アスカはそれがとりたてて寂しいとは思っていなかった。
 ドイツにいるときとは違い、時としてこれが世界のすべてではないかと錯覚してしまうほどの平和な日常。
 その日常が突如として破られるとき、彼女は自分を戒める。
 今は戦時なのだ。
 相手は人間ではないことが大きな救いだったが。
 さて、問題は何を寂しいとは思わなかったである。

 今日は12月4日。
 惣流・アスカ・ラングレーの14回目の誕生日である。
 だが、それを祝ってくれるものはこの日本にはいない。
 何故ならそれを知らないからだ。
 同居人にして同じエヴァのパイロットである碇シンジにそのことを漏らせば、
 それなりの対応をしてくれると思う。
 いや、そう彼女は信じていた。
 ところが彼女はそのことを言わなかった。
 つまらない意地のために。

 3日前の12月1日の夜。
 アスカは誕生日のことを発言しようとした。
 だが彼女が口を開こうとしたその瞬間、横槍が入ったのだ。

「シンちゃぁ〜ん、12月8日はご馳走を頼むわよン」

 年甲斐もなく甘えた声を張り上げたのはこの部屋の家主にして作戦部長の葛城ミサト。
 アスカとシンジがレトルトのカレー。
 ミサトがそのカレーにタバスコやら訳のわからない香辛料をどばどば追加した、
 見ている二人にはまったくもって食指のわかない代物をビールとともにその喉に流し込んでいた時だ。
 
「ご馳走って、何を買ってくればいいんですか?」

「そうねぇ、ほらパーティーセットみたいなのとかお寿司とかピザとか。
 あんたたちの食べたいものがあったらそれも加えてよしっ」

 にっこり笑うミサトはシンジにウィンクをした。
 その表情に何故かむっと来たアスカは突っ込みを入れる。

「フォアグラとかトリュフとかフカヒレでもいい?」

「おっと、そう来たか。ま、そこそこで頼むわ。給料日までまだ少しあるしぃ」

「えっと、晩御飯に用意すればいいの?」

「と〜ぜん!あ、そうだ。大事なもの忘れてた。ケーキもお願いよ。3人で食べ切れるくらいのサイズでいいから」

「ケーキ?」

 アスカは眉をひそめた。
 嫌な予感がする。
 そして彼女はその直感を口にした。

「もしかして、ミサト。その日ってアンタの…」

「ぴんぽぉ〜ん!12月8日はこの葛城ミサトさんの誕生日なのでぇ〜す!そこんとこよろしくン。
 あ、プレゼントよこせなんてこれっぽっちも思ってないからね。気持ちでい〜の、気持ちでねン」

 その瞬間だった。
 アスカが自分の誕生日のことを黙っておく気になったのは。
 いや、ミサトに遠慮したわけではない。
 あくまで自分の気持ちに素直にそう思っただけだ。
 2番目はイヤ。
 今12月4日が自分の誕生日だと発表したなら、ミサトに便乗したと思われる。
 それがイヤだった。
 何故イヤなのか。
 そこまでは本人もわからない。
 なに、簡単なことだ。
 シンジにそう思われたくないから。
 それだけのことである。
 しかしそんな微妙な女心はアスカにはまったくわかっていなかったのである。

 

 

 

 

る誕生日

 


 

2005.12.04         ジュン











 その年の12月4日は金曜日だった。
 月曜日の再会を約して親友と街角で別れたアスカはその場で立ち止まり空を見上げた。
 快晴。
 記憶する限りの誕生日はそのほとんどが灰色の雲とどんよりとした冬の空。
 地は真っ白に化粧をされ、たいてい空からは雪が降っていたものだった。
 それがどうだ。
 半袖でも暑いくらいの陽気と青い空。
 眩しすぎる太陽を見上げて、アスカは鼻で笑った。

 思えば遠くに来たものだ。
 イエローモンキーの国。
 自分にも日本人の血が流れているにもかかわらず、彼女は1/4の祖国を馬鹿にしていた。
 もちろん面と向かってこの地の人々にそんな意識を表面化させはしない。
 それは体格から来るコンプレックスに悩んでいたドイツを離れ、
 ガイド兼用心棒の加持と過ごした日々が影響していたのだろう。
 そして、シンジ。
 張りつめていたその気持ちはオーバーザレインボーの甲板に置いてきた様だ。
 学校とは勉学に勤しむ場所。
 むろん日本でもそうなのだが、ドイツとはまるで違った。
 チルドレンであるために、そして自分が優秀であることを示すために、
 さらに東洋人の血が流れているという事実から来る蔑視を打ち砕くために、
 彼女は粉骨砕身、寝る間を惜しんで勉学に打ち込み、運動能力を磨いた。
 その成果として飛び級で大学を卒業するに至ったわけだが、
 結果的には友人もなく、楽しい学校生活という記憶はまるでないという寂しさが残ったのである。
 それを彼女は悔やんではいなかった。
 そしてそれをこれからも続けていこうと考えていた。
 日本に来るまでは。

 この心地よさはなんだろう。
 無論、使徒が現れると死を賭して戦わねばならない。
 その戦いのために訓練やテストも続けている。
 だがその合間には実にゆったりとした日常が流れていた。
 学校がこんなに楽しいとは想像もしていなかった。
 親友だってできた。
 それに…。

 アスカは時に首を傾げていた。
 それは一人でいるとき、ベッドで横になった時や、バスタブで適温のお湯にその身を委ねている時、
 いや、最近は教室でも思うときがあった。
 どうして自分は碇シンジとの同居を続けているのだろうか、と。
 まずはっきり言えることは、自分はあの情けない少年に決して恋心など抱いていないという揺るぎようもない事実だ。
 だが好意を持っていないということは嘘になる。
 彼女は嫌いな人間と同じ空気を吸うだけで気分が悪くなるのだ。
 そんな好き嫌いの激しい自分が同居しているのだからシンジのことは嫌いなのではないだろう。
 それだけは認めている。
 仮に鈴原トウジや相田シンスケがチルドレンだったとして、
 彼らと同居するかといえばそれは絶対にしていないと断言できる。
 一晩だって御免だ。
 では、シンジは彼らと違って安心そうだからか?
 それは違う。
 現にあの馬鹿は眠っている自分の唇を奪おうとしたり、
 時には風呂上りの自分の身体をちらちらと盗み見しているのだ。
 もちろん、そんな時には思い切り睨んでやると真っ赤な顔になって俯いてしまうのであるが。
 シンジは自分に興味を持っている。
 それは女の肉体というものすべてに対してなのかどうなのかは彼女にはわからなかった。
 だがそんな彼が突然アスカに襲い掛かってくることだって充分考えられる。
 その時にはあんなろくに訓練もつんでないヤツなどこてんぱんにのしてやると日々心に誓ってはいるのだが、
 暴力に屈することだって考えられるのだ。
 それでもアスカは同居を続けている。
 何故?
 わからないからこそ、時に首を傾げるわけだ。
 これも簡単な答が用意されている。

 アスカは彼を信じているから。

 もし彼女がキスしていいと言ったなら彼はおずおずとそれに応じるだろう。
 アスカの許しさえあれば。
 彼はアスカに嫌われたくない。
 だからこそ必死に本能的な衝動を抑えているのだ。
 一人きりのときは許してやって欲しい。
 目の前の扇情的な格好をしてる金髪の少女には手を出そうとはしないのだから。
 彼女はそんな彼の気持ちをどこかで気づいているのだろう。
 そのことに自分で気づいていないのは自省癖のないためか、その方面に彼女も鈍感なのか。
 ともあれ、彼女はシンジが自分にとって特別な存在であることをまったく認識していなかったのである。

 さて、そんなアスカは少し顎を上げながら足を進めていた。
 今日はあの同居人は友人をゲーセンに行くという。
 話を聞いてみると彼は自分ではほとんどゲームをしないらしい。
 ただ友人達がはしゃいでいるのを見ているだけ。
 そういうところは理解不能である。
 だが、今日だけはそんなシンジがありがたかった。
 何故なら、彼女は今日が誕生日だということを黙っていようと決意していたからだ。
 そんな決意も同じ部屋に彼がいると喋ってしまいそうになるかもしれない。
 だからシンジがいない方がいい。
 できることなら松代あたりに泊りがけでテストにでも行けばいいのに…。
 そんなことすら思うアスカは、したがってクリスマスケーキ予約受付中と幟の立つケーキ屋を見ても
 すぐに目を逸らし、ことさらに顎を上げずんずんと足を進めたのであった。

 マンションのポストにはくだらないチラシが数枚。
 もしかして…と思っていたものは入っていなかった。
 国際郵便か届けものの不在名刺。
 クールに構えていたはずなのに、それがないとわかると思わず溜息をついてしまった。
 そんな自分にアスカは苦笑する。
 あの女はママではない。
 でもママのように接してくれる。
 国際電話だって何度もかけてきた。
 自分もそんなあの女の人に親しげに喋っているではないか。
 二人とも芝居をしているのかもしれない。
 仮面親子。
 血のつながらない母親。
 彼女に褒めてもらっても嬉しくない。
 嬉しくなんかない。
 嘘である。
 アスカは年を追うごとに彼女も求めている自分に腹を立てていた。
 飼い馴らされている。
 身寄りがほとんどない彼女にどんな理由か知らないが、
 接触をしてくるその女性にうまく取り込まれているような気がしてたまらない。
 この件についてはアスカも自分の気持ちを了解していた。
 彼女の中の母親を失いたくないのである。
 たとえ幼い彼女の首を絞めた母親ではあっても、アスカにとっては誰よりも愛しい存在だ。
 だから義理の母親を表面上では親しく接していても、その存在を憎んだ。
 いや、憎もうとしたのである。
 憎まないと縋ってしまうから。
 そしてそんな弱い自分が口惜しくてたまらないから。
 アスカは知っている。
 あの女性は夫のことを心底愛しているのだ。
 魂が抜けた狂える妻を裏切って、別の女に心を移してしまった男を。
 その行為に罪の意識を覚え、妻の血を引く我が子を敬遠するようにしてしまった情けない男を。
 だから彼女は夫に代わって、アスカを…義理の娘を愛そうとしてくれているのだろう。
 だがそれは完全に芝居なのだろうか?
 違うと思っているのはアスカの願望なのだろうか?
 好意を持っているかどうか、そんなことはわからないが、
 こんな可愛げのない東洋人の血を引く娘に優しく接してくれる。
 毎年、誕生日にはプレゼントを贈ってくれる。
 マフラーやセーター。
 それらはすべて手編みだった。
 彼女は演技や義務でアスカに接しているのではないのではないか。

「ばっかみたい」

 アスカは部屋に入るとリビングのソファーに仰向けに横たわった。
 結局は彼女の心を求めているのだ。
 毎年のプレゼントは…もうサイズが合わなくなったものでも…すべてアスカはちゃんと保管している。
 この常夏の国にも持ってきた。
 使うことは100%ないとわかっていても、ドイツに残しておけなかったのだ。
 彼女の少ない私物の中に義理の母方の贈り物は大切にしまってあった。
 去年はとっくりのセーター。
 そして、今年は…。
 ドイツからの荷物は何もない。
 せめてカードくらい送ってもらえるかもと心の奥で期待していた。
 そんな自分が恥ずかしく、そして腹立たしい。

 アスカが誕生日のことをシンジになかなか告げなかったのはこのことも影響していたのである。
 だがそんな風に考えるのも逆に自分が惨めだ。
 そこであの日、その事実を…4日が自分の誕生日であることを晒そうと考えたのであった。
 ところがミサトの言葉を聞き、もういいと彼女は決めた。
 
 誰も祝ってくれなくてもいい。
 自分で自分のために祝うのはもっと嫌だ。
 寂しくなんかない。
 寂しくなんかあるもんか。

 アスカはぐっと天井を睨みつけた。


「ただいまぁ〜」

 気の抜けた同居人の声に、アスカは慌てて起き上がった。
 呆気に取られている彼の横を顔を背けて走り抜け洗面所に突入する。
 いつの間にか灯りが必要な時間になっていた。
 白熱球に照らし出される鏡に映ったその頬には涙の痕もなければ、目も充血していない。
 泣き寝入りしていただなんて誰にも知られたくない。
 特にシンジには。
 鏡の中に見える青い瞳の少女はまだ強張った表情をしている。
 彼女はそのアスカの頬を撫でた。
 指先には硬く冷たい鏡の感触しかない。
 アスカは鏡の国の少女に無理矢理頷かせた。
 よしっ。
 アスカは頬をパシッと音を立てて軽く叩く。

 その時だった。
 彼女たちの運命が大きく変わる音が響いたのは。

「アタシが出るっ!」

 時として電話のベルは誰からのものか教えてくれることがある。
 この時がそうだった。
 アスカは間違いなくドイツの義母からだと確信していた。
 ドイツ語のわからないシンジのことを思って叫んだのではない。
 そんなことは頭から飛んでいた。
 では何故?
 早く声を聞きたかった。
 それだけのことだったのである。

「え…」

 既に受話器を上げていたシンジの手からさっと奪い取る。
 そして彼に背を向けて、勢い込んで言葉を発した。

「Mutter?」

 聴こえてきたのは落ち着いたドイツ語。
 真っ先に彼女はアスカに尋ねた。
 誕生日のプレゼントを送ったが届いてるかと。
 すぐに嘘はつけなかった。
 頭が回らなかったのではない。
 義母からのプレゼントが今年もあった。
 それが嬉しくて言葉に詰まったのだ。
 その一瞬の空白を義母はすかさず読み取った。
 まだ届いてないということを。
 そして彼女は詫びた。
 日本への輸送ルートに結構時間がかかり保証もないので、ゼーレを通じて送ったのだと。
 遅くなったのは自分が悪いので間に合わなかったことを許して欲しい。
 そんな義母にアスカは素直に礼を言う。
 いつもよりたどたどしい会話に何故かアスカの心は温かかった。
 やがて二人は笑いあった。
 アスカは背中にいるはずのシンジのことを完全に忘れ去っていたのだ。
 もっとも彼に会話の内容がわかるはずもなかったが。
 
 電話を切った後、振り返るとシンジはそこにいなかった。
 その代わりに台所から物音がする。
 察するに夕食の準備。
 おそらくはスパゲティ。
 シンジがよく買ってくるレトルトのミートソースの匂いがするから。
 誕生日のご馳走がインスタントのミートスパゲティか。
 アスカは苦笑した。
 だが、昼間のような翳りのある苦笑ではない。
 寧ろ何か吹っ切れたようなそんな明るさの混じった苦笑いだった。

 アスカの鼻は正しかった。
 チーズの粉末が乗っかっているだけまだましだというもの。
 お腹も空いていたし、いつもより美味しく感じた。
 自然に笑顔にもなっていた。
 そんな機嫌のいいアスカにシンジは羨ましげに呟いた。

「いいなぁ、お母さんか」

 一瞬、アスカははっとした。
 シンジはアスカの生い立ちを知らない。
 本当の母親がいて、その彼女に首を絞められ、そして自殺してしまったことを。
 だから電話の向こう、ドイツにいるのは娘を心配する母親だと思い込んでいるはずだ。
 アスカはそんなシンジにきっぱりと言い切った。

「ええ、羨ましいでしょ。アタシのママよっ」

 母のない子に言っていい台詞では決してない。
 でも、シンジには何故かその言葉に悪意が感じられなかった。
 寧ろ小さな子供が母親を誇るようなそんな可愛らしさすら覚えたのである。
 だから彼は微笑んだ。
 その微笑の所為かもしれない。
 アスカが少しだけ調子に乗ったのは。
 スパゲティを食べ終わって、トマト味のげっぷを口の中に彷徨わせてから、
 …アスカも女の子なのだ。シンジという男の子の前で大きなげっぷは流石にできやしなかった…、
 いつもようにきっぱりと命令した。

「馬鹿シンジ、ケーキ買って来てよ。アタシ、ケーキ食べたい」

「ええっ」

 流石に嫌そうな顔で不満を表すシンジ。
 時間は9時になっている。
 駅前まで走ってもケーキ屋などもう開いてないだろう。

「ふんっ、コンビニのでい〜わよ。どんなのでもいいわ。ショートケーキでもいいし」

「お願いだから文句は言わないでよ」

「言わないわよ。アタシがこれまでにそんなこと言ったことある?」

 この大嘘付き。
 シンジは心の中で絶叫した。
 だが言葉にはしない。
 そんなことをすれば間違いなくアスカの機嫌が悪くなるから。
 しかし今日だけはそれは間違いだ。
 もしシンジが口喧嘩を始めてケーキを買いに行かなかったら、
 彼女はただ寂しげに「もういいわよ」と部屋に戻っていただろう。
 
「わかったよ。絶対に文句言わないでよ」

 シンジは不承不承を絵に書いたように立ち上がった。

「しつこいわねっ、怒るわよ」

「ほら、やっぱり怒るんじゃないか」

 シンジの抵抗はそこまで。
 アスカに睨み返されると、彼は少し唇を尖らせて部屋を出て行った。
 それでも玄関を出る時に念を押すことだけは忘れなかったのはやはり彼らしい。

「ショートがなくても文句言わないでよ」

「早く行けっ、馬鹿シンジ!」

 アスカは廊下に向かって叫んだ。
 玄関が閉まる音がすると、急に部屋の中が物凄く静かに感じた。
 ベランダにいるペンペンが食後の運動にか、うろうろと歩いている気配がするだけ。
 アスカは小さく呟く。

「ばぁ〜か。アタシに逆らうなっての」

 テーブルの上には二人の食べた後の食器がそのまま。
 それを眺めて彼女は微笑んだ。

「ま、これくらいはしてやっか」


「ただいま。あったよ、ショートケーキ」

 靴を脱ぎながらシンジが奥に声をかけた。
 怒られないということが嬉しいのか、彼女が喜ぶのが嬉しいのか、
 そこのところはシンジにはわからない。
 いや、考えてもいないのだろう。
 だが、リビングから顔を覗かせた彼はテーブルの上の状況に目を見張った。
 綺麗に片付けられている。
 そのテーブルに頬杖をついたアスカがそっぽを向いている。

「あ、こ、これ、ケーキ」

「アリガト」

 置かれたコンビニの袋を覗き込むと小さなショートケーキが一つだけ。

「ちょっと馬鹿シンジ、アンタのはどこよっ」

「え、僕のは買ってないよ」

「どぉ〜してよっ」

「だって、別に食べたくなかったから」

 アスカは大きな溜息をついた。
 こういうヤツなのだ、碇シンジという男は。
 期待すればきちんと裏切ってくれる。
 
「もうっ、じゃ紅茶淹れてよ。アンタの分もね」

「僕、コーヒーがいい」

「却下。それとも何?アタシのお願いを聞いてくれないってわけぇ?アンタは…」

「紅茶淹れてくるっ」

 シンジはアスカの言葉から逃げ出した。
 その逃げ出した先には信じられないものが待っていたのである。
 彼は目を疑った。
 綺麗に片付けられた流し台。
 スパゲティを茹でた後も無ければ、食べ終えた食器も見当たらない。
 彼は不届きにも食器棚と流しの下を確認した。
 食器は枚数通りあるし、お鍋も行方不明になっていない。
 ということはちゃんと洗われて水気も拭かれて所定の場所に仕舞われたということしか考えられない。
 葛城家の家事は分担制になっている。
 だがそれは有名無実のことで、結局はシンジ一人がしているのだ。
 アスカがしたところなど見たことがない。
 洗濯はこっそりしている時があるので、それは女の子ならではの理由があるものだと流石に鈍感なシンジも了解していた。
 ところが洗い物である。
 牛乳を飲んだコップでさえ放ったらかしのアスカなのだ。
 こと被害者であったシンジだけにこのショックはなおさらだろう。
 立ちすくんでいる彼の背中に微かに笑い声がした。
 振り返るとそこに見えたのは戸口を流れていく紅茶色の髪の毛。
 そしてガタゴトと椅子の音。
 シンジはぽりぽりと頬を掻いた。

「なんだかなぁ…」

 何が何だかともわからずにシンジは零した。
 ともかく紅茶を淹れようとポットの方を見るとそこにもアスカの影がはっきりと見える。
 2客のティーカップとティーポット。傍らのお盆の上には砂糖にミルク入。
 おまけにミルク入には温めたミルクまでちゃんと入っていた。

「わかんないよ、アスカは…」

 その時、またもくすくすと笑い声。
 振り返ると髪の毛が少し見えて椅子の音はさっきとまったく同じ。
 遊ばれているのかどうか。
 でも不可解ではあるが気持ちの悪いものではない。
 ほんの少し温かになった胸に気分をよくしながらシンジはティーポットにお湯を注ぐ。
 そしてポットに蓋をしたその時、シンジはさっと振り返った。
 今度は逃げ遅れた紅茶色の髪の少女とまともに目があった。
 彼女はしまったと言わんばかりにニタリと笑い、舌をぺろりと出す。
 そして何も言葉を発せずにリビングへ姿を消した。
 不意をついたシンジの方が固まってしまっている。
 あまりに子供じみたアスカの振る舞いが彼の琴線に触れたのだ。
 彼女を綺麗だと思ってはいたが、年相応に可愛い女の子とは感じてなかった。
 だが今のアスカは彼にとって反則だった。
 あんな面があったなんて知らなかった。
 それは当然だろう。
 アスカが絶対に見せなかったのだから。
 いや、彼女本人もびっくりしているかもしれない。
 母親に首を絞められてから、子供らしい言動はとっていなかったのだ。
 常に背伸びをし、少しでも大人に見られようとしてきたアスカである。
 そのことを知らないシンジも、初めて見るアスカの様子に感動すら覚えていた。
 知らず知らずに鼻歌交じり。
 紅茶の用意はできた。

 それでもアスカは今日が誕生日だということは言わなかった。
 ただにこにことフォークを動かしケーキを口に運ぶ。
 食べるものがないシンジはその様子を紅茶を啜りながら見ていた。

「アンタも食べる?」

「え、い、いいよ。アスカが食べたかったんだろ」

「うん、食べたかったの」

 いちごにフォークを突き刺しパクリと一口。
 そんな彼女の表情を見ていてシンジは思う。
 きっとお母さんと話したから機嫌がいいのだと。
 それは間違いではない。
 間違いではないが…。

 心の中で“Herzlichen Glueckwunsch zum Geburtstag”と囁き、ゆっくりとケーキを食べ終えた。
 誕生日を自分で祝うなど屈辱的だと思っていたのに、今はそんな風には思えない。
 遠いドイツの地で自分のことを思ってくれる人がいるのだ。
 アスカは幸福だった。
 
 シンジはいつもと違うアスカに何故なのか訊ねられないでいた。
 でも気になる。
 彼女が洗ってくれたのだから今度は自分が、とケーキ皿を持ち上げた時、
 微かに声がした。

「アリガト…」

 びっくりして声のした方を見ると、その声の主はすっと立ち上がったところだった。
 
「アタシ、お風呂入ってくる」

「あ、ごめん。準備…」

「もうできてるわ。アタシがしといた」

 アスカの背中がそう言い残していった。
 ぼけっとした表情で見送ったままシンジは呟く。

「雪…。降るかも」

 セカンドインパクト以降、この国では雪は降っていない。
 シンジは知識として知っているだけ。
 何気なく見た窓の外は真っ暗。
 今日も熱帯夜かもしれない。

 アスカは早寝した。
 眠たいわけではない。
 ただ今日のうちにベッドに入りたかったから。
 幸福な気分でいるうちに今日という日を終わらせたかったから。
 シンジに「おやすみなさい」を告げ、怪訝な顔の彼が何も言わないうちにさっさと引っ込む。
 それはそうだろう。
 彼女が喋ったのはドイツ語だったのだから。

 「Gute Nacht , Shinji」
 
 彼にわかったのは自分の名前だけだっただろう。
 その間抜け面が今日の最後に見たものだというのも面白いではないか。
 アスカは部屋に入るとすぐに扉を閉め、電灯をつけずにベッドに入った。
 ベッドサイドに膝をぶつけたが、それも今の気分を悪くはさせない。
 目は冴えている。
 真っ暗な部屋で、外の物音が聞こえるだけ。
 どうやらシンジはバスルームにいるようだ。
 シャワーの音が聞こえる。
 一瞬、シンジの裸体を想像し、真っ赤な顔でその画像を頭の外に追いやった。
 追いやるのに頭を左右に振ったほんの僅かな間に、シャワーの音は消えていた。
 
 あれ?

 暗闇は現実の時間よりも進みが早い。
 アスカにはそれが10分以上に感じられた。

 まさか、あの馬鹿、シャワーで逆上せ…るわけないか。
 でも、変じゃない。
 シャワーの後に湯船に入ったとしても音のひとつも聞こえるはず。
 心配しているわけじゃないわ。
 気になるだけよ。

 それこそ集音マイクのように耳をそばだててアスカは物音を待った。
 それは突然で、しかもとんでもない叫び声だった。

「わああっ」

 アスカは飛び起きた。
 バスルームにファーストでも沸いて出てきたのか。
 あの人形女ならそれくらいのことはできそうだ。
 躓きながらも扉に到達すると、向こう側にもバタバタとした足音が。

「シンジ?」
 
 扉を開けようとした時、彼がすぐ近くで息せき切って喋りだした。

「アスカ、まさか、今日が誕生日なの?」

 彼女は息を飲んだ。
 あの鈍感なシンジが気づいた。
 気づいてくれた。

「そ、そこにいるんだろ、ね、答えてよ。違うの?」

 アスカは首を振った。
 言葉が出てこない。
 正解だと言いたいのに唇が動いてくれない。

「ごめん、すぐ気づかなくて。ケーキもあんなのしか買ってこなくて」

 日本語が出てこない。
 咄嗟に出てくるのは母国の言葉。

 “Danke”って何だっけ?
 焦れば焦るほど、見つからない。
 ママ、助けて!
 
 その時、アスカが助けを求めたのは実の母ではなかった。
 無論、惣流キョウコへの愛がなくなったわけではない。
 ただ、ほんの2時間ほど前にまるで本当の母子の様に電話で、しかもドイツ語で喋っていたのだ。
 無意識に救いの主を彼女に求めたのも仕方のないところだった。
 アスカは焦る気持を抑えて、ゆっくりと数を数えようとした。
 だが出てくるのは“eins zwei drei”。

 ああ、アタシって馬鹿。

「アスカ?」
 
 シンジの声が不審を帯びている。
 返事が返ってこないのだから当然だろう。

 日本語。日本語!
 シンジの喋っている言葉。
 ああ、そうだ。

「馬鹿シンジっ」

「え…」

 少しイントネーションがおかしかった。
 アスカは苦笑した。
 何をパニックになっていたのだろう。
 “いち に さん”に“しぃ ごぉ ろく”。
 天才アスカ様が日本語を忘れるわけないじゃないか。

「ううん、アリガト」

 それでも声は小さかった。
 自分でも驚くほどしおらしい声だ。

「じゃ、間違えてなかったんだね。今日がアスカの誕生日なんだよね?」

「うん」

「そ、そうなんだ。お、おめでとう、アスカ」

「アリガト」

「あっ、じゃ行ってくるねっ」

「えっ、どこに?」

 扉を開けようとするアスカ。
 するとまるで頭から突き抜けたような声でシンジが叫んだ。

「だ、ダメだぁっ!」

 扉が開かない。
 力を込めてみる。
 少し動くがそれ以上の力で扉が押し返してくる。
 いや、扉ではなく向こう側のシンジが開かないようにしているのだ。
 
「ちょっと!何してんのよ!開けなさいよっ!」

「だ、ダメなんだよ!」

「どうして!」

「フル…じゃない、真っ裸なんだよっ!」

 あ、なるほど。
 そりゃダメだ。

 頬を朱に染めたアスカは笑った。
 バタバタとバスルームにとって返すその足音を聞きながら。
 「もういいよ」という開門の呪文を待っていた彼女は別の言葉を聞くことになった。
 
「ちょっと待っててねっ。絶対に今日中に戻ってくるから!」

 玄関に走りながらのその言葉は最後の方は小さくなっていった。
 玄関の閉まる音にアスカは扉を開ける。
 暗闇に慣れた目に廊下の明かりが眩しい。
 
 今日中?
 それって…。
 もしかして…。

 アスカはリビングに向かおうとして、そしてその足を止めた。

「待ってろって言ってたわよね、馬鹿シンジのヤツ」

 彼女はふふふと笑うと、元の暗闇の中へ。
 但し部屋の照明はつけることにした。
 液晶時計の数字は2337。

 どうだろ?何とか間に合うかな?
 ま、遅くなるようじゃ家中の時計を遅らせてやるからね、馬鹿シンジ。
 安心して急ぎなさいよ…ってのも変だけど、がんばってね。

 もしかすると、最高の誕生日なのかも。
 アスカはそう思った。
 そして、その10分後。
 予想していた時間よりもかなり早く、扉が開く音がした。
 誇らしげに、高らかに、彼の帰還の挨拶がアスカの笑みを深くする。

「ただいまっ」

 バタバタと廊下を走る音。
 リビングに到達したシンジがそこにいると思い込んでいた人の姿が見えないに驚く。
 
「あれ?アスカ?どこ?」

「ここ」

 アスカの部屋からの声にシンジの顔が綻ぶ。

「どうしてそんなとこにいるのさ。ほら、間に合ったよ」

 部屋の方にコンビニの袋をかざす。
 つい数時間前のそれとは大きさも重さも段違いだ。
 それでも扉は開かない。

「アスカ?」

「待ってろって言ったじゃない。だから、待ってるの」

「あ…」

 彼の言った通りに待っているアスカが愛しい。
 瞬間、シンジはそう感じた。
 だが、それはすぐに別の考えに上塗りされる。

「あ、じ、じゃ、もうちょっとだけ待って。すぐに…」

 シンジは用意している。
 見えなくてもわかる。
 アスカはわくわくしていた。
 何が待っているのか。

 テーブルの上に広げられていたのは、実に不細工な形をしたケーキだった。
 色も形もまちまち。
 ショートケーキにチーズケーキ、チョコレートケーキに丸いモンブラン。
 プリンアラモードや苺大福までがその群れに寄り添っている。
 それでも一応は大きなケーキに見えなくもない。
 
「ふふふ、見事に寄せ集めね」

「ごめん、大きいのは予約だって」

「仕方ないわよ。ま、よくやったわ、馬鹿シンジっ」

 彼女の笑顔はシンジを舞い上がらせるに充分だった。
 ケーキだけでなく、フライドチキンやポテト。
 何故だか餃子や肉じゃがのパックまで並んでいるのは、
 コンビニでのシンジの慌てふためきようが見えるようでアスカは嬉しくなる。
 できればその時のシンジの様子を実際に見てみたかった。
 そんなアスカにおずおずとシンジが言った。

「あ、あのさ」

「何?」

「ドイツでも誕生日のケーキにはロウソクを立てるの?」

「ええ、立てるわよ」

「えっと、じゃ、これでもいいかな?」

 恐る恐るシンジが後ろ手から出してきたのは短く細いロウソク。

「おっ、やるじゃない!アンタにしたら気が利いてるわよ!」

 喜ぶアスカに彼は引き攣った笑顔を浮かべる。

「で、でもね、これ…」

 シンジは何のためのロウソクなのか説明した。
 だが仏教徒ではないアスカにはピンと来ない。
 仏壇用のロウソクしか売ってなかったと謝られても、そんなことはどうでもいいとそっけなく言うしかない。
 それよりも時間が惜しかった。
 時計を見ると、もう11時56分ではないか。

「シンジ、アンタ、ローソクに火をつけてきなさい!」

「え、でも、僕ライター持ってないし」

「馬鹿!ガスコンロでつけてくるの!アタシは並べとくから!」

「わかった!」

 ダイニングへ飛び込んで行くシンジを笑顔で見送り、アスカは思い思いの場所に白いロウソクを立てて行く。
 1,2,3,4、5、…ママ…、6,7,8,9,10、11,12,13…。
 その間に戻ってきたシンジが火を移していく。
 
「ほら、その手に持ってるのを早く挿してよ。それが14本目よっ」

「うんっ」

 モンブランの頂にロウソクを挿す。
 アスカとシンジの二人の顔に笑顔が広がった。

「電気消すね!」

「OK!一息で吹き消してやるわっ」

 照明が落とされ、瞬間ロウソクの暖かい灯りにアスカの笑顔が浮き上がる。
 それもつかの間、彼女はその灯りを吹き消す。
 その表情が物凄く真剣なものだったことをシンジはその目に焼き付けていた。
 それは何か崇高なもののように思え、彼は絶対に忘れないでおこうと決意するのだった。

「ハッピーバースデー、アスカ」

 暗闇の中でシンジは言う。
 するとアスカが大きく息を吸い込むのが聞こえた。
 だが返事は返ってこない。

「アスカ?電気点けるよ」

「待って」

 どこか喉に引っ掛かったような声音。
 それに少し震えている。

「いいって言うまで点けないで」

 どういうことなんだろうかと考えているうちにアスカが移動を始めた。
 勝手知ったる我が家だ。
 彼女は洗面所に歩いていった。
 そして明りも灯さずに水音をさせる。
 どうやら顔を洗っているようだ。
 そしてタオルを使っている音。

 アスカが泣いていた?
 そうとしか思えないけど、訊くのはやめておこう。
 絶対に怒られるから。

 賢明にもシンジはそう思った。
 やがて戻ってきたアスカの声はもう震えていない。
 眩しい光の下での彼女の表情も笑みしか見えない。
 彼は手を叩いた。

「アリガト、シンジ。まあまあの誕生日だったわ」

「はは、どうも」

 気の利いたことを言う能力は持ち合わせていない。
 そんなことはシンジ本人にもわかっていたし、アスカも了解している。
 
 時に2015年12月5日、午前0時5分。
 一日遅れの誕生パーティーが始まった。
 無邪気に騒ぐアスカは実に騒々しく、駐車場に突入してきたルノーのとんでもないブレーキ音ですら
 二人の耳に届いていなかったのである。

 ミサトはエレベーターの中で焦っていた。
 何度時計を見てもその針は引きかえしてくれない。

 アスカ、怒るわよねぇ。
 でも誕生日ならちゃんと言ってくれてたら…。
 って、きっとあたしの所為よね。
 ごみん、アスカ。
 あんだけはしゃいでるの見たら言う気なくしちゃうわよね。
 でも、保安部も悪いのよ。
 ゼーレを経由してるからって調査に時間かけちゃって。
 リツコだって分析だなんて、本当にもうっ。
 日付の変わる15分前に渡されてもどうしようもないじゃない!
 ああっ、エレベータもっと早く上がりなさいよぉっ!

 アスカは怒るどころか大歓迎してくれた。
 ドイツからの誕生日プレゼントの包みをニコニコしながら開けていく。
 そんな彼女を見て、ミサトはすべての言い訳を止めた。
 ここでゼーレやら保安部やら分析やら言ったものなら、逆にアスカは怒り出すだろう。
 この場の雰囲気じゃ間違いない。
 なとシンジが冷蔵庫に走って行き、コップにビールを注ぐというサービス付き。
 その上、「わざわざ届けてくれたんですね。ありがとうございます!」と感謝の言葉も。
 どうしてアスカからでなくシンジからなのかということはよくわからないが、
 ここは一緒にはしゃいだほうがいいに決まってる。
 ミサトは「誕生日、おめでとう!」と叫んでグラスを一気に傾ける。

 包みの中身は猿のぬいぐるみと、ドイツケーキのシュトレンだった。
 カードにはお祝いの言葉が当然ドイツ語で書かれている。

「わおっ、美味しそうなケーキ!」

「ダメ!」

 まるでミサトが一口で平らげてでもしそうな勢いでアスカはシュトレンを抱え込んだ。

「これは、クリスマスまで一日一切れずつ食べるのっ。
 ミサトにはあげないわよ!」

「ひっどぉ〜い!独り占めなんてよくないんじゃない?」

「誰が独り占めするって言ったのよ。これはアタシとシンジで食べるの。人を欲張りみたいに言わないでくれるっ?」

「え、僕も食べていいの?」

「あ、う、うん。今回は特別に許すっ。でも、い〜い?今回だけだからねっ。甘えんじゃないわよっ」

 少し頬を染めた金髪の少女の表情にミサトはどこか懐かしいものを覚える。
 だが、実際にその年頃の彼女は深い悲しみの中にいたのだが。
 
「あ、ミサト。海外電話していい?ママにプレゼントが届いたって伝えたいから」

「いいわよぉ、その代わり一切れくらいは…」

「仕方ないわね。薄さ3mmに切ったのならあげるわっ」

「ええっ、ひどいわよ。ねぇ、シンちゃん」

「あ、でも、ミサトさんは一気に食べちゃいそうだし」

「わぁっ、シンちゃんまでそんなこと!おね〜さん、悲しいわぁ!」

 がぶがぶがぶ。
 実に美味なビールだ。
 いつもと同じものにもかかわらず。

「そうだ、ミサト。アンタ、ドイツ語は?」

 ドイツの義母と話を始めたアスカが振り返る。

「ぜんぜ〜ん。英語ならペラペェ〜ラだけどねン」

「あ、そう」

 ミサトは嘘をついた。
 大学の第2外国語はドイツ語だったし、流暢にとは行かないが会話も何とかできる。
 彼女はビールを飲みながらアスカの言葉に耳を傾けるのだった。
 そしてかなりの問題発言を聞き取ったのである。
 それはしばらくの間彼女一人の胸に収めていこうと決めた。

 戦いが終わったら一人の少年をドイツに連れて行くとアスカは言ったのだ。
 すごくいいヤツだから会ってやってほしい、と。

 おおっとミサトが驚いたその瞬間、アスカががばっと振り返る。
 当然、素知らぬ顔でぐびぐびとビールを飲む。
 そんなミサトの様子に安心したのか、アスカは少しぎこちない笑顔でシンジを見て、そしてまた背中を向けた。
 ふ〜ん、そういうことですか、そうですか。
 ミサトは傍らの少年をちらりと見る。
 こんな爆弾発言をアスカがしているとは露知らず、彼は黙然とフライドチキンにしゃぶりついている。
 どうやらまだ気持ちは通じ合ってないみたいね、この雰囲気じゃ。
 二人の現状を察し、彼女は新しい缶を開けた。
 今日はグラスで飲みたい気分。
 何しろお祝いの日なのだ。

「めでたいわねぇ〜」

「何がですか?」

「この世のすべてがよっ」

 ニタリと笑って、ミサトは悪戯っ気を出した。
 丁度アスカが電話を切って振り向いたところ。

「ねぇねぇ、シンちゃんはおね〜さんの誕生日に何をしてくれるのかなぁ?」

「あ、そ、それは、アスカにプレゼントしてないから、ミサトさんにするのは不公平かなって」

 腕組みをしたアスカが大きくうんうんと頷く。

「もうっ、じゃあねぇ、キスでもいいわよ。プレゼントは」

 ミサトは色気を最大限に上げて、シンジの肩に撓垂れ掛かる。
 彼は返事できなかった。
 素早く動いたアスカに背中を羽交い絞めにされ、無理矢理ミサトの隣から移動させられたから。

「酔っ払いが感染るわよっ!アンタはこっち!」

 アスカの動きにあわせてシンジも身体を動かしていた。
 だからすんなりと彼は反対側のソファーに移動する。

「アンタはこれでも抱かえてなさいよ。まったく…」

 アスカは義母からのプレゼントをシンジの膝にどんと置いた。
 大きな、それは大きな猿のぬいぐるみ。
 義母が覚えていたのだろうか?

 いや、パパだ…。

 アスカは直感していた。
 今度、ドイツに帰ったとき、父親に会ってもいい。
 彼女はそう決意していた。

「大きなお猿さんだね」

「うん。それはね、2代目になるの」

「2代目?」

 アスカはフライドポテトをむしゃむしゃと食べた。
 そして、屈託のない表情でさらりと言ったのである。

「最初のはね、死んだママが作ってくれたの。だから新しいママの作ってくれた、この子は2代目」

 シンジは息を呑んだ。

「名前つけなきゃね、この子の」

 少年の膝の上のお猿さんにアスカは静かに微笑む。
 そんな彼女の横顔をシンジはじっと見つめていた。
 
 この夜、何かが誕生したのかもしれない。
 いつになく神妙な顔で、ミサトは静かにグラスを目の高さに持ち上げる。
 おめでとう、アスカ、と。

 

 

<おわり>


 


<あとがき>

 久しぶりの自サイト掲載です。
 何とか誕生日に間に合いました。
 あのお話でのアスカと義理のお母さんとの電話からの膨らましですね。
 この調子ならきっと何もかもうまく行くことでしょう。

 12月4日21時40分微修正しました。
 アスカが心の中でドイツ語で「誕生日おめでとう」と言う場面。
 ドイツ語が間違ってました。
 加えて、義理のお母さんから贈ってきたドイツケーキ。
 正確な発音表記に変えました。
 さらに、Adler様(いつもお世話になってます!)によるシュトレンの紹介を併記しておきますね。

 『シュトレンの話ですが、シュトレンというのはレシピが一つではありません。昔はそれぞれの家庭で、代々レシピを守ってきたものでした。
 日本で言えば糠床、韓国のキムチと似たような感じでしょうか。
 マジパンを入れたもの、ラム酒を効かせたもの、中に埋め込むドライフルーツやクルミなどの木の実も実にさまざま。
 各家庭でいただくシュトレンは、それぞれに違い、家庭を行き来して友達の家のシュトレンを食べ比べるというようなこともあったようです。
 12月のドイツは厳しい寒さが襲ってきます。天気も冴えず曇天が続きますので、どうしても欝になってしまう人が増える中、
 家に篭っていずに外出し、友人たちとゆったりとした時間を楽しく過ごすような、一つの大切なカスガイの役割を果たしていたんですね』

 本当に助かりました。ありがとうございます。

 

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