた」

「いけっ、シンちゃん!そのままぎゅっと抱きしめなさいっ!」

「まだ早い。プロポーズしてないもの」

 冷静な口調だが、レイの頬は赤らんでいる。
 両手の拳もぐっと握り締められ、二人を様子をじっと見つめていた。



 これって、指輪よね。
 しかも左手の薬指ってことは…。
 でもでも、相手がシンジなんだから間違えてはめたってことも。
 あるわよ、だってこいつ馬鹿シンジだもん。

 思考はくるくる回ってはいるが、その内容が微妙に違ってきている。
 思い出していただきたい。
 アスカがシンジのことを馬鹿シンジと呼んだのはあの16人の量産機女生徒と対峙したときだけ。
 つまり対外的にシンジのことを呼称した時だ。
 この数ヶ月、それ以外のときも直接シンジに向って馬鹿シンジとは言っていない。
 愛するシンジのことを“馬鹿”とは呼べなくなっていたのだ。
 もちろん、頭の中でシンジのことを考える時も同様だった。
 因みにシンジはそういった変化に気付いていなかった。
 馬鹿シンジと呼ばれても気にしていないからだ。
 ところが、この時アスカは無意識に馬鹿シンジと呼んだ。
 それが頭の中でなだけにその変化がより意味が深いのである。

 そうよねぇ、所詮馬鹿シンジなんだから、
 アタシが喋ったマヤのことをそのまま真似してるだけかもしんないわよ。
 うかつに喜んじゃとんでもない目に合うかも。
 だけど、もし本当にこの指輪が…。
 はんっ!
 何悩んでんのよっ!
 わかんなけりゃ、あたって砕けろよっ!
 いっくわよぉぉっ!

「ちょっとっ、馬鹿シンジっ?」

 両手を腰にやって…とはいかなかった。
 指輪のはまった左手は胸元に漂ったまま。
 だが、右手は腰に、両足は肩の広さに踏ん張って。
 リツコの演出した桜吹雪がまたよく似合う。
 
「な、何?」

 少し腰が引け気味のシンジ。
 これは一種の条件反射なのかもしれない。

 アスカはぐいっと左手を突き出した。

「これは何のつもりっ?さっさと答えなさいよっ!」 

 ああ、これこれ。
 こうでなくっちゃ、ね。
 なんだか調子が出てきたわ。
 アスカは全身に力が漲ってくるのを感じていた。

「あ、あの、指輪」

「そんなの見りゃわかるわよっ!意味を尋ねてんじゃないっ!わかる?イ、ミ。意味よっ」

「う、うん」

 シンジはぎこちなく笑った。
 何を気押されてるのだ。
 シナリオの進行自体は狂っていないではないか。
 少々アスカの反応が予想と違うだけで。
 がんばるんだ、碇シンジ。
 逃げちゃダメだ。
 昔のシンジに戻ったかのような思考の経緯は彼の言葉を小さくした。

「えっと、それは、結婚指輪なんだけど…」

「はぁ?もっと大きな声で言いなさいよ。聞こえないわっ!」

 進退窮まった。
 逃げ場を無くすと火事場の馬鹿力を出すのがご存知シンジ君。
 この場合もやはり多分に洩れなかった。

「結婚指輪だよっ!」

 ぼふっ!
 庭園中に響き渡るその声にアスカが頬を真っ赤に染めた。



「ふん、やっと言ったか」

「言いましたね」

「よしっ!よく言ったわ、シンちゃん!次は押し倒すのよっ」

「それはダメ。まだ式をあげていないんだもの」

「もうっ、レイって固いわねぇっ」

「アスカ、顔真っ赤」



 アスカはど真ん中に剛速球を投げられて息を呑んだ。
 この指輪は、婚約指輪ではなく、結婚指輪なのだ。
 アスカの左手薬指がわなわな震えた。
 いや、まだ早い。
 焦ってはいけない。
 ちゃんと確認しなくては。
 アスカはごくりと唾を飲み込もうとしたが、生憎唾液は品切れ中。
 からからに渇いた喉を潤すものは物理的には皆無だった。

「それはぁ…こほんっ」

 1オクターブ上がってしまった声を元に戻すのにアスカは咳払いした。
 再度出直し。

「その結婚というのは誰と誰の話よっ?」

「僕とアスカに決まってるじゃないかっ!」

 即答だった。
 アスカはその言葉をよく噛みしめた。
 噛みしめれば噛みしめるほど、顔が火照ってくる。
 
「僕って馬鹿シンジのことっ?はっきり言いなさいよっ」

「だから僕だよ!碇シンジっ!」

「で、結婚って何よ」

「そ、それはっ。ほ、ほら、法律が変わっただろ!
 15歳になったら親に承諾もらえれば結婚できるじゃないか!」

「へ?」

 アスカは忙しい。
 喚いたかと思えば、心底からとぼけてくれる。
 そういえばそういう法律になったと話題になったような気がする。
 実際、アスカに向かっては誰もそのことを言わなかった。
 乙女心は複雑なのである。
 毎日毎日毎日毎日毎日(土日除く)、教室でいちゃいちゃいちゃいちゃしているのである。
 もちろん、アスカにその意識はなかったのだが。
 そんなアスカに4月になったら結婚するのでしょう?などと聞きたくはない。
 いつものようにはぐらかされた上に微妙に惚気の混じった悪態を聞かされる羽目になるのだから。
 だからその話題からはアスカは外されていた。
 唯一そういうことに頓着しないヒカリは自分のことがあるから恥ずかしくてその話題を避けていたし、
 レイは世間のことに興味がない。
 それにシンジとアスカの結婚問題については傍観しているほうが面白い。
 従ってアスカはその話題からは取り残されていた。

「親に承諾…って、アンタ、アレに話したのっ?」



「アレ…」

 近い将来の息子の嫁に“アレ”扱いされ、顔色を曇らせるゲンドウ。
 その肩をリツコがぽんぽんと叩いた。
 


「そ、それは話すに決まってるじゃないか。承諾が要るんだから」

「ちょっと待ちなさいよ。アタシの方はどうなのよ!」

「え?」

 シンジが口をあんぐりとあけた。

「まさか、アスカはドイツの家族に承諾を貰わないつもりなの?」

 まだ二人の観点がずれている。
 すでに二人は恋人同士であると思っているシンジと、未だその関係には至っていないと考えているアスカ。
 この世の中がすべて多数決で決定されるのなら、圧倒的にシンジの勝利なのだが。
 
 アスカは内心喜んでいた。
 舞い上がっていた。
 シンジが自分と結婚を考えてくれている。
 結婚の承諾を貰うためなら、ドイツでも地獄へでも今すぐに行くことだってできる。
 だが、何故か素直に喜ぶことができない。
 
「そ、それは…行ってやってもいいかもしれないけどさ。その…し、承諾ってヤツを貰いに」

 アスカは顔を捻じ曲げて桜の枝を見つめていた。
 シンジの顔を見るのが恥ずかしかったから。



「うむ。リツコ、航空券の手配だ」

「まだ早い。ふふ、相手はアスカだから」

 レイがすべてを見通しているかのような微笑を浮かべた。



「あ、そ、そうか。よかった」

 大きな溜息をつくシンジ。
 シナリオではとんとん拍子にことが運ぶはずだった。
 それなのにアスカの予想外の抵抗に彼は対応に困っていたのだ。
 柔軟な対応というのは碇家の男性の血筋には向かないのかもしれない。

「じゃ、し、式は…あ、式って言っても身内だけでいいよね。でも、アスカが望むなら…」

 しどろもどろになりながらも何とかシナリオを進めようと試みるシンジ。
 その言葉をアスカは余裕を持って聴いていた。
 何故余裕が出来たのか自分でもわからない。
 だが、もう自分は迷わない。
 アスカは決意していた。

「4月でいいよね。籍を入れるのは」

 アスカは顔を戻した。
 胸元に出されたままだった左手がすっと腰に動く。
 これで完全なアスカの攻撃態勢が仕上がった。
 アスカはニヤリと笑った。

「そいつはダメよ。馬鹿シンジ」

 シンジは言葉を失った。
 その少し間抜けな表情をアスカは心から愛しいと思う。
 ああ、調子が出てきた。

「ど〜してこのアタシが碇アスカになんなきゃいけないわけぇ?」

 惣流・アスカ・ラングレー、渾身の笑顔を見せた。
 そう、邪悪な笑みと呼ばれるあの笑顔だ。

「え、あ、い、お、う、ええっ!」

 シンジはパニックに陥った。
 まさかアスカに拒否されるとは想像の範疇を超えていたからだ。
 


「お、おい。どうする」

「慌てないで、あなた」

「へっへぇ、アスカもやるじゃないっ」

「お兄ちゃん、しっかり」

 真剣に驚いているのはゲンドウひとり。
 女性3人はこれくらいの計画の変更には動じもしない。
 何しろ、相手はあのアスカなのだ。

 リツコは夫を宥めながら思っていた。
 アスカの心理変化を。
 どうやら急にアスカがいつもの調子を取り戻せたのは簡単な原因のようだ。
 つまりシンジが自分のことを愛していると確信できた所為。
 嫌われたくないという意識が彼女の思考を麻痺させていた。
 プロポーズされたということですっかり安心して、いつもの自分が出てきた。
 碇家の男性はとどのつまり尻に敷かれる運命なのかも。
 
「リツコ、どうすればいい」

「大丈夫よ。シンジ君の計画通りには行かないでしょうけど」

「う、うむ、お前がそう言うなら…」
 


 アスカはシンジの真っ向から指をぴっと突きつけた。

「い〜い?馬鹿シンジ。
 アタシはアンタと、結婚なんか絶対にしないからねっ!」

 指をさされたシンジは息をするのも忘れてしまってアスカの顔をぼけっと見ている。
 そして、その顔が微妙に歪み始めた時、アスカはにっこり微笑んだ。
 彼女の目的はシンジを虐めることにあるわけではないから。
 その目的はただ一つ。
 シンジのすべてを支配すること。
 そのためには彼にアドバンテージをとらなければならない。
 だからこその咄嗟に書いたシナリオだった。

「ただし、今は、ね」

「え…」

 アスカの微笑みは優しくシンジを包んでいるように思えた。

「結婚したげる。ただし今すぐじゃないわよ」

「ぼ、僕と?」

 形勢はアスカの思惑通りに進んでいる。
 今やシンジはあの懐かしいダメダメ君に戻っている。
 この様子を見たら16名の乙女たちもバレンタインのチョコを渡していなかったかもしれない。

「ええ、そうよっ!アンタに決まってんじゃないっ。
 このアタシが結婚する相手はこの地球上でアンタだけなんだからねっ!」

 アンタ“だけ”を強調するように、ぐいぐいと指を突きつける。
 よく見れば、シンジに突きつけている指は左手でしかも薬指。
 器用なものである。
 自分の贈った結婚指輪を目の前に突き出された上、
 そしてアスカに結婚相手は自分だけだと宣言され、彼はすっかり舞い上がった。

「ほ、本当っ?」

「あったり前でしょっ。あ、先に延ばすからって指輪は買いなおさなくていいわよ」

 アスカは薬指の指輪をしげしげと眺める。
 じわじわと拡がる嬉しげな笑み。

「アリガト。ホントに嬉しいわ」

 はっきりとした口調で、アスカはしっかりとシンジに伝えた。
 
「アタシもアルバイトしないといけないわねぇ」

「え、どうして?」

「馬鹿ね、アンタにも結婚指輪がいるでしょうが」

「いるの?」

 アスカは右手を伸ばしてつんとシンジのおでこを突いた。

「ばぁ〜か。結婚指輪は言い寄ってくる有象無象を寄せ付けない効果があるんじゃない。
 アンタ、もしかしてそんなことも知らないでこれくれたわけぇ?」

 からかうような口調でアスカが言う。

「あ、そうか。じ、じゃ、アスカはずっとはめていてよね」

「と〜ぜんっ。だから、アンタにも指輪がいるのよ」

「あはは、僕は大丈夫だよ」

「Halt die Schnauze!黙んなさいよっ。アンタ、バレンタインで山のようにチョコもらったでしょうがっ」

 ぽりぽりと頭を掻くシンジ。

「アンタ、何ニタニタ笑ってんのよっ。言っとくけど、浮気したらコロスわよ」

「ぼ、僕だってアスカが浮気したら…」

 ぐいっ。
 アスカの動きは素早かった。
 制服の胸倉を掴まれたシンジは目を白黒。

「誰が浮気するんですってぇ。もう一度言ってご覧んなさいよ、ええっ」

 こんなことをされてもう一度言えるわけがない。
 こういうときは愛想笑いしかない。



「加持君、彼女にアルバイトの手配を」

「了解。条件は?」

「決まってるでしょ。短期間で男性と接する危険のない職場。
 シンジ君が神経をすり減らさないようにね」

「うむ」

「あ、それ私も」

「レイ。小遣いなら…」

「あなた、甘やかしたらダメ。もう高校生なんですから」

「し、しかしだ」

「わかったわン。水商売なら手っ取り早く稼げるんだけどねぇ」

「産休を欲しくないのか」

 瞬間、あの当時のネルフ司令の顔が蘇った。
 首をすくめたミサトは、「善処します」と敬礼を返した。



 アスカから開放されたシンジは胸を撫で下ろした。

「ふぅ…やっと息ができるよ」

「はんっ。今日が歴史に残すべき婚約記念日だから特別に許してあげたのよっ」

「はは、それはどうも」

 シンジはそこで初めて疑問をぶつけることができた。

「ねぇ、アスカ」

「何よ」

 アスカはにこにこと指輪を眺めている。
 角度を変えたり、照明にかざしてみたり。

「どうして結婚は今すぐじゃダメなの?」

 その質問はアスカの機嫌を損ねる内容のようだ。
 眉間に皺を寄せた彼女はぐっとシンジを睨みつけた。

「アンタはいつからアタシのことを恋人だと思ってたわけぇ?」

「え、えっと、一年くらい…」

 どんっ。
 砂の上に運動靴を踏みつけてどうやってあんな音が出るのか。
 理屈はわからないが、アスカは自らの憤激をその音で表現した。

「アタシはね、その間ずっと苦しんできたのよ。
 アンタが誤解と錯覚と……それからとんでもない超能力を発揮してアタシの本心を見抜いて、
 二人を恋人同士だと決め付けて毎日をうきうきと過ごしていた間、ずっとね」

 怒鳴り声じゃないだけにアスカの気持がストレートに伝わってくる。

「ま、アンタもどうやらいろいろとがんばってたみたいだし、それなりに楽しかったから
 そのことは許してあげる」

 特赦を発表する王様のようにアスカは寛大だった。

「でも、アタシにもその気分を味あわせなさいよ」

「へ?その気分って…」

「鈍いわねっ。アタシにもその恋人気分ってヤツを味合わせなさいって言ってんでしょっ」

 さすがにキメの部分では力が入った。

「ど〜せ、いつかは結婚するんだからしばらくは恋人でいてもいいじゃない。
 それにアタシだって親の承諾がいるんでしょうが」

「あ、そうか」

「ま、夏休みに二人でドイツに行きましょ。そこでアンタを紹介したげる。
 コイツがアタシの結婚相手だって。反対なんて絶対にさせないから安心しなさいよ」

「そうだよね。電話でってわけにはいかないもんね」

「それにね、アタシ冬のドイツしか知らないの。きっと綺麗よ、夏のバイエルンは。
 二人でいっぱいデートするわよっ!」

「あ、うん。それは楽しみだけど…」

 シンジにも事情がある。
 結婚するまではと禁欲してきたのだ。
 そして、その想いは神経過敏なアスカにあっさり伝わる。

「ははぁ〜ん、そ〜ゆ〜ことか。エッチなシンジ君」

 アスカに見破られ耳の先まで真っ赤になったのはご愛嬌だ。

「え、う、あ…」

 アスカは自分も頬を染めながら、またもやぐっとシンジを指さす。

「赤ちゃんは結婚するまでつくらないからねっ」



「そ、そうなのか」

「あらら、できちゃった婚でもいいのにねぇ」

「自分と一緒にしないで」

「あなた、そんなに気を落とさないで。実は…」

 こそこそと夫の耳に何事か囁くリツコ。
 見る見るゲンドウの髭面に笑みが広がっていく。

「あらあら、リツコさんもご懐妊ですか」

「私に弟ができる。妹でもいいけど」

 どうやら碇家は春爛漫のようだ。



 さて、そんなことも知らず二人の世界に入り込んでいるアスカとシンジ。
 アスカはさすがにシンジを直視できずに次の言葉を紡いだ。

「だ、だけどさ、恋人ならしてもいいこともある…わよ…ね」

「えっ!」

「こ、こらっ、そんなに喜ばないでよ、エッチ、スケベ、変態っ!」

「ご、ごめん」

 アスカはまたシンジから目を逸らせた。
 さすがにこれは照れる。
 いくらずっと夢みていたことを実行するにしても。

「と、と、とりあえず、キ、キ、キスくらいなら…」

「いいの?」

「そ、そりゃあ、婚約成立の記念日なんだから、キ、キスくらいしておかないと拙いんじゃないの?」

 実にわかりやすいが、理屈も何も通ってはいない。
 だが、アスカの要求はシンジを再びしっかりモードへと誘導することに成功した。

 キス!
 来た、来たっ!
 あの屈辱的なファーストキスの汚名を返上しないと!
 そのためにイメージトレーニングと枕相手の実践トレーニングを積んできたんだ。
 この日のために!

 シンジは燃えていた。
 記憶に残るような素晴らしいキスにしないといけない。
 
「うん、そうだね。じゃ、婚約記念のキスを…」

 わっ!
 何、何ぃっ!
 シンジが急に男らしくなったじゃない!
 わわっ、どうしよ、どうしよ。

 アスカは焦った。
 恋人関係になることしか考えてなかった彼女はキスのトレーニングは積んでいない。
 あの鼻つまみ&うがいキスが唯一の経験なのだ。
 
 シンジはアスカの肩を掴んだ。

 ひ、ひぇっ。
 逃げられない!って、逃げるわけないけど。
 え、えっと、どうするんだっけ。
 そうだ。目を瞑らないと。

 うろたえたアスカは固く目を瞑った。
 当然、身体全体にも力が入る。
 そんなアスカの様子にシンジはすっかりリラックスできていた。
 彼の性格では予習さえしていれば安心でき、その上相手の方が固くなっているのだ。
 
 よしっ、あの頃の僕とは違うんだ。
 アスカ、大丈夫だよ。

「アスカ?」

「な、何っ?」

 目をぐっと瞑ったまま、上ずった返事。
 シンジは余裕の笑みを浮かべた。

「ほら、もっと力を抜いて。がちがちになってるよ」

 アスカの両肩をぽんぽんと軽く叩く。

「う、うん、わかった」

 返事はそう言ってはいるが、力はまだ抜けていない。

 仕方がないなぁ。
 まあ、今日は僕が…。
 よし、進入角度はこれくらいで…。
 いくぞっ。
 ……。
 あれ?

 ああ、来る、来る!
 もうすぐシンジの唇がアタシに…。
 あああああ…。
 キスキスキスキス!

「あ、あのね、アスカ?」

 ちょっと、早くしてよっ!
 き、緊張感でどうにかなってしまいそう!

「な、何よっ!」

 やはり目を瞑ったまま、アスカが応える。

「お願いがあるんだけどさ」

 げっ、まさか大人のキスを要求とか?
 ま、まあ、恋人なんだから、私たちは!

「な、な、何よっ」

「ごめん。鼻息が荒くて。少し抑えてもらえる?」

「へ…?」

 興奮しまくっていたアスカはその瞬間、息を止める。
 すかさず、シンジは唇を近づけた。



 2017年3月14日午後2時17分。

 第3新東京市ジオフロント。
 その桜が咲き誇る地下庭園に設置された隠しカメラの映像は、
 3年後に婚姻した惣流夫妻のメモリアルキスをその時刻に記録していた。




〜 おわり 〜

 


<あとがき>

 まずは、たんぼ様にお礼。
 こんなに素晴らしいCGを描いていただき、本当にありがとうございました。
 2枚目の『はんっ!』などはいたずら書きだと仰るのを無理矢理強奪などいたしまして、
 まことに申し訳ございません。
 重ねて本当にありがとうございました。
 
 で、長いっ!
 ここまでお読みいただきありがとうございました。
 コメディなので一気に読んでいただきたいと思ったので一挙掲載にしましたが、
 やっぱり長すぎますよね。
 ついついあれもこれもと詰め込んでしまいました。
 素晴らしい挿絵の副産物だと了解してやってください。

 因みに結婚する時はシンジはお婿さんになることになりました。
 碇家にはリツコに元気な男の子が誕生していましたので、
 跡取りの問題がなくなったわけです。
 おわかりだと思いますがシンジLOVEの量産機嬢たちの名前は温泉つながりで命名しました。
 もちろん、霧島温泉からのつながりです。
 また、鈴原家にお嫁に行った新入学女子高生は都合5人の子供を産みました。
 一人目は高校2年のときに産みましたので、結構大変だったようです。
 さて、最後にアスカは沖縄と浅間、どっちを選んだのでしょうね。

 アスカとシンジのこの後の恋人生活と結婚生活に幸あれ。



SSメニューへ

感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちら

掲示板も設置しました。掲示板はこちら