シンジ誕生日記念SS
SDATプレーヤー
ジュン 2009.6.6 |
その日、碇シンジは冴えない表情で戻ってきた。
喜怒哀楽の振幅は大きくないもののそれを隠すのは苦手な方だ。
当然、同居している少女は彼が帰ってきた途端に何があったのかと詰問した。
嘘をつかないと約束した二人だったので、シンジは不承不承にその訳を告げたのだ。
惣流・アスカ・ラングレーは何だそういうことかと頷く。
「アンタね、機械なんだからいつか壊れるわよ」
「でも…これまでは修理してくれたんだよ」
まるで子供のようにシンジは呟いた。
テーブルの上に置かれていたのは彼が愛用しているSDATプレーヤーである。
「こんな年代モノ、今までもよく修理してくれたわよ。セカンドインパクト前のものでしょう」
彼女の問いにシンジは頷いた。
電気店の係員にも同じ事を言われたのだ。
別のポータブルプレーヤーを買う方が絶対に安い。
しかも店員がメーカーに問い合わせたところ、パーツがもうないと宣告されてしまったのだ。
「1999年製だって。僕の生まれる前だよ」
「アタシたちの生まれる前、ね」
重要な部分を訂正したアスカは、動かなくなってしまったSDATプレーヤーを手にする。
毎日のように使い込んできた割にはそれほど汚れていない。
シンジが大切にしてきた証拠だろう。
「もうあきらめたら?ま、こういう頑固なところがアンタにはあるもんね」
少し鼻で笑ったアスカは表情を固めた。
シンジの様子に違和感を感じたからだ。
アスカは彼を放りっぱなしにして流しに向かった。
2分後、彼の目の前にこんという音を立ててコーヒーカップが置かれた。
「濃い目にしてるわよ」
「え…。あ、ありがとう」
濃い目だと言われたので少しだけ困惑したまま、シンジはコーヒーを啜る。
彼は表情を変えなかったが、アスカはあっさりと言い放った。
「苦いと思ったらそういう顔しなさいよ、まったく」
「で、でも…」
「せっかく淹れてくれたんだしって?ふんっ、アンタのそ〜ゆ〜とこ、大嫌いっ。
これからそんな大嫌いなヤツのためにご馳走つくってやんないといけないんだからね、こっちのことも考えてほしいわよ、まったく」
アスカはそっぽを向きながらも目の端で彼の反応を窺う。
少年は14歳の頃とは違い、少女に悪罵を放たれても露骨に落ち込むことはなかった。
大嫌いという言葉を額面どおりに受け取ることができなくなってしまっているのだ。
本当に大嫌いならば、彼女は彼とたった二人きりでの生活を続けるわけがないではないか。
とっとと母国ドイツへ帰ってしまっているはずなのだ。
ところが今ドイツにいるのは赤木リツコと綾波レイの、母と娘とも形容できるようになった二人である。
リツコはベルリンの大学に招かれ博士号を授与され、レイは何と大学で生物工学を学んでいる。
ところが大学を卒業している筈のアスカは日本に留まり、平凡な高校生ライフをエンジョイしているのだ。
リツコやレイにも誘われ、実家の義母からも帰ってきてと言われているにもかかわらず、彼女は暢気に毎日を送っていた。
いくら彼らの隣室が日向家の若夫婦で、その奥様がミサトであっても、高校生の男女が二人きりで同棲というのはいかなるものか。
揶揄したり糾弾する者もいるのだが、アスカはまさに柳に風。
意にも介せずシンジと同居生活を送り、家事もきちんと日替わりで分担している。
そんな彼女の意図はどこにあるのか、誰の目にも明確であった。
ただ、当の二人だけが肝心の事柄をはっきりさせていないだけである。
愛している、どころか、好き、ですら口にしたことはない。
口にすることが気恥ずかしく有耶無耶にしているうちに、日本に四季が戻り同棲生活を始めてしまっていた。
あの使徒戦などなかったかのような平和な日常が訪れている。
ジオフロントもエヴァンゲリオンも存在しない。
碇ゲンドウや加持リョウジのようにサードインパクトとともに姿を消したものも多いが、サードインパクトを経てヒトとして生きることを選択した者は彼らの不在をそのままに受け止めていた。
死んだ、と認識するしかないのだった。
シンジもまた父親の不在をそのまま受け入れている。
探そうとすらしていないのだ。
ただ、父親は母親に会えたのだろうかと、そういうことを時に考えることはあった。
それだけである。
しかし、シンジは惰性で生きているのではない。
責任をとらされているのだ。
怪我よりも疲労過多で入院したアスカに毎日の見舞いを強要された彼は彼女の指示通りに動かされた。
復興した学校に通い、教わったことを放課後の見舞いの時におさらいしろ。
誰かの厄介にならずに一人暮らしをしろ。
インスタントでなくきちんと料理して、学校には弁当を持っていけ。
結局、取り壊すことになったがコンフォート17マンションからは何とか荷物を取り出すことはできた。
シンジは友人たちの助けを借りて、自分の分の荷物を新しい2DKのマンションに移動した。
彼はワンルームでいいと主張したのだが、保護者に当たるミサトが自分たちの隣に住みなさいと命令したのだ。
そしてシンジはミサトとアスカの荷物も運ばされた。
もっともミサトの私物はほとんどその場に置いてきたのだが。
何しろゴミを片付けると家電製品と服くらいしかなかったのだから仕方がない。
新しいミサトの家の一部屋にアスカの荷物を放り込んだとき、シンジは彼女と隣家の距離にいられることに一安心している。
好き、というよりも、彼女の存在が彼には必要だったのだ。
そして3ヵ月後、すっかり元気になったアスカが退院した日の事である。
シンジに先導させてマンションに到着した彼女は、ミサトの家には入らなかったのだ。
仕事で不在のミサトから鍵を預かっていたシンジが扉を開けたとき、アスカは隣家のドアの前で腕組みをして立っていた。
早く開けなさいよと睨みつけられ、慌てて自分の家の方の扉を開けたシンジはリビングキッチンで仁王立ちするアスカに少しだけ及び腰になった。
本能的にとんでもないことが起きそうな予感がしていたのだ。
綺麗に整理整頓ができていることをまず軽く褒めたアスカは、シンジの居室の扉を開けて大声で叫んだ。
「アタシの荷物はどこよ!アンタ、勝手にアタシの部屋使わないでくれる!アンタ、最低っ!」
それからの1時間、彼はミサトの家とアスカの居室となってしまった旧自室を何度も往復することとなった。
ミサトはアスカの荷物を預けたままに置いていたのでそれほどの煩わしさがなかったのは幸いだっただろう。
その間、アスカはダイニングのテーブルでコーヒーを飲み、途中で買ってきたおやつを頬張っていた。
荷物の移動を終えたシンジにアスカは甘めのコーヒーを淹れ、チョコレートを突き出した。
疲れたときには甘いものがいいわよ、と素っ気無く言われ、シンジは喜んでチョコを口にする。
その後、アスカは自分の部屋の整理を始め、シンジはリビングに放り出された自分の荷物を見て途方にくれた。
2DKだから空き部屋はひとつある。
その部屋はチェロがぽつんと置かれているだけの部屋だ。
そもそもそちらの部屋にアスカが行けばいい筈なのだが、そのことをシンジが主張すると彼女は眉を顰め、眦を吊り上げ、眼光鋭く彼を睨みつけたのである。
「うっさい。アタシに逆らうっての?アタシはアンタの部屋の方が気に入ったの。とっとと出て行きゃいいのよ、馬鹿」
アスカとしては来日して同居することになった時の再現をしただけのこと。
験をかついだのだとシンジにわかるわけがない。
彼は溜息を吐きながらリビングの荷物を今度は空き部屋に移動させた。
そして、ふと思った。
今度は納戸じゃないからまあいいか、窓だってあるしね。
その時彼は、まさかアスカは…と核心に達する想像を一瞬したのだがあっさりとその考えを放棄している。
かくして二人の部屋は完成し、シンジがささやかに書いていた“碇”という表札はその真下に“アスカ”と大きな文字で書かれることになった。
それを見たミサトは腹を抱えて笑ったものだ。
「これじゃ、碇アスカって人が住んでいるようにしか見えないわよねぇ!」
意味ありげに自分を見る彼女に腹を立てたアスカは、表札の空きスペースに“惣流”と付け加える。
但しその字はかなり小さくよく見ないとわからないくらいである。
さすがにミサトは次のからかいの言葉は発さなかった。
どうせ何年かすればその“惣流”は消すんだもんね、小さく書いた方がいいわね、うん。
そんなことを言えば、アスカは新しい表札に変えようとするのは明白だ。
そこまでからかう必要はないとミサトは弟と妹の再出発を祝ったのであった。
それがもう2年も前のことになる。
シンジとアスカの家の表札はその当時のままだが、隣家のものには3人目の名前が書き加えられている。
そしてあと2ヶ月もすると、さらにもう一人の名前が加わる予定だ。
次は女の子と大きなお腹を抱えてミサトは意気込んでいるが、食事の内容やお腹の出具合から今度も男の子だろうと周囲は噂していた。
1年半前に誕生した新しい命にはシンジもアスカも大きく心を動かされた。
二人ともおしめやミルクの世話もできるようになっている。
自分たちの時にはこの経験が生きるだろうとミサトやマコトたちは笑って話をしていたが、無論当人たちには言わない。
つむじを曲げて手伝ってもらえなくなってしまうと、彼らとしても少々困るからである。
さて、二人に近い人たちにはシンジとアスカの関係は綺麗なものであることはよく知られている。
ただそれ以外の者には、ごく普通の同棲生活と思われていた。
もし赤ちゃんができちゃったらまだ若いんだから大変よねぇと噂されていることは二人も承知している。
アスカの名誉のためにとシンジが釈明しようとしたが、それは彼女に止められた。
馬鹿らしい、言いたいヤツには言わせておけばいいじゃない、と。
逆に否定すればするほど、調子に乗って言い触らされるわよ。
そこまでで止めておけば良かった。
しかし、アスカはさらに言葉を続けたのだ。
それに、アンタみたいなのでも一緒に暮らしてるってことにしておけば変な虫がつかないから具合がいいのよ。
はっはっはっと笑うアスカを見て、シンジは自分は防虫スプレーの役目かとがっくりきた。
もっとももしアスカに変な虫がつくと考えればどうも腹の虫が収まりそうもない。
それがたとえ高貴で貴重で美しかったり逞しかったりする虫であってもだ。
どんな虫でもアスカには一切取り付いて欲しくはない。
彼女のことを好きなのかどうかよくわからないが、他の男に渡したくないのは事実だ。
それが好きって事さ、などともし渚カヲルがいればシンジに言ったことであろう。
彼ならばシンジもそういうことかと納得しただろうが、トウジたちが言ってもまったく相手にしない。
要はシンジという少年、実はかなり頑固で融通が利かず視野が狭いのである。
父親似、だったのかもしれない。
その、今やこの世にはいない(筈)の父親から貰ったプレゼントがこれだとシンジは突然言い出したのだ。
壊れてしまって修理不可能とレッテルが貼られたポータブルSDATプレーヤーが、である。
「ちょっと待ってよ、シンジ。これまでアンタそんなこと一度も言ってないじゃない」
「う、うん。証拠があるわけじゃないから…」
「じゃ、アンタの思い込み?」
アスカに問われて、シンジはやや表情を曇らせた。
それは彼女の口調が少しばかりきつめであったことも影響している。
これだけの年月をともに過ごしていれば彼女の口調の変化はよくわかる。
日頃乱暴な喋り方をしていても、悪意がなかったり、冗談だといったことはなんとなくわかるのだ。
しかし今回のアスカは真剣だ。
言葉に棘はないのだが、辛辣なものが多く含まれている。
「ってわけじゃないけど…」
「はっきりしないわね。だいたい、あのSDATプレーヤーは誰から貰ったのよ。まさか枕元においてあったってわけじゃないでしょうが」
「それは…先生から」
「先生…って、あの?」
アスカはシンジからそんなに多くのことを聞いているわけではない。
しかしながら、松代での数年の間、誰に育てられていたかということくらいは彼の口から聞いていた。
映画や小説のように酷い仕打ちを受けたわけではなかったが、身寄りではない男性を“先生”と呼ばされて子供時代をおくってきたのだ。
虐待されたわけでもないのだが、愛されてもいなかった。
ただ養育されていただけという、そんな彼の時間はアスカにはたまらなかった。
そんなふうにマンツーマンの孤児院のような扱いを受けるなど、考えただけでも身震いがする。
「いつよ」
「5年生の時。誕生日に学校から帰ってきたら…。雨の日の…水曜日だった」
ぼそりぼそりと小雨のように喋るシンジをアスカは遮らなかった。
彼には彼のペースがある。
そのことを承知しているということではなく、そのことを認めたということだろう。
真実を話すときに問いつめてはならないということを彼女はサードインパクトの後知った。
それは自分のことを話すときに覚えたのだ。
もしあの時シンジに追求されていれば、ドイツにいる母親というのは義理の関係にあることは絶対に言えなかっただろう。
自分のペースで話ができたからこそ真実を口にできたのだ。
どうでもよいことなら面白半分にシンジの話に嘴を挟むのだが、こういう場合は彼女は口にファスナーをする。
多少時間がかかってもよい。
誕生日用の少し豪華な晩餐の準備はもう大部分ができているのだ。
そのために彼と別行動をとって先に帰宅しているのである。
後は下ごしらえをしている揚げ物を料理すればそれで終わりだ。
ホールケーキではなく、ショートケーキだがいつもより大きめで値段も高めのものも冷蔵庫で出番を待っている。
話し終えてから15分もあれば、晩餐を開始できるだろう。
だからここはじっくり彼の話を聞こうと、アスカは耳を傾けた。
そんな彼女の気遣いをシンジは知っているのかどうか。
彼はぼそりぼそりと喋り続けた。
小学校から帰ってきた少年は家主からいきなり剥きだしのSDATプレーヤーを突き出された。
今日が自分の誕生日だということを彼は承知している。
この家に厄介になってから誕生日のプレゼントなど貰ったこともない。
だが、知識として誕生日プレゼントという代物の事はわかっているし、幼稚園のお誕生会でささやかなプレゼントを貰ったこともあった。
しかし、この無口な“先生”という呼び名の中年男からはプレゼントどころか生活必需品と小遣い以外のものは貰ったことはなかった。
少年が使っているチェロも“先生”が元々持っていたものなのだ。
幼稚園の頃からチェロのレッスンを“先生”から受けているが、自分の腕がどれほどのものなのかまったくわからない。
“先生”のチェロはとてつもなく巧いと思う。
だから出逢った時からそう呼ぶように命じられていた“先生”という呼び名もチェロの先生という意味だと子供ながらに了解していたのだ。
“先生”は仕事に就かず、大きな屋敷の中にある畑を耕す程度しか働くということをしない。
かなり大きな田舎屋敷に“先生”と二人で暮らしているシンジは日常の家事を一切していない。
手伝うと申し出ても無言で首を横に振られてしまうのだ。
父親に捨てられた自分はここで何をしているのか。
本などで見たことのある孤児院というものはもっと辛いものだそうだ。
お客様のような待遇を受けているシンジは自分をもてあましていたのだろう。
“先生”のことが怖いとは思わなかったが、何を考えているのかわからないのでどうしても対応に困ってしまう。
だからシンジがいささか対人能力に乏しくなっていったのは仕方がないことだったのかもしれない。
小学校で苛められることはなかったものの、あの屋敷に住んでいる孤児で身元もよくわからない彼は子供たちの輪に入れなかった。
教師たちも無理に友達を作らせようとは考えなかったのだ。
ただシンジが苛められないようにとはかなり留意していたのである。
少年は知らなかったが、それが父親からの圧力だった。
公立の学校とはいえ、セカンドインパクト後の混乱した時代に多額の寄付を受けてはそうせざるをえない。
学校関係者は少年の父親が何者か詮索しようともしなかった。
保護者が変人で有名な地元の名家の末裔であるだけでよしとしたのだ。
そういう環境の中でシンジが歪んで育たなかったのは実は“先生”がよく目を配っていたからに他ならない。
少年の父親から愛情を注ぐなと言明されていたので、彼はシンジと言葉を交わさないようにしていた。
だが日常の挨拶だけは欠かさず行い、チェロのレッスンも毎日欠かさない。
他人行儀の中の“家族”のような暮らしを通して、少年は感情表現に問題を持ってはいたがそれなりに育っていたのである。
さて、その水曜日の午後のことだ。
突き出されたSDATプレーヤーを手に取ったシンジは質問せざるを得ない。
「あの…、先生?これは…」
「お前のだ。使い方は知らん」
ただそれだけ言うと、先生は奥の部屋に引っ込んでしまった。
首をかしげながら自分の部屋に戻ったシンジ少年は机の上に袋が置かれているのを見た。
その袋の中にはプレーヤーの説明書と数本のSDATテープが入っていたのである。
やがて彼は独力で説明書を読み、その数本のテープを聴くことができた。
そして、彼はそのSDATプレーヤーをずっと使い続けていたのである。
行ったり戻ったりしていたシンジの話を聞き終えたアスカは腕組みをした。
「で、それがどうしてアンタの…その…父親からだって思うのよ」
「だ、だって、先生は使い方を知らないって」
「じゃ、近所の人とかに貰ったのを興味がないからアンタに渡したんじゃないの?」
「近所の人とは全然話なんかしてないもん。先生は」
「うわっ、変人」
怒るかと思えば、シンジは苦笑しただけだ。
「そうなんだよね、凄く変な人だったけど…」
彼はそこで言葉を切った。
「今考えると、父さんに似ていたかも」
ぼそりと呟くと、覗き込むようなアスカの視線を気にして彼は慌てて付け加えた。
「あ、髭も生やしていないし、サングラスもかけてないよ。背も父さんほど高くないしね」
「あ、そ」
素気無い返事にシンジはぽりぽりと頬を掻いた。
「で、その変人の写真とかないわけ?長い間一緒に暮らしてたのに」
「ないよ。全然。カメラなんてなかったから、あの家には」
「へぇ…、その近所には相田みたいなヤツはいなかったってわけね」
アスカとシンジのツーショット写真なら結構ある。
本人たちが知らない間に相田ケンスケが撮っていたものをプリントしてくれたりするからである。
以前のようにアスカの写真で商売はしていないようだ。
そんな彼女らしい感想にシンジは珍しく声に出して笑った。
そして立ち上がった彼は自分の部屋に行き、一冊の雑誌を手に戻ってきた。
それはクラシックの音楽雑誌で、ある有名な交響楽団の変遷を特集したものだ。
彼はその特集の中にあった集合写真をアスカに示した。
「この人。チェロのところにいる…、ちょっと無愛想な顔してる、この人が先生」
「えっ、よくわかんないけど、結構凄いんじゃないの?こういうのにいるのって」
「うん。僕も知らなくてさ。去年本屋さんでアスカを待っていた時に…ほら、秋にセーター買うって散々時間かけて選んでた時があっただろ」
返事はなく、じろりと睨みつけられシンジはしまったと彼女から目を逸らした。
あの時、30分も待たされ本屋で立ち読みして待っているとアスカに言ったつもりだったのだが選別に夢中の彼女には伝わっておらず、結局二人はその場では生き別れになってしまったのである。
当然、アスカは激怒し、その夜は二人の家に直撃台風が吹き荒れたのだ。
その時の記憶を呼び覚ますなど、地雷を踏むようなものだ。
シンジはすかさず謝罪した。
「ご、ごめん。すぐに服屋さんに戻るつもりだったんだけど、この写真を見つけたから…」
「アンタ、あの時はそんなこと一言も言ってなかったじゃない」
言わせてくれなかったんじゃないか!とシンジは叫びたかった。
その時マシンガンのような勢いで糾弾され続けていた彼は何も弁解できなかったのだ。
しかし、今そのことを蒸し返すのはよくない。
それくらいの知恵は今のシンジには備わっているのである。
「ふぅ〜ん、その写真を見つけたもので、ついぼけっとしちゃったってわけぇ?」
「ごめん」
としか言えない。
しかし、アスカはこの事実を知ったことで去年の秋の件については水に流そうと決めた。
それほどの理由があるならば許してやろうではないか。
とっくの昔に忘れてしまっていた事件のことを寛大なる彼女は今一度忘れてあげようと心の中で決めた。
ただし、それはシンジには伝えない。
伝えてなるものか、馬鹿シンジ。
アスカは勝手にそう決めて、話を先に進めた。
「ってことは、アンタのチェロは結構専門的って事じゃない」
「そんなことないよ。先生が凄くても僕なんかたいしたことないって」
「アタシ、謙遜って嫌い」
「謙遜じゃないよ。僕はせいぜい…ほ、ほら、クリスマスの時のBGMとかに弾くくらいでいいんだ」
「うぅ〜ん、ま、そうね。まあ、それじゃ下手な音楽にならないようにせいぜい練習しといてよね」
アスカはくだらなさそうに言うが、しかし少年のやる気を出させる一言もつけ足した。
「アタシは世界一優しいからアンタのチェロくらいいつだって聴いてあげるからさ」
「あ、ありがとう。リクエストがあったら…」
「ワーグナーの…」
「む、無理だよ、そんなの、チェロ一本で…」
「はんっ、なんとかすれば?」
「無理。絶対無理」
いつもの彼に似合わずはっきり意思表示する姿を見て、アスカは内心成長してるじゃないと褒めてあげた。
もちろん口では「つまんなぁ〜い」と言っただけだったが。
「で、その実は立派なチェロ奏者だったっていう先生にもらったSDATプレーヤーがどうしてアンタのパパからってなるのよ」
アスカは話を戻した。
そう、彼女はこの話題に大いなる関心を持っているのだ。
「あ、えっと、それは…つまり…、勘?」
「勘っ」
ずっこけるところまではいかないまでも、アスカは天井を仰いだ。
「で、でもね、綾波が…」
「赤木。赤木レイ。ちゃんと覚えてあげなさいよ、かわいそうに」
まるで子供を叱るような言われ方にシンジはがっくりと溜息を吐く。
遥かドイツにいる彼女を忘れているわけではないが、それでもこうして時に新しい姓を忘れてしまう。
そもそも、彼女は自分にとって何者に当たるのだろうか。
彼女の出自についてはリツコから説明されている。
しかしレイを母親とは呼べない。
「で、レイがどうしたのよ」
「えっと、レイが…」
彼女の名前を発音しにくそうに言うシンジ。
アスカのことは素直に名前で呼べるのだが、レイは何故か呼びにくい。
そんな彼のことをアスカは面白そうに見ている。
「僕のね、プレーヤーを使ったんだよ」
「はあ?」
「だから、僕のSDATプレーヤーをレイが使ったんだよ」
「アンタ馬鹿ぁ?レイだって使えるわよ。アタシだって何度か使ったことあるじゃない」
「えっと、だから…」
先ほどと同様にシンジはうまく説明できない。
しかし今度は何故かアスカは温かく見守りはしなかった。
「はっきりしなさいよ、男らしくないわねぇ。だいたいレイが操作法を知っててどうだってんのよ。そんなの全然おかしくもなんとも…」
おかしい。
自分で言っておきながら、アスカはあのレイがSDATプレーヤーを使うという行為自体に違和感があることに気がついた。
今のレイならばそんなことはないだろうが、問題はいつごろかということになる。
「で、いつの話?そのレイが使ったってのは」
「えっと、あの、ほら、アスカが入院してた頃」
「はぁ?アタシが入院…って……」
またもやアスカはシンジを睨みつけた。
「へぇ、アタシが入院中にアンタってそ〜ゆ〜ことしてたんだ」
「そ、そういうことって…」
「随分と楽しい学校生活を送っていたみたいね。ふんっ」
「た、楽しいって、別に普通だってば」
楽しい学校生活など送っていた覚えのないシンジは躍起になって否定した。
「それに学校が終わったらすぐに病院に行ってただろ。トウジたちに遊ぼうって誘われても毎日行ってたじゃないか」
「わっ、何それ。すっごくお仕着せがましい感じじゃない?ははぁ〜ん、お見舞いって、もしかしてただの義務だけってわけか」
「ち、違うってば。義務なんかじゃないよ。僕には責任があったし」
「責任ねぇ。はんっ、語るに落ちたわね。責任を感じていたからこそ義務を果たそうってことに繋がるんじゃない」
じろりと睨みつけたアスカは俯くシンジを見てこれくらいにしておこうかしらと決めた。
もっと遊んでいたい気持ちも強いのだが、今日は都合が悪い。
はっきりとさせないといけない事があるのだ。
だから彼女は話をやや前に戻した。
「で、レイがどうしたって?脱線ばかりしていないでさっさと話を進めなさいよ」
線路に置石ばかりする悪童が素知らぬ顔で言う。
「う、うん。だから…」
彼の話をまとめるとこうだった。
レイがシンジのSDATプレーヤーを触ったのは学校ではない。
アスカが入院していた病院のロビーだった。
その日は彼と一緒にレイも見舞いについてきた。
その帰りにシンジが病室に忘れ物をしたことに気がついたのだ。
すぐに戻るつもりだったので、彼は荷物を置いたままで病室に向かった。
ところが帰ってきた彼をアスカが放さなかったのである。
あれやこれやと言い出し、ようやくシンジがロビーに下りたのは30分以上過ぎてからだった。
するとどうだろう。
レイがSDATプレーヤーのヘッドホンを耳にし、曲を聴いていたのだ。
その姿を見て、シンジは…。
「アンタのママに似てたってわけね」
シンジは大きく頷いた。
「そりゃあそうでしょうよ。アンタのママが元になってんだもん」
「でさ、何となく覚えてるような気がして。母さんがそんな感じで曲を聴いてたの」
アスカは眉を顰めた。
相変わらず話下手である。
もっとうまく話をまとめてくれればいいのだが、これでは大人になってから困るというものだ。
だが彼のこれまでの暮らしを考えるとこれもやむを得ないかもしれない。
大人の中で暮らしてきたアスカとは違うのだ。
無口な“先生”とずっと子供時代をすごしてきていたシンジは只今対人関係を修行中とも言える。
「昼寝から覚めた時、母さんがヘッドホンを外しておはようって言ったような…」
「それがあのSDATプレーヤーだったってこと?間違いないの?」
「わかんないよ。はっきり覚えてないもん。ただそんな気がするってだけで」
「ま、プレーヤーの製造年見たら、おかしくはないわよね、アンタのママがこれを使ってても」
「だ、だろ?」
「で、その想い出のプレーヤーをあの司令がアンタにプレゼントしたってわけ?」
「うん…」
自信なさげに彼は頷いた。
証拠も何もない話だ。
「気になるんだったら、その先生とかに聞いてみたら?」
「先生は…、サードインパクトの時に…帰ってきてないんだ」
「そうだったんだ…」
アスカの入院中に、ネルフの用でミサトが松代に向かった時、シンジも同行したのである。
その時に“先生”は赤い海から戻らなかったことを知った。
何故彼がそうしたのかはわからないが、“先生”はそうしていそうな気がしていたシンジだった。
愛情の類を持っていたかどうかというのは自分でも疑問だが、それでも10年一緒に暮らしたのだ。
それなりの感情は抱いていた。
無人の屋敷はすっかり荒れていて、シンジはその庭に木切れで墓標を立てて帰ったのだ。
「アンタねぇ、そういう大事な話は全部アタシに話しなさいよ。何だか、不愉快だわ」
「ごめん」
「で、その先生関連でアタシに黙ってたことって他にない?」
「え…」
「こうやって質問されれば本当のことしか言えないでしょうが。嘘言わないって約束だもん」
シンジは苦笑した。
嘘を言わないという二人の約束は絶対的なものではない。
冗談や些細なことに関しては別に拘束力を持っていないのだ。
だが、重要な事柄に関しては質問されれば本当のことを言うということになっている。
だからこうして質問されてしまうと今まで黙ってきたことも言わざるを得なかった。
「その屋敷を相続したんだ、僕」
「はい?」
「18歳の誕生日になったら、先生の屋敷とかを相続することになってるんだ。遺言がそうなってるんだって」
「遺言…って、ああ、そうか」
サードインパクトで帰還しなかった人間については行方不明ということでなく、1年を経て死亡扱いという事になっている。
そしてネルフ宛に見ず知らずの弁護士から連絡が入ったのだ。
シンジが第3新東京市に旅立った後、先生はすぐに遺言書を作っていた。
無条件で屋敷とその周辺の土地を碇シンジに贈るとなっているのだ。
その件に関しては冬月とミサトが間に立ち、ややこしい税や法律関連の事柄を処理してくれたのである。
「ふぅ〜ん、ミサトまで知っていたわけか。アタシには黙ってねぇ」
アスカはまたもや不機嫌モードに突入しかけている。
「ごめん。だってあんな大きな屋敷なんか僕…」
「で、そこはどうしたのよ。まさか荒れたまま?」
シンジは当然といった感じで頷いた。
物欲が薄い彼は相続すれば寄付なり何なりで処分しようと考えていたのだ。
そしてその一部で先生のお墓を立てればいいかなと思っている。
しかし、それを聞いたアスカは違った。
「却下。アンタ、そこ相続しなさい。あ、相続はするのか。処分が却下」
「ええっ」
「荒れてるって屋根がなくなってるとかそういうのじゃないんでしょ」
「うん、掃除してなくてってくらいの」
「じゃ掃除しなさいよ。アタシも手伝ってあげる。あ、バイトだかんね、それは。ボランティアなんかじゃないんだから」
「ち、ちょっと待ってよ」
「ま、時給はそんなに高くなくてもいいわよ。夏休みになったら行くわよ。その近くに温泉ある?」
どんどん計画化されていき、シンジは戸惑った。
彼の青写真は完全に否定されている。
「だいたいね、アタシはこういう無機質な町より田舎の方が好きなのよ」
「え、そうなの?」
「アンタがそこに住むんなら…」
そこで彼女は口をつぐんだ。
自分でもその後何を言うつもりだったのかわかっていなかったのだ。
だから、アスカはまったく別のことを言い出した。
「つまり、アンタは18歳の誕生日にとんでもないプレゼントを貰えるってことなのよね。凄いじゃん」
「あ、そうか。そうなるのか…」
シンジは頭を掻いた。
「結局、先生って人だってアンタのことを気にしてたってことじゃない。アンタがぼけぼけだから気がついてなかったのよ」
「そうかなぁ」
「そうだって。アンタはホントに馬鹿よね。きっと司令にでも命令されてたんでしょ。アンタの育て方とか」
「父さんに?」
「そうよ、そうに決まってるわ。うん、間違いなし。だから、アンタのママが使ってたプレーヤーだって先生経由でアンタの手に渡ったのよ」
アスカの言葉を聞いてシンジは目を丸くした。
「あれ?僕の話を信じてくれるの?」
「はぁ?誰が信じないって言ってた?証人がもうどこにもいないんだからもう調べようもないじゃない。だから、それでもう決まりでいいじゃない」
「いいの?」
「いいのっ。そっちの方がロマンティックでいいんじゃない?」
「う、うん。アスカがそう言ってくれるんなら…」
「はんっ、アタシが世界の中心なんだからそれで決まりなのよ。で…」
アスカが言葉を切ったので、シンジはどうしたことかと首を少し前に出す。
彼女はさりげなく言った。
「その想い出のプレーヤーをどうすんのよ。壊れちゃったのを。棚にでも飾っておく?」
その提案を聞いて、シンジは数秒何かを考えた。
そして、彼は少しばかり笑いながら言葉を発したのである。
アスカが予想もしなかった言葉を。
「お墓に入れちゃ駄目かなぁ…」
「お墓?」
「うん、母さんと父さんの。どっちの骨も入ってないし、ただ墓標があるだけだし…」
あの十字架の並ぶ墓地には、元々ユイの墓があった場所にゲンドウの墓標も立てた。
いや、厳密に言うと、ユイの墓標にゲンドウの名前も書き加えたのである。
ゲンドウの名前を書き加えたのは冬月だった。
その場にアスカも一緒にいたので、その光景は彼女もよく覚えている。
なるほど、シンジのその提案はとてもいい考えではないだろうか。
母親が愛用していて、父親の手で息子に渡されたものなのだから。
もちろんそのことには何の証拠もないのだが、もはやアスカはそうに違いないと信じていた。
「今から行く?墓を掘り返しに?」
「えっ、今から?それは無理だろ、だって勝手に掘ったらまずい…」
「アンタ馬鹿ぁ?冗談に決まってんでしょ。まず許可もらわなきゃ。それに冬月さんとかにも連絡しておかないといけないんじゃない?」
「あ、そうだよね。うん、わかった」
この時の二人はまだ知らない。
お墓に入れるということを伝えた冬月によって、そのSDATプレーヤーがまさしくユイのものだと証明される事を。
そのことを聞いて、シンジがぼろぼろ子供のように泣くことを。
そして泣き顔を見られたくないアスカが女子便所に駆け込むことも。
「仕方ないわねぇ」
アスカが仕切りなおしたのは夜になってからだった。
2017年6月6日火曜日。
シンジが16歳になった日の夜。
本当は朝一番に渡すつもりだった。
しかし、何となく恥ずかしくて、決行はできなかった。
そして下校後は家電販売店に寄り道をしたシンジの告白により機会を失った。
それにそんな想い出の品と比べられるのがどうしても嫌だったからだ。
夕食を誕生日仕様のご馳走にし、その時渡そうとしたのだが、シンジの発言により又も機会を失った。
こんなご馳走、プレゼントより凄いよ、嬉しいよ、ありがとう!などと目を輝かせて言われてしまうと、今更渡しようがなくなってしまうアスカである。
しかしこのままでは渡せずじまいになってしまうではないか。
もしそうなれば、自分の誕生日の時にプレゼントを要求できなくなってしまう。
自分の利害関係に支障をきたしてしまうからと、アスカは自分の背中を押した。
そして彼女は一旦自室に戻り、しばらくしてから出てきてそんな風に切り出したのである。
何が仕方がないのかわからないシンジは怪訝な表情でアスカを見た。
彼女は頬をぷぅっと膨らませて、後に回していた手をさっと前に突き出したのだ。
「これあげるわよ。アンタの壊れちゃったんだし、ま、中古だから気なんかつかわなくていいわ。アタシが使ってたやつだからそ〜ゆ〜意味じゃ貴重品でしょうけどっ」
アスカは早口で言い切ると突き出した手からぽいっと何かを投げると一目散に自分の部屋へ逃げ出した。
ぴしゃりと襖が閉まるのと、シンジが手で受け止めたものが何かと認識するのがどちらが先立っただろうか。
アスカが投げ寄越したのは、小さなメディアプレーヤーだった。
SDATプレーヤーに比べて1/10以下の大きさで、何万曲も入る容量のもので最新式の機器である。
シンジは苦笑した。
「中古って…、これ最新モデルじゃないか」
その呟きはアスカの部屋の襖をびくりと震わせた。
それは鈍感なシンジでさえ、そこにアスカがへばりついていることを意味していると充分に察知できる音だった。
修理のために家電販売店に行った時にもし買い換えるならばと彼がそのコーナーをしばらくうろうろしていたということまで、さすがのアスカも気が回らなかったのだ。
修理不可能で傷心状態のシンジががっくりきて帰宅したものと決め付けていたのである。
彼はアスカが自分のために誕生日プレゼントを買ってくれたことを知り、晴れやかな笑顔になった。
心浮き立つ彼は日頃の彼に似合わず、軽妙な言葉を発したのである。
「ありがとう、アスカ。でも、これだけじゃ使えないよ。説明書とか、端末との接続ケーブルとか、そういうのも欲しいんだけど、駄目?」
また襖ががさりと鳴った。
そして、数秒後。
襖が小さく開き、リビングの床にメディアプレーヤーの箱が置かれ、そしてすぐに襖がぴしゃりと音を立てて閉まった。
その時シンジは半年後の12月4日には、これとお揃いで色違いのものを彼女にプレゼントしようと決めたのである。
アスカはやっぱり赤色だよね、と掌上の紫色をしたメディアプレーヤーを見つめ彼はニコニコと笑った。
SDATプレーヤー − 終 −
<あとがき>
シンちゃん、おめでとう。
2009年というと8歳ですか。
謎のベールに隠された子供時代にはとても関心があります。
実はこの作品は未完長編の後日譚にあたる部分の話です。
リンカ様の作品に触発されて書き始めたものの250KBを越えてもまだ先が見えないという、そちらの方はどうなるかわかりませんがその設定を使って書きました。
筆をおいてからもう9ヶ月になるのでそちらの方もまた手を入れたいと思っていますが…アスカもシンジも出てきてないし(滝汗)。
ともあれ、誕生日に何も書かないとシンちゃんがかわいそう、というよりアスカに叱られそうですし(苦笑)。
実は書いている途中は“DATプレーヤー”だと思い込んでいました。
エヴァでは“SDAT”だったんですね(汗)。危ない危ない。
2009.06.06 ジュン
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