すべては一冊の本から始まった。

教室に忘れられた一冊の文庫本。

その本を彼女が手にした時、人類の歴史が大きく変わったことを誰も知らない。

 

 

 

 

 

250000HIT記念リクSS 

The Great Misjudgment

 


 

2004.04.14         ジュン

 

 

 

 

 

 

 

 その書籍の名前は『LAST LOVE』。女子中学生向けに書かれた甘い恋愛小説だった。

 その文庫本を2−Aの女子の中でおそらく一番読みそうもない娘がむさぼるように読んでいる。

 綾波レイはこれまで一度も文学というものを読んだことはなかった。

 いやあのような場所で育った彼女が創作物というものの存在を知っているかどうかでさえ疑問だ。

 学校の授業でも国語の点数が悪いのはその所為であろう。

 人物の感情の動きや行動が明記されておらず、読者が読み取ることを要求する創作物というものは、

 彼女にとって不完全な報告文でしかありえないのだ。

 従って彼女がいつも読んでいるの本が化学文献等に落ち着いてしまうのは仕方のないことである。

 また何故彼女が本を読むのか。

 それは彼女なりの防壁として本を読むという行為を利用していたに過ぎない。

 読書している人間には声をかけにくい。

 一人にしておいて欲しいレイが集団の中で生活していく上での彼女なりの知恵だった。

 人間としての感情を極力つけさせないためにゲンドウやリツコが選んだ方法…、

 創作物から彼女を遠ざける、または興味を持たないように仕向けるということはあながち間違いではなかったのだ。

 もっとも彼ら自身そういうものに興味がないということも根底にあったのだが。

 そんな彼女がどうしてこの本に限って読む気になったのだろうか。

 それにはいくつかの偶然が重なったのである。

 

 まずその本を買った2年A組出席番号15番佐藤ユウコ、通称サトである。

 彼女はその本をB組の親友鈴木ショウコ、通称ショウから薦められて購入したのであるが、

 この小説の展開は内気な彼女にはあまり合わなかったのである。

 しかし親友から薦められただけに読まないわけにはいかない。

 仕方なしに少しずつ読んでいたわけだが、そういう事情のために管理がおざなりになっていたのは仕方がない。

 理科室の掃除当番の彼女がそこへ移動する際、教室の机の中に本を置きっぱなしにしてしまったわけだ。

 自宅に戻ってそのことに気付いた彼女は逆にほっと溜息を吐いた。

 失くしてしまったのだからそれを言い訳にして読まずにすむ。

 彼女は神に感謝した。

 その神が人類を産み給うた神であれば、逆に彼女は神より大いなる祝福を授かったかもしれない。

 

 次に登場するのは2年A組出席番号1番相田ケンスケと出席番号18番鈴原トウジである。

 彼らは教室の掃除当番だった。

 当然3バカと呼称される、あの彼らが真面目に掃除するはずがない。

 もう一人の馬鹿である碇シンジはサードチルドレンとしての責務を果たすため某所においてテスト中とやらで不在である。

 机を移動させ、教室の真ん中に大きなスペースが開いたとき、二人は本能の赴くままに箒を使ってチャンバラを始めた。

 いずれが武蔵か小次郎か。

 二人とも2本の箒を使っているからには、武蔵対武蔵であることには違いあるまい。

 剣豪同士の対決は伯仲し、椅子や机を倒したりという狼藉を繰り返したのだ。

 その時、件の文庫本が机の中からこぼれ落ちたのである。

 それだけであれば、かのケンスケたちも文庫本をいずれかの机の上に放置するだけで終わっていたであろう。

 

 そこに教室へ現れたのが、異なる意味でトウジの天敵ともいえる少女が二人だった。

 2年A組出席番号19番にしてセカンドチルドレンである、惣流・アスカ・ラングレーがまず吼えた。

 本日は2年A組出席番号3番にして彼女の同居人であり、かつまた少しずつ彼女の心に占める場所が増えつつある碇シンジが欠席なのだ。

 時間を追うごとに機嫌が悪くなっていく彼女の気持ちは、その気になって見るとよくわかるのだ。特に身近な連中には。

 アンタたちは教室の掃除当番でしょうが!まったく掃除くらいの簡単なことすらできないとはとんだ馬鹿揃いよね。(以下略)

 当然の如く、トウジが売られた喧嘩を積極的に購入する。

 えらい機嫌が悪いのう。ははぁん、さよか、今日はセンセがおらんよってにの。それでか。

 意味ありげにほくそ笑むトウジに単純なアスカは見事に引っ掛かる。

 傍観しているケンスケにすると、隠してもいない大きな穴に自分から落ちていくようなものだった。

 アンタ何馬鹿なこと言ってるのよ。私は馬鹿シンジのことなんか全然好きじゃないわ!(以下略)

 獲物が自ら罠の中に足を踏み入れたことをトウジは実感する。

 へぇ、そういうことやったんか。わしは下僕扱いしとるセンセがおらんからお前が不便しとるんとちゃうかって意味で言うとったんやけどなぁ。

 自らの失策に気付いたアスカはさらに傷口を広げていく。

 わ、わ、私はシンジを教育してやってんのよ。あんなのエヴァのパイロットとしては全然だめだめなんだから、私がっかり教育してあげないといけないのよ。

 ほほう、せやからずぅ〜とセンセの傍におりたいと。そういうこっちゃな。

 関西人に口で勝てるほど、アスカの日本語のボキャブラリーは豊富ではない。

 顔を真っ赤にして失言回復を目的としたダメージ拡大が繰り広げられようとしたとき、アスカの背後にいた少女が登場する。

 2年A組出席番号29番にしてクラスの委員長でもある、洞木ヒカリだ。

 彼女は内心苦笑しながらも親友の窮地を救おうとした。

 そして、ただの一言でそれは効果を示した。

 鈴原、いい加減にしなさい。

 やはり傍観者であるケンスケは当然の結末に苦笑する。

 片想いの対象であるヒカリに言われれば、トウジは沈黙以外にとる手段がないことを重々承知していたからだ。

 トウジが黙ってしまうと、最近芽生えてきたシンジへの淡い好意をからかわれたアスカがそのままにしておくわけがない。

 猫が鼠を弄ぶが様に悪罵をトウジとケンスケに浴びせ続けた。

 トウジを片想いの対象としているヒカリは内心激怒し、但し表情はあくまで柔和に親友をなだめ、そして二人して教室を去った。

 残された二人は憤懣やるかたない。

 その上、掃除も途中である。最後までして帰らないと生活指導にお灸をすえられる。

 仕方なしに机を並べだしたが、身体を動かしながら口は罵倒の言葉を吐き続ける。

 アスカとそして彼らの友人である碇シンジにまでその悪罵の対象となっていった。

 ぜぇったいセンセも惣流に気があるんやで。間違いあらへんわ。

 そうだな、シンジの性格じゃ惣流を嫌いだったら何処かへ逃げ出そうとするからな。

 せやろ。あの二人がちゃあ〜んと夫婦になったらこのガッコにも平和が訪れるんやないかのう。

 ついでに地球にも平和が来るのと違うか?

 少し悪罵が収まりかけてきたとき、机は整然とまではいかないまでも形としては整った。

 終わった終わったほな帰ろか。そうトウジが鞄を手にしたとき、ケンスケが教室の隅に転がる例の文庫本を発見した。

 駅前の書店のブックカバーを外すと、真っ白な表紙にゴシック体で『LAST LOVE』と書かれている。

 何や、それ。文学にはあまり縁がないトウジがケンスケに訊く。

 ああ、これは女子向けの甘い恋愛小説さ。俺たちには関係……。

 ケンスケのメガネが光った。

 どないしたんや、ケンスケ。ふふふ、こうするのさ。

 あまりに子供じみた仕返しだったが、この二人にはそれでも結構面白かった。

 教室から二人が出て行くと、もうそこには誰もいない。

 生徒はすべて下校したようで……はなかった。

 ある机のフックに学生鞄がまだ吊り下げられていたのである。

 そして、その机の上に件の文庫本が投げ捨てられていた。

 ケンスケの手によって落書された表紙の文庫本が。

 

 登場人物、舞台、そして小道具が揃った。

 あとは本作のヒロインの登場を待つばかりである。

 

 足音が近づいてくる。

 軽く、規則正しい一定のリズムで上靴が床を鳴らしていた。

 かのセカンドチルドレンでは絶対にこういう足音にはならない。

 その足音は2年A組の扉の前で止まった。

 扉が静かに開かれると、赤い瞳は中に誰もいないことを瞬時に確認する。

「……」

 焼却炉に理科室のゴミを捨てに行っていた彼女は無表情に自分の机に近づく。

 そして見た。

 ブックカバーを剥かれた文庫本を。

 自分の持っている本ではないことを認識すると、彼女はそのまま放置することを決定する。

 しかし、鞄を取ろうとした時、本の表紙の文字が目に入った。

 それから鞄を机の上に置き、彼女は本を手にする。

 心の中で本の題名を読む。

 LAST LOVE…。

 最後の恋…。変な題名。おかしいわ。だってどうして碇君たちの名前が。

 

 ケンスケは油性のマジックで書き加えていたのである。

 “L”の下に“OVE”。

 “A”の下に“SUKA”。

 “S”の下に“HINJI”。

 

 LOVE ASUKA SHINJI………。

 彼女の身近な人間の名前が記された不思議な書物は、無関心がちな彼女の興味を惹いたのだ。

 そして彼女はとりあえず、その報告書を読んでみる事にした。

 2年A組出席番号2番にしてファーストチルドレンである綾波レイはその本を鞄に納めたのである。

 

 この時、歴史は動いた。

 

 


 

 

 綾波レイの住居。

 荒れ果てた鉄筋コンクリートの集合住宅の一室。

 極力人間的感情を抱かせないために、この住居を用意したゲンドウだった。

 この建物に居住している住民は彼女以外にはいない。

 ただし、居住ではなく仕事に来ている連中はいた。

 チルドレンのガードを任務とした黒服の連中である。

 玄関、ベランダは屋内側より監視カメラで。

 いざとなれば盗聴も可能だし、室内を写すカメラも仕掛けてある。また熱センサーで部屋の中にいる人間も検知できるようになっているのだ。

 ただし、チルドレンを監視するわけではなく、外部からの攻撃に対処するための仕組みであった。

 特にある理由からファーストの室内での日常は極力覗かないように厳命されている。

 この日、仮眠のため交代に訪れた保安部の石塚(仮名)は驚きに目を見張った。

「どうしたんだ、三上(仮名)。ファーストはまだ起きているのか!」

 モニターは部屋の電灯が点いていることを意味し、熱センサーも起床状態を表している。

「ええ、もう1時ですよ。11時には熟睡している彼女にしては珍しい…」

「馬鹿、珍しいんじゃない。こんなことは初めてだ。室内モニターを出してみろ」

 三上はスイッチを入れた。

 瞬時にモノクロの画像がモニターに出る。

 まだ制服姿の彼女が机に向かっている。

「宿題…ですかね」

「馬鹿、これまで彼女は宿題などしたことないぞ。ズームできるか」

「はい…」

 大写しされるレイの手元。

 そこには文庫本があった。

 そう、あの文庫本である。

「本、だな」

「本、ですね」

 石塚と三上は顔を見合わせた。

 確かにファーストチルドレンはよく本を読んではいる。

 だが、判で押したような就寝時間はとっくに過ぎている上に、その読み方が異常だ。

 いつもなら定期的にページをめくるだけなのに、なかなかページをめくらないばかりか時折手で目を押さえているような仕草をしている。

 石塚と三上はレイと同じ仕草を自分でしてみた。

 目頭を押さえ、涙を拭いている…!

「泣いているのか?」

「泣いているみたいですね」

 石塚と三上は顔を見合わせた。

 ファーストチルドレンが泣いている…!

「おい、三上!すぐに山村(仮名)さんに連絡だ!」

「了解!」

 

 涙…。

 これが、涙。

 私、泣いているのね。

 どうして泣いているの?

 そう、悲しいから。

 この報告書は私を悲しませている。

 知らなかった。

 セカンドチルドレンが碇君のことをこんなに好きだったなんて。

 しかも、その気持ちが通じることなく自分の命を絶つなんて。

 その上、碇君が自分の気持ちにやっと気付いてセカンドチルドレンの後を追うなんて。

 そうなのね。

 この報告書は今のままではこうなるという予測をしたものなのね。

 了解。

 これは秘密指令。

 私にこの報告書を読ませてこのようにならないように早急に手を打つようにという司令の命令。

 完全に了解。

 私がこの悲劇をくい止める。

 

 

 

 かくして喜劇の幕が上がった。

 

 


 

 

「私、来たわ」

 扉の前に綾波レイが立っている。

 アスカは目を疑い、そして絶句した。

 今は朝の7時30分。

 シンジがお弁当作りで忙しいために、アスカが来訪者の応対にわざわざ出てあげているのだ。

 その来訪者はケンスケかトウジであろうと決め込んでいたのだが、

 扉の向こう側に立っていたのは、レイの無表情な顔。

 だがアスカが言葉を失ったのは、レイの目がまさしく真っ赤になっていたことだった。

 レイの瞳は赤い。

 しかも今朝は彼女の目が充血しているのだ。

 鏡を見る習慣のないレイは自分の異変にまるで気付きもしていなかった。

 症状的にはたいしたことはないのだ。

 ただの寝不足なのだから。

 しかしこれはビジュアル的に強烈なものがある。

 あのアスカが慌ててしまったのだから、あのシンジがうろたえてしまうのは無理のないことである。

「アスカ!救急車!」

「馬鹿!そこまでしなくても…って大丈夫?痛くない?」

「わからない。何を慌ててるの?」

「綾波、わかってないの?ほら鏡を…うげっ!」

 シンジは脛を押さえてうずくまった。

 アスカが蹴飛ばしたのである。

「な、何すんだよ、アスカ!」

 涙目で見上げるシンジの胸倉をアスカは掴み上げた。

 そして、顔を近づけレイに聞こえないように小さな声で凄んだ。

「アンタ馬鹿ぁ?ファーストは女の子なのよ。あんな顔見せるわけにいかないでしょうがっ」

「で、でも…」

「うっさいわよ、この朴念仁。アンタには乙女心なんかこれっぽっちもわかんないのよ!」

 興奮して少し声高になったその声に、レイははっとした。

 あの報告書にそういう一文が存在する。

 機密漏洩の為に現実の名前や場所は使われていない。

 アスカであろう少女が好意を寄せている少年にそう罵る箇所があるのだ。

 その一言がきっかけとなり二人は大きな喧嘩をはじめるのだ。

 レイは自分の出番だと了解した。

「何だよ、アスカ!僕は心配して…」

 他の人間には滅多に見せないシンジの怒った顔。

 特に異性にはそういう顔は見せたことがない。

 それだけアスカには心を許している証拠だ。

 報告書にもちゃんとこのことは記載されていた。

 少年は少女にだけ怒った顔を見せるのだ。

 レイは報告書の信憑性に確信を抱いた。

「ダメ、碇君。怒らないで」

 すっとアスカとシンジの間に割って入ったのはレイ。

 真っ赤な目をいっぱいに見開いてシンジに迫る。

 こんな態度のレイを見るのも初めてな上に、迫力満点のこの目だ。

 シンジは圧倒されて言葉を失ってしまった。

 そして、レイは心の赴くままに言葉を紡いだ。

 

「セカンドチルドレンは碇君のことを愛しているの。悪口を言うのは愛情の裏返し。

 それを真に受けて喧嘩をしてはいけないわ。だって碇君もセカンドチルドレンのことを好きなのだから」

 

 第3新東京市の郊外にあるコンフォート17というマンション。

 その11階のある部屋に恐ろしいまでの沈黙が訪れた。

 

 レイは思った。

 二人ともわかってくれたに違いない。

 これで私は使命を果たすことができた。

 嬉しい。

 でも、何故か胸が苦しい。

 むかむかする。吐き気?違う。セカンドチルドレンがよく叫んでいる、あっちの方のむかむかだ。

 そう。理由はわからないが、非常に腹立たしい。

 わからない。

 二人がお互いの気持ちをわかりあえたのに、どうしてこの私がむかむかくるの?

 レイがその感情が何かを知るにはまだ若すぎた。

 息子が家に彼女を連れてきたときの母親の気持ち。

 顔で笑って、心の中で何よあんな娘。

 恐るべしは碇ユイの遺伝子なり。

 

 レイは甘かった。

 アスカの根性は歪みに歪んでいる。

 シンジの被害者意識は途方もなく強い。

 

 数十秒にも及ぶ、沈黙が支配した世界は突如アスカの叫び声で破られたのである。

「ば、ば、ば、ば、馬鹿ぁっ!」

 綾波レイはアスカに羽交い絞めにされ、アスカの自室に連行された。

 ぽつんと一人取り残されたシンジは大きな溜息を吐いて頭を掻く。

 一瞬本気にして喜んでしまった自分を彼は戒めたのだった。

 そして彼は腐海に向かった。

 腐海の主にレイの目のことを相談しようとしたのだ。

 腐海の主は未だ深き眠りの底に沈んでいた。

 

「ちょっと、ファースト!アンタ、突然何言い出すのよ!」

「もう一度聞きたいの?了解。セカンドチルドレ……」

「わわわっ!もう言うなっ!アンタ、何考えてんのよ!私はシンジのことなんかこれっぽっちも好きなんか…」

「嘘」

 真っ赤な目の少女ははっきりと言い切った。

「あなたは碇君のことを……」

「わわわわぁあっ!」

 アスカは両手を大きく振り回してレイの言葉をさえぎった。

「だ、誰にそんなこと吹き込まれたのよ!ははぁ〜ん、鈴原と相田ねっ!」

「違うわ。誰でもない。私は報告……」

 レイは口をつぐんだ。

 あの報告書は当事者には秘密に違いない。

 仮名を使い、架空の場所で読む者を誤魔化しているのだから。

「何よ、何言おうとしてたのよ!」

「それは秘密。とにかく、セカンドチルドレン」

 レイはアスカを真っ向から指差した。

「あなたには碇君の恋人になってもらうわ。それが(地球人類にとって)最良の選択なの」

 アスカは誤解した。

 何がなんやらわからないが、あの人形のような優等生が頼みもしないのに仲人口を買って出ているのだ。

 もしかするとこの娘って結構いいヤツなのかもしれない、と。

 私が勝手に敵視していたから…。それでファーストの方も私のことを怒っていたのかも…。

 だいたいエヴァのパイロット同士なんだから仲良くしてるほうがいいのは確かだし…。

 そ、それに、やっぱり私ってシンジのことを好きなのかなぁ……。

 シンジへの好意をはっきりと自覚していないアスカにとって、先程のレイの発言は胸がどきどきするような感情を抱かせたのである。

 レイは例によって無表情なままで突っ立っている。

 目の前でアスカが百面相を見せてくれているのだ。

 洞察力は限りなく零に近いレイだ。

 何を考えてアスカが顔を赤らめたり考え込んだり怒ったりしているのか、さっぱりわからない。

 ただぼぅっとそれを見ていると、突然その顔が首を少し傾げて自分の方をじっと見つめた。

「アンタ、昨日の夜何時に寝た?」

 レイは考えた。別に嘘を吐く必要はない。

「寝てない」

「は?」

「ずっと起きていたわ」

「徹夜?」

「そう。その言葉で当たっているわ」

 そしてアスカは当然の結論にようやくたどり着いた。

 レイは寝不足で目が充血しているのだ。

 瞳が赤い所為で簡単な答えを見失っていただけなのだ。

「なんだ、その所為か」

「何?」

「アンタのね、目が真っ赤だったのよ。充血してて」

「充血?わからない」

「目のね、白いとこが赤くなってるの。アンタ、今日は学校お休みしなさいよ」

「どうして?充血は病気?」

 レイに説明することは難しかった。

 実はこれがアスカがレイに普通に話した初めての経験であった。

 いつもレイが最初のチルドレンであるということで、知らず知らずの間に敵視し攻撃的な態度を取っていたからだ。

「わかった。それが充血。じゃ、学校へ行くわ」

「ダメっ!今日はアンタはお休みしなさい」

「どうして?学校を休むような病気ではないわ」

「あのねぇ、アンタは…」

 アスカは一瞬考えた。

「アンタは学校で私の次に可愛いんだから、みんなにそんな目を見せてはダメ」

「私の瞳が赤いから?」

「そうよ。言っちゃ悪いけど、みんなびっくりしてしまうから。

 そんな目で周りに見られるのはイヤでしょ」

「構わないわ。別に」

「そう言うと思った。でも、これから構いなさいよ。

 アンタは瞳や髪の色なんかふっとばすくらい可愛いの。

 私が太鼓判を押したげる。

 だからさ…。

 私、アンタが笑われたり、その…変に思われたりするのがイヤなのよ!」

 アスカは自分でも驚いていた。

 最後の言葉など言う気はさらさらなかったのだ。

 どうしてこんなことを言い出したのか…。

 アスカはレイの無表情で冷静な態度が気に入らなかったのである。

 それが自分のためにお節介をするような行動を示した。

 何の目的かは黙っているが、このレイが人をからかったり貶めるような真似をするとは全然思えない。

 それにもともとアスカはめっぽう単純明快なところがある。

 どんなところかというと、嫌っていた人間でも好きになってしまえばすべてを許してしまうのだ。

 シンジもそうだった。

 加持ですら最初は馴れ馴れしいオヤジだと嫌悪していたくらいだ。

 もっともアスカが最初から好意を持った人間など一人もいないのだが。

 父親の再婚相手ですら、憎しみの心をほとんど忘れかけている。

 最初は憎くて憎くて仕方のない女性だったのに。

 今回のレイについても同じだ。

 なんだ、コイツにもいいとこあるじゃん…。

 完全な誤解だったのだが、アスカに好意を持たれるということは、

 レイにとってその環境や意識、性格を変えていく大きなターニングポイントになったのである。

 シンジのことはともかく、このお人形さんを普通の娘らしく変えてみせるわっ!

 教育好きなドイツ人たるアスカの血が騒ぎ出したのだ。

 

 数分後にはレイはアスカのベッドですやすや眠っていた。

 アスカの説得に根負けしたのである。

 それに睡眠不足で眠いのは事実だ。

 レイはアスカに学校を休むことを告げると、制服をいきなり脱ぎだしあっという間に下着も取り去っていた。

 驚いたのはアスカだ。

 目の前でレイが顔色も変えずに一糸纏わぬ姿になったのだから。

 そして、そのままの格好でアスカのベッドに潜り込んだ。

 服は脱ぎ散らかしたまま。

「アンタ、もしかしていつも真っ裸で寝てるの?」

 返事はない。

 ベッドの主を窺うと、彼女はすでに眠りの世界に旅立っていた。

「早っ!ま、よっぽど眠たかったのよね」

 ひとりごちるとアスカは床に盛り上がった服を見下ろし、腰に手をやると溜息をついた。

「女の子なんだから、ちゃんとたたみなさいよ」

 そしてちょんと正座すると、レイの服をきちんとたたみだしたのである。

 このあたりはシンジたちはアスカを誤解していただろう。

 アスカが散らかすのは他人の視線があるからである。わざとしているのだ。

 その時、扉の向こうから声がした。

「アスカ、入っていい?」

 彼のタイミングの悪さというものは持って生まれたものなのであろう。

 第3新東京市に彼が最初に現れたとき、どういう事態が勃発していたか。

 その上返事も聞かずに扉を開けようとしたのだから、シンジがアスカの制裁を受けたのは致し方ないのかもしれない。

 頬に紅葉の如き手形を残し、シンジは学校に向かって駆けた。

 美少女二人が欠席するという知らせを伝えに。もはや遅刻は確定的なのだが。

 それでもアスカに走れと言われたものだから、彼は走る。

 例え嘘でも、レイの口からでも、アスカが自分のことを好きだと告げられたから。

 じっとしていられないほど嬉しかったのだ。

 

 腐海の主は、エルフ本部へ。

 レイは熟睡中。

 残るアスカはといえば…。

 ある決意に燃えて、レイが目覚めるその瞬間を今や遅しと待ち構えていたのであった。

 シンジを追い出した後、目覚めたレイには普段着の方がよかろうと思い、アスカはミサトに彼女の家の前まで送ってもらったのだ。

 そして、あの部屋を目の当たりにした。

 当然、レイに好意を持ち始めたアスカはその酷さに愕然とした。

 部屋の雰囲気だけじゃない。着替えは下着と制服だけ。

 食べ物もほとんどない。

 この状況で一人暮らしをさせている大人たちにも頭に来たし、見たことがあると言っていたシンジにも腹が立った。

 どうして放っておくのよっ!

 あんなのじゃ感情表現に問題が発生するのなんて当然じゃないっ!

 自分の複雑怪奇な感情表現は棚の奥にしっかり仕舞いこんで、今はただレイの事に憤りを感じるアスカだった。

 すかさずミサトの携帯に電話を入れ、カードで服とか買い捲るわよと宣言したのである。

 ただ部屋に戻ってすやすや眠るレイを起こすことは躊躇した。

 まるで天使のような寝顔だったから。

 アスカは自然にレイが目覚めるのを待った。

 彼女はふと思った。

 こうしてよく見てみると、レイとシンジはどことなく似ている。

 可愛いわよね、ホントにレイは。

 その時、レイの瞳がばちりと開いた。

「わっ!」

「お腹、空いたわ」

 

 下着のままでうろつきまわろうとするレイを叱責し自分のシャツとジーパンを履かせたアスカは、彼女にシンジのお弁当を食べさせた。

 頬に紅葉を残したまま、レイの分も追加でお弁当を作ったシンジのことを考えるとアスカは胸が一杯になった。

 そして食べ終わると、まずは模範を見せようとお弁当箱を洗うことを教え、レイに自分の分はちゃんと洗わせた。

 きっとシンジがこんな私を見たら怒るだろうな。できるんだったらこれまでも僕に押し付けないでしてくれたらいいのに!ってね。

 そう考えると、頬が緩んでしまうアスカだった。

 レイの充血した目は眠った所為でよく見ないとわからない程度にまで治まっている。これならお出かけは大丈夫。

 それから二人でお買い物。

 レイの普段着を買いに駅前まで。

 素材がいいだけに、見立てるアスカも楽しくなるほどだ。

 レイの方はただ戸惑うばかり。

 どうしてこんなにアスカが私のことを考えてくれるのだろうか?

 そして結論を出した。

 あの報告書では親友が引っ越してしまい“恋”というものを相談できる相手を失ったのだ。

 了解。では私がその親友とかいうものになればいいのだ。

 それに…アスカに可愛い可愛いと褒められると、だんだん胸の奥が温かくなってきているのである。

 レイにとって初めての感覚だった。

 ゲンドウに褒められて嬉しいと思うのと少し違う。

 両手に荷物。あのアスカまでがレイのための買い物袋を手に提げている。

 たんまりと買い込んだアスカはマンションに戻るや否やレイのファッションショーを執り行った。

 モデルであるレイは必死になって二人を結びつけるという自分の役割を記憶しておこうと務めていた。

 なぜなら、こんな馬鹿げた事が…昨日までの自分なら間違いなく冷笑していたような事が楽しいのである。

 だからレイは笑った。

 くすっと。少しだけ。

 

 しばらく経って、相変わらずタイミングの悪い少年がいきなり帰ってきた。

 着替えのためにレイが上半身ブラだけの時に。

 すかさず身体を張ってレイを隠したアスカだったのに、その背中で超問題発言が炸裂した。

「大丈夫。今日は下着を着けているから。前は何も着てなかったもの」

 ぱしんぱしんぱしんぱしんぱしんぱしん。

 往復ビンタ3連発である。

 鍛え方が違うのか鼓膜が損傷した風には見られず、シンジは当然真っ赤に腫れた頬を両手で押さえた。

「このスケベ!変態!痴漢!」

 床を踏み破らんばかりにアスカが怒鳴る。

「は、裸のファーストにアンタ何をしたのよ!まさかっ!」

「押し倒されて胸を掴まれたわ」

 

 確かにその通りだ。

 15文字以内で説明するならば。

 言い訳しようとするシンジはアスカに押し倒された。

 まさに怒髪天を突くばかりのアスカはドイツ語で捲くし立てながらシンジの胸倉を掴み前後に揺さぶる。

 ふらふらになり意識を失う寸前にアスカはぽいっと彼を離した。

 そして薄く笑うと、寂しげに呟いた。

「なんだ、二人はそんな関係だったんだ。馬鹿みたい、私」

 アスカは振り返ると、無表情のレイの肩をぽんと叩いた。

「あのさ、家を交換しよっか。アンタも馬鹿シンジと一緒の方がいいでしょ。そんなことがあったんなら」

 レイは慌てた。

 何かがおかしい。

 自分は何を間違えたのだろうか。

 アスカは何を怒っているのだろうか。

 よくわからないが、あの時のことを全部話してみよう。

 レイはぼそぼそと話し始めた。

 これが声高に否定していたならアスカも聞く耳を持たなかっただろうが、集中していないと話がよくわからない。

 従って、自分の怒りが自分の想像で生み出されたものだとアスカは知ることとなる。

 懸命になって介抱した結果、シンジはふらふらと立ち上がった。

「悪かったわねっ」

 あらぬ方向を向いてアスカが実に偉そうに謝る。

 レイはほっとした。

 なるほど、この使命は簡単なものではない。

 この二人を結びつけるのは並大抵のことではいけないのだと決意を新たにするレイだった。

 

 そして、またその時思いついた。

 目の前のアスカとシンジの位置だ。

 立ち上がったもののまだ少しふらっとするシンジをアスカが咄嗟に支えたのだ。

 レイは両手を伸ばした。

 左手をアスカの首筋に。

 右手はシンジの首筋に。

 華奢なように見えて、レイも訓練を受けているのだ。

 結構腕力はあるのである。

 

 こんっ。

 

 アスカとシンジのファーストキスの音はそんな音になった。

 レイの押さえ込む力が強すぎて、唇を合わせただけではなく、前歯同士が衝突したのだ。

 アスカも、そしてシンジももちろん慌てた。

 好意を持っている相手の顔がいきなり超アップになったかと思うと、前歯に衝撃。

 そのあとは、まくれ上がった唇と唇が隙間もないほど密着したのだ。

 逃れようとしてもレイはその手を離そうとしない。

 いや、逃げようとしたのは一瞬で、二人とも無理矢理この状態から逃れようとは考えなかった。

 これも一応キスなのだから。しかもその相手が好意を持っている対象なのだから、何で離れる必要があろう。

 レイはしっかりカウントを取った。

 キスというものはどうすればいいのかまったく知らない。映画やテレビは見たことがないのだから。

 ただ街角でこういう風にキスをしている恋人を見かけたことはある。

 恋人というものはキスをしないといけないのだ。

 だからキスをすると恋人になれる。

 これで使命を果たせるかも。

 たっぷり100まで数えてからレイは手を離した。

 ところがその後32カウントまで二人は離れなかったのである。

 レイは何度も頷いた。

 これでもう大丈夫だ。

 二人を破滅から救うことができたのだ。

 彼女の胸は使命を果たした充足感で満たされようとして……いたのだが、唇を離した二人が大声で言い争いを始めたのである。

 ひっど〜い、私のファーストキスがアンタとだなんて。さいて〜いっ!(以下略)

 それは僕もだよっ!どうしてアスカとしなきゃいけないんだよ!(以下略)

 レイは落胆した。

 そう…簡単に終わるような使命ではないのね…。

 もっと私が頑張らないと。

 だが人生経験の浅いレイは気付いてなかった。

 彼らはキスを強制執行したレイにはまったく怒りの矢を向けていないのである。

 二人とも照れているのだということなど、彼女には知る由もなかった。

 

 その日の夜、今日買ったばかりのまっさらなパジャマに身を包んだレイは、11時にはアスカのベッドで熟睡していた。

 だから、レイは見ることができなかったのである。

 アスカとシンジがベランダで交わした、優しげなセカンドキスを。

 それを見ていたのはペンペンだけだった。

 

 数日後にはレイに隣の部屋が用意された。

 その保護者には伊吹マヤが任命されたのである。

 ゲンドウもレイに人間らしい感情を持たせることができない理由を説明できない以上、ミサトの要求に、そしてレイの要望に抗する事ができなかったのである。

 レイは少しずつだが変わってきた。

 最初はこの人事に不満そうだったマヤがまるで姉のように面倒を見だしたのだから。

 あの報告書は、マヤと同居するときに秘密指令が露見するといけないので焼却した。

 何度も読み返したので、暗誦できるほどになっていたから。

 最近は創作物というものがこの世の中に存在することを覚えた彼女だ。

 しかしながら、あれが報告書であることは信じて疑っていない。

 何故なら書店の店頭で見つけた『LAST LOVE』の表紙には…、

 当然“LAS”の暗号が書かれていなかったからである。

 それを見たとき、レイは一人大きく頷いた。

 私が頑張らねばと。

 

 

 

 そして、レイの秘密の活動はいまだに続いている。

 アスカもシンジも恋人関係になったということを誰にも言えないでいたからだ。

 とくにレイには恥ずかしくて言えやしない。

 そのレイはまだまだ他人の言葉や行動から感情を読み取るまでには至ってない。

 だからことある毎に二人を結び付けようと珍妙なことを仕掛けてくる。

 おそらくはレイ以外の人間にはモロバレになっているにもかかわらず。

 そこがレイのレイたる所以かもしれない。

 

 マトリエル戦の後、3人で並んで草原で星を見上げていた時もである。

 レイはしっかり見落としていた。

 二人の手がこっそり繋がれていた事を。

 

 降るような星空にレイは誓う。

 このかたくなな二人を必ず恋人同士にして見せると。

 

 ファーストチルドレンにして第3新東京市立第壱中学校2年A組出席番号2番、新図書委員である綾波レイの孤独な戦いは続く。

 

 

<おしまい>


 

<あとがき>

 ええと、これが25万HIT記念リクで書かれたSSです。

 4月6日に25万hitをお踏みいただきましたショウ様のリクエストです。
 リクは受ける予定がなかったのですが、ノリがサヨナラホームランを打ったので(?)リクをいただくことにいたしました。いきおいってヤツですね(笑)。
 ご要望は以下の通りです。
 『弐号機パイロットの碇君陥落作戦 Produced by 綾波レイ』

 「マトリエル戦後のあの星空の下で、2人との絆に気づいたレイちゃん。彼女が願うのは2人の幸せ♪でも彼女には・・・常識が通用しなかったのです!!(爆)」

 わぁぁっ!ごめんなさい!このシークエンスはラストに使ってしまいました。ま、最初からそのつもりでしたが(爆)。

 最近本編系電波SSが多いですよね。レイファン…じゃないアヤナミストの人はごめんなさい。彼女の体質では充血はしないのかも知れませんが、そちらの方面には疎いですので調べてもよくわかりませんでした。

 私としてはレイちゃんは神様にならずに普通の女の子になって欲しいのです。

 また衣類をきちんと片付けられるアスカに違和感を覚えた方もいらっしゃるかも知れませんが、あの思い出したくもない廃屋の場面でちちんと畳まれていた衣服はまさか保安部のおっさんの仕業ではないでしょう。あの畳み方は普段からしている(またはできる)人間じゃないと無理ですね。

 因みに保安部の方々はあの人たちです。わかるかな?彼らには殉職してもらいたくないものです(爆)。

 

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