今の何……?

 アスカは起き上がることもせず、天井を見つめた。
 唇を指でなでるが、別におかしなところはなく、普通の感触がする。
 レースのカーテン越しからの夕陽の欠片だけが光源の薄暗い室内で彼女は青い瞳をじっと動かさずにいた。
 悪夢?
 確かに夢っていうものはころころ場所や時間や話自体も切り替わるものだけど…。
 短い時間に見た割にはずいぶんと長い夢だったような気がする。
 眠りについたのは6時30分ごろだっただろうか。
 今日はシンクロテストだったので疲れたのだろう、帰宅してすぐにベッドに横になったのだ。
 帰ってきたとき、シンジと声を交わしたのだろうか。
 そこのあたりはどうにも不明瞭だ。
 何か言っていた様な気もするが自分がなんと返事したかも覚えていない。
 とにかく気だるくて横になりたかったのだ。
 ああ、そうか。
 アスカは苦笑した。
 テーブルの上にあった晩御飯だ。あの皿にあったものを見たから、あんな夢を見たに違いない。
 あれは煮込みハンバーグに相違ない。
 夢の中ではポテトが添えられていたが、だいたいシンジが手作りのハンバーグを作るわけもなく、どうせインスタントか惣菜を購入してきたのだろう。
 先日のカレーは不味くはなかったけど、日ごろ作り慣れてないものだから具材を買いすぎて冷蔵庫にかなり残ってたわよね。
 ど〜せ、もし足りなくなったら困るからってマイナス思考で多めに買ったに決まってるわ。
 アタシ?アタシに作れるわけないじゃん…。
 アスカは自嘲した。
 料理は食べるもので作るものではない。 
 エヴァンゲリオンのパイロットには料理の腕は必要ないではないか。
 5歳で寄宿舎に入ってからの彼女はそうやって暮らしてきたのだ。
 それまでは…。
 母親が料理をする姿を覚えている。
 アスカは天井を見据えた。
 ジャガイモの皮を剥き…アタシにもやらせてとせがんでもっと大きくなったらねと言われたっけ、すっかり忘れてた…もう大きくなったわよ、アタシ…ママ…。
 唇をすぼめたアスカはその段階でポテトの料理法を探ることを断念した。
 悲しみから逃れるためにアスカは夢の記憶をたどることにしたが、しばらくしてかっと目を見開いた。
 
 キス!

 アタシが!このアタシが、あの馬鹿シンジと!
 アスカは枕を掴んで天井へ投げつけた。
 万有引力の法則にしたがって枕は彼女の足元に落ちたが、さらに蹴飛ばされてベットの下へと転落する。
 ごしごしと拳で唇を拭おうとしたアスカは指で唇を撫でるだけにとどめた。

 本当のキスもあんなに気持ちいいのかな…。

 相手が誰とかは別にして、あの感触は悪くなかった。
 これまで夢の感触が残るなどという経験はほとんどない。
 不思議だなどと思いながらアスカは他の記憶も辿った。
 しかし夢をすべて思い出すなどできるわけがない。
 断片的な記憶はアスカを苦笑させた。

 馬鹿シンジの誕生日、告白、病院、発狂……!!!!!

 アスカは眉を曇らせた。
 母親の記憶が発狂した自分の姿に被る。
 いやいや違う、あの自分はレイが創作したものだ。
 ……レイ?
 ファーストがあんなことを?
 ははははは、ありえない!
 あの人形があんなに表情を変えるなんて…って、まあ、普通の人に比べたらほとんど変わってないけど、それでも人形から比べれば全然違うわよ。
 それにアタシ、ファーストのことをレイって呼んでた…。
 いやいや、それより使徒戦!終わってなかった?
 ま、まあ、夢なんだし、終わってるほうがいいに決まってるし…。
 ん?レイ…じゃない、ファーストのやつ、馬鹿シンジのこと何て呼んでたっけ?
 う〜ん、思い出せない。ま、いっか。夢の話なんだから、どうでも!
 でもさ…、なんか思い出したいわよね、あの夢。
 なんていうか、ほら、平和っていうか、今みたいな状況じゃなかったから、そりゃあアタシだって、戦いのないほうがいいって思うわよ。
 だけど、使徒と戦わないとアタシの存在意味がない……感じじゃなかったわね、夢の中じゃ。
 みんなと楽しくやってた感じ…ん?ヒカリって鈴原のことが好きなの?あ、いやいやいや、夢じゃない、夢。
 でも、どうしてアタシはそういう風に思ったんだろ。ヒカリはそんなこと何も言ってないのに。
 ああ、もしかして、霊感とかで本当に好きだったりして?まさかね、ははは。
 ってか、それより、馬鹿シンジ!
 何が誕生日プレゼントよ、アタシにプレゼントを要求するなんて百万年早いわよ、まったく!
 いや待て待て、待ちなさいよ!
 プレゼントって、あいつ、アタシ自身を要求してなかったっけ?
 馬鹿にすんじゃないわよ、馬鹿シンジの癖に!
 キスしてやっただけでも100万ドルもらっても引き合いやしないっていうのに、身体ぁっ!
 あいつってアタシの事そういう目で見てたってわけっ?
 げげっ、いやらしっ!
 あ、でも、アタシの夢ってことは…、つまりアタシがそう感じてるってこと?馬鹿シンジにいやらしい目で見られてるって思ってるってことになるの?
 いやいやいや、きっとあいつのいやらし〜い思念がアタシにあんな夢を見させたってことよ、きっと、そう!

 アスカがそんなことを考えていたとき、実にタイミングよくシンジの声が聞こえてきた。

「アスカぁ、まだ寝てるの?晩御飯食べない?」

「ひっ!」

 思わず知らず悲鳴を上げてしまった自分にアスカは舌打ちした。
 相手はたかが馬鹿シンジではないか。
 彼女は自分の頬を軽く叩くと、ベッドに起き直った。
 
 夢よ、夢!あくまで夢よ。

 リビングまではわずか数秒。
 その数秒で自分の人生が変わっていくとアスカは思いもよらなかった。

 テーブルの上にのっているのはいつもと変わらない食事だった。
 メインディッシュの煮込みハンバーグはちらりと見たときのままの姿で、そこの記憶は確かだったということと夢はそこがベースになったのではないかという彼女の推測を裏付けた。
 そして、シンジの誕生日が6月6日だという夢設定になっていたのは今日がその6月6日だからに違いない。
 彼の誕生日など知りたくもなく、知識としても持っていなかったアスカはそう断定した。
 馬鹿シンジの誕生日がいつだってかまわない。
 少なくとも今日であるはずがない。そんな偶然あってたまるか。
 
「はっ、ハンバーグぅ?アタシ、唐揚げの方がよかったわ」

「そうなの?ごめん。じゃ、明日は唐揚げにするね」

 え…?
 アスカは自分の悪態に対して、いつもの反応を期待していたのだ。
 そんなこと今言わないでよなどと暗めの言葉を返してくるのが普通だった。
 それが実にあっさりと受け入れられてしまった。
 流されたのではない。要望として受け入れられたのだ。
 そうなれば性格が真っ直ぐではないアスカとしてはさらに一言加えるのが通常営業というものである。

「アタシは今日がよかったの。それともあんたはハンバーグが食べたかったわけぇ?今日この日に?」

 言いながら席に着くと、意外な言葉が返ってきた。

「うん、ごめんね。僕、煮込みハンバーグが好きだから。今日は特別で…勝手なことしてごめん」

 ぎょっとしてアスカは目を上げた。
 前に座っているシンジは完全に照れてしまい頬を赤らめぼりぼりと頬をかいている。

「と、特別って何よ」

 聞きたくない。聞きたくはないが、問わずにはいられなかった。

「誕生日に母さんがつくってくれた記憶があって…」

「まさか、今日があんたの?6月6日?」

「うん」

 実にあっさりとした肯定の言葉はアスカに衝撃を与えた。
 そして、このやり取りは彼女の深い記憶を甦らせたのである。
 あの日、あの特別な日にたった一度だけ食べた料理は…。
 彼女はその単語を記憶の古池からやっとのことでサルベージした。

「オヤコドン…って何?馬鹿シンジ、知ってる?」

「え?親子丼って親子丼のことかなぁ」

「知らないわよ。知らないから訊いてるんじゃない」

「そ、そうだよね。うん、ご飯の上に卵と鶏肉と玉ねぎの…」

「たぶんそれ」

 シンジが説明するものをビジュアルとして想像すれば、なんとなく卵の黄色がおぼろげな記憶のイメージに合う。

「あ、そうなんだ」

「作れる?」

「で、できると思うけど食べたいの?」

「食べたくないなら訊かないでしょうが、馬鹿」

「食べたいならネルフの食堂にもあるよ。お蕎麦屋さんとかでも…」

「外はいい。一人で食べたい」

 もし、シンジの言う親子丼がオヤコドンであったならば、涙を流さずに食べる自信がない。
 アスカの誕生日で最後に幸福だった年、3歳の2004年12月4日に、母親が作ってくれたその料理なのだ。
 ケーキやドイツの料理でなく、一風変わったその料理を食べたのはその時一度きりだった。
 
 シンジはアスカの奇妙な頼みに何故かと訊くことはしなかった。
 それはなんとなく質問するのが憚られたこともあるが、彼特有の性格に寄る部分も多い。
 自分から喋らないなら聞き出すこともないじゃないか。
 いつもならば消極的だとなってしまう性格が今回ばかりはいい方に作用した。

「うん、じゃ明後日でいい?明日は唐揚げでしょ」

「明日。唐揚げなんてどうでもいいわ」

「あ、そうなんだ。じゃ、明日の晩御飯にするけど…」

「けど何よ」

「初めて作るから…」

 アスカは予防線を張るシンジを笑った。
 鼻で笑うのではなく、楽しそうに笑ったのだ。

「不味かったら怒るに決まってるじゃない。アンタ馬鹿ぁ?」

「ええ〜っ」

 アスカは皿の上の煮込みハンバーグを見下ろした。
 何かが足りない。
 そうだ、夢の中ではポテトが添えられていたではないか。
 別にギブ・アンド・テイクを考えたわけでなく、同居人として少しは誕生日を祝ってやってもいいと思っただけだ。
 料理の添え物をプレゼントにするなど馬鹿シンジに似つかわしいのではないか。

「馬鹿シンジ。じゃがいもある?」

「へ?あったと思うけど」

「冷蔵庫?」

 うんという返事を待たずにアスカは台所へ向かった。

「どうするの?」

「待ってなさいよ、ポテト作ってあげるから」

「アスカが?」

 シンジは素っ頓狂な声を上げた。
 これまで料理のみならず家事を自分に押し付けまくってきたアスカだ。
 料理を作るなんてどういうことなんだと思うのも当然だろう。
 アスカはじゃがいもを両手に持つと偉そうにシンジを見下ろした。

「はんっ!天才のアタシにかかれば料理なんてお茶の子さいさいよ」

 その口調からシンジはこれがアスカの料理初体験であることを察した。
 そういえば中学の家庭科の授業では彼女は何もしていなかったような気がする。
 いやな予感がするシンジだったが、アスカの一言で不平が言えなくなってしまった。

「ありがたく食べなさいよ!あんたの誕生日プレゼントなんだからねっ」

 はっとしてアスカを見つめるシンジは鼻の辺りがどんどん暑くなってくるのを感じた。
 泣いちゃ駄目だ、泣いちゃ駄目だ。でも、いつからプレゼントなんて貰ってないんだろうか…。
 複雑な表情をしているシンジを見て、アスカも彼の事情を察することができた。
 だから思わず言ってしまったのかもしれない。

「しゃきっとしなさいよ。来年はあれ買ってあげるから。ええっと…」

 夢の記憶からその単語は容易に引っ張り出せた。
 そういえば、あれを弓と呼ぶなど彼女の持つ知識には含まれていない。
 なぜ夢の中の自分は知っていたのか。
 これが予知夢というものなのだろうか。
 まあ、いい。そんなの知ったことじゃない。
 夢であることは確かなんだし、それに夢の記憶など明日になれば忘れるに決まってるのだから。

「チェロの弓。あれをプレゼントしてあげるわ」

「えっ!あ、あのさ」

「何よ、嬉しくないの?」

 意外な反応にアスカはシンジの顔をじっと見た。
 泣きそうだった彼は戸惑いの表情を浮かべている。

「だってね、案外高いんだよ、弓って」

「ふんっ、二三千円くらい出してあげても…」

「ちょっといいのならすぐに何万円も…」

「いいのって、あんた、なんて欲張り…」

 そうだった。
 夢の中でシンジはキスだけでなく身体まで要求するような欲張りだったではないか。
 しかし値が張るからと言われて、じゃあと引っ込めるわけにはいかない。
 それに…。

「わかったわよ。5万でも10万でもあんたが欲しいの買ってあげるわよ。どうせネルフのお金がいっぱいあるんだし」

 確かにパイロットたちには結構な金額が給与というスタイルではなく学業補助金という名目で支給されている。
 ところがシンジだけでなくアスカもそのお金を散財することはせず口座に入れっぱなしにしているのだ。
 命を張って戦っているのに二人とも意外に質素な生活をしていた。だからシンジも高価なプレゼント候補に戸惑っているのである。

「でも…」

「はぁ…。来年プレゼントが欲しけりゃ、使徒なんて全部やっつけてしまうことねっ」

 言い捨てて調理台に向かうアスカの背中にシンジの言葉が追いかけてきた。

「じ、じゃ、僕も!アスカの誕生日に何か…」

「はんっ!」

 アスカの背中が高らかに吼えた。
 このような展開は夢の中にはなかった。
 しかし嬉しいではないか。
 ドイツの親から一方的に送られてくるプレゼント以外に誰からもそのようなものを貰った経験が彼女にはないのだ。
 そして人にプレゼントするという経験もない。
 どうして思いつかなかったのだろう。
 ヒカリという親友ができたというのに彼女の誕生日を祝うという考えすら思い浮かべることができない自分はおかしかった。
 貰うのではなく贈るという行為がどうしてこんなに気分を高揚させてくれるのだろう。
 なるほど、だから夢の中で見た自分の写真はあんなにいい笑顔になっていたわけだ。
 彼女は寄宿舎や学校では教わることができなかった、人とのかかわりというものに触れ心が温かくなるのを感じた。
 だが、アスカの根性は大いに曲がっている。

「好きにすれば?」

「ありがとう。あ、でも、アスカの誕生日っていつ?」

Am vierten Dezember, weißt Du nicht?

 彼には理解できないドイツ語で告げたことで、背後のシンジは大いに困惑しているだろう。
 それがおかしくて、アスカは声には出さずにくすくす笑いながら包丁を手にした。
 じゃがいもを湯がくには皮を剥くに違いないはずだ。
 巧く剥けるかどうか、そんなものはやってみないとわかるわけがない。
 剥いた後どうするかはそれから考えればいい。
 アスカはすぐ先への未来に、そしてそこからつながる明日へと歩みはじめた。

 

 

 

 

 

 

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