「あなた、アスカちゃんから手紙が来たわよ」

 毎度の事ながらけたたましい音を立てながら夫がリビングへ突進してくる。
 踏み潰されないよう呼びかける前に床に置かれている大きな籠を妻はテーブルの上に移動させた。
 籠の中の赤ちゃんは相手をしてもらったかと青い瞳をキョロキョロさせて笑顔を浮かべている。
 ハインツ・ラングレーとマリア・マグダレーネ・ラングレーの第二子。
 学校に上がったばかりの長男はまだ授業中で留守だった。
 二人とも男の子なのでハインツが血を分けた娘に愛情を抱くのも無理はない。
 それは惣流・アスカ・ラングレーが彼を憎み続けていた時も同じだった。
 彼は娘のことを心配し、その無事を祈っていた。
 まして使徒なる異形の畏怖なる存在と戦いに遥かなる日本に赴いてからはさらに。

 そして、サードインパクト。
 この時、アスカとその父の心は触れ合い、彼女の誤解は解けた。
 父の思いを知った今、アスカの心には憎悪の欠片もない。
 ただ残っているのはわだかまり。
 憎悪はなくとも、逡巡はある。
 会話によって誤解が解けたわけではないのだ。
 急に「パパ」と呼びかけることができるわけがない。
 特にアスカのような片意地な娘にとっては。
 
 ここに血を分けた娘と父の奇妙で滑稽な交流が始まったのである。
 義母であるマリアとアスカとの文通というアナクロな手段によって。

 

 

 

 


2006.02.16         ジュン











 

 時に2016年2月14日早朝。
 少女は短い眠りから目を覚ました。
 4時前まで眠ることができずにベッドの上で自分は如何にすべきかを考え続けていたのだ。
 決して回答が出ないことを自覚しながら。
 まず、2月14日がそんなに大変な日だということをアスカはまるで知らなかったのが拙かった。
 欧米には好きな人にチョコレートを贈るなどという奇妙な風習などまったくなかったからだ。
 もし知っていたならばこの恐るべき記念日に合わせて周到な計画を練っていただろう。
 時間がなさすぎる!
 アスカは唇を噛んだ。
 もっとも筆者は知っている。
 たとえ、永久の時を与えられたとしても彼女は決定的な計画を策定することはできなかった。
 まだ彼女には時が満ちていなかったのだ。
 同居人であり元戦友でもあり、そしておそらく自分に好意を持っている…はずの少年に、
 己の好意を表明するにはまだまだ決定的に追い詰められていなかったのだ。
 まずは最大のライバルであるべき、その綾波レイがサードインパクトの2ヵ月後にいきなり姿を現したかと思うと、
 突然碇シンジの肉親宣言を表明したことが大きい。

 「絆だから妹なの」
 
 よくわからないが、アスカは内心その意見に大々的に賛同した。
 もっとも対外的には澄ました顔をして「勝手にすれば」と言っただけだったが。
 ただ、ここで義母マリアに宛てた手紙を一部だけ紹介しよう。

 本当に嬉しかった。
 だってあの女に彼の心が向いたなら、絶対にこっちの方へ向かせるのなんて不可能だと思ってたから。
 これで私のことを好きになってくれるかもしれない。
 ねぇ、ママ。好きになってくれるかしら?
 私、全然自信がないの。
 私みたいな女、彼が好きになるわけない。

 このあたりで抜粋を終えよう。
 何故なら同じことの繰り返しで便箋を3枚も使っているのだから。
 マリアはそんな手紙も端折ることもなく丹念に読んだ。
 そしてもちろんすぐに励ましの手紙を返す。
 しばらくすると御礼とまたまた失敗と後悔と失望と落胆と自己嫌悪が満載の手紙が届く。
 こんな風に日本とドイツの間をせわしなく手紙が行き来していた。
 
 話は遡る。
 今や、血の繋がっていないマリアとアスカは本当に仲のいい親子になっていた。
 義理の親子ではあったが、父親を拒否していたアスカがその親権者として彼女を指名したことより二人の交流は始まっている。
 最初は二人の関係はぎこちないというよりも痛々しさしかなかった。
 アスカは憎い父親の妻であり、彼女からすれば愛する母親を死に追いやった者の一人。
 片やマリアにとっては愛する夫を理不尽にも憎んでいる可愛くない少女。
 互いに親愛の情などまるでなく、儀礼すれすれの応対をしていた。
 そんなマリアが見方を変えたのはハインツの懇願からだった。
 悪いのは自分だ、あの子を孤独に追いやったのは自分だ。
 大人の方から歩み寄るのが当然ではないか。
 マリアの手を握り、涙を浮かべて言葉を迸らせる。
 本当なら自分でしないといけないのだが、顔も見たくないほど嫌われている今の状況ではどうにもならない。
 この世界中でそれができるのはお前だけなのだ。
 そう真剣に頼まれれば、マリアも意地を張り続けるわけにはいかなかった。
 アスカはまだ子供。
 まだ7歳だったのだ。
 そんな子供を相手にむきになっている自分の姿に気がついた。
 自分の立場と義務に気づいたマリアのすることはただひとつだけだった。

 3年。
 たっぷり3年はかかった。
 アスカのぎこちない笑顔を見るまでに。
 それからまた3年。
 日本へ旅立つ前日。
 ドイツネルフの応接室で二人はほんの短い時間を語り合った。
 話題は主にアスカの弟になるシュレーダーのことで、
 もちろんその頃は憎悪の対象だった父親のことは言葉にも出てこない。
 常冬のドイツで雪の中を駆け回って遊ぶ弟の話に彼女は笑顔だった。
 そして最後にアスカは扉のところで振り返ってマリアに一言残していった。

「じゃ、行ってくる。お土産楽しみにね、ママ」 

「お土産は貴女の無事な姿だけでいいわよ」

 立ち去りかけていたアスカの足が止まる。
 
「はんっ、ただ戦いに勝って帰るだけじゃ面白くないわよ。
 何か戦利品を持って帰らないとねっ」

 マリアはその時のアスカの表情をよく覚えている。
 ニンマリ笑ったその顔は物凄く子供っぽく見えたのだが…。
 


 さて、2月14日早朝のアスカである。
 彼女はベッドの中でようやく決意した。
 もう遅い。
 今からプレゼントを用意する余裕はない。
 時間的金銭的余裕はまだまだ充分あるのだが、精神的な余裕はまるでない。
 つまり彼女は考えることを投げたのだ。
 投げてしまって結局決意したのは今年は諦めるということ。
 もちろん想い人を諦めるのではない。
 バレンタインのその日にチョコレートを贈ることをだ。
 延いては告白することをも。
 その動機付けとして告白というものは男の方からすべきだということを導き出した。
 そうだ、こんな大事なことは男のすべきことなのだ。
 何しろ自分はか弱い乙女なのだから。
 そう決め付けると、アスカの心は少し軽くなった。
 そして、もうひとつの問題を片付けることにした。
 彼女はベッドの上に起き直った。
 部屋の中はいささか涼しいが、ドイツの冬に育った彼女にとっては快適ともいえる気温。
 地軸が元に戻りこれから四季が戻っていくとのこと。
 ただこの冬はいきなり元通りの寒さにはならなかった。
 そのことに葛城ミサトや赤木リツコは公私共にほっとしていたのだ。
 何しろ十数年にわたる常夏の生活に慣れた日本国民が
 いきなり厳冬の環境に投げ込まれたならばとんでもない事態になっていただろうから。
 衣食住すべてにわたって暖房のための用意が間に合わないことは目に見えて明白。
 例えば常冬の国であるヨーロッパと緊急貿易をしたとしても日本側の方が割に合わなくなってしまう。
 分厚い衣料と薄い衣料とでは明らかに冬用が分が悪い。
 しかも一刻も早く必要なのだから相手の言いなりになる他ない。
 そんなことにならず、1年の余裕ができた。
 これがネルフの幹部としての公的な不安解消。
 私的にはやはり二人も女性。
 私服が気になるわけだ。
 ネオネルフの職場では薄着で大丈夫なのだが、通勤着や休みの日はそうはいかない。
 元々第3新東京市は山の上であり、冬ともなれば雪の中。
 海抜が低くなっているのでどうなるのか予想もつかないが、
 当然セカンドインパクト前くらいの防寒具は必要とされる。
 そういう意味でその悩みが一年先送りされたことは何よりの歓びだ。
 一年後ならメーカーも冬物衣料も生産し準備できているだろうから。
 それに彼女たちの立派な大人の体格では、
 その当時“A物資”と呼称された冬物衣料を身に纏うことはできなかったのだから。

 “A物資”。
 すなわち、アスカの義母から送られてきた防寒具の山。
 もっとも山と言ってもそれはリビングの真ん中で70〜80cmほどの高さに過ぎなかったが。
 中学生以下の児童には政府から衣料が支給されていたが、
 それは一着だけのことだったのでこの小さな山は宝の山に相違なかった。
 アスカはドイツで使っていたお気に入りの分厚めのジャンパーと
 マリアが彼女にと見立てたコート、それに特注の一品の3着だけを予め分けておき、
 残りを友人たちに分配したのである。
 レイやヒカリには優先的に、女物ではあるがそうは見えそうもないものをシンジたちが。
 その後で同じクラスの女の子たちにも。
 ヒカリなどは周りに悪いと言いながらも、
 「横流しじゃないんだから気にすることない」と平然としているレイに勇気付けられて服を選んだ。
 当のレイはこれまで私服を自分で選んだことがなかったため、
 急遽ファッションショーという瞑目の男子禁制着せ替えショーが開催され、
 白いコートと空色のジャンパーの2枚がレイに与えられることになった。
 その時の淡い微笑を見て、アスカはつくづく思ったものだ。
 コイツったらけっこういい友達になれるかも、と。
 何しろ恋する男の親族なのだから、という身贔屓はぐっと飲み込んで。
 クラスメートたち以外にその物資を受け取ることのできた幸運な女性は伊吹マヤだけ。
 たまたまその日に旅行の土産物を届けに来ておこぼれにあずかったのだ。
 結果としてリツコたちに白い目で見られることにはなったが、
 この時ばかりは160cm台だった自分の体格を喜んだのである。
 少しばかり胸が窮屈だったが少し肌寒い朝にはそのジャンパーの存在が本当に嬉しかった。
 その“A物資”の中の一着。
 そう。例のアスカが事前に取り分けておいた特注品である。
 大方の予想通り、それはシンジ用のものに相違なかった。
 少しばかり脱線するが、その時の様子を見てみよう。

 その日は分配がすっかり終わった翌日。
 アスカは何とかその日まで我慢した。
 本当は届いたその日に渡したかったのだが、彼女としては全力で自制心を発揮しここまで引き伸ばすことに何とか成功したのだ。
 何故なら少しばかり遠慮がちな同居人のことだ。
 友人たちに気兼ねしてすんなり受け取らない可能性が高い。
 幸いにもサードインパクトで互いの心のうちをいささかなりとも覗き見た間柄だけに、
 そういった部分はわかってしまうのである。
 その心の補完についてはしばらく後で詳しく触れたい。
 ここではアスカが物凄い自制心で耐えに耐えたということだけ記憶していただきたい。
 もっともその間、シンジがアスカのいらいらした態度に悩まされたということは付け加えておこう。
 アスカは実にさりげなくシンジにジャンパーを突き出した。
 いや、さりげなくしたつもりで、結果的にはシンジの胸を突いて彼をよたよたと後ずさりさせたのだったが。
 
「これ、あまってたから。仕方がないから。しかも男物だから。
 近くにアンタしかいないから。置いていてももったいないから。ママに悪いから…」
 
 エトセトラエトセトラ。
 20個くらいは“から”を羅列してシンジに受け取らせた。
 彼の「ありがとう」と笑顔を受けて、彼女はことさらに顎を突き出しのしのしと自分の部屋に戻った。
 その夜、幸福感でいっぱいで明け方まで眠れなかったのは言うまでもない。
 さらに昼前まで眠り、「休みだからってだらだらしないでよ」という彼の小言にも内心笑顔で応対した。
 見かけは「うっさいわね、放っておいてよっ」としかめっ面だったが。

 当然の如く、マリアへの手紙には感謝と歓喜に満ち溢れていた。
 ただ、分厚いジャンパーを着るほど寒い日はこの年の日本には訪れず、
 彼女とお揃いになるはずのジャンパーで出かける機会は一日もなかった。
 「偶然よね。一緒のジャンパーじゃない。ま、仕方ないから許してあげるわ」等の台詞も用意されていたのだが、
 アスカは涙を飲んで来年の冬に賭けることにしたのである。

 さてさて随分と脱線してしまったが、問題はバレンタインデーだ。
 仕掛けが遅すぎてチョコレートを準備することができなかった。
 最初はヒカリの事を恨んだがそれは逆恨みだということは百も承知している。
 それに逆恨みは教えてくれるのが遅かったということではなく、
 鈴原トウジに手作りチョコを渡すのだというその恥じらいいっぱいの笑顔に嫉妬しただけ。
 自分にできそうもないから。
 羨ましさから来る逆恨み。
 もっともだからといって意地悪をしたり嫌味を言うわけではない。
 あくまでその逆恨みはすべて自分に返しているのだ。
 つまり、自己嫌悪。
 アスカは自分で自分が不思議だったのだ。
 あんなに何事についても自信満々だったのに。
 いや、自信のないことでも虚勢を張ることで周囲に弱みを見せてこなかったのだ。
 それが今は不安で一杯。
 していることは以前となんら変わっていないというのに、心の中はおどおどはらはら。
 想いを寄せている同居人に嫌われるのではないか。
 もしチョコレートを贈ったとしても「義理だよね」と言われそうだし、
 仮に大きく本命と書いたカードを添えたとしても「また冗談なんか…」とあっさり言われてしまいそうだ。
 そしてもし彼女の意図が伝わったとして「ごめん」という一言が返ってきたりなどしたら…。
 間違いなく、そこで精神崩壊が始まるだろう。
 もしかしたら、少年の喉を掻っ切って返す刃で己の喉も。
 妄想で済みそうもない気がするから自分で怖い。
 ともあれ、現時点では彼女に自信はまったくない。
 未だに同居を続けているのは家事ができない…と思わせている…彼女を一人で放り出せないからに違いない。
 アスカはそう断定していた。
 もちろん、都合のいい方の解釈もするのだがその度に全力で否定しているのである。
 断られることを考えれば、絶対に告白などできない。
 だから、バレンタインデーのイベントには参加を見送る。
 それがアスカの結論。

 だが、問題はもう一つあった。
 シンジが他の女からチョコレートを貰うのではないかということだ。
 この惣流・アスカ・ラングレーが惚れるのだから他の女だって彼にのぼせ上がるに違いない。
 ヒカリのような例外はほんの少数だと彼女は認識していた。
 それにもし可愛い子から「本命よ」とチョコを受け取って、シンジがその気になってしまったらどうする?
 いや、あの優柔不断な性格から断ることができなくてずるずる…。
 十分考えられる。

 午前5時48分。
 アスカは立ち上がった。



「アタシ、病気だから休むわよ」

 その1時間13分後、アスカは胸を張ってそう宣言した。

「へ?」

 弁当の準備をしようとしていたシンジは首をかしげた。
 どこをどう見ても元気そのものだ。
 それに何をしてきたのか知らないが、6時前に家を飛び出してつい今しがた帰宅してきたところではないか。

「ど、どこが悪いの?」

「気分が悪い」

 嘘ではない。
 バレンタインデーの贈り物を準備できなくて気分がいいはずがないではないか。

「か、ぜ…?」

「知らないっ。あ、まあ、その風邪でいいわ。とにかくアタシは休むのっ」

 仁王立ちする彼女は元気そのもの。
 だが、こういう場合アスカに逆らわない方がいいという事はシンジも重々承知している。

「う、うん。わかったよ。じゃ学校に行ったら先生に言っておくから…」

「はんっ、アンタも休むのよ」

「ええっ」

 目を丸くするシンジに彼女はお願いをした。
 さて、ここで使った“お願い”というのは彼女の心の声というわけで、
 実際にはこう怒鳴っただけだったのだが。

「うっさいわね!つべこべ言わずにアンタはアタシの看病をしてればいいのよ。
 あ、それとも何?ふふん、アンタ、義理チョコ欲しさに学校へ行きたいわけぇ?」

 お願いだから今日は私のためにここに一緒にいてください。
 学校へなど行って他の女の子からチョコレートなんて貰わないで欲しいの。

 アスカ語訳は今のところ彼女自身しかできない。
 もちろん、碇シンジは直訳した。

「えっ、じゃ僕は仮病を使うの?」

「あったりまえじゃない。あ、そもそも同居人が風邪なんだから、同じ風邪でも自然じゃない?」

「でも、ミサトさんなんて風邪は全然感染らなかったよ」

「馬鹿は風邪ひかないのよ」

 ちなみにシンジは時々風邪をひくが、惣流・アスカ・ラングレーは健康そのものである。
 本当は“ミサト”ではなく目の前の同居人を引き合いに出したかったが、そんなことをすると何が返ってくるかわからない。
 それくらいの知恵はさすがのシンジにもついてきているのだ。
 おそらくはアスカの病欠という知らせを聞いて教室では『鬼の霍乱』などと囁かれていることだろう。

「欠席届はヒカリに頼んだからアンタは何もしなくていいわ。あ、朝食お願い」
 
「困ったなぁ」

 何もするなということとアスカの世話をするということは相反することではないらしい。
 少年は存外そういう表情は浮かべずに言葉だけは不服と困惑を表明していた。
 もちろん、アスカにそんな彼の意識など読めるわけもなく、
 いつものように我侭にしか見えない要求を続けざまに送り出すことになる。

 ハムエッグが食べたい。
 喉が渇いた。
 布団をリビングに持って来い、リビングで寝るから。
 テレビは消して音楽にしろ。
 CDはもういいから、生演奏に替えろ。
 エトセトラ、エトセトラ。

 少年がトイレに立った隙に、
 ドアのロックとインターホンと電話線の切断、それに携帯電話のバッテリー抜き。
 
 碇シンジ隔離計画。
 早朝の中学校に侵入し、教室のシンジの机と下足箱には『義理に限らずチョコお断り』という張り紙をしておいた。
 できるだけ丁寧に書いたからアスカの筆跡だとは誰も思うまい。
 アスカは思い出し笑いをした。
 もっとも筆跡は判然としないがその張り紙からは惣流・アスカ・ラングレーのオーラが湧き上がっている。
 どこをどう見てもアスカの仕業だということは歴然としている。
 張り紙を見たすべての人間が彼女の報復を恐れ義理チョコを鞄に戻したのは言うまでもない。
 本命チョコの女の子達もいるにはいたのだが、やはり何をしでかすかわからないアスカは怖い。
 それにどう見ても意中のシンジはアスカに夢中だ。
 その時点であきらめたのだから彼女達の思いもたかが知れていたということだろう。


 午後2時。
 アスカはじっと天井を見ていた。
 
「病気なんだから寝ないとダメだ」

 珍しくぴしりと言われ、彼女は思いのほか従順にシンジの言う事を聞いた。
 だが、そこのソファーでアンタも昼寝しなさいよと条件を出したのは流石にアスカ。
 しかも疲れていたのかシンジはすぐに眠ってしまったのだ。

 アスカはそんなシンジを起こそうとは思わない。
 愛する人が眠っている、そのすぐ近くにいるというのは実に幸福なものだ。
 彼女は微笑を浮かべ、そして天井を見つめた。

 その時、彼女が考えていたのはサードインパクトのこと。
 
 その昔、思い出したくもない、その昔。
 精神崩壊中のアスカは病室にシンジのおかずにされた。
 おかずになるほどの女としての魅力を少年が抱いたというわけだ。
 サードインパクトの最中、混濁し混ざり合う記憶の中でアスカはそのことを知った。
 彼女も亡くした母への想いや生い立ち、コンプレックスなどを知られてしまっているはずだ。
 ところが不思議なのである。
 記憶を共有したのはすべての人間ではなかった。
 つまり人類は完璧に補完されたわけではなかったのだ。
 周囲の人間もそう証言している。
 親子兄弟。そういった近い間柄の人間しか記憶は共有されなかったのだ。
 身体は一旦原子の海に溶け、物質的には混ざり合ったはずなのに。
 そこでアスカは誤解した。
 シンジは自分を兄弟のように思っているのだろう、と。
 その誤解はやがて信念に変わり、恋情の深まりとともに悔恨の坩堝へと己を追いやっていたのだ。
 何を後悔しているのかというと何故早く自分の気持ちに気付かなかったのかということだった。
 そうすれば今こんな苦労をしなくて済んだのに。
 それは記憶の共有、すなわちサードインパクトの折にシンジに加えて親近者二人の感情を知った経験に根付いている。

 アスカはあの時、遥かドイツの地にいた父親と義母の心にも触れた。
 いや、当時の彼女の感情からすれば触れてしまったと言っても差し支えなかろう。
 特に父親は忌避すべき存在だった。
 母親の死後、別の女とすぐに再婚した節操のない男。
 それを引け目に思っているのか何度も自分とコンタクトをとろうとしてきた男。
 絶対に顔を合わそうとしない、言葉すら交わそうとしない娘のことを忘れたのか何年も知らぬ顔をしている男。
 それが誤解だったということはサードインパクトの時にわかったのである。
 彼の心の中は娘への愛に溢れていた。
 使徒との戦いに命を賭けているまだ14歳に過ぎない娘のことを彼は心配し、
 毎日彼女の無事を祈っていた。
 そして亡き妻にも。
 娘のことを守ってくれるようにと。
 もちろん、彼は惣流キョウコがエヴァンゲリオン弐号機のコアになっているなどまるで知らず、
 その祈りはただ我が子を思う父の単純なこころの流れに過ぎなかったのだが。
 そして父の思いを知った今、アスカの心には憎悪の欠片もない。
 ただ残っているのはわだかまり。
 憎悪はなくとも、逡巡はある。
 会話によって誤解が解けたわけではないのだ。
 急に「パパ」と呼びかけることができるわけがない。
 特にアスカのような片意地な娘にとっては。
 
 次にマリア。
 義母である彼女が心からアスカのことを愛してくれていることは心が通い合った時によくわかった。
 偽善ではなかったのである。
 そのことを彼女は素直に喜んだ。
 そしてその喜びもまたマリアに届いた。
 やがて二人の文通が始まった。
 電話でもメールでもなく、アナクロな手紙のやりとり。
 アスカはその手紙の数々を大切に保管している。
 ある時、マリアが書いてきた。

 ねえ、あの人に読ませていい?

 ダメよ、ダメダメ。絶対にダメ。

 じゃ、問題のないところを読んで聞かせるのは?

 う〜ん、恥ずかしいけど、ママに任せるわ。

 この間、実に一ヵ月半。
 電話でならすぐに結論が出るのに、海を渡り山を越えての気の長いやりとりだ。
 実はその間にも電話で何度か喋っていたのだが、
 その時には話題にすら上っていない。
 後で気がついてアスカは思い出し笑いをしたものだ。
 
 あ…。

 この期に及んでアスカは思いついた。
 そうだ、何も日本式のバレンタインデーに拘ることはないじゃないか、と。
 好きな人に手紙を贈る。
 それでいいじゃないか。

 アスカはそっと起き直った。
 ソファーで横になっている愛しの彼の目を覚まさないように。



 1時間と少しあと。
 シンジが目覚めた時、胸の上に封筒が置いてあった。
 彼とてもバレンタインデーを心待ちに待っていた一人。
 封筒の中にチョコレートが入っているのではと胸が躍る。
 逸る心を一生懸命に落ち着かせた。
 シンジにとってもアスカと気持は同じだった。
 サードインパクトの時に触れた彼女の心の中には彼の居場所は殆どなく、
 そのことがあるだけにアスカに告白などとんでもないという気持である。
 二人とも失うものの大きさを考えて臆病になっているわけだ。
 トウジやケンスケたちには絶対大丈夫だと呆れられているほどだが、
 彼には一歩踏み出す勇気はない。
 もしかするとアスカの方から歩み寄ってくれたのか。
 いや、義理チョコでもいい。
 なんでもいいからアスカからのチョコレートが欲しい。

 彼は封を開けた。

 ようやく目を覚ましたわね。おはよう!
 気持よさそうだったけど、間抜けな顔して昼寝してんじゃないわよ。
 スパゲティもいいけど、晩御飯はカレーがいいな。

 たった3行だけしかない。
 シンジは便箋の裏もひっくり返してみてみたが真っ白な白紙。
 封筒の中にも何もない。
 シンジは呆気に取られた顔で何度も読み返す。
 でもそこからは何も読み取れはしない。
 彼は大きな溜息を吐くと苦笑した。

「カレーか。お肉あったっけ」

 あるに決まっている。
 冷蔵庫の中を確認して書いたのだから。
 今日はシンジを隔離することが最大の目的なのだ。
 アスカはこっそりと部屋からシンジの様子を覗き見ていたが、
 彼が台所に向って姿を消したのを確認し、彼女もまた溜息を吐いた。
 一生懸命に考えたのだがやはりシンジは気がつかなかったようだ。
 逆さ縦読み。
 策を弄しすぎたわけだが、今のアスカが自分の意思表示を明らかにできるのはそれが関の山。
 それでも彼女は満足だった。
 バレンタインデーに最愛の人に手紙を渡し、“スキヨ”と自分の想いを届けたのだから。









 最初は喜びを素直に書いてあった。
 だが、その筆はやがて自己嫌悪に向かいいつものように愚痴と後悔と落胆が書き連ねられることになる。
 マリアは笑ってしまった。
 娘には悪いと思ってもつい笑ってしまう。
 微笑ましくて仕方がないのだ。
 彼女の目から見るとどう見ても娘アスカとその想い人は相思相愛に違いない。
 アスカへの手紙にはいつもそう太鼓判を押して励ましているのだが、
 自信のない娘は励ましの言葉だけをありがたく頂戴している始末。
 まだもう少し時間がかかりそうね。
 マリアは頭の中で返信の文章の断片を考え始めた。

「お、おい。あの子は何と書いてきたんだ」

 お預けを食った犬の如く、ハインツはマリアの前で立ち尽くしている。
 マリアは夫を見上げた。

「いつもと一緒よ。彼のことが好きで好きでたまらないって」

「畜生」

「あ、それいただくわ。アスカが読んだらどう思うでしょうね。
 愛するシンジ君のことを話すとハインツは汚い言葉を吐き捨てます」

「おお、ダーリン。お願いだからそんなことは書かないでおくれ。あの子に嫌われてしまう」

「あら、そうかしら。その方が父親らしいんじゃないかしらね」

 妻の一言にうっと黙ってしまうハインツ。
 確かにそんな気はする。
 でも、もう10年近く言葉を交わしてない娘に嫌われる。
 そんな危惧の方が彼にとっては大きい。

「うぅむ、いや、やはり書かんでくれ」

「そう。わかったわ」

「ありがとう、ダーリン」

 わかっただけで書かないとは言ってないわ。
 マリアはほっとした顔の主人を見つめる。
 こういうやりとりをしたということを詳しく書こう。
 それを読めば少しでもハインツのことが身近に感じられるに違いない。
 
「それよりも、他のことは?わ、私のことなどは書いてないだろうね」

 「Nichts」と短く答えるとハインツはいつものように天井を仰ぐ。

「おお、またか。いつになれば許してくれるんだろう。あの子は」

 これもお決まりの台詞。
 そしてこれもいつもと同様にマリアは心底からの言葉を口にする。

「あの子と言わずにアスカとおっしゃい」

「ううむ、しかしだな。そんなに馴れ馴れしくすると嫌われるのではないかと…」

 アスカは前妻キョウコに似ている。
 そうマリアは聞いてきた。
 だが、この父と娘の愛する者への臆病さは遺伝ではないか?
 アスカとの文通を始めてからそんな気がしてたまらない。

「親子でしょう。馴れ馴れしいも何もあったものじゃないわ」

「しかし、お前」

「ああ、ミルクの時間。お願いできる?」

 「Natuerlich」とハインツは籠の中の次男の頬を指で突付きキッチンへ歩いていった。
 マリアは微笑みを浮かべたまま、再びアスカの手紙を読み返す。
 彼女の手紙はいつも最後が面白い。
 散々、自己嫌悪や後悔を繰り返した挙句、最後には復活しているからだ。
 もちろん、そんな単純なものではないだろう。
 おそらく遠くドイツの地にいる家族に心配をかけまいという心がそうしてるのだ。
 そして、もうひとつ大きな理由がある。
 自分を奮い立たせるため。
 根が真面目なのだから、宣言すればやり遂げねばならぬ。
 自分を追い込むためにそう結ぶのだ。



『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』



 もう…。
 あの化け物との戦いは本当の戦いじゃなかったって言うの?
 まあ、わかるけどね。
 女にとれば本当の戦いに違いないわ。
 がんばってね、アスカ。
 それと最後のはもうしばらく後にしましょう。
 ハインツに教えてあげるのは。
 今聞かせたら、きっと舞い上がっちゃってミルクをカールの喉に詰まらせちゃうわ。
 キッチンから聞こえる夫のへたくそな鼻歌を聞きながら、マリアは籠の中のカール・ラングレーに微笑みかけた。



『PS.春物や夏物の服を送ります。そっちじゃ高いでしょう?みんなのサイズを教えてください。家族4人全員の』








 

 

<おわり>


 

3月のおはなしへ

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<あとがき>

 

 今年のバレンタインデーはアスカはその熱い想いを打ち明けることができませんでした。
 来年のバレンタインデーまで彼女の行動を追いかけていこうと思っています。
 中絶しないように頑張っていきます。まあ連載とは考えていませんので。
 とにかく来年(2007年)のバレンタインデーには
 アスカが幸せいっぱいの手紙をドイツに送ることができるようにします。


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